#大阪 守口スタジオ
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moment-japan · 19 days ago
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1961年 映画「釈迦」
監督:三隅研次
脚本:八尋不二
舞台美術:伊藤熹朔
音楽:伊福部昭(演奏:東京交響楽団)
製作:大映(大映京都撮影所)
出演:本郷功次郎、チェリト・ソリス、勝新太郎、市川雷蔵、山本富士子、川口浩、中村玉緒、京マチ子、山田五十鈴、杉村春子、東野英治郎、中村鴈治郎、市川壽海、市田ひろみ、榊原舞踏団、大阪松竹歌劇���ほか
日本初の総天然色シネマスコープ70mmフィルムによって製作された釈迦の生涯を描いた作品。
「天上天下唯我独尊」
紀元前5世紀、インドのカビラ城でジッダ太子(釈迦)が生まれる。
ジッダが生まれた時、近くにいた修行僧のアシュダ仙人が、後にこの子が世界を救う人物になると予言する。
大人になったジッダ太子(釈迦)は結婚して幸せな毎日を送る中、お忍びで街を見て歩くと、そこには身分差別で虐げられる多くの平民の姿が・・。
それを見たジッダ太子は、貴族の王子である自身の恵まれた環境に疑問と無常感を覚え、悩んだ末に王の座を捨てて出家し、修行の旅に出る。
やがてジッダは菩提樹の下で6年間の瞑想の行に入ります。
厳しい修行と瞑想の最中、森からは様々な魔羅(釈迦が悟りを開く禅定に入った時に、瞑想を妨げるために現れたとされる悪魔)が現れ、悟りの邪魔をしようと太子を誘惑して攻めてきますが、そこに帝釈天の化身である村の女サヤが現れてジッダを助け、遂にジッダは悟りを開き釈迦(ブッダ)となります。
(このシーンが現代舞踏芸術のようで見応えがある)
村では赤ん坊をさらって殺すことを繰り返すカリティという女の夜叉が、釈迦の仏術によって自らの子供も同じ目に合わせられ悲しみに暮れる中、釈迦が現れ、殺生の愚かさを諭され改心して釈迦の重臣的な弟子となります。
干ばつの時には雨を降らせ、時には盲目の王子の眼に光を甦らさせ、釈迦の許には国中から教えを乞うて人々が集まるようになり、それに嫉妬した従兄のダイバ・ダッタはバラモン教・シュラダ行者の下で修業し神通力を得てブッダと壮絶な戦いをします。
ダイバ・ダッタが無実の罪で仏教徒を火刑の生贄にしようとするのを見た仏陀の怒りは奇跡を呼び、ダイバ・ダッタの造った神殿と共にダイバは地割れに呑みこまれていく・・。
もはや、釈迦が叶う相手ではないと悟ったダイバ・ダッタは涙を流しながら仏法の真理に降伏し釈迦の弟子となりました。
老いて、命もあとわずかとなった釈迦は、村の二本に並んだ沙羅双樹の間に横になり、
「比丘たちよ、今こそおまえたちに��げよう。諸行は滅びゆく。怠ることなく努めよ。」
との最後の言葉を弟子と信者に残し静かに入滅しました。
比丘とは:出家して具足戒(僧侶の守る戒律)を受けた修行者を指す言葉
釈迦役の本郷功次郎は悟りを開いた後、ほとんど姿を現さない独特な表現で描かれ、神々しさが倍増してました。
(確かに、こういうのってなかなかのセンスだよね)
のちに「五比丘」と呼ばれる一番弟子や十大弟子などの釈迦の高弟たちも登場します。
歌舞伎や新劇、大映スターなど、当時の人気俳優総出演の和製「スパルタカス」のような壮大な映画で、セットにも尋常じゃないくらいお金がかかっているのがわかります。
アニメーションもしばしば登場していますが、これはビープロダクションのうしおそうじ氏の作品だそうです。
精巧な作画を実景に合成する「作画合成」は、合成作画技師・渡辺善夫が担当。
「生合成」という特殊手法合成の第一人者です。
シネマスコープ70mmフィルムの現像は当時日本で出来なかったため、英国のロンドン・テクニカラー社のラボラトリーで現像。
(当時、相当金かかったろうな)
劇中音楽は京都のスタジオで録音され、こちらも英国の「RCA」スタジオでミキシング・トラックダウンされました。
(「RCA」って超一流スタジオじゃないですか!)
釈迦の生涯を描く大作映画の制作は国際的な話題となり米国の雑誌「タイム」誌の1961年8月11日号では、細かなシノプシスが紹介されたそうです。
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jinsei-pika-pika · 2 years ago
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「君たちはどう生きるか」宮崎駿監督が、新作映画について語っていたこと。そして吉野源三郎のこと
 宮崎駿監督の10年ぶりとなる長編アニメーション映画「君たちはどう生きるか」が、7月14日から全国で公開される。吉野源三郎の同名の著書とはまったく違うストーリーが展開されるという���外、詳細は伏せられたままだ。とある縁で宮崎監督に面会した筆者が、新作について監督が語っていた言葉や、鑑賞して感じたことなどを振り返った。(文:吉野太一郎)
「私自身、訳が分からない」  「おそらく、訳が分からなかったことでしょう。私自身、訳が分からないところがありました」。
 2023年2月下旬、東京都内のスタジオで上映された、「君たちはどう生きるか」の初号試写。米津玄師の歌うピアノバラードが流れ、エンドロールが終わった瞬間、灯りが点き、宮崎駿監督のコメントが読み上げられた。
 客席から軽い笑い声が漏れた。私もその一人だった。あまりの展開の速さと、盛り込むだけ盛り込まれた情報を消化しきれず、茫然と座り込んでいたが、その言葉で我に返った。
 これは「宮崎アニメ」の集大成なのか、吉野源三郎の著書『君たちはどう生きるか』の再解釈なのか。とにかく、1回見ただけではとても全容を把握できなかった。
「自分のことをやるしかない」  今回の作品は、公開前のプロモーションも、メディア関係者向けの試写も一切ないまま公開日を迎えた。異例の態勢の中、内容は無論、見たことすら口外無用のキャスト・スタッフ向け試写に、なぜ私と両親が呼ばれたのかといえば、父が『君たちはどう生きるか』の著者・吉野源三郎の長男で、私が孫にあたるからだ。
 その5年ほど前の2017年11月、父と私は東京・小金井のスタジオジブリに招かれ、宮崎監督と対面していた。さらにさかのぼること半月ほど前、とあるイベントで宮崎監督が突然、次回作のタイトルが「君たちはどう生きるか」だと明らかにし、ニュースなどで話題になっていた。親族としては寝耳に水だったのでかなり驚いたのだが、宮崎監督は「うっかり喋ってしまいました」と詫びた上で、作品について語り始めた。
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2017年11月、次回新作について父に話す宮崎駿監督。手元に、古びた吉野源三郎作『君たちはどう生きるか』が置かれていた=吉野太一郎撮影  小学生のとき、教科書に載っていた『君たちはどう生きるか』の冒頭部分に強い印象を受けたという宮崎監督は、年季の入った同書をスタジオに持参していた。若い制作スタッフにも読むよう勧めたところ「この本はまだ生きているね」と好評だったといい、作品のタイトルを決める段になって、一人が「『君たちはどう生きるか』がいい」と提案したのだという。制作は当時まだ始まったばかりだったが、映画の序盤とラストシーンにこの本が登場することも、宮崎監督は既に決めていた。
 宮崎監督によれば、引退宣言を撤回して臨んだ今回の作品は「ずっと自分が避けてきたこと、自分のことをやるしかない」という思いだったそうだ。「陽気で明るくて前向きな少年像(の作品)は何本か作りましたけど、本当は違うんじゃないか。自分自身が実にうじうじとしていた人間だったから、少年っていうのは、もっと生臭い、いろんなものが渦巻いているのではないかという思いがずっとあった」
 「僕らは葛藤の中で生きていくんだってこと、それをおおっぴらにしちゃおう。走るのも遅いし、人に言えない恥ずかしいことも内面にいっぱい抱えている、そういう主人公を作ってみようと思ったんです。身体を発揮して力いっぱい乗り越えていったとき、ようやくそういう問題を受け入れる自分ができあがるんじゃないか」
 時は太平洋戦争中の1944年、東京を襲った空襲で入院中の母を亡くし、父が経営する戦闘機工場とともに、一家は郊外へ疎開する。出迎えたのは父の再婚相手となった母の妹。お腹に新たな命が宿っている新しい母を、眞人は受け入れられず、転校先でも孤立する。そんなある日、疎開先の屋敷で眞人は偶然、1冊の本を見つける。
 屋敷の庭の森には、廃屋となった洋館が建っている。眞人の母の「大おじ」にあたる伝説の人物が建てたという。やがて眞人の前に「母君があなたの助けを待っている。死んでなんかいませんよ」と人間の言葉を喋る青サギが現れ、導かれるように、眞人は洋館の中へと進んでいく――。
 ここから先は「宮崎アニメの集大成」のような不思議ワールドの冒険が描かれるのだが、少年の成長というテーマが共通する��らか、宮崎監督が吉野作『君たちはどう生きるか』を再解釈したのではないかと思わせる場面も登場する。
 『君たちは~』の主人公「コペル君」こと本田潤一少年は父親を亡くしており、親代わりでもある「叔父さん」との会話や交換ノートを通じて成長していく。映画の中で交わされる眞人と大おじの対話は、コペル君と叔父さんの対話を思い起こさせる。大おじが眞人に伝える「お前の手で争いのない世を作れ」という言葉は、戦中生まれの宮崎監督が次世代に託すストレートなメッセージだろう。
 そういえば中盤に登場する「ワラワラ」というキャラクターは、宮崎監督が小学校時代に読んだ『君たちは~』の冒頭部分に登場する、銀座のデパートの屋上からコペル君が眺めた群衆にも見える。ではあの場面は、この場面は……次々と出現する謎めいた仕掛けに、まったく分析が追いつかないまま、2時間4分はあっという間に過ぎる。
祖父・吉野源三郎と私  試写からの帰り道、ふと思った。眞人少年が、遥か世代の離れた大おじと対話したように、私も今、祖父と直接対話できたら、どんな言葉を交わすだろうか。
1978年5月、祖父母宅で私の誕生祝いをした時の写真らしい。右から当時5歳の私、弟、祖父・吉野源三郎、祖母  私が小学校に入る前、祖父は2軒隣に住んでいて、訪ねて行くと絵本を読んでくれたり、似顔絵を描いてくれたりと、孫の私をかわいがってくれた。既に80近い高齢で、およそ3回に1回は床に伏せっていて「今日は具合が悪いからごめんね」と追い返されたが、やがて入退院を繰り返すようになり、近づくこともできなくなった。肺や喉の疾患が悪化し、最期は話すこともできなくなった祖父は、私が小学校2年のとき、82歳で死去した。
 祖父は戦前、陸軍を除隊後に治安維持法違反に問われて投獄され、軍法会議にかけられたが九死に一生を得た。釈放後に作家・山本有三の少年少女向け書籍編集を手伝う中で執筆した1冊が『君たちはどう生きるか』だった。戦後は岩波書店の雑誌「世界」の初代編集長などを務め、父には「反骨の背筋は伸びているか」「謙虚に堂々と」など、言論人の心構えを折に触れて説いていたというが、もちろん私は祖父から壮絶な半生を聞いたり、薫陶を受けたりしたことはない。
 祖父の死後も『君たちは~』は岩波文庫に収録され、多くの人に読み継がれてきた。誇らしくもありつつ「偉大なお爺さまをお持ちで」などと言われるのがやや重荷でもあり、積極的には明かしてこなかった���、新聞記者やウェブ編集者になってから時折、祖父の残した他の著作を読み返すようになった。『職業としての編集者』(岩波新書)に収録された、戦前戦後の混乱を経て「世界」を創刊した回想録などは、親族が登場することもあって他人事とは読めず、時代が変わっても守るべき価値や教訓があることを教えてくれる。著作を読むという限定的な形ながら、これも祖父と交わす一種の対話なのかもしれない。
包装紙の裏に祖父が描いた父と私(中央)、弟。鉛筆でサラサラと似顔絵を描くのが上手だった。  『君たちは~』は2017年に漫画化され、21世紀らしい出で立ちで再び現れた。そして約6年の制作期間を経て、別作品とはいえ、宮崎駿監督の同名の映画が公開された。この間の出来事は「やさしいおじいちゃん」しか覚えていない孫に、祖父が思いがけない贈り物を届けてくれたようでもある。どこかでずっと、孫の私を見守ってくれているのではないか。そして何かを問い続けているのではないか。眞人を見守る「大おじ」のように。将来の息子に1冊の本を託した眞人の母のように。
 その問いかけにどう答えるか。つまり私は、どう生きるか。とりあえず、一度見ただけでは回収できなかった伏線を探しに、もう一度、劇場に足を運ぶことにしよう。祖父との新たな「対話」の糸口が見つかるかもしれない。
吉野太一郎(よしのたいちろう) 「好書好日」副編集長。大阪、東京の社会部、ネットメディア「ハフポスト日本版」などを経て2020年2月から「好書好日」編集部員。2022年3月から9月まで休職し、韓国・慶南大学極東問題研究所フェローとして北朝鮮問題・脱北者をテーマに研究。
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theatrum-wl · 2 months ago
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【アンケート企画】 「ふりかえる私の2024年」
WLでは恒例のこの1年に見た舞台作品の中で印象に残った3本を観客のみなさんから募るアンケートを実施しました。WLスタート以来毎年行っているこの企画もおかげさまで今回が10回目で8名の方にご参加いただきました。ご参加いただいたみなさん本当にありがとうございました。 「観た」「おもしろかった」で終わることなく、こうしてその記憶を言葉に換えて記し残すことは観劇体験としても、作り手と観客の関係においてもとても重要なことだとWLでは考えています。これを読んでいただく皆様にも少しでもそのようなことを感じていただければと願っています。
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谷岡健彦(大学教員) 2024年の観劇本数:80本 日英国際共同制作 KAAT × Vanishing Point『品川猿の告白』(神奈川芸術劇場) Bunkamura『もしも もしせめて』(世田谷パブリックシアター) PARCO STAGE『リア王』(東京芸術劇場 プレイハウス) 1は村上春樹の短編2作を巧みにひと続きの劇にまとめあげた佳品。村上春樹のあまりよい読者とは言えない自分にも楽しめた。 2はキャリル・チャーチルの観念的な短編戯曲を見事にスペクタクルへと昇華。 3は自分にはさほど面白いと思えない悲劇に新鮮な光を当ててくれた。 こうしてみると、テキストから意外な魅力を引き出す演出家の力量に感心した3作と言えようか。
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まなぶ(司書) 2024年の観劇本数:11本 kondaba『ユートピア』(大内木工所跡地) 努力クラブ『まぎれられてたのにね』(independent theatre 1st) ポかリン記憶舎『相棒』(旭水公園) 「劇場」について考える3本。 創作の場であり、観劇の場である劇場。建物としての劇場と、機能としての劇場。 毎度毎度どこで見つけてくるん?と言いたくなる場が持つ強度と、それに触発されるkondabaの身体。努力クラブが立ち上げる世界はほんとうに小さいから、余計���舞台の大きさが際立つ。大きな舞台を小さく使うこと。観光客が行き交う三条通でのポかリン記憶舎。自転車をめぐるいざこざが説得力を持ったのは、それが路上で上演されたからだろう。 いわゆる「劇場」のそとで上演される、場と共鳴するような演劇がおもしろいとわたしは感じるけど、これからの舞台芸術にとって「劇場」はどのようなものになっていくだろう。
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天乃こども(バーチャル作家) 2024年の観劇本数:14本 劇団だるめしあん『ラブイデオロギーは突然に』(アトリエ春風舎) 一本を選んだ。身体的・経済的な理由から、あまり観劇が出来なくなっているが、そのなかでも2024年小劇場演劇のマスターピースと言うべき上演に立ち会えた。劇団だるめしあん『ラブイデオロギーは突然に』は、「月9」を共通テーマとしたイベント『ガチゲキ!!復活前年祭』のなかで上演された。月9と言えばラブストーリーが定番のイメージがあるが、そうしたラブストーリー作品が積み上げてきた「ラブイデオロギー」を問い直し、それに囚われてきた女性たちを激励する作品だった。テレビドラマでは『虎に翼』や『不適切にもほどがある!』が話題になったが、後者に近い設定ながらも描かれている価値観としては対立する作品でもある。この二作品と合わせて2024年を"象徴"する作品として、比較して語られて欲しいぐらいだ。 https://note.com/amanokodomo
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齋藤理一郎(観劇人) 2024年の観劇本数:253本(劇)ヤリナゲ『ロックンロールは死なないが君は死ぬ』(SCOOL) スペースノットブランク『再生』(神奈川県立青少年センター スタジオHIKARI) プテラノドン『青春にはまだはやい』(『劇』小劇場) 選んだのは終演後の印象に圧倒された3作。劇団ヤリナゲ、スペースノットブランク、プテラノドン、形は全く違うのだけれど、そのいずれの表現にも観る側の想定を超えた発想の鮮やかさやインパクトや舞台の研ぎ方あり、目を瞠った。 2024年には、久保磨介、花香みずほ、平安咲貴などをはじめ、何人もの従前にはない感触で観る側への物語を渡してくれる若い作家や演出家たちの舞台に出会うことができた。彼らの今後の歩みも楽しみである。 X:@riichiros りいちろ
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薙野信喜(無職) 2024年の観劇本数:97本 全国共同制作オペラ 『ラ・ボエーム』(熊本県立劇場) ナイロン100℃ 『江戸時代の思い出』(北九州芸術劇場) スロバキア国立オペラ『利口な女狐の物語』(SND劇場《ブラチスラバ》) ほかには、Bunkamura「ふくすけ2024-歌舞伎町黙���録-」(キャナルシティ劇場),Noism Company Niigata「Noism0 / Noism1『円環』」(北九州芸術劇場)、ウィーン国立オペラ「サロメ」(ウィーン国立歌劇場)が楽しめた。 このところ観劇料金が高くなっているのはしかたないことだが、福岡での小劇場・中堅劇団の公演が少なくなっているのがさびしい。
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kiki(地方公務員) 2024年の観劇本数:132本 ホエイ『クチナシと翁』(こまばアゴラ劇場) あやめ十八番『雑種 小夜の月』(座・高円寺1) ムケイチョウコク『明晰夢』(文喫 六本木) イマーシブシアターをはじめとする体験型コンテンツの盛り上がりを他人事でなく感じた2024年。前年からハマりつつあったムケイチョウコクの新作イマーシブシアター『明晰夢』が年間でもっとも熱心に通った作品となった。観客自身も物語の一部となり、回ごとに異なる物語が紡がれつつその軸がぶれない見事さを堪能した。 一方で、過疎の集落で暮らす人々を描いた『クチナシと翁』や神社の参道で団子屋を営む家族の歴史を辿る『雑種 小夜の月』など、子どもから老人まで幅広い年代の人々が暮らしていく姿を会話劇として綴った作品がリアルというだけでない真実を描いて美しく印象に残ったりもした。 演劇の形は広がり、変わっていくものも変わらないものもあるだろう。その中で何を選び取っていくのか、観る側も試されているのかもしれない。 https://ameblo.jp/kiki002-2/
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さわら(会社員) 2024年の観劇本数:183本 ディミトリス・パパイオアヌー『INK』(ロームシアター京都 サウスホール) パラドックス定数『諜報員』(東京芸術劇場 シアターイースト) ホリプロ『カムフロムアウェイ』(高崎芸術劇場 大劇場) 2024年はかなりダンス要素に加点が入った年に思える。言葉で伝えられる表現の一辺倒さや直接的なメッセージ性に飽き飽きとしていることもあったかもしれない(自分で考えさせて欲しい気持ちになることが多かった)。 記憶に残った3本はダンス、会話劇、ミュージカルで選出した。 X:@35sawara さわら
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小泉うめ(観客発信メディアWL) 2024年の観劇本数:100本 守口市立図書館『Mの航跡』(守口市立図書館 円形ホール) コトリ会議『雨降りのヌエ』(扇町ミュージアムキューブ CUBE05) 喜劇結社バキュン!ズ『無職の皆さん、ついに反撃を開始する』( in→dependent theatre 2nd) 2024年は諸般の事情で関東の演劇シーン十分に語るだけの作品が観られなかったことをこの場を借りてお詫びしたい。大阪の3本を選んだ。 守口市立図書館『Mの航跡』はテキスト、キャスト、サイトの3拍子が揃った貴重な体験を与え��くれた。 場所選びの上手い団体はちょくちょくあるがその場所をコトリ会議のようにリスペクト出来ている団体は少ない。OMCのみならずAI HALLでの取り組みにも感謝したい。 喜劇結社バキュン!ズはこれから三段跳びのように跳ねていくことが予想される団体。未見の方には早めのチェックをおススメしたい。
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isheeeeee · 2 months ago
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2024年 印象に残っているものやこと
【音楽作品】
・Hammer Head Shark - 綺麗な骨
『ほんの少しのあいだまたね 君は散歩にいくといいよ』
・フィッシュマンズ
今年もたくさん助けられた。
◯まとめ
【映画】
山中瑶子 - ナミビアの砂漠
【見たライブ】
・LOSTAGE 『路傍』#1 w/GEZAN @渋谷クラブクアトロ
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バンドをやっていてよかった。
・THOM YORKE JAPAN TOUR “EVERYTHING”@東京ガーデンシアター
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音楽やめられない。
・Hammer Head Shark “SLOW SWIM”@京都nano
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バンドかっけーーー!
