#大浜流灌頂
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大浜流灌頂 ~ 福岡市博多区大博町(2023.8.24)
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TLが花火とビールだらけ。 福岡にはなにがある? #大浜流灌頂 にて、おどろおどろしいものを見てきたよー。 武者絵、素敵すぎ。武者絵は北だけのものではない。 来年は、一眼で撮る! (大浜流灌頂)
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103 Promise
空は青く澄み渡り、アストラは静かで穏やかだった。絹のように地に薄く張った水面はまぎれもなく天を映しながら、その鏡面にはさらにひとりの、現実にはすでに存在しない人影が、大いなる戦いを終えたフェレスの主らを見守りつつたたずんでいた。ストラーラだった。淡い青みがかった銀髪と左右の均整のとれた美しい姿を持ち、だが今ならば、その身裡にはまったくの未知の力、無秩序の根源である混沌の資質を宿している者なのだとバルナバーシュには分かった。虚無と対をなして七つの資質を少しずつ持ち、そのカオスの不合理をはたらかせて変則と放縦のパターンを織りあげながらも、我々とともにロジックを生みだし、同じ結果にも到達しうる者……。予知を拒み、冷笑的でたわやすく心を開くことのないあやうい背理のなかで、彼女はなにを願い、なぜ円環の終わりに抗いながらフェレスのかけらに力と希望を与えようとしたのか。
バルナバーシュは、おそらく彼女のようなものの力こそが虚無と同様に、私たちヒトにとって最大の宿敵となり、またなくてはならぬ存在にもなるのだろうと漠然と感じとった。
ディオレが混沌の少女の幻影に歩み寄って、数歩離れたところにひざまずき、唇にあてた指を口づけを介した儀式のように水面に触れさせる。すると規則的な波紋が音もなく広がって、うっすらと輝き、水面に映っていたストラーラは反転しながら彼らのいる次元へ実体をともなって顕現した。その場にいる全ての者の視線が向けられたが、彼女は意に介さず、人も無げに口を開いた。
「……私はあなたたちの誰よりも、世界は夜に満ち、いつかはかならず終わるものと思っていた。私はひどく退嬰的な世界に生まれた、血も薄い不具の子だった。まるで滅びゆく時代を模した申し子のように。ゆるやかな絶望が落と��影を感じながら、ただひとりであることや、自然の営みだけに心を安らかにして、ヒトの可能性というものは露ほども信じていなかったし、願いや欲望などは冷笑すべきものだった。ときに不全のからだに苦しみ、ときに御しがたい衝動に振りまわされながら、それでも自分がなぜ世界に生きようとするのかさえ判然とはしない……。そんな私のもとにも、フェレスが目覚め、けれど自分の願いなどなにも分からなかった。〈可能性〉ではなく、〈運命〉のまにまにただ任せてイススィールへと来た。何よりフェレスの力が、私の短かった命を永らえさせてくれたから」
思いに沈んだ目で、長い溜息のように少女は淡々と、己れの来歴を語った。憂鬱に満ち、病的な気風のただようこの振る舞いが、心を取りもどした本来の彼女のありようなのだろうか。差し出した両手のなかがにわかに青白い光であふれると、小さなゼンマイ式のオルゴールがそこに現れる。ストラーラのフェレス――可愛らしい草花の彫りが入った木箱からは、悪夢めいて迷えるものがなしい歌が奏でられ、同じ旋律が切れ目なく続くさまは、彼女にとっての永遠を象徴しているようでもあった。
「私はあるひとりの魔族の男と、島の波止場で出会い、なかば連れられるようにしてリギノの神殿を訪ね、そうして七つのパワースポットをも巡っていった。あなたたちのように、さまざまな人々、さまざまな思い、さまざまな記憶に触れて、一歩一歩、少しずつ、世界の中心へと進みながら……。どうしてかは分からないけど、そんな旅や冒険は楽しかったし、景色は美しく、パートナーは得がたい友だちで、こんな私に命をかけて良くしてくれて、私もやがて、彼を守るためなら危険を冒してもよい思いを強めていった。彼は私と違って楽観的だったけれど、魔族らしく混沌的なところは似ていて、お互いがお互い以外の者には飽いていたから、長く続いたのかもしれない。そしてミュウにもグッドマンにも味方せず、まるで親に楯つく子供みたいに、無邪気に私たちははざまの道を進んでいった。………」
どこか悔いるように、ストラーラはかたく目を閉じる。
「あんなことになるなんて思わなかったの。人間になったアンドロイド、ユキルタスの導きでアストラで戦ったはてに、ミュウとグッドマンはさしちがえ、クレスオールは無念のなかで消滅し、要石であるユテァリーテは砕かれた。ユキルタスは物語は終わると言っていたけれど……それでもヒトに希望がある限り、いつか新しいイススィールは生まれるはずだった。そう、イススィールとエターナルデザイアー��伝説は多くの次元と結びつきながら、女神の意思さえも超越した永遠の円環〝だった〟から。でも私たちは、より大きな、もっとも上位にある絶対的な運命をその時に感じたわ……。『もう二度と、伝説はよみがえらない』のだと。島を形成するイメージはただ薄れて消えるのではなく、みずから燃えあがり、過去から未来へ、時そのものがはてるまで……すべての次元、あらゆる世界と存在のなかへ駆け抜けるようにして、全てが灰と化していった。喪さえ拒む仮借なき滅びによって、この神秘の島を知るわずかな人々に、鮮烈な記憶の痕を、秘密として残しながら。本当の、本当の終わりだったの。火をまえにして、私は――ひどく悲しかった。流したことのない涙さえ流した。でも、何も言えなかった……あまりに突然のことで、信じられなかったから。自分のその嘆きの正体は、今でも分からない。世界はいつか終わるのだと、あんなにも強く思っていたのに……。パートナーも、私とまったく同じ気持ちだった。そして私と彼は、イススィールでの思い出をレリックとしてフェレスに刻みながら、燃えさかる世界のなかであることを願い、また約束を誓った」
バルナバーシュのとなりで、かすかにディオレが息を呑む気配があった。幸星の民を束ねるこの戦士すらも知りえぬ事実が言い連ねられているのだろうか。
「もう一度だけ、かりそめでもかまわない……私のフェレスを要石にしてイススィールのイメージをつなぎとめて、この地を残し、エターナルデザイアーをまだ必要とする者たちを受け入れつづけること。それが、この島で生まれてはじめて生きる希望を抱いた、私の願いだった」 「私たち幸星の民の父祖が約束したというのは、ストラーラ、あなたとだという。パートナーとする魔族の男が、私たちの父祖なのか」 「そうよ、ディオレ。彼はもともと、黒魔次元からのはぐれ者で、次元から次元を海のように間切ってわたる旅人でもあった。名はエイデオン。いつか心を失うはずの私――偽りながらも、繰り返されるストーリーや志半ばで果てたフェレスのかけらを受け入れつづける私に、終わりをもたらす約束を交わした。そうして永い時が流れ、彼と私の物語も忘れられて、あなたたちのなかで掟に変わって残るだけになったけれど」 「父祖はあらゆる次元で落伍者や居場所のないものたちを集めながら、最後にオルトフの次元を見いだし、そこを彼らのためのささやかな住処と定めた。そしてフェレスを持つものが人々のなかから現れはじめると、彼らを鍛え、オルトフの次元からデスァ闇沙漠へつながる隧道を開き、あの場所のイメージをとらえながら進む案内人になることを掟にしたという。だが、父祖も長寿だったが定命の者であり……最期に自身の古い約束を、後世の者たちの手で果たしてほしいと言い残して現世を去っていった。約束ははざまの道の先にあるのだと」
ディオレが継いだその話に、ストラーラはいくらか満足したらしい顔をみせ、「昔話はもうおしまい」と首を小さく振る。
「それにしても彼、私と冒険した思い出や、約束にこめた想いなんかは、きっと誰にも話さなかったのね。おかげでディオレや後世の人達は、私をただの倒すべき敵かなにかのように思っていたようだけれど」
ディオレは言葉を詰まらせたが、ストラーラはそこではじめて、ヒトとしての笑みを浮かべ、すこし嬉しそうに含み笑いをもらした。そうして視線を、今度はルドへ、さらにバルナバーシュとフェリクスにも向ける。その瞳はいま、あらゆる人々の面影が去り、本来の赤みがかった黒玉の色に艶めいていた。
「最後のパワースポットを開放するわ。私のフェレスの力を、あなたたちに託します」
ストラーラがオルゴールをかざすと、その場に青白い光の泉水が生じ、イススィールの最後の力が滔々とあふれだして輝いた。オルゴールは見る間に朽ち、木箱がほろほろと崩れると、中にあったシリンダーは茶色く錆びてしまっていた。
