#坪庭を背景にした階段
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坪庭を背景にした鉄骨階段。 坪庭の囲い込みにはガラススクリーンを採用することで明るい印象の坪庭に。階段下の空間はディスプレーとして上手く利用していただいています。 物件名:Dgh-house Photo : (株)VA 岡村靖子 #スレッドデザインスタジオ #moderninterior #housedesign #residence #furniture #interiordesign #名古屋設計事務所 #住宅設計 #設計事務所 #住宅デザイン #木造住宅 #リビング #リビング階段 #鉄骨階段 #坪庭 #坪庭を背景にした階段 #明るい坪庭 #階段下をディスプレーに https://www.instagram.com/p/CpRfyE0rXCd/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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「ああ、体が……うごかねえ、な……」 後頭部に、なにか重たくて生暖かいものを押し付けられたような感触があって、俺はそのまま床にぶっ倒れていた。スマホに手を伸ばそうとするも、力がまったく入らない。 急速に抗いがたい眠気が襲ってきた。 死ぬだろうな。そう思った。 もうじき52歳になる。現代の平均寿命から考えれば早い死だろう。でも、未練はなかった。ゴミのように生きるには52年という時間は長すぎた。 「もう、いいよな、衣紬……」 いまはこの世にいない妹の名前をつぶやきながら、俺の意識は薄れていく。 1983年5月28日午後3時41分。 結局、死ぬその瞬間まで、その時間が頭を離れることはなかった。 「道太、おい道太!」 「え……?」 いま急に目覚めたような気分だった。 「びびらせんなよ。とつぜん立ち止まったまま、白目むいてたぞおまえ」 「……稲熊?」 「ああ、おまえ親友の稲熊克俊だ」 「おう……」 返事はしたものの、頭がぼーっとしている。夢のなかにいるようだ。 いや、そうじゃない。ここはどこだ。俺は死んだはずで……。 「稲熊!?」 「だからどうしたんだよおまえはさっきから!」 すーっと、血の気が引いていくような気がした。 なぜなら、俺の親友を名乗るその男は、真新しい中学の制服に身を包んでいたからだ。 はっと気づいて周囲を見る。 俺は雑踏のなかに立っている。周囲の景色には見覚えがある。300万近い人口を抱える上山市の中心となるターミナル駅。複数の路線が乗り入れている駅のうち、俺にとってもっともなじみの深い下坪鉄道の改札近くだ。 しかし、様子が違う。天井が低い。どことなく煤けている。最近になってようやく工事が終わった上山駅の下鉄口は、きれいになっていたはずだ。 「これじゃ、まるで……」 「おい道太、家に帰るか? おまえほんとに様子がおかしいぞ」 俺を気遣う様子を見せる稲熊。その背後の改札口を見たとき、俺は今度こそ血の気が引いた。 有人改札だ。 稼働している改札すべてに駅員が立っており、カチカチとリズミカルなハサミの音を響かせている。 「稲熊、今日は何日だ」 「5月28日だろ。ときめきシンドロームの発売日だから上山の昌栄堂まで来ようって言ったじゃないか」 「何年の!」 「は? おまえ、とつぜん記憶喪失にでもなったの? そのわりに俺のことはわかるみたいだし」 「いいから!」 「……1983年5月28日。ついでにいうと」 と、稲熊が視線を泳がせる。指差したその先には時計があった。 午後3時20分。時計の針はその時刻を示していた。 「悪い稲熊、用事ができた!」 「お、おい!?」 「訳はあとで話す!」 俺は全力で走り出した。 理由なんかどうでもいい。転生なのか転移なのか、俺の外見はやはり稲熊と同様に中学生なのか。そんなことはすべてどうでもよかった。ここがパラレルワールドだとしても、俺の夢だとしても。 今度は、救えるかもしれないのだ。 現在と変わらず人の流れを読まないとまともに歩けないような人混みのなかを、何人もの人にぶつかりながら走る。階段を数段飛ばしで下りる。 目指すは国鉄。国鉄砧川線だ。 かつては違和感がなかったはずの、タッチパネルがまったくない自動券売機にとまどいながら、いまとは比較にならないほど安い初乗りのきっぷを買う。 改札を通って、階段を駆け上る。ちょうどドアが閉まろうとしていた水色塗装の電車に駆け込んだ。 ここから3駅。時間を確認しようにも、電車内に時計がない。わずかに立ち客が出ている車内には、スマホを持っている乗客は一人もいない。みな新聞か雑誌、あるいは文庫を持っている。 「すいません、いま何時ですか」 俺は、近くに立っていたスーツ姿のおっさんに聞いた。 「3時27分だね」 「ありがとうございます」 滝子駅でかかる時間は確か12分だ。そして駅から目当ての場所までは徒歩で2分もかからなかったはずだ。 間に合う。絶対に間に合う。 間に合わせてみせる。 反対側のおっさんが、器用に新聞を折りたたんで読んでいる。かつてはこんな光景を電車のなかでよく見た。 ここが俺の知っている世界なのだとしたら、明日、あの新聞の一面にはこう出るはずだ。『ヘリコプター、上山市街地に墜落』と。 電車が滝子駅のホームに入る。 ドアが開くのももどかしく、俺は飛び出した。 まだ音は聞こえない。ホームの時計は午後3時39分を差している。必死に階段を上りながら考える。3時41分。41分の何秒だ。何秒にヘリコプターは墜落するんだ。 ジャストだったら間に合わないかもしれない。 でも間に合う。きっと間に合う。そうでないなら、俺がここにいる理由がない。神様だか地球外人類だか知らないが、そういう存在が俺をここに転移させたのだとして、もし間に合わないのだとしたら、あまりに性格が悪すぎる。俺は衣紬がどこにいるのか知っているのだ。なにをするために、この滝子駅に来たのかすら知っている。 『明日��、卓球のラバー、買いに行きたいんだけど……』 あの日、朝にそう言った衣紬を、俺は稲熊との約束があるからと言って断った。衣紬だって小6だ。いまと違って、子供が一人で出歩くことにそこまで神経質な時代でもなかった。そのかわりネットの通販もなくて、ちょっと専門的な商品を買おうとすると、電車ででかけていくしかなかった。 そうして、家から最寄りの卓球用品の専門店のある滝子駅まで衣紬は来たのだ。 そこで、ヘリコプター墜落の直撃を食らった。 建物はすぐ見つかった。薄汚れた雑居ビルの2階にその店はある。狭い入口と急な階段。その階段を一気に駆け上がると、ちょうど衣紬が店に入るところだった。 間に合った! 「衣紬!」 「え、お兄ちゃん……!?」 振り返った衣紬は、俺の記憶にある衣紬のままだった。 「衣紬、ここを出るぞ!」 「でも、いま来たとこ……」 「いいから!」 「ちょっと、痛いよお兄ちゃん」 強引に手を引いて階段を下りる。 「どうしたのお兄ちゃんってば! 今日は用事あるって」 答えている余裕はない。 一刻も早くここを離れなければならない。 階段を降りきって、外に出る。 外は、暗かった。そして轟音が響いていた。見上げると、こちらに向かって巨大な塊がまっすぐに落ちてくる。 「な、なに……あれ……」 もう逃げる時間がない。 とっさに俺は、近くにあった看板の陰に衣紬を引きずり込んで、後ろからその体を抱きしめた。 同時に、体全体を殴りつけるようなすさまじい衝撃と轟音がして、体が吹っ飛ばされた。衣紬を抱きしめたままごろごろと転がった。俺は衣紬を組み伏せるように四つん這いになった状態で止まった。 「お兄ちゃん! なに、なんなの!?」 「無事か?」 「う、うん……」 「なら、よかった」 そう言ったところで、背中に激痛が走った。 「ぐあっ……うぁ……」 「お兄ちゃん!?」 