・Wilco JAPAN TOUR 2024 @六本木EXシアター
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自分の中の『音がいい』 『楽器が上手い』 『優しい』 『激しい』『おもしろい』『美しい』『あたたかい』の定義が少し更新された。
【記事】
・https://suumo.jp/town/entry/kichijoji-mutasatoko/
高校生までは中野、大学生以降はずっと吉祥寺、住んでいたのは阿佐ヶ谷、三鷹、武蔵境、西荻窪、と、ずっと同じような場所で生活している。職場も吉祥寺。大学時代のバイト先で社員になり、転職も一度もしていない。そんなふうに居心地の良い1つの場所でずっと生きてきている自分が嫌いだった。このままでいいのだろうか、でも好きなんだよなあ、でもなあ、と自問自答を繰り返しながら、謎の罪悪感や焦燥感をずっと抱えていた。そんな自分を肯定してくれた文章。ずっと同じ場所にいることでしか得られない感動や体験がある。悔いはないと言い切ることができれば、それでいい。そうなりたい。
・https://note.com/berabounisuko/n/n16b92bd92486
・https://guitarmagazine.jp/gear/2023-0929-nagoshi-yukio-pedalboard/
・https://crossbridgeguitar.com/jisakuguitaramp-shinos/
・https://www.switch-pub.co.jp/interview-tanikawa-shuntaro-night/
【ご飯】
・下北沢 せい家 ねぎラーメン(細麺・濃いめかため)
初めてせい家下北沢店に行ったのは大学生の時だった。何かの用事で下北沢に行った時に、後輩が『あそこは普通のせい家とは違う』としきりに主張していたのを思い出して、半信半疑で足を運んでみた。チェーン店なんだからどこの店舗も一緒でしょ、とたかを括っていたけど、確かに何か違っていた。あ��らかに他の店舗とは違う、こだわりのようなものを感じるラーメンだった。そのことから、自分が直接経験していないことを自分が知っている知識だけで決めつけることはしないと決めた。今でもその感覚は忘れないように努めている。そんな大切なことを学んだ店だった。何より美味しかった。一番お世話になったせい家の店舗が何年か前に閉店してしまって、それ以降なんとなく下北沢店がある、ということが自分にとっては安心材料だった。閉店すると聞いてすぐにお店に行った。お会計の時に店主らしき人に、感謝を伝えた。ありがとうございました。
・西荻窪 八龍 麻婆丼
いつもお世話になっていたけれど、今年は特にお世話になった。やめられないとまらない。
・大阪 KASUYA 法善寺店 紅生姜天うどん
・浅草 デンキヤホール オムマキ
・西荻窪 ぷあん カオマンガイ
・銀座 あづま オムライス
・名古屋 かかし(喫茶店)
・西荻窪 しゅうまいルンバ 中華そば定食
自分の中でベスト中華そばの永福町大勝軒と並ぶ優しさ、懐かしさ、おいしさだった。
【生活】
・職場の閉店
・引越し
・吉祥寺の本屋『百年』で一万円分の好きな本をもらったこと
【機材】
・スタジオにあったFender 59 Bassman
たまに一音鳴らすだけで身体の中がブワッと燃え上がる感覚がする楽器や機材がある。これはまさにそれだった。こういう出会いがあるから音楽も楽器もやめられない。
・ぶっつけ本番で初めて使ったRed Pandaのtensor
感覚とリンクする機材だなと思った。尊敬するギタリストが5台くらい持ってるのも頷ける。
【映像】
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【場所】
・狭山湖
・善福寺公園
・下北商店街振興組合 みんなの休憩スペース
・京都 源氏の湯 休憩スペース
【日常に潜む】
・花屋で見たイベリスとスイートアリッサム
・銀座エルメスの少女が描かれた青いガラス
【人】
・谷川俊太郎さん
小学生の頃、谷川さんが学校に来て講演会をしてくれたことがあった。その前からなんとなく谷川さんの作品が好きだった。特に『これはのみのぴこ』という詩の絵本を好んでいた。「これはのみのぴこ」という言葉で始まり、ページが進むごとに言葉が増えていき、文章が長くなっていく形式の詩に、その内容に沿った絵が描いてある本だった。これを早口で音読するのが好きで、ほとんど丸暗記していたと思う。講演会の時、谷川さんがちょうどこの本を紹介していた。『誰か読める人はいますか?』と谷川さんがみんなに言った。その頃自分は引っ込み思案で、人前で何かを話したり自分の意見を主張することがすごく苦手だった。手を上げるのも躊躇ったけど、ただ知っているか聞かれているだけだしな、と思って手を上げてみた。そしたらそれが谷川さんの目に留まった。『じゃあそこの君、前に来て』と言われ、谷川さんの隣に立ってマイクを持った。スクリーンに写し出される見慣れた本を2人で見ながら詩を交互に読んだ。とても緊張したけど、なんだか身体も気持ちも高揚したのを覚えている。谷川さんは終始小学生の自分を、1人の人間として大人と変わらないような接し方をしてくれた。そういう接し方を見知らぬ大人からされるのは初めてだった。子供ながらに嬉しく、そしてその姿勢がとてもかっこいいと思った。それ以降、母が何かと谷川俊太郎さんの作品を買ってくれるようになった。その影響で今でも古本屋さんで谷川俊太郎さんの作品を見かけるとつい手に取ってしまう。何度も引っ越しをしたけれど、本棚には常に見えるところに著作が置いてある。
前に付き合っていた恋人と本屋に行った時、谷川俊太郎さんの詩を恋人が手に取って読んでいた。気になったので次に見せてもらった。パラパラとページをめくっていると、『ひとり』という詩に目が留まった。その詩を何度か読んで棚に戻した。恋人はその様子を見た後、少し不機嫌になった。理由は分からなかったし、聞いても教えてくれなかった。その数週間後、別れることになった。別れるとき恋人は「あの日、本屋で私は『ふたり』という詩を読んでいたけど、あなたは『ひとり』を読んでいたよね」と言った。
人が亡くなっても作品は残る。その人に対する思い出や感情は残る。だからといって、亡くなっても何も変わらないわけではない。訃報を知ってから、ずっと心に穴が空いている。ずっとカバンにいれっぱなしだったお守りが、ふと気づいたら失くなっていたときみたいな気持ち。ずっと、なんだか不安。でも、少し経ったらきっと大丈夫になれる。そう思わせてくれるやさしさと熱量が谷川さんの詩には溢れている。
・加藤小夏さん
こんなに好きになったモデルや俳優は久々かもしれない。
この人のおかげで一年乗り切れたと言いきれる。
・ギター持ってたら高架下で話しかけてきた人
職場の先輩にガットギターをもらった。ケースが無かったのではだかで持って深夜の中央線の高架下を歩いていたら、知らない女性に声をかけられた。聞けば、音楽が好きで、ギターを持っているのが見えて気になって声をかけたらしい。よかったら一曲弾いて欲しいと言われたので、その場で弾ける曲を爪弾いたりしていたら、いつのまにか相手の人生相談が始まっていた。ちょっとおもしろくなってノリノリで相談に乗っていたら、話が思ったより深くなっていた。最終的に、「まあ大抵のことはなんとかなりますよ」と半ば本気で言ったら、「恋愛もですか?」と聞かれた。それに対して「他人がかかわることだけは、なんとかならないです。特に恋愛は。」と即答してしまった。そのことに自分で驚いた。高架下は薄明るくて、空気は澄んでいて、なんだか幻想的だった。
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mobsprooftheweb · 2 years ago
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『トップをねらえ!』『トップをねらえ2!』OVA 前編/OVA 後編 上映開始
GAINAX制作のOVA(オリジナルビデオアニメーション)作品「トップをねらえ!」シリーズ35周年を記念し、『トップをねらえ!』OVA前編/OVA後編が5月26日(金)より順次、『トップをねらえ2!』OVA前編/OVA後編が6月9日(金)より順次、劇場上映決定!!
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各上映の入場者プレゼント決定! 1週目は各作品の「複製原画3枚セット」を配布、2週目以降は『トップをねらえ!』OVA前編/OVA後編では「キャラクター原案・美樹本晴彦描き下ろしイラストシート」、『トップをねらえ2!』OVA前編/OVA後編では「フューチャービジュアル・okama描き下ろしイラストシート」が配布される。
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↑『トップをねらえ1』入場者プレゼント1周目複製原画
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↑『トップをねらえ1』入場者プレゼント2周目美樹本晴彦描き下ろしイラストシート
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↑『トップをねらえ2』入場者プレゼント1周目複製原画
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↑『トップをねらえ2』入場者プレゼント2周目フューチャービジュアル・okama描き下ろしイラストシート
80年代OVAの金字塔のひとつでもある『トップをねらえ!』の燃えるラストシーンを大劇場で堪能すべし!!
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『トップをねらえ!』OVA前編/『トップをねらえ!』OVA後編 2023年5月26日(金)より劇場上映 OVA前編(1話~4話)���04分 ※2chオリジナル音声 OVA後編(5話~6話)56分 ※2chオリジナル音声
<スタッフ> 企画・原作:岡田斗司夫/監督:庵野秀明/設定:樋口真嗣・庵野秀明/アニメーション・キャラクター:窪岡俊之/キャラクター原案:美樹本晴彦/メカニックデザイン:宮武一貴(スタジオぬえ)/ロボットデザイン:大畑晃一/美術監督:菊地正典・佐々木 洋・武重洋二・串田達也/撮影監督:沖野雅英・渡辺英俊・藤倉直人/音響監督:山田悦司/音楽:田中公平/制作:GAINAX
<キャスト> タカヤ・ノリコ:日高のり子/アマノ・カズミ:佐久間レイ/オオタ・コウイチロウ:若本規夫/ヒグチ・キミコ:渕崎ゆり子/カシハラ・レイコ:勝生真沙子/ユング・フロイト:川村万梨阿/スミス・トーレン:矢尾一樹/タシロ・タツミ:大木民夫 他
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<ストーリー> 西暦2015年。白鳥座宙域で航行中であった「るくしおん」艦隊が、謎の宇宙怪獣の襲来により全滅した。それから15年後、宇宙怪獣の襲来に備えて沖縄に、宇宙パイロット養成学校「沖縄女子宇宙高等学校」が設立された。その生徒の中に「るくしおん」艦長の娘、タカヤ・ノリコの姿があった…。��私もいつか宇宙パイロットになって、父のいた宇宙に出る!」厳しいコーチの特訓の中で、メキメキと才能を発揮していくノリコ! 今、パイロットのトップになるための、そして地球を守るための、辛く険しい戦いの幕が上がる…!!
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『トップをねらえ2!』OVA前編/『トップをねらえ2!』OVA後編 2023年6月9日(金)より劇場上映 OVA前編(1話~4話)112分 ※5.1ch音声 OVA後編(5話~6話)61分 ※5.1ch音声
<スタッフ> 原案:GAINAX/原案・監督:鶴巻和哉/脚本:榎戸洋司/監修:庵野秀明/キャラクターデザイン:貞本義行/ バスターマシンデザイン:いづなよしつね/フューチャービジュアル:okama/美術監督:加藤朋則(#1〜3)・ 加藤 浩(#4〜6)/メカニックデザイン:石垣純哉・コヤマシゲト・撫荒武吉/3DCGモデリング:ヴューワークス/デジタルディレクター:増尾昭一/音響監督:なかのとおる/音楽:田中公平/アニメーション制作:GAINAX/製作:TOP2委員会
<キャスト> ノノ:福井裕佳梨/ラルク:坂本真綾/チコ:沢城みゆき/ニコラ:岩田光央/カシオ:山崎たくみ/ 艦隊司令:高島雅羅��参謀長:東地宏樹/師匠:堀 勝之祐 他
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<ストーリー> 人類と宇宙怪獣との戦争は未だ続いていた・・・。宇宙怪獣は太陽系辺境星区を勢力圏におさめ、地球への侵攻を続けていた。ある日、雪深い山村より一人の少女「ノノ」が、宇宙パイロットに憧れて街に出てきた。ノノは卓越した「トップレス」能力を持つバスターマシンパイロット「ラルク」に出会う。新しい歴史はこの日、始まった!宇宙怪獣迎撃少年少女隊「フラタニティ」と、帝国宇宙軍の拮抗。それぞれの少女の持つ夢、希望、挑戦、そして戦い。迫りくる宇宙怪獣軍団と人類の存亡を賭けた歴史が、再び動き出す!
