#尾崎尉二
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ittybittyhuac · 1 year ago
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"Kill them with kindness" Wrong. CURSE OF QIN SHI HUANG
的是不我一有大在人了中到资要可以这个你会好为上来就学交也用能如文时没说他看提那问生过下请天们所多麽小想得之还电出工对都机自後子而讯站去心只家知国台很信成章何同道地发法无然但吗当於本现年前真最和新因果定意情点题其事方清科样些吧叁此位理行作经者什谢名日正华话开实再城爱与二动比高面又车力或种像应女教分手打已次长太明己路起相主关凤间呢觉该十外凰友才民系进使她着各少全两回加将感第性球式把被老公龙程论及别给听水重体做校里常东风您湾啦见解等部原月美先管区错音否啊找网乐让通入期选较四场由书它快从欢数表怎至立内合目望认几社告更版度考喜头难光买今身许弟若算记代统处完号接言政玩师字并男计谁山张党每且结改非星连哈建放直转报活设变指气研陈试西五希取神化物王战近世受义反单死任跟便空林士台却北队功必声写平影业金档片讨色容央妳向市则员兴利强白价安呵特思叫总办保花议传元求份件持万未究决投哪喔笑猫组独级走支曾标流竹兄阿室卡马共需海口门般线语命观视朋��参格黄钱修失儿住八脑板吃另换即象料录拿专远速基帮形确候装孩备歌界除南器画诉差讲类英案带久乎掉迷量引整似耶奇制边型超识虽怪飞始品运赛费梦故班权破验眼满念造军精务留服六图收舍半读愿李底约雄课答令深票达演早卖棒够黑院假曲火准百谈胜碟术推存治离易往况晚示证段导伤调团七永刚哥甚德杀怕包列概照夜排客绝软商根九切条集千落竟越待忘尽据双供称座值消产红跑嘛园附硬云游展执闻唱育斯某技唉息苦质油救效须介首助职例热毕节害击乱态嗯宝倒注停古输规福亲查复步举鱼断终轻环练印随依趣限响省局续司角简极干篇罗佛克阳武疑送拉习源免志鸟烦足馆仍低广土呀楼坏兵显率圣码众争初误楚责境野预具智压系青贵顺负魔适哇测慢怀懂史配呜味亦医迎舞恋细灌甲帝句属灵评骑宜败左追狂敢春狗际遇族群痛右康佳杨木病戏项抓徵善官护博补石尔营历只按妹里编岁择温守血领寻田养谓居异雨止跳君烂优封拜恶啥浪核聊急状陆激模攻忙良剧牛垒增维静阵抱势严词亚夫签悲密幕毒厂爽缘店吴兰睡致江宿翻香蛮警控赵冷威微坐周宗普登母络午恐套巴杂创旧辑幸剑亮述堂酒丽牌仔脚突搞父俊暴防吉礼素招草周房餐虑充府背典仁漫景绍诸琴忆援尤缺扁骂纯惜授皮松委湖诚麻置靠继判益波姐既射欲刻堆释含承退莫刘昨旁纪赶制尚艺肉律铁奏树毛罪笔彩注归弹虎卫刀皆键售块险荣播施铭罗汉赏欣升叶萤载嘿弄钟付寄鬼哦灯呆洋嘻布磁荐检派构妈蓝贴猪策纸暗巧努雷架享宣逢均担启济罢呼划伟岛歉郭训穿详沙督梅顾敌协轮略慧幻脸短鹰冲朝忍游河批混窗乡蛋季散册弃熟奖唯藏婚镜紧猜喝尊乾县伯偏偷秋层颗食淡申冠衣仅帐赞购犯��勇洲束斗徒嘉柔绩笨拥漂狮诗围乖孤姓吸私避范抗盖祝序晓富译巨秀馀辉插察庆积愈端移宫挥爆港雪硕借帅丢括挂盘偶末厅朱凡惊货灭醒虚瑞拍遗忠志透烈银顶雅诺圆熊替休材挑侠鸡累互掌念米伴辅降豪篮洗健饭怜疯宏困址兮操临骗咧药绿尼蔡玉辛辈敏减彼街聚郎泡恨苏缩枢碰采默婆股童符抽获宇废赢肯砍钢欧届禁苍脱渐仙泪触途财箱厌籍冰涛订哭稳析杰坚桥懒贤丝露森危占茶惯尘布爸阶夏谊瓶哩惨械隐丰旅椰亡汽贝娘寒遭吹暑珍零刊邮村乃予赖摇纳烟伦尾狼浮骨杯隔洪织询振忽索惠峰席喵胡租款扰企刺芳鼠折频冒痴阴哲针伊寂嘴倚霸扬沉悔虫菜距复鼓摩郑庄副页烧弱暂剩豆探耐祖遍萧握愁龟哀发延库隆盟傻眉固秘卷搭昭宁托辩覆吵耳閒拨沈升胖丁妙残违稍媒忧销恩颜船奈映井拼屋乘京藉洞川宪拟寝塞倍户摆桌域劳赚皇逃鸿横牙拖齐农滚障搬奶乌了松戴谱酷棋吓摸额瓜役怨染迫醉锁震床闹佩牠徐尺干潮帽盛孙屁净凯撞迴损伙牵厉惑羊冬桃舰眠伍溪飘泰宋圈竞闪纵崇滑乙俗浅莲紫沟旋摄聪毁庭麦描妨勒仪陪榜板慕耀献审蟹巷谅姊逐踏岸葛卧洽寞邦藤拳阻蝎面殊凭拒池邪航驱裁翔填奥函镇丌宽颇枪遥穹啪阅锋砂恭塔贺魂睛逸旗萨丸厚斋芬革庸舒饮闭励顿仰阁孟昌访绪裕勿州阐抢扫糊宙尝菩赐赤喊盗擎劝奋慈尽污狐罚幽准兼尖彰灰番衡鲜扩毫夸炮拆监栏迟证倾郁汪纷托漏渡姑秒吾窝辆龄跌浩肥兽煞抹酸税陷谷冲杜胸甘胞诞岂辞墙凉碎晶邱逻脆喷玫娃培咱潜祥筑孔柏叭邀犹妻估荒袋径垃傲淑圾旦亿截币羽妇泥欺弦筹舍忌串伸喇耻繁廖逛劲臭鲁壮捕穷拔于丑莉糟炸坡蒙腿坦怒甜韩缓悉扯割艾胎恒玲朵泉汤猛驾幼坪巫弯胆昏鞋怡吐唐悠盾跃侵丹鑑泽薪逝彦后召吕碧晨辨植痴瑰钓轩勤珠浓悟磨剪逼玄暖躲洛症挡敝碍亨逊蜜盼姆赋彬壁缴捷乏戒憾滴桑菲嫌愉爬恼删叹抵棚摘蒋箭夕翁牲迹勉莱洁贪恰曰侨沧咖唷扣采奔泳迹涯夺抄疗署誓盃骚翼屠咪雾涉锺踢谋牺焦涵础绕俱霹坜唬氏彻吝曼寿粉廉炎祸耗炮啡肚贡鼻挖貌捐融筋云稣捡饱铃雳鸣奉燃饰绘黎卷恢瞧茫幅迪柳瑜矛吊侯玛撑薄敦挤墨琪凌侧枫嗨梯梁廷儒咬岚览兔怖稿齿狱爷迈闷乔姿踪宾家弘韵岭咦裤壳孝仇誉妮惧促驶疼凶粗耍糕仲裂吟陀赌爵哉亏锅刷旭晴蝶阔洩顽牧契轰羞拾锦逆堕夹枝瓦舟悦惹疏锐翘哎综纲扇驻屏堪弥贯愚抬喂靖狠饼凝邻擦滋坤蛙灾莎毅卒汝征赠斗抛秦辱涂披允侦欲夥朗笛劫魅钦慰荷挺矣迅禅迁鹿秤彭肩赞丙鹅痕液涨巡烤贱丈趋沿滥措么扭捉碗炉脏叔秘腰漠翅余胶妥谣缸芒陵雯轨虾寸呦洒贞蜂钻厕鹤摔盒虫氛悄霖愧斜尸循俩堡旺恶叉燕津臣丧茂椅缠刑脉杉泊撒递疲杆趁欠盈晃蛇牡慎粒系倦溜遵腐疾鸭璃牢劣患祂呈浑剂妖玻塑飙伏弊扮侬渴歪苗汗陶栋琳蓉埋叡澎并泣腾柯催畅勾樱阮斥搜踩返坛垂唤储贩匆添坑柴邓糖昆暮柜娟腹煮泛稀兹抑携芭框彷罐虹拷萍臂袭叙吻仿贼羯浴体翠灿敲胁侣蚁秩佑谨寡岳赔掩匙曹纽签晋喻绵咏摊馨珊孕杰拘哟羡肤肝袍罩叛御谜嫁庙肠谎潘埔卜占拦煌俄札骤陌澄仓匪宵钮岗荡卸旨粽贸舌历叮咒钥苹祭屈陋雀睹媚娜诱衷菁殿撕蠢惟嚣踊跨膀筒纹乳仗轴撤潭佛桂愤捧袖埃壹赫谦汇魏粹傅寮猴衰辜恳桶吋衫瞬冻猎琼卿戚卓殖泼譬翰刮斌枉梁庞闽宅麟宰梭纠丛雕澳毙颖腔伫躺划寺炼胃昂勋骄卑蚂墓冥妄董淋卢偿姻砸践殷润铜盲扎驳湿凑炒尿穴蟑拓诡谬���荡鼎斩尧伪饿驰蚊瘟肢挫槽扶兆僧昧螂匹芝奸聘眷熙猩癢帖贫贿扑笼丘颠讶玮尹詗柱袁漆毋辣棍矩佐澡渊痞矮戈勃吞肆抖咳亭淘穗黏冈歧屑拢潇谐遣诊祈霜熬饶闯婉致雁觅讽膜挣斤帆铺凄瑟艇壶苑悬詹诠滤掰稚辰募懿慨哼汁佬纤肃遨渔恕蝴垫昱竿缝蹈鞭仆豫岩辐歹甄斑淹崎骏薰婷宠棵弓犬涂刹郁坎煎螺遮枯台昔瘾蒂坠唔瞎筝唇表吁冤祷甩伞酱范焉娇驼沦碳沾抚溶叠几蜡涌氧弦娱皓奴颓嘎趟揭噹剥垦狭魁坊盐屎郝佩摧栗菊瘦钧匿砖嘘缚嘟盆债霞挽逍畔蕴颈获畏喂脾姬赴囊噪熄锡诀肇璋晕浊伐峡窃枕倘慌垮帕莹琦厢渺脏削锣虐豔薇霉衍腊喧娶遂睁裙韦矢伺钉婴蓄奸廿堵葬蓬鸦尝挨蕾璿挚券厨醇呻霍剃浆葡暨滨履捞咕耕棉烁尉艰妓棺鹏蒸癌纬菌撇惩绑甫崩魄拂汰氓歇萝呒萄蕃曝疋向胏烛腻襄妆髓朴薯颂薛滩橘贰嘲叹枚侮豹巢酬碑翩蚕辽矿屡谴卵撰攀肌冯宴盏阪浦迦颁炼尬胀辟艘株只湘饲爹梨喽侍疫雕黯并铝弗爪鄙钗栽狸谘柄悸喉擅劈秉芷裸锵贾逗寓咚璞烫铅啸炳屿竖惶仕挪栅迄顷窄鸥鲢郊倩兜茧磊抒夷绰溯拙僚芙杖溃凶鸽妒沌祺呐卦聆栖蝇佮唾汇楣匠蛛悼舜耿瞄芋瞒竭茵吼苛浸拯克豆沛掠廊凸搅俺酌倡朦蕉暱焕掏蝉焰狄绳惰芽裹宛御赎燥滔贬悍袂坟颉啤押尴颤钝腥缔粮哑槟簿斧肿纶僵齣辖蹲敷喘扎酿佑肖愈隧嗜檬迳碌襟凋圭寇污哨倪筠桦诈姜旬秃脂噢撼衅庚炫谭惭涩崔贷胡晒琉捏绮膝拭暗醋膨杠鑫瀑喃剖袜逾涅扳惘凳呃掘捍榔窍蜗旷梵暇稻柠抉辗蔚钩卜莺匡蜘祯哔窟亟谛溢黛晦伶逮傍葱刁堤恍匣谍禧轿耸瀚斐忿泓拐驴罕沫绽刃窈渝仄瑛葵噜绣奕窥浏隶蔽仟敛丞诘鳖疤膏锥窕皱晰晖舅孰煽姚钞袱绊焚芦咸沮��瞪淳丐茹盘菱篠涕衬蚀溉瑄翟怠钰躯肺掷丑奢荫靶纱芸佰峻阱哄肾庄囡阑戳腕菸凹蟾蒐呱巾雏螃盯馈垄毓犀逞姨穆樵阀弥跷搁隙疵憧忏琨阙萱怅辄搏榕饥捣渣眺虞俯绅谤珑咫俏淆蜀楠乞诅匀貂寰迋敞跪囚溺骆憬苇脊瑶疆乍杆眸窜孽卅夭簧徘馒趴鎚啼冗缉絮啄沸萃嘶鸳禽惫徨屐舆邂掀嫖苟檯矫铎棱哗徊拱蕙徬滞吠妞氾芹叩朽侪赦汐丰虔茅棠仑膳魉儡鸯懦渗邵筱畜崖瑕蕊揣擒挂屯莽矽侏弧澈饺奎裘塌饵偎泻蔓彗樽衔茍磋萎廓悯铸茎歼壤浇蚤恃瞻拚汀椒嚼粥磅佫勘脖吨澜锻笙厄嚷伽徽隅寥缤簾烘茜驯噎厦闰煤链锈诫颊俐曳蓓暧郤淌喀昆蔑峙躁菇逅雇殴泌酥缮莓辕骇巍糗扛杏茁琵礁秽岔僻焊嗡诵瞌捌遁赃涡琮卯锯扔苏邹莅隘蹋湛昼岫蛰桩藐汲禄皂濑绒耽粪粤卤曜懋咎痘聂垢瞳闵睿跤鉴躬斟淇莒毯幸骋岱庐殃橄恤叽鳞蒙芥榄楷硫苔麒椎禹喙厘袅亥倌吭诃裔梓蓦岩帜瓣狡惕蒙怯嫩龚嚎豚埠暸唆妃瓢蹄厮讥啃琶愿噱狷搪氢橙咆靡砌筷兑溼呸镀踹冢祟懈术搓攸橡膛俞祉冀炊瓷遐揽鹭茄蜢塘郡韬挟牟糙阎旻赘霆呎炭霄媳瘤猿颺煚铠蝠钜苓傀烬墅璇困愣恬嫉琐嫂淼梳憎搂藻酵屉陡摺箫飨桐蚱曦璧偈蹦昶咙铮嗤戌屌耘裳啾嵘胺笃烹巩厝疚鸶汹蔷沐咽烙畸讳揍曙铐朔涓睬矶岐凄鲫楞鲤荆偕徜饥肮蔼辙恁霈诛鞠茉煜傭嗓酹昙铨艳绷峨揉珈鹃诲臆焰隽熔堇韧扒憨舵肛戊坝抠骷碘鞍冕榨肘羔哺霓巳铲蚵惆驹撷稽羹纺蜕趾吊豁褪癸眨臻慷蝙胧沼舱柚抨葭枷靥硝绚绞缆讪褚砗嫣蒲丫鹦蒹憩懊聋盎婊盔峦矜凛铺鹉蜴惚畴羁媛堑泛疮韶憋祁诟搔蜥袒奄忱玖拌悴祠���髅筑蛤茱骐捶须��葔艸筛岳岳慵戮跎砰仑炜篱笈瘫吏痊庶厥棘娑沁窘鲸缕硷俨栈蔬鸠闲迢恣昀泠涟眩噫娥荼鳄镖侃虏俾樟榴咛炬窦笠翱莘躇翡姜枭匕藩徉觞拣吱皈墉傌梢巅踌萌幌杭侥栾奠痲夸瘖芯蟀驿耨禾瑾
“kill them with kindness” Wrong. CURSE OF RA 𓀀 𓀁 𓀂 𓀃 𓀄 𓀅 𓀆 𓀇 𓀈 𓀉 𓀊 𓀋 𓀌 𓀍 𓀎 𓀏 𓀐 𓀑 𓀒 𓀓 𓀔 𓀕 𓀖 𓀗 𓀘 𓀙 𓀚 𓀛 𓀜 𓀝 𓀞 𓀟 𓀠 𓀡 𓀢 𓀣 𓀤 𓀥 𓀦 𓀧 𓀨 𓀩 𓀪 𓀫 𓀬 𓀭 𓀮 𓀯 𓀰 𓀱 𓀲 𓀳 𓀴 𓀵 𓀶 𓀷 𓀸 𓀹 𓀺 𓀻 𓀼 𓀽 𓀾 𓀿 𓁀 𓁁 𓁂 𓁃 𓁄 𓁅 𓁆 𓁇 𓁈 𓁉 𓁊 𓁋 𓁌 𓁍 𓁎 𓁏 𓁐 𓁑 𓀄 𓀅 𓀆
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xf-2 · 4 years ago
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1981年に防衛大を卒業し陸上自衛官になった私は、事故のちょうど1年前に、千葉県の習志野駐屯地に所在する第1空挺団に配属されました。普通科群普通科中隊(当時)の小隊長として30名ほどの部下を率いる立場で、階級は2等陸尉。まだ独身で26歳でした。
 自衛隊では8月に定期異動があり、12日は駐屯地内の「隊員クラブ」で、転入隊員の歓迎会が開かれていました。私はお酒も飲んだため、駐屯地外に借りていたアパートには戻らず隊舎で寝ることにしました。
 その晩、中隊当直幹部として勤務していたのが、作間優一2等陸曹(当時36歳)でした。寝る前に作間2曹から、航空機墜落の報告を受けました。第12師団(当時)の担任区域における事故らしく、第1空挺団に災害派遣の準備命令等が発出されていないことを確認し、ひとまず眠りにつきました。
 その間、ヘリコプターからのリぺリング降下(ロープを使った垂直降下)による迅速な現場進出の必要性から、第1空挺団の出番となり、第12師団に配属しての災害派遣が翌早朝までに決していたのでした。
 朝5時前には「命令受領ラッパ」が鳴り響き、営内に残っていた我々は即座に出動準備を整えて集合、V-107という大型ヘリ6機に乗り込み、7時54分、習志野を出発しました。準備といっても、装備を詰めた背のうは常に用意してあるので、出発前に地図と乾パンを支給されたくらいです。
 6機のヘリのうち、1番機には第1空挺団派遣部隊指揮官である普通科群長以下の「救助部隊本部」の要員が、2番機から6番機にはそれぞれ隊員12名が乗り込みました。12名のうち1名は衛生隊員なので、私は3番機の小隊長として、自分の部下から10名を選抜しました。
 小隊長である私のサポート役として、普段の演習でも常に一緒に行動していた作間2曹は、もちろん真っ先に指名しました。ヘリのパイロットたちもいつになくピリピリしていて、張り詰めた空気が漂っていました。
 現場の「御巣鷹の尾根」上空に到着し、降下を開始したのが8時48分。まず1~3番機の隊員が現場に降り、4~6番機は麓の相馬原(そうまがはら)でいったん待機することになりました。空挺部隊には指揮官が“先頭降下”するという伝統があって、3番機では私がリーダーですから、最初にロープを伝って山の斜面に降り立ちました。私の次に降りたのは作間2曹です。
 空挺隊員にとってリぺリング降下は日常茶飯事ですが、急峻な斜面に着地した瞬間、強烈な違和感を覚えました。ブーツの裏にグニャッとした柔らかい感触があったんです。「なんだろう?」と思って足下を見ると、そこにあったのは人の“耳”でした。ご遺体を踏んでしまったことに気づき、すぐに“申し訳ございません”と心の中���謝りました。
 降下後、普通科群長が命令を下達しました。我々の任務は、「生存者の救出」と「地形の偵察」です。2番機の小隊と共に生存者を捜索しながら尾根を登っていきました。私と2番機の小隊長を中心に、左右各人5~10メートルほどの間隔で横一列に広がって斜面を登るのです。
■「生存者発見!」
 息を飲む光景でした。航空機燃料が燃える独特の臭いがして、岩肌には人の内臓がベタッと張り付いている。見上げると、髪の毛が付いた頭皮が木からぶら下がっていました。傾斜がきつく、木の幹に掴まりながら登るのですが、触った瞬間に滑る感じがする。見ると木全体が血と肉片で真っ赤に染まっていました。私の後ろを歩いていて、やはりその“赤い木”を触ってしまった隊員が「ギャーッ」と大声で叫びました。
 その時に私が感じたのは、「職業選択を間違えた」ということです。地獄絵図のような現場を目の当たりにして、私は「戦場の光景というのは、多分こういうものだろうな」と考えました。とても耐えられない、おれはこの仕事に向いていない、そう思いました。部下の前では表情にこそ出さないものの、それが本音でした。御巣鷹は私にとって初めての災害派遣だったのです。翌朝には慣れて、そういう気持ちは払拭されたのですが。
 同時に、隊員の誰もが「こんな悲惨な状況で、生存者なんているわけがない」と感じていました。斜面を上がれば上がるほど、まともな形を残したご遺体も少なくなっていきます。あるのは手や足だけの部分遺体や、肉片、皮膚ばかり。あまりに凄惨な場所でした。こんな事故で、到底人間が生きていられるはずがない、と。
 生存者を見つけられないまま尾根を登り、今度は別の方角に向かって下りながら捜索を続けようとした時です。無線から驚くべき情報が流れてきました。「生存者発見!」。耳を疑いました。「えっ?」と他の隊員と顔を見合わせました。
 無線を送ってきたのは、4~6番機から降りたグループでした。当初、相馬原で待機を命じられた3機は、我々のおよそ1時間後、9時45分に現場へ来て降下を開始しました。我々が降下地点から尾根を登って行ったのに対し、彼らは群長の命令で逆方向に下りながら捜索をしていたのです。そして、「スゲノ沢」と呼ばれるあたりで、麓から徒歩で登ってきた地元の消防団や松本駐屯地の第13連隊と合流し、そこで4名の生存者を発見したのです。
 尾根の上にいた我々には、「降下地点に戻れ」と指示がありました。急峻な山の中で、その辺りがかろうじて平坦になっていたから��しょう。その付近から生存者をヘリに吊り上げることになりました。降下地点に戻り暫くすると、下から生存者が運び上げられてきました。たしか事故機のトイレのドア等を担架がわりにして運んできたと思います。
 生存者4名は、あの悲惨な現場で一晩発見されずにいたので、当然かなり衰弱していました。そのうちの一人の少女、後で川上慶子さんと知ったのですが、彼女に「頑張れ!」と声を掛けると「うんうん」と頷くようなリアクションがありました。それを見て「大丈夫だ、助かる」と思いました。
 でもそこからが長かった。救出用のヘリがなかなか来ないのです。こちらからは何度も要請しているのに一向に来ない。報道陣のヘリも含め、多くの航空機が上空に飛来していたため、二次災害の危険もありました。
 結局、生存者が吊り上げ地点に搬送されてから、ヘリへの収容が完了するまで1時間近くかかりました。ヘリを待つ間、誰もがイライラしていて、そのうち、現場に到着された赤十字の女性の看護師さんから、ものすごい剣幕で怒鳴られたんです。私の顔をキッとにらんで、「もしこの人たちが亡くなったら、あんたたちのせいだからね!」と。それはよく覚えています。「おれだってどうしようもないんだ」という気持ちでしたね。
 ヘリを待ちながら、現場ではホイスト(ヘリからのワイヤによる吊り上げ)準備をしていました。赤十字の医師から、「隊員が直接抱えて上げたほうがいい」と言われて、自衛隊の茶色い毛布で生存者の体を包みました。最初に吊り上げたのは、吉崎美紀子さん(当時8歳)です。毛布に包んだまま、空挺隊員が抱えてヘリに収容しました。
 次が当時14歳だった川上慶子さん。彼女を収容したのが、私の相棒だった作間2曹でした。1人目と同じように、毛布で包んで準備をしていると“事件”が起きました。救出される生存者の姿を撮影したかったのでしょうが、なんと、いつの間にか周りにいた報道陣から手が伸びてきて、毛布を剥ぎ取ったんです。「何をするんだ!」と怒りましたが、もうヘリは真上にいてワイヤが下りてきている。仕方なく、作間2曹は毛布無しで川上さんを抱えて吊り上げられました。
 3人目の吉崎博子さん(美紀子さんの母、当時34歳)と4人目の落合由美さん(当時26歳)は、担架に乗せた状態で吊り上げました。というのも、抱えて吊り上げるには脱力した大人は相当重たく、途中で落下する恐れもあり、危険だと判断したのです。
 ここで我々はミスを犯してしまいました。3人目の吉崎さんのお母さんを乗せた担架が、ヘリから吹き下ろされる風を受けて、吊り上げた途端にグルグルと回転してしまったのです。すごいスピードで回転して、いまにも担架から体がずり落ちてしまうのではないかと気が気ではありませんでした。私は真下で両手を広げて、「万が一落ちてしま��たら、絶対に受け止めなくては」と覚悟していました。
 結果的には無事に収容できたのですが、これは我々の本当に初歩的なミスです。本来、担架の把手にロープを付けて、担架が回転しないように地上の隊員がロープを保持すべきなのです。基本的な作業ですが、やはり異様な現場に平静でいられなかったのでしょうか、あの非常時に誰もそれに気づかないまま吊り上げてしまった。今でも思い出すたびに血の気が引きます。最後に落合さんを収容する際は、きちんと補助ロープを付けました。
 生存者の救出を終えたのが、13日の13時29分。そこから次の任務が命じられました。ヘリポートの構築です。獣道すらない急峻な山に、人員や救助物資を迅速に送り込むにはヘリを使うしかない。我々は上空からロープで降下できますが、以後の作業にはヘリを着陸させることが必須でした。
 普通科群長は私に、大型ヘリ(V-107)用を一つと中型ヘリ(HU-1H)用を一つ、あわせて二つのヘリポートを構築するよう命じました。我々は訓練・演習で簡易ヘリポートを作りますが、その際、なるべく広くて平坦な場所を探します。そこで私は、日航機の主翼が落ちていた辺りに目をつけました。その辺りは比較的広くて平らだったからです。ただ、航空機事故ですから、事故原因の究明のために現場検証も必要です。勝手に現場の状態を変えるわけにいかないので、現場を管轄する群馬県警の責任者を探しました。
 周りにはたくさんの警察官がいましたが、長野県警だったり警視庁だったりで、なかなか群馬県警の責任者が見つからない。ようやく見つけて交渉したところ「ダメだ」の一点張り。仕方なく、現場検証を要しない下方の地点に決定し、周辺の木を切り倒して斜面を掘削し、削った岩石や土を下側に盛るやり方で、中型ヘリ用ヘリポートのみを作ることにしました。
 我々がヘリポートを作っている間にも、続々とご遺体が運ばれてきます。やがて夜になり、13日の深夜にはヘリポートの大枠ができました。暗い中では細かい仕上げができないので、その日はその場で仮眠することにします。そして翌14日の朝3時頃から作業を再開し、7時頃にヘリポートが完成しました。
■“モミジ”
 ただ、この仮眠がつらかった。翌朝からヘリで搬送するべく、ヘリポート付近にはご遺体が集められていました。その隣で横になって眠るのですが、真夏の暑さで傷んだご遺体は、死臭を発しているんです。何度も目を覚ましました。
 14日は、完成したヘリポートを使って朝から何度もヘリが往来し、15時くらいまでに計121のご遺体を搬送しました。この数字に関しては苦い思い出があります。この日、上級部隊から連絡幹部が現場にやってきたのですが、ヘリポートの運用を指揮していた私を見るなり、「今日は何体運んだ?」と聞くのです。私は返答に窮しました。
 ご遺体といっても、五体満足なものは少なくて、手だけ、足だけといった部分遺体も多い。それを現場では努めて早く収容すべく、個別に包装した部分遺体の何体かを一緒に毛布に包んで“1包み”として搬送していました。そういう状態で“121包み”搬送したのであって、「何体か」と聞かれてもわからないのです。
 ところが連絡幹部は、即答できない私を見て、「それでも責任者か!」と叱責したのです。ロクに寝ていなかったせいもあるでしょうが、さすがに頭に来て、部下の一人に「おい、そこの毛布を開けろ!」と命じました。そして「あなたには、このご遺体が“何体”かわかるんですか!?」と聞き返すと、相手も黙ってヘリに乗って帰っていきました。
 今思い出しても、いちばんつらかったのは「モミジ」です。ご遺体の搬送準備中、ビニール袋に入った何かが運ばれて来ました。赤くて小さくて、最初はモミジの葉のように見えました。でもそれは、血に染まった小さな子どもの掌だったのです。徐々にご遺体を見ることにも慣れていたのですが、あれは衝撃的で���た。本当にかわいそうで、堪らない気持ちになりました。
 14日の15時過ぎから天候が悪化し、ご遺体の搬送作業はそこで中断しました。雨がしとしと降る中、その夜も前日と同じようにご遺体の隣で仮眠し、翌15日の朝、我々空挺部隊は任務を終えてヘリで習志野に帰投しました。ですから、私が御巣鷹山にいたのは13日の朝から15日の朝まで、48時間くらいです。睡眠も食事も不十分なまま過酷な状況にいたので、今思えばかなりストレスが溜まっていたのでしょう。
 警察と喧嘩もしました。自衛隊のヘリが運んでくるのは、ツルハシやスコップなどの工事用器材、ご遺体収容のための毛布だとか、任務に直結するものばかりです。ところが警察のヘリは、弁当やタバコ、寝袋やらをたくさん運んでくる。
 ある時、広げたままの寝袋が、ヘリの風圧で巻き上げられそうになり、近くにいた私の部下が慌てて飛び乗って押さえた。すると警察官が彼に向かって「おい自衛隊さん、寝袋に穴開けないでくれよな」と言い放ったのです。部下は休憩中だったのでタバコをくわえていました。警察官には、彼がふざけて寝袋に寝っ転がったように見えたのでしょう。私はその警察官に「馬鹿野郎! 寝袋が巻き上げられてローターに接触したら、ヘリが墜落するだろうが!」と怒鳴りつけました。
 マスコミにも腹が立ちました。川上さんの毛布を剥ぎ取ったこともそうですが、遺体の写真ばかり撮る輩もいて、思わず「いい加減にしろ!」と叱ったこともあります。とはいえ、14日の昼頃、ある新聞記者が持ってきた朝刊を見た時は、やっぱり嬉しかった。そこには、川上さんを抱えてヘリに向かう作間2曹の写真が1面に載っていたのです。
 今でこそ災害時の自衛隊の活動はメディアでも取り上げられますが、当時の自衛隊はある意味、日陰者でした。マスコミが現場にいるのは認識していましたが、我々の活動が大々的に被写体になるなんて私自��は想像もしておらず、とにかく驚きました。それと同時に、おれたちは正しいことをしているんだ、という実感が湧いてきたんです。
 ただ5年前、事故から30年ということであるテレビ局の取材を受けた際、ディレクターから開口一番、「なぜ自衛隊の到着が遅れたんですか」と聞かれたのは心外でした。そもそも当時の災害派遣は、要請を受けて初めて出動できる仕組みでした。勝手に現場に向かうことはできません。
 また、「夜のうちに現場へ行けなかったのか」などという人もいます。我々空挺部隊・普通科部隊は深夜の現場であっても救助活動することは可能ですが、輸送に任じた当時の自衛隊のヘリには暗視装置が装備されておらず、暗夜における未知の山地・森林の飛行は危険極まりないものでした。一方で12師団隷下部隊は、夜を徹してまさに暗中模索で現場に向かって山を踏破していたのです。自衛隊はできる限りのことをやったと私は今も確信しています。
■ストレス障害
 御巣鷹での経験は、私のその後の自衛隊人生にも影響を与えました。一番大きいのは、「ストレス障害」について身をもって学んだことです。実は習志野に戻った後、私は不眠症に悩まされました。
 昼間仕事をしている時はなんともないのですが、夜アパートに帰ると、暗い場所があるのが苦痛に感じられるのです。寝室はもちろん、トイレや風呂の電気もつけっぱなしにしておかないと落ち着かない。そして就寝中にふと窓に目をやると、ベランダにたくさんの人が並んで私を見ているのです。ほぼ全身の人もいれば、上半身のみの人、炭化した人など、全員、御巣鷹の現場で我々が後送に関わったご遺体のお姿そのものでした。
 もちろん幻覚だと自分自身納得しています。彼らが現れることに恐怖心を覚える反面、それほど不快には感じなかった。ただただ、「なんで現れるんだ」という気持ちでした。結局、ウイスキーをガブ飲みしないと眠れない状態が1カ月ほど続きました。
 この間は肉類も全く食べられませんでした。でも、当時の私はそれを仲間の誰にも言えなかった。あの頃の自衛隊には、まだストレス障害という概念もなかった。空挺団は、男の中の男が集まった猛者ぞろいの精鋭部隊です。年上の部下を統率する若手幹部として、弱みは見せたくなかった。上司に相談しても「頭がおかしくなったのか? 病院に行ってこい」と言われるだけだと思うと、誰にも相談できなかった。
 ただ、御巣鷹に出動した者の中で、外泊を申請して出掛けたはずの営内居住隊員が、“不気味に感じる”と言って駐屯地に帰ってきて皆と一緒に寝ているという話を聞いた時は、妙に安心しました。私はその隊員に向かって「情けない奴だ」と笑ってやったのですが、内心、「おれだけじゃない、みんな同じなんだ」とホッとしたことを覚えています。
 それからずっと後の、私が1等陸佐として連隊長を拝命した2003年、自衛隊がイラクに派遣されました。私も派遣に備えて、部隊指揮官としてストレス障害に関する教育を受け(結局私自身はイラクには行かなかったのですが)、更にその後の勤務でも、指揮官・幕僚にとって必須の知識として学びました。
 そこで、当時26歳の私が御巣鷹山から帰って体験したことが、まさに「急性ストレス障害(ASD)」の典型例だったと気付いた。それ以来、ようやく自分の経験を他人に話せるようになりました。ちなみに、ASDの状態が1カ月を超えて続く場合は「心的外傷後ストレス障害(PTSD)」とされます。
 戦場や大規模災害の被災地などの過酷な状況下では、どんなに強い人間でもストレス障害になり得る。それを私は、知らないうちに自ら経験していたのです。たった48時間の任務で、私の心は壊れかけてしまった。そしてそれをひたすら隠し、一人で悶々と悩んでいた。
 現在の自衛隊では、海外派遣や災害派遣のたびにメンタルヘルスに関するケアを体系的に行っています。任務終了後の隊員を一人でストレス障害に立ち向かわせるような状態に放置することはありませんし、仮にあったとすればその指揮官は失格です。そういった意味で、この貴重な体験は私自身にとって、指揮官として大勢の部下を率いて任務を完遂する上で大きな糧となりました。
 あの悲しい事故から35年を迎える今、改めて犠牲者のご冥福と、生存者やご遺族の方々の人生に幸多からんことを、心からお祈り申し上げます。
岡部俊哉(おかべとしや) 元陸上幕僚長 昭和34年、福岡県生まれ。元陸上自衛官(防大25期)。第6師団長、北部方面総監などを経て、2016年、第35代陸上幕僚長に就任。2017年8月に退官。
「週刊新潮」2020年8月13・20日号 掲載
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[January] J-Actors Birthday Calendar
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♪ January 1st
◎ Harashima Motohisa 原嶋元久 1993
◎ Mizuishi Atomu 水石亜飛夢 1996
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♪ January 2nd
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♪ January 3rd
◎ Shiono Akihisa 塩野瑛久 1995
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♪ January 4th
◎ Kanda Masakazu 神田聖司 1994
◎ Wada Takuma 和田琢磨 1986
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♪ January 5th
◎ Hayashino Takeshi 林野健志 1980
◎ Koike Teppei 小池徹平 1986
◎ Mashiko Atsuki 増子敦貴 2000
◎ Murakami Kisuke 村上貴亮 1995
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♪ January 6th
◎ Akira 瑛 1997
◎ Kizu Tsubasa 木津つばさ 1998
◎ Matsumura Yuu 松村優
◎ Momiki Yoshito 籾木芳仁 1992
◎ Tanaka Suguru 田中精 1977
◎ Yokoo Rui 横尾瑠尉 1984
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♪ January 7th
◎ Ishiwatari Mashuu 石渡真修 1993
◎ Kashiwagi Souta 柏木湊太 1995
◎ Okamoto Yuuki 岡本悠紀 1989
◎ Shindou Gaku 進藤学 1980
◎ Tomita Shou 富田翔 1982
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♪ January 8th
◎ Kazunari 和成 1989
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♪ January 9th
◎ Imari Yuu 伊万里有 1988
◎ Oosumi Yuuta 大隅勇太 1995
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♪ January 10th
◎ Ishiguro Hideo 石黒英雄 1989
◎ Kiyama Haruki 丘山晴己 1985
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♪ January 11th
◎ Akazawa Ryoutarou 赤澤遼太郎 1997
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♪ January 12th
◎ Iwata Tomoki 岩田知樹 1996
◎ Kubota Hidetoshi 久保田秀敏 1987
◎ Tsujimoto Yuuki 辻本祐樹 1985
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♪ January 13th
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♪ January 14th
◎ Fuchino Yuuto 渕野右登 1995
◎ Hashimoto Atsushi 橋本淳 1987
◎ Takeda Kouhei 武田航平 1986
◎ Tamaki Hiroshi 玉木宏 1980
