#宝徳寺_ふうりん祈願
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[ 祈りの音 ] . . . 人々の祈りが、境内に響く夏の終わり。 . . . =================== 📸 2021.09 Houtoku-ji, Kiryu, Gunma . Nikon D5300 🎐🍃🎐🍃🎐🍃🎐🍃🎐 =================== . . . #japan #gunma #kiryu #houtokuji #houtokuji_furinkigan #houtokuji_furinmatsuri #houtokuji_windbellfestival #houtokuji_furin #houtokuji_windbell #furin #windbell #houtokuji_greenleaves #greenleaves #群馬 #桐生 #宝徳寺 #宝徳寺_ふうりん祈願 #宝徳寺_風鈴まつり #宝徳寺_風鈴 #風鈴 #宝徳寺_緑葉 #緑葉 #風鈴の音鳴る夏 #summer_windbell_sound #硝子玉の雨 #rain_of_glass_bells #清浄なる美しき境内 #clean_and_beautiful_precincts #緑葉セカイ #scent_of_green_leaves (宝徳寺) https://www.instagram.com/p/CVTe0FxvA0S/?utm_medium=tumblr
#japan#gunma#kiryu#houtokuji#houtokuji_furinkigan#houtokuji_furinmatsuri#houtokuji_windbellfestival#houtokuji_furin#houtokuji_windbell#furin#windbell#houtokuji_greenleaves#greenleaves#群馬#桐生#宝徳寺#宝徳寺_ふうりん祈願#宝徳寺_風鈴まつり#宝徳寺_風鈴#風鈴#宝徳寺_緑葉#緑葉#風鈴の音鳴る夏#summer_windbell_sound#硝子玉の雨#rain_of_glass_bells#清浄なる美しき境内#clean_and_beautiful_precincts#緑葉セカイ#scent_of_green_leaves
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日本の絶景スポットとパワースポット Japan travel,relaxing #59 平塚の金運パワースポット 土屋銭洗弁財天「天台宗妙圓寺(...
日本の絶景スポットとパワースポット Japan travel,relaxing music #59 平塚の隠れ金運パワースポット 土屋銭洗弁財天「天台宗妙圓寺(てんだいしゅうみょうえんじ)」平塚市 神奈川県 日本
Hiratsuka City, Kanagawa, Japan, Myouenji Temple
【relaxing music/study music/meditation music/nature sounds/sleep music/Japan】
神奈川県平塚市にある妙圓寺(みょうえんじ)は正式名称を和光山(わこうざん)醫王院(いおういん)妙圓寺(みょうえんじ)といい、 比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりゃくじ)を総本山とする天台宗のお寺です。
妙圓寺が開山された年代は残念ながら不詳ですが、1615年に比叡山の僧侶である舜尭阿闍梨(しゅんぎょうあじゃり)により中興されたと伝わっています。 阿弥陀如来座像(あみだにょらいざぞう)を御本尊とする「本堂」には、旧本尊薬師如来(きゅうほんぞんやくしにょらい)をはじめ数多くの仏像を安置されています。
境内の丘の上にある「寳珠殿(ほうしゅでん)」と名付けられた「辯天堂(べんてんどう)」があり、八臂宇賀辯財天(はっぴうがべんざいてん)が安置されております。
「思い描いた願いを必ず叶えて下さる」といわれる妙圓寺の八臂宇賀辯財天(はっぴうがべんざいてん)は8本の手にそれぞれ威徳を表す宝珠や宝刀を持ち、 頭上に人頭白蛇の「宇賀神」をいただき、面相はふくよかで微笑みをたたえ、常に「大黒天(だいこくてん)」と「毘沙門天(びしゃもんてん)」を従え、 回りを取り囲む十五童子(じゅうごどうじ)は人々の願いを具現し成就する使者として辯財天にお仕えするお姿を表現しています。
八臂宇賀辯財天(はっぴうがべんざいてん)様に願いを伝えるための言葉が「オン ソラソバテイエイ ソワカ」です。 これは、密教の真言(心の中に仏を感じるための呪文)で、弁財天に向かって唱えるためのものです。 金運アップを望むなら、この真言を唱えて八臂宇賀辯財天(はっぴうがべんざいてん)様と繋がることが近道になります。
「辯天堂(べんてんどう)」の真下には岩屋霊穴(いわやれいけつ)があり、岩屋本尊である宇賀神(うがじん)を中心に伝教大師像・天台大師像・胎蔵界大日如来・金剛界大日如来・舟形地蔵等が安置されています。
岩屋霊穴は奥行きが約50m程あり、奥へ行けば行くほどトンネルの高さが低くなりますが、かがめば大人でも通り抜けることができ、まさに辯財天様の「胎内くぐり」が体感できます。 この岩屋内で巳の日、巳の刻(午前10時)前後に護摩が焚かれ、願望成就の祈祷が行われます。
また、岩屋内には「銭洗い池(ぜにあらいいけ)」があり、「土屋銭洗辯財天」としても親しまれる枯れたことのない不思議な池があります。 この池の水でお金を清めると御利益により何倍にも増えると伝えられていることから足繁く通う人も多いとか・・・ お金持ちになりたいと思うことは人として自然なことです。 その大切なお金は、自分の所に巡ってくるまで様々な人の手に渡りいろいろな思いに触れてきます。
時にはお金が原因となり争いごとさえ起きてしまいます。 そこで、仏様の知恵の水でそのお金を洗い清め、お守りとして持ち歩くこともよいでしょう。洗い清めたお金を使う際「ありがとう」「ごちそうさま」などの言葉を添え気持ちよく使ってあげれば、銭洗いの御利益がさらに他の人に振り向けられることになり、まさに仏様の教えに叶うこととなります。 お金を��めることで自分の心も清め、世の為人の為に尽くす心を養いなさいというのが銭洗いの本義といえるかもしれません。
] 是非、「天台宗妙圓寺(てんだいしゅうみょうえんじ)」に行き、あなたの「思い描いた願い」を八臂宇賀辯財天(はっぴうがべんざいてん)様に届けてみては如何でしょうか!? あなたの努力と八臂宇賀辯財天(はっぴうがべんざいてん)様パワーで、きっと夢が実現します!!
■天台宗 和光山醫王院 妙圓寺(てんだいしゅう わこうざん いおういん みょうえんじ)の基本情報■
所在地:〒259-1205 神奈川県平塚市土屋1949
電話:0463-58-1436
参拝時間:9:00-17:00(冬季 16:00まで) ※参拝料は無料です
駐車場:普通車20台 ※無料
HP:https://benten-myouenji.jp
アクセス:
【車の場合】
東京方面から
・東名高速道路「厚木IC」から「小田原厚木道路」を経由、「平塚IC」から「62号線」を進み「��道77号」へ、「神奈川大学入口」を左折 名古屋方面から 東名高速道路「秦野中井IC」から約10分 「神奈川県道71号」を南へ、東名高速高架を潜ってすぐに左折 高速沿いの細い道を直進、右折して「県道77号」を進み、「神奈川大学入口」を左折
【電車の場合】
・JR平塚駅北口バス停から約26分 「妙円寺前(旧:早田寺前)」にて下車下さい
タイムライン
0:00 Start
0:01 富士山
0:11 妙圓寺(みょうえんじ)上空から 夏
0:22 妙圓寺(みょうえんじ)上空から 秋
0:31 寳珠殿(ほうしゅでん)辯天堂(べんてんどう)夏
0:36 寳珠殿(ほうしゅでん)辯天堂(べんてんどう)春桜
0:50 桜 2色咲き ※ハートに見える2色桜をお楽しみください!
1:05 メイン桜
1:16 山門 秋
1:27 山門 夏
1:31 参道→本堂入口
1:49 蓮(花)
1:53 妙圓寺(みょうえんじ)全景
1:57 北向地蔵尊(きたむきじぞうそん)
1:59 辯天堂(べんてんどう)と鳥居
2:10 寳珠殿(ほうしゅでん)辯天堂(べんてんどう)の鈴
2:15 八臂宇賀辯財天(はっぴうがべんざいてん)
2:31 稲荷宮(いなりのみや)
2:37 辯天堂(べんてんどう)と岩屋霊穴(いわやれいけつ)
2:44 石仏1
2:48 シオン(花)
2:50 石仏2
2:54 神橋(しんきょう)
2:58 錦鯉
3:00 トンボと石仏 ※青トンボは幸せの象徴とも言われています
3:03 岩屋霊穴(いわやれいけつ)
3:07 銭洗い池(ぜにあらいいけ)「土屋銭洗辯財天」としても親しまれる枯れたことのない不思議な池
3:09 岩屋霊穴(いわやれいけつ)本堂
3:22 胎蔵界大日如来(たいぞうかいだいにちにょらい)
3:26 辯天池・舟形地蔵・金剛界大日如来(べんてんいけ・ふながたじぞう・こんごうかいだいにちにょらい)
3:29 如意輪観音(にょいりんかんのん)
3:31 胎内くぐり
3:39 護摩供(ごまく)※巳の日には辯財天「護摩供」を岩屋にて修法します 5:46 岩屋霊穴(いわやれいけつ)本堂
5:52 宇賀神(うがじん)と不滅の法灯(ふめつのほうとう)
6:09 本堂の仏様 阿弥陀如来像(あみだにょらいぞう)
7:25 地蔵菩薩(じぞうぼさつ)
7:32 阿弥陀如来(あみだにょらい)
7:41 薬師如来(やくしにょらい)と十二神将(じゅうにしんしょう)
7:47 薬師如来(やくしにょらい)
7:54 阿弥陀如来(あみだにょらい)
8:06 真ん中上:宇賀神(うがじん)下段左から、毘沙門天(びしゃもんてん)•弁財天(べんざいてん)•大黒天(だいこくてん)
8:15 不空羂索観音(ふくうけんじゃくかんのん)
8:18 青不動明王(あおふどうみょうおう)
8:22 愛染明王(あいぜんみょうおう)
8:24 不動明王(ふどうみょうおう)
8:27 元三大師(がんざんだいし)
8:31 富士山(夕陽) 9:23 Fin
【GEAR】
・LUMIX DC-S1H
・LUMIX DC-S5
・LUMIX S PRO 16-35mm F4
・LUMIX S PRO 50mm F1.4
・DJI Mini2
【Music】 ・Epidemicsound - https://www.epidemicsound.com/music/featured/ #妙圓寺 #金運 #relaxing #銭洗弁天 #金運 #平塚市 #japantemple z #平塚市 #寺 #Japan #パワースポット一人旅 #myouenjitemple #hiratsukacity
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最初の特攻を命じたことによって、「特攻の産み親」と呼ばれることになった大西瀧治郎中将は、天皇が玉音放送を通じて国民に戦争終結を告げたのを見届けて、翌16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。
特攻作戦を採用した責任者といえる将官たち、前線で「おまえたちだけを死なせはしない」と言いながら特攻を命じた指揮官たちの中で、このような責任のとり方をした者は他に一人もいない。
そして、ひとり残された妻・淑恵さんも、戦後、病を得て息を引き取るまで33年間、清廉かつ壮絶な後半生を送っていた。
最初の慰霊法要に駆け込み、土下座した貴婦人
終戦の翌年、昭和21(1946)年3月のある日、全国の有力新聞に、
〈十三期飛行専修予備学生出身者は連絡されたし。連絡先東京都世田谷区・大山日出男〉 との広告が掲載された。
空襲で、東京、大阪、名古屋はもちろん、全国の主要都市は灰燼に帰し、見わたす限りの廃墟が広がっている。
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は昭和21年1月、「公職追放令」を出し、旧陸海軍の正規将校がいっさいの公職に就くことを禁止した。日本の元軍人が集会を開くことさえ禁じられ、戦犯の詮議も続いている。広告を見て、「戦犯さがし」かと疑う者も少なからずいたが、呼びかけ人の大山のもとへは全国から続々と連絡が寄せられた。
戦争が終わってこの方、掌を返したような世の中の変化で、生き残った航空隊員には「特攻くずれ」などという侮蔑的な言葉が投げかけられ、戦没者を犬死に呼ばわりする風潮さえもはびこっている。そんななか、大勢の戦友を亡くして生き残った者たちは、戦没者に対し、
「生き残ってすまない」
という贖罪の気持ちをみんなが抱いている。それは、はじめから陸海軍を志した、いわばプロの軍人も、戦争後期に学窓から身を投じた予備士官も、なんら変わるところがない率直な感情だった。
「十三期飛行専修予備学生」は、大学、高等学校高等科、専門学校(旧制)を卒業、または卒業見込の者のうち、10万���を超える志願者のなかから選抜された5199名が、昭和18(1943)年10月、土浦、三重の両海軍航空隊に分かれて入隊、特攻戦死者448名をふくむ1616名が戦没している。呼びかけに応じて集まった予備学生十三期出身者たちの意思は、
「多くの戦没者同期生の慰霊こそ、生き残った者の務めである」
ということで一致した。そして、同期生たちが奔走し、GHQ、警察、復員局の了承をとりつけて、ふたたび10月30日の新聞に、
〈十一月九日、第十三期飛行専修予備学生戦没者慰霊法要を東京築地本願寺にて行ふ〉
と広告を出し、さらにNHKに勤務していた同期生の計らいで、ラジオでも案内放送が流れた。
昭和21年11月9日、国電(現JR)有楽町駅から築地まで、焼跡の晴海通りを、くたびれた将校マントや飛行靴姿の青年たち、粗末ななりに身をやつした遺族たちが三々五々、集まってきた。築地本願寺の周囲も焼け野原で、モダンな廟堂の壁も焦げている。寺の周囲には、機関銃を構えたMPを乗せたジープが停まって、監視の目を光らせている。焼跡のなかでその一角だけが、ものものしい雰囲気に包まれていた。
