#厭離庵の入り口がわかりずらすぎる
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看板が斜めに出てるので 東から西に向かって (清凉寺の方から二尊院や祇王寺の方に) 歩いてると見落とします . (2022/12/01撮影) . #厭離庵 #厭離庵紅葉 #厭離庵の入り口がわかりずらすぎる #紅葉2022 #紅葉 #散りもみじ #散り紅葉 #敷き紅葉 #真っ赤な紅葉 #赤い紅葉 (厭離庵) https://www.instagram.com/p/CloJ_L4P4vE/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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茨戸編での尾形は何だったのか あるいは沈黙する破戒神父・鶴見中尉はなぜ死神を自称するのか
ガッツリ本誌176話まで。
1、序 鶴見と尾形の言説の不思議な酷似
父殺しってのは巣立ちの通過儀礼だぜ…お前みたいに根性のないやつが一番ムカつくんだ
ホラ 撃ちなさい 君が母君を撃つんだ 決めるんだ 江渡貝君の意思で… 巣立たなきゃいけない 巣が歪んでいるから君は歪んで大きくなった
こと江渡貝母への発砲については、私は鶴見の言い分をずっと好んできた。ここでの鶴見の江渡貝への殺害の示唆は正しく思える(母君は元々死んでいたから私にも倫理的禁忌感がない)。鶴見は時折とんでもない正しさで私を苦しめる。硬直した仲間の死体に向かって「許せ」と言う男。同じ4巻の回想には、マシュマロでゴールデンカムイには珍しい雲吹き出しで内面が記されていることも教えて貰った。
まるで死の行進曲のようなマキシム機関銃の発射音 この無駄な攻略を命令した連中に間近で聞かせてやりたい
私は鶴見中尉の内面描写が少ないという通説をとてもとても疑問視している。これはもはや読み手の願望に近く、検���するのであれば幅広い読解が必須であろう。ゴールデンカムイの人物は総じて内面描写が少ない。それところか、当初は梅ちゃんと寅次についてあれだけ饒舌だった杉元の内面は、「俺俺俺俺俺俺俺俺俺」という叫びとは裏腹に、「俺」も、その内面も、徐々に欠落を始めてしまったのだ。15巻にはアシㇼパの顔を思い出せていないのでは無いかと思わせるカットすらある。15巻で杉元の『妙案』が宙に浮いたままであるのは象徴的だ。私たちの心が取り残され、疑問は解決されず、1つの核心だけが深まるーー杉元佐一は自分を失っている、と。この話は杉元が梅ちゃんに認識されるような自分を取り戻す話出会った筈なのに(そしてそれを認知できない杉元は、梅ちゃんに自分を認識してもらえるように視力回復に躍起になる)、旅の過程で彼はますます自己を喪失していく。
これから延々と鶴見の話となる。
2、死神の自称
鶴見は意図的に自分を失わないために死神になることを選んだ男である、というのが私の基本的な考えである。それは「脳が欠けているから杉元佐一は自分を見失っている」という説を遠回しに否定する存在である。だいたいにして脳が欠けていなかったら杉元はスチェンカで相手を殴り続けなかったと言えるのだろうか。まぁ、杉元の話はさておくとして、それはおそらく尾形のこういった態度と対照づけることも出来る筈だ。
俺のような精密射撃を得意とする部隊を作っておけばあんなに死なずに済んだはずだ
今となってはどうでも良い話だが
鶴見は「今となってはどうでも良い」をやり過ごさなかった男である。一度は鶴見の腹心の部下であった筈の尾形は、戦後も心を戦場に置いてきたのではなく、戦場の側を自らに引き寄せようとする鶴見(や土方)にたいして冷笑的な視点を浴びせ続ける。
仲間だの戦友だの……くさい台詞で若者を乗せるのがお上手ですね、鶴見中尉殿
変人とジジイとチンピラ集めて 蝦夷共和国の夢をもう一度か?一発は不意打ちでブン殴れるかもしれんが政府相手に戦い続けられる見通しはあるのかい? 一矢報いるだけが目的じゃあアンタについていく人間が可哀想じゃないか?