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♪ January 15th
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♪ January 16th
◎ Ichichi Raito 伊地智頼統 2000
◎ Jinnai Shou 陳内将 1988
◎ Utsumi Akiyoshi 内海啓貴 1995
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♪ January 17th
◎ Izaki Ryuujirou 伊崎龍次郎 1994
◎ Kanshuuji Reo 勧修寺玲旺 1998
◎ Niihara Takeshi 新原武 1981
◎ Satou Ryuuji 佐藤流司 1995
◎ Takamatsu Kouichi 鷹松宏一 1991
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♪ January 18th
◎ Ayukawa Taiyou 鮎川太陽 1991
◎ Yamagiwa Kaito 山��海斗 1995
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♪ January 19th
◎ Higano Shou 日向野祥 1991
◎ Oota Motohiro 太田基裕 1987
◎ Watanabe Aoto 渡辺碧斗 1998
◎ Yamamoto Yuusuke 山本裕典 1988 
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♪ January 20th 
◎ Doi Kazumi 土井一海 1989
◎ Kubodera Akira 窪寺昭 1977
◎ Yanagihara Rin 柳原凛 1995
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♪ January 21st
◎ Miyamoto Hidemitsu 宮元英光 1992
◎ Suzuki Youta 鈴木遥太 2000
◎ Sonomura Masashi 園村将司 1998
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♪ January 22nd
◎ Nagata Akira 永田彬 1985
◎ Nukanobu Taishuu 糠信泰州 1998
◎ Sano Daiki 佐野大樹 1979
◎ Toda Shingo 戸田慎吾 1988
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♪ January 23rd
◎ Sawada Takurou 澤田拓郎 1993
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♪ January 24th
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♪ January 25th 
◎ Kitamura Ryou 北村諒 1991
◎ Kishi Kouhei 貴志晃平 1998
◎ Miyazaki Yuu 宮崎湧 1995
◎ Ozawa Ryouta 小澤亮太 1988
◎ Sugawara Takuma 菅原卓磨 1978
◎ Yamaki Toru 山木透 1995
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♪ January 26th
◎ 
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♪ January 27th
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♪ January 28th
◎ Itagaki Rihito 板垣李光人 2002
◎ Katou Ken 加藤健 1997
◎ Sakamoto Kota 坂本康太 1992
◎ Yokoi Shoujirou 横井翔二郎 1991
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♪ January 29th
◎ Kaji Masaki 加治将樹 1988
◎ Mende Tomoyuki 免出知之 1985
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♪ January 30th
◎ Ara Kazuharu 荒一陽 1995
◎ Imagawa Aoi 今川碧海 1999
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♪ January 31st
◎ Igarashi Maasa 五十嵐麻朝 1985
◎ Kimisawa Yuuki 君沢ユウキ 1985
◎ Mayama Akihiro 真山明大 1988
◎ Tarumi Keisuke 夛留見啓助 1987
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1010mush · 6 years ago
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茨戸編での尾形は何だったのか あるいは沈黙する破戒神父・鶴見中尉はなぜ死神を自称するのか
ガッツリ本誌176話まで。
1、序 鶴見と尾形の言説の不思議な酷似
父殺しってのは巣立ちの通過儀礼だぜ…お前みたいに根性のないやつが一番ムカつくんだ
ホラ 撃ちなさい 君が母君を撃つんだ 決めるんだ 江渡貝君の意思で… 巣立たなきゃいけない 巣が歪んでいるから君は歪んで大きくなった
こと江渡貝母への発砲については、私は鶴見の言い分をずっと好んできた。ここでの鶴見の江渡貝への殺害の示唆は正しく思える(母君は元々死んでいたから私にも倫理的禁忌感がない)。鶴見は時折とんでもない正しさで私を苦しめる。硬直した仲間の死体に向かって「許せ」と言う男。同じ4巻の回想には、マシュマロでゴールデンカムイには珍しい雲吹き出しで内���が記されていることも教えて貰った。
まるで死の行進曲のようなマキシム機関銃の発射音 この無駄な攻略を命令した連中に間近で聞かせてやりたい
私は鶴見中尉の内面描写が少ないという通説をとてもとても疑問視している。これはもはや読み手の願望に近く、検討するのであれば幅広い読解が必須であろう。ゴールデンカムイの人物は総じて内面描写が少ない。それところか、当初は梅ちゃんと寅次についてあれだけ饒舌だった杉元の内面は、「俺俺俺俺俺俺俺俺俺」という叫びとは裏腹に、「俺」も、その内面も、徐々に欠落を始めてしまったのだ。15巻にはアシㇼパの顔を思い出せていないのでは無いかと思わせるカットすらある。15巻で杉元の『妙案』が宙に浮いたままであるのは象徴的だ。私たちの心が取り残され、疑問は解決されず、1つの核心だけが深まるーー杉元佐一は自分を失っている、と。この話は杉元が梅ちゃんに認識されるような自分を取り戻す話出会った筈なのに(そしてそれを認知できない杉元は、梅ちゃんに自分を認識してもらえるように視力回復に躍起になる)、旅の過程で彼はますます自己を喪失していく。
これから延々と鶴見の話となる。
2、死神の自称
鶴見は意図的に自分を失わないために死神になることを選んだ男である、というのが私の基本的な考えである。それは「脳が欠けているから杉元佐一は自分を見失っている」という説を遠回しに否定する存在である。だいたいにして脳が欠けていなかったら杉元はスチェンカで相手を殴り続けなかったと言えるのだろうか。まぁ、杉元の話はさておくとして、それはおそらく尾形のこういった態度と対照づけることも出来る筈だ。
俺のような精密射撃を得意とする部隊を作っておけばあんなに死なずに済んだはずだ
今となってはどうでも良い話だが
鶴見は「今となってはどうでも良い」をやり過ごさなかった男である。一度は鶴見の腹心の部下であった筈の尾形は、戦後も心を戦場に置いてきたのではなく、戦場の側を自らに引き寄せようとする鶴見(や土方)にたいして冷笑的な視点を浴びせ続ける。
仲間だの戦友だの……くさい台詞で若者を乗せるのがお上手ですね、鶴見中尉殿
変人とジジイとチンピラ集めて 蝦夷共和国の夢をもう一度か?一発は不意打ちでブン殴れるかもしれんが政府相手に戦い続けられる見���しはあるのかい? 一矢報いるだけが目的じゃあアンタについていく人間が可哀想じゃないか?
ここでの尾形の「正しさ」は、鶴見の「正しさ」とは違い私の心の拠り所になっていた。尾形が「いい人になれるよう 神様みていてくださろう」に適合するような行動をすると私はいちいち救いを求めてしまい、彼の行動がいつも噛み合わず言説が否定されるのを見てこの男の救いのなさに頭を抱えていたのだ(まさに本誌の『176話 それぞれの神』で現れた関谷の神にすがる心情である)。そして鶴見は、月島をある意味救ったが、尾形を救うのには失敗した。むしろ鶴見は尾形を利用するだけ利用していたように思えた。
尾形と鶴見と親殺しは4度交錯する。江渡貝。花沢中将。月島。ウイルク。
外敵を作った第七師団はより結束が強くなる 第七師団は花沢中将の血を引く百之助を担ぎ上げる 失った軍神を貴様の中に見るはずだ よくやった尾形
たらし めが…
尾形にとって鶴見の取り巻きであることが幸せなのかどうかは分からないが、他の造反組や、あるいは役目を見つけて下りた谷垣とは異なり、尾形は鶴見を『切』った、数少ない人物である。尾形は、月島同様戦前から鶴見の計画に加担していたのにもかかわらず、鶴見中尉から月島と同じ様に扱われなかった人間でもあった。
江渡貝の母殺しに関しては鶴見にも見るところがあると考える私も、この鶴見の花沢中将殺しにおける尾形の扱いが原因で、長らく鶴見のことをよく思えずにいた。さらに15巻149話、150話で鶴見が月島を父親殺しから救った(?)事実や、本誌にて戦前から尾形が鶴見の命で勇作を篭絡および殺害しにかかっていた事が判明した事を鑑みて、鶴見の風見鶏的態度に辟易していた。加えて言うのなら、ゴールデンカムイの中に時折現れる聖書に基づく表象や、それに対するキリスト教に軸足を置いた読み解き方というのは私が最も苦手とするところであったが、一方で鶴見が71話の表紙にて不完全に引用された聖書の一節を通じて『にせ預言者』(マタイ7:15)であると示されていることを筆頭に、いくつかのキリスト教的モチーフを(ところどころで反語的に)取り込んだキャラクターであることも否めずにいた。
にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。(wikisorceの口語訳より)
そもそも鶴見もまた、その他大勢のキャラクターおよび我々と同様、多面的な人物として描かれている。偽預言者であり、彼の演説はヒトラーのパロディとして描かれるほど(���者によるとミスリードらしいが。Mislead? Misread?)だ。そして、外敵に対しては自らのことを死神と称しながらも、仲間に対してはむしろ告解をうける神父の役割に近いものを演じ、坂本慶一郎とお銀の息子の前では聖母マリアとなり、月島や杉元と共有する傷は、スティグマと見ることも出来るだろう。キャラクターデザインには、明らかに鶴の要素が取り入れられている。さらには編集者のつけた仮面を被る悪魔、という表象ですら許容される向きにあるのだから、鶴見も大変である(悪魔という呼称は江渡貝の母によっても齎されている)。私がこの鶴見という、出自も分からぬいろんな人形が載せられたクリスマスケーキを長らく食べる気になからなったのは、そこに土俗の信仰と西洋的信仰が混ざり合って、あまつさえ鶴や死神の細工菓子まで載っていたことを考えると不思議ではあるまい。
私はどこかで、にせ預言者としての鶴見、という表象の正当性についてすら、もしかして議論になるのではないかと辟易している。不信の徒である私の読み解ける事項など限られていることは重々承知だし、そもそも私はゴールデンカムイを読み解くときに、作中での記載を第一に考え、外的世界に存在するマキリで作品をチタタプしない様に細心の注意を払ってきた。最近ラジオが出現したことで、ようやく文言に尽くし難かったそのバックグラウンドをまとめる事ができたような気がするが、私は解釈を取り払った読み方が先にくることを好むし、そもそも『らしさ』への拘泥は私の目を曇らせるのではないのかと考えている。とりわけキリスト教を扱う時には、竹下通りで千円で買った十字架のアクセサリーを身につける女の子のようにならないためには、むしろ触れずにいるのが一番なのではないかと長く考えていたものだった。それが私の最低限の敬意の示し方であった。
とはいえ、キリスト教と日本の間での困難を感じていたのは何も私だけではなかった。多くの作家がそれに苦しみ、むしろその困難を以って、日本を描き出そうとする作家もいた。もちろん私の考えでは、作家の作るものに於ける宗教的解釈は、仮に異端であっても一つの芸術作品になり得る一方で、評論家の宗教的解釈の異端さは、単なる誤読として片付けられる可能性がより高く、慎重を期するものであるのだが…。しかし私はだんだんと、そういったキリスト教と日本の狭間で描かれた作品であれば、鶴見像を見出せるのではないかと思う様になってい��た。もっと言えば、私がキリスト教的表象を前にして立ち竦む、その逡巡自体を語ることならできるのでは無いか、と思う様になったのだ。
「にせ預言者ー貪欲な狼」「ヒトラー(ミスリード)」「マリア」「告解を受けるもの」、そして「聖痕」…を持つ「悪魔」で「死神」…の「鶴」をモチーフとした「情報将校」。
「にせ預言者ー貪欲な狼」に対してのとても簡潔な読み解き方は、単に鶴見が偽の刺青人皮を作ろうとしている、というものである。もう少し解釈を広げれば、鶴見が北海道の資源を活用して住むものが飢えない軍事帝国を作ろうと嘯くことであろうか。
軍事政権を作り私が上だって導く者となる お前たちは無能な上層部ではなく私の親衛隊になってもらう
これはヒトラーとして描写されていること(繰り返しとなるが、作者によるとミスリード)でもあり、ヒトラーとはたとえばその土地の出身では無いという点などでも共通点が見られる。実際には北海道はロシアと違って天然資源には恵まれておらず、またその後の軍事政権というトレンドの推移、戦争特需にも限りがあることを考えれば、金塊を持ってしても独立国家としての存続がおよそ不可能であっただろうことは見て取れる。
3、マリア、そして告解を受ける破戒的神父としてのあべこべさ
面白い事に、聖母として描かれる鶴見はほとんどもって無力であり、子をアイヌ的世界に属するフチに預ける事しか出来ない。
一方で「告解を受けるもの」、すなわち神父としての鶴見は極めて破戒的である。鶴見への告解は子羊たちの救済を意味しない。鶴見は誰とも共有すべきではない告解を共有することで、結束を強める「見返り」を期待する者である��教会に於いては告解の先には主による赦しがあることが期待され、十字架に架けられたキリストの苦難がそれを象徴していた。一見してキリストの苦難は鶴見の告解室においては「戦友は今でも満州の荒れた冷たい石の下だ」で代替されている。しかし鶴見の厄介さはその様な単純な構造におさまらないところである。一方で満州を彼らのいる北海道と分けて見せるそぶりを見せながら、時として「満州が日本である限り お前たちの骨は日本人の土に眠っているのだ」と口にし、それどころか戦争の前から月島・尾形らと何かしらの謀略を図っていたことすらわかり、『我々の戦争はまだ終わっていない』という悲壮にも満ちた決意が段々と『戦争中毒』である鶴見のハッタリであったことに我々は気づかされる。
彼への告解は何もか��があべこべであり、神父の皮を被りながら極めて破戒的である。洗礼後ではなく洗礼前――つまり第七師団入隊前――の罪を、谷垣に至ってはあまつさえ衆人の前で告白させ、傷を共有させる。告解が終わった後に司祭は「安心して行きなさい(ルカ7:50)」というものだが、鶴見は自分に付いてきてくれるように諭すのだった(「私にはお前が必要だ」)。
破戒というのはあまり神父に使う言葉ではない。それでも、島崎藤村の『破戒』は、聖書のモチーフを色濃く反映させながら、被差別階級とその告白を描いた作品だったのだから、やはり破戒、と言う言葉はここにふさわしい気がする。
『破戒』において島崎が真に目指したのは、「身分は卑しくてもあの人は立派だから別」という、個人の救済を批判することであった。そのような個人の救済は、いわば逆説的に被差別階級の差別を補強する、矛盾した論理であったのだ。
この論理は2018年にも広く流通した。杉田水脈氏がLGBTに生産性がないと発言したことに、一部の人が、アラン・チューリングやティム・クックといった生産性のあるLGBTの名前を挙げて反論を試みたのである。このような言説が流布した後、リベラル派は、自分たちの身内の一部に対して、「生産性のないLGBT」が仮にいたとしても、その人たちも等しく扱われなければならない、とお灸を据えなくてはならなかった。
これこそ私が鶴見の恣意的な月島の依怙贔屓を、そして尾形の利用を、いまだに批判すべきだと考える理由である。
外敵を作った第七師団はより結束が強くなる 第七師団は花沢中将の血を引く百之助を担ぎ上げる 失った軍神を貴様の中に見るはずだ よくやった尾形
誰よりも優秀な兵士で 同郷の信頼できる部下で そして私の戦友だから
私はこの差異に於いて鶴見を許す気は毛頭ない。それは、私が谷垣を愛しながらも、アシㇼパを人質に取った事を未だに許していないのと同等である。谷垣を受容するに至った経緯が、私に鶴見というキャラクターを拒絶する理由は最早ないことを教えてくれた。そしてよくよく読み解いてみると、この、一見すると月島への依怙贔屓ですらあべこべなような気すらしてくるのであった。
4、主格の問題 ー 「死神」という主語について
ここにおける問題は『主格』に於いても明らかだ。鶴見が月島に話す時の態度は、軍帽を脱ぎ、主語は「私」、時折「おれ」と自らを自称する親しみのあるものだ。その一方でしかし尾形へは軍帽またはヘッドプロテクター(仮面)を装着して主語をあろうことに「第七師団」に置いている。尾形の父殺しについては未だに謎が多く、発端が誰なのか(花沢中将自身・尾形・鶴見)、なぜ花沢中将が死装束を身につけられたのかを筆頭に、また鯉登少将への手紙をいつ誰が書いたのかも問題となろう。よって、尾形が鶴見��の忠誠心を失いつつも自らの父殺しの願望を成就させるために鶴見の案に乗っただけなのかどうかは、よくわからない。とはいえ、自らが時に「どんなもんだい」と誇示さえする狙撃手としての腕を買わなかった第七師団への離反は、狙撃手と対称をなすような旗手としての勇作を評価し、勇作の殺害作戦を撤回した鶴見への、勇作の狙撃をもっての”謀反”を契機として、花沢中将死亡時に、すでに尾形の胸の内にあったと考えるのが自然であろう。加えて尾形も、どこかの段階で破戒的神父・鶴見への告解というステージを踏んでいたことも想像に難くない。
このように読み解いていくと、単に鶴見は月島にだけ心を許しているようにも読めるのだが、そうは問屋が卸さない。まずはいご草への呼称問題である。月島は自らのことを『悪童』ではなく『基ちゃん』と呼ばれる事に意義を見出しているのに、彼女の事を『いご草』と表現する(本当は鶴見との会話の上でも名前で呼んでいたのだろうが)。さらにそれを受けて鶴見は『えご草ちゃん』と彼女の非人格化を進め、さらには自らの方言も決して崩さないことで会話の主導権を握る。加えて、私は長らく、江渡貝と炭鉱での爆発に巻き込まれ、煤だらけで雨の中を帰ってきた月島への労いの少なさにも違和感を抱いていた。これも一つの「あべこべ」なのかもしれないし、あるいは月島への圧倒的信頼が根底にあり、彼なら心配に及ばないと考えていただけなのかもしれず、もしくは鶴見がヘッドプロテクターという仮面をつけた時の「死神」としての決意の表れかもしれない。
「死神」を自称すること。
そもそもにおいて、我々が日々感じている他人への判断、偏見、予断の集合体、例えば、あの人は秋田出身で大柄で毛が濃く少々ドジなマタギである、と言われたことによって”我々が想起する予断と偏見”と、漫画を切って話すことはできない。小説よりもさらに視覚的な漫画という分野においては、ステレオタイプと”キャラ”立ちするための記号化というのはほとんど隣り合わせにあり、分離することがむずかしい(この論だけで何百ページも割かなければ説明できないであろう)。それでも、だ。この作品のキャラクターほど、「あの人はこう言う人だから」と型に嵌める行為が適切ではない作品もないのではないか。
作品内で繰り返される「あなた どなた」という問い、あるいはその類型でのマタギの谷垣か兵隊さんの谷垣かどっちなのか、山猫の子は山猫なのか、という問い、そしてその問いに対するわかりやすすぎる「俺は不死身の杉元だ」という回答を、繰り返しながらもゆるやかに否定し続ける世界線の中で、「私はお前の死神だ」という言葉は鶴見の決意と選択を象徴しながらも、結局のところ杉元の「不死身」の様にアンビバレントな価値を持つ言葉の様にすら思える。
鶴見と杉元はスティグマを残す男である点も共通している。鶴見は月島が反射的に自らを守った際に微笑み、二人はその後スティグマータを共有する人物になった。
杉元と傷の関係については未だに謎が多い。彼自身が顔につけた傷についても多くが語られる事はない。時間軸として1巻以降で彼が顔に受けた傷跡はかならず治っていくのに、彼が周りに残していく傷は確実に相手に痕を残していく。なぜ尾形が撃った谷垣の額の傷跡は消えたのに、杉元が貫いた頬の傷はいつまでたっても谷垣の頬から消えず、尾形の顎には縫合痕が残り、二階堂は半身を失い続けているのか、分からないままだ。ずっと分からないままなのかも知れない。
そしてウイルクもまた、顔に傷を残す男性である。傷を残しても役目を終えない男たち。聖痕と烙印ーー両極な語義を内包するスティグマータを共有し合う男たち。それはかつての自己からの変容であり、拭い去れない過去の残滓でもある。そしてそれは、作中の男性キャラクターたちが「視覚」を中心として動き回ることと決して無関係ではないが、ここではその論に割く時間はない。
「あなた どなた」に対してあれほど口にされる「俺は不死身の杉元だ」を“言えない”こと。この言えない言葉について、私はどれだけの時間をラジオに、文章に、割いて来ただろうか。そのことを考えると矢張り、「あのキャラクターはこうだから」と言う解釈がいかに軽率にならないかに気を使ってしまう。たとえば鶴見においては、まさに本人が、「俺は不死身の杉元」よろしく「私はお前の死神だ」と言っているのだから、もうそれで良いではないかと言う気がする。「不死身の杉元」は杉元が不死身ではないからこそ面白みの増す言葉であるように、今まで見てきた通り鶴見も何も「死神」だけに限定するには勿体無いほどの表象を持っているが、その中で杉元が、ある種の悲痛な決意を持って、半ば反射的に「不死身の杉元」と口走る一方で、「死神」にはもっと計画的な、そして底が知れぬ意志の重みを感じるのは私だけだろうか。「不死身の杉元」にも感じないわけではないが、「死神」はより一層”選択”であった、という感じがする。偽の人皮を、扇動を、月島を、傷を、周りに振り回されることなく自ら道を切り開いて”選ぶ”という高らかな宣言が、「死神」である、という感じがする。
5、「運命」と「見返りを求める弱い者」
『役目』を他人に認めてもらうことが作品内でどれくらい重要なのかは難しいところだ。谷垣源次郎が役目を見出し、果たす事を体現するキャラクターとして描かれ、見出す事、果たす事の重要性は単行本の折り返しから我々に刷り込まれているとは思うが、その結果としての他者承認は必須なのだろうか。杉元や尾形が他者承認を執拗に追い求めている様に見える一方で、白石が、シスター宮沢、熊岸長庵、アシㇼパ、杉元と、認めないー認め���れないことをずっと体現し続けているのもまた面白い。
長年の谷垣源次郎研究の成果として、谷垣の弾けるボタンは、インカラマッが占いきれない予測不可能性と、それを元にした因果応報やら占いに基づく予測的行動の否定の象徴であると気付いて、私はだいぶスッキリした。網走にいるのがウイルクである可能性は彼女の占いに基づくと50/50であるが、これがウイルクではないと100/0で出ていたとしても、彼女は網走にそれを確かめに行かなくてはならなかっただろう。それは北海道の東で死ぬと知っていながら網走に行く選択をするのと同根であり、いずれボタンが弾けとぶと知っているからと言ってボタンを付けない理由にはならないこと、またはボタンが弾け飛ぶからといって、彼女が谷垣に餌付けするのをやめはしないことと共通する。そもそもにおいて自分の死期を悟っている、ある種の諦念を持つインカラマッの行動は、途中から愛に近しいものを手にいれるにつれ、淡い未来への希望と言語化されない献身を併せ持つものになりつつあった。未来への希望と言語化されない献身……そういったものの為に嘘をつくことすら厭わない女たちを総括して、二瓶は『女は恐ろしい』と称し、自分たちの行動原理では理解不能なものとして警戒していたのだった。二瓶の持つ『男の論理』は、明白な見返りを望むものだったからだ。谷垣もその例に洩れず、インカラマッは怪しい女だからといって救わずにいようとすらしたし、彼女と打ち解ける様になった後も、その『女の論理』の如何わしさを感じ取って、彼女と寝る際には、やましさから『男の論理』の権化である二瓶の銃を隠し、彼女と寝た後には、その求愛は彼女を守らせるための行動ーーすなわち明白な見返りを求めた打算ーーだと考えすらしたのだ。もちろん、彼女自身のかつての行いによって、それを谷垣に見えづらくして、当たりすぎる占いが谷垣の心を遠ざけているのも皮肉であるし、その当たりすぎる占いが全て占いではなかったことは皮肉であった。妹を亡くしていること、アシㇼパの近くに裏切り者がいること、東の方角が吉と出ていることは、すべてインカラマッが既に知っていたことであり(探しているのはお父さんだという占いも同等)��キロランケの馬が勝つかもしれない可能性や、三船千鶴子の場所を言い当てるだけの能力を持ちながら、占い師としての力を使わず内通者として動いたことで、彼女自身が彼女を『誑かす狐』に貶めてしまっていた。彼女が溺れる話の表題が『インカラマッ 見る女』なのは、そんな彼女の人間性の回復を示唆しており、それは彼女自身が占いから逃れて、弾け飛ぶボタンの行き先ような、予測不可能性に身を委ねることであった。
「最悪の場合、こうなるかもしれないからやらないでおこう」だとか、「相手がいずれ自分にそうしてくれるはずだから、今こうしよう」という報酬と見返りの予測に基づく行動とその否定は、ゴールデンカムイを読む上で極めて重要な要素だと考える。
予測に基づく行動の抑制を行わない登場人物たちの決定は、残念ながら愛のみではなく、殺しと暴力も含まれる。即断性という言葉で言い表すこともできるかもしれない。私はこれをよく『反射的』という言葉を用いて説明している。私に言わせれば、極めて幼稚な、原始的な論理であり、月島が鶴見を助けたのもこれに分類される。それで鶴見が満足をしたのは、それはそれで鶴見の孤独を浮き上がらせる。反射とは、結局のところ「そうするしかなかったんだ」という男たちの言い訳に使われるものでもであり、杉元が初めて尾形に会った時に川に突き落とした時の口ぶりと100話の口ぶりなどは、まさにその代表例である。杉元という人物の中では、そのような反射的な即断性と、殺したものの顔をずっと覚えているという保持性の二つの時間軸が交差しており、その内的葛藤が我々を強く惹きつけている。そしてそこから、杉元が持つ時間軸は「地獄だと?それなら俺は特等席だ」「一度裏切った奴は何度でも裏切る」という回帰性、または因果応報性にまで波及するのだが、その思考の独特さは「俺は根に持つ性格じゃねぇが今のは傷ついたよ」という尾形の直線性と対をなす。尾形は直線的に生きていかなければ耐えきれない程の業を背負っている。それでも過去は尾形を引き止めに来る、杉元が梅ちゃんの一言を忘れられないのと同等に。
即断性/反射的の反語はなにも計画的/意図的なことだけではない。極めて重要な態度として、保留があり、現在この態度はインターネットが普及して、即時的な判断とその表出のわかりやすさが求められるようになったことで、価値が急速に失われつつあるが、明治期においても軍隊の中では持つことが叶わなかった態度であっただろう。保留を持つキャラクターの代表格こそ、白石由竹であることは言うに及ばないであろう。
保留を持ち得なかったものたちが代わりに抱くのが反発か服従であり、造反組は勿論のこと、気に入らない上官を半殺しにした杉元と、諦念に身を任せて問いすら捨てた月島を当てはめることができるであろう。
その即時性や保留や反発や服従を生み出すのが、自らを死神に例える鶴見であり、鶴見はまさに意志の人、意図の人、計画の人である。そして仲間に対して「相手がいずれ自分にそうしてくれるはずだから、今こうしよう」という見返りを期待して関係を構築する人である。これも、私が彼を苦手としていた理由の一つであった。しかし繰り返しになるが、鶴見の”選択”は、「即時性や保留や反発や服従」を生み出す。そして本編では、どちらかというと出だしから鶴見からの離反者ばかりが描かれ、人たらしの求心力を持つ魅力的な人物であるということを読み解くまでに、私はじっくりと長い期間をかけなければならなかった。「先を知りたくなる気持ち」「ページをめくる喜び」を強く���められる男性向けの週刊連載において、保留の態度を試されていたのは、読者の方であったのだ。
それでもなお私は、裏切られる鶴見、離反される鶴見というものを立ち返って見るにつれ、この男の立場の脆さというのを改めて重要な要素として捉えるようになったのだ。
それは「死神」とは遠く、自らの周りを賞賛者で固めた男の、ともすれば惨めとすら言える姿であった。そして私は遂に「死神を目指す弱い男」、鶴見を見出したのであった。
そこで大事なのは、鶴見が「死神」になろうとしている、というただ一点であった。それはおそらく尾形が銃に固執するのと同等の、自己決定権のあくなき希求であった。
11巻で尾形は言った。「愛という言葉は神と同じくらい存在があやふやなものですが」。その11巻で鶴見は愛を見出していた。「あの夫婦は凶悪だったが…愛があった」。そして同じ巻で、鶴見はふたたび高らかに宣言したのだ、「私は貴様ら夫婦の死神だ」ーーと。
以上の文章は既に3週間以上前に書いたものだったのだが、本誌ではさらに「神からの見返りを求める弱い男」として関谷が登場した。この「弱い」という言葉は私の元ではなく、イワン・カラマーゾフが『カラマーゾフの兄弟』の一節『大審問官』にて述べた、大部分の信者を指す言葉である。さらに本誌では、私が谷垣とインカラマッの関係に見ていた「予測不可能性」を、ある意味逆手に取った様に、自分への逆説的幸運をもたらす人物として門倉が描かれ始めた。私は一読して彼は谷垣の類型であると感じ取ったが、それは即ち尾形の「かえし」である事も意味することを忘れてはならない。尾形はキロランケが神のおかげだと言った直後に、「俺のおかげだ」「全ての出来事には理由がある」と神の采配を否定するような男だからだ。
すべてのあやふやな存在に輪郭を持たせ、弾け飛ぶボタンを先にむしり取っておこうという「覚悟」。その覚悟の名前が「死神」。私にとっては、それが最もしっくりくる「死神」の捉え方であるような気がした。
覚悟については鶴見の口から15巻でこのように語られる。
覚悟を持った人間が私には必要だ 身の毛もよだつ汚れ仕事をやり遂げる覚悟だ 我々は阿鼻叫喚の地獄へ身を投じることになるであろう 信頼できるのはお前だけだ月島 私を疑っていたにも拘らず お前は命がけで守ってくれた
そう思うと尾形と月島の扱いの差にも、月島へのあの苦しい弁明も納得がいくような気がした。
6、月島への『言えなかった言葉』
話は最後まで聞け 月島おまえ… ロシア語だけで死刑が免れたとでも思ってるのか?