広い本堂は、遺族、同期生で埋め尽くされた。悲しみに打ち沈む遺族の姿に、同期生たちの「申し訳ない」思いがさらにつのる。読経が終わると、一同、溢れる涙にむせびながら、腹の底から絞り出すように声を張り上げ、「同期の桜」を歌った。
歌が終わる頃、一人の小柄な婦人が本堂に駆け込んできた。「特攻の父」とも称される大西瀧治郎中将の妻・淑惠である。
大西中将は昭和19(1944)年10月、第一航空艦隊司令長官として着任したフィリピンで最初の特攻出撃を命じ、昭和20(1945)年5月、軍令部次長に転じたのちは最後まで徹底抗戦を呼号、戦争終結を告げる天皇の玉音放送が流れた翌8月16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。特攻で死なせた部下たちのことを思い、なるべく長く苦しんで死ぬようにと介錯を断っての最期だった。遺書には、特攻隊を指揮し、戦争継続を主張していた人物とは思えない冷静な筆致で、軽挙を戒め、若い世代に後事を託し、世界平和を願う言葉が書かれていた。
昭和19年10月20日、特攻隊編成の日。マバラカット基地のそば、バンバン川の河原にて、敷島隊、大和隊の別杯。手前の後ろ姿が大西中将。向かって左から、門司副官、二〇一空副長・玉井中佐(いずれも後ろ姿)、関大尉、中野一飛曹、山下一飛曹、谷一飛曹、塩田一飛曹
昭和19年10月25日、マバラカット���飛行場で、敷島���の最後の発進
淑惠は、司会者に、少し時間をいただきたいと断って、参列者の前に進み出ると、
「主人がご遺族のご子息ならびに皆さんを戦争に導いたのであります。お詫びの言葉もございません。誠に申し訳ありません」
土下座して謝罪した。淑惠の目には涙が溢れ、それが頬をつたってしたたり落ちていた。
突然のことに、一瞬、誰も声を発する者はいなかった。
われに返った十三期生の誰かが、
「大西中将個人の責任ではありません。国を救わんがための特攻隊であったと存じます」
と声を上げた。
「そうだそうだ!」
同調する声があちこちに上がった。十三期生に体を支えられ、淑惠はようやく立ち上がると、ふかぶかと一礼して、本堂をあとにした。これが、大西淑惠の、生涯にわたる慰霊行脚の第一歩だった。
生活のために行商を。路上で行き倒れたことも
同じ年の10月25日。港区芝公園内の安蓮社という寺には、かつて第一航空艦隊(一航艦)、第二航空艦隊(二航艦)司令部に勤務していた者たち10数名が、GHQの目をぬすんでひっそりと集まっていた。
関行男大尉を指揮官とする敷島隊をはじめとする特攻隊が、レイテ沖の敵艦船への突入に最初に成功したのが、2年前の昭和19年10月25日。三回忌のこの日に合わせて、一航艦、二航艦、合計2525名の戦没特攻隊員たちの慰霊法要をやろうと言い出したのは、元一航艦先任参謀・猪口力平大佐だった。安蓮社は、増上寺の歴代大僧正の墓を守る浄土宗の由緒ある寺で、住職が猪口と旧知の間柄であったという。
神風特攻隊敷島隊指揮官・関行男大尉。昭和19年10月25日、突入、戦死。最初に編成された特攻隊4隊(敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊)全体の指揮官でもあった。当時23歳
昭和19年10月25日、特攻機が命中し、爆炎を上げる米護衛空母「セント・ロー」
寺は空襲で焼け、バラックの一般家屋のような仮本堂であったが、住職は猪口の頼みに快く応じ、特攻隊戦没者の供養を末永く続けることを約束した。この慰霊法要は「神風忌」と名づけられ、以後、毎年この日に営まれることになる。
遺された「神風忌参会者名簿」(全六冊)を見ると、大西淑惠はもとより、及川古志郎大将、戸塚道太郎中将、福留繁中将、寺岡謹平中将、山本栄大佐、猪口力平大佐、中島正中佐……といった、特攻を「命じた側」の主要人物の名前が、それぞれの寿命が尽きる直前まで並んでいる。
生き残った者たちの多くは、それぞれに戦没者への心の負い目を感じつつ、慰霊の気持ちを忘れないことが自分たちの責務であると思い、��力や生命の続く限り、こういった集いに参加し続けたのだ(ただし、軍令部で特攻作戦を裁可した事実上の責任者である中澤佑中将、黒島亀人少将は、一度も列席の形跡がない)。
東京・芝の寺で戦後60年間、営まれた、特攻戦没者を供養する「神風忌」慰霊法要の参会者名簿。当時の将官、参謀クラスの関係者が名を連ねるなか、淑惠は、亡くなる前年の昭和51年まで欠かさず列席していた
十三期予備学生の戦没者慰霊法要で土下座をした大西淑惠は、その後も慰霊の旅を続けた。特攻隊員への贖罪に、夫の後を追い、一度は短刀で胸を突いて死のうとしたが、死ねなかった。ずっとのち、淑惠は、かつて特攻作戦渦中の第一航空艦隊で大西中将の副官を勤めた門司親徳(主計少佐。戦後、丸三証券社長)に、
「死ぬのが怖いんじゃないのよ。それなのに腕がふにゃふにゃになっちゃうの。それで、やっぱり死んじゃいけないってことかと思って、死ぬのをやめたの」
と語っている。
大西瀧治郎中将(右)と、副官・門司親徳主計大尉(当時)。昭和20年5月13日、大西の軍令部次長への転出を控えて撮影された1枚
暮らしは楽ではない。夫・大西瀧治郎はおよそ金銭に執着しない人で、入るにしたがって散じた。門司は、フィリピン、台湾での副官時代、大西の預金通帳を預かり、俸給を管理していたから、大西が金に無頓着なのはよく知っている。淑惠もまた、金銭には無頓着なほうで、もとより蓄えなどない。
家も家財も空襲で焼失し、GHQの命令で軍人恩給は停止され、遺族に与えられる扶助料も打ち切られた。
昭和3年2月、華燭の典を挙げた大西瀧治郎(当時少佐)と淑惠夫人
自宅でくつろぐ大西瀧治郎、淑惠夫妻。大西が中将に進級後の昭和18年5月以降の撮影と思われる
焼け残った千葉県市川の実家に戻って、淑惠は生きるために商売を始めた。最初に手がけたのは薬瓶の販売である。伝手を求めて会社を訪ね、それを問屋につなぐ。次に、飴の行商。元海軍中将夫人としては、全く慣れない別世界の生活だった。
昭和22(1947)年8月上旬のある日、薬瓶問屋を訪ねる途中、国電日暮里駅東口前の路上で行き倒れたこともある。このとき、たまたま日暮里駅前派出所で立ち番をしていた荒川警察署の日下部淳巡査は、知らせを受けてただちに淑惠を派出所内に運び、近くの深井戸の冷水で応急手当をした。
「質素な身なりだったが、その態度から、終戦まで相当な身分の人と思った」
と、日下部巡査はのちに語っている。柔道六段の偉丈夫だった日下部は、元海軍���備兵曹で、小笠原諸島にあった父島海軍航空隊から復員してきた。後日、淑惠が署長宛に出した礼状がもとで、日下部は警視総監から表彰を受けた。だが、その婦人が誰であるか知らないまま8年が過ぎた。
昭和30(1955)年、日下部は、元零戦搭乗員・坂井三郎が著した『坂井三郎空戦記録』(日本出版協同)を読んで坂井の勤務先を知り、両国駅前の株式会社香文社という謄写版印刷の会社を訪ねた。日下部は、昭和19(1944)年6月、敵機動部隊が硫黄島に来襲したとき、父島から硫黄島に派遣され、そこで横須賀海軍航空隊の一員として戦っていた坂井と知り合ったのだ。
香文社を訪ねた日下部は、そこに、あの行き倒れの婦人がいるのに驚いた。そして、この婦人が、大西中将夫人であることをはじめて知った。日下部は淑惠に心服し、こののちずっと、淑惠が生涯を閉じるまで、その身辺に気を配ることになる。
淑惠が、坂井三郎の会社にいたのにはわけがある。
淑惠の姉・松見久栄は、海軍の造船大佐・笹井賢二に嫁ぎ、女子2人、男子1人の子をもうけた。その男の子、つまり大西夫妻の甥にあたる笹井醇一が、海軍兵学校に六十七期生として入校し、のちに戦闘機搭乗員となった。
笹井醇一中尉は昭和17(1942)年8月26日、ガダルカナル島上空の空戦で戦死するが、戦死するまでの数ヵ月の活躍にはめざましいものがあった。ラバウルにいたことのある海軍士官で、笹井中尉の名を知らぬ者はまずいない。
その笹井中尉が分隊長を務めた台南海軍航空隊の、下士官兵搭乗員の総元締である先任搭乗員が坂井三郎だった。笹井の部下だった搭乗員はそのほとんどが戦死し、笹井の活躍については、坂井がいわば唯一の語り部となっている。
坂井は、海軍航空の草分けで、育ての親ともいえる大西瀧治郎を信奉していたし、
「敬愛する笹井中尉の叔母ということもあり、淑惠さんを支援することは自分の義務だと思った」
と、筆者に語っている。
坂井は淑惠に、両国で戦後間もなく始めた謄写版印刷店の経営に参加してくれるよう頼み、淑惠は、実家の了解を得て、夫の位牌を持ち、坂井の印刷店のバラックの片隅にある三畳の部屋に移った。日暮里で行き倒れた数年後のことである。
だが、坂井には、別の思惑もある。淑惠が経営に関わることで、有力な支援者を得ることができると考えたのだ。坂井の謄写版印刷の店は、福留繁、寺岡謹平という、大西中将の2人の同期生(ともに海軍中将)ほかが発起人となり、笹川良一(元衆議院議員、国粋大衆党総裁。A級戦犯容疑で収監されたが不起訴。のち日本船舶振興会会長)が発起人代表となって株式会社に発展した。
出資金は全額、坂井が出し、名目上の代表取締役社長を淑惠が務めることになった。会社が軌道に乗るまでは、笹川良一や大西に縁のある旧海軍軍人たちが、積極的に注文を出してくれた。淑惠は、香文社の格好の広告塔になったと言ってよい。
「裏社会のフィクサー」の大西に対する敬意
淑惠には、ささやかな願いがあった。大西の墓を東京近郊に建て、その墓と並べて、特攻隊戦没者を供養する観音像を建立するというものである。
苦しい生活のなかから細々と貯金し、昭和26(1951)年の七回忌に間に合わせようとしたが、それは到底叶わぬことだった。だが、この頃から慰霊祭に集う人たちの間で、淑惠の願いに協力を申し出る者が現れるようになった。
大西中将は、まぎれもなく特攻を命じた指揮官だが、不思議なほど命じられた部下から恨みを買っていない。フィリピンで、大西中将の一航艦に続いて、福留繁中将率いる二航艦からも特攻を出すことになり、大西、福留両中将が一緒に特攻隊員を見送ったことがあった。このときの特攻隊の一員で生還した角田和男(当時少尉)は、
「大西中将と福留中将では、握手のときの手の握り方が全然違った。大西中将はじっと目を見て、頼んだぞ、と。福留中将は、握手しても隊員と目も合わさないんですから」
と述懐する。大西は、自身も死ぬ気で命じていることが部下に伝わってきたし、終戦時、特攻隊員の後を追って自刃したことで、単なる命令者ではなく、ともに死ぬことを決意した戦友、いわば「特攻戦死者代表」のような立場になっている。淑惠についても、かつての特攻隊員たちは、「特攻隊の遺族代表」として遇した。
「大西長官は特攻隊員の一人であり、奥さんは特攻隊員の遺族の一人ですよ」
というのが、彼らの多くに共通した認識だった。
そんな旧部下たちからの協力も得て、昭和27(1952)年9月の彼岸、横浜市鶴見区の曹洞宗大本山總持寺に、小さいながらも大西の墓と「海鷲観音」と名づけられた観音像が完成し、法要と開眼供養が営まれた。
昭和27年9月、鶴見の總持寺に、最初に淑惠が建てた大西瀧治郎の墓。左は特攻戦没者を供養する「海鷲観音」
その後、昭和38(1963)年には寺岡謹平中将の筆になる「大西瀧治郎君の碑」が墓の左側に親友一同の名で建てられ、これを機に墓石を一回り大きく再建、観音像の台座を高いものにつくり直した。
墓石の正面には、〈従三位勲二等功三級 海軍中将大西瀧治郎之墓〉と刻まれ、側面に小さな字で、〈宏徳院殿信鑑義徹大居士〉と、戒名が彫ってある。再建を機に、その隣に、〈淑徳院殿信鑑妙徹大姉〉と、淑惠の戒名も朱字で入れられた。
この再建にあたって、資金を援助したのが、戦時中、海軍嘱託として中国・上海を拠点に、航空機に必要な物資を調達する「児玉機関」を率いた児玉誉���夫である。児玉は、海軍航空本部総務部長、軍需省航空兵器総局総務局長を歴任した大西と親交が深く、私欲を微塵も感じさせない大西の人柄に心服していた。大西が割腹したとき、最初に官舎に駆けつけたのが児玉である。
昭和20年2月、台湾・台南神社で。左から門司副官、児玉誉士夫、大西中将
児玉は、昭和20(1945)年12月、A級戦犯容疑で巣鴨プリズンに拘置され、「児玉機関」の上海での行状を3年間にわたり詮議されたが、無罪の判定を受けて昭和23(1948)年末、出所していた。
巣鴨を出所したのちも、淑惠に対し必要以上の支援はせず、一歩下がって見守る立場をとっていた。「自分の手で夫の墓を建てる」という、淑惠の願いを尊重したのだ。だから最初に墓を建てたときは、協力者の一人にすぎない立場をとった。
だが、再建の墓は、大西の墓であると同時に淑惠の墓でもある。児玉は、大西夫妻の墓は自分の手で建てたいと、かねがね思っていた。ここで初めて、児玉は表に出て、淑惠に、大西の墓を夫婦の墓として建て直したいが、自分に任せてくれないかと申し出た。
「児玉さんの、大西中将に対する敬意と追慕の念は本物で、見返りを何も求めない、心からの援助でした。これは、『裏社会のフィクサー』と囁かれたり、のちにロッキード事件で政財界を揺るがせた動きとは無縁のものだったと思っています」
と、門司親徳は言う。
鶴見の總持寺、大西瀧治郎墓所の現在。墓石に向かって左側に海鷲観音と墓誌、右側には遺書の碑が建っている
大西瀧治郎の墓石右横に建てられた遺書の碑
墓が再建されて���要が営まれたとき、淑惠が参会者に述べた挨拶を、日下部巡査が録音している。淑惠は謙虚に礼を述べたのち、
「特攻隊のご遺族の気持ちを察し、自分はどう生きるべきかと心を砕いてまいりましたが、結局、散っていった方々の御魂のご冥福を陰ながら祈り続けることしかできませんでした」
と、涙ながらに話した。
「わたし、とくしちゃった」
淑惠は、昭和30年代半ば頃、香文社の経営から身を引き、抽選で当った東中野の公団アパートに住むようになった。3階建ての3階、六畳と四畳半の部屋で、家賃は毎月8000円。当時の淑惠にとっては大きな出費となるので、児玉誉士夫と坂井三郎が共同で部屋を買い取った。ここには長男・多田圭太中尉を特攻隊で失った大西の親友・多田武雄中将夫人のよし子や、ミッドウェー海戦で戦死した山口多聞少将(戦死後中将)夫人のたかなど、海軍兵学校のクラスメートの夫人たちがおしゃべりによく集まった。門司親徳や日下部淳、それに角田和男ら元特攻隊員の誰彼も身の周りの世話によく訪ねてきて、狭いながらも海軍の気軽な社交場の趣があった。
