Tumgik
#戸部淑
ari0921 · 2 years
Text
我が国の未来を見通す(50)
「気候変動・エネルギー問題」(15)
人為的CO2削減の可能性
宗像久男(元陸将)
───────────────────────
□はじめに
記念すべき第50話まで来ました。「わが国の未来
を見通す」を始めてからほぼ1年が経とうとしてい
ます。50回を記念して、私自身の最近の“日常”
をカミングアウトしようと思います。現在、71歳
と半年、3つの会社と非常勤監査役や顧問などの形
で雇用契約してそれぞれの職務をこなすかたわら、
某大学の非常勤講師として週に1度は講義を行って
います(科目は、なんと「経営戦略論」と「経営組
織論」です)。
その他、自衛隊を含み、依頼があればどこへでも喜
んではせ参じ、歴史講話などを実施しています。ほ
かにもボランティア活動も数件、それ以外にゴルフ、
コンサートや演劇観賞、小旅行、それに各種セミ
ナー聴講など、たぶん同世代の人たちよりは数多く
こなしていると思います。
ボランティア活動で最も力を入れているのは、元自
衛官たちの再就職あるいは再々就職の応援です。5
0歳後半で若年定年を迎える自衛官は、退職直後は
国家が再就職の面倒をみることが法律で定められて
おり、その体制下で自衛官たちは再就職します。し
かし、「人生100年時代」、元自衛官たちは60
歳の前半、今度は自力で職探しに奔走することを余
儀なくされます。この時には、自衛官の“ブランド”
はすでに消え去り、相当厳しい“現実”が待ってい
ます。
そのような元自衛官たちの苦労を目の当たりにして
いることから、時々、仙台や札幌まで出かけて行き、
現役自衛官たちの前で、誰もが迎える未来の“現
実”、そしてそれに向かって現役時代からの心構え
や準備すべき事項などについて教育しています。「
国防に半生を捧げた全自衛官たちが、一生、幸福で
充実した人生を送ってほしい」との切なる願いを込
めて、私自身も東奔西走しております。またその一
環で、自衛隊部内紙紙上に「自衛官にとっての『人
生100年時代』」をシリーズ化し月に1回、投稿
しています(現在16回目です)。
さらに、時々、本シリーズでも紹介していますよう
に、日々変わる“時事”についても関心を持ち、で
きる範囲で情報収集します。このような合間をぬっ
て、本シリーズの原稿を毎週5000字前後したた
めています。もちろん、そのために必要な書籍や資
料をできる範囲であさります。これらから、最近は
どこに出かけるにも1泊以上の場合は、パソコン持
参が常態となりました。
若い頃から「人の3倍生きる」を公言し、泳ぎを止
めることを知らない“マグロ人生”を突っ走ってき
ました。つい先日は、深夜までサッカー観戦で寝不
足のまま、翌日早朝から出かけて同期のゴルフコン
ペに参加(結果はベスグロでした)、夜は、家内と
コンサートを観賞するなどの無理もしていますが、
年齢も年齢、記憶力も弱くなるなど少々ガタが来て
います。いつまで続けられるかわかりませんが、も
う少し頑張りますので、どうぞお付き合いください。
冒頭から私的な話題ですみません。
▼地球は寒冷化に向かう!
さて、本題に戻りましょう。前回紹介しましたよう
に、「地球は寒冷化に向かう!」との勇気ある主張
も依然として存在します。全人類のほとんどが「地
球温暖化」狂騒曲を鳴り響かせている現代にあって、
個人的にはとても興味が沸きます。CO2削減の
可能性について論じる前に、少しその骨子を紹介し
ておきましょう。
「寒冷化に向かう」とする根拠の第1は、「100
万年にわたる地球の気温推移の歴史をみると、人間
の出すCO2などとは全く無関係に一定のリズムを
刻んでいる」ということです。現在は、「確かに温
暖期にあるが、この周期からみるとそれも束の間で、
いつ気温が下降してもおかしくない。そうなれば
地球も約1万年ぶりに氷河期に突入する」のだそう
です。
さらに、ここ1万年の気温推移をみれば(前に紹介
しましたように、グリーンランドの氷床から北極圏
の気温を推定しています)、「確かにここ約100
年の間は、小さなレベルで気温が上がっている。だ
が、さかのぼって気温推移をみると、工場も発電所
もなかった時代に、今以上に温かい時期が何度も来
ている。人類の出すCO2は気候変動とは関係ない」
というのです。
つまり、「大きな周期をみても、小さな周期をみて
も、気温が人類の出すCO2で変化しているように
は見えない。地球の向かう先は温暖化ではなく、寒
冷化の可能性を疑うべき」と主張します。
その主張の根拠として、温暖化説を唱える気象学者
たちが「大気」だけをみているのは「ものの見方が
狭すぎる」と言い切って、地球の気温は「宇宙」、
それに最も近い「太陽」に目を向けなればならない
とも主張しています。
関連して言えば、温室効果ガスが地球温暖化の原因
としてコンピューターでシミュレーション手法を開
拓し、ノーベル賞を受賞された真鍋淑郎(しゅくろ
う)氏のグループは、受賞自体は嬉しいことではあ
るのですが、「仮定」そのものの誤りや「政治的意
図が働いた」などとの指摘もあるようです(細部は
省略します)。
東京大学の地球生命研究所丸山茂徳教授は「地球の
温度は根本的に決めるのは日射量だが、それを圧倒
的に支配するのは雲である。雲は白く、太陽光を反
射する。雲量が1%増えると地球の平均気温は1℃
下がることがわかっている」として、「雲の量を増
やすのは、宇宙から降り注いている『宇宙線』であ
る。高エネルギーの宇宙線が雲の材料となる埃に衝
突して分散してその数を増やすので雲の量が増える」
と別な角度から地球温暖化に疑問を投げかけます。
具体的には、「その『宇宙線』の量を左右するのは
太陽活動であり、太陽活動は強くなったり(黒点の
数が増える)、弱くなったり(黒点の数が減る)し
ているが、それ以外にも『太陽風』という目に見え
ない高温のガスを吹き出しており、このガスが『宇
宙線』を弾き飛ばす。太陽活動が弱くなった時、『
太陽風』のバリアも弱くなり、地球に降り注ぐ『宇
宙線』が増える、その結果、雲が増え、気温が下が
り、逆に太陽活動が強くなれば、『宇宙線』も吹き
飛ばされ、雲も減って気温が上がる。近年、太陽活
動が低調になりつつあるということで、地球は温暖
化どころか、寒冷化する予兆がある」と丸山氏は主
張します。
「氷期と間氷期をもたらす数万~10万年周期の気
候サイクルは、地球の『天体運動』にその原因があ
る」と神戸大学兵頭正幸名誉教授は解説しています。
つまり、「地球の自転軸の角度や公転軌道の形な
どは、月や惑星の引力により周期的に変わり、それ
によって、北半球高緯度が受ける日射量が周期的に
変化し、氷期と間氷期を繰り返す」として(「ミラ
ンコビッチ周期」と呼称されます)、「この周期で
は、地球は約6000年間以降寒冷化に向かってお
り、約3万年後に氷河期に迎える」と主張していま
す。
このように、地球の気候変動は、太陽に関わる作用
を主因としつつ、海流、水蒸気量、マントルや火山
活動、地球磁場、銀河における太陽系の位置など、
無数の要因によって動く「宇宙レベルの摂理」なの
であり、こうした視点でみると、「人為的CO2が
地球気温を動かす」などとそもそもの“次元が違う”
ということでしょう。
これらの理論について、私など素人が理解できる範
囲を超えているものがありますが、もっと長いレン
ジで「地球の動き」をウオッチする必要があるとい
うことなのでしょう。以前紹介しましたように、つ
い最近の1970年代には「寒冷化」狂騒だったも
のが、手のひらを返したように「温暖化」狂騒に変
わりました。地球や宇宙に対する人類の“感知能力”
が依然として未熟である証左ともいえるでしょう。
日本や外国の研究者の中には、「地球温暖化」に“
異説”を唱えている人たちが沢山おられるのは明ら
かです。これらから、最近の「異常気象」(最近は、
「極端気象」というそうですが)をすべて地球温
暖化のせいにして、「温暖化の原因は人為的CO2
の排出である」と断定するのは、かなり無理がある
と考えるのが妥当なのではないでしょうか。あるい
は、そのように結論づけるのは“時期尚早”という
のが正しいのかも知れません。
▼人為的CO2の削減は可能か?
人為的CO2排出に戻りましょう。これについても
すでに触れましたが、CO2排出の国や地域分布の
歴史を振り返ってみますと(インターネットではト
ップ10の国々の1960年~2019年までの排
出量の移り変わりが動画のように一目することがで
きるサイトがあります)、確かに2004年までは
アメリカが常にそのトップを走り、ロシアや中国な
どが追随してきましたが、2005年以降は、中国
がトップに躍り出て、それ以降は2番手以降の追随
を許さず、ダントツ1位でCO2排出をほしいまま
にしています。
2019年の内訳をみれば、中国107億トン、ア
メリカ48億トン、インド25億トン、ロシア17
億トン、日本11億トンと続きます。その割合は、
中国29.4%、アメリカ14.1%、EU28カ
国8.9%、インド6.9%、ロシア4.9%、日
本3.1%となります。なお、世界全体のCO2総
排出量は336億トンで、そのうちG20の排出量
は270億トン(約80%)となっています。
 ちなみに、これを「一人当たりのCO2排出量」
でみるとまた面白い結果が得られます。第1位は、
目下話題のサッカーワールドカップ開催国のカター
ルです。秋田県ほどの広さに286万人ほどの人口
を有するカタールは、石油産出の富をもって、CO
2排出など一顧だにしないまま、まさに“砂漠のオ
アシス”ともいうべき近代国家を築いたのでした。
 カタールに続き、アラブ首長国連邦、カナダ、オ
ーストラリア、サウジアラビア、アメリカ、ロシア、
韓国と続き、日本はようやく第9位にランクインさ
れます。なお中国は第12位にランクされています。
 このような中国は、2015年採択の「パリ協定」
では、「2030年にピークアウトする」、つまり
2030年以降はCO2削減の努力はするが、それ
まではがんがんCO2を排出することを認めさせま
した。前に紹介しましたように、「付属国I国(つ
まり先進国)でない」との理由に加え、「一人当た
りの排出量は低い」などと主張したのでしょうが、
2005年以降ダントツ1位のCO2排出国である
という“事実”があるわけですから、トランプ前大
統領が怒るわけです。
その中国は、2030年以降は「脱炭素」を進める
かも知れませんが、すでにアジア・アフリカ諸国に
石炭火力発電所の輸出攻勢をかけています。そうす
ると、「非付属国I国」のアジア・アフリカ諸国は、
先般のCOP27で「地球温暖化の要因は先進国の
せい」として先進国に「損害」と「損失」の賠償を
要求したことに留まらず、近い将来、「パリ協定」
の中国のように、「自国のCO2排出については、
○○年以降に進める、それまではがんがんCO2
を排出する」と主張するでしょう。
つまり、2030年以降、中国のCO2排出は多少
減るとしても、エネルギー起源のCO2は、世界全
体では減ることがないと考えざるを得ないのです。
やがて90億人を超えると見積もられている世界の
人口です。先進国の人口が減り続ける中で、「非付
属国I国」であるアジア・アフリカ諸国で増え続け、
エネルギー源が大幅に必要になるのは明白だから
です。
▼「人間の活動」を抑制できるか
そもそも人為的CO2の排出、つまり「人間の活動」
によるCO2排出は、エネルギー起源のCO2排
出だけではないことはすでに詳しく紹介しました。
「ものをつくる」(31%)、「電気を使う」(2
7%)、「ものを育てる」(19%)、「移動する」
(16%)、「冷やしたり暖めたりする」(7%)
と人間の活動のほぼ全てに及びます。
 先進国がこれまでたどった道、つまり、ビル・ゲ
イツも指摘していたように、人口増にともなう都市
の建設ラッシュをはじめ、電気を使うことが��たり
前の近代的な日々の生活、生きるために必要な食料
や栄養源を安定的に確保するための近代的な農業や
牧畜の拡充、車や飛行機による移動や貨物などの輸
送手段の確保、冷暖房が完備した快適な生活の追及
などについて、90億人の“民”がそれらに気づき、
地球上の至る所で求め、実際に普及したら、CO
2排出量はまさに計り知れないほど膨らむことが明
白で、現在、先進国を中心に世界中を巻き込んでい
る地球温暖化対策にどれほどの意味と効果があるの
でしょうか。
 逆に、増え続ける人口を維持して、いわゆるSD
GSを実現するためには、「ある程度のCO2が必
要である」との見方もできるのですから、矛盾が矛
盾を呼んでいると言わざるを得ません。
 ビル・ゲイツのようなチャレンジには敬意を表し
ますが、実現はそう簡単ではなく“絵に描いた餅”
になる可能性が大でしょう。私は、いつか、だれか
が地球温暖化の真実や原因をろくに調べないまま、
何がしかの意図をもって主張し始めた「地球温暖化
対策」が、当初の狙い(意図)とは違った方向に歩
み始め、自ら“墓穴を掘っている”ような気がして
ならないのです。読者の皆様はどう思われるでしょ
うか。
話は変わりますが、新橋駅のホームの立つと銀座側
に「LONGI」という中国のソーラーパネルメー
カーの看板が目に入ります。看板の上部には「太陽
光発電パネル 出荷量世界第1位」とも表示されて
います。「非付属国I国」の立場を最大限に活用し
て2030年まで石炭火力発電所でCO2をがんが
ん出す一方で、すでに三峡ダムの建設などで膨大な
量のコンクリートを使いまくり(言葉を代えれば、
CO2を排出しまくり)、その上、太陽光発電パネ
ル生産においては、すでに世界の8割以上のシェア
を確保し、将来95%になるとの見積もりもありま
す。
原子力発電所についても、現在運転中の基数はアメ
リカ、フランスに次いで第3位の47基ですが、列
国が軒並み新たな原発建設を控えている中で、中国
だけは計画通り建設を続け、2018年8月、「1
0年後に世界の原子力標準化で中国が主導的な役割
を果たす」との目標を表明したことが話題になりま
した。これらから、気候変動問題を最大限に活用し
ようとしている中国の“したたかな国家戦略”を垣
間見ることができるのです。
蛇足ですが、森羅万象、あらゆるものを「国益」と
いう観点からしたたかな戦略を張り巡らす国に対し
て、他国の評判のみを気にして「国益」など頭の片
隅にも存在しないかのように見える国が太刀打ちで
きないのは明白です。このようなことも念頭に置き
ながら、次回、経費データがそろっている我が国の
「温暖化対策費」を取り上げ、その費用対効果に迫
ってみましょう。唖然とします。
(つづく)
3 notes · View notes
hegotthesun · 1 month
Text
『龍馬が通る!』
~明治維新と欧米化~
Tumblr media Tumblr media
■2012年6月9日 - 高知にて撮影
■坂本龍馬 - Wikipedia 1836年に坂本龍馬は、土佐藩下級武士の次男(末っ子)として生まれた。子供の頃の龍馬は泣き虫で、周りの友達によくからかわれていたそうな。
12歳の頃、龍馬は塾に通い始めたが、上士の同級生と喧嘩をして喧嘩両成敗という名目で父に塾をやめさせられた。その年に母が亡くなり龍馬は継母の伊与(いよ)に教育を受けた。
家族の中で龍馬と最も仲の良かった三歳年上の姉・乙女(とめ)と、よく二人で「ヨーロッパ」というあだ名を持つ“川島猪三郎”(いさぶろう)の家に遊びに行き、欧州の話を聞かされていたのだとか。
龍馬が姉の勧めで剣術を習い始めると、その天賦を早くも発揮し始めた。
1853(嘉永6)年に、龍馬は18歳より剣術を学ぶ為に江戸に留学。その時、偶然にもアメリカ合衆国より艦隊を率いたマシュー・ペリー提督の黒船が来航し、藩の命令で品川の警備を命じられた龍馬もそれを間近に見る機会があったのだ。
黒船のあまりの大きさに龍馬は慄きながら、同時に「日本の剣術では海外とは渡り合えない」と即座に覚り、龍馬は西洋式の技術を学ぶことを決意した。
江戸時代の町人は「江戸が最も文明の発達した国」と考えていた。しかし、この黒船来航により、西洋の文明が予想以上に進んでいると流石に気付くことになった。
ペリー提督が提出した開国の要求書は「漢文」「オランダ語」「英語」の三種類で書かれたもので、貿易で馴染みのある漢文とオランダ語に関しては解読できたが、当時の日本人にとって英語だけは見慣れない文字だったようだ。
ちなみに「オルゴール」はオランダ語(英語ではミュージック・ボックス)だが、これは鎖国時代もオランダから来る商船は受け入れていたため、江戸にオルゴールが持ち込まれた際そのままオランダ語で定着したもの。
また、鎖国の背景にはオランダが日本貿易を独占するため、スペインやポルトガル等の《カトリック教》の国が日本植民地化の意図を持っており、危険であることを徳川幕府に助言していた事情もあるようだ。
Tumblr media
▲「キリスト教を信仰しない異教徒は野蛮」として先住民を大量虐殺するスペイン軍
戦国時代の時点で日本はヨーロッパ全土の火縄銃を上回る数の銃を保持する残虐非道な戦闘部族という評判もあり、当時は「太陽の沈まない国」と呼ばれ、世界全土を次々に植民地支配して君臨したスペインさえも警戒して日本侵攻に至らなかったのだろう。
そうして、今の幕府では日本を護れないと考えた龍馬は「打倒、江戸幕府」を掲げ奔走することになる。
Tumblr media
安政元年(1854年)6月23日、龍馬は15か月の江戸修行を終えて土佐へ帰国。在郷中、日根野道場の師範代を務めながらも、絵師“河田小龍”宅を訪れて国際情勢について学び、海運の重要性について説かれて大いに感銘し、後の同志となる“近藤長次郎”や“長岡謙吉”らを紹介されている。
27歳で脱藩した後に幕臣・勝海舟を訪ね、海軍を作ってアジア諸国と連帯するという話を聞いた龍馬は、そのスケールの大きさに感激し、海舟の弟子となって神戸海軍操練所の創設の為に行動を起こした。
その後、1864年以降に何度か長崎を訪れ、慶応元年(1865年)に幕府機関である神戸海軍操練所の解散に伴い、薩摩藩や商人(長崎商人小曽根家など)の援助を得て、長崎の亀山に日本初の会社となる「亀山社中」が結成された。
