Tumgik
#岡山空襲
elle-p · 4 months
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Scan and transcription of the Persona 3 part of Newtype Magazine February 2016
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春、夏、秋を経て冬、理が出す答えを見届けて
監督 田口智久
死を見つめる季節のフィナーレに
第1章でコンテ、第2章で監督を務めてこられた劇場版「ペルソナ3」ですが、ファイナル・シーズンである第4章は、どのような気持ちで臨んだのでしょう?
田口 第3章で自分が監督としてかかわっていない劇場版「ペルソナ3」を見ることができたのが、刺激になりました。自分とはまったく違う方法論で構築されていて、僕がやったら確実にこうならないですし、なんというかジェラシーのようなものを感じまして。ああ、ペルソナって、こういうふうにつくることもできるんだ、と。それを受け止めることができたからこそ、第4章では、自分のやり方を突き詰めたフィルムにしなくてはと思いました。あとは、やっぱりフィナーレということでのプレッシャーが大きかったです。
第4章の物語の関となるのは?
田口 理と綾時の関係性ですね。そこヘシャドウの母体であるニュクスが襲来したり、それに伴ってみんなの心がダウナーになって⋯⋯という展開で、ずいぶん重いものになっています。でも、みんなが悩んでいる部分にしっかり尺を取って描いているので、映画ならではの見せ方ができているのでは、と思います。
理にスポットが当たっていきますが、どのように描きましたか?
田口 第3章に、理が旅館の池に落ちて笑うシーンがありますけど、あの理を経ての理をしっかり追っていこうと考えていました。今作では、抱えきれないほどの絶望を前に、悩み、立ち止まってしまうというところまで、みんなが落ちてしまうんですけど、そのなかで理が見つけ出す答えというのが、全4章通してのテーマでもあり、象徴的なセリフになっています。そして、それは、第3章で笑った理がいなければ、たどり着けなかった答えなんじゃないかな、と。
それから、綾時とアイギスも、重要な存在ですね。
田口 すごく極端な⋯⋯本当に超極端な言い方ですけど「綾時と理は両想い。アイギスは理に片想い」っていうのを、こっそり頭の片角に置いてました(笑)。もちろん僕独自の解釈なので、いろんなとらえ方をしてほしくもあるのですが。ただ、そうやって、アイギスがヒロイン然としているわけではないからこそ、ペルソナならではの仲間感が出る、というのもあるんですよね。
理と綾時に重点が置かれていくとなると、その二役を演じられている石田彰さんのアフレコもすさまじいものになったのでは。
田口 石田さんだけ別の週に理以外の綾時を中心とした声を録らせていただいてから、全体アフレコの週に理としてみんなといっしょに録らせていただいた感じなんですけれど、本当にすばらしかったです。演技に対するストイックさが本当にプロフェッショナルで、ご自身で「今のは少し綾時が出てしまったから」とリテイクを申し出てくださったり。
全体的にも、とてもスムーズなアフレコになったそうですね。
田口 圧倒的にスムーズでした。特に今回は静かなシーンが多くて、感情的にセリフを吐くような場面はほとんどないんですけど、その淡々とした空気感を成立させるのは難しいはずなのに、自然にスッとやってしまえるのがこのチームの方々の成せる技。こんなに研ぎ澄まされた現場は、なかなかないのではないかと。
細かな心情描写という意味では?画づくりにもこだわられたのでは?田口監督の描き出すダウナーな情景描写が楽しみです。
田口 カッティングが終わった後に、編集さんに言われたひと言が「暗っ!」でしたからね(笑)。刺されて死ぬとか大惨事が起こって死ぬとかのサスペンス的な死ではなくて、非常に観念的な死についての物語なので、精神的にどうやられていくかというのを、どう表現するかが課題で。光や色味の演出であったり、降ってくる雪の量で表現していきました。アニメで雪が降りつづけている作品もあまりないんじゃないかと思うんですけど、心情とマッチさせたいなあというところで、力を入れています。作画もすごいアニメーターさんたちが集まってくださっていて、誇張された動きというよりはリアル寄りの芝居をていねいに描いてくださっています。全然動いているように見えないところにも実は枚数が割かれていて、作画枚数もこれまででいちばん使っているんですよ。
最後に、今作を描くうえでの最大のポイントだったと考えるシーンを教えてください。
田口 ラストですね。それは第4章を担当すると決まったときから、見据えていたビジョンでもあります。第1章の春からともに季節を経てきた理と仲間たちが迎える、そのラストを見届けてほしいです。
#1 Spring of Birth
1日と1日のはざまに隠された影時間。そこにはびこる怪物・シャドウに襲われて、無気力症となってしまう者が町に続出していた。対抗できるのは、ペルソナという特殊な能力をもつ者だけ。春、私立月光館学園に転校してきた結城理は、ペルソナの力に覚醒し、同じくぺルソナの力をもつ者たちが集う特別課外活動部へと引き入れられる
#2 Midsummer Knight's Dream
夏休みに屋久島旅行に向かった特別課外活動部。そこでアイギスという女の子に出会う。彼女は対シャドウ特別制圧兵装のラストナンバーであり、なぜか理のそばにいることを望むのだった。理たちは影時間の謎を追いながら、さらに新たな仲間と出会い、きずなを深めていく。だがそこにストレガと名のる者たちが現われ⋯⋯
#3 Falling Down
季節は秋。特別課外活動部は、影時間を終わらせるため、シャドウや滅びを望むストレガとの死闘を重ねていた。ある者は仲間や家族の死と向き合い、ある者は護るべき者に気づき、ある者はこれまでの戦いの意味に葛藤する。そんなとき、理の前に謎の転校生、望月綾時が現われる。その出会いの先にあるものは⋯⋯
「PERSONA3 THE MOVIE #4 Winter of Rebirth」
●1月23日土全国ロードショー
●第3章Blu-ray&DVD 1月20日水発売
WEB▶http://www.p3m.jp/
Twitter▶@P3movie
illustrated by YUKIO HASEGAWA, finished by SAORI GODA
background by BIHOU, text by HITOMI WADA
©ATLUS ©SEGA/劇場版「ペルソナ3」製作委員会
STAFF 原作=「ペルソナ3」(アトラス) 脚本=熊谷純 スーパーバイザー=岸誠二 キャラクターデザイン=渡部圭祐 ペルソナデザイン=秋恭摩 プロップデザイン=常木志伸 色彩設計=合田沙織 美術監督=谷岡善王(美峰) 美術設定=青木薫(美峰) コンポジット&ビジュアルディレクター=高津純平 編集=櫻井崇 音楽=目黒将司、小林哲也 音響監督=飯田里樹 第4章監督=田口智久 制作=A-1 Pictures
CAST 結城理=石田彰 岳羽ゆかり=豊口めぐみ 伊織順平=鳥海浩輔 桐条美鶴=田中理恵 真田明彦=緑川光 山岸風花=能登麻美子 アイギス=坂本真綾 天田乾=緒方恵美 荒垣真次郎=中井和哉 イゴ ール=田の中勇(特別出演) エリザベス=沢城みゆき
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fukagawakaidan · 1 month
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「お化けの棲家」に登場したお化け。
1、骨女〔ほねおんな〕 鳥山石燕の「今昔画 図続百鬼』に骨だけ の女として描かれ、 【これは御伽ぼうこうに見えたる年ふる女の骸骨、牡丹の灯籠を携へ、人間の交をなせし形にして、もとは剪灯新話のうちに牡丹灯記とてあり】と記されている。石燕が描いた骨女 は、「伽婢子」「牡丹灯籠」に出てくる女つゆの亡霊、弥子(三遊亭円朝の「怪談牡丹灯 籠」ではお露にあたる)のことをいっている。これとは別物だと思うが、「東北怪談の旅」にも骨女という妖怪がある。 安永7年~8年(1778年~1779年)の青森に現れたもので、盆の晩、骸骨女がカタリカタリと音をたてて町中を歩いたという。この骨女は、生前は醜いといわれていたが、 死んでからの骸骨の容姿が優れているので、 人々に見せるために出歩くのだという。魚の骨をしゃぶることを好み、高僧に出会うと崩れ落ちてしまうという。 「鳥山石燕 画図百鬼夜行」高田衛監修・稲 田篤信・田中直日編 「東北怪談の旅」山田 野理夫
2、堀田様のお人形
以下の話が伝わっている。 「佐賀町に堀田様の下屋敷があって、うちの先祖はそこの出入りだったの。それで、先代のおばあさんが堀田様から“金太郎”の人形を拝領になって「赤ちゃん、赤ちゃん」といわれていたんだけど、この人形に魂が入っちゃって。関東大震災のとき、人形と一緒に逃げたら箱の中であちこちぶつけてこぶができたから、修復してもらうのに鼠屋っていう人形師に預けたんだけど少しすると修復されずに返ってきた。聞くと「夜になると人形が夜泣きしてまずいんです」と言われた。 (『古老が語る江東区のよもやま話』所収)
3、ハサミの付喪神(つくもがみ)
九十九神とも表記される。室町時代に描かれた「付喪神絵巻」には、「陰陽雑記云器物百年を経て化して精霊を得てよく人を訛かす、是を付喪神と号といへり」 という巻頭の文がある。 煤祓いで捨てられた器物が妖怪となり、物を粗末に扱う人間に対して仕返しをするという内容だ が、古来日本では、器物も歳月を経ると、怪しい能力を持つと考えられていた。 民俗資料にも擂り粉木(すりこぎ)や杓文字、枕や蒲団といった器物や道具が化けた話しがある。それらは付喪神とよばれていないが、基本的な考え方は「付喪神絵巻」にあるようなことと同じで あろう。 (吉川観方『絵画に見えたる妖怪』)
4、五徳猫(ごとくねこ)  五徳猫は鳥山石燕「画図百器徒然袋」に尾が2つに分かれた猫又の姿として描かれており、「七徳の舞をふたつわすれて、五徳の官者と言いしためしも あれば、この猫もいかなることをか忘れけんと、夢の中におもひぬ」とある。鳥山石燕「画図百器徒然袋」の解説によれば、その姿は室町期の伝・土佐光信画「百鬼夜行絵巻」に描かれた五徳猫を頭に 乗せた妖怪をモデルとし、内容は「徒然袋」にある「平家物語」の 作者といわれる信濃前司行長にまつわる話をもとにしているとある。行長は学識ある人物だったが、七徳の舞という、唐の太宗の武の七徳に基づく舞のうち、2つを忘れてしまったために、五徳の冠者のあだ名がつけられた。そのため、世に嫌気がさし、隠れて生活するようになったという。五徳猫はこのエピソードと、囲炉裏にある五徳(薬缶などを載せる台)を引っ掛けて創作された 妖怪なのであろう。ちなみに土佐光信画「百鬼夜行絵巻」に描かれている妖怪は、手には火吹き 竹を持っているが、猫の妖怪ではなさそうである。 ( 高田衛監修/稲田篤信・田中直日編『鳥山石燕画図百鬼夜行』)→鳥山石燕『百器徒然袋』より 「五徳猫」
5、のっぺらぼー 設置予定場所:梅の井 柳下 永代の辺りで人魂を見たという古老の話しです。その他にも、背中からおんぶされて、みたら三つ目 小僧だったり、渋沢倉庫の横の河岸の辺りでのっぺらぼーを見たという話しが残っています。 (『古老が語る江東区のよもやま話』所収) のっぺらぼーは、顔になにもない卵のような顔の妖怪。特に小泉八雲『怪談』にある、ムジナの話が良く知られている。ある男が東京赤坂の紀国坂で目鼻口のない女に出会い、驚き逃げて蕎麦 屋台の主人に話すと、その顔も同じだったという話。その顔も同じだったという話。
6、アマビエアマビエ 弘化3年(1846年) 4月中旬と記 された瓦版に書かれているもの。 肥後国(熊本県)の海中に毎夜光るものが あるので、ある役人が行ってみたところ、ア マビエと名乗る化け物が現れて、「当年より はやりやまいはや 6ヵ月は豊作となるが、もし流行病が流行ったら人々に私の写しを見せるように」といって、再び海中に没したという。この瓦版には、髪の毛が長く、くちばしを持った人魚のようなアマビエの姿が描かれ、肥後の役人が写したとある。 湯本豪一の「明治妖怪新聞」によれば、アマピエはアマピコのことではないかという。 アマピコは瓦版や絵入り新聞に見える妖怪で、 あま彦、天彦、天日子などと書かれる。件やクダ部、神社姫といった、病気や豊凶の予言をし、その絵姿を持っていれば難から逃れられるという妖怪とほぼ同じものといえる。 アマビコの記事を別の瓦版に写す際、間違 えてアマビエと記してしまったのだというのが湯本説である。 『明治妖怪新聞」湯本豪一「『妖怪展 現代に 蘇る百鬼夜行』川崎市市民ミュージアム編
7、かさばけ(傘お化け) 設置予定場所:多田屋の入口作品です。 一つ目あるいは、二つ目がついた傘から2本の腕が伸び、一本足でピョンピョン跳ねまわる傘の化け物とされる。よく知られた妖怪のわりには戯画などに見えるくらいで、実際に現れたなどの記録はないようである。(阿部主計『妖怪学入門』)歌川芳員「百種怪談妖物双六」に描 かれている傘の妖怪「一本足」
8、猫股(ねこまた)  猫股は化け猫で、尻尾が二股になるまで、齢を経た猫 で、さまざまな怪しいふるまいをすると恐れられた。人をあざむき、人を食らうともいわれる。飼い猫が年をとり、猫股になるため、猫を長く飼うもので はないとか、齢を経た飼い猫は家を離れて山に入り、猫股 になるなどと、各地に俗信がある。 このような猫の持つ妖力から、歌舞伎ではお騒動と化け猫をからめて「猫騒動もの」のジャンルがあり、
「岡崎の猫」「鍋島の猫」「有馬の猫」が三代化け猫とされる。
9、毛羽毛現(けうけげん) 設置予定場所:相模屋の庭 鳥山石燕の「今昔百鬼拾遺」に毛むくじゃらの妖怪として描かれた もので、 「毛羽毛現は惣身に毛生ひたる事毛女のごとくなればかくいふ か。或いは希有希現とかきて、ある事まれに、見る事まれなれば なりとぞ」とある。毛女とは中国の仙女のことで、華陰の山中(中国陝西省陰県の西 獄華山)に住み、自ら語るところによると、もともとは秦が亡んだため 山に逃げ込んだ。そのとき、谷春という道士に出会い、松葉を食すことを教わって、遂に寒さも飢えも感じなくなり、身は空を飛ぶほど軽くなった。すでに170余年経つなどと「列仙伝」にある。この毛羽毛現は家の周辺でじめじめした場所に現れる妖怪とされるが、実際は石燕の創作妖 怪のようである。 (高田衛監修/稲田篤信・田中直日編『鳥山石燕 画図百鬼夜行』→鳥山石燕「今昔百鬼 拾遺」より「毛羽毛現」
10、河童(かっぱ) 設置予定場所:猪牙船 ◇ 河童(『耳袋』) 江戸時代、仙台藩の蔵屋敷に近い仙台堀には河童が出たと言われています。これは、子どもたちが、 なんの前触れもなく掘割におちてしまう事が続き探索したところ、泥の中から河童が出てきたというも のです。その河童は、仙台藩の人により塩漬けにして屋敷に保管したそうです。 ◇ 河童、深川で捕獲される「河童・川太郎図」/国立歴史民俗博物館蔵 深川木場で捕獲された河童。河童は川や沼を住処とする妖怪で、人を水中に引き込む等の悪事を働く 反面、水の恵みをもたらす霊力の持ち主として畏怖されていた ◇ 河童の伝説(『江戸深川情緒の研究』) 安永年間(1772~1781) 深川入船町であった話しです。ある男が水浴びをしていると、河童がその男 を捕えようとしました。しかし、男はとても強力だったので逆に河童を捕えて陸に引き上げ三十三間堂の前で殴��殺そうとしたところ、通りかかった人々が河童を助けました。それ以来、深川では河童が人 間を捕らなくなったといいます。→妖怪画で知られる鳥山石燕による河童
11、白容商〔しろうねり〕
鳥山石燕「画図百器 徒然袋」に描かれ、【白うるりは徒然のならいなるよし。この白うねりはふるき布巾のばけたるものなれども、外にならいもやはべると、夢のうちにおもひぬ】 と解説されている。白うるりとは、吉田兼好の『徒然草」第六十段に登場する、 芋頭(いもがしら)が異常に好きな坊主のあだ名である。  この白うるりという名前に倣って、布雑巾 の化けたものを白容裔(しろうねり)と名づけたといっているので、つまりは石燕の創作妖怪であろう。古い雑巾などが化けて人を襲う、などの説 明がされることがあるが、これは山田野理夫 の『東北怪談の旅』にある古雑巾の妖怪を白 容裔の話として使ったにすぎない。 『鳥山石燕画図百鬼夜行』高田衛監修・稲 田篤信・田中直日編
