#日本女侠伝 侠客芸者
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Lobby card for Chivalrous Geisha (Nihon Jokyo-Den: Kyokaku Geisha, 日本女侠伝 侠客芸者), 1969, directed by Kosaku Yamashita (山下耕作) and starring Ken Takakura (高倉健).
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李賽鳳と武打星たち
この世の女優で作品をいちばん多く見ているのはマードゥリーで出演作の半分、男優は成龍で9割だ。
功夫武侠映画については書きたいことがいろいろあるのだが、ネットにはサイトが山ほどあってこちらが出る幕はない。また、見知らぬ過去のインドミュージカルをあれこれ探るのは未来を振り向く行為だが、カンフーの場合は帰らぬ黄金時代のたんなる追憶に終わってしまう。
しかし血湧き肉躍る春となり、李賽鳳ムーン・リーのクリップばかり観ている。功夫武侠映画とインド・ミュージカルは通底しているが、似たような歴史をたどりながら娯楽の型はずいぶん違っている。得意分野というものがあって中国は武、インドは舞の国といえるかもしれない。
もとはといえば、インドのドラゴンもどき映画を観てモヤモヤしてしまったのが李賽鳳を追うきっかけだった。アクション分野での香港映画の影響は強く、殴られてキリもみしながらすっ飛ぶ「香港スピン」と呼ばれるリアクションでは、インドのほうが一回転は多く回っている。Gulaab Gang ではマードゥリーがドニー・イエンの「レジェンド・オブ・フィスト」のワイヤーワークを真似ていたので笑ってしまった。
ヒーローが足を踏めば自動車が宙を舞うのはチャウ・シンチーから来ているだろうし、経穴を突くようなアクションもある。マッサージして��るようにしか見えないが。 多くは笑いに通じるような、「こんなものでい��だろ」感が漂っている。スタントはかなり危ないことをするし、アクシャイ・クマールのようなほんもののマーシャルアーティストもいるのだが、編集、撮影、振付、練武、吊線、替身などの総合で考えると、インドのアクションは基盤が弱くファンタジー感が強い。少林拳の源は達磨大師だし、格闘術がないわけではないのだが。
功夫武侠映画もほんとは演武、演舞であり、強さを競うのでなく強さの表現で観客を楽しませるのが趣旨だ。音楽のないダンス映画ともいえる。女性の場合、ことに武打星は舞踊出身者がほとんどだ。 李賽鳳ももとはダンサーで、剛を柔でくるんだ女性のタンダヴァによって勇猛ヴィーラのラサが伝わってくる。
武打場面集
天使行動(1987) 初の功夫映画とは思えない切れ味だ。以後、敵にも相棒にもなる大島由加里との打撃戦がすばらしい。
天使行動2(1988) 武術の経験はなく、舞踏公演がTV制作者の目にとまり15才で芸能界入りした。1980年の、初の電視劇での役名楊阿滿(amoon)から海外でのムーン・リーの芸名がついた。はじまりはアイドル女優でのちに北派功夫を学んだ。ここでの敵は元家班の元徳。
天使行動3(1989) 系列最終作。のちにトニー・ジャーやジージャー・ヤーニン作品を武術指導するPanna Rittikraiがムエタイ選手として出演していた。
水玲瓏(1990) 芸道、功夫、恋愛、霊幻が詰めこまれた作品。
夜魔先生 (1990) 猟奇殺人を追う。対手は曹栄。元華とも戦っている。
新龍争虎斗(1992) 本物のキック・ボクシング王者周比利の打撃を受ける。アザがつながって腕すべてが青くなったという。大島由加里との激闘もある。
���二末路狂花(1993) 初の、おそらく最後の悪役。本人はいやだったらしい。大島由加里と楊麗菁を追い詰める。
火種(1993) 相手は女性唯一の武術指導である楊菁菁。中国武術分齡賽冠軍で劉家良の弟子。
南拳北腿(1995) 電視劇だが、まだ小僧みたいな樊少皇が黄麟英、往年の悪の武打星である王龍威が師父、敵役に全国武術比賽女子全能冠軍の王新芬と非常に希少な組みあわせが見られる。
Moon Lee Tribute
ムーン・リー アクション集 ~Moon Lee Action Collection~
90年代後半は自身で設立した李賽鳳舞藝坊での活動が中心になっていった。現在も舞踏監督として活躍している。
製作年度は香港影庫に依拠した。百度やWikiの功夫武侠映画の年代記には揺れがある。
このほかの著名女ドラゴンたちの略歴を見ると 惠英紅(京劇、クラブ・ダンサー)、上官靈鳳(バレエ、ハワイアン)、嘉凌(京劇)、鄭佩佩(バレエ)、楊麗菁(ジャズダンス)、楊紫瓊(バレエ)、章子怡(北京舞蹈學院附中舞蹈科)、黄杏秀(TV局訓練生)、胡慧中(台湾大学夜間部)、楊菁菁(中國武術分齡賽冠軍)、茅瑛(京劇、武術、バレエ)、大島由加里(日本体育大学女子短大)、シンシア・ラスロック(全米空手王者)などだ。 ダンサー出身の多さがわかる。それやこれやで「中国の踊り子」として武打星を追うつもりだが、このサイトではさすがに場違いなので新たにブログ西遊を作ってしまった。
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◆坂崎紫瀾 - 坂本龍馬 - 司馬遼太郎
◆坂崎紫瀾 - 坂本龍馬 そもそも坂本龍馬だって 坂崎紫瀾が調べ尽くして世に出さなければ 誰にも知られなかったし 現代人の大半は司馬遼太郎の「小説」で龍馬を知ってるだけだし。
有るサイトの書き込みで書かれていた。 坂崎の「汗血千里駒」は、それらの原型になった作品であるといえる。 こんな繋がりがあるとはついぞ知らなかった
世に言う 坂本龍馬は死んだから有名になった。 この言葉の通りであるが 調べてくれる人がいなければ存在自体も世に出て来ない。
「坂本龍馬は作られた」 これは昨年出版された本の題名である。
松平春岳という福井藩の最後の殿様が広い上げた。
有名人はその人なりに何処かで何かに引っかかって流されずに浮き上がってくる。