初読時にはこの物言いは癪に障った。そこまで自明のことだと思うのなら。そうやって父の悪名を利用して月島を助けたのなら。月島にそう言えばいいじゃないか、と思っていた。しかしそれは、結局の所「ゴールデンカムイ」の根底を為す、『言えなかった言葉』の一種であったのだ。9年間、鶴見は自分の工作を月島に明かすことが出来なかった。それは杉元が、いずれ梅子に再び見出してもらう未来を目指している期間(つまり本編)よりもっともっと長い時間であるような気がする。その事実だけがまずは大事で、それに対して色々な意味づけをする前に、私は鶴見が”言い淀んだ”事実に向き合わなければならなかった。私は鯉登でも宇佐美でもないのだから、鶴見を信望する必要などなかったのだった。裏切りたくなるほど痛烈に、その存在を意識すればいいだけであった。
そして、理由はどうであれ『言えなかった言葉』を9年間抱えていた鶴見には、やはり弱さという単語が似合った。もし、もし本当に、月島の父親の家の地下から掘り出されたのが白骨であったのなら、10日前に行方不明になったいご草ちゃんが月島が逮捕されてすぐに掘り出されたのだから、白骨化するのには時間がかかりすぎるので、ジョン・ハンターよろしく骨格標本を作るような細工でもしない限り、髪やら服やらで誰だかすぐに分かってしまう。だから、きっと鶴見の工作は説得力のある良く出来たものであったのだが、それですら、月島に言えなかった、という事実の確認。
月島をどうしても手元に置いておきたかったのだろう。「告解を受けるもの」であった鶴見が月島の前では弁明をする男に成り下がる。それでもそこで「スティグマ」が2人を繋ぎ止める。鶴見は言った。「美と力は一体なのです」。そして彼の言葉にある”美”の定義は彼の顔の傷をも厭わないものであった(二階堂が本当にヒグマを美しいと言ったかどうかは大きな疑義が残るが)。この点に関しては、私はずっと鶴見の考え方に感心させられていたものだった。自らを美しいと定義してしまえば、もはや何も恐れるものはない。
ますます男前になったと思いませんか?
これは鶴見が自らの容姿に(杉元のように)無頓着であるとか、または本当にますます男前になったと考えている訳ではない、と考える。15巻で大幅に加筆された鶴見のヘッドプロテクター装着シーン。
どうだ 似合うか?
鶴。
杉元の言を借りよう。
和人の昔話にも「鶴女房」って話があってね 女に変身して人間に恩返しするんだけど 鶴の姿を見られたとたんに逃げていくんだ
鶴の頭部を模したヘッドプロテクターは、おそらく杉元が被り続ける軍帽と同種のものである。とはいえ杉元は軍帽をなぜか捨てられない男として描かれているのに対し、鶴見はむしろ「覚悟」の顕在化としてヘッドプロテクターを装着している。そしてその内部には、自ら御することすらできない暴力への衝動があり、その暴力を行使する時に、そのヘッドプロテクターからあたかも精液/涙のように変な汁が”漏れ出る”。編集の��りによるとこれは「悪魔」の「仮面」である。たかだか煽りの一文を根拠に、悪魔かどうかを議論するのはかなり難しいが、それでもやっぱりヘッドプロテクターが「仮面」であるというのは、意を得た一文と言って良いのではないだろうか。それは不思議にも姿を隠す鶴の昔話に符合する。
正直に言おう!鶴見が悪魔だったらどれだけ解読が楽だった事か!原典が山ほどある。しかも悪魔は二面性を持つ。ファウスト 第一部「書斎」でメフィストフェレスはこのように話す。
Ein Teil von jener Kraft, 私はあの力の一部、すなわち
Die stets das Böse will und stets das Gute schafft. 常に悪を望み、常に善をなすもの。
Ich bin der Geist, der stets verneint! 私は常に否定し続ける精霊。
Und das mit Recht; denn alles was entsteht, それも一理ある、
Ist wert dass es zugrunde geht; すべてのものはいずれ滅びる。
Drum besser wär’s dass nichts entstünde. であれば最初から生まれでない方が良かったのに。
そしてイワンの夢の中で、スメルジャコフは「メフィストフェレスはファウストの前に現れたとき自分についてこう断じているんです。自分は悪を望んでいるのに、やっていることは善ばかりだって。」と、ファウストに言及するのであった(第四部第十一編九、悪魔。イワンの悪魔)。
このファウストの素敵な一節にはいずれ触れるとして、鶴見は悪魔を自称はしないことを念頭に先を急ごう。
この情報将校を語る上で、最も大事な事象は彼が自身を「死神」と定義することだと私は考えている。そんな中で、数々の日本的ーキ���スト教的装飾に彩られ、たとえば「スティグマ」というキリスト教的文脈で鶴見に聖痕/烙印という聖別を与えることを全く厭わない私からも、「死神」がキリスト教的であるかどうかには首をひねってしまう。よしんばキリスト教のものを作者が意図していたとして、「死神」という訳語を当てるのは、デウスに大日という訳語を当てたザビエルの如き、弊害の多いものであるように思える。もしかしたら鶴見はpaleな馬に乗った男であり、隣に連れるハデスが月島か何かであり、第一~第三の騎士が鯉登、宇佐美、二階堂のいずれかの人物であるのかもしれないが…それにしても示唆する表現が少なすぎるのだった。このことは私を悩ませた。というのも鶴見をキリスト教的に読み解くという行為は、私にとって禁忌だからこそある程度の魅力を感じさせるものだったからである。ましてや鶴見を「弱い神」と位置付けるならなおのことであった。日本におけるキリスト教的神は、決して強者たりえない。強者だと感じていたらこの程度の信者数には収まっていない。そもそもゴールデンカムイには何となくキリスト教を思わせるような描写が散りばめられており、それでもいかにそれが合致していてもその文脈で語る必要はないのではないかと思われる事象も多々ありつつ(たとえばアシㇼパによる病者の塗油をサクラメントとして読み解く必要はないと感じるなど)、その禁じられた評論とやらを、試しにやってみるとこうなる。
そもそもにおいてまず、キリスト教に触れること自体に禁忌感がある、というのは既に記した通りだ。「スティグマ」「マリア」一つに取っても、私にとっては言及する前に、日本的キリスト教観について長大な考えを巡らせることがそもそも不可欠であった。キリスト教自体は現地の土俗宗教を取り込んで来たが、こと日本においてはそれすら叶わず、日本的キリスト教観というのは、おおざっぱに言えば日本の多神教感との習合ということが出来るかもしれないが、むしろ、日本の側がキリスト教の本質を捉えることなくキリスト教を取り込んでいく、という逆転現象の方が著しいほどだ。
評論家における教義の解釈のズレは、ともすれば不勉強や読み違えとたがわない為、私も慎重にならざるを得ない。しかし創作者における教義や解釈のズレは、等しく芸術となり得る力を持っているのであって、私はそれを読み解いて良いのかどうなのかずっと逡巡していたのだった。日本に於いてキリストを描くことの可能と不可能は、作家自身がキリスト者であった遠藤周作が身をもって体現していた。遠藤の描く神は一部で絶賛を受け、2016年にマーティン・スコセッシが映画化したことも記憶に新しいが、一方でカトリック協会の一部からは明白な拒絶を受けた。そして彼の描く神は、誰かを救う力を持つような強い神ではなく、弱い誰かに寄り添うような神であった。
鶴見は「愛という言葉は神と同じくらい存在があやふや」であるものに、覚悟を持って形を付けていった。それは日本人に許された特権であるかもしれない。ゴールデンカムイの作品世界の中で「神」「運命」「役目」が目に見えぬ大きな力としてキャラクターを飲み込む中(そしてそれが本誌に置いてリアルタイムでますます力を持とうとし、ともすれば谷垣のボタンすらそれに組み込まれてしまうのではないかという恐怖に怯えながら)、鶴見はひたすらに自律できる人生を求めている。運命を意のままに操ることへの飽くなき渇望。その裏返しとして彼は大嘘つきとなった。
そんな大嘘つきの鶴見ですら、嘘すらつけなかった事実が月島をあの手この手で自らの手元に置いておこうとした事実であった。9年間も彼はその努力をひた隠しにしようとした。それは大嘘つきの死神に存在した「俺は不死身の杉元だ」と同義の『言えなかった言葉』であった。奇しくも遠藤周作は、まさにこの国での神との対話の困難さについての一片の物語を、まさしくこのように著したのである――『沈黙』と。
対話の不可能さには逆説的な神性がある。
それはアイヌのカムイにおいても同じである。だからこそ送られるカムイに現世の様子を伝えてもらおうとし、それでもバッタに襲われた時にキラウシは天に拳を振りかざして怒ったのだ。しかしカムイとキリスト教的神の間には決定的な違いがある。キリスト教的神は全てを統べているのだ。そして「知って」いる筈なのだった。長年このことは日本の作家を悩ませていた。遠藤の『沈黙』においても、主人公は繰り返し、聖書におけるユダの記載、そして「あの人」がなぜユダをそのように取り扱ったのかを問うている。
だが、この言葉(引用者注:「去れ、行きて汝のなすことをなせ」)こそ昔から聖書を読むたびに彼の心に納得できぬのものとしてひっかかっていた。この言葉だけではなくあのひとの人生におけるユダの役割というものが、彼には本当にところよくわからなかった。なぜあの人は自分をやがては裏切る男を弟子のうちに加えられていたのだろう。ユダの本意を知り尽くしていて、どうして長い間知らぬ顔をされていたのか。それではユダはあの人の十字架のための操り人形のようなものではないか。
それに……それに、もしあの人が愛そのものならば、何故、ユダを最後は突き放されたのだろう。ユダが血の畠で首をくくり、永遠に闇に沈んでいくままに棄てて置かれたのか。(新潮文庫 遠藤周作『沈黙』p.256)
当時若干25歳の萩尾望都が抱いたのも全く同じ疑問であった。編集から1話目にて打切りを宣告されるも、作者自ら継続を懇願した結果、その後少女漫画の祈念碑的作品として今尚語り継がれる『トーマの心臓』において、萩尾は以下のようなシーンをクライマックスに持ってくる。
ーーぼくはずいぶん長いあいだいつも不思議に思っていたーー
何故あのとき キリストはユダのうらぎりを知っていたのに彼をいかせたのかーー
“いっておまえのおまえのすべきことをせよ”
自らを十字架に近づけるようなことを
なぜユダを行かせたのか それでもキリストがユダを愛していたのか
その後も「知ってしまうこと」は萩尾望都の作品の中で通底するテーマとして描かれ続け、時にそれはキリスト教的なものとして発露した。『トーマの心臓』の続編『訪問者』はもちろんのこと、『百億の昼と千億の夜』ではまさに遠藤が指摘した通りの役回りをキリストとユダが演じ、そして敢えてキリスト教的な赦しを地上に堕とした作品として、『残酷な神が支配する』を執筆することとなる。
私は日本に生まれた非キリスト者であるからこそ、むしろ不遜に、無遠慮に、宗教的な何かについて切り込んでいけるのではないかと常々感じていた(例えば私にとっては聖典とされる教義の中でも聖書に記載がないのではないかと思う箇所がままある)。そしてその鏡写しのように、概して宗教が封じ込めるものは懐疑と疑念と疑義と疑問ではないか、と考えてきたのだった。
神とは何か、愛とは何か。
そういった問いを挟まないために自らが神になることを決めた男。
それはおそらく弱さを自認した上での自らへの鼓舞であった。
はたして私のような不信の徒が、どのような表象にまで「神」を見て良いのか、いつも憚られると同時、そしてその弱い神をまさに、ドストエフスキーは『白痴(Идиот-Idiot)』として現代化を試みたのではなかったか、という思いがある。『白痴』という和訳は今からするとやや大袈裟なきらいもあるが、それでもやはり、罪なく美しい人間というのは、当時のロシア社会において『Идиот』としてしか発露し得ないというドストエフスキーの悲痛でやや滑稽な指摘は、裏を返せば知恵の実を食べた狡猾な『人間』であるためには、罪を犯し汚れる覚悟をしなくてはならないということであり、それをナスターシャ・フィリッポブナとロゴージンというキャラクターに体現させていた。このような本作を、黒澤明は、日本的なキリスト映画の『白痴』として図像化したのである。このように日本において不思議と繰り返される弱い一神教の神としてのキリストという存在は、ますます持って私の鶴見観を固めていく。
罪を犯し汚れる覚悟は、鶴見によっては以下のとおり示されているものかもしれない。
殺し合うシャチ… その死骸を喰う気色の悪い生き物でいたほうが こちらの痛手は少なくて済むのだが… 今夜は我々がシャチとなって狩りにいく
一方でキリストを『Идиот』と呼ぶことすら厭わないその姿勢は、私にとっては極めてロシア的なものである。信仰において美しく整っていることは最重要課題ではない。そのような本質性がロシアでは”イコン”に結実している。家族が毎日集まって祈る家の片隅のイコンコーナーの壁に掛けられた、決して高い装飾性や芸術性を誇るわけではなく、木片に描かれたサインすらない御姿の偶像。しかしそれこそが最も原始的な「信仰」のあり方なのではないか。ゴテゴテとした教会の装飾でも着飾った司教の権威でもなく、余分なものが根こそぎ取り払われて、日々の礼拝と口づけの対象となる木のキャンバス。真に信仰するものへの媒体としてではあるが、特別な存在感と重みを持つ象徴的なイコンという存在は、英語では「アイコン」と読み下されるものであり、文脈を発展させながらポップカルチャーにおいてもその役割を大きくしていったことは周知の通りだ。
7、親殺しの示唆と代行 ー 尾形の場合
翻って尾形の新平の親殺しはどうか。
父殺しってのは巣立ちの通過儀礼だぜ…お前みたいに根性のないやつが一番ムカつくんだ
鶴見も尾形も親殺しの事を「巣立」ち、という同じ形容を使うという事実。きっと何度も語られてきたことだろうけど、改めて15巻にて新たな父殺しが描かれてたことで、その関連性に驚く。父親の妾を寝取りながら、自らが手を汚す事もなく、両親が絶命した事で自由を得る新平のような人物は、私が『因果応報のない世界』として称するゴールデンカムイの特徴である。あるいは『役目』重視の世界とでも言おうか。そこで『役目』を果たしたのは意外にも尾形と彼の「ムカつき」であった。ただし尾形は、他人を結果的に助けてもその事を認識されない人物であるので、この『役目』もまた誰にも認識されることなく消えていく。
ホラ 撃ちなさい 君が母君を撃つんだ 決めるんだ 江渡貝君の意思で… 巣立たなきゃいけない 巣が歪んでいるから君は歪んで大きくなった
江渡貝の母は既に死亡していたが、江渡貝には支配的な母の声が聞こえ続けており、その声は鶴見に与することに反対し続けていた。母は江渡貝を去勢していたことすらわかっている。そんな母を殺せと示唆する鶴見。何より面白いのは「決めるんだ 江渡貝君の意志で…」という鶴見らしくない言い回しである。しかし結果として齎される“対象の操作””偽刺青人皮の入手”という点では功を奏しているので、単に相手によって取る手法を変えていて、それが本人にとってプラスに働くこともあれば、そうでないこともあるだけかもしれない。
ここで関谷のような問いを死神たる鶴見に投げかけるとこうなるーー鶴見は江渡貝から得る『見返り』がなくても江渡貝を助けただろうか?
これは関谷への以下の問いはこのように繋がるーー弱く清い娘を殺し、殺人鬼たる関谷を生かす神だったとして、関谷は神を信じ続けただろうか?
善き行いをした者に幸運しか降りかからないのであれば、なぜこの世に不遇は、不条理は、戦争はあるのであろうか。
これに対して「すべての出来事には理由がある」とする尾形が、自分の置かれた環境と新平の環境をダブらせた上で、親を殺す事が出来ず(巣立つ事が出来ず)大口を叩くのみの新平に対する「ムカつき」であることは明らかでありながらも、そこで結局新平が「救われた」事の偶発性、蓋然性、見返りのなさは見逃してはならないであろう。
同時に、墓泥棒を捕まえるのは自分���仕事ではない、と語る鶴見が、なぜ遺品の回収をしていたか(出来たか)、そして「傷が付いていた」という詳細、のっぺらぼうがアイヌだということまで尾形に情報共有していたという二人の結びつきを考えるのも実に面白い。アイヌを殺したのは誰なのか? そこにいたと分かっているのはもはや鶴見だけなのである。
兎にも角にも、鶴見は、むしろその「不遇、不条理、戦争」の側に立つ事で、幸福を齎そうとする者なのである。
それは奇しくも、イワン・カラマーゾフが大審問官で言わせた「われわれはおまえ(キリスト)とではなく、あれ(傍点、悪魔)とともにいるのだ。これがわれわれの秘密だ!」のセリフと合致するのであった。
8、デウス・エクス・マキナの否定
と、ここまで書き上げた中で、本誌でキリスト教の神を試すキャラクター関谷が出てきた事で、私は論考を一旦止め、その後176話が『それぞれの神』というタイトルで柔らかく一信教を否定する日本的描写にひどく満足し、自らの「弱い神」「死神」の論考を少しだけ補強のために書き加え、大筋を変える事がなかったことに安堵した。
既に触れたファウストでの悪魔の発言、「すべてのものはいずれ滅びる であれば最初から生まれなければよかったのに」は、自らの死に対して諦念を、そしてウイルクとの再会に疑念を抱いていたインカラマッを連想させる。インカラマッ、そして関谷がこだわった『運命』は、やはり緩やかに谷垣によって、そして土方・門倉・チヨタロウによって否定される(このあたりはまさにドストエフスキー論的に言うポリフォニーというやつだ)。
関谷の持つ疑問は「ヨブ記」に置いて象徴されている。ヨブは悪魔によって子供を殺されるが、信仰を捨てず、最終的に富・子供をもう一度手にいれる。『ファウスト』では、やはり悪魔がファウストを試すが、最後に女性を通じて神がファウストを助ける。『カラマーゾフの兄弟』では、神を疑ったイワンは発狂・昏睡に陥る。つまりヨブ記を元にした作品群では、一神教の神は勝利している(『カラマーゾフの兄弟』のドミートリーのストーリーラインは除く)。これは演劇において「デウス・エクス・マキナ」と呼ばれる手法であり、最後に神が唐突に出てきて帳尻を合わせていく手法の事である。
関谷は自らの死にそれを見た。自らの悪行に等しい罰、裁きが下され、意志の強い土方が奇跡を起こしたと考えることで神の実在を感じたのであった。もっとも、我々読者にとっては、関谷への裁きは遅すぎるし、それが娘の死の何の説明にもならないため、関谷がどう捉えようと我々には神の存在が十分に確認できた「試練」ではなかった、と指摘しなければならないだろう。ただ、「デウス・エクス・マキナ」はむしろ因果応報を覆す超常的な描写であり、関谷が見た「意志の強い人間の運命」や「奇跡」、「裁き」という物差しすら飛び越えるものであったので、皮肉なことに、かえって関谷を包む状況とは一致を見せるとすら言えるのであるが……。おおよそにおいて良作とは、物語も人物も「あべこべ」で「矛盾」と「パラドックス」を抱えるものであるため、関谷とヨブ記についてまとめた記載をするには、稿を改めた方が良いと思われる。
それでも関谷についての序章を、本稿の終章に持ってきたかったのは、まさに、新平への運命を急に出てきて変えていく尾形が、あくまで人として、それも銃の腕を除くととてつもなく弱く、惨めな人間として現れ、新平の親の殺人によって新平を救ったという、いわば「デウス・エクス・マキナ」の”変形という名の否定”ではないか、と指摘したかったからである。
時に死神でなくとも、人の子も人を救う。その一端が、尾形の「ムカつき」であったこと、そしてそれが本誌の白石や1牛山に引き継がれていくことを指摘して、この文の結論とする。
そこに「見返り」はない。尾形は新平を助けようとしたわけではないし、白石はアシㇼパを助けても依頼主の杉元が生きているかどうかすら知らないし、チヨタロウは牛山を失って自身に新たな力を得たわけではない。
だからこそ、「見返り」を問題にしてはならないーー外れてしまうとしても、ボタンを縫い付ける必要はあるのだから。
そしてインカラマッはきっと、情を持たず自分を守ってくれないとしても、谷垣に愛を伝えなくてはならなかったのではなかったのかと思うのだ。
読んでくださってありがとうございました。
過去の文をまとめたモーメント���
マシュマロ。なぜ書いているってマシュマロで読んでるよって次も書いてって言われるから書いているのであって、読まれてない文も望まれていない文も書かないですマシュマロくれ。と言って前回こなかったので人知れず本当に筆を絶ったのであった。そのことを誰にも指摘されなかったので、やっぱそんなもんなんだなって思ってる。
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captainjajajthings · 3 years ago
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令美軍特種部隊聞風喪膽的特工隊,卻被中國偵察兵端掉,極品電影
 令美軍特種部隊聞風喪膽的特工隊,卻被中國偵察兵端掉,極品電影
原創2021-07-20 20:53·尹哥說電影
1984年7月至1989年1月,中國人民解放軍各大軍區挑選精兵強將,先後組建15個偵察大隊赴老山參戰,5年間總兵力高達11000餘人,創造了人類戰爭史上最大規模的偵察兵作戰記錄。那麼我軍為什麼會派出如此大規模的偵察部隊參戰呢?
