#周辺諸国の難民問題
Explore tagged Tumblr posts
Quote
【台北=西見由章】中国軍東部戦区が台湾を取り囲む形での大規模な軍事演習の実施を発表したのを受けて、台湾の国防部(国防省に相当)は14日、「非理性的な挑発行為だ」として「強烈な非難」を表明した。すでに軍の規定に基づいて兵力を派遣し対応しているとし、「実際の行動によって自由と民主主義、中華民国(台湾)の主権を守る」と強調した。 台湾当局は、建国記念日に当たる10日の「双十節」式典で頼清徳総統が演説する内容を口実に、中国軍が台湾周辺で大規模な軍事演習を行う可能性が高いとみて式典前から警戒を高めていた。 国防部は頼総統の演説について「両岸(中台)関係の現状と、台湾海峡の平和と安定、人民の幸福を守る固い意志を明確にした。また気候変動や防疫措置の面で両岸が協力し、平和的共栄を追求することを提案した」などと指摘。「いずれも前向きな主張であり、中国共産党がいう『挑発により問題を引き起こした』との主張はまったく事実と違う」と批判した。 さらに「両岸の緊張を激化させ、台湾海峡の平和と安定を破壊しているのは、実際には中国共産党によるさまざまな非理性的な挑発行為だ」と断じた。 また台湾の対中政策を主管する大陸委員会は14日、中国軍による軍事演習について「台湾海峡やインド太平洋地域の安全と、世界の民主主義と平和に対する公然とした挑発だ」と非難。中国の習近平国家主席が2022年に提唱した、世界の紛争解決などを訴える「グローバル安全保障イニシアチブ(GSI)」に対して「ただの虚言であることが一層裏付けられた」と指摘した。 頼総統は10日の演説で、統一圧力を強める中国を念頭に「国家の主権を堅持し、侵略と併呑を許さない」と決意を述べつつ、「台湾海峡の平和と安定という現状を維持するわれわれの努力は変わらない」と言及し、現状維持路線を継続する姿勢を改めて示していた。 また「中華民国はすでに台澎金馬(台湾本島と澎湖諸島、金門島、馬祖列島)に根を下ろしており、中華人民共和国(中国)とは互いに隷属していない」と述べ、5月の就任演説で強調した「中華民国と中華人民共和国は互いに隷属しない」との立場を再び示した。中国当局はこの頼氏の主張について「新たな(中国と台湾は国と国との関係だという)二国論」だとして反発している。
台湾、中国の軍事演習は「非理性的な挑発」と非難 「頼総統演説を口実」式典前から警戒(産経新聞) - Yahoo!ニュース
2 notes
·
View notes
Text
我が国の未来を見通す(80)
『強靭な国家』を造る(17)
「強靭な国家」を目指して何をすべきか(その7)
宗像久男(元陸将)
──────────────────────
□はじめに
本メルマガは当初の予定をはるかにオーバーし、8
0回まで来てしまいました。浅学菲才の恥をしのん
で、知見も経験もない様々な分野に首を突っ込み、
それぞれ表面的ではありますが、知り得る限りの知
識で書きなぐっていました。そうしているうちに、
(前にも紹介しましたように)「その道の専門家の
限界」のような、新たな問題意識を持つに至り、
「では、どうするべきか?」が再び首をもたげ、悩
むことになりました。その結果、最近のメルマガの
ように、「国力」の観点から再整理することしまし
たところ、これはこれで面白くなってきました。
今回は「軍事力」を取り上げます。世界的な呼称は、
「軍事力」ですが、事柄の性格上、我が国の「軍事
力」を語る場合は「防衛力」と置き換えます。
私は、37年間、陸上自衛隊で勤務し、各級指揮官
はもちろん、陸上幕僚監部の幕僚として防衛力整備
を主に担当してきましたので、「防衛力」について
詳しく語り出すと、書籍1冊では足りないぐらい
“言いたいこと”がありますが、あえてテーマを世
間ではあまり語られていない、いわゆる「タブー」
とされている部分などに絞って、しかも要点のみを
紹介したいと思います。
我が国の「安全保障」とか「防衛」に関する最近の
話題についてもっと知りたい読者は、最近、元空将・
織田邦男氏が『空から提言する新しい日本の防衛』
を上梓しましたので、ぜひご一読いただきたいと思
います。織田氏は私と同期で、幕僚監部勤務にあっ
ては陸上、航空の違いありますが、いつも同じよう
な部署で勤務してきた経験があります。よって、
「ライバル」というより「戦友」であり、家族ぐる
みで親しく付き合ってきた仲でもあります。
『空から提言する新しい日本の防衛』
本書は、「将来の我が国の防衛のあり方」に対して、
元自衛官ならではの“切り口”から迫り、一般の軍
事専門家などが追随できない視点から貴重な一石を
投じているとの読後感を持ちます。なかでも、「我
が国の防衛」が抱えている課題、あるいは昨年末に
策定された「戦略3文書」の不十分なところの指摘
などについては私も全く同意です。
あえて違いがあるとすれば、陸上自衛官だった私は、
どうしても「国土」とか「国民」目線から防衛を考
える“癖”がついてしまっているせいか、「国防」
など頭の片隅にもない方々などにとってはどうして
も理解が難しくなってしまいます。その点、元航空
自衛官の織田氏の解説や提言は、難解な領域にはほ
とんど踏み込まないのですっきりしてわかりやすい
と思います。
さて、私の現在の最大の関心事は、「現実進行形の
ウクライナ戦争が国際社会の将来にどのようなイン
パクトを与えるか?」、そして、「そのインパクト
が、やがて“形を変えて”我が国の“眼前”に迫っ
てきて、我が国の平和や独立や国民の安寧な生活を
左右する可能性があるのかないのか?」にあります。
織田氏も再三、同趣旨の切り口で解説していますが、
“予想外のことが起こる可能性を表す”言葉の「ま
さか」や「もしかして」のうち、これまでは“予想
外のことが起こる可能性が低いと考えられる場合”
に使われる「まさか」の範疇として無視あるいは軽
視してきた事態が、“予想外のことが起こる可能性
があると考えられる場合”に使われる「もしかして」
の範疇に移動し、その実態の解明や未然防止の対策
までを含め、考え、検討し、具体化しなければなら
ない割合が増えているように気がするのです。
昨年の「戦略3文書」にあっても、これまでのこの
種計画の“歴史”を継承しつつ、どうしても踏み込
めない憲法上の制約や戦後の防衛政策の変更に対す
る批判への“予防線”を張っているのか、いくつか
の「もしかして」には自ら目をつぶり、「まさか」
の範疇で取り扱い、その上で無視あるいは軽視した
と考えざるを得ない論点がかなりあるとように思う
のです。
現役時代も、毎度ながらの“政治決定”に呆れ果て、
言いようもない“むなしさ”を味わったものでした
が、“我が国の特殊事情からやむを得ない”と自ら
納得させてきた側面があります。
繰り返しますが、“失うものがない”今、自らを納
得させてきた論点まで少し踏み込んで、その要点は
紹介しようと思います。実は、そう思い立って文献
を漁ると参考になる書籍もたくさんあることもわか
りました。ただ、表題からして大きなインパクトを
与えないと手に取ってもらえないからでしょうか、
このジャンルの書籍はタイトルからしておどろおど
ろしいような気もします。例えば、『自滅するアメ
リカ帝国』(伊藤貫著)、『腹黒い世界の常識』
(島田洋一著)、『国連の正体』(藤井厳喜著)な
どです。インターネットで発信しているものも数多
くありますが、共通しているのは著者の皆さんの
“強い危機意識”でしょうか。
なかには、『新しい日本人論』(加瀬英明、ケント
・ギルバード、石平共著)のように、日本人の根底
に流れている「性善説」が背景にあって、この「も
しかして」を考えることができなくっていると指摘
するものもあります。多くの日本人が宗教のように
ひたすら信じている、憲法前文にいう「平和を愛す
る諸国民の公正と信義に信頼して……」のくだり��
どを指すものと考えます。
さて、「もしかして」の領域が拡大したのは、我が
国の「安全保障」とか「防衛」に限ったことではな
いことも明白です。すでに本メルマガで再三触れて
きましたように、我が国の未来に立ちはだかるであ
ろう「暗雲」として、「もしかして」が様々な領域
に広がる可能性があると考えます。
本メルマガ発信の目的は、「我が国の未来について
様々な視点から見通し、“最悪の状態にならないよ
うに”早急に処置すべき具体的な対応策を明確にす
る」ことにありましたが、知れば知るほど“まだ道
半ば”との思いを強くしています。もう少し続けま
すので、しばらくお付き合い下さい。
▼「軍事力」の国際比較
さて、国際的な影響力という点でいえば、「軍事力」
こそが「国力」の“ど真ん中に位置づけられる”こ
とは明白です。しかも、その良し悪しは別として、
核戦力保有の有無は決定的です。
まず、これまで同様、「軍事力」の国際比較につい
てもチェックしておきましょう。発刊されたばかり
の今年の「防衛白書」は、冒頭、「戦後最大の試練
の時を迎える国際社会」から始まります。子細に読
むと、これまでの「“まさか”戦争なんて起こりっ
こない」を否定し、「“もしかしたら”我が国の周
辺でも起こり得る」ことを肯定しているのです。
白書は、「だから、未然防止のために反撃能力の強
化が必要」と言いたかったのでしょうが、白書の性
格上、それが限界なのかも知れません。そして、我
が国の陸海空防衛力については、「我が国の周辺に
は大規模な軍事力が集中している」ことを具体的な
数値で説明するために、世界の陸海空戦力それぞれ
のベスト10を紹介しています。しかし、白書らし
く、我が国の防衛力についてはそれぞれの兵力量の
みを掲載するにとどめています。ちなみに、実際に
ベスト10に入るのは海上自衛隊のみで、保有船舶
総トン数から第5位にランクされるはずです。
陸海空戦力を含む、軍事力を構成する様々な要素ま
で含め、通常兵器の世界軍事力ランキングは、「Gl
obal Firepower 2023」によれば、1位アメリカ、2
位ロシア、2位中国、4位インド、5位イギリス、
6位韓国、7位パキスタン、8位日本、9位フラン
ス、10位ドイツとなっています。
また「軍事予算」のランキングは、「ストックホル
ム国際平和研究所」(SIPRI)によれば、1位アメリ
カ(8010億ドル)、2位中国(推定2930億
ドル)、2位インド(766億ドル)、4位ロシア
(659億ドル)、5位イギリス(659億ドル)
と続き、日本は9位(517億ドル)になっていま
す。つまり、日本の防衛予算は、2021年時点で
米国の約6.5%、中国の約18%だったことがわ
かります。
前回上げたような各国の「購買力平価」を使用する
と、実際の軍事予算の様相は違ってくるものと考え
ます。また、年末の「戦略3文書」には「GDPの
1%から2%に引き上げる」旨が盛り込まれていま
すので、実現すれば数年後のランクは上がることも
予想されます。
現在、世界の核保有国は9カ国で、上記SIPRIの推計
による保有弾頭数は、1位米国(5244発)、2
位ロシア(5889発)、3位中国(410発)、
4位フランス(290発)と続き、9位には北朝鮮(3
0発)がランクされています。これらから軍事予算の
上位国はほとんど核保有国であることもわかります。
これらはあくまで静的な比較で、ウクライナ戦争に
より、ロシアや西側諸国の兵器の生産量や消耗量も
大幅な変動があったことでしょうから、最新のデー
タを比較すると、すでに変動している可能性もある
でしょう。
厳しくなりつつある周辺情勢や我が国の「国力」と
比較して、これらのランクや防衛力の量・質が現状
程度で適切か否かにについては各論あることでしょ
う。しかし、増強論に反対する側に立つ人たちの意
見の背景に、戦後の「平和ボケ」とか「平和の毒」
が今なお根強く定着しているとすれば、やはり「時
代は変わった」ことに気づく必要があると考えます。
目を開け、耳をふさがないで、しっかり見極めた上
で、自分たちの主張が正しいか否かを再考する時が
来ていると思うのです。
8月16日、有楽町駅前で、この暑さの中、背広を
着た日弁連の皆さんが「憲法違反の平和安全法制の
廃止を」との看板の前で街頭演説しているのを見か
けました。周りにはだれもいませんでしたが、“司
法試験に受かるくらい頭が良いのだから、法律以外
のことも少しは勉強すればよいものを”と思いつつ、
私も無視して通り過ぎました。ちなみに、「平和安
全法制」が制定されたのは9年前の2014年です。
「今頃、何を言っているのか」という点でも呆れま
した。
白書も言うように、“戦後最大の試練の時を迎えて
いる国際社会”を、我が国はけっして傍観できるわ
けがなく、予想される“戦場”が我が国近傍にある
ことを考えると、逆に“国際社会を戦略的にこの地
域に引きずり込めるか否か”に我が国の存亡がかか
っていると考える必要があります。そのために“何
をすべきか”については、ウクライナ戦争をみれば
明らかでしょう。多少苦しくても、「自助努力」す
るしかないのです。
▼我が国の「防衛力」の“急所”──核抑止
「戦略3文書」に書かれていない視点で、我が国の
「防衛力」の“急所”」と題して、いくつかの論点
の要点のみを紹介しましょう。“急所”ですから、
口に出すこともはばかれ、普段は隠れています。大
方の日本人のように、関心がない人には思いもよら
ないでしょう。されど“急所”なのです。ものすご
く大事なのです。
その筆頭は「核戦力」の取り扱いでしょう。織田氏
も「国家安全保障戦略」の中で、核抑止については
わずか1行しか触れず、米国に丸投げしていること
を「最大の欠陥」として問題視していますが、私も
全く同感です。
言うまでもなく、中国、ロシア、北朝鮮のような、
核・ミサイルを保有する権威主義国家に囲まれてい
る我が国が、「非核三原則」のような“現実離れ”
した政策を保持して「考えもしない」段階に留まっ
ている“危険性”について、安全保障や防衛を“真
剣に考えている人たち”は皆、多少の温度差はあっ
てもよく認識していると思います。しかし、その範
囲が“真剣に考えている人たち”に留まっているの
が問題なのです。
『自滅するアメリカ帝国』の著者・伊藤貫氏は、ア
メリカ在住が長いせいか、今どきの国際政治学者に
は珍しく、ハッとすることをスバっと指摘します。
一例を挙げれば、日本にもなじみが深い、アーミテ
ージ、ジョセフ・ナイ、それにライス元国務次官ら
が「日本の核武装をさせたくない」とする一心から
アメリカの「核の傘」の有効性を繰り返して主張し
てきた事実、しかし、昨今のアメリカの相対的な力
の衰退や国際環境の大きな変化もあって、キッシン
ジャー、ウォルツ、ホフマンなどのリアリスト戦略
家たちは、「日本もアメリカに過剰依存しない自主
防衛に舵を切るべき」と提唱していることを紹介し
ています。当然、自主防衛には核戦力の保持も含ん
でいます。
私たちは、通常兵器の世界では「敵と我が拮抗した
戦力を保持しておれば戦争は発生しにくい」ことを
軍事常識として理解していますが、伊藤氏は2人の
有識者の分析を紹介して、これまでの常識をくつが
えしています。実に興味深いです。
まず、MITの軍事学者パリ─・ポーゼン氏の「他
国からの先制攻撃によって破壊されない核兵器を所
有している国は、世界覇権を握ろうとする超大国に
よる軍事的な恫喝と攻撃を拒否する能力を持ってい
る」、同じくMITの国際政治学者ハーヴェイ・サ
ポルスキー氏の「核武装国同士の戦争はリスクとコ
ストが高すぎる。したがって、核武装した諸国は、
お互いに核戦争を避けようとするだけではなく、通
常兵器による戦争まで避けようとする」との分析で
す。
つまり、核戦力保持の有効性は、たとえ彼我の格差
があっても、核戦争の抑止に留まらず、通常戦争の
抑止にもつながることを指摘しているのです。「核
抑止」と「核廃絶」の区別もつかない大方の政治家
・有識者・マスコミ人には“目から鱗”であろうと
思います。
だからこそ、湾岸戦争やイラク戦争から「イスラム
諸国が非核保有国だから、簡単にアメリカの攻撃を
受けた」との教訓を学んだ北朝鮮は、国民が明日の
食事さえ飢えているなかにあっても、莫大な経費を
費やして核実験やミサイル発射実験を繰り返し、有
効な核戦力の保持を企図しているのです(北朝鮮の
今年の餓死者は例年の3倍との報道がありましたが、
実態はかなりひどそうです)。
そして、中国は、日本を現状のような“与(くみ)
しやすい状態”に留めおくために、福島原発の処理
水について、自らがもっと濃い濃度の汚染水を垂れ
流している事実を知りつつ、“天つば”にもなりか
ねないリスクを冒しても、日本人が原発にも原爆に
も“眠ったまま”積極的な意思表示をしないように、
戦略的に反対論をぶち上げているのです。
さて、我が国の「核抑止」については大きな問題点
が2つあると考えます。まず、我が国のように「非
核3原則」を唱え、自らは核兵器を「持たず」「作
らず」「待ちこまず」としてすべてアメリカに“丸
投げ”している国が、ボーゼンやサポルスキーのよ
うな考えを適用しつつ、核抑止も、さらに通常戦力
の抑止も本当に可能なのか、という点です。
言葉を代えれば、アメリカの「核の傘」は未来永劫
に有効なのか、という点ですが、これについては、
次回、「日米同盟の有効性」に関連づけて詳しく触
れることにしますが、アメリカ政府の“一存”でそ
の有効性が突然、反故(ほご)になる可能性がある
ことは間違いないでしょう。
問題点の2番目は、中国や北朝鮮のような権威主義
国家に、アメリカのように「自国(民)の膨大な被
害回避を最優先し、核保有国とは戦争しない」との
考えが通じるかという点です。もし両国の為政者が
自国(民)の犠牲など一顧だにせず、戦争目的を遂
行しようとすれば、世界最大の核保有国・米国の
「核の傘」であっても、抑止が有効に機能しない可
能性があります。
なんせ中国には、1969年、ウスリー川の中ソ国
境問題を解決するため、当時は非核保有国だったに
もかかわらず、核保有国・ソ連に対して果敢に攻撃
を仕掛けたという“前歴”がありますし、同じく北
朝鮮も、“朝鮮半島はアメリカの防衛ラインの外”
と宣言した「アチソン声明」があったとはいえ、韓
国の後ろ盾に核保有国・アメリカがいることを知り
ながら、朝鮮戦争を仕掛けたのでした。
将来、これらの国とさらに緊張が高まるような事態
になれば、当然ながら、最大限の卑劣な���句を乱発
しつつ“露骨な核恫喝”を予想しておく必要がある
でしょう。
一方、本メルマガでも指摘したように、ウクライナ
はソ連崩壊時に領内に1240発の核弾頭を保有す
る世界第3位の核保有国でしたが、1994年の
「ブダペスト覚書」によって核兵器をすべて撤去し
ました。「歴史のif」ですが、仮にウクライナに
数発でも核兵器が残っていたなら、このたびの「ウ
クライナ戦争」は発生したでしょうか。少なくとも、
プーチン大統領の脳裏には、“ウクライナが報復と
して核兵器を使用すれば自国に膨大な被害が出る”
ことが浮かび上がり、侵攻を躊躇することにうなが
る可能性はあったと推測できるでしょう。
悩ましい問題でありますが、国際社会は、理想では
あってもいつ実現するか全く見通しが立たない「核
廃絶」ではなく、明日の「核抑止」をいかにするか、
で動いていることは間違いないのです。ゆめゆめ優
先順位を間違えないことが肝要です。
今回はこのくらいにしておきますが、我が国の「防
衛力」の盲点について、「もしかして」、つまり
「考えられないことを考える」ことまで拒否せず、
“急所”だけに“そっと覗いてみる”くらいの知恵
が必要であると私は思います。
ついでに私がアメリカをうらやましいと思うことが
もう一つあります。MITという、日本の東京大学
にランクされるような大学の教授たちが堂々と「正
論」を述べていることです。
それに対してと言うわけではありませんが、日本の
学者先生方は自らに恥じることはないのでしょうか。
前述の日弁連もそうですが、優秀なはずなのに、も
はや「つける薬がない」のでしょうか。
8月15日、終戦記念日の産経新聞社説は、論説委
員長の記名入りで「首相は核抑止の重要性を語れ」
と題して、“悲劇を繰り返さぬため”にも「核抑止
の有効性」について、普段の倍ほどの長さで堂々と
述べていました。過去にもあったのかも知れません
が、私自身は「核抑止」についてこれほどの内容を
マスコミ人が語ったのを初めて知りましたので、と
ても驚きました。
これなどはとても珍しいケースだと思いますが、我
が国の最大の問題は、様々な「もしかして」など
“夢にも思わない”人たちが政治家・有識者・マス
コミ人・教育者などに数え切れないほど存在し、な
おかつ、依然として“その人たちの声が大きい”こ
とにあると思うのです。その結果を受けて、大方の
国民もなんら危機意識を持つことなく、時間だけが
進んでいきます。本当に困ったものです。次回は、
もう一つの“急所”を紹介しましょう。
(つづく)
(むなかた・ひさお)
10 notes
·
View notes
Text
『「呪術」の呪縛』上巻読書ノート
江川純一・久保田浩編『「呪術」の呪縛』(上)リトン、2015年。
今、呪術がかつてないほど注目されている。近代西欧に成立したreligionに対して、劣位に置かれるmagic概念を所与のものとして前提とすることなく、改めて問い直し、概念史や各国の事例研究といった観点からその諸相に光を当てる書。
以下、所収論文についての読書メモ。 江川純一・久保田浩「「呪術」概念再考に向けて:文化史・宗教史叙述のための一試論」
全体の導入論文。日本語の「魔法」と「呪術」、学問的概念としてのmagic、西洋文化史におけるmagic、そして、本書の背景と構成が論じられる。「魔法」(1474)が室町中期に現れているのに対して、「呪術」は『続日本紀』(699)に言及がある。 とはいえ、「呪術」は近世・近代において人口に膾炙しておらず、20世紀後半にフレイザーのmagicの訳語として定着した(それ以前は「魔法」)。また、学問的概念としてのエティックな次元と日常言語としてのイーミックな次元の区別の重要性が指摘される。 学問的概念としてのmagicで要注目なのはタイラーとフレイザーであり、特に後者のmagic→religion→scienceという図式が重要。その後のmagic研究の系譜はある意味ですべてここから始まった。他方で、イーミックな次元で見れば、magicの語源は古代ペルシア語に由来するギリシア語のμάγοςに発する。 すなわち、magic概念には、そもそもペルシア由来という他者性が付与されており、つねに地理的他者(非西洋)、歴史的他者(古代)、宗教的他者(異教)という含意がある。近代的なreligionとscienceは、他者にmagicという名を与えることで、自己を正当化してきた歴史的経緯がある。 第一部 呪術概念の系譜
藤原聖子「アメリカ宗教学における「呪術」概念」
