#琉球張子
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新入荷品より、豊永盛人さんの琉球張り子・辰。
来年の干支が届きました。しめかざりも今年は気合を入れて多めに確保したので、まだご用意ございます。寒い日々が続きますが、どうぞお立ち寄りください。
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沖縄県宜野湾市の松川正則市長(70)が26日、公務出張先の東京都内で死亡しているのが見つかった。宜野湾市によると、死亡が確認され詳細を確認中という。関係者によると、松川市長は26日午前、港区赤坂のホテルの一室で倒れていた。病死とみられる。 松川市長は、25日に総理官邸で林芳正官房長官らと面談し、米軍普天間飛行場の跡地利用に向けた費用の支援などを求めていた。24日には自見英子沖縄担当相と面談した。 宜野湾市野嵩出身。琉球大短期大学部卒。市職員を経て、2018年9月の市長選で初当選した。現在2期目で任期は2022年9月30日から26年9月29日までの4年間。
【速報】沖縄・宜野湾市の松川正則市長が出張先の東京都内で死亡 病死か - 琉球新報デジタル
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政府は深刻さ理解しているのか
峯村健司
【ニュースの裏表】「沖縄帰属問題」で中国メディアが世論工作開始 習主席の発言受けテレビで特集「中華文化の生命力」と学者解説
中国の習近平国家主席が「沖縄」について言及し、それを共産党機関紙「人民日報」が1面で報じたことが波紋を広げている。キヤノングローバル戦略研究所主任研究員、峯村健司氏が先週の「ニュース裏表」(9日発行)で指摘すると、松野博一官房長官の記者会見でも取り上げられ、複数の新聞やテレビが後追いした。習氏の発言を受け、中国メディアは早速、「沖縄帰属問題」について世論工作を開始した。LGBT法案成立を進め、今国会中の衆院解散を見送った岸田文雄首相と、7月に訪中予定という沖縄県の玉城デニー知事は、
この深刻さを理解しているのか。峯村氏が最新情報に迫った。
◇先週発表した拙稿「中国の習近平国家主席による『琉球(沖縄)』発言」ついて、各方面から反響をいただいた。読売新聞は翌10日に拙稿を追いかけたほか、いくつかのメディアや専門家から取材や問い合わせが相次いでいる。
記事の中で、「一強体制」の頂点に立った習氏の口から「沖縄帰属問題」が提起された重要性を指摘したうえで、共産党や政府が沖縄に関する世論工作や「親中派」の支援などの「統一戦線工作」を仕掛けてくる可能性がある、と記した。
これについて、��部の専門家の方々からは「中国政府は帰属問題を本気で考えているはずがない」「報道は大げさではないか」とのご指摘をいただいた。また、自分の過去の記事を調べようと、ネット検索に筆者の名前を入力したら、「ネトウヨ」という予測変換すら出てきたのには驚いた。
だが、筆者が危惧した通り、習氏の「狼煙(のろし)」を受け、共産党の「喉と舌」である中国メディアによる世論工作が早速始まった。習氏の発言を紹介する形で、中国と沖縄の長年の歴史を紹介し、それを日本政府が「奪い取った」とする内容がほとんどだった。
[テレビ特集、「中華文化の生命力」と学者解説]
中でも目を引いたのは、中国南部、広東省の深センテレビが12日に放送した特集番組だ。約50分間にわたり、中国の学者や研究者の証言を紹介しながら、中国と沖縄の関係を振り返っている。
特に時間を割いたのが、習氏も言及した「ビン人(びんじん)三十六姓」だった。1300年代にビン(びん)と呼ばれた今の福建省から琉球に渡った人々のことで、「久米三十六姓」とも呼ばれる。その子孫である仲井眞弘多(なかいま・ひろかず)元沖縄県知事らの名前を挙げ、今でも沖縄政界で活躍していることを強調している。
このことについて、中国シンクタンク系の研究者は「中華文化の生命力を示しており、異国の地に根を張って力強く生きている」と解説した。
日本の大学教授にもインタビューし、1879年に琉球王国を清国の冊封体制から切り離して沖縄県に編入した「琉球処分」について、「日本が軍隊を派遣して強制的に編入したもので、琉球人が自らの意思によって決めたわけではない」というコメントを紹介した。
そのうえで、「台湾有事」との関連についても取り上げており、「第二次大戦で苦しんだ沖縄では再び、米国とともに軍事配備を強化しており、軍事要塞化しようとしている」と解説している。
また、9日に玉城デニー知事が防衛省を訪れ、沖縄県内にミサイル配備をしないよう求めたことも紹介している。そのうえで、7月に玉城氏が訪中することついて、日中国交正常化45周年を迎えた今年にとって「一筋の光明となる」と期待感を示している。
筆者の指摘が、「杞憂(きゆう)」でも「大げさ」でもなかったことが裏付けられただろう。その際、筆者が強調したように、中国は「言葉の国」でありトップの発言には何らかの意図や狙いが込められているのだ。
このような危機が顕��化しているにもかかわらず、日本政府の反応は極めて鈍い。国会も、緊急性が高いとは思えないLGBT理解増進法案の議論に時間を浪費している。中国が本格的に提起してきた「沖縄帰属問題」を打ち消す「世論戦」を早急にしていく必要がある。
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布達拉
圖片來自維基
佛教道教的信徒,都期待未來能往生極樂世界,他們虔誠膜拜,持佛唸經,也相信輪迴轉世,我探討的賽斯也這麼講,這些中心思想理論,你信不信?我不是這方面的虔誠教徒,但我相信這些東西。談到天眼通(禪坐冥想)這東西跟賽斯的解釋,其實是不謀而合,我的體驗也確實如此,開天眼佛道道教一體適用,醫學上這是一種心理反應,或說一種精神狀態,一般人不會有這種經驗,即時有也很短暫,他們會當做夢一樣驚奇,但有禪修基礎的專家學者,他們就不陌生此道,會談這些是我想分享一則體驗,我夢遊仙境(天眼開)我想印證一個事實,這種夢境跟你平常在過日子很相像,有官感知覺,可穿梭三度空間、騰雲駕霧、下探十八層地獄(聽說)甚至離開地球、微觀事物等等,這種夢境視覺有時候真實過你肉眼所見。
我暫時住在車庫,在一片大樹下,高一點的樹冠有十幾米,約四五層樓高。那天清晨我天眼開在夢境裡起床,有個少婦靠我床頭講了三個字 《布達拉》 她講話像老婆,態度講完就走,我有點莫名奇妙,什麼是布達拉,她口齒清晰,我記的一清二楚,她一身灰衣裳,包邊古裝和藹可親,她不是美而是討我喜歡,這女人我不認識,但很面熟,我熟��那張臉,一會質疑我突然現身戶外,才抬頭就看到觀世音菩薩,衪坐在大樹旁,我從幾十米的地方看她,菩薩高約十米,但她不像座雕像而像人,她有那清晰的臉孔和腮紅,是個漂亮的女菩薩,她低頭往下看,我就住在衪眼皮下,之後就是一連串的日常夢境,講最後…我遊歷聖城,那是個山城,我用無人機的視野看這個宗教聖地,穿梭檐廊,經過扶手柱,杜頭上的琉璃佛清澈透明,豔陽下光芒四射,也有陶瓷藝品,他們紅彩繪在佛肩上垂向胸膛,佛祖有大有小,有坐有立遍佈整個山城,騰空鳥瞰無遠弗屆頗為壯觀,我飄到哪看到哪,就像在暢遊迪士尼一樣,我深入城裏,佛像之外有藏族壁畫文物,五彩繽紛遍佈各個角落,令我嘖嘖稱奇 《這世界怎會這麼漂亮》 我忍不住開口,突然身邊有人喊話,他回頭微笑同意我的看法,他沒開口我還不查有人在,他幾句話我聽不懂,只能意會,這出家人,是個中年和尚,他僧服披肩紅袍綉金絲,滿臉黝黑還長不少水泡,藍天白雲下我看的一清二楚,色彩鮮艷顏面清晰,我們一道騰空遨遊,原來是他帶我遊歷這個聖城,他表示願意交我這個朋友,談到這我想到社群媒體,這就逾越規則,我終於慢慢清醒。這夢境有點神奇,什麼是布達拉,我甦醒立刻上網查,才敲兩個字就看到布達拉宮,我當下全身起雞皮疙瘩,這是怎麼一會事,你猜呢。
夢境中的女子身穿居家藏袍,看她講話的態度,熟悉的面孔,我想到輪回轉世,她是誰?平常我並不燒香唸佛,精神上也沒什麼宗教色彩,會歷遊聖城,我自己也很納悶,跟佛有關的天眼通其實不只一次,有次我夢遊石佛城那更古遠。
布達拉宮是藏傳佛教的聖地,是歷代達賴喇嘛的居所,是西藏政教合一的統治中心,整座宮殿依山建築,這跟我遊歷的仙境不謀而合,這不是極樂世界是什麼,我不期待未來往生有這個褔氣,但求當下,只要平心靜氣,學會放下,試著開天眼,你的極樂世界其實就在眼前��賽斯談靈魂,跟我體驗的天眼通完全一致,這是我相信衪的理由,我天眼看世界,七八成都是愉悅美好又超現實,每每讓我嘖嘖稱奇。
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浦添市では今から10年前の2014年、飲食店に設置されていた屋外遊具から、当時7歳の男の子が転落する事故があり、男の子には重い障害が残りました。その後男の子の家族は、飲食店を相手に、遊具の安全性などを問う裁判を起こしました。 そして去年11月、裁判所は、男の子が遊具から転落した場所の安全対策が不十分だったなどとして家族の主張を一部認め、飲食店の運営会社に約4千万円を支払うよう命じました。(高裁で控訴審継続中)