坂崎紫瀾なる人物も面��い人。 世に言う芸人だった。 現代の芸人はクソばかり。 人としての値打ちのないものばかり。 坂本龍馬も芸人だった。 固いことばかりしていてもその人の人格が出て来ない。 確か龍馬は三味線弾き 都々逸なんかもしていたのではないかな。 人として面白いもの沢山持っていたのではないかな。 紫蘭という人も講談師などをしていたと。 今では居無くなったけれども遊び人 ソレも女たらしみたいなタダの 遊び人とは違ったのではなかろうか。 遊んでいてもソレが一つ一つ血となり肉となりその人を 形作っていったのではなかろうか。 今の遊び人は他人から見れば後ろ指さされたり陰口叩かれる存在ではなかろうか。 遊び一つも真剣にしている。 ソレが本物に成るのでは。 私はどうもそのあたりが中途半端。 お酒も飲めないし人の心のキビも感じられない。 何時も第三者的に上から物見ていた。 所詮小物でしか無い。 彼はその点 私なんかとは違い 色んなものにぶち当たり彼なりのものを 作り上げていき 大物になっていったのだろう。 素質も有ったのだろうけど 運というか 徳というか そんなものを持っていた。 私はその点で羨ましい人物だと思う。 ◆坂崎紫瀾 - Wikipedia http://bit.ly/s6sxkT 坂崎 紫瀾(さかざき しらん、嘉永6年11月18日(1853年12月18日) - 大正2年(1913年)2月17日)は明治期のジャーナリスト、講談師、小説家、歴史研究者、自由民権運動家。 本名坂崎斌(さかざき さかん)。 生涯でかかわった主な新聞は、「自由新聞」、「絵入自由新聞」、「浪華新聞」、「今日新聞」、「東西新聞」、「大同新聞」、「国会」、「読売新聞」、「東京新聞」、「法律新聞」。著書に『汗血千里駒』、『勝伯事跡開城始末』、『鯨海酔侯』。 保釈中の明治16年(1883年)、「土陽新聞」に坂本龍馬の伝記「汗血千里駒」の連載をはじめる。挿絵の人気もあって評判となり、連載中に大阪の複数の出版社で単行本化され、その後も春陽堂などから出版されて広く読まれた。 明治17年(1884年)に「自由燈」の招きで上京、以後明治36年(1903年)までさまざまな新聞、雑誌にかかわり、紙上で論説、小説、漢詩を発表、一方で後藤象二郎、林有造、陸奥宗光など数々の伝記を書いた。東京では私塾を開き、福田〔景山〕英子などを教えている。明治27年(1894年)にはジャーナリストとして朝鮮の京城に赴き、牙山の役を視察している。 大正元年(1912年)に、『維新土佐勤王史���を上梓。それまでの維新史研究の��大成といえる大作で、明治37年(1904年)以降、履歴に残る職が確認できないのは、同書執筆に全精力を傾けたためだと思われる。 大正2年(1913年)2月に亡くなる時には、文部省維新史料編纂局に籍を置いていたが、仕事をする時間は残されていなかった。 坂本龍馬が今日よく知られているのは、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』をはじめとする小説や映画、テレビドラマの影響である。 坂崎の「汗血千里駒」は、それらの原型になった作品であるといえる。 この作品がなければ、人材豊富な維新史の中で坂本龍馬が特別に注目されることはなかったかもしれない。 坂崎最大の功績は、坂本龍馬の発見であったといえるかもしれない。現代日本人の心を捉えている、自由闊達で度量が大きい、といった龍馬の人間像もすでにこの作品で描かれている。 また龍馬は、姉乙女、お龍、千葉佐那など、個性的で強い女性に取り囲まれているが、これも坂崎によって見出された枠組みだといえる。坂崎終生のテーマが、女権拡張であったことと関連していると考えられる。 東洋大学名誉教授で分析哲学者の坂崎侃(さかざき かん)は息子。 ◆坂崎紫瀾 - 坂本龍馬人物伝 http://bit.ly/t5Lb2E 藩医の子として、江戸の土佐藩邸で生まれる。 安政2年(1855年)に発生した安政江戸地震を転機に、坂崎家は高知へ戻る。 父は医者を開業し、紫瀾は藩校『致道館』に入学。 その才覚はすぐに発揮され、句読師などに任用された。 ◆くとう‐し【句読師】-日本国語大辞典 〔名〕文章の読み方を教える人。また、漢文の素読や外国語の講読を教える人。 *和英語林集成(初版)〔1867〕「Kutoshi クトウシ 句読師」 ◆素読・読誦のすすめ http://bit.ly/uwDEMX 「歎異抄の研鑽は一にも素読、二にも素読。そして、自然に暗唱できるところまで素読を重ねることが第一段階であると思います。つまり体解(たいげ・体で分かるということ)であり、知的理解はその補助的手段であろうかと思われます。」 ◆素読とは - はてなキーワード ・素読 そどく (読書) 文章の意味を気にせずに,暗誦できるようになるまで,繰り返し音読することがもともとの素読. 明治期以前は「論語」などをテキストに漢文の習得方法としてひろく行われていたという. 有名な話では,湯川秀樹もこの方法で漢文脈に親しんでいた.
◆坂本龍馬 - Wikipedia http://bit.ly/tvwN2A 坂本 龍馬(さかもと りょうま、天保6年11月15日(1836年1月3日)- 慶応3年11月15日(1867年12月10日))は、日本の近世末期に活動した武士。土佐藩出身。 ◆講談師神田香織代表作「はだしのゲン」 http://www.ppn.co.jp/kannda/frame/index.html ◆神田香織 - Wikipedia http://bit.ly/vxIAx9 神田 香織(かんだ かおり、1954年12月4日 - )は、女性の講談師。本名は江尻光子。磐城女子高校卒業。講談協会所属。 ◆講談!堀内伝右衛門物語 その1 赤穂義士・肥後細川藩接待役 9,570 回視聴 2010/02/16 https://youtu.be/0CUmZKvU9aQ?list=PL036D585C3C35DD3A higonokaze(肥後の風) チャンネル登録者数 2430人 赤穂義士祭の前夜祭から「堀内伝右衛門物語」をアマチュア講釈師の若林鶴雲さんが講釈した。 会場は重要文化財に指定された山鹿市八千代座。2010年2/3収録 FX1000 手持ち撮影。 この講談は30数分あります。数回に分割してアップします。 ◆講談師 田辺一鶴 https://youtu.be/-Fr0KeAAPWw 激動の昭和を生き抜いたアバンギャルドな文化人! 2009年12月22日その芸人生を全ういたしました。 一人の人間として尊敬します。