【上映劇場】  札幌:札幌シネマフロンティア/宮城:TOHOシネマズ 仙台/東京:TOHOシネマズ 池袋/埼玉:MOVIXさいたま/新潟:T・ジョイ新潟万代/愛知:ミッドランドスクエア シネマ/大阪:TOHOシネマズ 梅田/京都:T・ジョイ京都/広島:広島バルト1��/山口:シネマ・スクエア7/福岡:T・ジョイ博多/熊本:TOHOシネマズ 熊本サクラマチ
【配給】 バンダイナムコフィルムワークス
【公式サイト】https://v-storage.bnarts.jp/gunbuster/  【公式Twitter】@Gunbuster_1988
『トップをねらえ!』©︎BANDAI VISUAL・Flying Dog・GAINAX 『トップをねらえ2!』©︎2003 GAINAX/TOP2委員会
【特報映像】 『トップをねらえ!』
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『トップをねらえ2!』
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yogastudyabroad · 4 years ago
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'大阪 守口のヨガスタジオ。 ヨガビニは発祥インドの本場のヨガの教えを伝承する数少ないヨガ教室です。現代風にアレンジを加えず、伝統の教えを素直に、そして分かりやすく、どんな人でも自分の体と心に耳を傾けながらじっくりと心身ともに成長できる空間を大切にしています。 インド北部のリシュケシュに本校を構え、日本ではインド人講師VINIと、その教えを受け継いだ日本人講師によって、生徒さん一人ひとりに向き合い、ビギナーからアドバンスまで個人のレベルに合わせた指導を徹底しています。' 今予約する ヨガビニ 大阪 守口スタジオ |守口 ヨガ - ヨガビニ大阪 京都
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sokotsumono-desu-ga · 2 years ago
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12/3(土)大阪2日目 昼&夜公演 日替わりと感想など!🕺🕺
・しゅんりーさん大暴れ(?)夜公演
夜公演、しゅんりーさんがめちゃくちゃ台詞飛ばしはったのですが、いや正直めちゃくちゃおもろかったです🥹笑。ことの始まりはドローンでドボンが終わったところの台詞……
いつも「君たちをだましていたのには変わりない。コンビでこの企画を続けるがどうかよーく考えてくれ!」みたいな台詞でラストワルツスポットライトに行くのに、なぜか言えずにめちゃくちゃグダる。
島(下手上からツッコミに入る)「なにひとりでテンパってんすか?笑」
田尾「俺テンパってる??」
島「ぜんぜん(頭に説明が)入ってこん 笑」
田尾「(なおも次に行く感じの台詞出ない)」
高砂「MCがほわほわすんな!!」
田尾「(なんか無理やりまとめる)」
ラストワルツのスポットライト当たって「よっしゃやってやろうぜ!」からは順調に進む。
田尾「じゃあ4組参加ってことだな!」のあとの、「手紙を使わずに済んでよかったよ!」が出ない。だから、芸人たちは、掲げられた手紙を見つめてるんだけど、話が進まん笑。和田くんか誰かが「何なんだよそれ」「誰から?」とかなんか助け舟出すも、しゅんりーさん「何だと思う?」「誰からだと思う?」とか聞き返して進まん笑。
ミハル「あの人怖いよ〜🥹」笑
「時浦くん、君のお母さんはとっても素敵な方なんだね」らへんを無理やりやってなんとか次に行けました笑。
その後のアツソーパズルで出てきた島「今日は楽しくなるぞ〜ッ」笑
田尾「脱出したいかー!もう緊張しないぞーー!!」笑笑
この間基本染谷さん見てたんですが、そめやさんがやや笑いというかなんとも言えん「あ〜」て顔しながらしゅんりーさん見守ってるのめちゃくちゃかわいかった(ファン)。あとつっこみワードの「ほわほわ」が染谷さんがYouTubeとか配信でしばしば使う語彙でそれが咄嗟に出てきたのがなんか和んだ(ファン)。このあと洞窟の呪いの説明で
田尾「洞窟に入った私は……ご覧の通り説明したいことをちゃんと言えなくなりました!」
高砂「謝れ!」
田尾「すみませんでした!!」
で回収されてた🫶🫶🫶。
最後企画ネタバラシ後にも田尾さんが担がれるとこで坂本さんが「今日はしょうがないね」って言って、みんなにうおーって担がれ直されて前のボタン全部外れてたね…。でも正直とっても楽しかったしシリアスなとこも熱量高くてとても素敵な公演だったです。
・かつてなくボケ倒す時浦くん
あと、夜公演、時浦くんもボケかましまくっててヤバかったです。まず、スタジオ前で坂本さんに名前間違えられるやつがEXILEだったのを、三代目のR.Y.U.S.E.I.ダンスやりだす。
島「ここで天然出すか??EXILEさんに謝れ!」笑
その後滝にドボンする際にR.Y.U.S.E.I.やってから落ちていく時浦。
そしてキャンプの夜、なぜかずーーーっと上着を裏表逆に羽織ってる時浦。そして台詞を間違える時浦。「俺の財布が、あっちがうわ岬さんの財布がなくなってた!」からの、「岬さんはそんな俺を見てきた、なのに!あれはぜったいわざと!」のとこで島がとうとうつっこむ。「ずっと気になっててんけど、服逆やで」時浦「!!!」←なぜ気づかない時浦。
・あるある
昼 たこ焼きあるある
島「お前大阪人やったら誰でもたこ焼きあるあるあると思うなよ!お前がやれ!!」→時浦がやらされる
時浦「……ワ〜。2個タコ入ってる〜」(むちゃくちゃスベる)
時浦「……(リュック勢いよくぶん投げる)」
響き渡る「ガン!!!」音。
東雲「時浦パソコン持ち歩いてなかった!?!?」←それな
時浦「やばいやばい!!」急いで拾う時浦笑。
島くんわろてもうてました🫶
夜 USJあるある
島くんが「UFJて言われまう」って言ったのに終わらずに、なぜか時浦エルモ勝手にやる、でもあんま似てない、締まらない場、島くんがなぜか東雲を巻き込み、「お前もやれ、クッキーモンスターやれ」とか言い出す、でも多分マジで溝口くんがクッキーモンスター知らんくて笑、「クッキーモンスターだよ」とてきとうにやるも、なぜか若干クッキーモンスターみがあったため、島が拍手。
東雲「やった!!でもらまあいまのは無理だと思うけど、あるあるって稼げるらしいよ」笑。
・スタジオ前の諸々
昼 高砂くんと島くんジャンプ。怒鳴り散らす坂本さんをガン見する高砂くん。
坂本「何見てんだよ!」
高砂「見るだろ!!あっち見てればいいのかよ!!」(下手向く)(島くんに坂本さんの方に戻される)笑。
坂本「ほららふちゅーぶも早く入って!あ、えーと……江戸っ子ブラザーズもはやく!」
時浦「てやんでい」(鼻啜る)笑
・ドローンのドボンする時セリフ
日に日に時浦vs.ねあんでるの蹴落としあいと島vs.高砂の蹴落としあいが過激になってる、今日島くん台詞ギリギリまで高砂とほぼ取っ組み合ってた。かわち。あと滝から上がってくる時、高砂が岬を引っ張り上げようとして変な掴み方して岬がイテテってなって高砂が怒られるの最近毎回やってはる気がする。
バンバン「芸人、卒アルに「一生お笑い」って書きがち!!」 島「それはおもろい」
岬「平民どもは落ちるが…俺は上がる!」高砂「華麗に落ちたな!!」
夜 バンバン「芸人はあ!!劇場の近所のラーメン屋でサインを…求められなくて…ちょっと落ち込みがち!!」(長い笑) 島「尺とお笑いを揃えてこい!!!」
岬「じいや!机の引き出しの二段目に!」高砂「何が入ってんの!?」
・今日夜ねあんでるがロングリードのとこでなんもやらんくて、おや?と思ったら、子供みたいに駄々こねんなよ!でミハルが、なるほど、と納得顔して階段に座って渋い声で「ちょっときみ、座りなさい」って言い出して渋い感じで駄々こね始めて「こういう企画をやっていったほうが君のためになるんじゃないか?お酒でも飲むか?」「子供みたいに駄々こねんなって言ったら、渋いおじさんになって駄々こね始めた!!」だった🫶
・島はリアクション芸人としてやっていくんだって〜!
夜「島はこれから、リアクション学校に入学してやっていくんだってー!」(マシュマロ棒渡される)「ウィンガーディアムレビオサ!!!!!!」
・高砂くん懺悔
昼 高砂「ポケモンカード全部売っちゃった!」
岬「うおおおい!いくらで?」
高砂「端金(はしたがね)だよ」
岬「おまえがいうなぁ!!」それは��う笑
ここ、最初は高砂くんがひとボケして終わりだったのがだんだんやりとりで岬くんのツッコミでオチまでついてて、ラストワルツのファンは感涙です(笑うところです)。
夜 森林伐採部だったので口に蜘蛛入れてました
・バンバンの芸風
昼 ミハル「鰯の群れと生活してました!」
夜 ミハル「1ヶ月海中生活してました!!!」
バンバン「…ッ、!2週間を超えたあたりから、ウミガメが友達だったぜ!!!」(純真無垢笑顔)
ミハル「浦島太郎ーーーーーーーーー!!!」(⁇)
島「みんなちゃんとしよな」(しゅんりーさんいじり笑)
・洞窟
今日まさかの(?)高砂が岬よりランタン消えたパニックから先に落ち着くパターン始まってずっと見てた身としてはかなりウケました。
高砂単独大暴れ→二人で大暴れ→岬が最後まで大暴れして先に高砂が落ち着いてるという謎の変遷……🫶
夜公演
高砂「パニックになろうぜ!!(大暴れ)」
岬「(大暴れ)」
時浦「ちょっと!!!!落ち着いてください!!!」
(その横で早めに静かになった高砂くん静かに岬を見てる)
島「なんかこの人落ち着いてたわ」
高砂「なんか今我に帰った」帰るなよ!笑 泣き疲れてなんで泣いてたか忘れた子供みたいなお顔でめちゃくちゃおもろかった。
からの、和解からの、
高砂「ボケろーーーーーーーーッこんなに丁寧に振ってんだから、ボケろーーーーーーーーーーーッ!!!来いよ……ボケろよ……………お前がボケて俺がツッコむ………お笑いデスマッチだ(????????)………」お笑いデスマッチとは🤣
岬「真剣な空気が台無しじゃねえか!」
時浦「どんな慌て方ですか!目ぇデカ笑」
高砂「だって怖いじゃんかよ」
爆走しすぎて「怖いじゃんかよ」なくなってた日とかありましたそういえば…。
・東雲「お礼とか言う人でしたっけ?」
ここの岬くんの暴れ具合が日によってぜんぜんちがう。最初立ち上がって、言う人だよ!元から!、くらいだった気がするんすけどあるときから、東雲の元まで行くようになり、ある時このメモにもどっかで書いた通りナマステ!!!が現れ、その後は軽く詰め寄るスタイルだったが、今日マチソワどっちかで、謝謝!!!が現れました。(大千秋楽後追記、見た限りだと、ナマステと謝謝だけ謎の登場でした。あれなんやったんやろう。なお、ナマステはこんにちはなのでマジでめちゃくちゃです🫶)
・ラストワルツの漫才のつかみ
昼 高砂「アクスタ買えよ!!!!!!!」笑 大阪から売り切れなくなったので……笑。帰り、「グッズ買う?」「アクスタは買わないと怒られるから……」と笑顔で物販に向かうラストワルツのオタクの方がいてニコ…になりました。グッズカウカハモチロンジユウ……デモチョットオモロカッタ……。
夜 高砂「嘘つくなよ口開けて寝てたから俺おまえの口ん中に蜘蛛入れたもん」 
・湘南に連れてこられた高砂くん
昼 「ひっかけ橋かあ?ひっかけるぞ〜、君かわいいねともだちとの約束…」染谷さんに入れ知恵してるの誰?笑
夜 「いよいよUFJかぁ!?」
・この日の夜公演、漫才4組とも今まででいちばんおもろかった!会場もめちゃくちゃウケてたと思う。キレキレだった〜。昼間初めて木津くんがネタ飛ばしたというかめちゃくちゃ大事なツッコミ台詞飛ばしたままいってたのですがバチボコに修正してて🫶
・キャラソンメドレーみんな最初出てくる時いつも、下手の中尾染谷大平(敬称略)は肩組んでとっても可愛いのですが、上手の溝口和田木津(敬称略)は最近謎の振り付けやってくることが多くて、今日昼が念仏(木魚ポクポク的な)で、夜は高砂くんのタバコの火野球⚾️で消す振り付けで揃えてきて、なに?になりました。
▼以下は染谷俊之さんファンによる忘れたくないポイント覚書感想です(今ここまでもそうでしたが)。
昼公演、最後キャラソンメドレーの全員ピンスポのキメに行く時なぜか染谷さんが大平くんのとこにササって近づきはって、なぜ、と思って見てたら大平くんのスーツの後ろの襟直してあげてたっぽくて大平くんが??ってなって変になってたよ〜的なことを(多分)言ってちょいちょいって直してよゆう〜で自分のバミりに戻っててもうキュン300個でした。さすがソメヤ・シカイガヒロイ・トシユキさんだなと思いました。
夜公演、高砂くんが洞窟で岬に「書く気になってくれてありがとな…」のとこ今日カッコつけまくって、髪かきあげたらほんとにカッコよくて(??)、いや笑えんカッコいいやんになった(笑いました)。その後時浦くん同じのがやって、島に「似合わんな」言われて終わったんですが、洞窟出るときの3人かたまってるときに島くんが「めっちゃ髪型カッコいいことなってますよ」て真顔で言い出して、高砂くんが「ほめるなよ!下げて上げるなよ!どうすればいいんだよ」て言っててなんか……🫶🫶🫶そのあと脱出できたあとの「信じてたってばよ!」で中尾くんといつもアイコンタクトしてるやつ、中尾くんが染谷さんにむかって髪かきあげてくれててかわいかった、はあ。さらにその後 battle cryの最後で大平くんが染谷さんの方見てる時にまた髪かきあげてウインクバチコンやってて大平くんがイェイ!!みたいなリアクションしててめちゃくちゃ🫶🫶🫶はけるときも髪めっちゃかきあげてた。かわいいかよ……
あとこれは今日の公演どうこうじゃなくて、ラストワルツの話なんですが、岬はさ、最初のスタジオのとこもさ、時浦とエンカウントしてもうたとき、一回ふりかえるやん、高砂を探すやん、どうかで時浦ネタ帳見せる時も、一回高砂の方を見て、見せていいかなあみたいな感じで、高砂くんが頷いてから見せるやん……うぇーん(情緒)。岬��おまえ高砂くんのこと大事に思ってるってもっとちゃんと言葉にしろよ!
岬「もっとお前と話をするべきだったな」
そうだよわかってるじゃねえか!ヨシ!!!!(???)
てかやっぱ台詞昨日のままだった、これは岬くん台詞変わってるやつですよね、、そしてそれで固定にしたっぽい、、、、和田琢磨さん、岬の解釈深めてくれて、、、、ありがとうございます泣。よかったな、高砂!!!泣
やっぱ洞窟で岬が時浦に真相話してるときのそめやさんのお芝居マジで胸にくるものがある……。悲しみ、憤り……、高砂………。最初、悲しそうにというか、じって聞いてるんですが、お前が怖かったって岬が言い出したあたりから、体に力が入っていくのがわかって、呼吸も荒くなって、ぐぐぐぐって堪えられんくなってきて、やめるよ、って岬が言い出したときに、グッ!って手をギュ!てして、ワッて走り出して叫んで、、、、あとはもうご覧の通り最高の高砂くんです、、いや〜円盤にあそこのお芝居入らんのかと思うと……明日見おさめか……高砂��…。見納めよう……。やっぱ洞窟は毎公演最高を更新してきてくれる、大好き……
そんで最後キャラソンメドレー終わりのbattle cryは高砂じゃなくて、岬が高砂くんの肩に手を乗せて出てくるのがいいよ。これ多分途中からこれ固定になったんよな……涙。あと最近二人しゃがみでニコニコしながら出てくるのとっても魅力です!あと、ワルツを超えてで二人手を取り合うところでいつも岬が高砂を振り回す感じなのもとても魅力。ありがとうございます。
今日夜公演めちゃくちゃすきだったぜ!東京前楽夜公演ぐらいすきだぜ!後半は今日がさいこうだぜ!(個人の感想です)
明日で終わりか!おい!ラストワルツ!一生漫才してくれよ!!!!!
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fenrir-design · 5 years ago
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【七五三撮影の予約 続々と!!】 ・ 来月に迫る七五三の祝いの日。 当店にも、続々と撮影予約のお問い合わせをいただいております。 ・ 1日に3枠しか承っておりませんので、ご希望の日時が早く埋まってしまうことも😓 是非お早目にご予約くださいませ。 ・ <七五三撮影プラン> 平日=¥40,000+税 土日祝=¥50,000+税 ・ レンタル衣装、お子様の着付け等のお支度、撮影、写真データ80カットDVDを含む内容となります✨ ・ もちろん、思い入れのある自前の着物や袴でのお支度も可能です👍 ・ その他、ご要望などがあれば何なりとご相談いただければ、出来る限りご希望に添えるように努めます💪 ・ 皆様からのお問い合わせ、お待ちしております✨ ・ #studiofete #スタジオフェット #フォトスタジオ #上新庄 #大阪市 #阪急京都線 #吹田市 #守口市 #東淀川区 #都島区 #七五三 #7歳 #5歳 #3歳 #家族写真 #七五三撮影 #前撮り #スタジオ撮影 https://www.instagram.com/p/B3nyhx6pLyb/?igshid=1lr50z4035sqw
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yabunirami · 6 years ago
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【15thAnniversary】vol 41 個人的福岡五大事件 後編
1990年代後半、アタシが出入りしていたNG社という婚礼撮影会社は東京に本社がありました。 それがどうした、てな話ですが、たしかに本社が東京にあろうが大阪にあろうが、そこはどうでもいい。 不可解なのは、当時アタシが居住していた、そして仕事を受注していた福岡には支社どころか事務所も何もなかったのです。 だから仕事の受注っつーか連絡はすべてFAXで行われていた。それでも会社の人間と一切リアル接触なしに、というのはマズいと思ったのか、月に一度、社長と社員ひとりが来福してミーティングをやっていたのです。 その場所ってのがスタジオでして、そりゃね、一応写真やビデオ撮影を生業にしてるんだからそこが「撮影スタジオ」なら何の不可解さもないですよ。 アタシが不可解だと思ったのは、そこが<音楽>スタジオだったからです。 無駄にドラムやPAの機材が並ぶ中、音楽とは何の関係もないミーティングが行われる。 口には出しませんでしたが、心の中では思いましたよ。 「コイツら全員、トンチキすぎるやろ」 とにかくこんなトンチキの連続で、とくに社長のトンチキぶりには手を焼いた。 本質的には悪人ではないのかもしれないけど、いくらなんでも周りを振り回しすぎで、結果として会社全体がいい加減かつトンチキになってるという。 これだけなら罪はないのですが、ある時非常に不可解な封書がNG社から送られてきた。普段の連絡は全部FAXなのに禍々しく封書なんて、これは絶対に何かあるに違いないとピンときた。 案の定、アタシたち出入りのカメラマンやビデオカメラマンにとって極めて不利になることが記されており、しかもすぐに同意した上で返信しろ、とある。 いくらなんでもこれはおかしい。アタシはすぐにNG社を紹介してもらったEに連絡した。 Eはすでに封書の中身を読んでおり憤慨していた。これはおかしすぎる、と。 こうなったら月イチのミーティングの時にトンチキ社長を問い詰めるしかない。もしラチが開かなければNG社と縁を切るしかないな、と。 ミーティングの日がやってきました。 NG社からは社長と社員ひとり。契約スタッフが計5、6名。もちろんアタシとEもいる。 はじめはいつもと変わらず、社長がどうでもいいことを喋る。んで「お前ら、せっかくみかん持ってきたんだから、食べろよ!」と、これまたどうでもいいことをせっついてくる。 焦ってもしょうがないとはいえ、なかなか本題に入らない。いやみかんとかどーでもいいんだよ!早く本題に入れ! やっと本題に入った。 しかし完全に社長のペースで話し合いは終わりそうになっていた。もちろんアタシもEも何度も質問した。しかしそれらにたいして社長は軽くいなそうとするばかりで、まともに答えようとすらしない。 おい、このままじゃ、終わってしまうぞ。どうするどうする? 突然、だった。Eが静かに喋り始めたと思った次の瞬間、激昂しだした。こんな馬鹿なことがありますか。ちゃんと答えてください!! さすがのトンチキ社長も焦りはじめた。「理路整然」と「激昂」するEに押され気味になり、あきらかに「マズい」という色が顔に浮かんできた。 アタシはふと、Eの顔を見た。激昂するEの顔を、です。 不思議なもので、共通点が多いからか、それとも同郷だからか、アタシはEを見てすぐにわかった。 