■判決後、浦添市は遊具の使用基準を見直した ーもともと浦添市は、遊具の安全点検を定期的に行っていたということですが、遊具に多少の劣化があったとしても、使用禁止という判断まではしていませんでした。しかし裁判の結果を市は重く受け止め、去年12月、遊具の使用基準を引き上げたのです。 そうして全体の56%の遊具が“使用禁止”となってしまいました。浦添市ではこの問題が市議会でたびたび議題となり、早急な対応が必要だと認識されていますが、現在使えなくなっている116遊具のうち、今年度改修予定の遊具の数はわずか5つです。 改修のペースが上がらない背景には、人員不足や予算不足の問題があります。改修にかかる費用は遊具1つにつき1,000万円から2,000万円。これに対して今年度確保されている予算は国からの交付金など、合計7200万円です。 市内の遊具の全てを改修するには10年以上がかかる見込みですが、沖縄の遊具は塩害や��外線の影響をうけ、メーカーが想定している耐用年数より短くなる、沖縄特有の事情もあるそうです。そうして今後新たに改修が必要となってくる遊具が増えることを踏まえると、従来のように遊具で遊べる環境の確保は厳しい見通しと言わざるを得ません。 ■保育環境の専門家は 言語発達の場としても公園の重要性を指摘 子どもたちの幼児期における保育環境について研究している沖縄キリスト教短期大学の照屋教授は… ▽沖縄キリスト教短期大学 地域こども保育学科 照屋建太 教授 「特定の動きができる。例えば、のぼり棒なら登ったりとか降りたり、ブランコは揺れたり、前後左右の動き・普通の自然遊びも大事ですが、そこを補完するような意味で、大切なのかなと」 「また公園というのは1人で遊ぶものではないところが多い。特に遊具があるところは。そういうところを通して、友達と話すとか、言葉の発達とか、いろんな面で良い機能を果たしている」 ー何より優先すべきは「子どもの安全」ですが、安全を追求した結果、遊ぶ場所がなくなっているのが浦添市の現状です。照屋教授は、社会全体として考えていくべき問題だと指摘しています。
浦添市だけではなくどの市役所でも、よりライフラインやセーフティーネットに直結する部署・分野に、予算や人員が優先的に配置・配分されます。そのなかで公園の遊具は、どうしても2番手、3番手の扱いになるかと思います。 しかし浦添市の事例は、子どもたちが育つ環境のサポートのためにも、よりお金や人を割いていく行政の必要性も示していると感じました。(取材 宮城恵介)
(「立ち入り禁止」のテープでぐるぐる巻きの遊具 公園がまるで事件現場…市内の遊具の半分以上が使用禁止 一体なぜ?(RBC琉球放送) - Yahoo!ニュースから)
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藝人本名
H:既稱藝名,就有本名,就如老子,孔子,列子,也有本名。「不識廬山真面目,只緣身在此山中。」(宋‧蘇東坡),如同作家有筆名。20240922W7
網路資料
孔鏘(1958年12月11日—),本名莊永軒,是台灣客家人資深電子琴樂師,苗栗縣南庄鄉獅頭山(獅山村)龍門口人,就讀苗栗縣立南庄國民中學始喜好吉他、琴類等樂器,其父曾是煤礦礦工兼獅山村15鄰鄰長[1]。
王中平(1967年6月30日—),本名韓志偉,臺灣歌手、演員、主持人,生於屏東縣。
王中平並非本名,「韓志偉」才是他身分證上的名字。余皓然:「王中平本名韓志偉,當初老闆會改王中平是因為覺得這個名字很像老公個性,簡單��實。」
金城武(日語:金城 武/かねしろ たけし Kaneshiro Takeshi,琉球語:金城 武/かなぐしく だきし Kanagushiku Dakishi,暱稱「Aniki」;1973年10月11日—),出生於台灣的日本籍男演員、歌手。
金城武為中日混血,姓金城不姓金,因為11日出生也就是士,便取名為武,有武士的含意;
伊能靜
吳靜怡[1](1968年3月4日—),和名伊能靜江[4],藝名伊能靜,台灣女歌手、演員。1990年代初,伊能靜到過香港發展,1996年至1997年赴日本發展,1998年後到中國大陸發展。
伊能靜姓伊能不姓伊,兒時本名為吳靜怡,後來因母親改嫁琉球人,更名為伊能靜香,伊能靜則是她的藝名。
鳳飛飛
林秋鸞(1953年8月20日—2012年1月3日),藝名鳳飛飛,綽號帽子歌后[1]、勞工天使等[2],臺灣女歌手、演員、主持人。至今,她在臺灣、中國大陸及東南亞華語社群具有舉足輕重的地位。
民聲廣播電台歌唱訓練班結束之後,鳳飛飛取了第一個藝名「林茜」,駱明帶著她和其他學生到台北市蓬萊閣餐廳駐唱。多年後的2012年2月17日,駱明公開拿出珍藏45年的民聲廣播電台歌唱訓練班報名表為證,報名表上有鳳飛飛當時以本名「林秋鸞」親筆簽名的報名紀。
1971年9月,鳳飛飛灌錄生平第一首歌曲《初見一日》,收錄於《歌林金曲唱片》。同年11月,她採納製作人張宗榮的建議,將藝名改為「鳳飛飛」,並參演華視開台大戲《燕雙飛》及演唱同名主題曲。1972年1月,鳳飛飛加盟海山唱片;3月時,推出個人首張專輯《祝你幸福》。
阿善師
劉林(1942年—),台灣男演員,本名劉明郎。在家中六兄妹中排行老四,上有三兄,下有一弟妹,大哥是已故資深演員高鳴。
楊麗花(1944年10月26日—),本名林麗花,乳名阿洛,臺灣宜蘭縣員山鄉人,臺灣歌仔戲藝人、電視與電影女演員、歌仔戲戲劇製作人。其夫婿為台灣骨科醫生、前立法委員洪文棟。告別舞臺多年,2016年正式宣告復出,2022年10月獲得第33屆傳藝金曲獎戲曲表演類特別獎,2024年2月21日榮獲教育部頒發��推廣本土語言傑出貢獻獎」。
小明明
巫明霞(1941年12月21日—2017年1月7日),藝名小明明,台中州新高郡集集街(今南投縣水里鄉)人,歌仔戲小生女演員[1],曾自組歌劇團,長期從事電視歌仔戲的演出,與楊麗花、葉青、柳青合稱「四大小生」[2][3]。2017年1月7日在自宅跌倒後過世[4][5]。
許秀年
女演員本名許綉哖
羅馬拼音
Hsu Hsiu-Nien
暱稱阿哖仔、永遠的娘子別名許秀哖國籍 中華民國出生1953年12月21日(70歲)
 臺灣雲林縣麥寮鄉麥津村
職業演員、主持語言國語、臺語教育程度麥寮國民學校(麥寮國民小學)配偶邱鎮江
(1990年結婚—2011年喪偶)親屬陳澄三(舅)出道作品小白菜代表作品流浪三兄妹、文成公主、當迷霧漸散活躍年代1957年-經紀公司麗花傳播股份有限公司
青蓉
基本資料
原名:蔡順嬌
青蓉
藝名:青蓉
生日:1950年
1992年因患大腸癌不幸在平安夜逝世,逝世時僅42歲。台灣歌仔戲屆因此墜落一顆耀眼明星,令人嘆息。時光飛逝,青蓉已故十幾年,但她的倩影依然常保存在戲迷腦海。
司馬玉嬌
廖涓琄(1952年6月1日—),藝名司馬玉嬌,舊本名廖枝葉,生於台灣新北市,歌仔戲小旦、女演員與主持人。
陳亞蘭(1965年11月8日—),本名陳文翠,後改名為陳欣湉,出生於台灣澎湖,為歌仔戲演員、電視節目主持人、電視劇演員、歌手。粉絲名字為「蘭迷」。其藝名亞蘭為師父楊麗花所取的,緣起於楊麗花所欣賞的法國演員亞蘭·德倫。現任台北市歌仔戲推廣協會理事長,致力推廣和傳承歌仔戲。此外,她也擔任台灣優質生命協會理監事,幫助更多弱勢團體和人士。[4]2022年以《嘉慶君遊台灣》入圍並獲得第57屆金鐘獎戲劇節目男主角獎,成為臺灣史上首位以戲劇男角色入圍以及獲獎的女性演員。[5]
張帝(1942年7月24日—),本名張志民,籍貫山東省樂陵縣,台灣男歌手及節目主持人。他以在表演時接受來賓或觀眾現場提問,然後立刻以唱歌的方式回答問題的表演形式著稱,因此得到「急智���王」的綽號。
張魁(1951年11月15日—),本名張毅民,臺灣男諧星,籍貫山東省樂陵縣,是諧星張帝的弟弟、電視製作人李蝶倫的前夫、電視製作人楊珮琪的丈夫、歌手張峰奇與演員張幼楒與張覺引的父親,以歌曲〈小丑〉成名。少年時「任俠好義」,就讀中學時曾換四間學校,最後就讀專收不良少年的臺灣省立彰化進德實驗中學。
武拉運
台語片影星武拉運,生於日治時期,本名王英順,藝名 武特運,台北市人,日治時期,因喜愛當時的文明劇場 演出,極早就參與劇場的工作,早年是為劇團演員,在 鍾聲劇團裡參與劇團演出,南北奔波,爾後也參與黑貓 歌劇團,是早期台語歌劇團代表人物之一,
鄒少官(1975年10月29日—2015年12月23日),本名鄒顥,前台灣演員、主持人,為夏台鳳與鄒森(本名鄒忠禮)所生獨子。1993年以演員出道,2010年代轉往大陸發展,2015年7月罹患肺癌而返回台灣治療,同年12月病逝於台北榮總[1]。
張菲(1951年12月4日—),台灣男藝人、主持人,本名張彥明,外號「菲哥」,小名「阿牛」,籍貫安徽省桐城,生於臺北市,在台灣的電視綜藝界跟吳宗憲、胡瓜和張小燕被合稱為「三王一后」[1][2][3],有「綜藝大哥大」之稱號。
豬哥亮(台灣話:Ti-ko-liāng,1946年12月6日—2017年5月15日),原名謝新達[1],復出後改名謝友偵,臺灣節目主持人、歌手、喜劇演員,出生於高雄市左營區,為女歌手謝金燕、謝金晶之父,有「秀場天王」之稱號,是台灣演藝界中家喻戶曉的傳奇人物。在1980年代,他的藝名「豬哥亮」在秀場上曾與張菲、邢峰齊名,並稱「南豬北張中邢峰」,亦有人加入高凌風和倪敏然,合稱為「南豬、北張、中邢峰、高凌風草上飛、倪敏然總管」。
胡瓜
胡自雄(1959年6月4日—),藝名胡瓜,台灣電視主持人、演員。在台灣電視綜藝界,與張菲、吳宗憲、張小燕合稱為「三王一后」[2][3][4],有「綜藝大哥」、「綜藝天王」之稱號。
林莎(1993年8月21日—)[1],藝名Lisa 莉莎,台灣寫真女星,女藝人。
題西林壁
橫看成嶺側成峰,遠近高低各不同;
不識廬山真面目,只緣身在此山中。
-宋‧蘇東坡