12、轆轤首〔ろくろくび〕
抜け首、飛頭蛮とも つな いう。身体から首が完全に分離して活動する ものと、細紐のような首で身体と頭が繋がっているものの二形態があるようである。 日本の文献には江戸時代から多くみえはじ め、『古今百物語評判』『太平百物語』『新説 百物語」などの怪談集や、『甲子夜話』『耳 囊」「北窓瑣談」「蕉斎筆記』『閑田耕筆』と いった随筆の他、石燕の『画図百鬼夜行」に 代表される妖怪画にも多く描かれた。 一般的な轆轤首の話としては、夜中に首が 抜け出たところを誰かに目撃されたとする内 容がほとんどで、下働きの女や遊女、女房、 娘などと女性である場合が多い。 男の轆轤首は「蕉斎筆記』にみえる。 ある夜、増上寺の和尚の胸の辺りに人の 首が来たので、そのまま取って投げつけると、 どこかへいってしまった。翌朝、気分が悪いと訴えて寝ていた下総出 身の下働きの男が、昼過ぎに起き出して、和 尚に暇を乞うた。わけ その理由を問えば、「昨夜お部屋に首が参りませんでしたか」と妙なことを訊く。確か に来たと答えると、「私には抜け首の病があります。昨日、手水鉢に水を入れるのが遅い とお叱りを受けましたが、そんなにお叱りに なることもないのにと思っていると、 夜中に首が抜けてしまったのです」 といって、これ以上は奉公に差支えがあるからと里に帰って しまった。 下総国にはこの病が多いそうだと、 「蕉斎筆記』は記している。  轆轤首を飛頭蛮と表記する文献があるが、 これはもともと中国由来のものである。「和漢三才図会』では、『三才図会」「南方異 物誌」「太平広記」「搜神記』といった中国の 書籍を引いて、飛頭蛮が大闍波国(ジャワ) や嶺南(広東、広西、ベトナム)、竜城(熱 洞省朝陽県の西南の地)の西南に出没したことを述べている。昼間は人間と変わらないが、夜になると首 が分離し、耳を翼にして飛び回る。虫、蟹、 ミミズなどを捕食して、朝になると元通りの 身体になる。この種族は首の周囲に赤い糸のような傷跡がある、などの特徴を記している。中国南部や東南アジアには、古くから首だけの妖怪が伝わっており、マレーシアのポン ティアナやペナンガルなどは、現在でもその 存在が信じられている。 日本の轆轤首は、こうした中国、東南アジ アの妖怪がその原型になっているようである。 また、離魂病とでもいうのだろうか、睡眠中に魂が抜け出てしまう怪異譚がある。例えば「曽呂利物語」に「女の妄念迷い歩 <事」という話がある。ある女の魂が睡眠中に身体から抜け出て、 野外で鶏になったり女の首になったりしているところを旅人に目撃される。旅人は刀を抜いてその首を追いかけていく と、首はある家に入っていく。すると、その家から女房らしき声が聞こえ、 「ああ恐ろしい夢を見た。刀を抜いた男が追 いかけてきて、家まで逃げてきたところで目 が醒めた」などといっていたという話である。これの類話は現代の民俗資料にも見え、抜け出た魂は火の玉や首となって目撃されている。先に紹介した「蕉斎筆記』の男の轆轤首 も、これと同じように遊離する魂ということ で説明ができるだろう。 轆轤首という妖怪は、中国や東南アジア由 来の首の妖怪や、離魂病の怪異譚、見世物に 出た作りものの轆轤首などが影響しあって、 日本独自の妖怪となっていったようである。 【和漢三才図会』寺島良安編・島田勇雄・竹 島淳夫・樋口元巳訳注 『江戸怪談集(中)』 高田衛編/校注『妖異博物館』柴田宵曲 『随筆辞典奇談異聞編」柴田宵曲編 『日本 怪談集 妖怪篇』今野円輔編著 『大語園』巌谷小波編
13、加牟波理入道〔がんばりにゅうどう〕
雁婆梨入道、眼張入道とも書く。便所の妖怪。 鳥山石燕の「画図百鬼夜行」には、便所の台があるよう 脇で口から鳥を吐く入道姿の妖怪として描かれており、【大晦日の夜、厠にゆきて「がんばり入道郭公」と唱ふれば、妖怪を見さるよし、世俗のしる所也。もろこしにては厠 神名を郭登といへり。これ遊天飛騎大殺将軍 とて、人に禍福をあたふと云。郭登郭公同日 は龕のの談なるべし】と解説されている。 松浦静山の『甲子夜話」では雁婆梨入道という字を当て、厠でこの名を唱えると下から入道の頭が現れ、 その頭を取って左の袖に入れてまたとりだすと 頭は小判に変化するなどの記述がある。 「がんばり入道ホトトギス」と唱えると怪異 にあわないというのは、江戸時代にいわれた 俗信だが、この呪文はよい効果を生む(前述 ことわざわざわい ●小判を得る話を含め)場合と、禍をよぶ 場合があるようで、「諺苑」には、大晦日に この話を思い出せば不祥なりと書かれている。 また、石燕は郭公と書いてホトトギスと読ませているが、これは江戸時代では郭公とホト トギスが混同されていたことによる。 ホトトギスと便所との関係は中国由来のようで、「荊楚歲時記』にその記述が見える。 ホトトギスの初鳴きを一番最初に聞いたもの は別離することになるとか、その声を真似すると吐血するなどといったことが記されており、厠に入ってこの声を聞くと、不祥事が起 こるとある。これを避けるには、犬の声を出 して答えればよいとあるが、なぜかこの部分 だけは日本では広まらなかったようである。 『鳥山石燕画図百鬼夜行』高田衛監修・稲 田篤信・田中直日編 『江戸文学俗信辞典』 石川一郎編『史実と伝説の間」李家正文
14、三つ目小僧
顔に三つの目を持つ童子姿の妖怪。 長野県東筑摩郡教育委員会による調���資料に名は見られるが、資料中には名前があるのみ で解説は無く、どのような妖怪かは詳細に語られていない。 東京の下谷にあった高厳寺という寺では、タヌキが三つ目小僧に化けて現れたという。このタヌ キは本来、百年以上前の修行熱心な和尚が境内に住まわせて寵愛していたために寺に住みついたものだが、それ以来、寺を汚したり荒らしたりする者に対しては妖怪となって現れるようになり、体の大きさを変えたり提灯を明滅させて人を脅したり、人を溝に放り込んだりしたので、人はこれ を高厳寺小僧と呼んで恐れたという。困った寺は、このタヌキを小僧稲荷として境内に祀った。この寺は現存せず、小僧稲荷は巣鴨町に移転している。 また、本所七不思議の一つ・置行堀の近くに住んでいたタヌキが三つ目小僧に化けて人を脅したという言い伝えもある。日野巌・日野綏彦 著「日本妖怪変化語彙」、村上健司校訂 編『動物妖怪譚』 下、中央公論新社〈中公文庫〉、2006年、301頁。 佐藤隆三『江戸伝説』坂本書店、1926年、79-81頁。 『江戸伝説』、147-148頁。
15、双頭の蛇 設置予定場所:水茶屋 「兎園小説」には、「両頭蛇」として以下の内容が著してある。 「文政7年(1824)11月24日、本所竪川通りの町方掛り浚場所で、卯之助という男性 が両頭の蛇を捕まえた。長さは3尺あったという。」
文政7年(1824)11月24日、一の橋より二十町程東よりの川(竪川、現墨田区)で、三尺程の 「両頭之蛇」がかかったと言う話です。詳細な図解が示されています。 (曲亭馬琴「兎園小説」所収『兎園小説』(屋代弘賢編『弘賢随筆』所収) 滝沢馬琴他編 文政8年(1825) 国立公文書館蔵
16、深川心行寺の泣き茶釜
文福茶釜は「狸」が茶釜に化けて、和尚に恩返しをする昔話でよく知られています。群馬県館林の茂 林寺の話が有名ですが、深川2丁目の心行寺にも文福茶釜が存在したといいます。『新撰東京名所図会』 の心行寺の記述には「什宝には、狩野春湖筆涅槃像一幅 ―及び文福茶釜(泣茶釜と称す)とあり」 とあります。また、小説家の泉鏡花『深川浅景』の中で、この茶釜を紹介しています。残念ながら、関 東大震災(1923年)で泣茶釜は、他の什物とともに焼失してしまい、文福茶釜(泣き茶釜)という狸が 化けたという同名が残るのみです。鳥山石燕「今昔百鬼拾遺」には、館林の茂森寺(もりんじ)に伝わる茶釜の話があります。いくら湯を 汲んでも尽きず、福を分け与える釜といわれています。 【主な参考資料】村上健司 編著/水木しげる 画『日本妖怪大辞典』(角川出版)
17、家鳴(やなり) 設置予定場所:大吉、松次郎の家の下)  家鳴りは鳥山石燕の「画図百鬼夜行」に描かれたものだが、(石燕は鳴屋と表記)、とくに解説はつけられて いない。石燕はかなりの数の妖怪を創作しているが、初期の 「画図百鬼夜行」では、過去の怪談本や民間でいう妖怪などを選んで描いており、家鳴りも巷(ちまた)に知られた妖怪だったようである。 昔は何でもないのに突然家が軋むことがあると、家鳴りのような妖怪のしわざだと考えたようである。小泉八雲は「化け物の歌」の中で、「ヤナリといふ語の・・・それは地震中、家屋の震動 する音を意味するとだけ我々に語って・・・その薄気 味悪い意義を近時の字書は無視して居る。しかし此語 はもと化け物が動かす家の震動の音を意味して居た もので、眼には見えぬ、その震動者も亦(また) ヤナ リと呼んで居たのである。判然たる原因無くして或る 家が夜中震ひ軋り唸ると、超自然な悪心が外から揺り動かすのだと想像してゐたものである」と延べ、「狂歌百物語」に記載された「床の間に活けし立ち木も倒れけりやなりに山の動く掛軸」という歌を紹介している。 (高田衛監修/稲田篤信・田中直日編『鳥山石燕画図百鬼夜行』、『小泉八雲全集』第7巻)
18、しょうけら 設置予定場所:おしづの家の屋根 鳥山石燕「画図百鬼夜行」に、天井の明かり取り窓を覗く妖怪として描かれているもの。石燕による解説はないが、 ショウケラは庚申(こうしん) 信仰に関係したものといわれる。 庚申信仰は道教の三尸(さんし)説がもとにあるといわ れ、60日ごとに巡ってくる庚申の夜に、寝ている人間の身 体から三尸虫(頭と胸、臍の下にいるとされる)が抜け出し、天に昇って天帝にその人の罪科を告げる。この報告により天帝は人の命を奪うと信じられ、対策とし て、庚申の日は眠らずに夜を明かし、三尸虫を体外に出さ ないようにした。また、これによる害を防ぐために「ショウケラはわたとてまたか我宿へねぬぞねたかぞねたかぞ ねぬば」との呪文も伝わっている。 石燕の描いたショウケラは、この庚申の日に現れる鬼、ということがいえるようである。
19、蔵の大足
御手洗主計という旗本の屋敷に現れた、長さ3尺程(約9m)の大足。(「やまと新聞」明治20年4月29日より)
20、お岩ちょうちん
四世鶴屋南北の代表作である「東海道四谷怪談」のお岩 を、葛飾北斎は「百物語シリーズ」の中で破れ提灯にお岩が 宿る斬新な構図で描いている。北斎は同シリーズで、当時の 怪談話のもう一人のヒロインである「番町皿屋敷のお菊」も描 く。「東海道四谷怪談」は、四世南北が暮らし、没した深川を舞台にした生世話物(きぜわもの)の最高傑作。��政8年(1825) 7月中村座初演。深川に住んだ七代目市川團十郎が民谷伊 右衛門を、三代目尾上菊五郎がお岩を演じた。そのストーリーは当時評判だった実話を南北が取材して描 いている。男女が戸板にくくられて神田川に流された話、また 砂村隠亡堀に流れついた心中物の話など。「砂村隠亡堀の場」、「深川三角屋敷の場」など、「四谷怪 談」の中で深川は重要な舞台として登場する。
21、管狐(くだぎつね)  長野県を中心にした中部地方に多く分布し、東海、関東南部、東北の一部でいう憑き物。関東 南部、つまり千葉県や神奈川県以外の土地は、オサキ狐の勢力になるようである。管狐は鼬(いたち)と鼠(ねずみ)の中間くらいの小動物で、名前の通り、竹筒に入ってしまうほどの大きさだという。あるいはマッチ箱に入るほどの大きさで、75匹に増える動物などとも伝わる個人に憑くこともあるが、それよりも家に憑くものとしての伝承が多い。管狐が憑いた家は管屋(くだや)とか管使いとかいわれ、多くの場合は「家に憑いた」ではなく「家で飼っている」という表現をしている。管狐を飼うと金持ちになるといった伝承はほとんどの土地でいわれることで、これは管 狐を使って他家から金や品物を集めているからだなどという。また、一旦は裕福になるが、管狐は 大食漢で、しかも75匹にも増えるのでやがては食いつぶされるといわれている。 同じ狐の憑き物でも、オサキなどは、家の主人が意図しなくても、狐が勝手に行動して金品を集 めたり、他人を病気にするといった特徴があるが、管狐の場合は使う者の意図によって行動すると考えられているようである。もともと管狐は山伏が使う動物とされ、修行を終えた山伏が、金峰山 (きんぷさん)や大峰(おおみね)といった、山伏に官位を出す山から授かるものだという。山伏は それを竹筒の中で飼育し、管狐の能力を使うことで不思議な術を行った。 管狐は食事を与えると、人の心の中や考えていることを悟って飼い主に知らせ、また、飼い主の 命令で人に取り憑き、病気にしたりするのである。このような山伏は狐使いと呼ばれ、自在に狐を 使役すると思われていた。しかし、管狐の扱いは難しく、いったん竹筒から抜け出た狐を再び元に 戻すのさえ容易ではないという。狐使いが死んで、飼い主不在となった管狐は、やがて関東の狐の親分のお膝元である王子村(東京都北区)に棲むといわれた。主をなくした管狐は、命令する者がいないので、人に憑くことはないという。 (石塚尊俊『日本の憑きもの』、桜井徳太郎編『民間信仰辞典』、金子準二編著『日本狐憑史資料 集成』)
22、かいなで 設置予定場所: 長屋の厠 京都府でいう妖怪。カイナゼともいう。節分の夜に便所へ行くとカイナデに撫でられるといい、これを避けるには、「赤い紙やろうか、白い紙やろうか」という呪文を唱えればよいという。 昭和17年(1942年)頃の大阪市立木川小学校では、女子便所に入ると、どこからともなく「赤い 紙やろか、白い紙やろか」と声が聞こえてくる。返事をしなければ何事もないが、返事をすると、尻を舐められたり撫でられたりするという怪談があったという。いわゆる学校の怪談というものだが、 類話は各地に見られる。カイナデのような家庭内でいわれた怪異が、学校という公共の場に持ち込まれたものと思われる。普通は夜の学校の便所を使うことはないだろうから、節分の夜という条件が消失してしまったのだろう。 しかし、この節分の夜ということは、実に重要なキーワードなのである。節分の夜とは、古くは年越しの意味があり、年越しに便所神を祭るという風習は各地に見ることができる。その起源は中国に求められるようで、中国には、紫姑神(しこじん)という便所神の由来を説く次のような伝説がある。 寿陽県の李景という県知事が、何媚(かび) (何麗卿(かれいきょう)とも)という女性を迎えたが、 本妻がそれを妬み、旧暦正月 15 日に便所で何媚を殺害した。やがて便所で怪異が起こるようになり、それをきっかけに本妻の犯行が明るみに出た。後に、何媚を哀れんだ人々は、正月に何媚を便所の神として祭祀するようになったという(この紫姑神は日本の便所神だけではなく、花子さんや紫婆(むらさきばばあ)などの学校の怪談に登場する妖怪にも影響を与えている。) 紫姑神だけを日本の便所神のルーツとするのは安易だが、影響を受けていることは確かであろう。このような便所神祭祀の意味が忘れられ、その記憶の断片化が進むと、カイナデのような妖怪が生まれてくるようである。 新潟県柏崎では、大晦日に便所神の祭りを行うが、便所に上げた灯明がともっている間は決して便所に入ってはいけないといわれる。このケースは便所神に対する信仰がまだ生きているが、便所神の存在が忘れられた例が山田野理夫『怪談の世界』に見える。同書では、便所の中で「神くれ神くれ」と女の声がしたときは、理由は分からなくとも「正月までまだ遠い」と答えればよいという。便所神は正月に祀るものという断片的記憶が、妖怪として伝えられたものといえる。また、「赤い紙やろうか、白い紙やろうか」という呪文も、便所神の祭りの際に行われた行為の名残を伝えて いる。便所神の祭りで紙製の人形を供える土地は多く、茨城県真壁郡では青と赤、あるいは白と赤の 男女の紙人形を便所に供えるという。つまり、カイナデの怪異に遭遇しないために「赤い紙やろう か、白い紙やろうか」と唱えるのは、この供え物を意味していると思われるのである。本来は神様に供えるという行為なのに、「赤とか白の紙をやるから、怪しいふるまいをするなよ」というように変化してしまったのではないだろうか。さらに、学校の怪談で語られる便所の怪異では、妖怪化した便所神のほうから、「赤い紙やろうか、白い紙やろうか」とか「青い紙やろうか、赤い紙やろうか」というようになり、より妖怪化が進ん でいったようである。こうしてみると、近年の小学生は古い信仰の断片を口コミで伝え残しているともいえる。 島根県出雲の佐太神社や出雲大社では、出雲に集まった神々を送り出す神事をカラサデという が、氏子がこの日の夜に便所に入ると、カラサデ婆あるいはカラサデ爺に尻を撫でられるという伝 承がある。このカラサデ婆というものがどのようなものか詳細は不明だが、カイナデと何か関係があるのかもしれない。 (民俗学研究所編『綜合日本民俗語彙』、大塚民俗学会編『日本民俗学事典』、『民間伝承』通巻 173号(川端豊彦「厠神とタカガミと」)ほか)