ここでの尾形の「正しさ」は、鶴見の「正しさ」とは違い私の心の拠り所になっていた。尾形が��いい人になれるよう 神様みていてくださろう」に適合するような行動をすると私はいちいち救いを求めてしまい、彼の行動がいつも噛み合わず言説が否定されるのを見てこの男の救いのなさに頭を抱えていたのだ(まさに本誌の『176話 それぞれの神』で現れた関谷の神にすがる心情である)。そして鶴見は、月島をある意味救ったが、尾形を救うのには失敗した。むしろ鶴見は尾形を利用するだけ利用していたように思えた。
尾形と鶴見と親殺しは4度交錯する。江渡貝。花沢中将。月島。ウイルク。
外敵を作った第七師団はより結束が強くなる 第七師団は花沢中将の血を引く百之助を担ぎ上げる 失った軍神を貴様の中に見るはずだ よくやった尾形
たらし めが…
尾形にとって鶴見の取り巻きであることが幸せなのかどうかは分からないが、他の造反組や、あるいは役目を見つけて下りた谷垣とは異なり、尾形は鶴見を『切』った、数少ない人物である。尾形は、月島同様戦前から鶴見の計画に加担していたのにもかかわらず、鶴見中尉から月島と同じ様に扱われなかった人間でもあった。
江渡貝の母殺しに関しては鶴見にも見るところがあると考える私も、この鶴見の花沢中将殺しにおける尾形の扱いが原因で、長らく鶴見のことをよく思えずにいた。さらに15巻149話、150話で鶴見が月島を父親殺しから救った(?)事実や、本誌にて戦前から尾形が鶴見の��で勇作を篭絡および殺害しにかかっていた事が判明した事を鑑みて、鶴見の風見鶏的態度に辟易していた。加えて言うのなら、ゴールデンカムイの中に時折現れる聖書に基づく表象や、それに対するキリスト教に軸足を置いた読み解き方というのは私が最も苦手とするところであったが、一方で鶴見が71話の表紙にて不完全に引用された聖書の一節を通じて『にせ預言者』(マタイ7:15)であると示されていることを筆頭に、いくつかのキリスト教的モチーフを(ところどころで反語的に)取り込んだキャラクターであることも否めずにいた。
にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。(wikisorceの口語訳より)
そもそも鶴見もまた、その他大勢のキャラクターおよび我々と同様、多面的な人物として描かれている。偽預言者であり、彼の演説はヒトラーのパロディとして描かれるほど(作者によるとミスリードらしいが。Mislead? Misread?)だ。そして、外敵に対しては自らのことを死神と称しながらも、仲間に対してはむしろ告解をうける神父の役割に近いものを演じ、坂本慶一郎とお銀の息子の前では聖母マリアとなり、月島や杉元と共有する傷は、スティグマと見ることも出来るだろう。キャラクターデザインには、明らかに鶴の要素が取り入れられている。さらには編集者のつけた仮面を被る悪魔、という表象ですら許容される向きにあるのだから、鶴見も大変である(悪魔という呼称は江渡貝の母によっても齎されている)。私がこの鶴見という、出自も分からぬいろんな人形が載せられたクリスマスケーキを長らく食べる気になからなったのは、そこに土俗の信仰と西洋的信仰が混ざり合って、あまつさえ鶴や死神の細工菓子まで載っていたことを考えると不思議ではあるまい。