ウェーバー以来、ピューリタンは「世界の脱魔術化」として位置づけられてきたが、1980年頃からピューリタンも呪術を実践していたとする研究が盛んになった。これらの研究を島薗進の新宗教研究(呪術と近代化は背反しない)と比較対象する論文。 アメリカにおけるピューリタンの呪術実践研究では、呪術と近代化の関係は問題とならず、呪術の感情面が重視され、信仰と理性の対立図式、すなわち、アメリカの知性主義対反知性主義というナショナル・アイデンティティの問題へと引きつけて理解されている。 たしかに考えてみれば、アメリカのホラー映画は、魔女、魔法、霊、占い、ゾンビと呪術に事欠かない。むしろ合理性の反作用としての呪術に取り憑かれているようにさえ見える。それはアメリカという国のアイデンティティに関わる問題で、非常に興味深い。 ちなみに、アメリカの呪術総決算的なホラー映画として「キャビン」おすすめです! この『呪術』論集は、「宗教」概念批判を経た後で、「宗教」周辺の重要概念をアプリオリに前提とせず、反省的にその概念の意味を問い直すという点で、『ニュクス』第5号「聖なるもの」特集と双子のような存在ですね。
竹沢尚一郎「イギリスとフランスにおける呪術研究」
エヴァンズ=プリチャードのアザンデ研究における妖術論とグリオールのドゴン研究における占い論の検討を通じて、呪術を複雑な世界の「縮減」(ルーマン)の仕組みであるとする仮説を提唱する。
注で触れられている、レイモン・ファースの師マリノフスキーへの問い「もしすべてがすべてに結びついているとすれば、どこで記述を終えたらよいのでしょうか」は、いかにもラトゥール的な問いのように思える。 横田理博「ウェーバーのいう「エントツァウベルンク」とは何か」
この論文は何度読んでも面白い。ウェーバーのEntzauberung(脱呪術化、魔術からの解放)は有名な概念で、様々な論者によって援用されるにもかかわらず、ウェーバー自身はこの概念を定義しないために、その内容は実は不明確である。 著者は丁寧な読解によって、「脱呪術化」が『プロ倫』における「救いの手段としての呪術の否定」と、『職業としての学問』における「世界の意味づけの否定」という二つの意味をもつことを明らかにする。また、前者が呪術から宗教への移行であるのに対して、後者は「世俗化」を意味する。 ちなみに、私が『現代思想』のウェーバー特集に寄稿した「世界に魔法をかける」の元ネタはこの論文です。「脱呪術化」という概念でひとつ気になるのは、この語はつねにEntzauberung der Weltと「世界の/世俗の」という言葉を伴っていること。この点も「脱呪術化」を援用する論者に見落とされがちだ。
高橋原「初期の日本宗教学における呪術概念の検討」
日本の宗教学の歴史の中でmagicの訳語としての「呪術」が定着していった過程を跡付ける。明治時代はmagicの訳語として「呪術」は用いられていなかったが、日本の宗教学の確立とともに大正時代にフレイザーの影響の下、「呪術」が定着していった。 谷内悠「呪術研究における普遍主義と相対主義、そして合理性:分析哲学と認知宗教学から」
「呪術は合理的である」と言われるときの「合理性」について、タンバイアの普遍主義/相対主義の議論を批判的にアップデートさせることで解決しようとする。概念図式/メタ概念図式の議論はガブリエルの「意味の場」の議論を想起させる。 ただ、普遍主義と相対主義の対立をメタ概念図式によって解決するというのは、問題を一段先送りにしただけのような気もするし、最後に出てきた「生物的合理性」は素朴な自然主義のように思えて、正直なところ、肩透かしの感がある。 第二部 事例研究:アジア
鈴木正崇「スリランカの呪術とその解釈:シーニガマのデウォルを中心に」
スリランカで最も呪力の強いとされるデウォルについての神話と実際の呪術実践から、呪術の特徴を探る。呪術は「外来」「異人」といった境界的状況に対する意味付与・統御として発生するのであり、現在のグローバル化による変動もまた呪術が力をもつ場である。 たしかにマゴスの語源的意味にしても、フェティッシュにしても、文化的・地理的・時間的な境界において、あるいは、他者との界面において、「呪術」(なるもの)は発生するように思われる。個人的には、障り、罪、穢れ、害、悪を意味するシンハラ語の「ドーサ」という概念が面白い。 木村敏明「プロテスタント宣教師の見た「呪術」と現地社会:ヨハネス・ワルネック著『福音の生命力』をめぐって」
スマトラのバタックに宣教したヨハネス・ワルネック『福音の生命力』に基づいてキリスト教から見た呪術の意義と効用を検討する。ワルネックは、インドネシアの宗教をアニミズムとして特徴づけたが、その評価は両義的である。 著者はこれを「世界観としてのアニミズム」と「エートスとしてのアニミズム」に分類し、前者が称賛されるのに対して、後者は現世利益を追求する自己中心的な呪術実践であるがゆえに非難されるとする。しかし、ヨハネスはこうした呪術を逆手にとって宣教が可能となるとして、利用価値も認めている。 池澤優「中国における呪術に関する若干の考察:呪術という語の呪術的性格」
面白かった。呪術を「非人格的な法則性に基づく宇宙の操作」と定義すると、人間の作為が宇宙の経営に関与するという点で、陰陽五行説のみならず、古代中国思想全般が「呪術」になってしまうが、これは概念の使い方として非生産的である、という。 古代中国宗教研究における「呪術」の用例として、『詩経』研究が取り上げられ、そこではおおむね「呪術」が素朴な宗教を指す語として用いられ、特に言霊信仰のようなものが想定されている、と指摘される。 私は特に、グラネ『中国古代の祭礼と歌謡』の解釈が面白かった。詩は個人の感情を歌ったものではなく、慣習によって定められた集団の感情を表出したものであり、慣用句は「興」という強制力をもって、自然を循環させる力をもつ、という。詩はいわば礼のような宇宙の形式なのだろう。
川瀬貴也「近代朝鮮における「宗教」ならざるもの:啓蒙と統治との関係を中心に」
朝鮮における近代化、日本の植民地支配という観点から、「宗教」と「宗教」ならざるもの(呪術・迷信)との区別が何を意味しているかを示す論文。特に、今村鞆、村山智順による植民地下の民俗学的調査の視線が見つめる「迷信」が興味深い。 近代化・啓蒙によって退けられた「巫俗」が宣教師たちによって朝鮮宗教の本質と捉えられ、さらに、朝鮮民族のナショナリズムへと結びつき、現代韓国社会において伝統と見なされるようになった、という指摘が面白い。この辺りの話はどうしても「コクソン」を思い出さざるをえない。 第三部 事例研究:日本
井関大介「熊沢蕃山の鬼神論と礼楽論」
近世日本儒学における鬼神の問題を、白石・徂徠・蕃山を中心に、主に「礼」の観点から検討する。蕃山にとって、祭祀儀礼の意義は、人心を無意識裡に統御し、社会を統治することにあったが、それは天人相関論によって宇宙の運行を正しく経営することでもあった。 蕃山によれば、鬼神祭祀の礼は、社会が経済的に豊かになって人心が堕落し始めたとき、富の余剰を有益無害な仕方で蕩尽させるために整備された、とのことだが、これはまんまバタイユの社会的蕩尽の理論と同じですね。 一柳廣孝「魔術は催眠術にあらず:近藤嘉三『魔術と催眠術』の言説戦略」
明治期の催眠術ブームのベストセラー、近藤嘉三『心理応用魔術と催眠術』にしたがって、明治期の「魔術」イメージを検討する。近藤によれば、魔術とは心の中の霊気を通じて感通する手法であり、睡魔術と醒魔術に分けられ、前者は催眠術からは区別される。 魔術は、感通によって、施術者の意思が被術者へと影響を与えることであり、催眠術とは睡魔術のの導入部分にすぎず、近藤は催眠術による治療は有害であるとさえいう。ここら辺は黒沢清の「CURE」っぽい話ですね。 宮坂清「科学と呪術のあいだ:雪男学術探検隊、林寿郎がみた雪男」
これは面白い。1959~60年の雪男学術探検隊に参加した動物学者林寿郎の記録から、雪男に関する科学的視点と呪術的視点の関係を問う。学者が探求していた「雪男」とシェルパにとっての「イエティ」が、実は同じではなかったことが判明する件がハラハラして特に面白い。 日本の雪男ブームの出発点は、今西錦司(1952年のマナスル登山隊が雪男の足跡を目撃)だったんだね。知らなかった。あと、雪男探検隊って、川口浩探検隊みたいなものかと思ってたら、ちゃんとした科学的調査隊が派遣されていたのも知らなかった。 今井信治「「魔法少女」の願い」
1960年代の『魔法使いサリー』『ひみつのアッコちゃん』から現代の『魔法少女まどか☆マギカ』まで、魔法少女アニメを時系列順にたどりながら、そこで描かれている「魔法」表象があとづけられる。 東映魔女っ子シリーズが女子の人気を博したのは、当時、女子向けのテレビ番組がなかったからで、別に魔法でなくてもよかったとの分析だが、そうはいっても「セーラームーン」の継続的な人気や、映画「マジカル・ガール」を見ると、やはり女の子にとって魔法は特別な意味をもっているようにも思われる。 堀江宗正「サブカルチャーの魔術師たち:宗教学的知識の消費と共有」
アニメやライトノベルで人気の「魔術」を分析することを通じて、データベース消費型のサブカルチャーがその消費者にとって「宗教」よりもリアリティをもつようになった現状を明らかにする。 「魔術」関心層は20~30代の男性であることと、魔術・宗教的語彙をもったメディア作品の受容者は自分を能動的に魔的キャラクターを使役する存在(つまり魔術師)として同定しているという分析を組み合わせると、なかなかに痛い実態が見えてくるような気がする。
魔術を扱った代表的な作品として『とある魔術の禁書目録』が挙げられているが、現在(2023年)に改めて同様の問題を扱ったら、おそらく代表的な作品は『呪術廻戦』が挙げられることだろう。また、作中では錬金術はあくまでも「科学」であって「魔法」ではないとされるが、実態としてはどう見ても「魔術」を扱っている『鋼の錬金術師』がまったく言及されないのは不思議。
追記
藤原聖子「「呪術」と「合理性」再考:前世紀転換期における〈宗教・呪術・科学〉三分法の成立」『思想』No. 934、2002年、120-141頁。
呪術は、科学と比べて「非合理的」とされる場合(フレイザー)と、宗教と比べて「合理的」とされる場合(ウェーバー)があるが、これは両者で「合理性」の意味が異なるためである。著者によれば、さらに第三の失われた合理性概念がある。 すなわち、呪術は、理論ー合理的な科学に対して、理論ー非合理的であるが、実践(合目的的)ー非合理的な宗教に対しては、実践ー合理的である。この2種の合理性に加えて、呪術には「ゾッとさせる」という意味での「実体的非合理性」が含意されている(デュルケーム、オットー)。 奇跡論においては、古代末期か~中世末期、奇跡は「聖」に結びついていたが、19世紀末には「超自然」と結びつくようになった、という話(マリン)が面白かった。つまり、キリスト教では奇跡が聖人の業として呪術に対置されていたが、近代以降、科学と対立するがゆえに超自然と結合した、ということ。
5 notes
·
View notes
Text
"岸田文雄首相は16日に会見をおこない、防衛力強化のため毎年1兆円強を増税によって確保すると説明。「わが国の安保政策の大きな転換点にあたって、われわれが未来の世代に責任を果たすために、国民のみなさまのご協力をあらためてお願い申し上げます」と語り、理解を求めた。
だが、こうして国民に負担を強いる一方、政府による海外への支援は惜しみなくおこなわれている。
岸田首相は、11月にカンボジア・プノンペンで開かれたASEAN(東南アジア諸国連合)の首脳会議に出席。コロナ禍後のASEAN各国の経済回復のため、総額2950億円の財政支援を表明している。
12月3日、岸田首相はモルドバのサンドゥ大統領と20分ほど会談。隣国のウクライナから多数の避難民を受け入れているとして、2700万ドル(約37億円)の支援をおこなうと発表。
12月13日には、岸田首相がG7のオンラインによる首脳会議に出席。ロシアからの侵攻が続くウクライナに対し、越冬の協力として250万ドル(約3億4000万円)の支援を表明。発電機やソーラー・ランタンを提供するとし、「ウクライナや周辺国に対し5億ドルの支援を決定した」と説明した。
12月15日には、西村明宏環境相が、カナダで開催された生物多様性条約第15回締約国会議(COP15)で、途上国の生物多様性保全を支援するため1170億円を拠出すると表明。
日本はこれ以外にも、「地球環境ファシリティ」(環境問題解決の国際プロジェクト)に2022年から2026年にかけて6億3800万ドル(約870億円)、「生物多様性日本基金」に1700万ドル(約23億円)などの支援をおこなっている。
日本が2021年におこなったODA(途上国のための政府開発援助)は162億ドル(約2兆2000億円)で、過去最高額となった。"
2 notes
·
View notes
Text
"Kill them with kindness" Wrong. CURSE OF MINATOMO NO YORITOMO
アイウエオカキクケコガギグゲゴサシスセソザジズゼゾタチツテトダ ヂ ヅ デ ドナニヌネノハヒフヘホバ ビ ブ ベ ボパ ピ プ ペ ポマミムメモヤユヨrラリルレロワヰヱヲあいうえおかきくけこさしすせそたちつてとなにぬねのはひふへほまみむめもやゆよらりるれろわゐゑを日一国会人年大十二本中長出三同時政事自行社見月分議後前民生連五発間対上部東者党地合市業内相方四定今回新場金員九入選立開手米力学問高代明実円関決子動京全目表戦経通外最言氏現理調体化田当八六約主題下首意法不来作性的要用制治度務強気小七成期公持野協取都和統以機平総加山思家話世受区領多県続進正安設保改数記院女初北午指権心界支第産結百派点教報済書府活原先共得解名交資予川向際査勝面委告軍文反元重近千考判認画海参売利組知案道信策集在件団別物側任引使求所次水半品昨論計死官増係感特情投示変打男基私各始島直両朝革価式確村提運終挙果西勢減台広容必応演電歳住争談能無再位置企真流格有疑口過局少放税検藤町常校料沢裁状工建語球営空職証土与急止送援供可役構木割聞身費付施切由説転食比難防補車優夫研収断井何南石足違消境神番規術護展態導鮮備宅害配副算視条幹独警宮究育席輸訪楽起万着乗店述残想線率病農州武声質念待試族象銀域助労例衛然早張映限親額監環験追審商葉義伝働形景落欧担好退準賞訴辺造英被株頭技低毎医復仕去姿味負閣韓渡失移差衆個門写評課末守若脳極種美岡影命含福蔵量望松非撃佐核観察整段横融型白深字答夜製票況音申様財港識注呼渉達良響阪帰針専推谷古候史天階程満敗管値歌買突兵接請器士光討路悪科攻崎督授催細効図週積丸他及湾録処省旧室憲太橋歩離岸客風紙激否周師摘材登系批郎母易健黒火戸速存花春飛殺央券赤号単盟座青破編捜竹除完降超責並療従右修捕隊危採織森競拡故館振給屋介読弁根色友苦就迎走販園具左異歴辞将秋因献厳馬愛幅休維富浜父遺彼般未塁貿講邦舞林装諸夏素亡劇河遣航抗冷模雄適婦鉄寄益込顔緊類児余禁印逆王返標換久短油妻暴輪占宣背昭廃植熱宿薬伊江清習険頼僚覚吉盛船倍均億途圧芸許皇臨踏駅署抜壊債便伸留罪停興爆陸玉源儀波創障継筋狙帯延羽努固闘精則葬乱避普散司康測豊洋静善逮婚厚喜齢囲卒迫略承浮惑崩順紀聴脱旅絶級幸岩練押軽倒了庁博城患締等救執層版老令角絡損房募曲撤裏払削密庭徒措仏績築貨志混載昇池陣我勤為血遅抑幕居染温雑招奈季困星傷永択秀著徴誌庫弾償刊像功拠香欠更秘拒刑坂刻底賛塚致抱繰服犯尾描布恐寺鈴盤息宇項喪伴遠養懸戻街巨震願絵希越契掲躍���欲痛触邸依籍汚縮還枚属笑互複慮郵束仲栄札枠似夕恵板列露沖探逃借緩節需骨射傾届曜遊迷夢巻購揮君燃充雨閉緒跡包駐貢鹿弱却端賃折紹獲郡併草徹飲貴埼衝焦奪雇災浦暮替析預焼簡譲称肉納樹挑章臓律誘紛貸至宗促慎控贈智握照宙酒俊銭薄堂渋群銃悲秒操携奥診詰託晴撮誕侵括掛謝双孝刺到駆寝透津壁稲仮暗裂敏鳥純是飯排裕堅訳盗芝綱吸典賀扱顧弘看訟戒祉誉歓勉奏勧騒翌陽閥甲快縄片郷敬揺免既薦隣悩華泉御範隠冬徳皮哲漁杉里釈己荒貯硬妥威豪熊歯滞微隆埋症暫忠倉昼茶彦肝柱喚沿妙唱祭袋阿索誠忘襲雪筆吹訓懇浴俳童宝柄驚麻封胸娘砂李塩浩誤剤瀬趣陥斎貫仙慰賢序弟旬腕兼聖旨即洗柳舎偽較覇兆床畑慣詳毛緑尊抵脅祝礼窓柔茂犠旗距雅飾網竜詩昔繁殿濃翼牛茨潟敵魅嫌魚斉液貧敷擁衣肩圏零酸兄罰怒滅泳礎腐祖幼脚菱荷潮梅泊尽杯僕桜滑孤黄煕炎賠句寿鋼頑甘臣鎖彩摩浅励掃雲掘縦輝蓄軸巡疲稼瞬捨皆砲軟噴沈誇祥牲秩帝宏唆鳴阻泰賄撲凍堀腹菊絞乳煙縁唯膨矢耐恋塾漏紅慶猛芳懲郊剣腰炭踊幌彰棋丁冊恒眠揚冒之勇曽械倫陳憶怖犬菜耳潜珍
“kill them with kindness” Wrong. CURSE OF RA 𓀀 𓀁 𓀂 𓀃 𓀄 𓀅 𓀆 𓀇 𓀈 𓀉 𓀊 𓀋 𓀌 𓀍 𓀎 𓀏 𓀐 𓀑 𓀒 𓀓 𓀔 𓀕 𓀖 𓀗 𓀘 𓀙 𓀚 𓀛 𓀜 𓀝 𓀞 𓀟 𓀠 𓀡 𓀢 𓀣 𓀤 𓀥 𓀦 𓀧 𓀨 𓀩 𓀪 𓀫 𓀬 𓀭 𓀮 𓀯 𓀰 𓀱 𓀲 𓀳 𓀴 𓀵 𓀶 𓀷 𓀸 𓀹 𓀺 𓀻 𓀼 𓀽 𓀾 𓀿 𓁀 𓁁 𓁂 𓁃 𓁄 𓁅 𓁆 𓁇 𓁈 𓁉 𓁊 𓁋 𓁌 𓁍 𓁎 𓁏 𓁐 𓁑 𓀄 𓀅 𓀆
184K notes
·
View notes
Text
中国の日本人学校に通う日本人男子児童(10)が刺殺された事件で、自民党総裁選(27日投開票)の候補からは、非難の声が相次いだ。沖縄県・尖閣諸島周辺での主権侵害や、日本のEEZ(排他的経済水域)への海洋ブイ無断設置、中国軍による領空侵犯や領海侵入など、中国の無法行為は加速している。新たな総理総裁には、覇権主義を強める中国に毅然(きぜん)とした態度で臨み、〝反日暴走〟を阻止する外交戦略が求められる。
石破茂氏
小泉進次郎氏
◇
「本当に悔しい。中国当局は原因や動機を何も明らかにしていない」「説明をしてもらわなければ日本人学校の安全も守れない」「中国に滞在している日本人の安全を守る具体策を示してほしい」
高市早苗経済安保相(63)は19日、陣営の会合などで、こう憤りをあらわにした。これまでも、中国に対し、「世界共通の課題はともに取り組む。言うべきことは言う」と述べ、〝ケジメをつける外交〟の重要性を強調してきた。
高市氏は、日本人の長期拘束が相次いでいる中国の「反スパイ法」にも重ねて懸念を表明し、「日本人にも適用される法律解釈の詳細な説明を求めることは日本政府の責務」と、国会内で記者団に語った。
石破茂元幹事長(67)は「中国政府が真相究明、再発防止に十分な対応をしていない。治安担当者か外交責任者が国を代表して見解を述べるのは当然」と批判した。
小泉進次郎元環境相(43)も「中国政府に邦人の安全確保と、厳正な処罰、動機の解明を求めたい」と述べた。
上川外相また〝遺憾砲〟
一方、岸田文雄政権ナンバー2で、日本政府の情報発信を担う林芳正官房長官(63)は19日の記者会見で、「事実関係の説明と安全確保に万全を期すよう引き続き強く求める」と述べた。
上川陽子外相(71)は「卑劣な行為で、誠に遺憾だ。深い悲しみを禁じ得ない」と、また〝遺憾砲〟を炸裂(さくれつ)させ、中国側に日本人の安全確保を求めていくと表明した。
悲惨な事件を受け、小林鷹之前経済安保相(49)や、加藤勝信元官房長官(68)、河野太郎デジタル相(61)、茂木敏充幹事長(68)ら各候補からも、警備強化などを求める声があがった。
自民党のベテラン議員は「日本周辺の緊張感は増している。新たな総理総裁は、有事での危機管理能力が問われる。普段は慎重な言い回しに終始し、〝遺憾砲〟にとどめるしかない閣僚でも、総裁候補としてならば『外交政策』の表明は可能なはずだ。各候補は、国家観はもとより、外交・安保の信条を国民に明確に示すときだ」と語った。
【自民党総裁選・立候補者】
候補者 衆院選挙区・当選回数
高市早苗経済安保相(63) 奈良2区⑨
小林鷹之前経済安保相(49) 千葉2区④
林芳正官房長官(63) 山口3区①参⑤
小泉進次郎元環境相(43) 神奈川11区⑤
上川陽子外相(71) 静岡1区⑦
加藤勝信元官房長官(68) 岡山5区⑦
河野太郎デジタル相(61) 神奈川15区⑨
石破茂元幹事長(67) 鳥取1区⑫
茂木敏充幹事長(68) 栃木5区⑩
0 notes
Text
2024年7月26日
8月15日に終わった戦争などない 「平和報道は9月にシフトを」(朝日新聞)
毎年8月にメディアにあふれる風物詩的な戦争・平和報道は、半ば揶揄を込めて「8月ジャーナリズム」とも呼ばれてきた。加害性の視点の欠如や、内容の定型化も指摘されて久しい。そもそも「8月15日=終戦日」という日本の常識自体が内向きの8月ジャーナリズムの産物で、国際的には非常識であり、世界との対話を阻んでいる――。そんな刺激的な議論を世に問うたのが、佐藤卓己・上智大教授(メディア史)だ。それなら本来の終戦日はいつなのか。先の戦争が人々の「記憶」ではなく「歴史」に変わりつつあるいま、私たちはそれをどう論じていけばよいのか。8月ジャーナリズムは乗り越えられるべき過去の遺物なのか。疑問をぶつけた。
「終戦の日」は8月ジャーナリズムの産物
――今年も8月を迎えます。8月15日をピークとした日本メディアの戦争・平和報道「8月ジャーナリズム」は、他者の存在と降伏の事実を忘却したものだと指摘し続けてきました。
「1945年8月15日に終わった戦争は存在しないからです。日本が連合国にポツダム宣言受諾を伝えたのは8月14日ですが、15日は、どの前線でも戦闘が続いていました」
「『終戦』は相手国のある外交事項です。米戦艦ミズーリ号で降伏文書に調印した9月2日が国際法上の終戦日であり、翌3日をロシアも中国も対日戦勝日としています。交戦国ではなく、あくまでも『臣民』に向けた昭和天皇による終戦詔書の放送、いわゆる『玉音放送』があったに過ぎない日を節目としていること自体、極めて内向きの論理に基づいています」
「そもそも、千島列島や旧満州は8月15日以降もソ連軍の侵攻を受けており、終戦どころではない。放送局が破壊され物理的に『玉音』体験が困難だった沖縄も同じ。ゲリラ戦を続けていた残存在沖日本軍が降伏文書に調印したのは9月7日で、アジア各地の日本軍が降伏したのも9月2日以降です。『8.15=終戦記念日』は、沖縄や外地の邦人、南方の戦地に取り残された兵士らの記憶を捨象し、周縁化することで成立しているのです」
「8月15日が終戦日と明記されたのは1963年の閣議決定で、その正式名称『戦没者を追悼し平和を祈念する日』が決まったのは、連合国軍総司令部(GHQ)が廃止されてから30年も経った1982年です。今ではそのことを知らない人がほとんどでしょう」
「創られた記憶」に基づくエモい報道
――「8.15=終戦の日」という日本人の「記憶」自体、8月ジャーナリズムの産物だとも指摘しています。
「8月ジャーナリズムが確立されたのは戦後すぐではなく、多くの新聞が終戦10年特集を組んだ1955年です。この時の紙面に掲載された、玉音放送を流すラジオの前でうなだれたり泣き崩れたりする国民を写したとする新聞写真は、実は撮影日時や状況が不確かなものや、『やらせ』も含まれていました。宮城(皇居)前でひざまずく人々の姿を伝える1945年8月15日の記事も、見てきたように書かれているものの、多くは予定稿に基づくものでした」
