#弥生胡詠
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bearbench-tokaido · 8 months ago
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五篇 下 その五
東海道を離れ伊勢の参宮道に来ている弥次郎兵衛と北八。 雲津の旅館で、狂歌詠みがはじまる。
弥次郎兵衛が別の短冊に道々詠んだ歌を書きだしたのだがその間、北八は手もちぶさたなのでさっき胡麻汁が指し示したびょうぶを見て、 「へえ、恋川春町の絵がある。 もし、あの絵の横に書いてる文章は、賛(さん)ですかな。」 と、胡麻汁に聞いてみる。 胡麻汁は、北八の問いに、 「いや、あれは、詩(し)でございます。」 と答える。 北八は、また別の絵を指差して、 「こちらの布袋の絵の横に書いてるのは、詩(し)ですかな。 誰が、書いたもんです。」 胡麻汁が、 「いや、あれは、語(ご)でございます。 沢庵和尚が書いてくださった教訓でございます。」 と言うので、北八は心のうちにこいつはいまいましい奴だと思っていた。 賛(絵のかたわらに、書かれたその絵にちなんだ歌などのこと)と問えば、詩だと言い、じゃ、詩かと、問えば、語(教訓的な文句のこと)だと言う。 それならこっちにも考えがあるとそこらを見回して、 「もし、あの角にある屏風の絵のそばに書いてるのは、六でございましょうな。」 と、今度は、先に、ひとつよけいに言う。 胡麻汁��、北八が、言うものを見て、 「六か何かは、知りませんが、あれは、質(しち)にとったものでございます。」 と、いう。 北八は、むっとしている。
そのうちに、台所のほうから、女中がやってきた。 「はい、ひげ面さまから、お手紙が参りました。」 胡麻汁は、 「どれどれ、何じゃな。」 と、手紙を受け取ると、その場で読み出した。
『島渡ひげ面でございます。 ただいまお江戸から来られた十返舎一九先生が、私にお宅にご到着されたところでございます。 もちろん名古屋連中や杵吉田などからも書状がきております。 さっそくあなた様のことをお話すると、お宅にもお伺いなさるとの事ですのでまずは、ご連絡まで。』
胡麻汁が、声に出して一通り読むと、 「こりゃどういうことじゃいな。さっぱり訳がわからん。」 と、弥次郎兵衛の方に向き直って、 「先生、ただいま朋友どもからこのような手紙が来ましたが、こいつはたぶん尊公のお名前をかたってまいったものと見えます。 さいわい、まもなくここへ来るようですから、いっちょ、なぐさんでやろうじゃございませんか。」 と、言う。 弥次郎兵衛は、それを聞いて、真っ青になり、 「さてさて、大変なことだ。いやはや、横着なやつもあればあるものだ。 しかし、私は会いますまい。」 と、言うと、胡麻汁が、 「それはまた、どうして。」 と、問いかける。 「いやどうも、さっきから、持病の腹痛がおこりました。 そうでなければ、その偽者を懲らしめてやるものを。さてさて、困ったものだ。」 と、思いがけない展開に、さすがの弥次郎兵衛も、そわそわしている。
亭主の胡麻汁をはじめみんなさっきから弥次郎兵衛の様子がどうもおかしいので、さてはと気づいて、こいつの正体を暴いてやろうと互いにそでを引き合う。
茶賀丸が、 「でも先生。これからも、こういうことがたびたびあるかもしれない。 ご不快ではございましょうが、ぜひその偽者にお会いなさるがいいと思います。」 と、弥次郎兵衛の様子を伺いながら言うと、 「はてさて、こまったことをおっしゃる。」 と、弥次郎兵衛は、益々、そわそわしだした。 垂増が、 「ところで、先生のお宅は江戸のどこになるんですかな。」 と聞いてきたのだが、上の空の弥次郎兵衛は頭が回らない。 「さてどこだったか。おおそれそれ、鳥羽か伏見か淀竹田。」 それを聞いた、過雪が、 「山崎の渡しを越えて、与市浜へとお尋あれか。 仮名手本忠臣蔵の一場面じゃないか。茶化すな。ははは。」 と、笑いとばす。 胡麻汁が、 「そういえばたしか、あなたがたのお笠に江戸神田八丁堀、弥次郎兵衛と書き付けてありましが、その弥次郎兵衛さまというは誰の事ですかな。」 「はあ、聞いたことがあるような名だが、誰であったか。 おお、聞いたはずだ。私の実名は、弥次郎兵衛でございます。」 と、弥次郎兵衛は、やややけくそ気���で答える。 「ははあ、右や左の旦那様。よければお恵みをと回っている弥次郎兵衛とは、あなたのことであったか。」 と、胡麻汁が、言うと、 「さようさよう。」 弥次郎兵衛は、上の空で、返事をしている。
「ところで、弥次郎兵衛先生。 その偽者の一九を今すぐにでも、連れてきましょう。」 と茶賀丸が、意地悪く言うと、 「いや、私は、もう出立しましょう。」 と弥次郎兵衛は、立ち上がろうとする。 「なぜまた、今からお立ちになるので。 何時じゃと思っておられるのかな。もう、午後の十時をまわったが。」 と、胡麻汁が、怒ったように言うと、 「とうのも私の腹痛は変わっておりまして、このようにかしこまってばかりいるとだんだん悪くなる。 いつも夜分、外を歩いて、冷やすとじきに良くなりますから。」 と、なんとも間の抜けた言い訳をする。 「なるほどそれで、今から立とうというのか。 まあそうだな。そうするか。 たとえお前らがここにいると言っても、ここにはもう泊める部屋はない。 早く出ていけ。よくも人の名をかたって騙したな。」 と、胡麻汁が、弥次郎兵衛らの荷物をそこに放り出して言う。 「なに、かたっただと。」 と自分が悪いのを棚に上げて、弥次郎兵衛が詰め寄ると、 「そう、かたったわいな。 本当の十返舎先生は名古屋の川並道中から、状がついてきてるから間違いない。」 と弥次郎兵衛があまりにも威圧的に言うので、胡麻汁はちょっとひるんだがもっともなことを言う。 垂増が、 「最初からどうもおかしいと思っておった。 こちらから放り出されないうちに、ちゃっちゃと出てていかんせ。」 と、そっけない言いようだ。 「なんだ、放り出すだと。こりゃおもしろい。」 と、弥次郎兵衛がりきむが、 「おい弥次さん。このへんが潮時だ。だいたい、お前の思い付きが悪い。 さあここを出て、どこかの安い宿にでも泊まろう。 こりゃ、どなたも、真っ平御めんなさい。」 と、北八が、わびを入れる。
亭主の胡麻汁も腹は立ったが、おかしさもあってこのふたりが這わんばかりの様子でそこそこに支度し出て行くのを、家内の者どもと手を打ちたたき笑いながら見ていた。
弥次郎兵衛は、ずっとふくれっ面で、りきみかえっている。 北八の方は、おかしく思いながら、あとにしたがっている。
短冊に いやとは言わずに 旅の恥 書き捨てていく 偽りの名で
と北八が詠んで、なんとなくおかしくなって、笑い出した。 二人は旅館から出たのだが、もはや十時を過ぎているので家並みは、戸を閉めてひっそりと静まり返っている。 どれが、旅館かもわからない。 暗がりの中、旅館を探しながら歩いているといきなり軒下の犬どもが起きてきてほえかかるので、弥次郎兵衛はきょろきょろして、 「ええ、この畜生め。大きな声でほえやがる。」 と石ころを拾って投げつけると、犬は怒ってますます弥次郎兵衛にほえかかる。 その様子に、北八が、 「かまいなさんな。犬までがばかにしてやがる。おや、弥次さん。 妙な手つきをして、お前何をしてるんだ。」 となにやら変なしぐさをしている弥次郎兵衛に���問いかけた。 「いやなに、犬ににらまれた時には空中に虎という文字を書いて見せると、犬が逃げるということだからさっきから書いてるんだが、いっこうに逃げない。 どうやらこいつら、字が読めない犬みたいだ。ししし。」 と、どうやらこうやら、追い散らかして行く。
しばらく歩いてどうやら、この町の外れまで来てしまった様子に、弥次郎兵衛が、 「こりゃ、失敗した。ええい、ままよ。北八よ。夜どうし歩こうじゃあねえか。 なあ、きつい事はない。行こう。」 と、言うのを、 「お前は、とんでもないことを言う。まだ、十二時にもなっていないだろう。 まだ、どっかやってる旅館があるだろう。」 と、北八は、疲れた様子で答える。 「そうは言っても、今まで、歩いてきて全然見つからねえじゃねえか。」 と辺りを見回すと、 「いやあるぞあるぞ。遥か向こうに火が見える。 あの火を目あてに行って、宿をたのもう。」 弥次郎兵衛が言うので、その方をみて、 「それがいい。しかしあれは、家の灯りには見えないみたいだが。」 と、北八が、暗闇を透かして見ながら言う。 弥次郎兵衛が、 「とんだことをいう。あれは、戸のすき間よりもれる火にちがいない。」 と、自分に言い聞かせるように言う。 「うん、そうかもしれない。家のうちでたく火だ。 なにがなんでも、あそこに頼んで泊めてもらおう。」 と、足任せに、急いで行く。
つづく。
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yaco383 · 7 years ago
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セッションに使用した立ち絵。マギカロギアの書工/天涯。
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independence-of-mind · 6 years ago
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关于大师的自沉,所有解读都可能是错的
作者:陆波   2017-10-19
导读:王国维在人生的第二层楼获得了极大的成就,但他走不出纷纷扰扰的世间苦闷。每读“人生三境界”,便会去想,“那人在灯火阑珊处”之后又如何?