ちなみに"西郷隆盛"の勧めにより日本で初めて新婚旅行をしたのは坂本龍馬だが、その時の出来事をイラストも交えて手紙に書いて姉の乙女に送り続けたらしく、連絡がマメな龍馬の手紙は実に130通以上も残っているという。いやはや、驚愕である……。
ところで1841年にアメリカ合衆国を目指して航海中だった"ジョン万次郎"は、生まれて初めて世界地図を見た時に、世界における日本の小ささに驚いたという。
このように大きく広い世界の中の「小さな自分」に気付くことは、客観的に自己認識することに直結する。世界地図による世界認識の拡大=地理教育は、人々の視野を広げ、人を積極的な思考に変える力を持つのだろう。
ちなみに坂本龍馬の逸話として、初めて世界地図を見せられた時に「日本はどれだと思う?」と問われ「これが日本じゃろう!」とアメリカ大陸を指さしたという話がある。 黒船来航の前にペリーは琉球王国と交流し、江戸幕府の情報を収集しており、それにより江戸との開国交渉に至った。当時は鎖国していた江戸と異なり、琉球王国は長崎や神戸と同様に欧米・日本・中国・韓国・東南アジア等を相手に貿易を行う東洋経済の中枢だったのだとか。
ある日、坂本龍馬は「土佐の海が世界に通じていると思うと愉快ぜよ」と語ったという。
✽.。.:*·゚ ✽.。.:*·゚ ✽ * * * * ⋆ ⋆ ⋆ ✽.。.:*·゚ ✽.。.:*·゚ ✽
欧米化について
youtube
日本の近代化、つまり西洋化は「明治維新」より本格的に始まりました。
西洋化の手始めに、まずはヨーロッパ(特にドイツとイギリス)の言語、及び学問が片っ端から翻訳されましたが、現代の日本において馴染みのある「技術水準(technical level)」「概念(concept)」「哲学(philosophy)」「芸術(art)」「愛(love)」「変態(abnormal)」等の単語は、当時の日本語に該当する語彙がなく、この翻訳過程で新たに作られた語句でありました。
夏目漱石は英語、森鴎外はドイツ語の翻訳に貢献しました。
当初の日本では病院のカルテはドイツ医学に則り、ドイツ語で書かれていたのは有名でしょう。
たとえば「技芸」や「恋」等の単語は江戸時代の日本にもあったようですが、「芸術(art)」や「愛(love)」は本来の日本語にはなかった語彙なので、上辺だけは理解したふりをできたとしても、これらの概念や価値観が日本男児にとって根深く馴染まない根本的な理由が、遺伝子と文化的な要因にあると解釈できるのではないでしょうか。
明治維新以降、日本政府は先進国(白人の国々)の技術水準に比肩したいがために西洋化を推し進めてきましたが、「アキレスと亀」という詭弁があるように、追い続けるだけではどこまで行っても追い抜くことはできないと慮る次第であります。
medicine (西洋)医学 physics 物理学 philosophy 哲学 geography 地理学 psychology 心理学 economics 経済学 politics 政治学 mathematics 数学 chemistry 化学 biology 生物学 astronomy 天文学 ethics 倫理学 archeology 考古学 linguistics 言語学
⋆ ⋆ ⋆ ⋆ ⋆ ⋆ ⋆ ✽.。.:*·゚ ✽.。.:*·゚ ✽
森鴎外
"森鴎外"は、夏目漱石と並び「明治の二大文豪」と称される作家です。ドイツ語の翻訳家としても活躍し、西洋文化を感じられる作品を手掛けました。
当時の日本社会や思想を客観的に描写した物語も多くあり、見識の広い森鷗外ならではといえます。
森鴎外がドイツ留学の実体験をもとに書いた日本人留学生とドイツ人女性の非恋『舞姫』は森鷗外の代表作です。
森鷗外の作品は古文で書かれたものが多く、さらに文中にフランス語やドイツ語が織り交ぜられるなど、格調高い文体が特徴。
西洋文化を取り入れた言葉や文体は、後の多くの作家に影響を与えました。
夏目漱石『吾輩は猫である』
日本の教員・小説家・英文学者"夏目漱石"��著書「吾輩は猫である」読了後、どうしても腑に落ちなかった点があります。
それは主人公の吾輩君が最後は酩酊して水瓶に落ちて溺死することに他なりません。
『吾輩は猫である』は、明治維新以降の急速に西洋化する日本を猫の視点から描いた風刺・滑稽噺ですが、それにしてもこの終わり方は死を美化する日本文化の象徴とも言えなくもありません。
また、私が二十代の頃に読んだドストエフスキーと比較して、日本文学はロシア文学より劣っているのではないかと落胆したこともありました。
しかしながら夏目漱石が三十代の頃に国費で英国留学したものの人種差別に遭い、己の醜さから鬱になり自室に引きこもっていたら、「外に出て自転車にでも乗ったらどうだ」と勧められて自転車に乗る猛特訓をしたのに、結局は乗れなかったという訳の分からない滑稽なエピソードを読んで、どうしても夏目漱石を嫌いになれず、吾輩君の死も無駄には思えなくなりました。
きっと吾輩君は読者諸君の心の中で生き続けているのである。
それはさておき、推奨されるがままに始めた自転車の猛特訓中に"英国紳士"から「チン・チン・チャイナマン!」と侮辱された夏目漱石も、日本に居た頃は自他共に認めるほど容姿がいい部類だとされながらも英国の街を歩いた際に「背の低くて醜い奴が歩いていると思ったら、硝子窓に映った自分の姿で落胆した」とのこと。
それでも"英国淑女"からは「ハンサム・ジャップ。ご一緒にサイクリングでもいかがかしら?」と誘われたので、「怒るべきか喜ぶべきか悩んだ」と悲痛な葛藤を手記に残していたそうな。
日本の英文学者で初めて英国に渡航した上で、有色人種に対する人種差別を体験した夏目漱石ですが、江戸時代末期に生まれた上役達には、このような人権にかかわる諸問題についての理解は当然ながら及ばなかったのだと慮る次第であります。
ちなみにスマホや腕時計もない明治以前の日本人にとって、例えば「2時集合」とは「大体2時~3時までの間に集合しよう」というウチナーのような寛容なニュアンスでしたが、鉄道の運用が開始されてから新聞などで大々的に「文明社会にとって時間の厳守は重要」と宣伝され、そうして現代の「5分前集合」が浸透したようです。
「おはよう」と「さようなら」の語源
「おはよう」の語源は、「今日もお早うございます」の略なのは有名です。
海外で最も有名な日本語の「さようなら」の語源は、「左様ならば、これにて御免」というお侍さまの別れの挨拶の略です。
今もなお、お侍さまの語感が残されるとは、まさに《武士道》の本場だからだといえるでしょう。
ちなみに"I Love You"を中国語で言うと、英文法と品詞の並びが一致する"我爱你"(ウォー・アイ・ニー)になるようですが、日本語だと“私はあなたを愛してる”と非常に多くの文字数を消耗するので140文字以内に収めるのも困難かと慮る次第です。
いずれにしても、中国の"爱"には心がありませんが、日本の"愛"には友がおりません。
ステレオタイプの欧米のように、"愛と友"に恵まれないものでしょうか……?
✽.。.:*·゚ ✽.。.:*·゚ ✽
「です」の変遷
◆江戸時代からあった助動詞「-でござる」「-でござります」は次第に「-でございます」に変化し、さらに明治時代に「-であります」から「-である」に縮まり、そうして現代の「-です」に落ち着きました。
一人称の「吾輩」は「私」のへりくだった言い方。 明治時代から活用され始めた「-である」は「-であります」の略。
つまり「吾輩は猫である」を現代風に書くと「わたくしめは猫であります」というへりくだった言葉使いになります。
✽.。.:*·゚ ✽.。.:*·゚ ✽
芥川龍之介『あばばばば』
大正時代の文豪"芥川龍之介"著『あばばばば』という短編があります。この小説を読んで、情緒を感じて芥川龍之介を見直した思い出があります。
✽.。.:*·゚ ✽.。.:*·゚ ✽
ある日のこと、学生の保吉は行きつけの煙草屋に足を運びました。ところがいつもの店主の親父の姿はなく、代わりに若い女が店番をしていました。 不慣れなのか彼女は恥ずかし気な初々しい接客で、注文とは違う煙草を取り出して赤面してしまうほどでした。 その後いつ行っても彼女が店番でしたが、応対はつかえ、品物は間違え、時々赤い顔をされました。しかし、保吉はだんだん彼女に好意を感じたようです。といっても恋愛感情ではなく、いかにも人なれないところに気軽いなつかしみを感じたとのこと。 ところがある日から突然、彼女が姿をくらまします。わざわざ不愛想な店主の親父に行方を尋ねるわけにもいかず、その後は何事もなく過ごしました。 それからさらに歳月の流れた後、大学の授業(英語講演会)のあと煙草屋の前を通ると、両手に赤子を抱えた若い母親がいました。 「あばばばばばば、ばあ!」 現代でいうところの「いない、いない、ばあ!」の意です。 女は店の前を歩き、面白そうに赤子をあやしています。そうして保吉と目が合いました。保吉は赤面する彼女を想像しましたが、しかし彼女は澄ましたままでした。のみならず、揺り上げた赤子に目を移すと、人前も恥じずに繰り返し「あばばばば」とあやしたのです。 「女はもう『あの女』ではない。度胸の好い母の一人である。一たび子の為になつたが最後、恐ろしい『母』の一人である」
そういえば、子供の頃に常連だった個人サイトのチャットでよく「あばばばばば!」と書くお調子者がいましたが、元ネタが芥川龍之介だと気付くのに十数年ほどかかりました。
⋆ ⋆ ⋆ ⋆ ⋆ ⋆ ⋆ ✽.。.:*·゚ ✽.。.:*·゚ ✽
作家を大きく分けると、毎回異なる性質の登場人物が多種多様な物語を繰り広げるシェイク・スピアタイプと、毎回同じような登場人物が同じような問題に直面して一つの題材を深く掘り下げて行くドストエフスキータイプに大別できるようです。
ドストエフスキー著  『カラマーゾフの兄弟』
『カラマーゾフの兄弟』◆あらすじ ある日の朝、修道院の見習い僧侶"アリョーシャ"(アレクセイのあだ名)のもとに、14歳の"リーズ"(リーザ)という車椅子の少女が訪れました。リーズはここ最近に病を患い車椅子に乗っていますが、修道院の長老から治療を受けて順調に快復に向かっていました。 アリョーシャは子守りとして、二年前にリーズと接したので久しぶりの再会でもありました。 再会 リーズは事実、ずっと悪戯に夢中だった。彼女はアリョーシャと顔を合わせた時から、彼が自分を見るとひどくどぎまぎし、なるべく目を合わせないようにしているのに気付いた。彼女はそれが面白くて、相手の視線をとらえようとじっと身構えていた。 するとアリョーシャは、自分にそそがれる視線に堪えきれなくなり、自分からふいにリーズにちらりと目をやると、彼女は勝ち誇ったような笑みを浮かべ、彼の方をまっすぐ視線を向けてくるのだった。 アリョーシャは、またどぎまぎして、ついにリーズからすっかり顔をそむけて修道院の長老のうしろに隠れた。しばらくして自分を見ているのか確かめると、彼女は車椅子から身を乗り出すようにして、こちらを振り返るのを一心に待ち受けているのがわかった。そうしてアリョーシャの視線をとらえるとまた大声で笑った。 それを見た長老がリーズを注意すると、彼女は顔を赤らめ、きらりと目を輝かせ、真面目な顔つきになった。そして今度は熱っぽい訴えをこめて、早口で話し始めた。 「どうしてアリョーシャはぜんぶ忘れちゃったの? 前は小さなあたしを抱っこしてくれたり、一緒に遊んでくれたりしたのに。だって、あたしに読み書きを教えてくれたのはアリョーシャよ。二年前にさようならをした時に、アリョーシャは『ぼくたちは永遠の友だちだよ。永遠の友だちだからね。ぜったいに忘れないから』って言ってくれたわ。なのにあの人、今になって急にあたしのこと怖がり出して。あたしがあなたのこと、取って食べちゃうとでも思ってるのかしら? どうしてそばに寄ってくれないの、どうしてお話してくれないの? どうしてうちに来たがらないのかしら」 リーズはこらえきれなくなって顔を手で覆うと、急にはげしく笑い出した。長老が話を聞き終えると優しさをこめて十字を切った。 すると今度は彼女がいきなり泣き崩れたのだった。 リーズの手紙 その日の夜に、アリョーシャが道中でリーズの母の使者から手渡された封筒を開くと、そこには「リーズ」と署名のある手紙が入っていた。 「アレクセイさま。誰にも内緒でこの手紙を書いています。ママにも、わたしの心に生まれたこの気持ちを告げずに、わたしもわかっているつもりです。でも、わたしの心に生まれたこの気持ちを告げずに、わたしはもう生きられないんです。このことはわたしたち二人以外は、その時期が来るまで誰にも知られてはいけません。でもわたしの気持ち、どうやってあなたにお伝えしたらいいでしょう? 便箋は赤くならないって言いますよね。でも本当を言うと、それって嘘なんです。便箋だって、わたしと本当に同じように赤くなるんです。 大好きなアリョーシャ、あなたを愛しています。小さい時から、ずっと好きでした。あなたが今とはまるで違っていたモスクワ時代から、ずっと好きでした。わたし、あなたを心の友って決めたんです。あなたと一緒になって、年を取って、一生を伴に終えると。もちろん、修道院から出ていただくことが条件ですわ。年齢のことを言うと、わたしたち、法律で許される時まで待ちましょう。それまでにわたしも必ずよくなって、ちゃんと歩けるようになるし、ダンスもできるようになります。そんなこと当然ですよね。これでわたしがずっと何を考えていたかおわかりになったでしょう。ただ一つだけ、わからないことがあります。この手紙を読んだら、あなたはわたしのことをどう思うのかしら。わたしはいつも笑ったり、ふざけてばかりいるんですもの。今朝もあなたを怒らせたでしょう。でも本当を言うと、こうしてペンを執る前に、わたし聖母さまの像にお祈りしたんです。そして今もお祈りをしながら、ほとんど泣き出しそうなんです。 わたしの秘密はもうあなたの手に握られてしまいました。明日おいでになった時、どんなふうにあなたにお目にかかったらよいか、わたしにはわかりません。アレクセイさま、わたしまた馬鹿みたいに自分が抑えられなくなって、今朝みたいにあなたを見つめるうちに、吹き出したりしたらどうしよう。だってあなたはわたしのことを、いやらしい冷やかし屋って思うでしょうし、この手紙だってまともには受け取ってくださらないでしょうから。ですからお願いがあるんです。もしこのわたしをかわいそうって思ってくださるなら、明日わたしの家にいらっしゃった時、どうかわたしの目をあまり見つめないでください。だってわたし、あなたと目が合ったらぜったいに笑い出してしまうし、おまけにあなたはあんなに長い服を着ているし……今でもそのことを考えると、体が冷たくなってしまうくらいなの。ですから家に入ってくる時は、わたしのことはしばらく見ないでくださいね。ママか窓の方を見てくださいね。 わたしとうとうラブレターを書いてしまいました。ああ、なんてことをしてしまったのかしら! アリョーシャ、どうか軽蔑しないでくださいね。何かひどく馬鹿なことをしてあなたを怒らせても、どうか許してくださいね。こうしてわたしの秘密はあなたに握られてしまったのです。わたしの評判は、もしかしたら永久に地に落ちてしまったのかもしれません。わたし、今日はずっと泣いてしまうでしょう。さようなら、次のおそろしい出会いまで。 P.S. アレクセイ、ぜったいに、ぜったいに、ぜったいに来てくださいね! リーズより」
あとがき
その後、アリョーシャとリーズがどうなったのかは、各自でドストエフスキー著『カラマーゾフの兄弟』を読むか、グーグル検索をしてご確認くださいませ。
✽.。.:*·゚ ✽.。.:*·゚ ✽
youtube
⋆ ⋆ ⋆ ⋆ ⋆ ⋆ ⋆ ✽.。.:*·゚ ✽.。.:*·゚ ✽
自己実現や己の幸の為もあれば、自己犠牲を冒してまで目的を成す為に時間・労力・生命を捧げる者も居ます。人は生まれた瞬間から死を迎えることが確定しています。どれほどの富や名声を得ても最期を迎えれば遺産相続者が居なければ「財産はすべて銀行の資産」となります。
誰もが"エジソン"並みの発明王である必要はないし、"レオナル・ド・ダヴィンチ"ほどの叡智が必要な訳でもありません。誰か一人が発見して突破口を拓けば後続が可能なのだと思います。
どこかには人々を導く為に生まれた者も居るのでしょう。
Tumblr media
■2012年6月9日 - 高知にて撮影
《和》の中に《個》はあるから、どちらか一方を尊重するべきか独断は出来ません。
1 note · View note
takashimatsui1960 · 3 months
Text
2024−06−11
梅雨入り前の晴れが続く。今週いっぱいは天気が保ちそうだから、がーんと片づけをしろというお天道さまのおぼしめしかもしれん。ちょっと断捨離作戦を練る。
原正人先生が訳した『ルーカス・ウオーズ』を読むかどうか迷い、サンプルを読むと大体先が読めてきたが、絵がかっこいいので手を出すかもしれん。判型がでかいので置き場に困る。kindleにするか。
『正蔵戦中日記』を読んでいる。八代目正蔵、のちの彦六師である。昭和16年12月に始まり、翌17年6月まで来た。6月末日の記述に「ひほし狩」という語が出てくる。「潮干狩」のことなのだが、単なる江戸訛と片づけていいのか立ち止まって考える。「干干し狩」と師匠が思い込んでいたフシもあるんじゃないか。多分、日記帳の原文があってそれを文字に起こしているのだろうが、口述という可能性もあるのか。だとすれば「し」が「ひ」になる、またはその逆も起こる。が、まだこのころは女性や子供が潮干狩に出かける余裕があった。
また、文中しばしば正蔵師は自ら便所の汲み取りを行っている。戦中に一般家庭の糞尿汲み取りが行われなくなり、市民が汲み出していた(肥取りの車を軍が使うため)という記述は『淑子の日記』(昭和20年4月~6月)にもある。東京市中ではもうこの時期からそうだったのだ。終戦間際になると紙も欠乏して、用を足した後に使うのもしまいには新聞紙になったと聞く。
この日記には野村無名庵、正岡容、安藤鶴夫も出てくる。野村無名庵の『落語通談』はおれがずっと手放さずにいる唯一の落語本だ。
中部電力の株主総会案内が来る。スマホから議決権を行使。
0 notes
nekomoku · 6 months
Text
今日はユーフォ3期の初回やったんでオンタイムで観た!観たいものが観れて大満足!!久美子と麗奈がまたイチャイチャしてる!!!もっとしていいよ!!!!!
