#毛皮を着たヴィーナス
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7月13日
マゾヒストの書く小説は異様な熱気を孕む事が多い。マゾッホの毛皮を着たヴィーナスを読みながらそれを感じている。それは谷崎潤一郎の小説を読んだときに感じた熱気と同質のものである。その作品の熱気はそのまま作者自身の熱気なのだろう。牡牛のような興奮と高揚に包まれてこれを書いたのだなと思わせられる場面に数多く遭遇する。それは物語の構成や展開というよりもその描写、彼の崇拝と憧憬の具現体であるところの女についての描写に於いてである。 マゾヒストの小説家は現実に於いては拝謁する事の叶わないサディスティックな理想の女、崇拝と憧憬の対象を言葉の世界に於いて想像し創造するのだからそこに或る種の情熱が伴わないはずがない。その狂おしい情熱の炎は彼のリアリズムを練磨し深化させる。彼自身が興奮し高揚する位に、いやそれ以上に彼の予想を遥かに上回る生々しさを持った女でなければ描く意味はないからである。彼は自分自身を打ち倒し跪かせる神々しく美しい生きている女を創造したいのだ。 マゾッホ、谷崎の場合、崇拝の対象は女だが、マゾヒスト全般に於いてはただ女だけが崇め奉り憧れを抱く対象ではない。男性の肉体の中にそれを見出す人間もあれば自然の風景の中にそれを見出す者も居る。その回路は彼の性質によって無数に存在するだろう。ただ彼らマゾヒストに共通しているのはその美という暴力によって我の衣装を剥ぎ取られ裸になり、彼に失われた生の現実を取り戻したい願��切実な欲望である。
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「[...]毛皮にはあらゆる敏感な人間を興奮させる作用があるのですよ。その作用は、万物にあてはまる自然の法則に基づいているのです。妙にむずむずするような、誰も完全には逆らえないような、生理的な刺激です。最新の研究によれば、電気と温度の間には確かな類縁性があることが証明されていますよね。いずれにしても電気や温度が人間の身体に及ぼす作用は似通っているということです。暑い地域はいっそう情熱的な人間を生み出し、あたたかな空気は気分を高ぶらせるのです。電気もそれとまさに同じなのですよ。だからこそ、猫がいっしょにいると、敏感で知的な人間は魔女に魔法をかけられたような快い気分になるのだし、あの長いしっぽを持つ動物界の優美なレディたち、あの火花を飛び散らすかわいらしい電池たちは、マホメット、リシュリュー、クレビヨン、ルソー、ヴィーラントのお気に入りとなったわけです」
「つまり、毛皮を着た女というのは」ヴァンダが声を張り上げた。「大きな猫、強力な電気を放つ電池にほかならないというわけね?」
ザッハー=マゾッホ『毛皮を着たヴィーナス』許光俊訳
https://www.kotensinyaku.jp/books/book365/
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いつか読み比べをしてみたいと思います
いつか読み比べをしてみたいと思います #マゾッホ #毛皮を着たヴィーナス #古典新訳文庫 #河出文庫
光文社の古典新訳文庫から『毛皮を着たヴィーナス』が刊行されました。マゾッホの代表作です。 ただ、情けないことに、あたしはこれまで読んだことがありませんでした。なんたる不覚! そこで旧訳である河出文庫版の『毛皮を着たヴィーナス』も一緒に購入し、時間を作って読み比べてみたいと思います。 ところで、このように翻訳が複数ある海外文学って、どのくらいあるのでしょう? 海外文学とは呼ばないとは思いますが、あたしが学生時代に専攻していた中国古典ですと『論語』や『老子』、あるいは『史記』などは片手では足りないくらい、たくさんの翻訳が刊行されています。近代ですと魯迅も複数ありますね。 それに比べると、欧米の作品で翻訳が複数あるのって、シェイクスピア、カフカといったところでしょうか? 哲学・思想の著作ですとプラトンやカントなど複数出ていますよね。
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エレウテリア 第五話
Conte エレウテリア Ghost and Insurance 第五話 「DON’T TRUST ANYONE OVER 30」 遊園地廃墟の夜が深い青に落ちていく。月明かりは木々を透過して注ぐ。海底の冷たさを等しく全員へ示す光に命ある総ての者は押し黙る。その身を闇に引きずり込まれないように。反対に騒ぎ出す者等。インサニティ。ルナティーク。月に憑かれて踊る魂の際限ないダンスの果てには神聖な狂気の世界が待つ。湖面に映るぐにゃぐにゃの時間。一時も落ち着かない生活がやってくる。生まれ持った音のボリュームには個体差がある。シューゲイズに惹かれるEDM。フォークソングとぶつかるポジティブ・パンク。ソウル・ミュージックとジャズが手をつないでニューウェーブを握りつぶす。 トイレの割れた窓ガラスをオバケが踏むと小気味良い感触が靴の裏から全身を伝わった。 「男子トイレってこんな感じなんだね」 「そうだよ」 驚くべきことに水道はまだ通っていてホケンが蛇口を捻ると腐ったような臭いの水が勢いよく飛び出し止まらなくなった。呆然として半笑いでオバケを見、疑問に感じた部分を混ぜ返す。 