#明石海峡大橋
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moji2 · 7 months ago
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「このまま」
靄の中で、幻想的な海と、現実の狭間を垣間見る。
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fotomomonga · 4 months ago
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aka-nyontaros · 1 year ago
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mikuninosakai · 7 months ago
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大和川河口から見る大阪湾と明石海峡大橋(2024年4月25日)動画
お早うございます♪(令和6年7月20日) 大阪府の今日の天気予報 ☁|☀ 最高予想気温 34℃(堺市 5時10分 28.7℃)
今日もマイペースで頑張りたいといます。 今日も宜しくお願いします。(^^)
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shinseihajime · 2 years ago
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Photo at Akashi Kaikyo Bridge,Hyogo pref,Japan
This bridge is still the largest in the world in terms of distance between stanchions.
camera : Pentax K-m
lens : Tamron 10-18mm F4-5.6
Aperture : F8
Focal length : 10mm
ISO : 100
Exposure : 1/350sec
明石市民及び淡路島島民にはお馴染みの「たこフェリー」から2009年に撮影したものです(^^)/
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yuuki1365 · 8 months ago
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久しぶりの投稿
お久しぶりです。色々あって更新が止まっておりました。せっかくですので、明石海峡大橋の画像を添付しておきます。
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あいにくの曇りですが、僕にとっては橋は曇りのほうが映えると思っています。
撮影日:2024年7月15日
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racheldoinstuff · 1 month ago
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Learning to ride a bike in a beautiful spot
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salmon-ryou · 2 months ago
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#明石海峡大橋#ゆうやけこやけ部#サンセット #ミラーレス#夕陽#夕日#eoskissm#海#景色#風景#oceanfront#sunset #sun #beautiful #bridge#red #orange #sky #skyporn #nature #ゆうやけこやけ #instagood #夜景阪神 #instasky #all_sunsets#夕景阪神#神戸夕景 #神戸夜景#lovehyogo
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purupuruwakame-chamb · 1 year ago
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四国旅行2023summer_1
四国に初めて行ったので、記録として日記を残します。
旅の概要
日時:2023/09/01-04
移動手段:新幹線+電車+車(イグニス)
天候:全日程晴れ!
1日目
新大阪まで新幹線に乗った。ラブホテル探しゲームで暇をつぶす(車窓からラブホテルを探す、多く見つけた人の勝ちというルールで私が勝った)。