観てて印象に思ったところ。まず新入生を歓迎する曲として演奏されていたのが星野源の「恋」だった。えええええ!!確か源さんってユーフォ好きだって公言してたような。源さんほど有名になると作中に「存在」できるんだと純粋に感動しました。マジですげえ…。
あとは久美子と麗奈の関係性。全国金賞取れなかったら悔しい、ダメ金なんて許さない。あの時の麗奈の気持ちを理解して久美子も同じ気持ちを抱けた。二人が同じスタートラインに立って前に進めた。これが描かれていただけでもう満点以上だと思いました。
そして、ともよちゃんの演技。ユーフォに限らず色んな出演作を観ているけれど(というか著名な作品で名前を見かけないことがあんまない気がする)、毎シーズンどんどん進化してる。部長としての振る舞いに慣れなくて緊張して声がうわずる感じとか、銀色のユーフォを吹く黒江真由を見てちょっと引き攣る感じとか、久美子が年相応なナチュラルな感じになってる気がする。
黒江真由はとまっちゃんが声優やるというんで楽しみにしてたのだけど、本当に戸松遥さんなんですか?本当に?と疑うくらい本人か分からなかった。勝手に元気っ子なイメージを抱いてたのでこんなお淑やかなキャラも演じられる人なんやと新鮮でした。どんなキャラかは今回だけでは掴めなかったので今後が楽しみっすね〜〜。
0 notes
kachoushi · 6 months
Text
零の会
2024年1月6日
Tumblr media
於:国立オリンピック記念青少年総合センター
坊城俊樹選 岡田順子選
坊城俊樹出句
Tumblr media
坊城俊樹出句
神の森へと絢爛の春著かな おちよぼ口紅を差したり春著の子 ハスキーな初鴉とて神のもの 春著とは後ろ姿のありにけり 去年今年神の焼そば食らはんと 神苑の神乗り移る初鴉 神宮の八手の花は交信す まぶだちを亡くせし朝の初御籤 去年今年菊紋美しき大鳥居 去年隔つ菊の御紋の大鳥居
坊城俊樹選特選句
Tumblr media
坊城俊樹選特選句
ドッグラン鼻と鼻とで交はす賀詞 荘吉 裸木のはるかを白く光る街 要 頰切るは鷹の翔つ風かもしれず 順子 人波をこぼれながらの初詣 光子 焼芋の煙たなびく志んぐうばし 和子 群衆といふ一塊の淑気歩す 順子 寒雀神馬と分かちあふ日差し 光子 寒雀入れ神苑の日のたまり 光子 寒の水明治の杜のまま映す 小鳥
坊城俊樹選▲問題句
晴れし日の雪吊龍の手に化けて 小鳥
坊城俊樹選並選句
大前に縦一列で冬帽子 荘吉 はじまりもをはりも青き初御空 和子 馬場の日にふくら雀の落ちて来し 光子 弦を背に颯爽とゆく小春かな 風頭 参宮橋より白日の冬木立 小鳥 輪飾の紙垂の歪みもめでたけれ 和子 神木の黙しぼんやり春を待つ 三郎 鎖樋垂らして永く竜の玉 順子 白き手首して清正の若水を 順子 清正の井へと恵方の歩の続く はるか 初声の想ひありしか本殿へ 三郎 小春日や亀石に吾も甲羅干し 風頭 悴める指に解きて恋みくじ はるか 笹鳴や旋毛に当たりつづける日 緋路 青空に深く沈みて冬の鳥 和子 参道を逸れ神域の淑気かな 六甲 神宮の鳥居の罅も淑気かな 佑天 楪や隔雲亭は夢の跡 順子 寒椿落つれば湧くや清正井 眞理子 京訛り唇紅く寒の紅 三郎 江戸よりの井戸の名水ぬるき冬 眞理子 皇后の大もみぢ枯れても落ちず 慶月 積樽も淑気を帯びて並びけり 佑天 百年の落葉溜りのほつかほか 慶月
_______________________________
岡田順子出句
Tumblr media
岡田順子出句
潔き新玉ぶりを隈笹に 頰切るは鷹の翔つ風かもしれず 国の春へロマネ・コンティの献樽を 楪や隔雲亭は夢の跡 鎖樋垂らして永く竜の玉 帷のごとく陽に鎖し白障子 なんでもなくて冬草の青ければ 群衆といふ一塊の淑気歩す 寒天を逆しまにして蒼き井戸 白き手首して清正の若水を
岡田順子選特選句
Tumblr media
岡田順子選特選句
跼り清正の井を初鏡 昌文 本殿につぶやく寒紅をつけて 光子 楪の浴ぶる日我にゆづらるる 慶月 肺胞に沁み込んでゆく淑気かな 緋路 冬草や喧騒去りて井戸残し 眞理子 馬見えぬ乗馬倶楽部の六日かな 六甲 寒鯉来おのれの色の水を分け 緋路 寒椿落つれば湧くや清正井 眞理子 寒の水明治の杜のまま映す 小鳥
岡田順子選▲問題句
遠近法その中を往く初詣 荘吉
岡田順子選並選句
初日記驚天動地で始まれり 佑天 去年隔つ菊の御紋の大鳥居 俊樹 一連の真珠を胸に初句会 光子 枯菖蒲妄想の中春を待つ 風頭 神の森へと絢爛の春著かな 俊樹 一枚の青空歌ふ初鴉 和子 補聴器を外し砂利踏む初詣 軽象 清正の井へと恵方の歩の続く はるか 清水の写すみ空の冬木の芽 きみよ 鳥居新た杉のひらけて寒に入る 小鳥 吉祥の天へ跳ねたる寒雀 はるか 冬日燦々熊笹の隈閃々 風頭 笹鳴や旋毛に当たりつづける日 緋路 神木の葉擦れ大鷹睥睨す 眞理子 明治旧り樹間に満つる淑気かな 眞理子 寒鯉の水重さうな一と揺らぎ 昌文 拭きあとの白き硝子と日向ぼこ 和子 百年の落葉溜りのほつかほか 慶月 ひよつこりとシャンパンを手に雪女 きみよ 大前に縦一列で冬帽子 荘吉
0 notes
shintani24 · 9 months
Text
2024年1月6日
Tumblr media
2023-24 WEリーグ第7節 サンフレッチェ広島レジーナ 2-1 ノジマステラ神奈川相模原@広域公園第一球技場 1139人/65分 上野 真実、67分 中嶋 淑乃、90分 藤原 加奈
Tumblr media Tumblr media Tumblr media
上野 真実
Tumblr media Tumblr media
中嶋 淑乃
youtube
Tumblr media
年末年始のJR西日本の利用状況 新幹線など前年度上回るも「コロナ禍を経て利用者の行動変化」も(RCCニュース)2024年1月6日
年末年始の新幹線などJRの利用状況が発表されました。
JR西日本によりますと、先月28日から今月4日までの山陽新幹線の利用客は、▼広島~岡山間が106万4千人で前年度比108%、▼広島~新山口間が74万7千人で前年度比107%でした。コロナ禍前の2018年度と比べるといずれも94%にとどまっていて、JR西日本は「コロナ禍を経て、利用者の行動が変化し、利用率が低下した」ととしています。
一方、在来線については、▼広島駅で1日当たり2万2800人、▼宮島口駅で5200人が利用し、前年度やコロナ禍前との比較ではご覧の通りとなっています。
Tumblr media
また、宮島フェリーの利用客は20万4千人で前年度比141%、コロナ禍前と比べても106%となっていて、JR西日本は「行動制限の解除による人流の増加や外国人観光客の回復が要因」とみています。
外国人に人気の中国・四国の観光地 「原爆ドーム」を抑えた1位は?(ITmedia ビジネスオンライン)2024年1月6日
インバウンド総合メディア「訪日ラボ」を運営するmov(東京都渋谷区)は、観光名所に寄せられた口コミデータをもとにした「インバウンド人気観光地ランキング中国・四国編」を発表した。
【画像】インバウンド人気観光地ランキング(広島・四国編)
TOP3は「第二次世界大戦」関連施設
外国人に人気の中国・四国のスポット1位は広島県の「広島平和記念資料館」(227ポイント)となった。2位は「原爆ドーム」(216ポイント)で、3位は「広島平和記念公園」(189ポイント)がランクインした。いずれも第二次世界大戦関連施設であり、訪日客の関心の高さがうかがえる。
4位以下は「嚴島神社」(184ポイント)、「岡山後楽園」「唐戸市場」(いずれも144ポイント)、「栗林公園」(143ポイント)、「縮景園」(141ポイント)、「お好み村」(110ポイント)、「広島城」(106ポイント)が続いた。TOP10のうち、7つは広島県のスポットが占める結果となった。
調査は訪日ラボが独自に選出した中国・四国エリア9県の観光名所900カ所を対象に、口コミ総数4139件を分析した。対象期間は11月18日~12月3日。
Tumblr media
【全国都道府県対抗男子駅伝】石川県チーム監督「まずはスタートラインに」 能登半島地震 避難所暮らしの選手も(中国新聞 1月5日)
ひろしま男子駅伝にエントリーする石川県チームは、能登半島地震による被害が拡大するなか、大会出場を目指す。広島県呉市出身の森賀康裕監督(52)=石川・遊学館高教=は5日、「選手も、その家族も大変な思いをしている。まずはスタートラインに立つことが目標」と口にした。
選手10人の中には、一時的に避難所での生活を余儀なくされている選手もいる。地震はいまも度々起きており、精神的な負担も大きい。森賀監督は「選手の詳しい状況はまだ聞けていない」という。
大会まで約2週間。練習もままならない状況だが、森賀監督は「頑張っている姿を届けられれば」と願った。
Tumblr media
馳知事「能登行き控えて」渋滞で物資届かず 能登半島地震(北國新聞 1月5日)
Tumblr media
奥能登へ向け、のと里山里海道を走る災害支援車両など=かほく市ののと里山里海道
馳浩知事は5日の石川県災害対策本部員会議で「能登に向かう道路が渋滞し、困っている。個人や一般ボランティアが被災地へ向かうのは控えてほしい」と述べ、不要不急の来訪はしないよう呼び掛けた。県によると、渋滞によって物資が届かなかったり、患者の搬送回数が減ったりしているという。
奥能登4市町へのアクセスは現状、のと里山海道から国道249号を経て各市町に向かうルートに限られており、自衛隊や消防、警察、医療、行政関係者らの車両で混雑している。県は支援物資についても、被災地に直接搬入をしないよう求めている。
0 notes
swamppublication · 2 years
Photo
Tumblr media
おはようございます! 第16回関東(全国)私立高等学校選抜剣道大会 編集版動画をlet'skendo!!YouTubeチャンネルにて続々公開中‼️ 大会レポート&画像はlet'skendoHPにて公開中!↓ https://www.letskendo.com/posts/22074/ 大会結果 ・男子 優勝 水戸葵陵(茨城) 二位 土浦日大(茨城) 三位 郁文館(東京)、東海大浦安(千葉) ・女子の部 結果 優勝 桐蔭学園(神奈川) 二位 淑徳巣鴨(東京) 三位 翔凜(千葉)、東海大菅生(東京) ※最近、TikTokやSNSでLET'S KENDOの動画を無断使用している方おります。 これから、違反申請や場合によっては法的措置も考えていきますので、心当たりのあるかたは削除したほうがいいと思います。 「剣道普及」みたなことを言っている人もいますが、他人の動画を勝手に使って、いわば盗んで、自分のもののように動画アップしている人の感覚が理解できません・・・ ※2〜3月の取材予定 2/26 東京都剣道大会(※終了) 3/4 全日本実業団女子・高壮年大会(※終了) 3/5 六大学大会(※終了) 3/18〜19 関東私学高校大会 3/26〜28 全国高校選抜大会 ※ LET'S KENDO SNS ●【Twitter】https://twitter.com/letskendo ●【YouTube】 https://www.youtube.com/user/letsKENDO  ●【インスタ】https://www.instagram.com/letskendo/ ●【Facebook】https://www.facebook.com/LETSKENDO/ ●【LET'S KENDOショップ!】https://letskendo.thebase.in/ ●【LET'S KENDOブログ】http://letskendo.diary.to/ #関東私立高校剣道大会 #japan #剣道大会 #武道 #letskendo #kendo #剣道 #レッツケンドー #YouTube https://www.instagram.com/p/CqG6wR0PnFX/?igshid=NGJjMDIxMWI=
0 notes
miu2d · 6 months
Text
桐朋高等学校、78期卒業生の答辞に賛辞やまず 「只者ではない」「感動のあまり泣いて10回読み直した」
2024/3/13(水) 18:46配信
ねとらぼ
 桐朋高等学校(東京都国立市)、第78期卒業生の答辞がX(Twitter)を中心に、「とんでもない18歳だわ……」「す、すごいものを見た」など大きな反響を呼んでいます。
 本記事では、答辞を書いた土田淳真さんの掲載許諾をもとに、桐朋高等学校公式Webサイト、土田さんのnoteにも掲載されている答辞全文を紹介します。
答辞
 ブラジルの1匹の蝶の羽ばたきは、巡り巡ってアメリカ・テキサス州のハリケーンの原因となりうるでしょうか。1972年、アメリカの気象学者エドワード・ローレンツは正確な気象予報の困難さをこのように例え、初期条件の僅かな違いが観測結果に大きな影響を与えることを示しました。ローレンツのこの問いはやがて「バタフライエフェクト」として大衆文化にも受容され「偶然に導かれた数奇な因果関係」を意味する言葉として用いられています。本日体育館の外に吹いている朗らかで少し物寂しい風も、ともすると3年前・6年前初めてこの学校に足を踏みいれた時の肌寒く不安な風の名残なのかもしれません。
 自らの歩みを振り返り、新たな日々を予感させる春風が吹くこの佳き日に、桐朋高等学校78期、293名の卒業式を挙行くださること、卒業生を代表し感謝申し上げます。そして六年間僕達に知的好奇心の入り口を開け続けてくださった先生方、また何より18年間僕達の成長を見守ってくださった保護者の皆様に、重ねて御礼申し上げます。
 振り返ると78期は常に風と共に歩んできました。2019年4月1日、「平成」に替わる新元号「令和」の発表。出典の万葉集に曰く、「初春の令月にして、気淑く風和らぎ…」しかし、令和最初に吹いた「風」は通常の「風邪」を遥かに凌駕した未知の感染症でした。「期末試験は中止です」最後の登校日、担任の先生が複雑な表情でそう告げた時、歓喜の声を上げた僕たちのそばで一人下を向いていた友人が流した悔し涙が、コロナの残酷さを如実に物語っていました。憎たらしいほどの青空の下で、僕たちの中学修学旅行は、部活の試合は、そして何よりマスクの下に見るはずだった皆の笑顔は、全て「不要不急」の4文字に淘汰されていき、その鬱憤を誰のせいにもできない葛藤の毎日が続きました。それでも、時計の針は進み続けます。たとえそれが黒板に打ち付けられた腕時計の針であっても。桐朋祭は3年ぶりの有観客開催となり、熱狂の渦を取り戻しました。無事に迎えられた高校修学旅行、旅館の屋根の上、あるいは大文字山から見た京都の星空は、さぞ格別なものだったでしょう。「7回学んで8回笑え」修学旅行のこのスローガンは元々「7回笑って8回学べ」だったそうです。最後は笑いたいよね、実行委員のその一言で少しだけ変わったこのスローガンからは、一生ものの信念を感じます。
 しかし、僕達のこの信念は、決して既存体制への反骨心に基づくものではなく、僕らに本質的に内在する潤澤な学びと笑いへの希求である、僕はそう思います。僕達でなくして誰が、壊れたプリンターで射的をしたでしょうか。電子研は78期の学びある笑いの象徴でした。僕達でなくして誰が、教室のベランダにガーデンテラスを作ったでしょうか。中学最後のスポ大、掟破り瀬戸際のクラTを着て優勝した3年1組が、僕はとても羨ましかった。僕達でなくして誰が、数学の問題集より分厚い修学旅行のパンフレットを作ったでしょうか。学校説明会に来た小学生がこれを見て目を輝かせていたのは忘れられません。CreationとImaginationが同じ「そうぞう」という音なのは日本語の奇跡としか言いようがありませんが、僕達にとってこの両者はもはや同一でした。そしてまたこれも言葉の綾ですが「そうぞう」はえてして騒々しい――群馬県警を呼び、1年1組の天井を破壊し、あるインドカレー店と癒着ができました。ともかく、78期はなんというか、豪快でパワフル。学年閉鎖をことごとく回避し「馬鹿は風邪をひかない」あまりのうるささに呆れ顔で言われたその言葉ですら、僕達には誇らしく感じられました。馬鹿と言えば、これまた「そうぞう」の一環として、生徒による学年通信「馬鹿たれ」を想起した方も多いことでしょう。学年目標を冠した本家「大鵬たれ」のパロディとして作られたこの「馬鹿たれ」、後付けではありますが、かのスティーブ・ジョブズの演説も由来の1つだそうです。 “stay hungry, stay foolish”僕達はこの演説を高2英語総合の授業で学ぶことになります。偶然、ちょうどそのころ、この演説を扱ったある番組がNHKで放送されました。1人の細やかな営みの連鎖が、世界を動かす、と語られるこのシリーズ番組は、また偶然にも僕たちが高1の世界史で学んだ「映像の世紀」の続編で、その名も「映像の世紀 バタフライエフェクト」 2022年11月7日の放送回では、「世界を変えた愚か者」としてご存知ジョブズと、彼に影響を与えた思想家バックミンスター・フラーが紹介されていました。フラーは人類の持続可能な発展についての先駆的概念「宇宙船地球号」の提唱で知られています。バタフライエフェクトと「宇宙船地球号」はともに、いかなる矮小な存在も雄大な世界の要素であることから逃れられないことを示しました。1人の細やかな営みの連鎖が、世界を動かす。情報化社会と呼ばれる今日、それはいよいよ僕ら若者のレベルですら現実となりつつあります。絶えず大衆を突き動かし、ふと消えていくこれらの動きは、まさに風と形容するに相応しい。ですが、風そのものはいかなる善悪も吉凶も帯びていません。曖昧で流動的で得体がしれない、だからつい単純化し、意味づけしたくなるだけなのです。0か1かで定義されるデジタル技術が世界を支配する一方、0と1の間の無限の可能性を認める多様性、個性といった言葉が盛んに繰り返されています。しかし、個性的とは決して固定的なものではない、まして赤の他人から全角140字で押し付けられるものではない、僕は同級生の底知れぬ人間力と接する度にそう思います。僕達が一生かけて取り組む問題集には別冊の解答解説なんてついていません。解説されてたまるものか。解答なんてあるはずもない、だけれども、あるいはだからこそ、その問題を直視し、従うべき、逆らうべき風を判断せねばなりません。
