#孝明天皇
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herbiemikeadamski · 2 years ago
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. (^o^)/おはよー(^▽^)ゴザイマース(^_-)-☆. . . 1月30日(月) #先負(戊子) 旧暦 1/9 月齢 8.3 年始から30日目に当たり、年末まであと335日(閏年では336日)です。 . . 朝は希望に起き⤴️昼は努力に生き💪 夜を感謝に眠ろう😪💤夜が来ない 朝はありませんし、朝が来ない夜 はない💦睡眠は明日を迎える為の ☀️未来へのスタートです🏃‍♂💦 でお馴染みのRascalでございます😅. . 今日も片付けで天手古舞です⤵️ 意気消沈してしまって疲れて る場合ではないのですが😅💦 終わるかなって。。。_| ̄|○... . 今日一日どなた様も💁‍お体ご自愛 なさって❤️お過ごし下さいませ🙋‍ モウ!頑張るしか✋はない! ガンバリマショウ\(^O^)/ ワーイ! ✨本日もご安全に参りましょう✌️ . . ■今日は何の日■. #節々の痛みゼロを目指す日. 東京都江戸川区に本院を置く、あしすと訪問リハビリ鍼灸マッサージ院を運営する有限会社ひまわりが制定。  自力で通院できない人の自宅に訪問し、鍼灸、あん摩マッサージ指圧などの施術(リハビリ)を行う同院。  高齢者を中心に節々の痛みに苦しんでいる人々のことを理解し、分かち合い、痛みが少しでもゼロに  近づき、快方に向かうように願う優しい社会を目指すのが目的。 日付は1と30で「いた(1)み(3)ゼロ(0)」の語呂合わせから。 . . #先負(センマケ=又は、センプ・センブ・サキマケ、とも言う).  「先ずれば即ち負ける」の意味で、「何事も先に急いではいけない」とされる日です。  午前中はとくに悪く、午後はしだいによくなるという俗信がある。 . #一粒万倍日(イチリュウマンバイビ).  何事を始めるにも良い日とされ、特に仕事始め、開店、種まき、お金を出すことに吉であるとされる。  但し、借金をしたり人から物を借りたりすることは苦労の種が万倍になるので凶とされる。 . 神吉日(カミヨシニチ). 「かみよしび」ともいい、神社への参拝や、祭礼、先祖��祀るなどの祭事にいいとされています。 この日は神社への参拝や、お墓まいりに行くといい日です。 . #十方暮(ジッポウグレ).  十方暮は干(カン)と支(シ)が「相剋(ソウコク)」の関係で組み合わさる日。  甲申(キノエサル)から癸巳(ミズノトミ)の間の10日間で、天地の気が相剋するため何事もうまくいかないとされる日です。 . #帰忌日(キシニチ/キコジツ/キシニチ/キコニチ・キイミビ). 「陰陽道では、凶星の精が人家の門戸をふさぐ日で、旅行・帰宅などを忌(イ)む日としている。  遠出・帰宅・転居・結婚・入国なども忌む日であります。 . #血忌日(ケコニチ、チコニチ、チイミビ).  何事をするにも血を見る日、または血を見ることが凶とされ、鍼灸、刑戮、狩猟などが凶とされる。  血に関係したことを忌む日で、鳥獣の殺生や手術なども凶の日。 . #凶会日(クエニチ).  悪事の集まる凶日。  婚礼、旅行などすべてに悪日である。  月ごとに特定の干支の日をあてる。 . . #吉良邸討ち入り. . #コンピュータウイルスの日(#Computervirusday) . #おからのお菓子の日. . #タビナカの日. . #3分間電話の日. . #女性医師の日. . #孝明天皇例祭(#こうめいてんのうれいさい). . #サワーの日(毎月30日). . #EPAの日(毎月30日). . #キャッシュレスの日. . #殉教者の日(インド). . . ■本日の成句■. #去る者は追わず(サルモノハオワズ). 【意味】 自分から離れてゆこうとする人を無理にひきとめたりしない。 . . 1968(昭和43)年1月30日(火)先勝. #ぜんじろう (本名:#金谷善二郎) 【お笑いタレント】 〔兵庫県 姫路市〕, . . (Saburou, Kumamoto-shi) https://www.instagram.com/p/CoBDKrmS1hkGew_vhR9thNnxf9Znte21Lx93Cg0/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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ari0921 · 9 months ago
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和六年(2024)4月19日(金曜日)
   通巻第8221号
 後継皇室問題で自民党が有識者会議の二案を『妥当』
  やはり自民党に「現代の新井白石」はいなかった
*************************
 皇統後継問題の皇室典範改正をめぐって有識者会議が開かれ、これを踏まえて岸田首相は令和六年(二〇二四年)一月三十日の所信表明演説後の質門に答え、かく述べている。
 「有識者会議��おいて悠仁親王殿下までの皇位継承の流れをゆるがせにしてはならないとの結論に至った」。
つまり「女系天皇論」という俗論をたしなめたのだ。だがメディアは意図的に、この一歩踏み込んだ発言を殆ど伝えなかった。岸田首相は「悠仁親王殿下までの皇位継承の流れをゆるがせにしてはならない」と明言しているのである。
 皇統は神武以来の万世一系で男子が継承し、跡継ぎが幼少などの場合、未亡人皇后か独身の内親王が天皇代理として「称制」と務めた。この歴史の特質が意図的に議論されず学校でも教えない。
だから軽佻浮薄にも「愛子天皇待望論」が出てくる。女性天皇と女系天皇の区別も曖昧とされたままである。
 小泉政権のおり皇室典範改正をめぐって有識者会議が開催された。明治二二年(一八八九年)制定された典範により、男系長子が皇位を継承するという神武天皇以来の万世一系の伝統が守られてきた。状況が変化し、皇統が絶えかねないという危機を認識し、急遽、有識者会議が招集された。
だが、座長はロボット工学専門の学者で歴史には無知だった。秋篠宮に悠仁親)王がお生まれになって、皇統問題は棚上げとなった。
 もしこの流れを変えるとなると歴史を否定する革命である。フランクフルト学派が狙うのは二段階革命による国家破壊であり、グローバリズムが国境をなくせと唱えている国家否定の隠れた目標に通底する。
  
 4月15日、自民党は皇位継承の安定のための皇族数確保に関する有識者会議の二案を『妥当』とする立場を示し、「安定的な皇位継承の確保に関する懇親会(麻生副総裁が会長)で党見解のとりまとめを急ぐとした。
 「二案」とは(1)皇族女子の結婚後の皇族身分保持。(2)養子縁組に拠る旧皇族団系男子の皇籍復帰、である。
 自民党はいずれも妥当としたわけだが、いささか勉強不足だろう。やはり与党に現代版の新井白石はいなかったのだ。
 各党の意見のなかで、唯一まともなのが「維新の会」である。すなわち(1)に対して、現実的ではあるが「女系への皇位継承資格拡大につながる懸念がある」としている。
 (2)に関しては『歴史と現実を踏まえれば、高く評価できる』とした。
そもそも皇室典範の改正云々を内閣ごときがおこなうべきではない。立太子と親王殿下��おられるのに、なぜこんな議論をするのか、裏に何か別の動機が潜んでいるのか。
(参考文献 宮崎正弘『二度天皇になった女性 ─孝謙・称徳女帝の光と影』(ワック)
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(再録)「新井白石 皇統断絶の危機を予知」
 皇統が断絶の危機に瀕したことは神武天皇の御代から幾度かある。また後継皇位を争った政争、謀殺も何回かあった。 
 古代史最大の謎は応神天皇と継体天皇の正当性である。ほかにも雄略天皇が謀殺したイチノヘオシハ(履中天皇の皇子、雄略天皇の叔父)の遺児が播磨と吉備の境に二十年隠れ住んでいて、雄略の皇子・清寧天皇が亡くなると名乗り出た。この間、イチノヘオシハの妹の称制だった。
 新井白石は自伝ともとれる『折たく柴の記』のなかで、皇室の後継が不在となる危機の到来を認識し、東山天皇の祖孫をして閑院宮家を立てられるよう将軍に建言した。その皇統を維持させた経緯を次のように回想した。
 「議し申すべき一事の候は天亨・建武の間、皇統すでに南北にわかれ、南朝はいくほどなくて絶させ給ひぬ。北朝はもとこれ武家のためにたてられ給ひぬれば、武家の代の栄えも衰えをも、ともにせさせ給ふべき御事なるに、応仁の後、世の乱れ打ち続て、武家すでに衰給ひにし上は、朝家のことは申すに及ばず当家(徳川)神祖天下の事をしろしめされしに及びてこそ、朝家(皇室)にも絶たるをも?ぎ、廃れしをも興させ給ふ御事共はあるなれ。しかはあれど儲君(皇太子)の外は、皇子、皇女皆々御出家の事においては、いまもなほおとろへし代のさまに、かは
り給はず。凡そ匹夫匹婦の賤しさも子を産みては其室家あらむ事を思ふ。これ天下古今の���也。(中略)これより後、代々の皇子、皇女、其数多くおはしまさむに至りては天下の富も、つがせ給はぬ所ありぬべしなど申す事も候はんか。古より皇子、皇女、数十人おはしませし代々もすくなかれねど、それらの御後、今に至り給ふは、いくばくもおはしまさず。『天地の間には大算数といふもののある也』と古人は申したりき。これらの事は人の智力の推し測るべき所にあらず。ただ理の当否をこそ論じもうすべけれ」(松村明校注、岩波文庫。138~140p)
 新井白石は後継皇統の候補者がたくさんおられた時代ではなく、いずれ後継候補が不在となる危機にそなえ、別に宮家を建てて費用をまかなうべきと建言したのだ。
 将軍家宣は白石の建言を受けいれ直仁親王を閑院宮と称し、禄千石を進上した。はたして白石が危惧した通り第113代東山天皇の系統は第118代後桃園天皇で絶えた。
 そこで東山の皇子、直人親王の孫にあたる光格天皇が第119代天皇として即位された。光格天皇は閑院宮典仁親王の第六王子。誕生の翌年に聖護院に入寺し将来は出家して聖護院門跡を継ぐ予定だった。
 ところが後桃園天皇が崩御し、直系は内親王だけだったため、安永八年(1789)十一月二十五日、践祚された。今上陛下はこの光格天皇の系統である。
 ゆえに令和の時代の皇室論議に臣籍降下された旧宮家の復活が急がれる所以である。
 白石が冒頭にのべた「建武の間、皇統すでに南北にわかれ、南朝はいくほどなくて絶させ給ひぬ。北朝はもとこれ武家のためにたてられ給ひぬれば」という意味は、建武の中興の後醍醐天皇の南朝が99代の後亀山天皇で世継ぎなく北朝五代の後円融天皇の皇子が、第百代の後小松天皇、101代称光天皇のあと、五代遡って北朝一代の光嚴天皇の祖々孫にあたる後花園天皇となられたことを指している。
 皇位が空位となったケースは幾つかあるが、未亡人か独身の内親王が称制(臨時天皇)として正式な後継皇子が成人するのを待った。たとえば持統天皇、皇極・齊明、元正、元明がそうだ。孝謙・称徳天皇の場合は後継淳仁天皇を廃帝とし、次の光仁天皇を指名したとする遺書は藤原百川がでっち上げた。
 第二十一代雄略天皇の子、清寧には皇子がおらず三代遡って履中天皇の皇子イチノヘオシハの遺児(顕宗、仁賢)が継いだことはみたが、その間の飯豊天皇は明治三年に皇統譜から削除された。ところが葛城の麓へいくと宮内庁管轄の飯豊天皇陵がある。
 その後、第二十五代武烈天皇にも後継皇子は不在で、こんどは五代遡り、応神天皇の五代孫と言われた継体天皇が践祚された。継体天皇は越前からやってきたが二十年間も奈良へ入らず、この謎は解明されていない。
                 (『月刊日本』から再録です)
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kennak · 2 months ago