「“そうだよ”?」 「男とよく夜の公衆トイレで」 「そんなことだろうと思った!」 『暗黒日記二〇一六』執筆中の少年は個室で言いがたい感覚に襲われていた。清沢洌にちなんでキヨサワと呼ばれることになった彼がトイレに駆け込もうとすると当然のように少女二人もついてきた。「気にすんな」と言われても無理というものだったが彼史上最強クラスの便意と長時間に亘る格闘をするうちに無理ではなくなっていった。ボロボロの木の板一枚挟んだ向こうにいる彼女達をいつの間にか戦友のように感じている。下卑た冗戯も戦争映画の音声に聞こえ、敵国へ勝利を納め扉を開けた時彼の心には密かに二人への親愛の情が生まれていた。暗いのは好都合誰か人がいたとして姿を見られる危険は日中より少ないと三人は園内を彷徨う。突入する建物には必ず生活感があることに驚いた。廃墟を棲家にしている人々がいるのだろうか。いるとしてそれはどんな種類の人間だろう。山奥で隠遁生活をしなければならない集団。カルト宗教、指名手配犯、ホームレス……。何にせよ安全で善良な人物が暮らしているとは思えなかった。予感は的中した。明け方湖の側で発見した第一村人は遠目にも危険人物らしい相貌である。全裸で逆立ちをしながら詩の朗読をしていた。好きな作者の物が結構あったのでコイツは危ないとオバケは感じたのだった。 「あ、所長」 「所長?」 「あの人がここの総責任者なんだ」 「つまりアレをやれば我らの勝利……?」 「待って待って待って」 叢を分けて飛び出すと逆立ち全裸は華麗にバク宙を決めて二足歩行体勢に戻った。恥という感覚がとことん抜け落ちているようだ。衣服を纏おうとは欠片も考えぬ素振りのまま仁王立ちでオバケを迎えた。 「君は……新しい世話係だったかな。早いね。もう辞めたいっていうのか。よし。分かっているな。今日一日生き延びることが出来ればここから出て山を下りる権利が与えられる。死んでしまえばそれまで。それがローズバッドハイツ従業員のルールだ。では始めようか」 「イエーイゲームスタートふっふー!」 オバケが茂みに戻るとホケンとキヨサワは同時に彼女の頭を力いっぱい叩いた。 「だって……何あのRPGの敵対モブみたいな発言!?字幕見えたわもう!」 「いきなり出ていってどうするつもりだったの」 「本当に殺す気でいた?」 「そういう訳じゃ…..。上手くすれば状況打開する道につながるかなーと」 「で、上手く出来ましたか勇者オバケよ?」 「あーうーん、山下りる権利?くれるって」 「すごいじゃん!」 「うん、うん、でもな、あのな、今日一日、生き延びられたらって、言��てた」 「どういうこと?」 「うーんとうーんとああいうことかな」 無線機で連絡を取り逆立ち男は大量の人間を集めていた。真っ赤なツナギを身につけた集団のその数はどこに隠れていたのか不思議な程。最悪な状況が自分で思っていた以上に行く所まで行っていたことにオバケが気付いたのはこの時だった。逃げ延びられるはずもなく彼女達は山を下りるどころか頂上へと連行されていく。道々見えたのはこの廃遊園の全景。過酷な労働の果てに息絶えた亡者へ死してなおその手足を働かせることを強制する死臭噎せ返る工場。圧倒される物々しさは美の領域にまで達していた。ぜんたいここは何なのか。この先に何が自分達を待つのか。ぞくぞくと心臓を震わせるのは恐れだけでなく期待も大きいのであった。 薔薇。薔薇。薔薇。薔薇。薔薇。山頂を支配する無数の薔薇の花の群生。人の営みも動物達の食物連鎖も虚しい遊戯にしか思えなくなるほどただそこは薔薇園だった。薔薇が薔薇のみしか必要とせず薔薇のために薔薇は存在し薔薇のため薔薇が死ぬ。自家中毒の桃源郷。こんなところに連れて来られてはいよいよ死ぬしかない気がした。だが不思議と怖くなかった。切り刻まれ腐り果てて堆肥になったら養分としてこの美しい薔薇の一部になれる。それは本望かもしれない。私が生まれたのはきっとそんなふうに綺麗なものになるためだったんだ。 「やあ」 薔薇はとうとう中世ヨーロッパの貴族階級のような声で口を利いた。遮るものの何もない場所で声はどこまでも響く。 「呆気なかったな、非行少女たち」 そして薔薇は人のかたちを模した。荊のベッドから身を起こす人影がある。美輪明宏がまだ美輪明宏になる以前の美輪明宏のような美青年が薔薇の海から生まれた。見覚えがあるように思ったのは恐らく究極の美というものは原始的な記憶領域に訴えかける作用を有するからだろう。蛇に睨まれたように身体が動かせずにいると青年は彼女らに自ら歩み寄った。コミュニケーションを取ることが却って困難になる距離まで近付いて黙ったまま観察する。彼のあまりの顔の近さにオバケにはそれが昆虫のような異星人のような巨大な目玉を持つ怪物に見えた。彼女らを連行した赤ツナギの一団が丘の上に立つ建物から出て来た別働隊から何事か報告を受けている。そして薔薇から生まれた青年へ報告は受け渡された。 「君たち….スタッフじゃなかったの?」 アゴ、というより両のエラに手を入れられ顔を持ち上げられたオバケは改めて目撃した青年の美しさに戦く。同時に気付いたこともあった。彼の目に���何も映じられていない。目の前にいる私を、耳元の部下を、恐らく人間として見ていない。心を開いていない目。あの芸能プロダクションの人間と同じ、溶けたプラスチックの目。途端に強烈な嫌悪感に苛まれた。それは青年に対してだけでなく今まで全てから逃げ続けてきた自分自身に対しても同様だった。