「きみのフェレスが……!」
ルドは嘆いたが、ストラーラはそれに首を振った。
「私にはもう必要のないものよ。目的はすべて果たされたから。かつて、ユキルタスのフェレス――かなめのビスも同じようになったけれど、そのわけがやっと分かった気がする。彼もきっと、かなめからの決別を最後には望んでいたのかもしれない」
パワースポットの前に、ルド、バルナバーシュ、ディオレ、フェリクスが集い、目と目をかわしあったが、たがいに何も言わなかった。彼らの後ろでは、獣人の娘ナナヤと猟犬のマックスが固唾を呑んで背を見つめている。
ルド以外の者がフェレスをかざすと、光は柱のように広がって立ちのぼり、彼らの意識と五感を包みこみながら新たな力を伝えてきた。それはいにしえより脈々たる、〈運命〉を帯びながら世界の定常を守ってきた数多くの英雄たりし者の極めた力と生涯の技、そして記憶――決戦の地アストラに到達しうる戦士だけに継承を許された、偉大なる頂きの光だった。そして四人もまた、継承を経てその伝説にいつか連なっていくのだろう。光の向こうに、かつてまことのイススィールで神秘の旅を経験した冒険者の何千という影が往還している。ある者は夢の化身を晴らし、ある者は魔王の破壊を乗り越え、ある者は女神の支配を砕いた……。鋭く冴えたリズムが鳴りわたり、続いてもうひとつ、またひとつと加わってゆき、イススィールの天と地に複雑で精妙なこだまを響かせた。意志に鍛えられた心身と霊的に研ぎ澄まされたセンス、内外を問わぬあらゆる攻撃をはねかえし、世界を切り分ける言説とい��なる脅威にもひるまず目的を���遂しうるモラルの集中、そして調和への約束の歌が過去から未来へ、無限のかなたへと広がっていく。冒険者たち、いにしえの英雄たちの影をも越えて、世界の中心に立つある一人の、甲冑を鎧った者が力強いまなざしを四人に送っていた。その鎧はサークによく似ていたが――空櫃ではない。
「リギナロ!」
ルドが何かをさとって、その名を呼ばわった。リギナロは神殿で決意を示された時と変わらぬ気高さで、ヒトの心の深奥より、この世のすべての冒険者たちを祝福しているように思えた……。光が薄れていく。宇宙と個人がひとつとしてたがいを映し、ふくみあう深遠より浮かび上がり、秘密の回廊を抜け、四人の意識は現次元へ、アストラの地へと戻ってきた。
彼らの帰還を見届けて、ストラーラはもろく微笑んだ。
「約束を果たしてくれてありがとう……そして、さようなら。開眼人、極致にいたり、真理を悟ったひとたち。あなたたちが世界に流れる一筋の希望となることを祈っているわ」
ストラーラが大気に溶け入るように消えると、途端に天はふるえ、大地は荒ぶる巨人の肉体のごとく震撼した。要石の少女がつなぎとめていたイメージが崩れ去り、偽りのイススィールもまた消え行こうとしているのだ。不穏な喧騒に揺らぐ世界で、太陽は脈打ちながら色あせ、空は混沌と暗く濁り、地平は赤と黒の狂おしくうずまく煙と化して、大波をなしながらこちらに押しよせてくるかに思える。一行は地響きにひざをついておののいたが、恐怖を踏みしめどうにか立ち上がった。
「偽りの所産ゆえか、伝説に聞くよりも崩壊の速度が早い。ありあわせのイメージで持ちこたえているだけの脆さだったか……みなで旅の終わりを讃えあう時間も与えてはくれないようだ」
焦った様子のディオレが、目配りしながらみなに脱出をうながす。悲鳴と破壊がふりそそごうとするなか、バルナバーシュははっと思い出して、急いではいたが用心深い足取りで、咆哮する地平に向けてその場から駆け去った。ルドが追おうとしたが、魔術師は目的のものを見つけると立ち止まり、掴みあげる。それはフェリクスとの戦いで斬り飛ばされた、ルドの機械の右腕だった。
「バルナバーシュさん、それは……」
戻ってきたバルナバーシュの持つ己れの腕に、ルドは不安げな声をもらした。
「約束する。この島を出たら、私がかならず君の腕を治してみせる。たとえ長い時がかかったとしても――」
バルナバーシュは使命感から言い切ったが、それはかつてリギノの神殿で交わした「ルドに希望のありかを示す」という約束と同じく、ひどく不確かな未来で、なんの保証も持てぬ思いでもあった。ただ何も考えず、自分自身のするべきことへの直感を、もう知っているものとして今は信じるしかなかった。実現への困難を表したけわしい表情がバルナバーシュをかすめすぎたのをルドは見たが、何も言わなかった。
「フェリクス! あなたも私と一緒にくるんだ」
ディオレの警告が聞こえ、ルドたちもフェリクスのほうを見た。古代人は、いまはもう鉄塊に過ぎぬイブの亡がらに膝をつき、安息の膜のかかった瞳で彼女を見つめながらその場を離れようとしない。その背は頑なであり、見かねて腕を無理やりつかんで立たせようとしたディオレの手は乱暴に、にべもなく振り払われた。バルナバーシュとルドもまた、生存を望んで説得を試みたが、ときに彼の身勝手なまでの意志の強さは二人も知るところであり、そのほとんどが聞き流されているようだった。
「フェリクス。イブはお前がここで終わるのを望むはずがない。お前にはまだ島の外でなすべきことがあるんじゃないのか」 「バルナバーシュ殿、頼むから放っておいてくれないか。私は貴殿らとは逆しまに、これですべてを失ったのだ。夢も現実も、過去も未来も、生きる希望さえも……。鉱山でともに過ごしたあの日、イブは私のすべてだと語ったろう。それは今も変わらぬ。一心同体の者として私がこの時に願うのは、彼女と同じ墓の穴へ葬られることだ」
埃に汚れた眼鏡の奥からバルナバーシュに向けられたルベライトの瞳は、光を失ってはいない。絶望も自棄もなく、心の底から強く望んでいるのだと、宿敵だった相手に打ち明けていた。もはや打つ手なしと嘆息するルドたちのもとに、ひとり近づく者があった。赤毛と尾と肩を剣幕とともにすさまじく怒らせ、憤懣やるかたなく目を吊り上げたナナヤが、ずかずかと、消滅に瀕した大地を大股で横切り――とめだてさせる隙もなくフェリクスの胸倉をつかむや、精魂を握りしめた拳で思いっきりその頬に一発食らわした。唖然とするルドたちの前でフェリクスは口を切って突っ伏し、眼鏡は数歩離れたところに吹っ飛んで片側のレンズに罅が入った。
「この頓馬が、いい加減に目を覚ましやがれ。この機械はあんたの命を守って死んで、そしてあんたはこの機械を愛していたんだろう。だったら、生きるんだよ。それがあんたにふりかかっちまった、どうしようもない運命なんだ――どうしてそれが分からない?」 「ぐうっ……この小娘……ッ」
最後になって運命と戦うのではなく尾を巻いて逃げだそうとした己れの図星をこうもはっきりと指され、怒りをあらわに食いしばった歯の間からフェリクスは罵倒を押し出そうとしたが、荒い呼気とうなりにしかならず、結局なにも言えずによろよろと眼鏡を拾ってかけなおし、ふたたびイブの前にひざまずいた。彼女の頬に手をやり、側頭部から親指ほどの銀色のチップを抜き、それから銀空剣に突き通された胸の中へ、心臓を掴みとらん���いで腕をねじ込んだ。絡みつく電線や器官から引きちぎるようにして拳大の青い正八面体のコア――永久にエネルギーを生みだすという遺失文明の結晶を取り出すと、チップとともにベルトに下げた鞄に仕舞いこむ。フェリクスと機械種族のルドだけが、その���ップが、イブのこれまでの経験や記憶を、稼働する頭脳とは別にバックアップとして写しておく記録媒体であるのを知っていた。ルドは、自分が銀空剣で致命傷を与えたあとの記憶――〈イムド・エガト〉で戦うフェリクスを地上から見届け、彼の言葉によってイブの願いが叶った瞬間のこと――は、破損し、完全にはその中に残されていないかもしれないと考えた。
「ふたたびお前に会いにいく。かならず」
フェリクスはイブの亡がらにそう言い残し、立ち上がった。ディオレの先導のもと、ルド、バルナバーシュ、ナナヤ、フェリクス、猟犬のマックスは、次元の瓦礫と無をたたえた黒い穴ばかりの――それさえも塵に帰して消えていこうとするアストラの地を急ぎ駆け去っていく。一度だけ振りかえったフェリクスの視線の先では、イブの機体はまだ眠れるように捨ておかれていたが、それも巨大な結晶となって降りそそぐ空の破片の向こうに埋もれ、見えなくなった。