一、鱼藻轩定格的最美夕阳
颐和园鱼藻轩的最美时分是在夕阳西下之时。
此轩四面开敞,似亭之通透,出檐退柱,四围相连镂空格栅,柱子之间坐凳围栏,开间写意为窗,线条流畅、比例合宜,精美华丽不失大气。它伸出平直的湖岸,三面有水,北有游廊连接颐和园长廊及“山色湖光共一楼”。
每当夕阳斜射,西面的两柱开间,犹如镶嵌了格栅的落地窗,也恰似一帧典雅相框,把金色阳光里的玉泉宝塔嵌入成画,其中,山、水、塔,如梦如幻,人作与天作之完美结合,但那只是一天里极为短暂的时刻。
王国维没有等到这一天地大美的瞬间,他是在接近中午11点左右,阳光正当焦烤炫目,眼前洋洋大湖一派白茫茫之时,义无反顾投于水中的。
1927年6月2日,王国维坐在鱼藻轩的围栏上,面朝大湖,大致的时间是上午10点到11点。
在这之前,也就是6月2日一早,他在家中用早餐如常,虽然孩子们已经放假,但也不能睡懒觉,而是陪他一起共进了早餐。
但也有异常之处:过往,他去清华研究院总是有老佣人冯友跟随的,但这一天8点他独自前往。
到了办公室又发现没有带来学生的考试稿,无法登录成绩,便请校工取了来。他还发现前一个晚上给学生谢国桢扇面的题字,竟称谢国桢为“兄”,不妥,遂改为“弟”。
接下来王国维与办公处秘书侯厚培认真讨论了关于下学期开学后招生的事项,临了,他向侯厚培借2块钱,侯没有2元,便给了他5元纸币。
其实2元这个数目是他精确计算过的他的不归之旅的用度,同时他也没打算还钱给侯先生,所以超出了3元不知他作何想。
这个行为我是不能理解,也感觉不舒服的,权且也被归为异常之处。也就是说,这一上午他有少许的混乱,借钱之举还是有临时起意之嫌:万一他没有��到侯先生,万一侯先生身上也没带��呢?
何况,按照当时清华校长曹云祥给他的聘书里约定:“每月薪金银币肆百元,按月照送。”若有准备,兜里不会缺这几块钱。
所以,有可能的情况是,他早就想死,也做了准备,借到钱了,便去意已决。
恰逢当日是五月初三,离端午节也就是两天的光阴,屈原投水是不是也是一种暗示?
他出了清华园,给在大门趴活的车夫5毫钱去颐和园。
颐和园自民国建立后一段时间还为逊位清室所有,清室为了增加收入曾经有限度地开放过园区。
但自冯玉祥将溥仪赶出紫禁城后,颐和园也收归国有,1924年开始向公众开放,但票价很贵,要1块2角钱(有人计算相当于今天的80元左右),对特定人群的优惠票价是6角,限于军人及家属小童等,只有京城的中上层人士可以游览。
请注意,王国维在这之前从未进入过颐和园!
虽然他寓居北京多年,紫禁城南书房行走一年,但他没进过颐和园!
一切园中景致、旅程的距离全凭想象,但他第一次也是最后一次进入颐和园,却把花费和时间计算的很精准。
他大约10点走进颐和园,但最后从他裤兜里掏出了剩余的4块4角钱看,他似乎买了一张6角的折扣票,并没有花掉1.2元。
他一直沿着长廊行走,走到了尽头,便看到了石坊,还坐了一会儿。
在沿长廊一路走来,他的目光向左没有离开昆明湖,他在考察合适的地点。石坊在大湖的西湾处,西洋制式的大石头假船,他自是看着不顺眼,便折回头走到鱼藻轩,这段距离也就是100米左右。
他在围栏坐了一会儿,抽掉一支烟,走下台阶,义无反顾头朝下扎入水中。
其实,当时园子里人不多,民国建立十五年了,他这个拖着小辫子的老者来回走动是有人注意的。
很快,也就是一两分钟光景,便有园子里的工人把他捞上来,但他去意绝决,把头扎入淤泥,口鼻腔尽已堵塞,工人不懂施救,他窒息而亡。
当时鱼藻轩下面的湖水很浅,王国维被捞上来时后背的衣服都没有湿透,���人便说“水不过两尺”。王国维坐在围栏边一定看清了浅浅的湖底,所以他自是采取了最为有效的自戕方式。
园方也不知道他身份如何,出了人命吓慌了,赶紧派人跑到门口问等候的车夫:“谁把一个拖辫子的老先生拉过来的?”结果,那个送王国维来的车夫竟然在颐和园东门守着呢,是王国维让他候着的,这才对上号,车夫一路跑回清华报丧,校方、家属乱作一团,悲恸而至。
王国维并不是让车夫等着回程的,而是用来报丧的,他考虑得如此缜密。
整个6月2日的下午及接下来的一整夜,王国维尸体就被停放在鱼藻轩里,盖个又脏又破的芦席子。
哦,对了,傍晚时分,鱼藻轩西窗棱的斜阳剪影一定在他的躯体上停留了片刻,躺在静美的山水之间,我想象出这一刻的定格,中国文化最后的卫道士的壮烈身影也在这自然光线的柔和转换里渐渐为黑夜吞噬。
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二、当他的死亡发展成一门八卦学问
关于他投水自尽的归因争论,炸毛争论了近100年,他的学问是没什么争议的,可见众人好奇心之强。
因为在他的遗体口袋里寻到了一份遗书。遗书封面写着“送西院十八号王贞明先生收”。王贞明是他的三儿子。
遗书内容为:“五十之年,只欠一死,经此世变,义无再辱。我死后,当草草棺殓,即行槁葬于清华茔地,汝等不能南归,亦可暂于城内居住。汝兄亦不必奔丧,因道路不通,渠又曾出��故也。书籍可托陈(指陈寅恪)、吴(指吴宓)二先生处理。家人自有人料理,必不至不能南归。我虽无财产分文遗汝等,然苟谨慎勤俭,亦必不至饿死也。五月初二日父字。”
这封遗书是6月1日写的,6月2日一早他随身带着。
知识分子,或者说文人们一致认为他殉了“文化”,殉了几千年横亘延绵的三纲五常,殉了以儒家先哲构建的中华文化精神之道统。
以陈寅恪表达的最为明晰:“凡一种文化值衰落之时,为此文化所化之人,必感苦痛,其表现此文化之程量愈宏,则其所受之苦痛亦愈甚”。
陈寅恪继而指出:“吾中国文化之定义,具于《白虎通》三纲六纪之说,其意义为抽象理想最高之境,和希腊柏拉图所谓Idea者异曲同工,因此王国维所殉之道,与所成之仁,均为抽象理想之通性,而非具体之一人一事。”(见陈寅恪《王观堂先生���词并序》)
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(陈寅恪悼念王国维先生挽联,1927)
陈寅恪认为王国维为理想与精神而成仁,并非琐屑小事。
拔高到如此高度,是不是文人们就事发挥,甚至是宣泄对时局动荡下文化千疮百孔的现状不满?也未可知,大学问家大知识分子当然有自我抒怀、尽情发挥的空间。“王国维之死”可以借为抨击文明堕落之实证。
还有一种“殉清”说,我认为最不靠谱。
有人认为王国维仅仅秀才出身,最后可以出入宫禁,南书房行走,虽非帝师,但有机会与皇帝谈文论道,何等荣耀?怎不对清室感激涕零而为清亡祭出肉身?
还有说,溥仪被冯玉祥赶出皇宫时,一班遗老如罗振玉、王国维等护驾出宫,既痛恨又羞辱,相约着跳护城河,后来家人相劝才作罢。
是真心要跳还是一时激动,经不住周遭人情绪激惹,反正没有跳。
我迄今没查到一个为清朝亡而殉命的有头有脸的人物,甚至连皇族都无一人以死垂范。
而1927年,清皇室已逊位15年余,这时候再去投水殉清,很是说不通。
再者,1925年,他已接下清华国学院的导师聘书,已经食了两年“周粟”,“殉清”之说情何以堪?
持这种观点者的证据主要来自罗振玉的一系列作为:罗振玉伪造了一份王国维的遗书,内容自是对王国维对清廷的耿耿忠心,并为王国维请求赐谥。
读罢“遗书”,二十几岁的溥仪真是好骗,自是感动的稀里哗啦,以为孤臣孽子忠心可鉴,便赐谥号“忠悫”,赏洋2000抚恤家属。
所以持“殉清”说的大抵为遗老和被遗老蒙蔽的逊位王室一干人等,是他们的一厢情愿。
凑趣的是,梁启超看清室给了钱,不是很爽,也找人向当时的北洋政府要求支付给王家一笔抚恤金,以示民国政府对知识人的关怀。
在梁看来,王国维这样的文人楷模学问大家,政府理所当然要表示出爱才爱文化的怜惜,可惜的是热脸贴了冷腚,张作霖带来的奉系军阀连同其议会成员,绝大多数听都没听说过王国维是谁?
可见当时中国之情形,文人们也就是在自己的圈子里惺惺相惜,顾怜自叹,文化之事且关乎个别文人,军阀忙着斗法呢,谁管这些?