「また日本人の多くは、あの日を『じりじり照りつける太陽の下』の出来事として記憶しています。『暮しの手帖』の花森安治は『あの日は誰でも知っているように日本じゅうがたいへんな晴天で(略)非常に暑かった』と書いています(『一億人の昭和史』第4巻)。ですが、東北は曇りだったし、北海道の一部は雨でした」
「記憶のウソは『8.15』だけではありません。8月6日も、国民的な平和反核運動の起点となるのは戦後すぐではなく、独立回復で原爆報道の統制が解かれた後、1954年の第五福竜丸事件以降です。広島市生まれの私の記憶では、被爆者への差別はかなり後々まで残っており、被爆体験は完全に自由な語りの中にあったわけではなかった。しかし、放射能雨や放射能マグロの恐怖とともに、広島と長崎という地方都市の悲劇が突如、国民的な原水禁運動の『起源』に据えられたのです」
「8月前半に集中する戦争回顧の報道をつぶさに調べてみると、いかに『創られた記憶』が多いかに、驚きます。通常の報道をする際には当たり前の真偽の検証すら不十分という点で、8月ジャーナリズムは『ジャーナリズム』の名にも値しないものが少なくありません。昨今、ネット上の『エモい』記事に対する批判が高まっていますが、伝統芸能化した8月ジャーナリズムの多くも、残念ながらそれに陥ってしまっている」
「戦後長らくメディアが作り上げた『記憶』は、引用や孫引きが繰り返されることで、国民の集合的記憶=体験として歴史化していく。それはもはや『神話』と言えます」
「8月革命論」と「記憶の55年体制」
――その「神話」が浸透・定着したのには、戦後の政治・思想空間が大きく作用していたようですね。
「戦後憲法に深く共感した政治学者の丸山真男は、1945年8月15日に日本が国体の呪縛から解放され、人民主権への変革が起きたとする『8月革命論』を唱えました。一方、保守派は天皇の御聖断によって戦争が終結し国体も護持されたという物語を信じてきた。これらは正反対に見えて、左右のイデオロギーが背中合わせにもたれかかる心地よい均衡であり、双方が『降伏』に目を背けることで一致した『記憶の55年体制』とも言うべきものです」
「『8.15』を境に日本に『自由なる主体』が生まれたというのは、明らかに虚妄です。丸山はそれを承知のうえでその虚妄に賭け、8月ジャーナリズム最大のイデオローグとして戦後言論界に君臨しました」
「しかし、戦前と戦後の断絶を設定する『8.15神話』は、両者の連続性を隠蔽する効果をもたらしてきました。その意味で、8月ジャーナリズムは『戦争の記憶』ではなく、『戦後の忘却』の上に存在しているのです」
「戦前」と「戦後」の断絶史観、世界と乖離
――世界との対話を阻む障害となっている8月ジャーナリズムではなく「9月ジャーナリズム」を展開すべきだと提唱しています。
「私はメディア論の学者なので、報道や言論の『内容』だけでなく『効果』に関心があります。内容の真偽や善悪を問題にするジャーナリズム論に対し、効果の程度や射程を問題にするのがメディア論です」
「終戦の日に首相や天皇が反省の弁や世界平和を口にしても、靖国神社に閣僚が参拝する報道とともに伝われば、本心では反省していないと世界からは見られます」
「8.15終戦記念日は、周辺国との歴史的対話を困難にしてきました。いくら私たちが戦後の象徴たる平和憲法にコミットする姿勢を示しても、その前提となる内向きの『あしき戦前』と『良き戦後』の断絶史観は外国と共有されていない。外部の他者に開かれていない空間で、いくら自己反省を繰り返しても、対話なきゲームです。『8.15』をリセットタイムとする日本史において、『戦後』は世界史との経路を遮断され、その記憶は自閉化されています」
「本当に世界史への接続を考えるなら、7月7日(盧溝橋事件)や12月8日(真珠湾攻撃)を国家的記念日にしてもよいでしょう。でも、そんな試みはほぼありません。だったら、8月ジャーナリズムを9月にシフトし、世界標準の終戦日である2日、サンフランシスコ講和条約と日米安保条約の調印日である8日、そして満州事変が勃発した18日まで、新学期の教室でも議論できるものにすべきです」
「もっと言うなら、私の提唱する9月ジャーナリズムは、8月29日から始まります。何の日かご存じですか?」
――……。
「日韓併合記念日です。この日を国恥日としている朝鮮半島だけでなく、戦後しばらくは日本人もみな覚えていましたが、今やすっかり忘却されています。9月1日の関東大震災後の朝鮮人虐殺も、植民地支配を背景にしたものです。戦争と平和についてさらに広く考えるなら、米同時多発テロが起きた『9.11』や、戦後70年の節目だった安保法制の成立日(9月19日)も射程���入れてもよいでしょう」
戦没者追悼と歴史的対話、記念日の分離を
――8月ジャーナリズムは内容的にも、被害や受難の語りに偏重してきたと言われています。
「8月6日や9日、あるいは空襲や引き揚げ、特攻や玉砕の体験は、紛れもなく悲劇の記憶です。それを前提にする限り、報道やドラマの内容が『犠牲』に偏るのは避けられない。侵略や植民地支配の加害性を見つめなくてはいけない、といくら主張しても戦災者には響かないし、この語りの傾向を変えるのは難しいでしょう。お盆の8月15日は、戦前から慰霊と供養の日としても定着していました。宗教的追悼と政治的議論を同時に行うことは、ふつうの人にはなかなかできることではない」
「だから私は、終戦の日を二つに分け、8月15日を『戦没者を追悼する日』、9月2日を『平和を祈念する日』にすべきだと訴えています。8月15日はこれまで通り死者に祈りを捧げ、9月2日は戦争責任や加害の事実に冷静に目を向け、諸外国と歴史的対話をする日にする。政教分離の観点からもそれがよいでしょう。その意味では、9月ジャーナリズムは8月ジャーナリズムの全否定の上にあるわけではなく、その内向きさと情緒性を省みたうえで、理性的で対話的な新たなジャーナリズムを構築する試みです」
歴史対立踏まえ、未来志向のジャーナリズムへ
――戦後生まれが人口の85%を超え、戦争の記憶の継承が課題です。「新しい戦前」というきな臭い言葉も飛び交っています。
「今は『記憶の歴史化』の潮目です。平均寿命に近い80年という時間の経過は、生存者の反証を物理的に不可能にします。そのため、『戦争の記憶』は『記憶の戦争』の中で再編されていく。それは、事実関係よりも表現の効果に人々の関心が向けられていく時代に、今後は突入するということです」
「すでに近年、終戦や戦争をめぐる『歴史のポリティクス』は過熱しています。中国は従来、靖国参拝問題などで歴史カードを切れる8月15日を重視してきましたが、日中の経済力が逆転した2010年代以降、改めて9月3日を抗日戦争勝利記念日と明確に定めました。ロシアも昨年、9月3日を『軍国主義日本に対する勝利と第2次大戦終結の日』と名称変更し、ウクライナを支援する日本を強く牽制しました。歴史戦や情報戦という不穏な言葉を使うのは適切ではないでしょうが、私たち自身が内向きな『記憶の55年体制』に閉じこもっている限り、こうした他国の功利的な歴史利用に対峙することはできません」
「情緒的で紋切り型の8月ジャーナリズムがもたらしてきたものは、現代の戦争や安全保障問題に対するイメージの貧困化です。日本人は『豊かで平和な戦後』において、米国の核の傘の下、周辺国との敵対性を無視することができました。しかし、国家利害の対立が深まるなか、現実に目を背けることは、あまりに反���治的です」
「外交とは、敵対性を討議性へと開く技術です。歴史の対立が存在することを前提に、それならどのような���話が可能なのか、私たちは模索し続ける必要がある。戦争の記憶の問題にメディアが果たす役割とは、本来そうした未来志向のものでなければならない。だからこそ、他者と向き合うための9月ジャーナリズムが必要なのです」(聞き手・石川智也)
佐藤卓己 さとう たくみ 1960年生まれ。上智大教授、京大名誉教授。専門はメディア史、大衆文化論。著書に「『キング』の時代」「言論統制」「八月十五日の神話」「輿論と世論」など。
広島原爆の日の式典、周辺での「平和運動」を締め出しへ 公園一帯で「入場規制」、プラカードやのぼりは禁止(東京新聞)
8月6日の広島市の平和記念式典で、原爆ドーム周辺を含めた平和記念公園の全域に入場規制を広げる市の方針が波紋を広げている。メイン会場から離れたエリアも手荷物検査を受けないと入れず、プラカードやのぼりの持ち込みを禁止。安全対策を理由とするが、法的根拠はなく行きすぎた表現規制との懸念も。背景には近年の平和行政の変質も指摘される。(山田雄之、山田祐一郎)
◆物議を醸した「園内での禁止行為」
広島市は5月、平和記念式典で、入場規制エリアを昨年まで対象外だった原爆ドーム周辺を含む公園全体に広げる「安全対策」を発表した。当日午前5〜9時に入場規制し、6カ所のゲートで手荷物検査を行うとした。
広島市の平和記念公園で、松井一実広島市長(左から5人目)から説明を受けるG7首脳ら=2023年05月
これに加えて物議を醸したのが園内での禁止行為。「式典の運営に支障を来す」としてマイクや拡声器のほか、プラカードや横��幕の持ち込み、はちまきやゼッケンの着用まで禁じ、従わなければ退去を命令することがあるとした。
規制強化の理由としたのは昨年の式典の際、原爆ドーム周辺で市職員に活動家の集団が腕を組んでぶつかるなどした「衝突事案」だ。5人が暴力行為法違反の疑いで逮捕、起訴された。
松井一実市長は記者会見で「参列する市民の安全を最優先に考えての措置」と強調。「原爆ドームや供養塔の周辺で毎年、慰霊に関する行事をしている団体もあると思うが」と問われると、「今までのような集会はできなくなるかと思いますね」と淡々と応じた。
◆「核廃絶の思いを自由に伝えたいと考える人は多い」のに
被爆者たちの受け止めはさまざまだ。広島県原爆被害者団体協議会の箕牧(みまき)智之理事長(82)は「こちら特報部」の取材に「騒動を起こす人がいることも事実。犠牲者を追悼するために厳粛に式典を行いたい。規制は仕方ない」と理解を示す。一方、もう一つの県被団協の佐久間邦彦理事長(79)は「祈る場所は必要以上に制限されるべきではない。反戦や核廃絶の思いを自由に伝えたいと考える人は多い」と話した。
6月上旬、日本ジャーナリスト会議(JCJ)広島は「ゼッケンなどの着用禁止は表現の自由に抵触する。取り消すべきではないか」と市長あての質問状を出した。JCJ広島幹事の難波健治さん(76)は「そもそも式典を巡る問題は騒音だった。いつのまにか安全の問題にすり替わった」と強調する。
◆「条例は関係なく法的根拠はない」
どういうことか。会場周辺のデモで拡声器が使われたことを受け、市が2019年に参列者に行ったアンケートでは、音が聞こえたという人の約6割が「式典に悪影響がある」と回答。市議会は21年、議員提案された「市民の理解と協力の下に、厳粛の中で行う」と定めた市平和推進基本条例を賛成多数で可決した経緯がある。ただ「厳粛」の具体的な規定はなく、県弁護士会などは「市民の表現を萎縮させる」と懸念を示していた。
公園からの退去などを市民に強制できる根拠はあるのか。市の市民活動推進課の担当者は取材に対し、手荷物検査や禁止行為による退去命令について「条例は関係なく法的根拠はない」と断言。「安全な式典にするための必要最小限の規制。表現の自由を制限するとは思わず、あくまでご協力いただくもの」と述べた。プラカードなどを使って平和や核廃絶を訴えたい人については「規制終了後や公園外でしてほしい」と話した。
◆「ここまであからさまな表現の自由の制限は…」
デモの音量に対する「騒音規制」の問題だったはずが、いつの間にか目的が「安全対策」にすり替わったという今回の出来事。広島大の田村和之名誉教授(行政法)は「別の場所から大音量が発せられ���可能性があり、騒音問題の解決になるのか疑問だ」と話す。
「式典が安全に行われることに異論はないが、論理の飛躍だ。差し迫った危険の発生が具体的に予見されるわけでないのに、短時間とはいえ拡声器やプラカードといった表現活動を禁止するのは言論の自由や集会の自由の制限に当たる」と憲法違反を指摘する。その上で「ここまであからさまな行政による表現の自由の制限は最近、目にしたことがない」とあきれる。
松井市長は5月の会見で、衝突事故の再発防止のため、式典会場外の区域も式典会場と位置付けて規制する考えを説明した。田村さんは「式典として使用実態がない場所は自由利用が原則であり、市長の説明は詭弁だ」と批判。都市公園法の原則に反し、正当な理由なく住民の公共施設利用を拒んではならないとする地方自治法にも違反するとした上で「屋外の平和公園で式典を行う以上、騒音は避けられない。行政が必要以上に規制すれば、異を唱える人を排除することになる」と危ぶむ。
◆広島の平和行政が変質していないか
2023年度に差し替えられる前の平和教材の「はだしのゲン」のページ
近年、広島の平和行政を巡っては平和団体が懸念を示す問題が相次いできた。広島市教委は、平和学習教材に引用掲載してきた漫画「はだしのゲン」や、1954年にビキニ環礁で米国の水爆実験で被ばくした「第五福竜丸」の記述を2023年度から削除。市民団体が実施したオンライン署名では、約半年間で削除に反対する声が5万9000筆以上寄せられた。
昨年6月には広島市の平和記念公園と、旧日本軍の真珠湾攻撃を伝える米パールハーバー国立記念公園が姉妹協定を締結。同年9月の市議会で市幹部が、米国の原爆投下の責任議論を「現時点では棚上げにする」と答弁し、被爆者団体などから批判を受けた。今年の式典を巡っても、パレスチナ自治区ガザへの攻撃を続けるイスラエルを招待する方針を表明。ウクライナ侵攻以降、招待していないロシアへの対応との違いを「二重基準」と会見で指摘された松井市長が声を荒らげて否定する場面もあった。
「根拠やプロセスを説明しないという松井市長の政治姿勢が年々、顕著となっている」と指摘するのは広島市立大の湯浅正恵教授(社会学)。「行政は法律や条例の規則に基づいて政策決定をするべきなのに、納得できる説明がない状況が続いている」。7月には突如、来年以降の式典招待国の基準も見直す考えを示した松井市長。湯浅さんは「近年にない特殊な状況」と受け止める。
◆「アメリカのご希望に沿う岸田首相、追従する広島市」
平和記念公園で記念撮影に納まるG7首脳ら=2023年5月
「核兵器廃絶をめざすヒロシマの会」は先進7カ国(G7)広島サミット後の昨年7月、「広島市平和行政の変質を問う声明」を発表し、現状への危機感を訴えた。
共同代表を務める森滝春子さん(85)は「広島市の平和行政の変質は、原爆被害が見えなくなることを望む米国に沿った岸田首相の政策に、市が追従していることによって起きている」と危ぶむ。「G7の広島ビジョンも米国の核の傘の下での核抑止論を肯定する内容。その場所に広島が利用された」と批判する。
今回の入場規制が原爆被害の実相を伝える上での悪影響を及ぼすのではないかと懸念する。「世界や日本から原爆被害者を悼みに来るのに、法的根拠なく入場を厳しく規制すれば、近づかない方がいいという人が出るかもしれない。被爆者が減る中、マイナスの効果しかない。それを止められないのは歯がゆい思いだ」
◆デスクメモ 前に公園内の韓国人原爆犠牲者慰霊碑に足を運んだ。日本は米国の原爆の被害者だが、アジアとの関係では加害者でもある。立場の違いも含め原爆の実相を知り、犠牲者を悼み、核なき世界を願う場と思ってきた。戦後79年の夏空に「NO WAR」と掲げられる公園であってほしい。(恭)
0 notes
Text
話す──イスラエル・パレスチナ「敵」との対話
互いのナラティブを語り合う場を提供する非営利法人の取り組みも近年、広がりを見せている。先駆けとなったのは1994年に米カリフォルニア州で創設された「デジタル・ストーリーテリング・センター」(「ストーリー・センター」に改称)(STORYCENTER. n.d.)だ。「誰にでも語るべき物語がある」という視点から、「深く聴く、物語る」をモットーに少数派のエンパワメントなどを目指す(北出 ct al., 2021.p.128)。アイルランドで誕生し、全世界に広がる「Narrative4」も教育者や学生らがナラティブ交換をするためのノウハウを提供している(Narrative4. n.d.)。「ストーリー・テリングは究極の民主主義」と提唱するこの組織は、国境や境界、性別や民族、貧富の差を超えた語りの交換を目指す。その合い言葉は「今日のストーリーをシェアすれば、明日のストーリーを変えられる」だ。
2000年にデンマークの若者らが立ち上げた「ヒューマンライブラ��ー」は語り手を「本」、聞き手を「読者」と呼び、欧米諸国を中心に広がった。性的マイノリティや難民など主に少数派の人々が自らを「本」としてオルタナティブなナラティブを語る。「日本ヒューマンライブラリー学会」のホームページにはこのほか日本各地の大学や教育機関、市民団体やどでの同様の取り組みが紹介されている(北出 et al., 2021.p.144; 日本ヒューマンライブラリー学会. n.d.)。
イスラエルとパレスチナ間の紛争は75年間も続くが、1995年に創設された非政府組織(NGO)「和平へのイスラエル・パレスチナ遺族の会」(The Parents Cirele-Pamilies Forum = PCFF)は、互いのナラティブの交換を続けている(PCFF.n.d.)。
この会の代表メンバーたちは2003年6月に来日し、フォーラム「和平へ 憎しみを超えて」に参加した(朝日新聞社. 2003)。当時、現地は第2次インティファーダ(対イスラエル民衆蜂起)のまっただ中で、パレスチナのイスラム主義組織ハマスによる自爆テロやイスラエル軍による掃討作戦が続いていた。代表を務めるイツハク・フランケンタールさん(51)は冒頭のあいさつで、組織を立ち上げた経緯をこう語った。
「あれは1994年7月7日のことでした。長男のアリクがハマスによって誘拐され、殺されました。息子を失ってからと、その前とでは、私の人生というのは、全く違ったものになりました。イスラエルとパレスチナとの和解��和平を達成するために自分ができることはすべてやろうと決意しました。息子の死で7日間の喪に服しました。その時、訪ねてきた友人たちに私はこう言いました。パレスチナとの和平は絶対あるはずだ、と。友はこう言いました。パレスチナ人は人間ではない。敵だ。おまえの息子を殺したじゃないか、と。私は言い返しました。『我々とパレスチナの間に平和がないために息子は殺されたのだ。私はイスラエルとパレスチナの間に和解と平和を達成するために最善を尽くす』」
フランケンタールさんは図書館に通い、新聞情報などからイスラエル人の遺族422家族の名前や住所を調べ、手紙を書いた。44家族が彼の考えに賛同し、やがてその数は数百に膨らんだ。パレスチナ側にも数百人の遺族らを訪ね、活動の趣旨に賛同した210家族が参加した。2023年冬までに開かれた会合は500回以上を数える。
フォーラムのパレスチナ側代表はパレスチナ自治政府社会福祉省に勤務するリハブ・エサウィさんが務めた。イスラエル軍による攻撃で弟、婚約者、母、甥を失い、自身も4回投獄されて復讐を誓ったこともあった。だがその後、フランケンタールさんと出会った。
「彼らの活動を見て自分の居場所はここだ、自分も何か貢献できるのではないかと思いました。以来、和解と平和を目指して自分がすべてをなげうって会の活動を支えてきました。我々の力はささやかなものでしょうが、いつしかこの状況を変えられるかもしれません」
過去の「遺族の会」ではハプニングも起きた。
兵役を終えたある大学生が参加し、その場で告白した。「ガザ地区で任務に当たっていた時に、ひとりのパレスチナ人を殺してしまいました。4、5年前です。それ以来、眠れなくなりました。」するとパレスチナ人の母親が立ち上がり「この人殺し。私の息子を殺したんだろう」と叫んだ。フランケンタールさんは駆け寄り、「あなたの息子さんを殺した人を私がここに連れてくると思いますか」と語りかけた。互いのナラティブに耳を傾ける2日間のプログラムが終了すると、この母親は学生にこう話したという。「私は、あなたを私の息子にしたい」。フランケンタールさんはフォーラムで当時を振り返った。
「これなんです。我々がやっていることは。たやすいことではありません。実に難しい。それぞれが国を愛するがゆえにやっているのです。私は息子を失いましたが、恐怖感も、憎しみもなく、和解を実現したいだけです。双方のすべての人がそんな境地になれるはずだし、そうなってほしいのです」
フォーラムでは、防衛大学校教授(当時)の立山良司さんが基調講演者をした。立山さんは長年、イスラエル・パレスチナ間の紛争解決にさまざまな場面で尽力してきた。フォーラムの開催から20年を経たいま、イスラエルではかつてないほと極右の政権が誕生し、和平への道はかたく閉ざされたままだ。それ��も双方の遺族がナラティブ交換の場を持ち続ける意味はあるのだろうか。私の質問に立山さんは、「相手も普通の人間なのだということが分かる。それだけでも意義があると思います」と答えた。
市民と市民がひざを交えて語り合う。それはいわば、ボトムアップの和平への取り組みだが、国際社会では政治的な「トップダウン」の和平交渉にばかり重心が置かれやすい。
だがそれだけでは本当に持続可能な和平は実現しない。
1995年11月にイスラエルで起きた暗殺事件はそれを裏付けるものだった。パレスチナ国家樹立を目指す「オスロ合意」が締結された2年後、イスラエルのラビン首相がユダヤ教過激派の青年に暗殺された。当時のイスラエル国内には、「パレスチナ国家の建設なんでとんでもない」といった反感や憎悪が漂っていた。
事件を機に和平への機運は一気にしぼみ、四半世紀以上経った今も回復していない。ボトムアップのアプローチを軽視したトップダウンの1本打法では、和平は1ミリたりとも前進しないのではないか。私の問いに、立山さんはこう語った。
「ハマスのナラティブにしろ、ユダヤ教過激派のナラティブにしろ、相手を悪魔化するというか、そういう扇動、洗脳といったものが、互いに相手を知らないと、市民の間で受け入れられたり拡大したりしてしまう。そういう言説、ナラティブは政治的な和平の進歩があってもそれを内側から掘り崩してしまう。ラビン首相を暗殺したのは非常に過激な宗教的なナラティブだった。ああいう過激なナラティブを生まない、生まれても社会がある程度コントロール下に置けるような状況ができていないと和平交渉は進まない。相手の考えることが分かるようになっていれば、和解はより可能になる」
東京学芸大学名誉教授の野口裕二さんは「対立」とナラティブの関係性についてこう述べている(野口. 2009b.p.275)。