私はどこかで、にせ預言者としての鶴見、という表象の正当性についてすら、もしかして議論になるのではないかと辟易している。不信の徒である私の読み解ける事項など限られていることは重々承知だし、そもそも私はゴールデンカムイを読み解くときに、作中での記載を第一に考え、外的世界に存在するマキリで作品をチタタプしない様に細心の注意を払ってきた。最近ラジオが出現したことで、ようやく文言に尽くし難かったそのバックグラウンドをまとめる事ができたような気がするが、私は解釈を取り払った読み方が先にくることを好むし、そもそも『らしさ』への拘泥は私の目を曇らせるのではないのかと考えている。とりわけキリスト教を扱う時には、竹下通りで千円で買った十字架のアクセサリーを身につける女の子のようにならないためには、むしろ触れずにいるのが一番なのではないかと長く考えていたものだった。それが私の最低限の敬意の示し方であった。
とはいえ、キリスト教と日本の間での困難を感じていたのは何も私だけではなかった。多くの作家がそれに苦しみ、むしろその困難を以って、日本を描き出そうとする作家もいた。もちろん私の考えでは、作家の作るものに於ける宗教的解釈は、仮に異端であっても一つの芸術作品になり得る一方で、評論家の宗教的解釈の異端さは、単なる誤読として片付けられる可能性がより高く、慎重を期するものであるのだが…。しかし私はだんだんと、そういったキリスト教と日本の狭間で描かれた作品であれば、鶴見像を見出せるのではないかと思う様になっていった。もっと言えば、私がキリスト教的表象を前��して立ち竦む、その逡巡自���を語ることならできるのでは無いか、と思う様になったのだ。
「にせ預言者ー貪欲な狼」「ヒトラー(ミスリード)」「マリア」「告解を受けるもの」、そして「聖痕」…を持つ「悪魔」で「死神」…の「鶴」をモチーフとした「情報将校」。
「にせ預言者ー貪欲な狼」に対してのとても簡潔な読み解き方は、単に鶴見が偽の刺青人皮を作ろうとしている、というものである。もう少し解釈を広げれば、鶴見が北海道の資源を活用して住むものが飢えない軍事帝国を作ろうと嘯くことであろうか。
軍事政権を作り私が上だって導く者となる お前たちは無能な上層部ではなく私の親衛隊になってもらう
これはヒトラーとして描写されていること(繰り返しとなるが、作者によるとミスリード)でもあり、ヒトラーとはたとえばその土地の出身では無いという点などでも共通点が見られる。実際には北海道はロシアと違って天然資源には恵まれておらず、またその後の軍事政権というトレンドの推移、戦争特需にも限りがあることを考えれば、金塊を持ってしても独立国家としての存続がおよそ不可能であっただろうことは見て取れる。
3、マリア、そして告解を受ける破戒的神父としてのあべこべさ
面白い事に、聖母として描かれる鶴見はほとんどもって無力であり、子をアイヌ的世界に属するフチに預ける事しか出来ない。
一方で「告解を受けるもの」、すなわち神父としての鶴見は極めて破戒的である。鶴見への告解は子羊たちの救済を意味しない。鶴見は誰とも共有すべきではない告解を共有することで、結束を強める「見返り」を期待する者である。教会に於いては告解の先には主による赦しがあることが期待され、十字架に架けられたキリストの苦難がそれを象徴していた。一見してキリストの苦難は鶴見の告解室においては「戦友は今でも満州の荒れた冷たい石の下だ」で代替されている。しかし鶴見の厄介さはその様な単純な構造におさまらないところである。一方で満州を彼らのいる北海道と分けて見せるそぶりを見せながら、時として「満州が日本である限り お前たちの骨は日本人の土に眠っているのだ」と口にし、それどころか戦争の前から月島・尾形らと何かしらの謀略を図っていたことすらわかり、『我々の戦争はまだ終わっていない』という悲壮にも満ちた決意が段々と『戦争中毒』である鶴見のハッタリであったことに我々は気づかされる。
彼への告解は何もかもがあべこべであり、神父の皮を被りながら極めて破戒的である。洗礼後ではなく洗礼前――つまり第七師団入隊前――の罪を、谷垣に至って��あまつさえ衆人の前で告白させ、傷を共有させる。告解が終わった後に司祭は「安心して行きなさい(ルカ7:50)」というものだが、鶴見は自分に付いてきてくれるように諭すのだった(「私にはお前が必要だ」)。