その後は同行者の親族の車を借りに尼崎まで電車移動。乗り換えの移動中に蓬莱551のお店を見つけ、購入。駐車場最寄り駅のホームで豚まんを食す。皮が分厚く、甘くてもちもち。最高の旅の始まりとなった。
その後の移動は以下画像の通り。
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明石海峡を渡り、淡路島経由で四国へ。高速で明石海峡のある町に近づくと大きな橋が目に飛び込んできた。ここで暮らす人たちの人生は橋とともにあるんだろうと思う。
海峡を渡ったところにSAがあるので小休憩とともに橋の見物。スタバがあって、姉からの誕生日プレゼントとしてドリンクチケットをもらったところだったため、サツマイモのフラペチーノを購入した。橋を背景に写真を撮るための写真台があって、同行者は写真を撮るのが大好きなため、その台で写真を撮った。
淡路島では国営明石海峡公園へ行った。管理が行き届いたきれいな公園なのだが、夢舞台という変な住所に存在し、おいてあるものや建物の造形が奇妙で、変な夢を見ているみたいだった。世間は平日だったから人もあまりいなくて、それがなおさら夢のようだった。あと、入口からすぐの建物に入ったら、ドアの近くに置かれていた温度計が、「表面温度、異常です」と聞いたことのないセリフをしゃべった。正常以外の言葉をしゃべることにも衝撃だったし、今年の夏がいかに暑すぎるかがわかる。
公園から遠く離れているように見える百段苑へ。遠くに見えるけれど実はエレベーターがあって、割と簡単に行けた。辿り着くことよりも、行くのを諦めて早くお団子を食べようと言う同行者をなだめるのに苦労した。
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お団子はかじた屋という和菓子屋さんで調達した。お団子だけでなくどら焼きも本当に美味しい。どら焼きの皮の弾力は新感覚で、ここでしか味わえないと思う。
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その後、大鳴門橋を通ってついに四国へ。この日はとりあえず大歩危にあるホテルへ向かった。その途中、徳島道で事故があり3時間も足止めを食らい、その結果ホテルの夕食を食べられなかった。事故は片側一車線の場所で起きたため、処理が終わるまでは動けなかったのだ。事故現場が割と近かったので緊急車両たちが何かしているのが見えたけど、それを眺めつつの何もできない3時間はかなり辛かった。事故で足止めを食らった人には事故原因とか当事者のコメントとか後で共有されてほしい。個人情報はなくていいから、どこからどこに向かう途中だったとか、どんな用事だったとか。ホテルに非はないから当たり前なのだが、夕食なしプランへの変更もできず、減額もされなかった。でも私たちにだって非はないのに。
ホテルの道すがら、コンビニに寄ってお酒などを調達。店名はユートピアふみや。またもや夢みたいな名前だ。でも本当にあります。
ホテルでは夕食をお弁当に詰めていただいたのだけど、かなり遅くに到着したので、冷たくて悲しかった。もちろんホテルに非はない。温泉はよかった。3泊した中でも一番良かった。
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deepestmoonhottub · 2 years ago
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ユキちゃん「香川旅行レポートの”序章”」と「予めの”お知らせ”」ですw。
みなさんこんにちわ~。ユキちゃんですっ!ブログに来ていただきホントにありがとうございます。本格的な「香川旅行レポート」の前に・・・・・・・ちょっとオマケですw。   今回、8月11日の夜から出発しました。こちらは、淡路島から見た「明石海峡大橋」です。到着が深夜でしたのでほとんど人がいないw。でも、橋は相変わらずキレイでした。   星が見えるかも?と思い空を見上げてみたのですが意外に雲で見えませんでした。とはいえ、一等星はよく見えてました。2・3個映っているのが「それら」ですw。   その後、一気に淡路島を縦断。2時くらいに「なると第九パーキングエリア」で仮眠をとり、起きた時に撮影したのがこちらw。5時くらいでしたがかなり明るかったです。   空を見上げると、いい具合に「朝と夜」が分かれていました。ちなみに中央に映っているのは「お月さま」ですよ。   やはり徳島県、緑が多いですね…
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moji2 · 10 months ago
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「休日出勤」
これは、仕事がはかどるのです。