「特攻隊員の遺族の一人」である淑惠には、多くの戦友会や慰霊祭の案内が届く。淑惠は、それらに���体調が許す限り参加し続けた。どれほど心を込めて慰霊し、供養しても、戦没者が還ることはなく、遺族にとって大切な人の命は取り返しがつかない。この一点だけは忘れてはいけない、というのが、淑惠の思いだった。
大西中将は生前、勲二等に叙せられていたが、昭和49(1974)年になって、政府から勲一等旭日大綬章を追叙された。この勲章を受けたとき、淑惠は、
「この勲章は、大西の功績ではなく、大空に散った英霊たちの功績です」
と言い、それを予科練出身者で組織する財団法人「海原会」に寄贈した。大西の勲一等の勲章は、茨城県阿見町の陸上自衛隊武器学校(旧土浦海軍航空隊跡地)内にある「雄翔館」(予科練記念館)におさめられている。
昭和49年、大西瀧治郎を主人公にした映画「あゝ決戦航空隊」が東映で映画化され、淑惠は京都の撮影所に招かれた。大西中将役の鶴田浩二、淑惠役の中村珠緒とともに撮られた1枚
淑惠は、毎年、この地で開催されている予科練戦没者慰霊祭にも、欠かさず参列した。
「こういう会合の席でも、奥さんはいつも自然体で、ことさら変わったことを言うわけではない。しかし短い挨拶には真情がこもっていて、その飾らない人柄が参会者に好感をもたれました。大西中将は『特攻の父』と言われますが、奥さんはいつしか慰霊祭に欠かせない『特攻の母』のようになっていました」
と、門司親徳は振り返る。
昭和50(1975)年8月、淑惠は最初に特攻隊を出した第二〇一海軍航空隊の慰霊の旅に同行し、はじめてフィリピンへ渡った。
小学生が手製の日の丸の小旗を振り、出迎えの地元女性たちが慰霊団一人一人の首にフィリピンの国花・サンパギータ(ジャスミンの一種)の花輪をかける。特攻基地のあったマバラカットの大学に設けられた歓迎会場では、学長自らが指揮をとり、女子学生が歌と踊りを披露する。警察署長が、慰霊団の世話を焼く。
予想以上に手厚いもてなしに一行が戸惑っていたとき、突然、淑惠が壇上に上った。
「マバラカットの皆さま、戦争中はたいへんご迷惑をおかけしました。日本人の一人として、心からお詫びします。――それなのに、今日は、こんなに温かいもてなしを受けて……」
涙ぐみ、途切れながら謝辞を述べると、会場に大きな拍手が起こった。
淑惠は、翌昭和51(1976)年にも慰霊団に加わったが、昭和52(1977)年6月、肝硬変をわずらって九段坂病院に入院した。この年の4月、二〇一空の元特攻隊員たちが靖国神社の夜桜見物に淑惠を誘い、砂利敷きの地面にござを敷いて夜遅くまで痛飲している。
「こんなお花見、生まれて初めて……」
77歳の淑惠は、花冷えのなかで嬉しそうに目を細め、しみじみつぶやいた。
九段坂病院5階の奥にある淑惠の病室には、門司親徳や、かつての特攻隊員たちも見舞いに駆けつけ、人の絶えることがなかった。児玉誉士夫は、自身も病身のため、息子の博隆夫妻に見舞いに行かせた。香文社時代の同僚、遠縁の娘など身近な人たちが、献身的に淑惠の世話をした。日下部淳は、警察の仕事が非番の日には必ず病院を訪れ、ロビーの長椅子に姿勢よく座って、何か起きたらすぐにでも役に立とうという構えだった。
昭和53(1978)年2月6日、門司親徳が午前中、病室に顔を出すと、淑惠は目をつぶって寝ていた。淑惠が目を開けたとき、門司が、
「苦しくないですか?」
とたずねると、小さく首をふった。そして、しばらくたって、淑惠は上を向いたまま、
「わたし、とくしちゃった……」
と、小さくつぶやいた。子供のようなこの一言が、淑惠の最期の言葉となった。淑惠が息を引き取ったのは、門司が仕事のために病室を辞去して数時間後、午後2時24分のことであった。
「『とくしちゃった』という言葉は、夫があらゆる責任をとって自決した、そのため、自分はみんなから赦され、かえって大事にされた。そして何より、生き残りの隊員たちに母親のようになつかれた。子宝に恵まれなかった奥さんにとって、これは何より嬉しかったんじゃないか。これらすべての人に『ありがとう』という代わりに、神田っ子の奥さんらしい言葉で、『とくしちゃった』と言ったに違いないと思います」
――門司の回想である。
淑惠の葬儀は、2月18日、總持寺で執り行われた。先任参謀だった詫間(猪口)力平が、葬儀委員長を務め、数十名の海軍関係者が集まった。納骨のとき、ボロボロと大粒の涙を流すかつての特攻隊員が何人もいたことが、門司の心に焼きついた。
こうして、大西淑惠は生涯を閉じ、その慰霊行脚も終わった。残された旧部下や特攻隊員たちは、淑惠の遺志を継いで、それぞれの寿命が尽きるまで、特攻戦没者の慰霊を続けた。戦後すぐ、芝の寺で一航艦、二航艦の司令部職員を中心に始まった10月25日の「神風忌」の慰霊法要は、元特攻隊員にまで参会者を広げ、平成17(2005)年まで、60年にわたって続けられた。60回で終わったのは、代のかわった寺の住職が、先代の約束を反故にして、永代供養に難色を示したからである。
大西中将の元副官・門司親徳は、「神風忌」の最後を見届け、自身が携わった戦友会の始末をつけて、平成20(2008)年8月16日、老衰のため90歳で亡くなった。昭和と平成、元号は違えど、大西瀧治郎と同じ「20年8月16日」に息を引き取ったのは、情念が寿命をコントロールしたかのような、不思議な符合だった。
大西夫妻の人物像について、門司は生前、次のように述べている。
「大西中将は、血も涙もある、きわめてふつうの人だったと思う。ふつうの人間として、身を震わせながら部下に特攻を命じ、部下に『死』を命じた司令長官として当り前の責任のとり方をした。ず���ぬけた勇将だったとも、神様みたいに偉い人だったとも、私は思わない。だけど、ほかの長官と比べるとちょっと違う。人間、そのちょっとのところがなかなか真似できないんですね。ふつうのことを、当り前にできる人というのは案外少ないと思うんです。軍人として長官として、当り前のことが、戦後、生き残ったほかの長官たちにはできなかったんじゃないでしょうか
奥さんの淑惠さんも、無邪気な少女がそのまま大人になったような率直な人柄で、けっして威厳のあるしっかり者といった感じではなかった。でも、人懐っこく庶民的で、人の心をやわらかく掴む、誠実な女性でした。長官は、そんな淑惠さんを信じて後事を託し、淑惠さんは、つましい生活を送りながら、夫の部下たちやご遺族に寄り添って天寿を全うした。
正反対のタイプでしたが、理想的な夫婦だったんじゃないでしょうか。いまの価値観で見ればどう受け止められるかわかりませんが……」
そう、現代の価値観では計り知れないことであろう。責任ある一人の指揮官と、身を捨てて飛び立った若者たち。そして、自決した夫の遺志に殉ずるかのように、最期まで慰霊に尽くし続けた妻――。
「戦争」や「特攻」を現代の目で否定するのは簡単だ。二度と繰り返してはならないことも自明である。しかし、人は自分が生まれる時や場所を選べない。自らの生きた時代を懸命に生きた人たちがいた、ということは、事実として記憶にとどめておきたい。
旧軍人や遺族の多くが世を去り、生存隊員の全員が90歳を超えたいまもなお、全国で慰霊の集いが持たれ、忘れ得ぬ戦友や家族の面影を胸に、命がけで参列する当事者も少なくない。彼らの思いを封じることは誰にもできないはずだから。
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ざこば・鶴瓶らくごのご お題一覧 1992年 1 過労死・つくし・小錦の脂肪 2 一年生・時短・ニューハーフ 3 レントゲン・混浴・アニマル 4 ゴールデンウイーク・JFK・セクハラ 5 暴走族・かさぶた・バーコード 6 タイガース・母の日・入れ墨 7 目借り時・風呂桶・よだれ 8 しびれ・歯抜け・未婚の娘 9 ヘルニア・目ばちこ・フォークボール 10 造幣局・社員割引・オリンピック 11 父の日・猥褻・丁髷 12 ピエロ・ナメクジ・深爪 13 ミスユニバース・特許・虫さされ 14 魔法使いサリー・祇園祭・円形脱毛症 15 サザエさん・ジャンケン・バーゲンセール 16 ト音記号・北方領土・干瓢 17 妊婦体操・蚊帳・ビヤガーデン 18 身代わり・車だん吉・プラネタリウム 19 床づれ・追っかけ・男の涙 20 海月・肩パット・鶏冠 21 放送禁止用語・お年寄り・ピンポンパン 22 おかま・芋掘り・大人げない 23 復活・憧れ・食い逃げ 24 蒲鉾・風は旅人・半尻 25 泉ピン子・ヘルメット・クリーニング 26 美人姉妹・河童・合格 27 スカート捲り・ケツカッチン・秋の虫 28 チンパンジー・フォークダンス・いなりずし 29 稲刈り・小麦粉・フランス人 30 日本シリーズ・鶴瓶・落葉 31 クロスカウンター・学園祭・タクシー 32 付け睫毛・褌ペアー誕生・ツアーコンダクター 33 泣きみそ・ボーナス一括払い・ぎゅうぎゅう詰め 34 静電気・孝行娘・ホノルルマラソン 35 暴れん坊将軍・モスラ・久留米餅 1993年 36 栗きんとん・鶴・朝丸 37 成人式・ヤクルトミルミル・まんまんちゃんあん 38 夫婦善哉・歯磨き粉・夜更かし 39 金の鯱・オーディション・チャリティーオークション 40 ひ孫・いかりや長介・掃除機 41 北京原人・お味噌汁・雪祭り 42 視力検査・フレアースカート・美術館めぐり 43 矢鴨・植毛・うまいもんはうまい 44 卒業式・美人・転た寝 45 らくごのご・浅蜊の酒蒸し・ハットリ君 46 コレラ・さぶいぼ・お花見 47 パンツ泥棒・オキシドール・上岡龍太郎 48 番台・ボランティア・健忘症 49 長嶋監督・割引債・厄年 50 指パッチン・���桜・ポールマッカートニー 51 同級生・竹輪・ホモ 52 破れた靴下・海上コンテナ・日本庭園 53 シルバーシート・十二単衣・筍 54 ぶんぷく茶釜・結納・横山ノック 55 睡眠不足・紫陽花・厄介者 56 平成教育委員会・有給休暇・馬耳東風 57 生欠伸・枕・短気は損気 58 雨蛙・脱税・右肩脱臼 59 鮪・教育実習・嘘つき 60 天の川・女子短期大学・冷やし中華 61 東京特許許可局・落雷・蚊とり線香 62 真夜中の屁・プロポーズ・水戸黄門諸国漫遊 63 五条坂陶器祭・空中庭園・雷 64 目玉親父・恐竜・熱帯夜 65 深夜徘徊・パンツ・宮参り 66 美少女戦士セーラームーン・盆踊り・素麺つゆ 67 水浴び・丸坊主・早口言葉 68 桃栗三年柿八年・中耳炎・網タイツ 69 釣瓶落とし・サゲ・一卵性双生児 70 台風の目・幸・ラグビー 71 年下の男の子・宝くじ・松茸狩り 72 関西弁・肉まんあんまん・盗塁王 73 新婚初夜・サボテン・高みの見物 74 パナコランで肩こらん・秋鯖・知恵 75 禁煙・お茶どすがな・銀幕 76 ラクロス・姥捨山・就職浪人 77 掛軸・瀬戸大橋・二回目 78 海外留学・逆児・マスターズトーナメント 79 バットマン・戴帽式・フライングスポーツシューター 80 法螺貝・コロッケ・ウルグアイラウンド 81 明治大正昭和平成・武士道・チゲ鍋 1994年 82 アイルトンセナ・正月特番・蟹鋤 83 豚キムチ・過疎対策・安物買いの銭失い 84 合格祈願・パーソナルコンピューター・年女 85 一途・血便・太鼓橋 86 告白・ラーメン定食・鬼は外、福は内 87 カラー軍手・放火・卸売市場 88 パピヨン・所得税減税・幕間 89 二十四・Jリーグ・大雪 90 動物苛め・下市温泉秋津荘・ボンタンアメ 91 雪見酒・アメダス・六十歳 92 座蒲団・蛸焼・引越し 93 米寿の祝・外人さん・コチョコチョ 94 談合・太極拳・花便り 95 猫の盛り・二日酔・タイ米 96 赤��符・キューピー・入社式 97 リストラ・龍神伝説・空巣 98 人間喞筒・版画・単身赴任 99 コッペン���定年退職・ハンドボール 100 百回記念・扇子・唐辛子 101 ビクターの手拭い・カーネーション・鉄腕アトム 102 自転車泥棒・見猿言わ猿聞か猿・トマト 103 紫陽花寺・豚骨スープ・阪神優勝 104 三角定規・黒帯・泥棒根性 105 横浜銀蝿・他人のふり・安産祈願 106 月下美人・フィラデルフィア・大山椒魚 107 鯨・親知らず・ピンクの蝿叩き 108 蛍狩・玉子丼・ウィンブルドン 109 西部劇・トップレス・レバー 110 流し素麺・目高の交尾・向日葵 111 河童の皿・コロンビア・内定通知 112 防災頭巾・電気按摩・双子 113 河内音頭・跡取り息子・蛸焼パーティ 114 骨髄バンク・銀杏並木・芋名月 115 秋桜・ぁ結婚式・電動の車椅子 116 運動会・松茸御飯・石焼芋 117 サンデーズサンのカキフライ・休日出勤・ウーパールーパー 118 浮石・カクテル・彼氏募集中 119 涙の解剖実習・就職難・釣瓶落し 120 ノーベル賞・めちゃ旨・台風1号 121 大草原・食い込みパンツ・歯科技工士 122 助けてドラえもん・米沢牛・寿貧乏 123 祭・借金・パンチ佐藤引退 124 山乃芋・泥鰌掬い・吊し柿 125 不合格通知・九州場所・ピラミッドパワー 126 紅葉渋滞・再チャレンジ・日本の伝統 127 臨時収入・邪魔者・大掃除 128 アラファト議長・正月映画封切り・ピンクのモーツァルト 1995年 129 御節・達磨ストーブ・再就職 130 晴着・新春シャンソンショー・瞼の母 131 家政婦・卒業論文・酔っ払い 132 姦し娘・如月・使い捨て懐炉 133 立春・インドネシア・大正琴全国大会 134 卒業旅行・招待状・引っ手繰り 135 モンブラン・和製英語・和風吸血鬼 136 確定申告・侘助・青春時代 137 点字ブロック・新入社員・玉筋魚の新子 138 祭と女で三十年・櫻咲く・御神酒徳利 139 茶髪・緊張と緩和・来なかったお父さん 140 痔・恋女房・月の法善寺横丁 141 ひばり館・阿亀鸚哥��染み 142 初めてのチュー・豆御飯・鶴瓶の女たらし 143 アデランス・いてまえだへん(いてまえ打線)・クラス替え 144 長男の嫁・足痺れ・銅鑼焼 145 新知事・つるや食堂・南無阿弥陀仏 146 もぐりん・五月病・石楠花の花 147 音痴・赤いちゃんちゃんこ・野崎詣り 148 酒は百薬の長・お地蔵さん・可愛いベイビー 149 山菜取り・絶好調・ポラロイドカメラ 150 お父さんありがとう・舟歌・一日一善 151 出発進行・夢をかたちに・ピンセット 152 ホタテマン・深夜放送・FMラジオ 153 アトピッ子・結婚披露宴の二次会・おさげ 154 初産・紫陽花の花・川藤出さんかい 155 ビーチバレー・轆轤首・上方芸能 156 ワイキキデート・鹿煎餅・一家団欒 157 但空・高所恐怖症・合唱コンクール 158 中村監督・水着の跡・進め落語少年 159 通信教育・遠距離恋愛・ダイエット 160 華麗なる変身・遠赤ブレスレット・夏の火遊び 161 親子二代・垢擦り・筏下り 162 鮪漁船・新築祝・入れ歯 163 泣き虫、笑い虫・甚兵衛鮫・新妻参上 164 オペラ座の怪人・トルネード・ハイオクガソリン 165 小手面胴・裏のお婆ちゃん・ガングリオン 166 栗拾い・天国と地獄・芋雑炊 167 夜汽車・鳩饅頭・スシ食いねぇ! 