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★PAC畢加索數位藝術認證平台-twa‘omas塔哇歐瑪司故事
第十一張作品-大地的母親-魯凱族Drekay
魯凱族(魯凱文:Drekay,英語:Rukai)大地的母親
原住民大地之母(Indigenous Terra Madre,以下簡稱原民大地)期許原住民的聲音在全球文化的激辯中被聽見,大地是我們的母親,我們是大地的孩子,我們只是想要守護那安身立命的土地,那養育我們的母親。
原住民是個分享的族群,如果能夠尊重,並且愛護這片養育我們的大地母親。
●「魯凱族Rukai」《七彩琉璃蛇王鬼湖之戀 The Love of the Colorful Glass Snake King Ghost Lake》
●太平洋鯨之島Whale island in Pacific ocean
網址連結:https://www.picassocert.com/Silk_Road/modern/Twaomas
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May 2024 Vacation in Hokkaido- 2 of 7
II. 景點
札幌是北海道第一大城,但是想以後很可能會再來,加上那一天太冷,我們沒有去太多地方。上午隨意逛逛市區就急著去吃午飯了。四、五月份到日本一定是賞櫻。依據北海道官網的預測,我們去的那段時間正好是吉野櫻盛開。但是在札幌的圓山公園 Maruyama 和神宮只看到十幾棵櫻花,雖然粉的美麗但不是很驚艷,猜大概尖峰時段已經過了。
早上四點鐘天就亮,加上我們生理時差還沒調整過來,不到五點就起床了。吃完早餐搭火車到小樽也才八點多鐘,這個城還沒醒呢!小樽百年以前是個很繁華的商港,離碼頭不遠有一條運河供穀麥和貨物運輸。河岸仍然留著一排一排磚砌的儲貨倉庫,除了一些空在那裡,大多數已��裝為商店。一早街上已經有不少的遊客沿著運河照像、買紀念品。沿運河走到底有一幢三層樓歷史建築,樓下像普通的紀念品商店,但樓上像一個博物館,收藏了很多機械音樂盒和模型建築。
沿途開車時常常遠望到許多民宅前院種的芝櫻。芝櫻 (學名 phlox subulata) 是蔓延在地面的五瓣櫻花,各種鮮豔的顏色非常醒目。網走 Abashiri 南方的東藻琴芝櫻公園 Higashimokoto Shibazakura Park 滿山遍野的盛開, 像替大地上舖了一層地毯。老婆想買些種子帶回去送兒子,想波士頓地區氣候與北海道差不多,應該能種活。公園前有商店賣苗, 卻沒有人賣種子。我的評分:5。
層雲峽 Sounkyo 在北海道中部的大雪山北邊。看字面原以為是一個峽谷, Google Map 帶我們到半山腰就宣稱已到達目的地了。繼續盤旋開了十分鐘的單線山路,竟然沒有一個可下來看風景的停車點。好不容易看到一處巴士侯車站,儘管插著不准泊車的標誌,看四處無人就借它一用。小溪沿著公路流過,還有一座發電站,但是橋上卻設鐵閘門,鎖上不准進入。照了幾張相繼續驅車前往黑岳 Mt. Kurodate。有䌫車上山,遠眺大雪山脈群峯仍積雪綿綿。在山上小徑殘雪中走著走著,兩人都感覺這地方像以前在美國去過的一座山頭,卻想不起來是何年何處。
下山後彎回39號公路繼續往東就是另一景點- 層雲峽雙瀑。有稱銀河和流星的雌雄雙瀑,如白絲緞帶似的由百米落差流下。停車場後方是到雙瀑台的山徑入口,牌子上標示只有2公里,卻爬得腿軟。我們第二次坐下休息後起身準備往回頭走,一位正下山的日本母親竟然要求她兒子回身來告訴我們只剩下十米就到山頂,勸我們堅持爬上去。果然轉過小樹叢就到頂端觀景台,由這𥚃遠望銀河流星在不動石的兩邊飛舞,水聲瀧���,更是精緻。特別錄製兩分鐘影片留念。我的評分:4。
在這次旅行之前我還沒見過紅狐狸,但經過南部鄉下小路會見到像狗似的動物在路旁。在北見因為下雨得找一個室內的地方去,查到附近有個日本唯一的紅狐收容所,名字卻叫 Fox Farm,可能也是個培育中心吧?園內中間草地上放養了差不多三、四十隻狐狸,幾乎都有淡褐色的毛,中型犬般的大小。一些懶在草地上晒太陽,也有的躲在地上設置的樹洞𥚃。園區設計是讓狐狸養在野外自然生態裡面,但園內只有幾顆樹,草地也是秃秃的。前面籠子裡另外養了幾隻長得不一様的動物,短耳朶比狐狸可愛,標示說是日本浣熊狗 Japanese Raccoon Dog,卻一點也不像美國的浣熊。狐狸有它在日本神化中的地位,也是很可愛的動物,也但是園區設施卻陳舊不堪,急需整修翻新。 我的評分:2。
北海道山多,湖也多。我們此行一共去了大約九個湖。
洞爺湖在札幌西邊大約一百公里,但是坐火車得繞著海岸線走。我們大清早就離開札幌的旅館, 卻到快要中午才到達湖畔。洞爺因為2008年 G8 在這𥚃舉辦高峰會而出名。湖四周環境很商業化,也整理的很好。岸邊設有公園步道,擺了很多現代雕塑藝術品,有很多温泉旅館和幾家小餐廳。我們吃了中飯之後搭一條裝飾得像歐洲城堡的遊覧船到湖中心的大島。𡷊蠻大的,看標示圖可以環島走一圈7.6公里。島上還有博物館,要收費就不進去了。在𡷊上閒逛坐下吃了橘子,停留半小時後搭下一班船回湖岸。我的評分: 2.
著名的知床五湖 Shiretoko Goko Lakes 在國立公園𥚃。我們離開芝櫻公園後,由斜里 Shari 沿鄂霍次克海岸 Okhotsk Sea 到知床。天氣好,海面平靜無浪,搖下車窗讓陽光晒進來,風暖洋洋的,這一路開得舒服。吃完中飯後先到國立公園自然中心。很漂亮的建築,有很多展示介紹知床斜里的自然生態,後面有一段步道引到一個山泉流入海灣的瀑布 Furepe Fall。走五分鐘就看到一大群鹿,安靜的散佈在林���吃草。鹿早已經習慣人類的入侵,見到人來只看看你,低頭走開或跳過木欄離開步道。
服務處告訴我們五湖因為可能有棕熊出末,除了一小段之外必須參加有執照的導遊團體才能進去。導遊藍小姐在電訊內再三警告:3小時路程沒有上廁所的機會。第二天早餐不敢喝咖啡了。
知床這一帶從前是林場,愛奴族人在這裡砍樹蓋房子。成立國家公園之後區內除了小徑之外,儘量不外力干涉,保持為自然森林。我們十幾個遊客一邊走一邊拍手嚇熊。走到第一湖,小小的,心想這湖跟咱家佛州後院的蓄水塘也差不多。還好二湖、三湖漂亮多了!三湖最大,最美。我們到的時間正好陽光讓遠處雪山倒影映在湖水中。三湖到四湖的距離比較遠,得過一個山坡,遠遠的看見一隻狐狸懶在樹林草叢中晒太陽。四湖也不錯。五湖有幾個人用橡皮艇撈湖內生長過盛的浮萍。導遊也說不清為什麼這樣地方會產生生態不平衡。走了三個小時沒有遇到熊,回旅館的路上倒是看到一隻棕熊在車子前方不到三十公尺過馬路。動作很快,沒等我拿出手機照相就消失在路另一邊的林子裡了。我的評分:3+。
吃中飯時鄰桌是一家台灣來的遊客,我用南部台語結結巴巴的跟那位爸爸聊天。他們也是自駕,但是朝與我們相反的方向走。我提起明天的計劃是去阿寒湖,媽媽插嘴說值得彎到摩周湖去看看,但是最好能一早就到。
一早離開,設定摩周湖 Lake Mashu 為第一站。接近時眼角已經𣈴到邊上有湖水反光, Google Map 卻引導我一路上山。一直到達目的地的大停車場仍然看不見四周有湖的跡象。下車又遇到說中文的同胞,指點我往台階上去。半信半疑的爬上頂端才發現湖是在下面的群山之中。典型的火山湖,像奧瑞崗州的 Crater Lake。碧藍的湖水,半邊被稀疏的白雲掩蓋著。美則美矣,卻因尿急沒心情待久。我的評分:4, 但因無公共設施扣一點。
停了琉璜山 Mt. Io, 再往下開是屈斜路湖 Lake Kusshiro,網路上推薦的景點是所謂「砂湯」,形容在湖邊挖個坑就可以泡熱温泉。 真的有這種好地方?到達停車場竟然没有一個游客,湖邊只有一家小店,𥚃頭賣些木雕纪念品、冰琪琳。碼頭上散放了幾艘天鹅船,漆都斑斑駁駁的。我不死心,往上走到一個像露營區的地方,招牌寫著 Recamp, 我不懂這個字。亭子間𥦬戶都鎖上了,有一些劈好的木柴擺在地上賣,前頭擺了幾把大小鐵鏟出租。湖邊砂灘上的確有不少淺坑,但是沒水。這地方怎麼回事?離開臨上車前終於看到一輛遊覽車轉入停車場。我的評分:1。
阿寒湖是另一個火山湖,湖底生長綠球藻 Marino,被宣告為「國家特別自然紀念碑」。乘遊覧船可以到湖中小𡷊上的自然觀察展示中心看到球藻如何在湖底從漂流的絨毛藻,漸漸結合在一起為圓球狀,再經過幾十年長大像足球那麼大的綠色毛絨球。可惜中心只有繪圖解釋和在一個玻璃缸內裝幾個球藻供遊客觀賞。太可惜了,我倒認為這種特別的生態應該開發用玻璃底船或深入湖底隔著玻璃窗讓遊客近距離觀察。我的評分:4。
住在阿寒湖的隔天,原本計劃只過境釧路 Kushiro 吃過中飯就到帶廣 Obihiro 的。繞了許多鄉間小道,好不容易到了鶴居村卻沒有看到一隻丹頂鶴,只好繼續往下開,進入釧路濕原國家公園。
看到路邊有標示「溫根內訪客中心 Onnenai Visitor Center」,原來只想停下來休息一下再走,卻發現後方有整理的很漂亮的木步道,就留了下來。環繞沼澤區一圈需一個半小時,有非常開闊的原野,包括丹頂鶴在內的許多候鳥都會來這裡休憩過冬。
繼續南下幾公里順道探訪濕原展望台,在樓下吃了頓咖哩簡餐後再走小徑參觀北斗史跡展示館 Hokuto Historic Site Exhibition。北斗是繩紋時代 (BC 8000 - AD 800) 的遺跡,顯示此地在10000年前已經有人居住。但是現在展示區只有四、五幢籚草牆頂的仿造類帳蓬建築,𥚃面擺了些鑄鐵鍋示意而已。看板解釋北斗史跡發生在石器時代,百思不解。回家後看到資料提到日本的石器時代同時是中國的秦漢!我的評分:4。