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兵庫県警は11月7日、別の女児殺害事件で服役中の勝田州彦容疑者(45)を殺人未遂容疑で逮捕した。勝田容疑者は2006年9月、兵庫県たつの市の路上で、学習塾から帰宅中だった小学校4年生の女児を刃物で刺し、胸などに重傷を負わせた疑い。勝田容疑者は、これまでも女児を対象とした極悪非道の犯行を重ねており、まずは「週刊新潮」の過去の記事をもとに彼の犯歴を辿ってみたい。 【1】  2000年3月、兵庫県明石市の路上で自転車に乗り、小学校から下校していた5年生の女児の腹部を殴って暴行容疑で逮捕された。当時、明石市では小学校高学年の女児が下校途中、自転車に乗った男に殴られる事件が十数件発生していた。裁判では保護観察付きの執行猶予判決。勝田容疑者は精神科に通院し、投薬治療を受けたが、途中で通院を止めた。 【2】  2009年12月、兵庫県姫路市の路上で、遊んでいた小学校1年生の女児の腹部を殴り、肝臓から出血するなど全治6カ月の重傷を負わせ、傷害容疑で逮捕された。勝田容疑者は犯行を認め「10人くらい子供を殴った」と供述。翌10年3月に神戸地裁姫路支部で懲役4年の実刑判決。 【3】  2015年5月、兵庫県姫路市の路上で、帰宅途中だった中学校3年生の女子生徒の胸や腹を刃物で刺す。兵庫県警が殺人未遂容疑で逮捕した。翌16年に神戸地裁姫路支部で開かれた裁判員裁判では、勝田容疑者が中学校3年生の頃から自分の腹を刺すなどの自傷行為を繰り返していたことも明らかになった。家庭内のストレスなどが原因だったとされ、高校生になると自傷行為に及びながら少女が血を流す様子を想像するようになったという。同年5月に懲役12年の実刑判決。その後、大阪高裁で懲役10年の実刑が確定した。 浮上した2つの殺人事件 【4】  2018年5月、岡山刑務所で服役していた勝田容疑者を、岡山県警が殺人容疑で逮捕。04年9月、岡山県津山市で当時小学校3年生の女児の自宅で首を絞め、刃物で胸や腹を複数回刺して死亡させた殺人事件が起きていたが、岡山県警は15年に姫路市で起きた殺人未遂事件との共通点に注目した。  岡山刑務所で任意の事情聴取を行ったところ、勝田容疑者は犯行を自供。2022年1月、岡山地裁で開かれた裁判員裁判は無期懲役の判決。2022年9月、広島高裁岡山支部も一審判決を支持。23年9月には最高裁も上告を棄却し、勝田容疑者に下された無期懲役の判決が確定した。  そして勝田容疑者は今回、2006年に兵庫県たつの市で発生した女児刺傷事件の容疑者としても逮捕された。さ��に07年10月に兵庫県加古川市で小学校2年生の女児が刺殺された事件の関与も浮上している。  加古川市の事件は夕方に公園で遊んでいた女児が帰宅。自転車を駐輪スペースに置いたところで発生した。自宅の中にいた母親が女児の「キャー」という悲鳴を聞き、玄関に出ると女児が倒れており、血だまりができていた。  女児は胸と腹部の2カ所を刃物で刺されており、内蔵に達するほど傷は深かった。すぐに病院へ搬送され、その際に救急隊員が誰に刺されたのか質問。女児は「男」と答えた後、意識を喪失した。病院でも懸命の治療が続けられたが、午後7時過ぎに失血死による死亡が確認された。 どんな家庭環境で育ったのか?   対象が女児だったこと、腹部を刺していることなど、確かに勝田容疑者が引き起こした事件と共通点が認められる。  週刊新潮は2009年12月17日号に「受勲『元警部』のセガレだった加古川『女児殴打』通り魔」との記事を掲載した。先に勝田容疑者の犯行歴を【1】から【4】までお伝えしたが、週刊新潮が報じたのは【2】の小学1年の女児を殴打した傷害事件の詳細だった。  勝田容疑者の残酷非道としか表現しようのない犯行を知るにつれ、一体、どんな家庭環境で育つと、このような鬼畜が誕生するのか──と首を傾げた方も多いだろう。そうした疑問に答えようとしたのが、週刊新潮が09年に報じた記事だ。その全文を再録する。  改めて時系列を確認すると、逮捕容疑などが事実であれば、勝田容疑者は2006年に兵庫県たつの市で殺人未遂事件、07年に同県加古川市で殺人事件��09年に岡山県津山市で殺人事件を起こしたにもかかわらず、容疑者としては浮上していなかった。その時期に週刊新潮が報道した記事だということに注目していただきたい。(以下、当時の記事を再配信します。年齢、肩書などは当時のままです) “このおっちゃんや! 間違いない” 「親の背を見て子は育つ」  だが、その背に生涯消えることのない十字架を背負わせてしまう親不孝者も少なくはない。  12月6日、朝8時。兵庫県加古川市平岡町の主婦が朝刊を取りに出ると、家の前に1台の車が停まった。車内には、白い手袋を嵌めたスーツ姿の男が4人。彼らが向かいの家のインターホンを押すと、その家の長男が出てきた。勝田州彦、30歳。 「出てくるなり“ごめんなさい”……。手錠をかけられ、連行されました」(主婦)  4人は網干署の捜査員であった。勝田は9月19日の午後0時30分頃、自宅から約30キロ離れた姫路市網干区興浜の路上で、6歳の女児を殴った傷害の容疑で逮捕されたのだ。  その手口は非道のひと言に��きる。捜査関係者の話。 「勝田は1人で遊んでいた女児に目をつけ、��を引っ張った。驚いた少女はその手を振りほどき、50メートルほど走って逃げたのですが、それを追いかけ、腹部を2回立て続けに殴ったのです」  被害者は肝臓から出血し、全治6カ月の重傷。現在も通院中である。この後近隣ではわずか1カ月間で同様の事件が連続して3件も発生。計4件の手口がいずれも似通っていたため、同一犯を疑う警察が前科者のデータベースを調べると、 「00年に11歳の女児を殴った容疑で、勝田が明石署に逮捕されていたのです。この時も同じ手口。そこで、勝田と今回の被害女児を街中で引き合わせ、顔を確認させると“このおっちゃんや! 間違いない”と」(同)  勝田は4件の暴行を全て認めている。 「瑞宝単光章」を受勲  この地で生まれ育った勝田は、近隣住民によれば、 「お姉さんが1人いて、10歳以上も年が離れているんです。遅くに出来た子供やから、両親は“クニちゃん、クニちゃん”言うて、目に入れても痛くないほどの可愛がりようやった」  地元中学を卒業後、進学したのは県内の私立男子校。 「水泳の強豪校として知られた学校です。彼は水泳が得意で、スポーツ推薦で入学したんよ」(住民の1人)  高校卒業後は職を転々とする。パチンコ台の組立工、運送会社の運送員、00年の事件当時は地元ショッピングセンターの現金輸送車を運転していた。  現在は大手飲料会社に期間社員として勤務しており、同僚によれば、「無遅刻無欠勤で、トラブルは一切なかった」という。  9年間大人しく暮らし続けた勝田を、近隣住民は「更生した」と思っていた。なぜならば、 「前の事件の後、お父さんが“私がきちんと監督しますから”と近所に詫びて回った。あの立派な人の言うことに間違いはないと思うやろ」(近隣住民)  立派な人――。それもそのはず。父親は元・兵庫県警の警察官なのである。 「ノンキャリで兵庫県警に入り、定年まで立派に勤め上げたんです。捜査一課の刑事やったはずやけど。定年時の階級は警部」(同)  現役時代は、勝田家の前は夜回りの記者がズラリと並んでいたそうだ。  昨年末、この父親には更に箔が付いた。「瑞宝単光章」を受勲したのだ。危険業務従事者叙勲で、警察官など危険性の高い業務に従事した者に贈られる。 「天皇陛下から贈られた勲章と、皇居での写真を見せてもらいました」(同)  父は警察官としての心得の1つ、柔道を息子に幼い頃から教えており、結果、勝田の両腕は一升瓶のように���かったそうだ。.  この男は親の何を見てきたのだろうか。 デイリー新潮編集部
女児におぞましい凶行「勝田州彦」を生んだ家庭環境 父は“捜査一課の元警部”“目に入れても痛くないほどの可愛がりよう” 「加古川女児殺害」にも関与か(デイリー新潮) - Yahoo!ニュース
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lierrelearns · 1 year ago
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写真提供: 小田原市立図書館発行[一枚の古い写真]より
明治憲法と民法を起草、初代の内閣総理大臣 伊藤博文 (1841-1909) 1] 伊藤博文公胸像 (本町四丁目) 伊藤博文の別邸[滄浪閣]跡で[民法発祥の地]として知られます。 *民有地ですので立入りはご遠慮ください。 写真提供: 国立国会図書館
幕末の志士で、宮内大臣等を歴任した政治家 田中光顕 (1843-1939) 2] 小田原文学館、3] 白秋童謡館 (南町二丁目) 田中光顕が構えた2棟の別邸を、小田原文学館と白秋童謡館として有料公開しています。 *建物は国登録有形文化財 写真提供:多摩市教育委員会
三井物産等を設立した明治財界の指導者、大茶人 益田孝 (鈍翁) (1848-1938) 鈍翁in西海子(南町二丁目) 茶器など鈍翁ゆかりの品々を展示しています。 写真提供: 国立国会図書館
秋山真之と親父があり、海運業で財閥を築いた実業家 山下亀三郎 (1867-1944) 5] 対潮閣跡 (南町一丁目) 山下亀三郎の別邸[対潮閣]跡で、秋山真之の終焉の地です。後に、田中光顕の歌を彫った[釣鐘石]が置かれました。 *民有地ですので立入りはご遠慮ください。 写真提供:山下真一郎��
福岡黒田家13代目、貴族院副議長を30年務める 黒田長成 (1867-1939) [6]清閑亭 (南町一丁目) 黒田長成が明治末期に構えた数奇屋風の別邸。周辺の庭園めぐりの案内をしています。 *建物は国登録有形文化財 写真提供: 国立国会図書館
日露戦争における仁川沖海戦等で活躍した司令官瓜生外吉 (1857-1937) 7] 瓜生海軍大将之像 (南町一丁目) 山角天神社の境内に瓜生大将の胸像があります。 8] 瓜生坂 (南町一丁目) 高台にあった瓜生外吉の別邸に通じていた坂道です。 写真提供:瓜生家
多数の詩や童謡を創作した国民的詩人 北原白秋 (1885-1942) 9] 木兎の家跡(伝肇寺境内)(城山四丁目) 北原白秋が大正7年から8年余りを過ごした[木兎の家]が伝肇寺境内にありました。 写真提供: 小田原市立図書館
皇族出身の陸軍軍人で、昭和激動期の参謀総長 閑院宮載仁親王 (1865-1945) 10] 三の丸外郭新掘土塁(南町一丁目〜城山四丁目) 閑院宮載仁親王の別邸跡。広大な敷地の一部は史跡小田原城跡の土塁に重ねっていました。 写真提供: 小田原市立図書館 H25.12 小田原市観光課
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hachikenyakaiwai · 1 year ago
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【かいわいの時】嘉祥三年(850)九月八日:八十島祭を行う(八十島祭の初見)
難波宮と摂津職が廃止された後にも、難波津において繰り返される宮廷祭祀があった。それは八十島祭と、伊勢斎王の解斎の禊である。いずれも前代からの伝統を引く古い行事であって、 平安時代に入って始められたものではない。 八十島祭は、即位儀礼の一環として挙行される神事で、大嘗祭の翌年に後宮の内侍司の女官が祭使として難波津に下向して生島足島神(大八洲之霊)を祭るものであった。
この神事は五世紀以来の古い即位儀礼の名残で、本来は全国土の国魂を新しい天皇の身体に付着させる呪儀であったらしく、奈良時代には、天皇自身が難波津に赴いて行っていたと推測される(第一巻第四章第四節1参照)。
しかし、史料に残る明らかなものはほとんど平安時代のものである。その初見は『日本文徳天皇実録』にみえる文徳天皇の即位に伴う嘉祥三年(八五〇) 九月のものである。鎌倉時代初めの後堀河天皇の元仁元年 (一二二四)まで行われ、以後廃絶した。この間約四〇〇年近くの間に、史料にみえるものは、二二回を数える。この祭儀は六国史には記載しないのが原則だったようで、その後も『日本三代実録』には記載がない。光孝天皇の場合も、『帝王編年記』に記載されるものである。恐らく記録に残らぬものが多かったに違いない(『新修大阪市史 2』)。
(写真)METで展示されている俵屋宗達「源氏物語関屋澪標図屏風」(ニューヨークビス03/09/2019)=ニューヨーク(撮影・吉田)
御社立ちたまて、所々に逍遥を尽くしたまふ 難波の御祓へ、七瀬によそほしう仕まつる 堀江のわたりを御覧じて 今はた同じ難波なると���御心にもあらで うち誦じたまへるを
御社をご出発になって、あちこちの名所に遊覧なさる。難波のお祓い、七瀬に立派にお勤めになる。堀江のあたりを御覧になって、「今はた同じ難波なる」と、無意識のうちに、ふと朗誦なさったのを(渋谷栄一訳)
住吉詣で偶然に元カノ(明石の上)とニアミスし動揺する源氏(当時29歳)。「今はた同じ難波なる」とは、百人一首にもみえる元良親王(890-943)の歌で、上の句の「わびぬれば今はた同じ難波なる」からとられています。源氏の心中にはもちろん「身をつくしても逢はんとぞ思ふ」という下の句が隠されていることでしょう。さて、かいわいに関係のある箇所といえば、もちろん、「堀江のわたり」。屏風では明石の上の乘る舟が描かれています。