「われわれは、『対立』や『問題』に出会うとどうしたら『解決』できるかをすぐに考えてしまう。そして、そのためには、問題の構造と原因を客観的に分析することが何よりも重要と考え、事態を『三人称の主語』で記述しようとする。このとき、『一人称の主語』の物語は周辺へと追いやられ、語られないままに終わるか、語られても聴かれないままに終わる。しかし、『対立』や『問題』は客観的な原因だけでできあがっているわけではない。そこにはさまざまな『物語』が絡まりあっている。したがって、われわれはまず、それぞれの『物語』を互いに『理解』しあうことから始める必要がある。ひとつの『正解』を発見することを目標にするのではなく、差異や多様性を『理解』すること、そこから『和解の物語』や『希望の物語』へとつながる道が見えてくる」
『人を動かすナラティブ──なぜ、あの「語り」に惑わされるのか』 大治朋子 著 毎日新聞出版 2023年6月30日発行
0 notes
Text
まず、この問題について多くの人が誤解しているのは、クルド人問題は他の外国人の場合とかなり違う事情があるということなんですね。
いわゆる正規の「在留資格」を持った人ではない人がかなり含まれていて、実態としての人数も把握しきれていない。
ちょっとあえて批判的な言い方をすると、査証免除措置(トルコ国籍者は観光ビザも不要)で来日したあと、そのまま勝手に居着いてしまって既成事実化し、「難民申請」をすることで「申請中」の宙ぶらりんの状態で長期間滞在して子供も産んで…という形になっているクルド人が多いってことなんですね。
そのあたり、川口市の他のメジャーな外国人集団である中国・韓国・ベトナムの人々とはかなり違う状況なんですよ。
ここはきっちり摘発をして欲しい。ルール違反は強制送還だよ。
1 note
·
View note
Text
満天の朝焼け (2)
彼は男の相談をされると思っていなかったので少々面食らったが、それだけ自分のことを信頼してくれているということだろうと思い、少し誇らしくなった。思えば在学時代から大学という場所は人間関係の治外法権のような部分があって、個人的に所属したうえで活動する部活やサークルはその坩堝のようなものだった。それゆえの問題も多くあるのだろうが、個人的には好きな環境であった。
「分かりました。その交際相手のことを教えてください」
数分後、早くも連絡が来た。マメなのだ。
「ありがとうございます。しかし、現在の状態を説明するのは難しく、大変厄介なので、明日にでもまとまった内容のメールをお送りすることになると思います。それでよろしいでしょうか。ひょっとしたら、明後日になるかもしれません」
「はい、それでいいですよ」
真司は返信を行った。思ったよりハードな展開になったなと思いつつもまぁ、いいかと少しのんきだった。
彼は弁当を買ってきてからテレビのバラエティーを眺めながら食べ、翻訳の仕事に取りかかった。真司は明治学院大学の文学部英文学科イギリス文学コースを履修卒業しており、英語の発話スキルはネイティブの高校生に及ぶほどであり、西洋文学への理解は専門家レベルに達しているだろう。
彼が翻訳を担当するのは都内にある映像制作会社が配給を請け負う最新の映画やドラマであり、主にアメリカ合衆国が製作しているものである。最新のコンテンツに触れたうえで金が得られるというのはおいしい職業だと感じていたし、彼はもともと国内外の映像作品を好んでよく見ていたのだ。さらに自己表現の機会をも得られることはありがたかった。彼は文学は作家性に他ならないという理念を持って大学で文学を学ぶことにしたのである。ただし、雇用形態は派遣社員であり(所属先が映像制作会社ではなく人材派遣会社)、ウーバーの配達員という現在の仕事含め、いささかだらしのない風じんに思われてもしかたないであろう。
ウーバーの配達業務が終わり、千代田区神田のマンション、ガーラ・グランド神田に帰ってきたのは午後五時半ほどだった。家賃は十三万円でトイレと風呂が別で、それからキッチンが玄関に鎌の柄のように手前に配置されており、とスタジオと呼ばれる縦に長い十畳のリビングダイニングがあり、そこにベッド、ソファー、テレビ、書棚といった諸々の家具、家電を置き生活している。立地と周辺住民の生活レベルから考えると非常にに安いマンションであるといえるだろう。それに彼は読書量が尋常ならざるほど多い。特に海外文学や洋書が多く蔵書として保管されていることが、やや、悩みの種だ。貸し倉庫が必要かもしれない。
先ほど来ていることを確認したメールを開く。
「2023年2月14日16時32分 件名:昨日の件です。
彼氏からのハラスメントに悩んでいます。彼とは一年前から交際していますが、たびたびの性差別と手のひらであたまをはたくといった勢い任せの行動が常態化しています。更に嫉妬深く男性と会ったと分かれば、その人との関係を事細かにに詮索してきます。友達に相談しましたが、自分で何とかするしかない。それか別れればいいのでは、と問うてきます。そういうのがうんざりで、あまり親交の深くない真司さんに相談した次第です。どんな簡単なアドバイスでも頂ければ幸いです」
真司はやや思案した。これはたしかに厄介な問題を打ち明けているようではあるものの、あまりにも陳腐な内容でありそれほど差し迫った案件でもないと感じた。これはオードリー・ヘップバーンであり、フィフティーズ調のわざとらしさなのだ。やはり知り合いがスパムメッセ―ジを送ってきているのだろうか、と思った。しかし重要なのはそのようなスパムメッセージを送ってくる人物の頭の中身だろう、ということになる。なので大丈夫だ。彼はそこまで考えた。
以前から知っていた問い合わせ先を紹介することにする。
「例えば僕が住む千代田区ならば、人権擁護委員が設置されているので、そのような行政サービスに頼むのも手だと思います。あるいは親御さんに相談するなりしてみてはどうでしょうか。お住まいはどちらですか
(URL)」
数分後返信が来た。
「現在、実家のある葛飾区で両親と祖母の四人暮らしです。なるほど、ご返信の件、考慮に入れさせていただきます。わざわざありがとうございます。なお、このことはくれぐれも内密にして頂きたいです。よろしいでしょうか」
真司は返信した。
「はい、他言しません」
彼は昨日と同じく、翻訳作業に取り掛かる。アメリカ合衆国のテレビドラマの翻訳である。締め切りが一か月後で、すでに半分ほど終わっているので、余裕で間に合うだろう。
渋谷駅の改札をくぐると、人がごった返している。これは多くの国民が知ることだが、実際にその場に居合わせると、ここには不思議な秩序があると思わさせられることになる。それはたしかに不思議さなのだ。すなわちここにある喧騒の性質が、である。駅前の大型ビジョンや大量の照明で照らされた広告群を見ていると「ブレードランナー」のような近未来的表現が思い浮かぶが、それはまんざら連想止まりではなく、実際にそのような都市開発がなされているのだ。いわばそれがこの自治体のスタミナであり、よもすればこの国のスタミナでもある。政権与党の一部の者が采配すれば、街の風景を変容させることなどたやすい。あるいは特定個人の人格でさえも。法的規制と予算配分業務の力は未来を切り開く。実際のところ、少なくとも真司が務める某映像制作会社はそのような荒唐無稽とも思えるイノベーション指向と、軽薄さで運営されているのだ。実際にこの街は前世紀九十年代に、エポックな発展と影響力を成し遂げ、かつ実現した。今でも国民はその恩恵を受けている。これがこの渋谷という街の理論的な実情である。「チルドレンオブメン」ならぬ「チルドレンオブエルディーピー」かな。
すでに日も暮れており、夕食も済ませた。目当てのクラブイベントは十時に開場開演なので、109横のハンバーガーチェーンロッテアリに入る。ここで一時間ぐらい潰そうか。
彼は渋谷のクラブ後方に敷き詰められるように設置された茶色のソファーに腰掛けながら、先ほどからDJブースとそれから、テーブルのそばに立ちながら、酒もしくはドリンクを少しずつ、しかし軽快に飲む女を交互に眺めていた。DJは曲を流し続けており、表情は見えないが、まんざらでもないといったところだ。さながら公民館の出し物である。
0 notes
Text
「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和六年(2024)2月15日(木曜日)
通巻第8133号
米国へ中国人の不法移民は三倍以上。エクアドルから密林を越えて
中国人はなぜ国を棄てるのか? なぜ遠きアメリカへ行きたがるのか
*************************
ロシアのウクライナ侵攻が始める前まで,中国マフィアとウクライナの犯罪組織が組んだ「人間の密輸」ルートがあった。
ウクライナと国境を接するハンガリー、スロバキア、モルドバ、ポーランドを経て、いったんEU加盟国に這入り込んでしまえば「シェンゲン協定」によって欧州域内の移動は自由になるためドイツ、フランス、伊太利亜などを目指した。
次に狙われたのはギリシアンのピレウス港でコンテナターミナルの管理運営権を中国は30億ドルで買った。コンテナに隠れての密航が取りざたされた。
独仏伊ばかりかオランドにも、いやシチリアにもチャイナタウンが出来た。アムステルダムのレッド・ライト・ディストリクト(赤線地帯)は世界に悪名高いが、あの地域は事実上のチャイナタウンに変貌している。ちょっと裏道へ入ると、驚き桃の木、道教寺院、中国料理レストラン、妖しげな飲み屋が集中している(小生も撮影に���きました)
コロナ禍でEU諸国の国境検査が厳しくなり、さらにウクライナ戦争でウクライナ・マフィアの暗躍の場所が失われ、次に中国人が目指したのは米国だった。といっても米国にはすでに450万人ともいわれる先住の中国人がいる。かれらは苦力(クーリー)の時代に米国へ渡った中国人が,ゴールドラッシュが終わったあと、サンフランシスコやロス、シアトルなどに形成したチャイナタウンに居着いた。
その足場を元に労働力の補給として紛れ込んだ,半ば合法の移民と留学生がそのまま居着いた「新移民」がある。たとえばNYのカナルストリート周辺は古くから拓けたチャイナタウンだが,広東省出身者が主力で、新移民たちは新たにラガーディア空港近くのフラッシングに新チャイナタウンを構築した。
米中経済摩擦が激化し、トランプ政権からの規制強化で学生ビザは一年ごとの審査となったうえに入国拒否となるケースも続出し、なかなか困難になった。観光ヴィザでの入国は殆ど不可能となった。ヒューストンの中国領事館も、全米の大學に設置されていた孔子学院も廃校となった。
それ以前にアフリカや中東諸国に住み着いた中国人というのは「一帯一路」で派遣された労働者が、そのまま帰国せずに定着したケースが多い。いまやドバイにまでチャイナタウンがある。
▼コロンビアの密林を経由する闇のルート
さて米国である。
中国企業並びに中国人排除は、ウォール街における中国企業の上場数が象徴する。一時は500社を越えた中国企業のNY株式市場上場は、かれらの錬金術の戦場でもあった。その後、ランキン珈琲などのインチキ決算や不正経理、企業情報の不透明などがばれて、上場が難しくなった。
2024年一月時点での中国企業のウォール街上場は2022年比で17・5%減の265社となった(一覧は下記報告書の8pから26p)
2022年頃までは年間一万人前後がメキシコから不法入国していた。中南米諸国のヒスパニック系に混ざって,ベトナムやアフガニスタンからの亡命希望が多かったが,中国人も混じっていた。年間一万人ほどだった。
米国では『亡命申請』をすると、ほぼ滞在が認められる。強制送還に中国が応じないため、メキシコを超えてアメリカに入りさえすれば、亡命は成功なのだ。
23年8月時点で不法入国のなかの『亡命希望』は130万人、このうちの10万人が中国人だった。
異変は2023年から起きた。中国経済が「心肺停止」状態となって、ネットでは「走線」や「潤出去」(豊になるために国をでよう)という語彙が頻出する。密輸斡旋業者が、密航を手伝う。
凡そ37000人強がアメリカに亡命もしくは難民申請あるいは不法入国に成功し、そのままドロン、かれらは全米各地のチャイナタウンにすぐに溶け込む。この流れ込む中国人の新移民を救援する組織もあって衣食住には困らないことになっている。
急増の理由がコロナ禍とは無縁で、職を失った人が多く、主因は政治的要素ではなく経済的理由である。新たな稼ぎ場を求めての逃避、現地を取材した記者によれば『不動産販売委員だった中国人が目立つ』という。
かれらの「走線」の典型的ルートはまずビザが不要のタイへでて、それからエクアドルへ空路で向かう。エクアドルも中国人にはビザ免除措置を講じているからだ。
エクアドルから斡旋組織に依頼して、メキシコまで3700キロ。密林や難所を抜け、治安の悪いコロンビアを通り、舟などでメキシコへわたる。こうして平均一人5000ドルの大金をかけて、命がけで「アメリカン・ドリーム」の国に行きたがるのである。
だがアメリカは中国より治安が悪い。その上、猛烈なインフレで物価が高い。子供連れなら学校と言語の問題もある。そこまでして何故アメリカへ行きたいのか? 日本人から見れば理解不能だろう。
答えは簡単である。
中国は人間尊重という理念がなく、なにごとにも不自由で、永久に住みたい国ではないからである。
嗚呼,悲しい中国人!
2 notes
·
View notes
Text
ウクライナ関係のエントリのまとめと私見のまとめ
今までに投稿したウクライナ関係のエントリをまとめておく。
ウクライナ侵攻について
「プーチンは狂人でもナショナリストでもない」 佐藤優が読み解く「暴君」の“本当の狙い”
ウクライナ侵攻について2
プーチンのウクライナ侵攻、実は25年前から「予言」されていた…!
「キエフ制圧」でもロシアの泥沼は続く、アフガン、チェンチェンの二の舞いに
ウクライナ侵攻について
対露戦略と対中戦略の齟齬
ウクライナの半導体製造用ガス2社が生産停止、世界供給の約半分カバー | REUTERS
ロシア・ウクライナ戦争の和平を実現するために「最も重要なモノ」
ウクライナ戦争は世界の経済覇権をどう変えるか
ウクライナ戦争の影で中国が手に入れる「利権」
ウクライナ侵攻、膠着の原因と今後の展開
ウラジーミル・プーチン
ウクライナの英雄に? 無人機「バイラクタルTB2」大活躍 “バイラクタルの歌”が愛国歌に
停戦の条件はどのあたりか
ロシア軍、キエフ周辺から2割近くを再配置 米分析: 日本経済新聞
ウクライナ情勢2022/04/01
ウクライナ戦争「アメリカが原因作った説」の真相 | ウクライナ侵攻、危機の本質
ウクライナ戦争「数年単位」 東欧での基地拡大を提案―米軍トップ
長引く戦火が世界の人々の生活に与えうる悪影響 | ウクライナ侵攻、危機の本質
プーチンの意図する「非ナチ化」とは
「プーチンは何も諦めていない」佐藤優が明かす「ロシアが狙うウクライナの急所」
[書評]現代ロシアの軍事戦略 小泉悠
ウクライナ侵攻状況2022/05/19
エマニュエル・トッド氏「第3次世界大戦が始まった」
エマニュエル・トッド氏「日本はウクライナ戦争から抜け出せ」
以下は自分の私見のまとめである。
今回のウクライナ侵攻に際して日本はロシア叩き一辺倒である。形式的にも実質的にも侵略戦争であり、ロシアを非難するのは当然である。しかしだからといって、ウクライナが絶対正義であるとか、ウクライナが単純な被害者だとかいう見方は正しくないし、ウクライナを後方から指示するNATOが正義というわけでもない。国際外交や歴史は複雑なものだ。いい大人がそういうことをわかっていないということは残念な話である。
そもそもウクライナ侵攻の火種はNATOの拡大にはじまる。冷戦終結期、ソ連のゴルバチョフは「NATOがドイツよりも東に拡大しないのならば」という条件で東西ドイツの統一に同意した。当時のNATO事務総長も、米国務長官も、独首相も類似の発言をしている。しかしこれは正式な条約ではなく、結局NATOはドイツより東に拡大しつづけることになる。かつてソビエト連邦に属していたバルト三国、東欧4カ国、バルカン諸国が次々にNATOに加盟していくわけだが、これに対しソ連崩壊後のロシアは安全保障上の危惧を抱いた。
そもそもNATOは強大なソ連軍に対抗するための軍事同盟である。したがってソ連が崩壊したならば理論的にはNATOは不要になる。しかし、実際にはNATOは存続した。理由はいくつか考えられる。NATOには他にも目的が���った。ドイツの軍事力を抑え込むこと。アメリカが欧州をコントロールする手段を確保すること。また単純に、これほど大規模な同盟を作ってしまうと、解体するのにもかえって混乱を招くからあえて解体しないという消極的な理由もあっただろう。
しかし、これほど大規模な軍事同盟は多額の予算を食う。そんな同盟を維持するには何らかの目標、平たく言えば仮想敵が必要だ。そしてソ連なきあとNATOの仮想敵国になりうるのはロシアしかいない。したがってソ連崩壊後のNATOはロシアを仮想敵とした。のみならず、NATOは旧ソ連諸国を次々に加盟させて東方拡大していった。
NATOとしては、必ずしも積極的に東方拡大するという意図はなかったかもしれない。むしろバルト三国、東欧4カ国、バルカン諸国のほうが、ソ連から離れて軍事同盟を失っていたから、安全な庇護者としてNATOへの加盟を熱望していたという要素はあっただろう。しかもこれらの国々は、NATOに入ることでEU加盟、ひいては経済支援も期待できるのだから、当然といえば当然である。一方のNATOとしては単にオープンドアポリシーに則って彼らを受け入れただけなのかもしれない。90年代~ゼロ年代初頭には、NATOを構成する欧米諸国もロシアのことをさほど脅威とは認識していなかったようなフシもある。実際のところはNATOも一枚岩ではないはずで、その思惑は様々であっただろう。
ロシアは広大な国土を持つが、多くの国と陸続きである。したがって防衛するのがけっこう難しい。歴史的にもナポレオンやヒトラーに攻め込まれた経験を持つ。このため、ロシアは伝統的に戦略縦深を確保することを基本姿勢としてきた。具体的には、モスクワと他国との距離を確保し、一度攻め込まれても追い返せるだけの緩衝地域を設けることが必須条件であった。ソ連時代にはバルト三国、東欧、バルカン諸国が緩衝地域としての役割を担っていた。ところがこれらの国々がNATOに鞍替えしてしまうと、緩衝地域が敵の攻撃拠点となってしまう。モスクワを守る装甲が、モスクワを攻める銃に変わってしまったわけである。
したがってNATOの東方拡大は、ロシア側から見ればロシアへの敵対行動にしか見えなかった。だからロシアはNATO拡大に対して苦情を言い続けてきた。グルジア(のちジョージア)がNATO加盟を希望した際には、ロシアがグルジアを徹底的に叩き、同国のNATO加盟は棚上げとなっている。これはNATOへの警告でもあった。しかし、欧米はロシアの警告を無視し続けた。
最後に残ったロシアの緩衝地域が、ベラルーシとウクライナである。ロシアはベラルーシとの関係を強化することに成功したが、ウクライナはうまくいかなかった。ウクライナはもともと権威主義的な親露派政権だったが、欧米がウクライナにコナをかけ(ゼロ年代末以降、米独の政治家が何度もウクライナを訪れていた)、2014年のウクライナ危機が発生する。
ウクライナ危機では、ウクライナの親露派政権に対して、親欧米派が反政府デモを組織し、大統領が亡命するという事態になった。新たに大統領を選出したウクライナは、EUやNATOへの加盟を志向する。ウクライナがNATOに加盟するとなれば、ロシアに喧嘩を売るようなものだ。そのことはウクライナ側もわかっていただろう。
しかし、ウクライナは親欧米派一色に染まったわけではない。このときクリミア編入とドンバス戦争が発生する。
クリミア半島は帝政ロシア時代からロシア黒海艦隊があり、ソ連時代もソ連の軍港があったし、ソ連崩壊後もロシア海軍の軍港として機能していた。ロシアとしてはクリミア半島を失えば貴重な不凍港を失うことになるため、秘密裏に特殊部隊を送り込んで軍事拠点を制圧、クリミア半島の海軍司令官がすぐ投降してしまい、のちにロシア海軍にスライドする。さらにロシアはクリミア議会を掌握して独立宣言させたのち、ロシアへの編入を問う住民投票を実施させた。その結果、クリミアはほぼ無血でロシアに編入されてしまった。この編入は西側諸国からの非難を浴びたのだが、もともとクリミア半島はロシアの軍港として長らく機能してきたことから、ロシアへの編入に反対する住民は少なかったようである。要するにロシアの情報操作や工作がなくとも、当の住民が編入を歓迎していたわけだ。西側としては国際法の建前上、承認できないと言い続けるしかないのだが、住民の大半が歓迎している以上、現実問題としてはどうしようもないというのが実情である。
かたやドンバス戦争は複雑な経過を辿った。ウクライナ東部のドンバス地方はロシア語話者が多く、政治的にも親ロシア的な住民が多い。親欧米派政権に反発した東部の親露派住民は、ドネツク人民共和国、ルガンスク人民共和国を名乗り、政府軍との内戦に発展する。背後ではロシアが兵器供与を行ったり、特殊部隊による訓練を行っていたが、戦争の主体はあくまでウクライナ東部の親露派が主体であった。つまりドンバス戦争は、ウクライナ国内の内戦であったということになる。
ドンバス地方がクリミア半島と違ったのは、ロシア語話者の割合がクリミアほど圧倒的ではなかったこと、ロシアがドンバス地方の編入を望まなかったことである。最終的にはロシアとフランスが停戦を仲介し、ドネツクとルガンスクを自治共和国とするミンスク合意が締結された。ロシアとしては、両共和国が「ウクライナ国内の自治共和国」という扱いになれば、ウクライナのNATO加盟に反対してくれるので、ロシアの安全保障上のメリットが大きい。ドンバス地方の親露派としては、自分たちの政治的立場が認められる。一方で親欧米派政権は、停戦のため一度はミンスク合意を受け入れたものの、外交上の自由度を制約されることになることを嫌って履行を先送りしていた。親露派とロシアはこれに不満を蓄積させ、結局ミンスク合意は履行されないまま大統領選を迎える。
新たに大統領に選出されたゼレンスキーは、ウクライナの大学で法学を専攻しながらコメディアンになり、テレビで政治ドラマを作って人気を博したという異色の政治家である。それが前の親欧米派政権を徹底的にこき下ろして大統領になったわけで、わりと典型的なポピュリズム的な政治家と言えるだろう。ゼレンスキーは当初はロシアとの対話を意図したようだが、ロシアは再交渉ではなくミンスク合意の履行を迫ったため、ゼレンスキーも強硬路線に切り替えることになった。
そして2022年、ロシア軍のウクライナ侵攻を迎えることになる。
ロシア軍は当初、速攻でドンバス地方とキエフの制圧を狙ったが、ウクライナの防空網を潰しそこねたことで制空権を取れなかった。さらにウクライナの穀倉地帯が雪解けで泥濘化し、さらにウクライナの橋落とし等で移動ルートを制限されたロシア陸軍は、ウクライナの無人攻撃機による爆撃、さらにラジコン式マルチコプターを活用した誘導兵器、欧米から供与された携行対戦車ミサイルにより足止めされ、キエフ攻略を断念する。逆にロシア語話者の多いドンバス地方はほぼロシアが制圧し、ロシア軍はドンバス地方・クリミア半島を拠点として黒海沿岸を奪取する方針に切り替えている。ロシアが黒海沿岸の占領に成功すれば、ウクライナは海軍の拠点と貿易拠点を失うこととなり、穀物の輸出が難しくなる。ウクライナは世界の胃袋を支える穀倉地帯であり、そもそも今年の作付けが怪しくなっているところだから、世界の食糧事情も大きな影響を受けるだろう。
