#孝明天皇
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herbiemikeadamski · 2 years ago
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. (^o^)/おはよー(^▽^)ゴザイマース(^_-)-☆. . . 1月30日(月) #先負(戊子) 旧暦 1/9 月齢 8.3 年始から30日目に当たり、年末まであと335日(閏年では336日)です。 . . 朝は希望に起き⤴️昼は努力に生き💪 夜を感謝に眠ろう😪💤夜が来ない 朝はありませんし、朝が来ない夜 はない💦睡眠は明日を迎える為の ☀️未来へのスタートです🏃‍♂💦 でお馴染みのRascalでございます😅. . 今日も片付けで天手古舞です⤵️ 意気消沈してしまって疲れて る場合ではないのですが😅💦 終わるかなって。。。_| ̄|○... . 今日一日どなた様も💁‍お体ご自愛 なさって❤️お過ごし下さいませ🙋‍ モウ!頑張るしか✋はない! ガンバリマショウ\(^O^)/ ワーイ! ✨本日もご安全に参りましょう✌️ . . ■今日は何の日■. #節々の痛みゼロを目指す日. 東京都江戸川区に本院を置く、あしすと訪問リハビリ鍼灸マッサージ院を運営する有限会社ひまわりが制定。  自力で通院できない人の自宅に訪問し、鍼灸、あん摩マッサージ指圧などの施術(リハビリ)を行う同院。  高齢者を中心に節々の痛みに苦しんでいる人々のことを理解し、分かち合い、痛みが少しでもゼロに  近づき、快方に向かうように願う優しい社会を目指すのが目的。 日付は1と30で「いた(1)み(3)ゼロ(0)」の語呂合わせから。 . . #先負(センマケ=又は、センプ・センブ・サキマケ、とも言う).  「先ずれば即ち負ける」の意味で、「何事も先に急いではいけない」とされる日です。  午前中はとくに悪く、午後はしだいによくなるという俗信がある。 . #一粒万倍日(イチリュウマンバイビ).  何事を始めるにも良い日とされ、特に仕事始め、開店、種まき、お金を出すことに吉であるとされる。  但し、借金をしたり人から物を借りたりすることは苦労の種が万倍になるので凶とされる。 . 神吉日(カミヨシニチ). 「かみよしび」ともいい、神社への参拝や、祭礼、先祖を祀るなどの祭事にいいとされています。 この日は神社への参拝や、お墓まいりに行くといい日です。 . #十方暮(ジッポウグレ).  十方暮は干(カン)と支(シ)が「相剋(ソウコク)」の関係で組み合わさる日。  甲申(キノエサル)から癸巳(ミズノトミ)の間の10日間で、天地の気が相剋するため何事もうまくいかないとされる日です。 . #帰忌日(キシニチ/キコジツ/キシニチ/キコニチ・キイミビ). 「陰陽道では、凶星の精が人家の門戸をふさぐ日で、旅行・帰宅などを忌(イ)む日としている。  遠出・帰宅・転居・結婚・入国なども忌む日であります。 . #血忌日(ケコニチ、チコニチ、チイミビ).  何事をするにも血を見る日、または血を見ることが凶とされ、鍼灸、刑戮、狩猟などが凶とされる。  血に関係したことを忌む日で、鳥獣の殺生や手術なども凶の日。 . #凶会日(クエニチ).  悪事の集まる凶日。  婚礼、旅行などすべてに悪日である。  月ごとに特定の干支の日をあてる。 . . #吉良邸討ち入り. . #コンピュータウイルスの日(#Computervirusday) . #おからのお菓子の日. . #タビナカの日. . #3分間電話の日. . #女性医師の日. . #孝明天皇例祭(#こうめいてんのうれいさい). . #サワーの日(毎月30日). . #EPAの日(毎月30日). . #キャッシュレスの日. . #殉教者の日(インド). . . ■本日の成句■. #去る者は追わず(サルモノハオワズ). 【意味】 自分から離れてゆこうとする人を無理にひきとめたりしない。 . . 1968(昭和43)年1月30日(火)先勝. #ぜんじろう (本名:#金谷善二郎) 【お笑いタレント】 〔兵庫県 姫路市〕, . . (Saburou, Kumamoto-shi) https://www.instagram.com/p/CoBDKrmS1hkGew_vhR9thNnxf9Znte21Lx93Cg0/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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ari0921 · 7 months ago
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和六年(2024)4月19日(金曜日)
   通巻第8221号
 後継皇室問題で自民党が有識者会議の二案を『妥当』
  やはり自民党に「現代の新井白石」はいなかった
*************************
 皇統後継問題の皇室典範改正をめぐって有識者会議が開かれ、これを踏まえて岸田首相は令和六年(二〇二四年)一月三十日の所信表明演説後の質門に答え、かく述べている。
 「有識者会議において悠仁親王殿下までの皇位継承の流れをゆるがせにしてはならないとの結論に至った」。
つまり「女系天皇論」という俗論をたしなめたのだ。だがメディアは意図的に、この一歩踏み込んだ発言を殆ど伝えなかった。岸田首相は「悠仁親王殿下までの皇位継承の流れをゆるがせにしてはならない」と明言しているのである。
 皇統は神武以来の万世一系で男子が継承し、跡継ぎが幼少などの場合、未亡人皇后か独身の内親王が天皇代理として「称制」と務めた。この歴史の特質が意図的に議論されず学校でも教えない。
だから軽佻浮薄にも「愛子天皇待望論」が出てくる。女性天皇と女系天皇の区別も曖昧とされたままである。
 小泉政権のおり皇室典範改正をめぐって有識者会議が開催された。明治二二年(一八八九年)制定された典範により、男系長子が皇位を継承するという神武天皇以来の万世一系の伝統が守られてきた。状況が変化し、皇統が絶えかねないという危機を認識し、急遽、有識者会議が招集された。
だが、座長はロボット工学専門の学者で歴史には無知だった。秋篠宮に悠仁親)王がお生まれになって、皇統問題は棚上げとなった。
 もしこの流れを変えるとなると歴史を否定する革命である。フランクフルト学派が狙うのは二段階革命による国家破壊であり、グローバリズムが国境をなくせと唱えている国家否定の隠れた目標に通底する。
  
 4月15日、自民党は皇位継承の安定のための皇族数確保に関する有識者会議の二案を『妥当』とする立場を示し、「安��的な皇位継承の確保に関する懇親会(麻生副総裁が会長)で���見解のとりまとめを急ぐとした。
 「二案」とは(1)皇族女子の結婚後の皇族身分保持。(2)養子縁組に拠る旧皇族団系男子の皇籍復帰、である。
 自民党はいずれも妥当としたわけだが、いささか勉強不足だろう。やはり与党に現代版の新井白石はいなかったのだ。
 各党の意見のなかで、唯一まともなのが「維新の会」である。すなわち(1)に対して、現実的ではあるが「女系への皇位継承資格拡大につながる懸念がある」としている。
 (2)に関しては『歴史と現実を踏まえれば、高く評価できる』とした。
そもそも皇室典範の改正云々を内閣ごときがおこなうべきではない。立太子と親王殿下がおられるのに、なぜこんな議論をするのか、裏に何か別の動機が潜んでいるのか。
(参考文献 宮崎正弘『二度天皇になった女性 ─孝謙・称徳女帝の光と影』(ワック)
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(再録)「新井白石 皇統断絶の危機を予知」
 皇統が断絶の危機に瀕したことは神武天皇の御代から幾度かある。また後継皇位を争った政争、謀殺も何回かあった。 
 古代史最大の謎は応神天皇と継体天皇の正当性である。ほかにも雄略天皇が謀殺したイチノヘオシハ(履中天皇の皇子、雄略天皇の叔父)の遺児が播磨と吉備の境に二十年隠れ住んでいて、雄略の皇子・清寧天皇が亡くなると名乗り出た。この間、イチノヘオシハの妹の称制だった。
 新井白石は自伝ともとれる『折たく柴の記』のなかで、皇室の後継が不在となる危機の到来を認識し、東山天皇の祖孫をして閑院宮家を立てられるよう将軍に建言した。その皇統を維持させた経緯を次のように回想した。
 「議し申すべき一事の候は天亨・建武の間、皇統すでに南北にわかれ、南朝はいくほどなくて絶させ給ひぬ。北朝はもとこれ武家のためにたてられ給ひぬれば、武家の代の栄えも衰えをも、ともにせさせ給ふべき御事なるに、応仁の後、世の乱れ打ち続て、武家すでに衰給ひにし上は、朝家のことは申すに及ばず当家(徳川)神祖天下の事をしろしめされしに及びてこそ、朝家(皇室)にも絶たるをも?ぎ、廃れしをも興させ給ふ御事共はあるなれ。しかはあれど儲君(皇太子)の外は、皇子、皇女皆々御出家の事においては、いまもなほおとろへし代のさまに、かは
り給はず。凡そ匹夫匹婦の賤しさも子を産みては其室家あらむ事を思ふ。これ天下古今の情也。(中略)これより後、代々の皇子、皇女、其数多くおはしまさむに至りては天下の富も、つがせ給はぬ所ありぬべしなど申す事も候はんか。古より皇子、皇女、数十人おはしませし代々もすくなかれねど、それらの御後、今に至り給ふは、いくばくもおはしまさず。『天地の間には大算数といふもののある也』と古人は申したりき。これらの事は人の智力の推し測るべき所にあらず。ただ理の当否をこそ論じもうすべけれ」(松村明校注、岩波文庫。138~140p)
 新井白石は後継皇統の候補者がたくさんおられた時代ではなく、いずれ後継候補が不在となる危機にそなえ、別に宮家を建てて費用をまかなうべきと建言したのだ。
 将軍家宣は白石の建言を受けいれ直仁親王を閑院宮と称し、禄千石を進上した。はたして白石が危惧した通り第113代東山天皇の系統は第118代後桃園天皇で絶えた。
 そこで東山の皇子、直人親王の孫にあたる光格天皇が第119代天皇として即位された。光格天皇は閑院宮典仁親王の第六王子。誕生の翌年に聖護院に入寺し将来は出家して聖護院門跡を継ぐ予定だった。
 ところが後桃園天皇が崩御し、直系は内親王だけだったため、安永八年(1789)十一月二十五日、践祚された。今上陛下はこの光格天皇の系統である。
 ゆえに令和の時代の皇室論議に臣籍降下された旧宮家の復活が急がれる所以である。
 白石が冒頭にのべた「建武の間、皇統すでに南北にわかれ、南朝はいくほどなくて絶させ給ひぬ。北朝はもとこれ武家のためにたてられ給ひぬれば」という意味は、建武の中興の後醍醐天皇の南朝が99代の後亀山天皇で世継ぎなく北朝五代の後���融天皇の皇子が、第百代の後小松天皇、101代称光天皇のあと、五代遡って北朝一代の光嚴天皇の祖々孫にあたる後花園天皇となられたことを指している。
 皇位が空位となったケースは幾つかあるが、未亡人か独身の内親王が称制(臨時天皇)として正式な後継皇子が成人するのを待った。たとえば持統天皇、皇極・齊明、元正、元明がそうだ。孝謙・称徳天皇の場合は後継淳仁天皇を廃帝とし、次の光仁天皇を指名したとする遺書は藤原百川がでっち上げた。
 第二十一代雄略天皇の子、清寧には皇子がおらず三代遡って履中天皇の皇子イチノヘオシハの遺児(顕宗、仁賢)が継いだことはみたが、その間の飯豊天皇は明治三年に皇統譜から削除された。ところが葛城の麓へいくと宮内庁管轄の飯豊天皇陵がある。
 その後、第二十五代武烈天皇にも後継皇子は不在で、こんどは五代遡り、応神天皇の五代孫と言われた継体天皇が践祚された。継体天皇は越前からやってきたが二十年間も奈良へ入らず、この謎は解明されていない。
                 (『月刊日本』から再録です)
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lierrelearns · 11 months ago
