#御前崎分屯基地
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Omaneko, a popular mascot from Japan self defense force
※male
(Rework at 2023/5/9)
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L'esercito del Giappone ha anche un personaggio "furry" tra le sue mascotte Omaneko inizierà le attività di pubbliche relazioni a maggio. Info:--> https://www.gonagaiworld.com/lesercito-del-giappone-ha-ora-un-personaggio-furry-tra-le-sue-mascotte/?feed_id=364401&_unique_id=644d7eaf4425e #Culturaotaku #Furryfandom #おまねこ #御前崎分屯基地
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in recent Japanese furry funs trends is a Japanese Self-Defense Forces’soriginal characters
most famous character is a blue cat man “omaneko(おまねこ)”that is so cute!
AND second famous character is a mouse boy “ham Chun chun”(ハム・チュンチュン)
so I love mouse boy ham so much! I made animation of him
if I attracted of them let’s draw them’s! Japanese self defense forces are welcoming all fanarts of the characters!!
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"Kill them with kindness" Wrong. CURSE OF QIN SHI HUANG
的是不我一有大在人了中到资要可以这个你会好为上来就学交也用能如文时没说他看提那问生过下请天们所多麽小想得之还电出工对都机自後子而讯站去心只家知国台很信成章何同道地发法无���但吗当於本现年前真最和新因果定意情点题其事方清科样些吧叁此位理行作经者什谢名日正华话开实再城爱与二动比高面又车力或种像应女教分手打已次长太明己路起相主关凤间呢觉该十外凰友才民系进使她着各少全两回加将感第性球式把被老公龙程论及别给听水重体做校里常东风您湾啦见解等部原月美先管区错音否啊找网乐让通入期选较四场由书它快从欢数表怎至立内合目望认几社告更版度考喜头难光买今身许弟若算记代统处完号接言政玩师字并男计谁山张党每且结改非星连哈建放直转报活设变指气研陈试西五希取神化物王战近世受义反单死任跟便空林士台却北队功必声写平影业金档片讨色容央妳向市则员兴利强白价安呵特思叫总办保花议传元求份件持万未究决投哪喔笑猫组独级走支曾标流竹兄阿室卡马共需海口门般线语命观视朋联参格黄钱修失儿住八脑板吃另换即象料录拿专远速基帮形确候装孩备歌界除南器画诉差讲类英案带久乎掉迷量引整似耶奇制边型超识虽怪飞始品运赛费梦故班权破验眼满念造军精务留服六图收舍半读愿李底约雄课答令深票达演早卖棒够黑院假曲火准百谈胜碟术推存治离易往况晚示证段导伤调团七永刚哥甚德杀怕包列概照夜排客绝软商根九切条集千落竟越待忘尽据双供称座值消产红跑嘛园附硬云游展执闻唱育斯某技唉息苦质油救效须介首助职例热毕节害击乱态嗯宝倒注停古输规福亲查复步举鱼断终轻环练印随依趣限响省局续司角简极干篇罗佛克阳武疑送拉习源免志鸟烦足馆仍低广土呀楼坏兵显率圣码众争初误楚责境野预具智压系青贵顺负魔适哇测慢怀懂史配呜味亦医迎舞恋细灌甲帝句属灵评骑��败左追狂敢春狗际遇族群痛右康佳杨木病戏项抓徵善官护博补石尔营历只按妹里编岁择温守血领寻田养谓居异雨止跳君烂优封拜恶啥浪核聊急状陆激模攻忙良剧牛垒增维静阵抱势严词亚夫签悲密幕毒厂爽缘店吴兰睡致江宿翻香蛮警控赵冷威微坐周宗普登母络午恐套巴杂创旧辑幸剑亮述堂酒丽牌仔脚突搞父俊暴防吉礼素招草周房餐虑充府背典仁漫景绍诸琴忆援尤缺扁骂纯惜授皮松委湖诚麻置靠继判益波姐既射欲刻堆释含承退莫刘昨旁纪赶制尚艺肉律铁奏树毛罪笔彩注归弹虎卫刀皆键售块险荣播施铭罗汉赏欣升叶萤载嘿弄钟付寄鬼哦灯呆洋嘻布磁荐检派构妈蓝贴猪策纸暗巧努雷架享宣逢均担启济罢呼划伟岛歉郭训穿详沙督梅顾敌协轮略慧幻脸短鹰冲朝忍游河批混窗乡蛋季散册弃熟奖唯藏婚镜紧猜喝尊乾县伯偏偷秋层颗食淡申冠衣仅帐赞购犯敬勇洲束斗徒嘉柔绩笨拥漂狮诗围乖孤姓吸私避范抗盖祝序晓富译巨秀馀辉插察庆积愈端移宫挥爆港雪硕借帅丢括挂盘偶末厅朱凡惊货灭醒虚瑞拍遗忠志透烈银顶雅诺圆熊替休材挑侠鸡累互掌念米伴辅降豪篮洗健饭怜疯宏困址兮操临骗咧药绿尼蔡玉辛辈敏减彼街聚郎泡恨苏缩枢碰采默婆股童符抽获宇废赢肯砍钢欧届禁苍脱渐仙泪触途财箱厌籍冰涛订哭稳析杰坚桥懒贤丝露森危占茶惯尘布爸阶夏谊瓶哩惨械隐丰旅椰亡汽贝娘寒遭吹暑珍零刊邮村乃予赖摇纳烟伦尾狼浮骨杯隔洪织询振忽索惠峰席喵胡租款扰企刺芳鼠折频冒痴阴哲针伊寂嘴倚霸扬沉悔虫菜距复鼓摩郑庄副页烧弱暂剩豆探耐祖遍萧握愁龟哀发延库隆盟傻眉固秘卷搭昭宁托辩覆吵耳閒拨沈升胖丁妙残违稍媒忧销恩颜船奈映井拼屋��京藉洞川宪拟寝塞倍户摆桌域劳赚皇逃鸿横牙拖齐农滚障搬奶乌了松戴谱酷棋吓摸额瓜役怨染迫醉锁震床闹佩牠徐尺干潮帽盛孙屁净凯撞迴损伙牵厉惑羊冬桃舰眠伍溪飘泰宋圈竞闪纵崇滑乙俗浅莲紫沟旋摄聪毁���麦描妨勒仪陪榜板慕耀献审蟹巷谅姊逐踏岸葛卧洽寞邦藤拳阻蝎面殊凭拒池邪航驱裁翔填奥函镇丌宽颇枪遥穹啪阅锋砂恭塔贺魂睛逸旗萨丸厚斋芬革庸舒饮闭励顿仰阁孟昌访绪裕勿州阐抢扫糊宙尝菩赐赤喊盗擎劝奋慈尽污狐罚幽准兼尖彰灰番衡鲜扩毫夸炮拆监栏迟证倾郁汪纷托漏渡姑秒吾窝辆龄跌浩肥兽煞抹酸税陷谷冲杜胸甘胞诞岂辞墙凉碎晶邱逻脆喷玫娃培咱潜祥筑孔柏叭邀犹妻估荒袋径垃傲淑圾旦亿截币羽妇泥欺弦筹舍忌串伸喇耻繁廖逛劲臭鲁壮捕穷拔于丑莉糟炸坡蒙腿坦怒甜韩缓悉扯割艾胎恒玲朵泉汤猛驾幼坪巫弯胆昏鞋怡吐唐悠盾跃侵丹鑑泽薪逝彦后召吕碧晨辨植痴瑰钓轩勤珠浓悟磨剪逼玄暖躲洛症挡敝碍亨逊蜜盼姆赋彬壁缴捷乏戒憾滴桑菲嫌愉爬恼删叹抵棚摘蒋箭夕翁牲迹勉莱洁贪恰曰侨沧咖唷扣采奔泳迹涯夺抄疗署誓盃骚翼屠咪雾涉锺踢谋牺焦涵础绕俱霹坜唬氏彻吝曼寿粉廉炎祸耗炮啡肚贡鼻挖貌捐融筋云稣捡饱铃雳鸣奉燃饰绘黎卷恢瞧茫幅迪柳瑜矛吊侯玛撑薄敦挤墨琪凌侧枫嗨梯梁廷儒咬岚览兔怖稿齿狱爷迈闷乔姿踪宾家弘韵岭咦裤壳孝仇誉妮惧促驶疼凶粗耍糕仲裂吟陀赌爵哉亏锅刷旭晴蝶阔洩顽牧契轰羞拾锦逆堕夹枝瓦舟悦惹疏锐翘哎综纲扇驻屏堪弥贯愚抬喂靖狠饼凝邻擦滋坤蛙灾莎毅卒汝征赠斗抛秦辱涂披允侦欲夥朗笛劫魅钦慰荷挺矣迅禅迁鹿秤彭肩赞丙鹅痕液涨巡烤贱丈���沿滥措么扭捉碗炉脏叔秘腰漠翅余胶妥谣缸芒陵雯轨虾寸呦洒贞蜂钻厕鹤摔盒虫氛悄霖愧斜尸循俩堡旺恶叉燕津臣丧茂椅缠刑脉杉泊撒递疲杆趁欠盈晃蛇牡慎粒系倦溜遵腐疾鸭璃牢劣患祂呈浑剂妖玻塑飙伏弊扮侬渴歪苗汗陶栋琳蓉埋叡澎并泣腾柯催畅勾樱阮斥搜踩返坛垂唤储贩匆添坑柴邓糖昆暮柜娟腹煮泛稀兹抑携芭框彷罐虹拷萍臂袭叙吻仿贼羯浴体翠灿敲胁侣蚁秩佑谨寡岳赔掩匙曹纽签晋喻绵咏摊馨珊孕杰拘哟羡肤肝袍罩叛御谜嫁庙肠谎潘埔卜占拦煌俄札骤陌澄仓匪宵钮岗荡卸旨粽贸舌历叮咒钥苹祭屈陋雀睹媚娜诱衷菁殿撕蠢惟嚣踊跨膀筒纹乳仗轴撤潭佛桂愤捧袖埃壹赫谦汇魏粹傅寮猴衰辜恳桶吋衫瞬冻猎琼卿戚卓殖泼譬翰刮斌枉梁庞闽宅麟宰梭纠丛雕澳毙颖腔伫躺划寺炼胃昂勋骄卑蚂墓冥妄董淋卢偿姻砸践殷润铜盲扎驳湿凑炒尿穴蟑拓诡谬淫荡鼎斩尧伪饿驰蚊瘟肢挫槽扶兆僧昧螂匹芝奸聘眷熙猩癢帖贫贿扑笼丘颠讶玮尹詗柱袁漆毋辣棍矩佐澡渊痞矮戈勃吞肆抖咳亭淘穗黏冈歧屑拢潇谐遣诊祈霜熬饶闯婉致雁觅讽膜挣斤帆铺凄瑟艇壶苑悬詹诠滤掰稚辰募懿慨哼汁佬纤肃遨渔恕蝴垫昱竿缝蹈鞭仆豫岩辐歹甄斑淹崎骏薰婷宠棵弓犬涂刹郁坎煎螺遮枯台昔瘾蒂坠唔瞎筝唇表吁冤祷甩伞酱范焉娇驼沦碳沾抚溶叠几蜡涌氧弦娱皓奴颓嘎趟揭噹剥垦狭魁坊盐屎郝佩摧栗菊瘦钧匿砖嘘缚嘟盆债霞挽逍畔蕴颈获畏喂脾姬赴囊噪熄锡诀肇璋晕浊伐峡窃枕倘慌垮帕莹琦厢渺脏削锣虐豔薇霉衍腊喧娶遂睁裙韦矢伺钉婴蓄奸廿堵葬蓬鸦尝挨蕾璿挚券厨醇呻霍剃浆葡暨滨履捞咕耕棉烁尉艰妓棺鹏蒸癌纬菌撇惩绑甫崩魄拂汰氓歇萝呒萄���曝疋向胏烛腻襄妆髓朴薯颂薛滩橘贰嘲叹枚侮豹巢酬碑翩蚕辽矿屡谴卵撰攀肌冯宴盏阪浦迦颁炼尬胀辟艘株只湘饲爹梨喽侍疫雕黯并铝弗爪鄙钗栽狸谘柄悸喉擅劈秉芷裸锵贾逗寓咚璞烫铅啸炳屿竖惶仕挪栅迄顷窄鸥鲢郊倩兜茧磊抒夷绰溯拙僚芙杖溃凶鸽妒沌祺呐卦聆栖蝇佮唾汇楣匠蛛悼舜耿瞄芋瞒竭茵吼苛浸拯克豆沛掠廊凸搅俺酌倡朦蕉暱焕掏蝉焰狄绳惰芽裹宛御赎燥滔贬悍袂坟颉啤押尴颤钝腥缔粮哑槟簿斧肿纶僵齣辖蹲敷喘扎酿佑肖愈隧嗜檬迳碌襟凋圭寇污哨倪筠桦诈姜旬秃脂噢撼衅庚炫谭惭涩崔贷胡晒琉捏绮膝拭暗醋膨杠鑫瀑喃剖袜逾涅扳惘凳呃掘捍榔窍蜗旷梵暇稻柠抉辗蔚钩卜莺匡蜘祯哔窟亟谛溢黛晦伶逮傍葱刁堤恍匣谍禧轿耸瀚斐忿泓拐驴罕沫绽刃窈渝仄瑛葵噜绣奕窥浏隶蔽仟敛丞诘鳖疤膏锥窕皱晰晖舅孰煽姚钞袱绊焚芦咸沮呕瞪淳丐茹盘菱篠涕衬蚀溉瑄翟怠钰躯肺掷丑奢荫靶纱芸佰峻阱哄肾庄囡阑戳腕菸凹蟾蒐呱巾雏螃盯馈垄毓犀逞姨穆樵阀弥跷搁隙疵憧忏琨阙萱怅辄搏榕饥捣渣眺虞俯绅谤珑咫俏淆蜀楠乞诅匀貂寰迋敞跪囚溺骆憬苇脊瑶疆乍杆眸窜孽卅夭簧徘馒趴鎚啼冗缉絮啄沸萃嘶鸳禽惫徨屐舆邂掀嫖苟檯矫铎棱哗徊拱蕙徬滞吠妞氾芹叩朽侪赦汐丰虔茅棠仑膳魉儡鸯懦渗邵筱畜崖瑕蕊揣擒挂屯莽矽侏弧澈饺奎裘塌饵偎泻蔓彗樽衔茍磋萎廓悯铸茎歼壤浇蚤恃瞻拚汀椒嚼粥磅佫勘脖吨澜锻笙厄嚷伽徽隅寥缤簾烘茜驯噎厦闰煤链锈诫颊俐曳蓓暧郤淌喀昆蔑峙躁菇逅雇殴泌酥缮莓辕骇巍糗扛杏茁琵礁秽岔僻焊嗡诵瞌捌遁赃涡琮卯锯扔苏邹莅隘蹋湛昼岫蛰���藐汲禄皂濑绒耽粪粤卤曜懋咎痘聂垢瞳闵睿跤鉴躬斟淇莒毯幸骋岱庐殃橄恤叽鳞蒙芥榄楷硫苔麒椎禹喙厘袅亥倌吭诃裔梓蓦岩帜瓣狡惕蒙怯嫩龚嚎豚埠暸唆妃瓢蹄厮讥啃琶愿噱狷搪氢橙咆靡砌筷兑溼呸镀踹冢祟懈术搓攸橡膛俞祉冀炊瓷遐揽鹭茄蜢塘郡韬挟牟糙阎旻赘霆呎炭霄媳瘤猿颺煚铠蝠钜苓傀烬墅璇困愣恬嫉琐嫂淼梳憎搂藻酵屉陡摺箫飨桐蚱曦璧偈蹦昶咙铮嗤戌屌耘裳啾嵘胺笃烹巩厝疚鸶汹蔷沐咽烙畸讳揍曙铐朔涓睬矶岐凄鲫楞鲤荆偕徜饥肮蔼辙恁霈诛鞠茉煜傭嗓酹昙铨艳绷峨揉珈鹃诲臆焰隽熔堇韧扒憨舵肛戊坝抠骷碘鞍冕榨肘羔哺霓巳铲蚵惆驹撷稽羹纺蜕趾吊豁褪癸眨臻慷蝙胧沼舱柚抨葭枷靥硝绚绞缆讪褚砗嫣蒲丫鹦蒹憩懊聋盎婊盔峦矜凛铺鹉蜴惚畴羁媛堑泛疮韶憋祁诟搔蜥袒奄忱玖拌悴祠扼髅筑蛤茱骐捶须亢葔艸筛岳岳慵戮跎砰仑炜篱笈瘫吏痊庶厥棘娑沁窘鲸缕硷俨栈蔬鸠闲迢恣昀泠涟眩噫娥荼鳄镖侃虏俾樟榴咛炬窦笠翱莘躇翡姜枭匕藩徉觞拣吱皈墉傌梢巅踌萌幌杭侥栾奠痲夸瘖芯蟀驿耨禾瑾
“kill them with kindness” Wrong. CURSE OF RA 𓀀 𓀁 𓀂 𓀃 𓀄 𓀅 𓀆 𓀇 𓀈 𓀉 𓀊 𓀋 𓀌 𓀍 𓀎 𓀏 𓀐 𓀑 𓀒 𓀓 𓀔 𓀕 𓀖 𓀗 𓀘 𓀙 𓀚 𓀛 𓀜 𓀝 𓀞 𓀟 𓀠 𓀡 𓀢 𓀣 𓀤 𓀥 𓀦 𓀧 𓀨 𓀩 𓀪 𓀫 𓀬 𓀭 𓀮 𓀯 𓀰 𓀱 𓀲 𓀳 𓀴 𓀵 𓀶 𓀷 𓀸 𓀹 𓀺 𓀻 𓀼 𓀽 𓀾 𓀿 𓁀 𓁁 𓁂 𓁃 𓁄 𓁅 𓁆 𓁇 𓁈 𓁉 𓁊 𓁋 𓁌 𓁍 𓁎 𓁏 𓁐 𓁑 𓀄 𓀅 𓀆
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2024年4月15日
青山クラブ取得から6年、活用策の行方は? 旧海軍ゆかりの施設 呉市は近くの3施設を含めて有識者会議で議論中(中国新聞)
広島県呉市が巨費を投じて購入した旧海軍ゆかりの施設「青山クラブ」(幸町)は、活用されないままの状態で取得してから6年がたった。市は昨年5月、近くの市立美術館など市所有の3施設を含め幸町地区一帯の在り方を検討する有識者会議を設置。同会議が出した結論を踏まえ、エリアの整備方針を策定する。約1年間で同会議の議論はどこまで進んでいるのか。状況を整理した。
観光集客などを目指し、市は2018年に青山クラブと隣接する桜松館、2施設のある国有地約8500���方メートルを約2億円で購入。施設の保存・活用を目指していたが、耐震診断で大幅な改修補強が必要なことが判明し、結論を先送りした。以降、活用されない状態が続いている。
有識者会議は建築や都市計画、まちづくりの専門家たち11人で構成。青山クラブを含む4施設の整備コンセプトや機能について約2年間かけて話し合う。昨年5月からこれまで5回会合を開いている。
議論は、物販や飲食、宿泊など各施設に想定できる機能のアイデア出しが中心だった。2月の中間まとめでは整備コンセプトを「呉の歴史と文化を未来へ」と定め、歴史を伝え感じる▽文化・芸術の発信▽にぎわいの拠点―の3機能をエリアに求めるとした。
ある委員は「機能面については丁寧に話し合いを重ね、アイデアが出尽くした。堂々巡りが続いている感もあり、一歩進める段階に来ている」とする。
複数の委員は議論を進める上で重要なポイントとして、(1)青山クラブの保存をどうするか(2)老朽化する市立美術館をどこに再配置するのか―の2点を挙げる。(1)については「市民の思い出や歴史が刻まれた場所。保存が望ましい」「改修補強に費用が掛かり、全面保存は現実的ではない」と意見はまとまっていない。「エリア内の施設の方向性を市にある程度示してもらわないと、具体的な機能の議論が深まらない」との指摘もある。
青山クラブを巡っては、新原芳明市長が17年の市長選で活用などを訴え、初当選。22年に市は市立美術館の機能を青山クラブに移転する考えを示したが、市議会で異論が噴出した経緯がある。新原市長は「有識者会議の結論などを踏まえ判断する」との考えを示す。
有識者会議の事務局を務める市は「意見を幅広く聞きたいので、市が方向性を示す方式は取らない。次回の会合から具体案の議論を予定している」と説明する。
同会議は年内に最終的な結論をまとめ、市に報告する予定だ。議論の推移をみた市議の一人は「購入して6年。この間にも建物は老朽化している。市民の関心も高く、市はなるべく早く方向性を示すべきだ」と注文する。