彼の澱んだ目の中でオバケの消したい過去たちが溺れてはまた浮上する。 「わっ!わー!何ですか、やめっ、あの、何ですか!?離してください!」 赤ツナギ達がホケンを拘束して運ぼうとしている。キヨサワはどうなったのかと探すと彼は赤ツナギの一人からいけないことをした子供に諭すように叱られていたが彼自身はどこか全く別の方向を見ている。それに対し赤ツナギは注意せず聞き手のいない説明会を続けていた。憶えている外の景色はこれが最後だ。神経症的に空間を埋める薔薇。濁ったプラスチックの視線。拐われる少女。遠くを見つめる少年。今となってはどれ一つとして現実感がない。私は始めからここにいて全部ただの妄想だったのかもしれない。 罅割れの激しいサイレンが鳴った。曜日の無い一日がまた始まる。人ひとり埋もれる高さの雑草が生い茂る中庭を伐り開いた空き地にはブルーシートが敷かれ、黒ずみ欠けたアイスクリーム屋の白い椅子とテーブルが並ぶ。キャスター付きホワイトボードは黒板を手前にある手術台は教卓の役割を果たしていた。現実社会という戦地から疎開した青空教室。しかし飽くまでも日本的な詰め込み型教育で教えられる科目はただの一つだった。危険薬物はその人の四肢を腐らせ五感を狂わす薬である。自ら進んで人間でなくなりたい者は使えばいい。日々突き刺される言葉の烈しさは薬物の刺激に慣れた「生徒」への配慮なのか家畜を見る目をした赤ツナギの憂さ晴らしなのか。小学校卒業以来、中学は週に一度作文を提出することで足りない出席日数を補完、高校は開き直って呆気なく中退、とまともに学校という物へ通った経験がなかったのでアタシはこの歪んだ青空教室を楽しんでいるきらいがあった。大学ってもしかしたらこんな感じかなと見当違いな想像もした。 それは長い梅雨の明けた7月のよく晴れた日だった。青空薬物リハビリプログラムは日一日と脱落者が増えていき生き残ったのはアタシと80年代のロックスター風にウェーブのかかった茶髪を長く伸ばした男だけにいつの間にかなっていた。荒くれ者然とした彼とは一度だけ話したことがある。ノートを見せて下さい、という意外にも丁寧な口調に面食らってしまい返答出来ずにいると俺のも見せますから、といらない交換条件を提示してきた。びっしり書き込まれた文字はタイプされたような美しさで、しかも見易く配置された内容はところどころ図に表してあるほどのこだわりよう。呆然と見惚れてしまったのを覚えている。よっぽど本気なんだろうなと思った。彼にとっても今日は待ち焦がれた日だと思う。予定ではいよいよプログラム最終日なのだ。 「おめでとう!」 薔薇の花。何週間、もしかしたら何ヶ月ぶりに見た青年は変わらず美しく息をしていた。いつもの常に苛ついている太った赤ツナギは萎縮して陰に隠れていたがその飛び出した腹部まではへこんでいなかった。残念。青年は笑顔を全く崩さないままにバッグからあるものを取り出す。 「最終試験だ!僕のモットーは“平等”だからね!このローズバッドハイツから出て行こうとする人には従業員にも患者にも同じ条件を出す!」 患者。アタシは患者だったのか。ずっと自分が何なのか探していた。子供にも、大人にも、学生にも、アイドルにも、狂人にも、誰かの大切な人にも、私は結局なれなかった。薬物リハビリ施設で治療を受ける哀れな患者。私という動物のつまらない正体を簡単に暴かれたせいでなんだか笑い出してしまいそうになった。 「今日一日生き延びろ」 壊れた機械のねじ穴を永遠に塞いでしまうような絶望的な清々しさで彼はそう言って次の言葉を続ける。 「けどクリーンなスタッフ達をわざわざクスリ漬けにするわけにはいかないし、ろくに運動もしてない君たちを走り回らせても仕方ない。彼等と君たちには別の生き残り方を目指して貰わなければ。そうだろ?そうしないと平等にならないもんね?」 素人目にも凄まじい高級品だと分かる黒い革の手持ちバッグから出て来たのは、一組の注射器と、粉末の包みだった。綿の飛び出した緑の手術台ーーそれは先述の通り教卓なのであるーーにその二つを見せつけるようにゆっくりと置く。 「これが何か分かる人ー?………..今日一日、君たちはここに居てもらう。それだけ。それが最後のテストだ。勿論、ここまで来た君たちは、目の前にかつてお世話になったおクスリがあるからって貪り打ったりはしないもんね。じゃあね!ああ寂しくなるなあ!一気に二人もローズバッドハイツを卒業しちゃうなんて!……….日付が変わったら、お迎えが来るよ」 金縛りなんて比じゃなかった。これからどんなに最強最悪の大悪霊に取り憑かれてどれだけおぞましい金縛りにあったってすぐに自力で解ける気がした。幽霊のたぶん充血して瞳孔の開ききった目を力いっぱい睨み返しながら、そいつがたまらず成仏してしまうまでやり返せる自信があった。もし、ここで、この場所で、身動きが出来たとしたら。体感で一時間が過ぎてやっと、骨の軋む音を頭蓋骨に爆音で反響させながら首を回して、隣にいる彼の様子を見ることが出来た。彼も同じく硬直してしまっていたが一部だけ激しく運動している点がオバケとは異なる。何かが宿った人形が髪をのばすように。聖像が血涙を流すように。微動だにしない肉体から絶えず滝の涙が流れていた。涙腺が心臓として脈打ちいち早く緊張を氷解させる。不安や恐れや怒りの入り混じった彼の姿を目で追っていると体の動かし方を思い出していくようにしてオバケも徐々に徐々に震える手足を命令に従わせていくことが出来るようになった。天敵に遭遇した動物と食糧を発見した動物。