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写真提供: 小田原市立図書館発行[一枚の古い写真]より
明治憲法と民法を起草、初代の内閣総理大臣 伊藤博文 (1841-1909) 1] 伊藤博文公胸像 (本町四丁目) 伊藤博文の別邸[滄浪閣]跡で[民法発祥の地]として知られます。 *民有地ですので立入りはご遠慮ください。 写真提供: 国立国会図書館
幕末の志士で、宮内大臣等を歴任した政治家 田中光顕 (1843-1939) 2] 小田原文学館、3] 白秋童謡館 (南町二丁目) 田中光顕が構えた2棟の別邸を、小田原文学館と白秋童謡館として有料公開しています。 *建���は国登録有形文化財 写真提供:多摩市教育委員会
三井物産等を設立した明治財界の指導者、大茶人 益田孝 (鈍翁) (1848-1938) 鈍翁in西海子(南町二丁目) 茶器など鈍翁ゆかりの品々を展示しています。 写真提供: 国立国会図書館
秋山真之と親父があり、海運業で財閥を築いた実業家 山下亀三郎 (1867-1944) 5] 対潮閣跡 (南町一丁目) 山下亀三郎の別邸[対潮閣]跡で、秋山真之の終焉の地です。後に、田中光顕の歌を彫った[釣鐘石]が置かれました。 *民有地ですので立入りはご遠慮ください。 写真提供:山下真一郎氏
福岡黒田家13代目、貴族院副議長を30年務める 黒田長成 (1867-1939) [6]清閑亭 (南町一丁目) 黒田長成が明治末期に構えた数奇屋風の別邸。周辺の庭園めぐりの案内をしています。 *建物は国登録有形文化財 写真提供: 国立国会図書館
日露戦争における仁川沖海戦等で活躍した司令官瓜生外吉 (1857-1937) 7] 瓜生海軍大将之像 (南町一丁目) 山角天神社の境内に瓜生大将の胸像があります。 8] 瓜生坂 (南町一丁目) 高台にあった瓜生外吉の別邸に通じていた坂道です。 写真提供:瓜生家
多数の詩や童謡を創作した国民的詩人 北原白秋 (1885-1942) 9] 木兎の家跡(伝肇寺境内)(城山四丁目) 北原白秋が大正7年から8年余りを過ごした[木兎の家]が伝肇寺境内にありました。 写真提供: 小田原市立図書館
皇族出身の陸軍軍人で、昭和激動期の参謀総長 閑院宮載仁親王 (1865-1945) 10] 三の丸外郭新掘土塁(南町一丁目〜城山四丁目) 閑院宮載仁親王の別邸跡。広大な敷地の一部は史跡小田原城跡の土塁に重ねっていました。 写真提供: 小田原市立図書館 H25.12 小田原市観光課
Vocab 提供 (ていきょう) providing, donating 発行(はっこう)publication 憲法(けんぽう) constitution 民法(みんぽう) civil code, civil law 起草(きそう) (drafting (a bill, etc.), drawing up 内閣総理大臣 (ないかくそうりだいじん)prime minister (of a cabinet government) 伊藤博文 (いとう・ひろぶみ)Itou Hirobumi 公 (おおやけ)official, governmental, formal 胸像 (きょうぞう)half-length portrait 別邸 (べってい)secondary residence, vacation home 滄浪閣 (そうろうかく)Sorokaku 発祥の地(はっしょうのち) origin, birthplace 民有地 (みんゆうち)private land ご遠慮ください(ごえんりょください)please refrain (from) 国立国会図書館(こくりつこっかいとしょかん)National Diet Library 幕末(ばくまつ)Bakumatsu period 志士 (しし)imperial loyalist samurai of the Bakumatsu-era 宮内大臣(くないだいじん)Minister of the Imperial Household 歴任 (れきにん)successive/consecutive jobs 政治家(せいじかん)politician, statesman 田中光顕(たんか・むつあき)Tanaka Mitsuaki 文学館(ぶんがくかん)literary museum 白秋(はくしゅう)Hakushu (see below) 童謡(どうよう)nursery rhyme 構える(かまえる)to build, set up 棟(とう)counter for buildings 有料(ゆうりょう)fee-charging 公開(こうかい)open to the public 有形文化財(ゆうけいぶんかざい)tangible cultural properties 多摩市(たまし)Tama City 三井物産(みついぶっさん)Mitsuri & Co. 設立(せつりん)establishment, foundation 財界(ざいかい)financial world, business circles 茶人(ちゃじん)master of the tea ceremony 益田孝(ますだ・たかし)Masuda Takashi 鈍翁(どんのう)Donnou, an alias he took on as a tea master 西海子(さいかいし)Saikaishi 茶器(ちゃき)tea utensils ゆかりconnection (to a person, place, or thing) 品々(しなじな)various articles 展示(てんじ)exhibition, display 秋山真之(あきやま・さねゆき)Akiyama Saneyuki 海運業(かいうんぎょう)shipping industry, marine transport 財閥(ざいばつ)zaibatsu, financial conglomerate 築く(きずぐ)to build up, establish 実業家(じつぎょうか)business, entrepreneur 山下亀三郎(やました・かめさぶろう)Yamashita Kamesaburo 対潮閣(たいちょうかく)Taichokaku 終焉(しゅうえん)end (of life), death; (peacefully) spending one’s final years 彫る (ほる)to carve, engrave 釣鐘石 (つりがねいし)Tsurigane-ishi (Hanging Bell-shaped Rock) 代目(だいめ)nth generation 貴族院(きぞくいん)House of Peers (Meiji constitution) 副議長(ふくぎちょう)vice-chairman 黒田長成(くろだ・ながしげ)Kuroda Nagashige 数奇屋(すきや)tea-ceremony arbor めぐり tour 教育委員会(きょういくいいんかい)board of education 日露戦争(にちろせんそう)Russo-Japanese War における in, at, on, regarding 仁川沖海戦(じんせんおきかいせん)Battle of Chemulpo Bay (Feb. 9, 1904) 仁川(インチョン)Incheon 活躍(かつやく)activity, great efforts, active participation 司令官(しれいかん)commanding officer, general 瓜生外吉(うりう・そときち)Uryu Sotokichi 海軍大将(かいぐんたいしょう)admiral 之(の)of 山角天神社(やむかくてんじんじゃ)Yamakakuten Shrine 境内(けいだい)grounds (esp. of temples and shrines) 坂(さか)milestone; slope, hill 高台(たかだい)high ground, hill 坂道(さかみち)hill road 創作(そうさく)creative work 国民的(こくみんてき)popular on a national level 北原白秋(きたはら・はくしゅう)Kitahara Hakushuu 木兎(つく)horned owl (rarely used kanji form) 伝肇寺(でんじょうじ)Denjo-ji Temple 皇族(こうぞく)imperial family 陸軍(りくぐん)army 軍人(ぐんじん)soldier 激動(げきどう)turmoil, upheaval 参謀総長(さんぽうそうちょう)chief of general staff 閑院宮載仁親王(かんいんのみやことひとしんのう)Prince Kan’in Kotohito 外郭(がいかく)outer fence, outer enclosure 土塁(どるい)earthen walls 広大(こうだい)immense, huge, grand 敷地(しきち)site, plot, grounds 史跡(しせき)historic site
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hachikenyakaiwai · 1 year ago
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【かいわいの時】嘉祥三年(850)九月八日:八十島祭を行う(八十島祭の初見)
難波宮と摂津職が廃止された後にも、難波津において繰り返される宮廷祭祀があった。それは八十島祭と、伊勢斎王の解斎の禊である。いずれも前代からの伝統を引く古い行事であって、 平安時代に入って始められたものではない。 八十島祭は、即位儀礼の一環として挙行される神事で、大嘗祭の翌年に後宮の内侍司の女官が祭使として難波津に下向して生島足島神(大八洲之霊)を祭るものであった。
この神事は五世紀以来の古い即位儀礼の名残で、本来は全国土の国魂を新しい天皇の身体に付着させる呪儀であったらしく、奈良時代には、天皇自身が難波津に赴いて行っていたと推測される(第一巻第四章第四節1参照)。
しかし、史料に残る明らかなものはほとんど平安時代のものである。その初見は『日本文徳天皇実録』にみえる文徳天皇の即位に伴う嘉祥三年(八五〇) 九月のものである。鎌倉時代初めの後堀河天皇の元仁元年 (一二二四)まで行われ、以後廃絶した。この間約四〇〇年近くの間に、史料にみえるものは、二二回を数える。この祭儀は六国史には記載しないのが原則だったようで、その後も『日本三代実録』には記載がない。光孝天皇の場合も、『帝王編年記』に記載されるものである。恐らく記録に残らぬものが多かったに違いない(『新修大阪市史 2』)。
(写真)METで展示されている俵屋宗達���源氏物語関屋澪標図屏風」(ニューヨークビス03/09/2019)=ニューヨーク(撮影・吉田)
御社立ちたまて、所々に逍遥を尽くしたまふ 難波の御祓へ、七瀬によそほしう仕まつる 堀江のわたりを御覧じて 今はた同じ難波なると 御心にもあらで うち誦じたまへるを
御社をご出発になって、あちこちの名所に遊覧なさる。難波のお祓い、七瀬に立派にお勤めになる。堀江のあたりを御覧になって、「今はた同じ難波なる」と、無意識のうちに、ふと朗誦なさったのを(渋谷栄一訳)
住吉詣で偶然に元カノ(明石の上)とニアミスし動揺する源氏(当時29歳)。「今はた同じ難波なる」とは、百人一首にもみえる元良親王(890-943)の歌で、上の句の「わびぬれば今はた同じ難波なる」からとられています。源氏の心中にはもちろん「身をつくしても逢はんとぞ思ふ」という下の句が隠されていることでしょう。さて、かいわいに関係のある箇所といえば、もちろん、「堀江のわたり」。屏風では明石の上の乘る舟が描かれています。
源氏物語の注釈書の一つ『花鳥余情』(一条兼良1472)に「代始に八十嶋祭難波にてあり、典侍の人御衣をもちて参向して解除する事あり これみな難波のはらへの例也」とあり、「七瀬」と「八十島祭」は同じようなものとして扱われています。紫式部の時代の八十島祭は、三条天皇の長和二年(1013)十月、後一条天皇の寛仁元年(1017)十二月が記録に残っています。