「衣紬、無事か……」 「お、お兄ちゃん、血が!!」 ああ、背中が熱い。呼吸ができない。 これはあれだ。死ぬな。 体中に震えが走る。いやな汗が流れる。急速に意識が遠のく。 「お兄ちゃん! お兄ちゃん!」 「ああ……」 よかった。 守れた。 こんなに悲鳴あげてるくらいだもんな。衣紬に怪我はない。 俺がなぜ過去にタイムスリップしたのかはわからないが、衣紬を守れたなら、意味はあったんだろう。 神様だかなんだか知らないが、感謝するよ。 せめて……衣紬が、俺が死んだことを引きずらずに、笑って生きていけるように……。 俺の思考は、そこで途切れた。 「なぜ戻ってくるんですかね……」 呆れたような女の声がした。 はっと目を開ける。 白い空間だった。病院の一室のように見えるが、あるのはデスクと椅子だけ。俺はその椅子に座っていて、向かいには、声の主とおぼしき少女が座っていた。金髪に整った顔、そして背中には羽が生えている。 「天使……?」 「��え、天使です。そしてここは、あなたたちが言うところの天国的な場所です」 「……」 わけがわからない。 「めんどうなので一気に説明してしまいますと、三森道太さん、あなたは2022年の日本で52歳で亡くなりました。ほんとなら人間って死んだらそのまま消えちゃうんですけど、強い執着のある人は別です。特に、一生を棒に振ってしまうような強い執着は。心当たり、ありますよね?」 「それは……」 言いかけて、瞬間的に恐怖が全身を覆った。 「衣紬は? ちゃんと助かったのか!?」 あれが俺の幻覚的なものだったんだとしたら、こんなに救われないことはない。 「安心してください。ちょっとたんこぶができたくらいで、ピンピンしてますよ」 「よかった」 なら、俺としては心残りはない。 「それはいいんですけどね」 と、天使は困った顔をして軽くため息をついた。 「ほんとなら、あなた��助かるはずだったんですよね……。ちょっとポジションがずれてたというか……あと20センチくらい左にいたら、大怪我程度で澄んでたんですけど……あなた、ひょっとして運がとても悪い人だったりしませんか?」 「家庭環境その他含めて、だいたい運は悪いほうだ」 「ですよねえ」 「でもま、最後に衣紬を助けられたんだから、一生分の悪運がみんな幸運になってお釣りが返ってきたようなもんだ。もういつ成仏してもいい。好きにやってくれ」 「それがそうもいかないんですよ」 「というと……?」 天使は、はぁ、と小さく息を吐くと説明しはじめた。 いわく、転生なりタイムスリップなりをさせた人間に関しては、担当の天使に監督責任があるらしい。通常ならば、執着の原因になる現象は解決し、生まれ変わった人間はその記憶を失い、社会に溶け込んで生きる。 しかし俺は再び死んでしまった。そのことが目の前の天使の監督責任にあたるとのことだ。 「……私もけっこう長くこの仕事をしてますけど、こんな事例ってはじめてで」 「長くって、どれくらい?」 「300年でしょうか」 「オウ……」 300年ものの運の悪さかよ。 「まあ、そういうわけですので。上司に相談しましたところ、あなたはまた強制的に生き返らせろとのことで。ただイレギュラーすぎますので、そのまま放置というわけにもいきませんで……」 「どうなるんだ俺は」 というより、わずか数時間のあいだにいろいろ起きすぎじゃないか。死んでタイムスリップして妹救って死んでまた生き返るとか。忙しすぎる。俺のなかでは時間は連続してんだよ。 「次に目覚めたら、おそらく病院のベッドだと思います。記憶も消えません。三森道太さん、あなたは、52歳の精神を保ったまま、13歳から人生をやり直すことになります」 「はぁ……」 「驚かないんですか?」 「��やなんかもう、いろいろありすぎて、神経が擦り切れたと申しますか……」 「そうですか」 事務的に答えつつも、天使はどこか不機嫌そうに唇を尖らせている。驚いてほしかったんだろうか。ここはサービスするか。俺は、両手を広げて言った。 「わあ、びっくり」 「いい年したおじさんのやることじゃないですよね?」 いや、むしろおっさんこそこういう反応しがちじゃないか。 「……まあ、いいです。どうせ意識が戻ったらまた驚くことになりますから」 「そういう伏線っぽいのやめてくれない?」 「それじゃ三森道太さん、目を閉じてください」 俺の抗議をスルーして天使が言った。 すでに現実を超越しすぎてて、俺の理解できる範囲を越えている。どうせなにを言っても予定どおりに動くのだろう。諦めて俺は目を閉じた。 もうどうにでもなーれの気分だった。
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\おにわさん更新情報📸/ [ 京都市左京区 ] 平安神宮神苑 Heian-jingu Shrine Garden, Kyoto の写真・記事を更新しました。 ーー京都の代表的観光名所の一つ。七代目 #小川治兵衛 により作庭された約1万坪の大規模な池泉回遊式庭園。#国指定名勝 。 ・・・・・・・・ 平安神宮神苑は『平安神宮』⛩の社殿の背後を取り囲む約1万坪の大規模な #池泉回遊式庭園 で、国指定名勝。近代を代表する造園家 #七代目小川治兵衛( #植治 )により段階的に作庭されました。 2019年の夏に5年ぶりに拝観!岡��公園自体は何度も何度も通り掛かってたけどしばらく見ておらず――でもその8月に“東神苑”の大きな池泉がかいぼりしてたので、本日再訪!その2回から写真を選び直したけど11月の写真中心です。 んで、「少しでも人が少ない平日に行こう」と思って昨日昼休みに行ったんですが…“京都は紅葉🍁の時は渋谷原宿並みに混み合う”…みたいな想像をしてたので、全然人が少なくて拍子抜け。 嵐山とかに行ったら違うんだろうけど、今日の平安神宮参道は東京の地下鉄の1/100ぐらいの人口密度じゃなかろうか…めちゃくちゃ良い。 (´-`).。oO(いや、#京都離れ という言葉が使われた一年だったのでそれで敬遠した人が現れてるのかもしれないけど、だとしたら今年の京都、穴場かもですよ…) さて、非関西人なので「平安神宮」という名前を最初地図で見た時には「 #平安京 と関係があった場所なのかな」と連想していた。 でもそうではなく、平安神宮は明治時代の1895年、平安京遷都1100年の記念と京都で開催された「内国勧業博覧会」の目玉として平安京の大内裏を5/8スケールで復元したもの。神社としては平安京遷都当時の天皇・桓武天皇が祀られています。 現在では住宅地や別荘地となっているこのエリアも当時の古写真を見ると一面の畑🥬その光景は平安神宮うんぬんと関係なくすごく「へえー!」と思う風景なのですが。 また復元といっても明治〜大正期に建てられた應天門、大極殿、東西歩廊などが #国指定重要文化財 、大鳥居を中心としたそれ以外の建造物も国登録有形文化財となっています。当時の設計は佐々木岩次郎 、#伊東忠太 らが共同で手掛けました。 回遊式庭園はいくつかのエリアに分かれています。まずは枝垂れ桜🌸の名所となっている“南神苑”。「平安の苑」という名がついている通り、曲水の流れとその周辺の植栽が見どころ。 その次に現れる“西神苑”は初夏には美しい花菖蒲が見られます。今回は8月と11月なのでその見頃ではなかったけど…最初訪れた時はその光景を見た記憶がうっすらと。 樹木に覆われた園路を抜けると“中神苑”。西神苑とこちらが明治28年の平安神宮創建時に作庭されたもの。丸い沢飛び石が連続する“臥龍橋”は小川治兵衛の考案によるもの(…って看板に書いてあった気がするけど写真撮ってなかったのでちょっと自信なくなってきた)。 少しずつ向きを変えながら渡る��要のあるこの橋は、植治が「慎重に、周囲を見渡しながら」渡る人の視点を動かすことを意図して造られたものなのかな、と想像。 そして栖鳳池を中心とした“東神苑”は明治末期から大正時代にかけて後から築庭されたもの。 