 さてこの“stay hungry, stay foolish” “be foolish be hungry”ではありません。僕達はいつまでfoolish、馬鹿でいられるのでしょうか。無知を馬鹿というならば、僕は永遠に馬鹿で構わない。無知とは、また新たな何かを学べるということであり、学びとはすなわちその奥に未知が存在することへの知覚なのですから。高1の時、担任の先生がこう言っていたのを思い出します。「学ぶ意味なんて学びきるまで分からない、でも意味がわからないから��ばないってのは、あまりに安直だよね」学びには王道もなければ聖域もない。永久の学びを志向する者ならば、他者に対し冷笑的、厭世的な態度で臨むことは許されません。
 馬鹿は風邪をひかない――己の無知を自覚し、故に学び続ける「馬鹿」であるならば、流言飛語やデマといった一時的な「風」に惑わされることはないはずです。未成年という防風林が除去された僕たちには、今後多くの逆風が吹きつけるでしょう。時には向きを変え、その逆風を追い風に変えることも重要な戦略の一つです。ですが、青臭いかもしれないが、コロナ禍を乗り越えた学年として、いやそうでなくとも78期として言わせてほしい。逆風を味わうことができるのは、前に進む者だけだ、と。
 さらに僕達はそう遠くない未来、風を受ける側から風をおこす側になるでしょう。最後にこんな話を紹介させてください。ある日、生徒会の意見箱に右翼や左翼といった言葉を使って特定の政治思想を中傷するものが投書されていたことがありました。どう返信しようかと悩み、そのまま机に置いて帰った次の日、誰の字とは分かりませんが、しかしはっきりと次のようなことが書かれていました。「片方の翼だけでは、鳥は空を飛べません」 僕達が大鵬ならば、両方の翼を自在に使いこなせる大鵬でありたい。大鵬は古代中国における季節風の象徴だという説があります。中国大陸の南、太平洋を吹き抜ける季節風は、古来より貿易船の帆を押し、東西文明の融合、新たな文化の隆興を育んできました。1匹の蝶でさえハリケーンを引き起こすなら、293羽の大鵬は何をもたらすのでしょうか。僕達がおこす風もまた、曖昧な他者を融合させ誰かの「そうぞう」の一助となると信じています。
 桐の朋。ですがけっして「これっきりのとも」ではないはずです。
 数千里の翼を伸ばして校舎の外に尚も広く晴れ渡る大空を悠々と、颯爽と翔けていく我ら大鵬。
 78期が飛び立つ空に、学びあれそして笑いあれ。
 78期よいつまでも、馬鹿な大鵬であり続けよう。
 2024年3月2日 78期卒業生代表
※一部、土田さんから申し出があった箇所を訂正しています
 土田さんによると、「このたびの答辞を作るにあたり、78期の全てを詰め合わせるという思いで、卒業生293名全員の氏名から1文字ずつとって本文に組み込む、ということに挑戦しました。また、最後から3行目には担任団の先生方の氏名を1文字ずつ入れております」とのこと。また、投稿によると「桐の朋。ですがけっして“これっきりのとも”ではないはずです」という文章は、本番でのアドリブだったそうです。
 編集部が土田さんに反響に関して話を聞いたところ、「内輪ネタ満載の答辞にもかかわらず多くの皆様にお読みいただき、桐朋の魅力が少しでも伝わったようで何よりです。これからもまだ見ぬ新たな学びを求めて、大学生活を過ごしてまいります」とコメントしてくれました。
 土田さんの答辞には、「あまりにも素晴らしい文章で感動」「こういう言葉が紡ぎ出せることがなんと素敵なことか。豊かな感性」「卒業生全員の文字入れてのあの内容、すごすぎやしない? あっぱれの一言よ…」「溢れる知性とユーモア、仲間への想いを美しい文章へとまとめ上げる文才に感動しました」「答辞で泣くなんて……」「ここ数年の間に読んできた文章で一番胸が熱くなる素晴らしい挨拶だと思います」など、感動した人の声が続々と届いています。
0 notes
missoverlord · 4 years
Photo
Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media Tumblr media
Chico’s Diary: Addendum
WELL.
@klug dropped these on my head. I was excited by photos of ancient printouts, so this is huge. I’ve added the images back into the Diary, and am reasonably sure they’re placed correctly!
https://missoverlord.tumblr.com/post/627632048117612544/chicos-diary-now-complete
... The napping dragon one is my favorite! It’s wonderful to see it again.
30 notes · View notes
Photo
Tumblr media
□■□ 6枚の連続写真です。どうぞ、お見逃しなく! □■□ 令和3年度天皇杯・皇后杯全日本選手権大会 Dec.11(Sat),2021 埼玉上尾メディックス VS 筑波大学 高崎アリーナ(群馬県高崎市) □■□ 筑波大学 (Tsukuba University) #11:佐藤 淑乃 (Yoshino Sato) : Outside Hitter □■□ #筑波大学 #筑波大学女子バレーボール部 #UniversityOfTsukuba #茨城 県 #つくば 市 #土浦 市 #水戸 市 #佐藤淑乃 選手 #YoshinoSato #千葉 県 出身 #排球 #バレー #バレー部 #ハイキュー #バレーボール #バレーボール部 #vリーグ #vリーグ女子 #vリーグはバレーだよ #火の鳥NIPPON #vleague #volleyballgirls #スポーツ #アスリート #ポートレート #ポートレート好きな人と繋がりたい #東京カメラ部 #ファインダー越しの私の世界 #写真好きな人と繋がりたい #写真撮ってる人と繋がりたい □■□ (at Takasaki Arena) https://www.instagram.com/p/CeOED5qvpzk/?igshid=NGJjMDIxMWI=
0 notes
fujimoto-h · 5 years
Text
コロナと2月と白鴉例会と3月と
 2月のブログを書かずに3月のほぼ半分にまで来てしまった。このままでは全部で5人しかいないこのブログの読者はみんな去ってしまっているのではないかと思われるので、ようするにいま現在、このブログは無読者ブログということになる。無読者というこの前提をもとに、私はなにを書けばいいのか。とりあえず作品はほぼ進んでいない。コロナウィルスが流行しだしたころから、ここでコロナビールを呑んだら面白いと考えたりとか、ひょっとしたらコロナビールが風評被害を受けるのではないかと冗談交じりに心配していたものだが、実際に被害が出ているらしいというニュースが流れたあたり(本社は否定)でどうやら醒めてしまい、本日、職場で罹患者が出てしまったあと、これは帰りにコロナビールを買わなければと考えたにもかかわらずすっかり忘れてしまった。帰り道にそこそこの規模の酒類のディスカウントストアがあるというのに。私はいつコロナビールを呑めるのか。とりあえずおかげで20日から22日までの3連休は仕事である。
 2月中にあった大きなことといえば古井由吉氏の逝去だが、これにかんしては追々どこかで文章にまとめて出そうと考えている。年内に。しかし、まずはいまの作品だ。
 2月22日は白鴉例会だった。作品数は3作。終了後、ほぼ全員がそのまま帰り、3人でラーメン屋。白鴉の未来はあなたたちふたりの肩にかかってますよ、と絶賛しておいた。これで残りの『季刊文科』で取りあげられなかったら、これまで保持してきた、白鴉に載せた作品すべてなにかしらで取りあげられてきたという記録が頓挫してしまうのだった。まあ、するだろうな。「小説友達」のほうは『樹林』に載せたときに取りあげられてるが。これをどう判断するかだな。当面はネットで読める最高のレビューがマツ氏のブログということになる。倉数茂氏に31号送ることになったし。
 さいきん再読を進めている『失われた時を求めて』はようやく第1巻を読み終えたところだが、ほかにも読みたい本はいっぱい出てくるので、どうにか折り合いをつけつつうまくやっていきたい。気になった本はメモしていけば忘れないのではないかという気づきを得たので実行したい。
 「東京ポッド許可局」でおなじみのサンキュータツオ氏がパーソナリティになってから聴きはじめたNHKラジオ「すっぴん!」であったが、本日の放送で終了となった。私が聴いたのは1年だけだったが、8年つづいたらしい。そしてこの番組を吉村萬壱氏も聴いていたことが判明。
さいきん読み終えた本 中村一成『ルポ 京都朝鮮学校襲撃事件──〈ヘイトクライム〉に抗して』(岩波書店)2回目。 宋基燦『「語られないもの」としての朝鮮学校──在日民族教育とアイデンティティ・ポリティクス』(岩波書店) 筑紫申真『日本の神話』(ちくま学芸文庫) 金愛爛(キム・エラン)『だれが海辺で気ままに花火を上げるのか』(トランスビュー) 金衍洙(キム・ヨンス)『皆に幸せな新年/ケイケイの名を呼んでみた』(トランスビュー) 金仁淑(キム・インスク)『息、悪夢』(トランスビュー) 呉貞姫(オ・ジョンヒ)『いまは静かな時』(トランスビュー) 殷煕耕(ウン・ヒギョン)『他人への話しかけ』(トランスビュー) 李承雨(イ・スンウ)『死海』(トランスビュー) 李滄東(イ・チャンドン)『男の中の男』(トランスビュー) 林哲佑(イム・チョルウ)『直線と毒ガス』(トランスビュー) 都鍾煥(ト・ジョンファン)『葵のようなあなた ほか』(トランスビュー) 崔允(チェ・ユン)『あの家の前』(トランスビュー) マルセル・プルースト『失われた時を求めて(1)──第一篇 スワン家の方へ(1)』(集英社文庫)
さいきん観た映画 『テリー・ギリアムのドン・キホーテ』 (テリー・ギリアム)シネ・リーブル神戸 『ボーダー──二つの世界』(アリ・アッバシ)塚口サンサン劇場 『AI崩壊』(入江悠)塚口サンサン劇場 『無垢なる証人』(イ・ハン)シネマート心斎橋 『母なる証明』(ポン・ジュノ)シネマート心斎橋 『殺人の追憶』(ポン・ジュノ)シネマート心斎橋 『ハスラーズ』(ローリーン・スカファリア)シネ・リーブル神戸 『スノーピアサー』(ポン・ジュノ)シネマート心斎橋 『ほえる犬は噛まない』(ポン・ジュノ)シネマート心斎橋 『日本のいちばん長い日』(岡本喜八)塚口サンサン劇場 『彼らは生きていた』(ピーター・ジャクソン)テアトル梅田
3 notes · View notes
grossherzigkeit · 5 years
Photo
Tumblr media
【浄土宗の心棒】  去る2月末、宗教の視点から社会をえぐるノンフィクション・マガジン、『宗教問題』誌29号を発行いたしました。今回の特集は「浄土宗大騒乱」。その名の通り、日本を代表する伝統仏教宗派・浄土宗内で、おかしな不祥事が続発していることについて各種の取材をしたものです。  宗教団体もまた人間の集団ですので、残念ながら組織運営上の不祥事というのも、起こらないとは限りません。それこそ『宗教問題』誌というメディア自体が、それらを追いかけ続けながら発行されている媒体で、ちょっと一般の感覚からは目を疑うようなおかしなスキャンダルが発生する場合も多々あります。  ただし、一つの教団から短期間のうちに2つも3つも不祥事が飛び出てくるといった事態も、また珍しいことです。そして浄土宗という教団はここ最近、まさにそのような“珍しい”事態に陥っていたのでした。それぞれの詳細は本誌に書いてある通りですので購読していただきたいのですが、まずは何と言っても大本山清浄華院(京都市上京区)の法主人事問題です。伝統と格式ある大本山の法主(住職)が1年以上にわたり、今現在も空位となっている問題で、かつその原因は清浄華院と、浄土宗の教団本部である浄土宗宗務庁との間の紛争なのだと、これは浄土宗内でもっぱら語られている話です。東京にいるとそんな目につく話でもないのですが、京都では地元の新聞や全国紙の地方版などでかなり盛んに報じられている「一般のニュース」で、かつ今なお解決のメドが立っていない“異常事態”です。また東京のほうでは浄土宗系学校法人・大乗淑徳学園(東京都板橋区)で昨秋、教員が異常なまでの激務を訴えた末に自殺する事件が発生。同学園では教員人事をめぐっての労働争議も発生しており、一体その経営がどうなっているのか、極めて注目すべき事態となっています。そして同じく昨秋、浄土宗の宗務庁では税の申告漏れが発覚し、1400万円の追徴課税を支払うといった事件も起こっています。  前述のように、特に僧侶の個人犯罪でもない、こういう“組織的不祥事”が1年ほどの間に立て続けに発生するというのは、宗教界においてそれなりに珍しいことです。一体この背景には何があるのか、そして浄土宗教団というものの体質とは何なのか、そういう話を、さまざまな浄土宗関係者を訪ね歩いて記事にまとめています。そうした関係者の方々の言、またライターさんたちの取材情報から、“浄土宗の現在”というものを読み取っていただければ幸いです。  ただ雑誌制作を終えて私が個人的に感じたのは、「浄土宗とは意外なほどに中心軸のない教団なのだなあ」ということでした。日本の仏教宗派とは、善しも悪くも“開祖教”のようなところがあります。浄土真宗は“親鸞教”、曹洞宗は“道元教”、日蓮宗は“日蓮教”のような体裁を、“仏教”という枠組みさえ超えかねないほどに追及してしまうような部分が、本当に善しも悪しくもあるのです。ただその“開祖教”心理こそが、そうした宗派に力強い求心力、心棒を与え、今日に至るまでの活力を生み出している部分もあるのです。無論、浄土宗の開祖とは日本仏教史のスーパースターの1人、法然です。浄土宗内にも“法然愛”は間違いなく満ち満ちており、その思いは今日の浄土宗を支える重要な柱の一つです。ただし今回の弊誌の特集でも指摘されていますが、今日の“浄土宗教団”を組織的に成立させたものとは、何よりも政治権力でした。無論、そこには僧侶、信者たちの力も確実に加わってはいるのですが、「徳川家康が信仰し、庇護した宗教が浄土宗だった」という圧倒的事実は、浄土宗の何よりも大きな心棒でした。大本山増上寺は徳川家の菩提寺であり、総本山知恩院は江戸時代を通じて徳川将軍家の養子が門跡(住職)となり、京都東山の地から天皇家の御所を見下ろして威圧する意図さえ込められて、その伽藍を巨大化させていくのです。  徳川幕府を否定して成立した明治新政府は当然のように浄土宗に厳しく、それへの政治的対応に追われた東京・増上寺を中心とした浄土宗の勢力は、知らず知らずのうちに知恩院を中心とした勢力との間に溝をつくっていきます。終戦直後の1947年、知恩院は何と総本山でありながら浄土宗から脱退。この状況は62年に解消しますが、法律的に現今の「宗教法人浄土宗」はこの時にできたもので、実は「その歴史は60年にも満たない」と言うことも、必ずしも間違いではないのです。  以後、「新浄土宗」の中では「新しい教団のあるべき姿を打ち立てよう」という議論よりも、「二度と分裂しないように、激しい議論などは避けてナアナアでやっていこう」という姿勢がむしろ目立ってきたといいます。