 令美軍特種部隊聞風喪膽的特工隊,卻被中國偵察兵端掉,極品電影
令美軍特種部隊聞風喪膽的特工隊,卻被中國偵察兵端掉,極品電影
原來1984年7月6日越軍特工隊越境後,誤打誤撞襲擊了我軍的雷達陣地,從淩晨2時30分開火到2時40分結束,前後10分鐘時間,以亡1人傷10人的代價給我軍造成重大損失,並於當日6時原路返回越南,事情發生後我軍高層震驚。此時我軍剛剛收復老山幾個月,戰鬥主要是陣地攻防戰,其中又以炮戰為主。我軍的雷達是從英國引進的辛柏林炮位偵測雷達,越軍的迫擊炮只要一開炮,就會遭到我炮兵的精准打擊,我軍憑藉前線的兩部雷達占盡優勢,越軍則恨得咬牙切齒。自1979年到1984年老山輪戰,越軍特工隊一直襲擾我前線守軍和後方。越戰期間越軍特工隊令美軍特種部隊聞風喪膽,其狡詐殘忍悍不畏死的戰鬥作風以及詭異卓越的戰鬥力,令我軍前線戰士一直處於高度緊張的狀態中,對我軍威脅極大。雷達事件之後我軍迅速組建大規模偵察兵,決心以小對小以強對強徹底剷除這個禍害。由於敵人在3號地區活動猖獗,來無影去無蹤,我軍懷疑其在邊境地區有大型隱秘工事,某部接到任務後迅速命令衛華抽調偵察小分隊保護我軍用設施,查清敵人真實意圖,尋機一舉殲滅。
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事實上越軍在邊境地帶的確修建了一條現代化秘密隧道,但設計隧道的工程師與��名建築工人在執行任務時被我軍抓獲,眼下正在我軍的前線醫院裏接受救治,前面越軍派出了幾撥人營救都被中國的無影偵察隊吃掉了。擔心機密洩露,越軍這次便派出少校胡氏悲和阮大尉,兵分兩路再次冒險營救。但由於我偵查小隊加強了警戒,越軍特工隊越境後很快就露出了蛛絲馬跡,一場較量就此拉開序幕。對普通人來說想要發現形跡可疑的頗有難度,但對偵察兵來卻是小菜一碟。這天衛華在越軍潛入的邊境小鎮上溜達時,發現有人跟蹤自己後先是來了個不動聲色,接著又把自己灌了個酩酊大醉,之後一路晃晃悠悠把尾隨他的兩個人誘騙進了一片密林。可等兩個人循著歌聲跟到山坡上時,才發現歌聲是答錄機裏傳出來的,結果兩個人舌頭沒抓到還把自己搭了進去。衛華擔心打草驚蛇,便計畫用車悄悄轉移倆人,臨走還把答錄機藏在了樹下。不成想等他帶著人返回時兩個人已經逃脫,但答錄機裏留下了一個神秘的名字“野站”,這到底是行動代號還是人名還是攻擊目標,我方並不清楚。不過衛華還是提高警惕到醫院見了被俘的工程師,並從護士小芳口中得知,工程師不吃不喝拒絕治療,卻一直盯著門口看,得知這一消息這讓衛華更加警覺了。
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時間來到晚上,逃脫的阮大尉和另一名特工到山上一個農戶家裏找吃的,想不到農戶也是我偵察兵阿毛裝扮的,可惜越軍特工太狡猾,阮大尉在另一人的掩護下逃脫。當阿毛尾隨他快到一處山洞時卻被人偷襲受傷暈了過去,偵察隊也失去了目標。時間來到第二天日本藤素  日本藤素屈臣氏
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 ,胡少校化妝成我軍女戰��,以找同學護士小芳為由混進了醫院裏,並趁機弄清了工程師所在的位置,但工程師一反常態的表現引起了小芳的注意。根據消防提供的資訊,我軍猜測敵人很可能是要營救或者幹掉工程師,工程師可能掌握了什麼重大機密,所以決定守株待兔的同時打草驚蛇,然後順藤摸瓜弄清敵人的意圖。
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次日天亮後阮��尉和少校化妝成我軍衛生兵並上演苦肉計,以被越軍冷槍打傷腿部為由讓過路農用車把他們送進了醫院,結果兩人剛剛沖進病房衛華就擋在了阮大尉前面。少校眼見形勢不對不但立刻拔出了藏在身上的槍,還沖到工程師所在病房門口準備殺人滅口以絕後患,關鍵時刻小芳雙手緊緊抓住槍口朝上,子彈打偏工程師才得以死裏逃生。此時外面是衛華與阮大尉正在激烈對射,而這一切也不過幾十秒鐘,等警衛們聽到槍聲趕過來時阮大尉已經搶下一輛汽車拉著少校和被劫持的護士小芳奪路而逃了。衛華和我軍戰士見狀隨即駕車緊追而去,自此幾輛車在崎嶇的山路上展開了一場大追擊。由於少校以小芳做擋箭牌,致使我軍處於極度被動的境地,雖然人數眾多火力也佔據優勢,卻處處被動挨打又不好還擊,只得緊緊的跟在後面。越軍的子彈打完後利用山路彎道的遮擋丟下汽車逃之夭夭,幸虧衛華警惕性高沒讓戰士們靠近汽車,戰士們才沒有被汽車炸彈所傷。
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山中林密草深,人只要逃進去很難再找到,關鍵時刻被劫持的小芳大聲呼喊讓戰士們找到了方位,可這也為小芳招來了殺身之禍。少校和阮大尉藏身於一處廢墟,利用其有利地形對我戰士展開猛烈阻擊,戰士們不得不分散隱蔽,交替掩護向廢墟迂回。最終胡少校逃脫阮大尉被擊斃,小芳也不幸犧牲。回到醫院後,衛華見了工程師,工程師想不到自己勞苦功高越軍卻要對他殺人滅口,徹底寒心的他終於向衛華坦白了隧道的情況。原來隧道有3個出口,其中一個就在中國境內莫雲山的山腳下,難怪越軍特工能夠來無影去無蹤。
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c3oyama · 4 years ago
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12/19 #日本人初飛行の日 誕生日/ #反町隆史 #岩尾望 #篤姫 #石井慧 #ジェニファービールス #佐藤江梨子 #藤崎奈々子 誕生日 1835年 篤姫(天璋院・薩摩藩) 1836年 富岡鉄斎(画家) 1861年 ズベーボ(小説家) 1894年 加藤顕清(彫刻家) 1894年 吉田五十八(建築家) 1906年 ブレジネフ(ソ連書記長・政治家) 1910年 ジャン・ジュネ(小説家) 1915年 エディット・ピアフ(歌手) 1922年 楠本憲吉(俳人) 1932年 木元教子(ジャーナリスト) 1935年 一峰大二(漫画家) 1939年 鈴々舎馬風(落語) 1951年 岡本麗(女優) 1963年 ジェニファー・ビールス(女優) 1966年 YU-KI(trf・ミュージシャン) 1972年 アリッサ・ミラノ(女優・歌手) 1973年 反町隆史(俳優) 1975年 岩尾望(フットボールアワー・タレント) 1977年 三宅えみ(タレント) 1977年 藤崎奈々子(タレント) 1981年 佐藤江梨子(女優) 1984年 大村彩子(タレント) 1986年 石井慧(元柔道・総合格闘技) 誕生花は サンダーソニア、花言葉は“熱い視線” 誕生石は ラピスラズリ、宝石言葉は“永遠の誓い”です。 日本人初飛行の日 1910(明治43)年のこの日、東京・代々木錬兵場(現在の代々木公園)で徳川好敏工兵大尉が日本初飛行に成功した。飛行時間は4分、最高高度は70m、飛行距離は3000mだった。 実際には5日前の14日に飛行に成功していたが、公式の飛行実施予定日ではなかったため「滑走の余勢で誤って離陸」と報告された。 国際南南協力デー(United Nations Day for South-South Cooperation) 2004年の国連総会で制定。 1978年のこの日、国連総会で「ブエノスアイレス行動計画」が承認された。 「南南協力」とは「途上国相互の協力」のことである。 歴史・出来事 1586年 羽柴秀吉が豊臣姓を名乗る 1751年 名奉行・大岡越前75歳で没 1910年 わが国初の飛行実験成功 1984年 英・中、香港返還合意書に調印 #今日は何の日 #パーソナルカラー #カラードレープ #カラーパレット #こんにちは #色見本 #PCCS #ドレープ120色 #パーソナルカラー用品 #テストドレープ #C³ #色のみかた #シーキューブ (パーソナルカラー用品ドレープ、見本帳,PCCSのご用命はc3(シーキューブ)) https://www.instagram.com/p/CI9UI9Hgp-d/?igshid=37nq417mgf1n
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carsandmotorcycleschina · 5 years ago
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在干燥家中长大意味着学习如何引导和集会
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今日热门故事 1个 保时捷Taycan与特斯拉Model S:测试 2 在美国销售的每辆插电式混合动力汽车 3 雪中​​的两门野马刺Mobbin' 4 当今最强大的跨界车和SUV 5 2022 GMC Hummer EV:到目前为止我们所知道的 汽车和司机 我的第一辆车是一辆北极猫微型摩托车,当我10岁那年,我就劝诱父母购买。我还不知道“威士忌节流阀”这个术语,但是我是在自己唯一的一次骑行中亲身经历的,我在那儿飞跃穿过草坪进入化粪池。当我长大一点(如果不是更明智的话)时,我有全地形车-川崎莫哈维(Kawasaki Mojave),然后是本田250X-和笨拙的1977年蝎子Range Whip Sting 440雪地摩托,它基本上是带把手的发动机。我只是想开车,当你还是个孩子的时候,powersports机器是伤害自己穿越地球的最大希望。还是关闭它,就像我在莫哈韦沙漠上学到的那样。事实证明,当您尝试在当地的砾石坑中登上最大的墙时,第二挡位还不够。不过,在第三条中,您要在坚硬的地面结束后很长时间继续攀登,在缅因州的天空中形成优美的抛物线,并最终以单根肋骨伸出,直到今天。 鉴于我对骑行冒险的美好回忆,我鼓励我自己的7岁和9岁的孩子们到那里去撕毁它,这可能会导致我们死于死胡同中的近邻。我们有一个125 cc越野酷跑卡丁车,随着零件的脱落,它逐渐成为超级传奇;一辆2002年的本田XR70R越野车运行得很好,但看起来好像是Knievel家族和Nitro Circus共同拥有的。有了这两台机器,孩子们就可以学到汽车动力学的基础知识,在他们可以在仪表板上看到之前很久就印上了汽车控制代码。唯一的挑战是漫游的空间在我们北卡罗来纳州的角落有点狭窄,那里的每条步道都以栅栏结尾。 内华达州则不同。本田在拉斯维加斯以北约两个小时的路程附近的Caliente推出了四座Talon 1000X-4。驾驶路线跨越了80英里,从一个大本营开始运行Silver State步道系统,该系统还包括各种越野车和一辆青年型的ATV。因此,我把孩子们带到沙漠,向他们展示真正的越野越野恶作剧模样,希望在此过程中激发他们对汽车的兴趣。 而且Talon(尤其是Fox Live Valve车型)是最像汽车的并列车型,这也许不足为奇,因为它是由汽车公司制造的。它具有桨式换挡双离合器变速箱,自适应风门和发射控制。它自然吸气,但是有经销商安装的Jackson Racing涡轮增压器,可将马力提高到165。与BMW M5和Mercedes-AMG E63 S一样,您可以松开前桥,以防漂移。如果您比野生动物园感觉更多的是陆路交通,则四轮驱动系统配有低速分动箱,可沿技术路线行驶。基本价格:22,939美元这也很像汽车,但是思域在以60英里/小时的速度冲入干洗店时不会那么舒适。我可能做了不止一次。 孩子们整天都喜欢它。但是我的大儿子在60英里左右的某个地方宣称:“我感觉不太好。”我立即放慢了脚步,但为时已晚:片刻之后,他把衣服,头盔内部和新的Talon都刺了过去。更糟糕的是,海拔高度和干燥的空气使人流鼻血,所以当我们到达德拉玛的鬼城时,那个小伙子已经是杰克逊·波洛克了。我感到非常恐怖,因为暴力恶心与汽车阳性世界不符,我希望鼓励这种观点。幸运的是,我们在德拉玛(Delamar)停了一会儿,度过了一个有趣的教育假期,以了解矽肺病的死亡。我还花了很多时间说:“嘿,逃脱!” 我缩短了行程,然后回到营地,以为Carsick上尉想坐一会儿。但是在几分钟之内,他换了衣服,为CRF110F做了一条直线,然后驶向相邻的迷你越野摩托车赛道。我原计划将其命名为“一日游”,但是如果他可以吐气和集会,那么我可以抓住CRF450L并在黄昏之前进行几次试车。现在,快步穿越地球。等一下 从2020年1月号起。 加入对话 显示评论 载入中...
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iseilio-blog · 6 years ago
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井本雄男 參謀
參 謀 兜島 襄
Nov 15,2018
https://www.youtube.com/results?search_query
井本雄男 參謀
第八方面軍參謀 • 井本雄男 中佐,於昭和 18年 1月 14日夜,自
所羅門群島的 Guadalcanal 島 北西部的 ESPERANCE 岬 登陸。
隨著拂曉,立即帶了輪值兵 2名、暗號兵 2名,邁向 第 17 軍司令部。
糧食 20日份、威士忌 1打、巧克力、菓子、魚乾 等物,一人負重約
十數公斤,每 500公尺 必需休息一次。第一師團登陸。
道路 應該是由於士兵的往返行走,有著一定程度的堅固。井本參謀
一行,由於背著重負行走,幾度的想要放棄。想放棄的心情固然有
重量的關係,一方面也因為沿途所見,悲慘至極的景象,衝擊著他們
的悲傷心情。
Guadalcanal - 這個地名,在回顧 太平洋戰爭 時,傳染著最為苛酷
的迴響。
昭和 18年 8月 7日,隨著 美國海軍陸戰隊 第一師團 登陸開始的
Guadalcanal 島攻防戰,對日本軍而言,成了 一木清直大佐 指揮的
一個連隊、 川口清健少將 的一個旅團,以及 丸山正男中將 的第二
師團、佐野忠義中將 第38軍團,一個一個被吞沒的  “消耗戰”。
攻擊 Guadalcanal 島 日本軍基地 的戰鬥機行動半徑位於邊緣的
Rabaul,易於為群集 Guadalcana 島 飛機場 的美國軍機攻擊,
而海戰雖有戰果,卻也受損慘重。海軍活動遲鈍 - 就是說,制空權、
制海權,已被敵軍奪取,加上 陸軍兵力 形成了 陸軍操典 所告戒的
分散投入。總體上投入了大量兵力,卻經常的成為以少數對多數
的事態。
托福的是,到了 昭和17年 年末補給大多在夜間,驅逐艦 靠近海岸,
快速的將裝滿糧食、彈藥的大鐵罐、橡膠袋 投入海中,讓從岸邊的
士兵游泳靠近,再以繩索牽引一個方法。
然而制空權、制海權已失,驅逐艦接近不容易,回收投下的大鐵罐
也很困難。美軍配置魚雷艇的妨礙、敵機襲擊,之外,體力孱弱的
士兵都缺乏游泳與牽拉的力氣。
例如一人一日之主食需要 6合,第 2、第 38軍團的主力大約 28.000名
(昭和 17年12月),每天就需要有 2.5公噸 的米糧。一個大鐵罐裝約
140公斤,一艘驅逐艦平均可運載 170支。其它還有 彈藥、醫療品
等等,依計畫每週由 9艘 驅逐艦輸送,就可以維持生活。實際上的
狀況是,計畫量以 10件計算,有 6件抵達,3件上路,只有 2件實際
到手。 特別是,第一線部隊 必需前往在海岸的集積場領取,卻由於在戰鬥中
倒下、霍亂、阿米巴赤痢 等等已經減少的兵力因素,要再撥出去
運送,相當困難。就算選出,數量少,運量更少。
步兵第 124 連隊的旗手 • 小尾靖夫少尉 的日記,有著如下的一節:
「最近,在 Mt . Austen 流行著不可思議的 生命判斷。肉體生命 接近
界限的日數由統計的結果分別如次。這個非科學,非人道的生命
判斷,絕無偏離。
可以站立 ------ 壽命 30天 可以起來坐著 ---- 3週 躺著無法起來 ---- 1週 躺著小便 ------ 3天 無法說話 ------ 2天 無法貶眼------ 明天」 美軍 在昭和 17年末接替最初登陸的 陸戰隊第1師團,步兵第25師團,
陸戰隊 2 師團為主力,包括空軍、海軍部隊 共約 50000名,壓迫著
日軍。然而,日本在這一邊雖然有美軍砲���的威脅,卻是在飢餓與
病魔之中倒下。
井本參謀 沿途看到的顯示了這個餓(G)島的慘狀。飄飄欲墜的身體
與空空洞洞的眼神、坐在樹根的士兵 . . . . . 衣服都破破爛爛持著槍劍
與飯盒。四處散布著屍體完全沒有埋葬的機會,就病人與屍體一起
葬身在叢林陰暗處而已。
「他們的相貌,幾乎就不是實在這個世界存在的東西。(已經)如同
忠靈一般的存在。」 井本參謀 如此的記述著當時的印象。如此一般餓島的餓兵的實情,
越看越會不得不的想到自身使命達成的困難。
使命 - 就是傳達 日本軍 從 Guadalcanal 島 撤退的命令。 從一般的考量,要向一個已經過度疲勞,處在自滅狀態之前的部隊
指示撤退,很自然的,對現地部隊來說都應該不會反對。然而,
想到 撤退 的羞辱,更不用說留下戰友的屍體,對要就這麼白白撤退
的日軍而言,是連夢想都沒辦法,很不容易的事情。
井本參謀 自身,事實上在心中埋藏著悲觀的希望,從第 8 方面軍
司令部 出發時,向他的同僚 杉田、小山 兩參謀透露出了如次的
意向。
「到達現地,如果確定再怎麼努力也不可能,就如同軍部發意一般
予以援助,斬入玉碎,讓第 17 軍全部完成光榮的最後,發揮國軍的
真價,同時避免在撤退作戰中必有的 飛機、船隻、驅逐艦 等的
損耗,以遂行爾後的作戰。」
就是說,不只從日軍的傳統精神面,在敵方擁有制空、制海權之下,
讓大部隊無事脫出幾乎全然不可能的狀態下,井田參謀 早有感知
到,要在現地部隊反對撤退的時候,有其限界。
井本參謀 抵達 Guadalcanal 日軍指揮官第 17 軍司令官 百武晴吉中將
的司令部是 1月 15日夜晚。
https://kknews.cc/zh-tw/military/ranj5jv.html
井本參謀 擔著禮物,一進入司令部的小屋,參謀長 宮崎少將 發聲
說道:怎麼晚到了。
「希望早一點得到攻擊計畫的指示啊,井本參謀。」
宮崎參謀長 將 井本參謀 的來訪,解釋為上級司令部的 第8方面軍 是
對攻擊計畫的說明。這也不是沒有道理。
Guadalcanal 島 的環境進入了 昭和 17年 12月,急速惡化各部隊的
兵力加快了減少的程度。宮崎參謀長 於 12月 24日 發出了困頓的
電報。
「 . . . . 至今糧食繼續不足,特別是兩天後僅僅剩下倚賴木芽、椰果、
川草 維持生存,第一線部隊已經陷入無法戰鬥,步行困難者眾,即
派遣一斥候也是至難。如今, G 島 命運取決於糧抹。時間刻刻逼近。
.  . . 軍 被認為最重要的就是 . . . . 糧抹 ( 主食、鹽 即可,不得已時一人
4合。切望  ) 以及 奎寧、腳氣劑 等衛生材料 . . . . . 」
也許這封電報送達東京時,第17軍 兵力已經不及一萬名,而且大部分
為傷病患。然而,宮崎參謀 敘訴著如此的困頓,卻並不是說要求
撤退,反而是期待理解要決行最後突擊,才是電文的主旨。
然而東京卻在極���密的檢討著的撤退案,正式決定的是 1月 4日。 極密電也從 Rabaul 發到了 Guadalcanal 島。Rabaul 也推測到由於
Guadalcanal 島 的收信狀況不佳,傳達可能不完全。
實際上,第 17軍 並不知道撤退命令的電報,對於井本參謀的派遣,
認為是來自 第 8方面軍 對於攻擊命令的激勵指示。
井本參謀:不是這樣,而是要下達撤退大命 (天皇命令);說明了
相關的經過與撤退作戰計劃。宮崎參謀長 與 小沼治夫大佐 當下
表明了反對之意。
「沒有要背棄大命的意思,不過沒辦法。貴官想一下,這樣的情況
覺得是可能的嗎?不可能的,井本參謀。」
宮崎參謀長 左右搖著他衰瘦的頭,小沼治夫大佐 也細數著無法撤退的
理由。 1 . 由於戰況迫切,第一線兵團,軍司令部 都已經覺悟玉碎。沒有
其他辦法。
2 . 無法想到要撤退。部隊的實狀、戰況,很難認為有可能脫離敵陣,
進行退卻。
3 . 就算有某個程度的撤退,大多數的遺骨必需遺置戰場。而且撤退
者,也就只是殘骸而已。將來也只是毫無用處、滿身創痕的骷髏
而已。
宮崎參謀長 雙眼含著淚水,接著 小沼治夫大佐 向 井本參謀 說:
「從心感謝 方面軍、海軍、還有大本營、國民的支持。然而
井本參謀,我們是受命為奪回 Guadalcanal 島 而戰鬥。現在奪回
無望的話,就如此,從軍司令官以下,不剩一人的決行玉碎。無言的
展示皇軍一如既往的應為之道,則更加有幸於邦家、國軍不是嗎。」
說完,宮崎參謀長 留下了淚水。 薄暗之中,搖晃的燭光,映照了 參謀長 歪扭的異樣表情。
「閣下,在從出發的時候就已經想像到如此。然而,這次的事情,
陛下指示了排除萬難,使之撤退的話語。」
井本參謀 這麼說著;然而 . . . . . ,小沼治夫大佐 遲疑著語言,試圖再
反駁一番。 「今村方面軍司令官 特別注意到,無論如何絕對必須實行命令。」
對 井本參謀 而言,認知到幕僚的任務就是實現上司的意圖,也認為
盡可能想救出官兵,就退下了。 井本參謀 感知到自己的責任。井本參謀 調派到 第 8方面軍 的時候,
在參謀本部作戰課。隨著 Guadalcanal 島 戰況轉趨激烈,做為作戰
擔當者,有著深切的自責。
「在優勢敵機跳樑之下渡海進攻,成算不大的預測不夠徹底。無法
做出飛躍式的改變念頭 . . . . .  因而每次都失敗了 . . . . . 。由於
認識不足,大本營 . . . . . 直到 (昭和)18年,一再的重複著失敗
. . . . . 中央統帥部獨善的作戰指導讓前線犧牲,只有接受天罰。」
在心中如此反省著,與主張玉碎的 第 17軍 司令部 對坐著的 井本
參謀 心理激烈的疼痛著。要想辦法讓他們撤退。盡可能要避開
更大的犧牲。
然而,比照 宮崎參謀長、小沼治夫大佐 的論旨,其實與 井本參謀
自身的想法一致。做為陸軍軍人,做為苛刻的第一線的幕僚,
立場改變, 井本參謀 應該也會有相同的發言。
然而即便如此:是,瞭解了,那就一起玉碎;這就不知道為了什麼
目的從 Rabaul 被派過來。議論一直重複著。不知不覺之間,三人
流乾了眼淚,重燃燭光,默然相向。
結果,幕僚同志的對話沒有結論,決定等待天亮,尋求 百武中將 的
判決。 1月 16日晨,井本參謀 去到離司令部不遠的 百武中將 居住的洞穴,
說明了事情的始末。中將 說到:
「事情過於重大,讓我考慮一下,等我下定決心。」
之後,百武中將 召來了 宮崎參謀長,尋求意見。百武中將 聽完了
井本參謀傳達 第 8方面軍 今村均中將 的發言-「無論如何,使之
絕對遵守(命令)」
心中就決定了遵從撤退命令。
然而 宮崎參謀長 再次懇求「真軍之道,具現於統帥之上。」 照 宮崎參謀長 的看法,第一線已經釘死於自滅之前。不會有巧妙
撤退作戰的可能。如此,參謀長 向 井本參謀 所說,井本參謀 也
做同樣看法,無需為了撤回一部分兵力,去消費貴重的海空戰力。
然而、百武中將 再度詳細考慮之後,16日正午時分,召來了
井本參謀,傳達了判決。
「考察各方面現狀,撤退部隊,實屬難中至難。然而,遵從大命,
也只有全面實行方面軍命令。不過,無法預測是否得以完全成功。」
無聲無息。依往例,當 井本參謀 鬆了一口氣。同時,中將 的判決
口氣,命令是否得以實行,是個懸念。
當下,那天,1月 16日 美軍攻勢全線激化,軍司令官 百武中將 下了
撤退的決心,在 參謀們 的腦海裡,已經沒有收容 “玉碎” 以外的
��何餘裕。
「本日午後前往第一線,與師團一起進行玉碎決戰。」小沼大佐
說著,杉之尾參謀、井本參謀 撫著下顎「刮鬍子,豈不留醜
後世嗎?」
山本參謀 則在通信紙上寫著遺書 . . . . , 對參謀們來說,撤退想法的本身、處於思考之外。到了隔天,
1月 17日 美軍大概打完了砲彈,戰場毫無聲音。依往例,美軍
積聚砲彈,重開戰火,需時數日,或十日。
隨著靜寂的到來,參謀們 終於開始思考到撤退。百武中將 說:
「日本人流血的土地,終有一日必定成皇。G 島 一度失卻,確信
終歸皇土。」
如此 百武中將 的述懷,更加深了 參謀們 的平靜,小沼大佐 出發前往
第 2、第 38師團 進行說服。這下子我代行了 井本參謀 的任務了;
小沼大佐 苦笑著。
「假如第一線情勢緊迫必需玉碎,我自己也會玉碎,是時,燒掉重要
的文件。」
小沼大佐 於午後 11時左右,首先拜訪了 第 38師團司令部。大佐 的
預告應驗了。第 38師團長 佐野忠義中將 判斷師團的持久已經到達
限度,向各部隊長下達指示,1月 21日 開始總攻擊。
https://www.newton.com.tw/wiki/%E4%BD%90%E9%87%8E%E5%BF%A0%E7%BE%A9
小沼大佐 的到達是在 師團長 命令傳達完畢之後。對著 大佐 的說明,
從參謀長 開始,到 師團參謀們 為止,和前夜 小沼大佐 反對
川本參謀 主張著完全相同的理由 - 反對。
「如此戰況,如何而得以脫離敵手。首先,撤退運輸必遭敵方攻擊,
這將招致師團玉碎以上的國家損失。」
對於如此論旨的發展,小昭大佐 已經體驗完畢。回顧 與 川本參謀 的
問答,再一次的論戰之後,師團長 佐野中將 下了判決。
「既然是 大命,死在那裡都一樣。遵從軍司令官 的意旨。」
第 2軍團 也有著相同的經過,師團長 丸山政男中將 承諾了撤退命令。
https://www.thenewslens.com/article/110783
小沼大佐 回到了 第 17軍司令部,聽完了報告的 川本參謀 深為感動。
第 38師團、第 2師團 的結局比料想的來得順利。然而那只不過是要
從容赴死的反映而已吧。不對、還是怎麼說;這就是 川本參謀 真正
的感受。
「飄飄欲墜,支著木杖的身體,與屍體共躺一處士兵們的姿態,無法
忘懷。士兵們異口同聲詢問我的是,友軍軍機 何時到來。有著十足的
薪資,優秀的裝備,G 島一戰必定相當艱苦。傷者、病者 堅持作戰,
其意思與能力應該如何評價呢。
將兵一致,擔心著隨著自己的撤退,同夥所受的損害,而反對了
撤退。明知道的結局,卻因為是命令。因為服從了命令,捨棄
自身,而覺悟遵從了命令。」
或者,就玉碎了反而在歷史留下光榮的名聲。撤退即是敗北,第17軍
就成了敗軍了。承諾了 撤退 的第17軍 有著「無私的榮耀」
井本參謀回想著。撤退作戰,有欺瞞工作,也因為美軍誤以為日軍的
移防是為了攻擊準備,於 2月 7日 無事終了。
Guadalcanal 島 投入兵力 31400人,其中撤退 9800人。大約 66% 的
損害。大部分病死於營養失調、霍亂、痢疾、腳氣病。 第 17軍司令官 百武中將,拜會了在 Rabaul 的 今村第8方面軍司令官
之後,流淚負起責任,申告要求 切腹。
「談責任,是你讓士兵餓死的嗎?. . . 在已經失去了制空權的狀況下,
不輕率的忽略了補給,投下數達 30000士兵 的 第 17軍 的人的
責任嗎?」
靜靜述說著的 今村中將 眼泛淚珠;之後知曉了會話的 川本參謀 端正
禮儀,向著南方天空 默禱。川本參謀 做為「生之使者」飛向了
Guadalcanal 島,壓抑住自己做為軍人的情感,成就了任務。然而
如同前述一般,參謀本部 已認識到,事前的自己,毫無自覺的指導
了作戰,達成了「死的使者」的角色。
Guadalcanal島 之戦 https://www.youtube.com/results?search_query=Guadalcanal%E5%B3%B6+%E4%B9%8B%E6%88%A6
日本陸軍 https://www.youtube.com/watch?v=je6tcrVEzW8
https://iseilio-blog.tumblr.com/post/733440994839822336/rachmaninoff
1692 https://www.youtube.com/watch?v=MQjo5pxpC88
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socialmoviesblog · 8 years ago
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■アニメ「ガサラキ」のメモ
▼ふと思い立ってアニメ「ガサラキ」を見返していた。1998年放映の作品にもかかわらず、後のイラク戦争や、日本のPKO派遣、穀物投機の末の中東動乱、さらには日本会議的な右派と政権中枢の結びつきに至るまで…2000年代~現在にかけての世界の行方をかなり的確に予想していて改めて驚いた。
▼以下、ストーリーを振り返りながら、適宜、現実の情勢と見比べる。 
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▼物語の主人公は、豪和ユウシロウ。彼は、三菱重工や川崎重工のような巨大重工系企業・豪和インスツルメンツ創業者・豪和乃三郎の四男。なお、長男は一清、次男は清継、三男は清春。ちなみに、この豪和インスツルメンツは本社のある場所が豪和市となっており、まるでトヨタのようだ。いや、警察だって彼らの言いなりなのでトヨタ以上だが。
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▼そんな巨大企業を率いる豪和家は「ある研究」を密かに行っていた。
▼それは特殊二足歩行兵器「TA」の開発。TAはいわゆる戦場用のロボット兵器なのだが、特殊な人工筋肉で動いており、ユウシロウがパ���ロットとして搭乗すると、なぜか高いパフォーマンスを発揮する(エヴァでいう「シンクロ率が高い」状態だろうか)。またそれだけでなく、彼の周囲に別のTAがいると、それらも同様にパフォーマンスが向上するのだった。
▼そしてある日、ユウシロウは「研究の一環」で、乃三郎や兄弟達が見守る中、山中の崖下のような場所で「能の舞」を踊ることに。すると、舞を舞いながら彼がトランス状態に入って行くにつれ天空から円形の波動のようなものが。そして波動は地上に降り注ぎ大地を直撃。「ドン!ドン!」と地面が円形にえぐれていく。そして最後の一撃が…と、思いきやユウシロウの脳裏に一人の少女の姿が浮かびあがる。そして…「呼び戻さないで! 恐怖を!」…少女の声を聴くや我に返るユウシロウ。すると波動も消えてしまう。兄弟達は「あと少しだったのに」と言わんばかりの苦々しい表情に。
▼これは一体何の実験なのか?そして少女は何者なのか?