168 長便所・大ファン・腓返り 169 美人勢揃い・雨戸・大江健三郎 170 親守・巻き舌・結婚おめでとう 171 乳首・ポン酢・ファッションショー 172 仮装パーティー・ぎっくり腰・夜更し 173 ギブス・当選発表・ちゃった祭 174 超氷河期・平等院・猪鹿蝶 175 コーラス・靴泥棒・胃拡張 176 誕生日・闘病生活・心機一転 177 毒蜘蛛・国際結婚・世間体 1996年 178 シナ婆ちゃん・有給休暇・免停 179 三姉妹・バリ・総辞職 180 家庭菜園・ピンクレディーメドレー・国家試験 181 ほっけ・欠陥商品・黒タイツ 182 内股・シャッターチャンス・金剛登山 183 嘘つき娘・再出発・神学部 184 金柑・恋の奴隷・ミッキーマウス 185 露天風呂・部員募集・ぞろ目 186 でんでん太鼓・ちゃんこ鍋・脳腫瘍 187 夢心地・旅の母・ペアウオッチ 188 (不明につき空欄) 189 福寿草・和気藹々・社交ダンス 190 奢り・貧乏・男便所 191 八十四歳・奥さんパワー・初心忘るべからず 192 お花見・無駄毛・プラチナ 193 粒揃い・高野山・十分の一 194 おぃ鬼太郎・シュークリーム・小室哲哉 195 くさい足・オリーブ・いやいや 196 ダイエットテープ・北京故宮展・細雪 197 若い季節・自動両替機・糞ころがし 198 おやじのパソコン・なみはや国体・紙婚式 199 降灰袋・ハンブルグ・乳首マッサージ 200 雪見酒・臭い足・貧乏・タイ米・コチョコチョ・雷・明治大正昭和平成・上岡龍太郎・お茶どすがな・トップレス(総集編、10題リレー落語) 201 夫婦喧嘩・川下り・取越し苦労 202 横綱・占い研究部・日本のへそ 203 マオカラー・海の日・息継ぎ 204 カモメール・モアイ・子供の事情 205 ありがとさん・文武両道・梅雨明け 206 団扇・ボーナス定期・芸の道 207 宅配・入道雲・草叢 208 回転木馬・大文字・献血 209 寝茣蓙・メロンパン・初孫 210 方向音痴・家鴨・非売品 211 年金生活・女子高生・ロングブーツ 212 エキストラ・デカンショ祭・トイレトレーニング 213 行けず後家・オーロラ・瓜二つ 214 金婚式・月光仮面・ロックンローラー 215 孫・有頂天・狸 216 雪女・携帯電話・交代制勤務 217 赤いバスローブ・スイミング・おでこ 218 参勤交代・ケーブルカー・七人兄弟 219 秋雨前線・腹八分・シルバーシート 220 関東煮・年賀葉書・学童保育 221 バンコク・七五三・鼻血 222 ホルモン焼き・男襦袢・学園祭
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%96%E3%81%93%E3%81%B0%E3%83%BB%E9%B6%B4%E7%93%B6%E3%82%89%E3%81%8F%E3%81%94%E3%81%AE%E3%81%94
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20190121 徳島1日目
徳島1日目。30分間文章を書くことに集中してどれだけ書けるか、行ってみようやってみよう。
5時45分ごろ起床。予定だった電車を一本乗り逃してしまい、持っていくはずだった本1冊とタブレットを忘れたことに気付く順調な滑り出し。
ただ、今回は可能な限り荷物を削いで旅に出ようと思っていた。どちらも必須アイテムでは無かったので、結果オーライとしよう。
朝6時に見た月は赤みが掛かっていて、近くて大きかった。それでいて、目を離した隙に一瞬で瑠璃色に飲み込まれる。朝、最初に聴く1曲をThee michelle gun elephantの「世界の終わり」にするべきか、及川なずな(CV.広瀬すず)の「瑠璃色の地球」にするべきか悩んだが前者にした。
空港行きのシャトルバスに乗る。車で行っても良かったのだけど、駐車場の料金と同じくらいだし、東京の移動では出来るだけ身体を自由にしたかった。スタァライトの純なな小説同人誌を読もうとしていたけど、人間は7時間寝ろ教としては睡眠時間が足り��なかったので、動き出して10分くらいで蒸気でホットアイマスクを装着し、空港までの約2時間をほとんど寝て過ごした。
mp3プレイヤーを全曲ランダムで再生していたのだけど、空港に着くアナウンスが聞こえた時、プレイヤーが「Future Stream」を流してくれた。操作性は悪いが空気の読めるいいやつだと思う。
空港で宝くじを引いたり寿司を食べる暇は無く、すぐ検査を終えて出発することになる。最初の頃は飛行機が離陸する瞬間の心臓がヒュッとする感じにいちいち興奮していたが、なんとなく飛行機にも慣れてきた感じがする。
東京から「離陸する」という儀式が大事なのだろうと何となく思った。バスの中でも前の人がせわしなく席を移動したり、バスが止まるのを待てずに席を立って準備を初めて怒られたり、機内でもCAさんが「機内が揺れて危ないから」と言っているにも関わらず、横のおじさんは頑なにスープのふたを受け取ろうとしなかったりした。バスの中で動いても到着時間は変わらないし、スープのふたは一緒に捨ててもらえばいいのに。何をそんなに急いでいるのだ。もう東京は空の下だぞと思った。
機内では『こえ部vol.13』の麻倉ももさん特集を読んだ。興味深かった描写はボールペンで線を引きまくって読むという、国語の教科書みたいな読み方をしてしまったが、3人とも線まみれになった。感想は後ほど、ここではない方で上げます。
11時ごろ徳島着。天気も良く、予定よりも早く到着する。着いてさっそく、明日に予約されている健康診断を先延ばしにする連絡をすることとなった。離陸したはずなのに、東京から呼び出しを食らい、やや現実感が戻って来てしまった。(完全にお前のせいだが)
空港のカウンターでレンタカーを借りる。日産マーチ。この車種に決めた理由は、徳島で日産マーチに乗りながら豊崎愛生さんの『march』を聴くという行為を行いたかったからという1点のみです。「家も車もいらないから 少し私と話をして」と歌われる曲なのだけど……。
レンタカーを借りるのは初めてだったので少し緊張したが、手続きは非常にすんなりと進んだ。明日も含めて、より安全運転を意識しなければならない。
CDを厳選して20枚持ち込んだものの、CDプレイヤーが付属していない痛恨のミス。古の人間なので、全ての車にはCDプレイヤーが付属していると勘違いしていた。Bluetoothを読み込んでくれることが分かったので、むしろCDを持って行かなくてよかったことが明らかになったが『save my world』と『��束タワー』の2枚はまだプレイヤーに同期していなかった……。
車が乗りやすすぎて感動する。バックの時のアシストがあるのも非常に便利で、自宅の車は相当なハンデを背負わされていることを再確認する。そのおかげで、他の車に乗ったときいつも感動できるくらい乗りやすいと感じるので、むしろ鍛えられてる気もするのだけど。
うどん屋『一匠』に直行する。 平日の開店直後だったにも関わらず、私が入った段階で席が満杯になった。定番メニューらしい釜揚げうどんを頼む。お作法が分からない。隣の人の動きを盗み見て、テーブルに置かれた生姜をすりおろして、デカイ徳利みたいな陶器から注がれたダシにネギを入れて準備を進めていると、15分ほどでうどんがやってくる。
お隣の香川県の名物である讃岐うどんのようなコシの強い麺を想像していたのだけど、徳島のうどんはやわらかい。そして非常にやさしく、繊細な味がする。とても美味しい。これだけ人気なのがよく分かる素晴らしい味だったし、寝不足で弱っている胃に対してすごく嬉しくもある最高の食事だった。やわらかくて優しくて繊細、これが徳島だと勝手に頷いていた。
東京にも美味しいものはあるのだけど、繊細さが欠けていることが多い。85点くらいの美味しいものがたくさん並んでいるという印象で、ある種の「最適解」がたくさんあるという気持ちがある。激辛とか大味なのがウケたりもしている。まあそれもいいのだけど、やっぱりこういう美味しいものを食べたいんだよなと思う。またも東京へのヘイトが姿を現して、東京を引きずっておるなと感じる。
その後は四国八十八箇所の一番札所『霊山寺』へと向かう。初詣代わりに、みたいなニュアンスでいたけれど、そういう感じでは無さそうだなというのを一瞬で悟る。
売店へ行くとお遍路巡りに必要なアイテムが売っており、礼拝のお作法を教えてくれるというので、素直に聞いてみることにした。とても親切に教えて頂き、ロウソク、お線香、納経帳、納め札を購入する。何年もかけて細々と回る予定なので、衣装の類は購入を控えた。
納め札には、住所氏名日付などを書く。いつも参拝するときに思うのだけど、一日何人もお願いを聞いていて、神様もどこの誰だか分からなくなるよなと思っていたので、この「どこの誰」だか分からせるシステムは非常に理にかなっているなと思ったし、合掌してお願いをしている時も、ちゃんと住所氏名からお願いをするようにした。
礼拝の手順としては、手を清める、納め札を納める、お線香を三本あげる、お賽銭を納める、合掌してお経を唱えるというもの。これを本堂と大師堂の2回行い、 納経帳にご本尊と寺の名称を書いてもらいご朱印を押してもらうというもの。お経は流石に分からなかったので、カンペとして頂いた般若心経をオタク特有の高速フロウで唱える。それ以外の所作は可能な限り心を込めて行った。
お遍路教本の最初に書いてあった「世の為に、自分を大きく生かしたい」という言葉、突き詰めると私の願いはそれだなと思ったので、完全にそれをお借りした。宗教にあまり興味はない(というかスフィアと豊崎愛生さんで忙しいので)が、何かをお願いしに行くときに、根本的な部分で思想が一致するのは悪いことではない。
おみくじも引く。末吉だったけど、書いてある言葉は今の私としては光栄なものであり、心に刻んでおくべきものだとも思ったので、引くべくして引いた末吉として財布の中にしまっておいた。
その後は、とくしま動物園にタヌキを観に行く予定だったのだけど、まさかの休園日。リサーチ不足を露呈する。お遍路の心得として、遍路中に起こった出来事は良いことも悪いことも修行の一環とし「ありがたいこと」と受け止めるべしというようなものがあった(意訳)。入念なチェックを怠らないための教訓として、ありがたいなぁと山奥の動物園を去っていった。
タヌキに会えなかった代わりに、金長神社という、平成狸合戦ぽんぽこなどでもおなじみの『金長たぬき』が祀られている神社を目指す。この神社、存続の危機という話があるそうで、確かに正直とてもありがたい(分かりにくい)場所にこじんまりと神社があって、カーナビを使っていたにも関わらず、軽く迷ってしまった。タヌキ様には道中の安全などを祈願する。
日も落ちてきたので徳島市街に向かうことにする。道中はチャットモンチーを熱唱していた。夕暮れ時の徳島で聴く『キャラメルプリン』はエモい。
車がいいのもあるけれど、徳島の道路はとても走りがいがあった。景観に気を取られそうなタイミングもあり、始めた走る道なので気を付けなくてはならないのだけど、ほとんど押しボタン式の信号で、人もそういないので、止まることなくスムーズに運転することができる。
徳島の中学生は、男の子も女の子も工事で使うみたいな白いヘルメットをして自転車通学をしている。豊崎愛生さんの写真集にもそんな一枚があったなということを思い出す。あと、これは以前から死ぬほど言っているのだけど、徳島の女子高生は…………タイツ率が非常に高い(※この日記で最も重要とされる描写)
徳島市街につくと流石に駐車場が空いていない。仕方がないので、東京と同じくらいの料金を払ってデパートの駐車場に車を停める。
あたりやの大判焼きを久しぶりに食べることが出来た。あの男心をくすぐる製作過程もさることながら、出来立ての大判焼きは原点にして頂点という味がする。1個70円は経済が破壊されている。
その後は、もはや馴染みとなった街並を歩きつつ、アニメイト→ufotableシネマ→南海ブックスとオタク活動を進めていく。
徳島の街のいいところは吉野川という一級河川が街の中に流れていることで、人は多く、車は行きかっているのだけど、青く澄んだ川が流れていることで、清浄さが保たれている。周囲は山で囲まれていて、ほどよく必要なものが揃っていて、空気が美味しい、ヤシの木が生えている。住民たちはゆったり阿波おどりを踊っている。東京からのコントラストとして、とてもちょうどいい場所で、それがこの街を好きなところだ。
1年に1回、この時期に徳島に旅行することを決めていると、定点観測的な視点を持つことが出来る。去年は沈みまくった1年だと各所ではきちらかしているけど、そんな中でも車が運転できるようになり、今日は今まで見ることが出来なかった景色を、やることができなかった体験をいろいろ行うことが出来た。この一年、全く前に進んでいなかった訳では無いのだなと、確認することが出来た気がした。
今まで食べたことがない店で徳島ラーメンを食べようと、東大本店へ向かう。東京にも出店している有名店なのだけど、東京も含めて、意外とここまで一度も食べたことがなかった。(というかほとんど『いのたに』さんで食べていた)
旅行中の食事は栄養価を気にせずに食べたいものを食べると決めているので、徳島ラーメン濃いめと雑炊セットを頼��だ。めちゃくちゃ美味しかったけど、雑炊でお米がお茶碗4杯分に膨れ上がり、お腹がありがたいことになった。
好きなものを食べるのはよいのだけど、そんなに胃の容量が大きくないことを常に忘れてしまう。徳島一日目の夜は毎回毎回調子に乗って食べ過ぎて、お腹をパンパンにして、戻しそうになりながらホテルに向かうことになる。ここは何年経っても成長がないところだ。