「阿鼻叫喚。これが戦争」特攻志した元少年兵が訴えること 原爆投下直後の広島で救護した「暁部隊」(中国新聞)
暁部隊の軍服や胸章が並ぶ企画展
戦時中、水上特攻を志しながら原爆投下直後の広島で救護や遺体の処理に従事した少年兵たちがいた。陸軍船舶司令部、通称「暁部隊」で、特攻兵を育成する秘密部隊に所属。国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(広島市中区)で開催中の企画展で紹介されている。元少年兵たちは来年の被爆80年を前に「命と平和を守ることを考えてほしい」と願う。
宇品地区(現南区)に本部があった暁部隊は原爆投下直後の広島で唯一、軍隊機能を保ち、市民の救援、救護に当たった。その中に、幸ノ浦(広島県江田島市)に駐屯していた船舶練習部第十教育隊の15~19歳の特別幹部候補生もいたという。
石川県七尾市の沢野実さん(96)は17歳で入隊した。「天皇陛下のために死ぬのが当たり前だった」。通称「マルレ」と呼ばれる全長5・6メートルのベニヤ板製の特攻艇で突撃する極秘訓練に明け暮れた。上官には「君たちは捨て石。国のために死ぬのが務めだ」と言われたという。「靖国神社で仲間と顔を合わせようとの思いだった」
原爆投下後、第十教育隊はマルレなどに乗り、広島市内に向かった。沢野さんも市中心部で負傷者の救護と遺体処理に当たった。「心臓が飛び出ている人や泣き叫んでいる人がいて、阿鼻叫喚の現場だった。これが戦争だと実感した」と振り返り、非戦を訴える。
「本土決戦に向け愛国心に燃えていた」と語る岩手県遠野市の伊藤宣夫さん(96)は原爆投下時、船舶通信���補充隊におり、市中心部で「死の街」を見た。たまらず班長に「戦争はやめた方がいいです」と言うと、「軍人が弱気でどうするのか」と怒られたという。「罪のない国民が殺される戦争は絶対にいけない」と語気を強める。
祈念館の企画展は来年2月末までで、沢野さん、伊藤さんたち元少年兵9人の証言映像や軍服など12点が並ぶ。辞世の句「我が友よ 笑って散ろう 君のため 共に会ふど 九段の社」と書かれたアルバムもある。橋本公学芸員は「自分自身や子どもの身に置き換えて戦争の残酷さを感じてほしい」と話している。
原子炉内への核燃料搬入開始 柏崎原発、規制委が承認 東電(時事通信)2024年4月15日
東京電力柏崎原発7号機で開始された原子炉内への核燃料搬入作業=15日午後(同社提供)
東京電力は15日、停止中の柏崎刈羽原発7号機(新潟県)について、原子炉内への核燃料搬入作業を開始したと発表した。
再稼働に向けて必要な検査の一環で、原子力規制委員会が同日に計画を承認した。完了までは2週間以上かかる見通し。実際の再稼働には地元自治体の同意が必要となるため、具体的な時期の見通しは立っていない。
東電によると、まず制御棒などを原子炉内に入れた後で、敷地内のプールに保管中の核燃料872体を順次搬入する。その後、燃料が正しく配置されているかや、非常用炉心冷却系機能などの検査を1カ月半程度かけて行う。安全対策のため、宿直の所員を8人から51人に増員した。
岡本孝司(東京大学教授)補足 原子力規制委員会の了解を受けて、まずは原子炉に燃料装荷をスタートしているという事です。この後、原子炉を起動するには、地元の了解を得る必要があります。
原子炉を起動して核分裂が正常に起きていることを確認したのち、試運転に移り、様々なテストを繰り返したのち、営業運転に入ることになります。まだ、再稼働に向けた最初のプロセスです。
いずれにせよ、再稼働には、地元との安全協定に基づき、地元了解が必須です。
今、東京電力の電気代は、原子力発電所が動いている関西電力の1.5~2倍しています。2社のホームページで、電気代単価を比較してみるとよくわかります。柏崎刈羽6,7号機は、ABWRという新しい型の原子炉で、安全性も十分に確認されています。安全第一で、この2基の原子炉が動けば、電気代も安くなる事を期待したいです。また、電力の安定供給にも大きく貢献する事が期待されます。
柏崎刈羽原発、燃料装着始まる 地元から不安の声「課題たくさん」(毎日新聞 4月16日)
東京電力柏崎刈羽原発7号機の炉心部。右手の四角い水槽が使用済み核燃料プール=2024年4月12日、田中泰義撮影
東京電力は15日、再稼働を目指す柏崎刈羽原発(新潟県)7号機の設備の健全性確認のため、原子炉へ核燃料を装着する作業を開始した。能登半島地震で、地元住民からは事故時に安全に避難できるか不安の声が上がる一方、東電による再稼働準備が進む。【内藤陽】
東電は同日、原子力規制委員会から安全対策設備の試験使用承認(使用前確認)を受けたとして、午後5時過ぎに開始。6時半ごろに1本目の核燃料を装着した。東電は「課題が見つかれば立ち止まり対策を講じるなど、一つ一つの工程を着実に進める」としている。
東電は10日に宿直態勢を8人から51人に増員し即応態勢を強化した。作業では、使用済み核燃料プールから核燃料872体を1本ずつ移動し、原子炉圧力容器に装着する。装着後、制御棒205本の動作確認のほか、原子炉圧力容器などからの漏えいの有無や冷却設備の機能などを確認する。すべての燃料の装着が終わるまで2週間程度、原子炉起動まで約1カ月半かかるとみられる。
花角英世知事は再稼働への立場を表明していない。燃料装着について、花角知事は今月3日の記者会見で「検査の一工程」と述べ、再稼働議論への影響はないとの認識を示した。柏崎市の桜井雅浩市長も「再稼働に必要な検査で、しっかり確認してほしい」と話している。
昨年12月の原子力規制委員会による事実上の運転禁止命令解除後、東電は県内各地で説明会を開き、原発の安全性を住民に訴えてきた。しかし説明会では原発事故時の避難や地殻変動による地盤の隆起などを心配する声が上がり、不安が払拭されたとは言い難い状況だ。
同原発から5キロ圏の同市椎谷に住む佐藤正幸さん(79)は「多くの課題に目をつむって再稼働に動き出すのはいかがなものか」と話す。能登半島地震で道路の寸断や家屋の倒壊が複数��生し、地盤が4メートル隆起したことなどを指摘。「課題がたくさんあるのに、目を背けたまま再稼働を準備するのは、けしからん事だ」と語気を強めた。
万博はもう中止できないのか?「オリンピックと同じ末路に」専門家は警鐘、でも政府は「能登」を横目に開催へ突き進む
2025年大阪・関西万博は、4月13日で開幕1年前を迎えた。国家的イベントが近づくにつれ、世論の期待は高まっている…と思いきや、SNS上では今も「万博中止」のハッシュタグが目立ち、延期を求める声も飛び交う。「期待一色」には程遠い状況だ。
なぜか。多額の税金が投入される会場整備費は、当初見込みの約2倍となる2350億円まで膨らんだ。独創的なデザインを競う海外パビリオンは想定よりも建設スケジュールが大きく遅れ、着工はわずか十数カ国(4月上旬時点)にとどまる。負担増や課題ばかりが目立つ中で、期待値を上げる方が無理というものだ。
そこに、2024年の元日に起きた能登半島地震が追い打ちをかけた。今も避難を余儀なくされる被災者からはこんな声が聞こえてくる。「万博どころじゃない」。国民に理解が広がらなければ、新型コロナウイルス禍の中で開催された東京五輪・パラリンピックと同じ末路をたどる、と警鐘を鳴らす専門家もいる。
逆風は強まるばかりなのに、政府や関係機関は予定通りの開幕をかたくなに維持する。万博は中止できないのか。費用や手続きの面から「なぜ開催にこだわるのか」に迫った。(共同通信=大阪社会部万博取材班) ※筆者が音声でも解説しています。「共同通信Podcast」でお聴きください。
▽「0.14%」と「27%」
吉村洋文大阪府知事は3月28日、万博と能登半島地震との関係についてこんな発言をしていた。「復興を最優先するべきだ。しかし万博を中止、延期して復興が進むのかと言うと、違う」。開幕1年前を控えたインタビューで、国内で実施されている各種建設工事のうち、万博が占める割合はわずか0.14%だとして計画変更の選択肢を否定。こう言葉を重ねた。「復興を理由に万博に反対するのは違う」
ところが、国民感情はそう単純ではない。共同通信が2月に実施した世論調査では、能登半島地震から��復興を踏まえた上で万博を開催するべきかどうかを尋ねたところ「計画通り実施するべきだ」としたのは27.1%にとどまった。「延期するべきだ」が27.0%で拮抗し、「規模を縮小するべきだ」26.7%、「中止するべきだ」17.6%と続き、計画変更を求めたのは全体の7割を超えた。
市民団体「どないする大阪の未来ネット」(大阪市)には、開催中止を求める署名がオンラインを含めて14万件集まった。事務局長の馬場徳夫さん(84)は訴える。「延期してもコストが上がる一方だ。震災復興のためには中止が最適だ」。署名は日本国際博覧会協会(万博協会)や近畿経済産業局に提出している。
能登の被災地からは冷たい視線も向けられている。万博会場となる大阪市の人工島・夢洲から300キロ以上離れた石川県珠洲市内の避難所に身を寄せる井上等さん(65)は、自宅が全壊し、高齢の母との避難を余儀なくされた。会場整備費は国、大阪府・大阪市、経済界が3分の1ずつ負担することとなっており、石川県民も納税者として費用を賄う。井上さんは正直な胸の内を明かした。「今は万博どころではない。地震の前からある話なので、開くなら開けばいい。けれど正直、万博に使うお金があるなら、家を建て直す費用が欲しい」
▽「不可抗力」なのか
今回の万博を中止することは可能なのか、中止すると何が起きるのか。経済産業省の博覧会推進室に聞くと、浮かび上がってきたのは「不可抗力」というキーワードだ。
その前におさらいすると、2025年大阪万博の開催が決まったのは2018年11月。パリで開かれた博覧会国際事務局(BIE)の総会で、加盟国の投票で選ばれた。5年に一度開かれる大規模な万博の日本開催は1970年大阪万博、2005年愛知万博(愛・地球博)に続き3回目だ。
仮に万博を延期する場合は、BIEの総会で3分の2以上の賛成が必要だ。根拠となるのは、万博の定義を定めた国際博覧会条約。2020年に予定されていたアラブ首長国連邦(UAE)のドバイ万博は、新型コロナウイルス感染の世界的拡大が直撃。BIE加盟国から必要な同意を得て、延期が決まった。
では中止にはどのような手続きが必要になるのか。博覧会推進室によると、実は中止については国際博覧会条約には規定がない。関係者間の合意があればいいということになっている。
そこで、とある書類が重要になってくる。開催が決まった国がBIEに提出する「登録申請書」だ。2025年大阪万博の登録申請書を読むと、開幕まで1年となる2024年4月13日から開幕前日の2025年4月12日までに中止する場合、参加国とBIEに最大計5億5700万ドル(約840億円)を支払わなければならない、とある。
これは、時期ごとの準備状況に合わせて算出された数字で、補償額はパビリオンのタイプによって参加国ごとに異なる。各国が「相当の資金を負担して参加をしている」(万博協会幹部)だけに、直前の中止は影響が大きいというわけだ。���府中枢の首相官邸からはこんな声も聞こえる。「万博の開催は国際公約だ。中止や延期は国の威信にかかわる」
一方、経産省が把握する中で、これまで中止に伴う補償金が生じたケースはないという。直近ではアルゼンチンで開催が計画されていた2023年ブエノスアイレス万博が新型コロナウイルスの影響で取りやめとなった。ところがBIEの執行委員会で新型コロナによる中止は「不可抗力だ」と報告された。
2025年大阪万博の登録申請書の中では、この「不可抗力」についてこう言及している。「自然災害とみなすような事態に起因する『不可抗力』により中止された場合には、補償金は支払われない」
経産省の担当者は言う。「能登半島地震が不可抗力とみなされるかどうかは執行委員会で議論してみないと分からない」。では、補償金が生じる恐れがあるから開催を中止できないのか、と問うと「全くそうではない」と返ってきた。「万博には意義がある。その意義は震災には左右されないと思う。そもそも復興は『土木』のフェーズ、万博工事は『建築』のフェーズにあり、ニーズは重なっていない。むしろ、延期すれば復興の妨げになる可能性が高まる」
▽頼みは公式キャラクター
万博旗振り役の経済産業省が言う「意義」とは何なのか。テーマの「いのち輝く未来社会のデザイン」や、コンセプト「未来社会の実験場」から国民が読み解くのは難しく、大阪府と大阪市が強調するメリット「2兆円の経済効果」のみが一人歩きする。
万博協会は昨年ホームページをリニューアルし、企業や海外勢によるパビリオンの紹介ページを充実させた。とはいえ、それだけでは「そもそも万博に興味がある人」への受け身のアプローチに過ぎず、万博でどんな体験ができるのかという点を広く知らせるには物足りない。
さらに、PRのけん引役が公式キャラクター「ミャクミャク」頼みになっていることも、意義が伝わらない一因といえる。
開幕500日前を迎えた昨年11月以降、大阪府内の各地では「くるぞ万博」と書かれたポスターがあちこちで見られるようになった。その中央でおどけたポーズを取るのがミャクミャクだ。
大阪市役所の前には涅槃像のように横たわったミャクミャクの巨大モニュメントを設置。府内で開催される自治体系のイベントには必ずと言ってもいいほど、ミャクミャクの着ぐるみが登場するようになった。
大阪府と大阪市が昨年12月に実施したアンケートでも、ミャクミャクの認知度は全国で88・3%と高く、万博のテーマ「いのち輝く未来社会のデザイン」の認知度を30%近く上回��た。
もちろん、公式キャラクターの人気はどんなイベントでも成功の柱になる。だが、現時点でミャクミャクの人気が万博への来場意向に与える影響は限定的だ。
アンケートで「万博に行きたい」と答えた人は全国で33.8%にとどまり、1年前から約7ポイント下落。ミャクミャクであふれる府内に限っても36.9%で、2023年度の目標に設定した55%を大幅に下回った。ミャクミャクの人気にあやかるのにも限界がありそうだ。
チケットの売れ行きも芳しくない。万博協会が設定する販売目標は2300万枚。前売り販売は昨年11月末に始まったが、4月3日時点で約123万枚と、目標の6%にも満たない。前売り販売目標の約半数は企業購入分に頼っており、今後はどれだけ個人購入を促せるかが焦点となる。
▽秘策は「ビビッドな情報」?