アストラから幅広い階段を下りていくうちに、あたりは発光する色のない濃霧につつまれ、肌や喉に刺すようにまつわり、彼らの向かうべき方角や意志力をも狂わせようとした。たがいの顔を探すのもままならぬなか、「立ち止まれ」とディオレが言い、続くものらはぞっとしながらも従った。霧にまったく覆われた世界では、空を渡る火も大気も、地を流れる水も土も、形をうしない、すべての元素が曖昧になってひとつに溶け合っていくようで、それに巻き込まれかねない危機感、そして異様な悪寒が身裡に走るのを一行は感じていた。ディオレは幻妖として霊的に発達した感覚をめぐらしたが、尋常ならぬ霧はあらゆる観測をしりぞけて、イススィールとこの地にまだ残る者たちを〝どこにも実在せぬもの〟として呑みこみつつあった。このままでは肉体と精神は切れ切れの紐のようにほどかれて分解し、宇宙に遍満するエネルギーのなかに取り込まれて、諸共に自我も跡形もなくなるだろう。いずれ死の果てにそうなるのだとしても、今ここで己れを手放すわけにはいかない。
「ディオレ、進むべき場所のイメージをとらえられないか」
バルナバーシュがディオレの肩と思われるところをつかんで言った。蒼惶と声を張ったが、霧の絶縁力にはばまれて、ディオレにはほとんどささやくようにしか届かなかった。
「やってみてはいる。だがこの霧はあまりに強力だ」
そのとき、近くからナナヤの短い悲鳴――はっきりと聞こえる――があがり、青白い光があたりに差して、見れば彼女の手にはハインから贈られた〈沙漠の星〉が握りこめられているのが分かった。ただた��驚く彼女のまえで、宝石はやわらかな光を輝かせながら球状に、周囲の濃霧を晴らし、またひとすじの細い光線が、ある方向を真っ直ぐにさしながらのびていく。霧のなかに溶け入っていた足元はいつのまにか階段ではなく、新緑色の草地からなる野原に変わっていた。
「その石が足場のイメージをとらえているのか」
精巧な羅針盤の針のようにぴたりと途切れぬ光の先をみとめながら、フェリクスが言った。彼らは思いを同じくしながら、光のさすほうへ進んでいった。ルドとバルナバーシュは、暖かな草土の感触を踏みしめ、灌木の梢が風でこすれあう音を聞き、獣のにおいがかすかに混じる大気をかぎながら、ハインが多く時を過ごしたであろうエイミリーフ広原を思い起こし、またナナヤの持つ〈沙漠の星〉が、新たに生まれし希望――フェレスとしての産声を上げたのかもしれないと考えた。
(お願いだ、ハイン。あたしたちを導いて)
ナナヤがそう祈った直後、光のさきから獣の吠え声がした。
「アセナ?」
聞き覚えのある鳴き声にナナヤが呼びかけると、思ったとおり、応えるように白い雌狼が霧のなかから現れ出た。家族のしるしにマックスと顔を近づけあい、その後を追って、大柄な人物も飛び出てくる。正体にディオレが驚きで声を上げた。
「ああ、グレイスカル!」 「ディオレか!」
節々を覆う灰色の鱗と側頭部からねじ曲がる二本の角、二メートル近い体格を持つ竜族の男だった。瞳は白目の少ない血紅色で、まさに竜のごとく筋骨隆々とし、見るからに屈強な戦士であったが、まとう装甲は血と土埃に汚れ、外套は焦げ落ち、武器であるナックルは籠手ともどもぼこぼこにへこんでしまっている。むき出しになった頬や黒髪の頭部、鱗がはがれた隙間からは流血のあとが見てとれた。ディオレは彼の腕をひしとつかみ、引き寄せて抱きしめ、幸星の民だけにしか分からぬあらんかぎりの言葉で喜びをあらわした。察するに、はざまの道を進んでいた時には彼に会えなかったようだ。
「エソルテル砦を守る騎士――クァダスたちにやられそうになったところを、間一髪、アセナが助けてくれたんだ。ハインが仕向けてくれたに違いないが、して、あいつはどこに?」
グレイスカルは同行者だったナナヤをみとめ、顔ぶれのなかにハインを探したが、彼の顛末を伝えると快活な面立ちははや深い悲しみに沈んだ。誇り高い友を襲った死への罵倒、そして生前の彼をほめそやす呟きがこぼれる。
「あのような好漢が先に逝ってしまったのはまこと残念でならん。そして我らの友、イラーシャも。だがこの周囲の有りさま、ついに偽りのイススィールに終わりをもたらしたのだな。俺は砦で負った怪我がひどく、階段を登るのはあきらめていた。ディオレ、それにフェレスの戦士たちよ……よくぞ果たしてくれた。死んでいった者たちの無念も、お前たちの戦いで弔われたならばそれに如くはない……」
グレイスカルとアセナを連れて、彼らはさらに道なき道を進んでいった。〈沙漠の星〉はあらゆる辺境でヒトを導く不動の星であり、現次元と星幽が交錯するただなかにある冒険者たちのため、行くべき道を絶え間なく照らしつづけている。いまこの時の、唯一の希望と変わって。やがて重々しいとどろきが遠くから聞こえ、より耳を澄ますと、それは大海にどよもす海鳴りだと分かった。一行は島の涯、神秘の冒険のはじまりの場所だった海岸に近づきつつあるようだった。
靴底が細かな砂を踏むと、そこで〈沙漠の星〉の光は役目を終えて消えていった。霧は完全に晴れ、砂浜に立つ一行の前には、暗く怒号して荒れる海が果てしなく広がっており、暗灰色の重く垂れこめる雲から打ちつけるのはささやかな糠雨だったが、騒擾としてやみがたい大波と風の群れがこれから臨む航海を厳しいものにするだろう。
「蟷螂の斧だな」
バルナバーシュが浜辺に残されていた一艘の頑丈そうな木製の小舟を見つけると、うねりやまぬ海を横目に船底や櫂をあらため、まだ使えそうなことを確かめた。これに乗るのは四人が限度といったところか。
「諸君、我らはここで別れとしよう」
灰色の竜族、グレイスカルが高らかに告げ、ディオレも肩を並べると感慨深く仲間の顔を見渡した。「君たちはどうするんだ」バルナバーシュが幸星の民らを案じて問い、ディオレがそれに答えた。
「私たちはもどって闇沙漠のイメージを探し、そこからオルトフの次元へ帰ろう。大丈夫だ、あとは自分たちのフェレスが道を拓いてくれる。闇沙漠でも伝えたが、君たちをなかばだますような結果となってしまったこと、まことにすまなく思っている……だが君たちが辿り、乗り越えてきた冒険――思索、探求、そして神秘の数々――は、偽りとはならない。決して。なぜならイススィールは、つねにあらゆる時代、あらゆる人々の心のなかに存在しつづけ、世界が滅びに迷えるとき、天末にあらわれ、はるかなる果てへといたる門を開くのだから。その永遠の営みのなかで、私たちは君たちとの冒険譚とともに、後世に役目を継いでいくとしよう。いつかまた、終わらせるものが必要とされる時のために」 「君たちは何ものなんだ。オルトフ、あの地は現次元ではあるまい」 「時空の流れつく浜、魂の森、あるいは闇沙漠に集う夢のひとつ――そこに住まう者たちとでも言っておこうか。では、さらば! 縁があれば別の次元で会おう」
幻妖と竜族のふたりの戦士は、故郷をさして早足に駆け去っていった。その背を見届け、彼らが砂浜に繁る森のなかへ消えると、ルド、バルナバーシュ、フェリクス、ナナヤの四人は協力して小舟を波打ち際まで運び、そのあとを猟犬のマックスと白狼のアセナが忠実な足取りで��き従った。嵐の海は調和の象徴たる海流が正体を失ってないまざり、遠洋では硫黄めいた未知のガスが蒸気のようにあちこちで噴き出して、寄る辺となる次元や生命のしるしさえも見いだせぬ。いくつもの黒い波の壁がうめきつつ落ちてはまたそそりたち、水飛沫を散らして強く吹きつける潮風にルド以外の目や肌はひりついて痛んだ。水はわずかにねばっこく、塩ではない、いまわしいものの枯れた死骸を思わせるような、悪心をもよおすにおいがした。ルドは身をふるわせ、ナナヤの顔には恐怖が張りついている。
「この海を渡りきれるだろうか」
バルナバーシュがおぼつかなげに海をみやった。フェリクスだけが頓着せず、つねよりも鹿爪らしい面差しで出帆への備えを進めており、バルナバーシュもその片言のほかは何も言わなかった。この砂浜も近く虚無のなかへ消滅し、それまでにイススィール周辺の乱れた自然律や概念の撹拌された海が都合よく鎮まってくれるとは到底思えなかったからだ。小舟を波間に浮かべると、四人は悲壮感をもって乗り込み、二匹の獣もまた船べりを踊りこえて飛び乗った。
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最近似乎跟青森挺有緣分的,
把握秋末的好天氣與朋友們在最北端的津輕半島來趟單車旅行;
【日本,東北,青森縣】津輕半島單車小旅行(二) 破紀錄的騎車旅程,天啊!35公里.....青函隧道入口公園〜龍飛岬觀光館 〜津輕海峽冬景色歌謠碑 〜龍飛岬眺望台〜 龍泊山道下坡
冬季時則是來到上次過的的另一邊的"下北半島",
青森北端的兩個半島就像是螃蟹的兩隻腳一般,
於北海道隔海相望,
好天氣時,總覺得好像可以游泳由過去的模樣。
冬季的青森果然如秋天認識的新朋友所說,
雪量很大,很冷,天黑得很早;
今日來到下北半島國家公園的「大間崎」,
天色已經黑了,看到了黑鮪魚與紀念碑,
很容易就能知道這裡的特色;
對面的店家也早已打烊,
如果沒打烊的話,
據說還可以在販賣名物的商店中買一張紀念證書哦!!