忙しいから休日出勤とお思いかと…自分に能力がないだけの話です。
誰もいない会社、集中できます。メールなんて見ない!携帯も鳴らない!ひたすら自分のことを、自分の仕事を、自分のやり方で、進めるのです。
資料完了!メールせなあかんやん!仕方なくメールを開く、受信メールは見ない!送信だけする!でも、目に入る受信数、GW中で少ないから無視!
続いて、現場作業、目は見えへんし、指は動かんし、昔より絶対に時間がかかってる。でも、誰もいないから、なんだかんだと、完了!
たまに、休日に、誰かが来るのよね。マジかってなるのよね。だから、いつも休日は、早朝に出勤して、できるだけ午前中に帰れるようにするのです。
休日って、不思議なもんで、家にいてもなんもなく、会社にいけば仕事がはかどる。でも、休みたい。へんなの。
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axxaaaxxa · 2 years ago
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明石海峡大橋ブリッジワールドへ。
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coji0117 · 7 months ago
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2024.07.13
明石海峡大橋
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mikuninosakai · 8 months ago
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大和川河口から見る大阪湾と明石海峡大橋(2024年4月16日)
お早うございます♪(令和6年7月11日) 大阪府の今日の天気予報 ☔/☁ 最高予想気温 28℃(堺市 6時50分 23.9℃)
今日もマイペースで頑張りたいといます。 今日も宜しくお願いします。(^^)
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ari0921 · 3 days ago
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『カッサンドラの日記』21 黒船はなぜ現れたのか?―クリミア戦争と太平洋 (※長文注意)
橋本由美子
2024.04.05
クリミア戦争
 クリミア戦争と聞いて、日本人はすぐにナイチンゲールを連想するが、それ以外に何を思い浮かべるだろうか? ウクライナ戦争勃発以後、「クリミア」についての情報は豊富になった。しかし、日本では以前にはあまり話題にならない地域だったと思う。クリミア戦争は、当時のヨーロッパから中東にかけての大きな異変であり、この国際関係の大波乱の余波は日本にも及んだ。ペリーを招いたのはクリミア戦争だったとさえ言えるかもしれない。
 クリミア戦争(1854-56)の背景には、オスマン・トルコ帝国の衰退が引き起こしたヨーロッパ諸国の動きがある。巨大な帝国が衰退期に入ると、帝国内の諸民族の独立意識やそれに伴う宗教宗派の対立が顕在化する。当時のトルコ帝国は、バルカン半島からシリア、エジプトに至る広大な領土を持っていたが、モンテネグロ、ボスニア、ヘルツェゴビナ、アルバニアなどの地域で、キリスト教徒・イスラム教徒・ロシア正教徒などの対立が起こり、周辺のヨーロッパ各国を巻き込んで複雑で不穏な情勢になっていた。ナポレオン3世が聖地エルサレムの管理権を認めさせるというスタンドプレーもあって、ロシアは、トルコ帝国内のスラブ系の住民の安全と財産の保護を口実にドナウ河畔に軍隊を進める(いつも同じ口実ですね)。セバストポリの黒海艦隊が戦闘準備態勢に入り、ドナウ河畔で対峙していたロシア軍とトルコ軍が互いに宣戦布告して、ついに開戦となったのは1853年の11月である。
 1854年、英仏がロシアの進出を阻むためにこの紛争に介入し、クリミア戦争が始まった。戦闘はクリミアだけでなく、バルカン半島やバルト海でも他国を巻き込みながら行われ、スウェーデンやオーストリア、プロイセンの思惑も絡んで欧州が対ロシアで動き出す。ロシア軍は英仏艦隊からセバストポリを護るために黒海艦隊を自沈させて海上を封鎖し、陸上では塹壕を掘って要塞化した。塹壕戦はまるで第一次大戦のリハーサルのようで、クリミアでの戦闘は長期化した。双方の戦死者は数十万と言われ、イギリス軍の負傷兵のためにナイチンゲールが戦地に赴くことになる。