写真を喜んでくれました。 ◆芸能のあらまし:話す・読む・語る芸|大衆芸能編・寄席 https://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc20/geino/aramashi/index1.html 伝統のある話芸のなかでも、落語・講談・浪曲は、それぞれに表現方法が異なっています。 落語は「話す」芸です。話すとは、まとまった内容を言葉で相手に伝えることです。言葉で表現する時に、笑いを描くには、登場する人物の個性を明確に描いたり、会話を ... ◆講談・あらすじ http://koudanfan.web.fc2.com/arasuji/00-00_arasuji.htm 『講談・連続物』あらすじについてはこちらをご覧ください http://koudanfan.web.fc2.com/arasuji_series/00-00_series.htm 講談を本格的に楽しみたいのなら、やはり連続物をじっくり聞き込みたいところだが、短くて数席、長ければ数十席もある。演じられる機会も多いとはいえないし、演じる方もそれを聴き��行く方も大変である。それならばもっと手軽にCDあるいはネットで聴きたいと思うのだが、それも(表向きは)なかなか出来ない。現在、松之丞さんの人気がブレイクしているが、連続物を聴くのに苦労する現状も何か変化が起きるかもしれない。 ●講談は「すごくつまんないと思っていました」 講談師・神田松之丞② https://www.nhk.or.jp/radio/magazine/detail/shinyabin20190102_02.html 2019/01/02 ラジオ深夜便 「新春インタビュー もっと上をめざして」 講談師 神田松之丞さん②. ざっくり言うと 2019/01/02 ラジオ深夜便 「新春インタビュー もっと上をめざして」 講談師 神田松之丞さん② 予備知識がなくても面白いのが大衆芸能 神田松鯉に断られたら、講談師になるつもりはなかった ◆侠客物『芝居の喧嘩』|大衆芸能編・寄席|文化デジタルライブラリー https://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc20/geino/kodan/enmoku/s3.html 歯切れのよい啖呵は聞いていて気持ちがよいので、侠客物は講談の人気ジャンルの一つになっています。 ◆『南総里見八犬伝』のあらすじ. https://www.city.tateyama.chiba.jp/satomi/arasuji/ara_min.html 『南総里見八犬伝』は、江戸時代の文豪曲亭馬琴が28年もの年月をかけて著した長編小説です。戦国時代に安房の地を活躍の拠点にした房総里見氏の歴史を題材にしていますが、けっして歴史事実にはこだわらず、そのすべてが新たに創作されたものです。1814年(文化11年)に最初の5冊を出版してから、全106冊を出し終えたのは1842年(天保13年)のことでした。 この物語の主題は、「勧善懲悪(かんぜんちょうあく)・因果応報(いんがおうほう)」にあります。悲劇の最期を遂げた里見氏をはじめ安房地方の善良なる人々などをとりあげて、馬琴の意のままに大活躍させる爽快な小説になっています。 物語は、結城の戦いに敗れた若武者里見義実(よしざね)が、安房へ落ち延びる場面からはじまります。 ◆【聴いてきた】講談師、日向ひまわりさんの「徂徠豆腐」で泣きそうになった件 https://blogs.itmedia.co.jp/omeishi/2013/11/post-6af4.html 2013/11/20 落語、講談で有名な演目ですが、あらすじは以下。昨日は元は同じですが、ところどころ端折ったりクローズアップしたり、時系列を圧縮したりして、人と人との縁、人情についてギュッと魅せてくれました。 ◆講談「大坂の陣~幸村 VS 家康」 file:///C:/Users/asahi/AppData/Local/Temp/02_おのみち文学三昧.pdf 2016/04/21 割れんばかりの拍手ありがとうございます。でまた二回も拍手をさせてしまいまして恐縮至極でございます。 藤沢先生のご紹介がございましたが、講談という芸能でございまして、落語とよく似ております。 着物を着まして、一応今日は文学三昧ということでございますから鳥獣戯画の模様で来たわけでございますけれどもね。 ですから今京都の国立にはないわけでございます。 ◆上方講談 旭堂南陵 講談知恵袋 http://www.office-kimiko.com/chie.html もくじ 講談とは 講談速記本と大衆小説 講談の演目について 講談と一門の名前について 江戸と上方の講談の違いとは 講談と落語の違いとは 高座・・・こうざ ステ・・・すて 張り扇・・・はりせん 拍子木・・・ひょうしぎ 引き事・・・ひきごと 講談とは 明治の初期までは日本の話芸は、僧侶の説教、講談師の軍談を中心とする講談(古い言い方では講釈)、落語家の演じる落語(古い言い方では落し噺)が中心でした。そして講談と落語は僧侶の説教話芸から派生したものです。 平安時代も末頃になると公郷相手のエリート仏教では教線の拡大につながらない、庶民を相手に仏の教えをやさしく説くことが必要だという考えが天台系の仏教から興ってくる。 庶民相手にどうすれば仏の教えを、理屈っぽくなく説くことができるのか。考えだされた方法は、言葉のしゃれやこっけいな話をとり入れる方法。これはやがて落語へと発展していく。もう一つは僧侶自身が加わったり見聞した合戦の様子を伝えて知的好奇心をあおる方法。ひらたく言えば、やじ馬根性を刺激して、仏の教えに結びつけていく方法。これは軍記説教から軍談へと発展していく。 江戸の講談は、武士の町ですから当然、軍談から発達してきました。従って口調も武張った、少しかたい口調です。笑わせる事より、きっちりとストーリーを伝える事に、主眼が置かれています。
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【多分野連携展示「悪」関連企画】ヴィヴィアン佐藤 × 渡邉晃トークイベント第2弾 「古今東西、悪人大集合! ―盗人、悪女、殺人鬼…浮世絵と映画の世界の悪い人たちをぶった切る!」
あの2人が帰ってきた!