彼等の中で目まぐるしく入れ替わり立ち替わりする欲求の種類はまさに野生のそれであった。手術台に載せられているのは人生を破壊する道具である反面、どうしようもなく必要としてしまう存在でもある。二人とも一言として言葉を発せないうちに日は傾こうとしていた。時間が泥のようにまとわりつく。呼吸をするほど息は苦しくなる。酸素が猛毒だった地球最初の嫌気生物の気分。 「限界だ!」 ロックスターもどきの彼はチューブで腕を縛り血管を��き立たせる。粉末を炙って透明な液体にし注射器で吸い取ったら一度ゆっくり押し出して針の先を2回はじく。そういえば、この動作への憧れがアタシを壊していったんだっけ。辛い時間を埋めてくれた映像。トレインスポッティング、ウルフオブウォールストリート、時計じかけのオレンジーー。映画はどんなダメ人間も許してしまう魔法だ。どれだけ人を嫌い嫌われるやつでもスクリーンは分け隔てなく愛してくれる。必死で、投げ遣りで、幸せで、不幸で、孤独で、愛し合っていられた。その中のどれ一つとして本当には味わったことのないアタシと画面の中のキラキラした彼等彼女らは全てを共有してくれた。おかげでアタシはハイティーンにして既に老境に入ったベテランジャンキーだった。灰彦店長の贈り物はだからきっかけでしかなく、あれがあっても無くてもどの道アタシは同じような人生になっていたと思う。だから、この、今まさに長い断薬生活に別れを告げようとしている同志のロン毛チリチリなんちゃってロックヒーローには、無意味な永遠の中に逆戻りして欲しくない。オバケは男に背後からしがみついた。注射針はもう彼の皮膚を突き破っていたが腕を振るだけで引き抜けたことから血管には達していない確率が高い。海岸線に沈み始めた夕陽が黒ずんだ濃いオレンジを二人目掛けて投げ込んだ。弾けた光はそのまま部屋中に広がり波打つ。 「だっ……ああ!も、さ!?うああっ!」 言葉が何一つ形にならなかったことで自分が泣いていることを知った。言いたいことが沢山あった。本当にいいの?じゃあ何で今まであんなに頑張ってたの?ここを絶対に出たい理由があるんでしょ?勝手な想像だけどさ、何が何でももう一度会って謝りたい人がいるんじゃないの?じゃなきゃ、きっと人間はそこまで自分の為だけに命がけにはなれないでしょ?全部ただの呻きにしかならなくて悔しくてひたすら彼の背を叩き続けた。這いずりながら彼はまだ注射を打とうと手を伸ばす。いっそう強く呻いて背中を叩いた。何度も何度も何度も。それでも彼は諦めず震える手を夕陽に透かしていたが、やがて抵抗をやめた。それから二人で馬鹿みたいに泣いた。悲しさを、悔しさを、全て流し切ろうとするかのようにいつまでも泣いていた。顔中ドロドロになって乾いてまたドロドロになって乾いてを3回繰り返した頃にはやっと少し落ち着いてきた。外はもう暗くなって、警備担当の赤ツナギの持つ懐中電灯の光だけが何の明かりもない敷地外を不気味に漂っている。 「あれやらない?ミーティング」 返答する以前に彼の顔の地殻変動っぷりが笑い事じゃなったのでポケットティッシュを差し出した。ありがとうと恥ずかしそうに呟いたあと顔を隠すように拭きながら彼は言う。 「もう二度とやることも無いだろうから記念にさ!」 白と黄色のまだらになったティッシュの塊をゴミ箱に捨てて戻って来がてら小さく引き攣った笑顔をオバケに向ける。彼女も自らの顔の汚れを拭き取ることでどうしても表れてしまう笑顔を隠していた。かつてない和やかな空気の中最後のミーティングは始まった。薬物依存の人間同士が集まって自分の薬物体験を発表し合う。そうすることにより薬物の恐ろしさを俯瞰的に感じ取るのがこの「ミーティング」の目的である。だがオバケはここで行われるプログラムの中でこれを最も苦手としていた。薬物についての話を集中して聞いていると頭の中が混沌としてくる。想像力が制御を失いどこまでも広がっていってしまう。アマゾン奥地では船で山を越えるんだ!先住民と戦争を!ジークハイル!フィツカラルド!いやザ・ダムド!ヘルムート・バーガー!ルキノ・ヴィスコンティ!地獄!老人という怪物!プレタポルテそしてYSL!YSL!称えよ我らがイヴ!我らがイヴを称えよ!ハイル!ハイル!ハイル!バスキアみたいなスライ・ストーン!さらばさらば藍色の青春時代!ヴィーナスは毛皮を着て陽射しがサングラスのマイノリティ!結論はシルクのバナナ!ーー喉が渇いた。砂漠にい���火星に置き去られてもうソル200くらい経ったような猛烈な喉の渇きでいつも幻覚は止むのだった。 「ごめん。付き合わせちゃって」 窓とは逆の壁を埋め尽くす段ボールの中から500mlの水を一本、彼が差し出していた。この施設には満足な物資こそないが絶えず喉の渇きを訴える入居者達の為に水だけは大量にあるのだ。ダム一つ分くらいありそうだといつか誰かが冗戯を飛ばしていたがあながち目測は外れていないのではないかと思う。ローズバッドハイツ。遊園地廃墟の姿を取った薬物リハビリ施設は「水」と「薔薇」の天国なのだ。 「大丈夫、じゃないけど大丈夫。何もしないよりはこの方が楽だったと思うから、気にしないで」 「そっか。今何時だろうね?」 「10時くらい?たぶん」 「そうだよね。ああ……さっきは本当にありがとう。あのままじゃ本当に何のために頑張ってきたのか、全部台無しにするところだった」 オバケが会話を続けられなかったのはミネラルウォーターをがぶ飲みしていたせいだけではなかった。