 トルコ帝国内や中東地域の民族対立も複雑なら、どの時代も「欧州の天地は複雑怪奇」である。しかし、個々の複雑な様相を俯瞰的長期的に眺めれば、結局のところ、この戦いは、スエズ運河開通前の中央アジアを見据えた「黒海と地中海の制海権争い」だったと言える。南下するロシアに対して、それを阻止しようとする英仏の対決であり、特にイギリスは植民地インドとの連絡線をロシアによって断たれるわけにはいかなかった。トルコ周辺の海域は、ロシアにとっては南下政策の、英仏にとってはアジアの植民地に至る重要拠点だった。広い意味でのシーパワーとランドパワーの対立構図の延長にあり、第二次大戦後のトルコ帝国分割の際の支配権を巡って暗躍したのもこの国々である。
北太平洋
 ロシア軍と英仏軍の戦闘は、太平洋にも及んでいる。太平洋は、18世紀にジェームズ・クックやベーリングの航海でかなり地理的解明が進んでいた。高緯度の海域は気象条件の悪さでなかなか詳細がわからなかったが、ベーリングの航海により、ユーラシア大陸とアラスカが地続きではないとわかってからは、ロシアはカムチャッカからベーリング海峡を北へ進んで大西洋に抜ける航路を見つけようとしていた(北東航路)。イギリスも、喜望峰を回る長距離ルートではなく、アメリカ大陸の北岸から太平洋に出られる航路がないかを探していた(北西航路)。実際には北極海の氷に阻まれて航行は不可能だったが、此処を太平洋への出口とする現在の北極海航路の構想は古くからあった。
 英仏艦隊はカムチャッカの要塞を包囲して、3度にわたってロシアとの砲撃戦が繰り広げられた。特に19世紀になってからは、対馬をめぐる英露のシーレーン構想の対立があり、日本の近海にロシア船やイギリス船が頻繁に現れ、日本を取り込むために遭難の救助や薪炭の補給や開港を迫るようになっていて、幕府が異国船打払令を出すなど、この海域は騒々しくなっている。この頃の清は太平天国の動乱で揺れていた(1851-64)。イギリスは、アヘン戦争終結の南京条約で香港割譲とともに得た上海の権益をこの戦乱から守る必要もあって、イギリス中国艦隊の活動は制限されていた。何よりも、英露双方��もにクリミア戦争への対応で、太平洋に割ける余力は少なかったのだろう。
 しかし、ヨーロッパでは中国市場を含む東アジア地域と、そのルートである太平洋そのものへの関心は高まっていた。フランスも太平洋に進出していて、ポリネシア群島を植民地化して、ゴーギャンがタヒチに住むようになるのはこの世紀の終わりである。この頃の海軍力はイギリスを筆頭にフランス、ロシアが続いていた。ヨーロッパの海軍国がクリミア戦争に集中していたこのときが、アメリカにとっては、太平洋に進出する「絶好のチャンス」だった。アメリカの海軍力は、まだ彼らに及ばないものだったのである。後にペリーが長官となるアメリカの東インド派遣艦隊は、広東やインドシナ半島やフィリピンなどで商業活動をしていたアメリカ人が、アヘン問題で不穏な情勢下のこの海域でのアメリカ海軍の保護を要請したことで常設された。その任務は、いまの第七艦隊の担当海域に近い範囲をカバーするものだったらしい。
メキシコ戦争とカリフォルニア
 それより少し前、アメリカはメキシコとの戦争(1846-48)でアリゾナやニューメキシコやカリフォルニアを含む広大な領土を手に入れた。カリフォルニアには、サンフランシスコやサンディエゴという軍港として使える良港がある。17世紀からカリフォルニア沿岸はヨーロッパに知られていたが、港湾の価値がわかるのは船乗りだけで、西部開拓に東部から押し寄せる人々ではなかった。軍艦の建造に欠かせないオーク材が豊富な地域(オークランド)を背後に抱えるサンフランシスコ湾に目を付けた政治家は、アンドリュー・ジャクソン大統領(在1829-37)である。彼は、此処に捕鯨産業の基地を作るために、なんとしてもカリフォルニアをメキシコから獲得しなければならないと考えていた。当時、鯨を追いかけ回していたのはアングロサクソン系の人々である。鯨の脂肪は鯨油として精製され、機械の潤滑剤として欠かせない材料になり、抹香鯨の頭蓋から取れる脂肪は軟膏になった。油の搾り粕の鯨蝋からは上質の蝋燭が作られた。骨は女性のファッション用コルセットの材料になった。鯨油は1860年代に石油に取って替わられるまで重要な資源で、捕鯨業は主要産業のひとつであった。
 ペリーは、メキシコ戦争にミシシッピ号艦長兼メキシコ湾艦隊副司令官として参戦し、現地で総指揮官としての責任を引き継いでいる。クリッパー(快速帆船)全盛期の時代に、ミシシッピ号という蒸気推進艦の艦長になったことは、蒸気船を実践で使用する貴重な機会を得たことになる。また、メキシコ戦争終結後に造船監��官となったことは、英仏に後れを取っていた蒸気艦船についての知識や今後の海軍計画に有益だった。日本来航のときの旗艦サスケハナ号は蒸気外輪帆船で、風力と蒸気機関という複数の動力機構を持つハイブリット艦である。帆走によって長い航海での石炭の節約が可能で、且つ、スピードが必要な場合には蒸気機関に頼ることができた。
アメリカの意図  
 ポルトガルやオランダの情報から、日本が高度な文明を持つ国だということは各国の共通認識になっていて、どのような方法で開国させるかが課題になっていた。当時の日本近海の騒々しさは、なんとかこの国をこじ開けて貿易港を獲得し、シーレーンを獲得したいという英露の競い合いによるものであった。