“殉清”说,或者认为王国维为固旧保守而死的观点,还会以他的辫子问题为佐证。
其实辫子无非是王国维表达内心不满世风,并羁傲于世的个性外露而已,不说明本质上死守旧主。
他在日本五年也是短发青年,意气风发,专心治学,成果喷薄而不能收拾。回来后他上书房行走自是续着辫子以敬业以合规制,因为那时候小朝廷上下并未剪辫子,紫禁城里还是一个辫子国。
1922年初春的一个上午,溥仪受不了英文师傅庄士敦“猪尾巴”的嘲讽,自己拿了剪刀把辫子剪掉,随后让剃头太监给他剃了个光头。
但溥仪回忆说,自己剪了辫子“太妃们痛哭了几场,师傅们有好多天面色阴沉”。
民国十一年(1922年)5月2日,《申报》刊登了一条只有六个字的新闻:溥仪昨剃辫子。
而宫外的他父亲载沣,还有皇族近亲等早已落发数载,皇族大臣载泽率团到西方考察,怕外国人讥笑他们背后拖个“猪尾巴”,一半的团员在路上就自行把辫子剪掉了。
所以,到了20年代,剪辫子已不是什么骇然大事,留辫子的倒像是斗气逞强。
譬如,还有一位精通西方9种语言,自小在英国受教育的“清末怪杰”辜鸿铭,在北大讲授英国文学,这在当时算是少有的西学大师级人物,可他也是以留着个前清辫子招摇著称。
而他最为奇葩的是出门叫洋车,还一定要挑留辫子的车夫给拉才行。车轮飞奔,前面一条大辫子,后面一条小辫子,比肩齐飞,也真是民国一景。
所以,北大的辜鸿铭,清华的王国维其实就是找不到与那个时代作对或者表达不满的方式,拿个辫子当举个旧军旗去独树一帜。
他的学生吴其昌回忆:当时,有同学曾婉转进言,请先生将辫发剪掉。其实呢,对于这,先生也并不怎么固执。他曾说过:“倘是出其不意的被人剪了,也就算了,也就算了!”不过要让自己来剪,则老年人的情怀觉得有点难堪,不愿如此做罢了。
还有一个比较小众的说法,说王国维之死是“惊惧”说,观点来自梁启超。
说是王国维害怕革命军,因为在死前不到两个月的时候,湖南叶德辉在长沙被杀,死法有点像乱棍打死般,因为处决是在湖南农工商学各界团体召开大会时宣判,立即处死的,理由是他骂农民运动是“痞子运动”,是土豪劣绅的代表。
其实,叶德辉思想保守,袁世凯复辟称帝时,他组织筹安会湖南分会,赞成复辟君主制,但他作为一个对政治参与度极高的人,与王国维是有差别的,王国维并未涉足共和还是立宪这些政治纷争,要站队他也就是到小朝廷里去某个学术职位而已,还是比较纯粹的文人。
但他想着叶德辉这样的“读书种子”被这么草率处决,总是生出了对革命党的惧怕与愤恨。
另外还有一个传言在清华园盛行,说是湖北文人��葆心亦被革命党枪毙。说是王葆心是六旬老先生,在乡里德望甚重,只因通信中有‘此间是地狱’一语,被暴徒拽出,极端棰辱,终于毙命。
后来证明这是一段谣传荒信,王葆心一直活到了1944年。但当年通讯与信息的传达障碍确实是谣言满天飞,令文人们不能安心。
王国维死前不久,和他的学生吴其昌讨论天象,他问吴:“前年有一天晚上,我曾看见一颗大星流坠,随后就听说孙中山死了。前两夜,我又看到了同样的异兆,你看吴佩孚怎样,会不会轮到他死呢?”
叶德辉之死,对王国维有一定的刺激,认为革命党滥杀文人,但并未参与复辟或反革命党活动的他,在清华园里有一份教书匠工作,并无过于忧虑的理由。
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(崇庆皇太后万寿庆典图中的鱼藻轩)
至于他为什么选择颐和园鱼藻轩,后人又有一种附会,说是王国维因“鱼藻”而联想至诗经·小雅之《鱼藻》篇:
鱼在在藻,有颁其首。王在在镐,岂乐饮酒。
鱼在在藻,有莘其尾。王在在镐,饮酒乐岂。
鱼在在藻,依于其蒲。王在在镐,有那其居。
认为这篇写君臣关系的诗,是臣依君,犹如鱼依藻。选择鱼藻轩自尽,有王国维对清王室给他的知遇隆恩而感怀。
这个还是殉清之说的延续,在我看来有些牵强。
前言已道,王国维是第一次也是最后一次走进颐和园,对园林景致建筑并非相熟,他已走到长廊的尽头,看到不中不西的怪石坊,显然不满意,而他再次折返向回走的第一个湖畔之轩,就是鱼藻轩了,这纯属偶然。
他有可能抬头看到轩内匾额“芳风詠时”,光绪钤印,一直不解这句“景曜徽芒,芳风咏时。”的陆云诗,光绪为何要写成“詠”?而不一定跑出轩外,再回首抬头看到此轩正南上方题额“鱼藻轩”。或许,一支烟的功夫他都没有搞清楚这轩子大号为何?
其实,小雅“鱼藻”诗正是吐槽了臣子的怨气:“言万物失其性……”君不像君,臣何以为臣?古人解释这是周幽王时的臣子对幽王的抱怨及对武王的思念。
如果附会成他选择“鱼藻轩”自绝是对避居天津张园的溥仪的思念和感恩,把溥仪喻为周武王,这绝非诗词大家王国维的水准。
选择鱼藻轩还因为这里是一个小码头,拾级而下,不用翻栏杆等。
“鱼藻轩”额匾挂于轩之南屋檐之下,如果他是抽完一支烟,义无反顾头朝下入水这个动作,他大约根本没有机会回头顾望到这方匾。
三、走不进静好世界的静安先生
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(1925,清华国学院,前排:李济、王国维、梁启超、赵元任;后排:章昭煌、陆维钊、梁廷灿)
王国维投水,怎么说都是突兀的。
首先,他是一个对学问事业积极勤奋的人,精进不辍并获得文化大成就者,其奋进精神更接近一代青年的人生励志导师。按理说,他应该抵及豁达人生之境界。而“境界”又是他论著里多么精妙通透论证的哲学与文学之课题。
王国维认为,词以“境界”为最上。
狭义地说,境界,乃文学表达里情感与景物是交织融汇,给读者一定艺术高度的感受。广义说,应阔达至人生与生命,是内心感知世界之真谛,并为求索生命的究竟而抵达的高度。而后人如我等,对学问才智的顶级人物王国维难免生出更高的期待。
他以50岁的人生生平著述62种,批校的古籍逾200种。(收入其《海宁王忠悫公遗书》的有42种,以《观堂集林》最为著名。)
可以说,他是站在中国3000年文化转折点上承前启后的关键人物,是中国近代最后一位重要的美学和文学思想家。被誉为“中国近三百年来学术的结束人,最近八十年来学术的开创者”。
用郭沫若语:“留给我们的是他知识的产物,那好像一座崔嵬的楼阁,在几千年的旧学城垒上,灿然放出了一段异样的光辉”。
因为他早年学习西学,他第一个试图把西方美学,文学理论融于中国传统美学和文学理论中,构著新的美学与文学理论体系。
他既集中国古典美学和文学理论之大成,是大总结者归纳者,又结合西学之方法开中国现代美学和文学理论研究先河。为中国美学和文学思想史的前行,铺就一条道路,对后代学人影响深远。
民国时期梁启超、胡适甚至包括鲁迅对他的评价甚高,“不独为中国所有而为全世界之所有之学人”(梁启超语)“要谈国学,他才可以算一个研究国学的人物。”(鲁迅语)。他不仅是中国历史、文学、美学之学术大家,其贡献也是世界学术史上的卓越丰碑,是当时公认的世界级学者。
他在为学的疆场纵横捭阖,快马扬鞭,收获了无与伦比的成果。到了50岁,他做完了应该做出的一切。
唯一值得欣慰的是,他重要成就的自选集《观堂集林》在1923年由上海的蒋汝藻出版, 这部被公认为中国学术史中的不朽之作诞生,且作为1924年春节入宫谢赏时奉献给溥仪的礼物 —— 黄绫裱《观堂集林》一部,他唯有用学识表达感恩。
其实,他希望在一个安逸静好一成不变的世界进行自己的学术生活,而不要被乱世打扰。这一点看,他就是个纯文人。
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但他的悲剧恰恰是他作为大学问家,完成了宏大的学问工程,开创构筑了崭新的研究方法与方向,疾步至此便画上了句号。
学问之外是他不喜欢的纷乱的世界,是他迷茫无措的生命困惑。
站在疾疴沉重的旧中国被打开一扇外向之门后的时代转折点上,世事巨变必然伴随相应的五味杂陈与各种荡气回肠的混乱。但王国维很难对接此境并拒绝一个新时代的到来。
有人说他并非一个绝对守旧的人,早年他追求过新学,他在东洋五年,精通英语、德语与日语,西方世界的熏风浸透过他的身心,他较早地介绍西方哲学家极其哲学思想介绍来中国,如他研究并介绍过康德、尼采、叔本华,也介绍托尔斯泰及其作品,他有开阔的眼界,他不是一个毫无眼界与见识的纯本土保守文人。
但即便如此,他只是把西洋知识仅仅当做知识而已,没有从内心深处接受新思潮,也不关心探索改变陈旧中国的新思想,因为构筑了他50人生的精神基石有着非此即彼的排他性,他对乱世出现的各种看不惯无包容之胸怀,他认为中国已“失道”,他所以仰赖的文化精髓被摧毁被践踏。
于是后世普遍归因他的自绝是殉了传统文化。殉了他认为是人生信仰基石的自儒家构建的中国传统思想体系的大道。符合“经此事变,义无再辱”。
他只追求了新学之表,却迈不出大历史变迁下的新步伐。
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四、哪根才是王国维的绝命稻草
但“经此事变,义无再辱”,还是为自己赴死语焉不详的说辞。
作为学问大家王国维被大时局大动荡以及细微到其个体生活的种种现象冲击,而无以为力,甚为沮丧,这是表层的“事变”。
前面提及,革命军在南方所为的传言弥漫于清华园及北京的知识界,真假莫辨,而深层次的原因不可忽略其家庭生活的突发变故。
1926年,王国维遭遇老年丧子之痛,就是他非常钟爱的长子王潜明的英华早逝。
1926年9月,王潜明在上海突染伤寒,本已好转,但实际并未痊愈,后又发作。王国维听闻,即赴上海,但其病已无救。
王国维在上海为他主持丧事。王潜明的未亡人恰恰是罗振玉的爱女,成了新寡,都是二十七、八的韶华黑发,怎不令王、罗两位老人痛心。
而有种说法是丧事期间,王国维的继妻潘夫人与长媳妇发生了一些不愉快琐事,引发罗振玉不满,没有辞别,罗振玉就带着女儿回到天津罗家去了,而且有“大归”的绝决。
两位曾经的事业、生活之挚友,因儿女之事恩断义绝。
罗振玉埋怨王国维对家人管理失度,女儿受了委屈,而王国维几次三番将王潜明单位下发的抚恤金及额外资助等寄给罗家都被退回,最终罗还是收了钱,但这对清高刚直且性格内向的王国维无疑是极大的侮蔑,他受不了罗振玉对他如此绝决,他给罗的信中怒问:“连媳妇都养不起吗?”