運営側の取り組みの粗雑さについて、社会学者で神戸大大学院の小笠原博毅教授は厳しく指摘する。
「意義があると言いながら、伝えない。誰が本気で開催したがっているのかが見えてこない」
2020年東京五輪・パラリンピックの開催に一貫して反対してきた小笠原教授は、万博の現状に五輪との共通点を見いだす。「世論を無視して強行した五輪と構図が似ている。多額の税金が使われるのに中身が空疎だ」。期間の短縮やテーマの分かりやすい説明を求める。
新型コロナウイルスの影響で1年延期された東京五輪は直前まで開催を疑問視する声が絶えなかった。開催1カ月前の世論調査でも中止を求める声が3割ほどあり、国民理解を十分得られないまま開会式を迎えた。小笠原教授は、万博も同じ末路をたどるとみている。
岸田文雄首相の国会答弁からは、能登半島地震の被災地復興という文脈で万博への理解を広げようという思惑がにじむ。「万博で被災地をPRし、復興につなげる」。小笠原氏はこうした言葉を「空虚なリップサービスだ」と突き放す。「万博開催による『2兆円の経済効果』をうたうならば、国民の暮らしへの支援や好影響、復興に割く金額を具体的に示すべきだ」
国民の幅広い歓迎に向けて、秘策はあるのか。4月1日に報道各社のインタビューに応じた万博協会の石毛博行会長の言葉は、現状とは���腹に自信にあふれていた。「開幕に向けて、これからビビッドな情報を出していく」。全国的な機運が広がっていない現状は「経費の増加や海外パビリオンの遅れといったネガティブな報道が影響した」と分析。SNSやメールマガジンを使った地道な取り組みで挽回を宣言した。「万博へのイメージをアップデートする。世界が日本に2025年の万博開催を信任した。きちんとやり遂げるという形で世界との約束を守ることが、われわれにとって極めて重要なミッションだ」
歴史的円安背景にインバウンド絶好調 百貨店は軒並み“過去最高”記録づくめの決算に(TBS NEWS DIG)2024年4月15日
百貨店の年間決算は、歴史的な円安を背景にインバウンドが絶好調。各社“過去最高”の記録づくめの決算となりました。
「J.フロントリテイリング」のことし2月までの1年間のグループ全体の決算によりますと、売上高にあたる売上収益は前の年に比べ13.2%増え4070億円に、最終利益は299億円と前の年の2倍以上にのぼり、増収増益となりました。
国内の富裕層向けに高級ブランド品などの販売が好調だったほか、インバウンド客による免税売上高が過去最高の721億円となったことなどが主な要因です。
先月、48歳という若さで社長となったJ.フロントリテイリングの小野氏は初めて出席した決算会見で…
J.フロントリテイリング 小野圭一 社長 「いま非常に業界の中で追い風が吹いているが、これがある種の暴風ではないかというふうに感じています。2年、3年たって、コロナが終わってインバウンドがじゃんじゃん帰ってきて売上良くなってよかったということになってしまっているということに、私は一番危機感を持っている。いま好調の中で、どういった将来に向けた成長の種をまけるかというふうなことで、かなり大きな差がついてくるのではないかというふうに思っています」
このように述べたうえで、「現状の上にあぐらをかくのではなく、新しい事業にしっかり���を張って育てていく」としていて、今後、デジタル分野の事業展開などを強化する狙いです。
一方、「高島屋」のことし2月までのグループ全体の1年間の決算では、営業利益が前の年に比べ41.3%増え459億円に、最終利益も13.6%増えて316億円といずれも過去最高を更新。営業利益は、1990年度以来33年ぶりの最高益となりました。
新型コロナの5類移行や円安を背景に、インバウンド需要が増えたことなどで、国内店舗の売上が好調だったとしています。
高島屋の村田社長は、今回の決算内容の受け止めについて、「コロナからのリバウンド的な部分が多分にあることも事実」と述べたうえで、「今年から本当の力が試される年。冷静に過去最高益に浮かれるのではなくて、グループ全体で引き締め直す」と話しました。
また、「松屋」のことし2月までの1年間の決算では、売上高にあたる総額売上高は前の年と比べ31.2%増え1149億円となりました。
インバウンド客が多く訪れる主力の松屋銀座店では、売上高が前の年と比べ35.5%増え1018億円となり、1991年度以来、32年ぶりの過去最高を更新しました。
西川立一(ラディック代表/流通ジャーナリスト/マーケティングプランナー)見解 インバウンドにおけるモノから体験への流れ、そしてかつての日本人も海外でのブランド漁りから脱却したように、百貨店のインバウンドはやがて収縮していく。
J.フロントリテイリングの小野圭一 社長 のインバウンド好調に対する危機感と、将来に向けた成長の種をまくことが重要だという指摘はまったくの正論。
いまこそ、百貨店の業態イノベーションとビジネスモデルの変革が求められている。
村山慶輔((株)やまとごころ 代表取締役/インバウンド戦略アドバイザー)見解 中国人観光客の完全復活を待たずに、都内や主要都市の商業施設においてインバウンド消費が順調。続く円安、万博効果もあり今後もさらに伸びる可能性がある。ただ、コロナ禍の状況を踏まえると、各企業は安心してはいられないというのが本音でしょう。
一方で、地域の中小企業において、インバウンド需要の回復はまだまだこれから。インバウンド需要も二極化しており、地方誘客が今後のカギになる。
石川智久(日本総合研究所 調査部長/チーフエコノミスト)補足 日本がこれほど安い国になってしまったことに危機感を持つ必要があります。脱成長を求める意見もありますが、世界は経済成長を続けており、成長していないのは日本くらいであることを認識する必要があります。日本が成長しなければ、企業はインバウンド頼みの経営になってしまいます。今こそ日本はいかにして経済成長を遂げるかを考えるべきです。世界では経済成長に財政資金を投じる傾向が強まっています。理系人材の育成や新産業創出に財政資金を投じて、経済を成長させることが、日本が海外から買いたたかれない方法といえます。
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1981年に防衛大を卒業し陸上自衛官になった私は、事故のちょうど1年前に、千葉県の習志野駐屯地に所在する第1空挺団に配属されました。普通科群普通科中隊(当時)の小隊長として30名ほどの部下を率いる立場で、階��は2等陸尉。まだ独身で26歳でした。
自衛隊では8月に定期異動があり、12日は駐屯地内の「隊員クラブ」で、転入隊員の歓迎会が開かれていました。私はお酒も飲んだため、駐屯地外に借りていたアパートには戻らず隊舎で寝ることにしました。
その晩、中隊当直幹部として勤務していたのが、作間優一2等陸曹(当時36歳)でした。寝る前に作間2曹から、航空機墜落の報告を受けました。第12師団(当時)の担任区域における事故らしく、第1空挺団に災害派遣の準備命令等が発出されていないことを確認し、ひとまず眠りにつきました。
その間、ヘリコプターからのリぺリング降下(ロープを使った垂直降下)による迅速な現場進出の必要性から、第1空挺団の出番となり、第12師団に配属しての災害派遣が翌早朝までに決していたのでした。
朝5時前には「命令受領ラッパ」が鳴り響き、営内に残っていた我々は即座に出動準備を整えて集合、V-107という大型ヘリ6機に乗り込み、7時54分、習志野を出発しました。準備といっても、装備を詰めた背のうは常に用意してあるので、出発前に地図と乾パンを支給されたくらいです。
6機のヘリのうち、1番機には第1空挺団派遣部隊指揮官である普通科群長以下の「救助部隊本部」の要員が、2番機から6番機にはそれぞれ隊員12名が乗り込みました。12名のうち1名は衛生隊員なので、私は3番機の小隊長として、自分の部下から10名を選抜しました。
小隊長である私のサポート役として、普段の演習でも常に一緒に行動していた作間2曹は、もちろん真っ先に指名しました。ヘリのパイロットたちもいつになくピリピリしていて、張り詰めた空気が漂っていました。
現場の「御巣鷹の尾根」上空に到着し、降下を開始したのが8時48分。まず1~3番機の隊員が現場に降り、4~6番機は麓の相馬原(そうまがはら)でいったん待機することになりました。空挺部隊には指揮官が“先頭降下”するという伝統があって、3番機では私がリーダーですから、最初にロープを伝って山の斜面に降り立ちました。私の次に降りたのは作間2曹です。
空挺隊員にとってリぺリング降下は日常茶飯事ですが、急峻な斜面に着地した瞬間、強烈な違和感を覚えました。ブーツの裏にグニャッとした柔らかい感触があったんです。「なんだろう?」と思って足下を見ると、そこにあったのは人の“耳”でした。ご遺体を踏んでしまったことに気づき、すぐに“申し訳ございません”と心の中で謝りました。
降下後、普通科群長が命令を下達しました。���々の任務は、「生存者の救出」と「地形の偵察」です。2番機の小隊と共に生存者を捜索しながら尾根を登っていきました。私と2番機の小隊長を中心に、左右各人5~10メートルほどの間隔で横一列に広がって斜面を登るのです。
■「生存者発見!」
息を飲む光景でした。航空機燃料が燃える独特の臭いがして、岩肌には人の内臓がベタッと張り付いている。見上げると、髪の毛が���いた頭皮が木からぶら下がっていました。傾斜がきつく、木の幹に掴まりながら登るのですが、触った瞬間に滑る感じがする。見ると木全体が血と肉片で真っ赤に染まっていました。私の後ろを歩いていて、やはりその“赤い木”を触ってしまった隊員が「ギャーッ」と大声で叫びました。
その時に私が感じたのは、「職業選択を間違えた」ということです。地獄絵図のような現場を目の当たりにして、私は「戦場の光景というのは、多分こういうものだろうな」と考えました。とても耐えられない、おれはこの仕事に向いていない、そう思いました。部下の前では表情にこそ出さないものの、それが本音でした。御巣鷹は私にとって初めての災害派遣だったのです。翌朝には慣れて、そういう気持ちは払拭されたのですが。
同時に、隊員の誰もが「こんな悲惨な状況で、生存者なんているわけがない」と感じていました。斜面を上がれば上がるほど、まともな形を残したご遺体も少なくなっていきます。あるのは手や足だけの部分遺体や、肉片、皮膚ばかり。あまりに凄惨な場所でした。こんな事故で、到底人間が生きていられるはずがない、と。
生存者を見つけられないまま尾根を登り、今度は別の方角に向かって下りながら捜索を続けようとした時です。無線から驚くべき情報が流れてきました。「生存者発見!」。耳を疑いました。「えっ?」と他の隊員と顔を見合わせました。
無線を送ってきたのは、4~6番機から降りたグループでした。当初、相馬原で待機を命じられた3機は、我々のおよそ1時間後、9時45分に現場へ来て降下を開始しました。我々が降下地点から尾根を登って行ったのに対し、彼らは群長の命令で逆方向に下りながら捜索をしていたのです。そして、「スゲノ沢」と呼ばれるあたりで、麓から徒歩で登ってきた地元の消防団や松本駐屯地の第13連隊と合流し、そこで4名の生存者を発見したのです。
尾根の上にいた我々には、「降下地点に戻れ」と指示がありました。急峻な山の中で、その辺りがかろうじて平坦になっていたからでしょう。その付近から生存者をヘリに吊り上げることになりました。降下地点に戻り暫くすると、下から生存者が運び上げられてきました。たしか事故機のトイレのドア等を担架がわりにして運んできたと思います。
生存者4名は、あの悲惨な現場で一晩発見��れずにいたので、当然かなり衰弱していました。そのうちの一人の少女、後で川上慶子さんと知ったのですが、彼女に「頑張れ!」と声を掛けると「うんうん」と頷くようなリアクションがありました。それを見て「大丈夫だ、助かる」と思いました。
でもそこからが長かった。救出用のヘリがなかなか来ないのです。こちらからは何度も要請しているのに一向に来ない。報道陣のヘリも含め、多くの航空機が上空に飛来していたため、二次災害の危険もありました。
結局、生存者が吊り上げ地点に搬送されてから、ヘリへの収容が完了するまで1時間近くかかりました。ヘリを待つ間、誰もがイライラしていて、そのうち、現場に到着された赤十字の女性の看護師さんから、ものすごい剣幕で怒鳴られたんです。私の顔をキッとにらんで、「もしこの人たちが亡くなったら、あんたたちのせいだからね!」と。それはよく覚えています。「おれだってどうしようもないんだ」という気持ちでしたね。
ヘリを待ちながら、現場ではホイスト(ヘリからのワイヤによる吊り上げ)準備をしていました。赤十字の医師から、「隊員が直接抱えて上げたほうがいい」と言われて、自衛隊の茶色い毛布で生存者の体を包みました。最初に吊り上げたのは、吉崎美紀子さん(当時8歳)です。毛布に包んだまま、空挺隊員が抱えてヘリに収容しました。
次が当時14歳だった川上慶子さん。彼女を収容したのが、私の相棒だった作間2曹でした。1人目と同じように、毛布で包んで準備をしていると“事件”が起きました。救出される生存者の姿を撮影したかったのでしょうが、なんと、いつの間にか周りにいた報道陣から手が伸びてきて、毛布を剥ぎ取ったんです。「何をするんだ!」と怒りましたが、もうヘリは真上にいてワイヤが下りてきている。仕方なく、作間2曹は毛布無しで川上さんを抱えて吊り上げられました。
3人目の吉崎博子さん(美紀子さんの母、当時34歳)と4人目の落合由美さん(当時26歳)は、担架に乗せた状態で吊り上げました。というのも、抱えて吊り上げるには脱力した大人は相当重たく、途中で落下する恐れもあり、危険だと判断したのです。
ここで我々はミスを犯してしまいました。3人目の吉崎さんのお母さんを乗せた担架が、ヘリから吹き下ろされる風を受けて、吊り上げた途端にグルグルと回転してしまったのです。すごいスピードで回転して、いまにも担架から体がずり落ちてしまうのではないかと気が気ではありませんでした。私は真下で両手を広げて、「万が一落ちてしまったら、絶対に受け止めなくては」と覚悟していました。
結果的には無事に収容できたのですが、これは我々の本当に初歩的なミスです。本来、担架の把手にロープを付けて、担架が回転しないように地上の隊員がロープを保持すべきなのです。基本的な作業ですが、やはり異様な現場に平静でいられなかったのでしょうか、あの非常時に誰もそれに気づかないまま吊り上げてしまった。今でも思い出すたびに血の気が引きます。最後に落合さんを収容する際は、きちんと補助ロープを付けました。
生存者の救出を終えたのが、13日の13時29分。そこから次の任務が命じられました。ヘリポートの構築です。獣道すらない急峻な山に、人員や救助物資を迅速に送り込むにはヘリを使うしかない。我々は上空からロープで降下できますが、以後の作業にはヘリを着陸させることが必須でした。
普通科群長は私に、大型ヘリ(V-107)用を一つと中型ヘリ(HU-1H)用を一つ、あわせて二つのヘリポートを構築するよう命じました。我々は訓練・演習で簡易ヘリポートを作りますが、その際、なるべく広くて平坦な場所を探します。そこで私は、日航機の主翼が落ちていた辺りに目をつけました。その辺りは比較的広くて平らだったからです。ただ、航空機事故ですから、事故原因の究明のために現場検証も必要です。勝手に現場の状態を変えるわけにいかないので、現場を管轄する群馬県警の責任者を探しました。
周りにはたくさんの警察官がいましたが、長野県警だったり警視庁だったりで、なかなか群馬県警の責任者が見つからない。ようやく見つけて交渉したところ「ダメだ」の一点張り。仕方なく、現場検証を要しない下方の地点に決定し、周辺の木を切り倒して斜面を掘削し、削った岩石や土を下側に盛るやり方で、中型ヘリ用ヘリポートのみを作ることにしました。
我々がヘリポートを作っている間にも、続々とご遺体が運ばれてきます。やがて夜になり、13日の深夜にはヘリポートの大枠ができました。暗い中では細かい仕上げができないので、その日はその場で仮眠することにします。そして翌14日の朝3時頃から作業を再開し、7時頃にヘリポートが完成しました。
■“モミジ”
ただ、この仮眠がつらかった。翌朝からヘリで搬送するべく、ヘリポート付近にはご遺体が集められていました。その隣で横になって眠るのですが、真夏の暑さで傷んだご遺体は、死臭を発しているんです。何度も目を覚ましました。