源氏物語の注釈書の一つ『花鳥余情』(一条兼良1472)に「代始に八十嶋祭難波にてあり、典侍の人御衣をもちて参向して解除する事あり これみな難波のはらへの例也」とあり、「七瀬」と「八十島祭」は同じようなものとして扱われています。紫式部の時代の八十島祭は、三条天皇の長和二年(1013)十月、後一条天皇の寛仁元年(1017)十二月が記録に残っています。
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beijingminzhuang-blog · 6 months ago
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中国为什么难有民主
自西汉起,儒家成为中国文化的主流,进入日常生活的每一角落,上自朝廷的典章礼仪、国家的组织和法律、朝廷礼乐,下至学校组织、社会礼俗、族规家法、人际关系和个人道德。儒家伦理深植于中国社会中,成为日常生活的规范和准绳。
孔子继承周代的政治思想,认为为政者必须有美德,而仁就是最基本的美德,孝悌则为仁之本。儒家主张以家庭为中心,以长者为尊,长幼有序。国是家的扩大,把所有社会关系归纳为五伦,称国君为君父,官员为父母官。父子之亲,往往与君臣之义同义。同时强调君子能无私无我,不会自私自利,顾全群体而牺牲小我,把个人利益置于群体利益之下,每个人都应该强调自我修行,以达到圣人的境界。
两千年来,儒家的伦理体系已经成为中国人心灵、道德和礼俗生活的一种依托和准则。即使这套道德规范没有在任何一条法律中写出来,要求每个人必须这么去做,但是它却深深地埋在每个中国人的心中。导致中国至今仍然无法真正融入世界主流文化价值观,中国的社会生活、政治生活仍然是处于前现代时期。
首先,两千年来的儒家思想熏陶,导致中国人只知权威,完全不知道平等为何物。儒家强调尊卑有序,人应该分高低贵贱,分等级,即所谓的“君君臣臣,父父子子”,把���治权威视为社会秩序的基本条件。在中国,爸爸与儿子、上司与下属、老师与学生……永远不可能平等。地位在下者的美德就是顺从,对于儿子来说,孝就是美德,对于下属来说,忠就是美德。儿子对父亲提出一点质疑,就是不孝;下属对上司提出质疑,就是不忠。在儒家的道德规范中,在上者肯定是一个道德模范,一个完人,一个没有丝毫瑕疵的人,一定有着不可置疑的权威。在下者对在上者能做的,只能是顶礼膜拜,而不能有丝毫的质疑。如果有质疑,就是不孝,就是不忠,就是忤逆。儒家从来只讲在下者的义务,在上者的权威,而从来不讲在上者的义务。
当大家都默认这套尊卑有序的道德教化,并且在上者天然有着不可被质疑的权威之后,这个体制内就只能有两种人——爷爷和孙子。在一个组织中,当一个人对下时,总是“爷爷”的身份,对上时,又总是“孙子”的身份。“爷爷”都是道德模范,“孙子”都是孝顺、忠诚的。爷爷和孙子的关系,存在于这个社会的每一个角落中。
这套崇尚尊卑有序的道德教化,使得社会中能够被选拔出来的人都是懂得曲意逢迎的人。真正遵从自己内心思想的人,很早就会被制度清洗掉而得不到发展的机会。这种只懂得曲意逢迎的人会把“说一套做一套”视为常态,而把说真话当做幼稚。鲁迅所谓“吃人的礼教”,其实指的就是要让每个人都变成适应这套制度的人,让每个人都遵从在上者的思想,放弃自己内心的真实的想法。
其次,崇尚道德教化,也是这套社会伦理体系中的核心思想,这又导致社会上催生了大量的“伪君子”。在这套体系里,成为一个道德模范,是成为一个完人、一个君子、一个圣人的基础。而作为道德模范,首先是不能爱财的,不能有丝毫追求个人利益的行为,只要有追求个人利益的行为,就是小人。同时,作为儿子,不可以质疑父亲,因为父亲一定是伟大的;作为学生,不可以质疑老师,因为老师一定是没有错的;作为臣子,不可以质疑皇帝,因为皇帝一定是英明的。但是现实生活里,追求个人利益是每个人为了生存而必须要做的事情,而父亲、老师、皇帝出错也是太正常不过的事情了。所以,想要成为真正的“君子”是很难的,成不了真君子,就只能成为“伪君子”。曲意逢迎和唱高调,则是成为“伪君子”的必修课程。
在这套制度里,只要你是在上者,你肯定就是一个道德楷模,而作为道德楷模,你就天然应该受到在下者的顶礼膜拜,天然不需要受到任何监督。这就造就了“伪君子”的又一个特色——装。在上者永远要装成一个道德模范,一个完人,一个不可能犯任何错误的人,一个圣人;在下者永远要装孙子,装孝顺,装忠诚,装无私。同样的道理,如果你想整垮一个人,最重要的就是找到他在道德方面的瑕疵,一个人无论你有多大成就,只要在道德上有瑕疵,你就什么都不是了。这种社会道德规范下,培养出来的真君子只是少数,真正培养出来的,是大批的“伪君子”。或者说,这就是一个生产“伪君子”的社会制度。在一个“伪君子”当道的社会,怎么会容忍真正的自由和民主。
儒家的社会伦理体系是产生极权政治的天然土壤,所以中国社会自古以来都没有民主的基因存在。这套理论体系导致中国的社会生活和政治生活离民主、自由越来越远。即使是在已经接受西方思想的日本和韩国,等级制度的思想依然非常严重。
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zhouzongmin-blog · 9 months ago
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《五月天 回到那一天 25週年 巡迴演唱會 香港站》2024年5月9日場,這一場原本是五月第一天的場,而昨晚也是有驚無險,差一點因為刮大風而取消,而中間那個大球是變形了。
不管怎麼說,現場像燃燒的火焰,以前我非常熱衷於 林肯中心 大都會歌劇院或 倫敦 柯芬園皇家歌劇院的大歌劇,沒曾想到五月天的現場也可以找到我要的感覺和氣氛。
其實五月天的創作有詠嘆,華彩、呈示、再現、高潮,而炫技也隨處可見,和弦也豐富,織體絢爛。雖然是搖滾或民謠的樣式,從五月天即興又隨意的唱腔唱出來,可以清晰而有力的表述觀點、美感和熾熱的感性。
如果你以為五月天只是鬧騰或甜膩,那就錯了。他們也熱衷於存在主義生存思考,歌詞指涉生之艱難,探詢其中的意義,提升人的精神價值和意義。
五月天創作的重要特質也在於他們巧妙地與日常的憂患緊密擁抱,對現實物質主義也持親和的態度,不會游離於具體的現實之外。這很難得,既沒有把自己束之高閣,又斬獲跨年齡層的聽眾。事實證明,與俗世物質主義融合會讓人活得容易一點。
我在現場本來是想深度沈浸於這個燃燒的現場而已,但實際上我與大多數觀眾一樣,聽他們大段的詠嘆、瘋狂的釋懷吶喊、痛陳活著的痛楚與悲哀,然後笑著哭了,哭了又笑了。
五月天也不濫情,與你釋懷也適可而止,他們會以成熟的個體人格來構築一個文化景象,這與內地普遍個體人格的稀缺形成反差。眾所週知,內地的虛幻集體人格模糊而又難以聚焦生命與生活的意義,導致虛耗和疲憊。
個體人格培育在 成長 過程裡的稀缺,會導致人格模糊,性格游移,極端情緒和創傷型隔絕,於是當一種個體人格突出和健全的文化出現時,一種跨越時空的 彌��療癒衝動 就會萬人空巷。
這不光是五月天的音樂之對於內地,包括侯孝賢、楊德昌的電影,也是這種功效。
當然光聽五月天的唱片還是不夠,現場總的美學體驗在於整個佈局很像一部IMAX電影,奇幻、時髦、年輕,製作精細。也不止於氾濫的特技,而是認真拍攝了真摯的人文主義短片,語境特別清新。
這讓五月天整個的音樂訴求完整,一點也不淺薄。我很慶幸 華語文化 中能出現五月天這樣精準而有力地捕捉人性,黏著於這25年的人間悲歡和個體生存掙扎的演唱組合,這讓我回望鮑伯狄倫、槍花、涅槃、披頭士等影響了一代人的音樂傳奇。
而我們身邊的能與我們用 華語 同呼吸,共患難,親密許下五月的私密約定的,就只有五月天了。
其實我竟然只是近年才聽五月天,也是疫情困於室內在黃水爺處看了五月天在台北的跨年演唱會直播,覺得這個搖滾樂隊氣質不凡,一聽歌才知感性豐富,理性成熟。
其實五月天對於所有歌迷並不複雜,一瞬間就會擊中你的內心。五月天 歌中 的理想主義與浪漫主義情緒,能夠讓普通人抽離於現實的艱困與痛苦,在安慰中有繼續前行的勇氣,也覺得生活需要短暫的遺忘,平凡地活著也是一種偉大——這一種精神價值的探詢,又正是人與動物的區別。
比如忘憂歌,你會跟他們高聲交流,把生活的種種宣洩出來,這真是一場派對動物的專屬,是倔強的玫瑰少年正在進行的愛情ing。
五月天 氣勢磅礴的文化景象呼嘯而來,接下來鳥巢的10場演出一票難求,去年在廣州黃村的演出也難以搶到一張票。這讓人慾說還休的時代,總歸有五月天的燃燒型派對來慰藉,就乾杯吧!
如果沒有我所期待的 華格納《尼伯龍根的指環》或《崔斯坦和伊索爾德》,五月天 也可以讓我與數萬人一起在三個多小時的時間裡酣暢地跳著歌唱而淚眼婆娑⋯⋯
歌迷不會輕易善罷甘休,安可的叫聲昨夜持續了一小時,維港海中的白色氣球在海風中錯愕地搖擺,端看這人間短暫的喜��,難以離去~#五月天#5525回到那一天
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yab-others-yum · 1 year ago
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小町数人説をめぐって
陽明文庫に中世の小町の絵がある。絹本着色、縦六一・六センチ、横四一・七センチの絵を表装してあるのだが、軸心近くの裏面に「小野小町像 貞治六秊六月廿五日」と、まさしくその頃この筆跡にて記されたものが付加されている。表装そのものもそんなに新しいものでないが、表装するにあたって、この絵に本来ついていた紙をここに付加したものであろうことは、その字がまさしく貞治頃〈一三六二〜一三六七〉この事跡であることが疑いもないからであろう。
ところで、この絵は「小野小町像」となっているが、まさしく「玉造小町子壮衰書」によっている。「容貌ハ憔悴シテ、身体ハ疲痩」、「頭ハ霜フリタル蓬ノ如ク、膚ハ凍リタル梨ニモ似タリ」、「骨ハ辣チテ筋ハ抗クナリ、面ハ黒クシテ歯ハ黄バミタリ」、「裸形ニシテ衣ナク、徒跣ニㇱテ履ナシ」、「左臂ニハ破レタル筐ヲ懸ケ、右手ニハ壊レタル笠ヲ提ツ」、「頸ニハーツノ囊ヲ係ケ、背ニハーツノ袋ヲ負ヘリ」、「肩ノ破レタル衣ハ胸ニ懸カリ、頸ノ壌レタル蓑ハ腰に纏ヘリ」とある「壮衰書」の序文をのものである。ここでもまた小野小町と玉造小町を同人物とする中世の理解が確認されるのである。
先にあげた「無名抄」の文〔五〇頁参照〕の続きに「玉造の小町と小野小町と同人かあらぬ者から、人々おぼつかなきことに申して争ひはべりし時...」とあって別人説もあったことは確かだが、その多くは前述の「玉造小町子壮衰書」の弘法大師著作説を土台にしての疑問であり、中世の大勢は、あくまで両者を同じものと見、「玉造小町子壮衰書」を小野小町の事蹟を語るものと見ていたことは疑いもないのである。
近世に入っても、この傾向は変わらなかった。貞徳の「徒然草慰草」などその顕著な例だが、中期以後の随筆の類を見ても、たとえば天野信景の「塩尻」〈『随筆大成』等〉、志賀忍〈天保十一年、七九歳没〉の「理斉随筆」などは、小野小町と玉造小町を同一人と考えている。
ところが、小町という名は、実は普通名詞であって、〇〇小町と呼ばれる女性はまことに数多くいたのだ、玉造小町と小野小町もとうぜん別人だという、いわば画期的な説が新井白雅の「牛馬問」「〈温知義書〉」に提示され、人々を驚かせたのである。
古代には一国より一人づつ采󠄃女を内裏へ献ぜしこと也。既に仁明帝の前後には、小町とて召されたるもの六十余人ありしとなり。この采󠄃女を后町のうちにをらしめたまふ。故にみなみな小町と呼ばれたるなり。その人々の宮仕へをやめて古郷に帰り身まかりたる墓を、おほか「た小町塚とよびしとなん。さてこそ、国々に小町塚といふもの多し。美濃・尾張の間にさへ二三所あり。
しかるを、なべての小町を一人と思ふよりまぎれたる説多し。たとへば実方朝臣、陸奥へ下向の時、髑髏の目穴より薄の生ひ出て、「秋風の吹くにつけてもあなめ〱」の歌の小町は小野正澄が娘の小野小町なり。文屋康秀が三河掾となりて下りし時、「身をうき草の根をたえて」さそふ水あらば」とよみしは高雄国分が娘の小町なり。「おもひつつぬればや人の見えつらむ」の歌、又業平の「舞の袖」などいひしは出羽郡司小町良実が娘なり。高野大師のあひたまふ、壮なる時憍慢最も甚だし、衰ふる日愁歎猶深しと答へしは常陸の国玉造義景が娘の小町なり。かく一人ならず。故に時代其外異なる事あるのみ。中にも良実が娘の小町は美人にて和歌にもすぐれたれば、独り名高く、すべて一人のやうに伝へ来たるのみ。