あ、怒った芝居をしている、と。 誤解されては困るのですが、Eが社長というかNG社に怒っていたのは本当です。だけれども怒声の上げるのはあきらかに演技であり、つまり「ここは自分たちのために怒り狂った芝居をするべき」という考えに基づいた怒声、と言えばいいのか。 怒声だけでは足りないと思ったのか、Eは罵声を吐いて音楽スタジオから飛び出して行ったんです。 この時の空気たるや、凄かった。それでも社長は必死で気をとり直そうとしていた。けどここでまた社長がいつものペースに戻ってしまったら、Eの行動が台無しになってしまう。 今、この時、アタシに出来る行動といえば・・・、もうEの行動を「被せる」しかない! もしEだけで終われば、下手したらEがオカシナ人間で片付けられるかもしれない。だけれどももうひとり、同じ行動をする人間が現れたら、トンチキ社長はわからないにしても、契約スタッフには「やっぱり、この契約はおかしい」とわかってもらえるんじゃないか。 アタシは一瞬の隙を狙った。そして社長がペースを取り戻しかけたその瞬間「だからさっきのEくんの質問に何ひとつ答えてないじゃないですか!」と声を張り上げた。もちろん芝居として。 攻めるのはここしかない。アタシは一気に捲し立てた。すると社長は顔面蒼白になり、完全に黙りこくってしまった。 アタシは良い頃合いを見計らって、Eと同じくスタジオを飛び出した。ああ、この後もうどうなっても知らんからな、と思いながら。 その後、アタシと合流したEは真っ先にアタシに侘びた。「とんでもないところを紹介してしまったみたいで・・・」 いやいや、どう考えても悪いのはEじ���ない。トンチキ社長をはじめとするNG社全体だ。それにアンタはアタシをはじめとする契約スタッフ全員を守る行動に出てくれたじゃないか。 ・・・なんてことを口にしようと思ったけど、なかなか上手く言葉が出てこない。するとEは急に笑顔になって 「あなたなら僕と同じこと(つまり怒声を上げて退場する)をしてくれると思ってましたよ」 この件がアタシがEという男を信用する決定打になった。だってそれだけアタシのことを信用してくれたんだもん。こっちも信用しないなんて嘘ですよ。 とにもかくにも、いい加減でトンチキなNG社とはこれで縁が切れた。っつーことはアタシはまたS社だけになってしまったってことです。 S社もタイガイな会社だけど、こことは別に喧嘩したりはしなかったから。いやNG社とS社ではいい加減の方向性が違うな。NG社が喧嘩腰で支離滅裂な<いい加減>だとするなら、S社は無気力の権化っつーか、喧嘩するような気力なんてはじめからない、と言えばいいのかね。 ノストラダムスがやってこないまま2000年になりました。ミレニアム、なんて言われた年です。 この年のゴールデンウィーク、北部九州地方から山口県をまたいだ形で、世間を震撼させる事件が起きた。そう、あの「西鉄バスジャック事件」です。 西鉄バスジャック事件ともネオ麦茶事件とも呼ばれる事件は、世間を騒がせた事件の中で唯一「もしかしたらアタシが巻き込まれたかもしれない」事件です。 2000年5月4日、アタシはS社の仕事で佐賀県の鳥栖に出張に行っておりました。そして九州自動車道の鳥栖までクルマで送ってもらって、そこから高速バスで福岡まで戻る予定だったんです。 ところが撮影が押しに押し、おかげで福岡までクルマで送ってもらえることになった。 当初の終了予定時間から鑑みれば、バスジャックされた車両に乗っていた可能性が非常に高いわけで、撮影が押すという不測の事態が起こったためにアタシは命拾いした。まさにラッキーという以外ありません。 が、「本来乗る予定だったバス」の行方はかなり気になった。だからテレビにかじりついて事態を見守っていたし、当時、懐かしの「テレホーダイ(23時〜翌8時までインターネットが使い放題になるサービス。厳密にはこの説明は間違ってるけど、まあいいでショ)」に入ったばかりの時期で、眠い目を擦りながらネットで状況を確認していました。 実はこの時初めて、犯行予告があったとされる「2ちゃんねる」なる掲示板の存在を知った。といっても本格的に見始めるのは1年半後なのですが、なんというか、インターネットってのはこんなに臨場感があるものなのか、と感心したことを憶えています。 もうひとつ、ビックリしたのが事件解決の瞬間で、1997年に放送された「踊る大捜査線 歳末特別警戒スペシャル」で劇中使われた閃光弾(フラッシュバン・スタングレネードというらしい)が「実際の事件で」使われたことです。 今の感覚だとちょっとフシギなんだけど、放送から3年も経っていたにもかかわらず、2000年の時点でも「踊る大捜査線」は非常に新しいドラマでした。最後は陳腐化し切った末に終了しましたが、まァ、それはいい。 とにかくネオ麦茶は逮捕された。アタシはバスに乗らずに済んだ。んでピンピンしている。 しかしどの道、長く福岡に住むことはない、と感じ始めていました。バスジャック云々はまったく関係なく、この頃からカノジョと上手くいかなくなってきたからです。 ユメもチボーもなく福岡にやって来て、ユメもチボーもないことだけキープしながらトシだけ食った。これはもう関西に帰るしかないな、と。 ああ、こんなことならあのバスに乗りゃ良かったかな。いやいやいや、それはない。 関西へ帰ることを決めながら、福岡から去る数日前にアタシはケータイの機種変をしています。 さっきも書いたようにインターネットの魅力に取り憑かれていたんだけど、関西に帰ればそう簡単にインターネット環境を整えることは出来ない。ならばせめて、iモード対応端末を買って最低限のインターネット接続環境をキープしておこう、と。 アタシが買ったのは「N821i」っての。これら当時大人気機種だったN502iにPHS機能が付加された、いわゆる「ドッチーモ」ってヤツだったんですが、なんてサラッと書いてるけどPHSもドッチーモも説明がないとわからない時代なんでしょうな。 ま、テキトーにググってくださいませ。 アタシが最後にS社の仕事に入った時だったと思う。「同じ機種に変えました!」と嬉しそうに報告してくる女子がいた。 どーせここにいるS社関係の人間全員と縁が切れるんだ。あ、ふーん。そうなの。だから?と言いたかったけど、そんな状況にもかかわらず嫌われたくないアタシは「うわっ!そうなんだ!お揃いだね!」と上辺の言葉を吐きました。 かと言って好かれたいわけでもない。最終的にカノジョにフラれて関西に帰ることになったわけで、つまりはフリーなわけです。オイシイ話があれば無碍にする必要もない。 この娘、まァLとしますか、Lは純日本人でありながらハーフもしくはクォーターじゃないかと思うほどのガイコクジン顔をしていました。 と書くとものすごく美人みたいだけど、こう言っちゃ申し訳ないけど「ザンネンなガイコクジン娘」って感じでね。正直まるで魅力を感じなかった。いや性格は悪くないと思うけどさ。 福岡から離れたアタシは21世紀、つまり2001年に入った頃には何故か関西ではなく東京に居住していた。ま、転勤ってヤツです。 あれは2003年の初めだったか、S社での仕事で知り合い、その後も友人関係にあるRという男がいるのですが、このRがとんでもないことを言い出したのです。 「Lって覚えてますよね」 「ああ、ザンネンなガイコクジン顔の」 「そうです。実は彼女、佐賀銀行の頭取の娘らしいんですよ」 いきなりネタばらしをしますが、この情報はウソです。調べればわかりますが、2003年当時の頭取はこの時点で60歳を超えており、当時20代前半だった女の子の父親のわけがない。ま、決めつけるのは乱暴だけど、実際Lは頭取の娘ではなかった。 まさかLが佐賀銀行の頭取の娘なんて、とはじめは信じませんでした。しかし、詳しくは忘れたけど、Rが次々に補足情報を持ってくるようになり、もしかしたら本当なのかも、と思い始めたのです。 「L、カレシとかいるの?」 「今はいないみたいです」 「これ、もしかしたら逆玉の輿のチャンスじゃね?」 半分冗談というか9割以上冗談です。でももしそういうことになれば、そういうことになってもいい、くらいにはランクアップはしていたのも事実で。 そして2003年の年末、「佐賀銀行取り付け騒ぎ」が起こります。 「おい、L、大丈夫なの?」 「いや最近会ってないんでよくわからないです。今度会って聞いてみます」 「佐賀銀行の頭取の娘だろ?って?」 「でも聞かなきゃわかんないじゃないですか」 そりゃそうだけどさ。んで聞いたらしい。 結果は先に書いた通り。彼女は一笑に付したそうな。 「銀行を舞台とした、デマから端を発したパニック」と言えば「豊川信用金庫事件」が有名です。豊川信用金庫事件はまさにオイルショックの最中ですが、正直ここまで口コミの伝達が完璧だった事例もそうはないのではないでしょうか。何しろ女子高生の雑談がひとつの銀行を潰す寸前まで行ったんだからね。ま、いろいろ教材にさえなっているようですが、それもわかります。 それに比べると、同じ取り付け騒ぎになったとはいえ佐賀銀行取り付け騒ぎはそれほど話題にならなかった。単に<事件>として見ればスケールが小さかったってことになってしまう。 だけれどもさ、もうこの頃には福岡を離れて3年も経ってたんですよ。なのに、まだ福岡関係の事件がアタシに絡んでくるってのはもう、憑かれているとしか思えない。 最初が最初なら、終わってるはずなのにまだ終わらない。とにかくアタシにとって福岡とはそーゆー街なのでありまして。 (初稿 2014年11月01日更新「フシギな街・フクオカ」、2015年10月2日更新「西鉄バスジャック事件を読み解かない」、2017年3月31日更新「豊川信用金庫事件と佐賀銀行取り付け騒ぎを読み解かない」、2017年7月16日更新「東芝クレーマー事件を読み解かない」、 2018年1月16〜18日更新「高架下暮らしに花束を」、2018年2月20日〜3月5日更新「変人に花束を」、2018年6月8〜10日更新「変人に花束を 番外編 BvsYS」他・改稿 2019年4月1、2日)
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alexswak · 6 years ago
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Hikawa Ryusuke’s Akira Article(jp)
Hikawa Ryusuke is probably the most famous Japanese anime critic. He wrote an extensive article on the anime industry before and after Akira, articulating what lead to Akira and how Akira influenced the industry thereafter. This article was published in "Akira Animation Archives” which is rather hard to find in good condition, so I thought I might copy the article somewhere. It’s in Japanese nonetheless, as I’m not capable of translating such a sophisticated text, but I hope me publishing this article would lead to someone being interested in translating it. I believe it contains some pretty useful and valuable information. 
‘80時代----「Akira」が”ANIME”にもたらしたもの
本書では、アーカイヴよしてアニメーション映画「AKIRA」の現存する制作資料を句能な限り良好な状態で収録した。完成フィルムとは異なるプロセス上熱気や思いが、そこに見えたことと思う。では、こういった成果物を生んでいった周囲の状況はどうだったのだろうか。あるいは歴史の中で「AKIRA」という作品はどう位置ずけられるのだろうか。あとがきにかえて、ここにその俯瞰図をまとめてみた。
アニメ史から見た’80年代
アニメーションは今や会社にとって、子供のための娯楽映像という存在のみの状態から完全に脱皮し、広く青年、大人へ、あるいは世界へと観客層の拡がりを見せている。
そのきっかけは、1977年、「宇宙戦艦ヤマト(映画版)」の巻き起こした”アニメブーム”である。ところが「AKIRA」の上映された1988年。。。それかれあ約10年が過ぎたころには、原初のアニメブームが持ってータ熱は冷め、明らかに大きな陰りと断層が見えていた。富野由悠季監督作「機動戦士ガンダム」(1979年作品)を産み、アニメブームを牽引した巨人ロボットアニメ作品がTVから一時撤退しているのがそれを象徴しており、オリジナリティや作家性に期待されたビデオアニメもぱっとせず、時代の節目となる兆候がいたるところに見られた時期である。
ブームを陰らせた原因は、大きく以下のつではないかと推定される。
1つ目は学生時代に「ヤマト」や「ガンダム」でアニメに目覚めたいわゆる第1世代(1960年生まれ中心)が、だいたい1982年ごろから「卒業」し始めて会社人になり、’80年代中盤ごろにはほど全員の「卒業」が完了したこと。2つ目は、娯楽性を持った新メディアとして家庭用ゲーム機(ファミコン)が五すぐ急成長したこと。これによって「ドラゴンクエスト」(’86)など高い物語性を有るし、観客が参加する句能なRPGという、アニメよりもおもしろいものを購買層が見つけてしまう。3つ目は、この時期にレンタルビデオが300~500円という価格で全国配備完了したこと。これ以後アニメはハリウッド娯楽大作と同額とい��、激しいコンペティションに常時さらされていくようになる。
こういった状況下では、アニメ企画も変化さざるを得ない。作品企画をたくさん回して何本か当たるものがあれば良いという風潮よりは、いわゆる”選択と集中”が行われ、セグメンテーションがシフトしていく。ひとつの例がビデオアニメの変化だ。1987年ごろまで、オリジナルビデオアニメ(OVA)の主流は「プチ劇場アニメ」であった。つまり興業規模や尺の観点からすると映画館にかけられるほどではないが、スター性のあるスタッフやキャストを前面に押し出してセールスする方向性だった。これが輝きを失った対抗策として、1988年の「機動警察パトレイバー」が30分6本シリーズの新フォーマットとブロックバスター価格(4,800円)を提示し、逆転ヒットを果たす。結果、OVAは「プチ劇場」から「デラックスなTVアニメ」へとセグメンテーションをシフトさせていった。「AKIRA」が登場した1988年は、日本のアニメーション界自体が、こういった大きなパラダイム・シフトにされされていた時期であった。この周囲状況の変化を念頭におくと、なぜ「AKIRA」がこのような作風となったか考えるとき、理解の一助となるだろう。
’80年代前半、劇場アニメの新時代到来
ビデオアニメという、”TVアニメ以上劇場アニメ以下”というジャンルが新設されたことは、逆に劇場アニメに要求される価値レベルを上げた。それと呼応するように、劇場用アニメーションは’80年代前半に新時代を迎えている。
1983年末に、成人向け以外で初のOVA「ダロス」がバンダイビジュアルから発進する。同年春には角川書店がアニメ制作に進出、マッドハウス制作「幻魔大戦」を公開する。それがキャラクターデザインに大友克洋を起用した初の作品であるのも因縁めいている。1984年には、それを迎撃するような動きがある。講談社が夏に同じマッドハウスで「SF新世紀レンズマン」を制作。だがこれは慘敗に終わる。一方、徳間書店は春にアニメージュ誌に連載されていた「風の谷のナウシカ」を原作者・宮崎駿目身が監督という形で劇場アニメ化、大ヒットとなる。
結果、東映長編漫画映画の血脈を持つ宮崎駿監督と盟友・高畑勲監督の作品をつくる目的で徳間書店の出資によるスタジオジブリが結成され、1986年の「天空の城ラピュタ」を経て1988年には「となりのトトロ」が「火垂るの墓」と2本立て興行で公開、”ジブリ” ”宮崎アニメ” というブランドこの時期に完成した。
玩具や出版に携わる会社は、アニメブームの当初は著作権のニ次使用者であった。ところがその利用側だった会社が発信側に回って一次著作者となるとともに、コンテンツを多彩な展開に使うことを開始、勝者を生み始めていった時期と見ることができる。
「ナウシカ」と同じ1984年春には、押井守監督の名を一躍有名にした「うる星やつら2ビューティフルドリーマー」が公開、その作家性を世に知らしめた。同年春には「超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか」が劇場公開。河森正治が弱冠24歳で監督し、それまで版権イラストでしか描かれなかったような細密な描き込みを行ったことで、大きな話題を呼んだ。
こういった”作家性” ”緻密さ” ”リアリティ重視” ”若手” ”新規参入会社” という流れの頂点に立つのが、1987年の「王立宇宙軍 オネアミスの翼」である。この映画はバンダイ制作による劇場アニメの第1作で、のちに「新世紀エヴァンゲリオン」(’95)を制作するガイナックス初の作品でもある。山賀博之監督以下、中核スタッフは大阪でSF大会用映像をつくっていたアマチュア集団ダイコンフィルムの出身で、いわゆるオタク第一世代にあたる若手だ。
彼らの劇場映画「王立宇宙軍」は、そういうパロディ色の強いフィルムになるというおおかたの予想を裏切り、市井の若者が持つ等身大の挫折と野心を当時としては画期的なリアリティをこめて描ききった野心作として公開された。
リアル系作品を貫く人の流れ
このように、’80年代の動きを追っていくと、やがて’90年代になって世界に日本発の”ANIME"の名をとどろかせるべき、ほとんどの役者(アニメクリエイターと会社)が出そろいつつある様が見えてくる。
この流れに、’80年代後半の2つの出来事を追加したい。一つはビデオアニメの覇者「機動警察パトレイバー」が1989年に映画化され、その制作現劇が後に「攻殻機動隊」(’95)をつくるプロダクションI.Gになって、ビデオシリーズから格段にアップグレードした映像を見せたこと。そしてもう一つが本書で取り上げた作品「AKIRA」---そのもたらしたアニメ映像への考え方と、人の流れである。
’90年代につながる流れを見ておこう。「AKIRA」制作末期には、スタジオジブリで「となりのトトロ」を終えたばかりの原画マン(高坂希太郎、 二木真希子、金田伊功)が参加。その”お返し”という意味か、ジブリの次回作「魔女の宅急便」(’89)には森本晃司、井上俊之らが原画で参加している。ここで森本晃司と当時ジブリの制作デスクを担当していた田中栄子が出会い、片渕須直や佐藤好春らとともにスタジオ4Cを結成。大友克洋原作・監督「MEMORIES」(’95)や大友克洋XX成・総監修の「スプリガン」(’98)生む母体となっていく。
また、「AKIRA」における出会いが北久保弘之監督作品「老人Z」(’91)を生み、大友克洋は原作・脚本・メカニックデザインを担当している(キャラクターデザインは江口寿史)。この作品には緻密な絵を描く漫画家として知られていた今敏(こん・さとし)が美術設定でアニメ初参加。今敏は大友克洋のアシスタント経験もあり、実写映画「ワールド・アパートメント・ホラー」(’91)を漫画化した作家だ。「MEMORIES彼女の想いで。。。」の脚本を経て、マッドハウスで「パーフェクトブルー」(’98)、「千年女優」(’02)を監督する今敏は、「老人Z」で北久保弘之、沖浦啓之と机を並べていたという。
インタビューページにもあるように、沖浦啓之は「人狼 JIN-ROH」(’00)、北久保弘之は「BLOOD THE LAST VAMPIRE」(’00)と、90年代未にプロダクションI.Gの成表作を監督することになる。
ここでこういった流れを全部追うことはできないが、「AKIRA」を振り出しにした連鎖反応は多い。人と人に展する技術は流れ、人の進団たる会社を媒介として継承されていくという認識は重要だ。そのように見ていくことで、作品と作品の間に血が通い、ときに遺伝子のように形質を移し替えながら進化をうながす、そういった有機的な結合が見えてくるからだ。この認識を持った上で、アニメーション映画「AKIRA」の位置ずけと、この作品がもたらしたものへの考察をもう少し進めていこう。
アニメーション界に到来した二度の”黒船”
こういう説はどうだろうか。日本のアニメーションは、”黒船”の到来を二度受けているというのは?