因為在知床五湖沒能看到棕熊,我們到了十勝後又特地彎到北邊的棕熊保護區 Sahoro Resort Bear Mountain。經過多年的特區保護而北海道棕熊的��目卻愈來愈少,日本現在對熊的保護政策轉變到「共存」。2006年熊山成立為一個特定棕熊自然觀察園區。現在有1 1隻成年棕熊在15畝大的森林裡生活。我們先搭乘巴士,近距離觀看這500磅的龎然大獸。上車前還盤算著該坐那一邊才好看熊,但一看到有兩隻熊在水塘邊上,刷的一下,全車的小孩、大人通通都站起來湧到一邊的窗口了。三隻熊徜徉在樹林裡不慌不忙的邊嗅邊走,兩隻在水塘裡吃漂浮的果莓,蠻自在的。不像動物園關在鐵柵欄後的水泥房裡那般可憐。
車道之外有一段步道供遊客在5公尺高的圍籬後面看熊生活,進出都得經過兩道鋼欄柵門,這大概是最接近電影侏羅紀公園的地方了。我的評分:5。
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主題: 台灣自古不屬中國 rdrcntr:45976關鍵字: 台灣不屬中國
張貼時間: 2007-06-23 11:05:13 林茗顯ip: 220 .X.X.X/內容:台灣自古不屬中國
/林茗顯 編寫 2007/10/22、2015/03/09、2016/01/23 rvsd
雍正元年,憲皇帝即位,詔曰:「台灣自古不屬中國,我皇考神武(即康熙帝)遠屆,拓入版圖。... 」
--清•魏源:【聖武紀略】的【康熙重定台灣記】
自明朝以來,逋誅積寇,始克殄除。海外遐陬(指台灣),歷代未隸疆索,自茲初闢,悉入版圖。
--清•施琅:【靖海紀事】的【封侯制誥】
臣竊見此地,自天地開闢以來,未入版圖。
--清•施琅:【靖海紀事】的【壤地初闢疏】
台灣古無人知,明中葉乃知之。
--清•藍鼎元:【鹿洲文集】的【平台紀略總錄】
台地宋、元之前,並無人知。至明中葉,太監王三保舟下西洋,遭風至此,始知有此一地。
--清•藍鼎元:【鹿洲文集】的【覆制軍台疆經理書】
1679年(康熙18年)清朝向鄭經提出最後的和談條件:台灣本非中國版籍,足下父子自闢荊榛,且睠懷勝國,未嘗如吳三桂之僭妄。本朝亦何惜海外一彈丸地 。不聽田橫壯土逍遙其間乎。
--清•魏源:【聖武紀略】的【康熙戡定台灣記】
今三藩珍滅,中外一家。 豪傑識時,必不復思噓已灰之焰,毒瘡痍之民,若能保境息兵,則從此不必登岸,不必雉髮,不必易衣冠。稱臣入貢可也,不稱臣入貢亦可也,以台灣為箕子之朝鮮,為徐市之日本,於世無患,於人無爭,而沿海生靈,永息塗炭,惟足下圖之。」
--(平南將軍貝子賴答致鄭經之諭文)

根據《大清一統志》(乾隆版),台灣自古以來,就是「荒服之地,不通中國」、明朝天啟中(1621-27)為紅毛荷蘭夷人所據,屬於日本」。
(康熙22年(1683年)清國以施琅為將、率清軍二萬佔領澎湖島,鄭氏王朝投降。)
在1871年編纂的《重纂福建通志》,也持這種見解。清帝國第二代皇帝世宗,在1723年所頒發的詔書中,也說「台灣地方自古不屬中國,(清)皇考聖略神威,取入版圖」。
蒙古帝國與明朝曾短期間佔有澎湖,也都放棄了它;明朝對荷蘭佔領臺灣的行為沒有異議。
蒙古帝國在至元年間(元世祖1264-1294,或順帝1335-40)在澎湖置巡檢司,蒙古帝國在1367年敗亡。明朝在1372年(洪武五年)派遣部將湯信國進行海島攻略。可能在這一年占領澎湖島。湯信國以澎湖島民叛服無常,建議將他們遷往鄰近地區,於是,明朝便把澎湖所有住民強制移居中國大陸,並且廢止巡撿司,使澎湖成為廢墟,成為日本和明朝海盜的巢穴。
約在二世紀以後,1563年(明•嘉靖四十三年)改置巡檢司。但不久,這也被裁撤。到了明末,澎湖也變成海盜的巢窟了。蒙古帝國與明朝雖都曾短期間佔有澎湖,也都放棄了它。直到17世紀鄭氏「東都」時代為止,臺灣與澎湖不是地理上的統一体,也非政治上的統一体。支那各王朝都是具「中原」心態、不重視航海的陸權封建王國,蒙古帝國和明朝都先後攻佔澎湖而非台灣,都證實大清帝國所說的「台灣古無人知,明中葉乃知之」、「台灣地方自古不屬中國」的論斷。。
史書上有關「夷州」、「瑠求」、「流求」的記載是否指台灣或琉球(沖繩),法國、荷蘭、德國及日本等國學者著書論述,眾說紛紜,未有定論。越古早的史書的記載,有的近似神話,19世紀的論述判斷也矛盾的地方。不管各種論述是否正確,也只能證明古時有這些地名的傳說和記載而已,和「台灣自古屬誰」毫無關係。
16世紀航行到東方的葡萄牙人發現這島嶼,驚嘆說::Ilha Formosa--美麗的島嶼。 荷蘭在1622年(明,天啟二年)佔領澎湖。明朝對澎湖的統治消極,卻不容許他國占有,荷蘭因軍事上不利接受明朝要求,在1624退出澎湖,豋陸「台江」(今台南附近),佔領未入任何國家版圖的臺灣島。明朝對荷蘭佔領臺灣的行為沒有異議。
1630(?)年荷蘭人在「一鯤身」(現在的安平)建立熱蘭遮城(Zeelandia),在此設置臺灣政廳,派臺灣太守(Governor and Director of the State of Tayouan and Formosa)。1652(?)年現今的台南建立赤崁城(Provintia 或 Providentia),將政廳遷移到Provintia。
已佔菲律賓的西班牙人則佔領台灣北部,1626年西班牙人在雞籠(今基隆)社寮島(今和平島)構築聖薩爾瓦多城(San Salvador),在此設置臺灣長官官署,置於馬尼拉總督的管轄之下,但其統治範圍只限於東北部的極小區域。1629年在滬尾(今淡水)建立聖多明哥城(San Domingo)。1642年荷蘭人北征逐出西班牙人。
1871年(明治四年),琉球(Okinawa)漁民漂流到臺灣本島東南部,被當地住民所殺害。日本帝國政府乃向滿清政府抗議,要求其妥善處理,然而當時清朝的總理衙門答以「該地末服王化、末奉政令,謂之生番。中國置之度外,不甚為理」。等於主張臺灣本島一部分仍為無主之地。1874年(明治七年),日本出兵臺灣,滿清賠償日本。
在臺灣,自從步入1910年代中葉以後,臺灣人的抗日運動,就由武力鬥爭轉向政冶運動,其中一派,即開始與中華民國部分的政冶家和民間人士聯絡。當時中華民國的一些政治家對抗日運動表示同情,並且支援這些抗日運動者。但是,即使是這些人,也未必有取回臺灣的念頭,反而是希望 臺灣脫離日本帝國而獨立的。 例如,國民黨的幹部戴天仇,雖然在黃埔軍官學校的演講中提到「臺灣民族為我等中國之民族,臺灣之領土亦即中國之領土」,但卻主張 臺灣獨立。 蔣介石任國民政府軍事委員會委員長,實際上成為中華民國的最高權力者(制度上國家主席雖為林森,但林氏無權)之後,以及因918事變而成立滿州國後,始終都沒有與日本衝突的意思。
1935年(昭和十年、民國24年),日本的臺灣統治機關臺灣總督府,在臺北舉辦日本帝國的「臺灣始政40周年紀念會」時,國府派遣福建省主席陳儀為祝賀使節,陳儀 在祝賀大會席上的賀詞說: 「臺灣人在日本帝國的統治下,過著幸福的生活」。這豈只是承認日本的領有臺灣而已,甚至還讚頌其統治政策呢!
從1938年10月12日到14日之間,在中共黨擴大��中會中以「論新階段」為題的報告中,��澤東說道:「為了讓日本之侵略戰爭失敗,必須中日二大民族之軍民大眾,以及 朝鮮、臺灣等被壓迫民族聯合起來,堅強地共同努力,建立共同的反侵略統一戰線。」在當時, 毛將臺灣人看成「臺灣民族」,想將他們編入打倒日本的戰線中。
--毛澤東《毛澤東救國言論集》,重慶,新華日報館,1939年,頁218-219。
不但《毛澤東選集》沒有提及,甚至連1941年以前的任何由中國共產黨所編之中國共產黨史中,都看不出中國共產黨主張將臺灣以「中國」領土而「取回」。1936年,在延安的中國共產黨主席毛澤東,曾對史諾(Edgar Snow)言及 中國共產黨支援朝鮮獨立,「同樣的立場適用於台灣」。此一發言,經過毛的校閱,記述在史諾的The Red Star over China中。
It is the immediate task of China to regain all our lost territories, not merely to defend our sovereignty below the Great Wall. This means that Manchuria must be regained. We do not, however, include Korea, formerly a Chinese colony, but when we have re-established the independence of the lost territories of China, and if the Koreans wish to break away from the chains of Japanese imperialism, we will extend them our enthusiastic help in their struggle for independence. The same thing applies for Formosa. As for Inner Mongolia, which is populated by both Chinese and Mongolians, we will struggle to drive Japan from there and help Inner Mongolia to establish an autonomous State.
