#実験的にスタート中
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◆forte_forte(フォルテ フォルテ)SPRING&SUMMER SALE開催 30%OFF◆
開催期間:8月31日まで 開催場所:Gallery なんばCITY本館1階店
上記期間まで、forte_forteのSPRING&SUMMER SALEを開催致しております。 多数のショーサンプルを揃え、百貨店よりも遥かに充実したラインナップで、厳選された商品ばかりです。 ブランドの真骨頂に達している珠玉の作品を御覧頂けます。 ボヘミアンやホーボーファッションを得意とする海外ブランドの中でも国内で最も人気の有るブランドです。 このジャンルで有名百貨店で直営店を構える事は非常に稀有な事です。 勿論、本国イタリアにおいても非常に人気が高く、フォロワーブランドが後を絶ちません。 弊社の御得意様はグスタフ クリムトの愛好家の方が多い為、その層に人気です。 是非この機会にGalleryなんばCITY店をご利用下さい。 スタッフ一同、心よりお待ちしております。
【ブランド解説】 フォルテ フォルテ(forte forte)はイタリアのファッションブランド。ジャダ・フォルテ(Giada Forte)とパオロ・フォルテ(Paolo Forte)の2人の兄弟がブランドを設立する。 ジャダ・フォルテはノッティンガム・トレント大学でニットウェアデザインを専攻し、卒業後にパリとイタリアのブランドで働く。 パオロ・フォルテはビジネスを勉強した後、ラグジュアリーブランドと取引のあるファミリー経営のニットウェアブランドで働き、その後ロンドンとニューヨークに移る。 海外のファッション業界での長年の経験を経た後に、ジャダとパオロの2人は自分たち自身のブランド「フォルテ フォルテ」をスタート。 フォルテ フォルテのコレクションは、デリケートでフェミニンなアイテムからなる。 洋服と着る人の間の距離をなくし、真の親密さを生み出したいという願いから、細やかなディテールを深く綿密に追求。 贅沢なイタリア製の素材を用いること、ハンドメイドのディテールが特徴的。 イタリアのみならず、ヨーロッパ各国や日本でも展開している。
Gallery なんばCITY本館1F店 〒542-0076 大阪府大阪市中央区難波5-1-60なんばCITY本館1F 【営業時間】11:00~21:00 【休館日】7月無休,8月24(木) 【PHONE】06-6644-2526 【e-mail】[email protected] 【なんばCITY店Facebook】https://goo.gl/qYXf6I 【ゴルチェ派Facebook】https://goo.gl/EVY9fs 【tumblr.】https://gallerynamba.tumblr.com/ 【instagram】http://instagram.com/gallery_jpg 【Twitter】https://twitter.com/gallery_jpg_vw 【Blog】http://ameblo.jp/gallery-jpg/ 【online shop】http://gallery-jpg.com/
#◆forte_forte(フォルテ フォルテ)SPRING&SUMMER SALE開催 30%OFF◆#開催期間:8月31日まで#開催場所:Gallery なんばCITY本館1階店#上記期間まで、forte_forteのSPRING&SUMMER SALEを開催致しております。#多数のショーサンプルを揃え、百貨店よりも遥かに充実したラインナップで、厳選された商品ばかりです。#ブランドの真骨頂に達している珠玉の作品を御覧頂けます。#ボヘミアンやホーボーファッションを得意とする海外ブランドの中でも国内で最も人気の有るブランドです。#このジャンルで有名百貨店で直営店を構える事は非常に稀有な事です。#勿論、本国イタリアにおいても非常に人気が高く、フォロワーブランドが後を絶ちません。#弊社の御得意様はグスタフ クリムトの愛好家の方が多い為、その層に人気です。#是非この機会にGalleryなんばCITY店をご利用下さい。#スタッフ一同、心よりお待ちしております。#【ブランド解説】#フォルテ フォルテ(forte forte)はイタリアのファッションブランド。ジャダ・フォルテ(Giada Forte)とパオロ・フォルテ(Paolo Forte)の2人の兄弟がブランドを設立する。#ジャダ・フォルテはノッティンガム・トレント大学でニットウェアデザインを専攻し、卒業後にパリとイタリアのブランドで働く。#パオロ・フォルテはビジネスを勉強した後、ラグジュアリーブランドと取引のあるファミリー経営のニットウェアブランドで働き、その後ロンドンとニューヨークに移る。#海外のファッション業界での長年の経験を経た後に、ジャダとパオロの2人は自分たち自身のブランド「フォルテ フォルテ」をスタート。#フォルテ フォルテのコレクションは、デリケートでフェミニンなアイテムからなる。#洋服と着る人の間の距離をなくし、真の親密さを生み出したいという願いから、細やかなディテールを深く綿密に追求。#贅沢なイタリア製の素材を用いること、ハンドメイドのディテールが特徴的。#イタリアのみならず、ヨーロッパ各国や日本でも展開している。#Gallery なんばCITY本館1F店#〒542-0076#大阪府大阪市中央区難波5-1-60なんばCITY本館1F#【営業時間】11:00~21:00#【休館日】7月無休#8月24(木)#【PHONE】06-6644-2526#【e-mail】[email protected]#【なんばCITY店Facebook】https://goo.gl/qYXf6I
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文部科学省「教員不足…そうだ!!」 ↓ 「やりがいをPRしよう!」 「秋に追加募集をしよう!」 「免許がなくても教員にしよう!」 「教員採用試験日程を早期化しよう!」 「退職した教員に戻ってきてもらおう!」 「県外で説明会を開催して魅力を発信しよう!」 「中高生を対象に教員の魅力を発信するイベントをやろう!」 「教員免許をとったけど教員にならなかった人も採用しよう!」 「大型商業施設で教員採用試験をアピールするチラシを配ろう!」 「教員になった人の奨学金返済を免除する方針を新たに盛り込もう!」←New!! 私「教員不足なのは、『過重な学習指導要領による授業負荷に加え、保護者対応、部活指導、膨大な書類や会議への対応等による過労死ライン超えの過酷なタスクを、無賃残業と休日出勤も厭わずこなさないといけない労働環境』が超絶ブラックだという厳然たる事実が明らかになったため、ただでさえ数少なくなった若者から忌避されているからです。 なのに、そんな小手先の対策ばかりにリソースを割いてたら、来年度はさらに教員不足状態からのスタートになりますよ。しかも「新たに」なんて言ってますけど、奨学金返済免除は前に一度廃止した制度を復活させるだけじゃないですか。なんで『労働環境改善』と『給与UP』という根本的な対策をかたくなに無視し続けるんですか」
新田 龍 / X
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今年、20台半ば過ぎにしてついに俺は大学に受かった。具体的に言うと北海道大学の医学部医学科である。俺は昔から医者になりたかった。中学生のときにはもう医者になろうと思っていた。しかし現実は非情であった。俺が高校1年生に上がった頃、俺を女手ひとつで育て上げてくれた母がぽっくりと逝ってしまった。そこで北海道の祖母の元に預けられることになったのだが、祖母はすでに70歳を超えており、さらに軽度の認知症であった。必然的に高校は転校か退学を迫られたわけだが、祖母の強い要望により俺は高校を退学して働くことになった。これが10年ぐらい前の話だ。とはいえ、俺は医者になる夢を諦めるつもりはなかった。祖母の友人のパン屋にて最低時給で働きつつ、少しづつ大学進学資金を貯め、高校卒業認定試験に受かった。しかし19歳のころ、今度は祖母が死亡。俺は天涯孤独の身になった。20代も半ばに過ぎたころ、ついに生活に余裕が出てきたので俺は念願の医学部受験に挑戦することにした。俺はことさら不幸自慢をするつもりはない。と言うか、自分が不幸だと感じたことはない。俺と同じ待遇でのたれ死んでいるやつは確実にいるはずだし、これが俺の標準だからだ。自分の状況に文句を言っているだけでは、明日の飯も食えない。さて、医学部受験の話に移る。俺は北海道に住んでいたので、道外の大学に行くことは資金的に不可能であった。北海道では大昔から医師不足が叫ばれ、コロナ前から自然に医療崩壊していると指摘されて久しいが、その割には医学部が3つしかない。北海道大学、札幌医科大学、旭川医科大学の3つだ。これが首都圏だったならば私立の医科大学という選択肢が視野に入るのだろうが、資金的に無理だった。私立医科大では受験料に10万円近くかかるし、そもそも受かったとしても授業料を借金だけでは賄えない。この仕組みを知った時、「そりゃ、医者の息子は医者になるわ」と思った。俺のような貧乏人は受験料すら払えないが、彼らはガンガン払える。スタート地点からして違うのだ。とはいえ、文句を言っていても仕方がない。俺は北海道大学の医学部医学科を焦点を当て、ついには受かった。1年間集中して勉強に捧げたため、生活費はとっくに底をつき、受からなければ首を吊るしかないという状況であった。当然、入学費や授業料が自前で払えるわけがないので、日本学生支援機構に借金をして入ることとなった。さて、ここでぶち当たったのが「給付奨学金制度」というやつだ。これは比較的最近生まれたもので、生活の苦しい学生に学費を給付するという制度だ。さらに、「給付奨学生」になると国公立ならば大学の授業料が無料(!)になるというおまけ付きだ。なんという良い制度であろうか。俺は早速申し込んだが、却下された。理由は「年齢」である。というのも、この給付奨学金制度では「高校卒業2年以内(20歳以下)」でないと対象外になり、問答無用で失格となるのである。俺は高校卒業認定をとっていたが、これも「1 8歳から5年以内(23歳以下)」でないと対象外。どれだけ貧しかろうと、どれだけ生活に困窮してようと、23歳以上に給付奨学金は絶対的に出ないのである。「それならば仕方がない。なら給付奨学金は要らないので、授業料を免除だけしてほしい」と言ったところ、これも却下であった。なぜならば「給付奨学生」でないと「授業料免除」には���当しないのである。それならば給付奨学金が無い時代の授業料免除はどうなっていたのか?それは大学が独自に学生の収入を元に授業料を免除できていたのだ。その頃には20代、30代だろうが、収入が少なければ授業料免除になる可能性が高かった。しかしながら「給付奨学金制度」が出来たことにより、「授業料免除制度」は「給付奨学金制度」の一部分扱いになり、20代は問答無用で借金をしなければいけなくなったのだ。俺は愕然とした。というのも、ほとんど俺と同じ待遇で医学部に入った5年生の先輩と話す機会があったからだ。その先輩は給付奨学金制度がない時代に20代後半で大学に入り、大学独自の授業料免除制度でなんとか大学に入ることができたのである。彼が卒業するまでは免除対象であるという。これはひどい。いや、ヤバい。不公平感が半端ない。国は「学び直し」を声高に叫んでいるが、これが今の実態である。謎の線引き、謎の境界線。まるでヨーロッパ人に勝手に国境を引かれたアフリカ人のような気分だ。追記:「給付奨学金」は経済的困窮者が大学に行けるようにするための制度だが、果たして高校を卒業してから2年以内に大学に進学しようと決められる困窮者が大多数なのであろうか?経済的困窮者は高校を卒業後、「大学に行く」というメリットがありつつも、働かなければ生活がままならない者が多いはずだ(俺は高校すら行けなかったが)。そういった人々が成人を迎え、「大学に行こう」と決めても、国が一律かつ絶対的に決めた「高校卒業から2年以内まで」という謎の縛りで困っている人はたくさんいるはずだ。そんな気持ちでこの記事を書いた。国に問い合わせて見ると、「卒業から2年以内」を変える予定は無いようだ。「どうして卒業後3年や4年や5年以内ではなく、2年以内なのか」と質問しても「そう決まっているから」としか言われなかった。俺たちは制度の中で生きているので、制度の内容によって人生は大きく変わるし、それは納得できる。しかしながら、「なんとなく」で決められた制度に人生を大きく左右されるのはキツイ。追記2:【これまでの授業料減免制度】大学に収入を報告する↓大学が学生の年齢など関係なく困窮具合を判断↓授業料減免【今の授業料減免制度】日本学生支援機構に給付奨学生として採用される(20歳以上は申し込みが絶対的に不可。理由は不明)↓給付奨学金を受けた人のみが授業料減免を受けられる
大学無償化の年齢差別がヤバい マジでやばい
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Valentine Dinner Show in Kure - Sarah Àlainn Quartet
Valentine Dinner Show - Sarah Àlainn Quartet
2024.2.5 Kure・Hiroshima
丁度呉でのバレンタインディナーショーから一週間が経ちました。
バレンタインにセトリとサラッと舞台裏をご紹介!
Sarah
1. As Time Goes By
2. A Time For Us~永遠の愛
3. Nuovo Cinema Paradiso
Jazz Ballads
4. My Funny Valentine
5. Misty
6. Up-tempo Love Medley
Love to Love You Baby
Lovefool
Can’t Take My Eyes Off You
呉・日本
7. Eidelweiss
8. 無限に広がる大宇宙「宇宙戦艦ヤマト」
9. 糸
Idol/Self-love
10. アイドル
11. Laisse Tomber Les Filles
Europe
12. Tout, tout pour ma chérie
13. Spain
Encore
14. I Wish
15. Can’t Help Falling In Love
16. Lovin’ You
今回は日本の最強ジャズメンとのサラカルという豪華編成。選曲をギリギリまで悩みました。
私にとって初となるバレンタイン・コンサート。
そもそも、私はほとんど恋愛の歌がない。カバーしたレコーディングにも限りあり。
広い意味での愛の歌に拘って来た自分に、バレンタインという課題で悩む悩む。
サラジオでも極力バレンタインの時はラブソングを避けて来た私。
そう、どちらかというと、苦手派。
バレンタインやクリスマスは何かとプレッシャーに感じる。もっと素直に愛を表現したい。愛の記念日なら、先ず自分を大切にしてるか確かめたい。毎日��ロボロ傷だらけにしている我が身。精神的な傷の話ですが、今回のサライブは距離が近く、アッパーな選曲に合わせた足を出すサラスタイルにすると、早速怪我をされてないかと心配されたお便りがラジオ局に。あれは去年フランスの石畳で転んだ時の傷。当初は50倍酷かった。表面でも傷は中々すぐ綺麗に治らないものですね!(写真はメイクと光のせいでほぼ見えない)
さあ、どうするよ選曲。
毎回来られるサポーターさんに新しい作品を見せたいという思いで極力選曲を変えて来ましたが、アルバムの曲を楽しみにしてる方の為に、今までの録音に目を通す。
本当にラブソングが少ない。
しかし、私はシネフィル。映画音楽ならお任せを。
丁度イタリアでピアニストのクリヤ・マコトさんと共演した2曲があるではないですか。オリビア・ハッセーに恋した(私が)、Zeferelli監督の「ロミオとジュリエット」より『A Time For Us~永遠の愛』。ヴァイオリンソロでは狂ったジュリエットを表現してます。
A Time For Us 〜永遠の愛 / Romeo and Juliet
youtube
イタリアのドラマー🥁さんも今でも聴いて下さってるという「Nuovo Cinema Paradiso」から愛のテーマ。
作曲家のAndrea Moricconeの前で生で歌った経験は宝物です^_^
しかし、ロミジュリはアカペラからスタート。せっかくのディナショーなので、客席を通りたい。そうして、せっかくのジャズカルなので、jazzyな一曲から。
Time・永遠の愛繋がりで『As Time Goes By』をチョイス。クリヤさんとの��信ライブで演奏した以来。モノクロ名画で「Casablanca」で流れる愛の歌。
片手にワインらしき🍷ものを、もう方にはマイク。客席を回りつつ、サラッと英語質問。 “Here’s looking at you kid”. この表現を知ってる方は?
近くにいらっしゃった男性は気持ちよく拍手。残りの皆さんシーン。ディナショーでクイズからスタートするこの人の性格って?と思われたのだろうか。
これは名台詞「君の瞳に乾杯」。日本語訳がまた素敵ですね。呉に来てKureた皆様に乾杯🥂
サラの定番曲から次はジャズバラードへ。
『Misty』は近年レパートリーに入れてる曲で、『My Funny Valentine』はお初。どちらも低音でスモーキーなサウンドが醍醐味。ウィスキーに例えるとLagavulinと言うところでしょうか(好きです🥃)。
こう言う気怠く歌��曲は凛と立つよりハイチェアに座って歌うとより雰囲気が出やすい。しかし丁度いい椅子がない。
大好きな舞監さんに、ピアノに寄ってみたら?との一言で、人生初めてのポジションからの歌唱。立ち方、動き方、寄り方、慣れないなりに雰囲気を味わう。
クリヤさんのピアノソロをこんなにじっくり観れる特等席ではないですか。ライブ後クリヤさんから、あんなに近く演奏を見られたことがなく、緊張したとのこと🤣
ビルボードの時もスペースがあればまたピアノと一体になってみたいものだ。
ここからも新曲!MC不要なメドレーですね。
この編成だからオシャレに盛り上げていけたラブメドレー。
最初はDonna Summerの大人の愛の歌から。
オリジナルでは彼女は自分の声を重ねていくので、ルーパーの出番だ!ライブでループした音源とバンド演奏を交互して行くうちに、ループがずれてくるというリスクは毎回ありますが(あまりライブでイヤモニをしないのでクリックが基本ない)、今回は本番で見事にずれてしまいました。く〜〜。おそらくペダルを踏むタイミングが甘かった。またこれはいつかライブでリベンジしたい。
メドレーで一番聞きなれないものがあれば、こちらかな?私はドンピシャ世代。日本では分かりませんが、オーストラリアやヨーロッパではずっとラジオで流れてたヒット。これは現代のロミジュリ「Romeo + Juliet」で大ヒットした『Lovefool』。監督はオーストラリア出身のBaz Luhrmann。歌はスエーデンのバンドCardigans。英語で歌うヨーロッパのアーティストが多くて当時は全て勝手にアメリカかイギリスのバンドだと思い込んでいました。嫌というほどラジオで流れてたので歌う日が来るとは思っていませんでしたが、改めて聞いて楽譜を見ると、面白い転調やふわりがあるシャレオツなポップスだなと。
そしてラストは、自然と手拍子したくなるあの曲。君の瞳に乾杯してからの、『君の瞳に恋してる』。
サビはもちろん、バースもブリッジも全てキャッチー。これも改めて、なんとよく書かれてる一曲!インストのジャージャッジャージャッの部分は腰を振りながらヴァイオリン演奏。意外と筋肉を使う。
元気なラブソングも、悪くない。ライブでは曲の成り立ちや自分の思いを語れる唯一の場でもあるのでMCは欠かせないですが、このような説明不要で体と耳で楽しめる曲がいかに快感か。おそらくお客様にもその楽しさが伝わったかと。ますます、みんなと歌える、動けるオリジナル曲を作りたいと思えてきました。
MCといえば、今回は広島弁や呉独特の言葉もチラホラ。ブログだとイントネーションが伝わらないので、東京以外でのライブに是非!