非常の失礼な考え方かもしれないが、鎖国をしていた日本が欧米から開国させられ、欧米文化を取り入れて”近代日本”になったように、”アニメーションの国”に”漫画の国”から黒船がやってきて、大変革があったーーーそういうイメージが、どうしても脳裏に浮かぶのである。
一度目の”黒船”とは、手塚治虫のTVアニメ「鉄腕アトム」である。手塚漫画の功績は、乱暴にまとめると、描き割りじみた平面的な日本の戦前漫画に、映画的・映像的なカット割りと構図を連想させるコマ割りを導入し、エポックをもたらしたということになる。
しかし、手塚がアニメ版「アトム」で導入したのは、逆に電気紙芝居と揶揄されたほど非映画的で、止め絵のズームや強引なカットバックでフィルムをつないだものだった。これは、漫画のコマ割りの間にある断層をそのまま持ち入んだような作法である。TVシリーズ予算の問題に対する解決案として、よく槍玉にあげられる3コマ打ち(★1)の導入よりも、このカット割りの方が後世に対する影響は強いのではないか。よく動かそう、アニメ―トしようと見せ場をつくるよい、1枚絵の密度を上げ、少ない枚数、場合によっては止めの積み重ねで見せていくという”アニメ”(呼称も省略形が似合う)の手法は、これは現在でもTV作品の主流になっている。
こう考えて来ると、二度目の”黒船”が大友克洋の本作「AKIRA」という考え方も、何となく成立するように思えてる。”アニメ”は、ここで”ANIME"(★2)への第一歩を踏み出した。。。というと、作り手側は違和感を覚えるかもしれないが、観客サイドからのこういう整理もアリと思って大目に見て欲しい。
1980年前後、大友克洋が漫画界へもたらしたショックは、かつての手塚治虫に匹敵するものがった。日本人の”日本人らしさ”を骨格、骨相とも正確にとらえた人物造形、メカニズムやビル群といったものを緻密に描き込んで厚みを加えられた世界観、映画的な構図とコマ割りなど、漫画に新しい潮流をもたらした。実際、大友克洋以前と以後では、漫画全体に密度感やリアル感という要素は、もし定量化できるとすれば明らかに増大しているであろう。
「AKIRA」以前以後の変化とその要因
問題は、アニメーション「AKIRA」の場合に何が起きたか、「AKIRA」以前以後で何がどう変化したかということに紋られていく。
まず、「AKIRA」の公開時によく言われた「2コマ打ち、リップシンクロ」については、新規技術でも何でもないフルアニメーションの本来的な定義である「画面内にあって動くべきものはすべて自然に滑らかに動かす」という観点からすれば、対費用効果を無視すれば当然の手法である。クイックアクションレコーダー(★3)も制作プロセス上の省力の問題であり、表現には影響しない。黎明期のCG導入(スペシャルパターンの回転)も、光学合成の代用的な使われ方しかしておらず、見せ場となったわけでもない。
こういった宣伝向けに言われてきたことではなく、もっと表現の根幹部分に、むしろ本質的な変革があったように思われる。
キーワードとしては、大友が漫画に与えた影響の劇合と同じく、密度感とリアル感(リアリティ)が中心に来るのでないか。
「AKIRA」で新しい試みのように言われていることは、実はディズニーを代表とするフルアニメーションの作法であった。では、それを導入して「AKIRA」がディズニーのようなアニメーションになったかというと、それとはまた違うところがおもしろい。ここで密度感とリアル感の問題が浮上してくる。ディズニー的なアニメーション作法は、教科書の1ページ目に「スクオッシュ&ストレッチ(漬しと伸び)」と書いてある。つまり、実際の自然現象を省略と誇張することによって、人間の動体に対する感覚をブーストしてある種のトリップ感を引を出すということが、彼らのアニメーション哲学というか、大前提の考え方として存在しているわけである。
ところが、これがわれわれの目からすると、このゴムのような動きはリアリティを損なうものと映る場合が多い。これはディズニー的なものを貶めているわけではなく、文化・作法の差の問題だ。では、「ゴムのようにグニャグニャしないフルアニメーション」があるかというと、それはある。太平洋戦争中のフライシャーによる短編アニメ「スーパーマン」がまさしくそうだ。ここに登場するメカニカル・モンスターは、重心を移動させながら足を出して歩くと、一瞬遅れて手がぶらつくといった、破綻なくもっともらしいアニメートを見せることで確保されたクオリティが、リアリティの震源地である。
だが、それと比較しても「AKIRA」は異なっている。「AKIRA」の場合、ショット全体が抱える重みと、それがフィルムの流れの中で生み出していくリズムが、密度感とリアリティを発生させているように思えるのである。その重みの大半は、作画(原画)段階のモーション部分もあるが、大半はそれ以前の画面の設計図であるレイアウトの段階で盛り込まれている。
ここで大きく要求されるのは、情報量の盛り込み方と取捨選択、すなわちコントロールである。
仮想映画的な考え方
アニメーションの構図は、実はアニメート優先で考えられてきた歴史がある。連続的に絵を積み重ね、軌跡を追って描くときに有利なアニメ的画面構成というものが存在する。歪みのないやや広角気味のレンズ、ピントはパンフォーカス、ライティング位置下明(平行光線の屋外)、そして足が地面につかないようややアオリ気味にして背景が楽になる空、室内なら天井が大きく映り、人物の傾きはシチサン(7:3)でという、ひどくスタンダード臭の漂う画面である。
「AKIRA」原作者の大友克洋は、自主映画で監督をつとめるほど実写映画のフィルムメイキングの演出に詳しく、漫画にもそれを仮想映画的なものとして反映してきた作家である。対して当時のアニメの水準では、そのような”仮想映画的に撮る”という考え方は、まだ主流ではなかった。レンズを意織した構図をとり、フレームを決め、ショット内に重みをもたらす飾りつけを行い、観客のエモーションを巻き込む求心力となる役者やメカの芝居といったものを細かく指定し、極力雑多な情報を少しでも多く取り込み。。。という、実写的な姿勢、考え方は、「AKIRA」の絵コンテからレイアウトいたる段階まで通底している。
そして集ったアニメーターは、その考え方に基づくレイアウトが次にアニメーション段階で求めるもの。。。当時としてはまだ夢のようであった”仮想的リアリティ”という要求条件に対して苦闘し、スタジオが解散した後も見果てぬ夢のようにそれを望み続け、各々の作品で各人なりの咀嚼で追求すること���始めていったにちがいない。もちろん、そこから離れる場合もあったろうか、しかし何かを意識して離れるということは、実はその何かを求めることと、そんなに遠い行為ではないはずである。
ここで言う要求条件とは、作品に臨場感をもたらすためのものである。なぜ臨場感が必要かとさらに突っ込めば、”絵で描いた世界”に没頭して物語を世界ごと”そこにいる感覚で”楽しむためである。
ごく当たり前のことだ。だが、その一番当たり前のことも、すべて
が作り物のアニメーションのフィルム中では、実は非常にいろんなことを意識的に考え、実行しないと違成できないということなのかもしれない。
15年目の 「AKIRA」
こういった考え方がスタッフにじわじわと浸透しながら完成したフィルムが、「AKIRA」なのだろう。クリエイターたちがそこで夢見ながら違成できなかったことを追求し、続く作品でどんどnアニメーション表現を深化させ、リアリティ追求をエスカレートさせていったのが、その後15年の”ANIME”の歩みと総括できるかもしれない。
もちろん「AKIRA」だけが単独でこういう考え方をとっていたわけではない。恐らくそれは時代の要求だったのだろう。「王立宇宙軍」が代表するように、同時代的にいくつもの作品、何人ものスタッフが挑戦していった果てのことだ。だとしても、世界的知名度やセールスの成功事例として、「AKIRA」がきっかけであり分水嶺であったとは確実に言えるだろう。
結果的に作画や背景の描き込みは年を追うごとに幾何級数的に増え、人間のアクションは細かい関節部まできちんと追われ、レイアウトはパースに狂いがなく、光源は常に意識され、特殊な仕上げや撮影効果は常時ふんだんい。。。と、青天井のようにアニメーション作品の密度は濃くなる一方だ。初公開時にはあれほどリアルに思えた「AKIRA」が、今観ると非常に漫画的にも見えるのが、何よりの証拠だろう。
臨場感のせいで「リアルな作品」呼ばれるようになったがゆえに、レアリティ追求のため、底なし沼のようにアニメ作品は情報量を飲み込むようになっていた。情報量とはアニメの場合は人手そのものであり、金であり時間である。そして、スキルやノウハウは人に溜まるから、「リアル作品」とは非常に属人性の強いものとなる。その状況は、この種の作品リストから原画マンやレイアウトマンの名前を横に並べたりすれば、すぐに理解できることだろう。
15年を経過して、「AKIRA」に匹敵する新たら分水嶺は、はたしてどのような形で来るのだろうか。それには大友自身の新作「スチームボーイ」がある回答を提示してくれるのだろうか。非常に楽しみである。
次の15年を考えるために、15年前のブレイクスルーがヒントになるかもしれない。
そのためにも、本書が役立てば幸いである。
★1「3コマ打ち」---同じ絵を3コマずつ撮影して動きを設計するアニメーション技法。「打つ」というのはアニメーターがタイムシートに番号を書き込む行為を感常的に表したもの。それまでのアニメーションは、2コマ打ちが標準で速い動きのみ1コマ打ちだった(フルアニメーション=1コマ打ちは誤った定義)。3コマ打ちだと滑らかさは喪失するが、当初TVはブラウン管自体に残像があるので良い等とされたという。ところがこれはコスト削減にも直結するため、やがて劇場作品も経営者によって3コマをスタンダートとするようになっていく。
★2「ANIME」---マスコミで使われる”ジャパニメーション”という単語は、X称(ジャップのアニメーション)という説がある。事実、米国の雑誌や店頭ではほとんど目にしないため、ここでは”SAMURAI”のように日本語がそのまま英語化した”ANIME”を用いた。
★3「クイックアクシオンレコーダー」---’80年代から導入きれるようになった機械。アニメーターは何枚かの原画・動画が完成するごとに、指でパラパめくって動きに狂いがないかをチェックする。通称、「指パラ」と呼ばれる作業で、これは動きをチェックする第一段階だ。当然「指パラ」だけでは確認しきれない、複雑な動きも出てくる。米国でのフルアニメーション制作にはライン・テスト(ペンシル・テスト)という工程があり、ペイントする前に動画にブレ等の破綻がないかチェックする。フィルム撮影を使用するため、コストの関係で国内ではほとんど省略されていた(間に合わせのダミーとして線画を撮影することはあるが、目的が違う)。それを擬似的に行う装置がこれで、ビデオによってタイムシート通りに動画をビデオに取り込み、完成フィルムではどう見えるか、ペイント前にチェックする機械である。「AKIRA」のクイックアクションレコーダーによる画像が、「AKIRA DVD SPECIAL EDITION」(バンダイビジュアル)に特典映像として収録されている。
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theatrum-wl · 2 years ago
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【アンケート企画】 「ふりかえる私の2022年」
WLでは恒例のこの1年に見た舞台作品の中で印象に残った3本を観客のみなさんから募るアンケートを実施しました。 WLスタート以来毎年行っているこの企画、8回目の今回は10名の方にご参加いただきました。 ご参加いただいたみなさん本当にありがとうございました。 2022年は継続する厳しい環境の中で舞台芸術が少しずつ新たな動きを始めた年だったように思います。 ここではそんな1年を振り返り、2023年もまたみなさんといっしょに舞台を見守っていきたいと思います。
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矢作勝義( 劇場プロデューサー ) 2022年の観劇本数:150本 鵺的『バロック』(ザ・スズナリ) アマヤドリ『抹消』(アトリエ空洞) 劇団印象『カレルチャペック』(東京芸術劇場 シアターウエスト) 鵺的「バロック」はリアリティとは対局にありながら、本当にありそうな世界を描き、観客をワクワク・ドキドキさせ、その世界の中で人間本来の生き様が描かれた秀逸な作品。アマヤドリ「抹消」は、近年表面化してきた舞台芸術界におけるハラスメント問題とキャンセル・カルチャーについて呼応したような作品。しかし、現実がこの年末にかけて、拍車をかけて混沌としてきた。劇団印象「カレル・チャペック」は、カレルチャペックという人物と、彼が生きていた時代と場所を取り上げながら、現代日本の問題点を見事にあぶり出すことに成功していうた作品である。2022年は、コロナ禍3年目で2020年から続いたコロナ禍の影響��よるしわ寄せが色濃く出た年だと言える。そのため、思い切った作品作りができなかっただけでなく、客席における観客の緊張感が高く、本来の舞台芸術を楽しむ環境になりきれず、作品もそうしたことに影響されてか、思い切ったチャレンジが少なかった年だった。
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片山幹生(教員) 2022年の観劇本数:87本 のあんじー『夜を旅した女』(釜ヶ崎野外) ノイマルクト劇場 & 市原佐都子/ Q『Madama Butterfly』(ロームシアター京都) 日本劇団協議会『遙かな街へ』(シアターΧ) 20代前半女性二人の演劇ユニット、のあんじーによる野外移動劇『夜を旅した女』は、今年私がこれまでに見た演劇公演のなかでもっとも強烈な演劇体験だった。大阪府西成区あいりん地区、昭和の時代に取り残されたようなレトロな下町をのあんじーが切り裂いていく。数十名の観客を引き連れて、異装の二人組の女子が、規格外の発想で、釜ヶ崎の風景を情念の物語の舞台に塗り替えていった。『Madama Butterfly』は京都まで足を運んで見る甲斐があった作品だった。西欧人・社会と関わりがある日本人にとって自明のことであり、誰もが気づいていながら、気づかないふりを続けている人種差別と根深くねじれた劣等感が突きつけられた。『遙かな町へ』はスイス人演出家による谷口ジローの名作『遥かな町へ』の舞台化。谷口マンガの繊細なリアリズムを、洗練された象徴主義の空間に展開させ、再現させた素晴らしい舞台だった。
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kiki(地方公務員) ドキドキさせてよ- 別館‐ 2022年の観劇本数:105本 Bunkamura『パンドラの鐘』(シアターコクーン) Mrs.fictions『花柄八景』(こまばアゴラ劇場) オペラシアターこんにゃく座『ルドルフとイッパイアッテナ』(あうるすぽっと) もしかしたら自分は、運命の一本に出会うためにいろんな舞台を観てるのかな、とこの頃思う。ここに挙げた3作は、どれもその一本と言ってもおかしくないくらい魅力的な作品だった。 『パンドラの鐘』:蜷川氏の演出を彷彿とさせるラストの演出、杉原さんらしい和のテイストの取り入れ方、何より戯曲の持つ骨太なメッセージが印象的な舞台だった。初演の一部を当時テレビで観て月日を超えて今回の観劇、それだけで感無量だ。 『花柄八景』:魅力的なキャストを揃え、複数団体の競演する企画公演だった初演とはまた異なる面白さや切なさを十二分に見せた。季節や時間の細やかな変化を感じさせる美術・照明・音響なども含め、珠玉の一本となった。 『ルドルフとイッパイアッテナ』:原作の魅力を生かして、寄り添うふたつの魂の交流を絵本のようなピュアなタッチで見せた。団体の新しいレパートリーとしてこれから何年も上演されていく作品だろう。
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齋藤理一郎(さくりさく企画) 2022年の観劇本数:221本 中野成樹+フランケンズ『EP1(ゆめみたい)』(Sunlight  Studio Shibuya他) 動物自殺倶楽部『凪の果て』(SPACE雑遊) 劇団普通『秘密』(王子小劇場) 毎年3本を選ぶ難しさに苦悶するのだが、今年はこれまでにない表現のインパクトや緻密さを感じたものを選んだ。 2022年、まだまだコロナが収束したといえる状態ではなかったけれど、そんな中でもコトリ会議、ムニ、ぱぷりか、エンニュイ、いいへんじ、中野坂上デーモンズ、小松台東、Hauptbahnhof、東京にこにこちゃん、吉祥寺Gorilla、MCRなどなど、観る側の印象に強く刻まれる舞台が目白押しだった。また、幸せ学級崩壊のリーディング短編集、倉田翠『今ここから、あなたのことが見える / 見えない』、毛皮族『セクシードライバー』、青年団リンクキュイ『あなたたちを凍結させるための呪詛』等、空間に編まれる新たな語り口に目を瞠る作品も数多くあった。 まだまだ逆境の中だけれど、様々に感じられた舞台の新たな歩みが心強く思える1年でもあったように思う。
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薙野信喜(無職) のんちゃんのつれづれ 2022年の観劇本数:100本 東宝『千と千尋の神隠し』(博多座) 松竹『唐茄子屋』(平成中村座) 市原佐都子/Q『妖精の問題 デラックス』(久留米シティプラザ) 2022年もコロナ禍は続き、観劇本数は減ったが、ずば抜けた3本を観られた。 上記以外では、マギー・マラン「May B」(北九州芸術劇場)、神田伯山「寛永宮本武蔵伝 完全通し公演(福岡市科学館)、ヨーロッパ企画「九十九龍城」(西鉄ホール)などの舞台も印象深かった。
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中西理( 演劇舞踊批評・ブログ「中西理の下北沢通信」主宰 ) 中西理の下北沢通信 2022年の観劇本数:200本 ムニ『ことばにない 前半』(こまばアゴラ劇場) 青年団リンク キュイ『あなたたちを凍結させるための呪詛』(アトリエ春風舎) 悪い芝居『愛しのボカン』(本多劇場) 生きていくことの辛さをモチーフにした演劇が若手演劇作家の作品で増えてきているように感じた。綾門優季作の青年団リンク キュイ「あなたたちを凍結させるための呪詛」のようにコロナ禍の世界を直接描く場合もあるが、同性愛者に対する社会的な抑圧を描いたムニ「ことばにない 前編」(宮崎玲奈作演出)、精神疾患をかかえた人たちを描いたいいへんじ「薬をもらいにいく薬」「器」、お布団「夜を治める者」、不況のもと貧困に苦しむ若者を描いた小田尚稔の演劇「よく生きろ!」など作品の多くはコロナそのものを描くのではなく、描かれた世界での生き辛い状況を描き出すことでコロナ禍の閉塞された状況をそこに仮託しようとしているようにも感じた。
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北村紗衣(研究者) Commentarius Saevus 2022年の観劇本数:114本 モダンスイマーズ『だからビリーは東京で』(東京芸術劇場 シアターイースト) まつもと市民芸術館 『KING LEAR -キング・リア-』(まつもと市民芸術館) unrato『薔薇と海賊』(東京芸術劇場 シアターウエスト) 3本には入れませんでしたが、モリエール生誕400年でいろいろなモリエール上演が見られたのは良かったです。