池には鶴島・亀島🐢を挟んで『京都御所』から移築された“泰平閣”が架けられていて、更にその先に東山の借景⛰をのぞむ――この時代の小川治兵衛の風景の活かし方を感じられる、神苑の締めを飾るに相応しい庭園! 泰平閣の向こう側にある「平安神宮会館」はブライダル向けに別のかっこいいウェブサイトがありまして。参列者は逆側からもこの庭園を眺められると思うんですよね。どんな感じなんだろう…お呼ばれされる機会無いかなあ… 毎年10月22日には平安神宮をゴール地点として、京都三大祭りの一つ『時代祭』が行われます🏇思えば約10年前、自分が初めて平安神宮へ行った時にはちょうど時代祭が行われていた。 ちなみに本当の平安京の中心は二条城の西を通る「千本通」のあたり。千本通はかつての朱雀大路の一部であり、千本丸太町の交差点のあたりには平安京の遺構が見つかってしまったことで空き地になっている場所がちょいちょいあったりする。そちらも今後の展開が楽しみだったり。 〜〜〜〜〜〜〜〜 🔗おにわさん記事URL: https://oniwa.garden/heian-jingu-shrine-garden-%e5%b9%b3%e5%ae%89%e7%a5%9e%e5%ae%ae%e7%a5%9e%e8%8b%91/ ーーーーーーーー #庭園 #日本庭園 #京都庭園 #garden #japanesegarden #japanesegardens #kyotogarden #京都 #京都府 #京都市 #kyoto #左京 #左京区 #sakyoku #東山 #higashiyama #神社 #寺社仏閣 #shrine #ogawajihei #お���わさん (Heian Shrine) https://www.instagram.com/p/B5JVl_Fgzr9/?igshid=1dnugqqhmkvp1
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「六マリアの悲劇」 第二章 戦火を逃れて南へ避難
「六マリアの悲劇 真のサタンは、文鮮明だ!!」
“The Tragedy of the Six Marys – the real Satan is Sun Myung Moon!!” Chapter 2. Fleeing south to escape the war
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動乱で廃虚と化したソウル市内(1950年9月)
P.50
平壌からソウルへ
不良たちに足を折られる
爆撃を避けて山道を走ったり、途中で宿泊したりで、平壌に着いたのは三日後だった。空襲から逃れて郊外に疎開している家族と合流した翌日、私は金鍾和の家を捜したが、ついに見つけることはできなかった。
その頃、韓国軍は北の人民軍に押されており、一九五〇年(昭和二五年)八月十八日には釜山に韓国政府を移していた。北の共産党政府が掌握していた平壌市内は戦勝ムードに溢れていたが、九月十五日に国連(UN)軍が人民軍の背後を突いて仁川に上陸、戦況は一変した。UN軍の進撃はすばやく、九月の下旬には、韓国軍とUN軍が平壌を制圧してしまった。
そんなある日、私は保安隊と称するチンピラの一団に取り囲まれた。地元の不良たちで北が来れば北に迎合し、南が来れば南に尾を振る連中である。
「お前は北朝鮮軍の大隊長を務めた、本物の共産党員だから殺す。死ね!」
何人かが私に飛びかかって、ハンマーで私の足を殴った。足首の骨が折れ、私は動けなくなった。運よく通りかかった韓国軍憲兵隊のジープに助けられ、留置場で調べを受けたものの、職務怠慢罪で投獄されていたことがわかり、釈放された。こんな所で殺されるのかと一時は覚悟しただけに、「まったく、人間なにが幸いするかわからない」と、思わず苦笑いをしたものだ。このとき留置場にいたなかで、重罪のある者たちは銃殺されたそうである。
戦争で町の病院はどこもまともではなかった。柔道五段だった私は、仕方なく薬局で適当な薬を捜して飲み、折れた足首には応急措置で板を縛りつけておいた。
文龍明との再会 51
十月の二十七日、金元弼と文正彬が私を尋ねて来た。文さんが出獄して、十月二十四日に平壌に到着し、私を呼んでいるので迎えに来たということだった。突然だったので、あまりにも嬉しくて言葉が出てこなかった。私はリヤカーに乗せられて、小高い所にある玉相賢*家に行ったが、文さんは喜んで迎えてくれた。その瞬間、私は文さんの手を握って泣いていた。UN軍によって興南監獄が十月十四日に解放され、自由になった文さんは、十日間歩いて平壌に来たそうだ。
玉相賢の自宅は日本式の住宅で敷地が数百坪もあり、家が何軒も建っていて、大金持ちに違いなかった。玉相賢と娘の貞愛、貞淳、文さん、金元弼、文正彬、そして私の七人が一つの家族のように生活した。一週間ほどしたら、玉相賢の夫である禹夏変の家族全員��、避難していたソウルから��ってきたので、私たちは使っていた部屋を空けなければいけないことになった。
皆で相談したあと、西城里という所にある部屋を一つ借りることにして、そのあくる日に引っ越した。文さんと金元弼、文正彬、そして私の四人が一緒に暮らすことになった。文さんはその間、知人たちの安否を尋ねて出かけていったり、金元弼に自分の出獄を知らせる仕事をさせていた。
ところがまた、平壌では一九五〇年十二月二日、市内全域の市民に一斉に避難命令が下りた。それは、中国軍が大量に投入され、人海戦術で怒濤のように押し寄せてきたので、韓国軍とUN軍がいったん後退するしかなかったからだ。
一時は朝鮮半島の最北まで追い込まれていた北朝鮮人民軍と、それを支援する中国志願軍(十月二十五日に参戦)の前進は、予想外に早かったようである。その日は、それほど遠くない所の弾薬庫が爆撃されて一晩じゅう爆発が続き、一睡もできなかった。
家族を捨てて文に従う 52
私たちは南の方へ避難することに決めた。しかし、足のケガが治っていない私は歩けなかったので、上水口里の姉の家に自転車を取りにいき、私がそれに乗って金元弼が後ろから押していくことになった。
私たちは一九五〇年十二月四日、十時頃に平壌を出発した。季節は冬だったが、まだそんなに寒くはなかったので、避難するのに比較的障害はなかった。途中、大同郡にある私の実家に寄っていくことにした。私の家に到着すると、家族は私たちを喜んで迎えてくれた。 私が不自由な足で、こんなたいへんな時期に南へ出発することには、家族全員が「とても無理だ」と大反対した。いとこの正根は、
「お兄さんはそんな足で、どうやって南の方まで行けると思いますか」
と必死で止めようとした。文さんは、私の家族を納得させようとして、
「平壌城を目前にしたものの、北では目的が達成できなくなってしまいました。私たちは天の意志に従い、いったん南の方まで行かなければならないのです」
と説明した。
私は獄中で交わした男の約束もあり、また文さんを再臨メシアだと信じていたので、どういうことがあっても、文さんと一緒に南の方に行かなければならないと心に決めていた。もう八十歳になっている母親に別れのあいさつをしたあと、妻に家族のことを頼んだ。そのとき、長女の孝順が出てきて、
「私もお父さんと一緒に、お父さんの世話をしながら南の方までついていく」
と涙を流したが、文さんが押しとどめた。文さんは、興南から一緒に来た文正彬にも、「後からチャンスを見て南へ来なさい」と諭して、私の家に残るよう言った。
平壌の後方には中国軍も迫って来ているので、私たちはできるだけ早く大洞江を渡らなくてはと思っていた。そこで、正根に手配してもらい、その夜のうちに船で南串面孝南里に渡ることができた。
その夜は、近くに住む姉の家に泊まった。南へ避難しようとする村人たちが大勢集まっていた。翌朝の十二月��日、姉が用意してくれた食料を自転車の後ろに積み、私が乗って金元弼が押しながら出発した。