▼そんな中、中央アジアの小国「べギルスタン共和国」で事件が起きる。核爆弾のような「謎の爆発」が確認されたのだ。これを受け、核実験ならば看過できないとして「世界の警察」アメリカは国連を通じ「核査察」を要求。だが、べギルスタン側はそれを拒否。するとアメリカはNATOらと多国籍軍を結成。爆発が核によるものなのかも未確認のまま「大量破壊兵器からの自衛」を掲げ、中央アジアの小国へと乗り込んだのだった。
▼そして、この多国籍軍と歩調を合わせべギルスタン入りをしたのが自衛隊。「憲法の問題」を抱えながらも、それを押し切り派遣を決めたのだが、現地に送り込まれたのは自衛隊内の「特務中隊」に所属するTA部隊。なんと豪和が開発中のTAが早くも戦地に送られたのだ。目的は、戦争に乗じ、TAの実戦データを収集するため。
▼さらに、TA中隊の中にはユウシロウの姿も。彼は民間人だったが特殊な能力を持つことを買われ特別に「大尉」の資格で参加していたのだった。
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▼だが。べギルスタン入りした特務中隊の前に現れたのは、TAとまるで同じ二足歩行兵器(MFと呼ばれている)。実はべギルスタンの首相サイドには、「シンボル」と名乗る多国籍企業の顔をした「謎の組織」がついており(というか首相は彼らの傀儡状態であり)、MFは彼らが送り込んだものだった。
▼そして、そのMFに乗り込んでいた主要パイロットこそ、ユウシロウの脳裏に浮かんだあの少女。名はミハル。彼女もユウシロウと同じような能力を持っており、「謎の爆発」は、ミハルが天空から呼び込んだあの「円形の波動」によるものだったのだ。なお、波動が降ってくる前に天空にできる穴のような空間は「特異点」と呼ばれている。
▼その後、駐屯地に引き返すも、ユウシロウはTVニュースに映ったべギルスタンの神殿内にミハルの姿を発見。すぐさま1人で向かうことに。そして、神殿で隊から抜け出してきたミハルと対面することに。だが、その後、シンボルの部隊の追撃や、そこからの逃亡劇があった末、2人は一旦離れ離れとなったまま、戦争終結(というか暴走する首相を”用済み”とみたシンボル側の暗殺)とともに日本に帰国することとなる……
●中東と、中央アジアで微妙に場所は異なるものの1998年の時点で5年後に起こる「イラク戦争」の経緯(大量破壊兵器保有疑惑→核査察→多国籍軍進撃→日本も「後方支援」で無理やり参戦)をほぼ正確に言い当てているのが凄い。ただ、国連決議の元、多国籍軍を送ったアニメとは違い、現実には「世界の警察」は国連が「核査察の継続」を主張する中、それを振り切り派兵をした。この「国連軽視」はその後も尾を引き、ついには今年、自衛とは何も関係のない「シリアミサイル爆撃」にまで至った(いや、「アサド政権は樽爆弾を落として毎日のように自国民を殺している。人道的見地から見ればアメリカは悪いとは言えないだろう。ロシアのプロパガンダにハマりすぎの見方だ!」という人もいるかもしれない。だったら、途中でやめずに非人道的なアサドがつぶれるまでとことん打ち込むべきだろう。「人道的見地」だというのなら。)
●また「戦争」という国家の意思決定の最大事案に「多国籍企業の意思」が大きくからんでいることもしっかり描かれており、これも凄い。実際にも、イラク占領後の「石油利権」を狙ったハリバートン社や、戦後復興時のインフラ構築や行政システム構築を請け負ったベクテル社などが、この戦争遂行の意思決定に関わっていたのではないかと言われている(ナオミ・クライン「ショックドクトリン」などに詳しい)。
●さらに興味深いのは謎の組織「シンボル」の描かれ方だ。彼らはどこか、中世ヨーロッパの秘密結社のような雰囲気を漂わせているが、イラク戦争の原因を考えると結構意味深だ。というのも、あの戦争の原因の1つには、イラクが「石油決済をドル建てからユーロ建てに切り替える」と宣言したことが指摘されているからだ。これが「ドルの基軸通貨体制への挑戦」だとアメリカに認識され「イラクつぶし」が行われたのだという。そして、フセインの宣言の裏では、ユーロが、アメリカ1強を抑えるべく、イラクに「ドル建て停止」をたきつけていたともいわれる。ちなみにユーロの誕生は、ガサラキ放映から1年後の1999年。まだ誕生すらしていないのに、それを連想させる組織を描き出せるというのが凄い。
●そして、イラク戦争を期に戦争のハイテク化(REM)がさらに進んだことも見逃せない。情報共有機器や武器のハイスペック化などが重なり兵士の装備重量が増加。そのため今では犬のような四足歩行ロボットに荷物を運ばせることも検討されるように。また兵士1人にかかる投資額が上がったため殺傷時の損害が増加。それを回避するべくドローンなど無人化が進み、その過程で、無人のロボット兵器などの開発も進んだ。時代はTAが活躍するSFアニメに急速に近づいている。
●ただ、現実のロボット化が、兵士の負担軽減や人命尊重の観点から進められているのに対し、本作では、ロボに人が乗り込んでいることからも分かるように、それらとはまるで違う理由でロボ化が進められている。もちろん「ロボットアニメなんだからしょがないじゃん」ともいえるが、このことについては別の考えもあるので後述する。
 ▼ともあれ、べギルスタンから帰国したユウシロウ。だが、なぜ自分は初めて会った少女のことをすでに知っていたのか?そして自分が持っている特殊な能力の正体は何なのか?彼は「自分が一体何者なのか」を探るため、舞の師匠であり豪和一族の来歴を深く知る老人、空知検校の元へ向かう。
▼すると驚くべき事実が明らかになる。なんと、豪和ユウシロウは8年前に死んでいた。現在いる彼は、死んだユウシロウの記憶(遺伝子?)を別の身体に移植した存在だったのだ。ホルマリン漬けになった少年の姿の「自分」と対面し、言葉もでないユウシロウ。
▼さらに、彼はこの場所で武者の形をした巨大なロボットのような謎の物体を目撃。これは一体何なのか?そして、ユウシロウはなぜ別の身体を乗っ取ってまで生かされなくてはならなかったのか?
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▼ストーリーが進むにつれ、それらの謎は、豪和一族の「ある歴史」と関わりがあったことが分かってくる。
▼豪和家は古くより「嵬(かい)」と呼ばれる一族だった。この「嵬」は、シャーマンの一種なのか、天より聖なる力を呼び寄せ、「骨嵬(くがい)」と呼ばれる「巨大な武者の形をした人形」を操ることができる。そしてこの巨神兵のような人形の武力を使い、時の権力者たちの統治を影から補完してきたのだった。だが、大きな力を持つことで権力者ににらまれやすくもなった。平安時代、「彼らは危険である」と朝廷から切り捨てられそうに…すると、豪和の前身である渡辺一族は、それを受け入れ静かに暮らそうとする勢力と、自分たちを裏切った朝廷に反逆を企てる勢力とに分裂。互いに「骨嵬」を操って戦うようになる。その時、双方の巨神兵に乗り込んでいたのがユウシロウという青年と、ミハルという少女…現在の2人は、そんな彼らが転生した存在だったのだ(転生というと違うのかもしれないが、だったらなぜ同じ名前なのかが説明されていないので、こう解��した)。
▼だが、争��の最中、天空から「あの波動」が降り注ごうとするや、2人は「骨嵬」を操るのを中断。争いは両者痛み分けとなるが、戦いで力を消耗した「嵬」の両派は、以後1000年以上に渡り「骨嵬」を封印。その後、豪和家は歴史の影に隠れながら長い時を生き抜いてきたのだった。
▼「嵬の一族」にまつわる悲劇の歴史を知るユウシロウ。その後、彼は蔵に安置されていた「謎の巨大人形」が、力を封印された「骨嵬」だと悟る……
●この辺は「未来予測」というよりも、グローバル化の進展→共同体の空洞化→それがもたらすアイデンティティ不安→それを埋める「美しい日本人の歴史(美しい民族の末裔なのだから、君も美しいんだよ)」と言った流れで当時語られていた「時代の空気」が反映されたものだろう。
●ただ、この時代あたりから現れ始めた「ホンネ重視の右派的言語」に、これまたこの時代あたりから盛り上がりはじめた「一緒に叩いてつながる2ちゃんねる的コミュニケーション」が結びつき、後に「ネトウヨ」が生み出されていった。だとすれば、その予感が作品に刻み込まれているのかもしれない。
 ▼こうして、謎の答えを得たユウシロウは、「実験動物」のような、「操り人形」のような今の状態から解放されるべく、隊を脱走したミハルとともに一族誕生の地、京都へと逃亡を始める。
▼一方…彼も参加した自衛隊特務中隊周辺では「ある動き」が着々と進行していた。動きを影で主導していたのは中佐の広川と彼が師事する国学者・西田啓
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▼西田は「平和だけれど私利私欲の追求にしか興味のなくなった“ただれた戦後日本”」からの決別を主張。そして「かつての日本人の美徳を取り戻す」という自らの思想を実現するべく、自衛隊とともにクーデターを起こし、権力を掌握しようと計画していた。
▼そのための秘密兵器として西田と広川は、豪和のTAに着目。自衛隊にこの二足歩行ロボを導入するとともに、豪和一族長男の一清を呼び寄せ仲間に引き入れるのだった。
▼さらに。彼は今の「ただれた平和」をもたらした原因の1つでもある「アメリカ」にも一撃を加えようと画策。その「一撃」とはアメリカ国債などの対米資産をかき集め一気に売りさばくことで、ドルの大暴落をねらうというもの。
▼だが、相対するアメリカは、この年、大干ばつが起きたことをきっかけに、自国の穀物輸出を一時停止する「穀物モラトリアム」の発動を発表。実は、この裏には別のたくらみがあった。というのも、アメリカは、輸出停止→食料不足→暴動発生→「日本沈没」という形で日本を攻撃することで、自国における対日貿易赤字の増加や、内政の失敗をごまかそう(矛先をそちらに向けよう)と考えていたのだった。
▼その後…「穀物モラトリアム」が発動される見込みとなるや、政府は国民のパニックを恐れ夜間外出禁止令を発動。だが、それで全てがおさまるはずもなく、外国人居住地区である「アジアン静脈瘤」を筆頭に暴動が起きると、それが飛び火。国会前には暴徒と化した国民が押し寄せるという事態にまで発展し、状況は日増しにキナ臭くなっていく…
▼こうして日本が混迷を極めていく中、ユウシロウとミハルは関西のアジアン静脈瘤に逃亡。そこで知り合った台湾人の王らにかくまわれることに。だが、魔の手が忍び寄る。シンボルが裏で糸を引くアメリカ軍が、2人の居場所を突き止め襲撃。逃げる最中、王は撃たれ、ミハルは米軍に連れ去られてしまったのだった。
▼それでも、ユウシロウはTA中隊と合流し、ミハル奪還を画策。その後、奪還作戦は一度失敗するも、紆余曲折を経て、ミハルは「シンボル」を辞めることを上司に認めさせ、2人は再会を果たすこととなる。
▼一方、アメリカ=シンボルの「日本兵糧攻め」を受け、西田は、この危機をクーデター実行の好機ととらえ返し「時は来た」とばかりに動き出す。とはいえ、アメリカに「金融ショック」の一撃を加えれば、穀物の入手はさらに遠のく。そうすれば日本国民は…彼の計画は「相撃ち」しかもたらさないのでは?だが、西田は言う。「日本人には物質的豊かさの欠落に耐えられるだけの強い精神性がある。だが、物質文明がすべてのアメリカ人にはない。3年。3年間耐えられれば、日本人は貧しくとも美しく生きるようになる。そしてかつて持っていた美徳を取り戻せる。」
 ●右派的思想を持つ者(たち)と政権中枢が結びついていく事態を、この段階で読み切っていた先見の明に驚く。「かつてもっていた日本人の美徳…」云々など言い回しまでそっくりだ。もちろん、安倍政権と日本会議的なもののカップリングのことを言っているが、その日本会議の誕生は、ガサラキ放映の前年(1997年)。この時期に、今の事態が訪れることを、本作以外に誰が予想しえただろうか。
●なお、日本会議は神社本庁と宗教教団「生長の家」を母体とする「日本を守る国民会議」と「日本を守る会」が合流して生まれたもの。彼らは戦後のGHQによる「押し付け憲法」と「神道指令」をはねのけるため活動。紀元節復活(2月11日を建国記念日として休日にしたのは彼らの動きによる)、元号法制化などを成し遂げ、悲願の「憲法改正」まであと一歩。「クーデター」は着々と進んでいる。
●また、西田の「国債暴落テロ」というと、アニメ放映の前年になされた故・橋本龍太郎元首相の「アメリカ国債を売りたい誘惑に駆られた発言」を思い出す。これ自体は「アメリカがお金を刷り、それを日本が自動的に買っている状態」への揶揄というかジョークのつもりだったが、影響が強すぎ、ニューヨーク証券取引所の株価が一時下落。その後、橋龍はパーティの席で謎の病に倒れるなどした末、失脚してしまう。そのため「CIAの陰謀説」がささやかれることとなった。つまり金融テロを起こすどころかテロられてしまったのだった(いや実際には、不況下での消費増税など経済政策の失敗→選挙大敗が失脚原因なのだけども。。)
●とはいえ、「穀物モラトリアム発動」→「国民暴徒化」→「金融ショックによる逆襲」の流れは、現実と照らし合わせると興味深い。実際に起きたことは、こうだった。2008年にリーマンショックが発生し世界経済が収縮すると、それを防ぐため、アメリカでは大規模な金融緩和を実行。そのため、市場にはマネーが溢れることとなり、それが穀物などコモデティ投資に流れていった。すると、穀物など食料の輸入価格が高騰。日本では起きなかったが、購買力の低い中東などでは食料不足が起こり、それが民衆暴動を引き起こすことに。このことが「アラブの春」など中東動乱の遠因となったとも言われている。
●「世界的金余り(実需不足)」が引き起こす「金融依存」が引き起こす「穀物価格高騰」と「民衆暴動」…この想定外にも思える結びつきを2000年代に入る前からとらえていたのはかなり凄いことだと思う。
●加えていえば、「貿易赤字累積や、内政の失策を日本攻撃で回避する」のくだりも興味深い。最初見た時は「ずいぶんとズサンな発想だな」と思ったが、トランプ大統領の主張を思い出すと「いや、当たってるんじゃないか」と思えてきた。ガサラキ恐るべし(笑)
 ▼その後…西田の「金融テロ」を阻止したいアメリカは、「それが実行される前に」とMFを送り込み、日本襲撃を敢行。だが、TA中隊の活躍などもあり、それが阻止されると作戦を中止。穀物モラトリアムも解除されることとなった。これで日本に平和が戻った。が…アメリカが手を引いてしまったことで自身のクーデター遂行も不可能になったと悟った西田は…自ら命を絶った。
▼しかし、そんな結末に納得しない人物がいた。豪和家長男一清だった。この時、「家庭内クーデター」により乃三郎から豪和家頭首の座を奪っていた彼だったが、その最終目標は「傀儡子の民」の完全復活。
▼これまで歴史の影に隠れ味わい続けてきた「1000年の雪辱」を晴らすことだった。
▼そんな一清はクーデターによる政権掌握が失敗に終わった後も、「最終作戦」の実行を画策する。その「最終作戦」とは、宇宙に住むらしき神的存在「ガサラキ」を地上に降臨させること。そう、上空に「特異点」を発生させ円形の波動を呼び込む「あの実験」は「神降臨」のためのものだったのだ。なお、この「ガサラキ」は「シンボル側」では「ナダ」と呼ばれており、組織のボスであるファントムの目的もこの「ナダ降臨」であった。
▼というのも、このファントムは、何千年にも渡り人類の歴史を観測してきた「人ならざる生命体」。彼は人類が無限の力を持つ「ナダ降臨」を起こす瞬間を待ち続けてきたのだった。
▼ともあれ、ユウシロウと同種の力を持つ妹・美鈴と「骨嵬」を使って「神」を呼び出そうとする一清。すると、天空に「特異点」が現れ、ユウシロウ、美鈴、ミハル、一清、ファントムは神のいる宇宙へと吸い上げられていく。
▼そして5人は特異点の内部にある「異次元空間」へ。彼らの前には、不気味に輝く「ナダ=ガサラキ」の姿が。彼は、目の前の人間たちにこう告げる。
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▼「自分はかつて宇宙に存在し、永遠の命を夢見た知的生命体であった。だが、文明が命のあり方も変えられるとの妄想に取り憑かれた結果、自分たちは自滅の道を辿った。それでも、今度は生命力に溢れた地球人に遺伝子操作を加え、自分たちの後継者として“永遠の命にたどり着く道”を解明する夢を託したのだ」
▼全てを知った5人。だが、ユウシロウ、ミハル、美鈴は「永遠の命の解明」など望まず「帰還」を主張。対して、一清は、この空間に留まることを切望。そしてファントムは数千年来の「生」からの解放を望んで消滅することとなった。
▼こうして、地上に戻ってきたユウシロウ、ミハル、美鈴。3人は特自の仲間や残された人々と共に、限りある命を生きてゆくのだった。
●こちらの「こじつけ」も多分にあるものの(笑)、世界の先を見通す鋭い洞察力に大いに驚かされた。だが、その洞察力を駆使して『ガサラキ』が描きたかったものとは何だろうか?
●それはストーリーの全体を流れる「操り人形」のモチーフからも示唆されるとおり、「対米従属(アメリカの操り人形・日本)」のことだろう。
●物語では「1000年前の話」として描かれているが、かつて特殊な力で強大な武力を操っていたものの、争いの果てにその力を封印されてしまった「傀儡子」とは、明らかに70年前にその(特殊な?)軍事力を封印された旧日本帝国軍(戦前の日本)の比喩だろう。
●そのラインで考えれば、彼らが操る「骨嵬」とは(たとえば)「零戦」のことであり、そこに搭乗するユウシロウが持つ「特殊な力」とは、「大和魂」となるだろう。
●先に戦場の「ロボット化」が、実際は、合理化、無人化、��命尊重化から起きているのに対し、ガサラキでは「まるで違う理屈」でそれがなされていると書いたが、TA=骨嵬が「(神風特攻に使われた)零戦」だと考えれば、その理由がわかる。
●そう考えるなら、西田、広川、一清らによるTA=骨嵬の開発は、「旧日本軍的な力の復活」を意味しているだろう。
●だが、なぜ「旧日本軍的な力」を復活させたいのか?それは、先の敗戦が、これまで日本列島を統治する勢力が、史上初めて、外からやってきた勢力に屈したということに関わる。この日本列島は、これまで「1000年」どころか、2000年以上に渡り、海外勢力から侵略されずにやってきた。
●たとえば、モンゴル帝国の襲来があっても、日本はそれをはねのけてきたし、秀吉の朝鮮出兵で敗れても、それが日本列島の侵略にはつながらなかった。
●そんな「無敗神話」が今から70年前、ついに崩れ去った。あの戦争は「単なる敗北」であるだけでなく日本列島の占領という「史上初の敗北」だった。
●ガサラキが「1000年の歴史物語」を導入したのは、このことを言いたかったからだろう。
●そして、この「史上初の敗北」の後、日本は占領軍(国連軍という名のアメリカ軍)により武力を封印され、「操り人形」として生きていくこととなった。
●そんな「史上初の屈辱」を味わった場合(しかも「ボロ負け」であった)、どんな反応が考えられるだろうか?2つあると思う。
●1つ目は「屈辱の“戦犯”を徹底的に罰すること」。この「2000年の屈辱」をもたらしたような勢力が二度と復活することがないよう、その気配が感じられるものは徹底的に批判する。そして、彼らが復活しないよう「戦前的」な文化は否定し、相対する「欧米的」な思想をどんどん導入していこう…戦後の「平和勢力」がとったのはこの路線だ。また、同じ敗戦国のドイツ、イタリアに比べても日本の「軍事アレルギー」が高いのはこのことが理由だろう。
●そして2つ目は「屈辱へのリベンジを果たすこと」。つまりは「この恨み、晴らさでおくべきか!」とばかりに、連合国側にもう1度戦争を仕掛けて勝つこと。まさに「戦後レジーム=連合国体制からの脱却」を果たすことだ。史上初の屈辱を味わったのだから「愛国者」ならば、こんな反応になるのではないか。
●しかし、現実には「そんなことを言い出す勢力」はほぼ現れなかった。それどころか「アメリカは敵ではない」「大切なパートナーなのだ」と言い出し始めた。これは何か?
●もちろん「もう1度戦争を仕掛けた」ところで「また負ける」からだろう。
●そして、そのことを直視したくないので、「アメリカは敵ではなかったのだ」「何かの手違いで一戦交えることになっただけで本当は仲間だったのだ」と思うようにしたのだろう。その代わり「こじれた思い」が引き起こすフラストレーションのはけ口として「アメリカの代理物」を叩くことにした。叩いて、屈辱を昇華することにした。
●その「アメリカの代理物」に選ばれたのが「欧米由来のリベラル思想」であり、彼らが持ち上げる欧米風のライフスタイルだった。西田の言う「ただれた戦後日本」であった。
●こうして、①の思いから「平和勢力」は戦前日本を叩き、②の思いがこじれたことから「愛国勢力」は、そんな「平和勢力」を叩くようになった。つまりは「2000年の屈辱」がもたらしたトラウマにより、どちらも「自分で自分を叩く」ようになった。
●そのことが、まるで「原爆」にも似た「円形の波動」を何度も何度も地上に呼び込もうとする一清の動きに示されていないだろうか。撃たれた原爆を撃ち返すのではなく、再度、自分たちに向けて撃ちこもうとするような姿として…。あの波動が「原爆」の比喩でなくて何であろうか?(そして、このことはアトムズ・フォア・ピース受容→地震国での原発増設→3・11として、最悪の形で実現してしまった。)
●こうして「自分で自分を叩」いた果てが「操り人形」の永続化だった。暴力性が「外」に向かわないため「外部勢力」にとっては操ることが容易だからだ。こうして、かつて「操り人形」を操っていた一族は、戦の後、逆に「操り人形」となり続けるのだった。
●では、この「こじれた」事態をどうすればいいのか?本作の西田が出した答えは「金融テロ」と「クーデター」だった。つまり「本来、愛国者が向けるべき“力の矛先”はここだ!」と指差すことだった。だが、それはあまりにも「非現実的」にすぎるだろう。
●しかし、西田のプランには「その先」があった。実は「金融テロ」と「クーデター」の先に「もっと非現実的」な計画を練っていた。先のあらすじ紹介ではあえて書かなかったが、西田は自害の前に、こんな遺書を残していたのだった。
●「クーデター成功の暁には、武力を完全放棄する。そして、日本は、世界に先駆け永遠平和を実行する。」…「できるかどうかではない。やらねばならないのだ」…生前、こう言っていた西田だったが、その「やらねばならない」最終目標は意外にも、右派が最も嫌悪しそうな「世界平和」であった。
●一見すれば、「もっと非現実」にも思える。しかしながら、西田のプランは、現在の「戦争を止められない国連」=「連合国体制」を「越える」レジームを作ることであり(戦後レジームからの脱却)、同時に、「真の世界平和」を実現することだ。それは、愛国者にとっても、平和勢力にとっても納得のできる「理想」ではないか?だとすれば、西田プランこそ、両者納得できるもっとも現実的な理想なのでは…とも思えてくる。
●しかし、実現までの手続きはともかく、それは一体どんなヴィジョンなのか?その鍵は、いかにもオカルト的にみえる「宇宙で生きるガサラの神」が握っていると思う。
●エヴァレット・カール・ドルマン著「21世紀の戦争テクノロジー 科学が変える未来の戦争」によれば、「宇宙」こそ、戦争抑止のフロンティアになるという。
●彼によれば、宇宙空間上に地球全体を監視できる衛星を置くとともに、地球を取り囲むように兵器を配列すれば、世界の監視ができるとともに国際法に違反し戦争を始める主体に「ピンポイント」で攻撃ができるという。また、その「攻撃兵器」も特殊なものである必要はなく、大気圏で溶けなければ「金属の棒」でもかまわないそう。棒だろうと重力があるので落下するにつれものすごい速度になり、地面にクラッシュする頃には爆弾と変わらない威力になるのだそう。そして、宇宙には太陽光があるので、それを利用すればシステムの「エネルギー切れ」もない。だから宇宙に「地球監視―ピンポイント爆撃システム」が配備できれば大きな抑止力となり世界から戦争をなくせるかもしれないのだとも。
●また、著者は言ってないがこの「地球監視―ピンポイント爆撃システム」に「人工知能」を組み合わせれば「戦争すると思ったけど実は違いました」というたぐいの誤爆も減るだろう。これこそ、まさに高い知性と攻撃力を備えたハイテク版「ガサラの神」ではないか?
●専門家ではないので、これらがどこまで真実味のある話なのかは分からない。それに宇宙が「戦争抑止のフロンティア」どころか「戦争のフロンティア」になってしまう可能性だってあるだろう。
●だが、現状の国連の機能不全を越えて、未来にこうした体制を作ることができたならば「西田プラン」は���実のものとなるかもしれない…
●この作品の高い「予言力」は、一体どこまで世界の未来を見通しているだろうか…? 