(Source: Edgar Snow, Interview with Mao Tse-tung, quoted in "Red Star Over China", New York:Random House, 1948, pp.88-9)
我們立刻要做的是收回失土,而非僅僅保衛長城以南的主權。這意指滿州必須收回。這不包括曾是中國屬地的朝鮮,但是當我們中國失土恢復獨立時, 如果朝鮮人民希望掙脫日本帝國主義的鎖鏈,對其獨立鬥爭我們願意給予熱誠的幫助。同樣的立場適用於台灣。對於中國人和蒙古人居住的內蒙古,我們將奮力逐出日本並且幫助內蒙古建立自治邦。
毛澤東 在其1938年題名為《論新階段》的論文中, 將臺灣人列為「臺灣民族」。此後,在中國共產黨文獻中,言及臺灣約有:1939年末,毛澤東及其同志,在延安共同著作而題名為《中國革命與中國共產黨》的論文。此論文也是 將臺灣與朝鮮、��甸等相提並論 ,只記載著這些自古以來就是中國的屬國並且是領土的一部分,都被日本等帝國主義大國所強奪而已,根木沒有提及臺灣要如何處理。於1928年,以做為 「日本共產黨臺灣民族支部」而結黨並接受 中國共產黨指導及援助的臺灣共產黨,由其 綱領為「臺灣民族的獨立」、「臺灣共和國的建設」一事來看,可以說 中國共產黨的臺灣政策,是朝著臺灣獨立的方向。這個政策至少到太平洋戰爭爆發之前並無變化。這一點,可從戰爭爆發那年, 「臺灣獨立先鋒社」在中國共產黨的支持下,於延安成立的事實中窺見一二。
1945年8月15日日本投降,9月2日在美艦密蘇里號上,在投降書上簽字。九月二日盟軍最高司令官麥克阿瑟發出「一般命令第一號」,進行分配占領區域。對蔣介石有以下的授權:日本國在中國(滿州除外)、臺灣、及北緯十六度以北、法屬中南 半島之前任指揮官,以及一切的陸上、海上、航空及補助部隊,必須向蔣介石統帥投降。
孫文主張「驅逐韃虜,恢復中華」
建立中華民國,被尊稱為「國父」的 孫中山主張「驅逐韃虜,恢復中華」,依據孫中山的說法,可以說 清國並不是中國。 1912年,中華民國成立時,台灣已經是屬於日本帝國的領土,並非中華民國成立時的領土, 當然不得主張是中華民國的「固有領土」至為顯明。 同樣的,1949年中華人民共和國成立時,台灣處於其統治之外,至今,台灣一直在中華人民共和國的主權之外,生存發展,所以 臺灣並非中華人民共和國的固有領土。
「中華民國憲法」領土不包括台灣
民初「臨時約法」第三條載明領土為「22行省,內外蒙、西藏、青海」, 不含台灣。 1931年「訓政時期約法」第一條載明領土為「各省及蒙古、西藏」, 亦不包括台灣。 1936年5月5日公布之五五憲草第四條原文「中華民國領土為江蘇、浙江、安徽、江西、湖北、湖南、四川、西康、河北、山東、山西、河南、陜西、甘肅、青海、福建、廣東、廣西、雲南、貴州、遼寧、吉林、黑龍江、熱河、察哈爾、綏遠、新疆、蒙古、西藏等固有之疆域,中華民國領土非經國民大會議決,不得變更」;< 滿洲(即東三省,上述之遼寧、吉林、黑龍江)與台灣同為日本殖民地,滿洲入憲成為中國領土而台灣沒有。
請參閱,
台灣在國際法上的地位
台灣的國家主權與定位
國、共長期倡導台灣獨立的史實(上)/蕭欣義著
國、共長期倡導台灣獨立的史實(中)/蕭欣義著
國、共長期倡導台灣獨立的史實(下)/蕭欣義著
台灣國家定位 確立台灣的國家主權──從事實��的國家到法理上的國家/黃昭堂(2007-12-06)
 確立台灣主權──台灣國家正常化/黃昭堂(2007-09-10)
 台獨理論的整合/黃昭堂(2007-08-07)
 台灣地位論述的環境因素/陳儀深
 台灣國家定位之發展與主張/林佳龍
 台灣法律地位獨立的法的依據/沈建德
 台灣(想)作為一個國家的基調/黃居正
 加速台灣國家正常化/陳隆志
認識台灣iFormosa
台灣大事記
台灣屬於台灣人民

台灣自古不屬中國。台灣不是中國的一部分。
如果說,台灣是中國的一部分;
是不是也可以說,中國、蒙古,同屬蒙古;中國是蒙古的一部分;
或者,中國、蒙古,同屬中國;
或者,歐洲、蒙古,同屬蒙古;
或者,歐洲、意大利,同屬意大利;
或者,台灣、日本,同屬日本;
或者,台灣、荷蘭,同屬荷蘭;
如果可以這樣 『回歸歷史』,全世界人類,只好回歸叢林野蠻、部落戰爭。
/林茗顯 編寫 2007/10/22、2015/03/09、2016/01/23 rvsd
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2024年6月8日
語り始めた92歳の被爆者 原爆投下から79年 封印した記憶 生き残った後ろめたさ「辛くてもいつかは伝えなければ」ウクライナ侵攻で決心(RCCニュース)
原爆投下から79年近くが経ち、初めて自らの体験を語り始めた被爆者の男性がいます。男性は92歳。長年、封印してきた原爆の記憶を今なぜ、伝えようと思ったのでしょうか。
才木幹夫さん(92)「靴を履こ��とかがんだ瞬間です。8時15分。強烈な光、真っ白な光に包まれたと思ったら、建物が崩れて真っ暗になりました」
被爆者の才木幹夫さん、92歳。4月から自らの被爆体験を語り始めました。
原爆投下から79年近く語ることのなかった記憶。一方で「当時を知る被爆者が伝えなければ」という思いも年々高まり、92歳で初めて証言者になりました。
才木さん(被爆体験証言者の委嘱書交付式/4月)「踏ん切りがつかなかったんです。90の年を聞いて、こりゃやらなければならないと」
被爆したのは13歳。「一中」と呼ばれた広島第一中学校の2年生の時でした。
才木さん「我が家はですね、ちょうどこのトンネルから出たところと、広島駅から来た大きな交差点ですね、この交差点のど真ん中が、ちょうど我が家だったんです」
爆心地から2・2㎞の自宅で被爆しました。予定では「建物疎開」の作業のため、爆心地近くに行くはずでしたが、才木さんのクラスは急きょ休みになっていました。両親やきょうだい全員が一命を取り留めました。今も鮮明に焼き付いているのは中心部から比治山を通って逃げてくる被爆者の姿です。
才木さん「集団がもそっと降りてくる。うごめいていているのが人間だったんですよ。みんな顔が真っ黒で髪の毛は縮れてね、皮ふも垂れ下がっているような状態でしたね。う男女の区別もつきません。その集団の姿をどう表現していいかね、今も言葉がないくらい、あわれな状態ですよね」
翌朝、比治山で見た光景も、忘れることはできません。
才木さん「ここに出てきて驚いたのが、両方にずっともう黒い物体が並んでいる。全部人間の死体なんですよね、両側にね、降りるまで死体が続いているんです」
一中では、生徒たち353人もの命が奪われました。自分も行くはずだった「建物疎開」に動員され、屋外で直接閃光にさらされていました。以来、才木さんは原爆を語ることはありませんでした。
才木さん「もう紙一重ですよね。我々2年だけが生き延びて、何かそういう生き延びてるということに後ろめたさを感じるんですね。本当は原爆は忘れたかったですね。ええ。触れたくなかったですよね」
若い頃、東京でプロの声楽家として活動していた才木さん。今も毎週、コーラスグループの指導を続けています。
27歳で広島に戻ってからは開局して間もないRCCに入社しました。RCCではディレクターとして数々の音楽番組を制作。世界的指揮者、小澤征爾さんの番組を作り、今も続く年末の音楽イベント「第九ひろしま」を立ち上げました。原爆の記憶を封印して仕事に邁進しました。
いつかは伝えなければー。踏み出せずにいた才木さんが証言者になろうと決めたのは、ロシアのウクライナ侵攻がきっかけでした。
才木さん「もうこれを逃してはいかんと思って、率直にありのまま話さなければいけないなと。もう絶対に戦争はやめなければいけない」
証言者になって5回目の講話です。
才木さん「当時どれだけむごい惨状だったのかは伝えたいと思っている。でもそれが分かるかどうかよね、あまりにも状況が違うから。まだまだリラックスして話ができないから。これからですよ」
資料の使い方やしゃべり方、どうすればより伝わるのか、才木さんは考え続けています。
証言を聞くのは大阪から修学旅行で来た中学3年生です。原爆の惨状を語ったあと、平和の大切さを訴えました。
才木さん「世界の人は核の恐ろしさを知りません。実感しておりません。私たちは本気になってその恐ろしさを知らせていかなければならないと思うんですよ」
証言を聞いた中学3年生「今までYouTubeとか動画でしか被爆体験を聞かなかった。自分が次の世代にも語り継いでいかないとなと思いました」「今の平和な環境や時代がどんなに大切か分かった。これからもこの平和な時代を続けていかなければならないと思いました」
才木さん「伝えるの難しいね。もっともっと僕自体が学習しないといけない。僕自身のことも学ばないといけない。まだ今からですよ」
1回1回の講話を大切に、これからも語り続けるつもりです。
才木さんは、いつかは語らなければという思いと、一方で思い出したくないという辛い記憶の間でずっと悩んでいましたが、世界情勢を受けて決心し語り始めたといいます。
79年前のことを伝える難しさを実感しているとのことで、講話原稿を読むのではなく対話するように語る方が良いのか、視覚的に分かるように写真や資料を増やすべきか、常に考えていると言います。より正確に伝えるため、一中の同窓生にも会いに行って話を聞いたりして学んでいるといいます。才木さんの行動には我々も勇気をもらう気がします。
国立大工学部生のスプリンター「時の人に」 男子100㍍であの桐生も破る 世界リレー代表の広島大4年山本匠真選手 五輪切符の可能性も(中国新聞)2024年6月8日
布勢スプリント男子100メートルでゴール後、ユニホームの「広島大」をアピールする山本
広島陸上界の「時の人」だ。男子100メートルの山本匠真選手(広島大)は、2日にあった布勢スプリントの予選で10秒16の自己ベストをマーク。国内トップ選手たちと争った決勝でも2位に入り、桐生たち実力者に先着した。5月には世界リレー大会の代表に選ばれるなど注目度は急上昇。「全然メンタルが追いついてない」と苦笑する21歳から目が離せない。
広島・国泰寺高出身。3年時の2020年は新型コロナウイルスの影響で大会のほとんどが中止になり、2年時に出した10秒98が自己ベストだった。入学した広島大では「続けるつもりはなかったけど、見学に行ってみたら思ったより楽しいし、陸上が好きなんだと思えた。もうちょっと続けてみようかなと思ってやってみたら、どんどんのめり込んじゃいました」と笑顔を見せる。
大学では練習メニューを自ら組み立てたり、レース映像を分析したりして「理論立てて練習できるようになった」。食事管理で体重も約5キロ増えて68キロになり、出力が上がった。2年時には自己ベストを10秒64とし、3年時の日本学生対校選手権の準決勝で10秒32をマーク。決勝でも3位に入って表彰台に上がった。
工学部の4年生。卒業論文と大学院入試が控える多忙な日々にも「自分がやりたくてやっていることなので責任を持ってやっていく」と口にする。レースの前後では胸の「広島大学」をさかんにアピールし、「普通の国立の工学部の大学生でも、頑張れば戦えるというのは、今後自分が結果を出すことで証明できると思う。僕を見て、自分でもいけるんじゃないかというアスリートが増えていけばすごくうれしい」。パリ五輪切符が懸かる6月末の日本選手権(新潟)でも快走への期待が高まる。
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騒音被害が急増 広島市内の県道で検問(広テレ NEWS)
バイクや車による騒音被害が急増していることを受け7日夜、警察が広島市内の県道を取り締まりました。
検問は、爆音による苦情が去年の2倍近く寄せられている広島市西区の県道で実施されました。ことし、県内の騒音による通報は782件で、去年より約270件増えています。
広島西警察署 小川拓也 交通課長「爆音をたてている車両が多く通っているという現実があると感じている。厳しく検問・取り締まりを進めていきたい」
7日夜の検問では、21件を検挙しました。
クレーム電話、AIで「怖くない声」に ソフトバンクがカスハラ対策(朝日新聞 6月8日)2024年6月9日に追記
客が理不尽な要求をする「カスタマーハラスメント(カスハラ)」から従業員を守ろうと、ソフトバンクが人工知能(AI)を使った技術を開発した。
電話でのクレーマーの声を穏やかなトーンに変えて、コールセンターのオペレーターの心理的負担をやわらげる。離職率の高いコールセンターの業務環境を改善する。
【動画】クレームの声、AIでどう��わる?