14日は、完成したヘリポートを使って朝から何度もヘリが往来し、15時くらいまでに計121のご遺体を搬送しました。この数字に関しては苦い思い出があります。この日、上級部隊から連絡幹部が現場にやってきたのですが、ヘリポートの運用を指揮していた私を見るなり、「今日は何体運んだ?」と聞くのです。私は返答に窮しました。
ご遺体といっても、五体満足なものは少なくて、手だけ、足だけといった部分遺体も多い。それを現場では努めて早く収容すべく、個別に包装した部分遺体の何体かを一緒に毛布に包んで“1包み”として搬送していました。そういう状態で“121包み”搬送したのであって、「何体か」と聞かれてもわからないのです。
ところが連絡幹部は、即答できない私を見て、「それでも責任者か!」と叱責したのです。ロクに寝ていなかったせいもあるでしょうが、さすがに頭に来て、部下の一人に「おい、そこの毛布を開けろ!」と命じました。そして「あなたには、このご遺体が“何体”かわかるんですか!?」と聞き返すと、相手も黙ってヘリに乗って帰っていきました。
今思い出しても、いちばんつらかったのは「モミジ」です。ご遺体の搬送準備中、ビニール袋に入った何かが運ばれて来ました。赤くて小さくて、最初はモミジの葉のように見えました。でもそれは、血に染まった小さな子どもの掌だったのです。徐々にご遺体を見ることにも慣れていたのですが、あれは衝撃的でした。本当にかわいそうで、堪らない気持ちになりました。
14日の15時過ぎから天候が悪化し、ご遺体の搬送作業はそこで中断しました。雨がしとしと降る中、その夜も前日と同じようにご遺体の隣で仮眠し、翌15日の朝、我々空挺部隊は任務を終えてヘリで習志野に帰投しました。ですから、私が御巣鷹山にいたのは13日の朝から15日の朝まで、48時間くらいです。睡眠も食事も不十分なまま過酷な状況にいたので、今思えばかなりストレスが溜まっていたのでしょう。
警察と喧嘩もしました。自衛隊のヘリが運んでくるのは、ツルハシやスコップなどの工事用器材、ご遺体収容のための毛布だとか、任務に直結するものばかりです。ところが警察のヘリは、弁当やタバコ、寝袋やらをたくさん運んでくる。
ある時、広げたままの寝袋が、ヘリの風圧で巻き上げられそうになり、近くにいた私の部下が慌てて飛び乗って押さえた。すると警察官が彼に向かって「おい自衛隊さん、寝袋に穴開けないでくれよな」と言い放ったのです。部下は休憩中だったのでタバコをくわえていました。警察官には、彼がふざけて寝袋に寝っ転がったように見えたのでしょう。私はその警察官に「馬鹿野郎! 寝袋が巻き上げられてローターに接触したら、ヘリが墜落するだろうが!」と怒鳴りつけました。
マスコミにも腹が立ちました。川上さんの毛布を剥ぎ取ったこともそうですが、遺体の写真ばかり撮る輩もいて、思わず「いい加減にしろ!」と叱ったこともあります。とはいえ、14日の昼頃、ある新聞記者が持ってきた朝刊を見た時は、やっぱり嬉しかった。そこには、川上さんを抱えてヘリに向かう作間2曹の写真が1面に載っていたのです。
今でこそ災害時の自衛隊の活動はメディアでも取り上げられますが、当時の自衛隊はある意味、日陰者でした。マスコミが現場にいるのは認識していましたが、我々の活動が大々的に被写体になるなんて私自身は想像もしておらず、とにかく驚きました。それと同時に、おれたちは正しいことをしているんだ、という実感が湧いてきたんです。
ただ5年前、事故から30年ということであるテレビ局の取材を受けた際、ディレクターから開口一番、「なぜ自衛隊の到着が遅れたんですか」と聞かれたのは心外でした。そもそも当時の災害派遣は、要請を受けて初めて出動できる仕組みでした。勝手に現場に向かうことはできません。
また、「夜のうちに現場へ行けなかったのか」などという人もいます。我々空挺部隊・普通科部隊は深夜の現場であって��救助活動することは可能ですが、輸送に任じた当時の自衛隊のヘリには暗視装置が装備されておらず、暗夜における未知の山地・森林の飛行は危険極まりないものでした。一方で12師団隷下部隊は、夜を徹してまさに暗中模索で現場に向かって山を踏破していたのです。自衛隊はできる限りのことをやったと私は今も確信しています。
■ストレス障害
御巣鷹での経験は、私のその後の自衛隊人生にも影響を与えました。一番大きいのは、「ストレス障害」について身をもって学んだことです。実は習志野に戻った後、私は不眠症に悩まされました。
昼間仕事をしている時はなんともないのですが、夜アパートに帰ると、暗い場所があるのが苦痛に感じられるのです。寝室はもちろん、トイレや風呂の電気もつけっぱなしにしておかないと落ち着かない。そして就寝中にふと窓に目をやると、ベランダにたくさんの人が並んで私を見ているのです。ほぼ全身の人もいれば、上半身のみの人、炭化した人など、全員、御巣鷹の現場で我々が後送に関わったご遺体のお姿そのものでした。
もちろん幻覚だと自分自身納得しています。彼らが現れることに恐怖心を覚える反面、それほど不快には感じなかった。ただただ、「なんで現れるんだ」という気持ちでした��結局、ウイスキーをガブ飲みしないと眠れない状態が1カ月ほど続きました。
この間は肉類も全く食べられませんでした。でも、当時の私はそれを仲間の誰にも言えなかった。あの頃の自衛隊には、まだストレス障害という概念もなかった。空挺団は、男の中の男が集まった猛者ぞろいの精鋭部隊です。年上の部下を統率する若手幹部として、弱みは見せたくなかった。上司に相談しても「頭がおかしくなったのか? 病院に行ってこい」と言われるだけだと思うと、誰にも相談できなかった。
ただ、御巣鷹に出動した者の中で、外泊を申請して出掛けたはずの営内居住隊員が、“不気味に感じる”と言って駐屯地に帰ってきて皆と一緒に寝ているという話を聞いた時は、妙に安心しました。私はその隊員に向かって「情けない奴だ」と笑ってやったのですが、内心、「おれだけじゃない、みんな同じなんだ」とホッとしたことを覚えています。
それからずっと後の、私が1等陸佐として連隊長を拝命した2003年、自衛隊がイラクに派遣されました。私も派遣に備えて、部隊指揮官としてストレス障害に関する教育を受け(結局私自身はイラクには行かなかったのですが)、更にその後の勤務でも、指揮官・幕僚にとって必須の知識として学びました。
そこで、当時26歳の私が御巣鷹山から帰って体験したことが、まさに「急性ストレス障害(ASD)」の典型例だったと気付いた。それ以来、ようやく自分の経験を他人に話せるようになりました。ちなみに、ASDの状態が1カ月を超えて続く場合は「心的外傷後ストレス障害(PTSD)」とされます。
戦場や大規模災害の被災地などの過酷な状況下では、どんなに強い人間でもストレス障害になり得る。それを私は、知らないうちに自ら経験していたのです。たった48時間の任務で、私の心は壊れかけてしまった。そしてそれをひたすら隠し、一人で悶々と悩んでいた。
現在の自衛隊では、海外派遣や災害派遣のたびにメンタルヘルスに関するケアを体系的に行っています。任務終了後の隊員を一人でストレス障害に立ち向かわせるような状態に放置することはありませんし、仮にあったとすればその指揮官は失格です。そういった意味で、この貴重な体験は私自身にとって、指揮官として大勢の部下を率いて任務を完遂する上で大きな糧となりました。
あの悲しい事故から35年を迎える今、改めて犠牲者のご冥福と、生存者やご遺族の方々の人生に幸多からんことを、心からお祈り申し上げます。
岡部俊哉(おかべとしや) 元陸上幕僚長 昭和34年、福岡県生まれ。元陸上自衛官(防大25期)。第6師団長、北部方面総監などを経て、2016年、第35代陸上幕僚長に就任。2017年8月に退官。
「週刊新潮」2020年8月13・20日号 掲載
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<侵食される国土> 「観光客にはどうかと思う田舎のゴルフ場でも『見たい』と言うので、何カ所かを案内しました」というのは、ゴルフ場売買の斡旋業者A氏。彼が案内した外資とは韓国資本だ。「ディズニーランドや温泉だけでなく、ゴルフもしたいという韓国人観光客が増えたのはたしか。かつての日本同様、海外で自国の観光客相手にゴルフ場経営しようという韓国資本がいてもおかしくはない。ただ周りにこれという観光施設がなくとも『見たい』と言われると、何か別の狙いがあるのかなぁ」とA氏は首を傾げていた。韓国資本のゴルフ場買収は九州、中四国からはじまり、どんどん北上しているという。
答えの1つは東京財団の『日本の水源林の危機』と題する政策提言にある。同財団は昨年1月、「グローバル資本の参入から『森と水の循環』を守るには」という副題で提言しているが、今年1月には「グローバル化する国土資源(土・緑・水)と土地制度の盲点」と題する現状レポートを兼ねた第二弾を発表した。それによれば、千葉県にある148ゴルフ場のうち、31は韓国や欧米系外資だという。千葉県は日本のゴルフ場銀座の一つ。東京の隣接地として、純粋にゴルフ場経営が成り立つ条件がある。しかし、地方では温泉や良質の湧水が出るなど、ゴルフ場経営以外の付加価値があるところも少なくない。韓国資本がゴルフ場買収に積極的になっても、おかしくはない。
そこへ追い討ちをかけてきたのが、2〜3年前からの中国資本による森林買収の噂だ。「山を買いたい」とか「木材が欲しい」という中国人、あるいはその代理人とおぼしき日本人が各地に現れた。
「2〜3年前に地元製材所団体に『ヒノキを買いたい』という話がきたようですが、その後、まとまったという情報はありません」(岡山県の真庭森林組合)。
東京財団の先のレポートは、同様の話が三重県大台町や長野県天竜村ほか、埼玉県や山梨県でもあったという。しかし、地元が難色を示したこともあり、いずれも立ち消えになっているようだ。そんな現状から林野庁が各都道府県に調査を依頼した結果、かなり明確になったのは北海道だ。
「生前の中川昭一先生(元金融・財政相)から『調べて欲しい』と言われていました」という道議会の小野寺秀議員(自民党)の質問に、道庁が今年6月に出した資料によれば06年〜09年までの外資による土地買収は7件、5カ国。
「林野庁の依頼は06年〜08年の売買ですが、道庁独自に09年も含めて調べたところでは、中国が3件、他はニュージーランド、シンガポール、豪州、英国です」(小野寺議員)。
そのうち、中国が買収した後志(しりべし)地方はほとんどが森林地帯。3件のうち1件は58haと広大だが、ほかは2haと1ha。後志支庁のある倶知安町一帯は、ニセコを始めとするスキー場や温泉もある観光地。加えて、羊蹄山系からの良質な水にも恵まれている。広いところは木材目的あるいはスキー場目的とも考えられるが、ほかは何が目的か。尖閣諸島近海での石油ガス開発に先手を打った中国は、日本側からストローのように吸い上げているのでは、と疑うムキがある。それと同様、かねてより囁かれる「中国資本の狙いは水」なら1haでも可能だ。急速発展し、富裕層が増えるほどにペットボトル需要が拡大している現状ではあり得る話だ。
「こちらでは豪州、中国、香港、シンガポール、北米、欧州資本が、この3年半で24件取得しています。しかし、中国に限らず外資の買収目的はほとんど『資産保有』となっているだけで、本当の狙いがどこにあるかはわかりません」(倶知安町企画振興課)。
同町には5〜6年前から、欧米を中心とする観光客が増加。1〜2年前からは、中国人観光客も来るようになったという。外資が取得しているのはほとんど森林地帯で、それぞれバラバラ。「スキー場あるいは別荘開発が考えられる」(同町企画振興課)とはいえ、一定の面を外資に握られたことに変わりはない。それも林野庁調査よりはるかに多い。全国を精査すればどうなるか。
<日本消滅の危機> 見落とせないのが、倶知安町は観光地であると同時に、陸上自衛隊の駐屯地でもあることだ。同じ北海道の砂川市では「英国」と分類されてはいるが、香港在住者が300haもの広大な土地を保有している。目的はこれまた不明だが、隣接する滝川市もまた陸自の駐屯地である。
08年には、長崎県の対馬で自衛隊基地隣接地が韓国資本に買われていたことが発覚。同じく、五島列島沖の無人島(姫島)所有者と中国企業が、売買交渉を進め���いたことも判明した。御影石の産地だが、地政学的には東シナ海を臨む軍事的要衝の地。実際に陸側には航空自衛隊のレーダー基地がある。そんなところが中国企業に渡ったらどうなるか。
3〜4年前、石破茂元防衛大臣事務所に、横須賀市の住民から「知人のところに中国人から土地買収の話が持ち込まれた」との通報があった。そこは横須賀港の米海軍、海上自衛隊の基地が一望できるところだった。
ゴルフ場や森林など一定以上の土地売買情報は把握できるが、小規模取引は把握困難。仮に把握できても現行法制度下では外資の土地買収を規制するのは不可能。それだけ日本は野放図なのだ。かつて中国の李鵬元首相は「日本なんて21世紀には消えている」と豪語したが、囲碁同様に内陸から布石を打たれ、内部から蝕まれたらまさしく日本は消える。
” - 外資の土地買収に潜むもの 姿を現したゴーストたちの狙い(下):|NetIB-NEWS|ネットアイビーニュース: 深層WATCH 2010年9月15日 08:00 (via nandato)
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樺太・千島列島での日ソ戦争
日中戦争の問題点を検証する 岡崎けい子 メールマガジンよ���
広島に原子爆弾が落とされると、樋口将軍の予想どおり、ハゲ鷹は弱りきった日本にとどめを刺そうとやってきた。 侵攻してきたソ連軍最高司令官は、A・M・ワレンスキー元帥である。 ザバイカル方面軍司令官はマリノフスキー元帥、攻撃目標は大興安嶺山脈から満洲国の 首都新京方面。 第一極東方面軍はメレツコフ元帥が指揮をとり、吉林、ハルピン攻略を目指す。 第二極東方面軍はブルカエフ大将が指揮して黒竜江、ウスリー河を渡河し、東満洲を制圧し、その一部は太平洋艦隊と協力して、樺太を攻撃する。 その兵力は130万、狙撃師団50個師、機甲師団15個師、戦車4千輌、車輌2万5千台、航空機5500機。 マリノフスキー軍は、侵攻第1日目に早くも150キロを突破、 メレツコフ軍は牡丹江付近まで進出した。 ブルカエフウスリー河、黒竜江を強行渡河し、満洲国国境守備隊は随所で孤立し、壊滅状態に陥った。 8月10日、午後10時、ソ連軍最高統帥部は満洲における奇襲侵攻作戦が予想どおりに進捗しつつあるのをみて、樺太侵攻作戦を発令した。 北樺太の第十六軍司令官チェレミソフ少将は、 「8月11日10時を期し、樺太国境を突破、北太平洋艦隊と協力し、8月25日までに 全樺太を占領せよ」 との命令を受領した。 樺太に侵入したソ連軍は、第十六軍の主力である第56狙撃軍団2万で、戦車旅団1個 と独立戦車大隊2個を持つ強力な機械化部隊であった。 ソ連軍がくりだした戦車は、独ソ戦でタイガー戦車と互角に戦い、すばらし��機動性を 発揮したT34中型戦車で、重量32トン、85ミリ砲を備えていた。 しかし、日本軍にはこの戦車群に立ち向かえる戦車は1輌も配置されていないばかりか、 対戦車砲もなかった。 国境陣地で最初にソ連軍と接触したのは8月11日午前5時である。 8月10日午後10時、北樺太の第16軍司令官・チェレミソフ少将は、 「8月11日10時を期し、樺太国境を突破、北太平洋艦隊と協力し、8月25日までに 全樺太を占領せよ」との命令をソ連軍最高統帥部より受領した。 国境からわずか4キロの半田には小規模の日本軍陣地があり、大国武夫少尉、泉沢少尉らの2個小隊が防備にあたっていた。 主力の第125連隊は半田から8キロ後方の八方山陣地、さらに5キロ後方の古屯にあった。 尖兵となって突入してきたソ連軍は戦車5輌、火砲五門を持つ一個中隊であったが、大国・ 泉沢小隊は速射砲で応戦し、ソ連の進撃を阻止した。 ソ連軍は500名の兵力を守備隊に補強し、攻撃を強化し、大国小隊は奮闘及ばず、夜間に負傷者を後方に離脱させたのち、玉砕した。 ソ連軍は戦車を先頭に南下を開始してきたので、八方山の山砲陣地はこの戦車群に猛攻を加えた。 先頭の戦車が炎上すると後続が立ち往生する。そこを狙い打ちに攻撃する。 