日本を含めた西側諸国は、経済制裁を発動しているものの、欧州がロシア産天然ガスに依存しているために部分的な制裁にとどまっており、ロシア経済はさほど影響を受けていない。かといって軍事介入ができるかというと、ロシアは核保有国であり、核抑止論の観点で言えば「核保有国同士は戦争ができない」ので、NATOは軍事介入することができないし、今からウクライナをNATOに加盟させることは不可能である。ことここに至って、NATOは身動きできない。
以上を振り返ってみれば、問題は以下の2点に集約できるであろう。
①NATOが東方拡大し、ロシアが脅威を��じたこと
②ウクライナが国内問題を解決できなかったこと
①についてはすでに述べたとおりであるが、②については捕捉しておこう。ウクライナはエマニュエル・トッドが「問題は英国ではない、EUなのだ」(文春新書)で指摘したように、「ウクライナは、国民国家として半ば崩壊している社会」であった。要するに、親欧米派が反政府デモで政権を奪取したとはいえ、国内にロシア語話者の親ロシア派住民が生活していることは確かで、正反対の意見を持つ人々が同じ国で生活しているのだ。両者が何らかの合意をするしかなかったのは確かで、ミンスク合意は妥当な落とし所であったのだが、そこで妥協できなかった。
とはいえ、今回の戦争は形式的にも実質的にもロシアによる侵略である。したがってNATOもウクライナも、ロシアの行動を認めることはできない。しかしウクライナは戦争が長引くほど自国の農業、工業、経済が疲弊していく。一方、ロシア軍はグダグダっぷりをさんざん晒されているが、それなりの戦果を上げているし、経済制裁もろくに効かないから、ロシアが兵を引くとは思えない。時間はロシアに味方するから、停戦協議に応じる可能性は低い。そうなると今後の予想としては、この戦争は停戦もない恒久戦争になり、ウクライナはじわじわと締め上げられていくだろう。予想できないのは、ウクライナの重要拠点であるオデーサ(オデッサ)がどうなるかだ。オデーサが維持できればウクライナは戦えるが、陥落すれば戦争の継続が困難になるだろう。いずれにせよウクライナ有利で終わるということは考えにくい。ウクライナが有利になるためには、たとえばプーチンが急死するようなイレギュラーな事態が起きるくらいのことが必要である。
2 notes
·
View notes
Text
ロシアが機密映像を解禁
1961年10月30日、ソビエト連邦が開発した人類史上最大の水素爆弾「ツァーリ・ボンバ(Tsar Bomba)」をノヴァヤゼムリャ上空から投下した実験映像をロシアは機密解除し公開した。正式には「RDS-220」で広島と長崎に投下された原爆の1500倍の威力。
youtube
その40日後の同年12月10日にはアメリカも核爆弾の実験に成功している。
youtube
日本は翌日の10月31日に当時の総理大臣池田勇人がソ連のフルシチョフ首相に抗議している。
【抗議内容】
ソ連邦政府が十月三十日超大型爆弾の実験をついに強行したとの報道により,私はこれまでにない大きな衝撃を受けました。
日本政府は,核実験に対し繰り返えし抗議しソ連邦政府の反省を強く求め,また国連も決議を行なつて実験の中止を要請してきましたが,閣下がこれらの抗議や実験中止の要請になんらの考慮を払うことなく今回空前の核爆発実験をあえて行なつたことを衷心より遺憾とするものであります。日本国民の憤激は名状すべからざるものがあります。
閣下は常々平和共存の政策を唱えておりますが,今回の暴挙は世界人類の平和の希望を踏みにじる力の外交を赤裸々に示すものと云わざるをえないのであります。
私はソ連邦政府による一連の強力な核実験が世界の平和と人類の安全を脅威するものとしてその重大なる責任をここに更めて指摘し抗議するものであります。
日本国総理大臣 池 田 勇 人
【11月9日フルシチョフ首相書簡】
日本国総理大臣 池 田 勇 人 閣下
本年十月二十八日および三十一日付けの貴簡を受領しましたので,貴下に回答を寄せたいと思います。
貴下が,全人類のために平和を堅持し,擁護することを唯一つの目的とするソ連邦政府の措置を評価するに当つて客観的な態度をとる希望を示されなかつたことを遺憾に思います。このことに,米国およびその同盟諸国の軍事・政治体制に対する日本政府の愛着のほどが表明されているようにみえます。
貴下は重ねて,ソ連邦の立場につき根拠のない断定を下して,われわれが自国の防衛力強化のために余儀なくとつた諸措置が「力の外交を暴露する」ものであるかのように述べてさえおられます。
これが正しくないことは,もちろんであります。われわれは,長い熟慮の後にしぶしぶ核実験再開の挙にでたのであります。われわれをしてこの挙にでるのを余儀なくしたものは,力の政策を実際にとつているNATO加盟諸国がつくり上げた情勢であります。われわれが他の行動にでることのできなかつたことを,貴下自身においてもお考えのうえ,御理解をえたいものであります。
現在における枢要な問題は,全面完全軍縮であります。この問題に関する合意を達成することは,核実験,核兵器一般に関する問題をもことごとく解決するでありましよう。
ソ連邦政府��代表たちは,国連における代表をも含めて,もし他の列強が全面完全軍縮に進むならば,単にあらゆる形態の核実験が停止されるばかりでなく,われわれは,その保有する核兵器の一切の貯蔵を喜んで海中に投ずるであろうと一度ならず言明してきました。
ソ連邦政府は短期間に全面完全軍縮を実現すべき具体案を国連に提出しました。しかしながら,西欧列強の立場にたつて,今日までこのような重大な問題についてなんら実際的結果が達成されるにいたつていないのであります。
この関連において,日本政府がわれわれの計画を支持されず,軍縮に関する具体的方策の作成につき熱意を示されなかつたことを指摘せざるをえないのであります。日本の国連代表は,言葉のうえでは軍縮の重要性を認めてきましたが,実質的には,今日の諸条件の下では軍縮が不可能であることを立証するためにその努力を傾けてきたのであります。本年十月二十八日付けの貴簡によつて判断すれば,日本政府はいまもつて全面完全軍縮を遅滞なく実現する必要があることを考慮しようとしていないのであります。
日本政府は,米国と新たな軍事条約を締結して,意識的に極東情勢を複雑化する挙にでました。この条約は,米軍による日本占領を維持することを米国に許しました。日本の領土は目の細かい米軍基地網で蔽われました。米国軍部は,南朝鮮にも根をおろし,中国の島である台湾を保持し続けています。核ロケットを含む近代兵器の予備が強度に蓄積されています。米軍が東方からソ連邦とその友邦および同盟国たる中華人民共和国および朝鮮人民民主{前1文字ママとルビ}共和国とを脅威するために,これらの地域に駐留していることは誰にも明らかではないでしようか。
ソ連邦政府は,米・���軍事同盟の締結が日本を危険な道に押し進めるものであることに対し,一再ならず日本政府の注意を喚起してきました。しかしながら,日本政府はこれを考慮しないで,西欧列強,特に米国によつて実施されている戦争準備のますます積極的な参加者となりつつあります。
われわれが一再ならず,極東および全太平洋地域における非原子地帯の創設に関する提案を行なつたことを想起せしめることも時宜に適することであります。米国による原爆の惨禍を経験した日本は,このような地帯の創設に他国に劣らない関心を寄せるべきであるように思われます。しかし,日本政府は,このわれわれの提案をも拒否しました。いまや,極東は,平和地帯に代わつて,日本の直接参加のもとで,戦争の危険な火元の一つになりつつあります。
また,十月二十八日付けの貴簡でなされたドイツ問題に関するソ連邦政府の立場を歪曲した姿で示そうとする試みも看過することができません。われわれは,対独平和条約の締結およびこれを基礎とする西ベルリンにおける状態の正常化に関するわれわれの見解をすでに一再ならず申し述べてきました。ソ連邦政府がドイツの軍国主義および報復主義に対する確実な障壁をつくるために,欧州の中心部における戦争の脅威の危険な火元をなくすために,ドイツ問題の調整に努めていることは周知のとおりであります。
しかるに,西ドイツの軍国主義および報復主義の抑圧を目的とするソ連邦のこれらの措置に対して,西欧列強は何をもつて答えたでしようか?われわれが対独平和条約を締結した場合にはNATO列強は実力を行使するであろうとの威嚇が,すでにここ数ヵ月間も全世界に聞え渡つております。この列強によつて展開された戦争準備は,これを考慮に入れなくてもよいというような単なる口先だけの威嚇でないことを物語つています。米国官辺筋の人々は,米国が核兵器をも使用しうる旨を直言しています。西欧列強のこのような行動が国際情勢を極度に灼熱化したことは,もちろんであります。われわれは,それでもなお寛容を示し,ソ連邦の安全を十分に確保するために必要な措置をとらないことができましようか?いや,できません。
ボンの報復主義者およびその庇護者たちと連携するものは,平和の事業に対して良くない奉仕をなしています。
われわれは,米国およびその同盟諸国が軍事侵略諸ブロックを組織し,われわれを軍事基地で包囲し,社会主義諸国および他の平和愛好諸国家に対する挑発を行なつてきたとき,日本政府が抗議したということを耳にしたことがありません。
われわれは,米国および英国が太平洋にある日本の島々の直接近辺で,核爆発を実施してきたとき,日本政府の声を実質上,耳にしなかつたのであります。日本政府がその西欧友邦に送るわざとらしい形式的な書簡をまじめに受け取ることはできないのであります。仏国がサハラで原子兵器の実験を行なつたときでも,日本政府の声はほとんど聞かれなかつたのであります。しかして,われわれがわれわれに対する露骨な威嚇に直面して,ソ連邦の安全を強化する措置をとつているとき,日本政府は,ソ連邦に対して敵意ある運動を煽るのに努めております。
総理閣下,私は貴簡についても,ソ連邦政府に圧力をかけ,われわれの防衛力強化を放棄することを強いようとする試みであるとのほかには,これを評価することが困難であります。もちろん,もしソ連邦が自己の合理的利益を守り,また,もし必要ならば,われわれまたはわれわれの友邦に対する攻撃がある場合には,侵略者に対して殲滅的打撃を与えるために不用意であつたとしたら,誰かにとつて非常に好都合でありましよう。
もし貴総理が国際の平和を確保するために有益な諸措置をとることを真に欲しておられるならば,なぜ貴下は米国,英国,仏国,西独および他の西欧友邦に対して,ソ連邦に対する威嚇と戦争準備を止め,直ちに全面完全軍縮に進み,もつてあらゆる核実験を停止するように呼びかけられないのでしようか。
ソ連邦についていえば,われわれは有効な国際管理を伴う全面完全軍縮の早急実現を強くかつ断乎として支持するものであることを貴下に確言することができます。われわれは,いかなる時でも,いかなる瞬間でも,例えば今日にでも,当該国際条約に調印する用意があります。
最後に,私は日本政府が言葉のうえでなく,事実において国際緊張の源泉を除去することを助長し,また日本が全面完全軍縮に関する国際的合意の早急な達成を目ざすソ連邦の努力に同調するよう期待したいと思います。
敬 具
エヌ・フルシチョフ
【11月15日池田勇人首相書簡】
閣下
私は,さきに閣下のお送りした本年八月二十六日付け私の書簡に対する返簡として閣下が送付された本年九月二十五日付けの書簡を注意深く拝見しました。
貴簡の中には軍事基地の問題,日米安全保障条約の問題,軍縮問題等いくつかの重要な問題が触れられてありますが,これらの諸問題に対する日本政府の見解は,閣下ならびにソ連邦政府にあてたこれまでの私の書簡ならびに日本政府の文書においてすでにたびたび述べたところで明らかなとおりでありますので,ここに再び繰り返えす必要はないと思います。しかしながら領土問題については,これが極めて重要な問題であると考えますので,閣下の述べられているところで遺憾ながら事実に反する点を是正する意味で,私の所信を表明したいと思います。
閣下は,日ソ間の領土問題についてこれが一連の国際諸協定によつてすでに解決済みであると述べておられますが,元来戦争の結果としての領土の帰属変更が平和条約により初めて確定されるものであることは閣下も十分に御承知のところであります。
しかして日ソ両国政府は,歯舞,色丹を除いては領土問題について合意に到達できなかつたので,戦争状態を終結する形式として平和条約によらず共同宣言によることとし,もつて国交を回復することとなつたのでありまして,こうした経緯に徴しましても,未だ平和条約の締結されていない現在,領土問題が日ソ間において解決済みでないことは余りにも明瞭であります。
閣下が日ソ間の領土問題は解決済みであると主張する根拠とされている「一連の国際協定」なるものが,具体的にはどのような協定を指しているか明らかではありませんが,おそらくヤルタ協定,サン・フランシスコ平和条約等を指しておられるのではないかと推察されます。
しかしながらヤルタ協定は,ソ連に対し南樺太を返還し,千島列島を引渡すべき旨述べてはいますが,しかし同協定については,米国は「単にその当事国の当時の首脳者が共通の目標を陳述した文書にすぎず,その当事国によるなんらの最終的決定をなすものでなく,また領土移転のいかなる法律的効果をもつものでない」と,明言しているのであります。
しかのみならず,わが国はそもそも本協定の当事国でもなく,またわが国が受諾したポツダム宣言も,ヤルタ協定にはなんら触れておらず,しかも本協定は当時全く秘密とされていたのであります。したがつてわが国としては,法律的にも政治的にもなんら同協定に拘束されるものでなく,貴国政府はわが国との関係において本協定を援用することはできないものであります。
また閣下がおそらくその主張を根拠づけるため援用しておられると思われるサン・フランシスコ平和条約についても,日本が同条約により「南樺太および千島列島に対する一切の権利,権原および請求権を放棄した」こと事実でありますが,同条約には,日本が何国のためにこれら地域に対する権利を放棄するかは規定されておりません。サン・フランシスコ平和会議のソ連首席代表であつたグロムイコ現外相は,同会議の席上行なつた演説の中で,「日本がこれら領土に対するソ連邦の主権を認めるべき日本の明白な義務についてなにも述べられていない」と述べて,同条約がソ連政府の主張する権利を否定するものとして非難した経緯があり,しかもこのような点をも理由としてソ連政府が同条約に署名を拒否していることからみても,ソ連は,サン・フランシスコ条約によつて日本が放棄した領土に対し,なんらの権利をも主張できる立場にないのであります。
こうした事情を考慮すれば,領土問題はすでに解決済みであるという閣下の主張が根拠を欠くことはきわめて明瞭であります。
日本政府が受諾したポツダム宣言にはソ連政府も参加しておりますが,同宣言にはカイロ宣言の条項が履行されるべき旨明記されております。しかして,このカイロ宣言には,日本は,日本が「暴力および貪欲により略取」した地域から駆逐されると述べられているほか,連合国自身については,「自国のためになんらの利得をも欲求するものでなく,また,領土拡張の意思も全く有しない」旨がはつきりと宣言されております。しかるにソ連政府が,日本が決して「暴力および貪欲により略取」した領土でない千島列島のみならず,古来日本人のみが居住し,しかもかつて他国に領有されたことのないクナシリ・エトロフ両島にまで,その領有権を主張していることは,このカイロ宣言の条項とも全く矛盾するものと申さざるをえません。
閣下はまた,日本政府は「日本の領土でない領土の日本への返還問題を提起し,『固有の領土』についての問題をみずから提起することによつて,サン・フランシスコ条約の当該規定の承認を避けようとしている」と述べておられますが,「『固有の領土』についての問題」とはおそらく,クナシリ,エトロフ両島を指すものと考えられます。しかしながら,これら諸島は幕府時代の十九世紀中頃よりすでに日本固有の領土として国際的にも認められていたものでありまして,帝政ロシア政府も一八五五年の日露通好条約によつてこれら諸島が日本の領土であることを承認しているのであります。しかして日本政府とロシア政府との間に結ばれた一八七五年の千島・樺太交換条約は「千島列島」としてウルツプ以北の十八島をあげ,その千島列島は南樺太と交換の上で日本領土とさるべきことを定めたものであります。従つて日本政府がサン・フランシスコ条約によつてその権利を放棄した「千島列島」は,この歴史的にも明らかな概念であるウルツプ以北の十八島を指すものであつて,元来「千島列島」に含まれぬ固有の日本領土であるクナシリ,エトロフ両島については,日本政府はなんらの権利をも放棄したものではないのであります。
しかもこれら両島には戦争終結に至るまえで日本人のみが居住していたのでありますが,いまやこれらの日本人は,総て放逐され,父祖代々の墳墓に参拝することすら許されない状態にあるのであります。しかして終戦と同時にこれらの島を占領したソ連政府がその国民を続々と本国よりこれらの島へ移住せしめている事実に,日本政府は無関心たりえないのであります。
固有の領土に対する民族の愛着は,他国の固有の領土を占領したうえこれを合法化せんとするこのような試みによつても決して消えさるものではありません。私は閣下が,日本民族固有の領土を速や��に返還されることによつて,日ソ両国民が良き隣人として共存しうる基盤を作り上げるよう尽力されることを切望してやまないのであります。私は何人にもまして,日ソ間に領土問題が解決し,速やかに平和条約が締結されることを望むものでありますが,遺憾ながらいまだその実現をみるに至つていない現実においては,両国は専ら日ソ共同宣言を指針として相互の関係を律して行くべきものと考えます。すなわち,それは一般的原則として,国際紛争の平和的解決,武力による威嚇または武力の行使を慎むこと,国連憲章第五十一条の個別的,集団的自衛の固有の権利の確認,相互の国内事項に干渉しないことの四点を含むものであります。
私は両国政府によつてすでに確認せられたこの基礎の上に立つて,日ソ両国の善隣関係増進のため,ひいては全世界の平和のために,あらゆる努力をおしむものではないことを本書簡を結ぶに当つて特に申し添えるものであります。
敬 具
日本国内閣総理大臣 池 田 勇 人
ソヴィエト社会主義共和国連邦
大臣会議議長
エヌ・エス・フルシチョフ 閣下
【12月8日フルシチョフ首相書簡】
日本国総理大臣 池田勇人閣下
本年十一月十五日付けの貴簡を受領しましたので,若干の見解を申し述べたいと思います。
貴下が一九五六年十月十九日付けの宣言の諸原則にしたがい,日本国とソ連邦との間の善隣関係を増進���せるために努力を惜しむものでないと述べられたことを拝聴し欣快でありました。ソ連政府は日・ソ関係を完全に正常化し,かつ両国国民の死活的利益に副う善隣的協力を調整することを希望するものでありますので,このような御意見には全く同感であります。
他方,直言すれば,両国関係の今後の発展に関する実際的な諸問題につき意見を実務的に交換する代わりに,われわれの書簡交換を究極においていわゆる領土問題に関する無益な論議に帰せしめようとする意図が表明されていることを私は悲しむものであります。
この論議は,平和条約の締結を阻止し,かつソ連邦と日本国との関係の完全正常化を妨げる目的をもつて人為的に,故意に煽られているのであります。
特に軍事同盟によつて米国と結ばれている日本が,ソ連邦を目標とする外国軍事基地としてその領土を自発的に提供している現在の条件では,この論議が他の結果をもたらすことのできないことは,閣下御自身御了解のことと思います。
貴簡は,あたかも領土問題が周知の国際諸協定にかかわらず,今なお,未解決のままであり,この問題についてソ連邦から態度の変更,すなわち一定領土に対するその既得権の放棄を取り付けるなんらかの根拠があるかのように問題を見せようとする試みが再び行なわれております。貴総理,右のような意図は日本政府が無条件降伏の結果,周知の国際諸協定によつて引きうけた義務の履行を回避しようとする意図を証明するに過ぎないものであることを,私は極めて率直にかつ断固として閣下に述べねばなりません。本質的には報復的なそのような日本政府の態度は日本とその諸隣国との関係の尖鋭化,極東における情勢の紛糾をもたらすものであると見るのは困難ではありません。
私の見解では,日本政府の領土請求権の根拠として引用されている数々の歴史的事実および文書を再び取り上げる必要は現在ありませんん。それにもかかわらず私は,それらの事実と文書の若干について想起せしめたいと思います。
日本の降伏条件の基礎となつた連合国のポツダム宣言は,日本の主権を本州,北海道,九州,四国の諸島および若干の小島に制限しています。
日本政府は,降伏に関する文書に調印して,同政府およびその後継政府が誠実にポツダム宣言の諸条件を履行するであろうという誓約をしました。千島諸島が日本の主権の下に残された領土の中から除外されている限り,日本政府側からの千島諸島に対する現在の要求は,上述の誓約に反するものであります。
日本政府が,あなたも自己の書簡で確認されているように,千島諸島に対するすべての権利,権原および請求権を放棄しながら,今これらの諸島に対する要求をあえてするといる事実は,不審を喚起せざるをえません。総理閣下よ,どこに論理がありますか。
あなたの書簡中に,千島諸島に対する日本の権利放棄を規定した条約の中にこれら諸島がいかなる国に帰属すべきかが記されていないので,問題は未解決であるというように主張されています。日本は,千島をいつでも要求しうるものでないことが周知のことであるのに,このような問題を提起することにより日本政府は一体何を得ようとしているのかをききたいものであります。日本政府は,誰の利益について配慮しているのでしようか。あるいはソ連の極東沿岸への道を遮蔽している千島諸島が,スペインだとかポルトガルにでも帰属することを日本政府は望んでいるのかも知れません。
それとも日本政府は,すでに日本の島々をはりめぐらしているソ連を目標とした軍事基地に追加して,新たに千島をも軍事基地とすることにまんざら反対でもあるまい,海のかなたの自分の同盟国のために奔走しているのですか。
いや,貴総理,ソ連邦は自分の権利を譲渡するわけにはいきません。三大国のヤルタ協定は南樺太および千島諸島の帰属問題を明確に決定しております。これらの領土は無条件かつ無留保でソ連邦に引き渡されたのであります。