 ペリー来航の目的は、捕鯨船の避難や補給のための寄港地と貿易のための開港を要求することだったと言われている。実際、捕鯨業界からの強い要求があり、当面の重要課題であったことは確かだろう。しかし、アメリカの意図は、捕鯨問題というよりも、もっと広大なものではなかったのか。日本派遣に際してペリーに与えられた権限は、殆ど白紙委任状と言えるほどの強大なものだった。アメリカ史上これだけ多くの権限を与えられた指揮官は、他にはダグラス・マッカーサーだけだったと言われている。そのために、航路や航海上の出来事や対日交渉が、どこまでが国家としての意思で、どこまでがペリーの個人的な裁量なのかはよくわからない。彼はホイッグ党のフィルモア大統領の親書を携えていたが、ペリー出発直前に大統領選挙の結果が判明して、次期大統領は民主党に代わることがわかっていた。ペリーは民主党支持者であった。大統領交代で反古になるような親書は、ペリーが作文したという見解もあるらしい。
 幕府の役人に、かつて経験のない「大統領からの親書」の真贋や隠された意図が、英語からオランダ語に翻訳されるという手数をかけて、どこまで正確に判断できたのか疑問を持つ研究者もいる。しかし、オランダからクリミア戦争の情報を得ていた幕府は、ペリーとの条約締結後、1854年10月にイギリスと、翌55年にはロシアとも条約を結んで、英露との間でバランスを取ろうとしたことからも、世界情勢をかなり理解していたと思われる。オランダは、日本との独占的な交易の継続が難しくなった状況を把握し、日英米に��れぞれ恩を売って、自国の権利を確保しようと動いていた。
 ペリーはノーフォークを出航してから、大西洋を横切り喜望峰を経由してアジアに入っている。途中、食糧や石炭の補給に寄港したのは、ケープタウンやコロンボ、シンガポール、香港などイギリス海軍の拠点やイギリスの勢力下にある諸港であった。イギリスが張り巡らせたシーレーンは海運業界を護るための軍港を兼ねている。ロシアと対立するイギリスは、アメリカを味方につけるために協力した。ロシアも、イギリスとの対抗上、アメリカと友好関係を結んでいた。両者がアメリカの日本来航を阻止しなかったのは、クリミアでの英露対立のためで、成り行きを観察していたと言える。
 その頃の東アジアにおけるイギリスの勢力範囲は上海までであった。アメリカはそこからカリフォルニアに至る太平洋の覇権を狙っていたと言えるのではないか。ただ、ユーラシア大陸に沿った海域とは異なり、太平洋は茫漠とした海原に島々が点在しているだけである。帆船から蒸気船への過渡期にあって、今後の石炭の補給港の確保は優先的な課題であったはずだ。広大な太平洋を航行するのに必要な石炭を満載すると、それだけで船倉に余地がなくなる。航海日数を減らすための大円航路は北寄りになって、補給港がない。まだハワイ併合以前のアメリカにとって、日本の港かその周辺の拠点は必須だった。太平洋に進出するには、競争相手になるイギリスとロシアがクリミア戦争で手が回らなくなっているこの時期が絶好の機会であった。
日本列島の地政学的価値と沖縄 
 ペリーは、日本遠征の発令があってから、実に周到な準備と研究をしている。彼はシーボルトが国禁を冒して入手した詳細で正確な日本地図を持っていた。『ペリー提督日本遠征記』の2割が出航前の日本研究であり、全体の約半分が江戸湾到着以前に関する記述である。とくに異常なまでの関心を持っていたのが琉球と小笠原諸島で、これらに関する記述が全体の3割を占める。アメリカに、中国市場や東アジアの海域でイギリスやロシアに先んじて自国の地位を確保しようという狙いがなかったはずはない。『ペリー提督日本遠征記』の原題が『Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan』であることからも、この航海が東アジアの海域全体を念頭に置いたものだったということがわかる。
 本国に送った書簡では、イギリスがボルネオ、シンガポール、香港の拠点を設けたことで他国が西から接近するのを完全に制圧できたことを挙げて、琉球に海軍基地を設けることでイギリスの極東勢力に拮抗できると報告している。1952年8月のペリーから海軍長官に宛てた機密文書には「琉球は米軍艦隊や商船の避難基地としたい。そのために自分は琉球をアメリカの影響下に置き、アメリカのために貯炭所を確保した」という報告がある。また、国務長官から海軍長官宛ての書簡には、日本列島のいずれかに貯炭所を新設することや、それが不可能な場合には、日本の近辺の「無人島」でもよいということが書かれている。敢えて無人島を持ち出しているのは、所有者のない島の「先占」の権利を意識したもので、この海域にアメリカの国益に叶う拠点を是が非でも設けたいという強い意志が窺われる。