今回、本誌の取材に応じた前述・清浄華院の執事長は、法主人事混乱の原因の一つとして「出身の地方にもよるが、京都の本山のことなんてどうでもいいという関係者が一定数いる」ということを挙げておられます。求心力、ガバナンス、コンプライアンス、呼び方はさまざまでしょうが、そういった考え方がややもすると浄土宗には希薄な部分があり、それが何かのきっかけで今回、目に見える形で吹き出てきたのかという気もするのです。今回の本誌特集で大乗淑徳学園の不祥事を取り上げましたが、10年ほど前には同じく浄土宗系・佛教大学(京都市)が宗門との関係見直しを画策しているといった情報が流れて騒ぎになったことがありましたし、また同じく浄土宗系・正智深谷高等学校(埼玉県深谷市)が悪質な偽装請負事件を起こしたとしてメディアに叩かれたのは2012年のこと。関係学校に対するグリップも、妙に甘い印象があります。  そして、そういう旧来の体質的問題とともに、現今の浄土宗の動揺のいわば“A級戦犯”として一部関係者が激しく指弾するのが、昨秋まで宗務総長を務めていた豊岡鐐尓氏です。本誌では結局その肉声に触れることはできませんでしたが、同氏に関しては「横暴、傲慢、剛腕」のような世評が確かにあり、特に清浄華院問題に関しては「豊岡氏の個人的なイチャモンのようなことで始まった紛争」と言い切る浄土宗僧侶さえいました。ただし、逆を言えば心棒なきままフラフラとした運営を続けてきた近代の浄土宗にあって、豊岡氏とはそこに強力なリーダーシップを打ち立てようとした、期待のリーダーだったと評する人も同時にいるのです。  豊岡氏は三重県伊賀市の名門浄土宗寺院の生まれで、「そこの寺の住職と言えば、少し前まで押しも押されもせぬ地元の超名士だった」と、ある浄土宗僧侶は語ります。同じ寺の先代住職だった豊岡氏の父親は旧上野市の市長で、豊岡氏はその政治家たる父の膝下で、「政治とは何か」を間近に見て育った人物だそうです。長じて豊岡氏は自身も市長選に出馬するも惜敗。そして宗門政治の世界に入り、2011年に浄土宗の事務方トップ、宗務総長の座に就きます。 「豊岡氏は宗務総長になって執務室に入った時、そこに飾られていた過去の総長たちの肖像を見て不遜な感じで笑ったという。『俺はこんな奴らとは違うのだ』と言わんばかりの態度で。だが、それが彼の個性であり、その“力強さ”に期待を寄せていた宗門人は少なからずいた」(ある浄土宗僧侶)  現在、豊岡氏は浄土宗内で極めて毀誉褒貶の多い人物になっています。それは彼がある意味で“ナアナア”ではない、ハッキリとした態度を示す人物だったことをも表しているのだろうと、私は感じています。ただし、“政治”とは結果責任です。豊岡氏の剛腕は結果的に浄土宗に混乱と動揺をもたらしただけで、総長3期目を狙った活動も頓挫、昨秋に地位を降りたことは前述の通りです。  浄土宗とはかくのように、歴史的にかなり根深い課題を抱えた宗教団体で、今回本誌が特集で取り上げた諸問題は、たまたまそうしたマグマが分かりやすく地表に出てきた瞬間の像だったのかもしれません。本誌は「宗教の視点から社会をえぐるノンフィクション・マガジン」を標榜するメディアですが、今回の特集はそんな浄土宗という“狭いコップの中の騒動”を切り取ったものに過ぎぬ、社会的な視点への広がりはない、悪い意味での業界紙的特集と呼ぶこともできるとは思います。ただ、“ナアナア”でことが動く時代は過ぎ去り、良質なリーダーシップというものが求められている時代に、社会全体が移行しつつある現在であるのも事実かと思います。そういう時代の中で、あえて今回「浄土宗」というコップの中の嵐を、読者の皆様に提示させていただいた次第です。ご関心ある方々にご購読いただければ幸いです。
2020年3月12日 小川 寛大
↓↓↓『宗教問題29』のアマゾンでのご予約・注文は以下から!!↓↓↓ https://www.amazon.co.jp/dp/4991000289
4 notes · View notes
kachoushi · 6 months
Text
各地句会報
花鳥誌 令和6年4月号
Tumblr media
坊城俊樹選
栗林圭魚選 岡田順子選
���……………………………………………………………
令和5年1月6日 零の会 坊城俊樹選 特選句
ドッグラン鼻と鼻とで交はす賀詞 荘吉 裸木のはるかを白く光る街 要 頰切るは鷹の翔つ風かもしれず 順子 人波をこぼれながらの初詣 光子 焼芋の煙たなびく志んぐうばし 和子 群衆といふ一塊の淑気歩す 順子 寒雀神馬と分かちあふ日差し 光子 寒雀入れ神苑の日のたまり 同 寒の水明治の杜のまま映す 小鳥
岡田順子選 特選句
跼り清正の井を初鏡 昌文 本殿につぶやく寒紅をつけて 光子 楪の浴ぶる日我にゆづらるる 慶月 肺胞に沁み込んでゆく淑気かな 緋路 冬草や喧騒去りて井戸残し 眞理子 馬見えぬ乗馬倶楽部の六日かな 六甲 寒鯉来おのれの色の水を分け 緋路 寒椿落つれば湧くや清正井 眞理子 寒の水明治の杜のまま映す 小鳥
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月6日 色鳥句会 坊城俊樹選 特選句
一束もいらぬ楪もて遊ぶ 成子 深井より羅漢に供ふ冬の水 かおり 赤なまこ横目に買ひし青なまこ 久美子 畳みたるセーターの上に置くクルス かおり 再会のドアを開けばちやんちやんこ 朝子 半泣きのやうに崩るる雪兎 成子 火を見つめ男無口に薬喰 かおり 歳晩の一灯母を照らすため 朝子 悴みて蛇となる能の女かな 睦子 その中の手話の佳人やクリスマス 孝子 悪童に悲鳴をはなつ霜柱 睦子 凍空とおんなじ色のビルに棲み かおり かくも典雅に何某の裘 美穂 唐突に雪投げ合ひし下校の子 成子 楪や昔硝子の磨かれて かおり 奥伝の稽古御浚ひする霜夜 愛 出会ひ重ね寿限無寿限無と年惜む 美穂 冬灯一戸に遠き一戸あり 朝子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月8日 武生花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
流れ来し葉屑も霜を置いてをり 昭子 御慶述ぶ老いも若きも晴れやかに みす枝 初春の光りまとひし石仏 ただし 神なびの雨光り落つ氷柱かな 時江 地震の中産声高き初笑ひ ただし 歌留多とり一瞬小町宙に舞ふ みす枝 まだ誰も踏まぬ雪道新聞来 ただし 奥の間に柿餅吊し賑はへり 時江 さびしさの枯野どこまで七尾線 昭子 万象の音の鎮もり除夜の鐘 時江
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月9日 萩花鳥句会
初句会吾娘よりホ句のファクシミリ 祐子 書き初め震何んぞ訳あり辰に雨 健雄 吹雪突き突進するエネルギー 俊文 日本の平安祈る今朝の春 ゆかり こがらしが枯葉ころがしからからと 恒雄 平穏な土地にて食べる七草粥 吉之 御降や茶筅ふる音釜の音 美惠子
………………………………………………………………
令和5年1月10日 立待花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
被災地にすがりし木の芽盛んなる 世詩明 的中の乾いた響き弓始 誠 初場所の桟敷の席の晴れ着かな 同 初御空耶馬台国は何処にぞ 同 石段を袖振り上がる春著の子 同 細雪番傘粋に下駄姿 幸只
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月11日 うづら三日の月花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
年上の夫に引かるる初詣 喜代子 地震起こり慌てふためく大旦 由季子 曇り拭き笑顔映りし初鏡 さとみ 地震の地にぢりぢり追る雪女 都 冴ゆる夜の天井の節をまじまじと 同 男衆が重き木戸引き蔵開き 同 寒月や剣となりて湾の上 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月12日 鳥取花鳥会 岡田順子選 特選句
海鳴や雪の砂丘は祈りめく 都 初電話卒寿は珠のごと笑ひ 同 針始友が未完のキルト刺す 同 授かりし神の詞や竜の玉 悦子 蜑に嫁し海山詠みて老いの春 すみ子 焚上げの火の粉加勢や冬銀河 宇太郎 古傷を思ひ出させて寒四郎 美智子 枯葦の透き間に光る水一途 佐代子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月12日 風月句会 坊城俊樹選 特選句
寒の雨誦経とよもす陽子墓碑 文英 寒林を上り来よとて母の塔 千種 顔消えし元禄仏へ寒菊を 慶月 道祖神寄り添ふ寒の雨うけて 慶月 就中陽子の墓所の蕗の薹 幸風 裸婦像の背にたばしる寒の雨 同
栗林圭魚選 特選句
信州へ向かふ列車の二日かな 白陶 寒林を上り来よとて母の塔 千種 晴天の初富士を背に山降る 白陶 大寺の太き三椏花ざかり 幸風 空までも続く磴なり梅探る 久 はればれと良き顔ばかり初句会 三無 就中陽子の墓所の蕗の薹 幸風 五姉妹の炬燵の会議家処分 経彦 走らざる枯野の車両咆哮す 千種 凍蝶のポロリと落つる影哀れ れい 三椏の開花明日かと石の門 文英
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月13日 枡形句会(一月十三日) 栗林圭魚選 特選句
嗽ぐをどる喉越し寒の水 幸風 七福神ちらしの地図で詣でをり 多美女 七福神詣りしあとのおたのしみ 白陶 凍て鶴の青空渡る一文字 幸子 金継ぎの碗に白湯汲む女正月 美枝子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月15日 なかみち句会 栗林圭魚選 特選句
曇天に寒紅梅や凜と咲く のりこ 寒梅のつぼみの枝の陽の仄か 貴薫 青空に白き寒梅なほ白く 史空 朝の日に紅色極め寒椿 廸子 我が机散らかり初めし二日かな 和魚 倒れ込む走者にやさし二日かな 三無 釦穴に梃摺る指や悴かみて あき子 夢てふ字半紙はみ出す二日かな 美貴 二日早主婦は忙しく厨事 怜 りんご飴手に兄妹日向ぼこ 秋尚 雪遊びかじかむ手の子包む母 ことこ
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月16日 さくら花鳥会 岡田順子選 特選句
幼子の運を担いで福引へ 実加 寒空や命尊きこと思ひ みえこ ことわざを子が覚えをりかるた取り 裕子 元旦の母と他愛もない話 同 元旦や地震の避難を聞くことに みえこ 初詣車椅子の児絵馬見上ぐ 実加
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月17日 伊藤柏翠記念館句会 坊城俊樹選 特選句
古里に温石と言ふ忘れ物 雪 師の墓に愛子の墓に冬の蝶 清女 寒の月見透かされたり胸の内 眞喜栄 鴨浮寝無言の中にある絆 同 降る雪を魔物と今朝を天仰ぐ 英美子 藪入りも姑の一言行けぬまま 同 庭仕事今日冬帝の機嫌よき かづを 玻璃越に霏々と追はるる寒さかな 同 正月が地獄の底に能登地震 みす枝 雪しまき町の点滅信号機 ただし お御籤の白き花咲く初詣 嘉和 若狭より繋がる水脤やお水取 やす香 水仙の香りて細き身の主張 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月17日 福井花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
寒紅の濃き唇が囁きし 世詩明 お雑煮の丸と四角と三角と 同 正月の馳走其々ある謂れ 千加江 新年の風も言の葉も美しく 和子 磯の香も菰巻きにして野水仙 泰俊 捨て舟を取り巻くやうに初氷 同 左義長や炎崩れて闇深し 同 去年今年形見の時計よく動く 同 ふと今も其の時のマフラーの色 雪 天地に誰憚からぬ寝正月 同 迷惑を承知の猫に御慶かな 同 不器用も父似の一つ初鏡 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月17日 鯖江花鳥句会(一月十七日) 坊城俊樹選 特選句
而して九十三の初鏡 雪 蛇穴に入り人の世は姦しく 同 紅を差し眉ととのへて近松忌 同 懐手おばあちやん子を憚らず 同 鬼つ子と云はれて老いて近松忌 同 着膨れて顔ちさき女どち 一涓 歌かるた子の得て手札取らずおく 昭子 年新たとは若き日の言葉とも やす香 新年を地震に人生うばはれし 同 元旦を震はせる能登竜頭めく 同 裂帛の気合を入れて寒みそぎ みす枝 風の神火の神乱舞どんど焼き ただし 八代亜紀聞きをり外は虎落笛 清女 寒怒濤東尋坊に砕け散り 同 波の腹見せて越前浪の華 世詩明
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年1月19日 さきたま花鳥句会
月冴えて城址うろつく武者の翳 月惑 仲見世を出て蝋梅の香に佇てり 八草 枯菊や木乃伊の群の青き影 裕章 寒鴉千木の反り立つ一の宮 紀花 合掌す金波銀波の初日の出 孝江 青空に白き一機や寒紅梅 ふゆ子 初詣令和生まれの児と犬と ふじ穂 白鼻緒水仙の庫裏にそろへあり 康子 激震の恐れ記すや初日記 恵美子 お焚き上げ煙を浴びて厄払ひ 彩香 我が干支の年につくづく初鏡 みのり 家篭りしてをり冬芽萌えてをり 良江
………………………………………………………………
令和5年12月1月 花鳥さざれ会 坊城俊樹選 特選句
師を越ゆる齢授かり初鏡 雪 初笑玉の如くに美しく 同 大晦の右大臣左大臣 同 猫の名は玉と答へて初笑 同 天が下縁深めゆく去年今年 数幸 能登の海揺るがし今日の空冴ゆる 和子 しろがねの波砕かれて冴え返り 笑子 語り継ぐ越前の秘話水仙花 同 雪降れば雪に従ふ越暮し 希子 皺の手にマニキュア今日は初句会 清女 初電話親子の黙を解きくれし 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年11月 花鳥さざれ会 坊城俊樹選 特選句
蟷螂を見て戻りたるだけのこと 雪 もて余す老に夜長と云ふ一つ 同 蟷螂の緑失せつゝ枯れんとす 同 小春日や袱紗の色は紫に 泰俊 正座して釜音聞くや十三夜 同 海沿ひにギターの調べ文化の日 千加江 枝折戸をぬけて紅さす返り花 笑子 祇王寺の悲恋の竹林小鳥来る 同 大胆な構図を取りし大銀杏 和子 宿の灯も消して無月の湖明り 匠 秋の海消えゆくものにますほ貝 天空 落葉降る賽の河原に降る如く 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年12月 花鳥さざれ会 坊城俊樹選 特選句
異ならず枯蟷螂も人老ゆも 雪 世の隅に蟷螂は枯れ人は老い 同 無造作に残菊と言ふ束ね様 同 冬ざれや汽車に乗る人何を見る 泰俊 石膏でかたまりし腕冬ざるる 和子 山眠る小動物も夢を見る 啓子 路地裏の染みたる暖簾おでん酒 笑子 冬ざれや路面電車の軋む音 希子 おでん屋の客の戯れ言聞き流し 同 風を背に連れておでんの客となり かづを にこにこと聞き役おでん屋の女将 同 冬紅葉地に華やぎを移したり 同 街師走見えざるものに背を押され 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
1 note · View note
sorairono-neko · 5 years
Text
ぼくにいいこと