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ウルコフ(自営) 2022年の観劇本数:170本 KAAT神奈川芸術劇場 『ライカムで待っとく』( KAAT神奈川芸術劇場 中スタジオ) モダンスイマーズ『だからビリーは東京で』(東京芸術劇場 シアターイースト) スリーピルバーグス『旅と渓谷』(屋上庭園ふくにわ) 国内で制作される新作戯曲を例年以上に見た2022。その中でベストと思える作品をあげました。複雑なことを複雑なままに表現することが大切だと最近つとに感じているのですが、この3本は、やはり、そのような作品でもあると思います。残念なのは、新国立劇場の新作2本に、小手先の硬直した印象を受けたことでした。
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でんないいっこう(自由人) 2022年の観劇本数:25本 彩の国さいたま芸術劇場『TRANSVERSE ORIENTATION』(彩の国さいたま芸術劇場) 彩の国さいたま芸術劇場『May  B』(埼玉会館) ミクニヤナイハラプロジェクト『はじおわ』( 吉祥寺シアター ) 今年は何故だかダンス作品を多く観た。実際の 言語ではなく、声が聞こえてくる様な、しかし自分にとつて都合の良い物語を聞いていたのかもしれない。①光と影による造形の美しさは素晴らしい。②一人が幾人もの人物になり群像にもなり表情が豊か。③衣装が後ろ姿で大きな声を出す。③’『私は幾つものナラティブのバトルフィールド』岡田利規演出。言葉で動く体。うふふと笑えて来る。
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小泉うめ(観客発信メディアWL・舞台感染対策・舞台制作) 2022年の観劇本数:100本 コトリ会議『みはるかす、くもへい線の』( AI・HALL) ももちの世界『あと9秒で』( in→dependent theatre 2nd ) ダンスの後に~ここからはじまる『東山オクラホマミキサー2022』(東山青少年活動センター 創造活動室) コトリ会議は別の作品もあったが、劇団としての強さ、山本正典の作家としての新たな踏み出し、そしてAI・HALLへの思いと言った点で特筆に値するものがこちらにあった。ももちの世界もピンク地底人3号がここ数年取り組んできた手話を交えた劇作がただ新鮮なだけでなく一つの形として成就した作品だった。「東山オクラホマミキサー2022」は20年前の伝説が甦るとともにそのアップデートに再び立ち会えた幸福を感じることができた。何かと創作以外の話題が社会的に取り沙汰されることの多い昨今の舞台芸術界だがこうした持続的で地に足の着いた活動には頭が下がる。
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studiofuntas · 5 years ago
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新しくやってきた奴 新参モン ここのコロニーには黒猫のボスがいて ボスが自ら新参モンを追う払うのではなく ボスから命令を受けた部下が根性試しをするというのが習わしみたいだ この根性試しに合格した奴はここのコロニーの住民となることができる 写真を撮っていた 痩せ型のキツネ型のシッポが特徴の新参モン このキツネのシッポ、辺りを伺ってはどの猫がボスなのか探っている ボスは昼食後の昼寝の最中 二匹の部下どもがキツネのシッポに気づいた 睨み合い 緊張感 静寂 時が止まったような感覚に空気が固まる 正面から低く構える茶太郎 右側からは野武士が戦況を見守る この二匹の部下どもの鼻息に目を覚ましたボス アイコンタクトで野武士に 「追っ払え」と命令 その瞬間、野武士が動いた 逃げるキツネのシッポ キツネのシッポは草むらに逃げ込んだ あとを追いかけて野武士も消えていった 世話人のおっちゃん曰く こういう根性試しに合格したら仲間や ワシらにんげんの世界も厳しいけど 猫の世界もそれ以上に厳しいんや 野良猫は生きるか死ぬかの命を張ったゲームを毎日してる キツネのシッポは今日初めてここに来たけど また来た時、ボスが仲間に入れるかどうかはわからしません ワシらかてだれかれとなく仲ようできひんのんといっしょちゃいますか にんげんにはにんげんの 猫には猫のルールっちゅうもんがあるんやろね 仲ようしてくれたらええんやけど 本能で生きとるさかいね おっちゃんは 🎵ちゅーるちゅーる ちゃうちゅーる ちゅーるちゅーる ちゃうちゅーる🎵 どこかで聴いたコマーシャルソングを口ずさんだ おマエ、さっきのキツネのシッポ 仲間にいれたれや と言いながら封を切り 🎵ちゅーるちゅーる ちゃうちゅーる ちゅーるちゅーる ちゃうちゅーる🎵 とまた歌い出した ボス猫は それはワシが決めることやでといった表情で 一心不乱にしゃぶりついた 無我夢中でしゃぶりついた そして 一所懸命にしゃぶりついていた 最近仲間入りできた若猫がおとなしく順番を待っていた ⭐️ 新参モン ⭐️ #コロニー #ボス猫 #黒猫 #ボス #キツネのシッポ #痩せ型 #アイコンタクト #部下 #茶太郎 #野武士 #草むら #逃げ込む #仲間  #野良猫 #生きるか死ぬかのゲーム #ルール #本能で生きる #ちゅーるちゅーるちゃうちゅーる #チャウチュール #一心不乱 #無我夢中 ⭐️ #StudioFuntas #Funtas #出張撮影 #撮影 #地方遠征 #スタジオ撮影 #スタジオファンタス #ファンタス #新参者 ⭐️ スタジオ撮影も出張撮影もFUNTASへ。 企業さま向けの撮影もいたします。 ⭐️ 完全予約制となっておりますので詳しくはお問い合わせください。 ⭐️ お問い合わせはDMにても受け付けております。 ⭐️ 「お客様とNew-Styleを」 FUNTAS 箕面スタジオ 大阪府箕面市箕面8−3−35 Tel 06-7708-4322 Hp 080-9745-1121 https://www.instagram.com/p/CBI6Fu_j03Z/?igshid=1vpdqg7i913d5
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simacks · 6 years ago
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2019.01.12 The Cheserasera 【2018 冬の煌星 ワンマンツアー】新代田FEVER
この日は絶対に雪が降る、という予感があった。理由はないけど、ツアーが始まった時にはもう雪予報を信じて疑わなかった。なんとなくそういう感覚が冴えている時がある。そして予感は外れなかった。都内の初雪だ。冬の冠にふさわしい。
The Cheseraseraの2018年初ライブと今年の初ライブは偶然にも同日で、去年は仙台から始まった。この時の彼らも年末にスタジオにこもってREC三昧だったような記憶がある。スタジオで年賀状を書いて、箱根駅伝の話もしてたよね(笑)1年経つのが速すぎる。RECとライブという、謂わば両極の作業のなかで迎えたツアーファイナ��だが、既に次回のツアーとアルバムの情報が解禁になっている。
北海道や九州、遠方の人たちが首を長くしてツアーを待っているからこそ、最初の情報は公式なものとして本人達から伝えられたかったけど(ライブのMCで情報解禁!ていうのが好き)、この新代田では7月の渋谷WWWのチケットが最速先行で販売される。絶賛REC中のアルバムのツアーファイナル、半年先のチケットとは、かなり強気だ。「期待して良い」、ということだろう。
この日、自分の中にはどこかもにょもにょした気持ちがあったからだろうか、待っている間がすごく長かった。出てきたときのことをあまりよく覚えていないくらいドキドキしていたのに、にしやんがジーンズをはいてるのを見つけると「ジーンズ!」と思ったのが最初の記憶だから、大して緊張もしていなかったのかもしれない(笑)このツアーはずっとプレベだったのに、今日はジャズベだ。私にはミイに見える柄のついたマリメッコの花柄のピンクのTシャツだった。ステージ袖から映像を撮影しているらしいカメラが覗いていた。宍戸くんは札幌でお別れしたスニーカーのかわりに、新しく買ったらしいスリッポンにレギンスみたいなスキニーのパンツ。ベロアのシャツ。美代さんは年末にヘアメンテに行ったに違いない、蘇ったパーマが最強の可愛さで、自作の五分袖の白いTシャツ。両手を振ると脇が見えるくらいのゆるさにドキドキした。
この日もgood morningからだった。これはどこの会場でも変わらなかったらしい。ステージからの照明が眩しくて、熱くて、前方にいた私は目が開けられず、細目になる。とても優しい音とドラマチックな広がりで幕を開けた。ファンファーレのドラムが鳴ると、条件反射のように身体が跳ねる。フロア全体が揺れているのを期待しながら、今年10年目を迎えるらしいバンドとの出会いの日を思い出していた。2年以上が経っていた。初めて聴いたファンファーレを私はやっぱり覚えていて、その感覚は今も変わっていなかった。とてもポジティブな曲で、ドラムが良い。出かけに「今日は腕時計いらないっ」なんて言いながら出てきたりすると、生活の中に彼らの存在が根付いているのを感じる。「ひたすら前へ!」の直後に美代さんが腰を浮かせながら思いっきり��ラムを叩く場面がとても好き。力強くて、弾けていて、普段の感じとは違う荒々しさに見惚れていた。
風に吹かれて、は新宿でも序盤にやっていた曲だ。Night and Dayを最初にどこで聞いたのかは忘れてしまったけど(うちに来た時に誰かがかけてくれてたかネットで聞いたか)、リズムが印象的な曲で、メロディがすんなり入ってきて耳に残るので、身体が自然と覚えていた。新宿で初めてライブで聴けた曲。引っ掛かるギターと、特徴的なドラム。廃盤の中から披露された曲に、MCで宍戸さんが「知ってる曲と知らん曲でのノリが違いすぎな!笑」と茶化す。「ソールドアウトありがとう!好きに楽しんでくれ!」と言い「かっこいいリフ弾くんで手ぇ挙げてください!」LOVERSだ!宍戸さんの煽り文句に、すでに「わーい!にしやんスラップだ♡」と最初から気がそぞろになる。宍戸さんは「新代田ーー!!」と叫んでいたような気がする。ギターのリフもめちゃくちゃかっこいいので、わーー!ってなったはずなのに、ほぼずっと西田さんを見ていた。にしやんスラップしてるう!(見たまんま)と、うっとり。ベースをとても大切にして丁寧に弾いてるイメージがあるので、スラップで弦をバチバチやるところに半端なくドキドキする。ピックと指とスラップてめちゃくちゃ忙しくて、目がしあわせでした。好き!ゴーストとスラップがたくさんある感じのは毎回だと疲れてくるけど、たまに出されるとめちゃくちゃ美味しい。とにかく盛りだくさん。バキバキだ。
そして、LOVELESS。これぞプレベですよね(ジャズベなんだけど)。なんか今日は音があんまりな気がするかも…と思いつつ、最初の一音で「きたっ!」と跳ねてすぐ汗かいちゃった…輪になって手を叩く!で手を叩いて、お前も!お前も!お前も!お前も〜!!て、いつかフロアのみんなで指差したりしたいな〜。好きに楽しめばいいんだけど、決まったフリみたいなものがある曲は一体感があって楽しい。仲間内できゃっきゃ笑いながらやるのがすっごく楽しい!
ここで「退屈」が来たので、「あ、にしやんの地獄だ」と表情を伺ってみるけど涼しい顔を保ってた…と思う(ライトが眩しすぎて肩から上がほとんど光で飛んでいたので表情は妄想かもしれない) 音源はジャズベで録ってて、わかりやすく良い音がするので、どうしてもベースばっかり聴こえるけど、それはライブでも変わらず、割とベースばっかり見てました。いや、もうベースしか見てなかったごめんなさい白状するとずっとベース見てました。たぶん脳内HDDには、にしやんとベースの記憶ばっかりで、でも西田さんの肩より上はライトですっ飛んでいたのでほとんど表情も窺えず、とにかく「左手の爪短いな」とか「小指もしっかり使われてて大変だな」とか「指弾きのときピックアップに親指を乗せて弾いたりしてるよね」とか、「そういえばもうかなり前になるけど謎の部品が壊れた(?)とかいう時もあったな」とか、「和音てそうやって弾いてるんだな」とか、ほとんど全部の記憶がベースです。(バラードゾーンのYou Say Noと心に抱いたままのときも同じくらいずっと見てた)ただ、返しの音しか拾えないくらい近くても良い音がするはずなんだけど、なんとなく音の密度が足らない気がしていました。
カゲロウの後だったかのMCでは、美代さんが暗闇から「明けましておめでとうございます!」と立ち上がって挨拶。あまりにも新年感がありすぎて、思わず「年越しライブだったかしら」と錯覚するくらいでした(笑)各地のリクエストが土地によって違ったこと、「みんなこういうのが聞きたいんだ〜!」と新たな発見があったことに触れ、ソールドアウトした会場が多くあったことには「ありがとうございます!」と改めて頭を下げていた。自分の作った(作詞した)曲もいくつか入ってて嬉しかった、とも言ってたかな。(美代さんが話している間、西田さんはボードとベースを触って調整してました)(そんな必死なのに美代さんが「あれ、なんだ…」と言葉を詰まらせると「リクエストな!」と突っ込むのを忘れないにしやん)(すき…)(作業してる西田さんの様子を伺って話を延ばしたりする美代さん)
そして、「今日、雪降ったんでしょ?」と宍戸さんが訊ねると「らしいね〜」と相槌を打つ美代さんと「うん、降った」と答える西田さん。
宍「え、にしやん見たの?」
西「割とこんなデカイ(指で表す)ので、東京にしては降ってるなっていうくらい降ってたよ」(ちなみに10時から11時過ぎくらいに降ってた)
宍「へぇ〜。今日、雪見た人ー?」(会場から手があがる)
宍「ふーん」←ぜんぜん興味ない声
西「おいやめろ!滑ったみたいになってるだろ!手を あ げ て く れ て る の!」
というゆるい雰囲気の雪の話から、白雪へ。
ここからバラードが続く。
心に抱いたままの後のMCでは西田さんが暗闇から「こんばんは!」と言うとフロアから「こんばんは〜」というまばらな声と共に拍手が起きる。会場からの拍手に対して間髪入れずに「そんな拍手しなくていいから、手の細胞死ぬんで」と返す西田さんが、ホント、にしやん(笑)「今年初のライブがソールドアウトで嬉しいけど、浮かれないようにしようと思ってる!」というような感じのことを話してMCを終わらせようとしたら(美代さんは「なんか大黒柱感あるな」とつぶやいてた)「にしやん、なんかベースの話ないの?仙台ではスラップの話してたじゃん」と宍戸さん。ここからの西田さんの生き生きとした上擦った声と早口になるところに「もう勘弁してくれ〜!!」と表情を保っていられないくらい好きでした…。
「俺ね、ベースが大好きなんですけど、まず今回のツアーはずっとプレベだったんだけど、プレベってのはプレシジョンベースの略ね(宍:プレ…?)プレシジョン←(かなりハッキリした口調)、正確なっていう意味なんだけど、曲によってこれはプレベだなっていうのがあるのよ(ここでセトリを見る)いわゆるカンニングペーパー見たけど、割とこうして見るとプレベだったな〜…(笑)…なんですが!!なんと、このジャズベは、ジャズベースね!これは、プレベっぽい音が出せるんですよ〜!」
宍「でもそれ…お高いんでしょう?」
西「うん。ここでは言えないくらい高い。5年ローンです。俺、これ無くなったら泣くと思う…(笑)」
前ににしやんが言ってた話ですが、「66年のフェンダーのJBフロントピックアップは亀田さんが持ってるのと大体同じやつ」なんですね。調べなくてもわかるくらいの良いお値段。私の推測では軽い車が買えるかな、だったので5年ローンも納得です。60ヶ月!ヴィンテージはめちゃくちゃ大切にしててもお手入れとかメンテとかとにかく大変らしい。それを「ファイナルだからはしゃいで持ってきちゃった」んですって!私���このとき、人には見せられないくらいの顔をしていたと思います…(笑)
「本当に内緒にしてね」と口に人差し指を当てながら肩をすくめ、「それでは5年ローンの音をご堪能ください」なんて言うもんだから…涙あふれてこない!(笑)The Cheseraseraの曲はベースがよく動くというか、音が多くて、メロディを奏でているけど、涙あふれてたも例に漏れずそういうイメージだ。5年ローンの魔法により、コーラスとベースしか覚えてない。が、なんとこの後、私がここ最近で一番聴きたいと(ひとりで)ゴネていたスタンドアローンがやってきた。ベースのリフがカッコいいやつ!というかこの曲の主旋律はベースですよね…?なくらいずっとベース。かと思いきや、美代さんがめちゃくちゃにドラムを叩いていて、ずっとベースを見ているはずなのにそうはさせてくれない気迫。倒れちゃうんじゃないかというほど渾身のドラムだった。汗が飛び散るとキラキラしてた。
そして、「ここになかったらどこにあるんだろう」最後の恋。やっぱり勢いがある。2018年、一番聴いた曲。2月に初めて名古屋で聴いてから、もうぜんぜん違う。曲が生まれたところは見ていないけど、育っていくのを見てきた特別な一曲。間奏で3人が向き合って弾いている場面で、フラフラになりながらギターをかき鳴らしてる宍戸くん(多分、お口をぎゅーってしてる)と、ベースを高くかざしたりしながら弾いてる西田さんと、2人をしっかり見ながら叩いてる美代さんの姿にスリーピースのバランスというか、3人がちゃんと引っ張り合って立ってるのをとても感じる。ラストの大サビで手を上げてから手拍子に入るのもだいぶ揃ってきた気がする。西田さんが高く腕を突き上げるところが好き。
続くDrapeがまた全力だったので、ここで本編が終わりかと思ったくらいだった。どちらかと言えば叶えたい事が多い私は、Drapeがかなり好きだ。切なさのあるメロディと歌だけど、とても強い。そして油断したところに東京タワー。ぎゅーっ!と詰め込んできた!「大切なのは勇気、前を向く事」嫌なことや踏ん切りのつかないことはやっぱり存在するけど、東京に来たことを悔やんだことは一度もない。ちょっと前に移転したオフィスからは、また東京タワーが見えるのでその度に思い出す。アウトロのベースも好きだし、最後に静かに鳴らすところもとても好き。
これで終わらせてくれないのは、流石に意地悪だろうと嬉しい悲鳴の熱さの中、「愛しておくれという曲ですぅ!」で会場が更に熱気を帯びた。にしやんベースいっぱい弾いてる!(語彙力)バイト面接 何度目かな、のコーラスが入るところが一番好きだ。音源にはない。ここまで西田さんが全然煽ってないのは、返しのスピーカーに「乗ると転ぶ」みたいな事が書いてあったからだと思うけど、物足りなくて寂しさが限界だったところにラストナンバー「月と太陽の日々」。西田さんは下手のスピーカーによじ登って会場を見渡してました好き。そういえば、全編通して宍戸さんも何回かセンターに身を乗り出してギターを弾いていたけど、ダイブするには詰まりが甘い感じだったのでドキドキしながら見守りました。FEVERは床がほとんどコンクリートだから落ちたら大怪我なのだ。宍戸くんがサビの前で「いこう!」と言うのもいつの間にか定番化されていて、私は好き。楽しい。ところどころで美代さんも、めずらしくめちゃくちゃ叫んでいた。吠えていた、の方が近いかもしれない。本編を全力でやりきった3人が清々しい面立ちでステージを去ると、休む間も無くアンコールがかかる。