哈哈哈,真是全世界都這樣,
國土的最"東南西北"都可以成為觀光的景點,
也都會販售一些紀念證書,
上頭的日期與一些印鑑,為自己曾經抵達當地留下書面紀念。
眼前風光宛如夜晚,
但實際上可是連五點都還不到......
附近有間名店,浜壽司;
附近還有一些壽司店,但據說這裡是最好吃得哦!!
看到店裏頭有好多不認識的名人簽名,
嗯!!應該是超有人氣的,無誤!!
大間崎最出名的美食是"黑鮪魚",
因為地理位置的關係,太平洋與日本海洋流匯集在津輕海峽的大間海域,
吸引了許多肥美的黑鮪魚在此出沒,
其美味更是聞名全日本,
"大間鮪魚"更是極品黑鮪魚的代名詞。
每年11月下旬到12月這段期間是黑鮪魚油脂含量最豐富的時候,
大間盛行的黑鮪魚撈捕技法為「一根釣」及「延繩釣」漁法;
這些捕撈技法會決定於肉的美味程度,
且主要的影響魚肉美味的原因是"溫度",
據說,當鮪魚上鈎的那一瞬間會誓死掙扎,
這時魚體體溫會一下子升高到40°C,會造成魚肉過熱,
其肉質口感也會變硬,相對也會影響價格;
因此鮪魚一捕上船後,
就必須須立即清理魚腮、切掉尾鰭、取出內臟,
再以鹽水清洗魚身並灌入冰水,
讓魚肉在最恰當的溫度中保持其新鮮與美味。
今天,我們可以在大間崎吃到"大間鮪魚"真是太讓人期待嚕!!
今天,這算是下午茶;
上桌的是三貫極品壽司(依序為中トロ、赤身、大トロ)還配上一碗味增湯,
哈哈哈,因為濃濃蝦味道的味增湯上來得比較慢,
且要趁熱喝,太好了,
剛整理照發現竟然忘了拍照嚕!!
今日的壽司真是太美味了,
入口即化的魚肉就跟和牛的油花般美味,
像極了日本美食漫畫中吃了之後腦海會出現海浪,鮪魚游動的模樣;
夢幻的美味,讓人吃完之後還拼命嚥口水呀!!
啊!!好想再來一份,二份;
此時多希望這不是下午茶,而是正餐呀!!
這裡也許來的機會不是很多,
但若是有來到下北半島的朋友們,
可千萬別錯過這個在本州最北端的夢幻美食,大間浜壽司。
.....................................................吃喝玩樂沒有終點
相關資料,有需要的朋友們請自取:
浜壽司
網址:http://oma-hamazushi.com/
地址:青森県下北郡大間町大字大間字大間69-3
電話:0175-37-2739
營業時間:11:30~21:30(不定休,最好先電話確認)
如何前往:JR「下北」站搭乘下北交通巴士佐井線,於「大間(崎)」停留所下車。
約乘車1小時30分鐘(¥1,990)
北海道函館市搭乘津軽海峡フェリー(函館-大間),
約1時間30分,後自大間船站步行約10分鐘。
此趟旅程相關文章:
【日本,東北,秋田縣 】「食彩陸奧」冬乘「秋田內陸線」巧遇秋田犬列車;途經爆紅《你的名字》中的車站原型,前田南站 。
【日本,東北,秋田縣 】「食彩陸奧」日本北東北的雪見溫泉與害羞的男女混浴秘湯,乳頭溫泉之"蟹場溫泉"(Ganiba)。
【日本,東北,秋田縣 】「食彩陸奧」日本北東北的夢幻雪見溫泉;秘湯,乳頭溫泉之"鶴の湯"。
【日本,東北,青森縣,陸奧市 】「食彩陸奧」日本北東北的究極料理特選餐廳(二);滿滿大平台的帆立貝,讓人吃得好滿足,French&Italian agréable。
【日本,東北,岩手縣】「食彩陸奧」日本北東北的究極料理特選餐廳(一);休息站內輕易感受到在地的美味五感,前澤餐廳。
食彩陸奧 頂級美饌王國巡禮日本 北東北 http://delicious-japan.info/
合作餐廳共6 間, 於2017年1月下旬起,提供給國外觀光客預訂。
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彭麗媛:我和喜兒(萬字長文)
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日前,中國音樂家協會機關刊物《人民音樂》於2018年4月號刊發了中國文聯副主席、中國音樂學院博士生導師彭麗媛教授撰寫的《我和喜兒》一文。據稱這是一篇前後醞釀了二十多年的長文。
我是個小女孩時,就與喜兒結了緣。那時,我家在山東省鄆城縣影劇院家屬院內,這也是鄆城縣劇團所在地。劇團的大人們練身段,吊嗓子,排練劇目,日復一日,日子平靜。我喜歡逢年過節,特別是春節,還有縣裡召開「兩會」。那些日子,劇院內外車水馬龍,聲腔繚繞,熱鬧非凡。熱鬧並非我所鐘意,高興的是一天有兩場大戲,如《穆桂英挂帥》《花木蘭》等。「文革」時期上演現代戲,如《白毛女》《沙家浜》《紅嫂》等。
第一次看《白毛女》演出時,我也就五六歲,山東梆子的移植版,由我母親李秀英主演。她時年二十五六歲,曾是地區遠近聞名的旦角,主演過《穆桂英挂帥》《花木蘭》等古裝戲。長輩們說她扮相好,特別棒,可那是我出生前的事了。一場場看下去,從喜兒盼過年,扎紅頭繩,到地主逼債,頂租到黃世仁家,再到逃往深山,變成白毛仙姑,報仇雪恨······印象最深的是白毛仙姑那一場,看到黃世仁供奉,我母親從兩米高的供台上,一個跟斗翻下來,追趕黃世仁,台下幼小的我被嚇得哇哇大哭起來。
兩個小時的演出,劇情跌宕起伏,情感大起大落,給我留下了深刻印象。同時,在我幼小的心靈中留下了許多解不開的謎團:為什麼頂租子?為什麼遭強��?為什麼逃跑?為什麼頭髮變白等等。時變物遷,不可預知,命中注定這些謎團要以我自己的親身實踐來解答。小時候看母親演過的一齣戲,竟然為我20歲出頭時尋求答案埋下了伏筆,成為日後我演好喜兒的內驅力,也成為把自己的心與喜兒的心貼在一起進而感染觀眾的「第一階梯」。藝術的傳承方式有「家族傳承、師徒傳承、學堂傳承」,三種方式竟然奇特地凝結到我對喜兒角色的塑造中。「家族傳承」的深遠影響只是到了驀然回首藝術體驗的初始階梯,才領會其啟蒙意義。連自己也沒想到,冥冥之中,母親的藝術實踐,竟與我的未來之路交織得如此之深。
第一個亮相與第一聲詠唱
大部分人了解接觸喜兒,都是從《白毛女》中那首著名的主題歌《北風吹》開始的,我也不例外。在那首朗朗上口、婦孺皆知的旋律中,紅襖綠褲,扎了一根大辮子的農家少女形象油然浮現。起初,我對角色的認識很不充分,總以為把天真活潑的形象呈現出來就是喜兒了。其實《白毛女》中的喜兒是舊中國農村的喜兒,穿的是打著補丁的粗布褲襖,梳一根大辮子,連紅頭繩都沒有,用一根破布條扎著辮子,一年到頭吃糠咽菜,肚子都吃不飽。所以,表面上天真活潑,心裏面卻苦悶苦澀,這其中隱伏了另一個喜兒——下半場登場、面目全非的喜兒!只有通過前一個喜兒和後一個喜兒的強烈對比和戲劇張力,才能彰顯前者的單純美麗。