破戒というのはあまり神父に使う言葉ではない。それでも、島崎藤村の『破戒』は、聖書のモチーフを色濃く反映させながら、被差別階級とその告白を描いた作品だったのだから、やはり破戒、と言う言葉はここにふさわしい気がする。
『破戒』において島崎が真に目指したのは、「身分は卑しくてもあの人は立派だから別」という、個人の救済を批判することであった。そのような個人の救済は、いわば逆説的に被差別階級の差別を補強する、矛盾した論理であったのだ。
この論理は2018年にも広く流通した。杉田水脈氏がLGBTに生産性がないと発言したことに、一部の人が、アラン・チューリングやティム・クックといった生産性のあるLGBTの名前を挙げて反論を試みたのである。このような言説が流布した後、リベラル派は、自分たちの身内の一部に対して、「生産性のないLGBT」が仮にいたとしても、その人たちも等しく扱われなければならない、とお灸を据えなくてはならなかった。
これこそ私が鶴見の恣意的な月島の依怙贔屓を、そして尾形の利用を、いまだに批判すべきだと考える理由である。
外敵を作った第七師団はより結束が強くなる 第七師団は花沢中将の血を引く百之助を担ぎ上げる 失った軍神を貴様の中に見るはずだ よくやった尾形
誰よりも優秀な兵士で 同郷の信頼できる部下で そして私の戦友だから
私はこの差異に於いて鶴見を許す気は毛頭ない。それは、私が谷垣を愛しながらも、アシㇼパを人質に取った事を未だに許していないのと同等である。谷垣を受容するに至った経緯が、私に鶴見というキャラクターを拒絶する理由は最早ないことを教えてくれた。そしてよくよく読み解いてみると、この、一見すると月島への依怙贔屓ですらあべこべなような気すらしてくるのであった。
4、主格の問題 ー 「死神」という主語について
ここにおける問題は『主格』に於いても明らかだ。鶴見が月島に話す時の態度は、軍帽を脱ぎ、主語は「私」、時折「おれ」と自らを自称する親しみのあるものだ。その一方でしかし尾形へは軍帽またはヘッドプロテクター(仮面)を装着して主語をあろうことに「第七師団」に置いている。尾形の父殺しについては未だに謎が多く、発端が誰なのか(花沢中将自身・尾形・鶴見)、なぜ花沢中将が死装束を身につけられたのかを筆頭に、また鯉登少将への手紙をいつ誰が書いたのかも問題となろう。よって、尾形が鶴見への忠誠心を失いつつも自らの父殺しの願望を成就させるために鶴見の案に乗っただけなのかどうかは、よくわからない。とはいえ、自らが時に「どんなもんだい」と誇示さえする狙撃手としての腕を買わなかった第七師団への離反は、狙撃手と対称をなすような旗手としての勇作を評価し、勇作の殺害作戦を撤回した鶴見への、勇作の狙撃をもっての”謀反”を契機として、花沢中将死亡時に、すでに尾形の胸の内にあったと考えるのが自然であろう。加えて尾形も、どこかの段階で破戒的神父・鶴見への告解というステージを踏んでいたことも想像に難くない。
このように読み解いていくと、単に鶴見は月島にだけ心を許しているようにも読めるのだが、そうは問屋が卸さない。まずはいご草への呼称問題である。月島は自らのことを『悪童』ではなく『基ちゃん』と呼ばれる事に意義を見出しているのに、彼女の事を『いご草』と表現する(本当は鶴見との会話の上でも名前で呼んでいたのだろうが)。さらにそれを受けて鶴見は『えご草ちゃん』と彼女の非人格化を進め、さらには自らの方言も決して崩さないことで会話の主導権を握る。加えて、私は長らく、江渡貝と炭鉱での爆発に巻き込まれ、煤だらけで雨の中を帰ってきた月島への労いの少なさにも違和感を抱いていた。これも一つの「あべこべ」なのかもしれないし、あるいは月島への圧倒的信頼が根底にあり、彼なら心配に及ばないと考えていただけなのかもしれず、もしくは鶴見がヘッドプロテクターという仮面をつけた時の「死神」としての決意の表れかもしれない。