ホテルへ向かう。今回は車があるので、予算の中で「いい宿を」という条件で選んだ。徳島市街から20キロくらい車で運転することになり、夜に運転するには街灯がなく、しかも道幅が狭く、車通りも少ない恐怖の道を行くこととなった。怖くなったのでプレイヤーからスフィアの楽曲をガンガンに鳴らし、歌って自らを鼓舞しながら進んだ。
着いた宿は目の前が海岸で、スーパームーンの日に相応しい「月」の名前が冠されていた。私以外に誰もいない、シンと張り詰めた空気の夜の海岸に煌々とした光が降り注ぐ。海面に反射する月はどこか幻想的で、ここには私のことを知っている人が誰もいないのだと、それがなんとなくワクワクすることのように思えた。
大浴場でお風呂をいただき、売店を冷やかし(おつまみが売っているのにお酒が売っていないありがたい売店だった)今に至る。
一日目の話終わり。かなり乱暴に書いても、30分では書ききれず大分オーバーランしてしまった。これでも大分端折っているので、それだけ濃密な一日だったのだと思う。
明日の予定は大塚国際美術館へ行くことと、渦潮観潮船に乗ろうかなというくらいで、それ以外はホボ決めていない。何もやることが無ければ、やはり札所をまわることになるか。車を運転しているだけでも楽しかろう。飛行機に乗るのは深い時間の予定なので、じっくりと堪能したい。
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【霧島神宮】 御由緒 霧島神宮は天照大神 あまてらすおおみかみ より「豊あし原の千五百秋の瑞穂の国は是吾が子孫の王たる可き地なり宜しく爾皇孫就きて 治せ行くませ宝祚の隆えまむこと当に天壊と窮無かるぺし」との御神勅を戴いて、三種の神器と稲穂を棒持して 高千穂峰に天降りまして天壌無窮の皇基を建てられた日本の肇国の祖神、瓊瓊杵尊 (ににぎみのみこと) を主祭神として奉斎しています。 また相殿に別項のとおり六柱の皇霊を配祀しております。 御祭神 御主神 天饒石国饒石天津日高彦火瓊瓊杵尊 あめにぎしくににぎしあまつひたかほこほのににぎみのみこと 相殿神 木花咲耶姫尊 このはなさくやひめのみこと (お后) 彦火火出見尊 ひこほほでみのみこと (御子神) 豊玉姫尊 とよたまひめ のみこと (御子神のお后) 鸕鶿草葺不合尊 うがやふき あえずのみこと (御孫神) 玉依姫尊 たまよりひめのみこ (御孫神のお后) 神倭磐余彦尊 かむやまといわれひこのみこ (御曽孫神) 霊峰高千穂峰 日本で最も古い書物である古事記および日本書紀に瓊瓊杵尊 ににぎみのみこと が「筑紫日向の高千穂の久土流多気に天降ります」「日向の襲の高千穂に天降ります」と記されている霊峰が霧島神宮の背後に天聳立つ高千穂峰です。頂上には”天の逆鉾”があり、山容の崇高秀麗なことは筆紙に尽くすことはできません。高千穂峰一円は古えの日向の国の内であり古事記・日本書紀に記載されている日向国はその後「和銅年間」四郡を裂いて大隅国が置かれました。 社殿の創建 霧島神官は遠い神代の古えより縁りある霊峰高千穂峰に鎮座すると伝えられており、、延喜式にも日向国諸県郡霧島神社と記されています。旧記によると、本官はもと高千穂峰と御鉢「噴火口」との中間、脊門丘に奉斎されていましたが、御山の噴火のために悉く炎上し、村上天皇の天暦年間(950年)に天台宗の僧である性空 しょうくう 上人が高千穂河原に再興奉還しました。また、文暦元年(1234年)の大噴火により、社殿、僧坊寺が災禍に遭っております。その後、真言宗の僧 兼慶 けんけい 上人が藩主 島津忠昌公の命をうけて土御門天皇の文明16年(1484年)に社殿等を再興しておられます。 そのうち、別当寺 華林寺からの失火により全焼の厄に遭われたのを、第21代藩主島津吉貴公の寄進により正徳5年(1715年)に重建されたのが現在の御社殿です。約300年前の建物で、絢爛たる朱塗りの本殿、拝殿、登廊下、勅旨殿、門守神社等その配置は妙を得て輪奐の美をなしています。前述のごとく当神官は歴代の島津藩の崇敬篤く、縷々祈願奉賽がなされ、神領奉物の寄進御造営など敬神の誠が捧げられました。平成元年には国の重要文化財の指定をうけています。 (霧島神宮) https://www.instagram.com/p/CYfQvPCPddF/?utm_medium=tumblr
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3.3. 仏教の退廃
問い3:高麗の建国と滅亡について>3. 高麗の統治体制>3.3. 仏教の退廃
目次は こちら
3.3. 仏教の退廃
『朝鮮儒教の二千年』の「第4章 高麗王朝の仏教立国」の「2 王建の訓要十条」97ページには、その第一条で次のように記しています。
[我が国家の大業は、必ず諸仏の加護による。故に禅宗や教宗の寺院を創建し、住持を派遣して梵修するようにし、おのおのその業を治めるようにせよ。後世に姦臣が執政して僧たちの請謁にしたがい、寺社の争奪をする者があるかも知れない。宜しくこれを禁止せよ。]
このように、太祖は、仏教を尊崇することを第一条に掲げています。高麗時代の仏教は、護国仏教でした。この結果だと思いますが、『朝鮮の歴史・新版』の「第四章 高麗の国家と社会」の111~112ページには高麗の仏教に関して次の記述があります。
[(前略)高麗では各種の国家的仏教行事が盛大に行われた。寺院は国家鎮守の殿堂として国家の手で盛んに造営され、僧侶の数も多かった。 (中略) 高麗の仏教ないし寺院の勢力は、世俗の世界においても強大であった。国家から広大な土地と多くの奴婢が与えられた寺院は、商業・畜産・醸造・高利貸などの方法でその富をふやし、さらにその財産を守る為に僧兵を養った。]
第6代の成宗(在位982~997)はその即位と同時に、五品以上の京官たちに、封事(密封して差し出す意見書)を求めました。元老的文臣の崔承老の『時務疏』はそれに応えたものでした。『時務疏二八条』は長い前文があり、太祖の創業を回顧しながらその後に続く恵宗、定宗、光宗、景宗の治績を論評し、成宗が高麗王朝を安定化するための守成の大業を完遂するよう期待しました。『朝鮮儒教の二千年』の「第五章 成宗の崇は儒政策と催承老」の114ページに、崔承老が成宗に期待した君主像が次のように記されています。
[聖上(成宗)においては、宜しくその(前王の)善を取って行い、その不善を見て戒め、不急の務めは除き、無益の労はやめ、君は上で安らぎ、民は下で悦ぶようにすべきです。 始めを善くする心によって有終の美を考え、毎日その一日を慎み、休むといえども休んではならず、貴きによって君と成ろうとも尊大にならず、才徳が豊であろうとも驕ってはなりません。ただ己をうやうやしくする情を敦くし、民を憂うる心を絶やさなければ、福は求めずしておのずから至り、息災は祈��なくてもおのずから消えるでありましょう。どうして聖寿が万年も続き、王業が百世も続かないといえるでしょうか。]
この成宗に対する崔承老の期待は、人として、統治者として、現在にも通用する立派なものだと思います。しかし、崔承老が国王に求めた理想的な姿は、その後の多くの国王によって見事に裏切られてしまいました。
現存する時務疏の基本内容は、いかにして王権を強化して、地方の末端まで中央集権化を貫徹するかでした。そのための障害の第一は寺院勢力であり、次は地方豪族でした。この中で力点が置かれたのは僧侶の横柄や仏教行事による国家財政の浪費への批判でした。その例を第10条と第16条の一部から次に示します。
[臣が聞いたところでは、僧人が郡や県に往来しながら館や駅に止宿し、吏民を鞭打って、出迎えと接待をおろそかにしたことを責めています。
吏民はその肩書と任務を疑いながらも、敢えて言うことを畏れるために、その弊害は莫大であります。今より僧徒が館や駅に止宿することを禁じ、その弊害を除くべきです(第10条)。
世俗では善を植え付けることを名分にして、それぞれほしいままに仏宇を営造し、その数がはなはだ多いのです。また京師(都)と地方の僧徒たちが、私的な居所が欲しいから競って営造するために、州や郡の長吏たちに、民衆を徴発して使役させています。それは公役よりも急で民衆はこのためにはなはだ苦しんでいるのです。
願わくは厳しくこれに禁断を加え、(中略)百姓の労苦を除去しなければなりません(第16条)。]
僧侶の役割は仏陀の教えを説き、人々を苦しみから救うことのはずですが、逆に人々に苦難をもたらしており、これは既に僧侶ではなく、僧侶の皮を被った犯罪者です。
朝鮮の仏教は384年に晋から胡僧の摩羅難陀がやって来たことから始まったとされています。統一新羅の時代には仏教文化が栄えました。代表的な仏国寺には如来坐像・十一面観音像、梵天・帝釈天・文殊菩薩・普賢菩薩などが安置され、その他に147の寺跡があり、多くの僧が唐に渡って最新の仏教を学び、玄奘三蔵の下で学んだ僧もいます。また、念仏による救済を説いて浄土信仰を広げた元暁も居ました。
それなのに、高麗の仏教はなぜこのように堕落してしまったのだろうか。『朝鮮史1』の「第4章 高麗前期」の「5 高麗盛時の社会と文化」には「仏教とその他の宗教」の225ページに次の記述が見られます。
[仏教は鎮護国家の宗教と観念されて手厚く庇護された。僧侶の登庸試験として僧科が実施された。合格者には国家から、禅宗のトップを大禅師、教宗のトップを僧統とする位階(僧階)が与えられた。また国家・王室による仏教崇拝の象徴として、高僧が国師・王師に任じられた。 こうしたなかで、燃灯会や八関会、仁王道場をはじめとする各種の仏教儀礼、飯僧(僧侶に食事を供すること)、仏典の収集・刊行などの事業が、国を挙げて推進された。仏寺の造営も盛んであり、開京には法王寺、王輪寺、興国寺など十カ所の大刹のほか、多数の寺院が建立された。]
『世界大百科事典 第2版』の解説によれば、八関会(はちかんえ)に関して次の説明があります。
[八関会は朝鮮,高麗の国家的祭礼で燃灯会(ねんとうえ)とならぶ二大国儀の一つ。〈はっかんえ〉ともいう。本来は入信者に八戒を授ける仏教の儀式であった。新羅時代からその名が見えるが内容はわからない。高麗時代になると仏教色はうすれ、天霊・五岳・名山・大川・竜神などの土俗的な神をまつり収穫を祝う祭礼に変わった。例年11月15日前後の2日間行われた。第1日の小会では,国王の祖先拝謁、太子以下京官・外官の朝賀、楽戯の観覧と酒宴が行われ、第2日の大会では、小会とほぼ同様の儀式のほかに宋商人、東西蕃子(東女真と西女真)、耽羅 (済州島)人などの外国人の朝賀と宝物献上が行われた。]
本来は大切な仏教行事だったはずの「八関会」も、楽戯の観覧と酒宴の催しであり、宋商人など外国人から宝物を献上させる場になってしまっています。高麗社会全体が仏教を形骸化させ、享楽を求め堕落していたとも見えます。これでは末端の僧侶が地方の下級官吏や農民を下僕のように扱い苦しめていても仕方ないと言えます。
また、寺院にも存在する奴婢制度がもたらした人を人とも思わず酷使することを、僧侶に習慣化させた影響もあるように思います。高麗社会は奴婢を人とは見ておらず、便利な道具であり、財産として見ていたと伝えられています。そして奴婢に近い農民や下級官吏に対しても、酷い扱いが習慣化されたのだと思われます。
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【大聖勝軍寺】(だいせいしょうぐんじ)大阪府八尾市 *Blog貼付用
大阪府八尾市の旧奈良街道に面して建つ高野山真言宗の仏教寺院。山号は神妙椋樹山。 開基は聖徳太子、本尊は植髪太子(聖徳太子)。 聖徳太子建立三太子の一つで、叡福寺の「上の太子」、 野中寺の「中の太子」に対して、「下の太子」と呼ばれ、地元では単に「太子堂」と呼ばれています。聖徳太子(しょうとくたいし)が物部守屋(もののべのもりや)を滅ぼすにあたっ��、信貴山の毘沙門天(びしゃもんてん)に祈願し四天王(してんのう)をまつり、その加護により戦に勝ったので、この寺を建てたと伝わっています また、大聖勝軍寺の境内には神妙椋と馬蹄石、物部守屋の首を洗ったとされる守屋池が残され、四天王像などの重要な仏像などを所蔵する
【大聖勝軍寺】(だいせいしょうぐんじ)より国道25号線を100m程東に進んだところに【物部守屋の墓】があります。
所在地:大阪府八尾市太子堂3-3-16
アクセス:関西線JR八尾駅から南西方向へ歩いて5~6分。 国道25号線に面した市街地の中にります。
🔶八尾市と物部守屋 八尾市はかつて、大和と河内や摂津とを結ぶ交通の要所であり、古代史最大の軍事氏族である物部守屋大連の本拠があった地域。
🔸 物部守屋とは? 物部氏は飛鳥時代の大連(おおむらじ:大豪族)で、天皇家を除いて「天孫降臨」「国見」の逸話をもつ唯一の氏族。神武天皇よりも前に天磐船(あめのいわふね:神が天から降りる際の乗り物)により大和入りをした鐃速日命(にぎはやひのみこと)を祖先とする。鐃速日命は登美夜須毘売(とみやすびめ)を妻とし、物部の初代の宇摩志痲遅命(うましまじのみこと/可美真手命:うましまでのみこと)をもうけた。
元々は兵器の製造・管理を主に管掌していたが、しだいに大伴氏と並ぶ有力軍事氏族へと成長。5世紀代の皇位継承争いで軍事的な活躍を見せ、雄略朝には最高執政官を輩出するようになった。物部氏は解部(とべ:司法・検察機関)を配下とし、刑罰、警察、軍事、呪術、氏姓などの職務を担当し、盟神探湯(くかたち:古代日本の裁判)の執行者となった。
守屋の父は物部尾輿(もののべのおこし)、母は弓削の連の祖・倭古の娘(阿佐姫)。その弓削連の本拠地は河内国若江郡弓削郷(現在の大阪府八尾市)である。
🔸【MONONOBE MORIYA 】 物部 守屋 Soga Umako and Mononobe Moriya competed for Asuka’s imperial supremacy in 587 B.D. The battle was over in the area of Taishi-do, Okibe and Kinomoto in Yao city, Osaka, and the Umako and Prince Shōtoku sides won, winning three defeats.