姉は文さんを牧師だと思い、
「牧師さま、どうか私の弟をよろしくお願い致します」
と頭を下げて見送ってくれた姿が、今も生々しく残っている。(以来今日まで四十三年間、家族との音信は途絶えたまま。妻や五人の子どもはどうしているだろうか)
死ぬまで一緒と男の約束 54
南への道路は避難する人びとであふれていた。避難民たちはそれぞれに手をつないで、それこそ何万人もの人たちが、ぞろぞろと南の方へ、南の方へと歩いていた。私たちは、力浦を経て龍淵面に入り、十二時近くに加鶴里に到着した。西の方からは、爆撃機による空襲や銃撃戦の音が聞こえてきた。
その日は曇っていたので、夕日が沈んでもいないのに、日がもう暮れたようになってしまった。今日はもう進むのをあきらめ、宿を捜して休むことにしようという文さんの指示で、私たちは近くの村に寄り、入り口にある農家に入った。その家には誰も住んでいないようだった。家財道具はあったが、おそらく住人は南へ避難して行ったのだろう。台所に行ってみると、米はもちろん、キムチ、醤油、ミソなどがそのまま残っていた。
まさに人類最期の日が来たような感じだった。この世の中はこれからどうなってしまうのだろうか。家具も食料も衣料もそのままなのに、人間だけが蒸発してしまったみたいだ。
北から南へ、避難民の群れ
避難の途中で休むために初めて入った家の中の光景を見て、私はいろんなことを考えさせられていた。
元弼が夕食を用意して持ってきた。白いごはんに水キムチをのせた御膳である。私たちは感謝の祈りをして食事をいただいた。文さんが、
「正華は足が折れて苦労しているけれど、しばらくしたら治るだろう。また自由に歩けるようになるから安心しなさい」
と言った。そして、私が家族のことを思い出して、さみしそうに見えたのか、
「私たちは今、新しい歴史を作るために南へ行くのだ。ただ避難するための道ではない。平壌城を中心にして、新しい歴史をこの世の中に創造しようとしたが、私を監獄へ送ったためにだめになってしまった。南でもう一度やり直すのだ」と励ましてくれた。
米びつの上にきちんとたたんで乗せてあった布団をひいて横になったが、私はどうしても寝つくことができなかった。元弼は疲れていたのかすぐに寝てしまったが、文さんもなかなか寝られ
ないようだった。これからの計画でも考えているのだろうか。
「これから一生、文龍明(当時)と朴正華は苦楽をともにし、永遠に一緒に生きていこう」と獄中でお互いに誓い合ったからこそ、懐かしい故郷の村を離れ、愛している家族たち――母、そして妻と五人の子どもたち(十七歳の長男、十五歳の次男、十三歳の三男、十歳の長女、五歳の四男)――と別れて、足が折れていたけれども、ここまで来たのではないか。私の一生は
すべて、再臨メシアと信じる文さんにあずけたのだ。
やはり私も疲れていたのだろう。いつの間にか眠ってしまい、気がついたらもう朝日が昇っていた。
避難しているときの私たちの服装だが、文さんは白い絹のズボンにゴムシン(ゴム製の履物)をはき、黒いオーバーコ ートを着て、黄色い毛糸の襟巻きを帽子のようにしてかぶっていた。元弼は色あせた軍人用のズボンに運動靴のような軍人用の履物をはいて、犬の毛皮で作ったオーバーコート(日本の関東軍のもの)を着て、頭には日本植民地時代の末期を思わせる黒い色の防空頭巾をかぶっていた。まるで封建時代の婦人たちが着ていた唐衣のような感じで、顔の前の部分
だけが見えていた。彼はその外見だけでなく、女のような声をしていたので、本当に女性と錯覚するくらいだった。そして私は、作業服の上下に日本軍の靴をはいて、頭には黄色の防寒帽子をかぶっていた。
外国製の古い自転車に荷物を乗せ、足の不自由な私がまたがってハンドルを握り、元弼と文さんが交替で後ろから押していたのだが、さぞかし奇妙に見えたことだろう。
金 元弼
悪戦苦闘の避難行 58
南への道は幹線道路を通れれば比較的平坦で楽なのだが、アメリカ軍の憲兵があちらこちらに立って通行を制限していた。結局、避難民が通れたのは、狭くて起伏の多い脇道だけだった。日を追って避難民の数は増え、それこそ人の山のように、人の海のように、狭い道にあふれていた。南の方に行けば生き残れるという保証は何もないのに、それでも何らかの希望を持って、人びとは南へ向かっていくのである。
平壌を離れるとき、衣類や道具などをひと包みずつ背負って持ってきたが、その荷物も日が経つにつれてだんだん減っていった。歩き続けて足も痛くなり、疲れ果てているので、あまり大事でないものはどんどん捨ててしまい、避難も二十日近くになったときには、荷物はほとんどなくなっていた。
疲労のたまった身体には、真冬の寒さが強烈にこたえた。暖かい場所を求めて、草の上の雪がとけているような所をみつけては座り込み、休み休みながら進んだ。
それでも寝ぐらと食事の心配だけは、あまりなかった。
その日も、ちょっと早めに宿を捜して休むことにして、近くの村に入っていった。ある家に入ったら、相当な金持ちの家のように見えたが、誰もいなかった。やはり家財道具や食料は置いたままだった。部屋を決めてからしばらく休んだあと、元弼が夕食を用意してくれたので三人で食事をした。痛む足でこのまま南まで行けるか、私には自信がなかった。
私たちは、ますます増えていく避難民に混じって南へ向かっていた。その途中、黄州あたりに、角度がほぼ三〇度近くある急な坂があった。その坂は百五十メートルくらい続いていて、とても自転車を押しながら登れそうな道ではない。私が自転車に乗っていると、元弼がいくら努力して押しても、なかなか登ることはできなかった。ちょっと進んだかと思えばすべったりして、自転車が後ろ向きに倒れ込んでしまう。
まわりは避難民でいっぱいで、それぞれが先を争って進もうとしていた。このままではどうしても先に行けそうにないと思った私は、私のために文さんも元弼も南へ行けなくなるのでは申しわけないので、文さんに言った。
「私はもうだめです。私を置いて先に行ってください。私はここで何とかがんばりますから。たとえどうなろうとも、私は私の運命に従います」
すると文さんは怒って、「お前と私は死ぬまで一緒だと約束したではないか。今後どんなことがあっても、神を信じていこう。心配するな」
と言い、元弼に自転車を引かせ、私を背負って坂を登ってくれた。感激した私は、文さんを信じてついていくことを改めて誓った。
やっとソウルへ辿りついたが 60
私たち三人はその後、南への避難民に共産軍が混じっているという情報による、UN軍の戦闘機の機銃掃射で大勢が死ぬ恐怖に遭ったり、虱に悩まされたりの難道中を乗り越え、沙里院、下城、東海州、青丹、内城、龍媒島、英陽、土城、長端と通って、臨時江を渡って南に入り、麻浦を経て、ソウルへと向かった。
十二月二十七日、雪の降りしきるなか凍った漢江を滑り転びながら渡って、出発してから二十四日目に私たち三人は、夢に見たソウルへ辿りついた。
私たちはまず、永登浦区黒石洞にある郭という人の自宅を訪ねた。しかし、文さんの昔の親友だった郭という人は、すでに釜山の方へ避難してしまい、そこは空き家になっていた。この家は二階建ての洋風の家で、家財道具がそのまま置いてあった。仕方なく私たちは、この空き家でしばらく過ごすことにした。
ソウルは文さんにとって、学生時代から暮らし、信仰的な面でもいろんなことを体験してきた第二の故郷だった。そこで文さんは、日本留学を終えて帰国後しばらく下宿をしていた、李寄鳳というおばさんの所を訪ねていった。しかし、なぜかさほど喜んではくれなかったようだった。そのあとも、何人か昔の親友を訪ねていったが、文さんの様子を見て変に思ったのか、あるいは私たちの様子が変だったのかもしれないが、あまり親切にはしてくれなかった。