他一生的好友和贵人罗振玉令他委屈和压抑。
1927年2月15日,王国维至天津张园觐见溥仪并拜寿,罗振玉也到场了,两人擦肩而过,甚至没有起码的礼仪寒暄之词。
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(左:罗振玉;右:王国维与罗振玉合照)
王国维与罗振玉是上天安排的一段奇缘,如果没有这段奇缘,他们彼此都不可能成就各自的硕果累累,他们是彼此助力的。
而客观上说,王国维受益于罗或者说得恩于罗很大。他们保持了28年的人生交往,其中的27年,王国维在家庭生计、职业安排上多次得到罗振玉的资助。当然也有人说罗振玉的研究成果有部分是王国维报恩的奉献。
1898年正月,22岁的王国维从海宁乡间来到上海,抱着求学求真理的精神,入当时维新运动时期著名报纸《时务报》工作,他的学识与抱负并未被当时报社负责人汪康年赏识。
二月,他便进入离报社很近的罗振玉所办东文学社学习。自此,二人结下20余年的友情。
王国维两次出国,第一次是罗振玉资助并有日本教师帮助,实现了一个青年出国留学长见识的愿望,但后因生病,不到一年就回国了。回国后王国维的职业生计均为罗振玉帮忙引荐介绍。
他在罗振玉办的《教育世界》发表了大量译作,继而成为该刊的主笔和代主编,通过这份刊物大量向国内介绍近代西方学人及其科学、哲学、教育学、美学、文学等领域的新知识,传播新思想。
除在东文学社、东渡日本留学,他曾任教于南通师范学校、江苏师范学堂等,都得到罗振玉的帮助。
此时他主攻西方哲学,研究康德、叔本华、尼采等,并结合先秦诸子及宋代理学,他自称这一时期为“兼通世界之学术” 之“独学”时期。
三十岁以后,他转向文学。
他向国人介绍俄罗斯文学家托尔斯泰及其作品《战争与和平》、《安娜·卡列尼娜》、《复活》等,介绍英国浪漫主义诗人拜伦,还研究莎士比亚、但丁、歌德等。
同时,王国维还对美学、词学进行研究,投稿《国粹学报》的《人间词话》,以崭新的眼光写出对中国旧文学的著名批评著作。
对中国戏曲史进行研究,撰有《曲录》等多部著作,为《宋元戏曲考》的完成奠定了基础。
1911年辛亥革命,清廷解体,王国维跟随罗振玉第二次去日本,并滞留五年。
这期间,王国维已是拖家带口,家累沉重,又幸而得到罗振玉的各种资助和帮忙,并且居住在罗振玉家隔壁,两人有了一个稳定的生活和治学的良好环境。
王国维整理并饱览罗振玉的大量藏书和收藏品,罗振玉的“大云书库”图书资料任其使用。两人交流心得,探讨学问。
他自述此间“生活最为简单,而学问则变化滋甚。成书之多,为一生冠。”
1916年他不忍心再以全家生活拖累罗振玉,便接受在上海的犹太裔富商哈同之邀,编《学术丛编》杂志。这一阶段他将之前的重要研究成果汇总,编成《观堂集林》,为学问立身。
当然,对于我们绝大多数普通人来说,一本《人间词话》之广泛流传阅读至今,已实慰其心。
1921年,北大方面邀请他讲学,并拟聘教授,被他拒绝。1922年他接受了教学工作但不拿酬金,任北京大学研究所国学门通讯导师。
但生活毕竟是一个现实问题,他向罗振玉请教,由罗振玉引荐至原陕甘总督、蒙古贵族多罗特·升允门下,他的学识受到赏识。
1923年春,紫禁城内的小朝廷自娱自乐,还要按旧制选海内硕学之士充实南书房,王国维正是经升允推荐,到紫禁城充任南书房行走,溥仪恩赏其五品衔,并食五品俸,后又获得紫禁城出入证,名号为“在紫禁城内骑马”。
按清代惯例,在南书房工作,大都应是进士、翰林以上饱学之士,王国维只是秀才出身,能与杨钟羲、景方、温肃三人同时入南书房工作,是对其才学的极大肯定,读书之人将此事看的很重。
虽然南书房入值,但不参与政务,名义上有侍学之说,至少得以机会觐见皇帝,在有清一代士人中,以此为荣光。
他给溥仪有没有讲过学问、授过课否,没见记载。他写过几个关于整理文物的奏折,并有幸得窥大内所藏,用了大量时间在景阳宫整理清室文物与藏书。
不管怎么说,罗振玉对于王国维的直接资助,提供其收藏的大云书库图书资料任其使用,直接或间接推荐王国维谋生的职位,20多年来,罗振玉堪称王国维的贵人,对成就王国维的学问一定是有贡献的。而且他们还结下儿女亲家,王国维的大儿子正是娶了罗振玉的女儿为妻。
如此牢固的友情大厦却倾覆���王国维的丧子之痛里。
前面我提及了他们因为子女之事翻脸,在1926年春天面对面而过不发一语。
这个打击对王国维是很大的,我相信他有对罗振玉的怨恨,但也必定有对这段情谊陨落的悲伤。
我相信,一个人走上自绝之路,更多地来自内心深处的个人性的创痛,大义大道的信仰,自尊刚直的个性多少会是一些促进的因素,但个人的体验,个人的悲伤是很难为外界解读出来的。
罗振玉在得知王国维死后也必定有过挣扎的内心,前言道,他上奏溥仪一份他伪造的所谓王国维“遗折”。
溥仪在《我的前半生》里记载:王国维死后,社会上曾有一种关于国学大师殉清的传说,这其实是罗振玉做出的文章,而我在不知不觉中,成了这篇文章的合作者。
过程是这样:罗振玉给张园送来了一份密封的所谓王国维的“遗折”,我看了这篇充满了孤臣孽子情调的临终忠谏的文字,大受感动,和师傅们商议了一下,发了一道“上谕”说,王国维“孤忠耿耿,深堪恻悯,……加恩谥予忠悫,派贝子溥伒即日前往奠馔,赏给陀罗经被并洋二千元……”。
这就是罗振玉为王国维骗了个谥号,并为王的家属争取了2000元抚恤的经过。
罗振玉没有去北京参加王国维的葬礼,但他原先是想去的。王国维的子女回忆说 “罗老伯原来要来”云云。
但罗振玉在天津搞了隆重的公祭,宣传王国维的“完节”和“恩遇之隆,为振古所未有 ”,更在祭文里宣称自己将和亡人“九泉相见,谅亦匪遥”。公祭后,罗振玉旋即赴京。他拿着溥仪的“谕旨”,从清室领得贰千圆赏银抚恤金,全数交给了王国维夫人,自己又另送上最高的葬礼银一千元。
无论怎么说,从罗振玉本身的价值立场和对家属的实际抚恤安排,他都是做周全了,不失为对罗王这段近30年缘分做了一个较好的终结。
接下来不到一年,他更是把王国维遗稿编撰四集刊行于世,即王国维身后的第一部全集《海宁王忠悫公遗书》,其编订刻印之迅疾,可以说是罗振玉发自内心的诚挚,并竭尽了心力。这与两年后梁启超过世后身后的冷落形成鲜明对照。
溥仪在《我的前半生》中加注了一段关于罗王恩怨的传言:“我在特赦后,听到一个传说,因已无印象,故附记于此,聊备参考。据说绍英曾托王国维替我卖一点字画,罗振玉知道了,从王手里要了��,说是他可以办。罗振玉卖完字画,把所得的款项(一千多元)作为王国维归还他的债款,全部扣下。王国维向他索要,他反而算起旧账,王国维还要补给他不足之数。王国维气愤已极,对绍英的催促无法答复,因此跳水自尽。据说王遗书上“义无再辱”四字即指此而言。”
这段传言也是后世关于王国维之死因“逼债说”的滥觞,但关于钱财纠纷多是外人揣测,罗王两家人都没有提及。
如果为1000块债款逼死王国维,从罗一路过来对王国维的资助及其身后事的所为,这点钱财实在辱没两人人格。
两人的裂隙还是缘于儿女家庭之事。
罗振玉讲述的版本是,他命其第四子罗福葆仿王国维的笔迹写下遗折,他对此并不隐讳,其外孙刘蕙孙(《老残游记》作者刘鹗之孙)回忆说:“1929年我在旅顺,雪堂先生(即罗振玉)对我说起他和静安的友谊,最后说:‘他最后觉得对我不起,欲以一死报知己。我也觉得那件事不免粗暴,对他不起。但死者不能复生,只好为他弄个谥法。遗折是我替他做的。’” 
他反复说的他俩“那件事”就是亲家反目。
百年来,闲杂俗人不应用钱财之争降低王、罗二人人格,一个是单纯的书生,一个虽擅长利益经营但也是对文化事业满满恭敬心并不吝付出之人。
压垮王国维的最后一根稻草,来自他内部对人生与生命的消极体验,他四岁失母怙,性格沉郁,生命态度悲观,而丧子之痛给了他致命一击,那是他的血脉,他的挚爱,而与罗振玉的恩断义绝更是人间情谊的虚无化,令他绝望。
五、 人生三境界与人生三层楼
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有必要重温他的著名的“人生三境界”说,但此说并非广义的人生意义的思考,而是他一生的长项:如何做学问。
他是做学问的导师,有指点具备学问慧根的学子之法力,但并不一定广泛有效于生命之道。
他在《人间词话》里这样阐述“三境界”:
古今之成大事业、大学问者,必经过三种之境界:“昨夜西风凋碧树。独上高楼,望尽天涯路。”此第一境也。“衣带渐宽终不悔,为伊消得人憔悴。”此第二境也。“众里寻他千百度,蓦然回首,那人却在灯火阑珊处。”此第三境也。
这是清华导师王国维概括的为学之道:忍受求索之孤独寂寞,临高远眺,不为贫寒逆境而降低自己的格局;为求真理而不惜历经千辛万难,而独守孤寒不改初衷;勤奋砥砺,求索不辍,终将抵达真理的终点得到一片大光明的自在天地。
如果这个三段论适用于人生,将是多么完美。
犹如丰子恺的人生三层楼论,他说:“我以为人的生活,可以分作三层:一是物质生活,二是精神生活,三是灵魂生活。物质生活就是衣食。精神生活就是学术文艺。灵魂生活就是宗教。”
我们大多数人,在第一层楼,锦衣玉食,尊荣富贵,孝子慈孙。第二层楼,丰先生认为就是对学问艺术有兴趣的,有力气的爬到第二层楼去玩玩,那里充斥着文人、知识分子。本质上与第一层楼的人也无太大区别。
第三层楼探索灵魂,探索人生的究竟,生命的意义,不过碍于人生的尺度之短,能有此觉悟者便少之又少了。
丰先生认为能上第三层楼的,唯他恩师弘一法师。哎,这是何等高格?