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mimachandesu-blog · 8 years ago
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TSUKISTA. TRI! SCHOOL REVOLUTION! PV Favorite Parts
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Menjo Kentaro (校條 拳太朗) as Mutsuki Hajime Nakada Hiroki (仲田 博喜) as Yayoi Haru Yamazaki Taiki (山崎 大輝) as Uduki Arata Jounin Tatsuki (上二 樹) as Satsuki Aoi Kiyama Ryuu (輝山 立) as Shiwasu Kakeru Yokoo Lui (横尾 瑠尉) as Kisaragi Koi
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xf-2 · 5 years ago
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日中戦争には分かりづらいことが多い。「冀東防共自治政府」といって、理解できる人がいまどれくらいいるか……。宣戦布告がなされなかったため、正確には「戦争」ではなく「(満洲、支那)事変」だったのをはじめ、日本の中国侵略の過程が複雑だったことが原因だ。例えば、当時の日本軍のスローガンは「暴支膺懲」。「暴戻支那を膺懲する」の略で、「暴戻」とは乱暴で人道に外れていること、人民をいじめることだ。1937年8月15日に日本政府が発表した声明は、「帝国としては最早隠忍其の限度に達し、支那軍の暴戻を膺懲し以て南京政府の反省を促す」となっている。要するに政府や軍を懲らしめて正道に戻すというイメージで、建前では、敵は中国国民党軍や共産党軍であって、中国の民衆ではなかった。
 1931年の柳条湖事件で始まった「満洲事変」は33年5月、「塘沽停戦協定」で表面的にはいったん終結。その際、関東軍の要求で冀東(河北省東部)を非武装地帯とし、中国軍の立ち入りを禁止した。これは、日本の軍部が華北地域を満洲同様、中国から切り離して事実上領有しようという「華北分離工作」の始まりだった。冀東は九州と同じぐらいの面積で人口約625万人。そこに日本の傀儡政権として35年11月に誕生したのが冀東防共自治委員会(のち冀東防共自治政府に)だった。通州はその本拠地で、主席は中国国民党で蒋介石の通訳などをしていた早稲田大卒の「日本通」殷汝耕。37年7月29日の通州事件は、味方であるはずの冀東政府の治安部隊・保安隊が「兵変」を起こし、日本軍駐留部隊や特務機関、在留日本人を襲撃、虐殺したとされた。被害者は本編にあるように200人以上。公式戦史に近い「戦史叢書」などは「223人」としている。うち半数以上が反乱を起こした兵員について、事件に最も詳しい広中一成「通州事件」は、保安隊などの計約7000人としている。
「通州保安隊の叛乱鎮圧」「北平本社特電(廿九日發)廿九日通州城外冀東保安隊二百名は突如叛乱を起しわが軍に対し射撃を加えたのでわが部隊は応戦追撃を加へこれを鎮圧した」。事件を伝える東京日日新聞(東日)の第1報、37年7月30日朝刊2面のベタ(1段)記事だ。第2報の31日夕刊は1面トップで「通州の保安隊暴動化」の見出し。「冀東保安隊の叛乱は丗日午前にいたり遂に暴動化し通州城内もこれら保安隊に蹂躙され、冀東政府並にわが出先機関との連絡全く途絶し一説には城内にあったわが少数部隊並びに細木特務機関は全滅したと伝えられる」と報じた。対して朝日新聞は同じ夕刊で「通州邦人の安否憂慮」という段階。以前から東日は陸軍寄りといわれており、その差が出たのかもしれない。
 以後、報道はセンセーショナルにエスカレートする。見出しだけ見ても「鬼畜も及ばぬ残虐」(東日7月31日号外)、「恨み深し!通州暴虐の全貌」(朝日8月4日夕刊)、「宛(さなが)ら地獄絵巻」(同)、「敗残兵なほ出没 宛然!死の街」(朝日4日朝刊)、「人生の悲劇をこゝに あゝ鬼畜残虐の跡」(東日5日朝刊)…。本編の安藤利男記者の脱出後の手記が朝日、東日両紙に載っているが、「縛り上げて刑場へ 血に狂ふ志那兵 死の通州脱出談」(朝日8月2日朝刊)、「“死の通州”脱出血涙手記 “邦人虐殺”の銃口下 近水楼屋根裏の恐怖」(東日3日夕刊)とおどろおどろしい。これには理由もあった。
新聞にとって”戦争は儲かるもの”
 37年7月7日の盧溝橋事件は現地の交渉で収まりそうになったが、あくまで強硬姿勢をとる関東軍と陸軍中央多数派の圧力で部隊増派が決定され、7月28日に中国軍への総攻撃が始まった。通州事件が起きた29日、日本の陸軍当局は東京の新聞・通信社の編集局代表を内務省警保局に招致。陸軍省新聞班斎藤少佐が31日の官報で新聞紙法第27条(「陸軍大臣、海軍大臣及び外務大臣は、新聞紙に対し命令を以て軍事若しくは外交に関する事項の掲載を禁止し又は制限することを得」)の発動を公布することを通告した。「27条の発動に依って報道機関の使命を阻害せんとの意思は毫もなく、唯、時局を認識の上、国家的協力を俟つものであり、許可ある範囲において、更らに一層の世論昂揚を希望する」と述べた(「日本新聞年鑑」)。報道の取り締まりが強化され、記事は「世論昂揚」するものでなければ載らなくなりつつあった。そして、よく知られていることだが、新聞にとって“戦争はもうかるもの”だった。出征した家族や友人らのわずかな消息を求めて紙面に目をこらす。日清、日露戦争でもそうだったが、「満州事変」でも新聞各紙は部数を大幅に増やしていた。「またチャンス」と考えた新聞人は少なくなかったはずだ。
軍と密着の同盟通信・安藤記者の決死の脱出劇
 安藤記者が所属していた同盟通信は、現在の共同通信と時事通信の前身。事件前年の1936年1月1日に発足していた。通信社の新聞聯合社と、広告業と通信社業を兼ねていた電報通信社(電通)の報道・通信部門が統合。「諸外国にならってナショナルエージェンシー(国を代表する通信社)を」という政府の意向に沿った国策通信社だった。国内外80支社局と延長7000キロの専用電話線を持ち、敗戦時の社員・雇員は約5500人。その機能が報道だけでなかったことは「共同通信社50年史」も認める。「外務省や軍が同盟の人事に関与したり、同盟に仕事のやり方を指導・注文するのは日常茶飯事だった。同盟の側も外務省や在外公館に対し、同盟出先の事業拡大などのための資金援助をしばしば要請していた」「同盟のイメージは国家機関に限りなく近い」。里見脩「ニュース・エージェンシー」は「『日の丸の翻るところ同盟あり』をスローガンに約1700人もの社員が国外で活動した通信社は他になく、その評価はともかく、世界最大の規模を保持したのは確か」という。
 同盟は「満洲」と合わせた中国大陸に約30カ所の総局・支局があったが、盧溝橋事件後、陣容はさらに強化された。「通信社史」は「(同盟)創業の翌年―昭和十二年七月―には日華事変に直面し、それが空前の大動乱に発展していく過程において、目覚ましい活躍を演じた」「日華事変の報道こそは、『同盟』がそのあらゆる人的・物的能力を傾倒したものであった」と書く。7月30日北平(現北京)発の同盟電は通州の模様を報じた後、「同地にありし各社の従軍記者も昨日来ほとんど消息を絶ち、その安否が気遣われている」と伝えている。「通信社史」にも「通州の反乱事件では、たまたま天津から北京に帰任��途中にあった安藤利男記者が捕らえられ、まさに射殺されようとする寸前、刑場から劇的脱走を試み、成功したという一幕もあった」と、本編を裏書きする記述がある。
今も確定しない「通州事件」の引き金
 冀東政府主席の殷汝耕は、当時面談した朝日新聞記者の尾崎秀実(ゾルゲ事件で死刑)が「一世の風雲児」と評価した人物。事件後、主席を辞任。冀東政府は北京で同年12月に成立した王克敏を行政委員長とする中華民国臨時政府に合流して消滅した。戦後「漢奸」とされ、本編に書かれたような最期を遂げる。しかし近年、その政治理念を再評価する動きもある。当時の親日政権の研究を続ける関智英・東洋文庫奨励研究員は、殷を「孫文に先んじて大アジア主義を提唱するなど、多面性がある」とし、冀東政府についても「日本の影響下に成立しながら、日本からは独立した存在たらんとした」として、日本の傀儡という単純な見方には収まらないとの見解を示している。
 事件の原因については諸説あり、いまも確定していない。日本軍の総攻撃の中で「関東軍の飛行隊がその際、冀東政権の保安隊兵舎を誤爆した。冀東保安隊は、日本軍が自分たちを攻撃したものと早合点して、日本軍や居留民に対する襲撃を開始した」(古賀牧人「近代日本戦争史事典」)というのが、最も多くいわれる説だ。また、冀東保安隊と国民党軍の間に「通謀」や「密約」があったとする見解も目立つ。東日7月31日朝刊には「冀東政府保安處長張慶余が潜入した廿九軍敗残兵の煽動に乗せられ」とあり、当時から公然たる事実になっていたことが分かる。その張慶余(正確には保安隊第1総隊隊長)は1982年に回想録を発表。「中国国民党第29軍とかねてから接触し、『日本打倒』の密約をし、『通州決起』となった」と告白した。しかし、これにも疑問の声がある。ほかにも、29軍が日本軍との戦闘で大勝したというデマ宣伝を国民党がラジオ放送で繰り返し流したのを信じたという説も。「戦史叢書」は「かねてから抗日戦線参加の工作が進められていたが」「関東軍飛行隊が保安隊兵舎を誤爆したのを憤激し、かつ、第二九軍戦勝の宣伝を信じて反乱を起こし、冀察当局から賞与を得ようとしたものであった」と3つを組み合わせて原因としている。
 ほかにも、保安隊に中国共産党軍の兵士が入り込んで謀略工作を行った結果だとす��見方もある。興味深いのはアヘンを理由とする説。冀東防共自治政府は、「冀東特殊貿易」と呼ばれた低関税による密貿易と、アヘンの精製・売買で膨大な利益をあげていた。江口圭一「日中アヘン戦争」に登場する日本人麻薬製造技師は「冀東地区こそ、満洲、関東州などから送り込まれるヘロインなどの密輸基地の観を呈し始めたのである。首都は通州に所在したが、この首都郊外ですら、日本軍特務機関の暗黙の了解のもとに、麻薬製造が公然と行われたのである」と語っている。売買には多くの朝鮮人が関わっていた。この麻薬汚染に憤った中国の民衆が襲撃に関与したという見方だ。保安隊の襲撃は周到な計画の下に準備されていた。広中一成「通州事件」は事件の背景について、「保安隊員らがもともと抱いていた抗日意識、または、軍統(蒋介石直属の謀略機関)や中国共産党による謀略工作が大きく影響したと考えた方が自然だろう」と結論づけている。
「南京虐殺」と「通州事件」 無視できない関連性
 近年、通州事件を「通州虐殺事件」として、約4カ月半後に起きる「南京虐殺」と関連づける主張が見られる。特に2015年に「南京大虐殺文書」がユネスコの世界記憶遺産に登録されてから、対抗するように、「通州事件関係資料を世界記憶遺産に」というキャンペーンが始まっている。これに対し、大杉一雄「日中十五年戦争史」は「現在、通州事件を『南京大虐殺』と対抗させてとりあげる向きがあるが、両者はその規模も性格もまったく違うことを認識すべきである」とクギを刺している。江口圭一「盧溝橋事件と通州事件の評価をめぐって」は「通州事件は南京大虐殺否定論者による免罪符のように利用されている」と指摘。「通州保安隊その他による日本人・朝鮮人・女性・幼児にいたる無差別虐殺は容認できるものではない」としつつ、事件の評価・位置付けには3点の留意が必要と述べる。(1)日本の中国侵略の拠点とされた通州で発生した(2)アヘン・麻薬の密造・密輸の大拠点だった(3)日本軍の守備責任――で、(3)は保安隊が日本軍の統制下にあったことを指している。
 どちらの見解もその通りだと思うが、その上でも通州事件には、南京虐殺との関連を無視できない点がある。南京陥落当時、上海派遣軍と中支那方面軍の兼任参謀だった長勇中佐(昭和陸軍の「皇道派」に属し、最後は沖縄防衛の第32軍参謀長として1945年6月23日、牛島満司令官とともに自決)が1938年に旧知の田中隆吉中佐に語ったところによると、投降してきた中国兵30万人について、軍司令官に無断で殺害命令を出した際、「自分は(支那)事変当初通州に於て行われた日本人虐殺に対する報復の時期が来たと喜んだ」という(田中隆吉「裁かれる歴史」)。津田道夫「南京大虐殺と日本人の精神構造」は、「南京アトロシティーズを通州事件の報復だなどというのは、当時の現地軍高級将校の思考構造をよく示している」と指摘するが。
 橋川文三編著「日本の百年7 アジア解放の夢」は「このときの通州守備隊は、その後華中作戦に転じ、報復心にもえて南京虐殺に参加したといわれる」と書くが、はっきりしたことは分からない。古屋哲夫「日中戦争」は、事件は「反日感情が日本の勢力圏でも広く浸透していることを示すもの」との見方を示している。実際、前年36年11月には、綏遠省(現内モンゴル)で、日本の傀儡勢力の軍が中国軍に敗北した「綏遠事件」が起き、中国の民衆が熱狂。抗日の気運が盛り上がった。
いつの間にか書き換えられた「保安隊の邦人虐殺」の報道
 当時の新聞紙面を見ると、この時期から、戦争が人々の日常の中に入り込んでいっているのが分かる。この年8月に「国民精神総動員運動」が始まったこともあり、各新聞社は競って前線の兵士への慰問袋の提供を読者に訴え、その反応を連日紙面に掲載した。「千人の女性に一針ずつ赤い糸で縫ってもらった白木綿の布を身に着けると弾に当たらない」という言い伝えの「千人針」が、街頭で普通に見られるようになった。「愛国行進曲」や「海ゆかば」などの「国民歌」「国民唱歌」が作られて人々に歌われ、映画の冒頭に「挙国一致」「銃後を護れ」のタイトルが入るようになった。
「満州事変」勃発からしばらくは、日本兵も「銃後」の日本人も「中国兵はすぐ降参する」とたかをくくっていた。しかし、中国軍は想像以上に頑強で、占領地を点と線でしか抑えられない日本軍の兵士は、戸惑いから徐々に焦りと不安を募らせていく。そこに起きた通州事件。焦りと不安は復讐心と敵愾心に変わる。それにはメディアの責任が重い。事件の模様をセンセーショナルに書くばかりではなかった。死亡した警察官や冀東政府職員の「名誉の戦死をする」「万歳」といった遺書を取り上げ、死亡女性を「叛乱軍と奮戦し壮烈なる戦死を遂げた烈女」として礼賛するなどして盛り上げた。「日本の傀儡である冀東政権の保安隊の行為」を「通州の邦人大虐殺」と言い換え、「中国軍の仕業」として書き立てた。それは日本兵ばかりでなく「銃後」の国民にじわじわと伝わった。国内では、ロシア革命後、赤軍パルチザンが日本人を含む住民を大量虐殺した事件になぞらえて「第二の尼港事件」と呼ばれた。
『支那膺懲』が高まった「通州事件」が南京虐殺をもたらしたのか?
 事件直後に通州を訪れた加藤久米四郎・陸軍省政務次官(立憲政友会)は帰国後の講演でこう語っている。「駆引、口先で嘘八百を並べると云ふことは支那の国民性だ。日本で正義人道と申しましても、支那人には決して是は分からない。それでありますから、今度の戦さでもそれは十分覚悟してかゝらなければならない」(加藤久米四郎「戦線を訪ねて国民に愬(うった)ふ」)。こうした中国人に対する侮蔑と敵愾心が国民の間に広がって行った。秦郁彦「日中戦争史」は事件を「真相を知らなかった日本国民の中国膺懲熱を煽る好材料として十分に利用された」と指摘。笠原十九司「日中戦争全史」も「日本国民の敵愾心、憎悪心を煽動し、『支那膺懲』熱を高めるために最大限利用された」と述べる。そうした中国人への感情が国民の間に広がり、醸成されて南京虐殺の「素地」になったのではないか。もちろん、虐殺の免罪符にはならないが、私には、日本人の心情の面で、通州事件が南京虐殺の引き金の1つになったように思えてならない。
 事件後の10日間、現場処理で通州に入った陸軍大尉(当時34歳)は「当初、中国軍の消極的な戦意を見て、この戦争は1カ月くらいで決着がつくと思っていた。それが8年余りも続くとは、誰が予想し得ただろう。通州で邦人の虐殺死体を目前にして、中国人のただならぬ敵意を感じたあのいやな予感は見事に的中したのだった」と語っている(「決定版昭和史8」)。
本編「通州の日本人大虐殺」を読む
【参考図書】 ▽広中一成「通州事件 日中戦争泥沼化への道」 星海社新書 2016年 ▽「戦史叢書 支那事変陸軍作戦(1)」 防衛庁防衛研修所戦史室編纂 1975年 ▽「日本新聞年鑑1938年版」 新聞研究所 ▽「共同通信社50年史」 共同通信社・関連会社 1996年 ▽里見脩「ニュース・エージェンシー」 中公新書 2000年 ▽「通信社史」 通信社史刊行会 1958年 ▽古賀牧人「近代日本戦争史事典」 光陽出版社 2006年 ▽江口圭一「日中アヘン戦争」 岩波新書 1988年 ▽同「盧溝橋事件と通州事件の評価をめぐって」(「戦争責任研究」所収) 1999年 ▽大杉一雄「日中十五年戦争史」 中公新書 1996年 ▽田中隆吉「裁かれる歴史 敗戦秘話」 新風社 1948年 ▽津田道夫「南京大虐殺と日本人の精神構造」 社会評論社 1995年 ▽橋川文三編著 「日本の百年7アジア解放の夢」 ちくま学芸文庫 2008年 ▽古屋哲夫「日中戦争」 岩波新書 1985年 ▽加藤久米四郎「戦線を訪ねて国民に愬ふ」 東京朝野新聞出版部 1937年 ▽秦郁彦「日中戦争史」 河出書房新社 1961年 ▽笠原十九司「日中戦争全史」 高文研 2017年 ▽「決定版昭和史8 日中戦争勃発 昭和12~13年」 毎日新聞社 1984年
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shibaracu · 5 years ago
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●日本人の軍人を勇気づけこんなにも沢山の大将が居た
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●日本人の軍人を勇気づけこんなにも沢山の大将が居た 今の 日本は滅茶苦茶になっているけど この人達が居たからまだこれで済んでる。 日本人は凄いものを持っているのである。 潜在意識と言うか DNAの中��マダマダ色んなものを秘めている。 総理大臣は駄目な人だけど いざという時に麻生さんが出てきた。 中共はアメリカのお陰で ウィルス撒かれたと言うし NHKは 馬鹿なことを海外向けのページで誤報した。 一応 謝罪はしたけど。 N党の党首に検察が入った。 今年は正念場かも解らないね。 消費税も全廃か 何%にするかなんて話まで出てきた。 日本人の底力を出そうじゃないか。 ネット探ると色んなことが見えてくる。 自分の祖国に自信を持とうよ。 このまま 負けて ロシア 中共 アメリカの奴隷になるのか。     ●フォックス(fox)とは、「狐」を意味する単語である。 ◆太平洋の奇跡 -フォックスと呼ばれた男- - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/太平洋の奇跡_-フォックスと呼ばれた男- 『太平洋の奇跡−フォックスと呼ばれた男−』(たいへいようのきせき フォックスとよばれたおとこ)は、ドン・ジョーンズの長編実録小説『タッポーチョ「敵ながら天晴」大場隊の勇戦512日』を原作とした 2011年2月11日公開の日本映画。 厚生労働省社会保障審議会が推薦する児童福祉文化財の1つに選ばれている。 撮影‎: ‎柴崎幸三 製作会社‎: ‎「太平洋の奇跡」製作委員会 製作総指揮‎: ‎奥田誠治 出演者 竹野内豊     唐沢寿明 音楽 加古隆 撮影 柴崎幸三 編集 洲崎千恵子   ◆ドン・ジョーンズ(タッポーチョ「敵ながら天晴」大場隊の勇戦512日から転送) https://ja.wikipedia.org/wiki/ドン・ジョーンズ ドン・ジョーンズ(Don Jones, 1924年 - 没年不詳)は、元アメリカ海兵隊隊員であるアメリカ合衆国の作家。 第二次世界大戦中のサイパンの戦いにおける実在の陸軍大尉・大場栄とその部隊の活躍を描いた小説『Oba, the Last Samurai: Saipan 1944-45』(邦題『タッポーチョ「敵ながら天晴」大場隊の勇戦512日』)を執筆したことで知られる。同作品は2011年に『太平洋の奇跡 -フォックスと呼ばれた男-』として映画化された。 日本語の読み書きはできないが日常会話に不自由しない程度に日本語が堪能である。  概要 太平洋戦争において激戦が繰り広げられたサイパン島で、わずか47人の兵で45,000人もの米軍を巧みな戦略で翻弄し、米兵らから畏敬の念を込めて「フォックス」と呼ばれた実在の大場栄・陸軍大尉。タッポーチョ山を拠点とした大場とその部隊が、1945年8月のポツダム宣言受諾以降も、その事実を知らずに戦い続けた実話を日米双方から描く(詳細はサイパンの戦いを参照)。 全国300スクリーンで公開され、2011年2月12、13日土日2日間で興収は2億5,510万700円、動員は21万6,495人(初日からの3日間では興収は3億9,044万8,500円、動員は33万1,967人)になり映画観客動員ランキング(興行通信社調べ)で初登場第1位となった。イギリス、アイルランド、ドイツ、オーストリア、スイスの5カ国での配給が決定しているほか、ほかの国でも配給交渉が行なわれている。 また、ぴあ初日満足度ランキング(ぴあ映画生活調べ)では第1位と50代を中心に世代に高評価されている。   ●キャスト 大場栄 大尉(別名:フォックス) - 竹野内豊 堀内今朝松 一等兵(別名:サイパンタイガー) - 唐沢寿明 青野千恵子 - 井上真央 木谷敏男 曹長 - 山田孝之 奥野春子 - 中嶋朋子 尾藤三郎 軍曹 - 岡田義徳 元木末吉 - 阿部サダヲ ハーマン・ルイス大尉 - ショーン・マクゴーウァン ポラード大佐 - ダニエル・ボールドウィン ウェシンガー大佐 - トリート・ウィリアムズ 金原 海軍少尉 - 板尾創路 永田 少尉 - 光石研 池上 上等兵 - 柄本時生   ◆ストーリー 昭和19年7月、サイパンの戦いにおいて、圧倒的な数のアメリカ軍に斬り込む総攻撃に生き残った日本陸軍の大場栄大尉。生き残りの兵士たちとジャングルに後退した彼は「玉砕」のみを考えていたが、次第に民間人や残された兵士のため、生き残って最後まで戦おうと決意する。   ●大場栄    https://ja.wikipedia.org/wiki/大場栄 大場 栄(おおば さかえ、1914年〈大正3年〉3月21日 - 1992年〈平成4年〉6月8日) は、大日本帝国陸軍軍人、実業家、政治家。最終階級は大尉。有限会社丸栄産業代表取締役、蒲郡市議会議員。愛知県蒲郡市出身   ●フォックス(fox)とは、「狐」を意味する単語である。   ●大東亜戦争の真実、外国から見た日本の真実、南京虐殺 http://bewithgods.com/hope/jiji/daitouwa.html アジア諸民族の独立を願い、連携を 人種平等を訴えた日本 国際連盟委員会での奮闘実らず; 何故大東亜戦争と呼ぶのか?   ●戦争 - iRONNA   天皇は世界平和を願った https://ironna.jp/theme/1063 https://ironna.jp/search/tag/%E6%88%A6%E4%BA%89 御代替わりとともに皇位継承問題が深刻化し、天皇や皇室のあり方が問われている。そして迎えた終戦記念日は74回目。記憶が薄れゆく先の大戦だが、やはり切り離すことができないのは天皇との関りではないだろうか。令和最初の終戦記念日を機に、改めて考えたい。 昭和天皇はなぜ開戦に同意せざるを得なかったのか  2019/08/15 https://ironna.jp/article/13192 小田部雄次(静岡福祉大名誉教授) 昭和天皇は皇太子時代の大正10(1921)年に欧州を訪問した。そのとき、第一次世界大戦の戦場であったベルギーのイープルやフランスのヴェルダンを視察した。  イープルは第一次世界大戦で連合国軍とドイツとの間で長期の攻防戦が繰り返された地で、大規模な毒ガス戦が行われたことでも知られる。イープルを視察した昭和天皇は、イギリス国王のジョージ五世に「陛下の予に告げ給ひし如く『イープルの戦場の流血凄惨』」と打電している。   ◆「天皇なき日本」の統治を恐れたマッカーサーの極秘電報 https://ironna.jp/article/13193 『西鋭夫』 2019/08/15 西鋭夫(スタンフォード大学フーヴァー研究所研究員)  米政府は外交文書を30年後に全面公開する。  極秘文書であっても30年間で時効となるのだ。  これは、米国が偉大な国であるという証しのひとつではなかろうか(日本には時効はない。  極秘文書は永遠に極秘だ)。  1945年は昭和20年。米国の日本占領が始まった年だ。  その30年後となる1975年、私はワシントン大学大学院の博士課程で研究をしていた。  そのとき、日本占領の極秘文書が公開されることを知り、すぐさま首都ワシントンに飛び、米国立公文書館(National Archives)へ直行した。  米国立公文書館には、独立宣言の原文があり、米国政府の重要文書すべてが保管してある。  公文書館の建物はほれぼれするほど見事。  これは国力か、富の深さか。  いや、歴史を大切にする心意気であろう。   ◆サイパンの戦い    https://ja.wikipedia.org/wiki/サイパンの戦い サイパンの戦い(サイパンのたたかい)は、太平洋戦争中、1944年6月15日から7月9日に行われたアメリカ軍と日本軍のマリアナ諸島サイパン島における戦闘。斎藤義次中将が指揮する第43師団を主力とした日本軍が守備するサイパン島に、ホランド・スミス中将指揮のアメリカ軍第2海兵師団、第4海兵師団、第27歩兵師団(英語版)が上陸し、戦闘の末に日本軍は全滅した。このサイパンの戦いにともない、海上ではマリアナ沖海戦(6月19日〜20日)が発生した。   ◆大東亜戦争  https://ja.wikipedia.org/wiki/大東亜戦争 大東亜戦争(だいとうあせんそう、旧字体: 大東亞戰爭、英: Greater East Asia War)は、大日本帝国と、中華民国、イギリスやアメリカ合衆国、オランダ、オーストラリアなどの連合国との間に発生した戦争に対する呼称。東條内閣が、昭和12年7月7日勃発の支那事変(日中戦争)も含めて「大東亜戦争」とすると閣議決定した。 よって、大東亜戦争の開始は1937年(昭和12年)7月7日である。 「欧米諸国によるアジアの植民地を解放し、大東亜共栄圏を設立してアジアの自立を目指す」、という理念と構想を元に始まった大東亜戦争が、アジアの植民地の宗主国を中心に構成された連合国側にとっては都合が悪かったため、終戦後にはGHQによって「戦時用語」として使用が禁止され、「太平洋戦争」などの語が代わって用いられた。 GHQの指定は現在では失効しているが、1960年頃から一種のタブー扱いとされメディアでの使用は控えられている。 一方で、「連合国軍の都合で一方的に使用が止められた『大東亜戦争』の用語を用いるべきである」とする考えも存在し、歴史認識問題などでこの戦争の呼称については議論が多数なされている。   ◆太平洋戦争   https://ja.wikipedia.org/wiki/太平洋戦争 太平洋戦争(たいへいようせんそう、英: Pacific War)は第二次世界大戦の局面の一つで、大日本帝国やドイツ国など枢軸国と、連合国(主にイギリス帝国、アメリカ合衆国、オランダなど)の戦争における日対米局面を連合国側から見た呼称である。 日本側の名称は1941年(昭和16年)12月12日に東条内閣が閣議で「大東亜戦争」と決定し、支那事変も含めるとされた。 日本軍のイギリス領マレー半島攻撃により始まり、その後アメリカ西海岸、アラスカからタヒチやオーストラリアを含む太平洋のほぼ全域から、東南アジア全域、インド洋のアフリカ沿岸までを舞台に、枢軸国と連合国とが戦闘を行ったほか、日本と英米蘭の開戦を機に蒋介石の中華民国政府が日本に対して正式に宣戦布告し、日中戦争(支那事変)も包括する戦争となった。