まず、小町を采󠄃女をし、采󠄃女のすべてに「町」をつけてよんだといっているが、平安時代の文献にあらわれる采󠄃女は、たとえば「近江の采󠄃女」〈拾遺集〉「明日香の采󠄃女」〈大和物語〉などのごとく、国名を冠して呼ぶのが普通である上に、文献にあらわれる「町」のつく女性は前述のように后町にいる更衣であって采󠄃女ではない。小町采󠄃女説自体が出羽都司良実の娘という伝承をもとにして出来たものであり、出羽国から采󠄃女をさしだすことはなかった〈「続日本紀」「類聚三代格」〉という事実を持ち出すまでもなく、この日雅の説には従えないのである。地方に数多い小町塚の合理的説明としても弱いものである。
ところで、この白雅の説、後半になると、その多数の小町が四人にしぼられて来る。架空の人物である小野正澄とか高雄国分とか玉造義景などの名をどこから持ち出して来たのか不明だが、既に伝説化説話化している小町像のすべてを事実と認定する立場からの合理的整理であって、まったく意味をなさぬものとしか言いようはないのである。
伝承る整理しながら、また新しい伝承を生んでいる感じの「牛馬問」の説であるが、その合理的整理法に人気があったのか。それに賛同して引用している随筆が実ははなはだ多いのである。神沢貞幹の「翁草」〈『随筆大成』第三期所収〉、城戸千楯の「紙魚室雑記」〈『随筆大成』第一期所収〉、石川宣続の「卯花園漫録」〈『新燕石十種』第三所収〉、山本信有の「孝経楼漫筆」〈『随筆大成』第三期所収」、滝沢馬琴・屋代弘賢らの「兎園小説」〈『百家説林』所収〉など、いずれもこれに全面的な賛同を示しているのである。
小町に限らず、伝説的人物は、その伝説化の過程において、事蹟が膨脹し、それを全体的に把握するとなると、そこに新しい矛盾が出てくることが多い。これを予盾なく合理的に統一しようとすると、いわば原生動物の体のように多方面に膨脹したものを分割するほかはなくなる。
たとえば柿本人麿の場合にしても、「万葉集」の記述を信するかぎり人麿は持統朝から文武朝にかけて活躍した歌人であるとするほかはない。だが一方、「万葉集」が引用する「柿本人麿歌集」にはそれよりもかなり後の歌もある。「人麿歌集」に後代の歌が入っているというのは今日の学者の常識だが、人間歌集なのだからすべてが人麿の歌だという立場に立てば、「万葉集」の人麿にして、既に最低二人いたことになる。次に「古今集」の仮名序を見ると、、「おほきみつの位(正三位)柿本人麿」を「ならの御時」の歌人としている。現在では、これを「奈良時代」と解し、しかも人麿が活躍した飛鳥時代は奈良時代に接していたからこのように書いたと説明している。だが、そこに都があった「時代」と解するのはどうか。平安時代において「御時」とは天皇の治世、すなわと御宇のことであり、「ならの御時」は平城の帝の御時の意にほかならないからである。事実、この仮名序に対応する真名序(漢文の序)には「平城天子」とはっきり書かれている。「古今集」より五十年ほど後に出来た「大和物語」にも人麿が平城天皇に仕えていたとある。平城天皇は平安時代第二の天皇だから「万葉集」の人麿とは違う。これ第三の人麿ということになる。ところ、で、「古今集」から百年ほど後の第三の勅撰歌集「拾遺集」を見ると、人麿が渡唐してよんだという歌が二首見える。これ、第四の人麿である。
人麿を一人ではなく四人とすると、その間の矛盾はなくなる。しかし矛盾がなくなったところでどうなるというのだ。私が問題にしたいのはそんなことではない。実在の人麿が、その死後、奈良時代・平安時代にどのように伝説化されていったか、別のことはで言えば、後の人々の心の中に人麿がどのように生き続けて来たか、私はそれを問題にしたいのである。
小町の場合も同じである。江戸時代の学者のように小町を四人にしたり、現代の民俗学系の国文学者のように、小町と称する女が無数にいたとか、小町を名のる遊行婦女・あるき巫女・歌比丘尼のたぐいが諸国をめぐり歩いていたと言い切ることによって事足れりとし、文献に残った小町の文学と伝承について深く考えようともしないのは学問の堕落、ある意味では頽廃という評語が適切でさえある。仮に彼らの言うようなことがあったとしても、せいぜい中世の後期のことであり、「小野小町の歴史」ほ既に平安時代中期以前から始まり、中世、近世と続いていたのである。小町が、その死後も、後代の人々の心の中にどのように生き続け、どのように変容していったか、あるいはまた、時を経て変容しながらその底に変えずに生き続けてゆく、いわゆる小町的なもの、それはいったい何かということの追跡にこそ、私は意味を認めたいのである。世に虚と言い実と言う。しかし、このように見れば、人々の心の中に生き続けていたものはすべてが実だと言うほかはないのである。
以下の章において次第に明らかにしてゆくことであるが、小野小町の説明化は、彼女の死後間もない頃から既に始まっていたのである。そして十世紀の末頃には、我々が知っている小町説話、たとえば(1)雨乞説話(2)好色説話(3)男性を拒否する驕慢説話(4)衰老説話 等、そのおおむねが既に出来るがっていたはずである。だから、そのような流れの中に「玉造小町子壮衰書」を置くならば、「小町老いて後、おとろへさら��りたりなど云ふめるは、玉造小町の事なるを混じていへるなり」〈本居内遠「小野小町の考」〉というような見方が必ずしもあたらぬことを知るのである。小町衰老落魄の説話が「壮衰書」の影響で出来上がったというよりも、既に世に行なわれていた小町落魄説話の仏教的結実として壮衰書を考えるべきではないか。「玉造」の由来を明らかに出来ぬことは残念であるが、ともかくも「小町」と表題にあるだけで人々が説明を求めないような人物の伝でなければならないこと、しかもそれが「花ノ時ヲ待チテハ玉筆ヲ秉リテ紅桜紫藤ノ和歌ヲ詠ズル」美女の伝でなければならないことなどを併せ考えれば、平安末期から中世にかけての人々の大勢的理解がそうであったように、これをも小野小町のこととするのが、最も素直な、そんなして最も妥当な理解だと思うのだが、いかがであろうか。
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medickalmalpractice · 2 years ago
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混迷した世界の指南書 『武士道』 藤原正彦(2008) 『この国のけじめ』 文藝春秋
 新渡戸稲造『武士道』が売れているという。昨年末(二〇〇三年)公開されたアメリカ映画 「ラスト・サムライ」の影響もあるとかで、数社から合わせて百万部以上が出ているそうだ。 これを聞いて意を強くした。 『武士道』が英語で書かれたのは明治三十二(一八九九) 年であ る。百年以上前の本を現代日本人がこぞって読むのは、健全な危機感のあらわれと思うから (5)である。 庶民は知識や理屈を持っていなくともときに鋭い感覚を示す。多くが「いまの日本は何かが おかしいぞ」という素朴な実感をもっている。グローバルスタンダードを取り入れるといって、企業はリストラをする。学校では「ゆとり教育」を取り入れる。その結果、職のない中高年があふれ、地方の駅前商店街はさびれ、小学校では国語や算数の時間が減らされ、小学生から大(10) 学生に至るまでの学力低下は著しい。庶民はこうしたことに「自分たちの親や祖父が大切にしてきたものが壊されつつある」と感ずるのだろう。我々のよってたってきた価値観とは何だったのか、(1)というルーツ探しに似た感覚が『武士道』を手にとらせているのだろう。  『武士道』の著者・新渡戸稲造は幕末の南部藩(いまの岩手県)で下級武士の子として生まれ、札幌農学校(現・北海道大学)で農業を学んだ後、アメリカに留学しキリスト教クェーカー派 の影響を受けた。アメリカからドイツへ渡り、研鑽を積んだ後、札幌農学校教授、台湾総督府技師、(5)京都帝国大学教授、第一高等学校校長などを歴任、農学者および教育者として活躍するかたわら、東西思想の調和を目指し「太平洋の懸橋たらん」ことを悲願とした。東京女子大の初代学長、国際連盟事務局次長なども務めた日本の誇る国際人である。  『武士道』が書かれた明治三十二年は日清戦争と日露戦争の中���期で、清を破った新興国家日本に世界が注目しながらも警戒心を持ちはじめた時機である。新渡戸はベルギー人法学者夫妻と散歩中(10)、日本には宗教教育がないと話したところ、「宗教なし! それでどうして道徳教育を授けるのですか」と驚かれた。その後いろいろ考えた結果、自身の正邪善悪の観念を形成しているものが幼少期に身につけた武士道であることに気づいたのである。  同時代人である内村鑑三や岡倉天心にも共通するが、新渡戸には日本人の魂を西洋人に理解させたいという熱い思いがあった。そして英語で武士道を紹介することを決意する。西洋人に(15)も理解しやすいよう、ギリシアやローマの哲学、聖書、シェイクスピア、ニーチェなどと我が国の本居宣長、平重盛、頼山陽、吉田松陰らを比較しながら武士道精神の本質について説いた。  (1)『武士道』初版は一九〇〇年にアメリカで出版され、たいへんな賞讃を受けた。感激したセオドア・ルーズベルト大統領などは、何十冊も買い、他国の首脳に送ったという。その後多くの言語に訳されたが、日本語訳は明治四十一年以来、新渡戸の弟子で東大総長を務めた矢内原忠雄訳(岩波文庫)をはじめとしてさまざま出ている。 (5) 私は勤務する大学の学部一年生に対して、日本の名著を講読するゼミを担当している。こと十年近く、真っ先に学生たちに読ませるのが『武士道』である。受験戦争をくぐり抜けて大学に入学したての学生たちは、『武士道』を読んで一様に驚く。高校までに習ってきたこととあまりに違うことが書いてあるからである。とくに戸惑いを見せるのは、(10)名誉に関する部分である。 武士道では、名誉はしばしば命よりも重いとされる。「それ故に (武士は)生命よりも高価であると考えられる事が起れば、極度の平静と迅速とをもって生命を棄てたのである」(矢内原忠雄訳・以下同)という箇所を読むと、戦後民主主義の教育にどっぷりつかった学生たちは、「名誉より自分を大切にすべきだ」とか「生命は地球より重い」などと拒否反応を示す(むろん(15)新渡戸は「真の武士にとりては、死を急ぎもしくは死に媚びるは等しく卑怯であった」とも述べており、いたずらに死を賞讃しているわけではない)。  (1)学生たちのそうした批判に対して、私は「それではあなた方は一体どうやって価値判断をするのですか」と問う。すると「自分の理性で考えます」「主体的に考えています」などと答える。「すごいなあ、なぜそれほど自分の理性に自信が持てるんですか」と問うと学生は困ってしまう。人間には、理性や論理だけでなく、価値判断の基準となる倫理的な座標軸がなければならない。(5)それがない論理的思考は単なる利益追求とか自己正当化に過ぎない。座標軸の役割を果すのは、外国の場合、主に宗教だから、外国人は宗教のない人間を信用してよいものか訝る。  宗教の力がそれほど強くない我が国でその役割を果してきたのが武士道である。武士道は平安時代末期から鎌倉時代にかけて、「戦うものの掟」として生まれた。それはいわば(10)戦闘におけるフェア・プレイ精神だった。卑怯な振る舞いはしてはならない、臆病であってはならない、という観念である。  騎士道がキリスト教の影響を受けて深みを得たように、単なる戦闘の掟だった武士道にも、さまざまな「霊的素材」が注入されたと新渡戸は言う。 まず仏教、なかでも禅が「運命を任すという平静なる感覚」と「生を賤しみ死を親しむ心」(15)を武士道に与えた。 そして主君に対する忠誠、祖先に対する尊敬、親に対する孝行という他のいかなる宗教でも教えられなかった美徳が神道からもたらされた。さらに孔子と孟子の教えが、(1)君臣、父子、夫婦、長幼、ならびに朋友の間の五倫の道、また為政者の民に対する仁慈を加えた。  こう書くと外国のものが多いようだが、禅にしても孔孟の教えにしても、中国ではごく一部の階層にしか広まらなかった。これらの思想は日本人が何千年も前から土着的に持っていた(5)「日本的霊性」 とびたりと合致していたから、武士の間にまたたく間に浸透したのである。 江戸時代になると実際の戦闘はなくなった。それとともに武士というエリート階級の行動指針であった武士道は、物語や芝居を通して次第に庶民にまで行き渡り、戦いの掟から精神へと昇華し、日本人全体の道徳的基準となった。武士道精神はこうして「遂に島帝国の民族精神を表現するに至った」のだ。  (10)武士道は成文化されていない。聖書やコーランのような経典がない。武士道は「書かれざる掟、心の肉碑に録されたる律法」として親から子へ、口から口へと伝えられた。