生活雖苦,依然擋不住生命初放的燦爛。爹爹因為租借了地主糧食,年關還不起賬,到外面以賣豆腐為生,名為掙錢,實為躲帳。按照舊時傳統,無論欠什麼債,到了年關都暫時擱下。所以,大年三十前一天,喜兒知道爹爹要回來了,到大嬸(大春哥的娘)家借了兩斤白面。這兩斤白面雖非黃金,但與生命相連。
「北風吹、雪花飄」,前奏一響,喜兒迎著風雪��場。初一亮相,光彩照人。這是喜兒在全劇中的第一個亮相,觀眾心目中的形象,定格於此。這個喜兒是不是他們心目中的形象?是不是可愛的喜兒、真實的喜兒?關鍵就在亮相。這個亮相是集農村女孩的喜悅、羞澀(剛在大嬸家見到了心上人——大春哥)、單純、樸實於一體的造型。對於這個亮相,我琢磨了許久,反覆把握,務求完美。
看過田華老師在電影《白毛女》中剪窗花的劇照,天真、美麗、純樸,一個純潔無暇、略含羞澀、真實的農村少女。第一個亮相,我以此為據。內心裝著一個活喜兒,定型就有了著落。我也以此定型第一幕的基調。
接下來的一系列動作就此展開。先看天上飄落的雪,一股大風吹來,本能地用手擋住風雪,臉往後扭;又看到斗里的白面(因為上世紀初的北方農村是用斗或白布盛面)。這麼金貴的白面,可不能被風吹走了,要是吹走,就包不成餃子了。趕緊用胳膊加手護住斗。喜兒來到自家門,把門打開、進門、關門,門被風吹開,再回頭關門······幾個動作,在間奏中完成。
「北風吹,雪花飄,年來到」一句,是喜兒看到村前村後、各家各戶張貼春聯、掛紅燈籠景象的感觸。手腳輕盈,表情靈動。「年來到」三字,旋律從上至下,斷連相間,透著欣喜。整部歌劇的第一首主題歌,在這一組動作之中完成,構成動作的是戲曲的程式化表演。
我雖生長於縣城機關家屬院,但每年寒暑假,父親總讓我到其老家——鄆城縣「大老人公社前彭庄」住上十多天。在老家過年,才知道農村生活不易。每年三十,我和堂哥、堂姐、堂弟們一起吃團圓餃子。因為家境窮,孩子多,大伯家總是用黑麵粉摻和白麵粉包餃子,餡兒是胡蘿蔔稍加幾粒羊肉沫。我不喜歡羊肉和胡蘿蔔味,餃子皮又厚又硬,難以下咽。所以,我常含著跑出來偷偷吐到樹底下,用腳扒拉上土,再餓也不吃。我把這種心情轉借到對喜兒的體會上。她竟然借了兩斤白麵包餃子,不管什麼餡,只要是白面的,一定好吃。這個心情,我一下子找到了。
這讓我體會到農村孩子的喜悅心情。不是漂亮衣服,更不是玩具,而是只有年���兒才能吃到的白麵餃子。兒時的鄉村生活,讓我找到了體驗喜兒感覺的途徑。
整部歌劇的核心旋律,乃至廣大觀眾認同《白毛女》的標誌性符號,是改編自民歌的風格明快的主題歌。《北風吹》被幾代藝術家闡釋過,不用說王昆、郭蘭英等老一代歌唱家,就是新中國成立後無數個移植版、普及版的喜兒,幾乎把這首千人琢磨、萬人打磨的主題歌挖掘到再也難辟新境的高度。然而,我還是渴望讓觀眾品到別樣之聲,因為這是我的青春之歌。「隨人作計終後人,自成一家始逼真」(黃庭堅語),能不能賦予一首耳熟能詳、有口皆碑的旋律以時代的脈動感,就是藝術家獨闢蹊徑、捕捉藝術之魂的關鍵。我務求做到字字真切,聲聲入耳,讓人「雖觀舊劇,如閱新篇」(李漁語)。
每次演出,「北風吹」一開口,全場寂然。一曲唱罷,觀眾往往報以熱烈掌聲。我知道,這是觀眾對喜兒的感情,也是對我所呈現的人物的認可,更是對我苦思冥想、潛心琢磨唱好主題歌的回報。
端詳喜兒與審視角色
喜兒是舊中國千千萬萬個受苦受難百姓中的一個,是滄海一粟,又是代表人物。塑造人物要有時代特徵,脫離時代就不能讓觀眾感受到生活於舊中國底層的女孩子的苦難,對階級壓迫也就不會有深切理解和真實觸動。藝術形象不脫離實際,才真實可信。我試圖從不同角度觀察這個角色。
楊白勞看喜兒是什麼感覺?老來得女,少小失母,楊白勞又當爹又當娘,一口水一口飯將喜兒拉扯大,疼愛如寶。放在地上怕丟了,含在口裡怕化了,捧在手裡方才安穩。在他眼裡,喜兒是任何東西也不能替換的心肝寶貝。
在大嬸(大春娘)及大春眼裡,喜兒是俊俏、聰明的好女孩,大嬸未來的兒媳婦,大春心中的好妻子。
在地主黃世仁和狗腿子穆仁智眼裡,喜兒不過是一個花樣年華的丫頭,可以用租子來頂替的廉價農家女孩,想要就必須得到,如同一個物件。
在觀眾眼裡,喜兒是活潑可愛、無憂無慮的花季少女,充滿青春美好和懵懂愛情。然而,她突遭命運轉折,從無奈無助,到被糟蹋蹂躪,繼而反抗出逃。
我從各個側面審視喜兒,挑選她每個階段最具特色、最活躍的因素,以此確定性格基調。基調是關鍵。關鍵確立了,並不等於表達清楚了,還要一層層揭示她的演變軌跡。關鍵像一顆杏子,仁是包在裡面的,外面需要音樂、表演、舞美等綜合元素配合,進行立體塑造。
我把喜兒的形象分成三個時段:一、少女、純真;二、絕望、求生;三、復仇的剛烈與希望中成長。
把三個時段歸於一個總體判斷,源於戲劇底本。三個喜兒,三改其顏。無論是少女純真的喜兒,絕望求生的喜兒,還是復仇剛烈的白毛女,都以歌劇的核心音樂基調為依託。也就是說,必須把三種形象依託於幾首最重要的唱段上。
第一個是少女階段。企盼幸福,渴望愛情,盼望「年來到」。表現主調是活潑。眼睛是發光明亮的,看東西是跳躍快速的,肢體語言是輕盈雀躍的,音樂語言是歡快流暢的。從「北風吹」的音樂進門,先快速把白面斗放在鍋台上,馬上轉身把門關上,門閂還沒有拴好,頭已經快速扭轉到白面上。一系列動作都集中於包好餃子、等待爹爹回來一起過年的單純目的上。
白麵餃子成為主要載體,也是推動喜兒行為的主要想像物。以此穿針引線,把一系列事件串聯在一起。爹爹回來要吃餃子,大嬸、大春哥要來吃餃子,大伯要來吃餃子。正在一家人將要團圓吃餃子之時,穆仁智打著燈籠追上門來逼租。拿喜兒頂租的陰謀出現,摧毀了餃子寓意的團圓,團圓寓意的年,年寓意的家。餃子沒吃上,楊白勞悲痛欲絕,趁著喜兒睡著的空檔,喝下了點豆腐的滷水,悲憤而死。所以,白麵餃子要從歌唱、眼睛、動作、語言上盡其所能,加以突出,讓觀眾時刻感受其多重寓意。
喜兒「哭爹爹」是第一個高潮。在這個轉折點上,爹爹死去,夢想破碎,觀眾情緒一下跌至谷底。
第二個階段是絕望、求生。喜兒被迫頂租子,到黃家當丫鬟。每天給黃母熬藥、捶背,稍打個盹就被黃母扎針、辱罵,受盡欺辱。惡毒的黃世仁不安好心,在燒香的白虎堂糟蹋了喜兒。
當喜兒掙脫黃世仁從屏風背後出來時,已不是觀眾之前認識的那個秀麗乾淨、眼睛發亮的喜兒,而是衣衫凌亂、頭髮蓬鬆、眼神渾濁不清、手拿麻繩準備上吊——絕望的喜兒。
《刀殺我斧砍我》是音樂的第二個高潮。音樂前奏,悲痛凄婉,如同柴科夫斯基第六交響樂《悲愴��那個短小動機,如同貝多芬第五交響樂《命運》的敲門聲。這是一個女孩子的命運掙扎,是哭訴、是覺醒、是無助、是絕望······雙腿沉重跪地,雙手拍打地面,內心憤懣,化為第一聲吶喊「天哪」!聲音由弱到強,張力由內到外,氣息拖得儘可能長些、再長些。控制聲音,釋放生命並保持恆定能量,把怨氣盡最大可能喊出來。對天說,對地說,對命運說,對觀眾說!