さすがのソ連軍も森林地帯に遁走した。 しかし12日にはさらに兵を増強して南下を開始したので、小林連隊は速射砲と山砲で攻撃し、進出を阻止した。 ところが大本営から「第一線部隊はあくまでも防御戦闘を行い、攻撃はなすべからず、やむおえざる場合は積極的防御をなすべし」という命令が届いた。 これはモロトフ外相から宣戦布告書を受け取った佐藤駐ソ大使からの連絡がまだ到着していなかったので、大本営はバカ正直にソ連の正式な宣戦布告を待ったのである。 タス通信は8月9日の午前4時に「ソ連参戦」ニュースを伝えたが、この真偽を確かめるために大本営はこの2日間待ったをかけていたのである。 マリク大使から公式文書を受け取った8月10日になって大本営は正式に対ソ連作戦行動を開始したが、前線に伝わったのは8月12日であった。 第5方面軍司令官兼北部軍管区司令官・樋口季一郎は8月12日、「積極的戦闘禁止」を解除し、直ちに戦闘行動に入るよう訓令した。 「宿敵ソ連軍、我に向かって立つ。怒髪天を衝く。…断乎仇敵を殲滅し、もって宸襟を 安んじ奉らん」 この檄文で将兵の士気は鼓舞された。 8月12日朝、半田西方12キロにソ連軍が侵攻してきた。この地域は幌内川に沿って 茫漠たるツンドラ地帯が続いている。そのため防御も手薄であろうとソ連軍は読んだ。 しかし、樋口は予想していたので、現地の岡島小隊に幌内川の橋梁を破壊させ、道路に 障害物として倒木を設けて置いた。 ソ連軍は進軍を阻まれたが13日には北緯50度線から南に17キロの古屯(ことん)に��した。 古屯陣地の第八十八師団小林連隊との攻防戦が以後4日間続くのである。 戦況は五分五分で、戦車隊にひるまず日本軍はよく戦った。 札幌から援軍も派遣されようとしていた。しかし8月14日ポツダム宣言の受諾、15日の終戦の詔勅が出されて、この訓令が17日に前線に伝達され、八方山陣地で交戦中の小林連隊は戦闘をやめた。 ところがソ連軍は攻撃を強化し続けた。 それどころかソ連軍最高統率部は千島、南樺太への侵攻作戦を8月15日に発令している。 アメリカ軍が8月15日をもって戦闘をぴたりとやめたのに対して、樺太では8月28日 まで戦闘が続いていたのである。 日本が降伏して士気が衰え、混乱している隙に乗じて北海道目指して怒涛の進撃が可能であると「火事場泥棒」は例のごとく実力行使にでたのだ。 第八十八師団の主力は既定計画どおり、樺太南部確保のため動かず、第七師団から歩兵3個大隊、砲兵1個大隊を基幹とする一支隊が出動準備を終え、第一飛行師団も持てる戦力 を動員し、樺太作戦に出動する態勢を整えていた。 8月15日の終戦の詔勅が出て大本営は即時戦闘行動を停止するよう、各方面軍司令官に対して命令した。 第5方面軍司令官としての樋口は直ちに全軍に訓示を発し、将兵の軽挙妄動を戒め、内外に対して日本武士道の真髄を発揮するよう要望した。 豊原にあった峯木師団長は各部隊長にこれを伝え、戦闘中の前線にも伝令を送った。 しかし、ソ連軍は八方山陣地で戦う意思をすてた小林連隊に攻撃を続けた。 これに怒った木下大尉は8月16日、北極山陣地で独断出撃し、戦死した。 ソ連軍は南下を強行し、8月16日は恵須取(えすとる)と塔路(とうろ)に空襲と艦砲射撃を行った。 8月20日、樺太西岸の日本海に面した港町「真岡(まおか)」(現在は「ホルムスク」)に、ソ連の軍艦が現れ、艦砲射撃を始めた。このとき各部隊は武装解除の準備にかかっていた。 日本軍は反撃に出るわけにもいかず、対応に苦慮することになる。 真岡の荒貝沢にあった歩兵第二十五連隊第一大隊は、大隊長命令で将校斥候として岩瀬少尉が兵を率いて出ていった。同少尉らはその後ついに戻らなかったが、真岡の状況は連隊砲の広瀬分隊などからくわしく報告された。 しかし、仲川大隊長は発砲を厳にいましめるだけであった。 避難民が右往左往するのを喜ぶかのようにソ連軍は街中に機銃掃射を浴びせた。 火災がいたるところで発生し、住民に死傷者が続出している。 しかし、仲川大隊長は交戦を許さず、現場待機を命じ続けた。 ついに上陸して戦闘を続けるソ連軍に対して、停戦軍使を派遣することを決定した。 軍使に決定したのは村田徳中尉と随員・前岡軍曹(大隊本部書記)、通訳金山軍曹(朝鮮出身者)、護衛兵7人、軍犬一匹。この軍犬は不測の事態が起ったとき放つためのものであった。 一行を本部前に集合させ訓示のあと水盃を交わして送り出した。 軍使の口上文は日ソ両国語の二通りを通信紙に記述し、白旗も濃霧の中で軍使であることをたやすく確認できるように敷布大のものを携行せしめるなど、万般の準備をした。 ときに20日午前3時半だった。 軍使のソ連軍への申し入れは以下の通りである。 一、 我々は大日本帝国天皇の軍隊なり。 一、 八月十五日正午、終戦の大命降下し、日本軍は自主的に戦闘行動を中止した。貴軍隊はこれを知らないのか。 一、我々は戦闘をする意志がない。よって貴軍隊は直ちに戦闘行為を中止して欲しい。 一、 直接、指揮官相互において話し合いを行い、平和裏にことを運びたいので貴意を得たい。 連隊本部への有線電話は砲撃のためか切断されていたが、そのころようやく補修され、軍使の出発を報告した。 午前9時、仲川大隊長がソ連軍の動静と軍使のことを心配しつつ、本部にて図上の諸計画を考えていた時、四囲の静けさを破り、突然、自動小銃の断続音が3、4回、沢の入り口方向でした。濃霧いまだ晴れやまず、視界ようやく二百メートル程度であった。 不安がかすめた。 午前10時、軍使の護衛兵であった松木一等兵が第一線の兵に付き添われ、顔を血に染めて帰ってきた。 その瞬間、不安が的中したことは疑う余地がなかった。 「村田副官殿がやられました」といったあとは号泣している。 荒貝沢の入り口でソ連軍は軍使が通訳を通して話している最中に自動小銃で軍使一行を撃ち殺したのである。 その後護衛兵2名が負傷して帰ってきた。 仲川大隊長からの報告を受けた連隊本部からは、しばらくして「衛戌勤務令第十一条、第十二条に基づき行動するように」という命令があった。これは歩哨が剣を用いる場合の条項で自衛戦争のことをいうもの。直ちに村田軍使以下の惨殺の状況とともにこのことが各隊に命令された。 やがて、ソ連軍が「豊真山道」はもちろん、荒貝沢の両側の山からも一斉に前進してきたという報告が、斥候や第一線の各隊からほとんど同時に大隊本部に入ってきた。そこで 第一大隊は初めて先頭の火ぶたを切ったのである。 ソ連の艦隊からソ連兵たちが真岡に上陸を開始し、第一大隊が迎え撃って反撃したため、ソ連の艦船からも真岡に対して一斉に射撃が始まった。 ソ連軍の射撃は無差別射撃で、軍人だけではなく多くの民間人が殺された。 熊笹峠や宝台ループ線を舞台に日ソ両軍が激戦を交えた。 真岡郵便局電話交換手の女性9名が、通信網を断つまいと交換台を最後まで守りぬき、最後に青酸カリを飲み自決した悲劇でも有名である。 電話の交換業務は24時間休みなく続けられるため、彼女たちは昼と夜を通して交替で勤務し続けた。しかし、彼女たちは全員、万一の事態を想定し、薬品室にあった青酸カリをポケットに忍ばせていた。 もしもソ連兵から乱暴されそうになったときは、大和撫子としての誇りを守るため、自らの命を絶つためである。上陸したソ連兵によってあちこちで若い女性が乱暴されているという噂は、真岡にも届いていた。 ソ連軍は22日には豊原(豊原・現ユジノサハリンスク)を空襲。 この間それぞれ海路から上陸を強行して一方的な攻撃を加えてきた。 ようやく停戦交渉が成立したのは8月28日のことである。 そして9月2日に降伏文書に調印されてやっと終戦になった。 ソ連軍が南樺太へ侵攻して占領し、駅も含め全線がソ連軍に接収された。 終戦時、南樺太の人口は約40万人。戦争が終結したのにもかかわらず、ソ連の侵攻で多くの民間人が犠牲となった。 日本兵は武装解除ののち、シベリアに送られた。 1937年、建築家・貝塚良雄が丹精込めて建設した天守閣を取り入れた「帝冠様式」の樺太庁博物館は、現在はサハリン州郷土博物館として使われている。 千島列島侵攻作戦は8月15日にブルカエフ大将から出されている。 17日から開始された「占守島上陸作戦」で根拠地となったのはカムチャッカ半島の東海岸にあるペトロバウロフスクの街である。 先遣部隊の海兵隊8360名が乗り込んだ船団が午後6時に次々に出港した。 それと呼応してカムチャッカ半島尖端のロバトカ岬から沿岸砲が占守島の国端岬めがけて 連続砲撃を開始した。 海上14キロしか離れていない占守島国端岬は文字通り、国土防衛の最前線である。 ここを守るのは屈強の2万8千の堤兵団である。海軍部隊を入れると3万2千人。 火砲200門、戦車一個連隊85輌の堂々たる威容である。 しかし8月15日の終戦で彼らは戦争は終わったと思っていた。 大本営からの指示は「一切の戦闘行為を停止す。ただしやむおえざる自衛行動をさまたげず、完全撤退の時期を8月18日午後4時とする」 もちろんこの通告を受けて8月16日には千島、樺太に関して打ち合わせをソ連に対して 関東軍総参謀長・秦彦三郎中将を通じて交渉すべく要請していた。 この無法なソ連軍に対して大本営の指示に従って黙認するか、「自衛の戦闘」をなすべきか、 樋口司令官は熟慮した。 そして樋口は祖国をソ連の毒牙から守ることに決めた。 「断乎反撃に転じ、上陸軍を阻止せよ!」堤兵団に電報が飛んだ。 8月18日午前零時、ソ連軍は竹田浜に上陸を開始した。 同時に海からも艦隊による艦砲射撃が火を吹いた。 迎え撃つ村上守備隊長は徹底抗戦を指示、激戦が繰り広げられた。 竹田浜はソ連兵の死体で埋まり、ソ連の撃沈された船舶が累々と横たわっていた。 しかし、その兵の死体を乗り越えて、さらに駆逐艦、輸送船で2万の兵がこの小さな占守島に続々と上陸しようとしている。 マンドリン銃を抱え、鬼の形相で「ウラー!ウラー!」と叫びながらすさまじい勢いである。 池田末男中佐率いる戦車隊は64輌の戦車を持つ方面軍の「虎の子」である。 上陸して進攻しようとするソ連軍をふたたび竹田浜に追い返した。 奮戦する戦車隊に対してソ連軍は対戦車砲を陸揚げして前面に押し出した。 ドイツ戦線でドイツのタイガー戦車を打ち抜いたロケット式の秘密火器である。 日本の戦車はこの対戦車砲の前に無力で、次々に戦車の側面の52ミリの銅鉄をぶち抜かれた。 それでも日本軍は壮烈な体当たり攻撃を加えて健闘していたし、幌筵からも佐藤少将率いる歩兵第74旅団6千が援軍に駆けつけようと移動を開始していた。 陸海航空部隊は竹田浜で揚陸中の輸送船を攻撃し、撃沈させていた。 戦闘は日本軍有利である。 8月18日、大本営はマニラのマッカーサー司令部にソ連軍が不法に攻撃していることを 告げ、ソ連に停戦するよう指導してほしいと打電した。 しかしソ連軍最高司令部はこれを拒否した。 午後4時、堤師団長は停戦の軍使を派遣することを決めた。 天皇陛下が終戦を宣告されたのにまだ戦闘を続けることは陛下に背いていると考えたのだ。 軍使には司令部付の長島厚大尉が選ばれ、わざとソ連軍に捕まりに行った。 しかし19日になっても帰還しなかった。 ふたたび軍使として山田秀雄大尉を派遣した。日魯漁業の清水通訳を連れて赴いた。 ソ連軍司令部は小泊崎の海岸にあった。 カムチャッカ地区防衛司令官・グネチコ少将と第一梯団長・ディヤコフ少将が杉野少将 と柳岡参謀長が午後3時過ぎに竹田浜で正式に会見した。 ソ連側の条件は敗軍に対する無条件降伏を求める屈辱的な要求ばかりである。 しかし、戦闘は日本軍に利がある。武装解除を求めた後の兵の処遇が語られない。 それでもいずれは停戦して武装解除を受けるのであるからサインした。 旅団司令部に戻った柳岡の報告を聞いて、堤師団長は「武装解除と戦闘停止は別である。 方面軍から訓令があるまでは武装解除は断じてならん!取り消して来い!」 柳岡は清水通訳と竹田浜にふたたび向かった。 それっきり消息を絶った。 ソ連はこの日、夜襲をかけてきた。 山田大隊はこれを予想していて反撃した。 日本側がおとなしくしていればソ連軍の思うツボで、どんどん内地まで侵攻が進むであろう。何としてもこれを防がねばならない。 21日午後4時、堤師団長は攻撃を再開することにし、全将兵を戦闘配置につけた。 そのとき、方面軍から「停戦すべし、武器引渡しも了解す」との暗号電報が届いて、 完全に戦争は終わった。 この千島列島侵攻はスターリンがソ連極東軍総司令官・アレクサンドル・バシレフスキーに命じたものである。 ヤルタ会談で千島列島の割譲はアメリカのトルーマン大統領とイギリスにも認めさせたものの、北海道の割譲にはどうしてもトルーマンは許さなかった。 日本軍の方面軍が強固に戦ったので、一挙に北海道まで攻め込むことはできなかった。 しかし、方面軍が21日に武装解除に応じたことで、8月31日までには千島のしゅむしゅ島からうるっぷ島までの各島にソ連軍は上陸し、占拠を完了した。 ソ連軍の択捉島への上陸は8月28日の夜に開始され、1万5300人の日本軍はなんら抵抗することなく降伏した。 9月1日、国後島と色丹島に上陸、島に在駐する4800人の日本兵は武器を捨てた。 その後、9月2日、ソ連軍は急遽歯舞群島も占領することを決定し、9月3日になって 歯舞の多楽(たらく)、志発(しはつ)、勇留(ゆり)、秋勇留(あきゆり)、水晶(すいしょう)の島々に上陸し、9月5日までに全島の占領を完了した。 実は北方四島の占領にはソ連は躊躇していた。 トルーマンに千島列島(クリール列島)をソ連領とすることを認めさせたが、もともと北方四島は北海道に付随していて、千島・樺太交換条約のときも対象外である。 もしもアメリカ軍がすでに日本に上陸してきていたら文句を言われるのではないか、と恐れていた。 終戦時の案内人として北千島師団参謀の水津満(すいつみつる)陸軍少佐はソ連駆逐艦に 同乗したが、うるっぷ島までくると反転して北千島に帰ったので、ウォルロフ参謀長に その理由を聞いた。 参謀長は「これより以南はアメリカの担当だからソ連は手を出さない」と明言した。 しかし、どの島にもアメリカ軍の姿は見えず、『シメシメ、ならば頂こう』と占領したのである。 これはアメリカの無知による。日本を占領しようとする者がその領土の詳細を知らなかったのである。それでなくてもソ連が北海道をしつこく欲しがっているのを知っていながら 千島をソ連に占領することを許したのである。 ならば、日本とソ連の国境をヤルタ会談で明確にしておくべきである。 おまけに千島列島が日露戦争の30年も前に、1滴の血も流さず、国際条約として樺太と交換された日本の正式な領土であるという認識がない。 ましてや江戸時代に日露間で取り決めた条約に北方四島は日本固有の領土であることを 明記されているのを知る知恵もない。 ともかくも千島全島はソ連に占領され、武装解除させられた日本兵はシベリアに強制的に 労働力として拉致され、地獄の苦しみを味わうことになる。 1951年(昭和26)日本はサンフランシスコ条約(ソ連は不参加)により、樺太・千島18 島を放棄したが、国際上これらの地域の帰属は未定であり、帰属決定の国際会議は開かれていない。
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作業所をサロンをたまり場を開き続けるために 【コロナ】と【患者会】 ナンとしてでも患者会を開き続ける
作業所をサロンをたまり場を開き続けるために 【コロナ】と【患者会】 ナンとしてでも患者会を開き続ける 【コロナウィルス】が流行してとてつもなくタイヘンなシンドいツラい状況に為っていて、でも、えばっちと云う精神病患者が想っている事を、なかまで話しながらのコトも書いておきたいと想うのです、、悩みながら、、、、、も、、、、ね、、、矛盾しながらも、、、患者会を開き続けるためにね、、ドンな時でも、ナンとしてでも、、、、
キーサントモダチ、スタッフダチンコのみなさんへのお手紙として、書いています。宜しくお願い致します。コレはコレでいいのでしょうか。ドウ想われますか、、、、
おそらくは、あの三九度を超えていた三日三晩の苦しみは、どうもインフルだとは、想うのですが、念のため、熱が下がってから自主隔離をやったのでした。奥さんと離れていたのは、初めてでした。しかも、その間、みんなの部屋へも行けなかったので、なかまとも会えなかったので、それはそれは、やはり、相当シンドったです。やはり、ニンゲンは一人では生きられないんだと、再確認した次第です。
クルシカッタ!!!!!!!