そして知識よりその実践こそが本質とみなされたのである。  私の父・新田次郎は、幼いころ父の祖父から武士道教育を受けた。父の家はもともと信州諏訪の下級武士だった。生家の二階には三畳の間があり、子供は容易なことでは入らせてもらえなかった。(15)なぜならそこは切腹の間だったのである(実際に使われたことはないらしい)。幼少の父は祖父の命で真冬でも裸足で『論語』の素読をさせられたり、わざと暗い夜に一里の山道を(1)上諏訪の町まで油を買いに行かされたりした。父は小学生の私にも武士道精神の片鱗を授けようとしたのか、「弱い者が苛められていたら、身を挺してでも助けろ」「暴力は必ずしも否定しないが、禁じ手がある。大きい者が小さい者を、大勢で一人を、そして男が女をやっつけること、また武器を手にすることなどは卑怯だ」と繰り返し言った。問答無用に私に押しつけた。  (5)義、勇、仁といった武士道の柱となる価値観はこういう教育を通じて知らず知らずに叩き込まれていったのだろう。義とは孟子が言うように「人の路」である。卑怯を憎む心である。林子平は義を「死すべき場合に死に、討つべき場合に討つこと」と言っている。勇とは孔子が「義を見てせざるは勇なきなり」と言ったように、義を実行することである。そして仁とは、「人の心」。慈悲、愛情、惻隠の情、「強きを挫き弱きを助ける」などがこれに含まれる。  (10)他にも、礼節、誠実、名誉、忠義、孝行、克己など大切な徳目があった。なかでも名誉は重要で、恥の概念と表裏をなし、 家族的自覚とも密接に結ばれていた。前述したように名誉はしばしば生命より上位にくるもので、名誉のために生命が投げ出されることもたびたびあった。  武士道精神の継承に適切な家庭教育は欠かせない。戦前に国や天皇に対する「忠義」が強調 された、という反省から戦後は日本の宝物ともいうべき武士道的価値観がまったく教えられなくなったのは不幸なことである。(15)戦後教育しか受けていない世代が親となり先生となっているから、いまでは子供にこれを教えることも叶わない。 (1)新渡戸の『武士道』は日本人の美意識にも触れている。 武士道の象徴は桜の花だと新渡戸は説く。そして桜と西洋人が好きな薔薇の花を対比して、「(桜は)その美の高雅優麗が我が国民の美的感覚に訴うること、他のいかなる花もおよぶところでない。薔薇に対するヨーロッパ人の讃美を、我々は分つことをえない」と述べ、本居宣長の歌、(5)敷島の大和心を人間はば、朝日に匂ふ山桜花、を引いている。 薔薇は花の色も香りも濃厚で、美しいけれど棘を隠している。なかなか散らず、死を嫌い恐れるかのように、茎にしがみついたまま色褪せて枯れていく。 (10)それに比べて我が桜の花は、香りは淡く人を飽きさせることなく、自然の召すまま風が吹けば潔く散る。桜の時期にはしばしば雨が降り、ときには数日で散ってしまう。自然の大きな力に逆らわず潔く散る。  「太陽東より昇ってまず絶東の島嶼を照し、桜の芳香朝の空気を匂わす時、いわばこの美しき日の気息そのものを吸い入るるにまさる清澄爽快の感覚はない」、つまりこの清澄爽快の感覚が(15)大和心の本質と新渡戸は説く。  (1)日本人は、このような美意識を持ち、いっぽうで行動原理としての武士道を守ってきた。新渡戸はまた、吉田松陰が刑死前に詠んだ、かくすればかくなるものと知りながらやむにや��れぬ大和魂、(5)を引く。吉田松陰は黒船来航以来の幕府の政策を痛烈に批判し、安政の大獄の際に死罪に処せられた。この歌は、たとえ行き着く先は刑死とわかっていても、正しいと信ずることをせずにはおれないという松陰の告白である。名誉のためには死も恐れないという態度である。  こうした「大和心」といい「大和魂」といい、武士道精神の精華といえよう。これを世界の人に知らしめた新渡戸の功績は訳者の矢内原忠雄の言うように「三軍の将に匹敵するもの」がある。(10)日清戦争後の三国干渉等で世界が日本に警戒心を強めていたときに、軍事力でなく、誇るべき民族精神によって日本を世界に伍する存在としたのである。 明治維新のころ、海外留学した多くの下級武士の子弟たちは、外国人の尊敬を集めて帰ってきた。彼らは、英語も下手で、西洋の歴史や文学もマナーもよく知らなかった。彼らの身につけていたものといえば、日本の古典と漢籍の知識、そして武士道精神だけであった。それでも彼らは尊敬された。(15)武士道精神が品格を与えていたのである。  世界は普遍的価値を生んだ国だけを尊敬する。 イギリスは議会制民主主義を、フランスは人権思想を、(1)ドイツは哲学や古典音楽を作った。自然科学のうえでもこれらの国は多大な貢献をした。現在経済的にも軍事的にもたいしたことのないこれらの国が国際舞台で主要な役割を果せるのは、彼らの創出した普遍的価値に世界が敬意を払っているからである。 私は、日本の武士道精神と美意識は、人類の普遍的価値となりうるものと思う。 (5)二十一世紀は、武士道が発生した平安時代末期の混乱と似ていないでもない。日本の魂を具現した精神的武装が急務だ。 切腹や仇討ち、軍国主義に結びつきかねない忠義などを取り除いたうえで、武士道を日本人は復活するべきである。これなくして日本の真の復活はありえない。国際的に尊敬される人とは、自国の文化、伝統、道徳、情緒などをしっかり身につけた人である。武士道精神はその来歴といい深さといい、身につけるべき恰好のものである。  (10)新渡戸は「武士道の将来」と題した最終章にこう書いている。「武士道は一の独立せる倫理の掟としては消ゆるかも知れない、しかしその力は地上より滅びないであろう。(中略)その象徴とする花のごとく、四方の風に散りたる後もなおその香気をもって人生を豊富にし、人類を祝福するであろう」 世界はいま、政治、経済、社会と全面的に荒廃が進んでいる。人も国も金銭崇拝に走り、利害得失しか考えない。 (15)義勇仁や名誉は顧みられず、損得勘定のとなり果てた。 ここ数世紀の間、世界を引っ張ってきたのは欧米である。 ルネッサンス後、理性というものを他のどこの地域より(1)早く手にした欧米は、論理と合理を原動力として産��革命をなしとげ、以後の世界をリードした。論理と合理で突っ走ってきた世界だが、危機的な現状は論理や合理だけで人間はやっていけない、ということを物語っている。それらはとても大切だが、他に何かを加える必要がある。  (5)一人一人の日本人が武士道によりかつて世界の人々を印象づけた高い品格を備え、立派な社会を作れば、それは欧米など、荒廃の真因もわからず途方に暮れている諸国の大いに学ぶところとなる。これは小手先の国際貢献と異なる、普遍的価値の創造という真の国際貢献となるであろう。この意味で、戦後忘れられかけた武士道が今日蘇るとすれば、それは世界史的な意義をもつと思われる。
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fhzdn · 2 years ago
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活剐仇人3天3夜的孝子,手刃亲儿的忠臣,五代十国最完美的皇帝。
五代十国,50多位君主,只有他被誉为第一明主。 梁唐晋汉周,12位皇帝,无出其右。 无论对后周,还是对北宋,意义都极其重要的「先南后北」统一策略,究竟是怎么发生的? 欢迎来看《漫聊五代十国》的第15集:天妒英才。
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oniwastagram · 2 years ago
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📸桂宮邸跡庭園(京都市上京区) Katsuranomiya Garden, Kyoto ——The garden located in the northernmost part of the Kyoto Imperial Garden will open to the public in 2022. The garden was created at the end of the Edo period in the main residence of the Katsura Imperial Family, one of the "Four Imperial Princes" who built the Katsura Rikyu, a detached palace in Kyoto. ——京都御苑の最北に位置する庭園が2022年に一般公開開始! 『桂離宮』の造営者として知られる八条宮智仁親王を初代とする“四親王家”の皇族・桂宮家の本邸跡と、孝明天皇が仮皇居とした江戸時代末期に作庭された庭園の遺構。 『京都御所』のすぐ北、五摂家の邸宅跡で枝垂れ桜が有名な『近衛邸跡』のすぐ東に位置します。長らく閉ざされていましたが、2022年5月より一般公開が開始! ———————— ▼他の写真や解説のつづきは @oniwastagram のプロフURLかこのURLから。 For more photos and commentary, please visit @oniwastagram 's profile URL or this URL. https://oniwa.garden/katsuranomiya-kyoto/ ———————— #japanesegarden #japanesegardens #kyotogarden #zengarden #beautifulkyoto #jardinjaponais #jardinjapones #japanischergarten #jardimjapones #landscapedesign #kyototemple #kyototrip #kyototravel #庭院 #庭园 #庭園 #日本庭園 #京都庭園 #京都旅行 #京都観光 #孝明天皇 #京都御苑 #おにわさん (京都御苑 / Kyoutogyoen) https://www.instagram.com/p/Co4z9XIviqP/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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ari0921 · 2 years ago
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和五年(2023)5月8日(月曜日)弐
    通巻第7741号
 岸田訪韓を評価すべきだが、韓国の外交転換こそ注目だろう
  日本は安禄山の蜂起を三年知らなかった。これが歴史の教訓である 
************************
孝謙、淳仁、称徳、光仁天皇の時代において、日本の最大級の外交的変化は、渤海国からの度重なる使者の来駕である。
 渤海は高麗に替わって建国された。いまの北朝鮮である。渤海使は敵対した新羅の沖合をさけるため船は日本海を縦断し、出羽から越後、能登から若狭へ漂着することが多く、太宰府へ逐一回航して丁寧にもてなし、膨大な土産を持たせた。
 競うように新羅からも使節が太宰府へ入り、最初、大和朝廷は朝貢と受け取って歓待した。文書や使節の態度から判断しても、明らかに朝貢だった。日本の宿敵の国がころりと態度を変えて来日するのだから裏にナニカアルに違いない。
 実態は朝貢を装い日本の防衛体制を観察し、また大和王朝の政治空気を把握することにあった。情報収集である。
 新羅は次第に図に乗って官位の低い大使を派遣するようになった。態度も横柄、傍若無人の無礼を極めるようになったため新羅使は太宰府で留め置かれ追い返された。
新羅の態度が横柄尊大になった背景には唐が乱れ、安禄山が叛乱をおこし、国土は荒廃し、新羅に対しての軍事的な脅威にはならなかったからだ。大和朝廷はこの情報を三年ほど知らなかった。ということは新羅使は安禄山の乱を知っていながら大和朝廷には意図的につたえず日本の反応を確かめに来た可能性がある。日本のこうした情報戦の失態はいまと変わらない。つまり韓国の対日外交激変は裏にナニカアルのだ。
 天智天皇の御代、白村江の闘いで唐の海軍に敗れ、2100名の百済高官が日本に亡命した。天智天皇は水城と防塁、城を構築し、防人を強化したばかりか、各地22ヶ所に築城 防衛力を拡充し、新羅の侵攻に備えた。
 ところが、新羅は逆に日本が攻めてくると防衛態勢を急ぎ、「ご機嫌取り」のため「朝貢」を装い屡々来日した。
 天平宝字二年九月十八日に渤海使の小野朝臣田守らが帰朝し、渤海大使の輔国大将軍・行木ら二十三名を随行した。日本海側に帰着したので越前に滞在し、疫病感染の有無を調べるためニケ月を過ごす。