 ヴィクトルと初めて抱きあったのは、グランプリファイナルののち、それぞれ日本とロシアへ帰るという日の前夜のことだった。八ヶ月も一緒にいた最愛の彼と離れるのはつらく、かなしく、せつないことだった。勇利は、ヴィクトルと別れることを覚悟し、その別れもみずから切り出したのだったが、そんな結末にはならないとわかると、今度はひどく離れがたくなった。あきらめきったものならそのままあきらめられるけれど、そうでないとなると、へだたりができるのが苦しいものである。もちろん、本当に永遠の別れとなってしまうより、一時的に離れて再び会えるほうがずっとしあわせだ。だが、それがわかっていても、幼いころから人生を捧げて追いかけ続け、八ヶ月のあいだに濃密な愛を交わしたいとしい男との別れは耐えがたいものだった。  ふたりはごく自然に身を寄せあい、ひとつのベッドに入った。一枚一枚服を慎重に脱ぎ、互いの熱を感じて、夢中で愛しあった。ヴィクトルのくちびるが身体のいたるところにふれ、勇利は甘い感覚を知った。初めての体験だったが、勇利はおそれも苦痛もなく、ヴィクトルを信じて彼の愛撫に身をまかせた。ヴィクトルは優しく、愛情深く、熱烈で、彼にはこんな顔もあるのかと勇利は驚いたり喜んだりした。また知らなかったヴィクトルのことをひとつ知ってしまった。明け方まで愛を交わし、身もこころも落ち着くと、勇利はヴィクトルの腕をまくらにしてぼんやりとつぶやいた。 「デュエットするみたいな感じなんだね……」  エキシビションで披露した「離れずにそばにいて」を言外にほのめかすと、ヴィクトルは笑って「そうだね」とうなずいた。勇利は満足して彼の胸で眠りについた。睡眠はごく短い時間だったが、翌朝はふたりともすっきりと目ざめ、すがすがしい表情で笑みを交わした。  ヴィクトルとセックスをするということについて考えたことがなかったわけではなかった。ヴィクトルとともにいる時間が長くなり、彼への愛が深まるにつれ、その愛をあらわすもののひとつとして、そういうことがあるのもすてきなのではないかという気が勇利はしていた。実のところ、ヴィクトルからもそんな気配がうかがえて、ふたりきりでいるとき、なんとも微妙な、艶のある視線を交わらせることがあった。しかし勇利は未経験だし、「ヴィクトル、セックスしようよ」なんてとても言えなかった。ヴィクトルも言わなかった。言って欲しいわけではなかった。もしかしたらいずれ、そんなことがあるかもしれない。そんな気持ちだったのだ。ごく自然に──当たり前のようにそういうことになるかもしれない。あるいは、ある日突然、ヴィクトルが熱狂的に望むかもしれない。 「勇利、俺は勇利を抱きたい。どうしてもおまえを俺のものにして、おまえのなかに入って、俺の痕跡を刻みつけたいんだ」  そんなふうに言われたらどきどきするだろうなと思った。ヴィクトルに求められたかった。ああ、ヴィクトルに夢中で抱きしめられたい。何がなんでもおまえを抱きたいとあの深い甘い声で、水際立った口ぶりで言われてみたい。呼吸をするように、日常のいとなみとして始まるのでないのなら、そんなふうになるのが勇利の希望だった。  結局、ヴィクトルとは自然な感じでそうなり、当たり前のなりゆきとして愛の行為に至ったが、それは勇利の中で強烈な思い出となった。ヴィクトルと離れているあいだも、その夜を思い起こせば陶然となった。さびしくはあったけれど、泣きたいほどせつなくはならなかった。勇利は完全に幸福だった。  春になり、ロシアへ渡り、ヴィクトルと再会した。ヴィクトルは相変わらずかっこうよく、優しく、元気で、よくしゃべった。たまに──いや、ひんぱんに妙なことやわがままも言うけれど、勇利はまったく気にしなかった。ヴィクトルの変な意見を聞いていると楽しかった。  部屋は別々だった。勇利はそれで不満はなかった。毎日が充実しており、スケートも、ヴィクトルと過ごす時間もみちたりていた。再会して一ヶ月が過ぎても、ふたりが同じベッドに入ることはなく、勇利はそれを不思議にも思わず素直に受け止めていた。 「──戻るの?」 「ああ」  ほの暗い中でヴィクトルが身動きし、衣服に腕を通していた。勇利は背中までしっかりと筋肉をまとっているかっこうよい後ろ姿を、まくらに頬をうめながら見守っていた。ロシアは薄曇りが多く、からっと晴れることがめったにない。白夜の時期は日が沈むことはないが、それでも朝のひかりは昼間のそれとはまるでちがっている。そんな中でも、ヴィクトルの姿はうっとりするほど神々しかった。白夜のあいだはずっとこうなのだろうか? やわらかな、霞のような色がにじむのだろうか。今度ヴィクトルに訊いてみよう。  ヴィクトルが立ち上がった。勇利は、やっぱりかっこいい、とその背に向かってくすっと笑った。おぼえているのはそこまでで、すぐに意識が途切れ、すうすうと眠ってしまった。  こんなことになったのはどうしてなのか、よくわからない。こちらへ来て一ヶ月とすこしのあいだは、そんな気配はまるでなかったのだ。たわいないことを話したり、スケートのことを語りあったり、冗談のようなくだらない言い争いをしたり、相手の行動に笑い転げたりと、ごく普通の、親しい間柄を保っていた。どちらかが何かを我慢しているという感じもなかった。無理なく、当たり前に過ごしていたのだ。だが──、なぜか、こうなった。初めてそうなった夜と同じように、ごく自然に……。  あれは、そう──、雨の降る夜のこと。居間でテレビを眺め、そろそろ寝ようかと立ち上がったところで、ヴィクトルも腰を上げて言ったのだ。 「勇利の部屋へ行きたいんだけど、いいかな?」  まるで、「明日はふたりで買い出しに行こう」というような、なめらかな言葉つきだった。にもかかわらず、勇利にはヴィクトルの言いたいことがわかった。戸惑いも、困惑も、不安もなかった。勇利は瞬いてからこっくりうなずき、「いいよ」と答えた。それでヴィクトルは勇利の部屋へ来、ふたりはあのグランプリファイナルの夜以来、初めて服を脱いで同じベッドに入ったのだ。  あんなふうにあっさり返事をしたりして、はしたないとか、ふしだらだと思われただろうか。簡単に寝るやつなのだとあきれられただろうか。いや、ヴィクトルはわかっているはずだ……。  翌朝、勇利が目ざめたとき、ヴィクトルはベッドにいなかった。台所へ行くと彼は食事をつくっていて、いつも通りの快活な様子で「おはよう」と言った。勇利もおはようと返し、朝食づくりを手伝った。  それから何日かに一度、ヴィクトルは勇利の部屋を訪問するようになった。勇利が断ったことはない。いつだってヴィクトルを受け容れた。ヴィクトルはいつも、早くに勇利の部屋を出て、自室へ帰ってゆく。もう両手の指の数では足りないくらい彼と行為をしているけれど、ふたり一緒に目がさめたのは、あの十二月の夜一度だけだった。なぜ早起きして戻るのか、訊いてみたことはない。とくに理由はないのかもしれない。勇利は気にしていなかった。それがヴィクトルのやり方なのだろう。彼の好きなようにしてくれたらいいと思う。  そういうことの翌日は、勇利は部屋のくず入れをのぞき、あちこちぬぐったティッシュペーパーをまるめたのや、ヴィクトルが外して口を縛ったゴムなどを大きなゴミ入れに片づけた。ことの最中ベッドに敷いていたバスタオルと、身体を清潔にするために使った濡れタオルも勇利が洗った。ヴィクトルがそうするよりさきに、自分からしていた。そのまま洗濯機に入れるのは気が引けるので、まずは手洗いをするのだが、そのあいだ、ヴィクトルがしたことや彼の熱烈な瞳を思い出して、ゆうべのヴィクトル……と思いをめぐらせたりした。  その夜もヴィクトルは勇利の部屋を訪れて、勇利を時間をかけてとろけさせ、抱いた。勇利は気持ちのよい疲れに身をまかせ、そのまま眠ってしまった。そして目をさましたら、ヴィクトルが衣服を身につけているところだった。このときに目ざめてしまうことが多いのは、単純に勇利の眠りが浅くなるころだからか、それともヴィクトルのぬくもりが離れて肌寒さをおぼえるからか。 「戻るの……」 「ああ」  ヴィクトルは立ち上がると身をかがめ、勇利のねぼけ顔をみつめてほほえんだ。 「寝てていいよ」 「ヴィクトル……」 「なんだい」 「今日の、すごくよかった……」 「うん?」 「あ……、いつもいいんだけど。全部いいんだけど、最後のときに、してくれたやつが、なんか好きだよ……」  勇利はヴィクトルがおこなった愛撫をたどたどしく説明した。およそ意味をなしていない単語の並べ方だったのにヴィクトルは理解したらしく、「おぼえておくよ」と優しく言った。 「じゃあ、次もするね」 「うん……。でも、ほかのも、して」 「もちろん」  ヴィクトルが笑った。勇利はその笑顔に見蕩れ、うっとりしながら眠りについた。  今夜はヴィクトルが遅い。帰れないかもしれないと言っていた。勇利は、食事に行こうと誘ってくれたリンクメイトにうなずいて、一度着替えのために家へ戻った。人付き合いは、デトロイトにいたころよりは活発で、五回に一回は応じることにしている。  ちょっと雰囲気のいいバーだというので、見栄えの悪くないシャツとボトムス、それにヴィクトルが似合うと言った上着を着た。いつものままでは服装に釣りあわないので、髪も一応上げておいた。これでまあ見られるだろうと、リンクメイトから説明された店に向かい、そこで相手と落ち合った。確かに大人っぽい感じの、落ち着いたところだった。勇利は酒は飲まないようにし、水と、きのこや野菜の詰め物を頼んだ。カウンター席で隣に座ったリンクメイトは、綺麗な色の飲み物を楽しそうに飲みながら、コーチに叱られた話やスケートにおいて得意なこと、苦手なことを語っていた。食事が終わるころ、彼の携帯電話が鳴って、彼は顔を輝かせた。 「本当に? ああでも──いまちょっと──明日は?」  漏れ聞こえる声は女性の声だった。勇利は、毎日昼休みに、この男がうれしそうに恋人の話をしていることをうっすらとではあるが知っていた。相手の仕事が忙しいらしく、めったに会えず、さびしいと嘆いていた。勇利は察しをつけ、ちいさな声で「ぼくのことなら気にしないで」と言った。彼は目を大きくして、申し訳なさそうに眉を下げた。すこし話したあと、彼は電話を切った。 「ごめん。彼女、急に仕事が繰り下げになって、たまたま予定が空いたらしいんだ」 「貴重な時間なんだから行ったほうがいいよ」 「こっちから誘ったのに悪いな。ここは払わせてくれ」  彼は勇利のぶんも支払い、何度も謝りながら帰っていった。勇利は皿の上のものを食べてしまうと、追加で飲み物を頼み、ゆっくりしていくことにした。どうせヴィクトルは帰ってくるかわからないのだ。  しばらくすると、隣に女性が座って何か語り始めた。ロシア語だったので勇利は困り、話せないということをどうにか伝えた。すると彼女は肩をすくめて別の席へ移った。さらにすこししてから、このほどは男性がやってきた。彼もまたロシア語で何か言うので、勇利はかぶりを振った。そういうことが幾度か続いた。勇利は、ひとりでのんびりしたいのになんでこうなるのだろうと困惑し、もう帰ろうかと考えた。 「ナンパされてるのよ。わかってる?」  この言葉は理解できた。いま隣に座った女性は英語を話した。 「えっ、そうなの?」 「そう。綺麗な子がひとりでさびしそうに座ってたら、誰だって声をかけるわよ」 「ははは……」  称賛の言葉は適当に聞き流すことにして、さびしそうに見えたのだろうかと勇利は思案した。べつにさびしくはないし、何も考えていなかったのだけれど。 「その反応を見るに、ついていく気はないみたいね。安心して。私はナンパ��ゃないから。隣に人がいたら誰も寄ってこないからね」  親切のつもりらしい。勇利は苦笑を浮かべた。 「どうもありがとう」  彼女は新しく一杯注文すると、勇利のほうを見もせずに言った。 「おごってもらおうとも思ってないから、そこも安心して」 「はい……」 「ちょっと聞いてくれる?」  勇利は目をまるくした。親切というより、自分が話を聞いてもらいたかっただけなのかもしれない。すこし酔っているようだった。彼女は、今日は彼氏とここで会うはずだったのにだめになってしまった、仕事だから仕方ない、でもつまらない、というようなことを話した。リンクメイトは仕事がずれて彼女と会うことができ、この女性はその反対で彼氏と会えなくなった。不思議な偶然もあるものだと勇利はぼんやり聞いていた。  途中から、彼女の話は彼氏の自慢になった。どれほど優しいか、かっこうよいか、愛してくれているか、ということを語り尽くしたあと、彼女はふうっと息をついて勇利を見た。 「あなたは?」 「え?」 「そんなに綺麗なら、愛を捧げる男や女がぞろぞろいるでしょ」 「いや、そんな……、ぞろぞろ?」 「声をかけられてもついていかないんだし、意中の相手がいるってわけよね?」  勇利はヴィクトルのことを考えた。 「……愛してる相手はいるよ」  別に隠すことでもない。ヴィクトルへの愛についてだ。勇利はかすかに笑って答えた。 「ふーん。男? 女?」 「男の人」 「どういう関係? あら、指輪をしてるのね。結婚してるの?」 「ちがうけど」 「でもベッドは同じでしょ?」 「たまにね」 「毎日じゃないの」 「毎日じゃない。明け方まで一緒にいて、ぼくが寝てるあいだに帰っていく」 「なあにそれ」  彼女は憤慨し始めた。 「やるだけってこと?」  勇利は笑ってしまった。 「あなた、そんなのゆるしてるの?」 「ゆるしてるというか……」 「だめ。なに考えてるのよ。そんな男はね……」  彼女が何かまくし立てている。勇利はヴィクトルのことを思い出した。ヴィクトルは勇利を抱くとき、いつもやわらかい表情をしている。うっとりして、陶然となっているようだ。彼はとろけるような声で言うのだ。 「勇利、すてきだよ。まるで淑女みたいだね……」  何が淑女なんだか。言われたときのことを思うと可笑しくなってしまう。しかしそのときのヴィクトルは真剣だし、勇利もおとなしく彼の甘い声に聞き入っている。  ヴィクトルは、声音も顔つきも優しいけれど、深く交わっているときは熱烈だ。勇利は声を漏らして泣いてしまう。 「生まれたての仔犬みたいな声であえぐね……いつも」  終わったあと、勇利の髪を撫でながらヴィクトルはそんなことをささやく。 「ちょっと、そういうこと言わないでよ……」 「わかったよ。怒らないで。かわいいと言ってるのに。機嫌が悪いね。よくなかった?」 「よかったよ。でも、あれ、やめてもらいたい」 「なに? 痛くした?」 「そうじゃなくて。ヴィクトル、口に出すでしょ。ぼくがどんなふうになってるとか、いま自分がどんなふうに気持ちいいかとか。ああいうの、好きじゃないな、ぼく……」 「素直な気持ちなんだ」 「ヴィクトルがぼくの身体をいいと思ってくれてるのはうれしいんだよ。でも、ぼくの具合がどうとか、さっきよりこうなってるとか、そういうのをいちいち──」 「そういうのを言葉にするのがまた気持ちいいんだ」 「ヴィクトルの精神状態ってどうなってるの?」  そんな会話を思い出し、勇利はくすくす笑ってしまった。そのあとのセックスでも、ヴィクトルは最中にいろいろ話すのをやめなかった。勇利は、いい加減に……と腹を立てたけれど、可笑しくなってきて、笑いをこらえるのが大変だったのだ。もっとも、すぐにおもしろがっていられないような状況になったけれど。 「がつんと言ってやらなきゃだめよ」  彼女が何か言っている。勇利は我に返った。ゆっくりと瞬いて、この人、ぼくの代わりに怒ってくれてるみたいだ、と思った。 「つけ上がらせると、そのうち……」  ふいに鼻先に親しみ深い匂いが差しこんで、勇利は顔を上げた。見るとヴィクトルが立っており、彼はかすかにほほえんでいた。あ、と勇利は口をひらいた。帰ってきたらしい。一応、と思い、居間のテーブルに行き先を記したメモ用紙を残してきたのだ。 「ただいま」 「おかえり」 「こちらは?」  ヴィクトルが隣の女性を見た。彼女はぱちりと瞬き、「ヴィクトル・ニキフォロフ!」と高い声を上げた。それから勇利に目を向けて尋ねた。 「ヴィクトルが彼氏なの?」 「彼氏というか」  ヴィクトルのファンかな、と思ったら、彼女はいきなり立ち上がり、ヴィクトルに向かって一方的にしゃべり始めた。 「彼をベッドにひとり残して帰るなんてどういうつもり! 信じられない! 彼がどれだけさびしい思いをしてるか、わかってるの?」  ヴィクトルはきょとんとした。勇利は笑い出した。 「笑ってないで言ってやりなさいよ。ヴィクトル、彼のこと、もてあそんでるの? たぶらかして、やるだけやって、あとはどうするつもりなのよ? 都合のいい相手? セックスフレンド? 大人の関係ってわけ? これだからいい男っていやなのよ」  ヴィクトルは目をまるくしている。 「世界一もてる男ならなんでもゆるされると思ったら大間違いよ!」  勇利は口元を押さえて笑いを��した。 「彼のこと、しあわせにしなさいよね!」  彼女は言うだけ言って息をつくと、「じゃ、帰るわ」と突然冷静になって、支払いを済ませ、店を出ていった。ヴィクトルはずっとあぜんとしていた。勇利は立ち上がり、「ぼくたちも帰ろう」と提案した。  ふたりで並んで夜道を歩いた。風がすこしつめたかった。勇利は上着の前をかき合わせた。 「早かったんだね」 「たまたまね。仕事が早めに済んだ」 「そっか。ぼくは今夜は会える側の人間だったか……」 「なんのことだい?」 「べつに」 「彼女は?」 「知らない人。仕事で彼氏と会えなくなったから、その愚痴を聞いて欲しかったみたい。あと、彼氏自慢された」 「そうか……」  その夜もヴィクトルはやってきて、勇利を抱いた。しているときは相変わらず、自分がどれほど気持ちがよいか、勇利の身体はどんな感じか、勇利の声はかわいらしい、というようなことを話していた。勇利は、そこはいい、そっちはだめ、とよわよわしくヴィクトルに懇願した。 「時間をかけるから……」 「うん……」 「ゆっくりね……」 「ん……」 「……もういいかい?」 「いいよ……」  実際、ヴィクトルは勇利を甘くとろけさせることに意欲的で、勇利は気遣われすぎているくらいだった。 「もっと好きにしてもいいんだよ」  終わったあと、勇利はヴィクトルの胸に頬を寄せてうっとりと目を閉じた。 「好きにしてるよ」 「そう……」  勇利はそれきり眠りに落ちた。次に目がさめたとき、室内はあわい暗さで、すぐ前にヴィクトルの整った顔とがっしりした男らしい身体があった。あれ、と勇利は不思議になった。一瞬、まだ真夜中なのだろうかと疑った。しかし、部屋の中にはあの独特の霞がかったひかりが差しこんでいて、ヴィクトルが自室に戻りそうな頃合だった。勇利は自分が寝惚けているのかと思い、これは夢の続きかと考えた。