必ずその土地の言葉で話すようにしてます。
そんな呉と言えば、色々ありますが、私にとっては一目惚れした、こちら。
本番、カリンバを弾きながら、エーデルワイス愛を語った独り言。*呉弁でご想像下さい。
「私は一度呉で野外ライブをしたことがあって。
そこで、一目惚れしました。
その日から、私にとって、呉といえば、たちまち、Edelweiss。生���だから、広島にいても、食べれない
月日を経て、遂にEdelweiss 発祥の地で、ソロコンサートが実現しました!
本日、月曜日…休日!
明日、火曜…休み!
もう、わやじゃ!
幻のEdelweissに、手がたわん。叶わぬ恋のようだ。
ほいでな、ご存知かもしれませんが、Edelweissという歌があります。
オーストリアを象徴する花 Edelweiss 。
Sound of Musicに出てくるこの歌の歌詞。
『小さくて、白くて、私に会えて嬉しそう』
そう、あの時のEdelweissのクリームパイは、まるで私を見上げて、こう言った:
『たべんさい』
ほいでな、そんな、私の片思いが、なんと、呉阪急ホテルまで響いたらしく、奇跡が起こりました。。。*パク*」
サラジオへのお便りでも、何人かがこの場面が1番涙した、良かった、と綴られていました。
私は甘党ではありません。なのにこのパイの味が何年経っても忘れられない。呉阪急の皆様に感��しきれません。
ステージでは一口パクリ。片手でカリンバが弾きづらいは、右利きでないので、本当に一口しかフォークで取れないは。
そして、クリームは歌う前は避けたいもの。しかも次の曲はアカペラで始まるから逃げ場がない。
このタイミングで何かを飲むと間が悪いし、エーデルワイスへの注目が薄れる。舞台では伝わらない、裏サラの以外と大変だった一面。
次の選曲に?されてた方。
呉と言えば大和。「宇宙戦艦ヤマト」もインスパイアされてたと言うことで『無限に広がる大宇宙』。松本零士氏の記念日も近かったですね。
SAYONARA “Adieu Galaxy Express 999” 「さよなら銀河鉄道999 アンドロメダ終着駅」The Infinite Universe “Space Battleship Yamato” 無限に広がる大宇宙「宇宙戦艦ヤマト」| Sarah Àlainnサラ・オレイン
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ラストは定番の『系』弾き語り。
そうだ、こちらも本来ラブソングでしたね。
自分にとっては日本で出逢った方とのご縁を意味する一曲です。呉・広島・日本に関連するメドレーの最後ということもあり、いつもとちょっぴりアレンジを変えました。
【糸】《LIVE》Orchestral Vers.|サラ ・オレイン|カバー|Sarah Àlainn
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エーデルワイスを始め、自分にとってはこの三曲は故郷への愛を意味しています。戦争なんかなくなればいい。こんなに世の中に素晴らしい縁と愛に溢れている。
さぁて、ここから最後、アンコールまでどれもアッパーな曲!生涯で最もエネルギーがあるサライブになりました。
ヒールで自分なりに踊り、筋肉痛の日々が続きました。
沢山涙を流して来たから、こう言う賑やかで笑顔になる曲はスッキリ。クリヤさんも今まで1番楽しくバランスが良いセトリと言われてぶち嬉しい。
日本のメドレーに引き続き、まずは日本の『アイドル』ソングへ。星野アイちゃんの愛の歌!
この曲はテレビを始め、ファンクラブでリクエストされたとんでもない曲。日本語だから尚更難易度がお客様に伝わる=盛り上がる。やります🤣
何とも癖になる。複雑な愛の歌ですね。アニメ「推しの子」お勧めします。ドロドロとした芸能界が垣間見える。今回もJazzyなアイドルをお届け。クリヤさんとはお初で不思議な転調に笑ってました。
続いて丁度50年前のフランスのアイドルの一曲。フランス・ガルが歌う『Laisse Tomber Les Filles』。
いつもとは違う人格になり、気怠くコケティシュな表現に。演じられるからとても好き。
セクシーでキュートなサウンドですが、これはセルフラブソングと言っても良いでしょう。訳すと「女子をなめんな!」。
服装、喋り方、仕草。見た目によらず、中身が強いものをなめてはあかん。ヒールを履かない男性嫌いのフェミニストのイメージ、なくしましょう〜
アイドルといえば。。もう少ししたら一つシェアできることが。。!お楽しみ!!
そして、フランス繋がりで去年生で見に行けたポルナレフ!Tout Tout ! 楽譜は母が70年代の時に買ったもの。
なぜか日本で大ブームだったMichel Polnareff。FFの作曲家の植松伸夫さんも母世代で、ポルナレフを絶賛。きっとリバイバルが来る!と。ライブの時の動画を見せたら一ファンとして「生ポルだ〜」と仰られたのがなんともスイートでした。まだまだ現役で活躍されてます!日本でツアーがあればぜひ行かれて下さい!最高に盛り上がり、声も演奏も美しい。
『シェリーに口付け』して、次で最後じゃけぃ!
FranceからラストはSpainへ!サッカーではありません。
サントリーホールでフルオケとのJazz!LIVE音源があります。Jazzやアッパーな曲は殆どライブでしかやってないため、配信だけでもサラなる進化を共有できたら嬉しい。
Spain <LIVE>
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さて、アンコールへ。さっとバービーサラスタイルに早着替え。因みに本編の赤ドレスはマレーシアで一目惚れした一着。
盛り上げて終わるパターン!去年のビルボードでこのメンバーと初めて歌って演奏したStevie Wonderの『I Wish』。
以来ハマりすぎて、ソロの時その時のライブのテーマに合わせた選曲を入れて行く。
I Wishのウォーキングベースの上からどうやって上手く別の曲をはめていくか。元々短調の音楽の方が乗りやすいので、『また君に恋してる』は意外と入りやすい!
地元ネタの時にたまに演歌を歌いますが、これまた気持ちい。ジャンルが掛け離れていればいるほど、面白いフュージョンが生まれる。
その前には短いリフで、Dreams Come Trueの名曲から「Love, love, love」、Beatlesから「She love’s you yeah yeah yeah」、「All you need is love」。
ラストは会場全員とのコール&レスポンス!舞台上からもしっかり皆さんのお声届いていました。5月のビルボードでもこんな風にまた一体になりたい!!
そう、丁度今年の日本での活動のスケジュールが全て出ました。是非とも盛り上げて最高な思い出を皆さんと作りたい!
また会える日までオリジナルで一体になれる曲を作ってみますね。
サラバンドと楽しく、激しく、ラストを迎えた後、アンコールのアンコールで、サラッとワンウーマンショーへ。
以前ヴァイオリンと歌で動画を撮ったプレスリーの『Can’t Help Falling In Love』。生でも聴��たい!とのことで、初めて披露。
伴奏にはヴァイオリンのPizz。事前に録音したハモリをルーパーから流しつつ歌唱。
Can't Help Falling In Love’
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ディナーショーなので、最後は客席へ。盛り上がる曲はたくさんあったので、最後は一人一人に囁くMinnie Ripertonの『Lovin’ You』。
歌いながら退場。待っててね、エーデルワイスよ。
呉・広島の皆様、遠くからいらした皆様、雪の!東京からいらした皆様、
「Happy」なValentineになりました。
バレンタイン・ヴィーガン・クッキーも無事皆さんの元に届いたみたいで何より!動画もサラッと見れたかな?バレンタインライブで歌ったあの曲もサラッと歌ってます。
私はバレンタインの手作りサラメシとワインのコンビの後気づいたら寝てしまっていて、ブログが今日になってしまいました><
今夜の手作りサラメシ
❤︎白茄子(野菜あまり食べなかった時代から茄子好き)
❤︎ブルスケッタ
❤︎キッシュとクリームシチューの合体?
見た目は崩れてアレだけど、愛いっぱい
❤︎ヴィーガン・クッキー🍪
さて、次のサライブは恒例の八ヶ岳へ。いよいよプロデュースさせて頂いたカリンバを皆さんと演奏できる!
サラ・オレイン天上の音楽
2024年3月16日(土) 14:30開場 / 15:00開演
八ヶ岳高原音楽堂
SARAH ÀLAINN オリジナルカリンバ
台数:限定150台(予定)
受渡:2024年3月17日(日)9:30~ 八ヶ岳高原音楽堂にて
※当日シリアルナンバーNo.1~50迄(予定)の抽選会を行います
木材:八ヶ岳産天然カラマツ
アンバサダー:サラ・オレイン
大自然がお好きな方、落ち着いた、アコースティックスタイルがお好きな方は八ヶ岳がおすすめです。
アッパーで盛り上がるスタイルが好みの方は、Billboardと名古屋で。
#サラ・オレイン#sarah alainn#violin#ヴァイオリン#sarah styling#サラスタイル#Andrea Morricone#モリコーネ#billboard#kure#hiroshima#呉#広島#valentine#クリヤマコト#ポルナレフ#植松伸夫#Nobuo Uematsu#Michel Polnareff#カリンバ#八ヶ岳#kalimba#Sarahband#サラバンド#Youtube#呉阪急ホテル
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The worst scans you've ever seen and transcription of the Persona 3 part of Cut February 2016
田口智久 (監督)
新鋭監督が「『P3』の集大成」に託したものとは
テキスト=清水大輔 text by Daisuke Shimizu
『PERSONA THE MOVIE #4 Winter of Rebirth』1月23日公開、アニプレックス配給 ©ATLUS ©SEGA/劇場版「ペルソナ3」製作委員会
TOMOHISA TAGUCHI
2013年から順次上映されてきた『PERSONA3 THE MOVIE』が、1月23日公開の第4章をもって完結する。PlayStation2のゲーム『ぺルソナ3』(以下『P3』) として2006年に発表され、さまざまなメディアでの展開を経て10年間歩み続けてきた『P3』にとって、文字通りの集大成である。熱心なファンにとって、4章は「伝説級のエンディング」を含むエピソードであり、どのように描かれるのかは気になるところだが、完成した4章はファンにとって喝采を送るべき内容だし、映像作品としても見応え十分の1本になっている。その4章の監督は、新鋭の田口智久。監督として作品に携わるのは同シリーズの2章が初だったという彼は、巨大な期待が集まる重責とどう向き合ったのか、話を聞いた。なお、特集トビラのイラストは、今回CUTのために描き下ろしてもらった、『P3』のファンなら誰もが思い当たる「あのシーン」。正直、かなりグッとくるビジュアルである。テキストとともに楽しんでほしい。
劇場版第4章は、10年続いた『P3』にとって集大成となる作品ですよね。監督を務める側も相当な覚悟が必要だったと思うんですけども。
「まず、『P3』の2章(『#2 Midsummer Knight's Dream』)が初めて自分が監督をやらせてもらった作品で、そこでできたこと、できなかったことがけっこうあって。なので、すごく個人的な理由ですけど、できなかった部分を挽回したい気持ちがありました。あとは、集大成にしなきゃいけない作品なので、プレッシャーも非常にありましたし、この作品は自分が演出、そして監督になってからの集大成にしたい、と思いながら作っています。『P3』は終わり方が伝説級の作品なので(笑)、それを超える感動を与えられたらいいな、と。自分も『P3』の終わり方が好きなので、その印象はきっちり伝えたいと思いました」
制作中の感触として、「こういうものが観たい」っていう欲求に応えられる、そういう作品が作れているという手応えはありますか?
「そんなに外しているつもりはない、とは思ってます(笑)。ただ逆に言うと、たぶん自分ではなく別の方が監督であっても、そこはそれほど変わらないんじゃないかなっていう気もします。自分が監督でなくても、きっと最後にはみんな泣いてくれるだろうとは思うんです。そこに至る感情をどれだけ高められるかが大事で、それが自分の仕事だと思ってます」
確かに『P3』の場合、「原作を大事にする」っていう軸は誰が監督でも一緒だと思うんですよ。原作に寄り添うことは必須なわけで。
「そうですね」
そこで、田口さん自身が「自分だからこそこういうアプローチができた」と感じているポイントを教えてほしいんですけども。
「ちょっと、ツッコミがすごいですね(笑)。ひとつには、自分が描くコンテはあまりアニメっぽくないかもしれないな、とは思います。どちらかと言うと実写っぽいと言われるんですけど、そういうところが『P3』の雰囲気に合ってるのかもしれないです。実際、3章と比べると相当違うような気がしていて。3章はアニメーションの作り方としてはすごく王道で、誰が観ても『これはいいアニメだ』と思える作りになっていると思うんですね。4章では、アニメに限らず昔の実写映画だったり、最近の映画の断片を寄せ集めてスタッフにイメージを伝えたりしていて、『あの映画でこういう表現があったから、こんな風にできない?』って いう発注をしているので、そういうところで、ちょっと実写っぽい感じはあるかもしれないです」
たぶんそこは観る人にはっきり伝わるものではないと思うんですけど、質感としては確実に残っていきますよね。今回はそのやり方がハマるのではないか、という確信が田口さんの中にあったんでしょうか。
「そうですね。たとえば、今回は光の表現にもすごくこだわっていて。極力フラットな光は避けていろんなところに照明を仕込んで、光と影で画面を作ろうっていうのはすごく意識しました。あとは、今回雪を降らせようと思ったんですけど、暗い話の中で心情描写のシーンを描くときに、すべてをセリフで言っちゃうのは興がそがれるというか、軽くなっちゃうんじゃないかなと思っていて。黒澤明監督がそんな風にやっていたっていう話を聞いて、自分もやってみようかなと(笑)」
(笑)モの手法も、『P3』のラストを描くときにこれがハマるはすだ 、という 確信があったと。
「そうですね。それできっちり成立するだろうっていうのは、確信的ではありました。『P3』の『死を想え』というテーマを描くにあたって、リアリティは欠かせないだろうなと思っていて。アニメっていう媒体自体はわりと抽象的ですけど、アニメとリアルな表現がバランスよく合わさった状態は、『P3』という作品にすごくマッチすると思ってます」
「ミヒャエル・ハネケの映画みたいな感じにしたい」って思った
キャラクター描写についてですが、3章で修学旅行のシーンがありましたよね。池に落ちた主人公の理が心の底から笑う表情が描かれていて、そこは4章立ての劇場版の中でも象徴的なシーンだと思うんです。
「そうですね、僕も最高に象徴的なシーンだなと思ってます」
4章では彼のその後を描くことになるわけですけど、その上で考えていたことは何ですか?
「『P3』自体、理の物語として描かれてはいるんですけど、まず1章の理は死んでる状態からスタートするんですね。そこからスタートして、1章で仲間を得て生に目覚める。2章でさらに仲間が加わっていろんなことも経験して、今度は生きるということに目覚める話になっていて。3章では再び失って、4章はそこから立ち上がる話にしようっていう、全体としては理の成長を描く構成になっていました。4章では-これは具体的なセリフとしても出てくるんですけど、自分の含量で『俺は生きることを始められたんだと思う』っていうことを彼に言わせる、そこに至るまでをどう描くかが、4章の理のテーマなんです。それを言わせるのに、非常に苦労しました(笑)。1章の頃は『理ってどういうヤツなんだろう』っていうところも手探りだったので、そういう意味では、3章までを経てキャラクターが定着してきた感じはあると思います」
実際、1章の理の無気力さは原作以上だと感じましたけど(笑)。
「ははは。でも、1章は青春ものというか、けっこう爽やかな映画になってると思うんですよ。(1章の監督の) 秋田谷 (典昭) さんは『俺がやると “中学生日記” みたいになるんだよね』って言ってましたけど」
なるほど。では田口さんとしては、ご自身のフィルムは何みたいになったと感じてますか?
「何みたいになってるんだろう⋯⋯僕、(黒澤明監督の)『赤ひげ』が大好きで、作ってる最中にやたらと観てました(笑)。画面のレイアウトもキメッキメで、超カッコいいんですよ-4章を作るとなったときに重い感じにはしたかったので、ふと『ミヒャエル・ハネケの映画みたいな感じにしたい』って思って」
これはディープな名前が出た(笑)。でもすごくわかります。
「ハネケ、好きなんですよ(笑)。ああいう、心にズガーンってきて『重つ!』てなる、そういう感じにしたいなってちょっと思ってました」
4章構成の中で『中学生日記』的なものとハネケ的なものが共存できていること自体が驚きですよね。ものすごく懐が深いというか。
「それだけ包容力がある作品だということですよね。しかもそれがすべて『P3』としてちゃんと成立してる。そ��はすごいと思います」
田口さんにとって「『P3』とはこういうものである、こうあるべきである」という定義があるとすれば、それは何ですか?
「『P3』には『メメント・モリ (死を想え)』っていうテーマがあって、一般的には死を描いた作品に見えていると思うんですけど、自分の解釈はその逆なんです。どちらかと言うと死ではなくて、生きるとはどういうことなのかを描いている作品なんじゃないかと思っていて。特に4章では、生きる上で非常につらい試練がやってきて、それを受け止めなければならない。そしてそれを受け止めた瞬間に、自分たちは生きているんだってきっちり実感することが大切なんだっていうメッセージを込めたいんですね。今、生の意味を問う作品だって偉そうに言っちゃいましたけど、そういうことを自分が語ってもいいんだろうか、と感じながら作っているところはあります。だから、どうかやったらほんとに伝わるだろうかっていうことは常に気にしながら作っていて、この4章が完全な答え、というわけではなく、今自分が出せるひとつの結論として、そういうメッセージを込めている、という作品になってると思います」
石田 彰
出会いから10年。磨き続けてきた「宝物」へのメッセージ
テキスト=清水大輔 text by Daisuke Shimizu
AKIRA ISHIDA
前ページでも書いたとおり、「PERSONA3 THE MOVIE」の第4章は、このシリーズの集大成である。劇場版では結城 理という名前を与えられた主人公を、原作の『ペルソナ3』から10年にわたり演じ続けてきた声優・石田彰にとっても、「彼」を演じるのはこれが最後。昨年4月号に掲載した3章公開前のインタビューで、石田は何者でもない存在だった「彼」に「薄い色を何回も何十回も重ねていった」という話をしてくれたが、劇場版4章における理は、仲間たちとの触れ合いを経て確かな自我を獲得し、自らの意思と言葉で生きることへの欲求を表明する。体温が感じられる、ひとりの人間として存在しているのだ。「彼」をここまで導いてきたのは、これまで『P3』をずっと支持し続けてきたユーザーの愛情であり、少しずつ、しかし着実に生命を吹き込んできた石田の演技である。10年間ともに歩んだ「彼」に、今想うこととは。
コロマルの女子人気は異常に高くて、ちょっと嫉妬する(笑)
劇場版の4章は、『P3』という作品にとって集大成となるわけですが、石田さんはどのような気持ちで収録に臨んだのでしょうか。
「もう、最後ですからね。作品自体もこれでおしまいということなので、 悔いが残らないように、有終の美を飾れるように、というところで、空回りしてもしょうがないので、気合入れすぎてもいけないんですけど、『頑張ろう』と思って臨みました」
台本を受け取ってみて、たとえば「この部分がしっかり描かれていて嬉しかったな」と感じたポイントはありましたか?