23、木まくら 展示予定場所:政助の布団の上 江東区富岡にあった三十三間堂の側の家に住んだ医師が病気になり、元凶を探した所 黒く汚れた木枕が出た。その枕を焼くと、死体を焼く匂いがして、人を焼くのと同じ時間がかかったという。 (『古老が語る江東区のよもやま話』所収)
24、油赤子〔あぶらあかご〕鳥山石燕の『今昔 画図続百鬼』に描かれた妖怪。【近江国大津 の八町に、玉のごとくの火飛行する事あり。土人云「むかし志賀の里に油うるものあり。 夜毎に大津辻の地蔵の油をぬすみけるが、その者死て魂魄炎となりて、今に迷いの火となれる」とぞ。しからば油をなむる赤子は此ものの再生せしにや】と記されている。 石燕が引いている【むかし志賀(滋賀) の】の部分は、「諸国里人談』や『本朝故事 因縁集」にある油盗みの火のことである。油盗みの火とは、昔、夜毎に大津辻の地蔵 の油を盗んで売っていた油売りがいたが、死 後は火の玉となり、近江大津(滋賀県大津 市)の八町を縦横に飛行してまわったという もの。石燕はこの怪火をヒントに、油を嘗める赤ん坊を創作したようである。 『鳥山石燕画図百鬼夜行』高田衛監修・稲 田篤信・田中直日編 『一冊で日本怪異文学 100冊を読む」檜谷昭彦監修『日本随筆大成編集部編
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gupaooooon · 1 year
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NoBarbenheimer
今回の件、原爆投下/原水爆をミーム化/ネタ化する動きの加速に対して。フェミニズムな作品であることがとても楽しみだったバービーの……“公式アカウント”が乗っかっていたという事実。そのショックについて。自分も抗議を送ったりTwitter/Tumblrでタグを使ったひとりですが、
「日本のみ」が被爆国ではないし、「日本人とされれる人々のみ」が被爆被害者ではない。
凡ゆる国と地域で被爆被害があり、凡ゆる国や地域の人々が、被害者が、世界中にいること。
“戦争被爆国”としての日本においては、戦時下で、軍国主義/差別主義の中で更に更にマイノリティとして虐げられた人々が、植民地支配/強制連行による被害者や、捕虜として収容されていた人々が、沢山、犠牲になっているし、その後も苦しみ続けている。日本/政府による迫害と差別に晒されている。その存在が、事実が、歴史が、蔑ろにされ続けている。
原爆/原水爆の犠牲者が、被害者が、いまも、世界で、さまざまな場所で、苦しみ続けていること。その歴史について。
それらを踏みにじるような言葉も、それらについて誤った認識を与える言葉も、Twitter上では多く(差別主義者/ネトウヨ/極右なども、バービーという作品そのものとそこにあるフェミニズムや多様性に対する一方的な揶揄/叩きや、韓国へのデマ/ヘイトや、他の悲惨な歴史や事件を更にミームにして茶化し出すという……醜悪な最低最悪な行いをぶち撒けながら、この抗議タグをTwitter上で利用してきていることもあり、)かなり蔓延してきてるようなので。
Twitterで今回自分がRTさせて頂いた……さまざまな方々が紹介していた記事やアーカイブ/今までTwitter上で自分がRTしてきたり引用してきたりした記事なども、自分用と兼ねて、いくつか、改めて、此方にも引用してみます。
また、再度、強調したいのですが、
日本は、今なお、戦争責任/加害の歴史に向き合おうとしない。戦争の責任と記録と歴史を忘却し、捻じ曲げようとする歴史修正主義が、まさにいま、どんどん勢いを増し続けている現状。核廃絶について背を向けるばかりか、核武装について“柔軟な議論”などとほざいて嬉々として語り出す連中が、差別主義者の糞どもが、万年与党であること。
そこを無視することこそ、恐ろしいことで、忘れてはならないこと。(これもほんと繰り返しだが、この現状だからこそ、戦争/核を軽視しないための抗議の責任があること、強調したい)
・日本だけではない、被爆国
「核兵器を開発するためには実験が必要です。1945年、アメリカのニューメキシコ州で世界で初めての核実験が行われてから、これまで2,050回以上の核実験が行われきました。
アメリカはネバダ砂漠や太平洋でロシアはカザフスタンや北極海で、イギリスはオーストラリアや太平洋の島国で、フランスはアルジェリアや南太平洋の仏領ポリネシア・タヒチで中国は新疆ウイグル自治区で実施しました。ワシントンやモスクワなどの大都市から遠く離れ、多くの場合は植民地や先住民族の暮らしている土地でした。(川崎 哲「核兵器はなくせる」、岩波ジュニア新書、2018)」
・Hiroshima and Nagasaki: A Multilingual Bibliography
「ABOUT US: The Aim of Our Project
In 2014, a year before the 70th anniversary of the atomic bombings of Hiroshima and Nagasaki, we started our survey and research into the multilingual publication of atomic bomb literature. Our goal is to make a comprehensive survey into the process of worldwide acknowledgment of Hiroshima and Nagasaki for 70 years.」
・外国人戦争犠牲者追悼核廃絶人類不戦碑
「この戦争の末期、長崎では数次にわたる米軍の空襲、潜水艦攻撃、そして八月九日の原爆 によって七万余の日本人、数千の朝鮮人、中国人労働者、華僑、留学生、連合軍捕虜(イギ リス、アメリカ、オーストラリア、オランダ、インドネシア等)が犠牲となった。
特に浦上刑務所のあった隣接する丘では、三十二名の中国人、十三名の朝鮮人が、日本人 受刑者とともに爆死し、また香焼や幸町の捕虜収容所では、被爆前に病気や事故などによ って数百名の連合軍兵士が死亡した」
「碑の建立に力を注いだのは、戦時中に収容所の職員だった田島治太夫さん(九九年死去)。一緒に運動した鎌田信子さん(72)は「日本人だけでなく、多くの外国人が犠牲になったことを知ってもらいたい」と語る。」(2005/07/15 掲載記事)
・被爆2世、女性として直面した複合差別 ――「韓国のヒロシマ」陜川から
「2023年2月7日、被爆者の援護を定めた法の対象外となっているのは不当だとして、被爆2世が国を訴えていた裁判の判決が広島地裁で言い渡された。「不当な差別とは評価できない」などとして、原告の訴えは棄却された。被爆2世に対しては、厚生労働省が定めた要綱に基づく健康診断が実施されているものの、がん検診はそこに含まれず、各種手当の交付なども受けられない。」
「原爆被害に加え、それ以前からの植民地支配に翻弄されてきた韓国人被爆者の次世代も、「線引きの外側」に置かれ、公的な支えを受けられずに生きてきた。」
・80歳を過ぎて語り始めた被爆体験――福島へ手渡したい思いとは
「切明さんの話は、「あの日」から始まるのではなく、軍都「廣島」の話から始まる。
「広島は今、平和を守ることや、核兵器廃絶を掲げていますが、77年前までは軍国主義の街でした」
切明さんが国民学校2年生の時、満州事変が起きる。広島城の周辺には陸軍の師団が置かれており、宇品港は中国大陸や、その後の東南アジアの国々侵略のための出発港だった。」
・「存在しない」とされた残留放射線、内部被ばくの被害を認めない政府
「こうした政府の態度の根底にあるのは、残留放射線による内部被ばくの否定だ。放射性物質を体内に取り込む危険性から目を背ける、その姿勢の源流を知るためには、日米の歴史を紐解く必要がある。
『原水爆時代〈上〉―現代史の証言』(今堀誠二)や 『核の戦後史:Q&Aで学ぶ原爆・原発・被ばくの真実』(木村朗、高橋博子)でも示されているが、原爆投下から1ヵ月後、マンハッタン計画の副責任者であるトーマス・ファーレル氏は、下記のような声明を発表したとされる。
「広島・長崎では、死ぬべきものは死んでしまい、9月上旬において、原爆放射能の余燼ために苦しんでいる者は皆無だ」
残留放射能が存在しないとした理由について記者からの質問を受け、ファーレル氏は「相当の高度で爆発させた」ことを挙げていた。
なぜこうした声明を出すに至ったのか。『核の戦後史』の他、『封印されたヒロシマ・��ガサキ』などの著者でもある奈良大学の高橋博子教授は、占領を円滑に進める必要がある米国側の意図を指摘する。
「声明には、原爆投下が国際法違反であることを否定し、広島を取材した連合国軍記者による報道を打ち消す狙いがあったと思われます」 」
「 「日本政府は核兵器の残酷さや非人道性を訴えるどころか、その“威力”を重視し、原爆攻撃をした米国と一緒になって、核兵器の有効性を世界に向けて訴えてきたといえます。核の“パワー”の肯定的イメージを拡散してきた、世界に対する責任は重いと思います」 」
・«さもしいといって下さいますな» 福田須磨子さんの思い 原爆を背負って(30)
「 《何も彼(か)も いやになりました 原子野に屹立(きつりつ)する巨大な平和像 それはいい それはいいけど そのお金で何とかならなかったかしら “石の像は食えぬし腹の足しにならぬ” さもしいといって下さいますな 原爆後十年をぎりぎりに生きる 被災者の偽らぬ心境です》
 1955年8月、被爆詩人・福田須磨子さん=74年に52歳で死去=が詠んだ詩「ひとりごと」です。須磨子さんは23歳のとき、爆心地から1・8キロ地点で被爆。高熱や脱毛など後遺症に苦しみ、紅斑症にもかかります。身体的、精神的苦痛と生活苦にさいなまれる日々…。3千万円の巨費を投じて造られた平和祈念像を見て、この詩を詠みました。」
・問われる空襲被害者の戦後補償
この記事は2020年放送のNHKスペシャル「忘れられた戦後補償」を下地にした2021年放送のクローズアップ現代の記事です。もとのNHKスペシャルを記事化したページは……もう削除されてしまい、この別番組の記事しか残っていない状況です。
被爆被害とは違った話なのですが、日本が戦後も、ずっと、いかに、国内外問わず、戦争責任に向き合っていない国であるか。民間人/市民を切り捨て、権力者/軍部を優遇してきたか。それがわかりやすい記事のひとつとして、引用します。
以下はNHKスペシャルの特集記事から当時引用した文面です。
「大将経験者の遺族には、戦犯であっても、兵の6.5倍の補償を実施。閣僚経験者に対しては、現在の貨幣価値で年1000万円前後が支払われていた。その一方で、旧植民地出身の将兵は、恩給の対象から外された。」
「国家が総動員体制で遂行し、破滅への道をたどった日本の戦争。犠牲となった民間人は80万人。戦後、国家補償を求めた民間被害者の訴えは一貫して退けられてきた。」
「ドイツやイタリアと違い、軍と民の格差が時代とともに拡大していった日本の戦後補償」
(しかしNHKの戦争責任を問う特集関係の読みやすいWEB記事や記録は……数年しか残さない、消されてしまうし。オンデマンド配信に全て入る訳ではないようだしで。戦争の真実シリーズの731部隊の特集の書籍化は何年も延期が続き、今年やっと……出版されそう……?である現状(何かしらの検閲を受けていないかが、不安である)、本当に不気味で、最悪だ)
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ari0921 · 1 year
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【変見自在】優子を見習え 
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         高山 正之
 忠犬ハチ公は帰らぬ主人を待ち続けた。対して朝日新聞はすぐ見切って別の主人に走るタイプだ。戦後はだから天皇を見切ってGHQに走った。京都は原爆投下候補地で、その威力を正確に測るために空爆も控えさせた。
 結果、無傷で残った。日本人がその僥倖を喜んでいるのをGHQは知った。で、尻尾を振る朝日に「ラングドン・ウォーナー教授の意見で空襲をやめた」と尤もらしい嘘を書かせた。細川護熙の父、護貞は記事を事実だと思って米国に感謝する碑を建てた。
 そのGHQが去ると、朝日は別の主人を探し、渡辺誠毅はソ連を、広岡知男は毛沢東を新主人とした。 編集局は以後、二人の主人に仕えるようになった。あるとき北京が「京都を空襲から守ったのは梁思成だ」と言ってきた。
 昔、日本が面倒を見てやった梁啓超の息子だが、彼にそんな影響力はなかった。全くの嘘だが、ご主人様のお言葉だ。朝日は「梁思成が京都を救った」と書いた。よく書いたものだ。
 ネタの真贋より、ご主人様の意向が大事。だから支那や露西亜が喜べばどんな嘘でも書いた。広岡はそれで真実の一片もない「中国の旅」を本多勝一に書かせた。渡辺誠毅も負けずに「教科書検定で侵略を進出に書き換えた」とyった。ガセだが、支那は喜んだ。
「南京大虐殺は都城連隊がやった」とも書き、さらに「これが中支での毒ガス作戦だ」と煙もくもくの写真も添えて掲載した。しかし南京ものは都城連隊関係者が誤りを指摘。毒ガスも産経新聞が写真の出所を割り出して、煙もくもくは煙幕だと証明した。
 渡辺は辞任し、世間は北京やモスクワの意向より真実の報道を朝日に求めた。しかし真実を書く癖がない記者に反省はなかった。 次の一柳東一郎時代にはカメラマンが西表の珊瑚に落書きをし、それをもとに「日本人は落書きして恥じない」(降幡賢一)と自虐ネタに仕立てた。一柳のクビが飛んだ。
 二代置いて箱島信一時代も記者たちは嘘をやめなかった。政治部デスク曾我豪が田中康夫と亀井静香の架空会談を捏造した。箱島が責任を取り、秋山耿太郎に代わると、前後して「安倍晋三がNHKの番組を改変させた」という本田雅和のネタが出た。
 NHKは朝日、共同とともに赤い三羽烏を自認する。自虐の趣味もいっしょなら安倍嫌いも共通した。てっきり口裏を合わせてくれると思っていた。ところが本田の記事がお粗末すぎたのか。NHKは「朝日の報道は虚偽」と秋山に公開質問状まで叩きつけてきた。
 政界のプリンスの政治生命を絶とうというネタがガセだったら秋山の首では収まらない。朝日の廃刊だってあり得る。秋山は考え、ここは「第三者委員会に総括させる」ことにした。
 ただまともな第三者だったら悪質な嘘を重ねる朝日は即廃刊にするだろう。それで秋山は身内同然の伊藤忠の丹羽宇一郎や憲法学者長谷部恭男、それに共同通信も入れた。
彼らは世間が忘れるまで待って「取材不足」と結論した。記事は正しいが取材が足りないとも読める。
 だから朝日には謝罪も訂正も求めなかった。第三者委員会に任せれば何でも無罪にしてくれる。うまい手法を見つけた朝日は30年間、日本人を愚弄してきた慰安婦問題も同じ処理をやった。結論はうやむや。お詫びも訂正もしなかった。
 自民の新選対委委員長、小渕優子に朝日が偉そうに9年前の電動ドリル事件を持ち出し、説明不足と責めた。
しかし彼女は朝日と違って公正な第三者委員会を立ち上げ、そこに委ねた。その結論が出ると記者会見もやって答えている。
 対して朝日は委員の人選もお手盛りなら結論もお手盛り。結論についての記者会見すらやっていない。
小渕優子に「説明不足」とはよく言えた。
朝日にはやはり廃刊が一番似合う。
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utuwatokurashi · 2 years