自主隔離してても、、メールや電話や、原稿を書いたりも出来るじゃないか、YouTubeをみたり音楽もきいたり、なにより、電話やメールでつながりながら、原稿を書いたりしたらいいじゃないかと、想ったりもしていましたが、ゲンジツには、段々と、そういうことをする気力が失われ、自主隔離期間中は、何にもできずにボウゼンと佇んでしまうような、、、メールや電話でのやりとりも、ジッサイは、だんだん、段々と自分の気力を失ってきて、途切れがちになっていくのも、よく分かりました。シンドイことで、これは、みなさん、元々の精神病もありますので、「ヒトと交流し、なかまとともに一緒にいることで、ナンとか為っているタイプの病者」にとっては、『ヤバイ状況』『鬱ポク』為りやすいと、想いました。そうえばっちの基礎疾患は精神病の躁鬱病なのでした。この時にせっかく減らし続けていたクスリが、またもや、増えて行ったのでした。アモバンとデパスが倍に、ワイパックスが一錠増えてしまったのでした。ツラいものでした。病者は『フアン』と『孤独孤立』には、兎に角、弱いのでした。えばっちは、弱いのでした。もはや、シンドい、ゲンカいでした。でもとにかく、熱が下がってからの自主隔離をやりきったのでした。
奥さんのとこまでチャンと帰れるか、実は、シンパいでした。外に出たら足が震えていましたので、、手に汗をかき、、心臓が押しつぶされそうになってドキドキしていました。奥さんにウツシてしもうたら、ドウしようかと、、、、そして、これは、四月半ばの未だに奥さんのところへ帰ろうとすると足が震えて足からチカラが抜けて、冷や汗をかいて心臓を押しつぶされそうな、コンなカンジになってしまうのでした。だから、結局やすらぎの里に戻って来てしまうことも度々で、、、、それにしても、自主隔離最後の方は、「抑うつ状態」に為りかかっていたと想います。えばっちがぜんぶ、止まっちゃいましたから、、、みんなの部屋が「自然消滅」したらドウしようか、、、とも、想いました。
このテレビ報道や状況の中、「病状を崩す」なかまが、続出していると、電話で各所のなかまのみなさんから聞けるようになってきました。そして、えばっちは、ドウ想っててドウ感じているのドウ乗り切ろうとしているの、と云う質問と云うか、ハナシも沢山出てきたのでした。ただでさえ、不安で、先の見通せない【コロナ感染】の社会状況の中、我々『病者』の中には、益々『不安』に為り『病状』を『深刻』に崩してしまうことも、多々あるようで、ドウ考えて、ドウしていったらいいんのやろ、と云うハナシがあったのでした。ドウしたらいいのか、、、、友の会の何人かのなかまとはチガう意見なのだけれど、ともかくイマえばっちと云う精神病者が、ドウ考え、ドウ想っているのかを記しておこうと、想ったのでした。そう、咳一つくしゃみ一つで、なかまの中に『フアン』と『ニクマン』が、それでも、一人では生きられなく、みんなで集まってくる、『フアン』だから集まってくると云う日々を送られていると云うことで、ほんとに、精神病者の『たまりば』だなぁと、再度想った次第なのでした。逆に『フアン』だから、行きたいけれど、行けないんだ、と云うゲンジツもあり、家族から、行かないようにと言われているので、と云うゲンジツもあるのでした。ツラいクルシい各所のなかまたちのジッサイのセーカツなのでした。
だから、ぼくたち「病者」は『基礎疾患』として『精神病』を患っており、もちろんイロイロなタイプのビョーキがあって様々なのですが、でもやはり、そもそも、社会や世間様から『孤立』しがちですから、、、ソコのトコロも、『ジブンのビョーキの悪化』の可能性も踏まえておいて、ギリギリのせんで、覚悟をもって、ナニか決めて行かなきゃならんとも想いました。もちろん、みんなの了解を得ながらもね、、、、、モチロんシンドい状況に為っていったときドのように対応していくかと云う時に、ゲンジツには『病者』個々の『ビョーキ』のチガイや『ノリ』や『障害のタイプ』『病者としてのセーカツスタイル』のチガイやその時の『病状のモンダイ』もありますし、、この【コロナ感染症】の深刻さもありますし、おそらくは『絶対的に正解』と云う考えや、在り様やり方は無いのだとは、想いますが、、ただ、今テレビや識者為る者達が煽り抜いているこの『フアン』に対して、えばっちは、ドウ想っているの、、と云うコトに答えていかんとなぁぁぁーと、、ボクたちの中でのナカマ内の議論の中身を残しておかなきゃならないなぁーとも想ったのでした。だから『正解』として書いているわけではないし、しかも、『不正解』の可能性だってあるわけだし、でも、三九度を超える熱を出しながら想っていたことも在るし、自主隔離をやってみて、えばっちのような、『人と会うことで精神を保っている』『精神病患者』としては、ドウなのか、、と云うことを体験からくるものとして記しておきたいと想ったわけなのです。
『顔を合わせて集まり開き続けるコト』を何時も忘れずに持っておかないと、、、、、精神病患者会として、ドウ為ってシマウのか、、、、とも想うのです。
ドウ言えばいいのか、この状況の中でドウ言えばいいのか。コンな状況でもえばっちは、コウ叫び続けなければならないのだと想うのです。なかまとのやり取りを遺しておかなければならないと想ったのでした。
『なかまをつくろうと、叫びつつけてきた三十年ヤッタ、キーサントモダチ、ダチンコになりませんか、、、と叫びつつけてきたんやが、、、』
『なかまと会って、集まりたいなぁぁぁーーヤッパリ』
『ヒトはヒトと会わなければ、、、、さもないと、オカシクなってくる、えばっちは、ホントソウなんや』
『えばっちを殺すにゃ刃物は要らぬ、なかまからも相方からも会えないようにさせてといて孤立隔離させときゃ一か月もあればいいんやで』
『苦しかったただクルシカッタ、自主隔離のサイゴ一週間はオカシく為りかかってた、ホントに、アンなに減らし続けてきてたクスリが元に戻ってシモタ』
『ヒトはヒトと会って話をしていかないとアカンとほんとにオモタわ、、ココが自然消滅してしまうんじゃないかとシンパいヤッタ』
『感染症のことだけ考えてたらアカン、、、そうなんですよ、キーサンのセーカツがあるんやから、、ココ守る云うのは、閉めることだけでもアカン、閉めるのもみんなのため、開き続けるのもみんなのためなんや、、オレはココツ��しませんよ。自然消滅なんてさせませんよ』
『なかまのいのちを護らなあかん、なかまのいのちを守るためにココを閉め続ける方がいいのか、なかまのいのちを守るためにココを開き続ける方がいいのか、、、この問いはムズカシいと想う、しかもツラい問や』
『正解は、無いかもシレン、でもとにかく、ワシ等キーサンの基礎疾患は、まず精神病なんやから、、精神病がコレ以上悪くなったり入院せざるを得なくなったり、クスリがガーーんと増えるのは、ナントカせんといかんから、、、ジッサいのトコロ、クスリも増えてきた、不眠も酷くなってきた、フアンが酷くなってきた、、、コンな状況や被害妄想なんかからくる暴力も多く為りそうや、家族にヤッテしまうかもしれん、、病者はみんな、特にフアンに囲まれてセーカツしてるようなモンや、それがますます不安感が亢進してタマランようになってくるのをナンとかしたいなぁぁぁーしないとイカンなぁぁぁ』
『フアンで不安で、しかもヒトと会わなかったら病気が重くなってくるカンジしますね、ホントに、、』
『精神病院に入院中のなかまはドウなんでしょうね』
『中で流行したら逃げ場ないから、、、』
『い病院にワシ等がウィルスもちこんだらアカンから、毎週月曜の面会お見舞い三月初めから止めたけれど、、、ドウ為っているやろ、入院しているなかま達がシンパイや』
『や君があれから一度だけお見舞いのジュースやプリンを渡してもらうように、持って行ったけれど、今や、二週に一度電話でなかまの安否を確認しているダケになった。看護も疲弊しているやろし、毎週電話すると云うワケにもいかなそうや。外出禁止面会禁止って精神病院に居てたらツライぞ』
『老人施設や障害者施設ナンかにグループホームに入っているお年寄りや障害者のみなさんや、病者はドウなるのかも、、、』
『ほんまそうや、内部で拡がったら、タイヘンや、、しかも無医村ミタイなトコあるし、、、精神病院で感染症対策で、外出禁止、、面会禁止、、オレは恐ろしいとオモウわ、、、看護士や精神医にストレス溜まってきたらナニされるかワカラン、精神病院の閉鎖病棟、保護室は、、、恐いで』
『ホームレスのオッチャンらはドウ為るんでしょうね、かま、釜ヶ崎のオッちゃんらもシンパい、、、オカシな事にならなきゃいいけれど、、、、セカイには、シビアーなスラム街も難民キャンプのみなさんも、、、、、』
『刑務所や拘置所の中もアブナイですよ』
『そうや、タイヘンや、ドコも、しかも、オレ軍隊経験あるから言うけど、軍艦や駐屯地の営内班こそ、感染症に弱いんや。細菌と軍隊と医学の関係は切っても切れんモンなんやから、、オレ○○駐屯地で三日ばしかが流行り始めたら、アッちゅうまに罹ってしもて、入室になったわ』
『コロナに罹らんでヨカッタ、でも自殺してシモタ、コンなコトになってしまわへんかシンパイですよ、テレビみてたら、ドンドんシンドくなる、気ぃ狂いそうや、ビョーキは確かにオモウなってきたカンジがする』
『今回は、元々から気が狂っているんやからヨカッタなんてコトが言える気持ちの余裕に為らないですよね、なんだかフアンで不安で』
『もういっそのこと、テレビみんようにしたろと想うけど、、、見てしまうなぁぁぁ』
『コロナに罹らんてヨカッタ、でもたまり場、患者会、作業所立ちいかなく為ってシモタってコト為ってしまいそうな気も、、、実際もう出ているかもしれませんね』
『シャレに為らん、ココの作業所ツブレそうや、ドウしたらエエんや』
『自主的に店じまいを決めるヒトも多いやろな。街の中のお店屋さんも職人さんも、少子高齢化も極まって、歳も歳やし、後継者もいないし、今度のコレは乗り切れん、だったらココが潮時かっていうんで、閉めようと、、作業所だっても、や、そう云うトコ出て来るやろ』
『コロナに罹らんかったヨカッタ。でも、店ツブレてしもた、もうドウにもならん、首をくくらんならん、ソンな健常者の社会で、、怖ろしいことに為りそうや、タイヘンやコレは、、イロイロな庶民のセーカツの糧が持ちこたえられんようになっていくヤロ、、自殺者ふえていくやろな、、』
『ツブレそうなんで、ヒッシこいて営業してた店を見て、自粛要請に従わないのはケシカラんと、お上に密告してツブして、正義は為されたと思い込む、ソンなヤタラとヤカラな連中が跋扈して、、、、、怖ろしいわい』
『ソンな中で、精神の作業所の通所者でもう還暦、精神病院入退院五回もやって、しかも如何なる生産活動にも寄与できん生保の人間がPCR検査で陽性になってみぃや、袋叩きの目にあわさせられるんやないか、徹底的にヤラレるやろ、、世間様はツブシにかかってくるで、、この作業所ツブされるやろ、、だから、三日三晩、堪えたんやから、三晩目の記憶無いんヤカラ、絶対にぜぇぇっっったいに医者にはイカンと決めたんヤカラ、ドウ為っても、、、、と想うたモンな』
『そうやな、そう為るやろ、為るにきまってる、テレビでやってるやん、コロナに罹るよりコロナに罹ってると世間様から指弾を受ける方が、つまはじきにされる方が袋叩きの方がよっぽど、恐いんちゃうか、、コロナ出た病院の看護婦さんの子どもさんがイジメられるクニやでココは、、、家賃も払えんからお店開いてて営業してても、密告されて悪者扱いされるよりは、ツブレても仕方ないと思わせられるクニやでココは、、、』
『依存症関係のみなさんこそは、ホンと、顔を合わせて話し合う場が、在ってこそ、酒やクスリを止めていられるわけヤカラ、、、ドウなるんやろ』
『病状ワルくする病者も、自殺するヒトも、スリップしてしまう依存症のみなさんも、ボーリョク事件に為ってしまう病者も増えそうで、タマラんなぁ』
『ヤッパリなかまと会っていないとクルシくなってくる、なかまといっしょにいたいんや、顔と顔を突き合わせてハナシをしたいんや、一緒に飯を喰いたいんや、なんとか工夫に工夫をカサねながら、ありとあらゆる感染症対策とって、ナントカ開き続けようや、、』
『いや、今はガマンせんならん、だって、ココのなかまから、絶対に絶対に死人はだしたらアカンのや、このウィルスは普通じゃありませんよ、キケンすぎる、えばっちの相方のしさんがなかまの中でも、特にリスクが高いんやから、、気をつけなアカンですよ、、しかも、ガンのなかまも、透析のなかまも、人工関節のオペのなかまが今二人もいるし、、、なかまから死人は絶対にだしたらいかんですから、、、』
『そうや、ソレはそのとうりや、だからヒッシこいて、自主隔離してたんや、終わりの方は大分オカシなってた気がする、今だって、おくさんのトコ帰ろうとすると、、おくさんにうつしちゃいかんと想うと、足が震えて足からチカラ抜けていって、心臓ドキドキしてきて、胸を押しつぶされそうになって、冷や汗かいて来て、途中まで行ったのに、引き返してきちゃうんやから、、先週月火木金土と五日間もアアなっちゃって引き返してくるザマなんやから、、、だから奥さんから、私はあなたの鬼門なのって、言われてる始末や、、、ココから、もうこんなになかまの人数少なくなってきているのに、もうこれ以上の哀しい別れは堪えられんしな、、、なかまにうつしてしまうかもしれんと想うと、、身体に異変がおきてくるんや、、、』
『とにかく今は、全ての関係を止めて引きこもるべきです。コレは、ココやニホンだけのモンダイやない。全人類の平和と福利のために己が実存を掛けて完全籠城生活に入るべきです。それが全人類に対する倫理的義務ですよ、、、だって、ヒトの動きを止めなきゃ、流行止められないんですから、、この感染症は人と人の動きと接触を止めれば収束してきそうやと云うエビデンスは確かにアルんですから、、、ボクは、完全籠城生活に入るツモリです。ココも他のアルバイトも休業します。この決心は変わりません。それにしてもPCR検査の少なさは大問題ですよ。』
『わかった、それも、確かに一理も二理もある、確かにそのとうりかもシレン。あの三日三晩の熱がもしソウだったのなら、確かに絶対に甘く見たらあかん、本当にシンドかった。インフルエンザより、絶対につらかった。三晩目の記憶が飛んでるんやから、ドウやって水分やら摂ってたか不思議や、死ぬかもしれんなぁぁぁと想うたモン。なかまの命をまもらなあかん。確かにそう想う。ホントに。でもなぁ、だけど、オマエドウやって暮らすんや、三度の飯は三度ともいるんやから、コレは絶対に要るんやから、、ニンゲン喰わなあかんのやから』
『ウチは、休業補償出しますよ。休業補償無しで戒厳令下で庶民の生きる糧を休めナンて、ムチャクチャや。だから、ウチはナンとか休業補償出しますよ』
『い君オマエ本当に根性はいっとるなぁぁぁーー』
『ソンな、ココのコンな経済状況なのに頂けませんよ』
『ナニ言ってるんだ、今度はみんなの部屋でオマエのセーカツはドウ為っているんだろうって云う新たなシンパい事が増えちゃうんだぞ、賃金は受け取ってくれといてほしい、コレは』
『暫くの辛抱ですよ、暫くガンバレば、流行収まれば元に戻りますよ』
『いや、チガウな、モトには戻らんやろ。コレは時間かかるで、今回のこの疫病自体は収束するまで二年はかかるやろ、その二年後のセカイがドウ為ってると想う、オレは決定的に人々の心性が変わってるくると想うで、実はそれが一番恐怖ろしいんや』
『コレが収束したら、全て元に戻るんじゃないかと、、、、』
『いや、元に戻らんモノやコトやヒトが出て来るぞ、その最大のモノコトヒトが人々の心性の傾きやと想う』
『コレ収まったとしても、次の疫病も来るんやで、おそらく来る。ここ二十年間ぐらいで、新しい感染症の流行何べんアッタ、数えてみよや』
『人々の心性はおそらく、手間のかかる民主的手続きが掛かるヨウな民主主義より、ファシズム全体主義的手法の方が、考えないで、ジブンで決めないで上からの命令に従う方が、このウィルスを食い止めるのに有効ナンヤッタとなってみいや、心性がファシズムの方に傾むいていくやろ、しかも二年間や、その上に次のが、、また何年かたったら来るかもシレン、、、』
『ヒトがドンドン亡く��っていくんや、しかも身近な家族や友人の看取りもできん、孤独の中死んでいくんや、葬儀も出来ん、遺体が多すぎて埋葬も火葬も出来ん、公園の中に仮埋葬や、体育館の中に仮の骨箱おいてる、ソンな中で、医療従事者もドンドン倒れていく、病院の廊下にまで患者さんが溢れていく、治療薬もワクチンもない、無症状でも感染させるウィルスなんや、変異もするんや、ソレを止めたのは、スマホとネットを駆使した徹底的な行動監視と履歴の把握とファシズム的な政治手法と指導者だったとなってみぃや、人々の心性はソコに向けて傾いていくと想う』
『しかもソレだけやない、ワシ等精神病患者会が叫び続け、今も作業所患者自治会のススメと、叫び続けている真っ向反対の方向に心性が傾きだすんや、悔しいなぁぁーー人との距離感、ネットの普及、ネットで会議したり、ネットで人と会わんとシゴトしたり、スマホで、居所追いかけられるのが良いコト、罹ったヒトの居所を報せるコトまで出来る方が良いコト、そもそも、紙幣や貨幣にウィルス着いてるいうことになってきたら、現金受け取り拒否されるぞ、なのでカード決済してくれる方が良いコト、モノは店で買わんとネットで買うんやと云う方向が決定的に為るんや、管理されて管制されて行動履歴監視されている方が良い、このウィルスを食い止めるためなら、ジブンで決めるより為政者に決めてもらう方が良い、出来たらマニュアルに沿ってナンでも命令してもらいたい、ジブンで決めたくない、そのマニュアルの決定版が戒厳令ナンヤ、その戒厳令を出してほしい、この流行を止めてくれるなら戒厳令の方が良い、ネットでナンでもヤレタラ良い、ヤレル方が良い、と云う方向に、、企業も、権力だけやない、反体制運動の側も労働組合の側も、ソンな方向に傾いていくやろ、、、、ネットで会議って、ソレホントに会議なんかって、ワシ等は想うけれど、、、、ヒトと会わんとネットでシゴトできる方が良いと云う方向に、医者が患者を診んとネットで診てデーターで確定診断できる、いや出来るだけじゃない、その方が良いと云うコトに心性が傾き出すんや、ワシ等はソンなんホントに医者かと想うけれど、、、学校の授業まで、ネットでやろうなんて、、ますます格差が開いていくだけや』