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captainjajajthings · 3 years ago
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抗戰最經典戰役之一:包森全殲鬼子精銳騎兵中隊,震撼了整個華北
 抗戰最經典戰役之一:包森全殲鬼子精銳騎兵中隊,震撼了整個華北
原創2021-07-15 14:06·文史小福
抗日戰爭時,八路軍一般要用一個團,或者一個營打日軍一個小隊,大約是500:50 也就是八路軍10人打日軍1人。但這也要分對方是什麼種類的日軍。
   日本兵的概念非常籠統,有精銳部隊、普通部隊、也有其他品質較差的部隊與武裝人員。不同的日軍戰鬥力完全不一樣,確實有的日本兵能以一當十,也有的部隊十個頂一個;有的驍勇兇狠;有的就是憨B;
 抗戰最經典戰役之一:包森全殲鬼子精銳騎兵中隊,震撼了整個華北
比如關東軍絕對是日軍精銳部隊,在1943年之前和之後的戰鬥水準完全是兩碼事,原因很複雜,這裏不再多說。
   今天說的武島騎兵中隊屬於關東軍戰鬥序列,是日軍精銳中的頂級水準。
   關於武島騎兵中隊全是精英之說,白草窪戰鬥唯一生還的日軍老兵這樣說:騎兵是一戰中日軍最精銳的部隊,武島騎兵中隊士兵都是在一戰時入伍,官兵���戰鬥素養都非常高,而且大部分軍官和士兵都是貴族。
   武島中隊參加過918事變、江橋戰役、熱河戰役還參與圍剿抗聯等等戰役;參加過南京大屠殺。
 這時騎兵陸續被其他兵種取代,武島中隊從130餘人的滿編部隊縮減到78人(到白草窪戰鬥被全殲前)沒繼續補充兵源。
   但活下來的肯定都是久經戰陣的精英,幾乎全部都是晉升到準尉的老兵。
 武島騎兵中隊在由北至南的大半個中國版圖上,歷經百餘場戰鬥從未失手,是日軍公認的“常勝軍”,是日軍旗幟一般的偶像部隊。
   中隊長武島須田,是貴族,出身於武士世家,軍銜為準尉特務曹長(相當於連級高級士官)。
 他“屢立戰功”,軍齡長達30年,地位相當高,佐一級軍官見到他,接受完他的敬禮之後,會鞠躬還禮。
   再來看八路軍方面。1938年,爆發了震驚中外的冀東大暴動,10餘萬人直接編入冀東抗日聯軍的戰鬥序列。
   八路軍第4縱隊數千人挺進冀東,協助抗日聯軍作戰,攻克近十座縣城……
 但由於抗日聯軍西撤失誤,加上管理不善、導致10萬抗日聯軍分崩離析,後來恢復到不足一萬(包括無武裝的民兵)。
   儘管如此,能留下來的人非等閒之輩,都是驍勇善戰的老戰士。
 包森部隊西撤時,因為��指揮能力強悍,被留下來繼續戰鬥。
   八路軍的指揮官包森,29歲,曾參加陝甘寧遊擊隊,後來成為西安地下黨,然後到抗日軍政大學培訓。
 抗戰最經典戰役之一:包森全殲鬼子精銳騎兵中隊,震撼了整個華北
一開始,包森手下只有200多人,但由於在戰鬥中太亮眼,不久就發展到了1000餘人,還開闢了天津的盤山根據地。
   1940年,遭遇武島騎兵中隊時包森才正式參軍3年。
 包森僅以四個連的兵力大戰鬼子一個中隊(前面說過一般八路軍用一個營500人打日本50人的小隊);而且主動迎敵,成建制地全殲敵軍——而且是堪稱精銳中精銳的日軍王牌部隊。
 震驚了整個戰區,成為抗戰中中國軍隊打得最為經典的戰鬥之一。
 雙方主官都是頂尖軍事人才,硬是把一場伏擊戰,打成了對攻遭遇戰。
 戰鬥幾經反轉,險象環生,非常像古代宇文泰和高歡的那場傳奇的邙山大戰。
   但是絕代雙雄宇文泰和高歡最終誰也沒吃掉誰,而包森卻把武島滅得連渣都不剩,八路軍也付出了巨大的代價。
   1940年7月27日,包森將軍剛開闢出盤山根據地,他派出兩名偵查員混進縣城偵察敵情——楊澤帶著14歲的高大章扮成爺孫倆潛入縣城……順利完成任務後,爺倆連夜返回,根據地較遠,爺孫倆一直在趕路。
   第二天一大早,爺孫倆突然看見一隊日本騎兵,正向盤山根據地方向進發,想跑回去送信是來不及了,他們只好一路尾隨。
   日軍騎兵半路上闖進石佛村,吃早飯,稍事休息,順便有抓了老鄉給他們飲馬。
 楊澤、高大章爺倆玩了命地往回跑,把重大敵情報告給包森司令。
   無巧不成書,正趕上第12團參謀長歐陽波平帶了兩個連,護送200多名幹部來盤山。
   時任軍分區副司令員的包森、參謀長曾克林率部前來接應,部隊暫時駐紮在一個村子裏,這裏離盤山根據地很近了,高大章來報告有敵情時,才早上5點,戰士們正在村外吃早飯。
   聽說鬼子騎兵進犯盤山,又正好有足夠的兵力,而且大部分是能打硬仗的主力,包森將軍決定主動迎敵,消滅這股騎兵。
   據小偵查員高大章回憶(今天還健在),包森一拳砸在桌上說:“打個兔崽子”。
 部隊集合,全體急行軍,奔向白草窪。
 抗戰最經典戰役之一:包森全殲鬼子精銳騎兵中隊,震撼了整個華北
包森想用四個連,對陣日軍一個中隊並不是衝動,他知道鬼子騎兵要進入盤山掃蕩,只能走石海白草窪,那裏是南北走向的山溝,屬於兩山夾一溝地形,非常適合打伏擊。
   而且溝內巨石密佈,山洞眾多,道路崎嶇,馬匹奔跑不起來。
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  不過包森此時完全不知道對方日軍騎兵的身份,所以一開始低估了對手的水準。
   根據參加過這場戰鬥的老兵回憶:當時臨近的薊縣也有日軍騎兵,不過那些人大部分是偽蒙古聯盟過來的偽蒙騎兵,戰鬥力一般,為虛張聲勢,他們行動時都穿日軍軍裝。
   在地利優勢下,四個連足以消滅他們。戰鬥打響之後才發現,八路軍碰上的是戰鬥力極強的鬼子頂級精銳。
   武島騎兵中隊駐紮在大稻地村距離盤山有一百多裏——是偽滿洲國和華北日軍控制區的交界處,所以誰也想不到他們會來盤山根據地掃蕩。
 。
 白草窪戰鬥對雙方都是意外,而且有諸多巧合。
   如果不是楊澤、高大章爺倆意外地發現騎兵,絕對不會運用伏擊的辦法應戰——騎兵悄然進攻,一個照面下來,根本來不及佈置伏擊。
   如果不是這爺倆點清人數,如果不是恰好護送幹部的部隊在附近匯合,包森將軍臨時調兵也會貽誤戰機。
   而如果沒有白草窪這一特殊地形,壓制了騎兵速度,裝備落後的八路軍也沒辦法伏擊。
   另一方面說:如果知道是關東軍裏的騎兵精銳進犯,八路軍武器處於絕對劣勢,在根據地沒有時間組織援兵的情況下,八路軍很可能也不會貿然行動。
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c3oyama · 5 years ago
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12/19日本人初飛行の日 誕生日/反町隆史 岩尾望 篤姫 石井慧 ジェニファービールス 佐藤江梨子 藤崎奈々子 誕生日 1835年 篤姫(天璋院・薩摩藩) 1836年 富岡鉄斎(画家) 1861年 ズベーボ(小説家) 1894年 加藤顕清(彫刻家) 1894年 吉田五十八(建築家) 1906年 ブレジネフ(ソ連書記長・政治家) 1910年 ジャン・ジュネ(小説家) 1915年 エディット・ピアフ(歌手) 1922年 楠本憲吉(俳人) 1932年 木元教子(ジャーナリスト) 1935年 一峰大二(漫画家) 1939年 鈴々舎馬風(落語) 1951年 岡本麗(女優) 1963年 ジェニファー・ビールス(女優) 1966年 YU-KI(trf・ミュージシャン) 1972年 アリッサ・ミラノ(女優・歌手) 1973年 反町隆史(俳優) 1975年 岩尾望(フットボールアワー・タレント) 1977年 三宅えみ(タレント) 1977年 藤崎奈々子(タレント) 1981年 佐藤江梨子(女優) 1984年 大村彩子(タレント) 1986年 石井慧(元柔道・総合格闘技) 誕生花は サンダーソニア、花言葉は“熱い視線” 誕生石は ラピスラズリ、宝石言葉は“永遠の誓い”です。 日本人初飛行の日 1910(明治43)年のこの日、東京・代々木錬兵場(現在の代々木公園)で徳川好敏工兵大尉が日本初飛行に成功した。飛行時間は4分、最高高度は70m、飛行距離は3000mだった。 実際には5日前の14日に飛行に成功していたが、公式の飛行実施予定日ではなかったため「滑走の余勢で誤って離陸」と報告された。 国際南南協力デー(United Nations Day for South-South Cooperation) 2004年の国連総会で制定。 1978年のこの日、国連総会で「ブエノスアイレス行動計画」が承認された。 「南南協力」とは「途上国相互の協力」のことである。 歴史・出来事 1586年 羽柴秀吉が豊臣姓を名乗る 1751年 名奉行・大岡越前75歳で没 1910年 わが国初の飛行実験成功 1984年 英・中、香港返還合意書に調印 #今日は何の日 #パーソナルカラー #カラードレープ #カラーパレット #こんにちは #色見本 #PCCS #ドレープ120色 #パーソナルカラー用品 #テストドレープ #C³ #色のみかた #シーキューブ (パーソナルカラー用品ドレープ、見本帳,PCCSのご用命はc3(シーキューブ)) https://www.instagram.com/p/B6O3jLiggFD/?igshid=1jrnbr6phvbqv
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fenghuileng · 7 years ago
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漫談中共地下黨情報史:特務頭子周公操縱全局
作者:默喜
1921年之後的中國情報史基本上就是共產黨、前共產黨、潛在共產黨同情者之間的明爭暗鬥。共軍就不說了,軍統那裡被共黨滲透的一塌糊塗,中統那裡頗有一批得力的人是前共產黨,能力最強的張沖成了中共同情者,要不是死得早,可能就被周公給招入麾下了(張沖託孤周公,其子女都是中共)。
蔣介石到了台灣,帶頭撲滅共產黨在台地下力量的,還是兩個共黨叛徒,一個是蔡孝乾,一個是抓住蔡孝乾的谷正文。汪精衛那裡,特務頭子周佛海是中共創始人,黨齡比共黨特務頭子周公還長,而且沒去蘇聯進修過,純土產。手下幾員大將丁默邨、李世群、胡均鶴都是共黨叛徒,胡均鶴還是趙尚志的親妹夫。
汪精衛那裡,身邊的秘書有中共,76號的顧問有中共,軍法處有中共,梅機關有中共,岩井公館裡的中共卧底更是著名的五重間諜袁殊。范紀曼在中央大學教書,是汪偽高官家中座上客,同時兼職軍統和中共的間諜,為啥軍統這麼信任他?因為129運動的時候他已經是軍統北平站的代站長了。范紀曼很牛,他後來堅持不重新入黨,一直僵持到1984年,終於承認他黨籍從1926年開始計算。另一個和他一樣倔的老頭是金日成的歷史老師,老爺子一直堅持到去世前一個月,中共才承認了他的黨齡從20年代開始算。還有軍統在汪偽那裡的卧底,南京站站長抗戰後投了中共,後成為烈士;上海那邊中共掌握著不止一部電台。
汪精衛身邊,陳公博的親信李時雨執掌軍法處,是華北許建國線上的;范紀曼,是潘漢年線上的,同時也在共產國際有事情做,軍統那邊他有關係,夠義氣的陳恭被抓了以後都沒供出這個老同事,他可不知道這個老同事是老牌共產黨。李時雨也是,他曾經給李大釗扶靈。這兩個互不知情不同線上的卧底,因為臭味相投,合作辦了一家赤色刊物,被兩條線上的上級分別嚴厲批評。
還有,劉人壽在周佛海那裡,周佛海幫他掩護日本人,然後他發報給軍統,順便共軍這邊也接收一下。到了解放戰爭,胡宗南那裡的情報,辦公桌上的那份有熊向暉,電台那裡有呂出,聯勤西北總站有一份可以呼應的,沈安娜可以記錄下總裁批示,劉斐那裡有存檔,郭汝瑰留個副本,重慶行轅再有人轉發的時候抄一點。
吳化文和她媽分頭出去算命,這消息都能被共軍截獲。可憐的吳化文,小舅子是共諜,兒子和副官通共。四個老婆裡面,軍統的毛人鳳和共匪潘漢年線上的各有一個。共匪的這個從相貌到談吐再到氣質最後加上在家裡的地位,統統甩軍統特務好幾條街。比主業干情報比不過共匪,比副業做女人的能力也輸的一塌糊塗。天不容黨國也。剿總司令傅作義的閨女、總統秘書陳佈雷的閨女,偽滿洲國的總理張景惠的兒子,大漢奸周佛海的兒子等等統統都是共黨。張景惠不知道兒子是中共,兒子跟著他在蘇聯蹲了好多年監獄都沒暴露身份。他有一大堆老婆和閨女,還有個不成器的大兒子和不受寵的小兒子,就這麼個愛如珍寶的金疙瘩還投了中共。
陳布雷裝不知道自己女兒是中共;傅作義知道自己女兒是中共;周佛海知道自己兒子通共,別的漢奸也知道,包括日本人也知道,但是沒一個人敢動,因為周佛海這個實權人物就這麼一個寶貝嘎達兒子(另一個和他斷絕關係了,在重慶)。張克俠的弟弟張樹棣被佐爾格的助手方文盯上了,打算把他派到他哥哥身邊去卧底,伺機策反其兄長。要不是佐爾格相中了張樹棣的能力要他去蘇聯進修,就會出現弟弟策反了哥哥十幾年,最後發現兄弟兩人地下黨齡差不多長的故事了。
張克俠何基灃二人一同起義,起義前很長時間兩人互相提防,最後發現居然是自己人。何基灃以為自己潛伏時間就很長了,沒想到張克俠比他還長。郭汝瑰和劉斐兩人互相指認對方是共諜,問題是兩人都是共諜。
萊蕪戰役總結會,三個共諜韓練成、郭汝瑰和劉斐互相推卸責任,最後是聯合白崇禧把黑鍋盡量往別人頭上推,最後這黑鍋落到陳誠那裡了。李玉堂1950年被蔣介石槍決,60年代蔣介石要給他平反,80年代大陸給他定為烈士,2004年陳水扁在台北給他的共諜身份平反。這叫什麼事兒啊!南京軍話總站,十幾個人,除了泡病號的一把手,剩下的基本都是共諜。來了兩個新人,半年不到就宣誓入黨去了。因為老是沒有一把手,從外面調來兩個領導:一個是從大革命時期就開始潛入地下的老資格地下黨,另一個覺得這地方不太對勁,呆了一段時間也去泡病號去了。
傅作義偷襲西柏坡
1、傅作義的女兒傅冬菊系統,得到傅作義已經下達了這個命令。傅冬菊系統在35軍被殲滅後不久就成功策反傅作義的近身衛隊。那時的傅作義,連手槍都是沒子彈的。
2、北平鐵路局系統,執行此次任務的國民黨軍部隊和所需補給大部分是通過鐵路集結運輸的,而北平鐵路局調度室的十幾個人中只有一個不是中共系統的,再加上另外一些鐵路員工的協助,國民黨軍集結部隊的大致番號、人數裝備和到達日期就搞清楚了。
3、北平聯勤總部的一個早已是中共黨員的少校參謀,由於聯勤總部負責對參與此次任務的部隊的補給,此公為了工作不辭辛勞,在不到一個星期的時間裡跑遍了預定參戰部隊團一級以上的單位,掌握了所有部隊的人數裝備和補給情況,詳細上報。鑒於他的出色工作,此公在國共雙方的上級都加以表揚。
4、傅作義司令部裡面有個刻蠟板的人叫甘霖,凡是不發電報的文件都由他刻印下發。他刻完偷襲石家莊的命令後,就搭車到徐水縣政府,直接打電話到華北軍區,接電話的是作戰部長唐永健。然後他改名換姓去了天津。解放後,甘霖曾任國際關係學院院長。
5、北平《益世報》(註:《益世報》是天津與《大公報》比肩齊名的報紙)採訪部主任劉時平從鄂友三那裡聽說到這個消息,然後和《平明日報》(註:《平明日報》是傅作義的喉舌)采編部主任李炳泉共同向崔月犁(註:他是北平地下黨學工委秘書長,他也是經常見得到傅冬菊的)報告。崔月犁冒險通過地下電台向華北局敵工部部長劉仁報告。保密局北平站學運組組長是中共,華北督察組保定潛伏組組長是中共,傅作義的秘書還是中共,他還偷什麼襲啊?
某特務向他的上級坦白,曰自己是共黨卧底,當天就被鋤奸,因為他的上司也是共黨卧底。可以寫個小片段。
A:老大,我是共黨卧底,我坦白。這是我的槍。
B:你有人知道此事嗎?
A:沒了。
B:你先回去,和誰也別說。(A轉身,槍響,B走了過來)
B:其實我也是共黨卧底。在那邊我還是你的上司。
台灣那邊,有金門被俘的共軍團政委陳利華,也有游泳去香港投奔國軍的,另外澳門站站長叫程一鳴。這三位都是深海,只有程一鳴安全歸隊,另兩位都是烈士。國軍起義飛行員打算炸蔣介石以為投名狀,不料轟炸裝置卻被另一夥地下黨給破壞了。(共諜冗員太多,嚴重影響工作進度)蔣介石的侍從室里都是精挑細選的親信,裡面卻有段家兄弟卧底。老大是侍從室少將,在蔣介石身邊;老二在上海管港口,蔣介石的撤退台灣他有份布置。哥哥段伯宇是周恩來線上的人,弟弟段仲宇是上海局張執一線上的人,段仲宇的入黨介紹人就是段伯宇。傅作義的秘書閻又文,要不是知情人遇到他兒子,他的共諜身份就永遠隱蔽下去了。他寫的罵共產黨的文章是延安仔細審閱過的,毛主席指示:要罵得狠一點。白崇禧的秘書,衛立煌的秘書,李宗仁的參議,都是共產黨。宋美齡的親信閻寶航,是共產黨的戰略情報員。
侍從室還有一個共諜,蔣介石寵兒中的寵兒,張默堅,協助程潛、陳明仁起義。他是宋美齡的舞伴,現在還是舞蹈裁判。以他在蔣介石身邊的位置,一根筷子就能滅了蔣介石。宋美齡的親信閻寶航同時還是共產國際的情報員。中國的共產國際情報員最牛的是張文秋了,不是說她的情報能力最牛,而是她和前後兩任丈夫生了三個女兒,前兩個嫁給了毛主席的長子和次子,還好毛主席只有兩個兒子。
張文秋的上級是佐爾格。佐爾格在中國最得力的助手是方文,方文是史沫特萊推薦給佐爾格的。佐爾格在日本最牛的情報員尾崎秀實也是史沫特萊推薦的,麥克阿瑟一佔領東京就滿世界抓史沫特萊,結果把佐爾格的情婦石井花子給抓了,因為佐爾格給她取了個英文名字艾格尼絲。佐爾格的另一個日本情報員是畫家宮城與德。宮城是美籍日本人。日本特高非常恨他,他是日本人,很多日本的東西他都熟悉;他是美國人,沒和美國人撕破臉還不好動他。佐爾格在中國最優秀的助手方文曾經干過情報翻譯工作,把中文翻譯成英文。可憐堂堂燕京大學的畢業生,被人批評英文太差。燕京是美國教會學校,那兒的學生畢業後英語剛剛的。沒辦法,給他審稿的是史沫特萊,一個懂中文、德文、俄文的美國作家;和他一塊翻譯的是中國著名翻譯家董秋斯,他後來翻譯了《大衛科波菲爾》和《戰爭與和平》。
幸虧他沒有把英文情報翻譯成中文的任務,否則審稿的將是魯迅和茅盾,像什麼潘漢年、馮雪峰、袁殊、關露(這四位匪特)之類的文學小青年只能打下手。就算他過了這些人的關,還可能有個寫過什麼《再別康橋》的風流浪子認為他的文字不優美。是徐志摩把魯迅和茅盾介紹給了史沫特萊的。沒有痕迹表明魯迅曾經入黨,只是魯迅曾經為了毛主席等人長徵到了陝北激動不已,給中共中央發了封賀電。這封賀電花了兩個多月的時間,從上海到巴黎再到莫斯科,再到陝北,轉了半個地球而已。而且魯迅去世前就已經知道這封電報延安收到了。茅盾是老資格黨員,最後結論是黨齡從1921年算起,算當年共產主義小組成員之一。他弟弟更厲害,紅四領導人之一,要是活下來而且不犯錯誤,大將保底。沒法比茅盾黨齡的黨齡更長了。到了這裡就多加幾句,作家夏衍解放後的級別是兵團級,要是參加55年授銜的話,中將打底。上將也就一個搞情報的李克農。另外一個大學者陳翰笙,佐爾格小組外圍成員。陳翰笙在三十年代初就得出結論:中國農民不僅受地主的盤剝,還受外國資本的壓榨,也受本地官僚買辦的壓榨。
除了造反,沒有出路。佐爾格在上海暴露,陳翰笙都還能繼續干他的工作不受影響。1944年蔣介石根據日本情報在昆明抓他,他卻施施然上了一架神秘的飛機去了印度,英國人在那裡請他做情報分析。抗戰勝利去美國當教授,解放後回國。總理擬請出任外交部副部長,被婉拒,願意繼續做研究,在北大也帶學生。看到這裡的,說不定就有他的徒子徒孫,當然是搞經濟的。1945年春,國民黨在滿洲地區(東北)的地下工作最高負責人羅大愚在工作上強調要實行正規化。統一印製了《黨員登記表》,要求每個黨員都要詳細填寫個人、家庭及社會關係等情況,什麼職業,姓名,住址清清楚楚,然後將登記表交羅大愚保存。結果在1945年5月23日日寇逮捕了羅大愚,從羅大愚處搜出了由他保管的《黨員登記表》,按照登記表抓人,被捕者約有200多人,國民黨在東北的地下抗日組織幾乎被一網打盡。
無能的羅大愚,策劃個通化暴亂都辦不成,讓別的國民黨給擠到一邊涼快去了。其實沒有悲劇到徹底,國軍在那裡有兩條線,另一條隱蔽的線羅大愚自己也不清楚。悲劇到徹底的是,那條線上的頭解放戰爭時候帶著徒子徒孫起義投共了;共軍兵臨瀋陽城下,羅大愚自己也投共了。許錫纘的爸爸是黨國元老,叔叔曾經是老蔣上司。抗戰期間被黨國送到美國學航空,然後回來卧底國防部第二廳,其實他1936年上海交大畢業後就入黨了,算起來是錢學森的學弟。送去美國學習的共黨可不是這麼幾個,錢學森身邊就有,還有人參與了曼哈頓工程,這都是回來了的。鄭連魁,國民黨中統淮陰地區調查統計室主任。
就是那個下屬向他坦白然後被幹掉的那個,負責給地下黨傳信的是他女兒。鄭連魁是被俘後逆用,其實他早就心在中共這邊了,1932年中共在他家鄉那裡起義,一天時間就失敗了,失敗後把槍藏在了他家裡。顧伯衡,國民黨“徐州剿總”警衛二團副團長。他想殺劉若英的爺爺(劉峙)為投名狀,但是被制止了,共匪說這麼豬頭的一把手可不好找。秦漢的老爸孫元良沒聽說通共,沒辦法,此人腳力可比戴宗,無論是日寇還是共匪都追之不及。這人還有一個本事,就是活得長。等別人都死光光了,他就開始說了,反正死人不會出來罵他胡說。
軍統南京站長周鎬,因為共諜嫌疑幾次被毛人鳳抓取審訊,每次都能過關,第二次還設計把告密的給殺了。到底是站長,比余則成主任對付李涯處長手段強多了。惜乎栽在孫良誠這個老賊手裡。徐州剿總下屬的一個汽車隊,被中共地下黨暗中控制,長年有三分之二的汽車為中共跑運輸,三分之一為國民黨跑,就這樣,還經常受嘉獎,無他,中共沒有控制的車隊連跑都沒法跑,好的汽車全在走私,而汽車零件全被盜賣了。曾昭科,明面上的身份是前皇家香港警務處助理警司,實際上1961年暴露前長期在香港擔任英對華間諜和反間諜工作,從他的履歷上你看不到那一點上他和中共有交集,幼年來香港,在日本讀書,回香港工作。
據傳港人眼中的四大探長中藍剛是他的線,另外幾位是國民黨的線。還有個人也被認為是他線上的,叫曾雲,曾雲有個兒子是現任特首曾蔭權。現在這四位腐敗分子都快死完了,曾昭科還在廣東頤養天年。別以為廉政公署多牛,廉政公署開門的代價是1977年1月1日之前的罪過既往不咎。香港如此悲劇,澳門呢?軍統澳門站站長是中共卧底,據說因為當年工作權衡不好,被總理批評了。
1949年,解放軍打回江西的某根據地,可能是井岡山。有個小戰士被群眾拉回家去吃飯,小戰士不去,還說“我們不拿群眾一針一線”。老鄉說“到我這兒不算,我跟著毛委員鬧革命的時候……”一算下來,他掂著梭鏢打土豪的時候小戰士還沒出生。人家多年來就這麼自發的乾地下黨組織領導老鄉們,干這個隨時可能掉腦袋,沒有前途,沒有上級的活。接受大家指點,加兩位藝術家。(現在叫娛樂圈,他們那些人也就配這個詞)話劇皇帝金山,李克農單線聯繫的秘密黨員,他的真實身份只有周恩來、李克農和潘漢年知道。他還是杜月笙的關門弟子,黨國接收大員,接受了滿映,後來的長春電影製片廠。
上海和平代表團南京代表團在北平參加最後一次和談,他是團員,負責向中共回報參會人員思想動態等材料。金山的缺點之一,是此人太帥了,生性也頗風流。電影皇帝金焰也是中共。金焰是中國國籍的韓國人。不是有韓國血統,他就是韓國人,出生在漢城。(給PLA寫軍歌的鄭律成出生的地方比他還靠南)。
金焰長得帥,但不是那種奶油小生。金焰的身體條件非常好,演電影里苦力工人力道十足。很適合現在這些韓粉小姑娘的口味。再加幾位宗教界人士:紅色牧師董先生就不說了,資格太老;李儲文,耶魯大學神學博士,曾負責龍雲和飛虎隊的情報工作。身份暴露是因為被紅衛兵打急了。趙朴初也是大家都知道的;張永興是從基督徒直接轉成的,大連放火燒鬼子的也有基督徒。結論:蔣介石確實雄奇。上一個這麼像篩子的是小馬哥,他掛了;雄奇公不僅沒掛,還成功轉進台灣,圍困大陸長達六十年,這還是在每日筆耕不輟,連寫帶改日記的情況下完成的。
悲喜人生
1.韓練成向董必武彙報工作,地點選在了白崇禧的家裡。因為談秘密事情,白夫人在樓下給他們望風。
2.宋時輪劉培善開著吉普車誤入國軍陣地,被一個營的國軍圍觀,心想媽媽不得了,這次要光榮鳥,就見國軍營長闊步上前,一個軍禮“同志……!”宋時輪大手一揮,你們起義吧。
3.這是個杯具。桂系四十六軍,也就是韓練成當軍長那個軍在萊蕪,搜索營副營長跑到了共軍這邊,韓練成以為黨國在試探他就找山東這邊要回去斃了,山東這邊以為是國軍來試探的就給送回去了。槍斃完了才知道這個的確是自己人。(韓練成郭汝瑰那個寫不下去也是這個原因,挺不舒服的)
4.王天眷,1932、1936年兩次入黨。中國激光元老,因學生運動多次被捕,又多次被陳立夫保釋。
5.武漢解放前夕,武漢保險公司同業公會剛剛繪製出一份《武漢最新街道詳圖》,還未公開使用,就被城工部人員拿去複製了一份。他娘的這地圖畫出來之後有乒乓球檯子這麼大,就這都能送出來。
6.錢樹岩,國民黨徐州綏靖公署軍務處少尉司書,一個少尉搞定了國民黨西至潼關,南到長江的軍事部署。
7.何基灃的交通員叛變,落到了李宗仁手裡。蔣介石派人潛入何基灃家裡,搜出《總裁訓示》一本,上面標出重點,寫下心得。蔣介石龍顏大悅,授中正劍一柄,並認為李宗仁小肚雞腸挑撥離間。
8.舒自清,蔣介石的奉化老鄉,曾經是上海灘最年輕的審計師,廣大華行高層領導、華潤總經理。廣大華行是周恩來手下的第三條秘密戰線,比國統區和敵占區的地下黨還要保密。
後來他把這條戰線延長到了美國,介紹他去美國的是蔣介石的小舅子。施貴寶、杜邦、摩根都是他的客戶,辦公室設在華爾街120號。舒自清文革中被作為美國特務關了6年監獄,學馬列的筆記寫了一麻袋。80年代力主中國加入WTO,用大量數據說明這麼做對中國和世界都有利。
9.司徒慧敏,著名導演、攝影,1927年入黨。解放前中共美國支部人員。在美期間曾經向國內彙報舒自清是四大家族走狗。後來二人在國內相見大笑。舒自清比司徒慧敏危險,第三條秘密戰線有人叛變,舒自清是獨自跑回來的,老婆孩子都沒能一起帶回來。
10.抗戰期間黨國在美國建了一個中國發動機廠,專門生產飛機發動機,錢永健的爸爸就在那裡工作。那個地方中共都有地下黨。
11.老牌地下黨王崑崙重慶談判期間作為知名民主人士被毛主席接見,席間隱隱告訴毛主席,重慶不安全,最好早些離開。和他一塊被接見的是柳亞子。王崑崙後來是83版《紅樓夢》的顧問。
12.《重慶號》一條船上共軍就安插了兩條獨立的線。
13.熊健,他老爸曾經是黨國的參謀次長,重慶大本營的辦公室主任。他自己是紅岩周公館的交通員。
14.何康,熊健的入黨介紹人。他老爸是辛亥元老何遂,李宗仁那邊面子很大。
15.馬亮,已知滿洲共產黨和日共有聯繫的不多幾人之一。劉少奇被關奉天監獄,就是他保出來的。
16.野坂參三,日共創始人之一,同時也是英國共產黨創始人之一。1940年扮成華僑從莫斯科潛回延安,同行的是一位印度尼西亞共產黨領導人。野坂參三本來想回日本,結果發現到了延安更回不去了。在延安他找了老婆,回日本又他找回了糟糠之妻,這個老婆成了黃興的兒媳婦,後來是一位日本問題專家。野坂參三100歲那年被日共開除,原因是里通蘇共,那是1992年。
17.王亞文。黃埔四期的老黨員,秋收起義的老資格,策反戰線上的老同志。死後蔣特地囑咐秘書打電話慰問其家屬。
18.���壁。台灣《治安與富強之連鎖政策》、《人生指南》、《真人生論》、《作文講話》、《三民主義政治學》、《三民主義政治淺說》、《孫總理思想研究》、《人本論》、《孔子的思想研究》的作者,《政治評論》周刊和《革命思想》的主編,政戰幹部學校的教官,1981年11月回到大陸,1985年去世。
19.鄭州解放前,鄭州的炮兵有個大力士,地下黨就借著參觀大力士表演把鄭州的炮兵陣地看了個遍。
20.還是在鄭州解放前夕,黨國印發戒嚴期間的各種通行口令,地下黨就順手就拿一份,在鄭州城裡戒嚴期間地下黨比特務們還暢通無阻。黨國印發的地下黨的嫌疑犯名單,地下黨也順手拿一份。就這還能抓著人?