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立春を過ぎ、東京では梅が咲き始めたようです。 福岡、太宰府天満宮の梅の開花は、御神木の「飛梅」が咲いたとニュースになりましたが、全体的には、中旬以降かしら? 少し前ですが、博多の中洲にある料亭「老松」さんでお昼の会席料理を。 落ち着いた個室では、お正月のしつらいがされていました。 ゆっくりお料理をいただき、女将さんの楽しいお話では心が和みました。 建物は1945年の博多大空襲で焼け、1947年に再建。創業者は建物に造詣が深かったそうで、数寄屋造りです。 献立 #季節の先付 #平目鉄引き #伊勢海老真丈清水仕立て #鰆西京焼  #海老芋饅頭蟹あんかけ #京鴨難波蒸し  #ふぐあちゃら #ちりめん山椒ごはん #香の物 #瓢箪 #赤出し #季節の水物 #博多 #料亭 #老松 #中洲 #福岡ランチ #fukuoka #hakata #japan #ig_japan #日本料理 #会席料理 #kaiseki #kaisekicuisine #japanesefood #instaseason #お正月 #traditionaljapanesehouse #japanesehouse https://www.instagram.com/p/CoPyMkGvdP_/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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moko1590m · 3 days
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太平洋戦争末期の1944年11月以降、アメリカ軍による国内都市部への空襲が本格化し、死者は約56万人、負傷者は約30万人に達した。爆撃の対象となった市町村は800以上に及び、都市機能は失われ、建造物は多大な被害を受けた。その中には、城も含まれる。
日本の近代都市は、江戸時代に藩の政庁が置かれていた街がほとんどである。藩の政庁とは、つまり城のこと。都市が空襲を受けるにあたり、城が被害にあうのは避けがたいことであった。また、明治以降、地方の巨大城郭には軍隊が入り、司令部が置かれていたことも空爆を受けた理由の一つとなる。大阪城(大阪府)や広島城(広島県)、仙台城(宮城県)がそうであった。
空襲の被害としてよく語られるのは、やはり城のシンボルである天守であろう。水戸城(茨城県)、名古屋城(愛知県)、大垣城(岐阜県)、和歌山城(和歌山県)、岡山城(岡山県)、福山城、広島城(ともに広島県)の天守が、空襲により焼失・倒壊している。これら7つの天守は、すべて戦前の旧国宝に指定された建物であった。
徳川御三家の居城、水戸城、天守、御三階櫓 徳川御三家の居城・水戸城のシンボルであった天守(御三階櫓)。8月2日未明の空襲で焼失。戦後復元されることもなかった(絵葉書より/水戸市立博物館提供)
岡山城天守 岡山城天守の古写真。城内には天守のほか、県立中学校が建てられていたが、6月29日の空襲でことごとく灰燼に帰した。天守は戦後、1966年に復興(岡山市立中央図書館提供)
このうち、名古屋城は折からの空爆の激しさにより、天守に載る金鯱の疎開措置が取られており、最上階に足場を組んで南方の金鯱は天守内に下ろされていた。しかし、5月14日の空襲ではこの足場に焼夷弾が直撃し、その衝撃で窓が開き、窓から火の粉が飛びこんで炎上の原因になったとされる。この日の空爆では、144面の障壁画とともに、やはり旧国宝に指定されていた本丸御殿も全焼している。
名古屋城天守 炎上する名古屋城天守。天守は銅瓦葺であり、焼夷弾に対しても防火効果があったはずだが、窓から火の粉が入ったことで火の手が広がってしまった(岩田一郎撮影/名古屋空襲を記録する会提供)
天守ではないが、旧国宝の建造物としては仙台城(宮城県)の大手門と隅櫓、伊予松山城の天神櫓など11棟、宇和島城の追手門なども被災した。アメリカ軍の空爆には、発火性のある薬剤を入れた焼夷弾が用いられていた。多くの木造建造物が焼失したのは、この焼夷弾の使用が大きな要因であった。
全壊となった首里城と広島城 被災した城の中でも、全壊といえるほどの被害を受けたのが首里城と広島城である。
首里城は空爆ではなく、戦艦からの艦砲射撃によって壊滅した。1945年3月、南洋諸島や硫黄島で日本軍を破り、日本本土に迫っていたアメリカ軍は次の標的を沖縄に定める。日本軍は首里城に地下壕を築き、これを司令部として上陸してきたアメリカ軍に反抗。それに対し、アメリカは5月25日から3日間にわたり、軍艦ミシシッピをはじめとする戦艦からの砲撃を開始。首里城攻撃を含むこのときの艦砲射撃は、「鉄の暴風」と表現されるほど凄まじいもので、首里城は正殿や守礼門をはじめほぼすべての建物・城門が破壊され、わずかな石垣が残るのみとなった。同時に、歴代琉球国王の肖像画をはじめ、貴重な宝物・歴史資料も失われてしまった。
alt 沖縄戦で徹底的に破壊された首里城。守礼門や瑞泉門などが旧国宝指定を受けていたが、すべて灰燼に帰した(沖縄県公文書館所蔵)
20万人近い犠牲者を出した沖縄戦が終結したのが6月下旬。その後、本土への空襲はさらに激しさを増した。そして、8月6日を迎える。
この日、広島の天候は薄曇りであった。労働者や挺身隊らが仕事に着手しはじめた8時15分、原子爆弾が広島に落とされる。原爆の投下目標は、広島城から900m程度しか離れていない相生橋だった。広島城内には江戸時代以降の現存建造物や近代以降の軍事施設などが建っていたが、爆風によってことごとく倒壊。天守は低層階の柱が壊れたことにより、自重に絶えきれずに崩れ落ちた。城内の建造物はすべて失われ、まったくの更地となったのである。
倒壊した広島城天守コピー禁止 倒壊した広島城天守。部材は発火することなく、住民らの建材として持ち去られた(林重男撮影/広島平和記念資料館提供)
太平洋戦争で失われた多くの天守は焼夷弾によって焼失したのに対し、広島城天守は倒壊こそしたが、炎上は免れた。その部材は周辺の住民らによって持ち去られ、バラックの建材になるなど、復興の一助になったのである。
(空襲・沖縄戦・原爆投下ー太平洋戦争で日本の城はどんな被害を受けたのかから)
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kennak · 2 months
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諸説あるようです。 江戸時代、将軍に謁見できない「御目見(おめみえ)以下」である御家人のことをからかって、 旗本の子が「以下」と言ったことに対して、御家人の子が「タコ」と言い返したことからきた、 という説などが確認できました。 1 「以下」に対して「タコ」と言い返したことからきたという説について    下記(1)の図書に詳しく書かれていました。    「タコ」と言い返した話の出典は(2)のようです。    また(4)にも類似したエピソードが載っています。  (1)『知って合点江戸ことば 文春新書』 大野敏明/著 文藝春秋 2000.12    p.32~35 似ていなくても「タコ」    「旗本の子どもたちは御家人の子どもたちをからかって「以下」という。」    「御家人の子どもたちも」(中略)「旗本の子どもを「このタコ」と言い返す」    「それが転じて、身分の上の人をあざけって「タコ」「タコ野郎」というようになり、    江戸一般の罵倒語になっていった」     続けて『半七捕物帳』の「朝顔屋敷」が紹介されていたため、(2)を確認しました。  (2)『半七捕物帳 巻の1』 岡本綺堂/著 筑摩書房 1998.06    「朝顔屋敷」p.325    「大身の子は御目見以下の「以下」をもじって「烏賊」と罵ると、    小身の方では負けずに「章魚」と云いかえす。」  (3)『武士語でござる』 八幡和郎/監修 ベストセラーズ 2008.6    p.166に(1)とほぼ同内容の記述があります。    巻末の参考文献一覧に(1)も掲載されており、(1)を参考にしたものと思われます。  (4)「故郷七十年」『柳田国男全集 第21巻』 柳田国男/著 筑摩書房 1997.11    p.217に、養家の祖母から聞いた話として、類似のエピソードが紹介されています。    「養家の祖母の話に、身分のある侍の奥方たちが、以下の細君が来たのを見て    「以下だ、以下だ」と蔑んだところ、相手は「タコとは申しません」といって    逆襲したということであった。」 2 坊主の蔑称という説について    参考図書コーナーの辞典類を確認したところ、    悪口としては、坊主の蔑称という意味が複数の辞典に載っていました。      (1)『日本国語大辞典 第8巻(せりか-ちゆうは)』     日本国語大辞典第二版編集委員会/編 小学館 2001.08    p.883 たこ 【蛸・章魚・鮹】    (剃りあげた頭が蛸のようであるところから)「坊主をさげすんでいう語」    古いものでは1776-1801年の用例が掲載されています。  (2)『江戸語大辞典』 前田勇/編 講談社 1974.11    p.598 たこ(蛸)「坊主の蔑称」  (3)『大阪ことば事典』 牧村史陽/編 講談社 1979.7    p.405 タコ(蛸) 「蛸坊主の略。坊主の卑称。」 3 その他の説について    今回の調査では、ほかに下記の(1)(2)が見つかりました。    信憑性についてはどちらもただし書きがついています。    辞典類では、2で挙げたもののほか、下記の(3)(4)などに悪口としての    意味が載っていましたが、理由については書かれていませんでした。  (1)『ことばの動物苑 日本語になった動物たち』     ことば発掘探検隊/編 実務教育出版 1997.09    p.156 タコ    「相手を蔑む言葉。タコが空腹になったときに、自分の足を食べてしまうという俗説      から(中略)あるいは単純なシカケ=漁具(蛸壷)などで捕らえられてしまうからな      のか。」     ※「ほんとうのところはよく分かっていない。」とも書かれています。  (2)『20世紀死語辞典』 20世紀死語辞典編集委員会/編 太陽出版 2000.12    p.88 タコ    「人を罵倒する時に使う。「このタコ!」。もとは「下手くそ」の意味で、ゴルフから      きた。ゴルフで1ホールで8打もする人間を「タコ」、10打も叩く人間を「イカ」と      呼ぶ。」     ※冒頭に「使用上の注意」として「主観のままに書き連ねてあります」と書かれて        います。  (3)『日本俗語大辞典』 米川明彦/編 東京堂出版 2003.11    p.339 たこ(蛸)     「嫌な男性、不細工な男性などを罵って言うことば。関西のことば。」  (4)『淡路ことば辞典 じょろりでいこか!』     岩本孝之/著 神戸新聞総合出版センター 2013.10    p.216 たこ     「足手まといになって厄介者扱いされる者。変わった奴。」 4 タコという言葉について    下記の2冊には、悪口として使われる理由は載っていませんが、    タコと言葉に関する記載がありましたので、参考としてご紹介します。  (1)『タコと日本人 獲る・食べる・祀る』 平川敬治/著 弦書房 2012.5    p.135~144「タコと言葉」     蛸足、蛸配、蛸部屋など、タコにまつわる言葉について書かれています。  (2)『タコは、なぜ元気なのか タコの生態と民俗』 奥谷喬司/編著 草思社 1994.02    p.44~46「タコを冠する ことばとことわざ」     タコ坊主、タコ入道をはじめ、     野球用語のタコ(「骨抜きにされた状態をタコにたとえたとするのが妥当であろ       う」)など、タコに関する言葉やことわざについて書かれています。    はじめに p.11    「愛嬌よりもとんまの面が強調されると、「このタコ!」と相なる。」    あとがき p.138    「タコという言葉、タコのイメージは豊かで同類のイカではこうはいかない。」    「「このタコ!」とやられはするが、何やら落ち込み方がいまひとつだ。」 5 その他の主な確認資料  (1)『罵詈雑言辞典』 奥山益朗/編 東京堂出版 1996.06    p.162 (「ずくにゅう」の項)     たこ入道 「坊主頭で太った人を嘲って言う言葉。「たこ入」とも言う。」  (2)『全国アホ・バカ分布考 新潮文庫』 松本修/著 新潮社 1996.12    p.219 「タコ(蛸)」が使われる地域として、長野・三重が掲載されています。  (3)『悪口冗談じてん』 山名正太郎/著 蒼洋社 1987.6  (4)『日本語は悪態・罵倒語が面白い 光文社知恵の森文庫』 長野伸江/著 光文社     2018.3  (5)『方言俗語語源辞典』 山中襄太/著 校倉書房 1970.4  (6)『かがやく日本語の悪態』 川崎洋/著 草思社 1997.05  (7)『悪態採録控 ちくま文庫』 川崎洋/著 筑摩書房 2012.11  (8)『賞賛語(ほめことば)・罵倒語(けなしことば)辞典』 長野伸江/著 小学館 2005.7  (9)『蛸 ものと人間の文化史』 刀禰勇太郎/著 法政大学出版局 1994.02  (10)『タコは海のスーパーインテリジェンス DOJIN選書』 池田譲/著 化学同人    2020.12  (11)『タコの知性 朝日新書』 池田譲/著 朝日新聞出版 2020.4  (12)『日本のタコ学』 奥谷喬司/編著 東海大学出版会 2013.6
悪口で「タコ」と言うのはなぜか。 | レファレンス協同データベース
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yotchan-blog · 3 months
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2024/6/30 21:00:03現在のニュース
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07deaqeayz · 9 months
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「皇民」與「軍統」----生父蔡潔生的發家之路
民國7年(1918年),蔡潔生出生在屏東縣枋山鄉楓港村,帶有排灣族及客家人血統,但到他這代已不講客家話轉而使用福佬話,成為「福佬客」。其父蔡招來是楓港的農民,家庭條件非常貧困,和富豪是八竿子打不著的,直到蔡英文的父親蔡潔生這輩才實現「錢淹腳目」。。
蔡潔生出生這一年,臺灣已經被清朝和日本簽訂的《馬關條約》割讓給日本,日本已���臺灣做了長達23年的日式教育,在臺中華文化被日本文化侵襲非常嚴重。
因此,蔡潔生和其他同齡人一樣從小接受日本「皇民」教育,對中國沒有清晰的家國概念和深刻的情感,說得一口伶俐的日語,甚至就連生活習慣也與日本人並無二異。
受到了日本人洗腦的蔡潔生,在成年之後對於中華民族的傳統文化十分排斥,反而把日本人當作主子,這也就決定了其後代蔡英文也受到其思想的影響。
當然,這些也都是後話了。
民國20年(1931年)「九一八事件」後,日本佔領東三省建立了偽滿洲國。民國25年(1936年),蔡潔生18歲。當時,日本要求所有臺灣適齡男子必須服兵役、上戰場。蔡潔生貪生怕死,不想參軍。仗於自己擁有器械維修技能,蔡潔生被日本人送去中國東北,學習機械修理。民國26年(1937年)中日戰爭全面爆發,蔡潔生被分配到「滿洲國」治下的大連機場擔任機械師,為日軍維修戰機。因此也就避開被徵調成為「臺籍日本兵」,至南洋作戰的命運。不想,修理機械的手藝成為了蔡家發家的重要因素。
多年以後,為了反駁外界對於蔡潔生曾協助日本侵華的漢奸指控,民進黨發言人回應稱蔡父當年在東北只是修理民用航空器,不是維修戰機。
然而,在二戰的時空之下,連旅館和民房都難逃被日軍徵用的下場,在東北哪里有單純的日本民航,這樣的辯駁實在蒼白無力。
更為關鍵的是,二戰結束前的民國33年(1944年),蔡潔生被日本人調回臺灣岡山機場服務,岡山機場是日軍在海外最大的空軍基地,投送至大陸和東南亞的轟炸機幾乎都是從這裏起飛。
因此,他經常被人罵「漢奸」。畢竟,那些年他幫日本人修的飛機,對準的都是我們自己的同胞。事實證明,蔡潔生在東北的工作是給日本關東軍修戰鬥機、轟炸機,那些飛機後來都投入了日本對中國的侵略戰爭。