しばらくすると完全に頭がはっきりして、ようやく本当のことだとわかった。ヴィクトルが、勇利が起きたことに気がついて、かるく額に接吻した。 「まだいたの……」  ヴィクトルがちいさく笑った。 「追い出したそうだね」 「そうじゃないよぅ……いつもいないから……」  勇利はふわっとあくびをし、ヴィクトルの端正なおもてをみつめて、「なんでいるの?」と尋ねた。ヴィクトルはほほえんだだけだった。 「まだ時間じゃない?」 「勇利……、勇利は俺のこと、どう思ってるの?」 「どうって?」  勇利はゆっくりと瞬いた。 「ヴィクトルだと思ってるけど……」 「ゆうべ店で会った、あの女性のように考えてるのかい?」 「え? なんだっけ……」  勇利は考えこみ、その言葉を思い出した。もてあそんでるの? たぶらかして、やるだけやって、あとは……。勇利は笑ってしまった。 「勇利はさびしい思いをしていた?」 「してないよ」  勇利は笑いをかみ殺しながらささやいた。 「俺はそんなつもりはちっともなかった」  ヴィクトルが誠実に言った。 「でもよくよく考えてみたら、彼女の言い分はしごくまっとうだという気がした。勇利、なぜ彼女に俺の話をしたんだ?」 「ヴィクトルのことだとは言ってないよ」 「でもそういう相手がいると話したんだろう? 朝にいなくなってしまうと」 「それを気にして今日はいるの?」 「勇利」 「のろけたつもりだったんだよ」  勇利は正直に打ち明けてから、自分の言ったことがおもしろく、また笑ってしまった。ヴィクトルが目を大きくした。 「のろけた……?」 「でも、そうは思われなかったみたいだね。ちょっとびっくり」 「勇利……、いったいどんな話し方をしたんだ?」 「そっか。ぼくはヴィクトルにもてあそばれてたのか……」  勇利は掛布の下でヴィクトルの手にふれ、くすっと笑った。 「たぶらかしてるの?」 「たぶらかされてるのは俺のほうだ」 「濡れ衣だよ」 「証言すると、もう何百回もそんな目に遭ってる」 「何百回もしてないよ」 「セックスしてないときもたぶらかされてる」 「えっちって言ってみて」 「俺たちが何回えっちしたか知ってるかい?」 「今夜ので十四回目だよ」  ヴィクトルが驚いた顔をした。 「本当に?」 「本当」 「数えてるの?」 「ヴィクトル数えてないの?」 「俺は正気じゃないんだ……」 「ぼくがうれしくて指折り数えてるっていうのに」 「セックスフレンドって言われた」 「ぼくが言ったんじゃない」  勇利はいたずらっぽくヴィクトルをみつめた。 「ぼくがそう思ってると思ってる?」 「そう思っていたらいやだなと思ってる」 「ぼくもなじったほうがよかった? どういうつもりなの、ぼくは遊ばれてるの、ひどい、って」  勇利はまぶたをほそめた。 「ヴィクトルはぼくで遊ぶようなひとじゃないでしょ」 「…………」 「もてあそばれてると思ったことも、たぶらかされてると心配したこともありません」  ヴィクトルがくちびるを動かした。勇利は熱心にささやいた。 「ヴィクトルは、ヴィクトルだからね……」 「…………」 「ヴィクトルはぼくにとっていいことしかしないでしょ。だから、ヴィクトルがしてるなら、これがいちばんなんだろうなあって……、はっきりそう考えてたわけじゃないけど。いま言葉にするとそんな感じ……」  勇利はだんだん眠くなってきた。そうだ。いつもこの時間にヴィクトルが出ていって、それからまた勇利はひと眠りするのだ。眠いはずだ。 「それにヴィクトル、とてもよくしてくれるし……」  ヴィクトルが声をひそめた。 「それは、セックスで、ということ?」 「そういうこと口に出さないの……」 「口に出さなかったら勇利はわかってくれないじゃないか」 「でも今回はわかってたでしょ」  勇利は、ふう、と息をついた。 「部屋に戻りたいなら戻っていいんだよ。心配しないで。ぼくも気にしないから……」 「…………」 「ああ、こんな時間にいっぱいしゃべっちゃった……。眠いから、寝るね。おやすみ……」  勇利はまぶたを閉ざし、口元にかすかな笑みを浮かべて寝入ろうとした。しかし、眠りはさまたげられた。ヴィクトルが勇利の肩を押してあおのかせ、のしかかって重みをかけてきたからだ。 「なに……?」  勇利は目をひらいた。はっとした。ヴィクトルが瞳にくるおしいほどのひかりを浮かべ、勇利の手首を押さえて低く言った。 「勇利、おまえを抱きたい。どうしてもおまえを俺のものにして、おまえのなかに入って、俺の痕跡を残したい」  勇利は一瞬のうちにものが言えなくなった。鼓動があっという間に高鳴り、ちいさく、待って、とくちびるを動かすことしかできなかった。しかしヴィクトルは待ってくれなかった。勇利のほうも、真剣に待ってもらいたいわけではなかった。ヴィクトルは勇利にとってよいことしかしない……。  熱烈に求められていた。ヴィクトルはむさぼるようなやり方で勇利の身体を取り扱い、何もかもがこれまでにないほど激しかった。何がなんでもおまえを抱きたいと、聞いたこともない声で言われた。  自分の部屋でヴィクトルと朝を迎えたのは、勇利にとって初めての経験だった。 「朝までいると、ああなるの……?」  勇利は笑いながら、けだるい口ぶりでささやいた。ヴィクトルは、朝の控えめなひかりで輝く勇利のつややかな肩にひとつ接吻して、それを返事にしたつもりらしかった。 「やっぱり次からは朝が来る前に帰って、って言うかい?」 「どうしようかなあ……」 「ひどくした?」 「ぜんぜん。しいていうなら……」 「ああ」 「甘くされた……」  ヴィクトルがおどけて眉を上げた。 「いつも甘いけど。いつもは花の蜜の甘さ。さっきのは……」  勇利は、ぴったり当てはまるものを頭の中で探した。 「濃厚なクリームパフェ……かな」  ヴィクトルが楽しそうに笑った。勇利も笑ったが、すぐに目元を厳しくし、おおげさにヴィクトルをにらんだ。 「つけなかった……」 「痕跡を残したいと言っただ���」 「残ったよ。たっぷりと」 「残された感想は?」 「残した感想は?」 「最高だった」  勇利はふくみ笑った。 「それはなにより……」 「勇利は、どう?」 「何が?」 「教えてくれるだろう。あれはよかったとか、好きとか。さっきのは、好き?」 「いつものが好きだよ」 「俺もだ」 「さっきのは、ちょっとこわい……」 「そうか……」 「……でも、」  勇利はヴィクトルの耳元にくちびるを寄せ、彼に子どものように抱きついて、大人のように打ち明けた。 「また、されたいよ……」 「…………」 「してね」 「……ああ」 「ほかのも、してね」
2 notes · View notes
xf-2 · 5 years
Link
最初の特攻を命じたことによって、「特攻の産み親」と呼ばれることになった大西瀧治郎中将は、天皇が玉音放送を通じて国民に戦争終結を告げたのを見届けて、翌16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。
特攻作戦を採用した責任者といえる将官たち、前線で「おまえたちだけを死なせはしない」と言いながら特攻を命じた指揮官たちの中で、このような責任のとり方をした者は他に一人もいない。
そして、ひとり残された妻・淑恵さんも、戦後、病を得て息を引き取るまで33年間、清廉かつ壮絶な後半生を送っていた。
最初の慰霊法要に駆け込み、土下座した貴婦人
終戦の翌年、昭和21(1946)年3月のある日、全国の有力新聞に、
〈十三期飛行専修予備学生出身者は連絡されたし。連絡先東京都世田谷区・大山日出男〉 との広告が掲載された。
空襲で、東京、大阪、名古屋はもちろん、全国の主要都市は灰燼に帰し、見わたす限りの廃墟が広がっている。
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は昭和21年1月、「公職追放令」を出し、旧陸海軍の正規将校がいっさいの公職に就くことを禁止した。日本の元軍人が集会を開くことさえ禁じられ、戦犯の詮議も続いている。広告を見て、「戦犯さがし」かと疑う者も少なからずいたが、呼びかけ人の大山のもとへは全国から続々と連絡が寄せられた。
戦争が終わってこの方、掌を返したような世の中の変化で、生き残った航空隊員には「特攻くずれ」などという侮蔑的な言葉が投げかけられ、戦没者を犬死に呼ばわりする風潮さえもはびこっている。そんななか、大勢の戦友を亡くして生き残った者たちは、戦没者に対し、
「生き残ってすまない」
という贖罪の気持ちをみんなが抱いている。それは、はじめから陸海軍を志した、いわばプロの軍人も、戦争後期に学窓から身を投じた予備士官も、なんら変わるところがない率直な感情だった。
「十三期飛行専修予備学生」は、大学、高等学校高等科、専門学校(旧制)を卒業、または卒業見込の者のうち、10万名を超える志願者のなかから選抜された5199名が、昭和18(1943)年10月、土浦、三重の両海軍航空隊に分かれて入隊、特攻戦死者448名をふくむ1616名が戦没している。呼びかけに応じて集まった予備学生十三期出身者たちの意思は、
「多くの戦没者同期生の慰霊こそ、生き残った者の務めである」
ということで一致した。そして、同期生たちが奔走し、GHQ、警察、復員局の了承をとりつけて、ふたたび10月30日の新聞に、
〈十一月九日、第十三期飛行専修予備学生戦没者慰霊法要を東京築地本願寺にて行ふ〉
と広告を出し、さらにNHKに勤務していた同期生の計らいで、ラジオでも案内放送が流れた。
昭和21年11月9日、国電(現JR)有楽町駅から築地まで、焼跡の晴海通りを、くたびれた将校マントや飛行靴姿の青年たち、粗末ななりに身をやつした遺族たちが三々五々、集まってきた。築地本願寺の周囲も焼け野原で、モダンな廟堂の壁も焦げている。寺の周囲には、機関銃を構えたMPを乗せたジープが停まって、監視の目を光らせている。焼跡のなかでその一角だけが、ものものしい雰囲気に包まれていた。
広い本堂は、遺族、同期生で埋め尽くされた。悲しみに打ち沈む遺族の姿に、同期生たちの「申し訳ない」思いがさらにつのる。読経が終わると、一同、溢れる涙にむせびながら、腹の底から絞り出すように声を張り上げ、「同期の桜」を歌った。
歌が終わる頃、一人の小柄な婦人が本堂に駆け込んできた。「特攻の父」とも称される大西瀧治郎中将の妻・淑惠である。
大西中将は昭和19(1944)年10月、第一航空艦隊司令長官として着任したフィリピンで最初の特攻出撃を命じ、昭和20(1945)年5月、軍令部次長に転じたのちは最後まで徹底抗戦を呼号、戦争終結を告げる天皇の玉音放送が流れた翌8月16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。特攻で死なせた部下たちのことを思い、なるべく長く苦しんで死ぬようにと介錯を断っての最期だった。遺書には、特攻隊を指揮し、戦争継続を主張していた人物とは思えない冷静な筆致で、軽挙を戒め、若い世代に後事を託し、世界平和を願う言葉が書かれていた。
昭和19年10月20日、特攻隊編成の日。マバラカット基地のそば、バンバン川の河原にて、敷島隊、大和隊の別杯。手前の後ろ姿が大西中将。向かって左から、門司副官、二〇一空副長・玉井中佐(いずれも後ろ姿)、関大尉、中野一飛曹、山下一飛曹、谷一飛曹、塩田一飛曹
昭和19年10月25日、マバラカット東飛行場で、敷島隊の最後の発���
淑惠は、司会者に、少し時間をいただきたいと断って、参列者の前に進み出ると、
「主人がご遺族のご子息ならびに皆さんを戦争に導いたのであります。お詫びの言葉もございません。誠に申し訳ありません」
土下座して謝罪した。淑惠の目には涙が溢れ、それが頬をつたってしたたり落ちていた。
突然のことに、一瞬、誰も声を発する者はいなかった。
われに返った十三期生の誰かが、
「大西中将個人の責任ではありません。国を救わんがための特攻隊であったと存じます」
と声を上げた。
「そうだそうだ!」
同調する声があちこちに上がった。十三期生に体を支えられ、淑惠はようやく立ち上がると、ふかぶかと一礼して、本堂をあとにした。これが、大西淑惠の、生涯にわたる慰霊行脚の第一歩だった。
生活のために行商を。路上で行き倒れたことも
同じ年の10月25日。港区芝公園内の安蓮社という寺には、かつて第一航空艦隊(一航艦)、第二航空艦隊(二航艦)司令部に勤務していた者たち10数名が、GHQの目をぬすんでひっそりと集まっていた。
関行男大尉を指揮官とする敷島隊をはじめとする特攻隊が、レイテ沖の敵艦船への突入に最初に成功したのが、2年前の昭和19年10月25日。三回忌のこの日に合わせて、一航艦、二航艦、合計2525名の戦没特攻隊員たちの慰霊法要をやろうと言い出したのは、元一航艦先任参謀・猪口力平大佐だった。安蓮社は、増上寺の歴代大僧正の墓を守る浄土宗の由緒ある寺で、住職が猪口と旧知の間柄であったという。
神風特攻隊敷島隊指揮官・関行男大尉。昭和19年10月25日、突入、戦死。最初に編成された特攻隊4隊(敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊)全体の指揮官でもあった。当時23歳
昭和19年10月25日、特攻機が命中し、爆炎を上げる米護衛空母「セント・ロー」
寺は空襲で焼け、バラックの一般家屋のような仮本堂であったが、住職は猪口の頼みに快く応じ、特攻隊戦没者の供養を末永く続けることを約束した。この慰霊法要は「神風忌」と名づけられ、以後、毎年この日に営まれることになる。
遺された「神風忌参会者名簿」(全六冊)を見ると、大西淑惠はもとより、及川古志郎大将、戸塚道太郎中将、福留繁中将、寺岡謹平中将、山本栄大佐、猪口力平大佐、中島正中佐……といった、特攻を「命じた側」の主要人物の名前が、それぞれの寿命が尽きる直前まで並んでいる。
生き残った者たちの多くは、それぞれに戦没者への心の負い目を感じつつ、慰霊の気持ちを忘れないことが自分たちの責務であると思い、体力や生命の続く限り、こういった集いに参加し続けたのだ(ただし、軍令部で特攻作戦を裁可した事実上の責任者である中澤佑中将、黒島亀人少将は、一度も列席の形跡がない)。
東京・芝の寺で戦後60年間、営まれた、特攻戦没者を供養する「神風忌」慰霊法要の参会者名簿。当時の将官、参謀クラスの関係者が名を連ねるなか、淑惠は、亡くなる前年の昭和51年まで欠かさず列席していた
十三期予備学生の戦没者慰霊法要で土下座をした大西淑惠は、その後も慰霊の旅を続けた。特攻隊員への贖罪に、夫の後を追い、一度は短刀で胸を突いて死のうとしたが、死ねなかった。ずっとのち、淑惠は、かつて特攻作戦渦中の第一航空艦隊で大西中将の副官を勤めた門司親徳(主計少佐。戦後、丸三証券社長)に、
「死ぬのが怖いんじゃないのよ。それなのに腕がふにゃふにゃになっちゃうの。それで、やっぱり死んじゃいけないってことかと思って、死ぬのをやめたの」
と語っている。
大西瀧治郎中将(右)と、副官・門司親徳主計大尉(当時)。昭和20年5月13日、大西の軍令部次長への転出を控えて撮影された1枚
暮らしは楽ではない。夫・大西瀧治郎はおよそ金銭に執着しない人で、入るにしたがって散じた。門司は、フィリピン、台湾での副官時代、大西の預金通帳を預かり、俸給を管理していたから、大西が金に無頓着なのはよく知っている。淑惠もまた、金銭には無頓着なほうで、もとより蓄えなどない。
家も家財も空襲で焼失し、GHQの命令で軍人恩給は停止され、遺族に与えら��る扶助料も打ち切られた。
昭和3年2月、華燭の典を挙げた大西瀧治郎(当時少佐)と淑惠夫人
自宅でくつろぐ大西瀧治郎、淑惠夫妻。大西が中将に進級後の昭和18年5月以降の撮影と思われる
焼け残った千葉県市川の実家に戻って、淑惠は生きるために商売を始めた。最初に手がけたのは薬瓶の販売である。伝手を求めて会社を訪ね、それを問屋につなぐ。次に、飴の行商。元海軍中将夫人としては、全く慣れない別世界の生活だった。
昭和22(1947)年8月上旬のある日、薬瓶問屋を訪ねる途中、国電日暮里駅東口前の路上で行き倒れたこともある。このとき、たまたま日暮里駅前派出所で立ち番をしていた荒川警察署の日下部淳巡査は、知らせを受けてただちに淑惠を派出所内に運び、近くの深井戸の冷水で応急手当をした。
「質素な身なりだったが、その態度から、終戦まで相当な身分の人と思った」
と、日下部巡査はのちに語っている。柔道六段の偉丈夫だった日下部は、元海軍整備兵曹で、小笠原諸島にあった父島海軍航空隊から復員してきた。後日、淑惠が署長宛に出した礼状がもとで、日下部は警視総監から表彰を受けた。だが、その婦人が誰であるか知らないまま8年が過ぎた。
昭和30(1955)年、日下部は、元零戦搭乗員・坂井三郎が著した『坂井三郎空戦記録』(日本出版協同)を読んで坂井の勤務先を知り、両国駅前の株式会社香文社という謄写版印刷の会社を訪ねた。日下部は、昭和19(1944)年6月、敵機動部隊が硫黄島に来襲したとき、父島から硫黄島に派遣され、そこで横須賀海軍航空隊の一員として戦っていた坂井と知り合ったのだ。