『そもそも、ネット環境なんてない、パソコンなんて触ったことも無い、高齢の長く精神病院に入れられていた病者こそが、またもやおいていかれるんじゃないのか、ネットでスマホでキャッシュレスでヤッテくれなんて、、ネットやスマホを持てないものがますます貧困にさせらり、孤立させられ、片隅に追いやられんや、ソレが、このウィルスを封じ込めるためにやらなあかんのや、ヤレン奴は、このウィルスを拡める奴や、ウィルスをばら撒いている奴やと云うことに為ってバッシング受けるんや、そうなっていったら、心性がドウいった方向にむいていくか、、、、』
『しかも、命の選別が良いことのように行われるようになるんや。トリアージとか医療の崩壊を防ぐトカの名目で、、、ゲンジツにベッドの数、人工呼吸器の数、ICUの数限られてくるんや、その最後の一つの人口呼吸器をドウします、って為った時、最新式の医療器具やらの数が限られてきたとき、ナン十歳以上のお年寄りは、遠慮してください、ナン十歳以上で障害持ってる生保のみなさんは、コチラのポイント式トリアージマニュアルに従って、順番を入れ替えさせていただきます、と云う、ソレをチャンとヤレルのが素晴らしい医療従事者やと云う、信じられないようなことがおきてくるんや、、、人々の心性が、心性がある方向に傾いていくやろ』
『よくよく考えてみたら、この状況は、ヒトと会わなくてもいい、ヒトとの距離がアル方がいい、ネットが得意で、ヒトと会わんとネットでシゴトしてる方が良い、素晴らしくリクツは立つ、ヒトのコトなんかドウでもいい、マニュアルに沿ってやヤル方が楽なんや、トカ云う発達特性こそが、この状況には親和スルで、ソレも、人々の心性をコッチ方向に傾けていくやろうな。発達障害概念バンザイ発達特性スバラシイと云うコトになりゃあせんか、、、ワシ等キチガイが地を這うように血を吐くかのように叫び続けてきたこととは真反対の方向に人々自らが、走り出していくんや、一時の魔女狩りや、ペストが、人々の心性に与えた影響よりも、【ネット】と云うものや【発達障害】と云うものと相まったら、おそらくもっと【徹底的で決定的な心性の傾き】をモタラスんじゃないかな、コレは、、、悔しいなぁぁぁーー』
『そのとうりかもしれませんね、でもコロナウィルス自体は天災なんやから、とにかく、普通じゃない天災に見舞われたんですよ』
『確かにウィルス自体は天災やろ、でも、被害や死人は、コレは人災や、まごうことなき人災や、貧困と格差こそが、被害と死人の格差に為っているんやから。医療費、研究費を削りに削ってきたのはダレやったのか。与党も野党も財政健全化の錦の御旗の元、金に為らんモンは全てを、大事な研究費でも教育でも福祉でもナンデもカンデも削りに削った結果なんやなかろうか、徹底的に、医療福祉生活保護年金、健康保険、ベッド数、高度医療を削りに削って、アメリカに売り渡してきたんや、その代わりに要りもせん戦闘機をこうたり戦車や空母こしらえたりしてきたんや、貧困を格差を拡大する政策バカリを取り続けてきたんや、、非正規雇用増やし続けてきたんや、、人災や、、ウチかて、自立支援法体制下に為ってからの方が、ドンドンシンドく為ってきたんやなかろうか、、』 『しかも、此の首相、此の内閣だっタちゅうのが、まさしく特異的人災や。その人災を選んだのはこの底國の臣民や。オリンピックやりたかったんやろ、臣民のみなさんも。オリンピックは、ワシ等の首を絞め続けてるんや。五輪の延期が決まる前と決まった後では、権力、為政者の動きが全くチガウやろ、よう見直してみぃ、知事様の言動も、、、庶民の命より五輪の方が大事ヤッタんや、人災や、、、コレは、、』
『患者会を開き続けると云うコトは、コウ云う時でも、どうあっても、ドのように為ってても、どうあっても開き続けると云うコトなんや、なかまが自殺してシモウても、信じられないような事故や事態に立ち至っても、ドンなに哀しいコトがあっても、、なかまが顔を合わせ続けるコトなんや、ソレが患者会ナンや、ドンなにトンデも無い状況や状態になっても、ドウあってもどうあっても開き続けるんや、ちゅう強い強い怨念のような鬼のような、狂気じみた怨念持って、覚悟や想いを持ち続けてんと、患者会なんてものは在り続けられんモンなんや、えばっちは、ソウ想ってるし、ソウ想い込んでやってきたからこそココがまだアルんやから、、コレは、ドンな時でもや、、酷い例えやが核戦争が始まろうがペストが流行しようが、患者会は開き続けるんや。だからキーサン革命の鬼ナンヤ。ドウあっても開き続けると云う怨念が無いと患者会って続かんぞ、コレはホントのコトなんや、、、、、』
『しかし、それでも、ほんと、今回は、ジブンの中でまとまりはせん、二律背反矛盾しながら、想い続け、叫び続け、書き続けることに為りそうや、、矛盾をおそれることは無いんやと言い続けて来たけれど、、でも、なかま内でコレほど意見が確信をもって分かれたのは衝撃やったなぁぁぁーーツライなぁぁぁ』
『コレ誰か、読んでくれるンかなぁぁぁーー書いた意味はアルんかなぁぁ』
『奥さんに、うつったらドウしようなぁぁ、、ココでうつてしもたら、、、、』
『ワシ難しいことはようワカランけど、、えばっちがココに来るんやったら、ワシも来るわ、でそれでいいわ』
『ヤッパリエライなぁぁぁーーヤッパリメールだけではダメですね、会って顔を合わせてハナシをせんと、、悩み続けながらナントか顔を合わせたいですね、ボクも来ようかなぁぁぁ、でもとにかく不要不急の外出は避けて、なかまの命を守って、、、ココからなかまからの死人は絶対出さないようになかまの命をまもりましょう』
『コレには、正解がないですよ、おそらく、でもとにかく運がいいのか悪いのか、、ジッサいのセーカツからのことを言えば今現在の友の会の在り方みてたら、ごくごく自然に相当な感染症対策担保してますよ。だって、清潔強迫、手洗強迫あるなかまが、徹底的に一日二回も三回も、およそ手が触れるところはすべからくアルコール除菌したりしてるし、、大体、前半の部と後半の部で自然に時差出勤に為っちゃってるし、その間の接触無くなっちゃってるし、時短営業だって、そもそもうちはそのヘンいい頃具合にいい加減じゃないですか、、実は慎重にヤッテるってコトに為っちゃってますよ、、大体いっつも入口のところでみんなの手にアルコールを吹きかけて本日の体温と体調の自己申告聴いて回ってるのはえばたサンじゃないですか、外靴の消毒トレイまで入口に出したりして、出来得る限りの感染症対策は取ってますもんね』
『そうですよ、しかもありがたいことに、カンパもたくさんいただいています。手作りマスクやエタノール等々、特に除菌用のモノは本当にありがたいです。だから、チャント使って消毒出来ていますから、、エタノールも手作りマスクもカンパも頂いています、ありがたいです』
『ホンマやな、ありがたいなぁぁぁーー、支える会のニュースレター送ろう。でもそのうち流行地域からの郵便物も怖いって想われたらドウしよう』
『シンパイしはじめたらキリないですよ、ドッカでやめないと、、被害妄想ちっくになっちゃってヤバイですよ』
『しかも、コレもゲンジツなんやけれど、ホントの事言って、コレは、哀しいことなんだけれど、そもそもワシ等キーサン、一般の健常者やサラリーマン、市民の皆さんと比べたら、ソモソもヒトとの関わりは、半分以下やと想うわ、それこそ八割以下ナンちゃうか、会社や工場へ出勤しての仕事もしてないし、同窓会やら会社やらの飲み会もないし、付き合いタラ云うモンもないし、実は友人関係も孤立気味や、、ソレが病者と云うモンやなかろうか、そもそもだからだから、精神病患者会と云うものがアルんやなかろうか、、、だからこそ、患者会を作って食事会やレクをジブン達でやり始めたんやから、、ソコを閉めるのか、、と云うコト二為ってしまわへんか、、、せっかく、なかまを求めてトモダチを求めてダチンコを求めて、、、ヒトとの関わりを求めて、患者会をみんなでこしらえて、維持してきたのに、、トモダチ、ダチンコを求めてなぁぁぁ、、ソウじゃないんやと云うのが当事者運動活動家なんやろな、聞いたこともないようなアプリでネット会議して、政治活動だけして、運動関係のエライさんとはよう顔見知りだけれど、ホンとの病者トモダチをつくろうナンて興味も示さんもんな、またもや、コンな在り様が当事者運動の本流ダと云うことに益々為っていくんやろ、心性も含めて、、悔しいなぁぁぁーー』
『それにしても、、、キーサンの想いとは真反対の、発達障害バンザイやファシズムバンザイの方向に、人々の心性が傾き出すのが、、、恐いなぁぁぁーー』
『実際に会ってトモダチになって、【作業所患者自治会のススメ】をずっとずっとずっとずーーーーっと、叫び続け、拡め続け、ススメ続け、やり続けようと想っていたがなぁぁぁーーー』
『アキラメルことは、無いですよ、ワシ等はワシ等のやり方をやり続けたらいいだけなんですから、、それがキーサン革命なんじゃないですか、、』
『まぁ、そりゃそうなんだが、患者自治会も拡がりはもてんやろ、と云う敗北がコレで必至に為ったように想っちゃうんだよなぁぁぁ、しかも、悲惨な敗北に為りそうだと云うのがみえてきちゃったもんでなぁぁぁーーツライなぁぁぁーーミエちゃう気がするのがオレの不幸ナンやろなぁぁぁーー今年の秋、作業所交流広場、ヤレルかなぁぁぁーー』
『ただでさえ運動不足なのに、体重も、血糖値も、中性脂肪も、血圧も、ヤバい、コレも大きなシンパイですね、長年精神のクスリ飲んでると、ケッコウ突然倒れてそのママって云う、なかまを多勢失ってきましたからね、、、、だから、みんなの健康のことを考えてくれて作ってくれているんだから、食事会も、健康面でも、ホント大事だと想うんだよね、、、』
『とにかく、なかまたちが、みんな無事ならそれで長上や、新やすらぎ友の会みんなの部屋さえアレば、そしてソコで何人かが顔を合わせていればこそ、連絡を取り合ったり、風呂にも入れに来れるし、食糧差し入れできるし、地下鉄バス使わないで送迎もしようと想えば出来るし、いよいよと為って熱出して寝込んでウゴけなくなってもワシ���はソコへ行ってナントカするで、、、後は出来るだけ電話でハナシしていきたいなぁぁぁぁーー連絡は密に取っていってるし、、各地のみんなは、大丈夫かなぁぁぁーシンパイや、電話してみよ』
『なかまのいのちを護るってドウ云うコトなのか、、、えばっちは、矛盾しながらも、やっぱり、ナントカしてでもドウにかしてでも開き続け、ナントか顔を合わせ続けるコトやと想う。そして患者自治会と云う在り様をススメ続けることやと想っている。でも、閉めるべきだと云う意見も一理も二理もあると、想う。えばっちが書いたから、均衡しては書けんかったけれど、ただ、前進友の会の中で、やすらぎの里の中で、みんなの部屋で、コンなハナシをよもやま話としてずっとずっと続けてきたコトを、イマもコレからも悩み続け矛盾し続けハナシ続けているコトを遺しておかなアカンと想うて、書いてみた、みんなドウ想うかな、、ドウヤロな、、、』
2020/5/8 えばっちより
【コロナ】で実験 えばっちは、今回、とても、シンパイです。 誤解を恐れずに、えばっちの個人的なシンパイ事を書きますが、 笑わないでくださいよ。 今、『権力』は『感染症対策』の名目で、『戒厳令』の『実験』 をやっているのだと、想います。 法的根拠なく 人の動きを止め 外出を止め 営業を止め 経済活動を止め 学校を止め 出国入国を止め
ありとあらゆる市民活動を止め
『デマ防止』で情報統制を布き
『買占防止』で生産流通統制を布き
誰が誰と出会い、誰が誰と話をしたかを、 誰がどのように動いているのかを
立ち回り先を黙秘権を使わせずに自ら喋らせ、
そのうえで『隔離監禁』に成功しています。
コレは、恐るべきことです。実質『戒厳令』です。
後は、感染症対策の名目で、実働部隊を、ツマリ『軍』と『警察』 を
広域の『消毒』の名目ででも、『患者移送』の名目ででも、
動かせ得たら『戒厳令』の完成です。
おそらく、それが、狙いのハズだと、想います。
怖ろしい世の中に為ったと、シンパイしています。
そして、これから、、おそらく与野党一致で
ナンらかの『法的根拠』が示されたり、出来上がったりすれば、
おそらく、ソレが、実質『戒厳令』として、機能するようになります。
とすると『戒厳司令部』の名目は果たしてナニに為るのか、、、
しかも、一度、権力は『戒厳令』の味をしめたことに為ると想いますので、いよいよキケンです。
しかもこの『実験』は、要は『低國臣民』がこの『戒厳令』を『戒厳令』と考えず、
ドレだけ、『やすやすと従い』『積極協力』し『耐え抜き』、
『従わない臣民』をドレだけ『袋叩きにする』かを
観察するための『実験』なのです。
おそらく、おそらく、『コロナウィルス』よりも、『実質戒厳令を布くことに味をしめたニホン低國の為政者』たちの方が、よほど、恐ろしいと云うのが、えばっちの想っていることです。
しかも、実際に、『おかしな風邪』も流行っています。
ソコがムズカシいトコロです。
だから、えばっちは、セーカツから、セーカツから、
自分の居る『 患者会』でこれから目指そうとする『患者自治会』で、
日々のセーカツの中で、発信とキーサン革命を叫び続けてきました。
だから、
『精神病院の中では感染症対策の名目で、 面会制限や外出制限がかけられることは、とても怖いことだ』と、 言い続けているのです。
しかし、それは、『 なかまたちのジッサイのこのオカシな風邪に対する恐怖とグアイの 悪化』を無視してはならないのだと、想っています。
だから、話し合いをしたうえで、なかまとも、 病院とも話し合いを重ねたうえで、
毎週月曜日に、なかまが、お見舞い品と配達名簿を、 い病院の受付においてこれた、これる、、、ただコンな小さい一つの出来事で、
まずは、ヨカッタと、喜んでいる次第なのです。
『映画の上映会』も、みんなで、議論をしながらですが、 おそらく、順延していくことに為ると想います。上映会、6月にやれたら、みなさんとお会いしたいですね。
コウ云うやり方で『戒厳令』を布けると云うのが、 今回最大のミソなのでしょう。
ソモソモ、『流行病』と『軍隊』と『戦争』と『医学』の関係は、 深いふかいモノですしね、、、
誰かが、「恐ろしいこった」と、叫んでも良いころなのですが、、、、
合わせ技で『所謂云うトコロの発達障害概念と特性』 が大流行していますから、、、えばっちとしては、、 とてもとてもとてもとてもシンパイなワケです。
えばっちの『被害妄想』なら良いのですが、、、
あーーー、寝られなくなりそうです。
3日の火曜の食事会は、天ざるうどんで、激ウマのかき揚げとちくわの天ぷらでした。久しぶりに、前段後段のなかまがクロスオーバーしたたくさんのなかまの参加でした、ありがたいことです。
やれやれ、シンパイなことバカリです、ドウ為るのかなぁぁぁ、、えばっちより
2020/3/4 えばっちより
精神病患者会前進友の会
あくまでキーサン革命の鬼えばっち
えばっちのホームページ 乾坤一擲
http://ebacchihomepage.dousetsu.com/index.html
えばっちのはてなブログ
https://ebacciblog.hatenablog.com/
えばっちのタンブラー
https://kisanebacci.tumblr.com/
前進友の会やすらぎの里のホームページ
http://yuinoumi.web.fc2.com/zenshin-index.html
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新しいガラスコーティング剤: 低分子シラン ドゥレッザ ガラスコーティングとは 従来のガラスコーティングとは違う硬く、しなやかな最強無機質ガラスコーティング ガラスだから硬いのは当たり前、衝撃や湾曲などのストレスによるひび割れが発生しにくい柔軟性を持たせました。 柔軟性が(硬いだけより)耐傷性を高めます。また、酸化劣化しないことと合わせ、将来の剥がれ、ひび割れ等の弊害に対する心配ををゼロにします。 ドゥレッザ ガラスコーティングは単一成分98%の高密度ガラスコーティングです。限りなく無機質に近いコーティング剤ですが2%のアルコキシドを混合する事により3~4ミクロンの甲膜厚を実現しました。また硬度7hの高度を持ちながら高膜厚のコーティング剤でもあり非常にバランスのとれた撥水角100℃を超えた撥水性ガラスコーティング剤です。
Hard-supple 硬く・しなやか
衝撃や湾曲などのストレスによるひび割れが発生しにくいガラスコーティングでは最高硬度の7h! セラミックガ���スコーティングのように9hなど硬さが増すほどクラックが発生しやすくなります。 このため弊社のガラスコーティング剤では、多少の柔軟性を持たせて、あえて鉛筆硬度9Hとはせずに7H前後に調整して、クラックの発生を防いでいます。 ※ペルヒドロポリシラザンは高硬度9hであるが、クラック発生を防ぐため膜厚は薄く、意外にも微細な擦過キズにも弱く、膜厚をあげるために何層にもコーティングを施工すると剥離する。 ディーラーガラスコーティングは殆どがオルガノポリシロキサンを使用しており高分子の為、定着性が粘着テープのような定着性の為、柔軟性はあるが硬度が3h位しかなく耐久性も実際は1年半位。 弊社ガラスコーティングは低分子シランガラスコーティングの為、高硬度7h~8hであるが柔軟性があるためクラックしづらく、また、低分子のため塗装面の微細な凹凸に浸透しやすく、強靭な密着力が違う。
High hardness flexibility 3D 高硬度柔軟性3Dネットワーク構造被膜
従来の3Dネットワーク構造被膜ですと硬度5hで耐久性は1年半ぐらいでしたが、低分子シランは硬度7h以上で長期耐久を実現しました。
No machine quality moths La scan the membrane 無 機 質 ガ ラ ス 被 膜
無機ガラス主鎖+有機官能基側鎖構造:酸による腐⾷や撥水・低撥水にもかかわらず無機汚れ(ウォータースポット・イオンデポジット)固着し難い。 低分子のため高濃度無溶剤化により高密度化ができる。このため汚れがつきにくく、汚れを落としやすい皮膜を形成できる。 従来のガラスコーティングは塗装色により撥水や親水の選択が必要であったが撥水角も100℃以上でもウォータースポット・イオンデポジットも低減できます。 有機質ヨゴレと結合しにくいので、ピッチ・タールなどの油類、無視やのフン・あか、チリやホコリなどが付着しにくく、水洗いで簡単に落とせる。 耐紫外線性、耐熱性、耐油性、耐水性、耐薬品性が高く塗装面を強靭に期間保護する。