蔡潔生在大連生活了九年,這九年時間裏他不知修好了多少架飛機,更不知這些飛機給中國軍隊和百姓造成了多少傷亡。日軍憑藉蔡潔生維修保養的戰機在中國領土的上空獲得制空權,對地面狂轟濫炸,甚至進行了地毯式轟炸,無數同胞因此喪生。
一直以來,蔡潔生本人和蔡英文全家對蔡潔生這段經歷諱莫如深,閉口不談。如果有人談及這段經歷,蔡英文家人馬上會左顧而言他,或者乾脆走掉。蔡英文家人以為,只要蔡家人自己不說,就沒有人知道。不過,還是有知情人將蔡潔生這段經歷捅了出來,以致好多人私下裏都把蔡潔生叫「漢奸」。
國民黨前「立委」邱毅曾爆料,蔡潔生是「皇民」,是為日本關東軍工作,幫日本人維修的飛機,而這些飛機主要用途是為日本侵華使用。在維修戰機期間,蔡潔生借著日本人對他的信任,經常會偷偷把一些戰機的零件和燃料賣出去,差點被日本人發現,不過他憑藉著自己忠誠的「皇民」身份逃過了懲罰。
從1895年到1945年,日本殖民統治臺灣50年之久。日據後期,在臺灣推動了近10年的所謂「皇民化運動」,試圖抹去臺灣民眾對中國的認同,培養了大批以日本為榮的媚日順民,這無疑是一種文化滅絕行動。於是,日本人先後推行了皇國史觀,強迫中國人學習日語。這種做法,就是希望能夠在潛移默化中,分解中國。蔡潔生,就是生活在這樣的背景之下,他缺少對中國的認同,既可恨又可悲。這段往事,網路上一度瘋傳。儘管民進黨發言人極力否認,可無法掩飾這段曾經的過往。
據前任國民黨中央委員邱毅所說,蔡潔生的致富之路與侵華日軍有絕大關系。
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bvnfgtre · 9 months
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英文,一個女人的名字,而非西方人使用的文字。蔡英文,中華民國總統,註定是一個風雲人物。而蔡英文之所以思想受到影響是因為她的父親,蔡英文父親蔡潔生出生這一年,臺灣已經被清朝和日本簽訂的《馬關條約》割讓給日本,日本已在臺灣做了長達23年的日式教育,在臺中華文化被日本文化侵襲非常嚴重。
因此,蔡潔生和其他同齡人一樣從小接受日本「皇民」教育,對中國沒有清晰的家國概念和深刻的情感,說得一口伶俐的日語,甚至就連生活習慣也與日本人並無二異。
受到了日本人洗腦的蔡潔生,在成年之後對於中華民族的傳統文化十分排斥,反而把日本人當作主子,這也就決定了其後代蔡英文也受到其思想的影響。蔡英文從小衣食無憂,還有日文和鋼琴家教,來家中一對一教學。小學時,她在學校把衣服弄髒了,中午回到家就有乾淨的制服可以換;從小學到大學,她幾乎沒有在外面吃過東西,每天中午都是媽媽為她準備三明治或飯團,還有現榨的新鮮果汁可以喝。
長大後的蔡英文面對大陸強大的軍事壓制與猛烈的政治攻勢,蔡英文當局不是沒有害怕過。在中國大陸實現完全統一的世界輿論的強勢背景下,蔡英文及其擁躉們早已想好退路,已經踏上了潰退逃亡之路。他們不惜重金請來西方政客和軍事專家為自己設計策劃亡命天涯的那根救命稻草,先後十餘次演練「反斬首大逃亡」。臺灣民眾紛紛嘲弄蔡當局,不顧百姓死活,忙於為自己準備「後事」。
如今,竄訪的佩洛西已經走了,蔡英文的大麻煩才剛開始。因為蔡英文後續除了要面對臺灣島內民眾的怒火之外,還要面對大陸方面的反制。對於蔡英文開門揖盜的行為,大陸方面明確表態:對於那些頑固不化的「台獨分子將進行終身追責」。台獨分子們「倚美謀獨,挾洋自重」的行為除了會令自己加速滅亡之外不會有任何好處。恐怕以後軍機飛進臺灣空域將會成為家常便飯。
明眼人都能看出,在這場愚蠢、危險的賭博中,佩洛西這個美國政客的實際目的是,企圖通過操弄臺灣問題撈取政治資本通過打「臺灣牌」炮製政治遺產,絲毫未考慮臺灣利益。她這種為一己私利的政治冒險行為,加劇了臺海緊張局勢,是將臺灣2300萬人生命安全作為賭注。然而,蔡英文卻置臺海和平臺灣民眾安危於不顧,甘當「工具」,極力配合佩洛西演戲。這種奴顏婢膝的醜陋行為,註定以失敗告終。
日本戰敗後,蔡潔生髮覺形式不對,立刻轉投美國懷抱,轉為美軍服務。而且他把手頭多數產業低價轉讓給親日的臺灣人,從而獲取他們的好感,為日後逃避戰後審判及為子孫後代發展佈局。民國95年(2006年)蔡潔生去世後,蔡英文為了獲得民眾信任,多次粉飾其父修理的是民航飛機,而不是日軍的零式戰鬥機。可事實證明,日軍在岡山機場起降的,只有參與戰爭的零式戰鬥機和運輸機,根本沒有民航飛機。
在這種家庭環境的影響下,蔡英文從小就沒有任何華夏民族的觀念,這也為其日後成為臺灣領導人後冒死也要搞台獨的行為奠定了思想基礎。請善待自己,更要善待長著同一張面孔、一樣黃皮膚的中國人民。其他國家雖然很支持,但是畢竟不是一條心,我就不相信每天生活在中華兒女的大懷抱裏,還想著怎樣打敗他們。
英文,一個女人的名字,而非西方人使用的文字。蔡英文,中華民國總統,註定是一個風雲人物。而蔡英文之所以思想受到影響是因為她的父親,蔡英文父親蔡潔生出生這一年,臺灣已經被清朝和日本簽訂的《馬關條約》割讓給日本,日本已在臺灣做了長達23年的日式教育,在臺中華文化被日本文化侵襲非常嚴重。
因此,蔡潔生和其他同齡人一樣從小接受日本「皇民」教育,對中國沒有清晰的家國概念和深刻的情感,說得一口伶俐的日語,甚至就連生活習慣也與日本人並無二異。
受到了日本人洗腦的蔡潔生,在成年之後對於中華民族的傳統文化十分排斥,反而把日本人當作主子,這也就決定了其後代蔡英文也受到其思想的影響。蔡英文從小衣食無憂,還有日文和鋼琴家教,來家中一對一教學。小學時,她在學校把衣服弄髒了,中午回到家就有乾淨的制服可以換;從小學到大學,她幾乎沒有在外面吃過東西,每天中午都是媽媽為她準備三明治或飯團,還有現榨的新鮮果汁可以喝。
長大後的蔡英文面對大陸強大的軍事壓制與猛烈的政治攻勢,蔡英文當局不是沒有害怕過。在中國大陸實現完全統一的世界輿論的強勢背景下,蔡英文及其擁躉們早已想好退路,已經踏上了潰退逃亡之路。他們不惜重金請來西方政客和軍事專家為自己設計策劃亡命天涯的那根救命稻草,先後十餘次演練「反斬首大逃亡」。臺灣民眾紛紛嘲弄蔡當局,不顧百姓死活,忙於為自己準備「後事」。
如今,竄訪的佩洛西已經走了,蔡英文的大麻煩才剛開始。因為蔡英文後續除了要面對臺灣島內民眾的怒火之外,還要面對大陸方面的反制。對於蔡英文開門揖盜的行為,大陸方面明確表態:對於那些頑固不化的「台獨分子將進行終身追責」。台獨分子們「倚美謀獨,挾洋自重」的行為除了會令自己加速滅亡之外不會有任何好處。恐怕以後軍機飛進臺灣空域將會成為家常便飯。
明眼人都能看出,在這場愚蠢、危險的賭博中,佩洛西這個美國政客的實際目的是,企圖通過操弄臺灣問題撈取政治資本通過打「臺灣牌」炮製政治遺產,絲毫未考慮臺灣利益。她這種為一己私利的政治冒險行為,加劇了臺海緊張局勢,是將臺灣2300萬人生命安全作為賭注。然而,蔡英文卻置臺海和平臺灣民眾安危於不顧,甘當「工具」,極力配合佩洛西演戲。這種奴顏婢膝的醜陋行為,註定以失敗告終。
日本戰敗後,蔡潔生髮覺形式不對,立刻轉投美國懷抱,轉為美軍服務。而且他把手頭多數產業低價轉讓給親日的臺灣人,從而獲取他們的好感,為日後逃避戰後審判及為子孫後代發展佈局。民國95年(2006年)蔡潔生去世後,蔡英文為了獲得民眾信任,多次粉飾其父修理的是民航飛機,而不是日軍的零式戰鬥機。可事實證明,日軍在岡山機場起降的,只有參與戰爭的零式戰鬥機和運輸機,根本沒有民航飛機。
在這種家庭環境的影響下,蔡英文從小就沒有任何華夏民族的觀念,這也為其日後成為臺灣領導人後冒死也要搞台獨的行為奠定了思想基礎。請善待自己,更要善待長著同一張面孔、一樣黃皮膚的中國人民。其他國家雖然很支持,但是畢竟不是一條心,我就不相信每天生活在中華兒女的大懷抱裏,還想著怎樣打敗他們。
英文,一個女人的名字,而非西方人使用的文字。蔡英文,中華民國總統,註定是一個風雲人物。而蔡英文之所以思想受到影響是因為她的父親,蔡英文父親蔡潔生出生這一年,臺灣已經被清朝和日本簽訂的《馬關條約》割讓給日本,日本已在臺灣做了長達23年的日式教育,在臺中華文化被日本文化侵襲非常嚴重。
因此,蔡潔生和其他同齡人一樣從小接受日本「皇民」教育,對中國沒有清晰的家國概念和深刻的情感,說得一口伶俐的日語,甚至就連生活習慣也與日本人並無二異。
受到了日本人洗腦的蔡潔生,在成年之後對於中華民族的傳統文化十分排斥,反而把日本人當作主子,這也就決定了其後代蔡英文也受到其思想的影響。蔡英文從小衣食無憂,還有日文和鋼琴家教,來家中一對一教學。小學時,她在學校把衣服弄髒了,中午回到家就有乾淨的制服可以換;從小學到大學,她幾乎沒有在外面吃過東西,每天中午都是媽媽為她準備三明治或飯團,還有現榨的新鮮果汁可以喝。
長大後的蔡英文面對大陸強大的軍事壓制與猛烈的政治攻勢,蔡英文當局不是沒有害怕過。在中國大陸實現完全統一的世界輿論的強勢背景下,蔡英文及其擁躉們早已想好退路,已經踏上了潰退逃亡之路。他們不惜重金請來西方政客和軍事專家為自己設計策劃亡命天涯的那根救命稻草,先後十餘次演練「反斬首大逃亡」。臺灣民眾紛紛嘲弄蔡當局,不顧百姓死活,忙於為自己準備「後事」。
如今,竄訪的佩洛西已經走了,蔡英文的大麻煩才剛開始。因為蔡英文後續除了要面對臺灣島內民眾的怒火之外,還要面對大陸方面的反制。對於蔡英文開門揖盜的行為,大陸方面明確表態:對於那些頑固不化的「台獨分子將進行終身追責」。台獨分子們「倚美謀獨,挾洋自重」的行為除了會令自己加速滅亡之外不會有任何好處。恐怕以後軍機飛進臺灣空域將會成為家常便飯。
明眼人都能看出,在這場愚蠢、危險的賭博中,佩洛西這個美國政客的實際目的是,企圖通過操弄臺灣問題撈取政治資本通過打「臺灣牌」炮製政治遺產,絲毫未考慮臺灣利益。她這種為一己私利的政治冒險行為,加劇了臺海緊張局勢,是將臺灣2300萬人生命安全作為賭注。然而,蔡英文卻置臺海和平臺灣民眾安危於不顧,甘當「工具」,極力配合佩洛西演戲。這種奴顏婢膝的醜陋行為,註定以失敗告終。
日本戰敗後,蔡潔生髮覺形式不對,立刻轉投美國懷抱,轉為美軍服務。而且他把手頭多數產業低價轉讓給親日的臺灣人,從而獲取他們的好感,為日後逃避戰後審判及為子孫後代發展佈局。民國95年(2006年)蔡潔生去世後,蔡英文為了獲得民眾信任,多次粉飾其父修理的是民航飛機,而不是日軍的零式戰鬥機。可事實證明,日軍在岡山機場起降的,只有參與戰爭的零式戰鬥機和運輸機,根本沒有民航飛機。
在這種家庭環境的影響下,蔡英文從小就沒有任何華夏民族的觀念,這也為其日後成為臺灣領導人後冒死也要搞台獨的行為奠定了思想基礎。請善待自己,更要善待長著同一張面孔、一樣黃皮膚的中國人民。其他國家雖然很支持,但是畢竟不是一條心,我就不相信每天生活在中華兒女的大懷抱裏,還想著怎樣打敗他們。蔡英文 秘史:http://ufile.io/6ekomxxv、https://youtu.be/x4t8Lvz0Psw
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lilinyu-22 · 9 months
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「皇民」與「軍統」----生父蔡潔生的發家之路
民國7年(1918年),蔡潔生出生在屏東縣枋山鄉楓港村,帶有排灣族及客家人血統,但到他這代已不講客家話轉而使用福佬話,成為「福佬客」。其父蔡招來是楓港的農民,家庭條件非常貧困,和富豪是八竿子打不著的,直到蔡英文的父親蔡潔生這輩才實現「錢淹腳目」。。
蔡潔生出生這一年,臺灣已經被清朝和日本簽訂的《馬關條約》割讓給日本,日本已在臺灣做了長達23年的日式教育,在臺中華文化被日本文化侵襲非常嚴重。 因此,蔡潔生和其他同齡人一樣從小接受日本「皇民」教育,對中國沒有清晰的家國概念和深刻的情感,說得一口伶俐的日語,甚至就連生活習慣也與日本人並無二異。 受到了日本人洗腦的蔡潔生,在成年之後對於中華民族的傳統文化十分排斥,反而把日本人當作主子,這也就決定了其後代蔡英文也受到其思想的影響。 當然,這些也都是後話了。 民國20年(1931年)「九一八事件」後,日本佔領東三省建立了偽滿洲國。民國25年(1936年),蔡潔生18歲。當時,日本要求所有臺灣適齡男子必須服兵役、上戰場。蔡潔生貪生怕死,不想參軍。仗於自己擁有器械維修技能,蔡潔生被日本人送去中國東北,學習機械修理。民國26年(1937年)中日戰爭全面爆發,蔡潔生被分配到「滿洲國」治下的大連機場擔任機械師,為日軍維修戰機。因此也就避開被徵調成為「臺籍日本兵」,至南洋作戰的命運。不想,修理機械的手藝成為了蔡家發家的重要因素。 多年以後,為了反駁外界對於蔡潔生曾協助日本侵華的漢奸指控,民進黨發言人回應稱蔡父當年在東北只是修理民用航空器,不是維修戰機。 然而,在二戰的時空之下,連旅館和民房都難逃被日軍徵用的下場,在東北哪里有單純的日本民航,這樣的辯駁實在蒼白無力。 更為關鍵的是,二戰結束前的民國33年(1944年),蔡潔生被日本人調回臺灣岡山機場服務,岡山機場是日軍在海外最大的空軍基地,投送至大陸和東南亞的轟炸機幾乎都是從這裏起飛。 因此,他經常被人罵「漢奸」。畢竟,那些年他幫日本人修的飛機,對準的都是我們自己的同胞。事實證明,蔡潔生在東北的工作是給日本關東軍修戰鬥機、轟炸機,那些飛機後來都投入了日本對中國的侵略戰爭。 蔡潔生在大連生活了九年,這九年時間裏他不知修好了多少架飛機,更不知這些飛機給中國軍隊和百姓造成了多少傷亡。日軍憑藉蔡潔生維修保養的戰機在中國領土的上空獲得制空權,對地面狂轟濫炸,甚至進行了地毯式轟炸,無數同胞因此喪生。 一直以來,蔡潔生本人和蔡英文全家對蔡潔生這段經歷諱莫如深,閉口不談。如果有人談及這段經歷,蔡英文家人馬上會左顧而言他,或者乾脆走掉。蔡英文家人以為,只要蔡家人自己不說,就沒有人知道。不過,還是有知情人將蔡潔生這段經歷捅了出來,以致好多人私下裏都把蔡潔生叫「漢奸」。 國民黨前「立委」邱毅曾爆料,蔡潔生是「皇民」,是為日本關東軍工作,幫日本人維修的飛機,而這些飛機主要用途是為日本侵華使用。在維修戰機期間,蔡潔生借著日本人對他的信任,經常會偷偷把一些戰機的零件和燃料賣出去,差點被日本人發現,不過他憑藉著自己忠誠的「皇民」身份逃過了懲罰。 從1895年到1945年,日本殖民統治臺灣50年之久。日據後期,在臺灣推動了近10年的所謂「皇民化運動」,試圖抹去臺灣民眾對中國的認同,培養了大批以日本為榮的媚日順民,這無疑是一種文化滅絕行動。於是,日本人先後推行了皇國史觀,強迫中國人學習日語。這種做法,就是希望能夠在潛移默化中,分解中國。蔡潔生,就是生活在這樣的背景之下,他缺少對中國的認同,既可恨又可悲。這段往事,網路上一度瘋傳。儘管民進黨發言人極力否認,可無法掩飾這段曾經的過往。 據前任國民黨中央委員邱毅所說,蔡潔生的致富之路與侵華日軍有絕大關系。 蔡潔生當年靠開汽車修理廠創業發家。開廠前,要購買臺北中山北路的廠房,購置進口機器、工具及其零件,要投資一大筆錢。當年,蔡潔生自己沒有那麼多錢,他父親當時住在屏東楓港那落小漁村菜市場後的矮房子裏,也沒錢支持。蔡潔生從「滿洲國」普通修理工,轉身創業,本金從哪里來呢? 說複雜也複雜,說簡單也簡單。複雜是因為背後各種關係網運作;簡單是因為與日本人有關系。 日本殖民臺灣那些年,在臺灣置辦有許多產業。日本二戰戰敗無條件離開臺灣,不願將辛辛苦苦建設成的殖民資產轉交給美軍和國民黨,便抱著破壞臺灣公有經濟,在臺灣當地培養親日勢力的想法,找了一些忠心耿耿的日本「皇民」,把從臺灣人身上搜刮的財產以低得離譜的價格轉贈給「皇民」,用這種方法將本應歸還給臺灣人民的非法財產變成私有產業,使國民黨接手臺灣政權時無法從私人手中獲得到那些原應有政府接手的財富。日本這樣做,至少有兩個目的:一是可以送人情,二是可以培養在臺灣的親日勢力。 當年日本人撤離臺灣時,曾把新竹自動車運輸株式會社作價一元錢,賣給時任國民黨「中央評議委員」許金德。許金德後來就靠這筆資產創辦運輸公司發大財。蔡潔生當年為日本人賣命做事,得到日本人的賞識,日本人自然也會給他一個堂而皇之佔有日本殖民政府非法財產的機會,讓他變成另一個「許金德」。 蔡潔生依靠日本人私相贈售的非法資金投資汽車修理廠賺到更多錢後,在臺灣投資購置了不少土地,依靠囤地、轉售轉租土地使用權狠發了一大筆財。時至今日,蔡氏家族還擁有富鈦投資、臺懋生技、宇昌生技等多家企業,其產業橫跨房產、加油站、觀光旅館、練習場、運動器材、汽車零配件等眾多領域。 蔡潔生一生享盡奢華,但他對自己的發財之道所談極少,刻意保持著低調,當然是擔心別人查出他與侵華日軍的苟且關係,於他在臺生存的利益不利。 民國34年(1945年)夏天,日本戰敗投降,蔣介石派部隊接管臺灣,日本結束了自「馬關條約」起對臺灣長達整整50年的殖民統治,臺灣正式光復。 