https://kazuyoshi10000.wixsite.com/kazu1000/post/%E3%80%90mononobe-moriya-%E3%80%91-%E7%89%A9%E9%83%A8-%E5%AE%88%E5%B1%8B
🔸【物部守屋の墓】(もののべもりやのはか)
https://ameblo.jp/kazuyoshi1000/entry-12603808695.html
🔸物部守屋と八尾市内の神社
物部守屋の邸宅跡ともいわれる「渋川神社」をはじめ、矢作連の「矢作神社」、弓削連の「弓削神社」、後に阿刀連になる守屋の阿都の「跡部神社」など、物部一族の氏神を祀る神社が旧大和川(長瀬川)やその支流(玉串川や楠根川や平野川)沿いに鎮座しています。
🔸【矢作神社】(やはぎじんじゃ)
https://ameblo.jp/kazuyoshi1000/entry-12605392808.html
🔸「弓削神社」(ゆげじんじゃ)
*東側「弓削神社」(八尾市東弓削) – 旧若江郡東弓削村鎮座。旧村社。
https://kazu1000.wordpress.com/2019/12/15/%E3%80%90%E5%BC%93%E5%89%8A%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%80%91%EF%BC%88%E3%82%86%E3%81%92%E3%81%98%E3%82%93%E3%81%98%E3%82%83%EF%BC%89%EF%BC%8A%E6%9D%B1%E5%81%B4%E3%80%80%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%BA%9C%E5%85%AB-2/
所在地 :大阪府八尾市東弓削1丁目166
アクセス:JR大和路線 志紀駅下車。徒歩約5分
🔸「弓削神社」(ゆげじんじゃ)
*西側「弓削神社」(八尾市弓削町) – 旧志紀郡西弓削村(弓削村)鎮座。旧村社。
https://ameblo.jp/kazuyoshi1000/entry-12591040527.html
https://www.jalan.net/travel-journal/000042808/
住所:大阪府八尾市弓削町1-36 アクセス:JR大和路線 志紀駅下車。
駅前の国道25号を越えてすぐのところにあります。
🔸弓削道鏡(ゆげのどうきょう)について
弓削道鏡(ゆげのどうきょう、?~772年)は奈良時代の高僧で、
八尾市南部を拠点にしていた豪族・弓削(ゆげ)氏の出身です。
「弓削(ゆげ)」という文字は、
今も八尾市の地名に残っています。
🔸【跡部神社】(あとべじんじゃ)
https://kazu1000.muragon.com/entry/727.html
所在地 :大阪府八尾市亀井町2丁目4-5
アクセス: JR「久宝寺」駅から徒歩約16分
八尾市公式 歴史探索 『物部守屋・聖徳太子コース』 コース距離と時間 約71分 約6.5km
http://www.yaomania.jp/Course/courseDetail.asp?id=1
JR「八尾」駅
◉渋川神社 ◉ 跡部神社 ◉ 大聖勝軍寺 ◉ 物部守屋大連墳 ◉ 鏑矢塚 ◉ 弓代塚 ◉樟本神社(北木の本) ◉了意橋 ◉ 樟本神社(南木の本) ◉樟本神社(木の本) ◉稲城址
地下鉄谷町線「八尾南」駅
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【阪本研究所】 SK laboratory 💠貿易業務サポート 💠広告動画制作💠銘板制作販売
代表 Kazuyoshi Sakamoto
Email : [email protected]
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#GOTOトラベル #八尾市 #物部守屋
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●大御心【オオミココロ】●勅語●勅命●皇室典範●ドグマ
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●大御心【オオミココロ】●勅語●勅命●皇室典範●ドグマ 「女性宮家創設問題」が浮上している。 ・女系天皇反対-藤原正彦 https://www.dailymotion.com/video/x17qaz ●藤原正彦の男系天皇論【書きおこし】 | 歴史と文化 巡礼の旅日記 https://ameblo.jp/mejirotabi/entry-12464807343.html 2019/05/31 これは昔(小泉内閣の時に「女系天皇」が政治課題となった時代)、フジの「新報道2001」という番組に、数学者の藤原正彦先生が出演した時の書きおこしです。 男性司会者 藤原さんは「女系天皇」には反対だということですが、どうしてですか? ●藤原正彦、女系天皇を切る - 日本の傳統(伝統)を守らう! https://blog.goo.ne.jp/fuji2630/e/f1ab798f8c4ec8302bdcec16ba0d4405 2006/03/14 「國家の品格」の藤原正彦先生が 2006/03/12 のフジテレビの報道2001で 女系天皇をばっさりと切ってゐて、痛快でした。 司會: 藤原さんは女系天皇には反對(反対)ださうですが、どうしてですか? 藤原: 餘り(余り)にも明らか過ぎて、 1+1はどうして2かと言はれるやうなもので、 答へやうが無い。 譬(たと)へば2000年間男女男女で續(続)いて來たら、 今後永遠に男女男女と決まってるわけで、 或(あるい)は男男女、男男女と桂馬のやうに飛んで來たら、 此れからも永遠に桂馬のやうにする。 或(あるい)はですね、天皇家が毎朝1時間鰯の頭にお祈りしてきたとする、 そしたら今後永遠に鰯の頭にお祈りしないといけない。 傳統(伝統)とは其のやうな物で、ただただただ跪(ひざまづ)く物です。 論理も意義も何も考へる必要が無い。 其の傳統を守ること自身が最も價値(価値)があることだと、 此れを国民がみんな忘れてますね。
(この後、ケンブリッジ大學でのディナーの話。 12世紀からイギリスの白鳥は女王陛下の物で、 食べるのに許可が必要なことに、胸を張る教授の話) 皇室は二千年続く系統である。 憲法はその時の流行の主張である。 皇室典範は延々と続いてきた伝統である。 万世一系は延々と続いている伝統である。 憲法の下において世論の意見を聞いて変えるとはトンデモないこと。 不変なのが皇室で有り簡単に有識者などと如何わしいものの意見で 左右されるものではない。
今の利益主義と何ら変わりなくなってしまう。 老舗商法を悪く言う人がいるけれども決して悪いものではない。 楽だからこっちにアッチに変更ばかりしていては守れるものも守れなく成る。 私たちの血の中に脈々と流れているものは不変なものだ。 震災でそれは証明されている。 米国のような昨日今日出来た国とは違う。 ましてや長い年月 歴代の権力者に翻弄されてきた支那とも違う。 動画の中で英国の話で白鳥は総て女王陛下のもの。 こんなちやちな物事と一緒には出来無い。 個人のものなんてコレほど変な意見はない。 天皇家は自然をも含めた大切な心。 一時の世論と伝統を一緒のラインに置くのはおかしい。 おかしいのではなくて同列に扱う問題ではないということ。 自然の原理に近いものではないかと理解した。 思いやる心もココから出ているのでは無かろうか。 ●数学者が語る日本の国柄ー藤原正彦氏 - 草莽崛起ーPRIDE OF JAPAN http://prideofjapan.blog10.fc2.com/blog-entry-254.html?sp 2006/01/30 万世一系の美しい形に手を加えるなど、数学者としての美感が耐えられない。 お茶の水女子大学教授 藤原正彦 ふじわら まさひこ ■プロフィール 昭和十八年満州生まれ。数学者、エッセイスト。父は作家の新田次郎氏、母は戦後の大ベストセラー『流れる星は生きている』の著者、藤原てい氏。東京大学理学部数学科卒業。コロラド大学助教授などを経て現職。数学者でありながら、国語教育の重要性を訴えている。著書に『数学者の言葉では』『若き数学者のアメリカ』『遥かなるケンブリッジ』『祖国とは国語』など。近刊の『国家の品格』がベストセラーに。 前編 世にも恐ろしいことを ― はじめに、「皇室典範を考える有識者会議」(以下、有識者会議)の報告書についてのご感想は。 藤原◆私は、最近の「改革」についてはほとんど全てに腹を立てております。日本の昔からあった国柄を片端から壊してしまう愚行がまかり通るようになってしまったと。ただ政治上経済上外交上の失敗は腹を立てても蒼ざめることなどあり得ません。しかし、女性女系の天皇を認めるという有識者会議の報告書には、驚愕して蒼ざめました、「世にも恐ろしいことを」と。 ● 日本の伝統中の伝統、皇統に手を入れ、国体を揺るがそうというのです。数学者は一匹狼です。私一人で世界中を相手に戦うという気持ちでいつも生きていますから、徒党を組むのは屈辱と思うくらいです。ただ、今回ばかりは生まれて初めて発起人というものに名を連ね(皇室典範を考える会)、あちこちで書いたり話したりしています。万世一系を毀損するとは、あまりにも恐ろしいことです。 ●万世一系 - Wikipedia http://bit.ly/yMsBiw 万世一系(ばんせいいっけい)は、永久に一つの系統が続くこと。多くは皇室・皇統についていう。 伊藤博文は、皇位継承における万世不変の原則として、万世一系を以下のよう��定義している。 第一 皇祚を践むは皇胤に限る 第二 皇祚を践むは男系に限る 第三 皇祚は一系にして分裂すべからず 『古事記』と『日本書紀』を編集した人物は、神武天皇から仲哀天皇までの治世を記述した。これは、当代の天皇の正統性を確保するためである。 6世紀までの日本で王朝が次々と交代したか、複数の王朝が異なる地方を同時期に並列して支配していたことを示唆する手がかりが公式の編年誌にあるとする諸説が存在する。 だが、日本の現王朝は6世紀以降には王朝交代した証拠はなく、少なくとも1500年もの間存続している。1500年以前に存在した他の君主家で今日なお在位しているものは、世界のどこにもな。 皇室に名字がない事実も、天皇の王朝の古代史に遡る古さを示している。日本人が歴史が始まって以来知っている唯一の王朝だからである。 天皇が日本を統治する根拠とされたのは、天照大神が「天壌無窮」に葦原中国を治めよという神勅をニニギ(瓊瓊杵尊)とその子孫に下し、ニニギの曾孫である磐余彦が初代の天皇・「神武天皇」として即位したことによる。 『古事記』には天照大神が孫のニニギに「この豊葦原水穂国は、汝の知らさむ国なり」とある。『日本書紀』には「葦原千五百秋瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫、就でまして治らせ。行矣。宝祚の隆えまさむこと、当に天壌と窮り無けむ」とある。 この記述が、皇室が日本を永遠に統治する歴史的・法的な根拠であるとされた。大日本帝国憲法第1条はこの記述を明文化したものである。日本神話に登場する初代の天皇・神武天皇から現在まで、天皇の王朝が断絶せずに皇室が日本を一貫して統治してきたとする史観を形成し、万世一系は国体において不可欠なものとされていた。 「日本は、王朝交代したことがない点で他国と基本的に異なる」という信念は、日本の王朝と同じくらい古くからあった。 ●成熟した論理を身にまとった二人の女系天皇論 - THINKSELLの裏側 http://blog.thinksell.net/2005/12/18/165900/ 2005/12/18 『国家の自縛』の佐藤優氏と『国家の品格』の藤原正彦先生が、女系天皇について言及している。成熟した論理を身にまとったご高説は、ともに「女系天皇反対」で一致している点が興味深い。ただ、佐藤優氏の方はインタビューアーの表現が"女帝”となっているので、「女性天皇と女系天皇」を峻別しているかわかりません。 ●万世一系と国家の品格 - ne.jp https://00m.in/ujUlG 2006/02/01 「日本の息吹」平成十八年二月号 万世一系と国家の品格 お茶の水女子大学教授 藤原正彦. 万世一系の美しい形に手を加えるなど、数学者としての美感が耐えられない。 インタビュ─〈前編〉 ◎世にも恐ろしいことを ─ はじめに、「皇室典範に関する有識者会議」(以下、有識者会議)の報告書についてのご感想は。 ●藤原正彦「公と私」 2015/07/30 https://youtu.be/gpJ3N0rhL4c ●藤原正彦 国語教育の重要性 1/2 2009/10/09 https://youtu.be/Xhi2bE1o2r0 「国家の品格」を出版する前の藤原正彦先生が語る! 小学校での英語教育に反対!(塾や家庭での英語を否定しているわけではない) ●藤原正彦 国語教育の重要性 2/2 2009/10/09 https://youtu.be/BOA3oAVDiPw ●女系天皇容認論の賛否 第30回 2007.11.10 丸 淳一 file:///C:/Users/asahi/AppData/Local/Temp/30_maru.pdf 1.女性天皇と女系天皇の違い・・・ (1)国民は本当のことを知らない (2)「愛子様が可愛いから」とか「雅子様がお世継ぎの問題でプレッシャーがありか わいそうとか、それから解放されるとか」 そんなレベルの問題ではない 2,過去の女性天皇は8方 10 代 (1)48 代称徳天皇の時、危機が訪れる (2)称徳天皇の寵愛をいいことに弓削の道鏡が皇位をうかがう (3)和気の清麻呂が出てこれを防ぐ (4)もし弓削の道鏡の子を産みその子が天皇になれば、弓削の道鏡の天皇ということ (5)藤原正彦教授も同じことを言っている藤原王朝ですよと ●勅語 - Wikipedia http://bit.ly/AmGYCJ 勅語(ちょくご) 原則として天皇が口頭により発する公務上の意思表示であり、詔勅 の一種である。 主に明治時代から日本国憲法が施行される前に出され続けた。 現在では「おことば」と呼ぶことが普通である。 ●勅命 とは - コトバンクデジタル大辞泉 1 天皇の命令。勅諚(ちょくじょう)。みことのり。 2 明治憲法下で、法律・勅令の形式によらず、天皇が国家機関に直接下した命令。 ●勅 - Wikipedia http://bit.ly/xKp5qL 勅(ちょく)は、皇帝、天皇の命令。 また、命令が書いてある文書。勅が書いてあるものを勅書(ちょくしょ)と言う。 主に特定の人物・組織などを対象に天皇の意思を伝えるために用いられた。 なお、口頭によるものを勅語(ちょくご)と言う。 『日本書紀』などに由来が求められるが、金石文としては天武天皇の時代に 改葬された船王後の墓誌に、船王後が舒明天皇より勅によって位を 与えられたことが記載されている。 大宝律令の制定後は公式令に基づいて出された勅旨などの勅書のことを主に指した。 また、奈良時代の天平宝字8年(764年)には勅及び勅書の遂行と天皇及び 宮中の用度を担当する勅旨省(ちょくししょう/てしのつかさ)が 設置されていたことがあるが、延暦元年(782年)の行政整理の際に 造宮省とともに廃止されている。 ●皇室典範 http://bit.ly/xvw6dz 皇室典範(こうしつてんぱん、昭和22年1月16日法律第3号)とは、日本国憲法第2条及び第5条に基づき、皇位継承及び摂政に関する事項を中心に規律した皇室に関する法律である。 「皇室典範」は1889年(明治22年)2月11日に、大日本帝国憲法と同時に裁定(勅定)され、1947年(昭和22年)に、日本国憲法第100条及び第2条、第5条に基づき、日本国憲法施行前に、憲法に附属する法律の制定手続によって、枢密院の諮詢及び帝国議会の協賛を経て、現在の「皇室典範」(昭和22年1月16日法律第3号)が制定された。 ●明治神宮-ご参拝・ご祈願される方へ-明治神宮のおみくじ「大御心」について http://bit.ly/yqWPAc 「大御心(おおみごころ)」 「大御心(おおみごころ)」は、明治神宮独自のおみくじです。 他の神社で見られる吉凶を占うおみくじではなく、御祭神である明治天皇さまの御製(ぎょせい=天皇の作られた詩文・和歌)93、032首、昭憲皇太后さまの御歌(みうた=皇后・皇太后・皇太子などのよまれた和歌)27、825首より、特に人倫道徳の指針となる教訓的なものを15首ずつ、合計30首選び、それに解説文を付したものとなっています。 ●「大御心(おおみごころ)」三省堂 大辞林 天皇の心を敬っていう語。天皇のお考え。叡慮(えいりよ)。 ●大御心【オオミココロ】デジタル大辞泉 天皇の心。叡慮(えいりょ)。 ●九頭竜伝承 https://ja.wikipedia.org/wiki/九頭竜伝承 九頭龍(大神)伝承(くずりゅう{おおかみ}でんしょう)、九頭龍(大神)伝説(くずりゅう{おおかみ}でんせつ)は、日本各地に残る九頭龍(大神)に関する伝承・伝説の事である。 寛平元年(889年)6月、平泉寺の白山権現が衆徒の前に姿を現して、尊像を川に浮かべた。 すると九つの頭を持った竜が現れ、尊像を頂くようにして川を流れ下り、黒竜大明神の対岸に泳ぎ着きたという。 以来、この川を「九頭竜川」と呼ぶようになった。 (『越前国名蹟考』福井県郷土誌懇談会 著 1958年発行より) 大慈大悲の大御心で衆生に利益を与えんとする実体なり。 ●大御心は大切です。しかし、もし・・・。 「道鏡事件」に学ぶ「女性宮家」問題 umayado17 2011年12月30日 雑誌に「(女性宮家創設は)天皇陛下のご意志」 でもあると語った輩がいるらしいですね。 そう言う事はありえませんが、仮にそんな時は、道鏡事件の再来ということになりますから、嫌われても諫言するのが忠義の道、ということになるのかもしれません。 天皇陛下の「大御心」は大切です。「詔を承りては、必ずつつしめ」(17条憲法・三に曰く)です。 http://togetter.com/li/234520 ●女系天皇(じょけいてんのう)http://bit.ly/Ac2EEG 日本において母のみが皇統に属する天皇を指す呼称である。母系天皇と称されることもある。 語句の類似から、単に女子の天皇を指す女性天皇と混同されることも多いが、皇統についての「女系天皇」と、天皇個人の性別についての「女性天皇」とは異なる概念である。 その天皇自身が男か女かという性別とは関係がなく、概念上は女系男性天皇と女系女性天皇の両方が存在しうる。また逆に、男系についても、男系男性天皇と男系女性天皇��存在しうる。 『古事記』、『日本書紀』やその他歴史書の記載によれば、日本の皇統は初代神武天皇から現在の第125代今上天皇まで男系の血筋のみで続いてきたとされる(いわゆる「万世一系」。 その信憑性については諸説あるが、少なくとも「高群逸枝(民俗学者)が古代は母系制であったと主張している」というのは誤認である。 高群が提示した概念は「父系母族制」という名称の通り、母権的であってもあくまで父系(=男系)であった)。 神武天皇以来、男系で続いてきたことを万世一系とする立場からは、女系天皇は即位しても神武天皇以来の皇統に属さず、その結果として日本史上初の王朝交代が生じる、という意見も出されている。 ●女性天皇(じょせいてんのう)http://bit.ly/zjzhkh 女性の天皇のこと。古くから女帝(漢音じょてい、呉音にょたい)と呼ばれていたが、皇位継承問題の議論が盛んとなった2004年以降、日本の公文書や報道では「女性天皇」の表現が用いられることが多くなった。 ●家督相続(かとくそうぞく) [ 日本大百科全書(小学館) ] 戸主(家の長)の身分と財産とを1人の人が受け継ぐ形(単独相続)の相続をいう。 主として封建時代の武士階級の相続法に範をとって、1898年(明治31)に制定された民法(旧民法)で採用されたもので、第二次世界大戦後、現行民法(1947)が制定されるまでの、家の制度の中心をなすものであった。 戦後、家の制度が新憲法の理念に反するものとして廃止されたのに伴い、家督相続も廃止された。 家督相続は、戸主が死亡した場合のほか、戸主の隠居・国籍喪失、入夫婚姻(女の戸主との婚姻)など、被相続人の生存中に相続が開始されることがあった。 家督相続人となる者は1人で、まず直系卑属のうち、親等の近い者、男と女では男、年長者と年少者では前者が選ばれ、したがって普通は長男が相続した。 直系卑属がない場合には、被相続人の指定した者、一定の家族のなかから一定の選定権者が選定した者などが相続することになっていた。 家督相続は、戸主の財産を承継するだけでなく、戸主の身分をも受け継ぐ(身分相続)とされていた点も現在の相続とは大きく異なる。また、法定推定家督相続人(被相続人の直系卑属である相続人)は相続を放棄することは許されなかった。なお、当時においても、戸主以外の家族が死亡した場合には、現在の相続法と同じような共同相続法(家督相続に対して遺産相続とよばれ、現行民法では相続という)が行われていた。 ●家制度(いえせいど)http://bit.ly/wV0KLO 1898年(明治31年)に制定された民法において規定された日本の家族制度であり、親族関係を有する者のうち更に狭い範囲の者を、戸主(こしゅ)と家族として一つの家に属させ、戸主に家の統率権限を与えていた制度である。 江戸時代に発達した、武士階級の家父長制的な家族制度を基にしている。 女性参政権の施行と日本国憲法の制定に合わせて、1947年(昭和22年)には民法が大規模に改正され、親族編・相続編が根本的に変更された為に、家制度は廃止された。 ●ドグマ (dogma) ・宗教・宗派における教義のこと。 ・広義としては、上項から派生して「独断・偏見的な説や意見」、「教条主義」を指すようになった。 ・ドグマ (アダルトビデオ) - 日本のアダルトビデオメーカー。1961年設立。 ・特撮テレビドラマ『仮面ライダースーパー1』に登場する架空の王国。(→ドグマ王国) ・ドグマ95 - 1995年にデンマークで提唱された、映画製作の作法。 ・ドグマ (映画) - 1999年に公開されたアメリカの映画作品。 ・コンピューターゲーム『ドラゴンクエストVI 幻の大地』に登場する架空のキャラクター。 ■女性宮家(じょせいみやけ) https://ja.wikipedia.org/wiki/女性宮家 皇統に属する女性皇族が成人もしくは結婚後に皇族のままで独立した生計を営む宮家のこと。 これまで皇室の歴史上、女性皇族が当主となり子を儲け又その子が継承した宮家はなく、歴代の女性天皇も未亡人か未婚のまま生涯を終えている。 結果として、「女系皇族」は一例の例外も存在していない。 大日本帝国憲法下の旧皇室典範及び日本国憲法施行に伴い制定された現皇室典範においては、女性皇族は皇族以外の男子と結婚した場合は、皇族ではなくなることとなっている。結果として将来においても「女系皇族」が誕生することは禁止されている。 皇室典範を改正して女性皇族を当主とする宮家を創設して皇族以外の男性と結婚し、その配偶者およびその女性宮家から生まれた子供を皇族としようとするのが「女性宮家創設問題」である。 歴史始って以来、配偶者として民間人男性が皇族となるのに加え、女性宮家から「女系皇族」を誕生させることになり、皇室制度の根本的な転換になる。
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2020
世界遺産、奈良・薬師寺。 穏やかな年の瀬を迎えました。 本尊は薬師三尊像。体や心の病気を癒やす仏様です。 1300年間人々の祈りを受け止めてきました。 薬師寺で、奈良時代から 変わらない姿を残している建物が東塔です。 柱や瓦などをすべて解体して修理を行い 先月、8年ぶりにその姿を現しました。 (除夜の鐘) 奈良時代の姿を取り戻そうと これまで復興の取り組みを進めてきた薬師寺。 人々の静かな祈りが復興を支えてきました。 新年を写経で迎えようという人々が大勢集まっています。 写経とともに納められたお金は建物の復興に充てられてきました。 つづられた写経は50年で870万巻に上ります。 (除夜の鐘) 奈良時代から令和の世へ。 祈りをつなぐ鐘の音です。 (除夜の鐘)
千葉県成田市にある成田山新勝寺です。 ことし、千葉県は大型の台風に 相次いで見舞われました。 新勝寺でも、本堂の屋根が剥がれるなどの被害が出ましたが なんとか修復を終えました。
こんばんは。 2019年は皆さんにとって どんな年だったでしょうか。 ことしの「ゆく年くる年」はここ新勝寺から全国各地を中継でつないでお伝えします。
こちらは東京・渋谷に先月開業した、地上47階建て 渋谷スクランブルスクエアの屋上です。
大みそかのきょうはカウントダウンイベントが行われています。
そして見えてきたのが先月、完成した国立競技場。 東京オリンピックパラリンピックのメインスタジアムです。
次は平成から令和になったことし 一躍、話題となったあの場所です。
こんばんは。 新元号・令和ゆかりの地として注目された坂本八幡宮です。 10時を過ぎてから参拝する人の姿が 多くなってきました。 新元号が発表されてから1000人以上が訪れる日もありましたが多くの人が 記念撮影をする場所が、こちら。 令和の石碑です。 元号・令和のもとになった「万葉集」に出てくる、うたげが この近くで開かれたとされ10月には、こうして記念碑も作られたんです。
令和初めての年越しに向けてにぎわいが増しています。 ことし自然災害が相次いだ日本。 ここ千葉県館山市の布良(めら)地区では9月の台風15号で記録的な暴風に見舞われおよそ8割の家屋が損壊しました。
地区にある布良崎神社では屋根が崩れ 傾いた拝殿を柱などで支えています。
倒れてしまったご神木。
そうした中でも地区の人たちはここで新年を迎えようと集まってきています。 拝殿に置かれているのは人々が100年にわたって担ぎ続けてきた神輿です。
倒壊した倉の下敷きになり壊れてしまいました。 ほとんど無傷で残ったのが子どものために新調したばかりの小さな神輿でした。
大きな神輿がわが子をかばうように小神輿を守ったのです。
「なんとか未来を守ってくれた」。 そう考えた布良の人たち。
倒れたご神木で札を作り寄付を募ることにしました。人々の決意が木札に刻まれています。
境内には新しいご神木を植えました。 復興を誓い、新年を迎えます。
山口県下関市です。 古くから韓国のプサンとを結ぶ玄関口にもなってきました。 日韓関係の悪化によりフェリーでやって来る韓国からの団体客がほぼいない状況が続いています。
下関には、およそ3000人の 在日韓国・朝鮮人の人たちが住んでいます。 その信仰を集めている韓国仏教寺院の光明寺です。 天井からつるされたはすの花を模した飾り。 信仰心を表す韓国の伝統様式です。 祈りをささげる本尊は日本でも、なじみ深い阿弥陀仏像です。 地域の人たちと親しい関係を築いてきた皆さん。 日本人と韓国人どちらの気持ちも分かる。 日韓の交流が細くなるほど心が痛むと言います。 (除夜の鐘) 平和の大梵鐘(だいぼんしょう)
ソウルオリンピックが開かれた31年前に韓国で造られました。 ハングルの「ピョンドゥン ピョンファ」。 意味は「平等と平和」。 願いを込めた鐘の音が下関の街に響きます。 (除夜の鐘)
年越しを待つ各地の様子を見てきました。
この1年、本当にさまざまなことがありましたが なんとか、穏やかな新年を迎えたいと願う 皆さんの姿が印象的でしたね。 成田山新勝寺ではこのあと寺の本尊にちなんだ歌舞伎の技が披露されます。
本尊の不動明王は厄よけの御利益があるとされ 1000年以上前から 信仰の対象となってきました。 左右の目はそれぞれ天と地を見つめ すべての人を救うとされています。
この表情を表したのが歌舞伎で演じられる、にらみ。 このにらみを見ると、1年間健康でいられるといわれています。 披露するのは歌舞伎俳優十一代目・市川海老蔵さんです。 先祖の衣鉢を力草に型ばかりではござりまするが ひとつ、にらんでご覧に入れまする。(つけ打ちの音) 市川海老蔵さんによる にらみでした。続いては、京都・知恩院です。
えーい、ひとーつ。えーい、ひとーつ。 そーれ。 (除夜の鐘)
京都は時折、小雨の降る除夜となりました。 浄土宗総本山、知恩院です。 重さ70トン、直径2.8m。
日本最大級の鐘を17人の僧侶がつきます。
この1年の人々の悩みや苦しみを打ち払おうと 心を一つにします。えーい、ひとーつ。えーい、ひとーつ。 そーれ。 (除夜の鐘)
浄土宗を開いたのは法然上人です。 南無阿弥陀仏と唱えれば 誰でも救われる。 その教えは800年間 人々の心のよりどころになってきました。
ことしも数万の人々が鐘がつかれるのを一目見ようと 長い列を成しています。
2020年が希望に満ちた年になりますよう ことし最後の鐘です。
えーい、ひとーつ。 えーい、ひとーつ。 そーれ。 (除夜の鐘) あけましておめでとうございます。 2020年の幕開けです。 新勝寺では年越しの瞬間に歓声が上がりました。 カウントダウンで盛り上がりましたよ。 そして、皆さん一斉に本堂に向かって 進んでいます。初詣が始まりました。 この三が日だけで300万人以上の参拝者が訪れるということです。皆さん、どんな思いで新年を迎えたんでしょうか。 それでは全国各地の新年の様子を見ていきましょう。
北海道上富良野町です。 ラベンダーの町、農業の町として全国的に知られています。 現在の気温はマイナス8度。 スキー場のゲレンデを赤く彩るのは、北の大文字です。 町を盛り上げようと 商工会青年部が33年前に始めました。 大文字を見ないと1年が始まらない。 そう話す人たちも増え今では新春の風物詩です。
(太鼓の音) 祭りを盛り上げるのは太鼓の響き。 高校や大学進学を機に町を出る人も少なくありませんが その一方で豊かな自然に憧れ町に移り住む人も多くいます。 その一人、札幌から移住してきた西尾奈緒さんです。 夫と有機野菜を作っています。 地元の農家に一から農業を教わった西尾さん。 今では、町の未来を担う一員になっています。 新しく町に来た人と 地元で生まれ育った人たちをつなぐ、大文字の炎です。 300本のたいまつに火がつきました。 (花火の音)
豊作になりますように。 町が、にぎわいますように。
炎に希望を託し新しい年が始まりました。
再び令和ゆかりの地にある坂本八幡宮です。
年が明けてからも参拝者が 続々と訪れています。ここは宮司の常駐していない 小さな神社です。急増する参拝者の対応に 奮闘してきたのが地元の氏子会の皆さんです。 こちらの社務所も急ごしらえで建てました。 御朱印や、お守りも去年、初めて準備しました。
多くの方は60代以上です。 せっかく来られた方々に少しでも満足して帰ってほしいと 精いっぱいもてなしを続けてきました。 氏子会会長の木原一臣さんです。こんばんは。 ことしはどのような1年にしたいですか。
氏子会といたしましても 今後、若い人に引き継ぎまして 末永く、このお宮を 守っていきたいと思っております。
ありがとうございます。
徳島県中部。 四国山地に抱かれた吉野川市山川町の 山崎忌部(いんべ)神社です。 例年よりにぎやかな年越しを迎えました。
去年、地域を挙げての大事業が30年ぶりに行われたからです。 去年11月 天皇陛下即位のあとに行われた大嘗祭に 麁服と呼ばれる麻の織物を献上しました。
かつて麻植郡と呼ばれ 平安時代から麻を生産し献上してきた、この地域。
改元のときだけ特別に麻を栽培し麁服を織り上げてきました。 神社の社紋には麻の葉が描かれています。
麻は地域でとても大切にされています。
これは地元の高校の校旗。 昭和の大嘗祭に合わせて 麻で手織りされました。今も、学校の宝として 受け継がれています。
今回、麁服の織り子に名乗りをあげたのは この校旗を見て育った若い女性たちです。 その一人、白山晴菜さんです。 年配の人たちと一緒に 地域の輪の中で 作業を続けていくにつれ ふるさとの大切さを実感しました。
多くの人に町の宝を知ってもらいたい。 麁服に携わった人たちは 地元の学校で報告会を開こうとしています。 地域の絆を確かめ合う特別な新年です。
名古屋市中心部にある東別院です。 初詣に訪れた参拝者で境内はにぎわっています。
本堂に映し出されている光の模様はデジタル掛け軸。 仏教の教えにもつながる 一期一会の世界を表現しています。 模様の組み合わせはコンピューターで 無作為に選ばれます。
そのため、同じ模様を見ることは二度とないんです。 このイベントお寺に、なじみのない方���も 来てもらいたいと 7年前から始まりました。 そして、こんな場所もあるんです。 こちらにもあるんです。こちらの室内です。
室内にもデジタル掛け軸が映し出されています。 ここは、この日のために特別に用意されたバーなんです。 中ではホットワインですとかオリジナルカクテルが 提供されています。お話を伺いましょう。
お寺のバーで迎えた新年です。どんなお気持ちですか?