王国维在人生的第二层楼获得了极大的成就,但他走不出纷纷扰扰的世间苦闷。
每读“人生三境界”,便会去想,“那人在灯火阑珊处”之后又如何?
王国维正是在这个境界获得大成就,也就是在丰子恺的人生第二层楼,遍揽无限风光之后,是否堕入了不知所从的困惑?
我多么希望寻到“那人”后,即使上不了丰子恺的第三楼,可不可以探索“三境界”后获得更高阔的人生第四境界,看破人生本质,抵达无欲无求而随缘而生的自由世界。身体的自由尚可贵,心灵的自由更弥珍。
但好可惜,以王国维这样的异禀天才,戛然而止于鱼藻轩下的水面。
六、萧条异代不同时
王国维的后代都没有被他培养专门去做学问。
在乱世之时,他认定做学问苦(包括精神的苦),谋生不易。他培养孩子去做专业人士以一技之长立世生存。前面��到他早逝的长子王潜明在海关工作,是铁饭碗。
而最秉承他学问慧根的是他的次子王高明。
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(王仲闻[前排右一,1901-1969],名高明,王国维次子)
原本,他也不令好学的王高明继续求学深造,而是让他中学毕业去做一份邮局的工作,这种工作也是铁饭碗有衣食保证。
后来他做到了民国政府北京邮局的一个不低的负责职位,一解放,他便是旧政府公职人员,被留用在某个小邮局卖邮票。
但他业余时间喜好研究词学,某种程度继承了王国维的衣钵,且十分精通此道。
他在五十年代遭遇坎坷,先是被打为“特务”,后又被邮局系统定为不宣布的“右派”,强制离职,以致一家生活无着。幸而北京中华书局看重他的所长,聘为“合同工”。
王高明先是为《全唐诗》审核标点,又为《全宋词》补充材料并审核全稿。
全凭自学成才的他真是不枉负乃父盛名,才学浑厚扎实,凡是有关唐宋两代的文学史料、宋词和宋人笔记方面的请教,他都可一一作答,被编辑部同事戏称为 “宋朝人”。
他本质也是个书生,钻进学问废寝忘食,平日他就住在出版社里,晚上还不辍读书写作。他完成的《李清照集校注》,蜚声学术界。
但文革之初,还是被中华书局解除合同回家了。
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(王仲闻[即王高明]校订的《全宋词》)
那时候他已经是六十几岁的老人,人生绝望,生存都无以为继,更被污以“特务”之罪被残忍批斗。
最终,这个最得王国维学问禀赋的人也以自绝的方式悲惨下世。
1969年的某日,他也去了颐和园,他可能想到了1927年6月2日父亲在鱼藻轩的情景。
那时候颐和园改名叫“人民公园”,大约连门票都不要,正是文革最疯狂的时期,他转了一圈,嫌人太多,乌泱乌泱的,跳水也未必真能死了,捞上来甚是难看,就回家服毒药自尽了。
父子两代人,都选择在一座美丽的园林 —— 颐和园来结束自己的生命,令人唏嘘。
王高明先生本是想老老实实、平平安安活完一生的,但老病穷途,世间迫害,被逼无奈而离开那个纷乱的世界。
生命只有一次,把生命活好活完整,让这唯一一次珍贵的人生不草率度过,虽然并不容易,虽然可能要在时代的污泥浊水中挣扎,虽然要忍受无数的苦痛折磨,但大多数人,即使不具体文化知识素养,但尚能将“活着”作为天理来遵从。如老子语:“故道大,天大,地大,人亦大。域中有四大,而人居其一焉”。
天地之性人为贵。
可是,繁复庞杂的知识,与朴素的生命之道,是否存在畅达的通衢?
【注】本文原标题《鱼藻轩,永远不能抵达的彼岸》。
(陆波,律师,专栏作家。)
原文链接
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kazutakakitagawa · 6 years ago
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ケイニク【鶏肉】~カルノシンで筋肉を強く。ビタミンKで骨を強く~
鶏はキジ目キジ科の鳥類。
祖先はアジアから東南アジアにかけて生息する「赤色野鶏」だとされています。
これを人間が家畜化し、牛、豚と��んで代表的な家禽とし、その肉はケイニク(鶏肉)と呼ばれて日常的に食べられるようになりました。
あまり体脂肪を含まない鶏肉はヘルシーな食材として人気があります。
日本には、弥生時代に家畜の豚と共に伝来しました。
「明け方の―ともろともに起きよとたたく水鶏(くひな)なりけり」と詠まれているように、朝の到来を告げる「時告げ鳥」としても利用されていました。
「時告げ鳥」としての役目を終えた老鶏の肉を食べていたそうです。
アメリカでは、「風邪を引いた時にはチキンスープを飲むと治る」と一般的に言われています。
骨付きもも肉、玉ねぎ、セロリ、ニンニクを塩胡椒で下味をつけて炒めた後、水、さつまいも、カブ、ニンジン、パスタ、ローリエ、オレガノ等のハーブ類、小麦粉少々を鍋に入れ…
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bearbench-tokaido · 8 months ago
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五篇 下 その四
東海道を離れ伊勢の参宮道に来ている弥次郎兵衛と北八。 雲津の旅館に泊まる。
旅館の亭主である胡麻汁が女中になにやら言って部屋を出て行くと、残った女中が側で給仕をしてくれている。 弥次郎兵衛が、 「まんざらじゃねえ。」 と言うと、北八が、 「いい女だ。しかしここじゃあ、お前が先生だし。おとなしくしておこう。」 と、自分の膳を見てみる。 膳の上には平たい椀がありそこには、コンニャクが盛ってある。 その手前には、みそが入った小皿がある。 さらに奥のほうに大福餅ぐらいの大きさの黒いものがのっている。
二人は箸を手に持ったまま顔を見合わせ、弥次郎兵衛が小声で、 「おい、北八。この皿にある、丸いものは何だろう。」 と、箸で指し示す。 「そうだな。なんだろう。」 と北八は、箸でつついてみる。 その感触ではどうやら硬そうで、とても箸でつかめるほどではない。 よくよく見ればどうも、ただの石のようだ。 二人は、びっくりして、 「こりゃ石だ。」 と、北八が言うと、 「な、なに。石なものか。のう、女中さん。」 と、弥次郎兵衛が、近くにいる女中に問いかける。 女中は当然のことのように、 「それは、石でございます。」 と言うと、北八が、 「それみろ。」 と、言って自分の前にある石を突いてみる。 いっこうに食べようとしない二人に手持ちぶさたの女中は、 「コンニャクのおかわりはどうですか。」 と、問いかけ、弥次郎兵衛が、 「ああ、そうだな。」 と、言うと、部屋を出て、台所の方に行ってしまう。
弥次郎兵衛は北八と二人きりになると、 「なんだこりゃ、ばかばかしい。どうやって、石を食うんだ。」 北八も、難しい顔をして、 「いやしかしそれでも、食べる方法があるんだろう。 でなきゃわざわざ、名物���いって出さないだろう。 待てよ。さっきここの名物って言ったのは、この石のことか。」 弥次郎兵衛は、鼻で笑うと、 「そんな話、聞いたことがねえ。」 「いやまてよ。江戸で団子のことを『いし』と言うから、こりゃもしかすると団子じゃねえか。」 と、北八が、またまた箸で突いている。 弥次郎兵衛は、 「ははあ、なるほど。そういうこともあるかもしれない。 まさか、本物の石じゃ、あるまい。」 と弥次郎兵衛も、箸で突いてみる。 しかし、どうやってみても、やっぱり石だ。 これは、不思議だと、キセルを取り出し、その雁首で叩いてみた。 「かっちり、かっちり。」 と、乾いた音がする。 「どうでも、石だ。こりゃどうして、食うのかと聞くのもしゃくだが、どうもわからねえ。」 弥次郎兵衛は膳の前で腕組みしている。
そのうち胡麻汁が、台所からやってきて、 「これは何もござりません。よろしうめしあがりませ。」 と、おかわりのコンニャクを盛って来た女中を促す。 「いあ、石が冷めてはおりませんか。 こりゃこりゃ温い石と、替えてあげなさい。」 と胡麻汁が言うと、二人ともいよいよ、ぎょっとした。
しかし、この石の食い方が分からないと思われるのがいやで、弥次郎兵衛はこれを食べたという顔つきで、 「いや、もうおかまいなさるな。石は、もう十分だ。 なんとも、珍しいものを賞味いたしました。」 と、箸をおくと、 「江戸の方でも、よく、小砂判を唐辛子醤油で煮付けたのや、煮豆などのように焚いて食べることがございます。 それに、また、墓石なども嫁をいびる姑に食べさせろとか言いますし。」 「・・・」 「実は、私もずいぶん好物でございます。 このたび、駿河の府中に逗留いたしたとき、馬蹄石をすっぽん煮にして振舞われたのだが、その時あんまりうまいので、四つも五つも食べました。」 「・・・」 「ところが腹が、重たくなって立うとしたところがどうやっても立ち上がれない。 しかたがないので、両方の手を天秤棒に肩あてして縛り付けて、かついでもらってやっとのことで便所にいきました。 ここの石は格別、風味もいいですから又、食べ過ぎたらどんなにご厄介になるかと、お気の毒でございます。」