もう一本さらに一本と二桁を超える数のペットボトルを要求してもまだ渇きを訴える彼女は彼にはとても見ていられない状態にあった。獰猛な肉食動物のように目をギラつかせて補給したさきから摂取量を遙かに凌ぐおびただしい水分を汗として放出している。温度感覚が狂い冷え切った室内にも関わらず暑さに喘ぐオバケ。支給品の病的に白いブラウスが湿って上手く脱げず彼女は男に助けを求めた。ボタンを全て外されると腕を抜くのも待てず彼女はホコリや髪と混じって床に転がる注射器へ飛びついた。痙攣しながら目的を果たそうとする。何が正しいのだろう。どこで間違ったのだろう。何故今俺はここで破滅しようとしている女の子をただ黙って眺めているのか。男は思う。良いじゃないか。俺には関係ない。後一時間足らずで決着はつく。俺は勝って、彼女は負けた。それだけだろ?何もするな、何もするなよ。お願いだ。 人を狂わす月の光がまたこの場所を深い深い海底に沈めていく。水槽の中に淡く揺れている海月のダンス。水面に浮かぶ薔薇の首。一組の男女が大麻の甘ったるい匂いを全身から放ちながら一糸まとわぬ姿で乱れている。人間離れした美しさの青年は普段の余裕溢れる態度をいくらか崩し目を細めて二人を眺めていた。翌朝、彼等は無論ハイツを退去することなど許可される訳もなく特殊患者向けのエリアへ移されることが決まった。ただ、0時に出会うべきだったところを翌昼12時に初対面した「お迎え」は意外な人物が��めていた。灰彦、と所長は彼女を呼んだ。 次回 第六話 「駅は今、朝の中」
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7月19日(2019年)
マゾヒストは当然マゾヒストを自分の内側に飼っているが同時にサディストをも内包している。彼女はその身を彼に鞭打たせるが、その事を選択したのは彼女自身であり、故に彼女は彼に鞭打たれる前に自身を自分で鞭打っているのだ。自身を鞭打つ自分はサディストである。ただそのサディズムの対象が自分の外側へと向いて行かないが為に外��ら見て彼女はマゾヒストにしか見えない。
このことは当然マゾッホにも当て嵌まる。事実、彼は彼の小説に於いて奴隷であるゼヴェリーンを演じているのと同時に残酷な女主人ワンダも演じているのだ。ゼヴェリーンも彼自身であるならばしワンダも彼自身なのである。 マゾヒズムとは言い換えるならば罰せられたいという願望である。しかし罰せられたいと願う者に対して罰が訪れることは決して無い。彼が殺人を含むどんなに悪逆非道な罪を犯し、それに対してその死を含むどんなに過酷な刑罰を受けたとしても彼は罰を受けたことにはならない。なぜなら彼は罰せられたいのだから。永遠に罰せらないこと、それこそが彼の受けることの出来る唯一の罰なのだ。 ゼヴェリーンはワンダに裏切られることを望み、実際その通りに裏切られ捨てられる。ワンダは彼を裏切ることで彼を裏切らなかったのだ。だから結局、彼の求める本当の裏切りは手に入らない。裏切りを待ち望む彼に裏切りは永遠にやって来ないのだ。裏切りがその門を叩くのはただ信じる人に対してだけである。だから全てはゼヴェリーン彼の想定内の内に進み、彼は観念の衣装の外側の現実に振れることが出来ず、生の現実に達することが出来ない。そんなゼヴェリーンの絶望はマゾッホの絶望そのものである。 どのように足掻いたとしても現実と自分の間に挟み込まれているこの分厚い衣装は脱げないらしい。そのような衣装を纏った我々人間よりもほとんど衣装を纏っていない足元を這う芋虫や壁に貼り付いたゴキブリたちの方が比較出来ない程現実について深く認識しているのだ。何という屈辱。しかしそれが現実である。 さて、そうして自分自身が衣装を纏っていることに気が付いてしまった人間(彼は一体何の果実を齧ってしまったのか)に残された道はおそらく一つしかない。それはつまり衣装を絶対に剥がすことが出来ないのならその衣装の内側の自己を完全に滅却して衣装を自己と化してしまう事である。彼は彼自身を殺し、彼を一個の観念、一個のオブジェに同化させるのだ。 私の住む街、その駅前の広場には一体の彫像が立っている。それは黒い大理石で造られた髪の短い裸の女性の彫像で、二つの細い脚を前に少し重ね合わせるポーズをして可憐に立っている彼女は駅を背中にいつも私の住む街を眺めている。雨の降った後などは陽の光を浴びて肩や腰そのなだらかな黒い肌の表面が艶めかしい光を纏い、それはまるで実際に呼吸をし生きているようで、そんな美しい彼女の前を通り過ぎるとき、私は彼女の瞳にじっと見詰められているような気がして、胸が不思議と高鳴り、同時に恥ずかしくていつも顔を伏せて歩いていた。 これは私の妄想や妄念の類だろうか。いや、そうではない。全く衣装を纏わず裸で、しかし衣装そのものの裸で一人寒々しく宇宙の完全な孤独と孤立の内に立つ彼女、その黒��虚ろな虚無そのものである瞳の中に私の姿は確かと映り込んでいたはずだ。それこそ全く観念の衣装を纏わない裸の私である。生命の花火そのものである一人の人間のありのままの姿。 彼女だけが本当の現実の私を認識出来る。彼女だけがこの街の本当の姿を眺めている。生命と最も遠く離れた者だけが完全に生命を認識出来、現実と最も遠く離れた者だけが完全に現実を認識出来るのだ(無の、沈黙の、神の瞳)。そしてそんな黒い石の女の視線は同時にこの女を造り上げる事で死んだ作者自身の視線なのである。彼か彼女は黒い石の女という永遠の観念に同化したのだ。 一つの純粋な観念(精神)と同化する為には現実に於ける自分自身のありとあらゆる夾雑物欲望を捨て去り、つまりは自身の生を否定しなければならない。それはストイックな修道僧の道で、純粋なキリスト教の精神である。その潔癖な継承であるトルストイ主義にマゾッホが走っていった事は当然というよりは必然と宿命の結果なのだ。