ドラァーグクイーン ヴィヴィアン佐藤さんと太田記念美術館 渡邉晃さんのトークの第2弾を開催します。 前回は「江戸の女装と男装」をテーマにお送りしましたが、今回は「悪」をテーマに開催いたします。
現在、太田記念美術館をはじめ���ヴァニラ画廊(※)、國學院大學博物館、国立劇場伝統芸能情報館、国立演芸場演芸資料展示室、東洋文庫ミュージアムの6館で「多分野連携展示【悪】」と題し、それぞれの館の専門の視点から「悪」をテーマにした展覧会を同時に開催しています。銀座 蔦屋書店もブックフェアを通じて、本企画に参加中です。
太田記念美術館で開催中の「江戸の悪 partⅡ」は、2015年に大好評だった「江戸の悪」展のパワーアップバージョンです。今回のトークでは、本展に出品中の「悪」な浮世絵とともに、ヴィヴィアン佐藤さんが愛してやまない映画の世界に登場する悪人たちを、「任侠」「悪女」「盗人」、「権威と悪」、「恋愛における悪事」、「殺人」、そして「善と悪のはざま」など、さまざまなテーマで紹介いただき、古今東西の垣根をこえて「悪」がどのように表現されてきたのかに迫ることで、さまざまな角度から「悪」について考えていきます。
【参加条件】 イベント参加券(2,000円/税込)をご購入いただいたお客様にご参加いただけます。
【お申込み方法】 ・店頭 ・お電話 03-3575-7755 ・オンラインショップ ※オンラインショップでの受付は2018/7/24(火)午前9時の受注分までとさせていただきます。
【注意事項】 *参加券1枚でお一人様にご参加いただけます。 *イベント会場はイベント開始の30分前から入場可能です。 *当日の座席は、先着順でお座りいただきます。 *参加券の再発行・キャンセル・払い戻しはお受けできませんのでご了承ください。 *定員に達し次第、受付を終了させて頂きます。 *止むを得ずイベントが中止、内容変更になる場合があります。
【プロフィール】 ヴィヴィアン佐藤 美術家、文筆家、非建築家、ドラァグクイーン、プロモーター。 ジャンルを横断していき独自の見解でアート、建築、映画、都市を分析。VANTANバンタンデザイン研究所で教鞭をもつ。青森県アートと地域の町興しアドバイザー。尾道観光大使。サンミュージック提携。
渡邉 晃 (わたなべ あきら) 1976年東京都生。筑波大学大学院博士課程芸術学研究科修了。太田記念美術館主幹学芸員。 「没後150年記念 歌川国貞」「生誕290年記念 勝川春章」などの展覧会を担当。著書に『三代豊国・広重双筆五十三次』(二玄社)、『江戸の悪』『江戸の女装と男装』(青幻舎)他。国立劇場歌舞伎公演プロ��ラム「資料展示室」構成・執筆(2011年度~)。
【イベント参加特典】 本イベントにご参加いただいたお客さまに、感謝の気持ちをこめまして、イベントの当日に限り、銀座 蔦屋書店の洋書を10%OFFとさせていただきます。ぜひ、ご活用くださいませ。 ※洋雑誌は対象外です。 ※当日、受付にてお渡しをするイベント参加券が、洋書10%offの引換券となります。お買い物の際、レジのスタッフにご提示ください。 ※本特典はイベントの当日に限らせていただきます。
チケットのご予約はこちら オンラインショップでの受付は2018/7/24(火)午前9時の受注分までとさせていただきます。 ※配送の無い商品(*1)のオンラインショップでの受付は、クレジットカードでのみ承っております。 代金引換でのご注文はキャンセルとなりますのでご注意ください。 *1 参加券のみ及び店頭にてお渡しの商品は配送がございません。
—————————————————————————————- 【関連展覧会情報】
「江戸の悪 PARTⅡ」 場所:太田記念美術館 会期:2018年6月2日(土)~7月29日(日) WEB
「惡-まつろわぬ者たち-」 場所:國學院大學博物館 会期:2018年6月1日(金)~8月5日(日) WEB
「悪を演る-歌舞伎の創造力-」 場所:国立劇場伝統芸能情報館 会期:2018年6月2日(土)~9月24日(月) WEB
「悪を演る―落語と講談―」 場所:国立劇場演芸資料展示室 会期:2018年4月1日(日)~7月22日(日) WEB
「悪人か、ヒーローか Villain or Hero」 場所:東洋文庫ミュージアム 会期:2018年6月6日(水)~9月5日(水) WEB
「HN【悪・魔的】コレクション~evil devil~」 場所:ヴァニラ画廊 会期:2018年5月30日(水)~7月1日(日) ※展示終了 WEB
—————————————————————————————-
—————————————————————————————- 悪展関連図録はオンラインショップでもご購入いただけます。 —————————————————————————————-
【これまでのヴィヴィアン佐藤さん×渡邉晃さんトークイベント】 《銀座美術夜話会―もっと展覧会を楽しむために 第10話》江戸の女装と男装展 開催記念 ヴィヴィアン佐藤×渡邉晃 NO BORDER FASHION! -古今、装いの楽しみ方
日程 / 2018年7月25日(水) 時間 / 19:30~21:00 場所 / BOOK EVENT SPACE 定員 / 50名 主催 / 銀座 蔦屋書店 問い合わせ��� / 03-3575-7755
イベント情報の詳細はこちら
from honyade.com https://ift.tt/2uNax7g
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【インタビュー】フランスの国立劇場で日本語一人芝居を上演
三島景太(SPAC俳優)・平野暁人(通訳・翻訳)インタビュー 『磐谷和泉の栄光と倦怠』のリモージュ公演を終えて
聞き手・構成:片山 幹生(WLスタッフ)
〔平野暁人氏(左)、三島景太氏(右)。2017年1月21日(土)@静岡芸術劇場カフェ・シンデレラ。写真撮影:片山幹生〕
【フランスの国立劇場での単独公演への道のり】
2016年12月、フランスの中央部にある都市、リモージュの国立演劇センター(ユニオン劇場)でSPAC俳優の三島景太の一人芝居『磐谷和泉の栄光と倦怠』が上演された。異国の地の劇場に単身で乗り込み、公演を行うなんて見上げた心意気ではないか!こうした活動はがぜん応援したくなるのが人情というものだ。しかし果敢な挑戦ではあるけれども、フランスの地方都市の劇場で、無名の日本人俳優が日本語(フランス語字幕)で一人芝居を演じたところでそれがどれほどの注目を集めるだろう、とも正直思っていた。ところがこの公演が大成功を収めたのだから痛快だ。フランスを代表するメディア情報誌『テレラマ』の12/5号に劇評が掲載されたのを皮切りに、私が確認した限り、6媒体がこの公演を劇評で取り上げ、いずれも激賞していたのだ。この作品は2014年春に『ジャン×Keitaの隊長退屈男』のタイトルで、SPAC(静岡県立舞台芸術センター)が主催するふじのくに⇄せかい演劇祭で初演されたものだ。
〔リモージュ公演写真。photo: © Tristan Jeanne-Valè〕
初演こそSPACの演劇祭での上演だったが、この作品はSPACの主導で制作されたわけでなく、昨年のリモージュでの公演もSPACは関わっていない。作者・演出家のジャン・ランベール=ヴィルド(リモージュ国立演劇センター芸術監督)が、静岡で目にした三島景太の劇的身体にほれ込み、彼が17歳のときに書いたフランス語の戯曲を三島が演じるために大幅に書き換えた。平野暁人はジャンに見込まれ、翻訳・通訳だけでなく、作品の制作まで全面的に引き受けることになった。この三人の情熱によってこの作品の公演は可能になったのである。2014年の静岡、16年のリモージュでの公演を終え、彼らはこの作品をさらに別の場所で上演することを計画でいる。インタビューでは公演実現までの道のりで、三島と平野がフランス人演劇人とどのような共同作業を行い、一つのチームとしてどのように信頼関係を育んできたのかを聞いた。
【01:偶然のチャンスを逃がさない】
片山:この作品は一人芝居ですが、俳優の三島景太さん、作・演出のジャン・ランベール=ヴィルドさん、そして翻訳・通訳の平野暁人さんの三人四脚で作品を作っていったのですか?
平野:三人ではなく、五人のチームで作った作品ですね。三島、ジャン、僕以外に、アシスタントのアリシア、それから音響のクリストフが、このクリエーションの核になっています。
片山:作品の初演は2014年春のふじのくに⇄せかい演劇祭ですね。それ以前にランベール=ヴィルドとSPACの間で関わりはあったのですか?