21.前面提到的舒自清和司徒慧敏見面大笑的地點是劉少文中將的家裡。劉中將在香港期間多次夥同潘漢年、廖承志造假情報和日本人換真情報,這三個人整出來的假情報天衣無縫。55年授銜的時候他是總參二部部長。有意思的是他的八一勳章是一級,獨立自由勳章是二級。
22.1949年初,蔣介石派了5架飛機到北平來接清華的教授,結果連蹭飛機的北大教授的老媽子都上飛機了,還是沒坐滿人。
23.解放前上海保險業的地下黨很是猖獗,有個領導人被中統抓了之後因為把柄不多,花錢保釋出來了。保釋金額:金圓券20萬。
24.重慶解放的時候被破壞的是比較厲害的,但是兵工廠卻是基本給保全了下來,這個廠的廠長是地下黨。共軍進駐之後,他們在廠區里排除了600多箱炸藥。
25.1937年,白崇禧的機要秘書共諜謝和賡給白崇禧寫了一份長達一萬多字的《全民軍事總動員綱領與展開全國游擊戰爭之方案》,白崇禧嫌太長,讓另一個共諜劉斐幫著看看,劉斐說太長,總裁看不下去,讓他總結一下。此文稿蔣介石閱後大喜,暗示白崇禧給謝和賡升軍銜;周公閱後亦大喜,給他一個擁抱。1938年白崇禧演講,謝和賡寫完演講稿心裡沒底,於是請周公給他修改,周公定稿後,白崇禧全文採用。有周公當秘書,白崇禧不知是該哭還是該笑。
一、王一飛。王一飛這個名字很少有人知道,他的起點並不低,和他共過患難的有朱德、羅亦農、趙世炎、博古、任弼時、李富春、蕭三等人,陳賡、左權、徐象謙、李之龍等人是他在黃埔軍校的同窗好友,陳毅、李大釗等是他短暫去北京時期的老友。
30年代所擔任的職務就相當於紅色國際特工的東北區總代理了。可是從30年代之後,在蘇聯被當���日本特務,回來之後被當成蘇聯特務,後半生過的很不如意。(黨史上有兩個王一飛)
其實抗聯和滿洲省委這一系的人心理上有些地方並不好受。王明貴是抗聯後期最能打的一個將軍,也是為數不多能在四野帶兵的抗聯的人,但一直是二線部隊。這給了他一個好處,他帶的部隊成分很純,於是被挑選為開國大典做警衛。但是,部隊確定下來之後,他就被調出了。周保中隨四野南下途中,曾經請求晉見毛主席,不準。
三一八慘案的時候王一飛是旗手,打著大旗走最前面,陳毅在他身邊。走到現在的北師大段祺瑞的兵開槍的時候,王一飛是最大的目標。但是他畢竟是軍人出身,而且打過仗。一看情況不妙立刻卧倒,但是後面的劉和珍等人沒有這種軍事素養,犧牲在這次慘案中。
三一八之後,王一飛去了馮玉祥那裡,和劉伯堅共事,他是特別黨部執行委員,劉伯堅是宣傳委員。八一起義之前被周恩來安排去拉部隊,但是情報有誤,部隊已經不在他要去的地方。中旬就和肖勁光等人被派去蘇聯學習。
到蘇聯後和楊尚昆、陳伯達等人同窗。1930年冬天被派往東北負責蘇聯的軍事情報工作,自此他的一生變突然出現了轉折。他做情報工作的時候,考霸張甲洲是他的下線。但是918之後張甲洲要真刀真槍的干,很快就離開了他。1935年他被調回蘇聯,肅反期間被開除,1938年得以平反(很幸運了),1947年回國,1957年妻子被打成右派,1968年含冤去世。
二、老是拿錯皮包的參謀張治中得算是中共的老朋友了,1924年就找周公申請入黨,但是周公說不適合在國民黨內部高層發展黨組織,然後就沒下文了。張治中當年和周恩來、馬歇爾一起調停。馬歇爾給了張、周二人配了兩個一摸一樣的提包,這兩個人的隨身參謀也太馬虎了,多次拿錯,總是打開才發現搞錯了。
三、田漢秘密進京。田漢在1949年元旦之前秘密進入北平,任務是勸說一些人留下來。徐悲鴻是他的生死之交,沒問題;齊白石是徐悲鴻去勸的。國慶閱兵的裝甲車隊指揮是他的長子。
四、倒在黎明前夜。據國民黨駐上海353師警備連戰俘交代,他們的連長是地下黨。上海解放前在被調去看押被逮捕的學生,儘力維護了學生的安全,後來這個連被調去防守浦東,連長在勝利前夜陣亡。當時三代核心東躲西藏沒給抓住。
五、打入美國人的情報機構。二戰勝利後,美國把駐紮在世界各地的“戰時情報局”改了個名字,叫“美國新聞處”。在北平的新聞分處裡面共產黨一共安插了若干個內線,有九個是後來留在大陸國內公開身份了的。
這些人,有的還在抗戰期間就已經打入這個情報機構了。有什麼詞來形容這個美國駐北平的特務機構呢?漏勺?笊籬?美國人讓他們為美國搞宣傳。他們把宣傳資料慎重篩選,覺得不合適的就拿去當草稿紙用了。美國紙張質量好,給他們留下的印象很深。解放後,其中一些人進了中國的新聞機構新華社。吳大琨和陳翰笙的性質也差不多。說起來當年有共諜對美國的滲透,至於你信不信,反正我信了。
六、毛主席親自派遣的特務。話說毛主席膽大包天,非我等人所能體會。轉戰陝北期間,兩個緊挨著加起來才80多戶人的兩個小村子,毛主席等人住一個,國軍駐另外一個。他不當回事,汪東興不敢不當回事,三下五除二抓了十幾個特務,正要料理被毛主席看見了。毛主席說,這些人你殺了他們也沒什麼作用,不如教育之後反向安插回去。可惜不知道這些特務給安排回去有沒有起什麼作用。這批特務註定是歷史上的無名人物,不過倒是創了一個歷史,毛主席親自安排的最低層次特務。
七、特務學生。余老師一次提到1952年還有國民黨中將被拉出去槍斃。大概有兩個半地方是高壓線,沾了這些東西,如果不是對中共還有作用,就有可能保不住腦袋。兩個是匪、特,半個是會道門。北平的多所大學裡的特務學生,在中共進北平之後都落得很慘,判了無期或者十幾二十年的頗有一些。這些特務學生好在沒動手殺過人,也就是搞搞宣傳、說說風涼話,攪攪局之類的,最多掄棍子打人或者扔塊磚頭啥的,否則很可能刑罰上會進一步。
八、毛澤民戲弄特務。毛主席被民團抓住以後,以銀元行賄換得逃命。無獨有偶,他弟弟毛澤民也一樣。
毛澤民當時在天津做地下工作,搞印刷廠。被特務給扣了,先把自己身上所有的錢拿出來賄賂特務,然後麻痹特務說把廠子賣了湊了錢就多送點。然後用拍賣工廠設備的借口把印刷廠的設備運出,負責監視他的小特務還以為他真的在賣廠籌錢。然後是人財兩空
經濟大師毛澤民可惜了,如果不是被自己的大哥給拉上中共這條船,他將是一個成功的民族資本家,毫無疑問。別忘了人家是蘇維埃中央銀行行長的時候,陳雲還混不到他的下手。毛家另一個可惜的是毛澤覃。毛澤覃比毛主席小12歲,從長相到性格都像大哥,連賀子珍都能蒙一下。毛澤覃長於軍事,一路政委幹上來的,那年頭中共的政委有哪個不是軍政雙全的。如果不是犧牲過早,55年應該是上將保底,大將有戲。1976年71歲,正是政治家的黃金年齡。“共產黨不是毛家祠堂”這句話出自毛澤覃,是反抗毛主席體罰的情況下說的。諸位想培養自己兒子成天才的,不妨仔細研究下毛太公順生怎麼教育兒子的,然後去湘潭看看毛主席家的祖墳怎麼修的。
九、說到難逃一死的兩個半蘿蔔酒那篇《大槍》俺也是看得很上癮,看第二遍注意到了武林高手49年之後被中共所害詞句。大概葉問和薛顛配得上。薛顛是因為一貫道的問題被拉出去斃了的。一貫道現在在台灣很興隆,在大陸剛解放的時候可沒少忽悠不明真相群眾跟共產黨作對。中華5000年,中共是第一個牢牢把握基層政權的中央政府。
摻和會道門,就是和中共的政權根基過不去。看不清形勢,也就別怪自己命苦了。沒那麼玄乎架起機槍掃。就是中共去了幾個公安,帶出來送進局子拉倒。另外一個的說說現在火的不能再火的一代宗師葉問了。葉問是上過軍統的特訓班的,他的工作也一直有軍統背景。1946年起在廣東佛山的警察部門工作,負責偵緝地下黨,中共打過來之前最後的軍銜是上校,職務好像是廣州市衛戌司令部南區巡邏隊隊長(待查資料確認)。
手下中共地下黨人命恐怕不少於兩位數。運氣不好,這種直接和地下黨對抗還是個沒什麼價值的中級軍官斃了也就斃了;運氣好跑掉了,然後收了個好徒弟。
十、間諜被抓了怎麼辦。如果你是一個落入別的國家情報機構手裡的間諜,而且不想叛變,或者確信自己一旦叛變可能會死的更慘,那麼你應該怎麼辦?
1.竭盡全力把自己還沒有叛變的消息傳出去,以便自己的上級覺得你還有營救的價值。
2.祈求什麼神靈都行,希望自己上級手裡有值得交換自己的籌碼。
3.繼續祈求,希望自己的上級覺得這麼交換還比較合算並樂意這麼做。
用兩位諜王做個解釋:阿貝爾被抓後利用美國傳回了自己沒有叛變的消息,因為他使用了一個已經去世的同事的名字,美國人的大肆報道正好告訴蘇聯人,這廝沒有叛變;蘇聯人手裡有第一個被打下來的U2飛行員;美國人急於交換,蘇聯人也認為一個飛行員換一個間諜網核心人物的交易值得做。然後阿貝爾就被換回來了。
佐爾格就不行了。首先他招供了,雖然他的招供為中西功等人贏得了時間,但是也使上級無法營救他的,因為不能確定他是否已經叛變;其次蘇聯人手裡可沒有這麼強大的一個間諜,要是有的話貝利亞和亞戈達就去找對咪咪撞死算了;第三條就更談不上了。
十一、周公的語言能力。周公懂英文。西安事變可以與宋美齡用英文流利交流毫無障礙,張學良宋子文也用英文討論。可憐土包子楊虎城,啥也聽不懂。四十年代口語就不太會說了,當然到老了聽還是能聽一些。周公懂法文。
周公畢竟在法國生活了那麼久,而且法文可能是他掌握的最好的外語,多年不說不聽之後依然可以和西哈努克講法語。當年在法國勤工儉學的時候,法文的資本論和共產黨宣言他都翻爛了。
周公當時其實沒怎麼勤工,他倒是想去打工來著,但是大家一致認為他集中精力領導大家更合適。周公懂俄文。莫洛托夫曾經在一次酒會上向周公抱怨,說你明明會說俄語,為什麼要用英語敬酒。周公懂日語,雖然入學考試日語沒過,但對於日常生活並無大礙。其實大家現在去考高考語文估計是考不好,但是並不妨礙咱們過日子。周公熟稔外語有個好處,對方國家領導人講完話,他就知道大體什麼意思了,但是他還可以等著翻譯講完再出招。和對方國家領導人相比,多出一倍的思考時間。同樣的時間,他出兩招,對方只能出一招,佔了這個便宜。
十二、張友漁的地下工作。張友漁是大律師,也是北京特科重要成員之一。北京特科和北京的黨組織以及順直省委沒任何關係,直屬上海特科。和張友漁一塊工作的一個北京特科成員,解放後是山東省委領導,當年在天津公安局管預審。地下黨被抓進來表現如何他清清楚楚,表現好的掩飾馬虎一下,表現不好的痛揍一頓。
這就不錯了,落在西安共諜李茂堂手裡的叛徒,有在招供到要害之前被直接刑斃的,叛徒死都不知道為什麼死的。薄一波、李運昌等人被關在天津反省院的時候,張友漁是反省院的副院長,薄一波是反省院裡面地下黨的黨支部書記,當然薄一波不知道。
十三、張作霖大帥府里的黨支部。黨支部書記是董季皋。董季皋在1925年之前就已經入黨,1925年因寫得一手好毛筆字被張作霖重用做秘書。張作霖在北京時期,張在裡間辦公,董季皋在外間辦公,負責抄寫書簡,中間只隔一層鏤花板壁。董季皋的家是中共順直省委機關所在地,他自己的工作是負責軍運,他夫人以基督徒的身份為掩護做交通員。
南京曾經給張作霖發來密電要逮捕董季皋。張作霖故意在董季皋在隔壁辦公的時候大叫“這個人也要抓,往後我的書札誰來寫”。當天董季皋回家後第一件事是告警讓別的同志撤離,第二天和他的女婿等18位烈士被捕隨後遇害。
十四、國民黨的海軍。當年軍統頭子戴笠曾經醉心於國民黨的海軍司令,但是國民黨的海軍卻是中共活動的最為得手的地方之一。中共地下黨號稱對國民黨70%的艦艇有把握,不知道戴笠在天上知道到這句話的時候會怎麼想。策反國民黨海軍的關鍵人物是張權和吳石兩個人。
一個在解放前犧牲於上海,一個不久犧牲於台灣,但是從國民黨海軍的情況來看,兩個人犧牲時都帶著這方面的秘密一起走了。
十五、侮辱軍統智商的何基灃。何基灃有個副官是中共,抗戰期間被軍統察覺了,何基灃設法把他送去了中共那邊。然後到了淮海戰役之前,中共又把這個人給派回來了,何基灃還讓他當自己的副官,還把軍銜和職務給升了。這純屬侮辱軍統的智商。
十六、還是特務學生。沈崇那個學校,1947年5月18日那天,嚴陣以待的青年軍撤走了,剩下的學生三三兩兩圍著維持秩序的憲兵申訴青年軍打人。一個特務學生湊過去之後打了某憲兵一個耳光,然後憲兵們就開始打別的學生了,這一次中共的地下黨吃了特務學生的大虧。北醫的特務學生曾經偷偷的問一個地下黨學生是不是中共。這個學生反問他:你要不是特務,問這個幹什麼;你要是特務的話,哼哼……其實特務學生並不是都很笨。三青團北平的頭還曾經是個高考狀元呢。
十七、北大里的收音機。北大地下黨有台收音機,專門負責收聽新華社的消息。這台收音機居然是葉劍英留下來的。然後學生里的地下黨把這台收音機當儀器設備藏在了物理實驗室。
十八、外籍人士們。燕京大學外籍教授們有的把地下黨藏在自己家裡,然後當人梯送地下黨跳牆逃跑;有的負責把守大門。
十九、還是燕京大學。燕京大學的地下黨很是猖狂,軍統就慘了,只得一二十名骨幹和幾十名追隨者。燕京大學選學生會立委,中共大獲全勝,特務學生便要搗亂。特務學生搶佔了前面幾排大吵大鬧擾亂秩序,占學生大部分的醬油眾們不堪吵鬧打算退場。
眼看特務們攪局就要成功,地下黨們抬出一塊大黑板上寫“凡擁護本次選舉者請起立”。這下好了,醬油眾們本來對特務學生們無可奈何正要退場,��不就是站起來要走嗎?這已經站起來了,沒人帶頭再坐下也不合適啊,乾脆就集體表態擁護算了。
中共不光過五關斬六將,也有走麥城的時候。
1.黃鎮中,寧都人。1930年假扮奪槍造反,投奔了董振堂、趙博生的隊伍,被任命為指導員,同年冬帶35人槍叛逃。自1931年到1949年,死於他手下和他部下的黨員、紅軍家屬、紅區人民、群眾數萬人,民房被燒毀數萬間。淮海戰役後宣布協助歡迎共軍者殺、一人投降共軍殺全家等“十殺”,並在寧都山上築壘企圖和共軍論持久戰打游擊,他堅持了26天,夠持久了。共軍很人道的判了他槍斃。
2.沙文漢一家個個出人頭地。老大是大書法家、朱家驊的親信,但是不問政事;老二犧牲於廣州起義,老三沙文漢老四沙文威都是諜報高手、老五沙季同是徐悲鴻的學生。
不過最彪悍的是老三的老婆。老四沙文威1937年在大哥介紹下進入朱家驊手下工作,負責保管機要文件,從此大批文件變成了國共雙方共享;1941年入中統;1942年被中統派往上海負責汪偽情報,從此這部分汪偽情報繼續與共軍分享;1945年之後更上一層樓,黨國華北東北大批軍事情報可以做到國共分享。
老四手下的汪維恆是陳誠的軍需署長,遼瀋戰役的殲敵人數幾乎和汪維恆提供給共軍的情報相當;前面提到策反黨國海軍大業未成身先去的張權將軍也是老四線上的。
老三沙文漢,長期乾地下工作,堪堪躲過刀鋒的次數兩隻手數不過來,也曾經多次與上級失去聯繫,但是矢志不渝。沙文漢既是紅色國際特工高手,也是國內情報大師。文能提筆安天下,寫文章、出圖書、做雜誌、辦學校個個風生水起;武能上馬定江山,曾接替張愛萍任江蘇省軍委書記,浦東遊擊隊、浙東遊擊隊都是他的手下;統戰方面,曾任上海局策反委員會副書記,書記是老太爺張執一。
沙文漢對黨極為忠誠,多次失掉關係,仍然努力尋找上級。一生中最後兩個字是“謝謝”,不是對自己妻子說的,而是對上級���電話傳達摘掉他“右派”帽子的人說的。
3.沙家在諜報界雖然功勛卓著,但是最卓著這人卻不姓沙,乃是老三沙文漢的老婆陳修良。
想當年軍統上千人在南京城裡抓共諜,然後被她搞了個海陸空三軍大起義,而且開著小火輪接共軍渡江。(再次重申,別TMD光念叨拿下總統的部隊番號是三十五軍,軍長是吳化文。裡面三分之二的人是共軍,包括俺們的鐵道游擊隊,說話算數的也不是他吳化文,是政委何克希。老吳能在亂世活下來,關鍵就是知道啥時候放手、啥時候出來裝門面。)
陳修良是向警予的秘書,並由向警予介紹入黨。1927年,陳修良在母親陳馥主持下,陳修良與沙文漢結婚。她最精彩的是1945年秘密進入南京領導地下工作,此前南京的地下黨曾經被嚴重破壞8次,但是她這一把就全部翻盤。參與南京解放的一位將領說“南京實際上是和平解放的”僅舉一例,陳修良在翻閱黨國幹部名冊的時候,突然發現一個高官人名和30年代某地下黨名字相同,打探之下發現原來果然是同一人。
考察之後才發現,原來這人當年失掉關係之後就深度潛伏了下來。再舉一例,南京軍話總站,這個地方除了那個掛名的站長,剩下的全是中共的人。不客氣的說,宋美齡電話里管蔣介石叫了幾聲“達令”,或者蔣介石電話里罵了手下多少次豬頭,共諜都知道。
4.陳修良夫妻都是忠貞不渝的中共諜報大師,但是陳修良前夫卻是一個叛徒。陳修良的前夫是余平,在莫斯科期間隱瞞自己已經有妻子的情況和陳修良結婚。1927年被捕後叛變,成為中統特務。1949年讓黨國給扔在了大陸,被抓半年後病死獄中。余平曾經去勸降夏明翰,但是未果,反被夏明翰連嘲諷帶痛罵給趕了出去。
5.錢壯飛是徐恩曾的機要秘書,錢壯飛救了共產黨的同時還把徐恩曾給玩得溜溜轉。但是錢壯飛自己都不知道,周公和顧順章在徐恩曾這裡至少安插了兩條線。不僅徐恩曾的機要秘書是共諜,他的機要員也是。這個人是費俠。費俠是個大美女,留蘇學生,有文化、有氣質、有長相、有口才。顧順章叛變後費俠被指認,徐恩曾這個花花大少居然一見這個共諜就魂不守舍,變成了一個好男人。在顧順章的說服下,費俠叛變。叛變後費俠雖未加入中統,卻專職負責對留蘇學生的策反,成果斐然。
1949年上海解放前夕,還曾經叫囂毀了上海。費俠和徐恩曾共生育三子二女,夫妻感情不錯。
6.另一個被顧順章說服的女叛徒是秦曼雲。“白區黨”近乎100%被破壞,其根子就可以追朔到秦曼雲這裡。秦曼雲的前夫是關嚮應,離開關嚮應之後的丈夫是當時的曾任中組部部長的盛忠亮。盛被捕之初還是寧死不招,顧順章指點中統從秦曼雲下手,首先策反秦曼雲,然後由秦曼雲說服盛忠亮,盛忠亮遂叛變,大招特招。盛忠亮叛變後,地下黨損失到了什麼程度?潛伏很深的特科還有一點人,文化圈夏衍那裡有一點人,作用不大的江蘇團委有一點人,工會方面還有一點人。剩下的全被連根拔起。盛忠亮叛變後在中統任職,後進入外交系統,任黨國駐烏拉圭、伊拉克大使。
1964年去美國經商,1981年低調回國,在秦曼雲的堅持下,她自己一人去見了當年的同學王鶴壽。王鶴壽時任中紀委副書記,也算一方王侯,但卻是白髮駝背,布衣舊鞋。秦曼雲時乃美籍華人富婆,濃妝艷抹,衣服華美。王鶴壽不願意單獨面對這個用靠戰友鮮血換來榮華富貴的叛徒,於是拉了乾女兒陶斯亮同去,於是才能留下當時的細節。
秦曼雲問及當年莫斯科東方大學同學,王鶴壽回答短而有力,“離開人世的,個個是鬼雄;尚存人間的,亦皆為人傑。”交談一段後漸漸無言,秦曼雲用同情的口吻問:“這幾年來,你受苦了吧?”秦曼雲除短暫被捕外一生生活奢華富足;王鶴壽一生蹲了六次監獄,最長的一次是共產黨自己的十年牛棚,共被批判573場。
然而神態自若的王鶴壽坦然一笑“這是我們黨內自己的事情”。遂再無言。盛忠亮的兒子曾經在他的老家建立盛氏女兒基金會,每年資助十名女生從小學三年級讀到高三。這件事曾經被當地地方政府大書特書,作為政績之一。不客氣的說,這要是呆鵝和胖卡,估計做得能比這廝好十倍,但是也成不了地方政府的政績。
1.天津的城防圖。天津的城防圖當時中共有好幾條路線。其中一條是公路局的某人從負責這項目的人那裡偷的。這不算什麼過分。過分的是他頭天下午偷出來,晚上抄了一晚上,時間不夠,他居然第二天又抄了一天,才還回去,眼看著找不著城防圖那位如熱鍋上的螞蟻一般在他的面前東翻西找。
2.還是天津。天津解放前電信局長已被中共策反(那人本來是個脫黨的早期人物),電信局裡也已經安插了中共的人,陳長捷的無線電通信頻率共軍早已掌握在手裡。劉亞樓的參謀可以和陳長捷共享他對部隊的指揮,城內的地下黨乾脆是在收音機里聽著陳長捷對傅作義的無線電通話迎接解放的。
3.又是天津。天津鹼廠的總經理那時候是李燭塵,侯德榜當時在國外。陳長捷最後一個祈求歸順的電話就是通過他轉給地下黨的。地下黨的回應是“太晚了”。
4.軍統天津站在解放戰爭期間表現很不錯,在大連、漢城、仁川都有潛伏機構,主要任務是對中共的策反,兼職收集情報,成果斐然。共軍在大連的海關副關長(相當於此職務),即被策反帶領幾十條船投靠軍統天津站。當時大連港的檢查某所長、大連市政府某科長都是軍統潛伏人員。被策反的這位後來擔任天津特別站中校副站長。(專管海上)
5.軍統天津站確實有個叫吳景中的站長,不過其實他是天津站倒數第二任站長,只有幾個月任期,倒數第一任是個留下來的替死鬼。
6.張夢實是偽滿總理張景惠的兒子,他有一次送情報就是把情報放在他父親的標準照後面。他的身份加上照片確保了這情報沒人敢檢查。張夢實的老媽是七姨太,但是張夢實一想結婚就張羅著給他納妾,女人當老婆和當老媽時候心態就是不一樣。
7.獲取錦州城防圖的第一個突破點,共軍是花錢買來的,這錢花的值。
8.錦州連以上兵力配置圖,是國軍派人監督一個共諜畫的。共諜說他幹活國軍監督這人干坐著太無聊,要不您先找地方玩會?
9.錦州外圍義縣的城防圖是一個從國軍過來剛一年的小共諜搞到的。國軍一上校團長被俘後看到了共軍手裡的城防圖,到排這個級別都和他自己的絲毫不差,於是說早知道你們拿到這個,他就不打了。
10.錦州大街上的碉堡分布,除了前面的來源,還有幾個對軍事一竅不通的地下黨每天散步統計碉堡情況,然後把信息匯總給一個會畫圖的情報人員,送到城外。
11.八路軍西安辦事處和紅岩村周公館,長期處於國民黨的全天候監視之下,問題是人家好像也沒耽誤什麼事。
12.還是潘漢年吧。投機商們打算整上海的銀元、棉花、煤炭。一方面是陳雲出手,一方面潘漢年負責經濟情報(周佛海的兒子就干過這方面的事),一方面陳毅元帥維穩,汝等安得不敗……
13.潘漢年長期混跡於花花世界,實際上不會交際那些東西,能跳舞,但不喜歡。無獨有偶,那個和他不太過得去的饒漱石雖然多年混跡於腐朽的資本主義社會,實際上卻是個苦行僧類的人物。
14.潘漢年在上海解放後的一件大功是帶領部下完整接收並整理歸類了舊上海的幾乎所有檔案,有多少呢?一百三十多萬卷。
15.潘漢年有一次被跟蹤後的脫險如同電影般驚險。發覺被跟蹤後從一個關係人的家裡前門進去,直接穿過客廳到了後陽台,脫下外衣、拿了帽子,從陽台上拿了一把大傘跳下二樓,安然脫險。(這房子在坡上,前面是一樓,後面是二樓)。特務們死活沒想清楚他怎麼從這麼���人的圍堵中消失的。
16.湘江特委,白區鬥爭最危險的機關之一。主要領導人沒一個干過地下工作的,從頭自學起。成果相當不錯,領導人是第一任駐印度大使袁仲賢。袁仲賢是黃埔軍校畢業的,抗戰之後才幹了本行。
17.說起宗教界人士,其實閻寶航也是從東北的基督教會起家的。馮玉祥這個基督將軍身邊一樣有佘滌清。但是現在看看基督教會的棒子的滲透,那些宗教局的混蛋都是幹什麼吃的呢?宗教口,本來就不僅僅是民政的問題,還是國安的勢力範圍。
18.想到了七七事變,老是有那麼一些真相黨說是中共乾的,也難怪。您看看,盧溝橋的何基灃、過家芳都是地下黨,何基灃派過去給監督營長金振中的王世江也是地下黨,就一個吉星文是鐵杆國軍,他叔叔還是吉鴻昌。
何基灃1939,過家芳1927(介紹人彭雪楓),王世江1938。後來留下來的張自忠倒不是,可是他的兒子女兒都是。至於他們的老上司馮玉祥,馮玉祥的老婆和閨女都是,都是後來才入的。
1.資格最老的共諜。為人極為低調的張雲逸大將,是共諜中資格最老的。1936年曾往返香港、華南做李濟深等人的統戰工作,時間約幾個月。資格老到了什麼程度?1911年他參加了黃花崗起義。
2.最為長壽的共諜。黃慕蘭今年106歲,現在看來這個數字還可以繼續延長。
3.最會打仗的共諜。這個得是葉帥吧。十大元帥里只有葉帥長期浸淫於情報界,雖然被稱葉參座;大將裡面陳賡當無疑問;上將裡面李克農情報方面沒啥意見,不過沒有打過仗;選一個有上將資格但是沒有授銜的滕代遠吧,他是主管,並沒有親臨第一線過。
4.最悲慘的共諜關露。她失去了幾乎所有的東西:名譽、愛情、自由、文學,卻幾乎什麼也沒有得到過。“春天裡來個百花香……”很多人都會唱,卻不知道是她寫的。終於患絕症後在去世前被告知平反並洗去不白之冤,支開保姆之後,服下安眠藥安靜的離去。
5.最被以訛傳訛的共諜袁殊。他並非是網上傳得神乎其神的五重間諜。實際上它是先叛變了中共和共產國際,然後又叛變了汪精衛和日本人,後來投靠潘漢年是不得已而為之。當然,這一次他沒有再叛變,再叛變去哪兒呢?袁殊自己很清楚,按照他第一次叛變的情況,被鋤奸是正常的。也就是他和胡均鶴解放後在共產黨的監獄裡關著的時候沒那麼多的不平。
6.最讓人難以置信的共諜。中西功和西里龍夫,當然還有在北平等其他地方的另外幾個日籍小組成員如白井行幸、尾崎庄太郎,100%的日本人。尤其是西里龍夫,幾乎不會說中國話,卻是三十年代早期中共最危險的時候入黨的老資格。
7.最可惜的共諜。個人認為張露萍案中的馮傳慶是最可惜的共諜,雖然很多人都未必記得這個名字。為什麼這麼說呢?馮傳慶的職務是軍統總台的報務主任。雖然軍銜不高,但是位於中樞責任重,而且他年齡不大。打個比方,今年台灣羅賢哲的情況和他有些類似,但不如他作用大。羅賢哲案也有意思,實際上早半年多羅賢哲就已經暴露,WW有關部門得到了這方面的情報。但是負責人認為這份情報太重要了,必須歸檔保密,然後羅賢哲又活動了大半年。
8.最漂亮的共諜這個沒法選。上海灘的女演員們有一撥是地下黨,每個人都有自己的標準,只能自己找照片百度之了。比如張瑞芳、陳波兒……
9.最帥的一點疑問都沒有,周公。
來源:國民大參考
原文鏈接:漫談中共地下黨情報史:特務頭子周公操縱全局 - 情系中華
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c3oyama · 5 years ago
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