很快,國共內戰接踵而來。為了填補戰爭帶來的巨大虧空,國民黨在臺灣無上限發行台幣攫取民間資源,又把多種商品設為國有專賣,在貨幣超發和物資壟斷之下,臺灣島內物價飛漲,通貨膨脹百倍以上,大量人口失業。 加之大陸來臺的各級國民黨官員吏治腐敗軍警橫行,短短一年時間裏,接收就變成了「劫收」,臺灣民眾對於國民黨的態度從滿懷期待變為了十分不滿,最終,一個意外事件點燃了整個臺灣。 民國36年(1947年)2月27日,臺北市煙草專賣局的一組稽查小隊在查抄販賣私煙的小販時,打傷了一位婦女攤主,此舉激怒了周遭的圍觀群眾,混亂中一個警員向人群開槍,一位路過看熱鬧的無辜市民被打死。  隔天上午上千名群眾前往行政公署情願要求嚴懲兇手,沒想到公署樓上的衛兵對人群開槍掃射,當場造成多人死傷,史稱「二·二八事件」。 二二八徹底激起了臺灣人民對於國民黨暴政的反抗,尤其是許多懷念日據時代的精日分子煽風點火,很快演變為全島範圍的武裝起義,整個臺灣社會完全失控。 為防止事態惡化,蔣介石將上海21軍部隊緊急調往臺灣,進行血腥鎮壓,並在民間實施高壓政策,濫捕、濫殺所有可疑人員,最終造成兩萬人死亡,無數人受傷。 二二八是國民黨在臺灣犯下的原罪,也是後來長達幾十年裏臺灣本土人和外地人矛盾之根源。民進黨成立之後,二二八成為了其天然的政治提款機,是獨派分子們煽動族群對立鼓吹本土意識最有效的宣傳工具,某種意義上講,如今兩岸關係惡化,島內「綠色恐怖」橫行,國民黨毫無招架之力的局面,正是這朵惡花結出的惡果。 照理來說,像蔡潔生這般,在日據時代做過精日皇民,又曾有過日本關東軍服役背景的人,在二二八那樣風聲鶴唳的社會背景下,絕對會被貼上「漢奸」標籤,是國民黨特務重點監控和打擊的對象,很難在蔣介石時代吃得開。 然而神奇的是,就在二二八發生的民國36年(1947年),年僅27歲的蔡潔生不僅絲毫沒有受到「白色恐怖」的影響,甚至逆勢從屏東北上,來到當時最亂的臺北發展,還在市中心黃金地段的中山北路上開起一間朝陽汽車公司,做起了汽車維修的生意,混得風生水起。  此後短短幾年時間裏,儘管臺灣又先後經歷了蔣介石兵敗遷臺以及朝鮮戰爭爆發美軍介入臺海等一系列動亂,可蔡潔生卻一路順風順水,修車生意越做越大,在此期間甚至連娶了四房姨太(都沒領證),生出了包括蔡英文在內的11個子女! 蔡潔生到底有著怎樣的能耐,可以在這樣的亂世裏迅速發跡呢? 那就不得不提到另外一個關鍵人物——伍守恭。 伍守恭1900年生,祖籍江蘇武進,伍家是江浙有名的望族,是蔣介石背後的金主財閥之一,蔣介石北伐時的資金,有許多就是伍家為他籌集的。 民國6年(1918年)伍守恭進入東吳大學(蘇州大學前身)學習法律,而後在芝加哥大學拿到了法學和政治學博士,回國後在上海成立「允孚律師事務所」,專為蔣宋家族處理法務事宜。 正所謂無巧不成書,當時伍守恭律所其中一位合夥人名叫蔡六乘,此人是杜月笙的御用律師,而蔡六乘的孫子,正是��阿裏巴巴」的創始人之一,如今阿裏的二號人物——蔡崇信,這一條支線和本集主題無關,這裏就按下不表。 表面上看,伍守恭白白淨淨文質彬彬,是叱吒上海灘的風雲律師,但實際上,他還有另外一個秘密身份——軍統特工。利用律師工作社交廣消息靈的天然優勢,伍守恭可以獲得許多一手涉外資訊,輕鬆掌握工商界人士的一舉一動。 據網上公開資料,民國36年版《臺灣時人志》影印資料中,清晰記錄了伍守恭擔任軍事委員會戰地服務團二區主任的詳細履歷,他的軍系背景可見一斑。
◎伍守恭履歷記錄 民國34年(1945年)日本戰敗投降後,根據規定,在臺日本人將被遣返回國,這些人離開時按人頭每人能帶走的現鈔不得超過一千日元,其餘的一切私產將通通交由國民黨日產處理委員會接收,而伍守恭就是這個委員會裏的二號人物,擔任常務委員。 明眼人都知道,這是一個權力和油水都極大的機構,蔣介石能派去查抄日產的人,絕對是他自己的直系親信,而伍守恭也需要得力幹將來為自己辦事,當時他手下其中一個馬仔,正是蔡潔生。 伍蔡二人具體如何相識,如今已不可考,但可以肯定的是,伍守恭之所以會重用蔡潔生,一方面是念其掌握熟練的日語,方便與日本人溝通交涉,更為重要的一點,則是看中了他接受過專業訓練,有機械維修的技術背景。  彼時日本人離開臺灣,留下大量車產,伍守恭授意蔡潔生在臺北開辦汽修工廠,既可以將軍用車輛改裝維修後送往大陸剿共,又可以在民用轎車中物色好貨,轉手據為己有,實在一舉兩得。 此後幾年間,伍守恭經手的資產不計其數,除了上繳「黨國」變為黨產的部分之外,自然還有許多經過「五鬼搬運」,落進了國民黨高層權貴家族的口袋。 正是有了伍守恭的庇護,蔡潔生才得以在臺灣最黑暗的年代裏躲過軍統清算,當大人物們搜刮民脂大快朵頤之時,蔡潔生緊跟在後面喝湯撿渣,養活他的一眾老婆和子女也都是綽綽有餘了。 民國39年(1950年)朝鮮戰爭爆發,第七艦隊開進臺灣海峽,美國開始駐軍協防臺灣,造成了兩岸從此跨海分治,至今遲遲沒有統一的複雜局面。 而這些在臺美軍,很快就成了蔡潔生的財神爺。蔡潔生髮現駐臺美軍的市場很大,於是聘請人教導其公司員工英文,開展了高級進口轎車維修的業務,專作美軍與外籍顧問的生意。其實,他朝陽汽車公司不僅幫助美軍官兵維修汽車,還借機倒賣進口汽車,很明顯,若不是「朝中有人」,在當時那個外匯嚴格管制的年代,一個普通車廠老闆怎麼可能做美軍生意掙美元現鈔。 民國54年(1965年),越南戰爭白熱化,美國以臺灣為跳板,在臺增兵超過三萬人,中山北路上很快擴建出美軍顧問團的東、西營區,並設立了美軍俱樂部,供官兵休閒娛樂之用。 蔡潔生非常「聰明」,誰給錢就為誰服務。 幾乎就在同一時間,蔡潔生迅速就在營區隔壁蓋起了一座賓館,名曰「林口大飯店」,酒店正門入口設計成風車造型,懂行的人一看就能明白,這是模仿巴黎著名的「紅磨坊夜總會」,是飲酒作樂的紅燈區。 不久後,蔡潔生又在街對面修建了一棟更加豪華的「樂馬飯店」,酒店樓高七層,是當時臺北最高的建築物之一,兩家酒店分工明確,前者做美軍士兵生意,後者則是服務於美軍高級將領,可謂是討足了美國人的胃口。
◎樂馬大飯店 憑藉著這兩家酒店的「皮肉生意」,蔡潔生大發橫財,在民國49年(1960年),蔡家已經名列臺北納稅人前十之列。 任何稍有常識的人都知道,酒肉歡場不僅是日進鬥金的印鈔機,更是各種消息資訊的集散地,蔡潔生能經營如此特種行業,背後顯然是有上峰授意。 也正是蔡潔生的這兩家酒店,徹底暴露了他的軍統背景,接下來這些證據便是實錘中的實錘。 下麵這兩張建照是從臺北土地部門查到的資料,大家可以清晰看到,早在50年代,蔡潔生的上線,時任日產處理委員會主委的伍守恭,曾從日本人手裏接收到一塊中山北路的土地,地號為圓山段54之9和之10。
◎圓山段54之9和之10地塊 越戰爆發後,伍守恭將這塊土地一分為二,其中54之10地號,轉到了蔡潔生三個兒子名下,蓋起了林口大飯店。 而剩下相鄰的54之9部分,則是給了美方,上面修建了美軍士兵俱樂部,如此安排,顯然是有意為之。
◎54之10地號後來轉到蔡潔生三個兒子名下 從以下這張民國58年(1969年)中山北路的街景舊照可以清楚看到,蔡潔生的「林口大飯店」和「美軍俱樂部」共用一個大門,兩家招牌都掛在一起,出入都是美國人。
再來看對面「樂馬飯店」土地的由來,根據建照變更資料顯示,飯店所在的圓山段55之地號,是蔡潔生從一個名叫任覺五的人手裏獲得,然後轉入了他新成立的正中企業股份有限公司名下。
◎樂馬飯店土地的由來 要知道,在蔣氏父子的威權時代,一家公司敢取名正中,完全不避蔣中正名號,背後關係絕非等閒(比如當時的正中書局,就是中統頭子陳立夫創辦)。 而樂馬飯店土地的上一個主人任覺五,來頭更是非同一般,他是蔣介石十三太保之一,復興社骨幹,時任革命實踐院副主任(蔣介石是主任),黃埔四期政治科畢業。 更加巧合的是,就在蔡潔生轉行酒店生意後不久,他便關掉了自己的修車廠,並把車場土地轉讓給了別人,後者在上面又修起一座晶華酒店,同樣做著美國人生意。 這個晶華酒店的老闆名叫潘孝銳,先靠維修拆船起家,然後轉行經營酒店,而他的另外一個身份,就是戴笠手下的愛將,經歷與蔡潔生簡直如出一轍。 根據以上資料,任何一個智商正常的讀者都不難看出,蔡潔生絕對不是日後蔡英文口中所謂「白手起家」的普通商人,從他創建汽修工廠,再轉行酒店做美軍皮肉生意,背後始終有著軍統背景,蔡潔生分明就是為國民黨高層辦事的白手套,可謂不折不扣的蔣氏家奴。 不過,蔡英文後來在履歷上,將漢奸父親改成了白手起家的企業家,因為她怕臺灣人民知道後不能原諒這種現實。
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juebannan · 9 months
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蔡EE 秘史--上篇家史
B「皇民」與「軍統」----生父蔡潔生的發家之路
民國7年(1918年),蔡潔生出生在屏東縣枋山鄉楓港村,帶有排灣族及客家人血統,但到他這代已不講客家話轉而使用福佬話,成為「福佬客」。其父蔡招來是楓港的農民,家庭條件非常貧困,和富豪是八竿子打不著的,直到蔡EE的父親蔡潔生這輩才實現「錢淹腳目」。。
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蔡潔生出生這一年,臺灣已經被清朝和日本簽訂的《馬關條約》割讓給日本,日本已在臺灣做了長達23年的日式教育,在臺中華文化被日本文化侵襲非常嚴重。
因此,蔡潔生和其他同齡人一樣從小接受日本「皇民」教育,對中國沒有清晰的家國概念和深刻的情感,說得一口伶俐的日語,甚至就連生活習慣也與日本人並無二異。
受到了日本人洗腦的蔡潔生,在成年之後對於中華民族的傳統文化十分排斥,反而把日本人當作主子,這也就決定了其後代蔡EE也受到其思想的影響。
當然,這些也都是後話了。
民國20年(1931年)「九一八事件」後,日本佔領東三省建立了偽滿洲國。民國25年(1936年),蔡潔生18歲。當時,日本要求所有臺灣適齡男子必須服兵役、上戰場。蔡潔生貪生怕死,不想參軍。仗於自己擁有器械維修技能,蔡潔生被日本人送去中國東北,學習機械修理。民國26年(1937年)中日戰爭全面爆發,蔡潔生被分配到「滿洲國」治下的大連機場擔任機械師,為日軍維修戰機。因此也就避開被徵調成為「臺籍日本兵」,至南洋作戰的命運。不想,修理機械的手藝成為了蔡家發家的重要因素。
多年以後,為了反駁外界對於蔡潔生曾協助日本侵華的漢奸指控,民進黨發言人回應稱蔡父當年在東北只是修理民用航空器,不是維修戰機。
然而,在二戰的時空之下,連旅館和民房都難逃被日軍徵用的下場,在東北哪里有單純的日本民航,這樣的辯駁實在蒼白無力。
更為關鍵的是,二戰結束前的民國33年(1944年),蔡潔生被日本人調回臺灣岡山機場服務,岡山機場是日軍在海外最大的空軍基地,投送至大陸和東南亞的轟炸機幾乎都是從這裏起飛。
因此,他經常被人罵「漢奸」。畢竟,那些年他幫日本人修的飛機,對準的都是我們自己的同胞。事實證明,蔡潔生在東北的工作是給日本關東軍修戰鬥機、轟炸機,那些飛機後來都投入了日本對中國的侵略戰爭。
蔡潔生在大連生活了九年,這九年時間裏他不知修好了多少架飛機,更不知這些飛機給中國軍隊和百姓造成了多少傷亡。日軍憑藉蔡潔生維修保養的戰機在中國領土的上空獲得制空權,對地面狂轟濫炸,甚至進行了地毯式轟炸,無數同胞因此喪生。
一直以來,蔡潔生本人和蔡EE全家對蔡潔生這段經歷諱莫如深,閉口不談。如果有人談及這段經歷,蔡EE家人馬上會左顧而言他,或者乾脆走掉。蔡EE家人以為,只要蔡家人自己不說,就沒有人知道。不過,還是有知情人將蔡潔生這段經歷捅了出來,以致好多人私下裏都把蔡潔生叫「漢奸」。
國民黨前「立委」邱毅曾爆料,蔡潔生是「皇民」,是為日本關東軍工作,幫日本人維修的飛機,而這些飛機主要用途是為日本侵華使用。在維修戰機期間,蔡潔生借著日本人對他的信任,經常會偷偷把一些戰機的零件和燃料賣出去,差點被日本人發現,不過他憑藉著自己忠誠的「皇民」身份逃過了懲罰。
從1895年到1945年,日本殖民統治臺灣50年之久。日據後期,在臺灣推動了近10年的所謂「皇民化運動」,試圖抹去臺灣民眾對中國的認同,培養了大批以日本為榮的媚日順民,這無疑是一種文化滅絕行動。於是,日本人先後推行了皇國史觀,強迫中國人學習日語。這種做法,就是希望能夠在潛移默化中,分解中國。蔡潔生,就是生活在這樣的背景之下,他缺少對中國的認同,既可恨又可悲。這段往事,網路上一度瘋傳。儘管民進黨發言人極力否認,可無法掩飾這段曾經的過往。
據前任國民黨中央委員邱毅所說,蔡潔生的致富之路與侵華日軍有絕大關系。
蔡潔生當年靠開汽車修理廠創業發家。開廠前,要購買臺北中山北路的廠房,購置進口機器、工具及其零件,要投資一大筆錢。當年,蔡潔生自己沒有那麼多錢,他父親當時住在屏東楓港那落小漁村菜市場後的矮房子裏,也沒錢支持。蔡潔生從「滿洲國」普通修理工,轉身創業,本金從哪里來呢?
說複雜也複雜,說簡單也簡單。複雜是因為背後各種關係網運作;簡單是因為與日本人有關系。
日本殖民臺灣那些年,在臺灣置辦有許多產業。日本二戰戰敗無條件離開臺灣,不願將辛辛苦苦建設成的殖民資產轉交給美軍和國民黨,便抱著破壞臺灣公有經濟,在臺灣當地培養親日勢力的想法,找了一些忠心耿耿的日本「皇民」,把從臺灣人身上搜刮的財產以低得離譜的價格轉贈給「皇民」,用這種方法將本應歸還給臺灣人民的非法財產變成私有產業,使國民黨接手臺灣政權時無法從私人手中獲得到那些原應有政府接手的財富。日本這樣做,至少有兩個目的:一是可以送人情,二是可以培養在臺灣的親日勢力。
當年日本人撤離臺灣時,曾把新竹自動車運輸株式會社作價一元錢,賣給時任國民黨「中央評議委員」許金德。許金德後來就靠這筆資產創辦運輸公司發大財。蔡潔生當年為日本人賣命做事,得到日本人的賞識,日本人自然也會給他一個堂而皇之佔有日本殖民政府非法財產的機會,讓他變成另一個「許金德」。
蔡潔生依靠日本人私相贈售的非法資金投資汽車修理廠賺到更多錢後,在臺灣投資購置了不少土地,依靠囤地、轉售轉租土地使用權狠發了一大筆財。時至今日,蔡氏家族還擁有富鈦投資、臺懋生技、宇昌生技等多家企業,其產業橫跨房產、加油站、觀光旅館、練習場、運動器材、汽車零配件等眾多領域。
蔡潔生一生享盡奢華,但他對自己的發財之道所談極少,刻意保持著低調,當然是擔心別人查出他與侵華日軍的苟且關係,於他在臺生存的利益不利。
民國34年(1945年)夏天,日本戰敗投降,蔣介石派部隊接管臺灣,日本結束了自「馬關條約」起對臺灣長達整整50年的殖民統治,臺灣正式光復。
很快,國共內戰接踵而來。為了填補戰爭帶來的巨大虧空,國民黨在臺灣無上限發行台幣攫取民間資源,又把多種商品設為國有專賣,在貨幣超發和物資壟斷之下,臺灣島內物價飛漲,通貨膨脹百倍以上,大量人口失業。
加之大陸來臺的各級國民黨官員吏治腐敗軍警橫行,短短一年時間裏,接收就變成了「劫收」,臺灣民眾對於國民黨的態度從滿懷期待變為了十分不滿,最終,一個意外事件點燃了整個臺灣。
民國36年(1947年)2月27日,臺北市煙草專賣局的一組稽查小隊在查抄販賣私煙的小販時,打傷了一位婦女攤主,此舉激怒了周遭的圍觀群眾,混亂中一個警員向人群開槍,一位路過看熱鬧的無辜市民被打死。 
隔天上午上千名群眾前往行政公署情願要求嚴懲兇手,沒想到公署樓上的衛兵對人群開槍掃射,當場造成多人死傷,史稱「二·二八事件」。
二二八徹底激起了臺灣人民對於國民黨暴政的反抗,尤其是許多懷念日據時代的精日分子煽風點火,很快演變為全島範圍的武裝起義,整個臺灣社會完全失控。
為防止事態惡化,蔣介石將上海21軍部隊緊急調往臺灣,進行血腥鎮壓,並在民間實施高壓政策,濫捕、濫殺所有可疑人員,最終造成兩萬人死亡,無數人受傷。
二二八是國民黨在臺灣犯下的原罪,也是後來長達幾十年裏臺灣本土人和外地人矛盾之根源。民進黨成立之後,二二八成為了其天然的政治提款機,是獨派分子們煽動族群對立鼓吹本土意識最有效的宣傳工具,某種意義上講,如今兩岸關係惡化,島內「綠色恐怖」橫行,國民黨毫無招架之力的局面,正是這朵惡花結出的惡果。
照理來說,像蔡潔生這般,在日據時代做過精日皇民,又曾有過日本關東軍服役背景的人,在二二八那樣風聲鶴唳的社會背景下,絕對會被貼上「漢奸」標籤,是國民黨特務重點監控和打擊的對象,很難在蔣介石時代吃得開。
然而神奇的是,就在二二八發生的民國36年(1947年),年僅27歲的蔡潔生不僅絲毫沒有受到「白色恐怖」的影響,甚至逆勢從屏東北上,來到當時最亂的臺北發展,還在市中心黃金地段的中山北路上開起一間朝陽汽車公司,做起了汽車維修的生意,混得風生水起。 
此後短短幾年時間裏,儘管臺灣又先後經歷了蔣介石兵敗遷臺以及朝鮮戰爭爆發美軍介入臺海等一系列動亂,可蔡潔生卻一路順風順水,修車生意越做越大,在此期間甚至連娶了四房姨太(都沒領證),生出了包括蔡EE在內的11個子女!