あなたは千島諸島のソ連帰属に疑問をもたせようとして,日本政府がヤルタ協定の参加国でないこと,従つて同協定があたかも日本に関係がないかのごときことを引用されています。同協定が日本を敵として戦つた各国間で締結されたものである以上,日本が同協定に参加しなかつたこと,また参加できなかつたことはもちろん当然であります。しかし,日本は降服に際し連合国によつて決定された条件を受諾しました。そして連合国はこの点でこれら諸国間に存在していた諸協定から出発したのであり,その中にはあらゆる国際協定と同様に拘束力を有するヤルタで署名された協定も含まれているのであります。
米国政府の若干の声明を引用することによつて日本側の確信を裏付けようとの書簡中に含まれた試みは全く成立しません。アメリカ合衆国政府もかつてヤルタ協定を自身にとつて拘束力があるものと無条件で認めましたし,本協定に従つて行動をしてきたことを指摘しなければなりません。このことを確認する幾多の文書があります。例えば,この関連において一九五一年三月二十九日付けおよび五月十九日付けソヴィエト政府あて米国政府の覚え書に注意を向けることができますが,これらの覚え書から明らかなことは,南樺太と全千島列島がソヴィエト連邦に帰属する問題については米国とソ連邦の間になんらの不一致もなかつたことであります。
周知のごとく,ヤルタ協定の中にも,一般命令第一号の中にも,サン・フランシスコ条約の中にも千島列島の区分はなんらなされておりませんし,全体としての千島列島が問題となつていたのであります。このことはとりわけソ連邦と米国の政府首脳間にとり交わされた往復書簡によつても確認されます。従つて当該国際諸協定があたかもソ連邦に全千島列島ではなく,ただその若干の島のみを譲渡することを考慮に入れているかのように確認しようとする日本側の試みはあらゆる根拠を失つております。
クナシリ島およびエトロフ島が千島列島中に含まれていないという主張は成り立ちません。このような遁辞を弄して,戦前日本の歴史および地理的文献が逆のことを主張していたことを忘れているようにみえます。例えば,一九三七年に日本海軍省水路局出版の水路図や交通公社が一九四一年に出版した日本の公式旅行案内書や,その他の多くの日本出版物を御覧になれば,貴下は看板を塗り替えて地理に適合しないようにしようとするものがいかに自分を滑稽な立場に陥入れるかを確信するでありましよう。クナシリ島およびエトロフ島が千島列島に帰属していることは,たびたび戦後においても日本政府によつて認められていることも周知のとおりであります。
貴下はその書簡で,一八五五年および一八七五年の日露条約を基礎にしていますがこれらの条約が本件となんらの関係もないことは明らかであります。
もし貴下のやり方に従つて歴史を反転すれば,一九〇四年に日本がロシアを背信的に攻撃し,開戦し,ロシア国民に多大の悲しみを与え,ロシアから樺太の半分を奪取し,ロシアにポーツマス平和条約の苛酷な掠奪的条項を強いたことを想起させる必要がありましよう。
これらの行動によつて日本は一八五五年および一八七五年にロシアとの間に締結された諸条約を破り,もつてこれらの条約を引き合いに出す権利を自ら失いました。二十年代の始め頃にわたるもつと新しい例を挙げることもできます。すなわち,当時日本は一九〇五年の条約を破り,再びロシアへ侵入し,北樺太とソヴィエト領極東を占領し,これを掠奪しました。他にも周知のこの種の歴史的事実があります。
私は日本の現政府を非難するためにこれらのことに言及するのではありません。しかし,貴書簡は,貴下の挙げられた事実が日本の利益になることを物語るものでないことを示すために,私をしてこの歴史を回顧せしめずにはおきませんでした。論議を続けるための基礎を遠い過去に求めずに,日本に定められた義務を課している国際諸協定を厳重に守ることが必要であるように思われます。
日本側によるソ連との平和条約締結の引延しは当然日本政府の企図についてソヴィエトの人々に警戒的な気持を起させないわけには行きません。なぜ日本は平和条約の調印を欲しないのか,あるいは日本はソ連と平和裡に生きることを欲しないのではないか,という当然の疑問をソヴィエトの人々は提示しております。
あるいはこれは,一部の人が平和条約の欠如を,日本における軍国主義的,報復主義的気運を復興するために利用しようと考えていることによつて説明されるのでありましようか。
もし国家が,平和と相互の友好を要望するならば,平和条約を調印しないという理由はありえないでありましよう。
平和条約の欠如はわれわれの国の間の協力の発展を困難ならしめているのであります。日本政府はこのことを考慮しないばかりか,最近,われわれ両国関係の完全な正常化と善隣関係発展のための条件の醸成とに対する途上に新たな障害を造る措置を講じたのであります。ソ連の人々は,日本が特定層の努力によつて,その鉾先がソ連邦およびその他平和愛好諸国に向けられている米合衆国の結集している侵略的軍事同盟およびブロックに引き入れられるという悲しむべき情勢に注意を向けざるをえないのであります。日本は強力な戦争準備を行なつている人々と積極的に協力し,かれらに対し,日本の隣国の安全を脅威するため,自国の領土を利用せしめているのであります。
このような情勢のもと��おいて,貴国の公的代表者たちが平和愛好とソ連邦に対する友好感情を確約するとしても果してかれらが,日本領土に配置されている米軍基地および米ロケット・核兵器の援助のもとで,ソ連およびその他の諸国と友好および相互理解を強化しようと考えているのかという問題が生ずるのもやむをえないのであります。
ソ連政府は一連の既知の文書において余すところなく日本軍事条約に関する自国の立場を表明しました。従つて私はここで再びこの問題のあらゆる面に触れるつもりはありません。
現在われわれの共通の課題は現存する困難と障害を克服し,日ソ間の真の良好な善隣関係設定への道を求めることにあると思います。この関連において,日ソ間の貿易,経済,文化,その他の関係を一層拡大し,また完全全面軍縮,核兵器の禁止,保存核兵器の破壊,植民地主義の一掃をはじめとする最重要の国際問題の解決をめざす闘争に協力することに相互に努力すればそれは現在第一義的な意味を持ちえるであろうことを私は再び強調したいと思います。これが,私の信ずる所によれば両国国民の利害が完全に一致する分野であり,相互の協力が特に実を結びうる分野なのであります。
疑いもなく現代の最重要問題は,全面および完全軍縮問題であります。右問題の進展は,すべての政府の共同的努力によつてのみ可能であり,各国政府の義務は人類の運命に重大なる意義をもつ,この崇高事業に貢献することであります。国際関係において重要な地位を占める日本としても,軍縮に関する最終的協定の達成の容易ならしめるため多くのことをなしうることは疑いを入れません。しかしながら,今まで日本の公的代表者たちは,この問題においてアメリカ合衆国の影に隠れており,もし,行動するとしても,それは通常西欧大国とともに軍縮問題の解決に向けられていない諸提案の支持のためであります。
ソ連政府は,核および熱核兵器の実験禁止に関する具体的協定案を提出いたしました。貴下は,すでに,右新提案の内容を知る機会を持つたものと思われます。右は,疑いもなく,日本を含むすべての国民を不安ならしめている問題に関して合意を速やかに達成するための現実的可能性を開くものであります。
広島および長崎の悲劇を体験した日本国民の右問題に対する態度は,われわれには全く理解できます。日本政府は,核兵器の実験継続に対して否定的態度を言明した一連の声明を行いました。
右声明は,特にアフリカにおけるフランスの実験実施を非難することを同時に確認したのであります。事実多くの人々は日本が最近これらの声明に反して,アフリカにおける核兵器の実験と配置の禁止決議の支持を国連で放棄されるに至つたことに驚きました。しかし,米国が作り出したパキスタン,イラン,タイ,フィリピン,ノールウェイ,デンマーク,アイスランドのごとき侵略的軍事ブロックの構成国がこの決議に賛成投票をしたではありませんか。
軍備競争と戦争の脅威から人類を開放し,全人民の平和愛好の希望に応えられるような決議の支持に,日本政府が大きな一貫性を表明し,かつ自分の声を高めるよう期待したいのであります。
最後に現在意見の食い違いがあるに���かかわらず良識が勝ちを占め,日本とソ連との間の関係が相互の利益になるよう真に善隣的となるとの確信を表明したいと思います。われわれは日本政府が日ソ関係の完全な正常化の事業に必要な意義を与え,この途上に横たわる障害を排除する手段をとることを期待したいのであります。
ソ連政府としては,われわれ両国民のために,世界平和の強化のために,ソ連邦と日本国との間の関係を改善すべく今後ともあらゆる努力を傾けるべきことを,貴総理に確言することができます。
敬 具
エヌ・エス・フルシチョフ
2 notes
·
View notes
Text
戦後の事件簿 「日本が受諾したポツダム宣言は、イギリス首相、アメリカ合衆国大統領、中華民国主席の名において発された。ソ連は後から加わり追認した。中共は、抗戦相手ではなかった。大日本帝国の一部を形成する朝鮮半島の住民と内地の住民も、戦火を交える敵同士ではなかった。しかし、どこまでも敗戦革命にこだわる報道関係者たちは、中国や韓国や北朝鮮に戦勝国とウソをつかせたうえで、日本に対する理由のない非難と恐喝をするよう唆している。そして、韓国人や朝鮮人は本名を隠し日本人名を名乗っている。彼らの犯罪は、日本人による犯罪のように報道されるか、犯罪そのものが報道されない」という話を聞いた 図書館に行って朝鮮人の犯罪を調べたら、次のような記録が見つかった 1945年10月22日、大阿仁村事件が起こった。秋田県北秋田郡阿仁合町の阿仁鉱山で働いていた朝鮮人12名は、午前9時頃、約16キロ山奥の同郡大阿仁村の伏影集落へ行き、共同管理の栗林に侵入し、栗を拾っていた所を村人に発見され、注意したところ乱闘となり、双方数名が負傷した。午後1時になると、約40名の朝鮮人が来襲したので、警察と警防団は直ちに現場に急行し鎮圧の為に急行した 1945年12月24日、生田警察署襲撃事件が起こった。午後9時頃、50名を超える朝鮮人の暴徒が「岡山の刑事を出せ」と叫びながら署内に侵入。署員を拳銃・日本刀・匕首を突きつけて軟禁した上で、岡山県警察部の捜査員を探し始めた。捜査員らが脱出に成功した一方で、暴徒によって署内の警察電話線が切断されたため、警察署は外部との連絡手段を絶たれてしまった。その後、事件を聞きつけた連合国軍部隊によって暴動が鎮圧された。襲撃以前、岡山市内にて7人組による拳銃強盗事件が発生しており、強盗犯を追って岡山県警の捜査官が神戸市まで出張にきていた。この捜査員に生田署が協力していたため、暴徒の襲撃を受けることになった。もっとも以下に挙げた資料には、確かに報復を仕掛けたのは朝鮮人の一団であったが、元の拳銃強盗事件の犯人が朝鮮人であったのかどうかまでは記されていない 1945年12月29日、直江津駅リンチ殺人事件が起こった。午後7時頃、新潟発大阪行の列車が国鉄信越本線黒井駅に到着した。3人組の朝鮮人が列車に乗車しようとしたが、満員のため乗車することが出来なかった。そこで彼らは列車の窓ガラスを叩き割り無理やり乗車しようとしたところ、ある男性の乗客に阻まれたため、已む無くデッキにぶら下がり次の直江津駅まで行く破目になった。列車が直江津駅に到着すると、3人組は自分たちを阻んだ男性に対して、「乗降口から乗れないので仕方なくガラスを壊して乗ろうとしたのに何故妨害した」と詰め寄った。 男性に「窓から乗り込むという方法はない」と反論されたため、その男性を直江津駅のプラットホームに引きずり降ろし、駅の備品であるパイプやスコップを持ち出して男性に襲い掛かり、メッタ打ちにした。男性は頭や左眼などに十数か所の傷を負い、絶命した。警察が緊急配備したところ、直江津の病院で傷の手当てをしていた3人組を突き止めた。そして容疑を認めたため、殺人犯として緊急逮捕した 1946年1月3日、富坂警察署襲撃事件が起こった。正午、春日町交差点において多くの不審者を乗せたトラック2台が富坂警察署方面へ向かうのを、交通整理にあたっていた警察官が発見、直ちに署に連絡した。連絡を受けてまもなく、例のトラックが富坂警察署に到着、警察官の制止を振り切って約80人の朝鮮人が署内に乱入し、留置中の在日朝鮮人の即時釈放を要求した。危険を察知した警部が警察電話を通じて、警備隊の応援を要請したところ、在日朝鮮人20人が電話室に乱入し占拠した。これにより外部との連絡が絶たれた。交渉にあたった署長は「朝鮮人は留置していない」と突っぱねたが、情報が漏れていたらしく、在日朝鮮人たちが留置場を探し始めた。これを阻止しようとした警察官に対して殴る蹴るの暴行を加えて負傷者を続出させた。在日朝鮮人はついに留置場を発見、中にいた容疑者を連れ出し、「署長は、朝鮮人は留置していないと我々を欺いた」と署長を責めた後、富坂警察署の前を通りかかったトラックを奪って逃走した 1946年1月9日、生田警察署襲撃事件が起こった。翌年、三宮ガード下で賭博団が検挙されたことを受け、30 - 40人の朝鮮人が犯人の奪還を目的に再度署内に侵入したが、この事件も進駐軍の協力を得て鎮圧し、首謀者3人を検挙した 1946年5月13日、長崎警察署襲撃事件が起こった。午前10時30分、280人の警官隊が一斉取締を開始し、日本人150人、朝鮮人26人、中国人6人を検挙、長崎警察署に連行した。その直後、在日本朝鮮人連盟や中国人団体が長崎警察署に押しかけ、被疑者の即時釈放を要求したが、署長は取調前の釈放はできないと拒否した。午後2時30分頃、朝鮮人や中国人など総勢約200人がバッドや鉄棒を持って長崎警察署を包囲・襲撃した。これにより警察官1人が死亡、10人が重軽傷を負った。その後、余勢をかって東浜町派出所や港町派出所も襲撃し、警察官に対し暴行を加えている 1946年8月5日、富山駅前派出所襲撃事件が起こった。午後6時50分頃、富山駅において闇米取り締りを実施し、朝鮮人3人を検挙した。しかし、それを見ていた朝鮮人2人が妨害し、3人を逃走させた。そのため自治隊員2人を公務執行妨害罪で逮捕し、富山駅前派出所に連行したところ、朝鮮人約30人が包囲し険悪な雰囲気となった。署に救援を頼んだが、その前に大乱闘となった。その直後に、救援隊が駆けつけて朝鮮人たちを実力で排除した。この乱闘で警察官1人が負傷した 1946年9月22日、坂町事件が起こった。午前0時50分頃、村上警察署の署員8人が坂町駅に赴き、ヤミ米の取締に当たった。署員が現れるや、約50人の朝鮮人・中国人は一斉に姿をかくした。警察官がホーム上に置き去りにされたヤミ米を押収しようとすると、「殴れ!」「叩け!」の叫び声を合図に襲いかかって来た。警察官が応戦している最中に列車が到着し、列車内から朝鮮人20人が下車し加勢、警察官に暴行を加えた後、発車間際の列車に乗り込み逃走した。この日の午後になり、「また、ヤミ米を運搬しようとしている」との情報が入った。警察官 10人が現場に向かい取り締まろうとしたところ、約50人の朝鮮人・中国人が襲い掛かり、殴る蹴るの暴行を加えた。金屋村警防団は警察官の応援に駆けつけたが、逆に鳶口や木刀を取り上げられて、彼等の武器にされる始末であった。その後、撤退命令が出たので、警察官等は一旦引き上げた。その後、進駐軍の新潟軍政部の係官が現地に到着し、朝鮮人・中国人に対して「日本に在住している限り、日本の法律に服さなければならないこと」、「警察官のヤミ米取締を拒むことは、連合国の指令に反するものであること」を言い渡した。軍政部のお墨付きが出たことで、警察は断固とした取締りが可能になり、12人が検挙された 1946年9月26日~29日、新潟日報社襲撃事件が起こった。在日本朝鮮人連盟などの朝鮮人16人が新潟日報社を訪れ、新潟日報社と読売新聞社の両社に対して、「坂町事件の報道に誤りがあると認め、ラジオ放送を通じて新潟県民に誤報であったという声明を出せ」と要求した。両社は「即答はできない」として、29日まで猶予してもらうことになった。その後読売新聞社は、9月28日になって譲歩し、誤報を認め謝罪記事を掲載することで話がついた。9月29日、朝鮮人16人が再度新潟日報社を訪れ、新潟日報社側の返答をせまった。新潟日報社は「警察の調査結果をまって善処する」と答え、彼等の要求を拒んだため、朝鮮人側は憤慨し、茶碗を投げつけたのを合図に一斉に暴れだし、社内の備品を破壊した。新潟警察署は、朝鮮人らを暴力行為等処罰ニ関スル法律違反で逮捕した 1946年12月20日、首相官邸デモ事件が起こった。の全国大会では、約1万人の朝鮮人が結集した。日本共産党の徳田球一も出席しており、徳田球一の演説の後、生活権擁護の決議文を採択し、午後1時頃に集会は一旦終了した。午後1時30分、「朝鮮人虐殺政策絶対反対」「吉田内閣は日本の敵だ」といったプラカードを掲げてデモ行進を開始。午後2時頃に首相官邸前に差し掛かると、突如警察官の制止を無視して官邸正門前に殺到した。警官隊は侵入を阻止するため門を閉鎖しようとしたが、デモ隊は投石やプラカードを振り回すなどして暴れ、遂に首相官邸に侵入した。午後2時30分頃にアメリカ軍憲兵隊が出動し、まもなくデモ隊全員を解散させた。この事件で、警察官23人が重軽傷を負い、拳銃2丁が奪い取られた 1947年10月20日、尾花沢派出所襲撃事件が起こった。朝鮮人7人は警察によるヤミ米摘発の鬱憤を晴らすべく、派出所の襲撃を計画し、午後3時頃に楯岡警察署の尾花沢派出所に乗り込んだ。警察官が不在だったため、派出所内の器物を破壊し、門標を取り外した後引き揚げた。その後、外出から戻った警察官が、派出所内の惨状を見て驚き、直ちに署に連絡した。その直後、前述の朝鮮人7人と他の朝鮮人30人が派出所を取り囲み、火鉢を投げつけるなどの暴行を働いた。楯岡警察署は隣接の新庄警察署や進駐軍の応援も得て、29人を逮捕した 1948年4月23日~25日、阪神教育事件が起こった。9時、大阪府大阪城前の大手前公園で、朝鮮人学校弾圧反対人民大会が開催された。集会には在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人など7000人余が集結した。16人の代表が選出され、大阪府庁舎で大阪府知事・赤間文三との交渉を行うことになった。12時30分、大阪府庁知事室において副知事と朝鮮人代表者16人との交渉が始まったが合意には至らず、15時になって在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人など7000人余の中からシュプレヒコールが起こった。同時に50人余の青年が行動隊を編成し、スクラムを組んで大阪府庁前の阻止線を突破した。15時30分には行動隊に続いて、在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人など7000人余も大阪府庁に暴力で突入し、3階までの廊下を占拠。副知事は警察官の誘導で、戦時中に作られていた地下道を通って脱出した。17時頃には群衆が知事室になだれ込み、ドアや調度品を破壊するといった行動に出る。日本共産党大阪地方委員会に派遣されていた増山太助は川上貫一衆議院議員とともに知事室に駆けつけたが、収拾がつかない状態だった。夜になって大阪城周辺の各所で在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人によってかがり火が焚かれ、朝連としては川上を代表として交渉の場を作ろうとした。しかしそこへアメリカ軍や武装警官が到着し、在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人らと乱闘。在日朝鮮人のうち1人が死亡し20人が負傷した。警官側の負傷者は、31人だった。179人が騒擾罪で検挙された。4月25日には朝連や日本人約300人が南警察署に押しかけ逮捕者の釈放を要求したが、抗議に来た群衆に向けて警官隊が威嚇射撃を行い追い返した。翌4月26日に朝連は大阪東成区や旭区などで「朝鮮人学校弾圧反対人民大会」を開催。午後には朝鮮人代表者と赤間府知事との間で再度交渉が行われたが、15時40分に別室で待機していた大阪軍政部のクレーグ大佐が、交渉の中止と大手前公園に集結していた在日朝鮮人2万人の解散を指示。これに対し在日朝鮮人1600人のデモ隊が再び大阪府庁に向かい、武装警官隊の阻止線で投石を開始。武装警官隊は消防車に放水をさせ、デモ隊に突入し拳銃で発砲した。この衝突で当時16歳であった在日朝鮮人金太一が死亡する。検挙者は軍事裁判にかけられ、日本人9人と在日朝鮮人8人が重労働4年以下の判決を受けた。このうち当時の朝鮮総連の朴柱範兵庫県本部委員長は神戸刑務所に服役し、1949年11月25日に病気を理由に仮釈放されたが僅か数時間後に死亡した。事件解決後、大阪市警察局は、アメリカ陸軍第25師団司令部より感謝状が贈呈された。兵庫県非常事態宣言布告を報じた朝日新聞号外アイケルバーガー司令官の神戸視察を報じた神戸新聞10日に兵庫県知事・岸田幸雄は、朝鮮人学校に対して封鎖命令を発令。これを受けて14日に朝連は兵庫県庁を訪れ、岸田との交渉を要求した。言動はしばしば威圧的・脅迫的になった。4月23日に警官隊と米軍MPが朝鮮人学校灘校と東神戸校を封鎖すると、翌24日に封鎖に抗議する在日朝鮮人や日本人が兵庫県県庁前に集結。9時30分に兵庫県庁知事室で、岸田知事と神戸市長・小寺謙吉、検事正ら15人が朝鮮人学校閉鎖仮処分執行問題と在日朝鮮人の抗議集会対策を協議。協議が行われているとの情報は朝連にも伝わり、約100人の在日朝鮮人や日本人が兵庫県庁内に突入。知事応接室を占拠して備品などを破壊した後、壁を打ち破って知事室になだれ込み岸田知事やMPを拉致監禁するに至る。知事室に乱入した在日朝鮮人や日本人は電話線を切断して外部との連絡を絶ち、「学校閉鎖令の撤回」「朝鮮人学校閉鎖仮処分の取り消し」「朝鮮人学校存続の承認」「逮捕された朝鮮人の釈放」などを岸田知事に要求。半ば監禁状態にあって岸田は、17時に諸要求の受け入れを誓約。しかしその日の22時に岸田知事と吉川覚副知事・市丸検事正・田辺次席検事・出井兵庫県警察長・古山神戸市警察局長らが、占領軍兵庫県軍政部に召集され、23時に兵庫県軍政部が「非常事態宣言」を発令。軍政部の非常事態宣言によって兵庫県と神戸市の全警察官はアメリカ軍憲兵司令官の指揮下に入り、兵庫県庁への乱入者の徹底検挙命令と共に岸田知事が一旦受け入れた在日朝鮮人の要求への誓約を無効とした。25日早朝にMPと米軍憲兵司令官指揮下の警官による県庁乱入者の検挙を開始し、29日までに、1590人もしくは7295人 を検挙。日本共産党の神戸市議会議員・堀川一知も拘引された。4月28日には米軍軍政部の非常事態宣言も解除。検挙した者から主だった者を拘留し、23人を軍事裁判にかけた。唯一の日本人被告人だったは堀川は重労働10年の判決を受け、在日朝鮮人には最高重労働15年の判決が出されて刑期終了後は本国に強制送還されることになった 1948年10月11日~12日、評定河原事件が起こった。の10時から開会式が始まった。