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beijingminzhuang-blog · 4 months ago
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中国为什么难有民主
自西汉起,儒家成为中国文化的主流,进入日常生活的每一角落,上自朝廷的典章礼仪、国家的组织和法律、朝廷礼乐,下至学校组织、社会礼俗、族规家法、人际关系和个人道德。儒家伦理深植于中国社会中,成为日常生活的规范和准绳。
孔子继承周代的政治思想,认为为政者必须有美德,而仁就是最基本的美德,孝悌则为仁之本。儒家主张以家庭为中心,以长者为尊,长幼有序。国是家的扩大,把所有社会关系归纳为五伦,称国君为君父,官员为父母官。父子之亲,往往与君臣之义同义。同时强调君子能无私无我,不会自私自利,顾全群体而牺牲小我,把个人利益置于群体利益之下,每个人都应该强调自我修行,以达到圣人的境界。
两千年来,儒家的伦理体系已经成为中国人心灵、道德和礼俗生活的一种依托和准则。即使这套道德规范没有在任何一条法律中写出来,要求每个人必须这么去做,但是它却深深地埋在每个中国人的心中。导致中国至今仍然无法真正融入世界主流文化价值观,中国的社会生活、政治生活仍然是处于前现代时期。
首先,两千年来的儒家思想熏陶,导致中国人只知权威,完全不知道平等为何物。儒家强调尊卑有序,人应该分高低贵贱,分等级,即所谓的“君君臣臣,父父子子”,把政治权威视为社会秩序的基本条件。在中国,爸爸与儿子、上司与下属、老师与学生……永远不可能平等。地位在下者的美德就是顺从,对于儿子来说,孝就是美德,对于下属来说,忠就是美德。儿子对父亲提出一点质疑,就是不孝;下属对上司提出质疑,就是不忠。在儒家的道德规范中,在上者肯定是一个道德模范,一个完人,一个没有丝毫瑕疵的人,一定有着不可置疑的权威。在下者对在上者能做的,只能是顶礼膜拜,而不能有丝毫的质疑。如果有质疑,就是不孝,就是不忠,就是忤逆。儒家从来只讲在下者的义务,在上者的权威,而从来不讲在上者的义务。
当大家都默认这套尊卑有序的道德教化,并且在上者天然有着不可被质疑的权威之后,这个体制内就只能有两种人——爷爷和孙子。在一个组织中,当一个人对下时,总是“爷爷”的身份,对上时,又总是“孙子”的身份。“爷爷”都是道德模范,“孙子”都是孝顺、忠诚的。爷爷和孙子的关系,存在于这个社会的每一个角落中。
这套崇尚尊卑有序的道德教化,使得社会中能够被选拔出来的人都是懂得曲意逢迎的人。真正遵从自己内心思想的人,很早就会被制度清洗掉而得不到发展的机会。这种只懂得曲意逢迎的人会把“说一套做一套”视为常态,而把说真话当做幼稚。鲁迅所谓“吃人的礼教”,其实指的就是要让每个人都变成适应这套制度的人,让每个人都遵从在上者的思想,放弃自己内心的真实的想法。
其次,崇尚道德教化,也是这套社会伦理体系中的核心思想,这又导致社会上催生了大量的“伪君子”。在这套体系里,成为一个道德模范,是成为一个完人、一个君子、一个圣人的基础。而作为道德模范,首先是不能爱财的,不能有丝毫追求个人利益的行为,只要有追求个人利益的行为,就是小人。同时,作为儿子,不可以质疑父亲,因为父亲一定是伟大的;作为学生,不可以质疑老师,因为老师一定是没有错的;作为臣子,不可以质疑皇帝,因为皇帝一定是英明的。但是现实生活里,追求个人利益是每个人为了生存而必须要做的事情,而父亲、老师、皇帝出错也是太正常不过的事情了。所以,想要成为真正的“君子”是很难的,成不了真君子,就只能成为“伪君子”。曲意逢迎和唱高调,则是成为“伪君子”的��修课程。
在这套制度里,只要你是在上者,你肯定就是一个道德楷模,而作为道德楷模,你就天然应该受到在下者的顶礼膜拜,天然不需要受到任何监督。这就造就了“伪君子”的又一个特色——装。在上者永远要装成一个道德模范,一个完人,一个不可能犯任何错误的人,一个圣人;在下者永远要装孙子,装孝顺,装忠诚,装无私。同样的道理,如果你想整垮一个人,最重要的就是找到他在道德方面的瑕疵,一个人无论你有多大成就,只要在道德上有瑕疵,你就什么都不是了。这种社会道德规范下,培养出来的真君子只是少数,真正培养出来的,是大批的“伪君子”。或者说,这就是一个生产“伪君子”的社会制度。在一个“伪君子”当道的社会,怎么会容忍真正的自由和民主。
儒家的社会伦理体系是产生极权政治的天然土壤,所以中国社会自古以来都没有民主的基因存在。这套理论体系导致中国的社会生活和政治生活离民主、自由越来越远。即使是在已经接受西方思想的日本和韩国,等级制度的思想依然非常严重。
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zhouzongmin-blog · 7 months ago
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《五月天 回到那一天 25週年 巡迴演唱會 香港站》2024年5月9日場,這一場原本是五月第一天的場,而昨晚也是有驚無險,差一點因為刮大風而取消,而中間那個大球是變形了。
不管怎麼說,現場像燃燒的火焰,以前我非常熱衷於 林肯中心 大都會歌劇院或 倫敦 柯芬園皇家歌劇院的大歌劇,沒曾想到五月天的現場也可以找到我要的感覺和氣氛。
其實五月天的創作有詠嘆,華彩、呈示、再現、高潮,而炫技也隨處可見,和弦也豐富,織體絢爛。雖然是搖滾或民謠的樣式,從五月天即興又隨意的唱腔唱出來,可以清晰而有力的表述觀點、美感和熾熱的感性。
如果你以為五月天只是鬧騰或甜膩,那就錯了。他們也熱衷於存在主義生存思考,歌詞指涉生之艱難,探詢其中的意義,提升人的精神價值和意義。
五月天創作的重要特質也在於他們巧妙地與日常的憂患緊密擁抱,對現實物質主義也持親和的態度,不會游離於具體的現實之外。這很難得,既沒有把自己束之高閣,又斬獲跨年齡層的聽眾。事實證明,與俗世物質主義融合會讓人活得容易一點。
我在現場本來是想深度沈浸於這個燃燒的現場而已,但實際上我與大多數觀眾一樣,聽他們大段的詠嘆、瘋狂的釋懷吶喊、痛陳活著的痛楚與悲哀,然後笑著哭了,哭了又笑了。
五月天也不濫情,與你釋懷也適可而止,他們會以成熟的個體人格來構築一個文化景象,這與內地普遍個體人格的稀缺形成反差。眾所週知,內地的虛幻集體人格模糊而又難以聚焦生命與生活的意義,導致虛耗和疲憊。
個體人格培育在 成長 過程裡的稀缺,會導致人格模糊,性格游移,極端情緒和創傷型隔絕,於是當一種個體人格突出和健全的文化出現時,一種跨越時空的 彌補療癒衝動 就會萬人空巷。
這不光是五月天的音樂之對於內地,包括侯孝賢、楊德昌的電影,也是這種功效。
當然光聽五月天的唱片還是不夠,現場總的美學體驗在於整個佈局很像一部IMAX電影,奇幻、時髦、年輕,製作精細。也不止於氾濫的特技,而是認真拍攝了真摯的人文主義短片,語境特別清新。
這讓五月天整個的音樂訴求完整,一點也不淺薄。我很慶幸 華語文化 中能出現五月天這樣精準而有力地捕捉人性,黏著於這25年的人間悲歡和個體生存掙扎的演唱組合,這讓我回望鮑伯狄倫、槍花、涅槃、披頭士等影響了一代人的音樂傳奇。
而我們身邊的能與我們用 華語 同呼吸,共患難,親密許下五月的私密約定的,就只有五月天了。
其實我竟然只是近年才聽五月天,也是疫情困於室內在黃水爺處看了五月天在台北的跨年演唱會直播,覺得這個搖滾樂隊氣質不凡,一聽歌才知感性豐富,理性成熟。
其實五月天對於所有歌迷並不複雜,一瞬間就會擊中你的內心。五月天 歌中 的理想主義與浪漫主義情緒,能夠讓普通人抽離於現實的艱困與痛苦,在安慰中有繼續前行的勇氣,也覺得生活需要短暫的遺忘,平凡地活著也是一種偉大——這一種精神價值的探詢,又正是人與動物的區別。
比如忘憂歌,你會跟他們高聲交流,把生活的種種宣洩出來,這真是一場派對動物的專屬,是倔強的玫瑰少年正在進行的愛情ing。
五月天 氣勢磅礴的文化景象呼嘯而來,接下來鳥巢的10場演出一票難求,��年在廣州黃村的演出也難以搶到一張票。這讓人慾說還休的時代,總歸有五月天的燃燒型派對來慰藉,就乾杯吧!
如果沒有我所期待的 華格納《尼伯龍根的指環》或《崔斯坦和伊索爾德》,五月天 也可以讓我與數萬人一起在三個多小時的時間裡酣暢地跳著歌唱而淚眼婆娑⋯⋯
歌迷不會輕易善罷甘休,安可的叫聲昨夜持續了一小時,維港海中的白色氣球在海風中錯愕地搖擺,端看這人間短暫的喜宴,難以離去~#五月天#5525回到那一天
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bsamngodangbralba · 1 year ago
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小町数人説をめぐって
陽明文庫に中世の小町の絵がある。絹本着色、縦六一・六センチ、横四一・七センチの絵を表装してあるのだが、軸心近くの裏面に「小野小町像 貞治六秊六月廿五日」と、まさしくその頃この筆跡にて記されたものが付加されている。表装そのものもそんなに新しいものでないが、表装するにあたって、この絵に本来ついていた紙をここに付加したものであろうことは、その字がまさしく貞治頃〈一三六二〜一三六七〉この事跡であることが疑いもないからであろう。
ところで、この絵は「小野小町像」となっているが、まさしく「玉造小町子壮衰書」によっている。「容貌ハ憔悴シテ、身体ハ疲痩」、「頭ハ霜フリタル蓬ノ如ク、膚ハ凍リタル梨ニモ似タリ」、「骨ハ辣チテ筋ハ抗クナリ、面ハ黒クシテ歯ハ黄バミタリ」、「裸形ニシテ衣ナク、徒跣ニㇱテ履ナシ」、「左臂ニハ破レタル筐ヲ懸ケ、右手ニハ壊レタル笠ヲ提ツ」、「頸ニハーツノ囊ヲ係ケ、背ニハーツノ袋ヲ負ヘリ」、「肩ノ破レタル衣ハ胸ニ懸カリ、頸ノ壌レタル蓑ハ腰に纏ヘリ」とある「壮衰書」の序文をのものである。ここでもまた小野小町と玉造小町を同人物とする中世の理解が確認されるのである。
先にあげた「無名抄」の文〔五〇頁参照〕の続きに「玉造の小町と小野小町と同人かあらぬ者から、人々おぼつかなきことに申して争ひはべりし時...」とあって別人説もあったことは確かだが、その多くは前述の「玉造小町子壮衰書」の弘法大師著作説を土台にしての疑問であり、中世の大勢は、あくまで両者を同じものと見、「玉造小町子壮衰書」を小野小町の事蹟を語るものと見ていたことは疑いもないのである。
近世に入っても、この傾向は変わらなかった。貞徳の「徒然草慰草」などその顕著な例だが、中期以後の随筆の類を見ても、たとえば天野信景の「塩尻」〈『随筆大成』等〉、志賀忍〈天保十一年、七九歳没〉の「理斉随筆」などは、小野小町と玉造小町を同一人と考えている。
ところが、小町という名は、実は普通名詞であって、〇〇小町と呼ばれる女性はま��とに数多くいたのだ、玉造小町と小野小町もとうぜん別人だという、いわば画期的な説が新井白雅の「牛馬問」「〈温知義書〉」に提示され、人々を驚かせたのである。
古代には一国より一人づつ采󠄃女を内裏へ献ぜしこと也。既に仁明帝の前後には、小町とて召されたるもの六十余人ありしとなり。この采󠄃女を后町のうちにをらしめたまふ。故にみなみな小町と呼ばれたるなり。その人々の宮仕へをやめて古郷に帰り身まかりたる墓を、おほか「た小町塚とよびしとなん。さてこそ、国々に小町塚といふもの多し。美濃・尾張の間にさへ二三所あり。
しかるを、なべての小町を一人と思ふよりまぎれたる説多し。たとへば実方朝臣、陸奥へ下向の時、髑髏の目穴より薄の生ひ出て、「秋風の吹くにつけてもあなめ〱」の歌の小町は小野正澄が娘の小野小町なり。文屋康秀が三河掾となりて下りし時、「身をうき草の根をたえて」さそふ水あらば」とよみしは高雄国分が娘の小町なり。「おもひつつぬればや人の見えつらむ」の歌、又業平の「舞の袖」などいひしは出羽郡司小町良実が娘なり。高野大師のあひたまふ、壮なる時憍慢最も甚だし、衰ふる日愁歎猶深しと答へしは常陸の国玉造義景が娘の小町なり。かく一人ならず。故に時代其外異なる事あるのみ。中にも良実が娘の小町は美人にて和歌にもすぐれたれば、独り名高く、すべて一人のやうに伝へ来たるのみ。