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7月18日(2019年)
書くということは殺す(認識する)ということである。マゾッホは毛皮を着たヴィーナス、ワンダという一人の女性を描き切ることで彼女を殺害した。そうして彼は彼女から自由になった。マゾッホはワンダを殺すのと同時に古い自分自身を殺害(認識を認識)し、その苦しい脱皮を経て新しい自分へと生まれ変わったのだ。しかし暫くの時を経て、ワンダは死の淵から復活して再び彼の前へと現れる。まるで自分を殺してしまったマゾッホへ復讐するかのように。 毛皮を着たヴィーナス、ワンダは本作品に於いて聡明で才智に溢れた教養ある美しい貴婦人として登場する。しかしその香しい高貴な女性のイメージは巻末の種村季弘の解説によって大きく残酷に裏切られる。それは一枚の肖像写真である。
解説によるとマゾッホは本作を書いた後、一人の女性と出逢い、その彼女を妻に迎えるとともに彼女を理想の毛皮を着たヴィーナスへと仕立てたという。その際彼女の名前も変えさせた。勿論それはワンダという名前である。マゾッホは小説で実現した夢を現実に於いても実現しようとしたのだ。実際、小説と同じように彼と彼女は女主人と奴隷の関係となり、小説と同じように現実の二人の関係もワンダの残酷な裏切りによって幕を閉じる。それは作中でも言及されているピュグマリオンの逸話、自身が創造した彫刻の女性に恋をした芸術家のもとにその女性が現実の肉体を伴って現れるという話を無理矢理に作り出したかのようにみえる。ただ問題は実際の現実のワンダの肖像写真だ。 墨で書いたような野太い眉、石を圧し潰しそうに強い眼差し、一見すると男のようで、それは洗練や気品とは遠くかけ離れている。荒い野性そのもの盤石な大地そのもののような顔付きなのだ。彼女は貧民街のお針子だったという。しかしその風貌は野太い木を何本も簡単に切り倒しそれを平気で運ぶ山のきこりの女のようにさえ見え、小説の中の洗練された美しい貴婦人ワンダのイメージとはまるでかけ離れてしまっている。 これは一体どうしたことなのだろう。マゾッホは現実と妥協してその場しのぎに粗雑なワンダをこしらえたのだろうか。 いや、きっとそうではない。彼の小説に書かれることによってワンダは一度殺されただろう。しかし、作者自身が脱皮して生まれ変わったように彼女も復活して著しく進化を遂げたのだ。それはもはや毛皮を纏い鞭を持つ必要もない程に圧倒的生命力を持った自然そのもののような女だった。 身体の筋肉がその死の鍛錬によって増大していくようにマゾヒズムの力もその死に晒される事で増大していくのだ。それは彼の着込む衣装が更に分厚くなる事を意味する。もはや以前感じ��いたような苦痛と苦悩では満足出来なくなるのだ。もっと激しい苦痛と苦悩を、もっと残酷な運命の女神を。彼自身はどんどん小さくなっていき、彼の理想の女はどんどん大きくなっていく。苦痛と苦悩の果てしない探究者。マゾッホはこの後一体何処に行ったのだろう。解説によると彼はその後トルストイ主義に傾倒していったようである。
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7月14日
マゾッホと谷崎潤一郎の作品を比較すると、女性崇拝という点に於いてはもちろん共通しているが、谷崎の方はマゾッホよりも女性の肉体そのものに対するフェティッシュな欲望が顕著に目立つ。一方マゾッホが描写する女性の肉体は意外な程あっさりしていて、谷崎が描く女性のような生々しさはそこに余り見られ無い。むしろマゾッホのフェティッシュな欲望は女性の着ている衣装に向けられていて、それも題名にある通り毛皮に象徴されるような衣装についてである。
観念とは衣装であると先日私はここに書いた。しかし同時に衣装とは観念であり、それは目に見える形の観念だといえる。それは精神と言い換えでも良いだろう。精神とは反自然的なものであり、人間性そのものである。 本来、人間性の象徴であるその衣服に野生の象徴であるところの毛皮を敢えて使用するとはどういう事だろうか。サディスティックな人間にとってそれは野蛮な自然を征服した自我=観念の輝かしい象徴となり、全てを統べる強大な権力のモニュメントにすらなる。だから権力者の毛皮に使用するのは兎や狐であってはならない。権力者に相応しいのは虎や豹、自然界の王侯貴族に属する肉食獣たちの毛皮であって、それを纏う事によって彼は王の王たる威厳に包まれるのだ。それは野蛮さの象徴ではない。強大な自然の野蛮さをも超えた超自然的な存在の象徴、つまりは自然に対する人間性の不朽不滅の凱歌なのだ。 一方、マゾヒストにはその毛皮が真逆の性質を帯びて彼の瞳に映る。そもそも彼マゾヒストにとって自然は分析と征服の対象ではなく、畏怖と崇拝の対象であり、その自然界に於いて絶大な権力を振るい王として君臨する肉食獣の姿は比類の無い神々しい姿として彼の瞳には映り、彼にとって毛皮はそんな神か神に近しい存在が遺した聖なる遺物である。