 帰国十日後に小野田守に従五位上を授け、ほかの随行員六十六人にも位階を授けた。 同年十二月十日、すなわち帰国から七十日後に小野朝臣田守は安禄山の謀反を伝えた。安禄山の挙兵は755年のことだから、なんと三年間、大和朝廷は唐の政変を知らなかったのである。
 ▲安禄山の乱が日本政治にいかなる変化をもたらしたか
 小野田守は次のように上奏した。
 天平勝宝七年の十一月九日に御史太夫兼氾陽節度使の安禄山が蹶起し、自らを大燕聖武皇帝と名乗り、邸宅を潜龍宮と名付けた上、年号を聖武と改元した。安禄山は二十万の兵力を率いて忽ち洛陽を落とした。翌六月に玄宗皇帝は難を避けるために蜀の成都(現在の四川省)へ避難した。
渤海に援軍要請があり、騎兵四万をもって賊徒を平定されたしと懇請された。渤海からだと安禄山の後方を攪乱できる。しかし渤海王は派兵要請を疑い、派兵を見送った。途中から安禄山の反乱に加わったのが史思明だ。だから「安史の乱」とも言う。
 玄宗側の反撃準備が整い、ようやく官軍が乱を平定し、玄宗は長安に戻った。逃亡途中では随行した兵隊たちに不穏の空気が流れたため玄宗は愛妃楊貴妃の自裁を認めざるを得ず、長安に復帰しても嘗ての政治力は失われていた。側近は朝衡(阿部仲麻呂の中国名)だった。
 
 かく上奏した小野田守とて、まだ安禄山が部下に殺害されたという情報を知らなかった。渤海もその後の情報を隠匿したわけではなく長安に派遣した情報員が戻らず実情をつかんでいなかった。
 唐土の異変を知った大和朝廷は太宰府に勅して「安禄山は凶暴なる胡人(ソグド人だが、当時は「胡」と称した)、狡猾である。天命に背いた反乱は必ず失敗するが、寧ろ海東へ兵を進める華もしれず、この緊迫状況を太宰府はよく理解し、たとえ安禄山が来航せずとも防衛を怠るな」とした。
 怡土城築城を任された吉備真備は工事に力を入れ、また京では渤海使の歓待宴が続いた。淳仁天皇はかれらに位階をあたえ、藤原仲麻呂は自邸で宴を催し、賑やかにもてなしたうえ夥しい土産を持たせた。
 この時に大和朝廷を支配した空気は唐が衰弱し、渤海が北から協力して新羅を挟み撃ち出来ないか、今こそチャンスではないかということだった。これは当時権力の頂点にいた藤原仲麻呂の情勢認識に欠陥があったということである。 
 
 ▲むしろ韓国がなぜ外交舵取りを変えたかの背景に謎がある。
 北朝鮮内部で何かが起きている。あるいは静かに秘密裏に中国が北への態度をかえたことを韓国が気づいた。米国からも精度高い情報を得て、日本とは修好する時期だとの判断があった。また従来の反日路線は、北朝鮮が情報操作していた。
 さて岸田首相の訪韓である。
 5月7日、アフリカ四カ国歴訪を終えて帰国したばかりの岸田首相はソウルへ飛んだ。
 ソウルの大統領府で 尹錫悦(ユンソンニョル)大統領と会談し、「元徴用工(旧朝鮮半島出身労働者)」の訴訟問題など日韓両国の課題に向き合い、関係改善を加速させる方針で一致した。
首相は会談で元徴用工問題に関し、「厳しい環境の下で多数の方々が大変苦しい、悲しい思いをされたことに心が痛む思いだ」と述べた。
 日本がこれまでの態度を軟化させたのは財産請求権である。
 1965年の日韓請求権協定で「完全に解決済み」とされたが、つねに韓国が蒸し返してきた。
ところが尹政権となって提示してきた徴用工訴訟問題の解決策で突然活路が開けた。岸田首相は「おわび」「反省」は口にせず、尹大統領も謝罪を求めることはしなかった。
 外務省幹部は「大きな前進。文在寅(ムン・ジェイン)政権では実現しなかっただろう」とする。
韓国大統領は「共通の利益」のために歴史問題と切り離して協力を進めるべきだと言い切った。
(資料編に続く。10分後に配信します)
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mxargent · 1 year ago
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"Kill them with kindness" Wrong. CURSE OF MINATOMO NO YORITOMO
アイウエオカキクケコガギグゲゴサシスセソザジズゼゾタチツテトダ ヂ ヅ デ ドナニヌネノハヒフヘホバ ビ ブ ベ ボパ ピ プ ペ ポマミムメモヤユヨrラリルレロワヰヱヲあいうえおかきくけこさしすせそたちつてとなにぬねのはひふへほまみむめもやゆよらりるれろわゐゑを日一国会人年大十二本中長出三同時政事自行社見月分議後前民生連五発間対上部東者党地合市業内相方四定今回新場金員九入選立開手米力学問高代明実円関決子動京全目表戦経通外最言氏現理調体化田当八六約主題下首意法不来作性的要用制治度務強気小七成期公持野協取都和統以機平総加山思家話世受区領多県��進正安設保改数記院女初北午指権心界支第産結百派点教報済書府活原先共得解名交資予川向際査勝面委告軍文反元重近千考判認画海参売利組知案道信策集在件団別物側任引使求所次水半品昨論計死官増係感特情投示変打男基私各始島直両朝革価式確村提運終挙果西勢減台広容必応演電歳住争談能無再位置企真流格有疑口過局少放税検藤町常校料沢裁状工建語球営空職証土与急止送援供可役構木割聞身費付施切由説転食比難防補車優夫研収断井何南石足違消境神番規術護展態導鮮備宅害配副算視条幹独警宮究育席輸訪楽起万着乗店述残想線率病農州武声質念待試族象銀域助労例衛然早張映限親額監環験追審商葉義伝働形景落欧担好退準賞訴辺造英被株頭技低毎医復仕去姿味負閣韓渡失移差衆個門写評課末守若脳極種美岡影命含福蔵量望松非撃佐核観察整段横融型白深字答夜製票況音申様財港識注呼渉達良響阪帰針専推谷古候史天階程満敗管値歌買突兵接請器士光討路悪科攻崎督授催細効図週積丸他及湾録処省旧室憲太橋歩離岸客風紙激否周師摘材登系批郎母易健黒火戸速存花春飛殺央券赤号単盟座青破編捜竹除完降超責並療従右修捕隊危採織森競拡故館振給屋介読弁根色友苦就迎走販園具左異歴辞将秋因献厳馬愛幅休維富浜父遺彼般未塁貿講邦舞林装諸夏素亡劇河遣航抗冷模雄適婦鉄寄益込顔緊類児余禁印逆王返標換久短油妻暴輪占宣背昭廃植熱宿薬伊江清習険頼僚覚吉盛船倍均億途圧芸許皇臨踏駅署抜壊債便伸留罪停興爆陸玉源儀波創障継筋狙帯延羽努固闘精則葬乱避普散司康測豊洋静善逮婚厚喜齢囲卒迫略承浮惑崩順紀聴脱旅絶級幸岩練押軽倒了庁博城患締等救執層版老令角絡損房募曲撤裏払削密庭徒措仏績築貨志混載昇池陣我勤為血遅抑幕居染温雑招奈季困星傷永択秀著徴誌庫弾償刊像功拠香欠更秘拒刑坂刻底賛塚致抱繰服犯尾描布恐寺鈴盤息宇項喪伴遠養懸戻街巨震願絵希越契掲躍棄欲痛触邸依籍汚縮還枚属笑互複慮郵束仲栄札枠似夕恵板列露沖探逃借緩節需骨射傾届曜遊迷夢巻購揮君燃充雨閉緒跡包駐貢鹿弱却端賃折紹獲郡併草徹飲貴埼衝焦奪雇災浦暮替析預焼簡譲称肉納樹挑章臓律誘紛貸至宗促慎控贈智握照宙酒俊銭薄堂渋群銃悲秒操携奥診詰託晴撮誕侵括掛謝双孝刺到駆寝透津壁稲仮暗裂敏鳥純是飯排裕堅訳盗芝綱吸典賀扱顧弘看訟戒祉誉歓勉奏勧騒翌陽閥甲快縄片郷敬揺免既薦隣悩華泉御範隠冬徳皮哲漁杉里釈己荒貯硬妥威豪熊歯滞微隆埋症暫忠倉昼茶彦肝柱喚沿妙唱祭袋阿索誠忘襲雪筆吹訓懇浴俳童宝柄驚麻封胸娘砂李塩浩誤剤瀬趣陥斎貫仙慰賢序弟旬腕兼聖旨即洗柳舎偽較覇兆床畑慣詳毛緑尊抵脅祝礼窓柔茂犠旗距雅飾網竜詩昔繁殿濃翼牛茨潟敵魅嫌魚斉液貧敷擁衣肩圏零酸兄罰怒滅泳礎腐祖幼脚菱荷潮梅泊尽杯僕桜滑孤黄煕炎賠句寿鋼頑甘臣鎖彩摩浅励掃雲掘縦輝蓄軸巡疲稼瞬捨皆砲軟噴沈誇祥牲秩帝宏唆鳴阻泰賄撲凍堀腹菊絞乳煙縁唯膨矢耐恋塾漏紅慶猛芳懲郊剣腰炭踊幌彰棋丁冊恒眠揚冒之勇曽械倫陳憶怖犬菜耳潜珍
“kill them with kindness” Wrong. CURSE OF RA 𓀀 𓀁 𓀂 𓀃 𓀄 𓀅 𓀆 𓀇 𓀈 𓀉 𓀊 𓀋 𓀌 𓀍 𓀎 𓀏 𓀐 𓀑 𓀒 𓀓 𓀔 𓀕 𓀖 𓀗 𓀘 𓀙 𓀚 𓀛 𓀜 𓀝 𓀞 𓀟 𓀠 𓀡 𓀢 𓀣 𓀤 𓀥 𓀦 𓀧 𓀨 𓀩 𓀪 𓀫 𓀬 𓀭 𓀮 𓀯 𓀰 𓀱 𓀲 𓀳 𓀴 𓀵 𓀶 𓀷 𓀸 𓀹 𓀺 𓀻 𓀼 𓀽 𓀾 𓀿 𓁀 𓁁 𓁂 𓁃 𓁄 𓁅 𓁆 𓁇 𓁈 𓁉 𓁊 𓁋 𓁌 𓁍 𓁎 𓁏 𓁐 𓁑 𓀄 𓀅 𓀆
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victor6699 · 5 days ago
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感謝關渡宮玉皇大帝三官大帝,南北斗星君太陽太陰星君祝我龍年資金交易順利,逢凶化吉,財源廣進
感謝關渡宮玉皇大帝三官大帝,南北斗星君太陽太陰星君祝我龍年資金交易順利,逢凶化吉,財源廣進
玉皇大帝
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東華帝君東華帝君又稱東王公、東君、木公、東王父、扶桑大帝、少陽帝君、紫府少陽君,元世祖至元6年(1269)時其受詔封為「東華紫府少陽帝君」,明清時道書《太上無極蒼墟東華王公木父寶懺》則稱之為「東華大司命少陽帝主王公木父天尊」。
瑤池金母瑤池金母又稱王母娘娘,在民間傳說中,王母娘娘是玉皇上帝的正宮娘娘。根據道教的神仙譜系來看,祂是眾女仙的總首領,名為西王母,號九靈太妙龜山金母,又號太虛九光龜台金母元君。相傳王母娘娘居住在瑤池,是以有瑤池聖母、瑤池金母等稱,此外尚有西華金母、金母娘娘、無極瑤池金母等俗稱,信眾簡稱為金母、母娘。
臺北關渡宮一樓正殿奉祀天上聖母、觀世音菩薩、文昌帝君。左側有「關渡延平郡王祠」,奉祀延平郡王與其屬神三位將軍,其原廟在1961年風災摧毀,檀越遷廟於此,意同於本廟的側殿。右側奉祀建廟大德。旁殿奉祀藥師佛、阿彌陀佛、觀音菩薩、大勢至菩薩等。二樓的「廣渡寺」奉祀西方三聖、地藏菩薩與信徒安奉的祖先牌位。
後殿奉祀玉皇大帝、三官大帝、東華帝君、瑤池金母、南斗星君、北斗星君等。
古佛洞奉祀千手觀音、羅漢、四大天王、天龍八部廿八位護法神等。財神洞奉祀財神、福德正神等。兩洞宗教雕塑繁多,為關渡宮一大殊景,頗為可觀。
九天玉皇公。人皇氏聖人。捨身堵北缺。代存萬眾生。萬眾大恩典。功德無量深。生平心仁義。
性行道德深。刻已代眾生。救世功德成。靈魂萬年顯。天日永保留。萬教拜帝心。大仁大義成。
精神在九天。心仍救世存。上天為帝主。勸善天下人。帝命太白星。星君下凡塵。奉旨降筆寫。
分為三段經。上中下三節。一切皆降筆。原文用白話。五字成聖經。名稱聖源覺。即是玉皇經。
孝弟兼忠信。禮義及廉恥。玉皇大帝心。道行八種禮。聖文傳凡世。誦念神鬼欽。老少誦奉行。
萬事皆清平。天下分三界。由帝手判公。目視如電閃。不得漏亳分。左右兩旁立。慈苦大法童。
生平自割肉。為藥濟貧窮。身佩七寶帶。無極變化���。手執雙龍劍。擁護玉皇公。南斗北斗星。
玉皇用大臣。凡間生死事。兩尊星君分。五雷大將軍。聲威震西東。鎮兵千百萬。一切協天兵。
儒釋道教理。仁慈道德心。三教皆平等。一切皈命禮。九重天外聖。地中五嶽神。一切聽號令。
萬方土地遵。聖源覺真經。日月星同存。經文動天日。正氣禺古留。萬教經中寶。無極最上經。
能超凡入聖。可超度亡人。玉皇威靈顯。仁義道德心。仁義昭日月。道德天同存。解化千萬劫。
超度萬眾生。一切救世心。普救眾生存。上中下聖文。萬教經中源。神聖佛仙道。傳教第一遍。
真心誦皇經。福神到家庭。早晚焚香念。出入多貴人。上段聖源覺。常念化災星。諸仙佛法大。
擁護誦皇經。中段聖源覺。上天消息文。天地降帝生。就是玉皇公。玉皇大帝名。人人稱天公。
生平動天日。萬教皆遵從。金闕正殿坐。總管善惡文。頭戴金皇冠。身穿金龍袍。體高丈二尺。
眉目清秀幼。五子鬚端正。壯嚴是天然。大慈大悲心。變出聖源覺。略說上天理。人人皆未明。
宇宙大空中。變化萬星球。億億里一只。人物無一定。每球皆不等。有時破裂分。銀河更加遠。
將近九天門。上天無早晚。時時皆光明。只見太陽光。照耀萬星球。地球在中間。凡塵在地球。
一切天變化。個個有帝名。天下文明世。萬教各眾神。一切法力大。可過外星球。外球說不盡。
天氣物不同。無非有道德。可住萬星球。天地變化生。皆由上空中。上天一切事。玉皇手中分。
太陽日光照。照耀眾生存。陰陽循環轉。變化日日新。月星眾生寶。天氣眾生根。慈雲降甘雨。
由帝各星辰。寒來暑往氣。春夏秋冬時。一年四季節。方便耕種分。凡間混沌開。人獸混草木。
奪食其肉血。赤身露體宿。其世無知恥。亦無親屬分。只是未開化。一切亂行為。帝慈心不忍。
即命各星宿。下凡再出世。教人開化心。古時到現今。歷代創造人。一切帝王侯。及且領導人。
上天各星宿。皆是帝降生。國家興亡運。代代由帝分。九天威靈顯。至今救世存。一片大慈悲。
勿聽異說求。家中安玉皇。必遵聖源覺。必須行仁義。性要道德存。國家百般律。勿犯規矩方。
勤勞增生產。玉皇最喜歡。信仰聖源覺。保佑自己身。在家或出外。事事定聯陞。經中法語正。