「怒鳴り声が(『ゲゲゲの鬼太郎』の)目玉の親父(おやじ)の声だったら、怖くないのにな」。カスハラを特集したテレビ番組をみたソフトバンクの中谷敏之さんがこう思ったことが、開発のきっかけだった。3年前に社内起業制度に応募。AIの音声加工技術を使って電話相手の音声を変える「エモーション・キャンセリング」の研究を始めた。
AIは怒鳴り声や糾弾する口調など多くの表現を学び、音声変換を改良していく。「怒りの声」のデータはあまり流通していないことから、10人の役者に100以上の発話を様々な感情で演じてもらい、計1万以上の音声データをAIに学習させた。
言葉遣いはそのままだが、声の高さや抑揚を穏やかにする。たとえば、女性のかん高い声は響かないようにトーンを低くし、怖く感じる男性の重低音は音を上げて柔らかく聞こえるようにする。
新型コロナウイルス 沖縄で急拡大の兆候 基本的な感染対策を(RBC琉球放送 6月8日)
沖縄県内の新型コロナウイルス感染状況は、医療機関1定点あたりの報告数が、5月27日~6月2日の7日間に定点当たり19.74人となって8週連続で増加している。県が7日公表した(定点医療機関 53か所、報告数 1046 人)。感染報告数の推移を記したグラフ(写真で掲載)を見ても、急拡大した去年のように増え始めていることが分かる。
年齢別では60歳以上の感染が38.2%と最も多く、次いで50~59歳が10.4%、30~39歳が9.8%の順となっている。
地域別では南部保健所管内が1定点あたり29.00人で最も多く、次いで中部保健所が18.53人、那覇市保健所が18.17人、宮古保健所が14.25人、八重山保健所が4.00人北部保健所が9.00人。
県は、「手洗い」「咳エチケット」「換気」といった基本的な感染対策と、医療機関や高齢者施設に訪問する際や体調不良時など、状況に応じたマスクの着用を呼び掛けている。
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撮影:重松美佐
豊永盛人の、土産ばなし展
3月22日(金)から 31日(日)まで
11時ー19時(31日は13時から) 会期中は休みません 豊永さん在店予定:23日14時以降と、24日 初日22日は終日予約制です
春と共にやってくる、豊永盛人さんによる琉球張り子。今回のお題は、盛人さん曰く「プラモ・イギリス・ももたろう・停電・台風・最後の審判、見に行けなかった展示会など、2023年の思い出を、張り子などでふりかえります。いつもの土産(張り子)もあります」とのこと。どんなエピソードが聞けるのでしょう。楽しんでいただけますと幸いです。
《初日ご予約について》
初日は終日予約制です。ご予約はメール「[email protected]」にて3月19日まで受付けます。在店時間は一時間内、同伴の方は1名様まで。お名前とご連絡先、ご希望の時間帯と人数を「11時から1名」、「12時から2名」のように第三希望までお伝え下さい。一両日中に受付完了メールをお送りします。返信がないという方はメール未着の可能性がありますので、お手数ですがお電話いただけると助かります。抽選���行い、決まった時間を3月20日にお知らせします。 くれぐれもお名前と連絡先のご記載が無いメールへは返事致しかねます。お手数をおかけしますが、楽しい会にできればと願っていますので、どうぞご協力のほどお願いいたします。
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昨日沖縄で開かれた「『台湾有事』を起こさせない・沖縄対話プロジェクト」のシンポジウムは現状維持と平和を目指す台湾社会への無理解と侮蔑的な姿勢が重なった。特に沖縄タイムスの宮城栄作編集局長による台湾に対する筋違いの図々しい「要求」は台湾側の神経を逆撫でする対話とは正反対で今後の議論を困難にしかねない衝撃はあった。 シンポジウムは昨年10月に行われた「沖縄対話プロジェクト」の発足イベントに続いて行われたもの。台湾側から2名の識者を招き、沖縄の「識者」と議論する形だった。台湾側の2名は一般的にそれぞれ民進党と国民党の立場に近いとされているものの、見識を深く備えた学者である。シンポジウムはまず10月に行われた発足イベントの議論内容の紹介から始まった。10月の内容自体が台湾海峡の現状と構造を全く正しく認識できていないものだったが、今回のシンポはそれを踏まえる形式をとって始めてしまった(10月イベントの詳細は下記ツイートをご参照ください)。 すでに嫌な展開となったがその後の稲嶺恵一元知事の基調講演や招かれた台湾側識者2名のプレゼンは時間やまとめ方などテクニカルな問題を除けば大変有意義だった。これはシンポの流れも改善されるかと失望状態から少しだけ希望を持ちはじめてすらいた。しかし、次に行われた沖縄側の一部識者のコメントや対話「台湾有事を起こさせない」沖縄対話プロジェクトの趣旨は賛同だが、発足イベントの報道みて失望した。沖縄タイムスによれば「台湾側には現実的な危機感は薄く、『日米政府が危機をあおり続けている』といった指摘に来場者は熱心に耳を傾けた」とのこと。台湾の一般的な認識を見事に歪曲してくれた。 セッションでのやりとりで再び失望した。コーディネーター(司会)である前泊博盛氏による台湾への理解が全くないからなのか要領を得ない質問の振り方は失望の象徴である。台湾側の識者は彼らにとって外国語である日本語で台湾有事の引き金を引くのは中国であって、ボールは台湾側になく、有事を招かないよう台湾は抑制的に振る舞っていることを懸命に説明し、有事の可能性についても台湾海峡の情勢を踏まえて冷静に論じた。だが、前泊氏は「どう台湾有事の可能性はないと2人に言わせて帰すか」「戦争はない、有事はないと2人にどう伝えるか」などあたかも両名が好戦的であるかの前提で議論を振り続けた。途中で「台湾が武力衝突を回避してきた知恵は何か」との質問を振っていたが、それこそ「台湾独立」など有事を招きかねない動きを台湾社会全体はバランス感覚を持って抑制してきたとともに、中国を台米日などで淡々と抑止して中国による台湾侵攻を先送りさせてきたからにほかならない。 その認識も共有せずにコーディネーターをやっていたのならあまりにも準備不足だったと言わざるをえない。そして沖縄側の識者として出た高嶺朝一氏(元琉球新報社長)は「(有事は)ないでしょう笑」と一笑に付した上で、「あってほしくはありません」と言った。台湾側もあってほしくないと平和を求めているにもかかわらず、嘲笑的態度だったのが前泊氏の振り方も相まって実に失礼に思えた。続けて高嶺氏は台湾側論者が例示した米国高官による2027年までに台湾危機が顕在化するとの警告について「(高官は)次の仕事を探すためにそういう発言をする、煽られないように気をつけないといけない」と反論した。これはシンポで議論する上であまりに雑な扱いだ。求職活動のためという目的が含まれていたとしても政府・軍高官がなぜ公聴会やインタビューなどの公式や公の場でそのような発言をするかといえばシグナルの役割があるわけで、それは何の意味をもつかを着目して分析する必要がある。 2027年までに台湾侵攻を中国が整える可能性が言及されているのは、中国の経済力と軍事力の強化に伴い、台米日等による対中抑止力とのギャップが埋まりつつあり、野心的な指導者(習近平氏)の登場で台湾の武力統一の可能性が過去と比較して高まりつつあるからでそれをこれまで通り有事を先送りさせるために防衛強化が必要なことを訴えるためだ。本当に侵攻が起こる可能性はまだ低いものの、有事の目を摘むための防衛強化議論が各国として必要となっているがゆえの発言だ。煽っているのは確かだが、それによってようやく必要な防衛強化議論ができるわけで、その背景を踏まえて台湾側の識者は例示をしている。前提のおかれた専門的な見方を揚げ足をとるように一蹴して議論の発展を期さないのは全く対話の姿勢が感じられない。そしてとどめを刺したのは対話セッション終了後にコメンテーターとして登壇した沖縄タイムスの宮城栄作編集局長の次の発言だ。 「台湾の人たちも有事にならないように、あるいは日本や沖縄に迷惑をかけることのないようなしっかりした世論を築いていっていただきたい」。一体何様のつもりであるのか。この発言は台湾で昨年行われた世論調査で台湾有事に自衛隊が参戦するかとの問いに参戦を信じると答えた割合が4割を超えていたことを受けてのものだ。確かに憲法9条をはじめとした制約を理解している人からすれば台湾社会の日本に対する理解不足は目につくが、これは台湾政府や台湾の専門家も危機感を覚えている。 日本が有事に際して直接台湾に自衛隊を派遣することはないと台湾の政策担当者は誰もがわかっているし、誤った認識の自国社会に現実を理解してもらい、台湾は台湾自身で守るのが前提で、対中抑止強化をまず自国で高めようと注力している。