「それぞれのキャラクターが、残された時間で自分は何をするのか、どう向き合うかっていうのを描いていたところは、そのキャラクターが好きな人にとっては外せないところでしょう。実際、『らしいな』っていう行動を取ってたりするのがとてもよかったと思います」
前回、昨年の4月号に掲載した劇場版3章の特集のインタビューで、石田さんは4章に向けて「お客さんを泣かせてやろう、というスケベ心を出さないようにしよう」と言っていて。
「はい(笑)」
なるべく抑えてやらなきゃいけ ない、とはいえ最後ということもあって石田さんの中に湧き起こってくる感情はあったのではないか、と想像していたんですけども。
「実際にやってみると、そんなことを考えなくてもよかったです。泣かせてやろう、と操作をする余裕もないというか、こういうことを表現しなければいけないっていうことがすごくはっきりしているシーンの連続なので、観てる方が結果泣いてくださったらもちろん嬉しいんですけども、そうやってイヤらしいことを考えなくても自然とそういう流れになるし、やってる側にしても物語の流れに乗っていくのがベストなんだ、と感じられる密度の濃いお話でしたね。台本を読んだ時点で、余計な小細工をしようっていう考えはすっ飛びました」
なるほど。ただ、4章はかなりエモーショナルな話であって、『P3』の主人公を長く演じてきた石田さんの気持ちも動くところはあったと思うんですけど、石田さんの心情 面が反映された部分はありますか?
「今作までの3章を演じてきたことで、自分の中で育った理の考え方というものが最終的に表れていると思います。これまでの3章があったおかげで、それが自然に身につけられたっていう感覚はあります。彼は、自分がしたいこと、主張したいことが自分でもはっきりとわかったんですね。最初はぼんやりと『こうするのがいいんだろうな』みたいな感じで、『なんで?』って言われると『うーん、だってそうなんじゃないの?』としか答えられなかったのが、自分の中ではっきり主張できる理由ができたっていう」
ちなみに、いちファンとして気になるところなんですけど、今回の収録現場で、印象に残っているエピソードはありますか?
「とにかく収録中はコロマルの人気 かすが高いで���ね。コロマルの女子人気は異常に高くて、ちょっと嫉妬するくらいで(笑)。僕は理と綾時だけじゃなくて、他にもいろいろクレジットされていたりするので、香盤表を見て『大変だね』っていうのは挨拶代わりに言われてました(笑)」
4章の中で、特に理とエリザベスの会話が印象に残っていて。そこで『仲間と過ごして、俺は生きることを始められたんだと思う』というセリフがあって、原作では主人公の 心の動きは表現されているけれども、実際にはこういうことを明確な意志を持ってしゃべることはなかったじゃないですか。原作が好きな方にとってはものすごく感動するというか、彼が自身の変化を口にするすごくいいシーンだと思うんですけど、石田さんはどのようなことを考えながら収録しましたか。
「劇場版は1章から4章まで段階を追ってだんだん彼自身のやりたいことが明確になってくる、そのために必要な仲間とどう付き合っていくのかっていうこともはっきりと見えてくるっていうお膳立てが、しっかりとされていて。だから僕としては、そのセリフはすごくわかりやすかったし、すごく自信を持って言えることだよなあ、って思いました。なので、収録するときも当たり前のセリフとして言ってましたね。言いやすいというか、無理なく言えるセリフでした」
石田さんはこれまでのキャリアの中でもこういうシーンを演じ��経験があるのでは、と思うんですけど、その経験をどう活かしましたか。
「特に具体的にはないですけどね。自分の経験のどこかを探せば自分が決断をしたポイントもあるんでしょうけど、でもそれをアンプを通して増幅したとして、このシーンの理の心の動きと似たような形になるかといえば、違う気がします。こういう、ある意味突拍子もない事態の中で表現するときは、そうそう経験値だけには頼れないし、想像しないといけないんです。ただ、その想像をするときに、まったく想像もつかないことをいかにも整理がついたようにしゃべるのと、『うん、わかる』と思いながら言うのとでは、やってる充実度も結果も全然違います。今回の理については、自分の発想がちゃんと物語に追いついてました。今回に限らず、『P3』は僕にとってちゃんとできた作品というか、嘘をつか xずにできた作品だと思います」
では、今回の収録で理としての最後のセリフを言い終えたときは、どんなことを感じましたか。
「最後、理はセリフがないんですよ。アドリブ的な息遣いだけなので。台本に書かれていない息遣いを入れるか入れないかは自分の中で演出をつけた上で現場に臨むんですが、そのシーンではみんなが盛り上がってくれているので、そこに一言、セリフとして参加したいとは思いました(笑)。それこそ、スケベ心以外の何物でもないですけど」
(笑)。
「でも、結果何を言っても蛇足にしかならないだろうなって納得して。そこでただひとこと、『みんな⋯⋯』とか言ってみたところで(笑)、『まあ、ないほうが美しいよなあ』と自分でも思いますし」
ただそのスケベ心は、間違いなくみんなが求めているスケベ心だと思いますけどね(笑)。
「ははは。でも作品としての完成度を高めるためには、たぶんそれは切るべきなんですよ(笑)」
『P3』は僕の経験値をすごく上げてくれた、いい宝物です
(笑)今回、劇場版のラストとなる4章まで演じきってみて、石田さんから理にかけてあげたい言葉は何ですか?
「いい仲間に出会えてよかったねっていうことですかね⋯⋯それじゃダメですか?(笑)」
ダメじゃないです(笑)。前回のインタビューで、ゼロの存在である彼に薄い色を何度も重ねていく、塗り残しがあったらそこに色をつけていく作業だった、というお話をされてましたよね。塗るべき色は第4章で塗り終えるわけですけど、塗り終えたあとの彼は、石田さんから見てどんな姿をしてましたか?
「ちゃんとした個性を持っていて、はっきりと輪郭もできた人間に見えてると思います。完成形まで持ってこられたのは4章に入ってからだと思いますけど、3章の頃にしても、1章に比べれば、薄ぼんやりしてたものがだいぶはっきりと見える感じにはなってきてたと思います」
この4章を最後まで観ることで、はっきりした彼の輪郭を感じることができるわけですね。
「そうですね。『もっと生きていたい』とか『この世界を終わりにしたくない』という主張をするところまで彼を持ってこられたときに、しっかりと見える形になったんだと思います。あとはその形になった勢いのままで、ダーッとラストシーンまで突っ走っていくっていう」
わかりました。では、最後にひとつ教えてください。石田さんが演じてきた彼は、この10年の間でゼロの存在だったところからどんどん肉体化��れてきました。劇場版のラストである4章まで演じた今、声優・石田 彰にとって『P3』という作品はどんな存在になりましたか。
「『P3』に限らず、キャラクターの成長はいろんな作品で描かれるものであって、それが物語作りのひとつの醍醐味だと思いますが、『P3』のように長い時間をかけて、ゲームからドラマCD、劇場版映画と、何度も主人公、結城 理っていうキャラクターをやらせてもらったことで、こういう生き方の人間というものが、僕の中でよりはっきりしました。観ていただけたらわかる通り、彼は普通の人ではないです。普通の生き方をしていて理解できる人ではないので、物語に出てくる登場人物として想像するしかないんですけど、でもそれが『物語に出てくるありえない人』ではなくて、名前がついて肉体を持ったひとりの人間になるところまで到達して、それを実感を持ってやることができました。なので、僕の経験値をすごく上げてくれた、いい宝物になったと思います」
#persona 3#p3#i tried...#its so funny looking at p3 movie content now#its all like 'its over no more p3'#ha
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ダイハツの第三者報告書にあった下記8つの状況がブラック企業あるあるで、かつ身に覚えがありすぎて笑えんのよ ①試験は合格して当たり前。不合格となって開発、販売のスケジュールを変更するなどということはあり得ない ②日程に間に合わないと感じ手を挙げると「なぜ間に合わないのか」「どうしたら間に合わせられるのか」「今後どうするのか」の説明に追われる ③問題が起きた時の「で、どうするの?」といった、問題を発見した部署や担当設計、更に言うと担当者が解決するのが当たり前という組織風土 ④ 「失敗してもいいからチャレンジしよ」でスタートしても、失敗したら怒られる ⑤助け合う風土は基本的には無い。またそのような環境にあるため「既にスキルを持った人間(=一般的にいう「できる」人)」への負荷が大きく、逆にそれに当てはまらない人間に対し安直に使えない扱いをする傾向にある ⑥なんとか力業で乗り切った日程が実績となり、無茶苦茶な日程が標準となる ⑦管理職は表向きは『何でも相談してくれ」というものの、実際に相談すると、「で?』と言われるだけで相談する意味が無く、問題点を報告しても『なんでそんな失敗したの』『どうするんだ』『間に合うのか』と詰問するだけで、親身になって建設的な意見を出してくれるわけではない ⑧社員若手社員の定着率が悪くこれからの担い手が育っていないことで中堅層が薄く、若手とベテランが多くなってる
ダイハツの第三者報告書を読んだが問題の状況がブラック企業あるあるでかつ身に覚えがありすぎて全く笑えない「弊社かな」「テンプレに使えそう」 - Togetter
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「> 中堅層が薄く、若手とベテラン」は「ベテラン」以外の用語がふさわしいような。
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ラジコン備忘録 2024/9/15
Miniz-Cup 2024 Hokkaido Day.2
レース編2日目。これでラストです。
朝起きて、着替え・チェックアウトの準備。大会の日は絶対に赤い靴を履くという決まりにしています。赤い靴を履くと良い成績が残せると誰かが言い出したことがキッカケ。それ以来、仲間も赤い靴を履きだしたのでぼくも戦闘服の一部に。普段の生活ではジンクスとかあまり信じないんですが気合の入った勝負では大切にしています。
ホテルをチェックアウトして、まずはエナジーチャージ。大会の朝はエナジードリンクで気合を入れています。いつもはモンスター派だけど、特別な日はレッドブル。
開場20分前。意外と並んでますね。
本日の陣形。一応、2日目も本気で挑むつもりです。前日の感触を元に少しだけセッティング変更。フロントタイヤ外径を少しだけ上げて、リアタイヤは前日と同じ柔らかいコンパウンドを選択。柔らかいタイヤはあまり用意してきていないので、手持ちの在庫だとタイヤ交換ペースを考えると1日持たないと思っていたら、提供してくれる人がいたので助かりました。
練習走行。相変わらず路面グリップが低すぎ。昨日の決勝レースではある程度上がっていましたが、一晩経って元通り。今日も苦戦しそうです。とはいえ、今日は昨日よりも速度域の遅いカテゴリー。スロットルジャイロは低めで行けそうです。
自分の出番の合間に仲間の走りを応援。2階から、あーでもないこーでもないと言ってます。色々とアドバイスしていた人が何人か全国権利とれて良かった。
予選1回目。2日目も1回目は微妙ですね。後列グリッドでスタートだったので、スタート後3番手についた形。1位に離され、追い上げようとするも2位の処理に手間取っていたら離されました。とはいえベストラップは一番出ているので、車の仕上がりは申し分なし。
予選2回目。スタートで少し出遅れて順位が下がりますが、その後2位をパスして1位浮上。タイム差も3秒あったので、ノーミスで決めたい気持ちでクルージング走行に切り替え。2回目はトップゴールでした。しかしながら、予選1回目の1番手タイムの方が速かった模様。
予選順位は2番手で確定です。昨日からの流れでトップタイムを刻みたかったですが、決勝で巻き返しを狙います。依然として路面グリップが低くて苦戦しているものの、それはみんな同じ条件なので気にしていません。
決勝前にコースを再度確認。路面の凹凸が大きいところ、グリップ感が変わりそうなところを確認。正直、見るだけじゃ分からないのでハッタリです。ラジコン業界においてソレっぽさはかなり大事です。
カメラも持って行ったので撮影してみました。スケールスピードが速すぎて腕もAFも追いつきません。会場も暗いので、ISO6400にしても絞り開放でSS1/250ほど。正直この被写体、1/1000くらいじゃないと止まらないので流し撮りに徹していました。AFが追従しきれない流し撮り、非常に難しい。お世話になってた人のマシンだけ撮って早々に諦めます。
決勝Aメイン8分レース。
2番グリッドから、スタート直後は順位を維持。序盤で1位のミスがあったためすぐにトップに浮上。後ろとはタイム差5秒。
3番手以降はペースが違うため、僕と予選トップ選手だけの一騎打ち。僕は残り6分をトップ維持しなければなりません。
ここで問題になるのが、相手がかなりの強豪ということですね。昨シーズン全国3位の実力の持ち主です。とはいえ、僕も負ける気はないので超ハイペース。タイム差5秒を使い切ってもいいのでトップゴールすれば��いだけです。
差が広がる訳でも縮まる訳でもない、僕にとっては一番気持ち悪いペースで後ろは走っています。そんな展開が5分くらい続きました。
残り2分くらいになって、後ろとのタイム差が縮まり始めた...。こちらはリアタイヤがタレてきた感触。超ハイペースだったので、リアタイヤの負担が大きすぎましたね。普段のタイヤだったらタレることはありませんが、柔らかいタイヤを使っている影響ですね。コーナー立ち上がりでリアが踏ん張らなくて、内側に巻く感じ。そんな挙動なので最後に何回かミス。
残り30秒、後ろとのタイム差は0.5秒。ガチンコバトルです。踏ん張り切れるかの勝負どころ。このままだと抜かれてしまうのは目に見えているので、インをガッツリ占めてブロック。挙動が安定しなくなったマシンでそんなことしているので案の定インにヒットするミス。2番手に後退。
残り20秒、トップとのタイム差0.2秒で何かできることかといえば、死ぬ気で攻めることですね。ここで攻めなくて2番手なら、一か八か攻めて最後のチャンスを狙います。一度インに差し込むものの、角度が悪い。もう一度チャレンジしたところ、攻めすぎてミス。8分経過。そのまま2位ゴールです。
レース直後、1位選手と今回の展開について話していました。予選の走りから、僕が柔らかいタイヤを使っているのに気づいて最後にタレるのを予測していたみたいです。だから中盤で勝負に来るよりも、終盤で追い上げて勝負に行ったとのこと。中盤までタイヤ温存の走りで、最後に一気にタイヤライフを使い切るさすがの作戦。また今度の機会に要リベンジですね。
2日目は初日に比べれば少しモーターが遅いので、その分余裕だと思って制御をカットしたのもタイヤを痛める原因だったかも。少しずつの空転でタイヤが減っていたのかもしれません。
決勝2位の賞状と、意外なことにコンデレ賞をもらいました。その日に一番イケてるボディの賞ですね。コンデレってベテランのペインターが貰うイメージで、全く狙っていなかったのでビックリでした。
予選2回目でトップゴールした後、車検終了マシンを取りに行くときにコンデレって言われたんですが、これが心臓に悪い。
予選で速いマシンはモーターの回転数も測られるわけですが、車検後に呼び止められると、車検アウトの可能性が大です。そんな状況なので、呼び止められて車検アウト・記録抹消なのか不安になっていました。(過去に一度車検アウトになったトラウマも?) 車検アウトか~なんてヒヤヒヤしていたら、コンデレなんて予想外のことを言われたので頭が展開に追いつきません。非常に嬉しい限りですが...。
最近はコース上での見やすさとオリジナリティを考えてオレンジベースのペトロナスカラーで塗っていますが、他人から見てカッコイイかは分かりませんでした。こうやって公式にイケてる賞をもらえるとなんだか自信になりますね。
翌日は片付けを兼ねてホームサーキットに行って諸々の挨拶。
大会に参加していた本州からの遠征組も走っていました。大会でよく走っていた我がマシンをぜひ見たいということだったので、試走もしてもらいます。マシンの完成度の高さに驚いていましたが、そりゃ~今年一年でこのサーキットを少なくとも2万周は走っているマシンですから当然。足回り細部の写真も撮って、満足して帰ったみたいです。
オリジナルカラーのボディも増えてきたので整理。全部同じように見えて仕様が違う...。
そんなわけで、今回の大会では賞状を3枚貰いました。
ここまで結果を残せるとは思っていなかったので、本人が一番驚いています。2日目カテゴリーの方が練習時点では気合は入っていましたが、やはり1日目のポールトゥウィンというのは特別に思い入れが深いかも。地区大会でもポールトゥウィンというのは本当にごく僅かのエキスパートしか獲得できないというのが僕の考え。それに加えて最速クラスのオープンクラスで獲るというのは訳が違う。腕・マシン・運の全てが揃っていないと難しい。本当に嬉しかったです。
以下、後日酒呑みの感想......