ところでこの頃、ソウル市民は国民防衛軍の要員に駆り出されていた。私はまだ足が不自由だったのでひっかからなかったが、文さんと元弼の二人は無条件で引っ張られてしまった。三人で死線を乗り越え、平壌からやっとソウルへ着いたのに、これはどういうことなんだろう。私だけ一人残され、今後のことが心配だが、どうすることもできなかった。
私にとってソウルは、慣れない土地で、知り合いも一人もいない所だ。しかも戦争中である。
文さんが訪ねていっても親切にしてくれなかった人たちを、仮りに私が訪ねたとしても、私になど同情してくれるはずがない。これから私はどうすればいいのか、いくら考えても何も浮かばなかった。文さんだけを信じて待つしかなかった。
幸いにも文さんと元弼は、国民防衛軍の身体検査で不合格になって帰され、三人はまた、黒石洞の郭さんの自宅で一緒に暮らすことになった。
明けて一九五一年一月二日、ソウル全域に退去命令が出された。共産軍が近くまで南下して来たのだ。私たちはまた避難の旅に出なければならない。今度の目的地は釜山だった。
いままで検問を受けたりしたときには、まず最初に、証明書の提示を要求された。そのことを思い出して、私は近くの治安隊を訪ねた。柳鴻という治安隊の隊長にその間の事情を話して、私たちに「避難民証明書」を一通ずつ作ってくれるように要請したら、親切に証明書を発行してくれただけではなく、「気をつけていってらっしゃい」と慰労の言葉までかけてくれた。そのときの気持ちは、いまだに忘れることができない。
平壌から準備してきた金も全部なくなってしまったので、私たちは仕方なく、郭さんの自宅に残されていた洋服や金になりそうなものを自転車の後ろに乗せて、ソウルを出発した。たとえそのまま残しておいたとしても、人民軍や中国軍がやってきたら、何も残らないことは明白だった。
事実、ソウルは一月四日、再び共産軍に制圧されてしまった。
63
ソウルから釜山ヘ
第二の避難行
私たちは一月の三日、今度は釜山に向かって、五百キロの避難の旅に出た。二回目の避難である(いわゆる韓国史の「一・四後退」のとき)。
あいかわらず私は自転車に乗って、ただ押されていくありさまだったが、自由を求めていく希望の道には違いなかった。ソウルを出発してから、私たちは釜山まで京釜線(ソウルから釜山までの鉄道)に沿っていかないで、中央線に沿っていくことにした。その理由は、私の叔父になる鄭基琇さんが堤川という所に住んでおり、そこに寄っていけば、いろいろ助けてもらえると思ったからだ。
まず城南を経て、利川に向かった。今回は平壌からソウルまでの避難とは違い、見知らぬ避難民たちが列を作っていたり、また山になって動いているのでもなかった。同じ村に住んでいる人たちとか、家族同士が一緒に移動していくのであった。
日が暮れて暗くなると、近くの村に入った。村にはほとんど人が住んでおり、空き家が見つからなかった。そこで、ある家に行き一晩休ませてほしいと頼むと、快く受け入れてくれ、部屋を借りて休むことができた。空いている部屋がないときには、台所や物置��どで休ませてもらった。休む場所が確保できれば、あとは持っていた米で食事を作り、食べて寝るだけだった。
第二の避難では、前の経験があったので気持ちにも多少余裕があり、そんなにあわてることなく、のんびり行くことができた。日が暮れないうちに早めに村に入り、早めに宿を確保するのが、上手なやり方なのだ。
手持ちの米がなくなってしまったので、近くの小さな村に寄った。ところが、この村の人たちは避難してしまったのか、商店はほとんど閉まっている。しかし私たちは、どうしても米を手に入れなければならなかった。そこで、その小さな村の中にあった大きな家を訪ね、郭さんの家から持ってきた洋服を一枚出して、家にいたおばあさんに渡し、こちらの事情を説明した。七十を過ぎたくらいの気のよさそうなおばあさんは、私たち��かわいそうに見えたのか、それとも洋服がほしかっただけなのか、米びつを開けて白い米を一升くらいくれた。
長胡院、原州を経て堤川へ。助けをあてにして捜しあてた叔父の家は、すでに避難して空き家になっていた。がっかりしながらも先へ進み、島嶺の頂上に到着したとき、UN軍の憲兵に「避難民は道路を使ってはいけない」と止められた。そうなるとこれからは歩きにくい山道を行くしかないが、その頃には私の足もほとんど治りかけていたので、山道でも何とか自力で歩いていけるだろうと思っていた。すると突然、UN軍の憲兵が文さんと元弼を強制的に連れ去ってしまった。ここで三回目の離別になるのかと、私はとても不安になった。最初は北から避難するときで、保安隊に連行された。次はソウルで、国民防衛軍によって連れていかれた。そして今回も、また一人残されてしまった。
こんなところに一人残されても、どうすればいいのかわからない。とても心配だったが、しばらくしたら二人は帰って来た。UN軍の軍用車のために作業をさせられたということだった。
これからは下り道だったので、私一人でも歩いていけそうだった。
「ここからは杖を捨て、歩いていこう」と文さんが言った。
川を歩いて渡る避難民たち
二か月近くも杖に頼り、自転車に乗ったり降りたりしていたので、まだ自信はなかったのだが、思い切って杖を捨ててみたら、杖がなくても歩けたのである。こうしてその後の道を、私は一人で歩いていくことができた。丹陽、聞慶、杏材、豊山、安東、義城と避難行は続いた。
慶州での別れ 66
慶州に到着したのは夕方だった。町には避難民があふれており、空いている部屋はなかなか見つからなかった。私たちは方々をさまよって、やっと市内の路西里で泊まれそうな家を見つけた。玄関のドアを板で×型に打ちつけている家で、その家を訪ねたら三十歳くらいの人が出てきた。
私たちが訪れた理由を聞かれたので、「板でドアが閉じてあるので、誰も住んでいないようだったから、一晩休ませてもらおうと思った」
と話し��ら、中へ入れてくれた。家の中の様子を見たら、板で何かを作っている工場のようだった。家の主人の説明では、「御膳」を作っていたのだが、戦争のために職人たちが皆、故郷に帰ってしまったので、工場を閉鎖するしかなかったのだという。
部屋を借りたあと、元弼は夕食の材料を仕入れるため市場に出かけていった。漁港のある浦項が近かったので、イカを三バイ買ってきてお粥を作った。元弼が部屋を貸してくれた主人のとこにお粥を一杯持っていったら、あとで奥さんが「このお粥はどうやって作ったの?」と聞きにきた。元弼が説明すると、奥さんは笑いながら、「イカでお粥を作るときは、スミをとってから料理するのよ。そのまましたでしょう」。私たちは暗い所で食べたので、気づかずにおいしく食べてしまったが、奥さんが持ってきたお粥を見ると、なるほどまっ黒だった。それを食べたかと思うと、私たちはお互いに笑ってしまった。
この家の主人は「北の黄海道が故郷だが、自分は小さいときに慶州にやってきて、生活のために御膳を作るようになった」という。親は今も北にいて、自分の家族だけがこちらに住んでいるということだった。彼の名前は張萬榮といった。
三日間この家で休んだ。食事はもちろん自分たちで作って食べていた。でも、避難民があふれて混乱している所に、長い間いることはできない。主人に「私たちは今日、釜山の方へ行きます」とあいさつしたら、「若い二人は行っても大丈夫だろうが……」と彼は、私を指差して言った。
「あなたは一番年上のようで、身体も弱っているようだ。釜山へ行っても避難民でいっぱいのはずだから、二人だけ先に行って、落ち着いてからあなたも行けばいい」
ここまで文さんと元弼と一緒に死線を越えてきたので、私は、
「いや、私も釜山へ行きます」
と言ったが、文さんは「この主人の気持ちもありがたい」と言って、
「正華、あなたはここにいながら、もう少し待ちなさい。私たちが釜山に行って落ち着いたら連絡するから、そのときまた一緒になって、大きな仕事をすることにしよう」