歴史のあるお寺の中に こんなにすてきなバーがあって 楽しくお酒飲みながら 年が越せて、新鮮な気持ちです。
お寺にいることを忘れてしまいそうですが 一方で昔から変わらない風景もあります。 (鐘の音)
新年を感謝とともに迎える初鐘です。 イベントを始めてからは 多くの若い人たちも鐘をつきに来るようになりました。 (鐘の音)
江戸時代から続くこのお寺。 新しい文化を取り入れながら古きよきものを 次の世代に手渡そうとしています。
全国各地の新年の様子をお伝えしました。
いよいよ、ことしの夏には 東京オリンピックパラリンピックが開幕します。
その選手たちの 活躍を願って多くの人が 集まっている場所があります。
東京・江東区にある亀戸香取神社です。 おたき上げの火の周りに人が集まっています ここは、もともと戦の勝利を祈願する神社でしたが 今は、スポーツの神社として親しまれています。 ふだんから、試合に勝ちたい全国大会に出たいと 多くの人が祈願に訪れますが早くも、東京オリンピック パラリンピックへの期待も高まっているんです。 絵馬にはさまざまな願いが書き込まれていますが こちら「いくぞ!!2020東京パラへ」。 そして、そのお隣。 「パパがとうきょうおりんぴっく きまりますように」。こちらは近代五種の 岩元勝平選手の娘さんが書いた絵馬なんです。
2週間後、代表権を獲得しました。 参道脇に並ぶのはスポーツ灯籠。 アスリートたちに心の支えになったことばを聞いて 50基を手作りしました。
体操・内村航平選手が寄せたことばは「無心 無欲」。 その隣は東京パラリンピック出場が 内定している競泳・木村敬一選手のことば 「人生一度きり」。 2020年にかけるアスリートたち。 活躍を願う灯籠の光です。
福島県南相馬市相馬太田神社です。 3月26日から国内で始まる東京オリンピックの聖火リレー。 福島は、その出発の地です。 初日、走ってきた聖火を迎えるのは 陣羽織の、この人たち。 相馬野馬追の騎馬武者です。
毎年、年明けとともに 安全と安寧を祈ってほら貝を吹き鳴らします。 (ほら貝の音)
相馬野馬追は、この地で 1000年にわたって続く神事です。
夏には、400の騎馬武者が馬にまたがり駆け回ります。 9年前の東日本大震災と原発事故。 南相馬の人たちは避難を余儀なくされ 今も5000人以上が町を離れたままです。
かつて500騎いた騎馬武者の数も 一時、5分の1にまで激減。 それでも、この9年間欠かすことなく続けてきました。 野馬追でほら貝を吹く人たちをまとめる 木幡守さん。 3月、オリンピックの聖火も この、ほら貝で迎えたいと考えています。
避難を続ける人たちが町に戻るきっかけにしたいと 木幡さんは野馬追を支え続けてきました。 復興五輪を掲げる東京オリンピック パラリンピック。 福島の復興はまだ道半ばです。 ふるさとを取り戻す。 その思いを乗せて 聖火は福島から全国へとつながれていきます。
人と人とがつながっているからこそ 地域の今、そしてこれからがあると感じました。 さまざまな思いがあることを忘れずにオリンピックパラリンピックを 迎えたいと思います。
2020年。
日本にとって節目となる、この年が…。
皆さんにとって…
素晴らしい年となりまうように。
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●忌み言葉
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●忌み言葉 ◆いみ ことば【忌み詞・忌(み)言葉】 ① 信仰上の理由や,特定の職業・場面で使用を避ける言葉。不吉な意味の語を連想させる言葉が多い。例えば婚礼の際の「去る」「切る」「帰る」「戻る」「別れる」,お悔みの際の「重ねる」「重ね重ね」「返す返す」「再び」など。 ② ① の代わりに使う言葉。昔,斎宮(さいぐう)で「僧」を「髪長(かみなが)」といい,また,商家で「すり鉢」を「あたり鉢」,結婚式で「終わる」を「お開きにする」という類。 → 斎宮の忌み詞 ◆忌み言葉(いみことば) http://www.asahi-net.or.jp/~hi5k-stu/nihongo/imikotoba.htm 縁起が悪いとかわっていくという話です。 植物の葦(あし)ですが、これは「悪し」(あし)と発音が同じですね。 ということでこの植物は「良し」と同じ発音の「葭」(よし)に かえられてしまいました。葦と葭は同じ植物なんですね。 梨も「ありの実」と言いますよね。 スルメも「スル」と言うのが良くない、たちまち貧乏になりそうな名前だと いうので、なんと「アタリ」メという言葉がでてきました。 飲み屋に行くとアタリメっていいますよね。 コチカメ(こちら葛飾区亀有公園前派出所)で有名になった「亀有」ですが、 これはなんと「亀梨」(かめなし)という地名だったんですね。 縁起が悪いとかえられていくという話でした。 ◆いみ 【忌み・斎】 〔動詞「いむ(忌)」の連用形から〕 ① 神に仕えるために汚(けが)れを避けて謹慎すること。 ② 死・産・血などの汚れに触れた人が一定期間,神の祀(まつ)りや他人から遠ざかること。 「 -が明ける」 ③ 避けるべきこと。方角・日取りその他,一般によくないとされていること。差し支え。はばかり。 「事の-あるはこたみはたてまつらじ/源氏 絵合」 ④ 他の語の上に付いて複��語を作り,汚れを清めた,神聖な,などの意を表す。 「 -斧」 「 -垣」 「 -鎌」 「 -竈(かまど)」 「 -場」 「 -柱」 「 -殿(どの)」 「 -服殿(はたどの)」 「忌み」に似た言葉» 類語の一覧を見る禁忌 タブー 禁物 禁欲 禁酒 ◆忌み・斎み(いみ)忌みの意味。・名詞 ①身を清め、言動を慎むこと。 ②穢(けが)れを避けて慎むこと。 (ア)服喪の期間。 (イ)出産の穢れを慎む期間。 ③はばかるべきこと。縁起が悪いこと。 基本的に生活圏に悪影響を及ぼす穢れを嫌い排除する事である。 台風や大雨、日照り、地震等自然災害も不浄、穢れとされ、地鎮祭など 祓えの儀式で清められ治まるとされた。 ◆神事における忌み 神宮等では、神事の際、忌火(いみび)と呼ばれる火を起こす。これは火がそもそも持つ性質、すなわち「他を焼き無くしてしまう」という性質が、一般的なケガレの概念、つまり「不浄」「不潔」同様、神や人間の結界、生活圏を脅かす「ケガレ」であるため、これを用いる際にそう呼ばれる。また火がケガレを伝染媒介すると考えられていた為、かまどを別にするなどの措置がとられた。古事記によるとイザナミは火の神(ホノカグツチノカミ)を産んだため陰所を焼かれ、それが元で死に、黄泉の国に下る事になる。 「近き火、また恐ろし<枕草子・せめておそろしきもの>」や、現在でも「マッチ一本火事の元」という言葉にあるように、危険物として火は認識されてきた。忌み火をオリンピックの聖火と同一視される事があるが、拝火文化は神道にない。本来神道における「火」はケガレである。よってそれを押さえる火伏せの神様、火坊尊(ひぶせのみこと)などの神様が信仰の対象になって来た。鎮火(火を鎮める)という表現もある。 例外もあるが、一般的に神道における死は穢れ(黒不浄)としての「忌み」であり、神はそれを嫌うとされる。よって神社内及び敷地内に遺体を持ち込んで葬儀をする事はないし、家庭の神棚は半紙を被せ神の目に触れないようにする。死(黒不浄)、経血(赤不浄)、出産(白不浄)は神様が嫌う不浄として避けられてきたが、この価値観は明治政府の近代化及び富国強兵政策によって大きく変わる事になる。 戦死をケガレから名誉に、個人の問題であった出産を「産めよ増やせよ」の国家事業に、そしてそれを遂行する女性を褒めるという事に対応するため、これまでの穢れ観と正反対の価値観が神道において成立した。これが「国家神道」である。明治以前の神道における穢れの基準は「延喜式」に詳しい。 ◆用例 忌み嫌う - 穢れを払う+嫌う。穢れを払う様に嫌う。忌避。 忌み名 - 清楚+名。清楚な名・神仏となった本当の名。(臣下、目下のものが口外するのを忌むべき)本名(諱)。 忌中 - ケガレの最中。 奈良時代の忌部氏(いんべし。後の斎部氏)は宮中の神事を行っていた。忌(いん)は清楚という意味でもあるが、平安時代以降はほとんどの場合否定的な意味に使用される。 ◆禁忌(きんき) https://ja.wikipedia.org/wiki/禁忌 「してはいけないこと」の意。 ・タブーとしての禁忌には道徳的な含みがあるのに対して、他の用例では、技術的、科学的な根拠によって禁じられている。 ・宗教学、人類学用語としての禁忌→項目「タブー」参照 ・医療上の禁忌。不適当で患者の予後を大きく悪化させる術式、検査、投薬、調剤等を指す。絶対的禁忌と相対的禁忌の二つに分けられる。→en:Contraindication ・併用禁忌データベース 併用すると危険をもたらす医薬品のデータベース ・温泉の効能で特定の症例に対して逆効果があると考えられている場合、一般的禁忌症と表現される。→項目「一般的適応症」参照 ・禁忌品 - 古紙回収に出されると再生処理がうまくできなくなる物のこと。(禁忌品(きんきひん)) ・禁忌肢 - 医師国家試験などの試験の設問で、所定数以上誤って選択すると、他が全て正答であっても自動的に不合格・落第の判定となる選択肢 タブーとしての禁忌には道徳的な含みがあるのに対して、他の用例では、技術的、科学的な根拠によって禁じている。 ◆忌避(きひ) 広い意味ではあるものや事柄について嫌って避けることである。日本の法律においては、除斥事由には該当しないが、手続の公正さを失わせる恐れのある者を、申立てに基づいてその手続に関する職務執行から排除すること。 典型的な例は裁判における裁判官の忌避であるが、裁判官以外にも、裁判所書記官、鑑定人、通訳人、仲裁人、審判官などについても忌避の規定がある。 なお、手続の適正を図るために、一定の者を職務執行から排除する類似の制度として、除斥や回避がある。 ◆忌寸(いみき) https://ja.wikipedia.org/wiki/忌寸 684年(天武天皇13年)に制定された八色の姓で新たに作られた姓(かばね)で、上から4番目。 国造系氏族である大倭氏・凡川内氏や、渡来人系の氏族である東漢氏・秦氏など、元直(あたえ)姓などの11の「連」姓氏族が選ばれて、賜姓されている。 ◆八色の姓(やくさのかばね) https://ja.wikipedia.org/wiki/八色の姓 天武天皇が684年(天武13)に新たに制定した「真人(まひと)、朝臣(あそみ・あそん)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)、��置(いなぎ)」の八つの姓の制度のこと。 『日本書紀』の天武天皇十三年冬十月の条に、「詔して曰はく、更諸氏の族姓を改めて、八色の姓を作りて、天下の万姓を混(まろか)す。一つに曰く、真人。二つに曰く、朝臣。三つに曰く、宿禰。四つに曰く、忌寸。五つに曰く、道師。六つに曰く、臣。七つに曰く、連。八つに曰く、稲置」とある。 天武天皇の国風諡号(和風諡号、わふうしごう)は、天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)という。「真人」が使われており、八色の姓の筆頭にあげられている。 ◆小忌衣(おみごろも) 古代から伝わる、神事などに使用される上衣。『古事記』などに見える青摺衣の系統を引く。平安時代には新嘗祭および天皇の代始めの新嘗祭である大嘗祭と、六月十二月の神今食(これらはいずれも天皇が自ら祭祀を行う「親祭」)に供奉する貴族以下の官人が使用した。なお神今食のときは冠に心葉や日陰鬘をつけない。(『西宮記』ほか)これらの親祭では、占食といって亀占により選ばれた者が「小忌(小斎)」と呼ばれて神祭に奉仕した(これに選ばれない者は「大忌」-「大」は「凡」と同じで「一般の」の意味-と呼ばれ、祭の枢要に携わることはできなかった)。小忌衣とは主に小忌の者が用いることからきたことばである。 『忌』は神聖なことを表現しているとされる。 男女共に装束の上に羽織り、右肩から赤紐(赤黒紐の場合もある)を垂らす。神楽などの舞人は、邪魔になる為か、紐を左肩から垂らす。模様としては、白絹及び白麻地に青摺(あおずり)と呼ばれる山藍の葉の汁で、花鳥風月等の素朴な文様を書くのが一般的。袖が付いていないものと、袖付きのものがある。 各種の小忌衣について、院政期以降の規定に基づき説明する。 1・諸司小忌 身が二幅、袖が左右各一幅、計四幅のおくみのない垂領である。右肩に赤紐をつける。親祭当日に小忌の官人が下賜されて着用することからこの名称がある。参内後に下賜されると束帯の上に着て、裾まわりは石帯にはさみこむ。生地は、近世では麻を粉張(こばり。胡粉という白い絵の具を厚く引く)にして、「竜胆と尾長鳥」「梅と柳」などの摺文を施している。なお近世では赤紐で身分を表示した。大臣以上は本法組にして金泥で蝶鳥を描き、公卿は本法組で胡粉の蝶鳥を描き、殿上人は略本法組で胡粉の蝶鳥を描いた。いずれも板引である。「冷泉家の至宝展」図録に写真がある。 2・私小忌 身が一幅の盤領で、袖は左右各二幅。狩衣の裾の長いような形であるが、袖括はない。右肩に赤紐をつける。束帯の袍を着ずに、下襲・半臂の上に袍のかわりに着用する。神祇官人や大嘗祭の悠紀・主基国司などの、早くから神事に奉仕することが確定している者は親祭当日にも着用する。親祭で諸司小忌を下賜された者は、新嘗祭や大嘗祭の直会(祭後の宴会)にあたる節会に使用する。下賜品である諸司小忌に対して私弁であるために私小忌の名称を持つ。生地は、近世では麻を粉張にして、様々な文様を青摺にする。平安末期の記録によれば、大嘗祭の悠紀・主基国はそれぞれのそろいの文様を新たに定める決まりであり、南北朝時代の記録によれば吉田家では菊に水などの紋を用いるなど、さまざまな慣習が存在したようである。「冷泉家の至宝展」図録に写真がある。 尚、小忌衣の青摺は石清水八幡宮境内に自生する「ヤマアイ」が用いられる習わしとなっていた。 以下は、中世の記録には明確でないが、近世には制度的に確立していたものである。 3・如形小忌 諸司小忌の袖を略した形式。裃のようなもの。 身が二幅の垂領で、右肩に赤紐をつける。主に祭祀にたずさわる地下官人が使用。束帯では裾を石帯にはさみ、その他では裾をはさまずただうちかけた。生地は麻に粉張とし、青摺で主に梅と柳の文様をあらわした。赤紐は平紐で胡粉の蝶鳥を描いた。株式会社井筒所蔵品が「年中行事と宮廷文化のかたち」展図録に掲載される。 4・別勅小忌 天皇の神事服(御斎服)着装に奉仕する衣紋者の公家や、側近で世話をする議奏の公卿が使用した。重要な任務ゆえに占食と無関係に着用したのでこの名がある。衣冠の上に着ることが多く、その場合前は懐の「かいこみ」にはさみこみ、後ろはうちかけて着た。生地は麻の粉張とし、青摺で主に流水とわらびをあらわした。衣冠の上に着るものは普通赤紐をつけない。名称と衣紋者等の使用は『延慶大嘗会記』(後伏見上皇が弟花園天皇の大嘗祭を記録した日記)に基づくが、詳細な仕様は貞享四年の大嘗祭復興に際して新たに決められた。奈良女子大学に近世の遺品がある。 ※なお『代始和抄』(一条兼良)などに「出納小忌」の名称があるが、実態は不明で、近世では別勅小忌の(一説では如形小忌の)別名とされていた。 なお、采女のちはやは如形小忌であるが、近代では生絹に蝶を青摺し、赤紐はない。(近世の遺品が奈良女子大学にあるが、赤紐はないものの普通の小忌同様麻の粉張に青摺である) 東遊などの日本古来の古代歌謡を伴う舞楽に用いるものは私小忌と同型で、ただ赤紐が左肩につく。これは占食で選ばれるものではないので普通は小忌衣とはいわず、「青摺」と呼ばれた。五節舞姫も羅の青摺の唐衣を用いたが(ただし宝暦再興後の舞姫装束は古式を伝えていない)、これも普通は小忌衣とはよばれない。ただし青摺の神事服である点では小忌衣と同じ性格を持つといえるものである。 ◆命日(めいにち)(忌日から転送) https://ja.wikipedia.org/wiki/命日 ある人が死亡した日をいう。忌日(きにち)ともいう。死亡した年月日を歿(没)年月日(ぼつねんがっぴ)という。対義語は誕生日。 通常は、死亡した月を指す祥月と組み合わせて、一周忌以後の当月の命日である祥月命日(しょうつきめいにち)指すことが多い。祥月にかかわらない月ごとの命日を月命日(つきめいにち)という。 日本の仏教では、年12回の月命日に故人の供養を行い、一定の年数の命日には年忌法要(法事)が営まれる(年忌法要一覧を参照)。仏教に深く帰依したとされる光明皇后は、月命日ごとに法要が行われている。 50回忌以降は、50年毎に行っていたが、近年では、31回忌、33回忌、50回忌のいずれかをもって「弔い上げ」(戒名を過去帳に移し、お骨を土に返す)とするのが一般的になってきた。 ◆年回表・法事早見表・年忌法要 - 法事・法要・四十九日がよくわかる https://www.e-butsuji.jp/butsuji1-2.html 年回表(法事早見表). 仏教では法要を行う年が決まっています。 年の初めには、年忌法要を営む人がいるか家族で確認しておきます。 最近は法事を週末に営む人が多いので、お寺でも週末に法事が集中します。 早めに菩提寺の住職に希望日と時間を連絡しておくとよいでしょう。 週末に営む場合は、必ず命日より早めの日に行うのが慣わしです。 同じ年に法要が重なった場合、まとめて行ってもよいとされています。 法要を行う日は、早い法要月に合わせます。 ◆生没同日(せいぼつどうじつ) https://ja.wikipedia.org/wiki/生没同日 誕生日と命日が同じ日であること。 ◆忌宮神社(いみのみやじんじゃ)https://ja.wikipedia.org/wiki/忌宮神社 山口県下関市にある神社。長府(城下町エリア)のほぼ中心に位置し、仲哀天皇が熊襲平定の際に滞在した行宮である豊浦宮の跡とされる。 式内社で、旧社格は国幣小社。長門国二宮とされ、現在は神社本庁の別表神社である。飛地境内として国の天然記念物満珠島干珠島を有している。 また、魁傑將晃が現役時代、荒熊稲荷神社で九州場所の必勝祈願を行い優勝したことが縁となり、毎年11月3日の三日相撲に合わせて参拝する。荒熊稲荷神社脇には相撲資料館が併設され魁傑や大乃国康(現:芝田山)の化粧まわしや優勝杯、大銀杏などが展示されている。
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