平野:ジャンがSPACで最初に上演したのは、2011年8月の『スガンさんのやぎ』という親子向けの作品でした。この作品はSPAC以外でも北九州芸術劇場と鳥取の鳥の劇場でも公演がありました。これがジャンとSPACの最初の関わりになります。
三島:ジャンがフランスで作った作品をそのまま持ってきたもので、これもイタリア人の女性俳優による一人芝居でした。
片山:ジャンが三島さんのことを知ったのはいつだったのですか?
三島:この『スガンさんのやぎ』の公演の一年前の2010年秋にジャンが静岡芸術劇場に下見に来たのです。その時に僕は今井朋彦さん演出の『わが町』に出演していました。この『わが町』のときは、今井さんの演出が好きにやらせてくれたので、それまで長年やってきたスズキ・メソッドをベースにして、人形ぶりのような動きで激しく動き回って演じてみたんです。ジャンはそのときの僕の脚の動きを見て「この役者で昔書いたあの一人芝居をリクリエーションしてみたい!」と思ったそうです。
片山:劇評でこの作品は17歳のときにジャンが書いた作品だとあったのですが、その後、十数年間、この作品が上演されることはなかったのですか?
平野:そうなんですよ。十数年上演されることがなかった作品で、ジャンの大叔父さんでかつて第一次世界大戦にも従軍したフランス兵をモデルに書かれた一人芝居だったのに、三島さんの脚の動きを見て、突然、やりたくなったっていうんです。本当にドラマチックだと思います。その後、三島さんのほうにはSPACを通じてすぐにアプローチがあったんですよね?
三島:��ん、そうだった。
平野:それからわずか数ヶ月後の2011年2月に『スガンさんのやぎ』の公演の準備のためジャンが再来日しました。僕はこの作品のナレーション録音の通訳として仕事に入ることになりました。その時にジャンが僕の仕事ぶりを買ってくれて、意気投合というか、半ば口説き落とされた感じですかね。「実は今後、これこれこういう一人芝居をミシマという俳優で上演しようと思っているんだけれども、ぜひ一緒にやってくれないか?」と。その流れで急きょ三島さんにもお会いすることになりまして。
三島:2011年2月は、僕はSPACでの仕事がなくて、東京でSPACとは別の芝居の公演をやっていたんです。ジャンのこのときの日本滞在は二、三日だけだったのですが、彼が空いている日時にちょうど僕も空いていて。本当に偶然のタイミングで東京で会うことができたのです。そのときにはじめてジャンと平野くんに僕は会いました。
片山:三島さんにはSPACを通じて連絡が入ったのですか?
三島:宮城聰さんから「ジャンが三島くんの動きに興味を持ったと言っていたよ」という話は聞いていたし、SPAC文芸部の横山義志さんからは、「ジャンが昔やった作品を三島くんとやりたいと言っていたよ」と聞きました。それで僕はこれは大きなチャンスだと思って、横山さんに「俺もこの話は絶対実現させたい。ジャンとの連絡をとってくれ」と頼んでいまし���。
片山:でもこの時点では一人芝居だということさえ知らなかったわけですよね?
三島:どんな作品だか全く知りませんでした(笑)。でも向こうが興味を持ってくれるのだったら、是非やりたいからと横山さんからジャンに伝えてもらったのです。それで2月に会ったときにはじめて台本を渡されました。
平野:2月に再来日したときに、ジャンはなにがなんでもこの作品を三島さんで上演するつもりで、台本の粗訳を既に用意していました。なにしろ思いついたら片っ端からどんどん進めていく人なので。三島さんを見初めた、自分はやると決めた、自分はフランスの劇場の芸術監督なので最低でもそこでの上演は可能なはずだ。できるところからとにかくやっていく。それでその粗訳のチェックをしてほしいと頼まれたのです。僕は当初、何度も断りました。人様が心血を注いで上げた仕事をパラパラと流し読みしてコメントするというのは本来、著しく敬意を欠いた、プロとしてあるまじき行為ですから。ところがジャンは先ほどもお話しした通り、一旦こうと決めたら意地でも退かない人。仕方なく僕のほうが折れ、その場で読んでみたところ、いろいろ問題があり、それを指摘しました。すると「ぜひ君が翻訳をやってくれ」と頼みこまれて。どうしてもというので、単なる翻訳のピンチヒッターとしてではなく、この先も一貫して責任ある立場でこのクリエーションに関わらせてもらえるなら、という条件を提示しました。するとジャンは僕の目の前でやおらiPhoneを取り出し、フランスへ電話をかけて制作主任(=ジャンの妻)を呼び出すと、「もしもし、我らがファミリーに新しい仲間を迎えることに決めたよ。今後、日本に関する事業展開はすべて彼とやっていくから」と。あっけにとられましたが、それ以上に感激し、高揚したのをよく覚えています。
【02:日仏の文化ギャップのすり合わせ作業】
片山:地方の劇場の公演であれだけ多くの劇評が出るということは、ジャンはフランスではすでに高い評価を得ている演出家なのでしょうか?
平野:ジャンは34歳くらいでカーンの公立劇場の芸術監督になっていて、これはとても若いです。しかも彼はフランスの国立高等演劇学校(コンセルヴァトワール)の出身ではないんですね。高卒でそのまま演劇の道に入ったかんじで、フランスではきわめて稀なケースといえます。僕は僕で博士課程ではアルジェリア戦争史を専攻していたまったくの門外漢なので、ジャンに「そもそも僕は演劇の研究なんかしたことない人間なんだよ、それでもいいの?」と言ったら、ジャンは「そんなの僕もしたことないさ」という返事で。ちなみにレユニオン島の出身です。生まれ育ちはレユニオンで、高校を出てから劇場などでバイトしながらお金をためて、確かパリで仲間と一緒に廃屋のようなところを借りて、自分たちで手直ししながらアンダーグラウンドで活動をはじめたと聞いた気がします。いわば雑草育ちの成り上がりですね。フランスの演劇人としては極めてユニークなキャリアの持ち主ですが、かなり早い段階でパリのシャイヨー国立劇場に招かれて作品を作っていますので、いわゆるエリートではないのだけれど、かなり若くから実績を積んできた人だといえます。
片山:翻訳にあたって、彼からリクエストはありましたか?
平野:翻訳と翻案の線引きですね。もともとはフランス軍人が主人公で第一次世界大戦の塹壕戦の話なのですが、それが日本人で第二次世界大戦になっている。骨格が大幅に変わるわけです。ジャンは、いかにも「西洋人がオリエンタリズムでやってみました」みたいにはしたくないと言っていました。かん違いしてわびさびにあこがれてとか、サムライやチャンバラとかに染まっているようには絶対したくないということで、丁寧に取材・調査していました。僕もそういう残念なフランス人には辟易していたので、ジャンの姿勢にとても好感をもちました。
片山:仏語版と日本語版の一番大きな違いは、第一次世界大戦が第二次世界大戦になったことみたいですが、他の状況設定については、あまり変更はなかったのでしょうか?