こうして、私は慶州の張萬榮の家に残り、文さんと元弼は釜山に出発することになった。そのときの私の心境はとても複雑だった。避難の途中、文さんと一緒に死線を何回も乗り越えてきたのに、そして神の意志のためにやろうとする偉大な仕事のためここまで来たのに……。一人で残される私の気持ちは悲しくて、一緒に行きたい気持ちでいっぱいだったが、避難は一人でも少ない方が楽だと思い、しばらくの別離を受け入れることにした。
あとで文さんが慶州へ来たときに聞いたのだが、このときは蔚山まで歩いていき、蔚山から初めて汽車に乗れたという。汽車は汽車だったが、貨物車両の屋根まで人が乗っている状況で、どうにか煙突のあたりに乗れて、釜山の草梁駅に辿りついたそうだ。
その日は、一九五一年一月二十日だったということである。
生活に追われた文の来訪 68
私は一人慶州に残り、張萬榮の家で居候していた。四月になって気候も暖かくなった。居候も長くなるので、何とかして飯代くらいは払わなくてはと思い、私はある日、主人と話した。
「戦争中は作ってもあまり売れないから、工場を閉鎖している」ということだったが、
「御膳さえ作ってくれれば、私が自転車に乗せ、市場で売ってくるから、���ってみよう」
と私が勧めたら、主人もその気になった。そして、前から工場で働いていた子と、居候していた避難民の男と主人の三人で、御膳を作り始めた。私は一回に二十個ずつ自転車に乗せ、浦項に行ったり、永川に行ったり、また蔚山にも行った。慣れない商売だったが、持っていった御膳はどうにか売れたので、その代金を主人に渡した。
慶州の周囲には四方に市場があった。永川も、蔚山も、浦項も、彦陽も、甘浦も、慶州から二、三十キロの所にあったので、五日ごとに市がたつそれぞれの市場に、毎日のように御膳を運んでは売っていた。
また夕方になると、その家の中学校に通っている子どもの家庭教師もやったので、居候している間の飯代くらいは十分に稼いだ計算になる。
こうして過ごしていたところ、その翌年の三月七日、突然、待ちに待った文さんが釜山から来てくれた。その嬉しさは言葉で表わせないほどだった。けれども軍用の毛布一枚で工場に寝泊まりしていた私としては、文さんを歓迎する術がない。主人がお金を出してくれて夕食だけは接待できたが、夜は木屑だらけの部屋に泊ってもらうしかなかった。文さんはその間、釜山での出来事や今後の計画について話してくれた。夢のような話ばかりだった。まるで何十年かぶりの再会ように、夜遅くまで二人で話し合った。
あくる日、文さんは「今日、また釜山に帰る」と言った。私の気持ちとしては、ここに部屋がもう一つあれば、ここで経済的な基盤を作れるような活動をして、文さんと一緒にいたい気持ちだったが、まだ状況が悪いので仕方なかった。
ちょうどその日は蔚山の方で市があったので、文さんと一緒に汽車で行くことにした。午前中、私が市場で御膳を売っているのを文さんは見ていた。昼食を食べたあと、文さんは汽車で釜山に向かった。御膳がたくさん売れたらお小遣いでも差し上げようと思っていたが、よりによってその日は、なぜかほとんど売れなかった。
慶州で別れてから一年ぶりの再会だったが、文さんを見送って帰ってから私は、本当に考え込んでしまった。何か商売をして資金を用意し、釜山へ行って、文さんとともに偉大な仕事の達成に努めなければならない、ということばかり考えていた。
文さんの話によると、元弼は食堂で仕事をしており、文さん自身は日本の工業学校で一緒に留学していた同窓生の家に居候している、ということだった。さぞかし、居心地が悪いだろうと思う(実はこのとき、彼は私の所で生活ができれば――と様子を見に来たのだった)。
どうすれば一日でも早く経済的基盤ができるようになるかを、私はずっと考えていた。毎日のように御膳を運び、市場で売るのが私の仕事になっている。こういう仕事でも一所懸命がんばっていれば、チャンスがやってくるだろうと希望を持ち、ここで待つしかないのか。いっそのこと釜山へ行った方がいいかもしれないと思ったが、まだ避難民でいっぱいの釜山へ行っても仕方ないのではと考え、もう少し慶州にいることにした。
平壌から来た玉相賢との再会 71
共産軍によって二年前の一月四日に再び陥落したソウルは、ちょうど二か月後の三月四日、UN軍が奪回していた。ソウルではこの当時、一進一退ながら���うやく戦火も下火になり、休戦協定の準備が進められていた。しかし、民間人の死傷者だけで南北合わせて二百万人以上、離散家族も一千万人を越えるといわれ、国民の間に不安や不幸の影が色濃く充満していた。
そんな一九五三年の春。釜山からあの玉相賢おばさんが慶州に私を訪ねて来て、久しぶりに再会した。平壌から避難するときに別れてしまい、お互いに消息不明だったが、こうして会えて本当にうれしかった。
玉相賢からは、彼女の避難の話や釜山の文さんの安否などを聞いた――文さんが食口(信者)たちの育成にがんばっていること、原理を本にするための原稿を書き終えたこと。興南監獄のときに話していた原理を整理して出版しなければならないと、いつも文さんが話していたことを思い出して、こんなにたいへんな避難生活のなか、いよいよ書きあげられたかと感激した。早急に経済的な基盤を作り、原理を出版して全国に配布し、伝道していかなければならないと思った。
玉 相賢* [ 玉 世賢 ]
玉相賢は、長男が軍人用のトラックを持ってきたおかげで、家族全員が無事に南の方に来れたそうだ。落ち着いたら釜山で一緒に仕事しよう��一日も早く、経済的な基盤ができるように努力しよう、文さんと一緒に六千年前の神様の意志のために偉大な仕事をするときが、もうすぐやってくるだろう、などと熱心に話した。元弼は今、米軍の部隊で仕事をしているそうだ。凡一洞に教会を作って、新しく入信した食口たちが原理を聞きに集まるようになり、平壌にいた食口たちも釜山に来ているという。教会の近所に住んでいる人たちも、文さんの話を聞きに来ているそうだ。
李 耀翰
玉相賢は一晩一緒に過ごして、次の日釜山へ帰っていった。
それからしばらくして、李耀翰という牧師が私を訪ねてきた。釜山にいる文さんがよこしたということだった。部屋に案内して話を聞くと、
「新しい食口たちがたくさん集まり、原理の話を聞くようになっているので、朴正華さんも先生がいらっしゃる釜山に至急来てほしい」
ということだった。みんなが力を合わせ、神のための偉大な仕事に前進する時期がいよいよ来たと、胸がいっぱいになった。
その次の日、李牧師は釜山に帰った。私もすぐに釜山へ行くと文さんに伝えるよう頼んでから、一人で考えた。
あの興南監獄で、文さんが空叺の上に座って目をつぶったまま、将来の世界を変化させる理想、すなわち「円和園理想」の世界を実現しなければならないと、私に言われたことを思い出した。そのときの���景が浮かんでは消えた。あこがれの世界が一日でも早く来てほしかった。罪悪のない世界、そして嫉妬、陰謀、裏切り、戦争などない世界。その理想世界の会員にさえなれば、労働は趣味として一日三時間だけすればよい。世界のどの国へも行けて、会員の家に行けば、泊まり、食べて、使うことは好き放題できる。黒、白、黄色の皮膚に関係なく、お互いに親子兄弟のように、すべてのことができる。もらうよりは、あげることを喜ぶ世界。他人を責めることはせず、尊敬を受けるよりは尊敬することを喜ぶ世界。この理想世界が地球の隅々まで広まって、私たちはどの国でも気持ちが通じ合うことができる。
この世界が近い将来、いま釜山で苦労している「文龍明先生」によって達成されることを考えたら、感激するばかりだ。
私は一刻でも早く、釜山に行かなければならなかった。
北から南への避難経路
「 六マリアの悲劇」 もくじ
推薦の辞 - 卓明煥
第一章 獄中で出会った男 Chapter 1.
第二章 戦火を逃れて南へ避難
Chapter 2.
第三章 統一協会の創立前後 Chapter 3.
第四章 犠牲にされた女たち Chapter 4.
第五章 再臨メシアの正体 Chapter 5.