譜例1:《刀殺我斧砍我》
「刀殺我斧砍我,你不該這樣糟蹋我」這句是「曲首冠音」。音樂採用戲曲垛板。演唱者必須具備戲曲基本功,把幾個字,特別是「糟蹋我」三個字,用「噴口」噴出來,如此才能感染觀眾。我童年時演唱過山東梆子、河南豫劇,這些基本功派上了用場。採用演唱梆子的方法,把字咬住,用氣息推出,效果極佳,很有感染力。
接下來,要把悲憤一句句訴說出來。「自從我進了這黃家門,想不到今天啊」,兩句是無顏面世的哭訴。
大嬸進入,手拿包袱,悄悄勸喜兒:「一定要活命,等到大春哥(已參軍)回來替你報仇,快從後門逃出去。」
絕望激發本能。弱小生命面臨死亡威脅、尚存一線生機,也要抗爭。為大春哥而活,為父母而活,為報仇而活!逃出黃家才能活。
泥濘河塘旁,崎嶇山坡上,喜兒摔跟頭,在漆黑一片的夜色中逃亡······圓場、碎步,不能顛,既穩且勻,像一串珠子不斷線。戲曲演員練碎步,兩膝之間夾一條手絹不能掉下來,頭頂一碗水不能灑出來,方能過關。
猛摔在地,迅速爬起,展現對活的渴望與命運抗爭的堅強。右手指向前方,喊唱:「他們要殺我,他們要害我,我逃出虎口,我逃出狼窩。」「娘生我、爹養我,生我養我,我要活,我要活」,與白虎堂《刀殺我斧砍我》作回應。喜兒的抗爭,給觀眾留下抗擊命運的鼓舞。
喜兒從小河流水聲判斷方向,順河水奔向前方。生的慾望,逃的急切,前面無路、後有追兵的慌張,使她成為在黑暗中漫無目的、張皇無措的逃亡者。父親、大嬸、大伯、大春哥呵護中無憂無慮的少女,被殘酷命運一擊而醒。
喜兒命運的轉折,也是台下觀眾心理的轉折。演員要有能力通過手、眼、身、法、��,把觀眾帶入情境。戲劇性轉變需要表演者的深厚���力,把心情交待出來,而非僅僅順從劇情。此時的表演,既借鑒了斯坦尼斯拉夫斯基表演體系的要義,又繼承了中國戲劇的表演傳統。斯坦尼體系強調真實體驗,中國戲曲強調虛擬程式。故事是真,表演是虛;既有現實的真實體驗,又有藝術的虛擬空間。表情要真實,緊張急切;身段要虛擬,美麗舒張。這就是既要融入角色、又要保持距離的中國歌劇的特殊的表演方式。
音樂家走進喜兒的途徑
我體驗喜兒,也大致分為三個階段:音樂、舞蹈、電影。
第一步熟悉音樂。先從歌詞理解人物,初步定位。我能夠通過兒時農村過年的情境體會喜兒的喜悅,但對於還未成家的我,要體驗「白毛女」的感受(當時我22歲,在讀大學本科二年級),就要費一番周折了。這就要從書籍、報刊、錄音、電影中尋找。我聽了郭蘭英老師的實況錄音(因各種原因和技術限制,她一生演出了眾多歌劇,卻未能留下一部影像),從中尋找和感受喜兒。學習郭老師的歌唱風格,再轉化成自己的風格。
第二步從芭蕾舞劇《白毛女》中尋找感受。我們這代人沒看過原始版的歌劇《白毛女》,常看的是「文革」時期拍成電影的舞劇《白毛女》。我從「白毛仙姑」演員身上(上下場由兩人扮演)找到了對生的渴望的強烈表達。在充滿張力的舞蹈動作中,找到了掙脫枷鎖、奮起反抗的「內力」。特別是從服裝和肢體語言上,感受到女性之怒與女性之美的平衡,進而理解到「藝術源於生活又高於生活」的真諦。
第三步到電影故事片《白毛女》中找尋感覺。田華老師是故事主角的同代人,把從喜兒到白毛仙姑的轉變表現得淋漓盡致,如同真實再現。田華老師是河北人,故事也發生在河北境內。她從小生活貧困,後來參加革命,對人物的理解和表達貼近真實,影響了幾代人。
然而,電影人物要生活化才可信,舞台人物則因空間不同而需採用不同方式。電影拍攝於實景,如同生活再現,越自然逼真越令人信服。舞台則是虛擬場景,服裝、化妝、造型都不同。電影角色可以用不同場景的蒙太奇剪輯等後期製作塑造人物,兩個小時如同看一部中長篇小說。雖然歌劇也在兩個小時內完成,卻由歌唱、表演、台詞、舞蹈等元素合力完成。這就需要我自己尋找其他途徑,獲得進入角色的門禁卡。當我紮上喜兒的辮子,繫上紅頭繩,穿上打著補丁的衣服,不免對著鏡子尋找心中的喜兒,腦海里不斷閃現齣電影、舞劇、小說等各藝術品種中的喜兒。我必須找到自己心中的歌劇舞台上的喜兒!
我心中的喜兒是個什麼樣子?人物必須在三段劇情中塑造為三種形象:第一個是無憂無慮、渴望幸福、天真多於理性的少女;第二個是爹爹服毒自殺、如聞晴天霹靂,再到被糟蹋,內心絕望到逃亡求生的姑娘;第三個是不屈不撓與命運抗爭到底的白毛女。
我從音樂中揣摩喜兒的內心。《北風吹》的純真與質樸,《刀殺我斧砍我》的質問與覺悟,《恨是高山仇是海》的遽變與剛烈。音樂脈絡讓我捕捉到這個人物的性格伏線,獲得了情感基調。這就是歌劇《白毛女》之所以不同於芭蕾舞劇《白毛女》、不同於電影《白毛女》的地方,也是歌劇舞台上「長歌當哭」「托詩以怨」熠熠生輝的地方。我堅信,《北風吹》的力量傾城傾國,《恨是高山仇是海》的力量撼天動地,是千千萬萬觀眾理解、喜愛、定位喜兒的「魂」。
與其他藝術品種的對比,使我逐漸把握到歌劇喜兒角色的構成要素。三個階段的三種音樂基調,是歌劇舞台上的喜兒不同於其他藝術品種的關鍵。執此一脈,大勢可奪!觀摩琢磨,苦思砥礪,我清醒地感受到,一個具體的歌劇藝術中的喜兒,開始駐進我心,佔據心靈。這可能就是一個表演者探索人物並享受創作過程,準確定位的辛勞與快樂。
打動人心的另一半
喜兒的第三階段,是該劇之所以稱為《白毛女》的重頭戲。中場休息後,觀眾渴望見到另一個喜兒——白毛女。這是新起點,是軸心。造型變化,音樂基調,都與軸心一一呼應,渾然天成。下半場開幕,必須把觀眾的目光集中到白毛仙姑上來。她是喜兒,又不是原來的喜兒,是個曾是喜兒的白毛女。生活於深山老林,廟裡躲風避雨,偷吃鄉親給菩薩上供的瓜果充饑,致使沒有鹽吃的喜兒頭髮變白,衣服蛻霜。雖然衣衫襤褸,但她已經變成一個堅強的人,一個令千千萬萬觀眾難以置信又感動欽佩的人。所以,下半場第一個亮相不亞於開場第一場亮相,也要在視覺上給觀眾以再一次衝擊。
這一幕,除了《恨是高山仇是海》的十分鐘詠嘆調,再一個支持人物之魂的就是白色服裝和長發造型。斯坦尼斯拉夫斯基的體驗體系把舞台元素分為兩類,一類是內在的、心裡的、體驗的,一類是外在的、形體的、體現的。喜兒與白毛女的區別體現在兩套造型上:紅襖綠褲與黑色長辮,白衫襤褸與白色長發。