去年は北海道大会2カ月前からラジコン練習を再開していましたが、今年は1カ月前から再開。そんなに準備の時間があるとどうしてもダラダラしてしまうからね。結果的には1カ月でちょうど準備万端まで持っていけました。ここ1年で抑えるべきところ、後回しにして良いところがよくわかったというのはあります。
表彰台に上がって、全国大会の権利が取れる状況でも今年は権利を譲ることに決めていました。結局、一年を通してラジコンするモチベーションは無いし、あまりガチでやると面倒なことも増えると感じているから...。それなら、本気で行きたい人に譲った方が幸せだと思って権利を譲りましたが、2日間とも知ってる人に譲ることができて良かった。一度全国大会は経験できた訳だし僕の性格上、次はきちんと腕前を上げてからチャレンジしたいしね。
今年は2月の全国大会に始まり、ラジコンという趣味に対して距離が近くなりすぎて、フラストレーションが溜まったり義務感でやっている瞬間が度々あった年なので、また気が向くまでお休み。やっぱり趣味なんだから、楽しい瞬間の方が多くないとね。適度な距離感で楽しむ方が僕には合っているのかもしれません。ホームコースには忘れたころに顔を出す程度で、ガチでやるのはまた今度。来年の北海道大会にできれば良いかな。
それでもきちんと結果が出たので今回の北海道大会編、終わってみれば楽しい1カ月でした。大人になってもガチンコで勝負できる環境があって、それに結果も伴ってくれば良い経験になります。今回もいろんな人のアドバイス・サポートがあって大感謝。
Miniz-Cup 2024 Hokkaido編おわり。
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8月11日(日)
一日中、実家に居た。洗面台の汚れと床にふわふわと落ちている猫の毛玉が気になり、掃除。祖母家の猫は大丈夫だけれど、実家猫に対しては何故か強くアレルギーが出てしまう。猫パワーが強過ぎるのか?目が痒いと何にもできない。朝、黒糖ロールパン1つ。昼、冷凍のドリアと赤ワイン?と梅酒が混ざってる異様に美味しい不思議なお酒(サッポロの『3種のポリフェノール赤梅酒』)夜はあったかい蕎麦を。日記を更新したり、企画を考えたりなどなど。思い返せば具体的に企画内容を決めたり、まとめたのはこの日だった。(『67号室の秘密』)実家の私の部屋は母の部屋になってしまっているけれど最近、無印良品のソファーベッドがこの部屋に導入されたことにより、昔の自分の部屋のように寝転びながら作業をすることができた。考え事をしたり、本を読んだり、文字を書くときは寝転ばないと集中できない。この部屋から全ての思考がスタートしていると言っても過言ではない。その時の感覚を思い出した。
8月12日(月)
朝、マフィンに卵とチーズを挟んで食べた。お昼は妹が作った焼うどん。銀色夏生の『偶然』を読了。知っている詩がいくつかあった。夏生さんの詩は緩急とリズムが良い。夕方から予定があり、父に駅まで送って貰った。父の凄いところは何があっても時間をきっちり守るところだなって思う。時間潰しのためにブックオフへ行き、夜ご飯はスープストック。グリーンカレーと台湾出汁なんちゃらと少なめご飯。スープが二つだとあっさりお腹がいっぱいになる。CCさくらを観た。ミッドランドのドーナツを初めて食べて感激。ふわふわでとても美味しい。次も絶対ドーナツを食べると心に決めた。寧ろ、ドーナツを食べるために映画を観ようかとすら思う。CCさくらは言わずもがな素晴らしい作品。新たな気づきをインスタに書いた。この日辺りからSNS無理だな症候群から解放されつつあり、積極的に投稿を始めた。インスタとの和解。兎も角、自分のことを見失うことがなければ悪い物ではないはず。
8月13日(火)
ノン氏とロイホ。キノコのパスタをセットで頼んだらお会計が2,400円になってしまって焦った。全くそんなつもりではなかった。1,100円になるのかと思っていたら、それがセットの値段だった。キノコのパスタはキノコのパスタの値段だったのだ。ロイホにしてはお得すぎると嬉々として注文してしまっただけに、寝耳に水って感じでショックをショックと捉える隙がなかった。いくらのジュレ、サラダ、オニオングラタン、スイートポテト、ドリンクバーのお茶や珈琲全部美味しかった。値段をもしも知っていたら食べられなかったということになる。そう考えると幸せだったんじゃないか?と思える。新しいイベントへ向けての話し合い。話が進み早速、現地の外観の下見。9月に予定が詰まっていた為、開催日はどうしても8月中が良くて、8月31日に決まった。ここまで短い準備期間で企画を組むのは初めて。通常であれば2ヶ月ほど前から始める。異例中の異例。どうなることやら。下見を終え、一休みをするためにロイヤルへ。ロイヤルからのロイヤルとボソッとノン氏が呟いて、妙にツボに入ってしまった。バニラアイスが暑くて疲れた身体によくしみた。
8月14日(水)
お墓参り。早朝だった為眠たくて仕方なかった。その後もずっと眠たくて、無理矢理外出。図書館に行ったら入り口のところで人がずらっと並んでいて、なんで?と思ったら、まだ営業前だった。図書館に入るために並ぶということを初めて経験した。人生何が起こるかわからない。図書館へ来たものの、借りていた本を全く読み終えられていなかった為、椅子に座ってしばらく読書。その間も眠たくて、うたた寝。集中できず返却。スガキヤへ。見慣れない『ワンタンラーメン』というものがあり、え?と思いながら注文。大きめのワンタンが5つくらいわんぱくに浮かんでいた。しれっと参入していたワンタンラーメン。今後果たして愛されていくのであろうか?ワンタンラーメンの行く末を案じている間に完食。そして、先日ゲットしたクーポンを使おうと思い、お目当てのドトールキッチンへ。かぼちゃのタルトと沖縄黒糖ラテ。ケーキセットにしたら結局クーポンは使えなかった。かぼちゃのタルトは常に美味しい。ほのかにりんごの味もする。何かでSaToAのメンバーのうちのお一人がドトールではかぼちゃタルトを食べるという話をしていた気がする。その話を知ってからSaToAのこともかぼちゃタルトのこともより好きになった。沖縄黒糖ラテはドトールの最高傑作だと思っている。これを超える癒しドリンクにはまだ出会えていない。というか、地名さえ入れば大体全て美味しそうだなと思う。ドトールを出たのち、再び図書館へ。今度は初めて行った図書館だった。小さいのであまり期待していなかったけれど、小さい分本を探しやすくてよかった。大きければいいってもんでもない。そこで、くどうれいんさんの本を見つけられてラッキーだった。読んでいく内に元気が出てきた。生活をちゃんとしたいという気持ちになり、バスを使わず歩いて帰宅。お盆ということで従姉の家族が大集結していた。私の分のお寿司と揚げ物と和菓子とケーキがずらっと並んでいて「誕生日みたい!」と思わず言ってしまった。従姉とは定期的に会うようになり、会話を交わす時間が増え、価値観が似ていることがわかり、数年分の気まずさが解消されつつある。良いことだなと思う。
8月15日(木)
もうすぐ手帳を書き終えてしまう。来年の手帳はどんなものにしようかなと考える時期になってきた。心配しなくとも時間はちゃんと流れていく。前の職場の給与が振り込まれ、お金の整理をしていたら節約意識が高まった。RECによる出費がかなり大きい。無駄に使えるお金なんてない中でいかに工夫して楽しむのかが重要。お金を生み出す仕組みも考えていきたい。まずは部屋の片付けと基本を大切に生きてみよう。
8月16日(金)
会場の下見と練習日。良い場所だったなと思う。駅近でこういう自由に使えるスペースがあってよかった。隈なく探すと見つかるものなんだな。恐らく今後もこちらでお世話になる予定。理想はやっぱり自分たちの場所を作ること。それに向けて面倒だなとか思うことから目を背けずに動いていきたいなと思った。暑くてどうしようもなくて、練習後すぐに帰宅。バスを待っている間にお土産で貰った『ふところ餅』を食べた。国産米粉使用ということでとてもおいしかった。空腹感に支配されずにバスを待つことができた。好みを熟知されているということはすごく嬉しいことだ。帰宅後、説明動画の編集を開始。夜遅くに就寝。
8月17日(土)
『67号室の秘密』の発表日。朝から説明動画の編集の続き。それからフライヤーと説明画像の編集。短い期間の中でロゴ作りを担当してくれたはんどまりくんには頭が上がらない。こんな無茶振りを引き受けてくれてどうもありがとうという気持ち。見た目の可愛さだけでなく、意味もしっかりと込められていて、イメージの共有がスムーズで毎回とても助かっている。ありがたや��改めて依頼してよかったなあと思う。開催日の場所の確保のために思い切って管理者の方に電話をしたら、向こうの尊敬語が移り、変な話し方になってしまった。つくづく電話が向いていないなあと思った。それでもなんとか場所をしっかり押さえることができて、無事にイベントの発表もすることができた。インスタ投稿をするために文章を書いていたら、活動を続けていく中で自分がふわっと思ってきたことがスルスルと言語化されていって書きながら、なるほどなってなった。手を動かすって大切だ。これは人間にしかできないことだなと思う。
8月18日(日)
お盆休み最終日。あっという間だ。悲しみに支配されないようにこの日記を書こうと思った。思い返せば随分と溜め込んでしまっていた。現実をうまく掴めない時、日記は書けなくなるものだ。今という時間を自分のものにするために私は日記を書くのだと思う。今回はPCからこうして文字を打っている。スマホではやはりどうしても集中力が途切れてしまう。PCだとあれも言いたかったんだ、これも言いたかったんだと言葉がうわんうわん溢れてくる。この自由を忘れずに労働に勤しみたいなと思う。数日間の空腹感の原因が解明され、毎月のことながら、ホルモンってのは厄介だなと思う。減量開始宣言をしたけれど、今回はゆるゆる長期的にやっていこうと思う。運動と食事と睡眠に対する考え方を丁寧にしていこう。あと、自分に対して健康的に接してみようと思う。スマホを枕元に持っていくのをやめるとか、水をたくさん飲むとか。そういう良いとされていることを一つ一つやってみよう。やってみないとやる気は起きない。わかっていてもできなかった。わかっていても、いなくても、まずはやってみよう。
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062423 Vogue Japan
「生きていくうえで、心が自由であることが最も重要」──BTSのSUGA、本誌撮り下ろし&独占インタビュー全文公開
BTSのメンバーとして世界を魅了してきたSUGA(シュガ)は、Agust D名義のソロ活動で初のワールドツアーを行うなど、新しい歴史を切り開き続ける唯一無二のアーティストだ。多彩な才能を秘めた彼を迎え、『VOGUE JAPAN』史上��となる男性が単独で表紙を飾る特別な撮影が実現した。彼の人間性に迫るインタビューや直筆メッセージとともに、“INNER SPACE”をテーマにSUGAのさまざまな表情を撮り下ろす。
世界的トップアーティストとして、その一挙手一投足が多くの注目を集める韓国発の7人組グループ、BTS。RM、SUGA、JIN、J -HOPE、JIMIN、V、JUNG KOOKの7人で2013年にデビューした彼ら。グローバルな活動基盤を固めていく中で、2020年にリリースした初の全編英語詞曲「Dynamite」が世界的な大ヒットを記録。あらゆる国の老若男女を夢中にした。
BTSのメンバーであり、数多くの楽曲の作詞・作曲やプロデュースを手がけているSUGA。ソロアーティストのAgust D──逆さから読むと、韓国東南部にある彼の出身地、大邱広域市(Daegu town)のSUGAという彼のアイデンティを込めた名でも活躍している。過去の自己実現に関する苦悩や、社会に対する考え、成功者としての葛藤をさまざまな楽曲に込め若者の道標となってきた。
今年4月、ソロアルバム『D-DAY』をリリースしたところ、発売初日でミリオンを達成。全世界67の国と地域のiTunes「トップアルバム」チャートで1位を記録し、さらにタイトル曲「Haegeum」は86の国と地域のiTunes「トップソング」チャートで1位になるなど、ソロアーティストとしても絶大な人気を見せつけた。
革命的なアルバムを引っ提げた初のソロワールドツアー「SUGA | Agust D TOUR 'D-DAY'」の日本公演(6月2〜4日)のために来日したSUGAは、撮影スタジオに颯爽と登場すると、丁重に会釈をした。撮影では、アンバサダーを務めるヴァレンティノの2023-24年秋冬コレクションのルックの数々を纏っている。ブラックタイというドレスコードの慣例を打ち破り再解釈したルックは、現状を打破し、もがきながらも前進し続けてきたSUGAのアティテュードと共鳴する。 凛とした佇まいでカメラの前に立ち、クール、セクシー、イノセント、ビューティー……多彩で魅力的な表情が次々とモニターに映し出され、そのナチュラルでしなやかな反射神経の良さに圧倒される。多忙なスケジュールの真っ只中にもかかわらず、時折リラックスした表情でBGMのビートに合わせ、自然と体を揺らす。やはり、SUGAの体には脈々と音楽が流れているのだ。
日本公演の前に、初のソロワールドツアー、ソロアルバム『D-DAY』、キャリア、パーソナルなことなど、さまざまな質問に答えてくれた。
3部作の集大成となる最新アルバム『D-DAY』
──『D-DAY』には、どのような意味が込められていますか?
Agust Dのトリロジー(2016年のミックステープの『Agust D』、2020年の『D-2』)を締めくくり、「ミン・ユンギ(SUGAの本名)」チャプター2に進むのに十分なアルバムだと思います。
──タイトル曲の「Haegeum」は、“解放”がテーマだと伺いました。SUGAさんにとっての心の解放は、人生においてどんなことを指すのでしょうか?
(これまで生きてきて)多くのことを経験し、見て、聞いてきたと思います。心のリラックスと同じくらい重要なことがあるかと思うほど、心が自由で不快感のないことこそ生きていくのに最も重要だと思います。今回のアルバムの作業をしながら特にそんな思いがしました。
──前回の『D-2』ではRMさんと、今回はJ-HOPEさんとフィーチャリングをしていますね。その経緯やビハインドエピソードを教えてください。
今回のアルバムにもラッパーのフィーチャリングが必要な状況で、最も信頼してお願いすることができるラッパーが誰かを探し、10年以上ともに音楽作業をしてきたJ-HOPEさんに任せることになりました。
──坂本龍一さんともコラボレーションし、来日時に対面していますが、特に印象的な会話や言葉はありましたか?
長い間音楽活動をしてきた大先輩でもあり、僕がとても好きだったミュージシャンなので、お会いできたことだけでも光栄でした。僕より先に道を進まれた方としてのアドバイスもたくさんいただきましたし、そのとき(坂本龍一さんと)交わした会話が、今回のアルバムを仕上げるのに大きな助けとなりました。
──『D-DAY』はドリルにチャレンジされていましたが、今後チャレンジしたいサウンドアプローチはありますか?
大衆音楽に携わる者として、最もトレンディな音楽、サウンドを探して挑戦しなければならないと思っています。
──ソウルでの『D-DAY』の制作作業に行き詰まって、ひとりで山籠もりをしたそうですが、その経験はメンタル面にどのような作用をもたらしましたか?
ソウルにいるとすることが多く、楽曲制作をして行き詰まったらほかのことをしてしまったりなど、弱さが出てしまう気がします。ほかの場所に行くと音楽作業以外にできることが多くないので、改めて「音楽を作るのは面白いな」と感じました。
──『D-DAY』の制作を追ったドキュメンタリー映画『SUGA: Road to D-DAY』では、スティーヴ・アオキやホールジー、アンダーソン・パークといったミュージシャンのもとを訪れる姿が収められていましたが、それらの経験からどのような学びがありましたか?
音楽に携わる人々と音楽の話をするのは面白いです。何かを悟り学ぶよりも、心地よく話しながら楽しい時間を過ごせます。
──同ドキュメンタリー映画の中で今回のアルバムの曲「Snooze」を入院中に作ったと話していました。食事も摂れないようなつらい状態下でも、人を励まそうと楽曲制作を続けるのは、どんな思いからでしょうか?
もちろん、つらいときは休むことも大切です。ただそのときは、いずれ時間が経てば回復するだろうから休んでいるのはもったいないと考えて、やるべきことをやっただけです。ほかの方も、僕と似たような状況であればそうするだろうと思います。
──BTSのアンソロジーアルバム『Proof』のFAQで、一番大切にしている感情にコンプレックス(劣等感のようなネガティブな感情から力が生まれるから)を挙げていましたが、Agust Dとしての区切りになる今作が完成した今、感情に変化はありましたか?
Agust Dトリロジーを通じて、一層成長できたと感じています。ソロアルバム『D-DAY』を通じてコンプレックスやトラウマは克服したと思います。今は初公演も無事に終えてリラックスしており、大きな心配もなく、ツアーを楽しんでいます。
待望の初ソロワールドツアー、楽曲に込めたメッセージ
──ソロツアーで一番こだわったことは?
一人ですべてのセットリストを消化しなければならないツアーなので、体力が重要だと思い、公演準備期間に運動をメインに頑張りました。もちろんライブの練習もたくさんしました。
──アルバムやツアーに関して、メンバーからどのようなメッセージがあったのでしょうか。
メンバーたちはみんなツアー公演が容易ではないことを知っているので、健康には気を付けてほしい、と話してくれました。
──今まではワールドツアー時に楽曲制作をしていましたが、今回も作業はしていますか? また、新たにできた曲はありますか?
曲作りは常に行っているので、特に時期を決めて作ることはありません���
──ドキュメンタリー映画『SUGA: Road to D-DAY』では「伝えたいメッセージがない」と、スランプに陥った様子も映し出されていました。ツアーで各国を回る中で、新しいメッセージは浮かんできましたか?
制作作業をするときは、「どんな話をするか」「どんなメッセージを入れるか」をいつも悩んでいます。それから伝えたい話ができてきたら、すぐに作業を始めます。ソロアルバム『D-DAY』を制作する過程でも伝えたい言葉ができ、作業を進めました。これからまた、(伝えたい言葉は)出てくるのだと思います。
──日本の公演で楽しみにしていることはありますか?
日本での最後のツアーは2019年でした。その後も日本で公演をしたかったのですが、できる状況ではありませんでした。今回とても久しぶりに公演ができるので、待ち望んでいてくれた方々に存分に公演を楽しんでもらえたらと思います。
音楽とキャリア、メンバーに対する信頼と想い
──音楽活動のスタートとしてラップを書き始めてから約20年が経ちますが、ご自身にとって“音楽”という存在はどのように変化していきましたか?
最初は「運命」だと思いましたし、曲を書いて活動するときは「嫌いな友達」だと思いました。今は永遠にともに過ごす「家族」だと思っています。
──これまでのキャリアで、ターニングポイントとなったと感じる出来事は?
2017年にビルボード・ミュージック・アワードの授賞式に初めて行ったことが、僕にとって最大のターニングポイントとなりました。
──今年の6月でBTSとしてデビューして丸10年が経ちます。この10年で最も多く感じた感情は何でしょうか?
「感謝」です。デビュー前から作曲家として活動しながら音楽をやってきましたが、その頃は聴いてくれる人がいない音楽を作る、名もなき作曲家の一人でした。今はファンの方々に出会い、僕の音楽を聴いてくださる方が多くなりました。いつも感謝しながら生きています。
──この10年間で一番の思い出は? 多岐にわたる活動の中で一番楽しい瞬間は?
メンバーと一緒にツアーをまわったときがたくさん記憶に残っています。一番楽しかった瞬間も、舞台の上にいるときです。
──「BTSのメンバー7人でずっと一緒にいる未来を想像する」と度々おっしゃっていますが、その未来のために大事にしていることはありますか?
僕たちは7人がずっと一緒にいると固く信じています。そのためには、それぞれの領域でできることが明確にあると思います。それぞれ独自の領域を持ちながら、お互いを尊重し合っています。「尊重」が最も重要だと思います。
──2年前の『GQ KOREA』のインタビューでは「今の僕には夢がない。でもそれが楽だ」とおっしゃっており、ドキュメンタリー映画『SUGA: Road to D-DAY』の中でも「やりたいことがない」とおっしゃっていましたが、今は夢がありますか? 今を大事にしたいとも語っていましたが、SUGAさんの次の「夢」はなんでしょう。
僕たち7人が長い間一緒に舞台に上がり、音楽をやっていくということ以外の夢は、ほぼすべてかなえられたと思っています。
──SUGAさんが後輩たちに贈りたいメッセージを教えてください。
すべてうまくいきます。今が最悪だと思うときもあるでしょう。僕にもそんなときがありました。でも、時間が経って振り返ってみれば思い出になるし、そこから学ぶこともあります。とにかく、すべて大丈夫になります。
切り離せない「心」と「体」、メンタルとの向き合い方
──後悔は過去、不安は未来、今ここに集中する、というコメントをたくさん耳にしましたが、その考えにはどのようにしてたどり着いたのでしょうか? マインドフルネスを学んだのでしょうか?
幼い頃から過去も未来も心配で、不安でした。自分ではどうすることもできないのに、悩んで心配していました。ある瞬間、そんな感情を取り除けば楽になるという気がして、瞑想をしたり勉強をしたりして、いろんなことをしました。
──等身大のままでいることが重要視される世の中です。しかし、何も努力せずそのままい続けることが「等身大」とは言えない気もします。SUGAさんが思う、「素敵な等身大」とはどんな人物像ですか?