第六章 真のサタンは文鮮明だ Chapter 6.
第七章 証言-私達が体験した事実 Chapter 7.
【巻末資料①】 原理原本のもくじ
【巻末資料②】 原理解説のもくじ
「六マリアの悲劇」ビ��オの日本語テキスト
淫教のメシア • 文鮮明伝 – The Life of Sun Myung Moon – the Messiah of a Perverted Sex Religion
「血分け問題」lecture notes written by a UC member at 宮崎台研修センター Miyazakidai Training Center, near Tokyo, January 9-12, 1992
私が目撃した統一教会・文鮮明教祖の「SEXリレー」のすべて。
最初の妻 崔先吉女史 が告白! 「文鮮明教祖の性の祕密」Moon’s First wife, Sun-kil Choi.
週刊ポスト Shūkan Post October 8th 1993
ENGLISH with JAPANESE
The cover band from The Tragedy of the Six Marys book
Sam Park’s grandfather had a very bitter experience
“Moon was arrested and jailed for adultery/fornication in 1948” 35. While the Unification Church claims he was charged for “disturbing the social order” Moon was actually arrested [on February 22, 1948] for adultery/fornication. Other reports say he was caught by the police while performing a suspicious ritual with Kim Chong-hwa, the wife of a businessman. The husband took Moon to court and Moon was sentenced to five years in prison [at Heungnam]. It is said that the wife was also found guilty and the two [Moon and Mrs. Kim] were both jailed.
Japanese Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/世界基督教統一神霊協会の年表
35.- 教団では社会紊乱罪だと教えているが、姦淫容疑で逮捕された、または実業家の人妻、金鍾和(キム・ジョンファ)と怪しげな儀式をしているところを警官に踏み込まれ、強制結婚の現行犯で逮捕され、夫の告訴による公判で懲役 5年の実刑。 相手の人妻も10ヶ月の実刑となり共に収監されたなどとも言われる。
English translation of The Six Marys here
A note about the names in this book Pak Chong-hwa changed some of the names. Sometimes he just changed one kanji, sometimes to a similar looking one, or he chose a name that sounded similar. This list is not complete and the accuracy is not guaranteed. However some people are clearly identifiable from the many photographs and from the narrative. Kang Hyun-shil identified herself in a letter she wrote.
仮名
崔聖模 (仮名 李淳模) – 崔淳実と催淳華のお父様です。
催淳華 / 崔淳花 (仮名 李聖花 / 李聖礼) – サム·パークのお母様です。
催淳華 ;二つ目の 仮名 金桂順 :初版103頁
姜賢実 (仮名 姜玉実) – 釜山 で、統一教会に入信しました。
姜賢実 ;二つの 仮名 梁充信 268頁 と他の場所
金東淑 (仮名 金貞淑?) – 文聖進の奥様です。 123頁
金明熙 (仮名 金永熙) – 文喜進 のお母様です。
金順哲 (仮名 李順哲) ;一人の ‘六マリア、
李得三 (仮名 辛貞順) – 崔聖模の奥様です��� 崔淳実のお母様です。 . 催淳華と三人の息子です。
呉昇澤 (仮名 呉昇滓) は延世大学の学生でした。文鮮明は8月1955年に彼を金明熙と東京に行かせました。呉昇澤は韓国に行って、金明熙と文喜進のために文鮮明にお金をお願いしました。文鮮明は断りましたので、呉昇澤が統一教会から脱会しました。
呉永春 (仮名 呉明春) – 1952年に釜山で、統一教会に入信しました。
玉世賢 (仮名 玉相賢) – 1946年に平壤で、統一教会に入信しました。
朴貞淑 (仮名 林英信) ;一人の ‘六マリア、その後、 . 彼女は 崔聖模の奥様になりました。
禹夏変 (우하섭夏変) – 玉世賢の旦那様です。 . 禹貞愛と禹貞順のお父様です。
禹貞愛 (仮名 萬貞愛) – 玉世賢の娘です。
禹貞順 (仮名 萬貞順) – 玉世賢の娘です。
梁尹永 (仮名 梁文永) – 梨花女子大學校の教授です。
KOREAN
野錄 統一敎會史 (세계기독교 통일신령협회사)
#六マリアの悲劇#Pak Chong-hwa#Moon Sun Myung#Kim Won-pil#Lee Yo-han#血分け#復帰の実践#文鮮明#朴正華#パクーチョンフ#統一協會#世界基督教統一神霊協会#世界平和統一家庭連合
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WEB内覧/玄関
やっと写真が揃って来たので、我が家のそれぞれのスペースをご紹介しようと思います。(俗に言うweb内覧会ですねドキドキ!)
今回は、玄関のお話です。
玄関は、誰しもが見るファサード(建物の正面)の次に、第三者が触れる家の顔となるポジション。 そして、M邸にとっては帰宅時にホッとできるような余裕のある空間であって欲しい…と、家づくりの際にとても重きを置いていたスペースでした。
そんな大事なスペースを、道路から約13mほど歩いたとても奥まった部分に配置しました。遠いですね(笑) 画面左下の四���い穴が玄関で、右下の3つの点がインターホンです。 玄関の階段には愛犬にお座りしてもらいましたが豆粒のよう…そして長過ぎて全景を写真に収めづらい〜!
※配置図が気になる方はPlanカテゴリーから全体図をご覧下さい。
この遠さには2つの意味があって…
1つ目は、道路からすぐにドアに飛び込むのではなく、自宅へのアプローチを長く歩く充分な時間を取りたかったためです。 些細なことかもしれませんが、1歩ずつ自宅に近付く度に“あぁ帰ってきたなぁ”と噛み締めるようなリラックスモードへのチェンジを、私達夫婦はとても大事にしたいと思っていました。
2つ目は、防犯のため。
M邸は借景を目的とした公園の前の立地です。(土地探しの記事はこちら) 防犯意識の高い方はご存知かと思いますが、公園前は下見がしやすく泥棒に入られる率が高い為…防犯面は出来るだけ気をつけなければいけませんでした。(気をつけても入る輩は入るっ!でも今家にはお金とかないからガッカリやで)
ファサードの角にインターホンをつけているので、これを鳴らさずに敷地内にいる人は自然と不審者だということになり(笑)非常に解りやすいです。
アプローチは減額の為に砕石敷で、将来的に土間コンにする予定なのですが、音が鳴ってくれるため今のところ防犯砂利としても機能してくれています。 土間を打ったらまた対策を考えないと。
また、防犯カメラはインターホンとリンクすることが出来るものを選びました。
インターホンは、Panasonicの既製品。(インターホン比較の記事はこちら)
既製品のインターホンは経年でデザインが古くなってしまいがちなので、壁内に埋め込み、さらに金属のプレートで覆って頂きました。 プレートはビスなどを一切付けないよう強力な磁石で付いていて、機種を変えることも掃除も容易で嬉しい。
そしてこちらはインターホン兼、表札なんです。 右下の余白にM邸の住所と名字がアルファベットで彫り込まれていますが、白地に凹だけで表現していて色を入れていないので、モザイクをかけるまでも無かった程見えません…(笑) 徹底して意匠を白に統一する目的以外に実は、よく見ないとこの人んちの名字わからんっていうこれも防犯対策からの部分です。
私が、あえて白のままで!と言った際は、Wさんもこの仕様がお好きだったそうで“初めて色を入れない方に出会えました!”と嬉しそうでした。良かった!
もちろん普通は文字を見やすくするために色を入れるか凹凸をもっと立体的にするはずなので、初見の方には意味がねぇ(笑)表札ですし、年配の方にはインターホン自体どこかわかんなかった!と言われがちですが…ありがたいことに郵便屋さん・新聞屋さん・宅配業者さん・ご近所さんはしっかりとこの存在を把握して下さっています。助かる〜!