まず、小町を采󠄃女をし、采󠄃女のすべてに「町」をつけてよんだといっているが、平安時代の文献にあらわれる采󠄃女は、たとえば「近江の采󠄃女」〈拾遺集〉「明日香の采󠄃女」〈大和物語〉などのごとく、国名を冠して呼ぶのが普通である上に、文献にあらわれる「町」のつく女性は前述のように后町にいる更衣であって采󠄃女ではない。小町采󠄃女説自体が出羽都司良実の娘という伝承をもとにして出来たものであり、出羽国から采󠄃女をさしだすことはなかった〈「続日本紀」「類聚三代格」〉という事実を持ち出すまでもなく、この日雅の説には従えないのである。地方に数多い小町塚の合理的説明としても弱いものである。
ところで、この白雅の説、後半になると、その多数の小町が四人にしぼられて来る。架空の人物である小野正澄とか高雄国分とか玉造義景などの名をどこから持ち出して来たのか不明だが、既に伝説化説話化している小町像のすべてを事実と認定する立場からの合理的整理であって、まったく意味をなさぬものとしか言いようはないのである。
伝承る整理しながら、また新しい伝承を生んでいる��じの「牛馬問」の説であるが、その合理的整理法に人気があったのか。それに賛同して引用している随筆が実ははなはだ多いのである。神沢貞幹の「翁草」〈『随筆大成』第三期所収〉、城戸千楯の「紙魚室雑記」〈『随筆大成』第一期所収〉、石川宣続の「卯花園漫録」〈『新燕石十種』第三所収〉、山本信有の「孝経楼漫筆」〈『随筆大成』第三期所収」、滝沢馬琴・屋代弘賢らの「兎園小説」〈『百家説林』所収〉など、いずれもこれに全面的な賛同を示しているのである。
小町に限らず、伝説的人物は、その伝説化の過程において、事蹟が膨脹し、それを全体的に把握するとなると、そこに新しい矛盾が出てくることが多い。これを予盾なく合理的に統一しようとすると、いわば原生動物の体のように多方面に膨脹したものを分割するほかはなくなる。
たとえば柿本人麿の場合にしても、「万葉集」の記述を信するかぎり人麿は持統朝から文武朝にかけて活躍した歌人であるとするほかはない。だが一方、「万葉集」が引用する「柿本人麿歌集」にはそれよりもかなり後の歌もある。「人麿歌集」に後代の歌が入っているというのは今日の学者の常識だが、人間歌集なのだからすべてが人麿の歌だという立場に立てば、「万葉集」の人麿にして、既に最低二人いたことになる。次に「古今集」の仮名序を見ると、、「おほきみつの位(正三位)柿本人麿」を「ならの御時」の歌人としている。現在では、これを「奈良時代」と解し、しかも人麿が活躍した飛鳥時代は奈良時代に接していたからこのように書いたと説明している。だが、そこに都があった「時代」と解するのはどうか。平安時代において「御時」とは天皇の治世、すなわと御宇のことであり、「ならの御時」は平城の帝の御時の意にほかならないからである。事実、この仮名序に対応する真名序(漢文の序)には「平城天子」とはっきり書かれている。「古今集」より五十年ほど後に出来た「大和物語」にも人麿が平城天皇に仕えていたとある。平城天皇は平安時代第二の天皇だから「万葉集」の人麿とは違う。これ第三の人麿ということになる。ところ、で、「古今集」から百年ほど後の第三の勅撰歌集「拾遺集」を見ると、人麿が渡唐してよんだという歌が二首見える。これ、第四の人麿である。
人麿を一人ではなく四人とすると、その間の矛盾はなくなる。しかし矛盾がなくなったところでどうなるというのだ。私が問題にしたいのはそんなことではない。実在の人麿が、その死後、奈良時代・平安時代にどのように伝説化されていったか、別のことはで言えば、後の人々の心の中に人麿がどのように生き続けて来たか、私はそれを問題にしたいのである。
小町の場合も同じである。江戸時代の学者のように小町を��人にしたり、現代の民俗学系の国文学者のように、小町と称する女が無数にいたとか、小町を名のる遊行婦女・あるき巫女・歌比丘尼のたぐい��諸国をめぐり歩いていたと言い切ることによって事足れりとし、文献に残った小町の文学と伝承について深く考えようともしないのは学問の堕落、ある意味では頽廃という評語が適切でさえある。仮に彼らの言うようなことがあったとしても、せいぜい中世の後期のことであり、「小野小町の歴史」ほ既に平安時代中期以前から始まり、中世、近世と続いていたのである。小町が、その死後も、後代の人々の心の中にどのように生き続け、どのように変容していったか、あるいはまた、時を経て変容しながらその底に変えずに生き続けてゆく、いわゆる小町的なもの、それはいったい何かということの追跡にこそ、私は意味を認めたいのである。世に虚と言い実と言う。しかし、このように見れば、人々の心の中に生き続けていたものはすべてが実だと言うほかはないのである。
以下の章において次第に明らかにしてゆくことであるが、小野小町の説明化は、彼女の死後間もない頃から既に始まっていたのである。そして十世紀の末頃には、我々が知っている小町説話、たとえば(1)雨乞説話(2)好色説話(3)男性を拒否する驕慢説話(4)衰老説話 等、そのおおむねが既に出来るがっていたはずである。だから、そのような流れの中に「玉造小町子壮衰書」を置くならば、「小町老いて後、おとろへさらぼりたりなど云ふめるは、玉造小町の事なるを混じていへるなり」〈本居内遠「小野小町の考」〉というような見方が必ずしもあたらぬことを知るのである。小町衰老落魄の説話が「壮衰書」の影響で出来上がったというよりも、既に世に行なわれていた小町落魄説話の仏教的結実として壮衰書を考えるべきではないか。「玉造」の由来を明らかに出来ぬことは残念であるが、ともかくも「小町」と表題にあるだけで人々が説明を求めないような人物の伝でなければならないこと、しかもそれが「花ノ時ヲ待チテハ玉筆ヲ秉リテ紅桜紫藤ノ和歌ヲ詠ズル」美女の伝でなければならないことなどを併せ考えれば、平安末期から中世にかけての人々の大勢的理解がそうであったように、これをも小野小町のこととするのが、最も素直な、そんなして最も妥当な理解だと思うのだが、いかがであろうか。
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kuribayashisachi · 2 years ago
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勉強メモ 野口良平『幕末的思考』 第1部「外圧」第3章‐5
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朝勉強で少しずつ読んでいる、 野口良平『幕末的思考』みすず書房
第1部「外圧」の第3章「変成する世界像」‐5 まで来ました。 学習メモと、感想、連想、脱線……を書きます。
***
時代と格闘する幕末の真摯な群像に出会い、どきどきが止まらないこの本。 とくに、第3章‐3(ポーハタン号・咸臨丸による幕府使節の渡米)には、胸がときめくようでした。
なのに、ここへ来て、だんだんついていけなくなる。
それはひとえに、私が「戦やだ~~」から離れられないから。
しかし、彼らは武士なので戦争が家業だし、この時代に「戦争自体が悪」という思想はなかったのだろうし、今は、真摯な幕末人たちの事蹟を負うのだから、私の感想は置いておこう。
幕府が必死にどのように開国するか、列強に対応している間、 長州と薩摩は、外国と戦争をはじめてしまう。
長州藩は、関門海峡を通る外国商船を砲撃。 薩摩藩は、生麦事件(大名行列を横切った英国人を斬り殺してしまう)の賠償交渉で英国と決裂して開戦。
彼らは「戦争」を選び、しかしそこから列強との新たな交渉の窓口をつかんでいった……。という。
***
本の内容をメモ。 (間違ってたら、だれかおせーて!)
緑色の字は「個人の感想です」^^
米英蘭仏と条約を交わし、開国を決めた幕府。 ここへ来て、考え行動する幕末人たちは、それぞれに新しい一歩を考え出してゆく。
◎横井小楠の説
熊本出身の学者・政治家横井小楠は、スカウトしてくれた松平春嶽を通して幕府に献策。それが「破約必戦論」。
“今は攘夷か開国かではなく、興国のとき。現行の不平等条約は、不正なやり方で締結されたので破棄。→もちろん列強は怒るだろう。なので「必戦」は覚悟した上で、国内の諸勢力が同じテーブルについて天下の公議を重ね、国是を決め、それを諸国に示して国際会議の場で普遍的な道理に照らして是非をはかる。"
という考え。
(うん、「必戦」以外はよい!)
だが、横井小楠の「破約必戦論」は、幕府(特に徳川慶喜)に拒絶される。
→徳川慶喜の言い分 ①必戦というが、戦をして負けたらどうなる?(負けるよ-)
②諸侯会議を開いて、時局のことをまったく判ってない奴が来て変なことを言えば混乱するだけ。 (わかる)
③条約を結んでおきながら、批判が高まればおたおたするのは天下に対して無責任すぎる。
→横井小楠「慶喜さま、卓見だわ~」と、策を引っ込める。
→けれども、長州の周布政之助、桂小五郎は横井小楠の策に賛成! 「破約必戦論」を聞いた周布、桂は、これまで「条約追認論者」と決めつけていた横井小楠を信頼する。
→「もう幕府はダメかも、諸国のみんなで連携してやろうか、政治を」という気運になってくる。
◎長州藩の動き
吉田松陰の弟子である久坂玄瑞が、京で攘夷派の公家を動かし、朝廷を攘夷派でまとめ、孝明天皇から(京に捕らわれている)家茂に「条約破棄交渉をせよ」と命令書を出してもらう。
さらに、生麦事件の賠償問題で困っている幕府をさらに追いつめるため、関門海峡を通る米・仏・蘭の商船を砲撃する。
→ひえ~、やめて~~!!
→4国連合艦隊が報復。惨憺たる敗北
→「今までの軍ではダメ。身分を問わず、みんなで防衛しよう」と、 高杉晋作が、武士だけでなく、身分を問わぬ「寄兵隊」をつくる。
攘夷戦争と同じ頃、横浜から長州人5人が密航留学してる。
◎薩摩藩の動き
生麦事件の賠償交渉を、英国と藩独自でもつ。→決裂→薩英戦争。「善戦」するが敗北
終戦交渉の場を利用して、イギリス相手に幕府を批判。対日本交渉の窓口は、幕府より薩摩だ!とアピール。
湾に入ってきた英艦に乗り込んで薩英関係の改善に努力した人も。 五代才助(友厚)、松木安弘(寺島宗則)。
◎勝海舟と横井小楠
幕府から献策を却下されたとき、 横井小楠が、幕臣の勝海舟にぼやいた言葉。 “「攘夷は興国の基」だが、異人をやたら斬ったり「でていけ~」というのが攘夷だと思っている輩が多すぎるので、なかなかそこまで行けない。ふう~"
勝海舟の海軍構想 と 横井小楠の「公共の政」構想は、通じるものがある、とのこ���。p62
◎理屈では���かるが、なんだかこわい
勝海舟の海軍構想 と 横井小楠の「公共の政」構想は、民主主義国家と国民皆兵制度のことだと思うけど、
すばらしいもの……なのかなあ。
なんか、江戸時代の方が庶民にとってはいいように思う。
江戸時代、農民・町人は唯一の納税者。武士はその「あがり」で食べ、身分制度の頂点にいた。そのかわり、いざとなったら戦に出て農民たちを守る。
ところが近代、明治以降~ 農民たちは税も取られる上に、兵にも取られて死ななくてはならない。いやだよね~。とられすぎ。。。
それにこのとき、「とにもかくにも(ぶっちゃけ、たとえ植民地になっても戦をしない」という考えはどこからも出てこなかったのだろうか。知りたい。
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medickalmalpractice · 1 year ago
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混迷した世界の指南書 『武士道』 藤原正彦(2008) 『この国のけじめ』 文藝春秋