そもそも自衛隊の参戦期待は一昨年の調査では5割を超えており、日本への過度な期待は落ち着いてる傾向だ。せめて「台湾にも日本の政策や理念への理解を深めてもらいたい」など相互理解を前提にした指摘をすればよかった。 台湾社会は70年以上戦争の脅威に直面し続け、大国間に揉まれながらも有事を回避して平和を保とうとバランス感覚を身につけ、それこそ迷惑にならないよう成熟してきた。そんな台湾社会に「迷惑をかけるな!ちゃんとした世論を作れ!」と要求するのは台湾をどこまで愚弄すれば気が済むのかと本当に怒りを覚えた。シンポのアーカイブを見た台湾政府にいる友人はこの発言を受けて「そんなに迷惑な存在だと思われてるということは沖縄の主流民意は台湾が中国に統一されることを望んでいるのか」と私に聞いてきたが、「わからない」と答えることが精一杯だった。ここまでで名前をあげた方々には強い言葉で申し訳ないが次の言葉を贈りたい。恥を知れ、と。 それほど今回のシンポには失望を通り越して絶望した。救われたのは山本章子先生(琉球大)が最後に発言されたウィットに富んだ次のコメントである。「議論のスタート地点を明らかにした意味で有意義だった。願望や政治的主張でなく現実として我々が今のどこに立っているのか台湾と沖縄のそれぞれの立場から確認できた。今後も事実として我々が今どこに立っているのか、立たされているのか絶え間なく確認したい」。このコメントに私は全面的に同意するとともに沖縄の識者にこの言葉が通じることを私は期待している。 また同じく沖縄側で出席した神谷美由希氏の姿勢もありがたかった。台湾や中台関係についてわからないから知りたいとの姿勢は対話において重要に思えたし、台湾側もそれにうまく応える環境が整っていればよかったのにと悔やまれる。そして、台湾側も同じように沖縄が何を考えているのか自分たちの考えを理解してもらいたいのと同じように知る上で、神谷氏の姿勢は学ぶところがあったと思う。 ここまで感情的な点も含めて今回のシンポジウムについて長々と書いてきたが、改めて最大の問題は基本的な知識と理解が欠如して相手に対して敬意ある姿勢を示すことができずに対話にならない点と指摘する。プロジェクト主催者には中国や台湾の専門家を名乗る人物も含まれているが、彼らは明らかに台湾や中台関係に対する認識とそのフレームが20年以上前の状態から更新されず、見方が政治的にも偏ってしまい、現在の台湾の主流民意を理解できていないことが窺える。あと2回のシンポをどのように展開するのかわからないが意義ある対話が今後できるとはとても思えない。 プロジェクトを継続して健全に発展させたいなら早急に最も簡単なものでいいから台湾に関する基本書籍を読むか然るべき人からレクチャーを受けてほしい。最後には台湾政府にもプロジェクトのまとめとして意見書を提出するようだが、今回のシンポの内容を見る限りとてもじゃないがまともに内容を相手にしてくれないだろう(出すことが目的化しているなら気にしないだろうが)。今回のプロジェクトがせっかくの機会だったのは間違いない。台湾と沖縄はともに「帝国」の狭間で翻弄された歴史をもち、自分たちの権利や主権が蔑ろにされてきた過酷な運命を背負ってきた。 相互理解とともに平和を求める共通の利益も本来あるはずだ。歴史的経験と共同体の記憶の違いから埋めがたい差があるものの、それを乗り越えて大袈裟に言えば東アジアの平和のパートナーの一例になる契機にもなり得た。だから他の人が私に「出席者みたら無意味だとわかる」「沖縄左翼の自己満足」と批判してきても趣旨に賛同して期待もし続けた。 対話は相手を尊重し、まずは受け入れることが重要だ。今回、対話を仕掛けた側は本当にその姿勢をもっていたのか。結果を見る限り、それは全く感じられない。何度でも言うが、台湾は有事を起こそうとはしていないし、日本や沖縄を巻き込もうとも思ってない。私を含めて多数の台湾人は日本に参戦しろとも求めていない。過去70年以上、中国による台湾全面侵攻を回避し続けた事実とその経験をもとにこれまで通り一緒に平和を求めていこう、そのために協力することがお互いの利益にもなるはずだとの考えである。 それは端的に言えば中国の現状変化にあわせて台米日も対中抑止の度合いを変えるという長年の構造を継続しようというものだ。よく中国は経済関係上重要な相手で対中抑止を行うことはむしろ国益に反するとの主張を聞くし、今回のシンポで前泊氏などが中国との経済関係を例に挙げたが、これまでも対中抑止を続けながら経済関係を発展させてきたわけで尖閣諸島での対立激化時のレアアース禁輸や米中のハイテク覇権争いなど個々の特異な事象を含めて全体として対中抑止と経済活動の両立という構造が大きく変わっているわけではない。 中国が軍事拡張を続けているのにそれに対応しない方がこれまでの東アジアの平和と安定の構造を変えようとする新しい動きだ。その結果として中国の台湾侵攻など台湾有事を招けばサプライチェーンは破綻し、抑止強化反対の理由に使われる経済的利益すら守れずに失われる。だからこそ対中抑止は日本の利益でもあるはずだ。現在日米で進む抑止強化の方法に問題や議論の余地があるのは確かで、かつ経済面の抑止力が過小評価されていることも確かだ。 それを議論することは重要だし、これまでの平和の方法論に異論があれば、歴史と事実を踏まえた上で新しい平和の形を議論していくこともできる。対話を名乗り、仕掛ける以上は議論に必要なものは何かを理解して臨んでほしい。沖縄対話プロジェクトにもう期待はないが、残りが少しでも実りあるものになればと祈る。
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助人悟道的逆緣(四):心性不佳的家人
以下一位有緣人分享,來文照登:
我有ㄧ個賭博、不負責任、帶給我傷害,想起就一言難盡的媽媽。我算是獨立且乖巧的小孩,家裡出錢、出力的事都直接承擔,但她ㄧ副能者就該多勞,姐妹遇事也不表示、不吭聲,彷彿這樣就不用付出也不用分擔,長時間下來我心有深刻體會,做到死,也喚不起她們的良心共鳴。
因為梗在心中,原本心生排斥、抗拒,請示結果是:「我跟媽媽沒有相欠,是她心性不佳。」開示中還提到,因為我有這樣的媽媽,我才會是現在這樣,意思是被磨練過的。那我該怎麼樣,才能做到「她造她的業,我修我的行」呢?
每個人身邊的同事、家人、朋友,很多都是像我媽這樣,沒在修行,伏不住貪瞋癡,遇事就會衝撞。我們身邊充斥這麼多磨礪的對境,難道每個我們都去跟他虛耗能量,累個半死?難道每ㄧ個丟來的爛球,我們都去接,ㄧ來ㄧ往,繼續火上加油嗎?當然不是。
如果我們本身ㄧ直與這種負面情緒的頻率相應,並ㄧ再受影響,那我們在修什麼行呢 ? 對方呈現出的混亂狀態,無論是情緒化、自私、惡言,造成碰撞傷害,只需要看見了就好(他造他的業),我只要知道保持距離、小心應對,不要被她傳染,不跟她ㄧ起混亂即可(我修我的行)。
哪怕已受傷害,都要立即提起正念、空性的智慧,想著「過去心不可得」,那ㄧ剎那的傷害已經過去,因緣分散,早就不存在了。對方傷害了妳之後,是妳ㄧ直耿耿於懷而不斷回味、品嚐,再去傷害自己ㄧ遍、ㄧ遍、無數次。自己要學習看見那些事件,瞭解因緣已經分散,讓傷口癒合,然後放下。
學會理解,情緒失控衝撞、易傷害他人的人也很痛苦,因為他們沒有修行,沒有智慧可以開解、提升自己。困在那樣的境界,他們真的也很苦。學習佛法的因緣又還沒到,沒有能力去降伏自己的心。
哪怕自己ㄧ次次被傷害、被碰撞,也該去理解對方,增加提升自己的包容心,因為佛菩薩有教我如何降伏自己的心,而他們因緣尚未具足,還在到處碰撞。他造他的業,我不相應;我修我的行,我創造不同的將來。
當被媽媽長時碰撞、造成心裡的傷害,學佛的我都跨不太過去,很難釋懷去說原諒。思考那些曾經因我無知、瞋火、愚痴,對許多業主菩薩造成那些天大可怕的傷害,他們如何能原諒我?所以,清醒ㄧ點,每天最重要的事,就是盡最大努力,唸經累積功德,全力彌補過去的錯誤!努力讓我的業主菩薩能早日去更好、更光明的地方。努力唸經,讓佛菩薩的佛經智慧,慈悲的功德甘露,抹去祂的痛苦,每天努力,為祂們和自己創造足夠的正能量,做好自己本來早該做好、做到的事,這樣,我才有資格稱為人。
別人怎麼待我,是他的選擇;我怎麼做,是我的修行。別人往世界不斷生出負能量、丟爛蘋果,因果自然會回報同樣的東西給他。我們只要看見、學會保持距離,減少相應,為自己架上防護罩;若受傷害,就當消業、考試想,作正向、正能量的反應和抉擇,他造他的業,我修我的行。
最後,智慧就在佛經裡,若不用心讀,是要怎麼得到超勝的智慧?慢才是快!我不要囫圇吞棗,遍數是唸完了,若心沒多大改變,這樣成效就太差了,花了很多時間,自己給自己這樣的結果嗎?慢才是快!唸那麼多遍佛經,就是要唸出本具自性的功德,用心唸,才能提高自己的功德力,理解佛經裡的教導,改正自己錯誤的行為、念頭,我知錯能改,願意改、要改,不斷調整好自己,同時期望能唸出ㄧ顆光燦燦、充滿光明正能量的心。想想,同樣那麼多時間唸經,您要囫圇吞棗的結果?還是見性光燦燦的成果?