だから毛皮を纏った彼女は彼にとってもはやただの人間ではない。聖衣を纏った聖女なのであり、同時にそれは彼を殺害し食べてしまう程の力を宿した捕食者である。 自然とは一体何であろうか。人間の精神の力ではどうしようもないもの、どんな完璧な衣装に包まれてもそこからはみ出してしまう肉体、それは彼に死を齎す暴力である。反対に言えば人間の力でコントロール出来るようなものは自然と呼ぶのに値しない。大抵の自然愛好家自然礼賛者が言う自然とはこの人工的自然というまがい物の自然の事で、彼らが戯れているのも玩具の自然に過ぎない。 本当の自然というものは例えるなら山で不意に遭遇する巨大な熊のようなものである。その鋭い爪のひと薙ぎで或いはその獰猛な牙のひと噛みで簡単に彼の命を奪い、瞬く間に彼を骨と肉片の残骸へと解体してしまう圧倒的な強者。その冷たく鋭い死そのものの視線に見詰められるとき、同時に彼は自然そのものに見詰められているのであり彼もまた自然そのものを見詰めているのだ。そのとき彼は裸だ。見える衣装も見えない衣装も全ては剥ぎ取られてしまう。このとき彼は想像の余地の無いありのままの現実と向き合っているのだ。 美しいものと向き合ったときもこれと同じ現象が起こる。本当に美しいものを目にしたとき、人は自分自身を忘れる。否、目の前にあるその美しいもの以外のもの全てを忘れ去るだろう。そのとき彼は裸だ。見える衣装も見えない衣装も全ては剥ぎ取られてしまう。このときも同じく彼は想像の余地の無いありのままの現実と向き合っているのだ。 故に死と向き合い本当の自然を求める欲求と美しいものを求める欲求は方法の差異はあれどその本質に於いて同根である。どちらも裸になってありのままの現実に触れたいという切なる願いに基づいた衝動なのだ。 だが、毛皮を着たヴィーナスとはどういう事だろう。その狂おしい憧憬の言葉の中には自然への欲求と美への欲求という本来同じものが重複している。裸になる為には美しいものだけあれば十分なはずなのに。この事から逆説的に導かれる答え。つまり彼マゾッホは女性の素朴な美しさ、それだけでは裸になる事が出来ない程に分厚い観念の衣装を纏ってしまった人間だという事である。彼が我を忘れ、ありのままの現実に向き合う為には美しい女だけでは駄目で、それを補強する本当の自然で出来た衣装アクセサリー、毛皮や犬用の鞭や裏切りが必要なのだ。この小説自体が複雑で手間の掛かるその手続き、彼が裸になる為の儀式のようなものだったのだろう。一枚そのページを書き上げる毎に彼は一枚のその衣装を脱いでいったのだ。 マゾッホ、彼のような男を生み出した背景には当然近代までヨーロッパ中を遍く覆っていたキリスト教社会の強固な反自然主義がある。自然から何処までも遠ざかってしまった男、近代まで自然と調和もしくは自然に隷属して生きてきた我が国に於いてこのような人物が誕生する要素は無かった。日本のマゾヒストの騎手とも言える谷崎の女体信仰でさえもマゾッホに比すると毛皮を着せる必要が無かったという点で素朴であり、それは急激な近代化が進んでいたとはいえ、まだまだ自然と調和し自然に包まれて幸福に生きていた当時の日本人の姿を示唆させるのだ。
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7月8日
朝は7月とは思えない肌寒さ。土の中の蝉もきっと凍えていた事だろう。 マゾッホの毛皮を着たヴィーナスを読みながらマゾヒズムについて考える。 マゾヒズムという概念にも正統と異端があって、正統なマゾヒズムというのは当然の事ながらマゾヒズムという言葉の語源にもなったこのマゾッホの系譜に連なるマゾヒズムの事である。ではその正統なマゾヒズムとは一体何なのかというと、高度に観念的な人間が彼という存在の大部分を形作る自分という言葉とほぼ同義語であるその観念を暴虐と恥辱の嵐の中で叩き壊されたい、つまりは鼻の高い高慢な顔付きをした女王様の豊満なお尻の下にその蒼白い顔を丸ごと圧し潰されたいというインテリの願望である。 観念とは衣装である。それ故、その知性が高まっていく度合いに合わせて彼はその衣装を分厚く重ね着していくことになり、同時に彼は生の現実からは遠ざかっていく。それはつまり生きているという実感が持てなくなっていくという事である。ならばその分厚い衣装を脱げば良いと人は言うかもしれない。しかし何年も何十年もずっと彼の肌と密着してきたこの衣装は彼の肌と癒着し引き剥がす事が出来ないのである。更に言えば何処からが衣装で何処からが彼自身の肌なのか、もはや彼自身には分からないという有り様なのだ。そんな彼が裸になって生の現実に触れる数少ない方法の一つ、それこそ他者に自分の衣装を引き剥がされて生の現実に触れられる、つまりは彼自身がマゾヒストになるということなのだ。 ここで注意しなければならないのはマゾヒストに暴虐を加える主人についてである。当然ながら主人は高度に観念的な人間であってはならない。なぜならせっかく衣装を剥がされ裸になっても、他の誰かの衣装に触れられては元も子もないからである。マゾヒストの主人は知性や精神と懸け離れた人間、つまりは生の現実を体現している悪そのものような人間でなくてはならないのだ。 以上が私の考える正統的マゾヒストの概念である。異端的マゾヒストについては明日書くとしよう。
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7月15日