香文社を訪ねた日下部は、そこに、あの行き倒れの婦人がいるのに驚いた。そして、この婦人が、大西中将夫人であることをはじめて知った。日下部は淑惠に心服し、こののちずっと、淑惠が生涯を閉じるまで、その身辺に気を配ることになる。
淑惠が、坂井三郎の会社にいたのにはわけがある。
淑惠の姉・松見久栄は、海軍の造船大佐・笹井賢二に嫁ぎ、女子2人、男子1人の子をもうけた。その男の子、つまり大西夫妻の甥にあたる笹井醇一が、海軍兵学校に六十七期生として入校し、のちに戦闘機搭乗員となった。
笹井醇一中尉は昭和17(1942)年8月26日、ガダルカナル島上空の空戦で戦死するが、戦死するまでの数ヵ月の活躍にはめざましいものがあった。ラバウルにいたことのある海軍士官で、笹井中尉の名を知らぬ者はまずいない。
その笹井中尉が分隊長を務めた台南海軍航空隊の、下士官兵搭乗員の総元締である先任搭乗員が坂井三郎だった。笹井の部下だった搭乗員はそのほとんどが戦死し、笹井の活躍については、坂井がいわば唯一の語り部となっている。
坂井は、海軍航空の草分けで、育ての親ともいえる大西瀧治郎を信奉していたし、
「敬愛する笹井中尉の叔母ということもあり、淑惠さんを支援することは自分の義務だと思った」
と、筆者に語っている。
坂井は淑惠に、両国で戦後間もなく始めた謄写版印刷店の経営に参加してくれるよう頼み、淑惠は、実家の了解を得て、夫の位牌を持ち、坂井の印刷店のバラックの片隅にある三畳の部屋に移った。日暮里で行き倒れた数年後のことである。
だが、坂井には、別の思惑もある。淑惠が経営に関わることで、有力な支援者を得ることができると考えたのだ。坂井の謄写版印刷の店は、福留繁、寺岡謹平という、大西中将の2人の同期生(ともに海軍中将)ほかが発起人となり、笹川良一(元衆議院議員、国粋大衆党総裁。A級戦犯容疑で収監されたが不起訴。のち日本船舶振興会会長)が発起人代表となって株式会社に発展した。
出資金は全額、坂井が出し、名目上の代表取締役社長を淑惠が務めることになった。会社が軌道に乗るまでは、笹川良一や大西に縁のある旧海軍軍人たちが、積極的に注文を出してくれた。淑惠は、香文社の格好の広告塔になったと言ってよい。
「裏社会のフィクサー」の大西に対する敬意
淑惠には、ささやかな願いがあった。大西の墓を東京近郊に建て、その墓と並べて、特攻隊戦没者を供養する観音像を建立するというものである。
苦しい生活のなかから細々と貯金し、昭和26(1951)年の七回忌に間に合わせようとしたが、それは到底叶わぬことだった。だが、この頃から慰霊祭に集う人たちの間で、淑惠の願いに協力を申し出る者が現れるようになった。
大西中将は、まぎれもなく特攻を命じた指揮官だが、不思議なほど命じられた部下から恨みを買っていない。フィリピンで、大西中将の一航艦に続いて、福留繁中将率いる二航艦からも特攻を出すことになり、大西、福留両中将が一緒に特攻隊員を見送ったことがあった。このときの特攻隊の一員で生還した角田和男(当時少尉)は、
「大西中将と福留中将では、握手のときの手の握り方が全然違った。大西中将はじっと目を見て、頼んだぞ、と。福留中将は、握手しても隊員と目も合わさないんですから」
と述懐する。大西は、自身も死ぬ気で命じていることが部下に伝わってきたし、終戦時、特攻隊員の後を追って自刃したことで、単なる命令者ではなく、ともに死ぬことを決意した戦友、いわば「特攻戦死者代表」のような立場になっている。淑惠についても、かつての特攻隊員たちは、「特攻隊の遺族代表」として遇した。
「大西長官は特攻隊員の一人であり、奥さんは特攻隊員の遺族の一人ですよ」
というのが、彼らの多くに共通した認識だった。
そんな旧部下たちからの協力も得て、昭和27(1952)年9月の彼岸、横浜市鶴見区の曹洞宗大本山總持寺に、小さいながらも大西の墓と「海鷲観音」と名づけられた観音像が完成し、法要と開眼供養が営まれた。
昭和27年9月、鶴見の總持寺に、最初に淑惠が建てた大西瀧治郎の墓。左は特攻戦没者を供養する「海鷲観音」
その後、昭和38(1963)年には寺岡謹平中将の筆になる「大西瀧治郎君の碑」が墓の左側に親友一同の名で建てられ、これを機に墓石を一回り大きく再建、観音像の台座を高いものにつくり直した。
墓石の正面には、〈従三位勲二等功三級 海軍中将大西瀧治郎之墓〉と刻まれ、側面に小さな字で、〈宏徳院殿信鑑義徹大居士〉と、戒名が彫ってある。再建を機に、その隣に、〈淑徳院殿信鑑妙徹大姉〉と、淑惠の戒名も朱字で入れられた。
この再建にあたって、資金を援助したのが、戦時中、海軍嘱託として中国・上海を拠点に、航空機に必要な物資を調達する「児玉機関」を率いた児玉誉士夫である。児玉は、海軍航空本部総務部長、軍需省航空兵器総局総務局長を歴任した大西と親交が深く、私欲を微塵も感じさせない大西の人柄に心服していた。大西が割腹したとき、最初に官舎に駆けつけたのが児玉である。
昭和20年2月、台湾・台南神社で。左から門司副官、児玉誉士夫、大西中将
児玉は、昭和20(1945)年12月、A級戦犯容疑で巣鴨プリズンに拘置され、「児玉機関」の上海での行状を3年間にわたり詮議されたが、無罪の判定を受けて昭和23(1948)年末、出所していた。
巣鴨を出所したのちも、淑惠に対し必要以上の支援はせず、一歩下がって見守る立場をとっていた。「自分の手で夫の墓を建てる」という、淑惠の願いを尊重したのだ。だから最初に墓を建てたときは、協力者の一人にすぎない立場をとった。
だが、再建の墓は、大西の墓であると同時に淑惠の墓でもある。児玉は、大西夫妻の墓は自分の手で建てたいと、かねがね思っていた。ここで初めて、児玉は表に出て、淑惠に、大西の墓を夫婦の墓として建て直したいが、自分に任せてくれないかと申し出た。
「児玉さんの、大西中将に対する敬意と追慕の念は本物で、見返りを何も求めない、心からの援助でした。これは、『裏社会のフィクサー』と囁かれたり、のちにロッキード事件で政財界を揺るがせた動きとは無縁のものだったと思っています」
と、門司親徳は言う。
鶴見の總持寺、大西瀧治郎墓所の現在。墓石に向かって左側に海鷲観音と墓誌、右側には遺書の碑が建っている
大西瀧治郎の墓石右横に建てられた遺書の碑
墓が再建されて法要が営まれたとき、淑惠が参会者に述べた挨拶を、日下部巡査が録音している。淑惠は謙虚に礼を述べたのち、
「特攻隊のご遺族の気持ちを察し、自分はどう生きるべきかと心を砕いてまいりましたが、結局、散っていった方々の御魂のご冥福を陰ながら祈り続けることしかできませんでした」
と、涙ながらに話した。
「わたし、とくしちゃった」
淑惠は、昭和30年代半ば頃、香文社の経営から身を引き、抽選で当った東中野の公団アパートに住むようになった。3階建ての3階、六畳と四畳半の部屋で、家賃は毎月8000円。当時の淑惠にとっては大きな出費となるので、児玉誉士夫と坂井三郎が共同で部屋を買い取った。ここには長男・多田圭太中尉を特攻隊で失った大西の親友・多田武雄中将夫人のよし子や、ミッドウェー海戦で戦死した山口多聞少将(戦死後中将)夫人のたかなど、海軍兵学校のクラスメートの夫人たちがおしゃべりによく集まった。門司親徳や日下部淳、それに角田和男ら元特攻隊員の誰彼も身の周りの世話によく訪ねてきて、狭いながらも海軍の気軽な社交場の趣があった。
「特攻隊員の遺族の一人」である淑惠には、多くの戦友会や慰霊祭の案内が届く。淑惠は、それらにも体調が許す限り参加し続けた。どれほど心を込めて慰霊し、供養しても、戦没者が還ることはなく、遺族にとって大切な人の命は取り返しがつかない。この一点だけは忘れてはいけない、というのが、淑惠の思いだった。
大西中将は生前、勲二等に叙せられていたが、昭和49(1974)年になって、政府から勲一等旭日大綬章を追叙された。この勲章を受けたとき、淑惠は、
「この勲章は、大西の功績ではなく、大空に散った英霊たちの功績です」
と言い、それを予科練出身者で組織する財団法人「海原会」に寄贈した。大西の勲一等の勲章は、茨城県阿見町の陸上自衛隊武器学校(旧土浦海軍航空隊跡地)内にある「雄翔館」(予科練記念館)におさめられている。
昭和49年、大西瀧治郎を主人公にした映画「あゝ決戦航空隊」が東映で映画化され、淑惠は京都の撮影所に招かれた。大西中将役の鶴田浩二、淑惠役の中村珠緒とともに撮られた1枚
淑惠は、毎年、この地で開催されている予科練戦没者慰霊祭にも、欠かさず参列した。
「こういう会合の席でも、奥さんはいつも自然体で、ことさら変わったことを言うわけではない。しかし短い挨拶には真情がこもっていて、その飾らない人柄が参会者に好感をもたれました。大西中将は『特攻の父』と言われますが、奥さんはいつしか慰霊祭に欠かせない『特攻の母』のようになっていました」
と、門司親徳は振り返る。
昭和50(1975)年8月、淑惠は最初に特攻隊を出した第二〇一海軍航空隊の慰霊の旅に同行し、はじめてフィリピンへ渡った。
小学生が手製の日の丸の小旗を振り、出迎えの地元女性たちが慰霊団一人一人の首にフィリピンの国花・サンパギータ(ジャスミンの一種)の花輪をかける。特攻基地のあったマバラカットの大学に設けられた歓迎会場では、学長自らが指揮をとり、女子学生が歌と踊りを披露する。警察署長が、慰霊団の世話を焼く。
予想以上に手厚いもてなしに一行が戸惑っていたとき、突然、淑惠が壇上に上った。
「マバラカットの皆さま、戦争中はたいへんご迷惑をおかけしました。日本人の一人として、心からお詫びします。――それなのに、今日は、こんなに温かいもてなしを受けて……」
涙ぐみ、途切れながら謝辞を述べると、会場に大きな拍手が起こった。
淑惠は、翌昭和51(1976)年にも慰霊団に加わったが、昭和52(1977)年6月、肝硬変をわずらって九段坂病院に入院した。この年の4月、二〇一空の元特攻隊員たちが靖国神社の夜桜見物に淑惠を誘い、砂利敷きの地面にござを敷いて夜遅くまで痛飲している。
「こんなお花見、生まれて初めて……」
77歳の淑惠は、花冷えのなかで嬉しそうに目を細め、しみじみつぶやいた。
九段坂病院5階の奥にある淑惠の病室には、門司親徳や、かつての特攻隊員たちも見舞いに駆けつけ、人の絶えることがなかった。児玉誉士夫は、自身も病身のため、息子の博隆夫妻に見舞いに行かせた。香文社時代の同僚、遠縁の娘など身近な人たちが、献身的に淑惠の世話をした。日下部淳は、警察の仕事が非番の日には必ず病院を訪れ、ロビーの長椅子に姿勢よく座って、何か起きたらすぐにでも役に立とうという構えだった。
昭和53(1978)年2月6日、門司親徳が午前中、病室に顔を出すと、淑惠は目をつぶって寝ていた。淑惠が目を開けたとき、門司が、
「苦しくないですか?」
とたずねると、小さく首をふった。そして、しばらくたって、淑惠は上を向いたまま、
「わたし、とくしちゃった……」
と、小さくつぶやいた。子供のようなこの一言が、淑惠の最期の言葉となった。淑惠が息を引き取ったのは、門司が仕事のために病室を辞去して数時間後、午後2時24分のことであった。
「『とくしちゃった』という言葉は、夫があらゆる責任をとって自決した、そのため、自分はみんなから赦され、かえって大事にされた。そして何より、生き残りの隊員たちに母親のようになつかれた。子宝に恵まれなかった奥さんにとって、これは何より嬉しかったんじゃないか。これらすべての人に『ありがとう』という代わりに、神田っ子の奥さんらしい言葉で、『とくしちゃった』と言ったに違いないと思います」
――門司の回想である。
淑惠の葬儀は、2月18日、總持寺で執り行われた。先任参謀だった詫間(猪口)力平が、葬儀委員長を務め、数十名の海軍関係者が集まった。納骨のとき、ボロボロと大粒の涙を流すかつての特攻隊員が何人もいたことが、門司の心に焼きついた。
こうして、大西淑惠は生涯を閉じ、その慰霊行脚も終わった。残された旧部下や特攻隊員たちは、淑惠の遺志を継いで、それぞれの寿命が尽きるまで、特攻戦没者の慰霊を続けた。戦後すぐ、芝の寺で一航艦、二航艦の司令部職員を中心に始まった10月25日の「神風忌」の慰霊法要は、元特攻隊員にまで参会者を広げ、平成17(2005)年まで、60年にわたって続けられた。60回で終わったのは、代のかわった寺の住職が、先代の約束を反故にして、永代供養に難色を示したからである。
大西中将の元副官・門司親徳は、「神風忌」の最後を見届け、自身が携わった戦友会の始末をつけて、平成20(2008)年8月16日、老衰のため90歳で亡くなった。昭和と平成、元号は違えど、大西瀧治郎と同じ「20年8月16日」に息を引き取ったのは、情念が寿命をコントロールしたかのような、不思議な符合だった。
大西夫妻の人物像について、門司は生前、次のように述べている。
「大西中将は、血も涙もある、きわめてふつうの人だったと思う。ふつうの人間として、身を震わせながら部下に特攻を命じ、部下に『死』を命じた司令長官として当り前の責任のとり方をした。ずばぬけた勇将だったとも、神様みたいに偉い人だったとも、私は思わない。だけど、ほかの長官と比べるとちょっと違う。人間、そのちょっとのところがなかなか真似できないんですね。ふつうのことを、当り前にできる人というのは案外少ないと思うんです。軍人として長官として、当り前のことが、戦後、生き残ったほかの長官たちにはできなかったんじゃないでしょうか
奥さんの淑惠さんも、無邪気な少女がそのまま大人になったような率直な人柄で、けっして威厳のあるしっかり者といった感じではなかった。でも、人懐っこく庶民的で、人の心をやわらかく掴む、誠実な女性でした。長官は、そんな淑惠さんを信じて後事を託し、淑惠さんは、つましい生活を送りながら、夫の部下たちやご遺族に寄り添って天寿を全うした。
正反対のタイプでしたが、理想的な夫婦だったんじゃないでしょうか。いまの価値観で見ればどう受け止められるかわかりませんが……」
そう、現代の価値観では計り知れないことであろう。責任ある一人の指揮官と、身を捨てて飛び立った若者たち。そして、自決した夫の遺志に殉ずるかのように、最期まで慰霊に尽くし続けた妻――。
「戦争」や「特攻」を現代の目で否定するのは簡単だ。二度と繰り返してはならないことも自明である。しかし、人は自分が生まれる時や場所を選べない。自らの生きた時代を懸命に生きた人たちがいた、ということは、事実として記憶にとどめておきたい。
旧軍人や遺族の多くが世を去り、生存隊員の全員が90歳を超えたいまもなお、全国で慰霊の集いが持たれ、忘れ得ぬ戦友や家族の面影を胸に、命がけで参列する当事者も少なくない。彼らの思いを封じることは誰にもできないはずだから。
10 notes · View notes
swamppublication · 2 years
Photo
Tumblr media
第16回関東(全国)私立高等学校選抜剣道大会 編集版動画をlet'skendo!!YouTubeチャンネルにて続々公開中‼️ 大会レポート&画像はlet'skendoHPにて公開中!↓ https://www.letskendo.com/posts/22074/ 大会結果 ・男子 優勝 水戸葵陵(茨城) 二位 土浦日大(茨城) 三位 郁文館(東京)、東海大浦安(千葉) ・女子の部 結果 優勝 桐蔭学園(神奈川) 二位 淑徳巣鴨(東京) 三位 翔凜(千葉)、東海大菅生(東京) ※最近、TikTokやSNSでLET'S KENDOの動画を無断使用している方おります。 これから、違反申請や場合によっては法的措置も考えていきますので、心当たりのあるかたは削除したほうがいいと思います。 「剣道普及」みたなことを言っている人もいますが、他人の動画を勝手に使って、いわば盗んで、自分のもののように動画アップしている人の感覚が理解できません・・・ ※2〜3月の取材予定 2/26 東京都剣道大会(※終了) 3/4 全日本実業団女子・高壮年大会(※終了) 3/5 六大学大会(※終了) 3/18〜19 関東私学高校大会 3/26〜28 全国高校選抜大会 ※ LET'S KENDO SNS ●【Twitter】https://twitter.com/letskendo ●【YouTube】 https://www.youtube.com/user/letsKENDO  ●【インスタ】https://www.instagram.com/letskendo/ ●【Facebook】https://www.facebook.com/LETSKENDO/ ●【LET'S KENDOショップ!】https://letskendo.thebase.in/ ●【LET'S KENDOブログ】http://letskendo.diary.to/ #関東私立高校剣道大会 #japan #剣道大会 #武道 #letskendo #kendo #剣道 #レッツケンドー #YouTube (小田原アリーナ) https://www.instagram.com/p/CqEfmCtPzN5/?igshid=NGJjMDIxMWI=
0 notes