在因地時,我們用的是什麼初發心?正確的動機、目標非常重要。因為想收穫什麼,先用心栽。我們所給予的,最後就是什麼都回到自己身上,所以自己要每天努力唸經、行經,創造正能量。
(分享完畢)
這是一篇令人讚歎的修行分享,有緣人因為母親和姐妹的心性不佳,致使她經常處於受欺侮、傷害、佔便宜的情境中。人家的家是避風港,有慈祥和藹的母親,可她的家專門製造大風浪,只要回家就要承受龍捲風等級的敲打、碰撞、肆虐,撞得遍體麟傷,而製造這一切痛苦和傷害的人,竟然是本該愛自己的母親。
如果說因為兩人相欠,還可以唸經消業還掉,使媽媽改變對待有緣人的行為和態度。無奈的是,兩人沒有相欠,這一切的難受,是媽媽心性不佳、自私自利所帶來的結果。有緣人在這種家庭中,還能正向迎接每一次迎面而來的壞球,她依靠的是什麼?是唸經帶來的智慧、正能量、正信、正念與正行。
學佛、修行為什麼很重要?試想,如果我們的父母像有緣人的母親,我們會變成怎樣的人?對,就是複製上一代的錯誤行為,像她的姐妹們和母親如出一轍,因為身教的力量很大,有什麼父母,就有什麼子女。有的父母教孩子己所不欲,勿施於人;有的父母教孩子人不為己,天誅地滅。自私自利的父母,祖德不佳,孩子必然學到壞的榜樣,也不容易有好的發展,若自己不能學佛、修行,除非前幾世修得很好,否則在這樣的家庭長大,要翻身簡直難如登天。
由於有緣人的媽媽心性不佳,讓她從小到大,體會的只有無限坎坷,但也因此塑造了一顆強大的心志,可以抵擋強風暴雨,化解風霜無情。加上她學佛、唸經、修行,從經文中獲得生存的智慧和養分,懂得自省、自重和忍辱,才能一路走來,始終如一。有緣人在媽媽從小到大的砥礪中,學會「她造她的業,我修我的行 」,總結來說,她的因應之道如下:
一、以智慧應對磨難
當有人找麻煩,要以智慧應對磨難,不接收別人的惡言惡語,不以習氣相應。《佛說四十二章經-惡還本身》提到有人罵佛陀,但佛面對別人毀謗和惡罵,只是請對方把罵自己的話帶回去。不要把別人的謾罵垃圾當寶貝,只要不在乎,就不能被傷害。要學習用智慧應對磨難,即使現在做不到,但要努力練習,勉勵自己有一天可以做到。
二、以慈悲代替瞋恨
學佛可以用唸經的方式獲得正能量,明白這一切苦難都來自業力和磨練,可以用靜坐、唸經、懺悔等方式為心找到出口,降伏自己的心。但沒有學佛的人會依習性而為,時時刻時都在造業,看什麼人都不順眼。當這種人是您躲不過的家人,要學會以慈悲心,「理解」對方不知道如何解決問題、處理自己的情緒,有苦痛、無明與無助,只能靠找碴和罵人來宣洩,但不用與他們計較或爭論是非對錯。《六祖壇經》:「此宗本無諍,諍即失道義,執逆諍法門,自性如生死。」海納百川,要以慈悲心包容對方的行為,內心平靜,不起瞋恨,以免度人不成,反被他人無明度走。
三、以忍辱取代謾罵
當家人用惡言相向,忍不了就躲不過。他說一句,您應一句,沒完沒了。種善因得善果,種惡因,絕不會收到善果,所以我們要學習以忍辱取代謾罵,以微笑示人,不以惡口待人。憨山大師的<勸世文>中,有一段:「是非不必爭人我,彼此何須論短長。世事由來多缺陷,幻軀焉得免無常?喫些虧處原無礙,退讓三分也不妨。春日纔看楊柳綠,秋風又見菊花黃。榮華終是三更夢,富貴還同九月霜。老病死生誰替得?酸甜苦辣自承當。人從巧計誇伶俐,天自從容定主張。諂曲貪瞋墮地獄,公平正直即天堂。」
因果報應「死後有報,纖毫受之」,若您有理,老天自會幫您討回。別爭是非黑白,公道自在人心。但凡多忍一回,您就勝得一回,不是戰勝別人,而是戰勝自己。所以,別還口,忍吧!
四、以轉念化解執念
《六祖壇經》:「若前念、今年、後念,念��相續不斷,名為繫縛。於諸法上念念不住,即無縛也。」學會放過自己,不要將別人的惡言惡行在自己腦海中重複播放、自我傷害。因為「過去心不可得,現在心不可得,未來心不可得。」《論語.微子》:「往者不可諫,來者猶可追。」放下過去,如果有過失則改,追求未來更好的自己,無過失則忽略別人對自己無謂的指責和傷害,不要重蹈覆轍,不需過度自我指責,停止內耗。修行要修得圓滿而非完美,學會轉念,放下執著。
五、以感恩撫慰悲傷
因親人對自己的傷害,促使有緣人反省自己過去世因無明而對業主菩薩做出的殘忍行為,感謝業主菩薩還願意給自己機會解冤釋結,不使自己陷入悲傷的情緒之中,如果業主菩薩都能給自己改過遷善的機會,我們為何不能將心量放大,包容別人的傷害與過錯?感恩他人的試煉,學習將他人的傷害轉化為感恩的力量,努力唸經還債,期望並祝福業主菩薩有機會迎向更好的未來。
有緣人從頭到尾用「她造她的業,我修我的行 」這句話貫穿全文。《金剛經》云:「一切有為法,如夢幻泡影,如露亦如電,應作如是觀。」我們要瞭解,這一世,每一世,都是輪迴的過度身,我們的目標在脫離輪迴,在淨土,不在人間。要學習以身外身,看夢中夢,看得破,放得下,��得過,就走得遠。
人來這世間是為消業,所以生命中有太多的不容易和不如意。不要處處追求完美,一切較真,要學習圓融和圓滿,以智慧應對磨難,以慈悲代替瞋恨,以忍辱取代謾罵,以轉念化解執念,以感恩撫慰悲傷。想如飛機一樣飛在高空萬里,必須學會逆風起飛。
好好唸經,勤修戒定慧,熄滅貪瞋癡。每天努力唸經、行經、調整心性,創造正能量。《六祖壇經》:「煩惱即是菩提,無二無別。」有一天,當您迎面接受打擊,還能淡然處之、一笑置之,別忘了感謝生命中的逆緣,助您逆風向上,乘風飛行。南無大慈大悲觀世音菩薩摩訶薩!
南無本師釋迦牟尼佛
南無藥師琉璃光如來
南無阿彌陀佛
南無大悲觀世音菩薩
南無大願地藏王菩薩
南無韋馱菩薩
南無伽藍菩薩
南無十方一切諸佛菩薩摩訶薩
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カメラになった男 写真家 中平卓馬
推薦:浅田彰
Date: September 26, 2006
この人を見よ。
1977年に急性アルコ−ル中毒で記憶の大半を失い、ほとんど純粋なカメラ・アイに還元された写真家は、自己解体の手段だったはずの撮影行為を通じて自己再構築の営みを続ける。そのあげくわれわれの眼前に登場するのは、猫のようにしなやかでシャープな「新しい人」だ。中平卓馬。今もなお現役の写真家として走り続ける彼の仕事を、私は横浜美術館での回顧展に際しての講演(『ART iT』第3号掲載)で写真史の大きな枠組の中に位置づけようと試みた。
他方、小原真史がヴィデオ・カメラを片手に3年近くにわたって写真家に寄り添いながら撮ったドキュメンタリー『カメラになった男 写真家 中平卓馬』(2003年。2006年初公開)は、日々の不安を、しかしまたそれを突き破るようにして現れる明察と決断の瞬間を描いて、見る者を深く感動させる。写真家が、ショートホープ(短い希望!)のパッケージにメモをとっていくことで、いかに生活を組織していくのか。回顧展で観客を驚かせたあれらの鮮烈な写真——鉄塔や動物やホームレスの写真が、どうやって撮られていたのか。
とくに忘れがたいのは、沖縄旅行の場面だ。中平卓馬は、倒れる前、新聞写真を根拠に警官殺害容疑をかけられたデモ参加者を映像の専門家として弁護するために沖縄に行って以来、この島を何度も訪れるようになった。倒れた後もすぐに沖縄に行き、素晴らしい写真を撮っている。とくに私が好きなのは、浜辺で犬と戯れる少年を撮った何気ない一枚なのだが、写真家はこの写真を見てはじめて自分にこういう子どもがいたことを再認したというのである!
しかし、それはたんに自己再構築のために必要な過程なので、感傷的なノスタルジーとは何の関係もない。それと同じ意味で、今回の沖縄旅行も、失われた過去の記憶を求めての感傷旅行といったものではない。そのことは、『沖縄マンダラ』と題する写真展を開いていた先輩の東松照明を同輩の森山大道や荒木経惟らと囲んだ、すでに伝説的なシンポジウムのシーンからも、はっきり見て取れるだろう。
ステージに掲げられた『写真の記憶 写真の創造』というタイトルを見た写真家は、まずそれに鋭い疑問を投げかける。アメリカ帝国主義が侵攻を続ける琉球=沖縄の現実を、「記憶」や「創造」——「アメリカ語で言えば『メモリー』や『クリエーション』」——といった能天気な観念で捉えられるのか。自分がかねてから主張してきた「ドキュメントとしての写真」——歴史的現実の断片としての写真こそが、そこで求められているのではないか。見事な批判というほかはない。
ヴィデオを見るかぎり、東松照明は老獪にも沈黙を守り、森山大道はそそくさと席を立つ。沖縄のことをどのくらい考えているのかと詰問され、自分は政治を抜きにした沖縄の「熱」に惹かれているだけだと答えて一蹴された荒木経惟は、「昨日一緒に踊ったのに」と言って情緒的な共同体への取り込みを図るのだが、中平卓馬はそんなことなど忘れたかのように(本当に忘れていたのかもしれない)そっぽを向くばかりだ。そこに見いだされるのは、『PROVOKE』(中平卓馬らが出していた写真誌)の時代よりさらにしたたかになった、野良猫のように孤独なprovocateur(挑発者)の姿なのである。
小原真史は、控えめに、しかし注意深く、この人の姿を追い続ける。そのヴィデオ・カメラを通して見るこの「新しい人」の姿から、われわれは目を離すことができない。
引用:http://www.realtokyo.co.jp/docs/ja/4weeks/bn/4weeks_085/
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「咒术回战」 - 日语小讲堂#05
バラける:聚在一起的东西散开
膂力:臂力,肌肉的力量
ガラ空き:缺少防备
腸が煮えくり返る:怒不可遏
出涸らし:泡了很多遍,已经淡的不能再淡的茶。引申为无趣的人。
スクラップ:拆解
抉剔:挖出
アルバトロス:信天翁。指在一洞打低干标准杆三杆。(高尔夫用语)
掌打:用手掌下方接近手腕的部分攻击的技能
ブラフ:谎言,虚张声势,幌子
居合:快速拔刀斩向对手的剑技
合気:夺取对方身体自由的技巧
トンファー:T型棍。冲绳琉球古武术使用的武器,可攻击也可防御。
生やさしい:简单
角立つ:不圆滑,事情变得棘手
勘当:断绝亲子关系
目もあてられない:看不下去,不忍直视
ズカズカ:毫无顾虑地接近、进入
リボルバー:转轮手枪
ドーピング:使用兴奋剂作弊
心許無い:担心,不放心
★本卷名句:
🧹「頑張れ私、今日もカワイイ」
💰「私は金の味方だよ」
🌹「”完璧”も”理不尽”も、応える義務がどこにある?デメェの人生は仕事かよ」
🌹「私は綺麗にオシャレしてる私が大好きだ!! 強くあろうとする私が大好きだ!! 私は「釘崎野薔薇」なんだよ!!」
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