「アンコールありがとう!」と颯爽と帰ってきた宍戸さんがギターを構えていると、ステージ一帯にオヤ?という空気が漂う。「あ、ごめん、コレじゃないわ(笑)みんなで写真を撮ろう!」と集合写真。横広の会場には私の想像よりもたくさん入っていたようで、写ってない人もいるくらい満員だった。360度カメラも使ったけど、果たして撮影できたのだろうか(笑)撮影完了を知らせる音の鳴らないカメラに、リハ中から「OK牧場」を連発していたらしい“滑りたがりの方の宍戸翼”が「NG牧場」とボヤいていた…。そういうところあるよね、と言われて、「中高生の頃、角曲がって姿見えたら、しっしーキモぉい!」と言われてた話をしていて、美代さんと西田さんが「それはキモいね」みたいに言ってた。
まったりとした空気から、名残惜しくて別れるのが寂しくてたまらなくなる、After party lululu……の前に、思わず会場から「あー」という声が…(笑)しゃべっているとなかなかチューニングをするタイミングも難しいものなんだろうね。MVのDVD特典コメントのいつか喧嘩のシーンとか撮影したい的な話を思い出す。カメラが入っていたので、よりMV感を彷彿とさせたのかもしれない。ずっと変わらないもは何ひとつ無いんだけど、いつも気づくのが遅すぎてしまう。大切にしたい瞬間を想わせてくれた。私の感じ的に少しgood morningと立ち位置が似ている曲だ。こちらは夜だけど。
そして、「つかぬ事をお伺いしますが!クソみたいな恋愛をしたことはありますか?!…聞いても大体こんな感じだっていうことがわかりました…みんな、ないんかな?笑 俺にはあります!俺の史上最低のクソみたいな恋愛の曲です!」とIHLS。私がThe Cheseraseraに出逢ったころは、新曲といえばこの曲だった。初夏を少しすぎた6月だったか、配信で先行リリースされる曲を聴くために0時過ぎるまでスマートフォンを握りしめてた。最初からめちゃくちゃカッコよくて、寝不足を恨んだのも懐かしい。今や、アンコールを締める曲。イントロで遠慮がちに足元を確かめながらスピーカーに乗る西田さんを私は見逃さなかった…!大阪だったかで「うちはライブでアレンジが多い」みたいなことを言っていたのだけど、そのアレンジが一番よくわかるのがこの曲(私的に)。ライブによって弾いたり弾かなかったりの変化が楽しめる。そしてニヤニヤする…。音源だとアウトロでブーン!(グリス)があるのにやってるところを最近ではほとんど見ない代わりにバーーン!て乱暴に掻き鳴らしてますね、主語が抜けましたがベースの話です。「笑わせんなよ!」も周りの声が聞こえるようになってきた。西田さんが耳に手をあてて煽っていたので大好きでした。
メンバーが去り、会場にSEがかかる中、まだまだアンコールは鳴り止まなかった。宍戸くんがギターをブーン!とステージに投げ置いて帰って行ったので不安でしたが、ダブルアンコールチャンスは無事に成功しました。「結構残ってくれてる!」と嬉しそうに戻ってくると「ギター大丈夫かしら」と確認。宍戸さんがどこかの会場でフロアからステージにギターをブーン!て投げた?だったかの話を西田さんがすると、宍戸さんが「桃白白(タオパイパイ)みたいなやつな」とつぶやき(そして滑る笑)またも西田さんから「(ぶん投げるのが)愛?(笑)キミも5年ローンで楽器買えば?」とやりとりする場面があった。(タオパイパイの意味がわからない人はどどん波で調べてください。笑)
ここで「新曲やります!!」REC真っ最中の一番ホットな曲を届けてくれた。ナイティーン エイティー…ン…みたいな数字が聞き取れたのと、多分また愛について触れている気がした。アップテンポでちょっとパンクっぽい勢いがあるように感じた。‪最後の恋e.p.がめちゃくちゃ好きで、まだ1年も経ってない中でのRECにちょっと寂しい気もしていて、自分の中の小さな人がいじけて居て、楽しみにしてる人といじけてる人がぶつかって、「あ゛〜!」な心境だったけど、新曲は最初から知ってるんじゃないかと思ったくらいに超The Cheserasera‬だった。手拍子を促されてもなんの違和感もなかった。理屈なんか要らない、どうしようもなくこの人たちが好きだった。いろいろ考えるのは悪いクセでしかないけど、考えずにはいられない中でこれだけが真実だった。好きには好きしかない。
最後は「ありがとうございましたっ!!」と勢いよくSHORT HOPE。いちばんを決める事は出来ないけど、たぶんこの曲がいちばん好き。アクセルを踏み抜ける、周りなんて見えなくなる、「なにも考えられない」曲。惚れた弱みって言葉があるけど、限りなくそれに近くて、どう足掻いても「好き」に抗えるものはない。‪必要か不要かで考えたら、世の中のものは殆ど不要なのかもしれません。でもいるとかいらないとかじゃなくて「好きかどうか」でいたい。この命が終わるまで‬。
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yogastudyabroad · 4 years ago
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pataphysiquepresents · 8 years ago
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February 2017 3 days ogikubo club DOCTOR 6bodies60minutes6monthsVOL.1
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February 2017 3 days ogikubo club DOCTOR 6bodies60minutes6months VOL.1 総員荻窪に結集せよ! 2017.2.21(TUE) 荻窪サイケデリック”幻惑、反復、Rock'n'Roll !” THE DEAD PAN SPEAKERS / 川口雅巳NEW ROCK SYNDICATE 2017.2.22(WED) 荻窪水曜劇場”We are Pataphysical Alchemist !” NASCA CAR(from OSAKA) / 魔術の庭 2017.2.23(THU) サボテンだらけの部屋”小泊村よ サラエヴォよ 目覚めたら応答せよ” 三上寛 / 鳥を見た 各日開場19:00 開演19:30 3日間通し券¥3000のみ 各日drinkのみで入場可 企画:club Doctor / Pataphysique Records / Purifiva / le sonimage records
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THE DEAD PAN SPEAKERS 反復する律動は腰へ直接響き、絡み合う残響が頭の上を回る・・・。 より単純なフレーズに削がれ、また作られたその曲は、常に退化し、そして進化し続ける。 It exists because there is you. デッドパンスピーカーズは常にあなたとともに。 2006年 ファーストアルバム "Dead Pan Speakers" 2008年 V.A DVD "JAPANESE STEREOTYPE" 2008年 シングルCD-R "Private Press Issue 01/(It is) Shining" 2009年 セカンドアルバム "Electric Sunshine" 2015年 7inchi スプリットシングル"3wayEP" www.deadpanspeakers.com soundcloud.com/the-dead-pan-speakers
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川口雅巳ニューロックシンジケイト サイケデリックロックバンド。川口雅巳、菊池明を中心に2006年結成。現在はドラマーに山本耕一郎を迎えて活動中。海外レーベル及び自身のレーベルPurifivaより、LP、カセット、CDRなどリリース多数。ヨーロッパ、アメリカ、韓国などでのライブ活動も行っている。本年セルフプロデュースによる現メンバーでの初スタジオ録音作をリリース予定。前後縦横上下から時間を行き交い埋もれて出会うはずのない響きを引きづり出し重なり生まれたうねりをあり得ない眩しさとスピードで解き放つ
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NASCA CAR 1994年大阪にて結成 1997年ファーストアルバム「電波潮流」発売 1999年セカンドアルバム「電子水母」発売 2002年サードアルバム「Nasca Car」発売。2013年「最新録音盤」発売。2016年には泯比沙子とのジョイント企画盤「Love&War Now!」発売。他コンピレーション、リミックス多数。活動初期からディープ・パープル並のメンバーチェンジを延々繰り返しつつ未だ活動継続中。21世紀に入ってからはメンバーが東京在住メンバーと大阪在住メンバーが混在したためよりその実体がつかみにくいモノになっている。今回は中心人物中屋浩市を中心に東京在住メンバーである須藤俊明、mahi-mahi、MIKAの4名のバンド編成で出演予定。
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魔術の庭 17年の歴史を刻んだ前身、OVERHANG PARTYの灰の中から誕生したRock Band。その音楽性は、静謐な唄から大音響のハードサウンド、到達点不明のドローン、インプロヴィゼーションまで極端な振幅を孕み、永遠のRockn' Roll Theatreを現出させ続けている。 リーダーの福岡林嗣は2015年自身のレーベルPataphysique Recordsを再始動させた。国内外のレーベルより現在6作のアルバムをリリース、3作のコンピレーション盤に参加している。 Rockの後衛もしくは保守反動。http://www.majutsunoniwa.com/
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三上寛 1950年3月20日青森県北津軽郡小泊村(現・中泊町)に生まれる。67年同郷の詩人、寺山修司などの影響を受けて現代詩を書き始める。 69年ライブ活動開始。71年レコードデビュー。タブーな性言語、日本の呪われた風習を題材にした「怨歌」を歌いセンセーショナルを巻き起こし、 日本を代表するフォークシンガーとして確立。デビュー45年を越えて、 青森という土地をバックボーンにパワー溢れる津軽を原風景とした人間の 生き様を歌う自作の唄はこの平成の時代の津軽民謡なのかもしれない。 また詩人として詩集やエッセイも著書多数。 ほかフィールドは広く、俳優(映画「世界で一番美しい夜」 「戦場のメリークリスマス」「トパーズ」などに出演) レポーター(NHK-TV「ふだん着の温泉」)などで活動。  facebook http://www.facebook.com/nagarerukumowasennennokus     Twitter https://twitter.com/nagarerukumowas
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鳥を見た なかおちさと(G./Vo.) 山崎怠雅(B.) 東郷生志(Drs.) 浅野廣太郎(Sax) 2002年、カールマイヤーのなかおちさと、川口雅巳ニューロックシンジケイトの菊池明、OVERHANG PARTYの山崎巌にて結成。 宮下敬一(MANDOG)などをゲストに迎えたライブや、CD-R作品二作(ソニマージュ・レコーズ)を遺した後に活動休止。 2008年、なかおちさとを中心に再編成。新メンバーはHardy Rocks、魔術の庭ほかで活躍する山崎怠雅、東郷生志。 今はなき青い部屋などでライブ活動を続け、一年後にvajuwajuのサックス奏者・浅野廣太郎が合流し、現在のラインナップとなる。 東京アンダーグラウンドにてライブ活動を重ね、2015年、自身初の公開録音ライブ企画「Psychedelic Summer series 2015」にて音源収録。 2017年、アルバム「The Feedback from Yesterdays」の発表を皮切りにして、更なるライブ活動などの発展を遂げる予定。
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ozawajun · 5 years ago
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仕事場で死にたかった・・
水道橋博士のメルマ旬報』過去の傑作選シリーズ~川野将一ラジオブロス 永六輔『六輔七転八倒九十分』~
芸人・水道橋博士が編集長を務める、たぶん日本最大のメールマガジン『水道橋博士のメルマ旬報』。 突然ですが、過去の傑作選企画として、今回は2016年7月10日配信『水道橋博士のメルマ旬報』Vol89 に掲載の川野将一さん ラジオブロス「Listen.64 永六輔『六輔七転八倒九十分』(TBSラジオ)」を無料公開させていただきます。  本原稿は、川野さんが永六輔氏の番組終了に伴って執筆し、死去の報道の前日に配信したものです。  是非、一人でも多くの人に読んでいただければと思っています。  (水道橋博士のメルマ旬報 編集/原カントくん) 以下、『水道橋博士のメルマ旬報』Vol89  (2016年7月10日発行)より一部抜粋〜
川野将一『ラジオブロス』 -----------------------------------------------------------◇ Listen.64 永六輔『六輔七転八倒九十分』(TBSラジオ) ( 2015年9月28日〜2016年6月27日 毎週月曜 18:00〜19:30 放送 )
【訃報】「永六輔、ラジオ生放送中に大往生」     昨日午後7時20分過ぎ、TBSラジオ『六輔七転八倒九十分』の生放送中に     パーソナリティの永六輔氏(本名・永孝雄)が東京都港区赤坂のTBSのスタジオで     亡くなった。先週までの1か月間は体調を崩し番組を休んでいたが、昨日は病院の     診察を受けてから娘の永麻理さんとともに参加した。しかし、番組後半のコーナー     「六輔交遊録 ご隠居長屋」で永氏の反応が全くないことに出演者のはぶ三太郎が気付き、  一同が呼びかけ救急医も駆け付けたがそのまま息を引き取った。永氏の最後の言葉は、     外山惠理アナウンサーに対して言い間違えた「長峰さん」だった。享年83。 
本人が望んでいた最期とは、例えばこんな感じだったのだろうか。 1994年出版、200万部を売り上げたベストセラー『大往生』の最後に自分への弔辞を書き、 1969年放送の『パック・イン・ミュージック』(TBSラジオ)では旅先のニューギニアから 帰国できなくなったアクシデントを逆手に、"永六輔、ニューギニアで人喰い人種に喰われる!" という番組を放送し、各メディアが巻き込まれた騒動の大きさから警察にも怒られた。
これまで度々、自らの「死」をネタにしてきた偉大なるラジオの巨人ではあるが、 冷静に考えれば生放送中に亡くなることは、机の下のキックやマイクで殴ることよりも悪質である。 しかし、冠番組を失った今、その有り難いいやがらせを受けるチャンスもなくなった。
1967年から2013年まで、平日の10分間、46年間続いた『永六輔の誰かとどこかで』。 1970年から1975年まで、毎週土曜日6時間半放送された『永六輔の土曜ワイドラジオTokyo』。 1991年から2015年まで、24年半続いた『土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界』。 さらに1969年から1971年の間の土曜深夜は『パック・イン・ミュージック』も担当し、 1964年から2008年放送の『全国こども電話相談室』では回答者としても活躍。 子供に向け、若者に向け、高齢者に向け、ある時期のTBSラジオとは「永六輔」のことだった。 重要なポイントは生放送の番組はすべて週末に固めていたことである。
「放送の仕事をするならスタジオでものを考えてはいけない。  電波の飛んでゆく先で話を聞いて、そこで考えてスタジオに戻ってくるべきだ」
ラジオパーソナリティの仕事を始めた時、恩師の民俗学者・宮本常一に言われたことをずっと守り、 平日は全国各地へ。1年のうち200日は旅の空。久しぶりに家に帰ると「いらっしゃいませ」と 迎えられるのが常だった。1970年から始まって今も続く、永とは公私ともに長い付き合いである 『話の特集』元編集長の矢崎泰久が初代プロデューサーを務め、自身がテーマソングを作詞した 紀行テレビ番組『遠くへ行きたい』(日本テレビ系)もそのスピリッツを受け継いだものだった��� いつも、自分で足を運び、自分の目で見て、自分の耳で聞いたことが、その口から伝えられてきた。
だから���そ、かつてのように自らの足で自由に出かけられなくなったとき、 自らの口からはっきりとした言葉で伝えられなくなったとき、激しく悔やんだ。 2010年、パーキンソン病が確認された永は「ラジオを辞める」ことを考えた。 だが、ラジオ界の盟友である小沢昭一に相談すると、激しく鼓舞された。
小沢「やめんな!絶対やめんな!しゃべらなくていい!ラジオのスタジオにいればいいんだ!」
病とともに生きる永が自分を奮い立たせる意味も込めて度々披露するエピソード。 改めて、放送とはその場の"空気"を伝えること=「ON AIR」であることを再確認した。
2015年9月26日、 永はリハビリと闘いながら、放送局は聴き取りにくいという一部リスナーの批判とも闘いながら 24年半続けてきた番組『土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界』が最終回を迎えた。 永の口から語られたのは、出かけた旅先と思い出と、出かけられなかった悔しさだった。
永「東北の地震で未だふるさとに帰れない人が多い。   デモには僕の仲間もいっぱい歩いてるんで気にはなっていた。   だけど、車椅子でああいうところに行くとものすごく迷惑になる。皆が気を使ってしまう」
1960年、日米安保条約に対して、永は大江健三郎や谷川俊太郎など、 同世代の作家や芸術家たちと「若い日本の会」を結成し反対運動をおこしていた。 当時、国会議事堂近くにアパートを借り部屋でテレビの台本を書いていた永は、 「部屋にこもって仕事をしている場合か」と国会前に駆け付け仲間達のデモに合流した。 台本がなかなか届かず待っていたテレビ局の担当者は、さては?と国会前に探しに来た。 見つかった永は「安保と番組、どっちが大事なんだ!」と問われ「安保です」と即答し、 構成を担当していた日本テレビの番組『光子の窓』(日テレ系)をクビになった。  
2016年4月〜6月に放送された、黒柳徹子の自伝エッセーを原作としたNHK総合ドラマ 『トットてれび』。そのなかで角刈り姿の若き永六輔を演じたのが新井浩文だった。 1961年〜1966年に放送されたNHK初期のバラエティの代表作『夢であいましょう』を再現した シーンにおいて、錦戸亮演じる坂本九が「上を向いて歩こう」を歌うや、永は怒号を飛ばした。
「なんだその歌い方は!ふざけてるのか君は!  ♪フヘフォムウイテ アルコフホウ〜、そんな歌詞書いた覚えないよ!」
永六輔が作詞し、中村八大が作曲し、坂本九が歌う。 「六八九トリオ」によって誕生し、同番組では「SUKIYAKI」のタイトルで広まったとおり、 すき焼きを食べながら進行する特集も組まれた、世界的大ヒット曲「上を向いて歩こう」。 だが、そのロカビリー少年の歌い方は、千鳥風にいうと"クセがすごい"もので、 当時、作詞した永が頭に来ていたのも事実だった。
永「僕ね、自慢じゃないけど、テレビのレギュラーで番組が終了になるまで続いたのは、   『夢で逢いましょう』くらいなんです。それ以外はだいたいケンカして辞めている」