北朝鮮国旗の掲揚をめぐり仙台市警察が警告を発するなどのトラブルがあったが、1日目は特に混乱も無く終了した。2日目の10月12日は運動会が開かれた。国旗掲揚の代わりに国旗を頭上に捧げ持って行進したため、米軍の憲兵が行進の中止を命じた。その後、運動会は再開され、16時30分頃に閉会式が開かれた。そのとき、酒を飲んだ数人の朝鮮人が会場内に入って歌を歌い始めた。これに同調する者が次々と現れ、赤旗を掲げてデモ行進するなど不穏な空気に包まれた。その中で、北朝鮮国旗を持った一団がデモ行進をし、米軍憲兵の制止を無視し行進を続けたため、米軍憲兵は国旗を押収し、参加者4人を検挙した。その後の米軍憲兵隊の捜査で、更に2人が検挙された 1948年12月9日、宇部事件が起こった。約200名の朝鮮人が宇部市民会館に参集し生活擁護人民大会を開催していた際に、在日本朝鮮人連盟山口県本部委員長を進駐軍憲兵および警察隊が逮捕した。大会参加者は集団的に同被疑者を奪還しようとして警察側と衝突し、双方に多数の負傷者が出る騒ぎとなったが、警察側の発砲によって鎮圧された 1949年1月25日、益田事件が起こった。島根県美濃郡益田町の朝鮮人集落において密輸入物資が隠匿されているとの密告に基づき、進駐軍島根軍政部将校2名と経済調査官2名が同行して、令状なしで摘発に乗り出したが、「令状のない捜査は違法である」と拒否されたため、警察官10名が応援して違反物資を押収したが約100名の朝鮮人に奪還された。翌日、被疑者9名を検挙したものの、夜に入って約200名が警察署に押しかけて被疑者の釈放を要求し、署内に侵入しようとしたために警察官と乱闘になり48名が検挙された。逮捕されたもののうち9名が起訴され、騒乱罪で有罪となった 1949年4月6日~13日、枝川事件が起こった。午後6時頃、3人の捜査員は主犯を発見、逮捕しようとした。しかし主犯は別人を主張、周りの朝鮮人数人も捜査員を見ていたため、任意同行に切り替えた。そして、屋外に出ようとしたところ、主犯は捜査員を突き飛ばし、裸足のまま逃走した。捜査員は拳銃を3発威嚇発砲して制止しようとしたが、逃走を続けたため、遂に主犯に向けて発砲した。そしてなんとか逮捕することができたが、主犯はその際に負傷した。それを見ていた約40人の朝鮮人が「仲間を殺したやつは殺してしまえ」と捜査員2人に襲い掛かり、殴る蹴るの暴行を加え重軽傷を負わせた上に在日朝鮮人連盟の施設に連行した。もう1人の捜査員は、事態の重大性を察知し、近くの民家の電話を借りて枝川地区を所轄する深川警察署と月島警察署に通報した。まもなく深川警察署と月島警察署の応援部隊が在日朝鮮人連盟の枝川支部に急行したが、激しい抵抗にあい、警察側に負傷者を続出させたが、アメリカ軍憲兵隊が来ると急に態度を軟化させた。その後の交渉で朝鮮人側は暴行犯人の引渡しを確約したが、4月8日になっても引き渡さず、逆に捜査員の処分を求める有様であった。4月9日より、警察は枝川地区に架かる橋に検問所を設置、通行者全員に検問を開始した。それと並行して内偵調査を行った。その結果、警察官に暴行した容疑者が割り出されたため、4月13日に一斉捜査が行われ、容疑者5人が逮捕された。4月19日までに更に10人が逮捕された 1949年4月7日~11日、高田ドブロク事件が起こった。午前6時頃、取締部隊は朝鮮人集落に到着し一斉取締を開始した。早朝であったため、この取締そのものは整然と行われ、午前8時30分頃には引き上げた。午前10時40分頃から朝鮮人たちが高田市警察署に集結し始め、正午頃になると200人に膨れ上がり、検挙者の釈放を要求した。しかし警察側が断固拒否したため、警察署に向かって投石を行い窓ガラス十数枚を破損させた。4月8日も朝鮮人約200人が警察署前に集結し、釈放を要求した。4月9日正午、一人の朝鮮人女性が高田税務署に現れた。一人であったことから税務署を警備していた警察官も、一般の利用者と思って油断していたところ、あっという間に14・15人の朝鮮人女性が集まり、署長との面会を要求してきた。警備の警察官が退去を勧告したところ、「人殺し」と叫び座り込みをはじめた。午後1時になると多くの朝鮮人男性が押しかけ、税務署内に突入しようとしたので、小競り合いになり双方に負傷者を出した。4月10日、検挙者の自供により、高田市においても密造酒の醸造が行われていることが判明したため、在日朝鮮人連盟信越支部などを家宅捜査した。4月11日、約500人もの朝鮮人が高田市に集結、デモ行進を行った。彼らは市民に対して「警察が朝鮮人に対して不当な弾圧を加えている」「放火して高田市を灰にする」などと叫び牽制していた。ここに至り、警察もデモの首謀者12人を検挙したため、この事件も収束に向かい始めた 1949年6月2日~11日、本郷村事件が起こった。国家地方警察福井県本部若狭地区警察署の本郷派出所の警察官が朝鮮人地区の地図を作成したことについて、在日本朝鮮人連盟の幹部が抗議した。幹部は一旦戻り、在日朝鮮人70人を引き連れて、派出所を包囲した。そして中の警察官に暴行を加え、そのまま居座り続けた。若狭地区警察署は署員を急派したが、なおも居座り、6月4日になってようやく解散した。朝鮮人側は 暴行警察官の罷免 被害者に対する損害賠償 朝鮮人に対する謝罪 朝鮮人問題については、事前に朝連と連絡協議をすることなどを要求したが、警察は6月10日に朝鮮人2人を逮捕するために現地に向かった。待ち構えていた朝鮮人200人が、石や糞尿を投げつけて逮捕を妨害したが、なんとか強行突破し、2人を予定通り逮捕した。その後朝鮮人たちは、「民族弾圧、ファッショ警察の再現」と叫んで警察署前に居座ったり、「ファッシズム国警若狭地区警察の真相」と題するビラをばら撒くなど示威行動を続けた 1949年8月20日、下関事件[騒乱]が起こった。19日午後11時頃、朝連事務所前に約150人の在日朝鮮人が集結し、民団を非難する集会を開いた。集会そのものは特に問題なく終了したが、警備に当たっていた朝連の構成員と民団の構成員が路上で遭遇、乱闘となり、民団側が所持していた日本刀で朝連側に負傷者を出した。朝連は、これに報復すべく8月20日午前2時30分頃、構成員約200人を招集し、民団下関支部や民団構成員の自宅を襲撃した。そして被害家屋から金品を略奪するなどの狼藉を働いたあと解散した。このため、未明にも係らず市内は一時大混乱になった。下関市警察は、直ちに国家地方警察山口県本部に応援を要請した。国家地方警察は、自治体警察を含む山口県内の全警察に非常招集を発令、警察学校の学生をも動員した。県内各地から来る応援部隊の到着後、朝連や民団の施設を一斉に捜索を開始し、939 人の警察官のうち 14 人が負傷したが、73人を検挙した。翌日8月21日には、下関市警察と国家地方警察の合同による「下関事件合同警備本部」を設置するとともに、市内各所に検問所を設けて逃亡を阻止した。最終的に208人が検挙され、殺人未遂罪のほか、騒擾罪などで75人が起訴された 1950年3月20日、台東会館事件が起こった。10日午前9時、東京都の係官が台東会館に赴いた。警視庁では不測の事態に備えて多数の警察官を警戒に当たらせた。係官は会館を引き渡すよう命じたが、旧朝連はそれを無視したばかりか、投石を行い抵抗した。そのため、この日の接収は一旦取りやめになり、3月20日に再度接収を行うことになった。旧朝連側は接収予定日の前日から、会館入口にバリケードを設け、周辺道路を巡回して警戒していた。3月20日午前7時、係官が台東会館に入ろうとしたが妨害を受けた。そして、警戒に当たっていた警察官に向かって、石や唐辛子粉を投げつけて抵抗した。そのため警察は強行突入を断行し、朝鮮人119人を検挙した 1950年8月15日、連島町事件が起こった。1949年9月8日、GHQの指示を受けた法務府は告示第51号を出し、在日本朝聯と在日本朝鮮民主青年同盟に対し団体等規正令を適用して解散命令を下す。また朝鮮学校と民団総連も解散請求を受けた。これらの措置は在日朝鮮人の生活に直接の打撃を与えた。将来に不安を抱いた朝鮮人同胞らの中には、革命を叫んで公共施設を不法占拠し火炎瓶で武装した事件が起きた。こうした世情不安の中、岡山県浅口郡連島町で、朝鮮解放5周年を祝って約700名の朝鮮人が集まり集会を強行したため、これを制止しようとした警察と乱闘になり8名を検挙した。この事件で警察官15名が負傷した 1950年11月20日~27日、長田区役所襲撃事件[第二神戸事件]が起こった。午後1時、約200人の朝鮮人が神戸市長田区役所に押しかけた。要求は「市民税免除」と「生活保護の徹底」である。しかし区長がこれを認めなかったため、区長を軟禁状態にして騒ぎ出した。神戸市警察は直ちに出動、30人が逮捕された。11月24日午前11時、約300人の朝鮮人が再度長田区役所に押しかけ、区長との面談を要求した。区長が拒否したため、朝鮮人たちは区役所に乱入し、窓ガラス等を破壊した上、出動した警察官に対しても暴力を振るったため、不退去罪の現行犯として26人が逮捕された。11月27日朝、24日に逮捕された仲間の奪還などを求め、姫路市、明石市、尼崎市などから約600人の朝鮮人が神戸に向かっているとの情報が警察にもたらされた。警察は甲号非常招集を発令、神戸市警察および国家警察兵庫県本部の警官約3000人に待機命令をかけた。長田区にある西神戸朝鮮人学校に神戸市在住の者も含め約千人の朝鮮人が集結。「祖国統一決起大会」を開催し、投石用の石や棍棒を用意するなど不穏な状勢となったため、正午頃に解散を命じたが、「犬め、殺してやる」「貴様等人民裁判にかけてやる」と暴言を吐いて命令を無視、午後3時20分頃には、学校から出てデモ行進を始めた。遂に警察は神戸市電湊川大橋停留所付近で検挙を開始したが、デモ隊は激しく抵抗し、約60人が逮捕された。その残党は新湊川沿いに北上、長田区役所や長田税務署を襲い、窓ガラスを割るなどした。最終的に179人が逮捕された 1951年1月23日、四日市事件が起こった。旧朝連四日市支部を接収しようとしたところ、居合わせた朝鮮人約20名が、器物やガラスの破片を投げつけたり、灰・唐辛子による目潰し攻撃をしたり、濃硫酸を浴びせて接収の妨害を行った事件。そのため、執行係官7名が全治2 - 3週間の重軽傷を負った。警察が出動して、公務執行妨害容疑で15名を検挙した 1951年3月7日、王子朝鮮人学校事件が起こった。当日、王子警察署は周辺の道路を封鎖し、同校生徒以外の群集の流入を阻止しようとしたが、群集はそれを無視し最終的に2000人が集まった。集会は午前10時から始まった。一方、学校外にいた群集が警察隊に対し、投石や唐辛子粉の噴霧など抵抗したため、ある警察官が付近の民家の2階から写真を撮ろうとした。しかしそれを見た群集が民家に乱入、その警察官に暴行を加え、カメラを破壊した。応援に来ていた蔵前警察署員が救出しようとしたが、逆に返り討ちにあい、重軽傷を負わされた上、拳銃や警棒などが奪われた。警視庁は、遂に群集を強制的に解散させることを決断、警官隊が校内に突入しようとした。群集は煉瓦や石を投げつけるなど強硬に抵抗したが、午後2時50分までに全員を校外に排除した。警察はこの事件で28人が重軽傷を負った 1951年6月13日、神奈川事件が起こった。横浜市神奈川区にある青木小学校分校において、神奈川県朝鮮人学校PTA連合運動会が開かれていたが、参加者の一人が警備をしていた警察官に対して暴力をふるったため、公務執行妨害で検挙しようとしたところ、これを妨害しようとして大乱闘となった。これにより、双方ともに数名の負傷者を出した。運動会終了後、約500名の在日朝鮮人が横浜市警察本部に殺到し、玄関前でスクラムを組んで奇声をあげた。 そのため、横浜市警は約1000名の警察官を動員し、公安条例違反容疑で28名を検挙した 1951年10月22日、下里村役場集団恐喝事件が起こった。下里村において、在日朝鮮人約200名が、「生活保護」「強制送還反対」の陳情をするために村役場に押しかけた 1951年12月1日、東成警察署襲撃事件が起こった。午前11時頃、朝鮮人たちは旧御幸森朝鮮人小学校に集まり、東成警察署までデモ行進した。その後、元御幸森朝鮮人学校に集合し、12時15分ごろ東成警察正門前に到着した。さらに同署の東方道路から約20名、南方道路から20名が殺到し気勢を上げて署内に突入しようとしたので、大阪市警視庁機動隊はそれを阻止した。その際デモ隊は、クロールピクリン酸入りサイダーびん3本、投石や唐辛子を投げつけて抵抗した。この事件で3人が公務執行妨害罪で逮捕された 。12月16日午後、不法デモをおこない3隊に分かれ、生野区、巽町の工場を襲撃した 1951年12月18日、日野事件が起こった。10月18日午前11時30分、滋賀県蒲生郡桜川村に、在日朝鮮統一民主戦線や祖国防衛隊のメンバーが集結し、自転車にスピーカーを取り付けて自転車デモを行おうとした。滋賀県公安条例の届出を出していない違法デモであった。国家地方警察滋賀県本部蒲生東地区警察署では、これを制止しようとしたが、デモ隊は強行突破し、日野町内に侵入した。デモ隊は日野郵便局前で「朝鮮人強制送還反対」「軍事基地化反対」などの演説を行った。その間、周辺在住の朝鮮人が集まり、ピケを張ったりバリケードを作ったりした。そして警官隊に棍棒で襲い掛かったため、公務執行妨害罪で20人が検挙された 1952年2月21日~23日。木造地区警察署襲撃事件が起こった。国家地方警察青森県本部木造地区警察署は、傷害容疑で在日朝鮮人2名を逮捕した。これに対し、在日朝鮮人数十人が検挙者の即時釈放を要求して連日署に押しかけた。2月23日に入り、在日朝鮮人約70名が署内への侵入を図って警備の警察官と揉み合いになり、警察署の玄関のガラス戸が破壊された。また同日午後7時、応援に駆けつけていた弘前地区警察署の署員11人が、国鉄五能線木造駅を警備していたところ、在日朝鮮人に取り囲まれ、警棒を奪われる事件も発生している 1952年3月26日~30日、多奈川町事件が起こった。以前より多奈川町警察は、隣接の国家地方警察泉南地区署の応援を得、幾度も朝鮮人による密造酒の摘発を行っていたが後を絶たず、増加するばかりであった 1952年3月24日、大阪国税局は、同局泉佐野税務署・大阪地方検察庁岸和田支部・国家地方警察泉南地区署と合同捜査会議を行い、一斉摘発を決定。同年3月26日午前5時40分ごろ、泉南地区署に、国税局員45名・検事1名・副検事1名・検察事務官12名・制服警察官50名の合同捜査チームが集合。10班に分かれ、トラック10台に分乗し、多奈川町9ヶ所、深日町1ヶ所、計10ヶ所の密造場所に向かう。納屋や豚小屋に偽装された密造工場の各所で、朝鮮人による抵抗に遭うも、検察庁職員によって容疑者の逮捕、国税局員によってドブロク・コウジ・蒸留機などの酒造器具を証拠品として差押さえるなどし、各班は逐次南海電気鉄道多奈川線多奈川駅前に集合。この時、婦女子を先頭にした朝鮮人約200人がトラックの前に座り込んだり、大きな石をいくつも道路上に置いて交通を妨害。これを排除しようとした警察官が激しい抵抗に遭っている間、手薄な警備に勢を得た朝鮮人の数はさらに増え、ついには「生活権」を訴える怒号に扇動された朝鮮人が「殺してしまえ」とわめきながらトラックに殺到し、タイヤの空気を抜く、窓ガラスを叩き割る、トラックの運転手を袋叩きにする、差押えた証拠品を叩き落して破壊・強奪する、被疑者を逃がすなどの暴挙に出た。 この危機を脱したトラック3台は集合場所の大阪拘置所に向かったものの、残る7台は駅前の国道で立ち往生となる。1個班につき警察官が5人と言う手薄な警備体制が招いた失敗であった。不測の事態を受けた合同捜査チーム総指揮官大坪検事及び泉南地区警察署長は、深日町警部派出所から国家地方警察大阪府本部に応援を要請。検挙は後日に譲ることとし、後日の検挙に備え多数の現場写真を撮影、道路上の妨害を排除しつつタイヤの空気を入れなおし、午前7時半ごろ、捜査チームは泉南地区署に引き揚げた。午前8時過ぎごろ、朝鮮人約30名が多奈川派出所に押しかけ「俺たちの生活をどうしてくれる」と抗議。間もなく代表者3名を残し引き揚げる。午前9時ごろ、取材に来ていた毎日新聞社大阪本社の記者がドブロク密造地区捜査取材のため多奈川派出所に向かう途中、朝鮮人の暴徒に囲まれて殴打され、石を投げつけられ、全治2週間の怪我を負う事件が発生。また、この騒ぎで城東税務署員も右手に怪我を負っている。事態を重く見た国家地方警察大阪府本部は27日・28日の2日間にわたり、現場証拠写真、現場に出動した警察官、第三者の証言から被疑者の割り出し、証拠収集にあたる。結果、被疑者17名を特定し、29日、暴力行為等処罰に関する法律違反、公務執行妨害および傷害ならびに酒税法違反容疑で逮捕状・捜査令状を大阪地検より受けた。同年3月30日午前2時、検事らをはじめ、大阪府下8地区署から制私服警官警察官・警察学校生徒など、約450名が大阪市城東区関目の大阪府警察学校に集結。午前5時すぎ、自動車・トラック約30台に分乗して多奈川町小田平、朝日、東、湊、深日町兵庫の5地区21ヶ所に急行し、逮捕、押収捜索にあたった。捜査員が被疑者を逮捕しようとした際、人糞を降りかけられる、手を噛まれる、水桶・たらい・マキなどを手当たり次第投げつけられる、クワ・こん棒などを振り回して暴れる、トウガラシの粉を投げて目潰し戦術に出るというようなことがあり、捜査員3名が打撲傷などを負ったが、前回ほどの組織的集団抵抗はみられなかった。この検挙の際、26日の暴行首謀者とされる3名が逃走。緊急逮捕を含む27名の逮捕者は取り調べののち、5名を釈放。残り25名を酒税法、公務執行妨害、傷害、業務妨害などの容疑で大阪地検に送庁、19名が起訴された。3月30日の検挙活動の際、朝鮮人1名が職務質問を受け逃走、追いついた警官ともみ合いになり拳銃の引き金が引���れ、弾が右腹部を貫通、重傷となり、数日後に死亡した 1952年5月1日、血のメーデー事件が起こった。GHQによる占領が解除されて3日後の、第23回メーデーとなったこの日の中央メーデーは、警察予備隊についての「再軍備反対」とともに、「皇居前広場の開放」を決議していた。大会は午前10時20分ごろ開会され、途中、全学連を中心として人民広場への乱入を扇動しようとする乱入者が相次いだものの、午後0時10分に閉会し、同25分より、北部・東部・南部・中部・西部の各コースに分かれて、予定のデモ行進に移った。デモ行進の途上でも、人民広場への乱入を扇動しようとする試みが相次ぎ、一部のデモ隊は当初のコースから外れて投石などを行ったほか、西部コース指導者は人民広場への乱入を拒否したために暴行を受けるなどの混乱が生じたものの、最終的には午後2時から4時にかけて順次に予定の解散地点に到着し、解散した。しかし特に混乱が著しかった南部コースを中心として、日比谷公園で解散したデモ隊の一部は、その中の全学連と左翼系青年団体員に先導され、朝鮮人、日雇い労務者らの市民およそ2,500名がスクラムを組んで日比谷公園正門から出はじめた。警視庁は、会場や行進中には主催者の自主的統制に待つこととしていたが、5,600名の部隊を編成して雑踏警備にあたっていたほか、各署員1万名以上を待機させて即応体制を整えていた。日比谷交差点を通過して無届デモを開始した群衆に対して、まず丸の内警察署長以下60名が制止したが、投石や竹槍・棍棒による攻撃を受け、13名の負傷者を出した。デモ隊は外国人の自動車19台に投石して窓ガラスを次々に破壊しながら北上した。馬場先門においては、第一方面予備隊と三田・東京水上・高輪の3警察署による470名の部隊が警備にあたっていたが、方面予備隊の一部が拳銃および若干の催涙弾を装備していたほかは警棒を携帯しているのみであった。またデモ隊は極めて先鋭的であったことから、周囲の一般通行人への被害も憂慮した方面予備隊長は車道の警戒線を解き、デモ隊は皇居前広場になだれ込んだ。乱入したデモ隊は、二重橋正面で警備にあたる丸の内警察署員および増援の第一方面予備隊2個中隊に対して投石を開始した。祝田町警備巡査派出所ではボックスが押し倒され、警察官は袋叩きにされて拳銃を奪われた。警察部隊は催涙弾を使用して鎮圧にあたり、午後3時頃には暴徒を中央自動車道まで後退させ、にらみ合いの状態となった。しかしこの頃、桜門および祝田橋でも警戒線が突破されたことで暴徒は8,000名に増加した。警察側も逐次に予備隊を配置転換して体制を強化したが、暴徒との攻防は激しく、一部ではやむなく拳銃を使用した。この結果、暴徒が混乱に陥ったことから、警察側は体制を整えて一気に鎮圧を図り、午後3時40分までには暴徒の大部分を広場外に排除した。しかし広場外に排除された暴徒はその後もしつこく攻撃を繰り返し、祝田橋では第一方面予備隊の隊員4名が包囲され、角棒で乱打のうえで凱旋濠に投げ込まれ、更に投石を加えられた。また他の隊員4名も包囲されて同様の暴行を受けそうになり、拳銃の威嚇射撃でやっと難を逃れる状況であった。またこのほかにも、警察官への暴行が相次ぎ、拳銃を奪われる例もあった。午後3時50分頃には、桜門前濠端側に駐車されていた外国人自動車14台を転覆させて火を放ち、炎上させたほか、付近をサイドカーで通行していた交通第一課員を取り囲んで暴行を加え、サイドカーにも放火した。その消火のため出動した消防隊も投石や殴打を受けて13名が負傷、ホースも切り破られた。これらの暴徒も午後4時頃には離散しはじめたが、その後も有楽町巡査派出所が襲撃されたり、また一部は日比谷公園に逃げ込んで投石を続けていた。皇居前広場・日比谷公園が平静を取り戻したのは午後6時過ぎのことであった。これらの騒動の結果、デモ隊側は死者1名、重軽傷者約200名、警察側は負傷者832名を出す流血の惨事となった。当日は警察予備隊の出動も検討されていたが、一般警察力によって収拾されたため、出動を命じられるには至らなかった。 なお、この事件に出動した「予備隊」とは「警視庁予備隊」のことであり、後の機動隊である。警察予備隊のことではない