自然体の人です。もっと上手くこなそうと苦労せず、できないことは隠さず、ありのままを見せてくれる人です。
──「心」と「体」はキャッチボールしていると言われます。SUGAさん自身は、どんなときにそれを感じますか。
メンタル的にあまり良くなかったり心配事があったりすると、体力は回復しても体にすぐに反応が出るほうです。逆に体調が悪いとメンタルにも影響があります。なので、メンタルと体のバランスを保つことが重要だと思います。
オフステージのSUGA、ミン・ユンギの素顔
──自分の性格を3語で表すと?
うーん……難しいですね。
1、不明 2、無頓着 3、観察者。
──ドキュメンタリー映画『SUGA: Road to D-DAY』では、各国の友人に会いに行っていましたが、今はどのような友人が多いでしょうか? 前回の『D-2』収録の「Dear my friends」では、変わってしまった友人関係について歌っていました。今、友人付き合いはどのように変わりましたか?
今親しい友達は皆、お互いがお互いに対して望むことがない人たちです。そんな関係が一番理想だと思います。
──どのような人に魅力を感じますか?
自然体な人と前向きな人です。
──自分のファッションを表現すると?
リラックス。
──透き通るような肌の持ち主ですが、ビューティー・ルーティンを教えてください。
ルーティンは何もないです。シンプルにローションを塗るだけです。
──最後に、ARMY(BTSのファンダム名)はどんな存在でしょうか?
音楽を作って舞台に立つことは楽しいですが、それはファンの方々がいらっしゃるからこそできることだと思います。大きな舞台にたった一人で立っても、意味がないんです。僕の活動の半分を、ARMYの皆さんが満たしてくれていると思っています。
English Translation
SUGA IS A VOICE OF AUTHENTICITY IN A SUPERFICIAL WORLD
VOGUE JAPAN’s first ever solo male cover star SUGA opens up about mindfulness, procrastination, and how his relationship with music has changed.
For VOGUE JAPAN’s August issue, our theme is “INNER BEAUTY”; in other words, searching beyond the surface to see what really drives our dreams and desires. What better icon to represent this than SUGA? By navigating an industry obsessed with the superficial, the megastar is a voice of depth and authenticity, fearlessly candid about the internal struggles he’s faced, and the expectations he carries as one of Asia’s most successful artists.
SUGA is also the first man to appear solo on the cover of VOGUE JAPAN in its 24 year history. Wearing Valentino’s Fall/Winter 2023 Black Tie collection, the South Korean artist is a celebration of a world where the connections between gender, fashion, and music are increasingly intertwined.
When it comes to music, SUGA is a true multi-hyphenate. A member of BTS, a rapper, a songwriter, and a producer for various global artists, he also performs solo under the stage name Agust D. His solo moniker is derived from SUGA spelled backwards, with the D referring to Daegu Town, a city in South Korea where he grew up.
In a Q&A with VOGUE JAPAN, before his Japan tour which was held on the 2nd-4th June, we asked SUGA about his first solo world tour, his solo album ‘D-DAY’, and what he does to stay motivated when it all feels like too much. He also opened up about how his approach to making music has changed over the years, offering his answer on a personal handwritten note. It reads: “At first I thought it was fate. Then, when I was writing songs and working, I thought of it as a kind of frenemy. Now I’ve come to think of writing music as family – something that I will spend eternity with.”
The culmination of a trilogy The latest album D-DAY
-What’s the meaning behind the album ‘D-DAY’?
Solo Album ‘D-DAY’ completes the Agust D trilogy (the Agust D mixtape from 2016, and the D-2 mixtape from 2020). It’s like the second chapter of my story as Min Yunki.
-The title track "Haegeum" is about liberation. What does liberation mean to you?
I think I have experienced, seen, and heard a lot [in my life]. Just as essential as relaxing, I think the most important thing in life is to liberate your mind so that it’s free of negative emotions. I felt that way especially while working on this album.
-You featured RM on the last album "D-2" and this time you’re featuring J-HOPE. How did the collaboration come about behind the scenes?
We needed a rapper to feature on this album as well, so we looked for the most trustworthy rapper we could find. I’ve been working with J-HOPE on making music for over 10 years, and so we decided to entrust it to him.
-You also collaborated with Ryuichi Sakamoto and met him when you visited Japan.
He had been doing music for such a long time, and was someone I hugely admired and looked up to, so it was an honor just to meet him. He gave me a lot of advice as a mentor, and the conversations we had together were a great help in finishing the album.
-You experimented with drill music on D-DAY. Are there any particular sounds you would like to take on in the future?
As people involved in pop music, I think it’s our job to challenge ourselves to seek out the trendiest music and sound of the moment.
-I heard that you were stuck working on D-DAY in Seoul, so you went to Dangjin City by yourself and spent some time up in the mountains. How did that help?
When I’m in Seoul there are so many things to do, and so when I get stuck working on a song I tend to procrastinate and beat myself up about it. But when I go somewhere else, there’s nothing to do except working on the music, and I can start to feel the passion again.
-In the documentary film SUGA: Road to D-DAY, you visited musicians such as Steve Aoki, Halsey, and Anderson Paak. What did you learn from these experiences?
It's interesting to talk about music with other people who are involved in it too. More so than realizing and learning something, it’s really just about talking and having a good time together.
-You mentioned in the documentary that you wrote the song ‘Snooze’ for this album while you were in the hospital. What motivates you to continue writing songs to cheer people up, even when you were in a situation that you couldn’t even eat?
Of course, it’s important to take a break when times are tough. But I just did what I had to do, thinking that it would be a waste to take a break, because I knew I would recover eventually. I think anyone else would do the same if they were in a similar situation.
-In the FAQ for the BTS anthology album "Proof," you mentioned feeling inferior as the most important emotion. Have your feelings changed now that you have completed this album, which marks the end of your career as Agust D?
I feel that I have grown even more through the Agust D Trilogy, and I think I have overcome my complexes and traumas through making this album. Now, I’m feeling relaxed after my first show, and enjoying the tour without worrying too much.
Long-awaited first solo world tour The message behind the music
-What was the most important thing you focused on for your solo tour?
Since I’d be going through the entire setlist solo, I thought it was important to be physically fit so I exercised a lot during the preparation period. I did a lot of live practice too of course.
-What kind of messages did you receive from the BTS members regarding the album and the tour?
All of the members know that touring isn’t easy, so they told me to take care of my health.
-In the past, you have worked on songs during your world tours. Are there any new songs that have been created?
I wouldn’t say I write more songs during any specific time. I’m always writing songs.
-The documentary SUGA: Road to D-DAY showed you when you were in a slump, saying that you had no message to convey with the album. Did you come up with a message as you went around the country on tour?
When working on the production [of an album], I always worry about what kind of story I’m telling and what kind of messages to include and so when have a story I want to tell, I immediately start working on it. While working on this album, the words I wanted to convey started to come to me, and I’m sure they’ll keep coming.
-What are you looking forward to seeing in Japan?
Our last tour in Japan was in 2019. I wanted to perform there after that too, but it wasn't possible, so this will be the first time for a while. I hope that everyone who has been waiting for me there will be able to enjoy the show to its fullest.
Music and career Relationship with the members
-It has been about 20 years since you began your career and started writing rap songs. How has your relationship with the music changed over that time?
At first I thought it was fate [for me to make music]. Then, when I was writing songs and working, I thought of it as a kind of frenemy. Now I’ve come to think of writing music as family – something that I will spend eternity with.
-Is there a moment in your career that was a turning point?
The biggest turning point for me was my first visit to the Billboard Awards in 2017.
-This June marks a full 10 years since your debut as BTS. What feeling defines that decade for you?
Gratitude. I have been working as an artist and making music since before my debut, but back then I was one of those nameless artists who made music that no one would listen to. Now, I’ve been able to meet my fans and see many people that listen to my music. I am always grateful for that.
-What are your fondest memories of the past 10 years? What were the most enjoyable moments?
I have a lot of good memories of touring with the BTS members. The most enjoyable moments are when we’re all on stage.
-You often say that you “imagine a future where the seven members of BTS will be together forever”.
We really believe that the seven of us in BTS will always be together, and I believe there are clear things we can do in each of our respective areas. Each one of us has their own unique sphere, and there’s a mutual respect there. I think having that respect is the most important thing.
-In an interview with GQ KOREA two years ago, you said, “I have no dreams now, but that makes it easier.” Then, in the documentary, you said, “There is nothing I want to do”. You also said that you want to cherish the present. What is your next “dream”?
Apart from the seven of us making music together and being on stage for a long time to come, I think I have fulfilled almost all of my dreams.
-What is something you would like to tell your juniors, or the people that look up to you?
Everything will be fine. There will be times when you feel at your worst. I’ve had that kind of time too. But when you look back at it, it becomes a memory, and you can learn from it. It’ll be okay in the end.
The inseparable mind and body, Dealing with internal struggles
-How did you arrive at the idea that regret is in the past, anxiety is in the future, and to focus on the here and now? Do you practice mindfulness?
From a very young age, I was anxious about both the past and the future. I was worried and concerned even though I had no control over it. At one point I felt that it would be easier if I just got rid of those feelings, so I did a lot of things, like meditating and studying.
-We live in a world that places a lot of importance on remaining authentic. What kind of person do you think is an authentic person?
A natural person. Someone who doesn't struggle to do everything well, who doesn't hide the things they can’t do, and who shows their true self to the world.
-How do you feel about your own mind/body connection?
When my mental condition is not so good or when I’m worried about something, my body reacts to it immediately, even if I’m physically fine. On the other hand, if I’m not in a good physical condition, it also affects my mental health. So I think it’s important to maintain a balance between mental and physical health.
Off-stage SUGA, The real Min Yunki
-If you were to describe your personality in three words, what would they be?
Hmmm... that's difficult. 1, hard to figure out. 2, calm. 3, an observer.
-In the SUGA: Road to D-Day documentary, you visited friends all over the world. In ‘Dear My Friends’ from the last D-2 record, you sang about friendships that have changed. How have your friendships changed this time around?
All of my close friends now are people who doesn’t force others to be or to do something they don’t wish to. I think that kind of relationship is the ideal.
-What kind of people do you find attractive?
People who are spontaneous and positive.
-How would you describe your style?
Relaxed.
-You have such clear skin – what’s your beauty routine?
I don't have a routine. I simply apply lotion and that’s it.
-Finally, what does ARMY [BTS’s fandom name] mean to you?
I enjoy making music and performing on stage, but I’m only able to do that because of my fans. There is no point in standing alone on a big stage. Half of everything I’m able to do is possible because of ARMY.
Source: Vogue Japan ENG: Vogue Japan
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★Feeble Little Horse-2nd album “Girl with Fish” interview ★
2021年にペンシルベニアのピッツバーグで結成されたばかりのノイズロックバンド『Feeble Little Horse 』 1st Albumである『Hayday』を初めて聴いた時に衝撃を受けたのを覚えている。鋭さと柔らかさがギリギリをひしめき合う心地よさ。重たくノイジーなサウンドにボーカルの柔らかい歌声とポップなソングライティングのアプローチが彼らの音楽。
ピッツバーグで結成された彼らのルーツはこのシーンとは離れたところにある。
それはアメリカンシューゲイザーの新たな波の中心の場所ととなっているフィラデルフィアだ。They are gutting of water 、Full Body 2、などの枠に囚われない独自のスタイル、(形態、奏法)で新たなを切り開く音楽に感化されたFeeble Little Horse。
結成まもないにも関わらず、Big thiefの魅力を世界に広めたレーベル、Saddle Creek 契約し、前作以上に、仲間と共に音楽を作る喜びが反映されたこのアルバム、スリリングで予測不可能な楽曲が詰まっている。今回のインタビューでは音楽的なところ以外のメンバーのパーソナルな部分についても興味があり、質問し��ところ快く答えてくれた。
__________________________________________
★まず最初に、バンドFeeble Little Horseの始まりについて教えてください。
Lydia - バンドはコロナ禍の中で始まりました。私とセバスチャンがお互いのSoundCloudの曲のファンで、一緒に音楽を作りたい!となったところから始まりました。 最初のバージョンの「Dog Song」をiMessageで送り合い作成した後、私は中央ペンシルベニアの学校から戻り 、現実でミーティングをすることになりました。
ライアンとジェイクのアパートに行って、「Hayday」のほとんどを録音しました。ライアンがベースを私に売ってくれて、その夏の最初のショーのために私は曲を全て覚えました。
★音楽に目覚めたきっかけは?
Lydia - 9歳のときに、とてもクールな父が998曲入りのiPodを作ってくれて、幼い頃からインディーやパンクの音楽に夢中になりました。
Jake - 5歳の時に父が持っていたKISSのアルバムを見つけてからロックミュージックが好きになり、その頃からドラムを始めたんだ。
Ryan- 子供の頃の古い記憶は音楽と結びついている。
Seb- 父がトムペティのFree fallingをギターで弾くことを教えてくれたんだ。それが最初に弾いた曲で、8歳か9歳の頃だったと思う。
★ニューアルバムのコンセプト、制作、レコーディングについて教えてください。
Lydia- お互いに意見を出し合いながら、すべてのクリエイティブなプロセスを自分たちで行っています。それぞれのアイデアは、かなり広範囲にわたって洗練されたプロセスを経ていきます。
Seb- ほとんどが私の古いアパート(3228 parkview avenue Pittsburgh PA 15213)で、私のベッドルームかリビングルームで録音しました。曲を書きながらレコーディングするので、レコードで聴ける部分はたいてい初めて演奏されたものだ。
★あなたのバンドのビジュアルやアートワーク、コラージュが大好きです。
Lydia - 私はアートを作るのが大好きで、プロとしてやっていくつもりなので、私たちのためにアートを作るのはいつも理にかなっていることだと思います。
★あなた方のパーソナルなヒストリーについて教えてください。
Lydia - 私には姉が一人いて、母方の家族はイギリス出身、父はニューヨークの田舎出身です。祖父は英国国教会の主教で、父は英国国教会の司祭です。父はBMXやマウンテンバイクもやっていて、私の地下室で自転車店を経営しています。私は小さなキリスト教学校で育ち、バンド活動はそのような泡の外に出た最初の経験の一つです。
Ryan:ペンシルベニア州の炭鉱労働者の家系に生まれた。
Jake - ペンシルベニア州北東部の田舎町で育った。
★創作活動はどのようなものですか?
Lydia - 手元にあるものを使って、いろいろなものを楽しく混ぜ合わせるのが好きなの。言葉にするのは難しいけど、表現することでそれを明確にできる、私が作るものはそうでありたい。
Seb- ギター、ミディ、歌詞、ドラムの順。そして仕上げのタッチ
Ryan - すべての曲は、異なる創造的なプロセスを持っています。ある曲は、個人によって作られた曲のラフスケッチから始まり、他のものはより共同作業である。
★あなたの音楽的な影響を受けた人は誰ですか?
ryan - Women, Mary Lattimore, Four Tet, Alex G
jake- KISS, cherry glazerr, digable planets, green day, frankie and the witch fingers
lydia — brittle brian, diane cluck, horse jumper of love, babyxsosa
Seb- A Country Western,They are Gutting a Body of Water , pink panthress, sotb, helvetia
★周りのシーンについてどう感じていますか?他のバンドとの繋がりはあるのでしょうか?
ライアン - 私たちが���んでいるアメリカの地域の音楽シーンはとても活発で、良い音楽がたくさんあります。私たちは幸運にも、A Country Western、HotlineTNT、They are Gutting a Body of Waterなどの同業者から受け入れられ、励まされました。
Lydia - julia's warのあるフィラデルフィアのシーンは、私にとって常にホームのように感じられる。彼らは私たちの足元を固めてくれて、スタートするときにとても勇気づけられた。
Jake-ピッツバーグのシーンは僕にとって最も特別な場所だ。とても多くの種類のバンドがいて、この辺りのバンドはみんな他のバンドをとてもよくサポートしてくれる。
★日本のアーティストで聴いている人はいますか
jake- kikagaku moyo
lydia — 800 Cherries, CARTHIEFSCHOOL, Melt-Banana, Cornelius, Lily Chou-Chou
ryan - 青葉市子, toe, hiroshi yoshimura, les rallizes denudes
seb- hirono nishiyama & Kazumasa Hashimoto. あとDeerhoof も好きだけどこれもカウントしていいのかな
★今後の目標や夢は何ですか?
Jake- 国外でライブをすること、そしてもっと素晴らしい人たちに会うこと。
Lydia - 自分たちのベストを尽くすために、自分たちをプッシュし続けることです。
Ryan - メルトダウンを起こさないようにする。
Seb - 日本に行くこと
★日本ではあなたの音楽の魅力が話題となり、熱狂的なファンがたくさんいます。
jake- サポートに感謝しています。そして、皆��んのために何度かライブができることを望んでいます。
Lydia - あなたは誰よりもクールです。私の音楽を聴いてくれて、私もクールな気分にさせてくれてありがとう。
Ryan-私たちの音楽を聴いてくれてありがとう。私たちがアパートで作ったものが、世界中の皆さんの耳に届くなんて、信じられないことです。
Seb-日本のファンが大好きです!あなたは他の誰よりも素晴らしいです。
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【イベント出店のご案内】
2024年11月5日(火)
Q.L.C #1
LIVE downt / Texas 3000 / neco眠る
DJ 慈母子
POP UP SHOP LVDB BOOKS / OASIS2 / 十四才
会場:梅田クラブクアトロ
開場:18:00 / 開演:19:00
料金:前売 3,000円 / 当日 3,500円
/
[LIVE]
downt
2021年の結成以来東京のライブシーンを中心に活動スタート。 同年10月にリリースした1st『downt』(CD/CT共に完売)のリリースを受け、一躍エモ、オルタナのライブハウスシーンにて注目を集める存在に。 今年3月、1stフルアルバム『Underlight & Aftertime』をリリース。 もはやカテゴライズはいらない存在感でジャンルの境界線を風通しよく越え快進撃中!