黙って聞いていた、胡麻汁は、 「いや、それは、とんでもないことだ。 石を食べられるというのは、たいそう、歯がお達者なのでございますね。 しかし、火傷などはなさいませんか。」 と、心配そうに言う。 「それは、また、どうして。」 と弥次郎兵衛が、問いかけると胡麻汁は、 「いやあの石は、焼け石でございます。 すべてコンニャクというものは、水気のとれぬものでございますから、あの焼け石にておたたきなさると、水気が取れてかくべつ風味がよござります。 そのための焼け石でございます。食べるのではございませんわいな。」 「ははあ、なるほど。わかりました。」 と、やっと理解できて、弥次郎兵衛は、北八を見る。
胡麻汁は、 「まあ、そうして、あがって御さんなされ。これ、おなべよ。 石が、熱くなったら持って来なさい。早く。」 と、女中に言うと、皿に焼けた石をのせて、女中が冷めた石と交換していく。 弥次郎兵衛と北八は胡麻汁の言ったとおりに、かのコンニャクをはさんで焼け石の上に置くと、じゅうという音がして水気がとれる。 それをみそにつけて食べると、格別うまい。 二人は、感心している。
「まことに珍しい料理。まったく、感心しました。 それにしてもよく、このように同じ大きさの石がそろいましたな。」 と弥次郎兵衛が、問いかけると、 「いやそれは、あちこちを探し回って、蓄えておくんです。 どれ、お目にかけましょう。」 と台所に立って行くと、なにやら箱を抱えて戻り、 「ご覧下さいませ。二十人分は所持いたしております。」 と、胡麻汁は、箱の中を示す。 二人は、感心しながらも、なんだかおかしくて笑い出す。 その箱の横には何か書いてあるので、読んでみると、 『コンニャクのたたき石、二十人前』と、書いてある。
そのうち、食事も済んだ。 それを待っていたかのように、近所の狂歌よみが、おいおいやってきた。 胡麻汁が、その連中の一人をみて、 「や、これは、横額禿揚(よこひたいはげあがり)さま。 さあさあ他の方も、こちらへどうぞ。」 と、その連中を座敷に通す。 「は��、これは、十返舎先生、初めてお目にかかります。 私は、冨田茶賀丸(とんだちゃがまる)と申します。 それから、次は、反歯日色(そりっぱひいろ)、水鼻垂増(みずばなたれます)、金玉過雪(きんたまかゆき)、いづれもお見しりおききださりませ。」 と、紹介する。
胡麻汁はそれが、済むと、 「ところで、先生。御面倒ではありましょうが、扇子か短冊に先生のご自慢の歌を是非、したためていただきたい。 お願いできますでしょうか。」 と、短冊を突きつけられた。 弥次郎兵衛はもっともらしくそれを受け取ると、何か頭の中に浮かんだことを書いてやろうと考えたのだが、どうも自分が道々詠んだつまらない歌しか思いつかない。 仕方がないのでこれまで、江戸で聞いたことがある人の歌を書くことにした。
さらさらと弥次郎兵衛が書いて胡麻汁に渡すと、 「これは、ありがとうございます。」 といただき見て、早速詠み始める。
「お歌は、 『ほととぎす 自由自在に きくさとは 酒屋へ三里 とうふやへ二里』 はあなるほど、どこかで聞いたことがあるような歌だ。」 と怪訝な顔で、もう一つの短冊を詠む。
「こちらの、お歌は、 『きぬぎぬの なさけをしらば 今ひとつ うそをもつけや 明六つのかね』 いやこれは、三陀羅大人のお歌ではございませんか。」 と胡麻汁は、びっくり。
弥次郎兵衛は、平気な顔で、 「なに私が昔、読んだ歌だ。しかも、江戸で大評判になったんだ。 誰も知らないものはない。」 とすましている。 胡麻汁は、困惑気味に、 「いやそう言われても、去年私がお江戸に行った時に、三陀羅大人、葱薬亭大人などお目にかかりましてそのとき、短冊もいただいて参りました。 それ、御覧なされ。そのびょうぶにはってあります。」 と、指差すので、弥次郎兵衛は、振り返ってみる。
すると、そこにあるびょうぶに三陀羅と署名して、弥次郎兵衛が書いたのとおなじ歌が書いてある。 北八は、おかしく思ったが、気の毒にも思ったので、 「いや、私の先生は、そそっかしくてがさつな性格。 人の歌だとか自分の歌だとかの区別は全然気にしない人でございます。」 と、言って、弥次郎兵衛に、 「おい弥次さん。いや先生、これまで道中で詠んだ歌を書けばいいものを。」 と、小さな声で言う。
弥次郎兵衛は失敗したかと思いながらも、根っから細かいことを気にしない男なのでいけしゃあしゃあとして、又、別の短冊に道々詠んだ歌を書きだした。
つづく。
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bearbench-tokaido · 8 months ago
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五篇 下 その三
東海道を離れ伊勢の参宮道に来ている弥次郎兵衛と北八。 上野の町で、一人の男に話しかけられた。
「突然ですが、あなたがたは、お江戸の方でございますかな。」 弥次郎兵衛が、 「ああ、そうだが。」 と、答える。その男が、 「私は白子辺りから、あなた方の後ろをなんとなくついてまいりましたが、道々の御狂歌を承りましておよばずながら感心いたしました。 とても、上手でございますな。」 と、褒める。 「いやなに。口から出任せでございます。」 と、弥次郎兵衛はまんざらでないように答えると、 「いや、驚きいりました。 ついこの前、お江戸の尚左堂俊満(しょうさどうしゅんまん)先生が、当地へお出ででございました。 あの先生も素晴らしかったが、あなたもさぞ名の通ったお方なんでしょうね。」 と、その男はなおも聞いてくる。 「はあ、なるほど。さようさよう。」 と、弥次郎兵衛は尚左堂俊満という名前を、なんとなく聞いたことがあるなと思いながら答える。
「それで、あなたの御狂名は、何でございます。」 弥次郎兵衛は、 「私は、十返舎一九と申します。」 と、江戸で人気の滑稽本の作者の名前を言う。 「ははあ、御高名は、かねがね承っております。 あなたが、十返舎先生でござりますか。 私、南瓜の胡麻汁ともうします。さてさて、いい所でお目にかかりました。 この度は、御参宮でござりますか。」 胡麻汁というこ男は、ちょっとびっくりして、聞いてきた。 弥次郎兵衛が、 「その通り。このひざくり毛という著述の事でわざわざ出かけました。」 と、適当に答えている。 「ああ、あれですか。あれは、傑作でございます。 ここへお越しになる道すがらも、吉田、岡崎、名古屋辺りの俳諧や狂歌をやる連中が、さぞうるさかったんでしょうね。」 胡麻汁が、聞いてくる。 「いや。東海道は宿場ごとに残らず立よるつもりですが、顔を出すと引きとめられまして、饗宴になるので気の毒��すから、みな素通りしました。」 と、これまた、弥次郎兵衛は、適当に答える。
「それにご覧の通りわざとこんな小汚い身なりをして、やは��神社仏閣に参詣する巡礼の旅行者のようにみせかけ、気楽でのんびりと風雅を第一と出かけました。」 「それは、お楽しみでございますな。 そうだ、私の宅は雲津でござりますが、どうぞ、お招きしたい。」 と、胡麻汁が、誘ってきた。 これは、面白くなってきたと、弥次郎兵衛が、 「ご迷惑でなければ、それはありがたい。」 と、答えると、 「まことに御珍客。近所の狂歌連中にも、ぜひお引き合わせしたいのですが。」 と、胡麻汁は、何かを考えている様子である。 「まあ、今夜、一泊していただくとしよう。 全く、不思議な御縁でいい人にあったもんだ。」 と、先にたって歩き出した胡麻汁は独り言を言ったあと、 「ところでここが、小川と言うところで饅頭が名物でございます。 一つ食べて、行きませんか。」 と、誘う。
しかし、弥次郎兵衛は顔をしかめて、 「いや、饅頭は懲りています。すぐに、参りましょう」 と、さっさと通り過ぎてながら、一首詠む。
名物の うまくて名高い 饅頭に くいつかんのは いかにせんかと
その歌を聞きながら、胡麻汁も慌ててついて行く。 それからほどなく、津の町の手前の高田の御堂についた。 右の方に見えるのが石井殿だ。
まな板の 上にて鯉の おどるさま これ佐用姫の 石井でんかも
左のほうには、如意輪観音堂もある。 また、国府の阿弥陀というのもある。
ここは上方から参宮に来た人が落ち合うところなので、往来はことに賑わしく、なかでも都の若い人々は普通の衣服の上にそろいの浴衣を着て、芸者のような格好をしている。 そのうえ、飾り立てた荷台を載せた馬をひきながら、歌を歌っている。 「ちちち、ちんちん。えい~い、ござれ。都の名所を~、見せよう~。 祇園、清水、やれ音羽山~。やあ、とこな��~、よういやさあ。 ありゃあこりゃあ~、このなんでもせえ~、ちちち、ちんちん、えい~い。 地主権現の~、さくらにまくを打まわし~、霞がくれに~もの思わする~。 やあとこなあ、よういやさあ~、ありゃやこりゃや~。このなんでもせ~。」
弥次郎兵衛は黙ってその連中を見ていたが、 「おい、北八。見てみろ。すごい別嬪が見える。」 と、急に、北八のそでを引っ張る。 胡麻汁が、ポカンと見ている弥次郎兵衛と北八に、 「ありゃ、みな京都の連中じゃ。 あんなに立派な身なりをしていても、金は一文も使わねえ。」 と、言い捨てる。
その連中の一人が、胡麻汁に近づいてきた。 「すいませんが火を一つ、貸してくれませんか。」 「さあさあ、お点けなさい。」 と、胡麻汁はくわえていたキセルを差し出すと、その京の男は自分のキセルで吸い付け出した。 「ぱっぱっ。」 あんまり長いようなので胡麻汁が、 「まんだ、点かんのかいな。」 と、問いかけるが、京の男は、 「ぱっぱっ。」 と、平気で、吸っている。 胡麻汁が、 「なんじゃ、お前のキセルには、煙草が入っていないではないか。 はあ、わかった。吸い付けるふりをして、人の煙草を吸っていたな。 や���んかい。」 と、自分のキセルを取り上げる。