降神驅鬼語。妖魔必下拜。諸邪定潛逃。皇經存家中。可避諸邪崇。鎮宅及押煞。潔淨保留存。
中段聖源覺。一切降福臨。玉皇心慈善。有求皆必應。  誦畢用三拱手禮
下段聖源覺。玉皇天理經。慈善並仁義。勤學記在心。每日念一轉。運限定光明。玉皇行仁義。
多誦五福臨。殺身成仁性。捨身取義心。孔盂留句話。須當訪聖人。男女少年入。細心聽聖經。
勤學聖賢話。榮華必護身。父母生我身。長大須成人。為子須孝順。孝順敬天日。雙親最大恩。
本身為天日。倘若罵爺娘。只是逆天日。貳拾肆孝賢。存留在上天。古人行孝順。孝順感動天。
共住勿異心。父慈子孝順。兄寬弟忍和。百福此推尋。靜座思已過。勿談閒事非。說人過量話。
自然有天理。言多必有失。出口勿傷人。若不養心性。定遭苦難尋。平風作波浪。無形生事非。
使人傷心恨。凶星禍懸眉。高聲說話醜。謹戒惡言語。毒罵或發誓。皆是報自己。性烈多事件。
禍難百般有。仇敵定重重。切須再三忍。口角與訟事。勝敗皆空虛。忍氣留財福。凡事天必知。
性善人人欽。寬和萬事成。原諒是仁義。自戒性烈心。天理聖源覺。勸善世上人。仁義道德全。
人生主要根。米麥豆薯粟。入生重要物。不可亂消耗。須念來不易。粥飯人生命。無食不生存。
雖然土上生。須念生長難。畜生亦如是。不可多殺生。有理必要用。方可殺生命。無理亂消耗。
上天有罪名。萬物天地變。多耗必有折。善惡無形影。視之亦無蹤。吸之無別味。虛空過往有。
玉皇恩愛深。句句勸人心。愛民如愛己。天無兩樣心。人生在世間。謹守為最先。若不從正業。
差錯在眼前。嫖賭自賤身。財帛天數定。家和為第一。勤勞值千金。癡心狂賭難。傾家又蕩產。
誦念早日改。妻兒樂團圓。人人雖有過。知者須改心。一切已差錯。須當教子孫。經中行道德。
人生要將心。凡事將心念。萬事福自尋。將心人為本。立身孝順心。上天循環理。不將事難成。
為人不將心。不將害本身。一切禍難有。罪惡自已尋。結交須大義。共事勿私心。凡事利已念。
心高誤本身。福不在財多。財多不是福。福在子孫賢。子孫賢是福。榮華富貴家。不可自誇華。
驕傲多薄福。心仁福增加。奢華是枝花。不如多施捨。善有善來報。天增是豪華。窮人勿灰心。
心灰事難成。勤儉守本分。富貴必輪流。爛茅一般級。福在自己修。身中無寸土。只要心德修。
善事無防作。惡事早改修。貧苦有善念。天須化貴人。生平無愧惡。神欽鬼敬扶。行為心德正。
萬教盡皆通。修橋施路功。良藥濟貧窮。常作大善事。定為動天公。為善最安樂。為惡天不容。
過去有不法。結果如何休。生平有愧惡。切須改善心。若不早日改。鬼祟必纏身。行為無良心。
貪心煩惱有。奸刁終害己。早改得自由。天地變化人。善惡出在心。善事門戶福。惡者罪狀深。
男女向前程。保守好光陰。在世仁為本。子孫孝順心。惡者心不仁。有過改維新。前途事業遠。
須防退步身。狼毒梟惡心。差錯自改修。暗中用計較。必遭天理尋。糊行罪萬般。謀為事事難。
妻離及子散。子逆做人難。天地循環理。罰罪一世為。急急回心故。陰功早日修。勿為天聾啞。
報應或早遲。賞善罰罪惡。時時記在心。經中照天理。誦後須保存。圖書再刻板。扶持萬古留。
皇經傳天下。教人道德存。救世天必見。勸善大有功。積善之家庭。上天降吉祥。玉皇增福壽。
子孫世代昌。百本傳刻印。謀為貴人扶。三五百本印。小人久病除。千本印刻者。榮華代代存。
合群印皇經。積福到家門。印經或抄寫。皆是作陰功。玉皇心仁義。不虧施經人。樂助發善心。
福壽定延齡。施經種福田。惡煞不侵身。一生念千遍。凡謀皆吉祥。一生念皇經。百年昇天堂。
玉皇心印經。變成聖源覺。人人亦可念。天增彊壽長。     誦畢用三拱手禮
                                                                                                                                   玉皇聖源覺真經    終
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wangwill66 · 7 days ago
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人無再少年
H:戲曲作家關漢卿《竇娥冤》:「花有重開日,人無再少年。不須長富貴,安樂是神仙」。撫今思昔,少年已過,未來又規劃了什麼?現在又在忙什麼?語本宋.蘇軾〈送安惇秀才失解西歸〉詩:「舊書不厭百回讀,熟讀深思子自知。」舊日時再追憶,深刻腦中百轉千回,美好的只在心深處流轉,未來仍需再創天堂仙境。20250120W1
網路資料:
戲曲作家關漢卿《竇娥冤》:「花有重開日,人無再少年。不須長富貴,安樂是神仙」。
「少年,總會讓人聯想到青春、美好、戀愛等詞彙。歲月是把刀,鋒利且迅速,人還沒有反應過來時,身上便被刻下了歲月的痕跡。」
語本宋.蘇軾〈送安惇秀才失解西歸〉詩:「舊書不厭百回讀,熟讀深思子自知。」形容文章寫得好,百看不煩,耐人尋味。如:「《紅樓夢》是一本百讀不厭的古典小說。」
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送安惇秀才失解西歸
作者:蘇軾 北宋送任伋通判黃州兼寄其兄孜→本作品收錄於《東坡全集/卷002‎》
姊妹計劃: 數據項
舊書不厭百回讀,熟讀深思子自知。
他年名宦恐不免,今日棲遲那可追。
我昔家居斷還往,著書不復窺園葵。
朅來東遊慕人爵,棄去舊學從兒嬉。
狂謀謬算百不遂,惟有霜鬢來如期。
故山松柏皆手種,行且拱矣歸何時。
萬事早知皆有命,十年浪走寧非癡。
與君未可較得失,臨別惟有長嗟咨。
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竇娥冤
經典名句
花有重開日,人無再少年。不須長富貴,安樂是神仙。
我做官人勝別人,告狀來的要金銀;若是上司當刷卷,在家推病不出門。
為善的受貧窮更命短,造惡的享富貴又壽延。天地也!做得個怕硬欺軟,卻原來也這般順水推船。地也,你不分好歹何為地!天也,你錯勘賢愚枉做天!哎,只落得兩淚漣漣。
你道是天公不可期,人心不可憐,不知皇天也可從人願。做甚麽三年不見甘霖降?也只為東海曾經孝婦冤。如今輪到你山陽縣。這都是官吏每無心正法,使百姓有口難言。[3
竇娥冤
感天動地竇娥冤
作者:關漢卿 元維基百科條目:竇娥冤
楔子
編輯
〔卜兒蔡婆上,詩云〕花有重開日,人無再少年。不須長富貴,安樂是神仙。老身蔡婆婆是也,楚州人氏,嫡親三口兒家屬。不幸夫主亡逝已過,止有一箇孩兒,年長八歲,俺娘兒兩箇,過其日月,家中頗有些錢財。這裏一箇竇秀才,從去年問我借了二十兩銀子,如今本利該銀四十兩。我數次索取,那竇秀才只說貧難,沒得還我。他有一箇女兒,今年七歲,生得可喜,長得可愛,我有心看上他,與我家做箇媳婦,就准了這四十兩銀子,豈不兩得其便。他說今日好日辰,親送女兒到我家來,老身且不索錢去,專在家中等候,這早晚竇秀才敢待來也。〔沖末扮竇天章引正旦扮端雲上,詩云〕讀盡縹緗萬卷書,可憐貧殺馬相如,漢庭一日承恩召,不說當罏說子虛。小生姓竇,名天章,祖貫長安京兆人也。幼習儒業,飽有文章;爭柰時運不通,功名未遂。不幸渾家亡化已過,撇下這箇女孩兒,小字端雲,從三歲上亡了他母親,如今孩兒七歲了也。小生一貧如洗,流落在這楚州居住。此間一箇蔡婆婆,他家廣有錢物;小生因無盤纏,曾借了他二十兩銀子,到今本利該對還他四十兩。他數次問小生索取,教我把甚麼還他?誰想蔡婆婆常常著人來說,要小生女孩兒做他兒媳婦。況如今春榜動,選場開,正待上朝取應,又苦盤纏缺少。小生出於無柰,只得將女孩兒端雲送與蔡婆婆做兒媳婦去。〔做嘆科,雲〕嗨!這箇那裏是做媳婦?分明是賣與他一般。就准了他那先借的四十兩銀子,分外但得些少東西,勾小生應舉之費,便也過望了。說話之間,早來到他家門首。婆婆在家麼?〔卜兒上,雲〕秀才,請家裏坐,老身等候多時也。〔做相見科。竇天章雲〕小生今日一徑的將女孩兒送來與婆婆,怎敢說做媳婦,只與婆婆早晚使用。小生目下就要上朝進取功名去,留下女孩兒在此,只望婆婆看覷則箇。〔卜兒雲〕這等,你是我親家了。你本利少我四十兩銀子,兀的是借錢的文書,還了你;再送與你十兩銀子做盤纏。親家,你休嫌輕少。〔竇天章做謝科,雲〕多謝了婆婆,先少你許多銀子,都不要我還了,今又送我盤纏,此恩異日必當重報。婆婆,女孩兒早晚呆癡,看小生薄面,看覷女孩兒咱。〔卜兒雲〕親家,這不消你囑付,令愛到我家,就做親女兒一般看承他,你只管放心的去。〔竇天章雲〕婆婆,端雲孩兒該打呵,看小生面則罵幾句;當罵呵,則處分幾句。孩兒,你也不比在我跟前,我是你親爺,將就的你;你如今在這裏,早晚若頑劣呵,你只��那打罵喫。兒嚛,我也是出於無柰。〔做悲科,唱〕
【仙呂•賞花時】我也只為無計營生四壁貧,因此上割捨得親兒在兩處分。從今日遠踐洛陽塵,又不知歸期定准,則落的無語闇消魂。 〔下〕
〔卜兒雲〕竇秀才留下他這女孩兒與我做媳婦兒,他一徑上朝應舉去了。〔正旦做悲科,雲〕爹爹,你直下的撇了我孩兒去也!〔卜兒雲〕媳婦兒,你在我家,我是親婆,你是親媳婦,只當自家骨肉一般。你不要啼哭,跟著老身前後執料去來。〔同下〕
第一折
第二折
第三折
第四折
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《莊子.知北遊》
人生天地之間,若白駒之過郤,忽然而已。注然勃然,莫不出焉;油然漻然,莫不入焉。已化而生,又化而死,生物哀之,人類悲之。解其天弢,墮其天𧙍,紛乎宛乎,魂魄將往,乃身從之,乃大歸乎!
莊子說:「人生天地之間,若白駒之過郤,忽然而已。」其中 「郤(ㄒㄧˋ)」通「隙」,整句話則是感嘆人停留在天地間的時間如此短暫,生命消逝之疾速,就像白駒那樣快速奔馳過狹小縫隙。但另有人以為,莊子話中的「白駒」指的是白色的「駒影」,也就是日影,「白駒過郤」則是指白色的日影移動迅速,從縫隙中一閃而逝。其實無論「白駒」是白色駿馬,或是白色日影,整個詞語的比喻義都是相同的。後來「白駒過隙」這句成語就從這裡演變而出,用來比喻時間過得很快。
例如在《三國演義》第一○七回中,蜀漢名將姜維曾說:「人生如白駒過隙,似此遷延歲月,何日恢復中原乎?」姜維跟隨諸葛亮北伐四次,以一統中原為志業,此話中便表達出他的急切,似乎唯恐時間過得太快,志業未竟而身先死。
後來在《金瓶梅詞話》第二回中亦有:「白駒過隙,日月攛梭,纔見梅開臘底,又早天氣回陽。」同樣是用「白駒過隙」來說時光流逝、時令變遷之疾速。
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金瓶梅詞話第二回
11 
打開字典
白駒過隙,日月如梭,才見梅開臘底,又早天氣回陽。一日,三月春光明媚時分,金蓮打扮光鮮,單等武大出門,就在門前簾下站立。約莫將及他歸來時分,便下了帘子,自去房內坐的。一日也是合當有事,卻有一個人從帘子下走過來。自古沒巧不成話,姻緣合當湊著。婦人正手裡拿著叉竿放帘子,忽被一陣風將叉竿颳倒,婦人手擎不牢,不端不正卻打在那人頭上。婦人便慌忙陪笑,把眼看那人,也有二十五六年紀,生得十分浮浪。頭上戴著纓子帽兒,金鈴瓏簪兒,金井玉欄桿圈兒;長腰才,身穿綠羅褶兒;腳下細結底陳橋鞋兒,清水布襪兒;手裡搖著灑金川扇兒,越顯出張生般龐兒,潘安的貌兒。可意的人兒,風風流流從帘子下丟與個眼色兒。這個人被叉竿打在頭上,便立住了腳,待要發作時,回過臉來看,卻不想是個美貌妖嬈的婦人。但見他黑鬒鬒賽鴉鴒的鬢兒,翠彎彎的新月的眉兒,香噴噴櫻桃口兒,直隆隆瓊瑤鼻兒,粉濃濃紅艷腮兒,嬌滴滴銀盆臉兒,輕裊裊花朵身兒,玉纖纖蔥枝手兒,一捻捻楊柳腰兒,軟濃濃粉白肚兒,窄星星尖翹腳兒,肉奶奶胸兒,白生生腿兒,更有一件緊揪揪、白鮮鮮、黑裀裀,正不知是甚麼東西。觀不盡這婦人容貌。且看他怎生打扮?但見:
打開字典
頭上戴著黑油油頭髮鬏髻,一逕里縶出香雲,周圍小簪兒齊插。斜戴一朵並頭花,排草梳兒後押。難描畫,柳葉眉襯著兩朵桃花。玲瓏墜兒最堪誇,露來酥玉胸無價。毛青布大袖衫兒,又短襯湘裙碾絹紗。通花汗巾兒袖口兒邊搭剌。香袋兒身邊低掛。抹胸兒重重紐扣香喉下。往下看尖翹翹金蓮小腳,雲���巧緝山鴉。鞋兒白綾高底,步香塵偏襯登踏。紅紗膝褲扣鶯花,行坐處風吹裙跨。口兒里常噴出異香蘭麝,櫻桃口笑臉生花。人見了魂飛魄喪,賣弄殺俏冤家。
三國演義/第107回
三國演義
目錄三國演義◀上一回第百零七回 魏主歸政司馬氏 姜維兵敗牛頭山下一回▶