小説、毛皮を着たヴィーナスはマゾヒズムの願望を密かに抱く主人公が同じ性癖を持つ友人ゼヴェリーンから彼のめくるめく体験を綴った体験記を見せて貰い、奴隷と残酷な女主人の物語はこの体験記に沿って進行していく。毛皮を着たヴィーナスの女主人様に裸で跪き尻を鞭打たれるのは主人公ではなく友人ゼヴェリーンなのだ。
マゾッホはなぜ当初から素直にこの友人ゼヴェリーンを主人公にしなかったのだろうか。そうした方が至極自然に自らの心を熱望する奴隷の役へと投影出来たはずだ。成る程、余りにも自然過ぎたのかもしれない。作者の願望と主人公の願望が密接に結び付き過ぎていて、それが単なる秘密の性癖、趣味の告白に堕する危険性がある。小説という体裁を取る以上、そんな自己満足と破綻を免れる為には直截的に主人公を動かすよりも友人の体験記というワンクッションを置いて(それはもう既に終わった事でもある)ある程度の冷静さと客観性を保全した方が良いと判断したのだろう。 或いはここに於いても彼のマゾヒズムが発揮されたという見方も出来る。マゾッホの意識はやはり本物の主人公の方に投影されていて、その自���自身が切実に待ち恋焦がれる毛皮を着たヴィーナス、彼女に支配され虐待を受けるという目も眩む苦痛と苦悩の体験を第三者である友人から包み隠さず生々しく聞かされるという耐え難い苦痛と苦悩を彼は享受したかったのかもしれない。実際、現実の私生活に於いても彼マゾッホは自分の愛する妻を他人に貸し出しているのだ。 自らの名前と全精神を捧げ、財産と社会的地位を捧げ、血と涙と精液を一滴残らず捧げ、肉と骨、自分の命さえも崇拝する女王様に捧げ切った奴隷にとって彼に残された衣装は女王様の奴隷という身分だけである。その女王様から捨てられるということは最後に纏っていた衣装を剥がされるということで、そのとき彼は本当の意味で裸にされるのだ。 本作と同様にマゾヒズムの主題を女性側の視点で更に苛烈に扱った小説にO嬢の物語があるが、批評家ジャン・ポーランが寄せているその序文の中に或る奴隷たちの反乱についての記述がある。それは要約すると、とある貴族が居て、彼は当時隆盛を極めていた奴隷解放運動の影響を受けて自分の所有している奴隷たちを一斉に解放したのだが、奇妙な事に解放された奴隷たちはその解放に抗議してまた元の主従と奴隷の関係に戻して欲しいと元主人であるその貴族に懇願したという話であり、つまりは奴隷たちの解放されることに対する反乱である。結局、その貴族は元奴隷たちの願いを聞き入れず、元奴隷たちによって殺害される。 かの奴隷たちにとっても絶対の主人であったその貴族は何も持たない彼等に残されている最後の衣装であって、その最後の衣装を剥ぎ取られ、全くの裸にされることを彼等は恐れた。ゼヴェリーンも同じに絶対の女主人に捨てられて、神無き荒野を彼は全くの裸で生きていかねばならなくなった。しかしながらそれこそゼヴェリーンが感じたかった観念の檻の外側の世界、紛れもない生の現実なのだ(彼は体験記を読み終えた友人に「自分は健康を手に入れた」と言っている)。
(しかし人はこの自由な荒野の寒さに耐えることが出来ない。再び衣装を観念の檻を絶対の主人を求め始める。本当の神=死から目を背けるために偽りの救いと罰の神を造り上げる。)
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「(前略)私には理想の女性のタイプが二つあります。かりに自分に忠実に優しく運命をともにしてくれる、高貴な心の、明るい女性が見つからなくても、それでも中途半端ななまぬるいのはご免です! それくらいならいっそ婦徳のかけらもない、不実で無慈悲な女の手に渡されたいのです。そういう女だってその自己中心的なすさまじさの点で理想です。愛の幸福を心ゆくまで味わえないのなら、愛の苦痛、愛の苦悩を最後の一滴まで残らず飲み尽くしたいのです。自分の愛する女に虐待され、裏切られたいのです。それも残酷であればあるだけ素敵なのです。それだって快楽なのですから!」
L・ザッヘル・マゾッホ『毛皮を着たヴィーナス』(河出文庫)
種村孝弘訳
p55 ゼヴェリーンのワンダに対する台詞より
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あゆみを早める。するといつもの並木道とはちがう道にきていることに気がつき、そこで緑したたる間道の一つを脇に曲がろうとすると、ふいに眼の前のベンチの上にヴィーナスが、美しい石像の女が、いや、温かい血と脈打つ血管とをそなえた正真正銘の愛の女神が腰を下ろしているではないか。そうだ、彼女は私のために現身(うつせみ)となったのだ。自分をつくってくれた芸術家のために息づきはじめた、あのその昔(かみ)の彫像のように。奇蹟はしかしなかばしか成就されていなかった。彼女の白い髪の光沢(つや)はまだ石のよう、白いドレスは月光のように冷く輝いている。それともあれは繻子のドレスなのだろうか? 肩からは黒い毛皮がすべり落ちていて - それでいて唇にはもう赤味がさし、頬はほのかな色に染って、両の眼(まなこ)は二条の悪��的な緑の光で私の方を射すくめ、そして彼女は声を上げて笑っているのである。
L・ザッヘル=マゾッホ『毛皮を着たヴィーナス』(河出文庫)
種村孝弘訳
初版1983年4月4日
p30より
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