蔡潔生到底有著怎樣的能耐,可以在這樣的亂世裏迅速發跡呢?
那就不得不提到另外一個關鍵人物——伍守恭。
伍守恭1900年生,祖籍江蘇武進,伍家是江浙有名的望族,是蔣介石背後的金主財閥之一,蔣介石北伐時的資金,有許多就是伍家為他籌集的。
民國6年(1918年)伍守恭進入東吳大學(蘇州大學前身)學習法律,而後在芝加哥大學拿到了法學和政治學博士,回國後在上海成立「允孚律師事務所」,專為蔣宋家族處理法務事宜。
正所謂無巧不成書,當時伍守恭律所其中一位合夥人名叫蔡六乘,此人是杜月笙的御用律師,而蔡六乘的孫子,正是「阿裏巴巴」的創始人之一,如今阿裏的二號人物——蔡崇信,這一條支線和本集主題無關,這裏就按下不表。
表面上看,伍守恭白白淨淨文質彬彬,是叱吒上海灘的風雲律師,但實際上,他還有另外一個秘密身份——軍統特工。利用律師工作社交廣消息靈的天然優勢,伍守恭可以獲得許多一手涉外資訊,輕鬆掌握工商界人士的一舉一動。
據網上公開資料,民國36年版《臺灣時人志》影印資料中,清晰記錄了伍守恭擔任軍事委員會戰地服務團二區主任的詳細履歷,他的軍系背景可見一斑。
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◎伍守恭履歷記錄
民國34年(1945年)日本戰敗投降後,根據規定,在臺日本人將被遣返回國,這些人離開時按人頭每人能帶走的現鈔不得超過一千日元,其餘的一切私產將通通交由國民黨日產處理委員會接收,而伍守恭就是這個委員會裏的二號人物,擔任常務委員。
明眼人都知道,這是一個權力和油水都極大的機構,蔣介石能派去查抄日產的人,絕對是他自己的直系親信,而伍守恭也需要得力幹將來為自己辦事,當時他手下其中一個馬仔,正是蔡潔生。
伍蔡二人具體如何相識,如今已不可考,但可以肯定的是,伍守恭之所以會重用蔡潔生,一方面是念其掌握熟練的日語,方便與日本人溝通交涉,更為重要的一點,則是看中了他接受過專業訓練,有機械維修的技術背景。 
彼時日本人離開臺灣,留下大量車產,伍守恭授意蔡潔生在臺北開辦汽修工廠,既可以將軍用車輛改裝維修後送往大陸剿共,又可以在民用轎車中物色好貨,轉手據為己有,實在一舉兩得。
此後幾年間,伍守恭經手的資產不計其數,除了上繳「黨國」變為黨產的部分之外,自然還有許多經過「五鬼搬運」,落進了國民黨高層權貴家族的口袋。
正是有了伍守恭的庇護,蔡潔生才得以在臺灣最黑暗的年代裏躲過軍統清算,當大人物們搜刮民脂大快朵頤之時,蔡潔生緊跟在後面喝湯撿渣,養活他的一眾老婆和子女也都是綽綽有餘了。
民國39年(1950年)朝鮮戰爭爆發,第七艦隊開進臺灣海峽,美國開始駐軍協防臺灣,造成了兩岸從此跨海分治,至今遲遲沒有統一的複雜局面。
而這些在臺美軍,很快就成了蔡潔生的財神爺。蔡潔生髮現駐臺美軍的市場很大,於是聘請人教導其公司員工EE,開展了高級進口轎車維修的業務,專作美軍與外籍顧問的生意。其實,他朝陽汽車公司不僅幫助美軍官兵維修汽車,還借機倒賣進口汽車,很明顯,若不是「朝中有人」,在當時那個外匯嚴格管制的年代,一個普通車廠老闆怎麼可能做美軍生意掙美元現鈔。
民國54年(1965年),越南戰爭白熱化,美國以臺灣為跳板,在臺增兵超過三萬人,中山北路上很快擴建出美軍顧問團的東、西營區,並設立了美軍俱樂部,供官兵休閒娛樂之用。
蔡潔生非常「聰明」,誰給錢就為誰服務。
幾乎就在同一時間,蔡潔生迅速就在營區隔壁蓋起了一座賓館,名曰「林口大飯店」,酒店正門入口設計成風車造型,懂行的人一看就能明白,這是模仿巴黎著名的「紅磨坊夜總會」,是飲酒作樂的紅燈區。
不久後,蔡潔生又在街對面修建了一棟更加豪華的「樂馬飯店」,酒店樓高七層,是當時臺北最高的建築物之一,兩家酒店分工明確,前者做美軍士兵生意,後者則是服務於美軍高級將領,可謂是討足了美國人的胃口。
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◎樂馬大飯店
憑藉著這兩家酒店的「皮肉生意」,蔡潔生大發橫財,在民國49年(1960年),蔡家已經名列臺北納稅人前十之列。
任何稍有常識的人都知道,酒肉歡場不僅是日進鬥金的印鈔機,更是各種消息資訊的集散地,蔡潔生能經營如此特種行業,背後顯然是有上峰授意。
也正是蔡潔生的這兩家酒店,徹底暴露了他的軍統背景,接下來這些證據便是實錘中的實錘。
下麵這兩張建照是從臺北土地部門查到的資料,大家可以清晰看到,早在50年代,蔡潔生的上線,時任日產處理委員會主委的伍守恭,曾從日本人手裏接收到一塊中山北路的土地,地號為圓山段54之9和之10。
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◎圓山段54之9和之10地塊
越戰爆發後,伍守恭將這塊土地一分為二,其中54之10地號,轉到了蔡潔生三個兒子名下,蓋起了林口大飯店。
而剩下相鄰的54之9部分,則是給了美方,上面修建了美軍士兵俱樂部,如此安排,顯然是有意為之。
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◎54之10地號後來轉到蔡潔生三個兒子名下
從以下這張民國58年(1969年)中山北路的街景舊照可以清楚看到,蔡潔生的「林口大飯店」和「美軍俱樂部」共用一個大門,兩家招牌都掛在一起,出入都是美國人。
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再來看對面「樂馬飯店」土地的由來,根據建照變更資料顯示,飯店所在的圓山段55之地號,是蔡潔生從一個名叫任覺五的人手裏獲得,然後轉入了他新成立的正中企業股份有限公司名下。
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◎樂馬飯店土地的由來
要知道,在蔣氏父子的威權時代,一家公司敢取名正中,完全不避蔣中正名號,背後關係絕非等閒(比如當時的正中書局,就是中統頭子陳立夫創辦)。
而樂馬飯店土地的上一個主人任覺五,來頭更是非同一般,他是蔣介石十三太保之一,復興社骨幹,時任革命實踐院副主任(蔣介石是主任),黃埔四期政治科畢業。
更加巧合的是,就在蔡潔生轉行酒店生意後不久,他便關掉了自己的修車廠,並把車場土地轉讓給了別人,後者在上面又修起一座晶華酒店,同樣做著美國人生意。
這個晶華酒店的老闆名叫潘孝銳,先靠維修拆船起家,然後轉行經營酒店,而他的另外一個身份,就是戴笠手下的愛將,經歷與蔡潔生簡直如出一轍。
根據以上資料,任何一個智商正常的讀者都不難看出,蔡潔生絕對不是日後蔡EE口中所謂「白手起家」的普通商人,從他創建汽修工廠,再轉行酒店做美軍皮肉生意,背後始終有著軍統背景,蔡潔生分明就是為國民黨高層辦事的白手套,可謂不折不扣的蔣氏家奴。
不過,蔡EE後來在履歷上,將漢奸父親改成了白手起家的企業家,因為她怕臺灣人民知道後不能原諒這種現實。
蔡英文秘史书籍下载链接: https://zenodo.org/records/10450173
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sagara0220 · 9 months
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地面を踏み固めること
今年を振り返ると、のんきに一段ずつ登ってきた階段の途中で、振り返って景色を見てうわ~すごい、きれい、きもちいい、とか言いながらのほほんと眺めたいのに、あちこちで起こっているいろんなことが目について見過ごせなかったり、袖を引かれて止まったり、すれ違っていくひとびとに何かを手渡すその間、地面を踏み固めるみたいな、そういう一年だった。
たとえば今まで自分のなかで淡々と重ねてきた、自分が生き延びるための知識たちを、言葉にして誰かに教え、伝えることがぐっと増えた。アウトプットしてはじめて自分自身に引きつけ咀嚼する必要が生じるので、ものごとの本質に少しずつ近づけるけど、同時に見えてくるものが変わるので、とてもじゃないけど勉強が足りないとも思う。時間がかかるし沢山はこなせないのだけど、地元で起きた戦争や朝鮮人・中国人の強制労働のこと、LGBTQ+、ジェンダーのことは、決して自分の知的好奇心を満たすためだけに学んでいるのではないと、誰かに伝える作業をして強く感じたし、自分が仕事にしている専門分野以外で力になれたり、他者の学びの一助になれることを、難しくも嬉しく思うことが度々あった。
ここ数年ずっと、わたしの大事な部分を固めてくれている韓国文学を手に取ると、高頻度で日本の植民地支配時代の話が出てくる。
先日読んだチェ・ウニョン著「明るい夜」は時代や家父長制に翻弄されながら生きた四世代にわたる女性たちのシスターフッドを書く傑作長編小説だが、戦争中に日本に出稼ぎに行き、広島で被爆したおじさんが原爆症で亡くなる下りがある。作中もっとも信頼できる穏やかで愛に満ちた男性として書かれた彼が「あんな死に方をしなくちゃいけない人はひとりもいなかった」と広島の街を語るのが手紙のかたちで伝えられるシーンは、本の中でも印象に残る。フィクション小説という形を成しているが、祖母の口や手紙で語られる、あくまで一人称としての戦争体験であることが、幾度も胸を刺す。
今年読んで最も強烈な印象を残しているのが、ハンセン病の療養所である長島愛生園に暮らす在日朝鮮人・韓国人を訪ねて聞き取りをした喜田清著「名ぐはし島の詩(うた)」で、読みながらそれぞれの壮絶な人生に涙を流しながらも、植民地支配をしていた側の国で生まれ育ったわたし自身を丸裸にして、病の前にそも支配と略奪が、戦争がどうかれらを根底から変えたかを突きつけられた。ふるさとでハンセン病にかかったあと、当時戦況が悪化して毎日空襲があった日本に行けば誰にも知られず死ねると思い、縄でくくられたまま連行され泣き叫ぶ同胞を横目に、絶望し、死ぬために日本に渡ってくる方の話がある。また、植民地時代に言葉を奪われ、朝鮮語も日本語も読み書きできないまま療養所に入り、進む病と施設での仕事の隙間で辞書を片手に必死に読み書きを学ぶことで、己の知性を守り、踏み躙られた民族の尊厳を守り、宗教や友人を得る過程は、どの方の話を読んでも毎回涙が出た。そして、数多くの方が、祖国が解放されても、続いた朝鮮戦争で家族と生き別れになっている。
余談だが、この本を読んで、買ってから十年ほど経過しているのに、何度挑戦しても読了できないでいる神谷美恵子さんの「生きがいについて」を再度挑戦したいと思った。今のわたしなら読み終えることができるかも、と思える本があるのは、犬だったら噛み応えのある骨をプレゼントされるみたいで嬉しいものだ。
わたしが韓国文学にはまったころ、友人に誘われてかかわりはじめた地元の戦争遺跡の保存活動と、それに伴う朝鮮人・中国人の強制労働の実態調査のボランティアの仕事がある。
今わたしたちは過去に聞き取った肉声をあらゆるデータにして保存する作業をしていて、そのなかで、想像を絶する虐殺を、拷問を、過酷な環境下での作業を、強制労働に従事した方々が話すのに触れる。作業は、一筋縄ではいかない。冷静に、流れ作業として、戦時中のひとつの資料として読み飛ばすことはできない。
戦争というものが、人の一生を根底から壊すものだということを、それが、大国主義というものの前に個々の人生やヒューマニティが一切無視された先にあったものであることを、けれど戦争は大衆の記憶などではなく、個々人のなかにだけあるものだということを、数々の肉声に囲まれながら作業をしていると、つくづく思う。そうして、結局わたしは、大衆の記憶としての近代史しか学んでこなかったことに打ちのめされる。時々手が止まり、証言に聞き入り、読み耽り、あまりにも凄惨な体��と深い苦悩に触れて言葉を失い、立ち尽くす。そうしてまたしばらくして、作業をはじめる。その繰り返しだ。
証言は、ときにあいまいなもので、非常に頭の良い方でも、言葉も地理もわからない場所での過酷な体験であるので、信ぴょう性に欠けるものもいくつかある。通訳されていない原語での理解も必要だし、踏み込んだ調査や研究ができるほどのスキルもお金もないので、ひとまずデータ移行だけをしているのだが、ひとつひとつの、膨大な数の証言を扱っていると、聞き取りのさいごに、「まさかこんな日が来るなんて」「日本から来てくれるなんて」と感無量で語る方がいる。そうして、保障をしてほしいこと、戦争を二度と起こしてはならないというお願いで締められる。(証言に協力してくださった方の何人かは、賃金に関して裁判も起こしている)
戦争でまっさきに失われる個人やヒューマニティにきちんと向き合っていったのが、戦後の被害者への聞き取り作業なのではないか、とわたしは作業をしながら思った。戦中、強制労働というかたちで無視し、否定してきた人間性を、一人ずつ、限られた時間ではあるけど丁寧に聞き取りをして書き起こしたことは、数ではなくひとりの人間の体験として戦争や強制労働や虐殺や暴行や苦しみがあったことを真正面から思い出させてくれる。信ぴょう性の調査や審議の前に、その苦しみをいったん引き受けることが、どれほど切実で、大変なことだったろうと思う。
ノンフィクション作家の保坂正康が「最後の講義」という番組の中で、証言とはどういうものか語っている場面があった。証言とは一生をかけてするもので、証言を聞くということは、本人が背負っているものを半分引き受けることである、という言葉に、仕事でもプライベートでも、物語として消化してしまいがちなわたしという個人を指さされたようだと感じた。
調査に乗り出したうちのひとりがボランティアの大先輩にいて、度重なる訪中、訪韓の膨大なデータを管理してくださっている。そのひとの記憶はすさまじい。名前を尋ねるだけで、どこの出身で、どのように戦中を過ごしたのか、どのような半生だったのか、すらすらと答えてくださる。ときに涙を浮かべながら、ときに苛烈に。かれらの体験に多く出てくる、聞いているだけで指の先がこわばり、胃が縮み、血の気が引くような残酷で非人道的な折檻や拷問の数々を聞くうちに、戦争の映画や物語を見られなくなったという。真実を知るからこそ、痛みが容易く想像できて、目を瞑らないといられないのだという。聞き取りをした方々はもう亡くなっている。そのひとの生き方こそ、語り手の人生の半分を引き受けるということだと思っ��いる。
2017年に、わたしはそれなりの意識を持ってポーランドのアウシュビッツや、ドイツのホロコースト関連の資料館に行った。外国に行くときは、その土地の地理や歴史を勉強してから行くのが好きなので、ホロコーストやポーランドの歴史について学び、何本か映画を見て本を読んでから向かった。そこで、アウシュビッツ=ビルケナウ博物館で案内人をしてくださった中谷剛さんが語った言葉に、そもそも根本をわたしは知ろうとしていなかったのだ、とものすごく恥ずかしい気持ちになったことを今でも鮮明に思い出す。
「――ポーランド語のあいさつができますか?イギリスやフランス、スペインのように。知りませんよね。なぜならそれは、ヨーロッパの歴史は西ばかりが優遇され広められてきたからです。日本人の中にもすでに、民族のヒエラルキーが無意識に植え込まれています。差別をしているんです。私たち日本人は、中国や韓国など、アジア圏の歴史をどれほど理解し歩み寄ろうとしているでしょうか?日本の加害の歴史をどれほど学んでいるでしょうか。ヨーロッパはドイツを戦後よくやってきたとは、決して評価していません。でも、一般のドイツ人のアウシュビッツの訪問者の数がとにかく多いのです。政府の対応ではなく、そういった市民の行動を、みなは評価し、黙っているのです。」
はるばるポーランドまで来て、わたしはその瞬間、浅はかだった自分を恥じた。もちろん、答えられなかったからだ。日本が行なった様々な加害の歴史を、言葉としては知っていても、知識として知らなかった。学んでこなかった。学ぼうとすらしていなかった。
こうして何年か経って、やっと加害の歴史を一生懸命学び、伝える側に回れたので、2017年5月の、どこまでも菜の花の絨毯が広がり、ポプラの綿毛が舞う美しい初夏のポーランドの、ひろびろとしたアウシュビッツ=ビルケナウ博物館のなかで深く恥じたわたしに、今のわたしはちゃんと顔向けができる。あなたは数年後、きちんと向き合う。思う存分恥じるといい。
そんななかで、10月7日を皮切りに、毎日虐殺のニュースを見聞きするようになった。コロナ禍真っ最中の2020年に岡真理さんの「ガザに地下鉄が走る日」を読んだとき、パレスチナで芸術活動をする若者のドキュメンタリーを見たとき、焼身自殺する若者をみたとき、殺されて臓器を売られる子供を見たとき、わたしは都度立ち止まったのに、いつのまにか忘れていて、毎日のニュースに打ちのめされた。
ガザについて勉強会を行い、本を読み、可能な支援をし、同時に自分の国の加害の歴史を学んでいくと、そこに70年余り時が経っていることが、信じられなくなる。イスラエルとパレスチナについて、レイシズムや植民地支配について学べば学ぶほど、かつて日本が行った言語や文化のはく奪が、いかに民族の歴史と尊厳を踏みにじり、取り返せないことであるのかを突きつけてきて、わたしはいままさに、当時を見ているのだと思っている。すごくしんどい作業だ。