 新渡戸稲造『武士道』が売れているという。昨年末(二〇〇三年)公開されたアメリカ映画 「ラスト・サムライ」の影響もあるとかで、数社から合わせて百万部以上が出ているそうだ。 これを聞いて意を強くした。 『武士道』が英語で書かれたのは明治三十二(一八九九) 年であ る。百年以上前の本を現代日本人がこぞって読むのは、健全な危機感のあらわれと思うから (5)である。 庶民は知識や理屈を持っていなくともときに鋭い感覚を示す。多くが「いまの日本は何かが おかしいぞ」という素朴な実感をもっている。グローバルスタンダードを取り入れるといって、企業はリストラをする。学校では「ゆとり教育」を取り入れる。その結果、職のない中高年があふれ、地方の駅前商店街はさびれ、小学校では国語や算数の時間が減らされ、小学生から大(10) 学生に至るまでの学力低下は著しい。庶民はこうしたことに「自分たちの親や祖父が大切にしてきたものが壊されつつある」と感ずるのだろう。我々のよってたってきた価値観とは何だったのか、(1)というルーツ探しに似た感覚が『武士道』を手にとらせているのだろう。  『武士道』の著者・新渡戸稲造は幕末の南部藩(いまの岩手県)で下級武士の子として生まれ、札幌農学校(現・北海道大学)で農業を学んだ後、アメリカに留学しキリスト教クェーカー派 の影響を受けた。アメリカからドイツへ渡り、研鑽を積んだ後、札幌農学校教授、台湾総督府技師、(5)京都帝国大学教授、第一高等学校校長などを歴任、農学者および教育者として活躍するかたわら、東西思想の調和を目指し「太平洋の懸橋たらん」ことを悲願とした。東京女子大の初代学長、国際連盟事務局次長なども務めた日本の誇る国際人である。  『武士道』が書かれた明治三十二年は日清戦争と日露戦争の中間期��、清を破った新興国家日本に世界が注目しながらも警戒心を持ちはじめた時機である。新渡戸はベルギー人法学者夫妻と散歩中(10)、日本には宗教教育がないと話したところ、「宗教なし! それでどうして道徳教育を授けるのですか」と驚かれた。その後いろいろ考えた結果、自身の正邪善悪の観念を形成しているものが幼少期に身につけた武士道であることに気づいたのである。  同時代人である内村鑑三や岡倉天心にも共通するが、新渡戸には日本人の魂を西洋人に理解させたいという熱い思いがあった。そして英語で武士道を紹介することを決意する。西洋人に(15)も理解しやすいよう、ギリシアやローマの哲学、聖書、シェイクスピア、ニーチェなどと我が国の本居宣長、平重盛、頼山陽、吉田松陰らを比較しながら武士道精神の本質について説いた。  (1)『武士道』初版は一九〇〇年にアメリカで出版され、たいへんな賞讃を受けた。感激したセオドア・ルーズベルト大統領などは、何十冊も買い、他国の首脳に送ったという。その後多くの言語に訳されたが、日本語訳は明治四十一年以来、新渡戸の弟子で東大総長を務めた矢内原忠雄訳(岩波文庫)をはじめとしてさまざま出ている。 (5) 私は勤務する大学の学部一年生に対して、日本の名著を講読するゼミを担当している。こと十年近く、真っ先に学生たちに読ませるのが『武士道』である。受験戦争をくぐり抜けて大学に入学したての学生たちは、『武士道』を読んで一様に驚く。高校までに習ってきたこととあまりに違うことが書いてあるからである。とくに戸惑いを見せるのは、(10)名誉に関する部分である。 武士道では、名誉はしばしば命よりも重いとされる。「それ故に (武士は)生命よりも高価であると考えられる事が起れば、極度の平静と迅速とをもって生命を棄てたのである」(矢内原忠雄訳・以下同)という箇所を読むと、戦後民主主義の教育にどっぷりつかった学生たちは、「名誉より自分を大切にすべきだ」とか「生命は地球より重い」などと拒否反応を示す(むろん(15)新渡戸は「真の武士にとりては、死を急ぎもしくは死に媚びるは等しく卑怯であった」とも述べており、いたずらに死を賞讃しているわけではない)。  (1)学生たちのそうした批判に対して、私は「それではあなた方は一体どうやって価値判断をするのですか」と問う。すると「自分の理性で考えます」「主体的に考えています」などと答える。「すごいなあ、なぜそれほど自分の理性に自信が持てるんですか」と問うと学生は困ってしまう。人間には、理性や論理��けでなく、価値判断の基準となる倫理的な座標軸がなければならない。(5)それがない論理的思考は単なる利益追求とか自己正当化に過ぎない。座標軸の役割を果すのは、外国の場合、主に宗教だから、外国人は宗教のない人間を信用してよいものか訝る。  宗教の力がそれほど強くない我が国でその役割を果してきたのが武士道である。武士道は平安時代末期から鎌倉時代にかけて、「戦うものの掟」として生まれた。それはいわば(10)戦闘におけるフェア・プレイ精神だった。卑怯な振る舞いはしてはならない、臆病であってはならない、という観念である。  騎士道がキリスト教の影響を受けて深みを得たように、単なる戦闘の掟だった武士道にも、さまざまな「霊的素材」が注入されたと新渡戸は言う。 まず仏教、なかでも禅が「運命を任すという平静なる感覚」と「生を賤しみ死を親しむ心」(15)を武士道に与えた。 そして主君に対する忠誠、祖先に対する尊敬、親に対する孝行という他のいかなる宗教でも教えられなかった美徳が神道からもたらされた。さらに孔子と孟子の教えが、(1)君臣、父子、夫婦、長幼、ならびに朋友の間の五倫の道、また為政者の民に対する仁慈を加えた。  こう書くと外国のものが多いようだが、禅にしても孔孟の教えにしても、中国ではごく一部の階層にしか広まらなかった。これらの思想は日本人が何千年も前から土着的に持っていた(5)「日本的霊性」 とびたりと合致していたから、武士の間にまたたく間に浸透したのである。 江戸時代になると実際の戦闘はなくなった。それとともに武士というエリート階級の行動指針であった武士道は、物語や芝居を通して次第に庶民にまで行き渡り、戦いの掟から精神へと昇華し、日本人全体の道徳的基準となった。武士道精神はこうして「遂に島帝国の民族精神を表現するに至った」のだ。  (10)武士道は成文化されていない。聖書やコーランのような経典がない。武士道は「書かれざる掟、心の肉碑に録されたる律法」として親から子へ、口から口へと伝えられた。そして知識よりその実践こそが本質とみなされたのである。  私の父・新田次郎は、幼いころ父の祖父から武士道教育を受けた。父の家はもともと信州諏訪の下級武士だった。生家の二階には三畳の間があり、子供は容易なことでは入らせてもらえなかった。(15)なぜならそこは切腹の間だったのである(実際に使われたことはないらしい)。幼少の父は祖父の命で真冬でも裸足で『論語』の素読をさせられたり、わざと暗い夜に一里の山道を(1)���諏訪の町まで油を買いに行かされたりした。父は小学生の私にも武士道精神の片鱗を授けようとしたのか、「弱い者が苛められていたら、身を挺してでも��けろ」「暴力は必ずしも否定しないが、禁じ手がある。大きい者が小さい者を、大勢で一人を、そして男が女をやっつけること、また武器を手にすることなどは卑怯だ」と繰り返し言った。問答無用に私に押しつけた。  (5)義、勇、仁といった武士道の柱となる価値観はこういう教育を通じて知らず知らずに叩き込まれていったのだろう。義とは孟子が言うように「人の路」である。卑怯を憎む心である。林子平は義を「死すべき場合に死に、討つべき場合に討つこと」と言っている。勇とは孔子が「義を見てせざるは勇なきなり」と言ったように、義を実行することである。そして仁とは、「人の心」。慈悲、愛情、惻隠の情、「強きを挫き弱きを助ける」などがこれに含まれる。  (10)他にも、礼節、誠実、名誉、忠義、孝行、克己など大切な徳目があった。なかでも名誉は重要で、恥の概念と表裏をなし、 家族的自覚とも密接に結ばれていた。前述したように名誉はしばしば生命より上位にくるもので、名誉のために生命が投げ出されることもたびたびあった。  武士道精神の継承に適切な家庭教育は欠かせない。戦前に国や天皇に対する「忠義」が強調 された、という反省から戦後は日本の宝物ともいうべき武士道的価値観がまったく教えられなくなったのは不幸なことである。(15)戦後教育しか受けていない世代が親となり先生となっているから、いまでは子供にこれを教えることも叶わない。 (1)新渡戸の『武士道』は日本人の美意識にも触れている。 武士道の象徴は桜の花だと新渡戸は説く。そして桜と西洋人が好きな薔薇の花を対比して、「(桜は)その美の高雅優麗が我が国民の美的感覚に訴うること、他のいかなる花もおよぶところでない。薔薇に対するヨーロッパ人の讃美を、我々は分つことをえない」と述べ、本居宣長の歌、(5)敷島の大和心を人間はば、朝日に匂ふ山桜花、を引いている。 薔薇は花の色も香りも濃厚で、美しいけれど棘を隠している。なかなか散らず、死を嫌い恐れるかのように、茎にしがみついたまま色褪せて枯れていく。 (10)それに比べて我が桜の花は、香りは淡く人を飽きさせることなく、自然の召すまま風が吹けば潔���散る。桜の時期にはしばしば雨が降り、ときには数日で散ってしまう。自然の大きな力に逆らわず潔く散る。  「太陽東より昇ってまず絶東の島嶼を照し、桜の芳香朝の空気を匂わす時、いわばこの美しき日の気息そのものを吸い入るるにまさる清澄爽快の感覚はない」、つまりこの清澄爽快の感覚が(15)大和心の本質と新渡戸は説く。  (1)日本人は、このような美意識を持ち、いっぽうで行動原理としての武士道を守ってきた。���渡戸はまた、吉田松陰が刑死前に詠んだ、かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂、(5)を引く。吉田松陰は黒船来航以来の幕府の政策を痛烈に批判し、安政の大獄の際に死罪に処せられた。この歌は、たとえ行き着く先は刑死とわかっていても、正しいと信ずることをせずにはおれないという松陰の告白である。名誉のためには死も恐れないという態度である。  こうした「大和心」といい「大和魂」といい、武士道精神の精華といえよう。これを世界の人に知らしめた新渡戸の功績は訳者の矢内原忠雄の言うように「三軍の将に匹敵するもの」がある。(10)日清戦争後の三国干渉等で世界が日本に警戒心を強めていたときに、軍事力でなく、誇るべき民族精神によって日本を世界に伍する存在としたのである。 明治維新のころ、海外留学した多くの下級武士の子弟たちは、外国人の尊敬を集めて帰ってきた。彼らは、英語も下手で、西洋の歴史や文学もマナーもよく知らなかった。彼らの身につけていたものといえば、日本の古典と漢籍の知識、そして武士道精神だけであった。それでも彼らは尊敬された。(15)武士道精神が品格を与えていたのである。  世界は普遍的価値を生んだ国だけを尊敬する。 イギリスは議会制民主主義を、フランスは人権思想を、(1)ドイツは哲学や古典音楽を作った。自然科学のうえでもこれらの国は多大な貢献をした。現在経済的にも軍事的にもたいしたことのないこれらの国が国際舞台で主要な役割を果せるのは、彼らの創出した普遍的価値に世界が敬意を払っているからである。 私は、日本の武士道精神と美意識は、人類の普遍的価値となりうるものと思う。 (5)二十一世紀は、武士道が発生した平安時代末期の混乱と似ていないでもない。日本の魂を具現した精神的武装が急務だ。 切腹や仇討ち、軍国主義に結びつきかねない忠義などを取り除いたうえで、武士道を日本人は復活するべきである。これなくして日本の真の復活はありえない。国際的に尊敬される人とは、自国の文化、伝統、道徳、情緒などをしっかり身につけた人である。武士道精神はその来歴といい深さといい、身につけるべき恰好のものである。  (10)新渡戸は「武士道の将来」と題した最終章にこう書いている。「武士道は一の独立せる倫理の掟としては消ゆるかも知れない、しかしその力は地上より滅びないであろう。(中略)その象徴とする花のごとく、四方の風に散りたる後もなおその香気をもって人生を豊富にし、人類を祝福するであろう」 世界はいま、政治、経済、社会と全面的に荒廃が進んでいる。人も国も金銭崇拝に走り、利害得失しか考えない。 (15)義勇仁や名誉は顧みられず、損得勘定のとなり果てた。 ここ数世紀の間、世界を引っ張ってきたのは欧米である。 ルネッサンス後、理性というものを他のどこの地域より(1)早く手にした欧米は、論理と合理を原動力として産業革命をなしとげ、以後の世界をリードした。論理と合理で突っ走ってきた世界だが、危機的な現状は論理や合理だけで人間はやっていけない、ということを物語っている。それらはとても大切だが、他に何かを加える必要がある。  (5)一人一人の日本人が武士道によりかつて世界の人々を印象づけた高い品格を備え、立派な社会を作れば、それは欧米など、荒廃の真因もわからず途方に暮れている諸国の大いに学ぶところとなる。これは小手先の国際貢献と異なる、普遍的価値の創造という真の国際貢献となるであろう。この意味で、戦後忘れられかけた武士道が今日蘇るとすれば、それは世界史的な意義をもつと思われる。