裝扮從外到內,唱腔從內到外,相互應和,牽人入戲。有了外在依託,再通過歌唱功力把主人翁的獨特造型及辛酸內心表現出來,使之成為有血有肉、有軀有魂的「白毛女」。
長達十分鐘的唱段《恨是高山仇是海》音樂��裁上屬於西方式的詠嘆調,但融合了一聞便知的戲曲板腔體元素。有散板,有垛板,更有歌唱性極強的「一道道彩虹」。作曲家的唱腔設計,需要演唱者至少具備兩三種以上的戲曲演唱經驗才行,沒有積澱,難於應付。表演者要熟悉河北梆子、河南梆子、山西梆子,還有曲藝和說唱藝術,如京腔大鼓、河南墜子等,更要有西洋唱法的氣息連貫,把胸腔共鳴、頭腔共鳴、鼻腔共鳴融為一體,才能完整詮釋這首核心唱段。
唱段與西洋歌劇詠嘆調有共同處,也有不同處。共同處在於人物從宣敘調到詠嘆調,有快有慢,自由抒發,不同處則是西洋詠嘆調大部分由三部曲式構成,A、B、A,每段有高潮、有高音,最後往往結束在一個高音上。中國歌劇唱段可能沒有最後高音,卻於每段中出現高音。開頭便是「曲首冠音」,一下子就到G,用以表現情緒的高度激憤。
風高月黑,白毛女到廟裡尋找供果,遇到前來敬拜白毛仙姑的黃世仁。當滿頭白髮、渾身素衣、怒目相視的白毛女出現於供桌,黃世仁、穆仁智,魂飛魄散,倉皇奔逃。喜兒追趕不及,卻聽到他們嘴裡喊的:「鬼、鬼、鬼」。理著銀髮,瞅著白衫,喜兒在月光下自忖,可不是,自己已在不知不覺中變成了「鬼」。與世隔絕,苦等苦熬,祈求老天爺睜眼:「我,我,我······渾身發了白······問天問地,為什麼把我逼成鬼?」
第二樂段是第一樂段的再現。喜兒堅定道:「好吧,我是鬼。我是屈死的鬼,我是冤死的鬼,我是不死的鬼!」
這是歌劇後半場分量最重的唱腔,作曲家成功地融合了中外兩種音樂元素,強化了戲劇衝突。詠嘆調加宣敘調,秦腔散板加道情滾板,唱念間插,歌中加戲,戲中有歌,「柔可盪魂,烈足開胸」。整場歌劇的主題「舊社會把人變成鬼,新社會把鬼變成人」,此時此刻在唱腔中盎然托出。無數次演唱這段唱腔,讓我明白,音樂的生命力絕非只是初聽時的那樣淺白,無盡的深度只待有心人不斷發掘。
捕捉時代感
我多次回憶年輕時看的電影《白毛女》(1985年還沒有DVD),再找來當年田華老師扮演的劇照,哪怕一點也不放過。對照曲譜,反覆聆聽郭蘭英老師1980年代演出《白毛女》劇時的錄音。我多麼渴望能親眼見到仰慕已久的郭蘭英老師,但她在「文革」中受迫害致使腰部重傷,當時舊傷發作,躺在醫院,無法到排練現場,所以只能聽郭老師的開盤帶實況錄音,從音樂中捕捉喜怒哀樂。對每首唱段,特別是重點唱段,精彩唱段,難度大的唱段,反覆聽,反覆唱。如開場《北風吹》和《哭爹爹》,第三幕《刀殺我斧砍我》《逃跑》唱段,下半場《恨是高山仇是海》,十遍、三十遍、八十遍、一百遍,直聽到磁帶破損為止。
聽錄音,模唱腔,接下來重新處理,融入自己的感覺,根據個人聲音特點和特長再創作。《白毛女》在新中國成立之初就已家喻戶曉,特別是以王昆、郭蘭英等老一輩藝術家為代表的演唱和表演早已深入人心,定型定式。如何在繼承和發揚基礎上提高與轉型,這是當時擺在我面前的最大難題。唐代書法家李邕說:「似我者俗,學我者死。」韓愈說:「能自樹立不因循」(《韓昌黎集·答劉正夫書》)。我要在傳承經典的基礎上,不動聲色地融進我在中國音樂學院學到的東西,力求呈現一個獨具時代風貌的喜兒。
歌劇的核心是音樂,是托舉喜兒、白毛女性格的靈魂,更是不同於其他藝術的根本。沒有音樂的呈現,歌劇的喜兒就不成立。所以,音樂是點石成金的關鍵。我年富力強,氣息充沛,音域寬廣,勤心實踐。生在戲麴院團環境中,從小會唱戲,童年的耳濡目染成為塑造角色的天賜條件。數年專業院校的系統學習,為我添翼,為我鼓帆,更有初生牛犢不畏虎的一腔熱情,所以在舞台上從沒有畏葸不前。
對人的第一印象來自外形。一進排演場,我便穿上那套衣服,打著補丁的破棉布衣褲,一雙舊黑布鞋,把頭髮梳成一根辮子。破舊衣服加上這根長辮子可以使我立刻找到感覺。白毛仙姑應該是個充滿野性、不畏野狼虎豹、不懼驚雷閃電、不怕狂風雨暴的人,與天地抗爭,練就了剛強性格的人,不怕死、心中抱著為父報仇充滿希望的人。穿上白色服裝,白色長發披到肩上,我就立刻找到了這種感覺。在舞台上,一定要尊重服裝、化妝呈現的造型,不能僅為自己漂亮。
外形是否美,取決於內心。沒有對人物內心的揣摩和認同,穿什麼服裝都不會讓觀眾接受。當我做到了這些,心裡確定,我就是喜兒、喜兒就是我,我就是白毛女、白毛女就是我了。如同斯坦尼斯拉夫斯基所說,演員的「第一自我」被擺脫了,我就是角色。與角色融為一體,從裡到外與表演人物相一致,是我作為一個歌劇表演者探索歌劇藝術境界的途徑之一。
通過他人的眼睛看自己
排練過程中,在喜兒形象的初次呈現上,總讓我覺得不盡如人意。在家中姊妹排行我是老大,家中諸事由我做主,苦活累活都是我干,因而形成了堅強的性格。剛剛出場的喜兒,卻是一個可愛而不能展示堅強外表的形象。我的性格自然表露出來,與喜兒應有的造型不相一致。對於這一點,同事們給我指了出來。他們告訴我,人們喜歡的喜兒,是個可愛、單純、柔弱、純樸的姑娘,特別是在爹爹死去、要去黃家頂租時,無望無奈,無援無助,可憐地望著大叔、大嬸、大春哥······所以我要調整自己,儘快把自己變成一個大家認同的喜兒。
「哭爹爹」也不能一直哭,否則會讓觀眾感到吵鬧。哭聲陣陣,不但不能感動人,還容易讓人煩。看到爹爹躺在雪地上身體僵硬,一個大快步向前,跪在地上,晴天霹靂般喊一聲「爹」,用北方人特有的長腔去喊,腔中帶悲、帶苦、帶驚、帶怨······這一跪一喊,一定要讓觀眾情不自禁地落淚。表演拿捏好度很關鍵,既不能欠缺,也不能過火。切忌演員台上淚如泉湧,觀眾台下無動於衷。為什麼?感情不能自制,只剩下自己在感動自己,沒能打動觀眾,白費功夫。一個合格的表演者,不但要善於把自己化為人物,還要善於建立人物與觀眾的聯繫。這樣觀眾才能真受感動。就是一句話:「要讓觀眾流淚而你不流淚」。若自己流淚觀眾不留淚,能是一個高素養的表演者嗎?