「死神」を自称すること。
そもそもにおいて、我々が日々感じている他人への判断、偏見、予断の集合体、例えば、あの人は秋田出身で大柄で毛が濃く少々ドジなマタギである、と言われたことによって”我々が想起する予断と偏見”と、漫画を切って話すことはできない。小説よりもさらに視覚的な漫画という分野においては、ステレオタイプと”キャラ”立ちするための記号化というのはほとんど隣り合わせにあり、分離することがむずかしい(この論だけで何百ページも割かなければ説明できないであろう)。それでも、だ。この作品のキャラクターほど、「あの人はこう言う人だから」と型に嵌める行為が適切ではない作品もないのではないか。
作品内で繰り返される「あなた どなた」という問い、あるいはその類型でのマタギの谷垣か兵隊さんの谷垣かどっちなのか、山猫の子は山猫なのか、という問い、そしてその問いに対するわかりやすすぎる「俺���不死身の杉元だ」という回答を、繰り返しながらもゆるやかに否定し続ける世界線の中で、「私はお前の死神だ」という言葉は鶴見の決意と選択を象徴しながらも、結局のところ杉元の「不死身」の様にアン��バレントな価値を持つ言葉の様にすら思える。
鶴見と杉元はスティグマを残す男である点も共通している。鶴見は月島が反射的に自らを守った際に微笑み、二人はその後スティグマータを共有する人物になった。
杉元と傷の関係については未だに謎が多い。彼自身が顔につけた傷についても多くが語られる事はない。時間軸として1巻以降で彼が顔に受けた傷跡はかならず治っていくのに、彼が周りに残していく傷は確実に相手に痕を残していく。なぜ尾形が撃った谷垣の額の傷跡は消えたのに、杉元が貫いた頬の傷はいつまでたっても谷垣の頬から消えず、尾形の顎には縫合痕が残り、二階堂は半身を失い続けているのか、分からないままだ。ずっと分からないままなのかも知れない。
そしてウイルクもまた、顔に傷を残す男性である。傷を残しても役目を終えない男たち。聖痕と烙印ーー両極な語義を内包するスティグマータを共有し合う男たち。それはかつての自己からの変容であり、拭い去れない過去の残滓でもある。そしてそれは、作中の男性キャラクターたちが「視覚」を中心として動き回ることと決して無関係ではないが、ここではその論に割く時間はない。
「あなた どなた」に対してあれほど口にされる「俺は不死身の杉元だ」を“言えない”こと。この言えない言葉について、私はどれだけの時間をラジオに、文章に、割いて来ただろうか。そのことを考えると矢張り、「あのキャラクターはこうだから」と言う解釈がいかに軽率にならないかに気を使ってしまう。たとえば鶴見においては、まさに本人が、「俺は不死身の杉元」よろしく「私はお前の死神だ」と言っているのだから、もうそれで良いではないかと言う気がする。「不死身の杉元」は杉元が不死身ではないからこそ面白みの増す言葉であるように、今まで見てきた通り鶴見も何も「死神」だけに限定するには勿体無いほどの表象を持っているが、その中で杉元が、ある種の悲痛な決意を持って、半ば反射的に「不死身の杉元」と口走る一方で、「死神」にはもっと計画的な、そして底が知れぬ意志の重みを感じるのは私だけだろうか。「不死身の杉元」にも感じないわけではないが、「死神」はより一層”選択”であった、という感じがする。偽の人皮を、扇動を、月島を、傷を、周りに振り回されることなく自ら道を切り開いて”選ぶ”という高らかな宣言が、「死神」である、という感じがする。