Texas 3000
Texas 3000は「矛盾」に満ちた存在である。 2019年、幡ヶ谷FORESTLIMITでのパーティ"K/A/T/O MASSACRE"にてJojo(Gt/Vo)と崎山(Dr)が出会い結成。2023年1st アルバム「tx3k」リリースと同時にkirin(Ba)がメンバーとして加入、3人でライブや創作を精力的に行う。 シリアスなのかふざけているのかわからない支離滅裂で無秩序を表現するかのようなサウンドとリリック。ポップでありながら、どこか掴みどころのないキャラクターと謎の虚無感が同居した佇まい。Texas 3000はそんな新世代の異形オルタナティブロックバンドである。
neco眠る
2002年大阪にて結成。オシリペンペンズ、DODDODOと共にレーベル「こんがりおんがく」を主宰。 大小様々なイベントやフェス等で、ユニークかつ妙にダンサブルな音楽を極限までマイペースに鳴らし続け、はや20年。その音楽性をわかりやすく説明すると「先輩に素晴らしいアーティストがたくさんいて、どうしたら彼らと違うことができるか考えてるうちに訳が分からんくなって、力抜けた時に出た屁」の様な音楽。 ただ、その屁は妙に良い音だった。 現在のメンバーは森雄大(Gt)、伊藤コーポレーション(株)(Ba)、BIOMAN(SYNTH)、栗原ペダル(Gt)、三木章弘(Dr)、おじまさいり(SYNTH)の6名、メンバーそれぞれが様々なユニット/バンドやソロ等で活動もしており膨大なピープルツリーを形成している。
[DJ]
慈母子
2019年結成された大阪在住の自炊とobocoによるDJコンビ。音波の中で事故と放浪を繰り返しながら情熱活動中。2023年にDJ実弾とのスワッピングMIXテープをリリース。2024年2月より難波ベアーズにて、毎月最終水曜開催の創造パーティ『慈愛/THE I』を開始。音楽による魂の救済を目指し、永遠に続ける予定
[POP UP SHOP]
LVDB BOOKS
LVDB BOOKSは大阪・東住吉区の書店+ギャラリーです。
OASIS2
京都の街外れにて不明瞭なvintageを販売、既存の古着価値の剥離作業を日々行いつつ、モード圏外でのファッションの境目、及びその和訳や誤訳の着地点を模索中。
十四才
店主がブルーハーツと岡本太郎から受けた衝撃を独自の解釈で古着に落とし込んだ変なお店
[VISUAL]
六根 由里香
1995年大阪府生まれ。周囲にあるモノが咄嗟に目の端に飛び込んでくる経験をチャンスイメージと見なし、リトグラフやシルクスクリーンなどの版画技法を用いてイメージの諸相を再提示する作品を制作する。 9月21日ー10月6日まで GALLERY | BOOK & CD/RECORD SHOP POLにて個展「hit-and-miss」開催。
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「鹿児島県警は芯から腐り切っている」 誤解を恐れずに評すれば、出来の悪い警察小説か警察ドラマの筋立てかと見紛うような、あまりにあからさまであまりに剝き出しの権力犯罪である。 だが、現実にそれは起きた。いや、現在進行形で起きている。そして一連の事態は、この国の警察組織や刑事司法の闇を照射し、同時にメディアやジャーナリズムの真価を根本から問うてもいる。 福岡市の中心部にほど近い一角に佇む築40年を超える古びたマンション。すべての端緒を切り拓き、歪んだ捜査の標的にもされたネットメディアは、この一室に拠点を置いている。ほぼ一人で運営する小メディア『HUNTER(ハンター)』の主宰者は中願寺純則(64)。編集作業に使っているという六畳ほどの狭い部屋で私と向きあった中願寺は、常に背筋を伸ばしたまま淡々と、しかし静かな怒気を端々に滲ませて口を開いた。 「鹿児島県警は完全に腐っているんだと、もはや自浄作用など期待できないから真実を知らせてほしいんだと、私たちへの情報提供者は心底憤っていました。私も同感です。鹿��島県警は芯から腐り切っている」 中願寺が一連の取材に着手する契機となった事件が起きたのは2021年の夏、世界がまだ新型コロナのパンデミックに揺れていた最中のことである。翌22年の2月になって事実関係を最初に報じた鹿児島の地元紙・南日本新聞の記事によれば、概略は次のようなものだった。 〈鹿児島県医師会の男性職員が、新型コロナウイルス感染者が療養するための宿泊施設内で、派遣された女性スタッフに対し、わいせつ行為など不適切な行為をしていたことが14日、南日本新聞の取材で分かった〉〈関係者によると、男性職員は昨年8月下旬~9月末、宿泊療養施設運営のために派遣された女性スタッフに対し、施設内でわいせつな行為などをした。(略)女性は一連の行為に関し「同意はなかった」として、管轄の警察署へ告訴状を提出した〉(2月15日付朝刊) 関係者からの情報提供もあって中願寺は取材を開始し、伝手を辿って被害女性らにも話を訊き、鹿児島県への情報公開請求なども重ね、自らが運営する『ハンター』に次々と記事を掲載した。その記事の矛先は当初、被害女性との間で「合意があった」と事実を矮小化する医師会などに向けられたが、次第に県警へも向けられるようになった。取材の結果、こんな事実が浮かんだからである。今度は中願寺が23年1月20日に『ハンター』で書いた記事の冒頭部分を引用する。 〈昨年1月、鹿児島県警鹿児島中央警察署が、性被害を訴えて助けを求めに来た女性を事実上の「門前払い」にしていたことが分かった。応対した警察官は、被害を訴える女性が持参した告訴状の受理を頑なに拒み、様々な理由を付けて「事件にはならない」と言い張ったあげく女性を追い返していた〉 そして記事はこう続く。 〈背景にあるとみられるのは、身内をかばう「警察一家」の悪しき体質と性被害への無理解。意図的な不作為が、醜悪な人権侵害につながった可能性さえある〉 どういうことか。実は女性が性被害を受けたと訴える「県医師会の男性職員」の実父が県警の警察官であり、だから県警は捜査を忌避し、事案を握りつぶそうとしているのではないか――中願寺はそう睨み、県警を指弾する記事を続々掲載した。 〈県医師会わいせつ元職員の父親は3月まで現職警官〉(23年5月15日掲載)、〈訴えられた男性職員の父親は「警部補」〉(同6月2日掲載)、〈問われる医師会と県警の責任〉(同6月12日掲載)……。 鹿児島で起きた性加害事件をめぐる県警の問題点へと果敢に斬り込む『ハンター』には間もなく、県警の内部から貴重な情報も寄せられるようになっていった。 「小メディア」の果敢な不正追及 1960年に長崎県で生まれた中願寺は、東京の大学を卒業後、政治家の秘書や信用調査会社系のメディア記者といった職を経て、2011年3月に『ハンター』を立ちあげた。サイト開設が東日本大震災の発生前日だったのは偶然だが、以後の約13年のサイト運営は決して楽ではなかった。中願寺もこう言う。 「正直言っていまも楽ではなく、私は無給状態ですが、小さいながらもメディアとしてスタートした当初はさらに厳しく、やめてしまおうと思ったことが何度もありました。ただ、何年か続けていると応援してくれる方々も現れ、だからなんとか歯を食いしばって運営を続けてきたんです」 そうやって小メディアを懸命に維持して記事を日々発信する一方、もともとの経歴もあって中願寺は地元政財界に独自の人脈を持ち、メディア記者らのほか警察当局者ともさまざまな形で接触を重ねてきた。主には刑事部門で事件捜査にあたる警官だったが、公安部門の警官が接触してきたこともある。そんな接触を通じて時には情報を交換し、時には取材中の事件に関する捜査動向の感触を探る――といった営為は、所属メディアの大小等を問わず、事件取材に奔走する記者なら誰にも経験があるだろう。かつて通信社の社会部で事件取材に携わった私も例外ではない。 また、そういった取材活動を通じて特定の事件や事案に関する記事を発信していると、当該の事件や事案の内実を知る関係者から貴重な情報や内部告発が寄せられることもある。これこそ取材という営為の醍醐味であり、鹿児島県警の不正を追及していた中願寺のもとにも幾人か情報提供者が現れた。もともとは県警の公安部門に所属し、その後は曽於署の地域課に在籍した巡査長・藤井光樹(49)はその一人だった。 そんなふうに入手した情報や資料に依拠し、中願寺はさらに追撃記事を執筆した。極北となったのが〈告訴・告発事件処理簿一覧表〉との標題がついた県警の内部文書を入手し、23年10月から展開した記事群だったろう。プライバシー等にも配慮しつつ文書の一部を画像で示し、件の性加害事件をめぐる県警対応の不審点を指摘する一方で中願寺は、こうした内部文書が大量に漏洩しながら事実を公表も謝罪もせず頬被りを決めこむ県警の態度をも厳しく指弾した。 当の県警は――ましてや上層部は、県警の内部文書を掲げて噛みつく『ハンター』に苛立ち、焦燥を深めたに違いない。しかも県警では近年、あろうことか現職警官が逮捕される不祥事が続発していた。20年以降の事案を列挙するだけでも、その惨状は目を覆わんばかりである。 ①20年2月、女子中学生を相手とする児童買春容疑で霧島署の巡査部長を逮捕、②21年7月、いちき串木野署の巡査部長が女性宅に不法侵入したとして逮捕、③22年2月、鹿児島中央署の交番勤務の巡査長が拾得物の現金を横領したとして逮捕、④23年10月、SNSで知り合った少女と性交したとして県警本部の巡査長を逮捕――。 惨憺たる状況下、県警の内部文書まで入手して噛みつく『ハンター』への苛立ちからか、内部告発者らによって他の不祥事案が発覚するのを恐れたのか、県警は信じがたいほど強引な捜査に踏み切る。今年4月8日、県警の内部資料などを『ハンター』に漏洩したとして先述した巡査長・藤井を地方公務員法違反(守秘義務違反)容疑で逮捕し、同時に中願寺が主宰する『ハンター』までをも家宅捜索したのである。 異常かつ論外の家宅捜索 その日の朝、編集作業に使っている六畳ほどの部屋には約10人もの県警捜査員が押しかけた。中願寺によれば、「令状がある」という捜査員は、それをヒラヒラと示すだけで容疑事実も仔細に説明せず、業務用のパソコンはおろか中願寺が使用している新旧のスマートホン、さらには取材用のノートやファイル、名刺類まで押収していった。 言うまでもないことだが、それらにはメディア主宰者の中願寺にとって断固秘匿すべき情報源などが刻まれていたし、なによりも業務用のパソコンを失えばサイトを更新することもできなくなってしまう。だから思わず声を荒らげ、捜査員に激しく迫った。 「おいっ、せめてパソコンはすぐに返さないと、営業妨害で訴えるからなっ!」 その一喝が効いたのか、パソコンは翌日返却された。だが、内部データは間違いなく抽出され、一部の押収物は2カ月以上経った現在も返却されていない。一方、『ハンター』に情報を「漏洩」したとして逮捕された巡査長・藤井は、自らに迫る捜査の気配を察知していたのか、逮捕のしばらく前に電話で中願寺にこう語っていたという。 「私は腹を決めてやっています。ウチの組織は腐っていて、外から刺激を与えないと変わらない。そう考えてやったことですから、もし逮捕されても私に後悔などない。だから中願寺さんが悔やむ必要もありません」 だとすれば藤井は、『ハンター』というメディアにとっては「情報提供者」、あるいは「内部告発者」であり、広く社会にとっても大切な「公益通報者」だったと捉えるべきではないのか。 ならばここで、あらためて記すまでもないことをあらためて記しておく必要がある。たとえ小さくともメディア=報道機関への情報提供者を逮捕すること自体が異例であり、たとえ小さくともメディア=報道機関を強制捜査の対象とするなど極めて異常かつ論外の所業。同じことを新聞やテレビといった大手メディアに行えば、言論や報道の自由を圧殺する暴挙だと大騒ぎになるだろうし、ならなければおかしい。ましてそれが「公益通報」の色彩が濃い事案だったなら、県警の所業は一層悪質な暴走と評するしかない。 だが、県警の信じがたいような暴走はこの程度で止まらなかった。 あるジャーナリストに寄せられた内部告発 鹿児島や福岡からは直線距離で約1500キロメートルも離れた北海道の札幌市。ここを拠点にフリーランスの記者として活動する小笠原淳(55)は4月3日、市中心部にも近い雑居ビルの一階に入居する月刊誌『北方ジャーナル』の編集部にいた。 話は本筋からやや逸れるが、『北方ジャーナル』といえば、かつて北海道知事選の候補者をめぐる「中傷記事」が名誉毀損に問われ、出版物の販売差し止めを容認する最高裁判例の舞台になったことを想起する向きも多いだろう。だが、これは70~80年代の出来事であり、もとより小笠原には何の関係もない。また、現在の『北方ジャーナル』は経営母体なども代わっていて、もともとは地元紙の記者からフリーランスに転じた小笠原は、頻繁に寄稿している同誌の編集部を原稿執筆などの場として活用していただけのことだった。 あれはたしか昼過ぎだったと小笠原は記憶している。編集部に郵便物を届けにきた配達員が、小笠原宛の茶封筒を手に「どうされますか」と尋ねた。封筒の表には一般封書の規定額である84円切手が貼られていたものの、重量がオーバーしているから10円の追加料金が必要だというのだ。支払わなければ持ち帰られていたかもしれないが、小笠原は財布から10円玉を取り出して渡し、封書を受け取った。 消印は〈3月28日 鹿児島中央〉。差出人の名はない。いったいなんだろう――そう思いつつ開封した瞬間、これは内部告発だと小笠原は悟った。計10枚の文書の1枚目には〈闇をあばいてください。〉と太いフォントで印字され、2枚目には〈鹿児島県警の闇〉と題して計4件の事案が列挙され、3枚目以降は県警の内部文書とみられるものを含め、違法性の濃い不祥事の中身などが詳述されていた。一部の概要のみ記せば、次のような事案である。 ①霧島署の巡査長が女性にストーカー行為を繰り返し、しかも職務上知り得た個人情報も悪用して行為に及んだのに、処分も公表もされていない事案、②枕崎署の捜査員が職務時間中、市内の公園の女子トイレで女性を盗撮し、しかも捜査車両を使っていたのに県警が隠している事案、③県警幹部による超過勤務手当の不正請求があったのに、立件も公表もされていない事案――。 小笠原は、すぐに『ハンター』の中願寺に連絡を取った。理由はいくつもあった。なによりも札幌に居を置く小笠原にとって、はるか遠い鹿児島県警の不祥事を取材するのは物理的に難しい。また、北海道警の不祥事やその追及が甘い大手メディアも批判してきた小笠原は、警察の不正や記者クラブ問題を追及する中願寺と意気投合し、数年前からは『北方ジャーナル』などのほか『ハンター』にも寄稿するようになっていた。もちろん、中願寺と『ハンター』が鹿児島県警の不正を追及中だったことも熟知していた。 だから小笠原はその日のうちに中願寺に電話し、匿名で送られてきた10枚の告発文書もメールで送信し、中願寺と共有した。「裏取り取材に手間と時間はかかりそうだが、相当に貴重な内部告発だから、できる限り取材して記事にしていこう」。中願寺はそう応じ、小笠原も協力は惜しまないつもりだった。 元最高幹部の切実な訴え 『ハンター』が県警による捜索を受けたのは、そのわずか5日後のことだった。当然ながら、押収されたパソコンには小笠原が中願寺と共有した告発文書も保存されていた。 ここからは推測も交えるが、押収パソコンのデータを解析した県警は眼を剝いて驚愕し、焦燥を一層深めたろう。どうやら『ハンター』には、すでに逮捕した巡査長・藤井らのほかにも内部情報の提供者がいるらしい。しかもその人物は、あくまでも匿名のようだが、提供文書や情報の精度からみて現場レベルの警察官ではなく、相当に高位の立場にある県警幹部クラスではないか――と。 県警がその人物をいつ特定したかは定かでない。ただ、さほど時間を要さず特定したとみられ、後述するように相当周到な事前準備を施したうえ、またも信じがたい強硬手段に打って出た。5月31日にその人物を――県警主要署の署長なども歴任し、つい2カ月前までは県警最高幹部の一人である生活安全部長を務めていた本田尚志(60)を逮捕したのである。容疑はやはり国家公務員法違反(守秘義務違反)。職務上知り得た秘密を第三者に――すなわち小笠原に送っ��告発文書で漏らしたというものだった。 さて、この国の全国津々浦々に25万以上もの人員を配する警察には、ざっくりとわけて二つの〝種族〟がいる。一応は現在も自治体警察の装いをまとった47の都道府県警に採用され、警察官の階級として最下位の巡査からスタートする叩き上げのノンキャリア。他方、かつてなら国家公務員の上級職試験、少し前までなら一種試験、現在の総合職試験をパスし、警察庁に採用されたキャリアの警察官僚。前者は警察官の圧倒的多数を占めて都道府県警の現場を支え、圧倒的少数の後者は警察庁と都道府県警を往来しつつ出世街道をひた走る。そしてどこの都道府県警でも大同小異だが、叩き上げノンキャリ��の最高到達点の一つが生活安全部長の職であり、警視正の階級まで昇り詰めて3月に定年退職したばかりの元最高幹部が逮捕される――しかも古巣の県警に逮捕されること自体、前代未聞といっていいほど異例の事態だった。 さらに本田は逮捕から5日後、鹿児島簡裁で行われた勾留理由開示請求手続きの場で、驚愕の訴えを陳述した。手元にある陳述書にはこんな言葉が刻まれている。 〈今回、職務上知り得た情報が書かれた書面を、とある記者の方にお送りしたことは間違いありません。/私がこのような行動をしたのは、鹿児島県警職員が行った犯罪行為を、野川明輝本部長が隠しようとしたことがあり、そのことが、いち警察官としてどうしても許せなかったからです〉〈この時期は、警察の不祥事が相次いでいた時期だったため、本部長としては、新たな不祥事が出ることを恐れたのだと思います〉〈私は、自分が身をささげた組織がそのような状況になっていることが、どうしても許せませんでした〉〈退職後、この不祥事をまとめた文書を、とある記者に送ることにしました〉〈マスコミが記事にしてくれることで、明るみに出なかった不祥事を、明らかにしてもらえると思っていました〉〈私としては、警察官として、信じる道を突き通したかったのです。決して自分の利益のために行ったことではありません〉(抜粋、原文ママ) 県警本部長の不可解な言い分 極めて閉鎖的で上位下達の風潮が強い警察組織において、ノンキャリアの元最高幹部がキャリアの県警トップに公然と反旗を翻すことも異例中の異例であり、と同時にその訴えが事実ならば、本田もまたメディアにとっての「情報提供者」であり、広く社会にとっての「公益通報者」であったのは明らかというべきだろう。しかも県警は、自らの不正を追及するメディアを強制捜査の対象とし、メディアにとって最重要の情報源を特定し、さらには警察が警察であるがゆえに持つ最高度の強権を行使して〝口封じ〟を謀ったことになる。 一方、本田に反旗を翻された本部長の野川は当初、地元メディアの取材にのらりくらりと対応するだけだったが、鹿児島地検が本田を起訴した6月21日にようやく正式な会見を開き、「私が隠蔽を指示した事実も県警として隠した事実もない」と反論した。本田は「公益通報者」ではないのか、という問いにも「県警としては公益通報に当たらないと考えている」と突っぱねている。本田が札幌の小笠原に送付した計10枚の文書には、被害者が公表を望んでいないストーカー事件の被害者名や年齢等が記載されていた――などというのが野川と県警側の言い分だった。 だが、その言い分はあまりに弱く、事実経過からみて素直に頷くことなどできはしない。 