「ほらお江戸の先生。ご覧になりましたか。 京の連中はとんでもないケチな連中だ。 ところで先生。さっきの連中のせいで煙草がなくなった。 もう一服ください。」 弥次郎兵衛は、あきれたように、 「京の者をケチだというが、お前もさっきから、俺の煙草ばかり吸っている。」 と、ふところから煙草を取り出す。 胡麻汁が、したり顔で、 「それは当然。私は今、煙草入れを持っていません。」 と、弥次郎兵衛の煙草を自分のキセルに詰め始める。 「忘れてきたってことかい。」 と、弥次郎兵衛が、聞くと、 「いいや、忘れたわけじゃなくて、 本当のことをいうと、煙草入れを持っていないんです。 その訳は私は、えらい煙草好きで五分おきに吸いつけるくらいだから、こりゃ自分で買って吸ってしまってはたまらんと思いまして、それから煙草入れはやめてキセルだけ持ち歩いております。」 と、胡麻汁は、自慢げである。 「それで、人のばかり、吸っているんだな。」 と、弥次郎兵衛は、すっかりあきれている。 「まさに、その通り。」 「そりゃ京の連中に輪をかけて、お前がケチというもんだ。」 と、胡麻汁が自分のふところに入れようとしていた煙草入れを、ひったくるように取り返した。 胡麻汁は、 「はあ、そうかいな。ははは。」 と、笑って、 「ところで少々、遅くなったようだ。急ぎましょうか。」 と、足を速めて行く。
周りは薄暗くなってきて、月もはっきり見えるほどになってきた。 この辺りから、良洲(からす)の宮へいける道があると聞いて、
照わたる 秋の日本 ならば今 うかれまいらん 鳥御前に
などと一首詠む。 やっと雲津について南瓜の胡麻汁が自宅に案内した。 どうやら旅館のようだ。 運良く客は泊まっていないようで奥の間に請じ入れ、かれこれともてなしてくれる。
北八は、弥次郎兵衛が自分の名前を偽っていて、どうせ又酷い目にあうのだろうがそれも面白いと、共々奥の間に上がりこんだ。 やがて湯にも入ってしまい、ゆうゆうと座敷に座っていると、やがて亭主の胡麻汁がやってきて、 「これは、おくたびれでございましょう。ようこそお出でくださいました。 しかし折あしく、この頃は悪い天気で時化が続いておりまして、いいお魚がございません。 それで当地では、コンニャクがうまいので、まあこれでもお召し上がりいただこうかと申しつけておきました。」
弥次郎兵衛は、 「もう、おかまいなされるな。」 と、主人をねぎらうと、 「そういえばこの者をまだ、紹介しておらなかったな。」 と、北八を指差す。 「そういえばそうでした。あなた様は。」 と、胡麻汁に問いかけられて、 「私は十返舎の秘蔵弟子、一片舎南鐐と申します。 ふしぎなご縁で御やっかいになります。」 と、北八は、口から出任せを言う。 ちなみに、小判一両の八分の一を南鐐(なんりょう)といい、これをまた一片とも言う。
胡麻汁はちょっと首を傾げたが、北八の話は聞き流して、 「いやいや、何にもないですから、構いたくても構えませんって。 じゃ先生、ごゆっくり御くつろぎください。」 と、弥次郎兵衛に言う。
それを待っていたかのように入ってきた女中が、 「お��事を、お持ちしました。」 と、二人の前に膳を据えると、 「御ゆるりと、めしあがりませ。」 と、ならべられた膳を見回し満足そうにうなずき、女中になにやら言って部屋を出て行った。
つづく。
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bearbench-tokaido · 8 months ago
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三篇 上 その二
弥次郎兵衛は、首を振りながら、 「せっかくだが、さっき酒を飲んで来た。言葉だけもらっとこう。」 と、先に行こうとする。 親父は、立ち上がると、弥次郎兵衛の前に立ちふさがるように、 「あれま、せっかく私がおごりますというのだから、 まあまあ、ぜひ一つ飲んで行ってください。 こりゃこりゃ、ご亭主どの。美味い酒を出してくんな。」 その言いように、弥次郎兵衛は、考えているが、北八は、先程の事が気になるのか、 「いや、お志は、ありがたいが結構。さあ、弥次さん、先へ行こう。」 と、親父の横を摺り抜けようとする。 親父は、その北八の様子に、 「はて、こりゃ、情けのない人だ。 すぐにお詫びの席を作るから、ちょっと、寄っていきなさい。」 と、無理に弥次郎兵衛と北八の手をとって引きずり込む。 二人とも飲める口だから、酒と聞いて、少しは心を引かれていた。
そのうち、弥次郎兵衛が、 「いいわ、北八、一杯飲んで行こう。 しかし親父さん、お前さんのおごりじゃ気の毒だな。」 と、親父の方をみると、 「いやいや、遠慮なさらずに。ご亭主どの、ご亭主どの。 肴もたくさん出してください。 でも、ここは、あんまり端こだな。奥座敷へ行きましょう。」 と、言うと、その様子を見ていた茶屋の女中が、 「さあさあ、こちらへどうぞ。」 と、奥に案内していった。
三人は、中庭からまわって、茶屋の奥座敷の縁側にわらじのままあぐらをかく。 そこへ、女中が、出しかけた銚子と盃を持ってきた。 弥次郎兵衛が、 「さあ、親父さん、飲みなせえ。」 と、勧める。 「はいはい、それなら、毒見をしましょう。 おっととと。うん。いい酒だ。さて次ぎは、お若いのへお返ししましょう。」 と、親父は、ニコニコしながら北八に酒をすすめる。 北八は、差し出された銚子を横目で見ながら、 「いや、俺は酒よりか腹がへったな。」 北八が、ついそう答えると、親父は待ってましたとばかりに、 「ああ、腹がへったか。それ、飯を食べなさい。」 と、答えるのに、北八は、天邪鬼で、 「いや、やっぱり酒にしよう。」 手元の杯をいっきに飲み干す。 親父がその言いように、ちょっと顔をしかめたが、すぐ元の通りにニコニコしている。 「かあ、うまい酒だ。で、この吸物はなんだ。 たたみ鰯のせんば煮か。大方この後は、かぼちゃの胡麻汁か、さつまいもの胡麻あえでも出るんだろう。安上がりだ。」 北八は、すっかりくつろいでいる。
弥次郎兵衛も、つらて料理を見た。 「いいや、悪くない。ほれ、その海老を見てみろ。こう跳ね返ったところは、お寺の天井に描いてある天女みたいに反り返っている。」 「いや、この海老は、豊後節で、天女のことかいなと反り返る場面みたいだ。 ハハハ。ところで、親父さん、一杯飲みなせえ。」 北八は、思い出したと言う風に、親父に酒をすすめる。 「いやいや、あんたにお返ししましょう。 それにしても、肴がこない。こりゃ、姐さんや。 さっきから、手がへし折れるほど、叩いて呼んでいるに、どうして、肴がでてこない。」 と、親父が叩く手の音で、のこのこやってきた、女中に言うと、 「はいはい、ただ今、お持ちします。」 と、ようやく大平椀と肴を持ってくる。 親父は、その肴を見ながら、 「おお、やっときたか。どれどれ。」 と、大平椀を手にとり、 「なんだこの、大平は。たまごのぶわぶわか。」 と、いかにも、残念そう。 弥次郎兵衛も、その椀を取り上げると、 「たまごを使った実の入らない茶碗蒸しか。 だから、遅かったんだ。おおかた、鶏がたまごを産むのを待っていたんだろう。」 北八は、魚をつつき、 「こいつは無塩だ。珍しいもんだ。」 と、言っている。
この時代は冷蔵設備などないので、生魚でもほとんど塩をしてある。 ところが、この魚は新鮮で、塩をしてないと褒めたのである。
親父は、なおも勧める。 「たんと飲んでください。あなたは、私の命の恩人だ。 さっきは、よく許してもらえたもんだ。」 北八も酒が入ってきて、気分がよくなって来た。 「いや、俺も、つい虫のいどころがわるくて、言いすぎた。まあ、許してくれ。」 弥次郎兵衛も 「まあ、これで万事丸く収まったってことだ。 どうせ、こいつはどんなものにも味噌をつける男だから、こんなことはよくある事だ。」 と、ただ酒を飲んでいるから、弥次郎兵衛も親父にお世辞をいいながら、最初の遠慮も忘れて、がぶ飲みしている。 そのうちに台所から、さらにいろいろな料理が出てくる。
さすがにずうずうしい二人も、少しは親父が気の毒になってきていたが、料理が次々に出てくると、それも忘れて、また飲み食いしだした。 すっと、親父が小便にと、行ってしまうと、北八が、 「ほれ、弥次さん、お前が払うべきここの金を俺によこしなせえ。 俺が、あの親父を、いじめたから、お前もこんなに飲み食い出来たんだ。」 それに答えて、弥次郎兵衛は、 「ふざけるな。まあ、でも、悪くはないが。 あの親父が戻ってこないうち、さあ、飲んでしまおう。」 「そうだな。じゃ、この茶碗に酒をそしでくれ。 おっとと、きたきた、きたさの、きたさの、讃岐の金毘羅、たかが高瀬の船頭の子じゃもの、おさへてどうする、ジャジャ、ジャンジャン。」 と、がなりたてる。