1952年5月12日~25日、大村収容所事件が起こった。法務省は朝鮮人410人を韓国の釜山に強制送還したが、韓国政府は125人については引き取りを拒否し、日本に送り返した。これらの逆送還者は大村収容所に収容された。逆送還者は、韓国政府の逆送還で収容根拠を消失したと主張し、収容所からの即時釈放を要求した。これに在日朝鮮統一民主戦線が同調し、「逆送還者奪還闘争」が繰り広げられた。11月11日午前10時30分、収容者の代表が所長との面談を申し入れたが、当局がこれを拒否したため、午後3時20分になって暴動が発生した。収容所の警備官や大村市警察の警察官は、催涙弾と消防車でこれを阻止し、ようやく鎮圧した 1952年5月13日、広島地裁被疑者奪回事件が起こった。午後2時55分から広島地方裁判所第二号法廷で勾留理由開示を開くことになっていた。対象となった被疑者は、4月30日と5月1日に、国警広島県本部安佐地区署古市町駐在所と民家に、それぞれ火炎瓶を投げつけて放火した容疑で逮捕された朝鮮人4人であった。勾留理由開示は予定通りに開廷されたが、傍聴席には多くの朝鮮人が陣取り、赤旗や北朝鮮旗が掲げられるなど異様な雰囲気での開廷であった。閉廷直前の午後5時20分、傍聴席の朝鮮人約200人が被疑者と傍聴者を分ける柵を乗り越え、被疑者に手錠をかけようとした看守を妨害して、被疑者4人を奪還した。広島地方裁判所の事務室には、万が一の時のために広島市警察の警察官約70人が待機していたが、現場に駆けつけたときには、既に逃走された後だった 1952年5月26日、高田事件が起こった。民団愛知県本部の顧問は、北朝鮮系の在日朝鮮人の脅迫を受け続けてきた。同年3月には自宅を襲撃されたり、殺害予告のビラが貼られたりしていた。午前5時40分頃、北朝鮮系朝鮮人数十人が顧問宅に侵入、ドアやガラスを破壊したりするなどの狼藉を働いた。顧問は何とか逃げ出し、名古屋市警察瑞穂警察署高田派出所に助けを求めてきた。まもなく顧問を追跡してきた一団が高田派出所に押しかけ、備品を破壊したり火炎瓶を投入したりして焼き討ちした。顧問は警察官の誘導で裏口から退避し、道を隔てた高田小学校正門より用務員室に向かったが、追いつかれ暴行により全治10日の傷を負った 1952年5月31日、奈良警察官宅襲撃事件が起こった。25日、桜井町で民団磯城支部書記長が、旧朝連系の在日朝鮮人に襲われる桜井町事件が発生した。国家地方警察奈良県本部は犯人を検挙し、奈良地検に送致した。5月30日、奈良市警察に国警磯城地区警察署から「在日朝鮮人の一団が奈良市に向かっている」との連絡が入った。在日朝鮮人の一団が奈良地検に突入したため、奈良市警は実力で排除した。このことから、旧朝連系は奈良市警に反感を持つようになった。襲撃を受けた奈良市警の警察官宅は、桜井町事件が発生した桜井町に所在していた。5月31日、桜井町の奈良市警警備課巡査部長宅に約10名の在日朝鮮人が覆面姿で押しかけて戸を叩いた。巡査部長の父親が戸を開けたところ、いきなり暴行を加え意識不明の重体にした。そして窓ガラスや障子を破壊して逃走した 1952年5月31日~6月5日、万来町事件が起こった。当時、宇部市には約3100人の在日韓国・朝鮮人が居住しており、大半が生活保護受給者だったが、市当局は彼らが「日中ブラブラしていた」ことから、「潜在収入がある」として、生活保護費増額を見送っていた。朝鮮人側はこれに激昂し、以降、連日宇部市福祉事務所に押しかけ、市職員を吊るし上げた。6月3日になると約400人に達したため、宇部市警察は全職員を動員して対処したが、朝鮮人側はその隙をねらって、留守中の上宇部派出所を襲撃した。6月5日、宇部市万来町において、朝鮮人解放救援会山口県本部が「民主愛国青年同盟」を結成し、当日は県内各地から朝鮮人が多数集結した。うち約70人が午前11時に宇部興産の工場に乱入、守衛を殴打し、電話線を切断するなどの行為をおこなった。続いて民団の団員宅を襲撃した後、引き揚げた。警察は襲撃犯を逮捕するため、午後2時に解放救援会事務所を包囲した。警察は解散を呼びかけたが、朝鮮人側は投石などの手段で抵抗した。午後3時半より警察は実力行使を開始し、午後4時からは催涙ガス弾も導入してようやく鎮圧した 1952年6月10日、島津三条工場事件が起こった。午後4時頃、トラックに乗った祖国防衛隊所属の在日朝鮮人約50人が、京都市中京区にある島津製作所三条工場に押しかけ、守衛の制止を振り切って中に突入、破防法反対のアジ演説を行った。工場側の要請を受けた京都市警察堀川警察署の署員約15人が現場に急行、五十代くらいの朝鮮人が妨害したため、ただちに検挙し京都市警南部警邏隊のパトカーに収容した。すると、付近にいた朝鮮人約100人��騒ぎ出した。パトカーがサイレンを鳴らして発進し、春日通三条にさしかかったとき、多数の朝鮮人が前に立ちふさがり、車内に火炎瓶を投げ込んだ。パトカーはたちまち火の車となり、道を大きくそれて京都市バスの車庫に入り込み、バスに激突した。乗っていた8人の警察官は重軽傷を負った。検挙者も火傷を負ったが逃げおおせることに成功した 1952年6月13日、醒井事件が起こった。滋賀県坂田郡醒井村では、民団系と在日朝鮮統一民主戦線系の在日韓国・朝鮮人間で対立が起きており、10日と6月11日の2日連続で乱闘事件が起きていた。午前5時頃、国家地方警察滋賀県本部坂田地区警察署の警察官は、被疑者逮捕のために現地に向かったが、朝鮮人は事前に察知し、ピケを張るなどして自宅に立て篭った。朝鮮人側が、投石や棍棒を投げつけるなど被疑者の逮捕を妨害したため大乱闘となったが、警察はこれを鎮圧し公務執行妨害罪で48人を逮捕した 1952年7月7日、大須事件が起こった。日本社会党の帆足計と改進党の宮越喜助の両代議士が、ソ連及び中共を訪問して日本国政府の方針に反する「日中民間貿易協定」を結んだ後に帰国し、6日に名古屋駅に到着した。両代議士の歓迎のために約千人の群集が駅前に集合、無届デモを敢行したが、名古屋市警察によって解散させられた。その際に12人が検挙されたが、その中の1人が所持していた文書から、翌日の歓迎集会に火炎瓶を多数持ち込んで、アメリカ軍施設や中警察署を襲撃する計画が発覚した。7日、名古屋市警察は警備体制を強化し、全警察官を待機させた。午後2時頃から、会場の中区大須球場に日本共産党員や在日朝鮮人を主体とする群衆が集まり始め、午後6時40分頃に歓迎集会が挙行された。午後9時50分に集会が終わると、名古屋大学の学生がアジ演説を始め、その煽動によって約千人がスクラムを組みながら球場正門を出て無届デモを始めた。警察の放送車が解散するよう何度も警告したが、デモ隊は放送車に向かって火炎瓶を投げ込み炎上させた。警察は暴徒を鎮圧すべく直ちに現場に直行したが、デモ隊は四方に分散して波状的に警察部隊に対して火炎瓶・投石・竹槍・プラカードで攻撃を行い、路上の一般の乗用車に放火するなど、大須地区は大混乱に陥った。また、大須のデモ隊とは別に、アメリカ軍の駐車場に停めてあった乗用車を燃やしたり、中税務署に火炎瓶を投下する事件も発生している。この事件で、警察官70人、消防士2人、一般人4人が負傷し、デモ隊側は1人が死亡、19人が負傷した。名古屋市警察は捜査を開始、最終的に269人を検挙した。その内、半数以上が在日朝鮮人だった。捜査の結果、この事件は共産党名古屋市委員会が計画し、朝鮮人の組織である祖国防衛隊とも連携しながら実行に移されたことが分かった 1952年11月9日~12日、大村収容所事件が起こった。5月12日、法務省は朝鮮人410人を韓国の釜山に強制送還したが、韓国政府は125人については引き取りを拒否し、日本に送り返した。これらの逆送還者は大村収容所に収容された。逆送還者は、韓国政府の逆送還で収容根拠を消失したと主張し、収容所からの即時釈放を要求した。これに在日朝鮮統一民主戦線が同調し、「逆送還者奪還闘争」が繰り広げられた。11月11日午前10時30分、収容者の代表が所長との面談を申し入れたが、当局がこれを拒否したため、午後3時20分になって暴動が発生した。収容所の警備官や大村市警察の警察官は、催涙弾と消防車でこれを阻止し、ようやく鎮圧した 1952年11月19日~26日、五所川原税務署襲撃事件が起こった。仙台国税局は警察の協力を得て、青森県北津軽郡板柳町周辺の在日朝鮮人が経営する密造酒工場を摘発し、密造酒約100石、酒粕約400貫、その他容器約200点などを押収、酒税法違反として45名を検挙した。また、摘発を妨害したとして、在日朝鮮人7名を公務執行妨害の現行犯で逮捕した。その後、在日朝鮮人は「生活権の保障」と「職の斡旋」を要求し、国警板柳地区警察署と五所川原税務署に連日抗議活動を行った。11月26日には約60名が五所川原税務署に押しかけて署内に乱入し、署を占拠した
2 notes
·
View notes
Text
展覧会評:「One World: 40 Artists Respond to Covid-19」展
ジュエリーはどのようにして人々の助けになりうるのだろうか?大きな災害が起きた時、ジュエリーに従事する多くの人の心にはこんな質問が思い浮かぶのではないだろうか。
この問いについて考えるのに最適の展覧会がある。「One World: 40 Artists Respond to Covid-19」展である。この展覧会は、アメリカ、ニュージャージー州のGallery Loupeが企画したグループ展で、国内外のジュエリーアーティスト40名が、COVID19のパンデミックへの応答としてネックレスを制作した。感染状況を考慮し、バーチャルエキシビションの形式を取り、デジタルカタログのフォーマットでオンライン公開されている。そのカタログは宝飾史家で金工史家のトニ・グリーンバウムのテキストにはじまり、そのあとに、作品写真、アーティストによるステートメント、本人による着用写真や着用ムービーがならぶ。
感染拡大がもたらす不安は、鑑賞時の心理にも影響をおよぼすらしい。カタログのページを送りながら、わたしは、自分ならどのジュエリーとこの難局を乗り切りたいだろうか、と知らず知らずのうちに考えていた。このような心情はわたしだけではないようだ。トニ・グリーンバウムによるテキストが「新時代のお守り」と題されていることもそれを物語る。また、出品作には、お守りとしての役割を意識したものある。(ただし、お守りにもなるジュエリーをつくることがこの展覧会のテーマでなかったことは、誤解のないよう付言しておきたい)。
お守りを想起させる作品の代表例は、丸い形にトゲを生やしたコロナウイルスの形を模した作品群だ。ビビッドな赤色が印象的なAnnamaria Zanellaの作品や、ビーズをあしらったポップな色づかいのBarbara Seidenathらの作品がこれにあたる。伝統的な魔除けのお守りには、不吉な動物や邪神の姿をかたどったものがあるが、コロナウイルス形のジュエリーは、この流れをうけついでいるといえるだろう。同時に、ミクロなウイルスを拡大し可視化することで、安心感を得ようとする心理が表れていると考えることもできる。
護符の代表的なモチーフという点では、目を扱ったEmiko Oyeの作品にも注目したい。Oyeは長年、玩具のレゴブロックでジュエリーをつくってきたアーティストだが、「One World」展の出品作にもレゴを使い、ライトブルーの目にレインボーカラーの光背を配した『Sunday』を出品した。目は、邪視よけとして人気の高いシンボルだ。この邪視(=evel eye)とは、嫉妬や悪意にかられた人物の視線が、その視線がむけられる相手に災いをもたらすとする、世界の多くの地域で信じられてきた民間伝承である。
お守りという視点からこの作品を見るとき、この邪視よけと関連づけたくなるが、この作品は、邪視ではなくコロナウイルスの感染拡大への応答である点、また、自身が制作する「2 be seen」シリーズ(2019年~)1の一環として制作されている点で、邪視よけとは趣を異にする。このシリーズは、内面に目を向け、NVC(非暴力コミュニケーション)を実践することを、見る者に促すことをコンセプトとしており、そこには目が何度も登場する。ここにおいて目は、NVCを実践する上で必要な、自分のことを見てもらいたいという普遍の欲求に対する理解、自己および他者への関心、またNVCの実践者そのものの象徴している。つまり、このシリーズにおける目は他者への愛を表し、持ち主の心にポジティブな作用をもたらす。自分の気持ちを強く保つこともまた、お守りのたいせつな作用であるならば、Oyeの作品もまた、目というモチーフに新たな意味を吹き込んだ、現代型のお守りと考えることはできないだろうか。
この、伝統のお守りのアップデートという形のもうひとつの良い例が、Shachar Cohenの『Hamsa』である。ハムサは、中東や北西アフリカ諸国、ユダヤ人社会で人気の高い邪視よけの護符で、開いた右手を様式化したものであり、手のひら部分に目が描かれることもある。だが、Cohenのハムサは手のひらが扁平で指が短く、アンバランスだ。そして、その形や大きさから、特定の人物の手を象っていると推測でき、本来のハムサが持つシンボルとしての普遍性を欠く。
また表面の鏡状仕上げにも注目したい。Cohen自身は、この鏡面効果を、セルフィー文化などが象徴する現代社会における自意識の肥大を表すものとして用いているようだが2、わたしが住む日本では、鏡は古くから神の憑代と考えられ、三種の神器のひとつとして聖性視されてきた器物である3。本人はその点を意識せず作っているようだが、ふたつの文化圏のお守りの表象が偶然にも混在しているのは興味深い。同時に、この作品にはお守りの伝統的な形を踏襲しながらも、それにたいする多義的であいまいな態度も内在している。それは、彼自身の見解であるようにも、現代人一般のお守りにたいする見解であるようにも見え、図らずもグリーンバウムのテキストの「新時代のお守り」を体現しているようにも思われる。
ここで、ジュエリーのお守りとしての役割について考えるさいに注目に値すると思われる、ひとつの要素を提示したい。その要素とはしぐさである。
この、しぐさを伴う作品として挙げられるのは、Timothy Veske-McMahonの『Contact』だ。これは温度によって色が変わる塗料を塗った円形のネックレスで、カタログには、作品を身につけたMcMahonの動画が載っている。その動画のなかで、McMahonは編み物をしているが、途中で手を止め、その手を胸元の円形に押し当て、不安まじりの途方にくれたような顔で遠くを見る。そして、塗料の色が変わったころ、ふたたび編み物にもどる。Esther Knobelの作品にもしぐさが伴う。長方形の平たい缶のような陶磁器製の容器に、何とも形容しがたい形のパーツが無造作に入れられたものを下げたネックレスを出品したKnobelは、写真のなかでその容器を手に取り、中をのぞき込んでいる。Knobelでなくとも、この作品を手に取れば、無意識のうちに彼女と同じ動作をとりたくなりそうだ。
Luci Jockelの作品は、オブジディアンという石を楕円状に削りだして作られている。表面はしずく状に刻まれ、その上にハチの羽根が配されている。作品を光に透かすとしずくの形とオブジディアンのストライプとが浮かび上る。それらが作品越しに見える景色と重なり、小さな絵画のような様相をなす。
かれらのポートレートからは、不安と孤独な時間とが透けて見える。MacMahonの表情からは、不安や恐れ。Jockelの作品写真からは、窮屈な状況とそこからの解放への切望。そして、Knobelの、箱をのぞき込むしぐさからは、感染拡大によって急増したひとりの時間に、内省的になりがちな心持。そして、ジュエリーを手にしながら行われるしぐさが、これらの行き場のない感情をまぎらわすためのささやかな手段のように扱われている。だとしたら、それらのしぐさは日常的に繰り返されることで、安らぎの儀式へと変わり、やがてはそのジュエリー自体が持ち主にとってのお守りになりはしないだろうか。
ここではお守りについて、自分が住む国の状況と個人的な見解に基づいて論じてきた。人によっては、わたしの考えに共感を抱けないだろうし、まるでピンとこないかもしれない。だが、お守りとは、ひいてはジュエリーとは、本来きわめて個人的で、その土地の文化・風習を色濃く反映するものだ。また、ジュエリーが持つお守りとしての側面は、ジュエリーを作る人、研究する人、身に付ける人にとって一考に値するテーマであるはずだ。これは、太古の昔から、人々がジュエリーに求めてきた役割であるだけでなく、ウイルスや気候変動など自然への脅威が高まるいま、人々がますますもって必要とする役割でもあるからだ。だからこそ、民俗学や文化人類学的な視点に加え、芸術的側面をはじめ、多様な視点から、お守りとしてのジュエリーの可能性を探ることができると思うのだ。そのさい、先ほど挙げたジェスチャーといった、身に付けて持ち歩けるものに固有の特質に目を向けることは、けっして無駄にはならないと思う。
また、誤解のないようつけ足しておくと、わたしは作り手に、お守りとしてのジュエリーを作るべきだと説くつもりはない。なぜなら、そのジュエリーが持ち主にどのような心理作用をもたらすかは、その持ち主にゆだねるよりほかないからだ。いわゆる伝統的な護符と、現代におけるお守りの違いは、ここにあると思われる。つまり、お守り効果の後ろ盾になるのが、集団的な信仰や風習か、個がそのものに感じる私的な心理的紐帯かという点だ。
ひとつ確かなことを言えるとしたら、そういうジュエリーと巡り合えた人はとても幸運だということだ。そして、これを読んでいるあなたが作り手であるならば、あなたが作るジュエリーだって、弱った誰かの心に寄り添い、力を与えられる可能性を秘めているということだ。そして、それが現実のものとなるならば、それはジュエリーを作る者にとって、大きな幸せなのではないだろうか。たとえそれが、あなたのあずかり知らぬところで起こることであったとしても。
「One World」展は、現在進行形の事象に対するアーティストたちのタイムリーな反応を引き出し、それを後から確認できる形で残している点、そして、展覧会を鑑賞・考察するさいのガイドとなる時宜を得たテーマ(お守り)を同時に提示した点、さらには、苦境においても果敢に制作するアーティストの姿を紹介することで、見る者を勇気づけた点など、複数の側面で意義深くすぐれた展示である。とくに最後の点については、ポートレートという写真の形式の選択が功を奏したといえるだろう。「Stay Home」が世界的な合言葉だった当時、自宅やその周辺で撮影されたと思われる彼らの写真は、見る者に連帯感を抱かせる効果もあった。
ここでは、わたし自身がここのところ「お守りとしてのジュエリー」というテーマに着目していたこともあって、それを軸に話を進めてきたが、もちろん、それ以外の切り口からパンデミックに応答した作品も多い。さらに、ここではしぐさを誘導する作品例として、McMahon、Jockel、Knobelの作品を紹介したが、これはわたし自身がとくに心をひかれたのがかれらの作品であったというだけで、ほかにもしぐさを誘う作品はいくつもある。それぞれの作り手がどんな発想をもってわたしたち全員が体験しているこの大きな事象に向き合ったか、ぜひじっくりと時間をかけて鑑賞してみてほしい。どこにいても、好きな時に好きなだけ時間をかけて鑑賞できることも、オンライン展覧会の大きな利点である。
1. 本展詳細は、Emiko Oyeのウェブサイトを参照:https://www.emikooreware.com/
2. Gallery Loupeウェブサイトの作家紹介ページを参照https://galleryloupe.com/artists/Shachar+Cohen
3. 三種の神器は、日本の神話に登場する鏡・勾玉・剣で構成されており、初代天皇に授けられたとされ、現在もなお皇居および神社に奉納されていると言われている。
2020年9月22日:加筆修正
3 notes
·
View notes
Quote
近年、国連のような国際機関に頼って様々な間題を解決するという傾向は薄れてきて、主権国家がそれぞれの課題に取り組んでいかなければならないという度合いが強くなってきた。そうした中で、国家主権というものが見直されるようになっているのです。その一番大きな要因は、「アメリカ・ファースト」の考え方を鮮明にするトランプという人物をアメリカ国民の多数派が大統領に選んだことです。大統領になってもトランプは、人類の未来はグローバリズムではなくナショナリズムだという演説をしています。 この主権の再確認という潮流は、ヨーロッパではイギリスのEU(ヨーロッパ連合)離脱の動き を契機に顕著になってきました。 EUというある種グローバリズム的な存在では、自国が抱える課題をきちんと解決できない。経済はダメになるし、テロは起きるし、 移民・難民の問題も解決できなく なった。EUの先頭に立ってきたドイツのメルケル首相自身、私の移民政策は間違っていたと認めるまでになっています。主権国家が各自のやり方でやっていかなけれ ばならないという傾向が世界的に強くなっているのです。 (中国の動きで)最も象徴的なのは、アメリカが「強制的経済戦略」と称するものです。これは経済以外の問題を経済の力を使って中国に有利になるように押し付けていくという手法です。、例えば、南シナ海のスプラトリー諸島(南沙諸島)を中国が一方的に獲って、昔から中国の領土だったと主張していることに対して、フィリピン政府は国際仲裁裁判所に提訴しました。すると、中国はその提訴を取り下げさせるために、経済的な手段で圧力をかけてきたのです。 一つは、フィリピンは中国にバナナやパイナップルを輸出しているのですが、その検疫をわざと遅らせました。すると腐っちゃうわけですね。また、中国からフィリピンに観光客が沢山行っていたけれども、中国政府が国民に命令し、それをストップした。こうした国際ルールに反することが、アメリカに対しても行われている。 中国は旧ソ連と遠い、全世界を共産主義にするといったグローバルなことは言って来なかった。とこころが、昨年六月の中央外事工作会議において、中国主導による社会主義的なグローバル統治を目指し、「中国の特色」を世界に広げていくと宣言したのです。これは大変だということで、アメリカの中国に対する姿勢は一層厳しくなって行ったのです。 「国防権限法」(二○一八年八月制定)には、今のアメリカにとっての最大の戦略上の課題は中国との対決であり、中国を抑えていくということがはっきり書かれている。国防戦略や国防権限法には全てトランプが署名しています。 トランプは大統領選の時から、アメリカは同盟関係は大事にするけれども、各国が特に防衛問題はもっと自分でやつてくれと言ってきたわけです。 戦争を防ぐ最善の方法は、想定され得る戦争を戦って勝つ能力を持つことです。負けると分かっている相手には誰もかかって来ませんから、戦争は起きない。ところが、日本の憲法九条はこれと正反対の考え方だからです。日本が軍備を持たなければ平和が維持できるというのが九条の考え方です。確かに、攻められても降伏すれば平和は守られるかもしれない。しかし、それは偽物の平和です。奴隷の平和です。 アメリカの対中政策と今の安倍政権の対中政策とは正反対なのです。安倍さんは、競合から協力へと言っていますが、トランプは協力から競合へとカジを切りました。真逆です。安倍政権に近い人たちは、そこは日米分担で話はついていると言うけれども、これは根拠がない。 中国に日本がついていっても、何も見返りはない。それどころか、トランプ政権周辺では、日本の対中政策は少しおかしい、全然われわれとは違うと言い始めています。 十月下旬、大手研究機関のプルッキングス研究所が、国際関係の専門家が長時間討論した記録をまとめて報告書を公表しました。注目されるのは、トランプ政権の対中対決政策に日本が同調しておらず、そのギャップが日米対立につながる危険性があると強調している点です。
アメリカは日本の対中政策はおかしい、と言い始めた。 | 国際派日本人のためのお勧め記事切り抜き帳
18 notes
·
View notes