平野:あとは「神」の問題ですね。キリスト教的な発想を日本語版��はどうするのかという問題がありました。日本人兵士の話なので、キリスト教の一神教的世界観はあり得ない。ある程度は天皇であるとか、神道と仏教の混交など、日本的宗教観に寄せていかなければ説得力を持たない。この点についてはジャンと相当議論を重ねました
片山:このすり合わせで、フランス人であるジャンが持っている日本観とこちらの認識とのずれが問題になったりしませんでしたか?
平野:ジャンは勉強家で知識がありますし、他者や異文化に対する敬意もしっかり持っている人ですから、こちらが丁寧に説明すると「なるほど、それはきっとそうなんだろう」という受け取り方をしてくれました。「あなたがたはそう言うけれど、フランス人はこう思っているからこちらに合わせてほしい」というのはない人です。
片山:彼がレユニオン出身というのと、そういった相対化できる視点というのは関係あるかもしれませんね。
平野:そうですね。あの人は、いわゆる六角形のフランスについても距離のある人です。海外県、すなわち旧植民地であるレユニオンで育ったからこそ距離をとってフランスを見られる。それと同時に、レユニオン出身であるからこそ、フランスで活動するにあたっては、正統性を担保するというか、文学や哲学などのヨーロッパの教養の正統や根幹的部分は大事にしていますね。そこを押さえていないと軽んじられるというのがあるのかな。
片山:ジャンからは演出にあたってどのような要求がありましたか?
三島:最初は色んな映像を見せられました。外国の監督が撮った日本の軍人の映像とか、あとはフランスに行く前にこの作品を見ておいてくれというのがいくつかあって、それが市川崑監督の『ビルマの竪琴』と『野火』、それから小林正樹監督の『人間の条件』。
片山:演技のレファレンス資料としては、指定された映画の映像がベースだったのですね?
三島:それはもちろん、かなり参考にしました。この場面はあの映画のあの感じでという風に指示があって。「これで本当にいいのかな?」と思いながら、自分なりに考えてやったことを提示しました。お互いの誤解の中から、コミュニケーションが積み重なって、それが表現になっているように感じました。
【03:独立した個人のプロジェクトとして作品制作を始める】
片山:2010年の秋に三島さんを見て、それから2011年の2月にはもうこの作品を三島さんで再演することを決めていたんですね。でも初演は2014年春なので、それからかなり時間がたっていますね? 実際の稽古はSPACの公演が決まってからはじまったのですか?
三島:いえ、2012年の12月に、当時ジャンが芸術監督をやっていたカーンに呼ばれて、クリエーションしました。2週間で作ってしまう感じ。
平野:この時点ではSPACでは公演の話は全然出ていなくて。公演の可否については宮城さんも保留だったのですが、われわれはそうい��状況のなかで実現に向けてできることを進めていきました。
三島:きっかけはSPACだったのですが、SPACとの契約ではなく、僕個人の活動としてこの作品の制作を行うというかたちで、作品を作っていったのです。平野さんもSPACとの契約ではなく、僕とジャンとの独立した仕事としてこの作品に関わることになりました。
平野:SPACの制作ではなかったので、稽古場をお借りするのもそう簡単ではなく、ジャンが当時、芸術監督をやっていたカーンの劇場が制作を丸抱えする形でのスタートでした。それでカーンにわれわれを呼んで、航空券、滞在費、ギャラもカーンの劇場が持つ。ジャンは男気のある人なので、自分がやると決めたら責任もって引き受ける、親分肌の人なんです。そこで2週間稽古を行いました。
片山:2012年の12月にカーンで2週間のクリエーションをやって、そこで試演会をやったのですか?
三島: 12月に劇場関係者の人に通し稽古は見せました。このときは美術はなしです。セリフも完全に覚えるのではなくて、台本を譜面台みたいなものに置いてそれを見ながら動くという感じでした。その一年後の2013年12月に美術も作り、字幕も出すかたちで、カーンでプレ公演を行いました。カーンの劇場からちょっと離れた場所にある稽古場のような場所です。その時点には2014年春のSPACふじのくに⇆せかい演劇祭で上演されることは決定していました。日本初演が決まっているなかでのフランス稽古というつもりで僕は行ったのですが、実際には稽古は一週間だけで、残りの一週間はほとんど色んな人に見せるプレ公演というという感じでした。
【04:ふじのくに⇄世界演劇祭での初演】
片山:ふじのくに世界演劇祭での公演はどういう風に決まったのですか?
三島:当初は春フェスでの上演ではなくて、SPAC俳優の自主企画公演、《ピアノと朗読》みたいな感じの延長線でできればいいなと僕は考えていました。そういう形でなら上演できるように思ったのです。ところがジャンが直接宮城さんに上演を売り込んだんです。ものすごく熱心に。メールはもちろん、仕事やバカンスで日本に来たとき、少しでも時間があると静岡にすっ飛んできて、「三島と創る芝居をSPACで上演させてくれ」と宮城さんに直談判したんです。しまいには「やってくれないと噛みつく」とか宮城さんに言ったそうです(笑)。宮城さんは最初はニコニコしながらいなしていたのですが、ジャンのその熱意は我々の作品の《SPACでの上演》という方向に宮城さんを動かしたのです。まさか芸術祭のプログラムとして上演されるとは僕は思っていなくて、芸術祭での上演が決まったときはものすごいプレッシャーを感じました。
片山:私が演劇祭での初演時にこの作品を見に行かなかったのはあのタイトルが実は引っかかったからなんですよ。フランス人の勘違いジャポニスムが盛り込まれた作品かなと思ってしまったのです。
平野:そうですか。あのタイトルは宮城さんの提案なのですが、我々としては演劇祭というこれ以上ない場を用意していただけた以上、あとはお任せしようと。ジャンは「宮城さんがやると言ってくれたんだから、細かいことはぜんぶ任せる」みたいな任侠の人のようなところがある人なんです。日本語のタイトルは『旗本退屈男』のもじりになっていて、実際にそれで興味を持って観に来てくださった観客の方も多かったと思います。
片山:静岡での初演の反応、感触はどうでした?
三島:正直、初日の舞台が終わるまでは、自分でもこの作品が日本人の観客にどう受け止められるか本当に不安でした。「こういうのもありだけれど……」という保留つきの反応が多いのではとか。
片山:静岡の前にやったカーンの試演会での反応はどうだったのですか?
三島:カーンでは評判がすごくよかったんです。ただ見に来ていたのはほぼ関係者だったので、一般の観客のフラットな評価というふうには受け取れませんでした。
片山:それでは日本での初演のときはかなり緊張されましたか?