白虎堂一場,喜兒被黃世仁侮辱後,唱段雖短,但內涵豐富,若理解不透,一是情緒平平,絕望得不到渲染;二是演過火,戲過火就不是喜兒。唱到「娘生我,爹養我,生我養我為什麼?」悲憤傷痛,無奈無助,羞恥交織,形體上一邊對天說,一邊因悲傷而跪癱在地,雙手握拳捶打自己的腿,再而伸雙掌交換擊地,表達遭受蹂躪的無辜少女的慘痛。這一動作是我想到電影《地道戰》《苦菜花》中失去親人和兒女的女人們,坐地雙掌拍地表達憤怒的樣子而得到的啟發。
第一次綵排,我過於強調此點,張嘴朝天,雙眼緊閉,一直保持這種狀態。側幕旁,扮演穆仁智的導演之一、老藝術家方元��師看在眼裡。等台上下來,他告訴我:舞台上的女演員要呈現美感,無論高興還是悲傷,不要忘記這是升華的藝術,不僅僅是生活再現,否則就會跑偏,真實度減退。觀眾希望看到的是一個值得同情的喜兒,不是一個過火的怨婦······
一句善意提醒,如醍醐灌頂,金針度人,讓我懂得了過猶不及的含義。我很感激,也非常認同。舞台上的表演家如同在生活中做人,要掌握分寸、恰如其分,過了就如同「水滿則溢」。
我開始琢磨,收斂表情,以唱腔打動人。有的動作要誇張,如跪地時要猛,這一跪要能讓觀眾流出同情的淚水。但嘴不要誇張,眼睛裡閃現悲憤無助的光。如此調整,讓我與觀眾的距離拉近了,美感增加了。我體會到,表演者的投入不能過火,在充分表達內心的同時,要讓人感受藝術之美。當然,不溫不火太中性,既要有能力將劇情推向高潮,又要盡量表演適度不過火。
我感謝老藝術家和同行及觀眾給我的直接的意見指導。離開他們,如同魚兒離開了水。「勝我者我師之,類我者我友之。」①一樁樁幕後往事,滲透著老一代藝術家薪傳後人的溫暖。
豐滿人物就是豐滿我的藝術人生
藝術理論,論述了人物內心與表情之間的聯繫。一位表演者如果不能深刻體驗角色的內心世界,就不可能將角色應有的表情轉化為自己的表情。「他山之石」對於拓深我的表演空間起到了關鍵性作用,不僅激活了思考、獲得開闊的藝術視域,而且也深化了我的藝術觀。沒有哲思的引領,就無法理解藝術語境中特定人物表情背後的底蘊。這些理論循序漸進地指引我不斷發現藝術家的使命。
錢鍾書談到:「遙體人情,懸想事勢,設身局中,潛心腔內,忖心度之,以揣以摩,庶幾入情合理。蓋與小說、院本之臆造人物、虛構境地,不盡同而可相通。」②
舞台上喜兒的生命,內在於一個藝術原型的真實生命,也內在於我一個表演者的藝術使命,作為表演者,她的生命與我的生命連接起來,構成一段可以連接、可以感知的統一體。一幕幕戲劇,一段段音樂,如同一個個接點,讓我走近人物並把其活靈活現地展現於舞台。「變死音為活曲,化歌者為文人」(李漁語),舞台上,喜兒的表情就是我的表情,白毛女的聲音就是我的聲音。換句話說,我的表情就是喜兒的表情,我的聲音就是白毛女的聲音。因此,忠實再現表情,就是我的使命。
1985年,經過近半個月排練、合樂、綵排,終於在歌劇《白毛女》首演40周年之際,在北京天橋劇場上演全劇(20世紀80年代的天橋劇場是北京最優秀的劇場之一),後來又赴哈爾濱參加「哈爾濱之夏」音樂會演出,在北方劇場一演就是十幾場。在觀眾強烈要求下,經常還要加場。有時我下午演下半場,晚上演整場。
時任中國歌劇舞劇院院長、著名劇作家、詞作家喬羽先生曾對我說:「別人不信任你能挑起這個大梁,當時我就拍板說,小彭肯定行。現在你用實踐證明了我的判斷。我與原創賀敬之、陳紫等同志見面,他們也一致認為,你是《白毛女》誕生以來最好的喜兒之一,可以稱為第三代喜兒的代表。」
我感恩中國歌劇舞劇院和老一輩藝術家讓我與喜兒結緣,在我初出茅廬之際(1985年7月還不滿23歲)就擔任了這部歷史經典劇作的主角,這是何等的機緣和幸運!作為一名歌唱演員,一輩子能有機會出演歌劇是一種幸福,能出演一部經典歌劇更是一種榮幸,能出演一部經典歌劇中的主角更是幸中之幸!有哪個女演員能拒絕歌劇舞台上光彩奪目的喜兒角色?用我的聲音塑造、我的身法扮演我愛戴的喜兒,真是難得的享受。殊為不易的平台,給了我體驗歌劇藝術魅力的機會,也給了我總結中國歌劇表演藝術理論的機會。無數場舞台的實踐和體驗,使我漸漸悟出許多道理,也懂得了把握藝術形象必須強化理論學習的重要性。「看似尋常最奇崛,成如容易卻艱辛」(王安石《題張司業詩》)。
2015年,《白毛女》迎來首演70周年的日子,年輕一代的演員復排此劇。年輕人手拿IPAD翻看不同歷史時期、不同藝術家扮演喜兒的視頻,從不同角度汲取養分。這種方式是現代的、科技的、時尚的、便捷的,但我更希望他們從內心向經典致敬。懷著對人物、對藝術、對前輩的敬畏,踏踏實實走進喜兒的內心,給觀眾呈現一台在原有基礎上既來源於生活又高於生活,與現代觀眾沒有隔閡的精品。不讓觀眾失望,不讓師長失望,更不能讓歷史失望。
①[清]李漁《閑情偶寄》,參見中國戲曲研究院編《中國古典戲曲論著集成》(第七集),北京:中國戲劇出版社1959年版,第9頁。
②錢鍾書《管錐編》,北京:生活·讀書·新知三聯書店2008年版,第166 頁。
附言:本文根據作者1985年《白毛女》排練筆記整理,2015年初定稿,2016年、2017年再修改,發表時有增刪。
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原文鏈接:彭麗媛:我和喜兒(萬字長文) - 娛樂新聞
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大浜流灌頂の施餓鬼堂 ~ 福岡市博多区大博町(2023.8.24)
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大浜流灌頂の施餓鬼堂 ~ 福岡市博多区大博町(2023.8.24)
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大浜流灌頂 ~ 福岡市博多区大博町(2023.8.24)
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大浜流灌頂 ~ 福岡市博多区大博町(2023.8.24)
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大浜流灌頂 ~ 福岡市博多区大博町(2023.8.24)
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博多の夏祭りを締めくくる「大浜流灌頂」 2023(4)夜のにぎわい
大浜流灌頂(おおはまながれかんじょう)は江戸中期の暴風雨や疫病の犠牲者を供養するために始まったそうです。通りには武者絵の大燈籠が飾られるほか、路地には小さな花笠提灯が灯っています。毎年 8月24~26日、午後6時から10時の間���博多区の大博町で開かれます。夜店も並んで多くの人出ににぎわいます。
↓ 博多百年町屋 ~ 博多ガイドの会による「まち歩き」(事前申し込みが必要)ガイドでしょうか?
駒も子どもたちがチャレンジする「型抜き」
大博通り側から ~ 流灌頂通りに武者絵が飾られてます。
↓ ふれあい通りとの交差点 ~ 武者絵の大燈籠を背に
武者絵の大燈籠
ふれあい通りの飲食コーナー
↑ 昭和通り・呉服町方面 ↓ 大博町集会所・那の津通り方向
集会所の施餓鬼堂
再度、武者絵の大燈籠
昼間は車が行きかう街中の路地
ところどこに小さな花笠燈籠が灯ってます。
YouTube >
夜のにぎわい(17分29秒) 武者絵の大燈籠(3分14秒)
2023.8.24 ~ おわり
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大浜流灌頂の施餓鬼堂 ~ 福岡市博多区大博町(2023.8.24)
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博多の夏祭りを締めくくる「大浜流灌頂」 2023(3)集会所の施餓鬼堂
新しくなった集会場に「施餓鬼堂」が設けられ、普段は東長寺に安置されている「不動明王」「大日如来」「弘法大師」が期間中のみ祭られます。
↓ 施餓鬼(せがき)でしょうか?。
供物
ちなみに、浄土真宗ではお盆の施餓鬼会はありません。
外はすっかり暗くなり、人出も多くなりました。
2023.8.24 おおはまながれかんじょう ~ つづく
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博多の夏祭りを締めくくる「大浜流灌頂」 2023(2)お盆の法会
江戸時代から続く伝統行事で、毎年 8月24~26日に開かれます。大博町の流灌頂通りとふれあい通りが夕刻から歩行者専用になり、武者絵の大燈篭がライトアップされた通りに夜店が並びます。そして、大勢の人でにぎわいます。
大博町の集会場で法会が行われる ~ 集会所の横は「瑜伽神社」と地蔵様がおられます。
江戸中期の暴風雨や疫病の犠牲者を供養するために始まったそうです。
「灌頂とは、菩薩(ぼさつ)が仏になるとき、その頭に諸仏が水を注ぎ、仏の位に達したことを証明すること。真言密教では、阿闍梨(あじゃり)から法門を伝授されるときに行われる儀式」だそうです。そして、
「流灌頂(ながれかんじょう)は、灌頂の幡(はた)などを川や海に流して水死者や無縁仏などを供養するために行われる。」そうです。近年では先祖や初盆を迎えた人々の供養のため、東長寺から僧侶がやって来て法要が行われます。
午後7時近くになり、暗くなってきました。
YouTube(4分52秒)
2023.8.24 おおはまながれかんじょう ~ つづく
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博多の夏祭りを締めくくる「大浜流灌頂」 2023(1)ぼちぼち始まる18時頃
江戸時代から続く伝統行事で、毎年 8月24~26日に開かれます。
大博町の流灌頂通りとふれあい通りが夕刻から歩行者専用になり、武者絵の大燈篭がライトアップされた通りに夜店が並びます。そして、大勢の人でにぎわいます。
江戸中期の暴風雨や疫病の犠牲者を供養するために始まったそうです。武者絵は明治中期の作品などだそうです。
↑↓ 大博通りの方向に進んでます。
暗くなるとライトアップされ、幻想的な雰囲気に通りの賑わいも増します。
大博通り
↑ サンパレス方向 ↓ 博多駅方向
↓ 流灌頂通り(大博通りを背に東向き)
町内会のカレーで腹ごしらえ ~ 真に食べなれた家庭の味は美味かった。
YouTube(6分51秒)
2023.8.24 おおはまながれかんじょう ~ つづく
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