5、「運命」と「見返りを求める弱い者」
『役目』を他人に認めてもらうことが作品内でどれくらい重要なのかは難しいところだ。谷垣源次郎が役目を見出し、果たす事を体現するキャラクターとして描かれ、見出す事、果たす事の重要性は単行本の折り返しから我々に刷り込まれているとは思うが、その結果としての他者承認は必須なのだろうか。杉元や尾形が他者承認を執拗に追い求めている様に見える一方で、白石が、��スター宮沢、熊岸長庵、アシㇼパ、杉元と、認めないー認められないことをずっと体現し続けているのもまた面白い。
長年の谷垣源次郎研究の成果として、谷垣の弾けるボタンは、インカラマッが占いきれない予測不可能性と、それを元にした因果応報やら占いに基づく予測的行動の否定の象徴であると気付いて、私はだいぶスッキリした。網走にいるのがウイルクである可能性は彼女の占いに基づくと50/50であるが、これがウイルクではないと100/0で出ていたとしても、彼女は網走にそれを確かめに行かなくてはならなかっただろう。それは北海道の東で死ぬと知っていながら網走に行く選択をするのと同根であり、いずれボタンが弾けとぶと知っているからと言ってボタンを付けない理由にはならないこと、またはボタンが弾け飛ぶからといって、彼女が谷垣に餌付けするのをやめはしないことと共通する。そもそもにおいて自分の死期を悟っている、ある種の諦念を持つインカラマッの行動は、途中から愛に近しいものを手にいれるにつれ、淡い未来への希望と言語化されない献身を併せ持つものになりつつあった。未来への希望と言語化されない献身……そういったものの為に嘘をつくことすら厭わない女たちを総括して、二瓶は『女は恐ろしい』と称し、自分たちの行動原理では理解不能なものとして警戒していたのだった。二瓶の持つ『男の論理』は、明白な見返りを望むものだったからだ。谷垣もその例に洩れず、インカラマッは怪しい女だからといって救わずにいようとすらしたし、彼女と打ち解ける様になった後も、その『女の論理』の如何わしさを感じ取って、彼女と寝る際には、やましさから『男の論理』の権化である二瓶の銃を隠し、彼女と寝た後には、その求愛は彼女を守らせるための行動ーーすなわち明白な見返りを求めた打算ーーだと考えすらしたのだ。もちろん、彼女自身のかつての行いによって、それを谷垣に見えづらくして、当たりすぎる占いが谷垣の心を遠ざけているのも皮肉であるし、その当たりすぎる占いが全て占いではなかったことは皮肉であった。妹を亡くしていること、アシㇼパの近くに裏切り者がいること、東の方角が吉と出ていることは、すべてインカラマッが既に知っていたことであり(探しているのはお父さんだという占いも同等)、キロランケの馬が勝つかもしれない可能性や、三船千鶴子の場所を言い当てるだけの能力を持ちながら、占い師としての力を使わず内通者として動いたことで、彼女自身が彼女を『誑かす狐』に貶めてしまっていた。彼女が溺れる話の表題が『インカラマッ 見る女』なのは、そんな彼女の人間性の回復を示唆しており、それは彼女自身が占いから逃れて、弾け飛ぶボタンの行き先ような、予測不可能性に身を委ねることであった。
「最悪の場合、こうなるかもしれないからやらないでおこう」だとか、「相手がいず��自分にそうしてくれるはずだから、今こうしよう」という報酬と見返りの予測に基づく行動とその否定は、ゴールデンカムイを読む上で極めて重要な要素だと考える。