 ペリーは、琉球の帰属についても観察していて、清に朝貢していても、民族・言語・文化習慣・道徳などは日本に属するものだと結論付けていたようだ。しかし、清に帰属しているか、日本に属しているか、独立国家なのかを問わず、この島に自国の拠点を設けようという意思は固かったようである。帰属を調査したのは獲得のための作戦上のことであって、帰属の如何に拘らず、此処に何らかの形で自国に有利な軍事拠点を設けることは、来航する以前からの決定事項であったようだ。1853年7月、浦賀で日本側に大統領の書簡を渡した後、ペリーは幕府に与えた猶予期間を沖縄周辺海域の測量に当てている。さらに上陸して島内をくまなく巡って調査し、那覇港はとくに気に入ったようだ。翌1854年3月に再び日本を訪れたペリーは、神奈川条約(日米和親条約)に署名したのち、下田、函館の視察を経て、最後にまた沖縄に戻り7月まで滞在している。
近代戦への転機としてのクリミア戦争
 クリミア戦争によって、戦争の近代化が始まった。戦艦としての帆船はこれ以後使われなくなり、小回りが利いて機動力のある蒸気船の時代になる。機雷はクリミア戦争でロシアによる使用が最初である。実際には使われなかったが、毒ガス兵器も誕生した。銃の製造過程も変化した。フランスで起こった互換技術がアメリカの企業で産業化され、互換性のある部品が銃の製造に使われて量産の道を開いた。
 特筆すべきは通信技術である。サミュエル・モールスが電信線による長距離通信を可能にしたのは1844年で、通信網が敷設された地域での情報がほとんどリアルタイムで伝えられるようになっていた(モールス信号)。これを利用した『タイムズ(The Times)』の従軍記者が戦況を本国に発信し、クリミアでの兵士の悲惨な状況がその日のうちにロンドンに伝わり、市民は戦場を肌で感じるようになった。『タイムズ』の紙面に載った負傷兵の惨状が、ナイチンゲールに戦地へ向かう決意を抱かせたという。通信の発達とメディアの参加により、戦闘の情報が国民感情を大きく動かすようになった。その後、1891年には、ニコラ・テスラによって無線通信が発明され、日本海海戦では、イギリスがシーレーン上に設けた諸港からバルチック艦隊の航行情況を刻々と日本に伝えた。クリミア戦争は、軍事技術や工業生産力、通信やマスコミが、戦略・戦術を左右する近代戦の始まりであった。
ペリーを引き継いだマッカーサー
 ペリーは、日本人がほとんどあらゆる分野で教養度の高い知的に優れた民族だと見ていて、特にその潜在的な工業力が将来自分��ちの競争相手になると予想している。その一方で、日本との条約締結について、「この強大な帝国を国際社会の一員にし、さらにその上これをわれわれの宗教の恩恵下におく事業は、まだ始まったばかりである」とも言っている。いかにもアングロサクソン的な目線である。約90年後に、その「事業」を引き継いだのがダグラス・マッカーサーだった。まるでペリーの青写真をトレースしたかのように、日本列島全体がアメリカ海軍の前線として基地化された。ペリーは、自らがアメリカ軍の拠点を置くことにあれほど執着した琉球に大規模な軍事基地が存在している現状を見たら、どのような感想を持つだろうか。
 南シナ海は古くからヨーロッパの植民地経済圏と華僑商業圏の接点であり、西太平洋は英露を始めとする列強諸国のシーレーン確立の対立の場であった。アメリカにとって、太平洋はカリフォルニアのフロンティアの延長上にある。フィリピン諸島から日本列島に至るラインは、ペリーにとっては中国をめぐるイギリス経済圏とのフロントであった。アングロサクソンにとって中国市場の権益がどれだけ大きなものであったのか、ペリーの壮大な青写真が語っているように思われる。日米戦争や現代の米中関係も、ペリーの時代からの一貫した流れの上にある。西太平洋にアングロサクソンの利益圏の前線が置かれたことは、アメリカの太平洋覇権のグランドデザインが日本列島の地政学上のロケーションに立脚しているということである。ペリーの遠征記録の邦題から、原題にある「the China Seas」を削ってしまったことで、ペリーの(あるいは、アメリカの)真の目的が曖昧になってしまっているが、既にこの時代の日本の「魅力」は、嘗ての金や銀の神話で語られた日本そのものではなく、その地政学上に占める「位置」にあった。
 『アメリカのデモクラシー』で、トクヴィルは次のように書いている(第2部第10章 /1835 年)。 ( )内は筆者注。
「今日、地球上に、異なる点から出発しながら同じゴールを目指して進んでいるように見える二大国民がある。それはロシア人とイギリス系アメリア人(アングロアメリカン)である。どちらも人の知らぬ間に大きくなった。人の目が他に注がれているうちに、突如として第一級の国家の列に加わり、世界はほぼ同じ時期に両者の誕生と大きさを認識した」
「アメリカ人は自然がおいた障害(荒野)と闘い、ロシア人は人間(民族)と闘う。一方は荒野と野蛮に挑み、他方はあらゆる武器を備えた文明と争う。それゆえ、アメリカ人の征服は農夫の鋤でなされ、ロシア人のそれは兵士の剣で行われる」