前述したように、本田の告発文書には複数の県警不祥事が具体的に列挙され、霧島署の巡査長によるストーカー案件のほか、枕崎署の捜査員による盗撮案件もそのひとつだった。この盗撮案件が発生したのは昨年の12月15日。直後に県警は事実を把握し、犯行時に捜査車両が使われたことも確認していたが、問題の捜査員は逮捕も処分もされないまま放置された。 ところが約5カ月も経った今年の5月13日、当該の捜査員は建造物侵入などの疑いで突如逮捕された。いったいなぜか。県警が『ハンター』を捜索してパソコンを押収したのが4月8日。これを解析して本田の告発を把握し、本田逮捕に踏み切ったのが5月31日。そのわずか半月前に盗撮捜査員を逮捕したのは、時系列的にみて本田が文書で訴えた「隠蔽」を否定し、事前に打ち消すための周到な〝準備〟であり〝工作〟ではなかったか――。 ここまでお読みになった方は、まさに鹿児島県警は「腐り切っている」と感じられただろう。私も同感だが、果たしてこれは鹿児島県警だけに特有の腐敗か。いや、そんなことはあるまい。いかに小さくとも、メディアを強制捜査の対象とする判断を県警だけで行うとはにわかに考えにくく、ましてや最高幹部だった前生活安全部長・本田の逮捕は、警察庁の裁可や指示を仰がずに独断で行われたはずがない。畢竟、その過程では本田の告発がどのように行われ、県警がそれをどう特定したかを含め、すべてを把握した上で警察庁がゴーサインを出したのは間違いなく、一連の問題からはこの国の警察組織全体に巣喰った腐臭が漂う。さらにつけ加えるなら、一連の問題からはこの国の刑事司法が抱える根深い悪弊の一端も浮かびあがる。 証拠類を「廃棄」せよとの呼びかけ 話はやや前後するが、県警を追及する過程で中願寺と『ハンター』は、別の重大な文書も入手していた。中願寺は「取材源の秘匿」を理由に入手先を明かさないが、おそらくは『ハンター』に情報を寄せていた巡査長・藤井からもたらされたのだろう。これについては一部メディアでも大きく報じられて波紋を広げているが、文書の標題は〈刑事企画課だより〉。わずか2枚の文書には漫画風のイラストも添えられ、県警捜査部門が作成して内部閲覧に供する、さして秘匿性の高くない文書と思われるが、そこにはやはり眼を剝くようなことが公然と記されていた。 〈最近の再審請求等において、裁判所から警察に対する関係書類の提出命令により、送致していなかった書類等が露呈する事例が発生しています〉〈この場合、「警察にとって都合の悪い書類だったので送致しなかったのではないか」と疑われかねないため、未送致書類であっても、不要な書類は適宜廃棄する必要があります〉〈再審や国賠請求等において、廃棄せずに保管していた捜査書類やその写しが組織的にプラスになることはありません!!〉(原文ママ) 問題点は明白であろう。現在再審公判が行われている袴田事件にせよ、布川事件や松橋事件などにせよ、いまなお数々発覚する冤罪事件の大半は、警察や検察が隠していた証拠類が再審請求の過程などで示され、ようやく罪が立証されている。なかには警察が検察に「送致」すらしていない証拠類もたしかに多く、警視庁公安部の不当捜査を受けた横浜の化学機械メーカー・大川原化工機が起こしている国賠訴訟では、公安部内に残されていたメモ類が公判の大きな焦点にもなっている。 つまり文書は、そのような事態は「組織的にプラスにならない」から、「裁判所の命令」などで「露呈」することがないよう、「不要な書類」等は「廃棄」してしまえ――と県警が内部に堂々そう呼びかけていたことを示す。このようなことを許せば、この国の刑事司法に巣喰う悪弊は一層慢性化してしまいかねず、しかもこの文書の秘匿性がさして高くないとみられることを踏まえれば、県警の勝手な判断に基づく所業だったか、との疑念がここでも湧く。警察庁あたりからそうした指示や示唆があり、だから深慮なく内部閲覧文書に明示したのではなかったのか、と。 ジャーナリズムの二重の敗北 再び福岡市にあるマンションの一室。鹿児島県警を追及し、数々の不正を明るみに出した中願寺は、「最後にこれだけは強調したい」と言って姿勢を正した。 「私が取材を始める契機となった強制性交事件の被害者は、いまも精神的に不安定なまま必死に真相解明を訴えています。また鹿児島では警官が逮捕される事件が続発し、被害者のほとんどは女性です。たしかに報道への弾圧は大問題ですが、大元にもっと眼を凝らさなくてはいけない。警官や警察一家の人間によって女性が被害を受けた事件こそが原点であり、それをすっ飛ばして報道弾圧だと訴えても、市民の共感は得られないんじゃないでしょうか」 一方、札幌を拠点にフリーランス記者として活動する小笠原は、「すべての元凶は鹿児島県警とはいえ、私に情報を寄せてくれた本田さんを守れなかったことは、いち記者として忸怩たる想いがあります」と唇を嚙みつつ、いまこんなふうに訴えている。 「いくら小さなメディアとはいえ警察がガサ入れし、情報源を暴いて逮捕してしまった。そのことに全メディアがもっと本気で怒るべきです。小さなメディアだから構わない、などという理屈を許せば、雑誌ならいいのか、スポーツ紙なら構わないのか、と対象が広がりかねない。ただでさえメディア不信が根深い昨今、このまま傍観していれば、新聞やテレビにガサが入っても誰も味方してくれなくなりかねません。本来なら新聞協会や民放連といった組織が「このような暴挙は断固許さない」といったメッセージを明確に発するべき局面でしょう」 いずれもその通りだと深く頷く。と同時に、メディア界の片隅で長年禄を食む私を含め、鹿児島県警をめぐる一連の事態からメディアやジャーナリズムに関わる者たちが一層真摯に捉え返さねばならない課題にも、最後に触れざるを得ない。『ハンター』に情報を寄せて逮捕・起訴された巡査長の藤井にせよ、小笠原に文書を送って逮捕・起訴された前生活安全部長の本田にせよ、足下の地元には大手メディアの記者���多数いたのに、なぜ貴重な情報提供先に福岡の小さなネットメディアや札幌のフリーランス記者を選んだのか――。 本田の弁護人を務める鹿児島の弁護士・永里桂太郎によれば、その理由について本田は「県警の問題に関心のある記者なら、積極的に取材してくれると思った」と話しているという。逆にいうなら、大手メディアに情報を提供しても警察の不正に関心を持たず、積極的にも取材してくれない、と告発者側に認識されてしまっていることになる。 だとすれば、大手メディアそのものが貴重な情報提供者や内部告発者からの信頼をすでに失いつつあるという、あまりに惨めな事実がここから垣間見えはしないか。そのうえに今回の事態に心底から憤らず、傍観してやりすごせば、この国の主要メディアとジャーナリズムは二重の敗北を喫することになってしまいかねない。(文中敬称・呼称略)
〈特別公開〉警察腐敗 内部告発者はなぜ逮捕されたのか(青木理) | WEB世界
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【SP】初めてのフロアボール体験!
5月7日(火)に、フロアボールの体験プログラムを実施しました!その様子をお伝えします♪
フロアボールとは、スティックを使ってサッカーのように、ボールをドリブル、パス、シュートをして得点を競うスポーツです。
日本では、まだまだマイナーなスポーツなので、フロアボールを知らない小学生は多く、今回参加してくれた子ども達も全員初心者でした。
今回フロアボールを教えてくださった方は、株式会社三和製作所の中村先生。
普段はフロアボールを通じて、学校への普及活動や知的障害者に向けてのイベント開催などをされています。
まずは、初心者の子ども達にも伝わるよう、″わかりやすい” かつ、″おもしろい” 説明でフロアボールについての話をしてくれました。
スウェーデン発祥のスポーツであること、世界大会もおこなわれるほど世界では有名なスポーツであること、最大の魅力はコートに柵があるため試合が中断されることが少ないことなど、他のスポーツとの違いに子ども達は驚きながらも真剣に話を聞いていました。
そして、フロアボールに欠かせない道具といえば、″スティック”
使い方によっては大けがに繋がる可能性もあるので、中村先生からスティックを使う時に大事にしてほしい3つの合言葉を教わりました。
それは・・・
1.『ゴルフ』禁止
2.『畑』禁止
3.『剣道』禁止
みんながケガなく、楽しく、過ごせる時間にするためにも、1人1人の意識がとても大切です。そのためにも、今日はこの3つの合言葉を大事にすることを、子ども達と約束してからスタートしました。
説明を聞いた後は、さっそく基礎練習!
スティックの持ち方や、ボールの動かし方などを教わり、繰り返し練習しながら少しずつ体に覚えこませます。
初めは、ボールとスティックの距離感や扱いに苦戦していた子ども達でしたが、徐々にコツをつかむと自分の足元でボールを動かすことができるようになりました♪
つぎは、少し遠い距離からのシュート練習。
先生がやると簡単そうに見えますが、いざやってみると、なかなか真っすぐにボールが飛びません、、、
すると、先生から『つま先とスティックの面をシュートの打ちたい方向にむけて打つ』というアドバイスが!
何度も打ち続けると、少しずつ入るようになりました!
先生や選手の皆さんのテクニックがいかに難しいかを、身をもって感じる時間にもなりました。
そして、最後はお待ちかねの試合タイム!!4チームに分かれてたくさん試合をしました。
今回は柵を作れないため、なんと体育館全面がコートに!!普段とは違う感覚に子ども達の心も踊ります♪
学年混ざてのチーム分けでしたが、試合が始めると自然と声かけをしたり、動きを止めることなく全員がボールに対して積極的に絡みにいっていました。
でも、夢中になると合言葉の1つである『ゴルフ』をしてしまい、ファールをもらうこともしばしば、、、
何度もファールを繰り返しながらも、最後には正しいフォームでボールを打つことができるようになっていました!
プログラムの最後に子ども達から先生へ感想を伝える時間を作ると、
『最初はできなかったけど、できるようになって嬉しかった』
『楽しかったから、また継続的に来てほしい』
など嬉しい言葉をもらいました♪
今回多くの子ども達が参加してくれて、フロアボールの楽しさを伝えられたことは大変嬉しく思います。
知らない世界に挑戦するのは不安な気持ちもありますが、体験することで自分の好きなことや嫌いなことがわかったり、それ以上の出会いや発見があります。
そんな子ども達の未来に繋がるきっかけづくりができるよう、これからもしのわくではいろんなプログラムを実施して、子ども達といろんな人々を繋げていきたいです。
フロアボールを教えてくださった三和製作所の皆さん、本当にありがとうございました!
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P3xP4 World Analyze pages 34-35 transcription.
ニュクスへと至る異形の塔 “タルタロス”
タルタロスの誕生
月光館学園の場所で影時間にそびえ立つタルタロスは、10年前の爆発事故によってその存在が確認されることとなった。しかし、必ずしも爆発事故だけが原因というわけではない。この場所にエルゴノミクス研究所が建てられたのは、桐条鴻悦がシャドウの存在を知ってから世界各地で調査を行い、シャドウによる時空の歪みがもっとも顕著に確認された場所と同定したからであり、人工島開発計画のスタートと同時に研究所建設地に決めている。研究所がシャドウを集めて融合実験を進めたことで歪みが拡大したが、それ以前からこの場所にシャドウが集合しやすいポイントがあったのは確か。“死” のシャドウを作ることに失敗し、融合途中のシャドウが飛び散る爆発事故となったが、シャドウを集合させることですでに形作られていた時空の歪みは一帯に残り、以降影時間とタルタロスとしてこの場所に定着したものと考えられる。
シャドウの性質を考えれば、爆発事故が起こらなかったとしても、いずれは同じようなものが生まれただろう。
象徵的建造物
タルタロスの塔は、毎夜0時の “影時間” となった瞬間に造り直されるように見える。月光館学園があるはずの場所に、巨大な植物が成長する様子を早回しで見るように一気にそびえ立っていく。これは内部の構造が毎夜変化するという観測にも符合するが、影時間の間だけ月光館学園が物理的に “無くなっている” というわけではないため、実際そこに建っているものとは考えにくい。影時間は “現実” の1秒にも満たない一瞬だけが切り取られ、シャドウを構成する精神体で作られたレイヤー (���) が現実世界にかぶせられた状態。適性のない人間が “象徴化” レイヤーで覆われた状態となるのと同様に、月光館学園にはタルタロスというレイヤーが重ねられ、学園が見えなくなる。タルタロスの内部もいくつかの層で構成されており、塔が建つように見えるのは層のレイヤーが重ねられる視覚的現象と捉えることもできる。
タルタロスレイヤーで覆われた学園は、現実にそこにあったとしても影時間内からは知覚できない。
エルゴ研の名残
タルタロスの内部には、かつてその場所にあったエルゴノミクス研究所の残滓のようなものがあり、一部記録文書も発見できる。しかし、現実には月光館学園を建てる際に取り壊され、記録文書などが残っているわけはない。これは、タルタロスが基本的にはシャドウと同じ精神体によって構成されているからで、言ってみればその場所の記憶のようなものが構造に反映された結果そうなったもの。同様にタルタロス自体の内部構造も精神体からできたもので、タルタロス構造に取り込まれた精神体の記憶のようなものが反映されている。もっとも集合体が持つ混沌としたイメージなので、個人の思想などが出ているわけではない。下層は周辺に存在した精神体を材料としているせいか学園内部にも似た構造をしており、上層に行くと大型シャドウの一部が材料になっているためか異国的であったり、シュールレアリスム的なイメージが見られる。
文書の内容を見ると、強い想いはシャドウ化されていなくともタルタロスの構造に取り込まれやすいようだ。
最上階に降臨するニュクス・アバター
[守護する者たち]
“死” のシャドウ望月綾時が転じたニュクス・アバターは、タルタロス最上階に現れる。その手前には彼を守護するようにストレガが待ち受けていた。彼らも真相に肉薄していたことがわかる。
[ニュクスと同等の存在]
望月綾時はニュクスに取り込まれ、ほとんど区別のつかない状態だと自身で語っている。しかし、人間の中で生きたことで造られた綾時のパーソナリティは色濃く残っていて、綾時と変わらない声で語りかけることもできる。圧倒的な力はニュクスのものだが、最後まで綾時は綾時の意識を持ち続けたようだ。
[ニュクス・コア]
最後に発現する “世界” あるいは “宇宙” のタロットには、卵のような形のウロボロスの輪に囲まれた女性の姿が描かれている。四隅にいるワシ、雄牛、ライオン、天使の組み合わせはテトラモルフとも呼ばれる黙示録で神の玉座のそばに控える動物たち。二ュクスの中心核は、そのウロボロスの形にも似ている透明な輝く卵の姿をしていた。
タルタロスを構成する “七つの地”
第七の地 世俗の庭テベル
ユダヤにおける地獄は “ゲヘナ” と呼ばれるが、そこから発展した神秘思想では “七つの地” に細分化される。テベルは7つ目にあたる浅い層で、人間の世界にもっとも近い位置にある地獄。“七つの地” は神をシンボライズした “セフィロトの樹” と上下逆向きで対応しており、テベルは根本の基礎部分にあたる “イェンド” に相当する。
第六の地 奇顔の庭アルカ
6つ目のアルカはいわゆる “魔界” と呼ばれる地獄の主要な “大地 (アルカ)” で、一般的にはこの層を指して “ゲヘナ” と呼ぶ。この層自体も七つの部分に分けられ、聖書中で地獄を意味する “ハデス” はこの小分類のひとつ “シオウル (洞窟あるいは子宮の意)” を指していることが多い。セフィロトでは左足 “ホド” と対応している。
第五の地 無骨の庭ヤバザ
5つ目以下の層は基本的に悪魔も好まない荒れ地と言われていて、ヤバザは砂で覆われた乾燥した場所になっている。タルタロスの中ではエッシャーのだまし絵を思わせる視覚の混乱を起こさせるようなイメージとなる。セフィロトで対応する神の右足 “ネツァク” はホドと互いに補完する関係にあり、ヤバザとアルカも対の関係性がある。
第四の地 豪奢の庭ツィア
4つ目のツィアは草に覆われた乾燥地とされる。タルタロスでは名前の通り、黄金色の床に赤い絨毯が敷かれた王宮を思わせる絢爛豪華な階層となっている。セフィロトで対応する “ティフェレト” は “崇高” と訳される場所で神の心臓を象徴しており、神の頭・知性を象徴する部分に次いで重要な部分。ある意味、タルタロスの様相と符合している。
第三の地 焦土の庭ハラバ
3つ目のハラバは崖のように起伏の激しい土地で、作物が実らない不毛の地とされる。セフィロトでは神の左腕と法の裁きを象徴するゲブラ一にあたり、火星や “力” と関連付けられ “神の愛” ケセドと対になる存在。タルタロスでは間の中壁や床に七色のイルミネーションが灯るサイケデリックな空間になっている。
第二の地 憂鬱の庭アダマ
2つ目のアダマは、原初の人間アダムを作った “土” を意味する名前で、赤土ばかりの荒れ地である。セフィロトは、神の “愛” もしくは “慈愛” と右腕を象徴するケセド。タルタロスでは無数の星々が輝く白色の明るい光に包まれた場所となっており、ハラバとの対照的な関係が見て取れる。全体が混沌としたタルタロスの中では整然とした印象の空間。
第一の地 王居エレス
もっとも下に位置するエレスは潰れた廃墟のごとき場所で、逆さまのセフィロトを吊るされた人間に例えれば頭にあたる位置。セフィロトでは神の神聖を象徴するケテル、コクマー、ビナーの3つをまとめて “アティルド” と呼ぶ部分に相当する。タルタロスでは月の真下にある屋上にあたり、ニュクスが降臨するために用意された場所である。
ライプニッツの提唱する “モナド”
ゴッドフリート・ライプニッツ
『モナドロジー (単子論)」を提唱したドイツ出身の哲学者で、高名な数学者でもある (1646-1716年)。数学や科学だけでなく、哲学や経済学、神学までもひとつの体系的な学問にまとめようとしたことで知られている。後年ぺルリン科学アカデミー創設に参加して初代総裁となるが、それ以前に政治家であったことでも知られており、同時代の知識人とは精力的に交流していた。
世界を構成する真の単位
ギリシャ語で “単一の” という意味の「モノス」が由来の “根源” を意味する「モナド」という言葉は、古代ギリシャの数学者として有名なピタゴラスらが使い、ライプニッツがさまざまなものの最小単位の概念として発展させた。物質の最小単位である “アトム” を物質以外にも応用した考え方で、例えばこうした思想も、概念を可能な限り分解した最小の状態が “モナド” となる。
“深層モナド” へはタルタロスを徘徊する “刈り取る者” を倒さなければ到達することはできない。
タルタロスから繋がるもうひとつの空間として、強力なシャドウばかりが現れる “深層モナド” がある。
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1週間を振り返る
今週は正念場という感じでいよいよヤバい。今週ハマった点は上位から・・・
・使いたいソフトがPC仮想化必須な仕様なのが判明し正常稼働しているPCのbios触りたくないので調査時間が水泡に帰するが導入断念(PCが動かなくなった時のリスクの方が高い)。