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fhzdn · 2 years ago
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活剐仇人3天3夜的孝子,手刃亲儿的忠臣,五代十国最完美的皇帝。
五代十国,50多位君主,只有他被誉为第一明主。 梁唐晋汉周,12位皇帝,无出其右。 无论对后周,还是对北宋,意义都极其重要的「先南后北」统一策略,究竟是怎么发生的? 欢迎来看《漫聊五代十国》的第15集:天妒英才。
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xypf · 2 years ago
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ari0921 · 2 years ago
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和五年(2023)5月8日(月曜日)弐
    通巻第7741号
 岸田訪韓を評価すべきだが、韓国の外交転換こそ注目だろう
  日本は安禄山の蜂起を三年知らなかった。これが歴史の教訓である 
************************
孝謙、淳仁、称徳、光仁天皇の時代において、日本の最大級の外交的変化は、渤海国からの度重なる使者の来駕である。
 渤海は高麗に替わって建国された。いまの北朝鮮である。渤海使は敵対した新羅の沖合をさけるため船は日本海を縦断し、出羽から越後、能登から若狭へ漂着することが多く、太宰府へ逐一回航して丁寧にもてなし、膨大な土産を持たせた。
 競うように新羅からも使節が太宰府へ入り、最初、大和朝廷は朝貢と受け取って歓待した。文書や使節の態度から判断しても、明らかに朝貢だった。日本の宿敵の国がころりと態度を変えて来日するのだから裏にナニカアルに違いない。
 実態は朝貢を装い日本の防衛体制を観察し、また大和王朝の政治空気を把握することにあった。情報収集である。
 新羅は次第に図に乗って官位の低い大使を派遣するようになった。態度も横柄、傍若無人の無礼を極めるようになったため新羅使は太宰府で留め置かれ追い返された。
新羅の態度が横柄尊大になった背景には唐が乱れ、安禄山が叛乱をおこし、国土は荒廃し、新羅に対しての軍事的な脅威にはならなかったからだ。大和朝廷はこの情報を三年ほど知らなかった。ということは新羅使は安禄山の乱を知っていながら大和朝廷には意図的につたえず日本の反応を確かめに来た可能性がある。日本のこうした情報戦の失態はいまと変わらない。つまり韓国の対日外交激変は裏にナニカアルのだ。
 天智天皇の御代、白村江の闘いで唐の海軍に敗れ、2100名の百済高官が日本に亡命した。天智天皇は水城と防塁、城を構築し、防人を強化したばかりか、各地22ヶ所に築城 防衛力を拡充し、新羅の侵攻に備えた。
 ところが、新羅は逆に日本が攻めてくると防衛態勢を急ぎ、「ご機嫌取り」のため「朝貢」を装い屡々来日した。
 天平宝字二年九月十八日に渤海使の小野朝臣田守らが帰朝し、渤海大使の輔国大将軍・行木ら二十三名を随行した。日本海側に帰着したので越前に滞在し、疫病感染の有無を調べるためニケ月を過ごす。
 帰国十日後に小野田守に従五位上を授け、ほかの随行員六十六人にも位階を授けた。 同年十二月十日、すなわち帰国から七十日後に小野朝臣田守は安禄山の謀反を伝えた。安禄山の挙兵は755年のことだから、なんと三年間、大和朝廷は唐の政変を知らなかったのである。
 ▲安禄山の乱が日本政治にいかなる変化をもたらしたか
 小野田守は次のように上奏した。
 天平勝宝七年の十一月九日に御史太夫兼氾陽節度使の安禄山が蹶起し、自らを大燕聖武皇帝と名乗り、邸宅を潜龍宮と名付けた上、年号を聖武と改元した。安禄���は二十万の兵力を率いて忽ち洛陽を落とした。翌六月に玄宗皇帝は難を避けるために蜀の成都(現在の四川省)へ避難した。
渤海に援軍要請があり、騎兵四万をもって賊徒を平定されたしと懇請された。渤海からだと安禄山の後方を攪乱できる。しかし渤海王は派兵要請を疑い、派兵を見送った。途中から安禄山の反乱に加わったのが史思明だ。だから「安史の乱」とも言う。
 玄宗側の反撃準備が整い、ようやく官軍が乱を平定し、玄宗は長安に戻った。逃亡途中では随行した兵隊たちに不穏の空気が流れたため玄宗は愛妃楊貴妃の自裁を認めざるを得ず、長安に復帰しても嘗ての政治力は失われていた。側近は朝衡(阿部仲麻呂の中国名)だった。
 
 かく上奏した小野田守とて、まだ安禄山が部下に殺害されたという情報を知らなかった。渤海もその後の情報を隠匿したわけではなく長安に派遣した情報員が戻らず実情をつかんでいなかった。
 唐土の異変を知った大和朝廷は太宰府に勅して「安禄山は凶暴なる胡人(ソグド人だが、当時は「胡」と称した)、狡猾である。天命に背いた反乱は必ず失敗するが、寧ろ海東へ兵を進める華もしれず、この緊迫状況を太宰府はよく理解し、たとえ安禄山が来航せずとも防衛を怠るな」とした。
 怡土城築城を任された吉備真備は工事に力を入れ、また京では渤海使の歓待宴が続いた。淳仁天皇はかれらに位階をあたえ、藤原仲麻呂は自邸で宴を催し、賑やかにもてなしたうえ夥しい土産を持たせた。
 この時に大和朝廷を支配した空気は唐が衰弱し、渤海が北から協力して新羅を挟み撃ち出来ないか、今こそチャンスではないかということだった。これは当時権力の頂点にいた藤原仲麻呂の情勢認識に欠陥があったということである。 
 
 ▲むしろ韓国がなぜ外交舵取りを変えたかの背景に謎がある。
 北朝鮮内部で何かが起きている。あるいは静かに秘密裏に中国が北への態度をかえたことを韓国が気づいた。米国からも精度高い情報を得て、日本とは修好する時期だとの判断があった。また従来の反日路線は、北朝鮮が情報操作していた。
 さて岸田首相の訪韓である。
 5月7日、アフリカ四カ国歴訪を終えて帰国したばかりの岸田首相はソウルへ飛んだ。
 ソウルの大統領府で 尹錫悦(ユンソンニョル)大統領と会談し、「元徴用工(旧朝鮮半島出身労働者)」の訴訟問題など日韓両国の課題に向き合い、関係改善を加速させる方針で一致した。
首相は会談で元徴用工問題に関し、「厳しい環境の下で多数の方々が大変苦しい、悲しい思いをされたことに心が痛む思いだ」と述べた。
 日本がこれまでの態度を軟化させたのは財産請求権である。
 1965年の日韓請求権協定で「完全に解決済み」とされたが、つねに韓国が蒸し返してきた。
ところが尹政権となって提示してきた徴用工訴訟問題の解決策で突然活路が開けた。岸田首相は「おわび」「反省」は口にせず、尹大統領も謝罪を求めることはしなかった。
 外務省幹部は「大きな前進。文在寅(ムン・ジェイン)政権では実現しなかっただろう」とする。
韓国大統領は「共通の利益」のために歴史問題と切り離して協力を進めるべきだと言い切った。
(資料編に続く。10分後に配信します)
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mxargent · 1 year ago
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"Kill them with kindness" Wrong. CURSE OF MINATOMO NO YORITOMO
アイウエオカキクケコガギグゲゴサシスセソザジズゼゾタチツテトダ ヂ ヅ デ ドナニヌネノハヒフヘホバ ビ ブ ベ ボパ ピ プ ペ ポマミムメモヤユヨrラリルレロワヰヱヲあいうえおかきくけこさしすせそたちつてとなにぬねのはひふへほまみむめもやゆよらりるれろわゐゑを日一国会人年大十二本中長出三同時政事自行社見月分議後前民生連五発間対上部東者党地合市業内相方四定今回新場金員九入選立開手米力学問高代明実円関決子動京全目表戦経通外最言氏現理調体化田当八六約主題下首意法不来作性的要用制治度務強気小七成期公持野協取都和統以機平総加山思家話世受区領多県続進正安設保改数記院女初北午指権心界支第産結百派点教報済書府活原先共得解名交資予川向際査勝面委告軍文反元重近千考判認画海参売利組知案道信策集在件団別物側任引使求所次水半品昨論計死官増係感特情投示変打男基私各始島直両朝革価式確村提運終挙果西勢減台広容必応演電歳住争談能無再位置企真流格有疑口過局少放税検藤町常校料沢裁状工建語球営空職証土与急止送援供可役構木割聞身費付施切由説転食比難防補車優夫研収断井何南石足違消境神番規術護展態導鮮備宅害配副算視条幹独警宮究育席輸訪楽起万着乗店述残想線率病農州武声質念待試族象銀域助労例衛然早張映限親額監環験追審商葉義伝働形景落欧担好退準賞訴辺造英被株頭技低毎医復仕去姿味負閣韓渡失移差衆個門写評課末守若脳極種美岡影命含福蔵量望松非撃佐核観察整段横融型白深字答夜製票況音申様財港識注呼渉達良響阪帰針専推谷古候史天階程満敗管値歌買突兵接請器士光討路悪科攻崎督授催細効図週積丸他及湾録処省旧室憲太橋歩離岸客風紙激否周師摘材登系批郎母易健黒火戸速存花春飛殺央券赤号単盟座青破編捜竹除完降超責並療従右修捕隊危採織森競拡故館振給屋介読弁根色友苦就迎走販園具左異歴辞将秋因献厳馬愛幅休維富浜父遺彼般未塁貿講邦舞林装諸夏素亡劇河遣航抗冷模雄適婦鉄寄益込顔緊類児余禁印逆王返標換久短油妻暴輪占宣背昭廃植熱宿薬伊江清習険頼僚覚吉盛船倍均億途圧芸許皇臨踏駅署抜壊債便伸留罪停興爆陸玉源儀波創障継筋狙帯延羽努固闘精則葬乱避普散司康測豊洋静善逮婚厚喜齢囲卒迫略承浮惑崩順紀聴脱旅絶級幸岩練押軽倒了庁博城患締等救執層版老令角絡損房募曲撤裏払削密庭徒措仏績築貨志混載昇池陣我勤為血遅抑幕居染温雑招奈季困星傷永択秀著徴誌庫弾償刊像功拠香欠更秘拒刑坂刻底賛塚致抱繰服犯尾描布恐寺鈴盤息宇項喪伴遠養懸戻街巨震願絵希越契掲躍棄欲痛触邸依籍汚縮還枚属笑互複慮郵束仲栄札枠似夕恵板列露沖探逃借緩節需骨射傾届曜遊迷夢巻購揮君燃充雨閉緒跡包駐貢鹿弱却端賃折紹獲郡併草徹飲貴埼衝焦奪雇災浦暮替析預焼簡譲称肉納樹挑章臓律誘紛貸至宗促慎控贈智握照宙酒俊銭薄堂渋群銃悲秒操携奥診詰託晴撮誕侵括掛謝双孝刺到駆寝透津壁稲仮暗裂敏鳥純是飯排裕堅訳盗芝綱吸典賀扱顧弘看訟戒祉誉歓勉奏勧騒翌陽閥甲快縄片郷敬揺免既薦隣悩華泉御範隠冬徳皮哲漁杉里釈己荒貯硬妥威豪熊歯滞微隆埋症暫忠倉昼茶彦肝柱喚沿妙唱祭袋阿索誠忘襲雪筆吹訓懇浴俳童宝柄驚麻封胸娘砂李塩浩誤剤瀬趣陥斎貫仙慰賢序弟旬腕兼聖旨即洗柳舎偽較覇兆床畑慣詳毛緑尊抵脅祝礼窓柔茂犠旗距雅飾網竜詩昔繁殿濃翼牛茨潟敵魅嫌魚斉液貧敷擁衣肩圏零酸兄罰怒滅泳礎腐祖幼脚菱荷潮梅泊尽杯僕桜滑孤黄煕炎賠句寿鋼頑甘臣鎖彩摩浅励掃雲掘縦輝蓄軸巡疲稼瞬捨皆砲軟噴沈誇祥牲秩帝宏唆鳴阻泰賄撲凍堀腹菊絞乳煙縁唯膨矢耐恋塾漏紅慶猛芳懲郊剣腰炭踊幌彰棋丁冊恒眠揚冒之勇曽械倫陳憶怖犬菜耳潜珍
“kill them with kindness” Wrong. CURSE OF RA 𓀀 𓀁 𓀂 𓀃 𓀄 𓀅 𓀆 𓀇 𓀈 𓀉 𓀊 𓀋 𓀌 𓀍 𓀎 𓀏 𓀐 𓀑 𓀒 𓀓 𓀔 𓀕 𓀖 𓀗 𓀘 𓀙 𓀚 𓀛 𓀜 𓀝 𓀞 𓀟 𓀠 𓀡 𓀢 𓀣 𓀤 𓀥 𓀦 𓀧 𓀨 𓀩 𓀪 𓀫 𓀬 𓀭 𓀮 𓀯 𓀰 𓀱 𓀲 𓀳 𓀴 𓀵 𓀶 𓀷 𓀸 𓀹 𓀺 𓀻 𓀼 𓀽 𓀾 𓀿 𓁀 𓁁 𓁂 𓁃 𓁄 𓁅 𓁆 𓁇 𓁈 𓁉 𓁊 𓁋 𓁌 𓁍 𓁎 𓁏 𓁐 𓁑 𓀄 𓀅 𓀆
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sakyalk2001 · 10 hours ago
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皈命礼。 东华帝君时东木。 关圣帝君地南火。 太上老君和中土。 瑶池金母利西金。 玄天上帝天北水。 东关太瑶玄。华圣上池天。 万德五主神。法力大无边。