予測に基づく行動の抑制を行わない登場人物たちの決定は、残念ながら愛のみではなく、殺しと暴力も含まれる。即断性という言葉で言い表すこともできるかもしれない。私はこれをよく『反射的』という言葉を用いて説明している。私に言わせれば、極めて幼稚な、原始的な論理であり、月島が鶴見を助けたのもこれに分類される。それで鶴見が満足をしたのは、それはそれで鶴見の孤独を浮き上がらせる。反射とは、結局のところ「そうするしかなかったんだ」という男たちの言い訳に使われるものでもであり、杉元が初めて尾形に会った時に川に突き落とした時の口ぶりと100話の口ぶりなどは、まさにその代表例である。杉元という人物の中では、そのような反射的な即断性と、殺したものの顔をずっと覚えているという保持性の二つの時間軸が交差しており、その内的葛藤が我々を強く惹きつけている。そしてそこから、杉元が持つ時間軸は「地獄だと?それなら俺は特等席だ」「一度裏切った奴は何度でも裏切る」という回帰性、または因果応報性にまで波及するのだが、その思考の独特さは「俺は根に持つ性格じゃねぇが今のは傷ついたよ」という尾形の直線性と対をなす。尾形は直線的に生きていかなければ耐えきれない程の業を背負っている。それでも過去は尾形を引き止めに来る、杉元が梅ちゃんの一言を忘れられないのと同等に。
即断性/反射的の反語はなにも計画的/意図的なことだけではない。極めて重要な態度として、保留があり、現在この態度はインターネットが普及して、即時的な判断とその表出のわかりやすさが求められるようになったことで、価値が急速に失われつつあるが、明治期においても軍隊の中では持つことが叶わなかった態度であっただろう。保留を持つキャラクターの代表格こそ、白石由竹であることは言うに及ばないであろう。
保留を持ち得なかったものたちが代わりに抱くのが反発か服従であり、造反組は勿論のこと、気に入らない上官を半殺しにした杉元と、諦念に身を任せて問いすら捨てた月島を当てはめることができるであろう。
その即時性や保留や反発や服従を生み出すのが、自らを死神に例える鶴見であり、鶴見はまさに意志の人、意図の人、計画の人である。そして仲間に対して「相手がいずれ自分にそうしてくれるはずだから、今こうしよう」という見返りを期待して関係を構築する人である。これも、私が彼を苦手としていた理由の一つであった。しかし繰り返しになるが、鶴見の”選択”は、「即時性や保留や反発や服従」を生み出す。そして本編では、どちらかというと出だしから鶴見からの離反者ばかりが描かれ、人たらしの求心力を持つ魅��的な人物であるということを読み解くまでに、私はじっくりと長い期間をかけなければならなかった。「先を知りたくなる気持ち」「ページをめくる喜び」を強く求められる男性向けの週刊連載において、保留の態度を試されていたのは、読者の方であったのだ。
それでもなお私は、裏切られる鶴見、離反される鶴見というものを立ち返って見るにつれ、この男の立場の脆さというのを改めて重要な要素として捉えるようになったのだ。
それは「死神」とは遠く、自らの周りを賞賛者で固めた男の、ともすれば惨めとすら言える姿であった。そして私は遂に「死神を目指す弱い男」、鶴見を見出したのであった。
そこで大事なのは、鶴見が「死神」になろうとしている、というただ一点であった。それはおそらく尾形が銃に固執するのと同等の、自己決定権のあくなき希求であった。
11巻で尾形は言った。「愛という言葉は神と同じくらい存在があやふやなものですが」。その11巻で鶴見は愛を見出していた。「あの夫婦は凶悪だったが…愛があった」。そして同じ巻で、鶴見はふたたび高らかに宣言したのだ、「私は貴様ら夫婦の死神だ」ーーと。
以上の文章は既に3週間以上前に書いたものだったのだが、本誌ではさらに「神からの見返りを求める弱い男」として関谷が登場した。この「弱い」という言葉は私の元ではなく、イワン・カラマーゾフが『カラマーゾフの兄弟』の一節『大審問官』にて述べた、大部分の信者を指す言葉である。さらに本誌では、私が谷垣とインカラマッの関係に見ていた「予測不可能性」を、ある意味逆手に取った様に、自分への逆説的幸運をもたらす人物として門倉が描かれ始めた。私は一読して彼は谷垣の類型であると感じ取ったが、それは即ち尾形の「かえし」である事も意味することを忘れてはならない。尾形はキロランケが神のおかげだと言った直後に、「俺のおかげだ」「全ての出来事には理由がある」と神の采配を否定するような男だからだ。