・これは良いソフトだと思って導入してみたら、いきなりデータのインポートで躓き実はバグだらけな内実が判明。開発側の姿勢は「オープンソースなので自分でコード修正して対処してください」みたいな感じ。数分で済む程度の修正なら構わないが、多分他にもバグありそうだし、そこそこ時間の掛かるコード修正をする時間なんて有る訳が無いからこのソフトの当面使わない方針。
・なぜか動作しないコードと睨み合う事小1時間、あれこれ試しようやく動く。エラー原因はある値が大文字小文字を区別していた点。最近は大文字小文字を区別しないケースが多かったので盲点だった。自動で修正してくれたりしなかったりするのは開発環境による。大文字小文字を区別をするかどうか混在している場合も有る。色々統一されていないのは困りますな。
その他の近況。或いは今後余裕があったらやっておきたい事。
・移動時間や病院の待ち時間で、ヴィトゲンシュタインの論理哲学論考を読んでいる。読んでいて思ったが、論理学が割と好きで過去に囓ったり、prologとか調査した経験が無かったらこの本は早期に投げ出していただろう。つまり一見無駄に思えた昔の道楽が想像以上に威力を発揮している様だ。そういう背景を踏まえつつ読むと、この本の言わんとしている事が面白く感じられるかも知れない。それにしたって随分奇特な現象かも知れないが。
・今オレが使っているPCのデータが記憶装置の故障で飛んだら、終わるレベルでヤバいと確信出来る。そこでNASの更新を考えたい。今使っているnasはもう容量的にパンパンで厳しい。ミラー構成なので、新たにhdd2台を追加して1+0の構成にすれば倍の容量に出来る。資金は、多分大丈夫だろう。忙し過ぎて金を使う暇が無いから、オレらしくも無く金に余裕が有る。問題は作業時間の確保だ。nasを組み直す時間が無い。
・現在既にデスマーチ中だが、デスマーチが終わりもしないうちに次のデスマーチが始まるのが通例で有り、双方の期間には重複する部分が有る。つまり余裕を持ってスケジュールを組めない状態からスタートするので、デスマーチ化が最初から確定する。今やってるのが終わった後も、2週間もしないうちに次のタイムリミットが来る。
・昨日寝たのは朝6時だった。なぜなら朝6時まで作業が必要だったからだ。昼起床。素早く心身のリカバリーを図り、最低限の週末らしさを満喫。合間に小作業、日暮れ後は本格的に作業開始。今日は5時半には床に就く。
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我が国の未来を見通す(90)
『強靭な国家』を造る(27)
「強靭な国家」を目指して何をすべきか(その17)
宗像久男(元陸将)
─────────────────────
□はじめに
パレスチナ情勢については、10月22日、日本
を除くG7の6カ国からイスラエルの自衛権を支持
する一方でガザの民間人の人道支援を求める共同声
明が出されるなど、人道支援要求の世論、それにイ
スラエル国内の人質解放優先世論の力、それに欧米
首脳などの説得工作などが功を奏して、イスラエル
の本格的な地上攻撃開始は、当初計画よりかなり遅
れているようです。
イスラエルの歴史からすると珍しい決断だったと考
えますが、それだけ、今回のガザ地区への地上攻撃
の持つ意味がこれまでとは違ってきている証拠でも
あるのでしょう。極めつけが、24日、国連安保理
の場で、米国ブリンケン国務長官の「人道目的の一
時停戦が検討されなくてはならない」との発言でし
た。
一方、グテーレス国連事務総長がイスラエルのパレ
スチナ占領を批判する発言をしたり、いつもながら、
国連安保理が決議案を否決しあう形で“機能不全”
に陥っているなど、イスラエルの国連不信が限界に
達しているように見えます。イランを含むアラブ諸
国自体も反イスラエルという立場で必ずしも一枚板
ではないようなので、今後も、状況は刻々変わって
くることから、安易な予測は禁物でしょう。
その上で想像するに、イスラエルは、いかに人質解
放をするか、そして500キロに及ぼうとする地下
トンネルをいかに(できれば民間人に被害を与えな
い方法で)攻略するか、その作戦を練って、その上
で一部限定的な作戦を遂行しているのでしょう。
また、地上攻撃の代わりなのか、連日激しい空爆が
繰り返されていますが、それによる民間人犠牲者の
6割は、避難先であるガザ地区南部だったとの報道
もあります。国連事務総長のような発言もイスラエ
ルを追い込むだけで逆効果だと思いますが、無差別
に近い空爆もイスラエルが自らの首を絞める結果と
なって、やがて自制心のタガが外れ、“後に引けな
くなる”ことが懸念されます。
数年前、ベトナムを旅行した際、ベトナム戦争時に
使用されたサイゴン(現ホーチミン)市西側に広が
る巨大な地下施設「クチトンネル」を見学し、その
巧妙な造りに驚いたことがあります。アメリカは、
空から枯葉剤を含む絨毯(じゅうたん)爆撃を繰り
返しても攻略できず、ついには南ベトナムから撤退
する結果になったのでした。
「クチトンネル」は総延長約250キロといわれて
いましたが、その倍ほどの長さに及び、映像を見る
限り、長い時間をかけて極めて堅固に建造されてい
る地下トンネルを実際に攻略しようとすれば、多大
な時間を要し、犠牲者も半端でないことでしょう。
イスラエルが保有する最新の軍事技術をどのように
駆使するのかを含め、(不謹慎ではありますが)注
目しています。
ところで、今回のG6声明から外された我が国は、
文字通り“孤立国”になってしまいました。23日
の岸田首相の所信表明演説において、「経済」を連
呼する中での「人間の尊厳」とか「核兵器のない世
界」などの発言は、もちろん、理想であり、間違っ
てはいないとは思いますが、いかにも“空虚”に聞
こえるのは私だけでしょうか。
▼「国家戦略」をだれが作るか
いよいよ「国家戦略」指針の私案を提示したいと考
えますが、その前に、「国家戦略」を誰がつくるの
か、について一案を提言したいと考えます。
戦前の歴史を勉強しない人、あるいは軍国主義など
といって昭和の軍人たちにその責任を負わせること
のみを追求している歴史家たちには到底信じられな
いことだろうと思いますが、歴史をつぶさに学べば、
戦前の我が国の方が、現在よりはるかにダイナミッ
クで柔軟な国家運営をしていたことがわかります。
その典型的な組織が「陸軍省戦争経済研究班」(通
称「秋丸機関」と呼称)でした。少し補足しますと、
第1次世界大戦の頃から、戦争は単に軍事力だけで
はなく、経済、産業、教育、宣伝など「国力」のす
べてをもって遂行される「国家総力戦」の様相を呈
し、当時、欧州において身をもってその体験をした
永田鉄山あたりはその必要性を声高に唱えていまし
た(永田は陸軍の抗争の犠牲となって殺害されまし
た)。
この流れをうけて、我が国の経済力がないことを知
っていた陸軍は、日本における総力戦の実態と戦争
遂行の可能性などを研究するため、昭和14年春、
当時の我が国の最高頭脳を集めた本格的なシンクタ
ン「陸軍省戦争経済研究班」をスタートさせたので
す。
設立を提唱したのは、当時の政府や陸軍の首脳では
なく、「陸軍中野学校」の設立者、戦後は京都産業
大学の設立者として名を馳せた岩畔豪雄(いわくろ・
ひでお)大佐でした。このあたりにも目を見張る
ものがありますが、岩畔は、そのトップに、(軍政
とか作戦畑ではなく)経理畑の俊才、当時まだ41
歳の秋丸次朗中佐を指名し、組織造りを含めて全権
を委任しました。
秋丸は、実質的な研究リーダーとして、治安維持法
違反で検挙され保釈中の身であった東大経済学部助
教授のマルクス経済学者・有沢広巳を招きました。
それ以外に大学教授、企画院・外務省・農林省・文
部省などの少壮官僚、さらには民間企業・業界団体・
金融機関・民間調査機関・研究所などの精鋭たち
を集めて総勢200名程度の組織を作り上げて、昭
和16年まで約2年間、多士多才のメンバーをもっ
て様々な角度から研究に没頭したのです。
研究成果の細部は省略しますが、本研究班が導いた
開戦に至るシミュレーションについては、当時、東
條英機首相や杉山元参謀総長などとも共有しており、
その研究成果は、昭和16年11月15日に開催さ
れた大本営政府連絡会議で「対米英蘭蒋戦争終末促
進に関する腹案」(「腹案」と呼称)として決定さ
れたのでした。
私自身は、この「腹案」のような戦いを遂行してお
れば大東亜戦争はまた違った結果になったと考えて
いますが、「腹案」と実際の戦いはかなり違ってし
まいました。その原因も分かっていますが、ここで
は省略しましょう。
ここで問いかけたいのは、今の日本に、「国家戦略」
のような重要案件を策定するために、「秋丸機関」
のようなシンクタンクを作り、少壮の官僚、学者、
自衛官、民間企業人などの精鋭を一堂に会して時間
をかけて研究させるようなダイナミズムがあるだろ
うかということです。
私は、ここにあえて政治家を加えませんでしたが、
国の重要なテーマについて、いつも“専門家や官僚
に丸投げして足れり”として自ら問題意識も持たず、
必要性も感じず、学ぼうとしないような人たちは
“最初から戦力にならない”と思って外しただけで、
適任者がおられたら、当然、シンクタンクのリーダ
ー格になっていただくことを拒むものではありませ
ん。
一つだけ注文を付けるとすれば、「秋丸機関」の設
立に尽力した岩畔大佐のごとく、力のある政治家な
どでこのようなシンクタンクを作る必要性を唱える
人(たち)は、シンクタンク設立のために奔走し、
必要な基盤や経費は提供しても、当初から口を出す
のは厳に慎み、「若い世代に託す」ことが重要と考
えます。官民を含む各界には、若くても優秀でかつ
柔軟性があり、物事の本質を的確に見極めることが
できる優秀な人たちがたくさんおられると確信しま
す。
なお、前回紹介した『日本戦略論』(鎌田徹著)で
は、「戦略国家になるための人づくり」を提唱して
いますが、だいぶ時が経ったこともあり、残念なが
ら、今はそのような“時間的余裕”はないと考えま
す。仮に多少の問題はあっても、“今ある人材”を
最大限に活用するしかないと思うのです。
次いでながらもう少し補足しておきましょう。前に
も引用したように、『国民安全保障国家論』(船橋
洋一著)の冒頭には、コロナ禍やウクライナ戦争を
経験した結果として、「自分たちでみんなを守るこ
とができない社会は生き残れない」「自分の国を自
分たちで守れない国は生き残れない」「天(世界)
は自ら助くる者を助く」ということがわかったと紹
介されています。
著者は、それでも「国家」ではなく「国民」という
言葉にこだわっていますが、“利益の受容者である
「国民」目線を重視すべき”ことを強く意識してい
ると考えられ、本書に書かれているのは「“国家”
のあり様(形)」であることが理解できます。
私などの立場からすると、(元朝日新聞記者の)著
者のような立場の人が「ようやくここに気がついて
くれたか」と安堵する一方で、内外情勢の急激な変
化や「国力」が下降期にある“現時点”こそ、将来
のため、国家としての「打ち手」を真剣に議論する
時が来たことを国のリーダーたちに早く気づいてほ
しいと願うばかりです。だれかが問題意識と勇気を
もって、重い腰を上げて、“旗振り役”を演ずるこ
とを切に願っております。
繰り返しますが、「手遅れになる前に」です。様々
な思惑から場当たり的な所信表明演説とそれに対す
る質疑応答などで論戦を交わしている余裕はないと
思うのですが・・・。
▼「国家戦略」の指針の一案
さて、私も高齢世代です。「若い世代に託すべし」
と言った手前、過度な物言いは邪魔になると自覚し
つつも、本メルマガをここまで書き続けてきた以上、
「国家戦略」の指針のようなものの一案ぐらいは提
示しなければならないとの責任感にもかられます。
しかし、“指針のようなもの”といえども、そこに
含むべき内容の広さと深さを考えると、正直、いか
にまとめ上げるか、途方にくれます。
またしても、『日本の大戦略』のお力を借りて、ほ
ぼ一致している点を紹介しつつ、10年の歳月の変
化やアプローチの相違点などからの修正を加えて一
案としたいと考えます。なお紹介する順番などは私
の一存で本書を修正してあります。
まず本書が、平成23年の時点でこのような大胆な
「国家戦略」の指針なるものを考察し、提供してい
ることに対して改めて敬意を表したいと思います。
その第1には、「歴史的大変動に立ち向か覚悟を決
める」としていますが、当時より今の方が“歴史的
大変動”が顕著になっている国際社会そして我が国
ですから、ここに「立ち向か覚悟」が、国家として
も国民としても求められていると考えます。
本書は、具体的な「国家目標」などを考える前に、
このような「覚悟」をもって、「内向き志向、現状
維持志向を克服し、「『頼りがいのある日本』を目
指して国家アイデンティティを再構築する」ことを
提唱していますが、全く同意するものです。
「我が国がどのような未来を構築するか」、あるい
は「どこに向かっていくか」を明らかにするという
点でも全く同意です。なお本書では、目指す方向と
して「先進国安定化勢力日本」と呼称していますが、
そのような呼称を含めて議論が必要でしょう。
私は、この「歴史的大変動」の中には、「国力」が
下降期に入っている“我が国の国内事情”も含むと
考えていますので、具体的な指針の中には、「『国
力』の維持・増進のために国を挙げて立ち向かう」
旨の文言も挿入されるべきと考えます。
第2には、「安全」の国家目標として、「複層的な
課題に対応できる、実効性の高い安全保障政策を展
開する」ことです。
まさに、変動する国際社会の中で、我が国が「安定
化勢力」としての役割を果せるかどうか正念場でし
ょう。そのような視点をもって、現状から一歩踏み
込んで「安全保障政策を再構築する」ことが求めら
れており、具体的には、本書の「自国防衛/危機管
理の能力を強化する」「日米同盟の相互防衛的性格
を強め、同盟協力を総合化する」「グローバル・コ
モンズの安定化を図る」「同盟外の安全保障協力を
推進する」などの提唱は的を射ており、さらに強化
する必要があるでしょう。
実際に昨年末、「国家安全保障戦略」が策定されま
した。「安全保障」に絞れば、また表現こそ若干違
いますが、本書が提唱したような内容とおおむね一
致していると考えます。
しかし、すでに指摘したように、東アジア地域の
「核状況」が様変わりしつつあることから、日米両
国間の「核の傘」の信頼性の向上に加え、我が国独
自の核保有の議論を推進すべきと考えます。
また、「自国防衛/危機管理の能力を強化する」に
ついては、将来にわたって我が国迫って来る可能性
がある“脅威”については、短絡的に「南西正面」
などと決めつけないことも重要でしょう。将来戦は
「ハイブリッド戦」であることは間違いないとして
も、対象国が取り得る手段は多様であり、それらを
漏れなくすべて読み切った(見積もった)上で“一
寸の隙を見せない態勢”の構築が求められていると
考えます。
第3には、「富」を国家目標として、「先進的な経
済社会システムを構築する」ことを本書は紹介して
います。ここに「国力」の「ハード・パワー」の要
素のかなりの部分が含まれていますが、第2の「安
全」とも関連し、それぞれの分野の専門家の最適解
をもって国家施策にするようなことは厳に戒めるべ
きで、そのような弊害を排除するためにこそ、「国
家戦略」を策定していることを理解する必要がある
のです。
何度も例示したように、「太陽光発電所の建設のた
めの外国資本の導入に特段のチェックがなく、国防
上重要な施設の近傍を含め、広島県ほどの面積の国
土がすでに外国資本に渡っている」ような“現状”
を即刻是正する必要があります。そのための法律改
正などは急務でしょう。
その上で、必要な要素を総合的に考察して、我が国
として新しい「繁栄の形」をどのように具体化する
かが焦点となると考えます。その中には、国家を次
世代に託すためにも、若者世代が「将来の夢と希望」
を抱くことができるような施策を含むべきことは申
すまでもありません。
とはいえ、少子高齢化の進展から社会保障給付費な
どが大幅に膨れ上がることを予測し、過度な“バラ
マキ”は厳に戒め、「国民一人一人の夢や希望の実
現」と「国家(社会)として『富』の蓄積」の両目
標の同時達成に向けて、“個人の努力の必要性を促
し、努力の中に生きがいを見い出せる”ようなバラ
ンスのとれた「配分」を主眼とする「福祉の再定義」
も必要となることでしょう。
第4には、「変動する国際社会のもとでの日本の対
外構想を確立する」ことです。「安全」はもちろん、
食料やエネルギーなどのほぼ海外に依存している
「富」の分野においても、我が国は、将来にわたっ
て「国家として存立するための対外構想」には高い
優先順位を掲げて計画・実行する必要があります。
「頼りがいのある日本」をめざし(“孤立国・日
本”の存在感を発揮し)、本書でいう「大国間の協
調形成に尽力すること」「グローバルな課題に結果
を出す貢献をすること」「アジア諸国と深く交わり、
その不安定要因を抑制すること」などの提唱に異存
はありません。
前回述べたように、“自ら原則を立て、それに基づ
いて行動し、他国や他のアクターとも協力してい
く”という「自律」の重要性を理解した上で、「日
米同盟」をはじめ、」「クアッド」「自由で開かれ
たインド太平洋」などようやく“産声”を上げた枠
組みを一層深化する覚悟と「自律」の細部をしっか
り議論する必要があるでしょう。
第5に、「新しい『統治のかたち』をつくる」ため
の議論を推進することです。本書では、そのために
「安定した政権基盤を確立する」「官邸における外
交・安全保障戦略の司令塔を創出する」「戦略形成
の前提となるインテリジェンス機能を強化する」
「対外的な情報発信を刷新する」、そして最後に
「政治不信を克服し、有権者のオーナーシップ意識
を高める」として、国民の参加意識を高めるために、
NPOやシンクタンクなど政治と国民をつなぐ中間
組織の役割も重要であると結んでいます。
「戦略は統治を超えられない」という言葉も紹介し
ましたが、「国家戦略」を議論し、策定し、実行し
ようとすれば、現在の我が国の「統治のかたち」が
そこに“立ちはだかる障害”となる可能性は否定で
きないでしょう。
紹介しました『国民安全保障国家論』も、その終章
で「日本には『国家安全保障』という『国の形』が
ない。そして、その『国の形』をつくるのを阻んで
きた『戦後の形』がある」として、「『戦後の形』
のままでは日本は新しい時代の挑戦対応できない」
と訴え、新たに「国の形」を作る必要性を強調して
います。
私は、5つの指針の中で第5の「統治のかたち」の
議論が最も難しいと考えます。一方で、戦前戦後を
通じて一内閣の寿命が平均1.4年に満たないよう
な“現状”では、一貫した中長期的な「国家戦略」
の策定はおろか、導き出された国家目標に向かって
(たとえ、苦しくても)各種政策を推進し続けるこ
とは困難であることは明白でしょう。
「では、どうすべきか」については大議論を呼ぶこと
でしょう。しかし、ぜひともこのテーマまで踏み込
んで議論してほしいと願っています。
「国の形」についてはのちほど再び触れることにし
て、次回、「国家戦略」を総括し、その後に「ソフ
ト・パワー」のもう一つの要素である「国家意思」
を取り上げます。
(つづく)
(むなかた・ひさお)
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