穴のデザインはWさん・文字は私・施工はA監督と3人のコラボになっていて、力を合わせて建てたこの家の象徴としてとても大事にしたいパーツになりました。
そして必然的に…第三者と言っても、インターホンの場所をしっかりと把握して下さった上記の顔見知りの方のみがこの玄関まで足を運んで下さる形になります。
逆に、顔見知りの方以外は遠目からはこの家の入り口がどうなっているのかは解らず、ポーチに入るまではポストはもちろん玄関ドアも一切見えません。 ちょっと意地悪な造りかもしれませんが、これによって不要なポスティングを避けることが出来ています。 賃貸時代はマンションの集合ポストで、要らないチラシをいちいち回収して捨てるのがとてもタイムロスだと感じていたので…今は本当に楽になりました。
玄関の床は、モルタルにしました。
モルタルも、炭を混ぜてマットブラックに出来たり刷毛で模様を付けられたり…と選択肢も広いので、一概に仕様が低いとは言えませんが、素材としては安価な部類で、タイル(化粧)を貼って仕上げるよりもコストを抑えることが出来ます。
M邸は至って普通の金ゴテ仕上げ。 隣接する駐車場の土間との繋がりを意識して素材感を統一しています。
とてもシンプルなのですが、建築好きの方は解ってくださるかも…! この美しいピン角。左官職人さんの手仕事です。 モルタルを選んだのは素材感が元々好きなのもありますが、こういったディテールこそ、M邸にとってはとても大切にしたい部分だったからです。
一歩間違えば仕様の低さが出てしまう素材でも、我が家の建築家Wさんと職人さんの繊細さがどんどんプラスに変えて下さるのが嬉しい。
このピン角が、欠けないように気をつけないと。
こちらは玄関ポーチ全体のビジョンです。
正面には坪庭のビューがあり、グリーンを覗かせるように常緑のハイノキを植えました。 坪庭と玄関ポーチは、フレームレスな分厚い防犯ガラスで仕切られています。
軒の奥行きは約2m! 建坪30弱のごく一般的なサイズの我が家には、贅沢なくらい広いスペースかと思います。 でも玄関は余裕のある空間にしたくて…室内が削られるのを全く惜しみませんでした。
この軒は、2Fの寝室の床にもなっていて、一石二鳥のスペース。 私が超合理主義なせいで、○○兼××みたいな造りが我が家にはちょこちょこ(笑)
深い深い軒は、雨の日でもまず濡れる事がないのでとても安心感があります。
雨の日に沢山買い物をしちゃった日も、ポーチの真横に車を停めて、ここに買物袋をサッと降ろせて重宝しております。
少し寄って…
ドアは造作ではなく既製品。LIXILのDDという商品です。
建築家との家づくりでは本来、こういった目立つ部分に既製品を取り入れるというのはあまりしたくないと思っていた私ですが、このDDは沢山の建築家の声を元に商品化されたため、比較的ミニマルな造りだったので…
意匠的にマットなブラックであればいい、という理由で大きく減額対象としました。(最近では既製品も非常にシンプルなドア、増えてきています!我が家の場合はLIXILのドアが最安だったので1択となりました)
そう踏み切れたのはある理由から。
実は、我が家のファサードには将来的に、今は外壁となっている部分をレーザーカッターで開けてもう1つ玄関ドアを作る予定があります。 もし玄関ドアがこの1つ��ったら絶対に造作にしたと思うのですが、もっと目立つ場所であるファサード側につけるドアできっと凄いこだわりを込める(=金額も跳ね上がる)ことになるので、将来の楽しみにまわすことにしたんです。
特に凝ったハイテクなキーではないですが、セキュリティは1ドア2ロックのディンプルキーであることに重きをおいて。 後付けできるSmart Lockという今までに比較してコンパクトで多機能な商品も出てくれたので、我が家もいずれつけようかな?と検討中です。
このDD、歪みなどのトラブルもなく気密性もかなり高く…これは暮らしてみて改めて、既製品ドアのメリットだったと思う部分です。
玄関ドアサイドにはポスト。
こちらも既製品(Wさんに完全にお任せした為商品名はわからず…!すみません)ですが、フレームレスで完全に受け口だけが表われるようにとてもストイックに埋め込んで頂いています。
ドアに寄り添うように、本来ヨコにして使うものをタテにして。覗き見しにくいように…とのWさんのご配慮です。 意匠的にも、ヨコに開くよりスッキリしてくれてありがたい!
こちらは室内側から見たポスト。 誰にも会う事なく郵便物を受け取れるので、本当に使い勝手のいいポジションです。 が、ポストの奥行きは壁の厚み分しかないため勢い良く投函するとバサッと床に落下してしまいます(笑)
当然、それを防止する金具をWさんが見積もって下さいましたが、暮らし始めて様子を見てからでも発注できるとのことだったので、減額調整の際に削りました。
でも、郵便屋さんはこの中がどうなってるかを既に察して下さったようで、いつもそ〜っ…と郵便物をこんな感じに立てかけて丁寧に入れて下さいます。 お陰様で金具を追加する必要がなくなりました。完全に甘えておりますが、いい担当者さんで本当に良かった(涙)
夕景は、長い長いアプローチの先に、玄関からの光が漏れるような印象に。
緩やかに燐家との境界を仕切れるよう、玄関脇に植栽をしています。 植栽は徐々に増やして、もっと密度を上げていきたいなぁ。 それでも燐家のブロック塀が気になるようだったら、植栽背面に仕切り塀を設置しようと思っています。
軒天の2つのダウンライトと植栽のアッパーライトは、明暗センサーにして頂いていて、夕方暗くなり始めると自動的に点灯します。 明暗だけでなく、時間帯も自分で選べるタイプのようで、とても便利です〜! 我が家には外から見える窓がほぼ無いので、窓から漏れる光ではなくこういう部分で人が住んでるんだなぁという雰囲気を伝えようと努力しております。
帰宅時はこのようなビジョン。
坪庭のハイノキも、夜はスポットライトで照らされます。 同時に坪庭の壁も明るくなり、日中の見え方より奥行きが出てくれる気がする!
無機質な素材感の中に、緑と光のスパイス。 この雰囲気は家を建てようと決めてから玄関には特に強く込めた要望で、大切に実現して頂きました。
坪庭の最奥の壁…2Fの高さには、四角い穴が開いています。
この穴は、我が家の東に当たる位置。 偶然、お隣さんがこの位置だけ下屋(1階だけの造り)になっていることにWさんが素早く気付いてくださり…ここから存分に朝日を入れようという計画になりました。
朝はこのように…サンシャイ〜ン!
暗くならないか不安だった北側の小さな坪庭に、天空光だけでなく、午前中はしっかりとした直接光を届けてくれます。
もしもこの穴がなかったら、M邸の坪庭と玄関ポーチはもっともっと暗くなっていたはず…
この地区の北側斜線制限の厳しさと、お隣さんの間取りと、そしてWさんの目の付けどころに本当に感謝しています。
陽は防犯ガラスを突き抜けて玄関ポーチまで。 この光のお陰で午前中はここが北側の玄関という意識はあまりない程。
朝、モルタルに落ちるハイノキの陰を見るのが、私の楽しみになっています。
長々とすみません!(今後のweb内覧会が思いやられる) 以上、M邸の玄関でした。
●我が家と同じように建築家と家を建てている方のブログ集はこちら。 これから家づくりをされる方は是非ご参考ください。
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天井高が最大3.8mあるリビングスペース。存在感のある鉄骨階段の背景には坪庭を配置しました。外部からの視線をガラススクリーンで遮りながら、二層分の開口部から空を取り込んでいます。 物件名:Dgh-house Photo : (株)VA 岡村靖子 #スレッドデザインスタジオ #moderninterior #housedesign #housephotography #residence #houseinterior #interiordesign #名古屋設計事務所 #住宅設計 #設計事務所 #住宅デザイン #木造住宅 #リビングインテリア #シンプルな暮らし #コートハウス #ペンダントライト #坪庭に面した開口部 #天井の高いリビング #坪庭 #鉄骨階段 #中庭 #リビング階段 #BOCCI #間接照明 #ラインライト https://www.instagram.com/p/CoTVFOvvMgK/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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