『創』2009年5月号の矢崎泰久との「ぢぢ放談」で披露された永の"自慢話"。 1956年、コント・シナリオの制作集団「冗談工房」の同じメンバーで、 2015年12月9日に亡くなるまで、永のラジオ番組に手紙を送り続けた野坂昭如。 パーティーでの大島渚との大立ち回り動画でもよく知られるそのケンカっぱやさは、 実は永六輔も持ち合わせ、2013年6月の『たかじんNOマネー』(テレビ大阪)での 水道橋博士にも受け継がれている、生放送での途中降板も常習となっていた。
1968年、木島則夫の後を引き継ぎ『モーニングショー』(テレ朝系)の司会に抜擢された 永は「僕は旅するのが好きだから」と急遽司会を断り全国を駆け巡るレポーターに変更。 番組第1回は北海道の中継先からオープニグの第一声を任されていたが、アクシデントで番組は スタジオから開始。ずっと雪の中で待っていた永はそのままマイクを放り投げて帰ってしまった。
1994年放送の『こんにちは2時』(テレ朝系)。 自身の著書『大往生』の宣伝はしないと取り決め出演オファーを受けたものの、 当日の新聞番組欄には「永六輔・大往生、死に方教えます!」と載っていた。 文句を言ったところ、冒頭で新聞に掲載されていた内容と異なることを説明するとして 出演したが、結局断りがないまま進行し「皆さんでやってください」と退場した。
「今行けば自分が先頭に立てる」と思い夢を持って始めた開局当時からのテレビの仕事。 構成作家として台本を書き、出演者としてしゃべりまくり、小説家の"シバレン"こと 柴田錬三郎から「テレビの寄生虫」と呼ばれながらも「何が悪い」と続けていたが、 我がままに嫌われるような行為を連発し、自ら発展の基礎を作ったテレビ界を撤退した。 以降、たまに出る度「テレビに出られて良かったですね」と言われることをネタにしている。
度々本人の口から語られるテレビ界の問題として「関わる人が多すぎる」ことがある。 責任の所在がはっきりせず、企画の趣旨がねじまがり、連絡ミスなども誘発しやすい。 裏方と出役の両方を体験する永の意見は現在においても的確で、優れているとされる 人気番組は、内容はもちろんだが、その目に見えない部分の環境の良さを聞くことも多い。
パーキンソン病の先輩、マイケル・J・フォックスが主演する、 1989年公開映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2』。 そこで描かれた未来の舞台、2015年10月、 日本では永遠に続くと思われたラジオの未来が書き換えられた。
土曜日午前の4時間半の番組から、月曜日夕方1時間半の番組へ。 四半世紀続いた長寿番組の重荷を降ろし、2015年9月28日から新番組がスタートした。 47歳の永がタモリとともに『ばらえてぃ テレビファソラシド』(NHK総合)に出演していた頃、 1981年9月11日、東京・渋谷ジャンジャンで行われたときのイベント名は、 『六輔七転八倒九時間しゃべりっぱなし』だったが、ラジオ新番組のタイトルは 『六輔七転八倒九十分』。それでももちろん"しゃべりっぱなし"というわけにはいかない。
「パーキンソン病のキーパーソン」。 永は自身の病気の回復力について語る時、いつもそのように笑いを交えて伝えている。 それが議論の的になっているのは新番組が始まってからも変わらなかった。 『誰かとどこかで』で「七円の唄」というリスナー投稿コーナーが設けられていたように、 ハガキ1通7円の時代から始まった永六輔のラジオ番組の歴史。 今は52円となったハガキで、時にパーソナリティへの抗議が寄せられるのが切ない。
「病気の話を笑いながらしないで」「病気を楽しそうに話さないで下さい」...。 番組はいろんな病気を抱えている人が聴いている。だが、それを納得しながらも、 「楽しくしちゃったほうがいい、どうせ話をするなら」という姿勢を永は貫いている。 事実、永六輔には「すべらない"病気の"話」が多すぎる。その特選2話。
第1話「ジャカルタの留学生」。 リハビリの勉強のため日本に来ていたインドネシア・ジャカルタの留学生。 永の担当に付いた彼は「姿勢を良くして下を見ないで歩きましょう」と歩き方を指導し、 「日本にはいい歌があります。『上を向いて歩こう』って知っていますか?」と聞いた。 永が嘘をついて「知らない」と返すと、歌うジャカルタの留学生に付いて病院内を歩くことになり、 全ての医者や患者から注目を浴びることに。日本の先生に事態を説明すると、 「真面目に勉強をしに来ている若者に嘘を付かないでください」と注意され、 留学生に実は歌を知っていたことを打ち明け、「知っているのは僕は作ったからです」と言うと、 ジャカルタの留学生は、「あー、また嘘ついてる!」。
第2話「タクシーの事故」。 ある日、永が新宿からタクシーに乗ると別にタクシーに衝突される事故を起こす。 左肩打撲など全治三週間の大怪我を負いながらも、事故直後の警察からの質問に、 名前も住所もサラリと答える永六輔。救急車に乗っても救急隊員の真似をして「出発!」と言い、 慶応病院に受け入れを断られると、「こないだ、大学野球で早稲田が慶応に勝っちゃったから?」 とおどけまくる。そこで冷静になって気づいたのが、自分がパーキンソン病の患者であること。 それまでろれつが回らなくて困っていたのに、事故を受けてから流暢にしゃべっている自分。 そこから子供のころ、調子が悪いとき刺激を与え感度を良くしようとして、 それをひっぱたいていたことを思い出した。「俺はラジオかよ!」。
『六輔七転八倒九十分』になって放送時間は短くなったが "放送時刻"が夕方になったことにより「声が出やすい」という吉を招いた。 だが、本人の"調子の良さ"と"呂律の良さ"が比例しないのがパーキンソン病の やっかいなところで、本人がうまく話せていると思っていてもそうではない時がある。
永「僕は今、携帯を���手に持ちました」  「はい、今、下から上へ、フタを開けました。で?」
家族の安心、自身の安全のために無理矢理持たされた携帯電話。 2012年、『誰かとどこかで』で話題となった、遠藤泰子が特別講師を務めた、 79歳で挑戦する「世界一やさしい携帯電話の掛け方講座」シリーズ。 手紙を愛する永の文明・文化の進化に対する嫌悪はよく知られているが、 テクノロジーの発展のなかには、リスナーのために改善されたラジオの技術もある。
「永さん、声は技術でなんとかしますから大丈夫です」。 パーキンソン病を公表してからインタビューを受けた「東京人」2011年3月号で、 永六輔の「声」をオンエアしていくために検討されたスタッフとのやりとりを明かしている。 スタッフから知らされたその技術は、その場で発せられた声を5つに分割し、 その中で一番聴こえやすい音域だけを活かして、その他の聴こえづらい音域は消す。 アナログのレコードがデジタルのCDに変わるようなその提案を、永は丁重に断った。
永「その声は僕らしくない」  「だったら何言ってるかわかんなくていい」
何の言葉を言っているかではなく、その言葉をどのように伝えているのか。 ここに"活字"とは異なる、"音声"の「言葉」に対する永のこだわりがよくみえる。 それを象徴するような一曲がある。
「逢いたい」 作詞・永六輔、作曲・樋口雄右、編曲・久米由基
   逢いたい 逢いたい 逢いたい 逢いたい    逢いたい 逢いたい 逢いたい 逢いたい
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『土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界』で人気を博したコーナー 「あの人に逢いたい」で流されていた、ただ「逢いたい」という言葉が72回繰り返される曲。 同じ言葉がイントネーションによって変わり様々な物語を想像させるこの曲を、 言葉がひとつしか出てこないことを理由に、音楽著作権協会は「作詞」とは認めなかった。 2001年出版『永六輔の芸人と遊ぶ』のなかで永六輔は誓っている。 「話し言葉だから伝わるニュアンスが無視される危険性があります。  僕はそれを阻止するためにも、この『逢いたい』の著作権を認めさせてみようと思っています」。
永「ラジオは嘘を付けない」
永から直に聞いた、しゃべりで真実が見抜かれてしまうラジオの恐さを 常に肝にめいじマイクに向かっている芸人に、カンニング竹山がいる。 鈴木おさむが構成&演出を務める竹山の定期単独ライブ『放送禁止』。 その2013年版は「お金とは?」をテーマに、1年間365日、毎日違う1人に 「あなたの幸せと思う事に使ってください」と1万円を渡し続ける記録の講演だった。 その中で「1万円渡す時に最も緊張した人」の第1位に挙げていたのが永六輔だった。
1万円を渡すチャンスは『土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界』。 竹山がゲスト出演した時のCMタイム中の2分間に限られていた。 外山惠理は竹山とは当時放送されていた『ニュース探究ラジオ DIG』で コンビを組んでいるため、最悪フォローには回ってくれる。 だが、スタッフの懸念は、企画の趣旨を永が2分間で理解してくれるかにあった。 しかし、永六輔の反応はそこにいる全員の予想���裏切った。
永「あのねー、それ、おんなじこと、僕やってたよ。昭和30年代終わりか40年代かな。   1年お金配り続けたら面白いねーって言って、1000円配り続けた」
芸人の先輩として竹山の予想を出し抜き、 放送作家の先輩として鈴木おさむを陵駕する反応。 負けず嫌いなところを含めて、永六輔は現役感を剥きだしにして1万円を受け取った。 筆者が観覧した回、当の永六輔が東京・博品館劇場の観覧席にいた。 外山惠理の手を借りそろろそろりと退場していく様子を、観客一同が拝むように見送っていた。
   2016年1月31日『ピーコ シャンソン&トーク 我が心の歌』                 ゲスト:永六輔(体調がよろしければご出演)    2016年4月17日『松島トモ子コンサート』                 ゲスト:永六輔(当日の体調が良ければ出演予定)
いつの頃からか、演芸ライブの会場には、 永六輔の断り書き付きのゲスト出演を知らせるポスターやチラシが目立つようになった。 残念ながらピーコのライブへの永の出演は叶わなかったが、ピーコ自身は、 『土曜ワイド』から引き続き『六輔七転八倒九十分』にもヘビーローテーションで出演。 昨今メディアでよく見る白髪の永によく似合う赤やピンクの服はピーコのチョイスである。 そんな身だしなみも含め、2001年に"妻の大往生"を迎えて以降、永は自分が現場に足を運んで 才能を見出してきた全ての人々から、大きな励ましと恩返しを受けている。
永「髙田(文夫)さんは出来ないの?」
2015年11月9日、松村邦洋がゲスト出演した回、 リスナーからのものまねのリクエストに矢継ぎ早に応えていくなか、 永が唯一自分からリクエストをしたのが、しゃべる放送作家の後輩「髙田文夫」だった。
1947年10月スタートの連合国軍占領下の番組、 音楽バラエティ『日曜娯楽版』(NHKラジオ)にコント台本を投稿した、 中学3年生の永は、高校生から構成作家として制作スタッフとなり、 早稲田大学の学生となってからその中心的メンバーに。三木鶏郎にスカウトされ、 「トリローグループ」の一員となり放送作家、司会者として活動を活発化させていった。
1969年から1971年、『パック・イン・ミュージック』の土曜日を担当し、 時に2時間半かけて憲法全文を朗読するなど"攻め"の放送を行っていた永のもとに、 ネタを送り続け採用を重ねていたのが、日本大学芸術学部で落研所属の髙田文夫だった。 ある時意を決し、長文の手紙に「弟子にしてください」と書いて、永に送った髙田。 永からの返事は「私は弟子無し師匠無しでここまで来ました。友達ならなりましょう」。
その20年後、『ビートたけしのオールナイトニッポン』の構成作家を経て、 『ラジオビバリー昼ズ』などで活躍をしている髙田に、永は再び手紙を送る。 「今からでも遅くはありません。弟子になってください」。
そんなパーキンソンの持病と心肺停止の過去を持つ、幻の師匠と弟子は、 2014年1月と9月に『永六輔、髙田文夫 幻の師弟ふたり会 横を向いて歩こう』を開催。 TBSラジオとニッポン放送、両局のリスナーが押し寄せた、 東京・北沢タウンホールの最前列で観たそのトークイベントが、 今のところ筆者が肉眼で観て聴いた、永六輔の最後の記憶である。
それ以前にステージで観たのは、2014年3月21日、東京・赤坂BLITZで開催された、 「我が青春のパック・イン・ミュージック」への特別出演だった。 「当時はまだ"深夜"に"放送"が無いのが当たり前だったから、 "深夜放送"という言葉も日本語として存在しなかった」という発言は、 車椅子に座って語られるからこその歴史の重さと有難みを感じた。
白髪と頭皮が目立つ観客席で40代の筆者が若造になる、 『パック・イン・ミュージック』の歴代パーソナリティが集う同窓会イベント。 晴れやかなステージを見上げながら、観客はそこには立てなかった、他界したDJの顔も 思い浮かべていただろう。野沢那智、河島英五、福田一郎、愛川欽也、そして林美雄...。
1970年〜1974年に放送された『林美雄のパック・イン・ミュージック』。 柳澤健の近著『1974年のサマークリスマス 林美雄とパックインミュージックの時代』にも 記されている通り、若者たちのカルチャー、アンダーグラウンド文化の担い手となった、 木曜日深夜3時からのその枠は、本来、同期入社のTBSアナウンサー・久米宏に任されていた。 だが、結核により久米は1か月で降板。病気を治して暇を持て余しているところを、 『永六輔の土曜ワイドラジオTokyo』のレポーターに抜擢され人気を獲得した。
"ゲラゲラポー"から"ケンポー"まで。 永の想いを受け継いだ「憲法ダンス」を考案したラッキィ池田の 『土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界』でのレポートの模範には、 マイクが集音する響きの良い革靴の音を研究し、ヌード撮影現場などの 過激な現場も土曜午後用の生の言葉で伝えてきた、久米宏の高い中継スキルがある。
以降、久米宏は、永が一線を画したテレビを主戦場にしたことが大変重要で、 2年半前、この連載の第1回で『久米宏 ラジオなんですけど』を取り上げたのは、 テレビから還った"ブーメラン・パーソナリティ"としてのラジオでの存在価値からだった。 『土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界』の直後に始まる番組として、 東日本大震災時、リスナー1人ずつとリレーしながら「見上げてごらん夜の星を」を歌うなど、 毎週リレートークを行う永を敬いながらも刺激を与えてきた。
『六輔七転八倒九十分』でも体調不良から休むことが多くなった永六輔。 たまにスタジオに来たときにサプライズ扱いされることは逆に心苦しかっただろう。 日頃は永が来ないことに不満なリスナーも、久々の精一杯の声を聴いたら聴いたで、 「本当に大丈夫なんですか?」「どうぞ家でゆっくり休んでいてください」と心配にまわる。 その日のニュースや天候よりも、永の体調を確認することが生放送の趣旨になってしまっていた。
永も番組でその���前を挙げたことのある、同じパーキンソン病のモハメド・アリ。 その訃報が伝えられた1週間後、番組のXデーも永の所属事務所からの手紙により伝えられた。
「永六輔は昨年の秋ごろから背中の痛みが強くなり、またその痛みは寝起きする時や  車椅子の乗り降りの際、つまり体を動かす時に特に強く現れていました。(中略)  永六輔本人はリスナーの皆様にまた声をお届けしたいと思っており、日々努力しておりますが、  パーキンソン病ということもあり、十分な体力回復にどのくらいかかるかはまだめどが  ついておりません。ここは一旦、自分の名前の付いた番組については締めくくらせて  いただいた上で、ぜひまたお耳にかかる機会を得たいと考えている次第です」
返事を書かないのに「お便り待っています」とお願いするのはありえないと、 番組にお便りをくれたリスナーの一人一人に返事を書いていた永六輔。 そんな真摯な気持ちを持つパーソナリティだけに、自分が不在の冠番組の存在は 体の痛みを超えるほど、どれだけ心を痛めるものであっただろうか。
2016年6月27日放送、最終回のスタジオにも永六輔の姿はなかった。 長峰由紀は永から「書けない漢字、読めない漢字を使うな」と叱咤された思い出を話し、 永とは長い付き合いの精神科医で元ザ・フォーク・クルセダーズのきたやまおさむは、 「くやしかったらもう一度出て来いよ!」と戦争を知らない世代の代表として激励した。 そして番組後半、最後の最後にテレビの収録を終えた黒柳徹子が駆け付けた。
2005年9月、『徹子の部屋』(テレ朝系)の収録にペ・ヨンジュンが来たとき、 ゲスト控え室の「ペ・ヨンジュン様 ○○個室」と書いてあるボードを見た徹子は、 「ここのスタジオにいることが分かったら大変!」と名前を「永六輔様」に書き換えた。
対して、永は『誰かとどこかで』の鉄板ネタとして黒柳のエピソードを持っている。 その昔、静岡に行った時、黒柳は駅から見えた綺麗な山を見て地元の人に 「ねえ、あの山、なんて言うんですの? ねえ!ねえ!」と聞いた。聞かれた女性は 本当に可哀想な人を見るような目付きでぼそっと答えたという。「・・・富士山です」。
通算40回。テレビを卒業した永も『徹子の部屋』だけは出続けている。 テレビ・ラジオの創世記から活躍する、そんな関係性の二人だからこそ、 ただ1人だけに向けられたエールを、リスナーも温かく見守ってくれる。
黒柳「永さーん、起きてるー! ラジオって言ったら、永さんしかいないのよー!!」
翌週、2016年7月4日から同枠で新番組が始まった。 『いち・にの三太郎〜赤坂月曜宵の口』。 メインパーソナリティは先週まで永のパートナーとしてしゃべっていた、 毒蝮三太夫の弟子である、株式会社まむしプロ社長の、はぶ三太郎。 その相手役を長峰由紀と外山惠理が交代で出演する、信頼の顔ぶれである。
テーマ曲には永が作詞した「いい湯だな」が使用され、 「六輔語録」というコーナーがTBSに残された永の様々な時代の音源を流す。 もちろん、これが引き継いだ番組としての正しい在り方なのだろう。 だが僕は、思い切って「永六輔」を一旦完全に失くすことも望んでいた。 それが、後ろ盾をなくした自分で切り開くしかない新パーソナリティへの励みにもなり、 自分の声も名前も失われたラジオの存在こそが、永六輔の新しい始まりに繋がるからだ。
かつて『全国こども電話相談室』で小学2年生の女の子に、 「天国に行ったらどうなるんですか?」と聞かれ、永は答えた。 「天国っていいとこらしいよ。だって、行った人が帰ってこないもの」。 確かに晩年までマイクの前に座っていたラジオ界の神様たち、 小沢昭一も、秋山ちえ子も、かわいそうなぞうも天国から帰ってくる気配は来ない。 だからこそ、大往生を遂げる前に、永六輔にはやるべきことがある。
物心がついた子供の頃からラジオで様々な演芸に触れ、 中学時代に投稿し、高校時代から70年間ラジオ制作に関わってきた人間は、 初めてラジオから離れた人生を過ごす今、何を想い、何を感じ、何を考えるのか。 もう一度スタジオに来て、ブースに入り、マイクの前に座り、 それをスピーカーの向こうの、リスナー1人1人に伝える必要がある。
それまでゆっくり待たせてもらおう。 ただ情けないことに、リスナーの僕たちは それが叶っても叶わなくても、目からこぼれてしまうのだろう。 例え、上を向いて歩いても、きっと涙がこぼれてしまうのだろう。
『水道橋博士のメルマ旬報』
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