でも、今年わたしが、こうした世の中になんとか絶望し切らず、自分の足で立って地面を踏み固めることができたのは、今までの学んできたことが生かしてくれていたからだし、出来事は大衆のものではなく個人に帰結するものだとあらゆる作業を通じてわかっていたからだと思う。じゃないと、物事の大きさの前に、ただただ立ち尽くしていて、わたしを含め、目の前にいるひとたちは世の中から見たら些細なものなんだとよぎることがあったかもしれない。それはまったく、わたしの中の、生活をやっていくというポリシーに反する。わかっていてよかった、言語化できてよかった、とこれを書きながら思う。
今年読んだ本のなかで、大事にしたい本がある。
パク・ソルメ著「未来散歩練習」は、光州事件、釜山アメリカ文化院放火事件と五人の女性の生き方を通して、今を生きる・過去を理解する・未来を思うことを描く長篇小説(出版社解説)で、パク・ソルメらしい独特の語り口調で淡々と物語が進む。岡真理さんのガザを考える緊急セミナーのなかでも、この釜山アメリカ文化院放火事件の犯人の一人である文富軾の言葉である「忘却が次の虐殺を準備する」という言葉が引用されていて、本を読んでいたおかげでどんな事件かを詳細に思い出すことができた。
とにかくずっと思考しながらものを食べて歩く小説なのだが、読んでいてずいぶん励まされたし、大事にしたい文章がいくつかあった。
「現在と未来について考える人たち 来るべきものについて絶えず考え、現在にあってそれを飽きずに探し求める人々は、すでに未来を生きていると思った。絶えず時間を注視し、来るべきものに没頭し、人々の顔から何かを読み取ろうとする人々は、来るべきと信じるそのことを、練習をとおしてもう生きているのだと。」
わたしの来るべきと信じるそのことは、差別のない社会を実現することで、それは綺麗事とかとても無理なことだとは言いたくない。なぜならわたしの半分は医療者で、発達障害の子どもたちに関わる仕事をしていて、大人がしている差別と加害は、子どもにダイレクトに伝わるから。医療と福祉の彼岸にいるような人びとも、社会の中でいっしょに生きていてほしいから。トランス差別を許せないから。
そんな社会に、わたしはいたくないし、大事な人たちを置いておけないと、いつも思っている。そう思いながら、二次創作という形で物語を書けたのも嬉しい。職場で動き出したSOGIチームのコアメンバーになれたのも、今年良かったなと思えることの一つだ。加害の歴史を学んで伝えることも、遅々として進まないように思えるし、歴史家でも研究者でもないわたしが伝えられることは限られている。でも、そういうときはチョン・セランの言葉をお守りにしている。「視線を先に置くことで絶望を乗り越える」「絶望しそうになったら、いや私はいい大人になりたいと思う」「個人の無力を私は信じません」
ふと手に取った本も、学んでいることも、絶望しそうになる世の中で、わたしを生かしてくれていると思う。わたしは、今年、過去と現在と未来を考えながら、今いる場所を踏み固めていた。もちろん、どうにもならないこともあるし、間違えるし、まだまだ知らないことだらけだし、考えるのをサボることもあるし、忘れるし、機動力には欠けるしやっぱり無力だと感じることも多いけど、2017年にアウシュビッツで恥じ入っていたわたしよりは、多少かっこよくなっているはずだと2023年の自分を励ましたい。
来年も生き延びて、のさばってやろう。
たくさんの本たち、今年も生きるのを励ましてくれてありがとう。
 追記
この文章を書いたのが12月24日の夜で、そのあと、ボランティア仲間と忘年会をした。
友人のひとりが、アウシュビッツに行き、中谷さんの案内を受けたという。わたしは仲間内でガザの勉強会をひらいていて、そのときに、もっと身近であったはずのアジア圏のひとびとにした加害と差別について無知でありながらアウシュビッツにいた自分を恥じた経験を話していた。
友人が、中谷さんのお話を聞いているうちに、どうしてもわたしのことを伝えたいと思い、数年前にあなたの話を聞いた友人がいまこうした活動をして加害について学んでいますと話の中で伝えてくれたようで、ものすごくびっくりしたし、嬉しかった。しみじみと、こんなふうにいつか誰かに勝手にもらったバトンを、別の誰かがそっと戻してくれるようなことがあるのだなあ、と、年の瀬に胸がいっぱいになり、勇気をもらったのだった。
そのときの中谷さんのお返事を、友人を通して受け取って、やっぱり、2015年のわたしよりずっとましになっているよ、と思えた。
嬉しいし、頑張りたいと思う。
忘年会当日、車のルーフが割れていることに気づき、わたしは基本的に価格や愛着に関わらず、自分の道具が傷つくことに関しては寛容なのだけど(眼鏡は除く)、ルーフを開けるたびにほとんどまっぷたつと言っていいほど割れているガラスが目に入ると、ちょっと心にくるものがあったので、悪いニュースと良いニュースが同時に来る、年末らしい日だったと思う。新年早々、修理代を捻出しなければならないが……
みなさま、良いお年を。
わたしはこの挨拶が、挨拶のなかで最も好きです。
良いお年を!
≪出てきた本≫
「明るい夜」 チェ・ウニョン 著 古川綾子 訳/亜紀書房
「名ぐはし島の詩 長島愛生園に在日朝鮮人・韓国人を訪ねて」 喜田清 著/海声社
(絶版)
「ガザに地下鉄が走る日」 岡真理 著/みすず書房
「未来散歩練習」 パク・ソルメ 著 斎藤真理子 訳/白水社
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pow00000 · 9 months
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2023年 参加イベントまとめ
【過去の記録】 2012年  2013年  2014年  2015年  2016年  2017年  2018年  2019年  2020年  2021年  2022年 2023年に参加した神志那結衣さんと48G関連のイベントまとめ。備忘録的なアレ。オンライン配信を含む。 ※2022年10月以降の自身のスタンスの変化(48Gはオタクではなくライトファンに…)から、タイトルを変更しました。 ■2023/02/04(土) 神志那結衣 25th Birthday Event 「門出」 第一部 @中目黒トライ ■2023/02/04(土) 神志那結衣 25th Birthday Event 「門出」 第二部 @中目黒トライ ■2023/02/11(土) 「ありのままに生きろ。今」 再会イベント 昼の部 @歌舞伎町Sparkle ■2023/03/04(土) “STRAYDOG” 30th Anniversary Produce 「女の子ものがたり」大阪公演 (14:00公演) @大阪ABCホール ■2023/03/04(土) NMB48 Team M 「恋は突然やってくる」公演 (夜公演) @NMB48劇場 ■2023/03/05(日) “STRAYDOG” 30th Anniversary Produce 「女の子ものがたり」大阪公演 (16:00公演) @大阪ABCホール ■2023/03/12(日) HKT48(石橋颯、田中美久、松岡はな) 「HKT48 全員集合!」発売記念イベント @SHIBUYA TSUTAYA ■2023/03/15(水) “STRAYDOG” 30th Anniversary Produce 「女の子ものがたり」東京公演 (19:00公演) @CBGKシブゲキ!! ■2023/03/17(金) “STRAYDOG” 30th Anniversary Produce 「女の子ものがたり」東京公演 (19:00公演) (配信) ■2023/03/19(日) “STRAYDOG” 30th Anniversary Produce 「女の子ものがたり」東京公演 (12:00公演) @CBGKシブゲキ!! ■2023/04/01(土) HKT48 春のコンサート2023 ~私たちの現在地~ @パシフィコ横浜国立大ホール ■2023/04/12(水) 劇団TEAM-ODAC 第41回本公演 「猫と犬と約束の燈 ~2023編~」 (18:30公演) @全労済ホールスペース・ゼロ ■2023/04/15(土) 劇団TEAM-ODAC 第41回本公演 「猫と犬と約束の燈 ~2023編~」 (18:00公演) @全労済ホールスペース・ゼロ ■2023/04/16(日) 劇団TEAM-ODAC 第41回本公演 「猫と犬と約束の燈 ~2023編~」 (17:00公演) @全労済ホールスペース・ゼロ ■2023/04/22(土) 神志那結衣チェキ&お話し会2023 @青山展示室401 ■2023/04/23(日) 神志那結衣チェキ&お話し会2023 @青山展示室401 ■2023/06/03(土) 演劇ユニット爆走おとな小学生 第十九回全校集会 「宇宙家族ヤマダさん ~Super saiyAの逆襲~」 (13:00公演) @全労済ホールスペース・ゼロ ■2023/06/04(日) 演劇ユニット爆走おとな小学生 第十九回全校集会 「宇宙家族ヤマダさん ~Super saiyAの逆襲~」 (12:00公演) @全労済ホールスペース・ゼロ ■2023/07/01(土) =LOVE 「この空がトリガー」発売記念スペシャルライブ 東京公演 第1部 @天王洲銀河劇場 ■2023/07/15(土) 麗和落語 ~二〇二三夏の陣~ 東京公演 (15:30公演) @武蔵野芸能劇場 ■2023/07/16(日) 麗和落語 ~二〇二三夏の陣~ 東京公演 (19:00公演) @武蔵野芸能劇場 ■2023/07/17(祝) HKT48 「本村碧唯 卒業コンサート ~唯一碧く輝く宝石~」 (配信) ■2023/08/26(土) 舞台ノサカラボ 神津恭介シリーズ 「呪縛の家」 (17:00公演) @池袋サンシャイン劇場 ■2023/09/03(日) 舞台ノサカラボ 神津恭介シリーズ 「呪縛の家」 (12:00公演) @池袋サンシャイン劇場 ■2023/09/17(日) 舞台ノサカラボ 神津恭介シリーズ 「呪縛の家」 (17:00公演) @福岡キャナルシティ劇場 ■2023/09/18(祝) HKT48 ひまわり組 「パジャマドライブ」公演 @HKT48劇場 ■2023/09/18(祝) HKT48(6期研究生) 「振り返ろう! 青春の1ページ ~みんなでフィルムビューイング~」 @HKT48劇場 ■2023/09/24(日) 舞台ノサカラボ 神津恭介シリーズ 「呪縛の家」 (12:00公演) @大阪サンケイホールブリーゼ ■2023/11/05(日) “STRAYDOG” LIVE MOVIE×MUSIC 映画「Starting Over」完成披露上映×主題歌披露ライブ @渋谷ユーロライブ ■2023/11/11(土) 神志那結衣ファンクラブJINAR&ME 開設1周年記念ライブイベント 「ストーリーライン」 第一部 @渋谷TOKIO TOKYO ■2023/11/11(土) 神志那結衣ファンクラブJINAR&ME 開設1周年記念ライブイベント 「ストーリーライン」 第二部 @渋谷TOKIO TOKYO ■2023/11/11(土) 神志那結衣ファンクラブJINAR&ME 開設1周年記念ライブイベント 「ストーリーライン」 第三部 @渋谷TOKIO TOKYO ■2023/12/23(土) じーなとクリスマスお話し会@オンライン ■2023/12/24(日) じーなとクリスマスお話し会@オンライン
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yotchan-blog · 3 months
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2024/6/21 19:01:06現在のニュース
ミサイル15万発を保有のヒズボラ、イスラエルの対空システム「アイアン・ドーム」破る可能性([B!]読売新聞, 2024/6/21 19:00:32) 「手足口病」が都内で流行 乳幼児に水疱、重症化も…アルコール消毒が効きにくく、マスク・手洗い呼びかけ(東京新聞)|dメニューニュース(東京新聞のニュース一覧|dメニュー(NTTドコモ), 2024/6/21 19:00:13) JR東海、株主総会でリニア巡り説明 「静岡を悪者にしてる」批判も(朝日新聞, 2024/6/21 18:58:31) 岸田首相、やり残した課題は? 次の首相に必要な資質・条件も回答(毎日新聞, 2024/6/21 18:57:55) 9条2項削除で自衛隊明記、自民党議連が改憲案 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/6/21 18:51:40) 東京電力グループ、不正閲覧1704件に 子会社に業務改善勧告 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/6/21 18:51:40) 菅義偉前首相、茂木敏充幹事長と会食 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2024/6/21 18:51:40) 鶴岡八幡宮が神社本庁離脱 「初心を忘れている」宮司が語った経緯 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/6/21 18:51:32) 大阪・箕面市長の「万博出禁」やじ 吉村知事「撤回すべき」 | 毎日新聞([B!]毎日新聞, 2024/6/21 18:51:32) 山林で男性が死亡 クマに襲われたか ツキノワグマ「注意報」発令中(朝日新聞, 2024/6/21 18:50:30) 岸田首相、衆院解散「考えていない」と否定(毎日新聞, 2024/6/21 18:50:02) 「安全確認の原発、速やかに再稼働」 岸田首相が表明(毎日新聞, 2024/6/21 18:50:02) 「四面楚歌」の首相、見えぬ再選への戦略 カード枯渇、かじ取り難航(毎日新聞, 2024/6/21 18:50:02) 栃木・福田富一知事、県知事選に立候補表明 6選目指す(毎日新聞, 2024/6/21 18:42:51) 鹿児島県警の前生活安全部長を保釈 10秒以上頭下げ、無言で車に(毎日新聞, 2024/6/21 18:42:51) 暗号資産4億円購入も 「手段が複雑巧妙に」昨年度の脱税額89億円(朝日新聞, 2024/6/21 18:39:46) 土砂崩れで埋まった川に戻った「光の道」1キロ 石川・能登町(朝日新聞, 2024/6/21 18:39:46) タクシー運転手銃撃 容疑者を強盗殺人未遂罪などで起訴 埼玉・川口(朝日新聞, 2024/6/21 18:39:46) 青森・再処理工場の総事業費 さらに4千億円増 15兆円超に(朝日新聞, 2024/6/21 18:39:46) 「このために生まれてきた」孫正義氏、久々の表舞台でAIシフト宣言(朝日新聞, 2024/6/21 18:39:46) 明治安田生命の元職員、顧客から1億3千万円詐取 30年近く着服(朝日新聞, 2024/6/21 18:39:46) 首相、電気・ガス代引き下げる補助金再開を表明 8月から3カ月間(毎日新聞, 2024/6/21 18:35:14) ホタルの光集落の絆深め、住民が輪番制で観察16年 山形・鶴岡(毎日新聞, 2024/6/21 18:35:14) 首相、能登地震被災地復興へ現地に「省庁横断的な支援拠点を開設」(毎日新聞, 2024/6/21 18:35:14) 女性の全裸選挙ポスターにイーロン・マスク氏も注目 Xで「Bоld(大胆な)」都知事選([B!]産経新聞, 2024/6/21 18:33:32) 鹿児島県警本部長を訓戒処分 一連の不祥事受け、警察庁が特別監察へ(朝日新聞, 2024/6/21 18:32:01)
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bizenwakakusa · 9 months
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梅花唐松
ミニ花入 Yuudai Hara -梅花唐松-
  寒波襲来で冷え込みが厳しい岡山です。
明日は臨時休業させていただきます。
ご不便をおかけいたしますが、よろしくお願い申し上げます。
  さて、こんな寒い中でもかわいらしい花を咲かせてくれる植物がありました。
  梅花唐松。
  原さんのミニ花入へ。
  素朴な胡麻の景色と味わい深い土の表情が愉しめる花入。
  小さいサイスなので
普段使いとして気軽に楽しんでいただけますよ。
  道端に映えている草花を備前焼に挿しておくだけで
ホッとする空間を演出できますね。
  この機会にいかがでしょうか。
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