  卻說司馬懿聞曹爽同弟曹羲、曹訓、曹彥並心腹何晏、鄧颺、丁謐、畢範、李勝等及御林軍,隨魏主曹芳,出城謁明帝墓,就去畋獵。懿大喜,即到省中,令司徒高柔,假以節鉞行大將軍事,先據曹爽營;又令太僕王觀行中領軍事,據曹羲營。懿引舊官入後宮奏郭太后,言爽背先帝託孤之恩,奸邪亂國,其罪當廢。郭太后大驚曰:「天子在外,如之奈何?」懿曰:「臣有奏天子之表,誅奸臣之計,太后勿憂。」太后懼怕,只得從之。懿急令太尉蔣濟、尚書令司馬孚,一同寫表,遣黃門齎出城外,逕至帝前申奏。懿自引大軍據武庫。早有人報知曹爽家。其妻劉氏急出廳前,喚守府官問曰:「今主公在外,仲達起兵何意?」守門將潘舉曰:「夫人勿驚,我去問來。」乃引弓弩手數十人,登門樓望之。正見司馬懿引兵過府前,舉令人亂箭射下,懿不得過。偏將孫謙在後止之曰:「太傅爲國家大事,休得放箭。」連止三次,舉方不射。司馬昭護父司馬懿而過,引兵出城屯於洛河,守住浮橋。
  且說曹爽手下司馬魯芝,見城中事變,來與參軍辛敞商議曰:「今仲達如此變亂,將如之何?」敞曰:「可引本部兵出城去見天子。」芝然其言。敞急入後堂。其姊辛憲英見之,問曰:「汝有何事,慌速如此?」敞告曰:「天子在外,太傅閉了城門,必將謀逆。」憲英曰:「司馬公未必謀逆,特欲殺曹將軍耳。」敞驚曰:「此事未知如何?」憲英曰:「曹將軍非司馬公之對手,必然敗矣。」敞曰:「那日司馬教我同去,未知可去否?」憲英曰:「職守,人之大義也。凡人在難,猶或卹之。執鞭而棄其事,不祥莫大焉。」敞從其言,乃與魯芝引數十騎,斬關奪門而出。
  人報知司馬懿。懿恐桓範亦走,急令人召之。範與其子商議。其子曰:「車駕在外,不如南出。」範從其言,乃上馬至平昌門,城門已閉,把門將乃桓範舊吏司蕃也。範袖中取出一竹版曰:「太后有詔,可即開門。」司蕃曰:「請詔驗之。」範叱曰:「汝是吾故吏,何敢如此!」蕃只得開門放出。範出到城外,喚司蕃曰:「太傅造反,汝可速隨我去。」蕃大驚,追之不及。人報知司馬懿。懿大驚曰:「智囊洩矣!如之奈何?」蔣濟曰:「駑馬戀棧豆,必不能用也。」懿乃召許允、陳泰曰:「汝去見曹爽,說太傅別無他事,只是削汝兄弟兵權而已。」許、陳二人去了。又召殿中校尉尹大目至;令蔣濟作書,與目持去見爽。懿分付曰:「汝與爽厚,可領此任。汝見爽說吾與蔣濟指洛水爲誓,只因兵權之事,別無他意。」尹大目依令而去。
  卻說曹爽正飛鷹走犬之際,忽報城內有變,太傅有表。爽大驚,幾乎落馬。黃門官捧表跪於天子之前。爽接表,拆封令近臣讀之。表略曰:
征西大都督太傅臣司馬懿,誠惶誠恐,頓首謹表:臣昔從遼東還,先帝詔陛下與秦王及臣等,升御床,把臣臂,深以後事爲念。今大將軍曹爽,背棄顧命,敗亂國典;內則僭擬,外專威權;以黃門張當爲都監,專共交關;看察至尊,伺候神器;離間二宮,傷害骨肉;天下洶洶,人懷危懼:此非先帝詔陛下及囑臣之本意也。臣雖朽邁,敢忘往言?太尉臣濟、尚書臣孚等,皆以爽為有無君之心,兄弟不宜典兵宿衛,今奏永寧宮皇太后,令敕臣表奏施行。臣輒敕主者及黃門令,罷爽、羲、訓吏兵,以侯就第,不得逗遛,以稽車駕;敢有稽留,便以軍法從治,臣輒力疾將兵,屯於洛水浮橋,伺察非常。謹此上聞,伏干聖聽。
  魏主曹芳聽畢,乃喚曹爽曰:「太傅之言若此,卿如何裁處?」爽手足失措,回顧二弟曰:「為之奈何?」羲曰:「劣弟亦曾諫兄,兄執迷不聽,致有今日。司馬懿譎詐無比,孔明尚不能勝,況我兄弟乎?不如自縛見之,以免一死。」言未畢,參軍辛敞、司馬魯芝到。爽問之。二人告曰:「城中把得鐵桶相似,太傅引兵屯洛水浮橋,勢將不可復歸,宜早定大計。」正言間,司農桓範驟馬而至,謂爽曰:「太傅已變,將軍何不請天子幸許都,調外兵以討司馬懿耶?」爽曰:「吾等全家皆在城中,豈可投他處求援?」範曰:「匹夫臨難,尚欲望活!今主公身隨天子,號令天下,誰敢不應?豈可自投死地乎?」
  爽聞言不決,惟流涕而已。範又曰:「此去許都,不過半宿。城中糧草,足支數載。今主公別營軍馬,近在闕南,呼之即至。大司馬之印,某將在此。主公可急行,遲則休矣!」爽曰:「多官勿太催逼,待吾細細思之。」少頃,侍中許允、尚書令陳泰至。二人告曰:「太傅只為將軍權重,不過要削去兵權,別無他意。將軍可早歸城中。」爽默然不語。又只見殿中校尉尹大目至。目曰:「太傅指洛水為誓,並無他意。有蔣太尉書在此。將軍可削去兵權,早歸相府。」爽信為良言。桓範又告曰:「事急矣,休聽外言而就死地!」
  是夜曹爽意不能決,乃拔劍在手,嗟嘆尋思;自黃昏直流涕到曉,終是狐疑不定,桓範入帳催之曰:「主公思慮一晝夜,何尚不能決?」爽擲劍而嘆曰:「我不起兵,請願棄官,但為富家翁足矣!」範大哭,出帳曰:「曹子丹以智謀自矜,今兄弟三人,真豚犢耳!」痛哭不已。許允、陳泰令爽先納印綬與司馬懿。爽令將印送去。主簿楊綜扯住印綬而哭曰:「主公今日捨兵權自縛去降,不免東市受戮也。」爽曰:「太傅必不失信於我。」於是曹爽將印將綬與許、陳二人,先齎與司馬懿。眾軍見無將印,盡皆四散。爽手下只有數騎官僚。到浮橋時,懿傳令,教曹爽兄弟三人,且回私宅;餘皆發監,聽候敕旨。爽等入城時,並無一人侍從。桓範至浮橋邊,懿在馬上以鞭指之曰:「桓大夫何故如此?」範低頭不語,入城而去。
  於是司馬懿請駕拔營入洛陽。曹爽兄弟三人回家之後,懿用大鎖鎖門,令居民八百人圍守其宅。曹爽心中憂悶。羲謂爽曰:「今家中乏糧,兄可作書與太傅借糧。如肯以糧借我,必無相害之心。」爽乃作書令人持去。司馬懿覽書,遂遣人送糧一百斛,運至曹爽府內。爽大喜:「司馬公本無害我之心也!」遂不以為憂。
  原來司馬懿先將黃門張當捉下獄中問罪。當曰:「非我一人,更有何晏、鄧颺、李勝、畢範、丁謐等五人,同謀篡逆。」懿取了張當供詞,卻捉何晏等勘問明白,皆稱三月間欲反。懿用長枷釘了。城門守將司蕃,告稱桓範矯詔出城,口稱太傅謀反。懿曰:「誣人反情,抵罪反坐。」亦將桓範等皆下獄,然後押曹爽兄弟三人並一干人犯,皆斬於市曹,滅其三族;其家產財物,盡抄入庫。當時有曹爽從弟文叔之妻,乃夏侯令女也:早寡而無子,其父欲改嫁之,女截耳自誓。及爽被誅,其父復將嫁之,女又斷去其鼻。其家驚惶,謂之曰:「人生世間,如輕塵棲弱草,何至自苦如此?且夫家又被司馬氏誅戮已盡,守此欲誰爲哉?」女泣曰:「吾聞:『仁者不以盛衰改節,義者不以存亡易心。』曹氏盛時,尚欲保終;況今滅亡,何忍棄之?此禽獸之行,吾豈爲乎!」懿聞而賢之,聽使乞子自養,爲曹氏後。後人有詩曰:
弱草微塵盡達觀,夏侯有女義如山。丈夫不及裙釵節,自顧鬚眉亦汗顏。
  卻說司馬懿斬了曹爽,太尉蔣濟曰:「尚有魯芝、辛敞斬關奪門而出,楊綜奪印不與,皆不可縱。」懿曰:「彼各為其主,乃義人也。」遂復各人舊職。辛敞嘆曰:「吾若不問於姊,失大義矣!」後人有詩讚辛憲英曰:
為臣食祿當思報,事主臨危合盡忠。辛氏憲英曾勸弟,古今千載頌高風。
  司馬懿饒了辛敞等,仍出榜曉諭:但有曹爽門下一應人等,盡皆免死;有官者照舊復職;軍民各守家業。內外安堵。何、鄧二人死於非命,果應管輅之言。後人有詩讚管輅曰:
傳得聖賢真妙訣,平原管輅相通神。鬼幽鬼躁分何鄧,未喪先知是死人。
  卻說魏主曹芳封司馬懿爲丞相,加九錫。懿固辭不肯受。芳不准,令父子三人同領國事。懿忽然想起:「曹爽全家雖誅,尚有夏侯霸守備雍州等處,係爽親族,倘驟然作亂,如何隄備?必當處置。」即下詔使往雍州,取征西將軍夏侯霸赴洛陽議事。夏侯霸聽知,大驚,便引本部三千兵造反。有鎮守雍州剌史郭淮,聽知夏侯霸反,即率本部兵來,與夏侯霸交戰。淮出馬大罵曰:「汝既是大魏皇族,天子又不曾虧汝,何故背反?」霸亦罵曰:「吾祖父於國家多建勳勞,今司馬懿何等人,滅吾曹氏宗族,又來取我,早晚必思篡位。吾仗義討賊,何反之有?」淮大怒,挺槍驟馬,直取夏侯霸。霸揮刀縱馬來迎。戰不十合,淮敗走,霸隨後趕來。忽聽得後軍吶喊,霸急回馬時,陳泰引兵殺來。郭淮復回。兩路夾攻,霸大敗而走,折兵大半;尋思無計,遂投漢中來降後主。
  有人報與姜維,維心不信,令人體訪得實,方教入城。霸拜見畢,哭告前事。維曰:「昔微子去周,成萬古之名。公能匡扶漢室,無愧古人也。」遂設宴相待。維就席問曰:「今司馬懿父子掌握重權,有窺我國之志否?」霸曰:「老賊方圖謀逆,未暇及外。但魏國新有二人,正在妙齡之際,若使領兵馬,實吳、蜀之大患也。」維問:「二人是誰?」霸告曰:「一人見爲秘書郎,乃潁川長社人;姓鍾,名會,字士季;太傅鍾繇之子;幼有膽智。繇嘗率二子見文帝。會時年七歲,其兄毓年八歲。毓見帝惶懼,汗流滿面。帝問毓曰:『卿何以汗?』毓對曰:『戰戰惶惶,汗出如漿。』帝問會曰:『卿何以不汗?』會對曰:『戰戰慄慄,汗不敢出。』帝獨奇之。及稍長,喜讀兵書,深明韜略。司馬懿與蔣濟皆稱其才。一人見爲掾吏,乃義陽人也;姓鄧,名艾,字士載。幼年失父,素有大志。但見高山大澤,輒窺度指畫,何處可以屯兵,何處可以積糧,何處可以埋伏。人皆笑之,獨司馬懿奇其才,遂令參贊軍機。艾爲人口吃,每奏事必稱『艾,艾』。懿戲謂曰:『卿稱艾艾,當有幾艾?』艾應聲曰:『鳳兮鳳兮,故是一鳳。』其資性敏捷,大抵如此。二人深可畏也。」維笑曰:「量此孺子,何足道哉!」
  於是姜維引夏侯霸至成都,入見後主。維奏曰:「司馬懿謀殺曹爽,又來賺夏侯霸,霸因此投降。目今司馬懿父子專權,曹芳懦弱,魏國將危。臣在漢中有年,兵精糧足;臣願領王師,即以霸為鄉導官,進取中原,重興漢室,以報陛下之恩,以終丞相之志。」尚書令費禕諫曰:「近者,蔣琬、董允,皆相繼而亡,內治無人。伯約只宜待時,不宜輕動。」維曰:「不然,人生如白駒過隙,似此遷延歲月,何日恢復中原乎?」禕又曰:「孫子云:『知彼知己,百戰百勝。』我等皆不如丞相遠甚,丞相尚不能恢復中原,何況我等?」維曰:「吾久居隴上,深知羌人之心;今若結羌人為援,雖未能克復中原,自隴而西,可斷而有也。」後主曰:「卿既欲伐魏,可盡忠竭力,勿墮銳氣,以負朕命。」於是姜維領敕辭朝,同夏侯霸逕到漢中,計議起兵。維曰:「可先遣使去羌人處通盟,然後出西平,近雍州。先築二城於麴山之下,令兵守之,以為犄角之勢。我等盡發糧草於川口,依丞相舊制,次第進兵。」是年秋八月,先差蜀將句安、李歆同引一萬五千兵,往麴山前連築二城。句安守東城,李歆守西城。
  早有細作報與雍州剌史郭淮。淮一面申報洛陽,一面遣副將陳泰引兵五萬來麴山與蜀兵交戰。句安、李歆各引一軍出迎;因兵少不能抵敵,退入城中。泰令兵四面圍住攻打,又以兵斷其漢中糧道。句安、李歆城中糧缺。郭淮自引兵亦到,看了地勢,忻然而喜;回到寨中,乃與陳泰計議曰:「此城山勢高阜,必然水少,須出城取水;若斷其上流,蜀兵皆渴死矣。」遂令軍士掘土堰斷上流。城中果然無水。李歆引兵出城取水,雍州兵圍困甚急。歆死戰不能出,只得退入城去。句安城中亦無水,乃會了李歆,引兵出城,併在一處;大戰良久,又敗入城去。軍士枯渴。安與歆曰:「姜都督之兵,至今未到,不知何故。」歆曰:「我當捨命,殺出求救。」遂引數十騎,開了城門,殺將出來。雍州兵四面圍合,歆奮死衝突,方纔得脫;只落得獨自一人,身帶重傷,餘皆沒於亂軍之中。是夜北風大起,陰雲布合,天降大雪;因此,城內蜀兵分糧化雪而食。
  卻說李歆殺出重圍,從西山小路行了兩日,正迎著姜維人馬。歆下馬伏地告曰:「麴山二城,皆被魏兵圍困,絕了水道。幸得天降大雪,因此化雪度日。甚是危急。」維曰:「吾非救遲:為聚羌兵未到,因此誤了。」遂令人送李歆入川養病。維問夏侯霸曰:「羌兵未到,魏兵圍困麴山甚急,將軍有何高見?」霸曰:「若等羌兵到麴山,二城皆陷矣。吾料雍州兵,必盡來麴山攻打。雍州城定然空虛,將軍可引兵徑往牛頭山,抄在雍州之後。郭淮、陳泰必回救雍州,則麴山之圍自解矣。」維大喜曰:「此計最善!」於是姜維引兵望牛頭山而去。
  卻說陳泰見李歆殺出城去了,乃謂郭淮曰:「李歆若告急於姜維,姜維料吾大兵皆在麴山,必抄牛頭山襲吾之後。將軍可引一軍去取洮水,斷絕蜀兵糧道;吾分兵一半,逕往牛頭山擊之;彼若知糧道已絕,必然自走矣。」郭淮從之,遂引一軍暗取洮���。陳泰引一軍逕往牛頭山來。
  卻說姜維兵至牛頭山,忽聽得前軍發喊,報說魏兵截住去路。維慌忙自到軍前視之。陳泰大喝曰:「汝欲襲吾雍州!吾已等候多時了!」維怒,挺槍縱馬,直取陳泰。泰揮刀而迎。戰不三合,泰敗走。維揮兵掩殺。雍州兵退回。占住山頭。維收兵就牛頭山下寨。維每日令兵搦戰,不分勝負。夏侯霸謂姜維曰:「此處不是久停之所。連日交戰,不分勝負,乃誘兵之計耳,必有異謀。不如暫退,再作良圖。」正言間,忽報郭淮引一軍取洮水,斷了糧道。維大驚,急令夏侯霸先退。維自斷後。陳泰分兵五路趕來。維獨拒五路總口,戰住魏兵。泰勒兵上山,矢石如雨。維急退到洮水之時,郭淮引兵殺來。維引兵往來衝突。魏兵阻其去路,密如鐵桶。維奮死殺出,折兵大半,飛奔上陽平關來。前面又一軍殺到;為首一員大將,縱馬橫刀而出。那人生得圓面大耳,方口厚脣,左目下生個黑瘤,瘤上生數十根黑毛,乃司馬懿長子驃騎將軍司馬師也。維大怒曰:「孺子焉敢阻吾歸路!」拍馬挺槍,直來刺師。師揮刀相迎。只三合,殺敗了司馬師,維脫身逕奔陽平關來。城上人開門放入姜維。司馬師也來搶關,兩邊伏弩齊發,一弩發十矢,乃武侯臨終時所遺「連弩」之法也。正是:
難支此日三軍敗,獨賴當年十矢傳。
未知司馬師性命如何,且看下文分解。
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yotchan-blog · 11 days ago
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