【孔圣宝诰】至心皈命礼。
昔降生于周末。应祷尼灵。今主宰于皇朝。维持圣治。德参太极。道集大成。为百世之儒师。作生民之教主。毋固毋必。毋我毋人。删诗定书。繁易执礼。在在应春秋之化。方方持孝父之经。大悲大愿。大圣大慈。先圣至圣大成文宣王。兴儒盛世天尊。
颜渊。闵子骞。冉伯牛。仲弓。宰我。子贡。冉求。子路。子游。子夏。
【老君宝诰】志心皈命礼。
随方设教。历刼度人。为皇者师。帝者师。王者师。假名易号。立天之道。地之道。人之道。隐圣显凡。总千二百之官君。包万亿重之梵炁。化行今古。著道德凡五千言。主握阴阳。命雷霆用九五数。大悲大愿。大圣大慈。太上老君道德天尊。
王玄甫。钟离权。吕洞宾。刘海蟾。王重阳。马钰。谭处端。刘处玄。丘处机。王处一。郝大通。孙不二。
【释迦宝诰】志心皈命礼。
东华教主。西域圣师。弃皇宫之富贵。爱雪岭之清高。炼成摩尼珠。光照大千世界。尊居兜率地。德被亿万生灵。大法东被。无不精修波罗蜜。梵贝西来。咸知皈依无上道。灯传万世。佛日常辉。法继千秋。皇图巩固。三界大师。四生慈父。大悲大愿。大圣大慈。释迦牟尼古佛。慈悲广化天尊。
舍利弗。目犍连。大迦叶。须菩提。富楼那。迦旃延。阿那律。优波离。罗睺罗。阿难陀。
【耶稣宝诰】至心皈命礼。
太初之道。与慧同生。三一之神。湣母大能。灵通感孕。褒颂贞盟。下降凡尘。歇住俗身。荒漠之内。神驾苦行。四十日除心魔。三十载成正果。苦架之上。不见其魂。 一息间舍肉身。那边厢笑红尘。启天堂之窄路。开福音之先河。 拯阴府之先人。废永刑之谬闻。大秦诸天教主。天主圣子。耶稣基利斯督。慈悲大义赎世天尊。
彼得。安得烈。雅各。约翰。腓力。巴多罗买。托马斯。马太。雅各伯。达太。西门。马提亚。
【穆圣宝诰】志心皈命礼。
九天至圣。历劫度人。母腹天仙报喜讯。落生三界共为尊。为万法之宗师。授真主之至道。济民救苦。希拉山洞默古兰普渡后人。方方阐教。天房偶像转乾净认主独一。二十三年事躬亲。五十道统后无圣。启末日尔萨复临杀魔授正道。传圣徒六信五功谨守归天国。大圣大慈。大悲大愿。九十七化。万教皈依。封印清真。穆罕默德天尊。
挪亚。希伯。撒立哈。亚伯拉罕。罗得。以实玛利。叶忒罗。摩西。以利亚。约拿。
【弥勒宝诰】志心皈命礼。
高功著于鹿苑。大德溥乎鸾台。传上乘之妙谛。度尽红桥义士。说大觉之真言。解开白塔冤家。鸡园夜静。刻漏迟迟参禅理。鹫岭年湮。胸怀蕩蕩悟佛因。听罢鱼山宣贝叶。法伏龟蛇齐点首。登来狮座证菩提。道降龙虎尽归心。飞过禹墟,腾泛海之光。登临汉室。献昙花之瑞。大悲大愿。大喜大欢。龙华教主。兜率法王。弥勒慈尊。
【观音宝诰】志心皈命礼。
庄王毓秀。受帝命而诞生。教阐南洋。奉勅旨而救刼。寻声感应。动念垂慈。圣德昭彰。玄功莫测。幽显超甦。而蒙恩济度。品物咸赖。而荷惠生成。外道仰依。邪魔皈正。大悲大愿。大圣大慈。寻声救苦救难。随心消厄消灾。碧落洞天帝主。圆通自在天尊。
【文殊宝诰】志心皈命礼。
火宅填来热焰。空门住得清凉。灵台清净。不染红尘金色界。佛境逍遥。有如紫竹林乡。扫八识以俱空。悟三心而尽了。花雨漫天。姊妹之因缘有主。光辉满室。郎君之悔悟终迟。放开来去。留于一刻。固守戒定慧之三言。功鍊西川。道参南海。大悲大愿。大德大慈。清凉地金色界。文殊师利菩萨。
【普贤宝诰】志心皈命礼。
身登竺国。果证峨山。佛骨飘然。斩断凡情于慧剑。禅心潇洒。度来苦海以慈航。心空悟雄狮之吼。父王易老。道得骑猛象而飞。夫婿终非。辛宫镶姊妹之花。蜂联云界。丙舍参阴阳之道。鹤近洞边。惠溥民生。迷川化作法流。恩霑物命。觉岸皈来宝筏。大慈大愿。至德至仁。峨眉山银色界。普贤愿王佛菩萨。
【地藏宝诰】至心皈命礼。
慈修万善。誓救众生。掌握明珠。朗彻天堂超滞魄。手持锡杖。拨开地狱度寃魂。高标孝子声名。非非入相。永作幽冥教主。色色皆空。播衍真经。事叙求亲参般若。流传法忏。情殷救母现圆通。阎王朝罢溥恩膏。云飞宝盖。佛座趺时施法雨。瑞涌金莲。大悲大愿。大圣大慈。太和一炁慈修万善。普度冥阳升降无私满愿王佛。
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fangzhouzi · 7 days ago
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为君解读《琵琶行》
  《琵琶行》的写作背景是白居易被贬到江州当司马。他为什么会被贬官呢?因为当时唐朝出了一件大事。“安史之乱”后出现了藩镇割据的局面,当时的宰相武元衡(武则天的后代)和他的副手、御史中丞裴度想削弱藩镇的势力,藩镇的节度使派刺客来刺杀他们。武元衡在骑马上朝时遇刺身亡,头都被割下来了。裴度也遇刺,但只是受伤。裴度从马上掉下来,滚到了路边的沟里,刺客以为他死了就没有追杀他,他才逃过了一劫。因为武元衡死了,就由裴度继任,拜为宰相。
  武元衡和裴度都是白居易的诗友,他们遇刺让他很愤怒。他第一时间就上书皇帝,要求缉拿凶手。白居易当时的官职是太子赞善大夫,是辅佐太子的,他第一个上书要求缉拿凶手,就被他的政敌抓住了把柄,说他不好好辅佐太子,抢在谏官之前上书议论朝政,犯忌了。还有一批白居易的政敌翻旧账,指责白居易说:他母亲几年前赏花不幸掉到井里死了,而他居然还写《赏花》诗和咏《新井》的诗。这些诗实际上是他在母亲死之前写的,但这些人不管,搞文字狱,把这些诗拿出来指责他不孝,要求唐宪宗处罚白居易贬。唐宪宗也很烦白居易老是上书进谏,借机把白居易贬到江州(现在的江西九江)当刺史。刺史是一州之长,相当于现在的市长。白居易的一个政敌上书说,白居易道德这么败坏,怎么能当一州之长呢?于是在白居易离京赴任途中,唐宪宗又匆匆忙忙下了一道诏书,把他从江州刺史降为江州司马。司马是辅佐刺史的,大致相当于现在的副市长。
  白居易以前担任太子赞善大夫,官品是五品上;去江州当司马,官品是从五品下,相当于降了三级。但不管怎样,还是五品官。所以,白居易在当江州司马时曾给他的朋友元稹写过一封很著名的信,里面说虽然现在贬官到偏远的地方,但当的还是五品官,月俸四五万,有饭吃、有衣穿,还能养家糊口,你不用担心。话虽这么说,但他从一个朝官被贬到很边远的地区,对朝政就起不到作用了。而且,虽然司马名义上是刺史的副手,其实是一个闲职,没有权力,往往是给那些退居二线的老干部当的。白居易曾经写过一首诗,其中有一句“司马还是送老官”,意思是说当司马的都是去养老的,是赋闲了。像白居易这种忧国忧民、很有政治抱负的人,被贬到江州,远离了政治中心长安,而且当的是闲官,对他来说就是落魄、沦落了,这就是为什么他在《琵琶行》里会说自己跟琵琶女 “同是天涯沦落人”。
  关于白居易遇到琵琶女,宋朝有人怀疑它的真实性,认为是虚构的故事。他们认为,白居易那时是戴罪之身,是被贬去边远地方当官的,居然敢跟一个歌妓见面,要是被政敌知道,参上一本,不就会很麻烦吗?其实这是以宋朝的道德观看唐朝的事。唐朝的官员跟歌妓见面没什么大不了的,被认为是很正常的事。白居易在这首诗的前面写了一篇很长的序,就是为了强调这事是真实发生的,也就是说他不怕别人去告他,否则这篇序不就是罪证了吗?这篇序除了强调这事是真的,其实没必要写,因为序的内容都已经在诗里体现出来了。先看序反而剧透了诗的内容,所以我们欣赏《琵琶行》的时候,完全可以跳过那篇序不看。
  “浔阳江头夜送客,枫叶荻花秋瑟瑟。
  主人下马客在船,举酒欲饮无管弦。
  醉不成欢惨将别,别时茫茫江浸月。”
  开头的这一段是营造气氛,为琵琶女的出场做铺垫。用秋天的萧瑟、离别的哀愁、没有音乐助兴的不欢而散,营造出很悲凉的氛围。甚至看到江中的月也无心欣赏,显得很凄凉。就在这样氛围中,琵琶女出场了。
  “忽闻水上琵琶声,主人忘归客不发。
  寻声暗问弹者谁?琵琶声停欲语迟。
  移船相近邀相见,添酒回灯重开宴。
  千呼万唤始出来,犹抱琵琶半遮面。”
  琵琶女的出场未见其人先闻其声,而且她犹犹豫豫不愿意出来,是不停地恳求、邀请才出来的。终于出来,还半遮着面。让人吊足了胃口,有了一个悬念:这究竟是何许人,为什么架子这么大,反复地请她才出来?她接下来要怎样表演?
  “转轴拨弦三两声,未成曲调先有情。
  弦弦掩抑声声思,似诉平生不得志。
  低眉信手续续弹,说尽心中无限事。
  轻拢慢捻抹复挑,初为霓裳后六幺。”
  琵琶女出场后,白居易先描写的是人,而不是音乐。描写了她弹琵琶的各种技巧、动作和神态,接下来才描写她弹奏的音乐。先写琵琶的声音:
  “大弦嘈嘈如急雨,小弦切切如私语。
  嘈嘈切切错杂弹,大珠小珠落玉盘。”
  这一段描写的是琵琶的音响效果及声音的特色。琵琶是四弦琴,它的四条弦粗细不一样。“大弦”应该指的是比较粗的弦,“小弦”指的是最细的弦。弦的粗细不一样,弹出来的声音频率也不一样。白居易用三种方法来表现大弦和小弦声音的不同:一用象声词“嘈嘈”“切切”拟声,二用“如急雨”“如私语”比喻,第三种方式是把视觉和听觉结合在一起,“大珠小珠落玉盘”,当大弦和小弦交错弹奏时,听上去就像看见、听到大大小小的珠子交替地往玉盘上落。这是在讲琵琶声音的特色。接下来再讲她弹的曲子的节奏、旋律变化:
  “间关莺语花底滑,幽咽泉流冰下难。
  冰泉冷涩弦凝绝,凝绝不通声暂歇。
  别有幽愁暗恨生,此时无声胜有声。”
  一开始的旋律,节奏明快、流畅,就像小鸟在花底鸣叫。(“间﹝jiān﹞关”是个象声词,用来模拟鸟的鸣叫声。国内现在定为“间﹝jiàn﹞关”是错的,两个字都该读平声。我已经写过一篇文章《“间关”读音考》论证过,这里就不重复了)。从流畅、明快的韵律节奏过渡到缓慢、冷涩,就像泉水在冰下很缓慢、很艰难地流动。有���认为“冰下难”应该读作“冰下滩”,说“难”是“滩”的通假字,这完全说不通,是不懂诗的人乱解释。这句诗很容易理解,说的就是冰下难于流动的泉水,越流越慢,最终流不动了。体现出旋律越来越慢,最终休止了。在这个过程当中,因为跟前面明快的节奏形成了鲜明的对比,让人产生了一种幽怨的感觉,最后声音停止更让人觉得幽怨重重,所以“此时无声胜有声”,就是因为有前面的慢慢演变的过程。那么,声音停了,曲终了吗?没有——
  “银瓶乍破水浆迸,铁骑突出刀枪鸣。
  曲终收拨当心画,四弦一声如裂帛。
  东船西舫悄无言,唯见江心秋月白。”
  声音已经停止,本以为曲子已经终了,突然一下很大的声响就像瓶子猛地被摔破,水浆四溅;又如同千军万马奔突交锋,刀枪齐鸣,把全曲很激昂地推向高潮,又戛然而止。这回真正停了,但大家都陶醉在其中,以为演奏还没停,乐曲还没终。不只是白居易这伙人在听没有发出声音,周围的船也被吸引了在听,也都没有发出声音。“惟见江心秋月白”是白居易诗里第二次写江中的月,但跟第一次不一样。第一次写江中月烘托出一种凄凉的气氛,再写江中月展现了一种曲终之后悄无声息的宁静。
  曲终的时候,大家可能就觉得奇怪:为什么琵琶女的演奏水平会这么高超?水平如此高超的琵琶女怎么会流落到江州这么偏远的地方来呢?不只读者有这种疑问,白居易他们也有这种疑问。琵琶女显然知道别人想要了解其中的究竟,所以她想了想,决定向大家揭开自己的身世。
  “沉吟收拨插弦中,整顿衣裳起敛容。
  自言本是京城女,家在虾蟆陵下住。
  十三学得琵琶成,名属教坊第一部。
  曲罢曾教善才服,妆成每被秋娘妒。
  五陵年少争缠头,一曲红绡不知数。
  钿头银篦击节碎,血色罗裙翻酒污。
  今年欢笑复明年,秋月春风等闲度。”
  她原来住在京城长安的蛤蟆陵。蛤蟆陵是唐朝长安的娱乐区,青楼、酒馆集中在那里。琵琶女从小就到教坊学弹琵琶,十三岁就出师了。教坊是唐朝官方教育培训娱乐、歌舞、音乐人才的地方,也为政府提供服务,类似于现在的文工团。她学得很好,小小年纪就出师了,而且因为弹得很好,曾经让“善才”们觉得服气。善才是指很有成就的音乐家,包括唐朝的宫廷乐师,连他们都觉得这个琵琶女弹得很好。琵琶女又长得漂亮,化了妆会让秋娘忌妒。“秋娘”是谁呢?很多青楼女子、歌妓都用“秋娘”作为自己的艺名,“秋娘”就变成了歌妓的代名词。也就是说,琵琶女多才多艺,不仅让宫廷乐师服气,也让歌妓嫉妒,成了一个明星。那些官家子弟、富家子弟都成了她的粉丝,纷纷给她打赏。她就在纸醉金迷、醉生梦死的生活中这么过去了。这是解答第一个疑问:为什么琵琶会弹得这么好。但为什么这么有才的明星会流落到江州这么一个偏僻的地方呢?