Thickness ガラスコーティング剤膜厚(千葉県)
低分子だから実現できる1層塗りでも3μ以上 多層でも20μも可能。 通常のガラスコーティングですと、高分子ペルヒドロポリシラザンですと硬度が9hにはできますが、1μ以下なのでクラックしやすく、オルガノポリシロキサンは硬度も膜厚もない。硬度9hを高膜厚にすると柔軟性がないため劣化します。
Quality クオリティー
ドゥレッザ ガラスコーティングは外国製原料ではなく、現在世界最高の機能や性能と安定した品質を誇る日本製低分子シランを原料として、自動車塗装や建築内外装向けのガラスコーティング剤として求められる「耐久性・防汚性・施工性・光沢美観・メンテナンス性」を追求。 アルコール系溶媒なので、塗装面・人体・環境に優しい。
Price ガラスコーティング価格(千葉県)
今現在のガラスコーティングの相場は硬さに高硬度になればなるほど金額も上がっていきます。 ハイモースコートやセラミックガラスコーティングなどはお店によってことなりますが、15万円以上20万円以上の高額な金額になりますが、弊社は中間コストを省略することで安く提供することに成功しました。 硬度7h以上のガラスコーティングではお求めやすい金額になりました。
ドゥレッザ ガラスコーティングを塗ったプロテクションフィルムを指で曲げても、ひび割れしません。
通常のガラスコーティングですと、数μでもここまで曲げるとひび割れしますが、ドゥレッザ ガラスコーティングは低分子の為、膜厚が厚く、そして硬くても衝撃や湾曲などのストレスにも強い。
※今現在、コーティングの硬さは最高硬度で7hが最高です。 7h��言えど完璧ではありません、たまにセラミックガラスコーティングなどの9hガラスコーティングも存在しますが、研究者のなかでは車の湾曲に塗れる9hはないそうです。 例として、メガネのレンズは7hでアイフォン(携帯電話)の表面は9h?なのでしょうか。 この両者を道路などに落とした場合メガネは割れませんが、アイフォンは表面レンズがバキバキに割れ、よく割れたアイフォンをそのまま使用してるのをよく目にします。 なぜ、9hのほうが硬いのに割れるのか? 今現在の技術で劣化しない9hがでればノーベル賞ものだからです。 メガネが割れないのはある程度柔軟性を持たせた7hなので劣化しないのでしょう。
ガラスコーティングの硬度とクラック(千葉県)
硬度が硬いほど良いと言われるガラスコーティング商品やサービスがありますが、ガラスコーティングは化学合成品であるため、被膜の硬さが増すほどに脆く壊れやすくなり、「クラック」と呼ばれる微細なひび割れ損傷が発生しやすくなります。
クラックは硬化の過程や使用中の物理的化学的刺激などより発生し、見た目の「クスミ・濁り」になったり、「被膜が剥がれ落ちやすくなる」ことの弊害の原因になります。
今の技術で作ることができるガラスコーティング(非晶質ガラス)は、鉛筆硬度9H程度が最高硬度となりますが、コップや窓ガラスなどの厚みのあるものと比べて、ミクロン(μm)単位の被膜では硬さゆえの脆さの影響が大きくなります。 クラック発生を回避するためには、少し粘り気を持たせる必要があり、6H~8H程度の硬度が最適であると考えます。
ガラスコーティングの膜厚と硬度(千葉県)
膜厚はある程度厚い方が良いと思います。しかし硬度が同じ場合被膜が厚くなるほどクラックが発生しやすくなりますので、上記のような若干の粘り気のある6H~8H程度のガラスコーティングでは2~4μm前後の膜厚が、微細な傷からの保護という意味でもバランスが良いのではないかと考えます。
硬度が同じ場合は、膜厚が厚くなるほどクラックが発生しやすくなるため、硬度9H程度のガラスコーティングでは0.5μm~1μm程度の薄い膜にしないと、クラックの発生が問題になります。 このように余りにも薄い被膜では、摩耗や微細傷も塗装まで達してしまう可能性が高まります。
ドゥレッザ ガラスコーティング施工例(千葉県)
ガラスコーティング・カーコーティング・ボディーコーティング・カーフィルム ご来店の多いエリア:
【千葉県】千葉市、銚子市、市川市、船橋市、館山市、木更津市、松戸市、野田市、佐原市、茂原市、成田市、佐倉市、東金市、八日市場市、旭市、習志野市、柏市、勝浦市、市原市、流山市、八千代市、我孫子市、鴨川市、鎌ケ谷市、君津市、富津市、浦安市、四街道市、袖ヶ浦市、八街市、印西市、沼南町、白井町
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ガラスコーティング千葉県の地域概要
千葉県(ちばけん)は、日本の関東地方の南東側、東京都の東方に位置する県。房総半島と関東平野の南部にまたがる。県庁所在地は千葉市。 平野と丘陵が県土の大半を占め、海抜500m以上の山地がない日本で唯一の都道府県である。地勢上、広大な可住地と長大な海岸線を持つ。 千葉県(ちばけん)の概要 関東地方の南東部に位置する県で、三方を海に囲まれ、県土の大部分が房総半島に含まれる。起伏の少ない県であり、関東平野の一部である北部は、海岸(東京湾・太平洋)や河川(利根川・江戸川など)沿いの低地と下総台地とからなる。南部側は房総丘陵などの丘陵地帯だが、最高峰は標高408mの愛宕山であり、全都道府県のうち最高峰(点)が最も低い。標高329mの鋸山や鹿野山など、観光地化されているところもある。 千葉県は律令制以来の『房総三国』である上総国・安房国の全土と、下総国の一部から成り立っている。「下総国」のうち、猿島郡・結城郡・豊田郡・岡田郡の全域と相馬郡・葛飾郡の一部は茨城県に、葛飾郡のさらにまた一部は東京都と埼玉県に編入されている。 1873年(明治6年)6月15日に、北西部の印旛県と南部の木更津県が合併し、千葉県が成立した。その後、1875年(明治8年)5月7日に新治県の利根川以南の領域を編入、同時に旧印旛県の利根川以北の領域を茨城県に、江戸川以西の区域を埼玉県に移管した。その後、1899年(明治32年)に香取郡のうち利根川以北・横利根川以西の区域が茨城県稲敷郡に編入され、現在の県域がほぼ確定した。 都道府県人口・都道府県人口密度・都道府県昼間人口[1]はいずれも全国6位。面積は全国28位(南関東1都3県では最大)である。 平地の割合が大きく、可住地面積が広いことや、東京都に隣接しており首都圏の一角をなすことなどから、古くから住宅開発が進んでいる。県北西部の人口は稠密であるが、東部や中南部では多くの地域で人口の減少が進んでいる。また、一部の市町は過疎地域に指定されている。浦安市から富津市までの東京湾沿岸には広大な埋立地が広がり、京葉工業地域の中枢として市原市の石油化学コンビナートや、千葉市と君津市にある製鉄所などが立地している。一方、地勢を生かした農漁業も盛んに行われており、農業産出額、漁業総生産量とも全国で有数である。2008年度の県内総生産は19兆6889億円であり、世界の過半数の国の国内総生産より大きな規模を有している。 千葉県(ちばけん)の地理・自然 千葉県の県庁所在地である千葉市を中心にコンパスで円を書くと、南西諸島以外の日本列島は半径1000km圏内に殆ど収まる位置にある。千葉県の大きな地理的特性としては、広義的には関東平野に含まれるが、その大部分は、東と南を太平洋、西は東京湾と三方を海に囲まれた(房総)半島になっていることである。また、日本で唯一500m以上の山が無いという特徴もある。常に半島であるという地理的条件により、陸上交通中心の見地から袋小路的な閉鎖性が問題視されると同時に、外洋に面していることから古来から開放的で外来文化が渡来しやすいという良い側面もあった。また、隣接する都県とは利根川、江戸川、東京湾、太平洋によって画され、古くは外敵の進入を防ぐ役割や覇者の起死回生の地としての役割を担ってきた。陸上交通機関を使用した場合、野田市と我孫子市と香取市の一部地区を除き橋(トンネルも含む)を渡らずに、東京都を含む他県に行くことは不可能である。 千葉県の北半分は、大半が関東平野で、南半分は房総丘陵などからなる丘陵地である。最も高い愛宕山でも海抜408mであり、沖縄県の最高峰である於茂登岳の525.5mを下回り、全都道府県の中でもっとも最高峰の標高が低い。なお、県内最高峰の愛宕山は現在航空自衛隊峯岡山分屯基地があり、都道府県の最高峰中唯一、法的な立入が規制されている。 平均海抜は46mとなっており、これは沖縄県の43mに次ぐ低い数値である。そのため、縄文海進が最大規模となった紀元前4000年ごろには千葉県の多くの低地が海面下であった。現在の南部の古東京湾と北部の香取海によって本州と分断されており、後に赤堀川・逆川が開削される微高地で僅かに繋がっている状態であった。現在でも、10mほど海面が上昇すると、千葉県は本州沖合いに浮かぶ島のひとつになるという試算が国土地理院によって示されている。 房総半島の東京湾側は内房(うちぼう)、太平洋側は外房(そとぼう)と呼ばれ、内房では近年埋め立てが進み、浦安市などでは面積が増えた。そのため県の面積が一時愛知県を上回っていたが、中部国際空港の建設に伴い再び愛知県の方が広くなっている。 印旛沼は長門川と印旛放水路の二つの川と接続しており、長門川は印旛沼から利根川へ流れる河川であるが、印旛放水路は利根川の増水時に長門川による印旛沼の排水が困難になった際に東京湾に排水を行う役目を持つのが特徴である。 東京湾沿いは埋立地が多く、浦賀水道の対岸に三浦半島がある。太平洋沿いは九十九里浜が面し、九十九里平野が広がる。半島南部には房総丘陵、半島中央部には上総丘陵と上総台地 、半島北部には下総台地があり、これらの台地や丘陵には縄文期の侵食によってできた谷底平野(谷津田)が見られる。一方で半島の北部から中部にかけて下総台地を囲む形で北西に江戸川低地、西に東京湾岸低地、北に利根川下流低地、東に九十九里沖積低地が分布する。 千葉県(ちばけん)の地域と人口 地域区分 県下には、37市6郡16町1村がある。自治体における町はすべて「まち」、村は「むら」と読む。県庁による地域区分には、4地域の分類と、県庁および地域振興事務所の所管区域による6区分とがある。県の総人口は6,238,589人。人口は、2016年6月1日現在の推計人口である。 4地域区分 西地域 : 3,080,715人 市 市川市 船橋市(中核市) 浦安市 鎌ケ谷市 松戸市 柏市(中核市、業務核都市) 我孫子市 流山市 野田市 成田市(業務核都市) 白井市 印西市 印旛郡 酒々井町 栄町 東地域 : 327,738人 市 富里市 香取市 旭市 銚子市 匝瑳市 香取郡 神崎町 多古町 東庄町 中央地域 : 2,054,788人 市 千葉市(���令指定都市・業務核都市) 中央区-花見川区-稲毛区-若葉区-美浜区-緑区 市原市 佐倉市 習志野市 八千代市 四街道市 八街市 東金市 大網白里市 南地域 : 775,348人 市 茂原市 勝浦市 山武市 いすみ市 館山市 木更津市(業務核都市) 鴨川市 君津市 富津市 袖ケ浦市 南房総市 山武郡 九十九里町 芝山町 横芝光町 長生郡 長生村 一宮町 睦沢町 白子町 長柄町 長南町 夷隅郡 大多喜町 御宿町 安房郡 鋸南町 千葉県(ちばけん)の地域特性 北西部 人口密集地域であり、県内の人口の大部分を占める。県央地域、葛南地域、東葛飾、印旛地域に分かれ、北西部としてひとくくりにされることが多いものの、実際には地域差は大きい。狭義では、千葉市周辺を除いて、旧東葛飾郡(現在の船橋や我孫子など)の範囲を指すこともある。スポーツ界では、特に葛南・東葛は「サッカー王国」として有名である。アマ界を見ても、高校サッカーにおける激戦区のひとつであり、船橋市立船橋高等学校、習志野市立習志野高等学校などが全国制覇を複数回成し遂げているほか、強豪校が私立・公立ともに多い。近年は、人口増加率は低下しており、減少に転じている自治体も多い。 県央地域 千葉市とその周辺地域を指し、市原市などの内房北部や印旛地域の一部も入ることもある。千葉市には県庁が置かれ、県内の政治・経済・文化の中心となっている。東京からは一定の距離があるため、ベットタウン的側面を持ちつつも、川崎製鉄の企業城下町であったことと、東京湾沿いに京葉工業地域が立地し産業の中心基盤であるために、昼間流入人口が多い点で、東葛・葛南地域やさいたま市や横浜市とは異なっている。また千葉市は各大企業の千葉支店・東関東支店が開設される支店経済都市でもあることから、転勤族も少なくなく、年度末、年度初めには人口の社会増減が大きくなる。また、文化的にも県北東部、南部などとの接点が多い。一方、幕張新都心に代表されるような東京寄りの地域では、千葉市中心部との接点は小さく、千葉都民も多いなど形態は異なっており葛南地域とほとんど変わらない。 印旛地域 内陸工業団地の造成や宅地化が進み千葉ニュータウンや成田ニュータウンなどの大規模ニュータウンが造成されている一方、周辺には自然も多く残る農村地帯である。内陸部側は、北総または印旛と呼ばれている(ただし「北総」には東京湾岸や東総地域など旧下総国地域全体を指す場合もある)。千葉ニュータウンなどの西部では東京への通勤客も多いため千葉都民が多いが、成田市には年間約3100万人が利用する成田国際空港が位置し、航空関連産業が立地する業務拠点都市となっており、佐倉市など周辺部からの通勤客の流入も多い他、東部では千葉市への通勤客も少なくない。利根川沿いは農村地域であり、茨城県との交流も多いためにちばらぎと呼ばれる。スイカやメロン、梨、人参、落花生栽培など県内では農業が盛んな地域でもある。 葛南地域 習志野市から市川・浦安にかけての総武線の沿線地域が中心であり、新京成線沿線や湾岸部には大規模な団地が造成されている。東葛地域と同類に分類されることも多いが、常磐線沿線の東葛と違い千葉駅まで運行する同じ総武線沿線であることから県央地域との接点も一定程度はある。全国各地からの住民の流入により人口が増加したために、地域意識は薄い。臨海部には東京ディズニーリゾート、ららぽーとTOKYO-BAYなどの商業施設やレジャー施設が立ち並ぶ。いわゆる「千葉都民」の多い地域で、中でも浦安市は、住民の平均年齢が最も低い市である。 東葛地域 一般に常磐線沿線地域以北を中心とした地域を指すことが多く千葉都民が多い。東葛は千葉市やを中心とした県央地域との繋がりが浅く、全国紙の地方版も、千葉市周辺版と東葛版に分けられており、むしろ茨城県との交流の方が多くちばらぎと呼ばれる他隣接する埼玉県とも密接な関係にある。千葉県にありながらも千葉県民としての地域意識が薄い点で、県内他地域とは大きく異なっており、一度も千葉市中心部へ行ったことが無い住民も珍しくない。柏駅周辺は県内屈指の商業地区となり、千葉市中心街を凌ぐ賑わいでもある。野田市周辺は一部無アクセント地帯となっており、栃木・茨城と言語・文化的に近い。 北東部 主に香取地域、海匝地域と東上総地域の一部を指し、九十九里浜沿いの地域も含む。概ね国道51号や国道126号の沿線を指している。利根川沿い地域では鹿行(鹿嶋市などの茨城県南東部)との交流関係が深いため、「ちばらき」と諷刺される事もあるが、千葉市との交流も大きい。香取市から鹿嶋市に至る利根川沿いから形成される「水郷」や美しい海岸線を持つ九十九里浜などの観光地を抱える。かつては利根川の運河交通の要衝として栄え、香取神宮などの有名な神社仏閣が鎮座し歴史的な街並みの残る佐原のある香取市や日本有数の漁港・醤油産地としも知られる銚子市などは古くから発展してきた。農業が盛んで、銚子市周辺は比較的温暖な気候のため、畑などでは、メロン、キャベツ、植木などが栽培されている他、成田空港以東の下総台地を構成する地域は、東総と呼ばれており、「香取干潟八万石」といわれる所で、水田地帯が広がり、ブランド米の『多古米』の産地でもある。近年は多くの自治体で人口減少が続き、過疎地域となっている。スポーツ界においてこの地域出身のプロ野球選手が多く、千葉県立銚子商業高等学校、銚子市立銚子高等学校、横芝敬愛高等学校の卒業生が目立つ。 南部 宅地化が進み、工場も立地する内房沿岸地域の北部(県央地域に近いため、南部には分類されないことも多い。)と県内一の観光エリアでもある南房総・外房地域とではかなり異なっている。 君津・木更津地域 君津市までの臨海部は京葉工業地域となっており、多くの工場などが立ち並び、宅地化も進んでいる。県央地域との交流が大きい。木更津市と神奈川県川崎市を結ぶ東京湾アクアラインは神奈川県側や羽田空港からの観光客の県内への一般的な通過点となっており、また海ほたるパーキングエリアの入れ込み客数が多いのが特徴である。近年は木更津市などはアクアラインを経由し東京まで近いために東京への通勤圏ともなっているが、房州弁の影響も残るなど文化的には独自性を保っている点で、北部の千葉都民とは異なる。一方、山間部は過疎地域となっている。 南房総地域 南房総(房総半島南部)は特に温暖な気候であり、県花である菜の花やポピーの栽培が行われている。漁業も盛んで、勝浦漁港は国内有数の鰹の水揚げ港であり、いすみ市は日本一のイセエビの水揚げ漁港である。。多くの面積が房総丘陵を代表とした低山の森林地帯であり、構成する地域の半島南部は南総と呼ばれている。この地域は江戸時代後期ごろから房州石と呼ばれる石材が山から切り出されるなどして発展してきており、周辺には房州石で作られた家屋や塀が今も残っている。また、金谷美術館において房州石で本館が建てられるなど、長年地域に密着して使用された石材であることがわかる。人口が減少し、過疎地域となっている。
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Quote
浜松中央署は27日、静岡県迷惑防止条例違反の疑いで御前崎市御前崎、航空自衛隊御前崎分屯基地所属の空士長の男(29)を現行犯逮捕した。 逮捕容疑は同日午後9時5分ごろ、浜松市中区肴町の路上で市内のアルバイト女性(21)の尻をスカートの上から手で触る痴漢行為をした疑い。 同署によると、容疑者は「手が当たっただけ」と容疑を否認しているという。
痴漢行為の疑い 空自の空士長逮捕 浜松中央署 (@S[アットエス] by 静岡新聞SBS) - Yahoo!ニュース
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