三島:ものすごく緊張しましたね。終わって照明が消えたあと、ぱらぱらと拍手があるくらいかなと思っていたのですが、初日の舞台が終わってカーテンコールのときの拍手が、予想していたよりも熱狂的で、手ごたえを感じました。本番前の通し稽古を見に来てくれたSPACの人たちもいたのですが、一人芝居だったのでとりわけ感想を言うと僕が影響を受けると思って気をつかっていたみたいで。「がんばって」ぐらいで、感想については宮城さんも含め誰も一切何も言わなかったのです。
片山:平野さんも初日、当然劇場にいらしたと思うのですが、「やった!」という手ごたえはありましたか?
平野:実はあまりよく覚えてないんですよ(笑)。僕は上演中も字幕オペをやっていたんですが、これがかなり大変で。終演後はすぐにアフタートークの通訳をやらなくてはならなかったし。感慨とかお客さんの反応をうかがう余裕がなかったんですね。でも手前みそではありますが、宮城さんが翻訳をとてもほめてくださって。「これは平野君でなければできない仕事だったんでないか」と後からわざわざメールをいただきました。一方で非常に詩的なテクストだったので、耳で聞くだけでは理解しにくい箇所があるのではないかという懸念が稽古の段階から取沙汰されており、それについての具体的かつ有意義なご指摘もいただきました。
〔リモージュ公演写真。photo: © Tristan Jeanne-Valè〕
【06:制作チームの信頼関係】
片山:2014年春のSPACでの公演以降は、昨年末、2016年12月のリモージュでの公演まで、この作品の公演はなかったのですね? 「いったいどうなったのだろう?」と不安になったりしませんでしたか?
三島:ジャンは「いずれフランスで必ずやるから」と言っていたので、いつか上演の機会はあるだろうと思っていました。焦りは全くなかったですね。僕はこの作品は自分のライフワークとしてやることになる作品と考えています。長いスパンで上演を続けて、そのときどきの経験でゆっくり育てていく作品にしたいと思っていますので。
平野:その間にジャンはカーンの劇場からリモージュの劇場に移籍しました。われわれがなぜこんなに安心してこの作品に取り組んでいけるかと言うと、ジャンは本当に言ったことを全部やる男なんですよ。「リモージュには劇場だけでなく、俳優養成の学校がある。自分はそろそろ次代の俳優を育成することも考えていかなければならないと思っている。だから絶対リモージュに行くんだ」、と彼は前から言っていました。で、そのとおり移ったんですね。個々のプロジェクトから自分の進路まで、有言実行の人なんですよ。2014年にSPACでやって、当初はその翌年にフランスでやると言っていたんですけど、それがだめになっても、ジャンがやると言っているんだから、どうせいずれフランスでやるんだ、という気持ちでわれわれは待っていました。
片山:リモージュでの公演決定の連絡があったのはいつ頃だったのですか?
三島:2015年の秋ですね。ちょうど僕はSPACで『王国、空を飛ぶ』の稽古をやっていたときでした。『王国』のときは筋肉トレーニングをハードにやっていた時期で体がサイズアップしていたので、それを来年に向けて体を絞っていかなければならないなと思ったのを覚えています。
片山:フランスでの公演の場合、契約はどのように行ったのですか?
平野:この作品に関してはSPACを通しての契約ではなく、僕は翻訳、通訳、字幕オペのほか、契約手続きを含め、制作業務全般を行いました。スケジュール調整から航空券の購入、出演料、映像や写真の整理、稽古日を含めた日当の問い合わせなど全てです。またこの作品では、私は翻案で大きく関与したので、僕とジャンの共作になっています。権利を完全に二等分にしようとジャンの方から率先して提案してくれたのです。著作権使用料も僕はいただいています。こういう部分でジャンは本当に信頼できる人間なんですよね。ファミリーになったら駆け引きとかいっさいしない。ちょっとマフィアっぽいというか。もちろん外とはいろいろ交渉するんですよ。でも身内になったら何でもざっくばらんに言えるし、絶対に嘘はつかない。
三島:出演料、交通費、滞在費などすべてリモージュの劇場の負担でした。
片山:向こうでのクリエーション期間中はどこに滞在していたのですか?
三島:劇場から歩いて15分くらいのところにあるアパルトマンに滞在しました。
平野:公演の稽古の前にまず2週間、演劇学校での授業というのがあって。この演劇学校での授業と公演のセットで招かれたんです。前半2週間は授業、後半2週間は公演というかたちです。
片山:授業プログラムを考えて渡仏したわけですね。
三島:SPACでやっている俳優訓練法を柱にごく大ざっぱにプログラムをイメージしていました。2週間のワークショップの講師をやるのは僕にとっては初めての経験でした。現場で生徒たちの状態を見てから具体的にどうしようか決めました。
片山:最後に作品を上演したりしたのですか?
三島:俳優訓練法だけだと間が持たないかなと思って、後半の一週間は作品を作ろうかなと思って戯曲も用意していたのですが。実際には作品を作る時間はなかったです。一日6時間で2週間、月から金で10日間なのでけっこう時間があると思っていたのですが。
片山:フランスの俳優志望の生徒たちは、頭でっかちでフィジカル面で弱い人が多いと聞いたことがあるのですが、どうでしたか?
三島:いやフィジカルができていないなんてことはなかったです。リモージュの生徒たちはすごく優秀でした。ただ同じようなことを僕も聞いていたので、行く前は日本の高校演劇みたいな感じなのかなと思っていたのですが、とんでもなかったです。
平野:補��しますと、校長であるジャン自身がものすごく俳優の身体性に重きを置く人なんです。彼が三島さんにほれ込んだ最大の理由は、それこそ三島さんがフランス人俳優が持っていない身体性を持っている点で、逆に言うと三島さんがこれだけほれ込まれたのはジャンからするとフランス人俳優の身体に不満があったからですね。そういうこともあって、彼がリモージュに移って最初に選んだ生徒たちの選考においては、身体性を重視したそうです。500人からの応募があったと聞いています。
片山:現地ではコミュニケーションのギャップみたいなことはなかったですか?
三島:ないですね。コミュニケーションに対しては皆無。最初は言っていることがうまく伝われないとかあるんではないかと思ったのですが、そんなことはまったくなくて。ちょっと説明したら本当に本質的なところにたどり着く。あ、これできるんだったら、これもやろうという感じで、どんどん進んでいきました。思っている以上に何もかもがスムーズでしたね。
平野:学校だけでなく、2012年のジャンとの付き合い以来、われわれのあいだでコミュニケーションの行き違いみたいなことはまったくなかったです。ジャンの演出の面でも、スタッフとのコミュニケーション、劇場スタッフの受け入れ態勢にも。アシスタントもいつも身を粉にして働いていつも機嫌がいいし。ジャンはそういう環境づくりに長けているんですよね。気持ちよく仕事ができない人とは仕事はしない。
〔リモージュ公演写真。photo: © Tristan Jeanne-Valè〕
【07:リモージュ公演の様子】
片山:今回は公演のための稽古は現地でどれくらい行ったのですか?