  “弟走从军阿姨死,暮去朝来颜色故。
  门前冷落鞍马稀,老大嫁作商人妇。
  商人重利轻别离,前月浮梁买茶去。
  去来江口守空船,绕船月明江水寒。
  夜深忽梦少年事,梦啼妆泪红阑干。”
  “弟”和“阿姨”,一般解释成弟弟、姨妈,以为她弟弟从军、姨妈死了,家道中落了。这是因为不熟悉唐朝的教坊制度。“弟”不是指弟弟。唐朝教坊里关系比较好的歌妓会结拜,结拜的时候不叫结拜姐妹,而叫做“烟花兄弟”。所以“弟”指的是跟琵琶女结拜、比她年轻的歌妓。她们从军当然不是去打仗,而是到军营当歌妓。唐朝的军营里也有歌妓,因为将军们要娱乐,需要歌舞,“战士军前半死生,美人帐下犹歌舞。”而且唐朝的琵琶也能当军乐用,“葡萄美酒月光杯,欲饮琵琶马上催”,也需要歌妓去弹琵琶。她的姐妹都分散了,因为那时候藩镇割据,中央政府没钱了,教坊养不起那么多人了,但军阀有钱,所以有些歌妓就从军去当军中的歌妓。相当于中央政府没钱了,在中央歌舞团待不下去,就到去部队文工团。所以她的年轻的姐妹都走散了,排场撑不起来了。
  “阿姨”又是谁呢?不是姨妈,而是教坊里的女主管,跟她关系很好,叫她阿姨。阿姨也死了,没人罩着她了。而且她年纪也大了,年老色衰,没人再来找她,不会有人再给她打赏,就嫁给了商人,跟着到了江州。商人要做生意,看重的是钱财而不是夫妻感情,一走就一个月,留下她一个人独守空船。
  白居易在这里第三次写了江中月,是通过琵琶女的口说出来的。看到明月,中国人都会想到团圆,但眼下夫妻分离,让琵琶女更感到孤单。因此,梦到自己少年时候的高光时刻就哭醒了,泪流满面把妆容都弄花了。“阑干”,就是涕泗纵横交错的样子。
  琵琶女的这番讲述引起了白居易的共鸣,他也向琵琶女讲述自己的遭遇:
  “我闻琵琶已叹息,又闻此语重唧唧。
  同是天涯沦落人,相逢何必曾相识!
  我从去年辞帝京,谪居卧病浔阳城。
  浔阳地僻无音乐,终岁不闻丝竹声。
  住近湓江地低湿,黄芦苦竹绕宅生。
  其间旦暮闻何物?杜鹃啼血猿哀鸣。
  春江花朝秋月夜,往往取酒还独倾。
  岂无山歌与村笛?呕哑嘲哳难为听。
  今夜闻君琵琶语,如听仙乐耳暂明。
  莫辞更坐弹一曲,为君翻作琵琶行。”
  白居易这段讲述很啰嗦,反复说的就是浔阳这个地方太偏僻、太荒凉。浔阳是江州的府治所在地,是那一带最大的城市,跟长安比是还很荒凉。关键是没有音乐可听,只能听到杜鹃的哀啼、猿的哀号。即使有什么山歌、村笛,他也觉得太难听了。这是反衬琵琶女的琵琶曲让他觉得像听到了仙乐。为什么要这么吹捧琵琶女弹的琵琶曲呢?除了很长时间都没有听过好音乐,跟山歌、村笛对比衬托出来的,更关键的是白居易想让她再弹一曲,还开出一个她没法拒绝的条件:为她写一首“琵琶行”。“翻作琵琶行”,“翻作”相当于根据她弹的曲子填一首歌词。这可了不得,因为当时的白居易已经是天下闻名的大作家、畅销作家。我前面提到他给元稹写的信,里面说了,他从长安到江西,两三千里地这么一路走过来,发现老百姓三教九流都在读他的诗。如果歌妓会读他的《长恨歌》,身价就涨了。他曾经在途中参加过一个聚会,宾客还把歌妓找来,向她们介绍说这是《长恨歌》的作者。可见当时白居易受欢迎,特别是受歌妓欢迎的程度。特地为琵琶女写一首“琵琶行”,当然是很吸引人的条件,所以琵琶女就被白居易这番话给打动了。
  “感我此言良久立,却坐促弦弦转急。
  凄凄不似向前声,满座重闻皆掩泣。
  座中泣下谁最多?江州司马青衫湿。”
  前面弹的琵琶曲虽然很冷涩、很缓慢,让人产生幽恨、幽愁,但最多只是让人叹息而已;这一次因为琵琶女被白居易那番话感动之后,改弹的是一首很悲惨的曲子,所有人都听哭了。哭得最厉害的是白居易,觉得自己跟琵琶女“同是天涯沦落人”,有共鸣。更想起自己这些年的遭遇,所以哭得最厉害。整首诗把感情推到了最高潮,但一下子就停了,就跟琵琶女弹的前一首琵琶曲一样,到最高潮的时候戛然而止,言已尽而意无穷。所以白居易这首《琵琶行》,整首诗的结构也像琵琶曲:前面有铺垫、悬念,中间有感情、节奏的起伏,最后达到高潮,然后突然停住。
  最后一句“江州司马青衫湿”,“青衫”是官服的颜色。唐朝官服的颜色是根据官的大小定的,“青衫”是八、九品官穿的官服颜色。白居易是江州司马,不是最低级的小官,五品也可以算是高官���五品官本来应该穿绯服,也就是红色的官服,为什么他穿的是“青衫”呢?这是因为唐朝的官品分两套系统,一套叫做“职事官”,相当于官职。“司马”就是一个官职,类似于现在部队里的什么长,像师长、团长。另外一套官品系统叫做“散官”,类似于军队的将、校军衔,官阶由散官来定。白居易的散官是“将仕郎”,是文散官当中最低一级,从九品下。唐朝的官服在一般情况下是根据官阶大小来穿的,而官阶是由散官来定的,从九品下的将仕郎是最低的散官,所以他就只能穿“青衫”,青色的官服。
  白居易中进士后当的散官就是将仕郎,他已经中进士那么多年,当了那么多年的散官,为什么还是最低一级,没有升呢?因为唐朝的散官要升迁是很难的,每年考一次,四年才评一次。连续考四年,成绩都达到“中中”级别,才能往上升一级。到了中唐,散官没啥用了,因为待遇已经跟散官没有关系,而是完全根据职事官来,所以散官就只是一个名誉而已。很多官员也就懒得去考散官了,这就导致很多官员当到大官,他的散官还是最低一级的将仕郎。甚至极端到已经拜了宰相,他的散官还是一个将仕郎。当然,这个时候皇帝会赐他穿大红袍,不会让他穿青衫了。
  所以,当时的官员一般都懒得去考散官,一直是最低级的散官,到了一定时候再由皇帝赏赐一个比较高级的散官。白居易后来调回长安,又当上朝官,皇帝就赏给他一个散官“朝议郎”,他一下子就从最低的从九品下升到了六品。既然当时的白居易并不是一个最低级的官员,司马的地位也挺高的,他为什么要强调“青衫”,非要说“青衫湿”呢?就是为了让人觉得他很落魄,是最低级的官员。
  相对抒情诗而言,中国的叙事诗很不发达。以前主要都是民间人士在写。写得最好的叙事诗像《孔雀东南飞》《木兰辞》等等,都是流传民间的。文人很少写叙事诗,有时候会尝个新鲜,偶尔写一下。杜甫开始大量创作叙事诗,例如《兵车行》《北征》《三吏》《三别》等等,叙事诗到他手里才变成了文人创作的重要体裁。杜甫之后,各个诗人基本上都在学他。只要学到了杜甫的一鳞半爪,学到了他的某个方面,就能成为一个出名的诗人,甚至成为一个大诗人。
  学杜甫学得最全面的是白居易,白居易最看重杜甫的就是杜甫的叙事诗,所以他用力最多、学得最精的也是叙事诗。他提倡“新乐府”运动,就是要把杜甫的叙事诗发扬光大。因为他想把叙事诗作为政治手段,用它来抨击朝政、推动政治改革、提高政治影响力,所以他最看重的就是政治叙事诗,也叫政治讽喻诗。不过,白居易写得最好的叙事诗还不是他最看重的这些政治讽喻诗,不是《新乐府五十首》《秦中吟》等等,写得最好的其实是跟政治没有什么关系的长篇叙事诗《长恨歌》《琵琶行》等。尤其是跟政治毫无关系的《琵琶行》,更是千古绝唱。
  2024.04.03录制
  2024.04.29整理
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harvardwang · 11 days ago
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影響200
H:人名錄,名人錄,
影響200,台灣名人百科、英文年鑑時人錄等,皆為人做見證。維基百科找的到算數位知名人物,找不到的待列名。無關功過。20241118W1
維基百科
影響200
影響200,為2000年《天下雜誌》紀念出刊200期而製作的臺灣人物專輯,標舉「影響200,飛躍2000」,由台灣社會各領域人物中選出兩百位人士,記錄台灣歷史發展,《天下雜誌》一仍其「打開歷史,走出未來」的訴求希望能藉喚起社會共同記憶,凝聚共同情感。
採訪面向
影響200專題,以「世界」、「開拓」、「啟蒙」、「行動」、「美麗」、「自重」、「豐富」、「共生」等八個面向,選擇代表人物,進行採訪[1]。
所選人物
世界
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宋作楠:勤業會計師事務所創辦人
朱銘:雕塑家
段鍾沂、段鍾潭:滾石國際音樂經營者
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開拓
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廖一久:台灣水產養殖學者、中研院院士,被譽為「草蝦養殖之父」。
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歐晉德:台北市副市長、台灣高鐵執行長、董事長
吳舜文:臺灣企業家,中華汽車工業、裕隆汽車董事長,素有「汽車皇后」封號
吳光亮:清光緒年間的台灣鎮總兵
吳 沙:清代開墾臺灣宜蘭的先賢
郁永河:清代作家、在台官員
呂秀蓮:前桃園縣縣長、中華民國首位女性副總統
林挺生:前大同公司董事長
陳 炘:台灣金融界的先驅、228事件受難者
陳文郁:台灣「西瓜大王」
陳拱北:前連江縣縣長、國大代表
許博允:台灣音樂家
顏雲年:日治時期的礦業家,出身基隆顏家。
司徒達賢:管理學者、政治大學講座教授
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張任飛:已故新聞界人士
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辛志平:前新竹中學校長,有「教育哲人」之稱譽。
胡 適:前中央研究院院長
聖嚴法師:法鼓山創辦人
孫 文:中國近代革命家、中華民國國父
蔣渭水:台灣日治時期反殖民運動的領導人之一,有「台灣的孫中山」之譽
雷 震:台灣政治人物、政論家,白色恐怖受難者
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吳健雄:女性物理學家、被稱為「中國居里夫人」。
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陶百川:前監察委員、前總統府國策顧問
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陳其南:前文建會主委
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拓拔斯‧塔瑪匹瑪:台灣醫師、作家,出身布農族
陳定信:前台大醫學院院長、中央研究院院士
李登輝:前中華民國副總統、總統
龍應台:作家、前文建會主委、首任文化部長
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王井泉:台灣日治時期文學家
賴 和:作家、有「台灣現代文學之父」之譽
黃俊雄:布袋戲操偶藝師 、國家文藝獎得主
連 橫:《台灣通史》作者、前副總統連戰之祖父
高清愿:統一企業創辦人
紀 政:女性運動員、有「飛躍羚羊」之稱
王日昇:臺灣歌手、廣播DJ
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傅培梅:台灣的廚師、烹飪節目製作人及主持人
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鄧麗君:華人世界的女歌手
許常惠:台灣音樂家及教育家
張小燕:綜藝節目主持人
張照堂:攝影家,金馬獎、金鐘獎、國家文藝獎得主
楊麗花:台灣的歌仔戲藝人
共生
證嚴法師:慈濟功德會創辦人
鳥居龍藏:台灣日治時期的考古學家、人類學家
曹 瑾:清朝鳳山知縣、淡水同知,在臺期間有不少政績
馬偕博士:台灣清治時期的醫師、傳教士
孫 越:台灣演員
張隆盛:曾任內政部營建署署長、行政院環境保護署署長
史溫侯:台灣清治時期的英國駐打狗領事
杜聰明:台灣史上首位醫學博士,高雄醫學院(今高雄醫學大學)創辦人
施明德:台灣戰後黨外領袖之一,前民進黨主席、政治受難者
蘭大弼:台灣醫師、傳教士
林義雄:台灣戰後黨外領袖之一,前民進黨主席、政治受難者
黑幼龍:卡內基訓練大中華地區負責人
陳映真:作家
黃春明:台灣文學作家、國家文藝獎得主
陳五福:台灣眼科醫師、社會工作者,有「噶瑪蘭的燭光」之稱
李遠哲:前中央研究院院長、諾貝爾獎得主
參考文獻
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