「一方の主な行動手段は自由であり、他方のそれは隷従である」
「両者の出発点は異なり、たどる道筋も分かれ���。にもかかわらず、どちらも神の隠された計画に召されて、いつの日か世界の半分の運命を手中に収めることになるように思われる」 
 アメリカもロシアも拡張する国である。アメリカの征服は、極端に人口の少ない新大陸の原野であり、ロシアが征服しようとした旧大陸には他の民族の営みがあった。「神の隠された計画」によって、日本列島は、アングロサクソンの経済利益圏とロシアの領土拡張対象圏という脅威が重なる運命的な位置に置かれた。そこには古くから中華秩序の勢力圏も存在する。その中華圏は、アングロサクソンの経済利益圏から見れば、ロシアに対抗するためにも取り込むべき領域である。もし、クリミア戦争がなかったら、日本の運命は全く異なるものだったかもしれない。当時の情勢下では、日本列島は、クリミアのようにイギリスとロシアの戦場になるか、分割されるか、あるいはどちらかの勢力下に置かれるということもあり得たのではないか。当時、まだ新興国だったアメリカによって開国したことで、日本にとって「最悪な」事態を避けられたと言えるだろう。
 ロシアとアングロサクソンの対立は、その度ごとに他国を巻き込みながら、まだまだ続きそうである。万が一、東シナ海が中国の海になっても太平洋にアクセスできる千島列島をロシアが手放す意思を持つわけがない。対馬や千島列島は、嘗て、駐日大使のオールコックやパークスによって進出を阻まれた海域である。ロシアがウクライナやNATOの背後にアングロサクソン勢力を見るように、日本を見る目には背後のアメリカが映っているはずだ。ウクライナ戦争が何らかの形で決着すれば、次の対立の舞台は米中露の思惑が絡む東アジアになる可能性は十分にある。ウクライナ戦争やイスラエル・ハマスの戦闘を通して世界中の国々が思い知らされたように、正義や善悪やローカルな固有の歴史や庶民の権利、そして法すらも、Great Power Gameの前では簡単に無視されるものだと覚悟しておかなくてはならない。
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yuuki1365 · 10 months ago
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去年頃に明石観光に行ったので紹介
哈喽〜(こんにちは〜)YUUKIです。今回は、去年12月頃に明石市に観光に行きましたので、当時の様子を写真付きでご紹介します。
明石市とは?
明石市とは、近畿地方の中部、兵庫県南部の明石海峡に面する市です。中核市に指定されています。
日本標準時を決める東経135度線が通る市として知られています。子午線上の明石市立天文科学館には、日本標準時を刻む大時計が設置されています。
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画像はWikipediaより
アクセス
行ったスポット
魚の棚商店街
「うおんたな」と呼ばれる明石・魚の棚商店街は、約400年前に明石城の築城とともに誕生したと伝えられており、宮本武蔵の城下町の町割りの設計により造られたと言われる古い歴史を持つ市場。
全長350mのアーケードに明石特産の海の幸や練り製品、海産物の乾物などを扱う商店を中心に約110店の店舗が建ち並んでいます。
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明石港旧灯台
瀬戸内海を一望できるこのスポット、明石海峡大橋や淡路島も望めます。
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玉子焼き 本家 きむらや
通称明石焼きと呼ばれるこの食べ物、たこ焼きとは一味違います。たこ焼きのようにソース��浸けて食べるのではなく、和風出汁に浸けて食べます。生地はフワフワ、タコはしっかりとした食感があり、最高です。出汁も濃すぎず、いい感じです。
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兵庫県立明石公園
明石城跡を元に広がるこの公園、とにかく広いのが特徴で、道中に様々なスポットがあります。図書館もありますよ。
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最後に...
個人的に明石にはすごく思い入れがありまして、風情あふれる町並み、少し街から外れれば海の音だけが聞こえる静かな住宅街...最高です。ぜひお立ち寄りください!次の記事をお楽しみに〜!
参考資料
WordPressもぜひ!
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