三島:リモージュでの稽古期間は4日間だけでした。そのうちジャンがいたのが2日だけ(笑)。それも一日中やるわけではなくて、「疲れているだろうから2時入りでいいよ」みたいな。 稽古の初日にいきなり頭から最後までやりました。この初日稽古には演劇学校の生徒たちが見に来てくれました。
片山:日本でも相当な段階まで準備していたのですか?
三島:2014年にやったことを踏まえて、セリフだけはしゃべり込むだけしゃべり込んでいこうと思っていて、リモージュ行きの三か月前から準備していました。ノルマを決めて一日に何回、最初から最後までセリフを間違えずにしゃべるとか。本能に叩き込むという感じでなければだめだと思って。それでセリフは完璧に入れて向こうに行ったのです。しかしセリフ以外は全部忘れていました。でも音がかかった瞬間に、体の記憶というのは根深くて、その感じにすっと戻れた。
片山:リモージュ版では2014年のSPAC版からの変更点はありましたか?
三島:SPAC版では4面囲みだったのが、3面囲みになりました。これが大きい変更点ですね。日本の公演では真ん中に櫓にあって、客席が4面でした。背中まで見られていたのです。リモージュ公演では字幕をつけなくてはならないので、3面になりました。櫓は盆踊りの櫓がモデルなので、食卓テーブル二つ分くらいの広さです。
片山:日本の歌曲も作品で使ったようですが、これはジャンからそういうリクエストがあったのですか?
平野:一緒に調べました。例え��学校の愛唱歌で誰でも知っている曲とか、少し神秘的なものとか。一緒に探してYoutubeで聞かせてという感じで。
片山:今回、私が確認しただけでも劇評が6本ありました。これは異例なことだと思うのです。地方の劇場での公演で6本、しかも好意的でかなり熱い内容の劇評が多かった。向こうの観客の反応も熱狂的でしたか?
平野:お客様の反応は本当によかったですね。
片山:リモージュ公演のほうがむしろ日本での初演より緊張はなかったのですか?
三島:リモージュでの公演は、日本での初日ほどセンシティブというかナイーブ、不安になることはあまりなかった。体の状態が多少万全とは言えないところがあったので、最後まで同じ状態でいけるかなというのはありましたが、これはまあ普通によくあることなので。
片山:劇場のキャパはどれくらいだったのですか?
三島:150人くらいです。
平野:舞台上舞台の特設だったので、それくらいになりました。本来の座席数は400くらいです。
片山:今回の成功のカギは? やる前から「いけるぞ」という感じはあったのですか?
三島:僕はフランスに関しては大丈夫だと思っていました。カーンでやったときの感触からいって。
平野:カギはやはり三島さんの身体ですね。
片山:フランスの観客からすると非常に特異で印象的な身体性だったのですね?
平野:本当にそれはそうだと思います。90分という長時間、一人で舞台にたち、膨大な詩的なテクストを語る。字幕が観客にとってストレスになるかと思ったら、「いや、大丈夫。途中からそんなに読もうと思わなくなった(笑)。あの人を見ていればいいから、そんなに字幕が読めないストレスはない」といったことを言われました。書き手としては複雑かもしれないし、せっかく長台詞覚えた三島さんも気の毒だし、ついでに字幕をせっせと出している僕もちょっとだけ悲しいですけれど(笑)、それだけ三島さんの身体の存在感があったということだと思います。
三島:僕としては、ことばによって自分の身体が持っている潜在的な感覚を解放するという感じです。自分が何かをコントロールしているというよりは、言葉を発した時に体のなかに起こっていることにあらがわないでやっているだけなんです。それがいいのかもしれない。ジャンの演出自体、俳優の作為みたいなことを一切やらない。自然に出てきたもの自体をどう見せるかという感じなので。
片山:再演の予定はありますか?
平野:いろいろと話は出ていて固まりつつあるのですが、今の段階ではまだちょっと言えない状況ですね。フランスでも再演を目指していますが、まずは日本での再演を狙っています。
【プロフィール】 三島景太 1967年生。福岡県福岡市出身。水戸芸術館ACM劇場専属俳優を経て、1997年のSPAC創立時より所属。宮城聰、鈴木忠志、イ・ユンテク、竹内登志子、オマール・ポラス、原田一樹、今井朋彦、小野寺修二等、様々な演出家の作品に���演。国内外40都市以上での公演経験を誇る名優。主な主演作品『ロビンソンとクルーソー』『ドン・ファン』『ドン・キホーテ』など。
平野暁人 東京都出身。翻訳家、通訳(フランス語、イタリア語)。戯曲から精神分析、ノンフィクションまで幅広く手がける。戯曲翻訳としてはパスカル・ランベール『愛のおわり』、モーリス・メーテルリンク『盲点たち』他多数。訳書にカトリーヌ・オディベール『「ひとりではいられない」症候群』(講談社)、クリストフ・フィアット『フクシマ・ゴジラ・ヒロシマ』(明石書店)他。演劇における日仏共同事業の仲介者として、青年団やSPACをはじめ、ジュヌビリエ国立演劇センター、リムーザン国立演劇センターなど国内外に複数の拠点を置き活動を続ける。
ジャン・ランベール=ヴィルド Jean Lambert-wild 劇作家・演出家。1972年、アフリカ・アジア・ヨーロッパの文化が混在するレユニオン島(フランス海外県、マダガスカル島の東方)生まれ。その特異な風土で培われた詩的想像力と、舞台技術に関する豊富な知識に支えられた魔術的演出術が高く評価され、2007年にノルマンディー国立演劇センター(コメディ・ド・カーン)、2015年よりリムーザン国立演劇センター(ユニオン劇場)の芸術監督、ユニオン・アカデミー、リムーザン国立演劇学校の校長。公式ウェブページ(英語):http://www.lambert-wild.com/en
【参考リンク】 ・ 『磐谷和泉の栄光と倦怠(ジャン×Keitaの隊長退屈男)』舞台映像抜粋Splendeur et lassitude du capitaine Iwatani Isumi:https://youtu.be/x4dNBJw87nQ ・ ユニオン劇場アカデミーでの三島景太ワークショップ Stage « Méthode Susuki » dirigé par Keita Mishima : http://academietheatrelimoges.fr/stage-methode-susuki/ ・ ユニオン劇場『磐谷和泉の栄光と倦怠』公演ページ:http://www.theatre-union.fr/fr/spectacle/splendeur-et-lassitude-du-capitaine-iwatani-izumi
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