弥次郎兵衛も 「えええ、山で切り倒した、松の丸太のようでも、妻とさだめたら、まんざら憎くくもあるまいし、やっとさのせ、やっとさのせ。 面白い、面白い。しかし、あの馬鹿な親父はどうした。」 と、いくつかのはやり唄をごっちゃにして怒鳴っている。 ここで、北八、例の親父の事が急に気になって、 「本当に、長い便所だ。 もし姐さん、ここにいた爺さまはどこへ行ったかしらないか。」 と、女中にとうと、 「たしか表のほうへ。」 と、店の表の方を伺う。 「はて、これは、どうかな。おかしいぞ。」 と、待てども待てども、この親父はどこへ行ったか、いっこうに帰ってこない。 二人は、慌てて、便所に覗きに行くが、親父はいない。 北八、はたと気がついて、 「もし姐さん、今の親父が、ここの飲み食いの払いをして行ったか。」 と、女中に問い��けると、 「いいえ、まだいただいていません。」 という返事。 二人は、顔を見合わせている。
弥次郎兵衛は、思わず、 「やあ、やあ、やあ。」 と、唸ると、 「一杯くわせやがったな。追っかけて、ぶちのめそう。」 と、北八、飛んで出てみたが、どっちへ行ったやら、 いっこうに雲をつかむようで、ことに親父はこの辺りの者だから、勝手知った脇道にでも入ったらしく、さらにゆくえが知れない。 北八はしょげて帰り、 「弥次さん、どうも知れねえ。とんだ目にあった」 と、がっくりと肩を落として、帰ってきた。 「仕方がねえ。お前が、この払いをしろ。 あの親父がとんだ食わせ物で、お前に仕返しをしたってことだな。」
仕方なく北八が、勘定を払おうとして、弥次郎兵衛に問い掛ける。 「それでも、どうして、俺が一人で払わなければならないんだ。いまいましい。 せっかく酔った酒が、みんな醒めてしまったわ。」 北八が、ふところから金を取りだし、 「まあなんにしろ、いくらになるね。」 この茶屋の亭主に問うと、 「はいはい、九百五十文でございます。」 と、言う返事。 北八は、苦り切った顔で、しぶしぶ金を払った。
「詐欺にあったと思って、払おう。ここで、嫌だと言っても、しかたがないし。」 「それにしても、あの親父は、なかなか気の利い��やつだ。 ほれ、北八、お前のその顔で一首浮かんだ。」 と、弥次郎兵衛が、一首詠む。
御馳走で 思いのほかに 払わされ 腹もふくれて 面もふくれた
北八、ふくれっつらで、 「へん、いまいましい。まったく、素早い親父だ。」 と、これも、一首詠む。
有り難い かたじけないと 礼いうて 一っぱい食べる 酒の御馳走
田舎者の親父だと、侮っていたが、素早く立ち回れるはずの江戸っ子二人が、反対にとんだ仕返しをされたのをおかしがった。
つづく。
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bearbench-tokaido · 9 months ago
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初篇 その十四
北八は、苦々しい顔で、 「ふん、今夜は、一段とつまらない。やけどをするは、金は取られるは、その上、一人で寝るなんて。本当に今日はついてない。」 「ハハハ。まあ、そのうちお前にもいいことがあるさ。 なんか、どきどきしてきた。 ハハハ��おや、北八、もう寝るのか、もっと起きていたらどうだ。」
北八は、弥次郎兵衛の言葉にも耳をかさず、ふて寝する。 さて、残された弥次郎兵衛は、どきどきしてどうも落着かない。 「それにしても、遅い。」 さては、先に金をやったのは、失敗だったか。 と、気が気でなくなり、たまりかねて、やたらに手を叩き、旅館の者を呼んだ。 やって来たのは、この旅館のおかみだ。 「はて、お客さん。こんな時間にどうしました。」 弥次郎兵衛は、それでも、 「いや、おかみさんでは、わからないだろう、さっきの女中に、ちょっと頼んでおいたことがあるんだが、呼んで来てくれないか。」 おかみさんは、ちょっと考えて、 「ああ、あなたがたの世話をしていた女中は、別の旅館から応援で来てもらっていたもので、もう、帰らしました。」 「ああ、そうか。そんなら、まあ、いいか。」 「はい、じゃ、お休みなさいませ。」 と、がっかりした弥次郎兵衛を尻目に、おかみさんは台所の方へ行ってしまう。
この様子を、たぬき寝入りしていた北八が聞きつけて、 「ワハハハ。」 と、思わず笑いだす。 「ふん、畜生め。何がおかしい。」 「ハハハ。いや、これで、安心して寝られる。ハハハ。」 「勝手にしやがれ。」 と、毒づく哀れな弥次郎兵衛は、北八がしくんだこととも知らないで、女中にやった金がもったいないやら、恨めしいやら、で、結局、独りで寝るはめになった。 この様子をおかしく見ていた北八は、一首詠む。
胡麻塩の 弥次郎だまされ 塩をふく 女はこわいと 塩をまく
そのうちに二人とも寝てしまった。
一夜明けて、遠くの寺の鐘の音が聞こえる。 二人は、起き出して、そこそこにしたくして旅館を出れば、今日はかの有名な箱根八里越えである。 道も心なしか上り坂になってきたようだ。 石の高く飛び出た石畳の道を行けば、風祭の里(小田原市)も近くなって、弥次郎兵衛は一首詠む。
人の足に 踏めど叩けど 箱根山 漆塗り箱なる 石高の道
さて、ここ湯本(箱根)の宿場というのは、両側の店の作りがきらびやかで、どこの店でも美人の店員が、二、三人でて、名物の箱根細工の挽き物を売っている。 北八は一軒一軒覗いて店員をみると、 「おやおや、みんな病気なのかね。どいつもこいつも、顔と手が真っ白だ。」 「せっかくだ。何か買っていこうか。」 弥次郎兵衛も店のぞいてまわり答える。
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<飲まず食わず> 「いらっっしゃいませ。お土産はどうですか。」 の声につられて振り向くと、そこには弥次郎兵衛の好みの女店員がいる。 それとばかりにこの店に入ってみる。 「これこれ、すまんが、そこにあるものを見せてくれ。」 と言うのに、その女店員は、知らん顔で、他の客の相手をしている。 と、奥から婆さんが走り出てきて、 「はいはい。これですか。」 と、弥次郎兵衛が指し示したものを取り上げる。 弥次郎兵衛は、女店員ではなくて、婆さんが対応に出て来たのがきにいらない。 「ええい、それじゃね。おい、そっちのを見せてくれ。」 と、わざと、女店員の側をさしていう。 「はいはい、これですか。」 器用に立ち回って、先程の婆さんが、弥次郎兵衛の指し示したものを取り上げる。 弥次郎兵衛は、舌打ちして、 「違う、違う、それでもねえ。ほれ、その店員が手に持て持っている物だ。」 それで、やっと、この女店員が弥次郎兵衛に方を向いた。 「はいはい、お煙草入れでございます。」 と、弥次郎兵衛は、やっと、女店員と話が出来たことがうれしくて、 ニコニコしながら、 「そうそう、それのことだ。で、それはいくらだ。」 それに答えて、その女店員、 「はい、三百文でございます。」 弥次郎兵衛は、まだニコニコしたまま、 「それは、かなり高い。百文でも、高いと思うが。」 と、いうのにも、女店員動じず、 「あなた様の言いようは、ひどいです。 私どもは、お客様があっての商売、高い値段は言ってはおりません。 それだけ、いいものを売っているのでございます。」 と、弥次郎兵衛をじろりと見る。弥次郎たちまちデレっとなって、 「そんなら二百文でどうだ。」 「男らしくもない。もうちょっと、おだしくださいませ。」 と、おかしくもないはずなのに、満面の笑顔を作って、 弥次郎兵衛をまたじろりと見る。 弥次郎兵衛は、そんな女店員の様子にすっかりのせられて、 「そんなら三百、三百文でどうだ。」 「まだまだ、もっとでございますよ。オホホホ。」 と、いう、女店員の様子にますます乗せられてつい、 「ええい、面倒だ。四百文だ。これ以上は出せない。」 と、四百文をそこに放り出して煙草入れを買い取る。 弥次郎兵衛は、満足げに 「北八、さあ、行こうか。」 それを見送る女店員。 「ありがとうございました。また、きてください。」 と、手を振っている。
その様子をずっと見ていた北八は、 「ハハハ。初めてみた。三百の物を四百で買うとは、珍しい。」 それに答えて、弥次郎兵衛は、得意満面で、 「それでも惜しくはねえぞ。あの娘は、俺に気があったみたいだ。」 「いいきなもんだ。ハハハ。」 「それでも最初から、おれの顔ばかり見ていたぞ。」 「当たり前だろう。あの娘の目を見たか。ありゃ、斜視だ。 目線があってなかったろ。ハハハ。」
「おっと、あの音はなんだ。」 と、北八は、僧侶がならす杖の先についた鐘の音を聞いて言うと、 弥次郎兵衛が、目を凝らしてみて、 「どうやら、賽の河原へついたようだ。」 と、言いながら、続けて一首詠む。
辻堂は さすがに賽の かはら屋根 されども鬼は 見えぬ極楽
これは、普通、道端の辻堂は、みすぼらしい草屋根なのに、ここでは当時なら贅沢な瓦屋根だったのを、賽の河原とかけたのである。 それに答えて北八も一首詠む。
お茶漬けの 賽のかはらの 辻堂に 煮しめたような 形の坊さま
その先に、あの箱根の関所がある。そこも、手形のおかげで難なく通れた。 箱根の峠の宿場に旅館を見つけると、二人は箱根まで来たことを祝して、よろこびの酒をくみかわした。 で、弥次郎兵衛が、一首詠む。
春風の 手形をあけて 君が代の 戸ざさぬ関を 越ゆるめでたさ
これで、初篇は終わりです。
二篇に続きます。
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