すべてのあやふやな存在に輪郭を持たせ、弾け飛ぶボタンを先にむしり取っておこうという「覚悟」。その覚悟の名前が「死神」。私にとっては、それが最もしっくりくる「死神」の捉え方であるような気がした。
覚悟については鶴見の口から15巻でこのように語られる。
覚悟を持った人間が私には必要だ 身の毛もよだつ汚れ仕事をやり遂げる覚悟だ 我々は阿鼻叫喚の地獄へ身を投じることになるであろう 信頼できるのはお前だけだ月島 私を疑っていたにも拘らず お前は命がけで守ってくれた
そう思うと尾形と月島の扱いの差にも、月島へのあの苦しい弁明も納得がいくような気がした。
6、月島への『言えなかった言葉』
話は最後まで聞け 月島おまえ… ロシア語だけで死刑が免れたとでも思ってるのか?
初読時にはこの物言いは癪���障った。そこまで自明のことだと思うのなら。そうやって父の悪名を利用して月島を助けたのなら。月島にそう言えばいいじゃないか、と思っていた。しかしそれは、結局の所「ゴールデンカムイ」の根底を為す、『言えなかった言葉』の一種であったのだ。9年間、鶴見は自分の工作を月島に明かすことが出来なかった。それは杉元が、いずれ梅子に再び見出してもらう未来を目指している期間(つまり本編)よりもっともっと長い時間であるような気がする。その事実だけがまずは大事で、それに対して色々な意味づけをする前に、私は鶴見が”言い淀んだ”事実に向き合わなければならなかった。私は鯉登でも宇佐美でもないのだから、鶴見を信望する必要などなかったのだった。裏切りたくなるほど痛烈に、その存在を意識すればいいだけであった。
そして、理由はどうであれ『言えなかった言葉』を9年間抱えていた鶴見には、やはり弱さという単語が似合った。もし、もし本当に、月島の父親の家の地下から掘り出されたのが白骨であったのなら、10日前に行方不明になったいご草ちゃんが月島が逮捕されてすぐに掘り出されたのだから、白骨化するのには時間がかかりすぎるので、ジョン・ハンターよろしく骨格標本を作るような細工でもしない限り、髪やら服やらで誰だかすぐに分かってしまう。だから、きっと鶴見の工作は説得力のある良く出来たものであったのだが、それですら、月島に言えなかった、という事実の確認。
月島をどうしても手元に置いておきたかったのだろう。「告解を受けるもの」であった鶴見が月島の前では弁明をする男に成り下がる。それでもそこで「スティグマ」が2人を繋ぎ止める。鶴見は言った。「美と力は一体なのです」。そして彼の言葉にある”美”の定義は彼の顔の傷をも厭わないものであった(二階堂が本当にヒグマを美しいと言ったかどうかは大きな疑義が残るが)。この点に関しては、私はずっと鶴見の考え方に感心させられていたものだった。自らを美しいと定義してしまえば、もはや何も恐れるものはない。
ますます男前になったと思いませんか?
これは鶴見が自らの容姿に(杉元のように)無頓着であるとか、または本当にますます男前になったと考えている訳ではない、と考える。15巻で大幅に加筆された鶴見のヘッドプロテクター装着シーン。
どうだ 似合うか?
鶴。
杉元の言を借りよう。
和人の昔話にも「鶴女房」って話があってね 女に変身して人間に恩返しするんだけど 鶴の姿を見られたとたんに逃げていくんだ
鶴の頭部を模したヘッドプロテクターは、おそらく杉元が被り続ける軍帽と同種のものである。とはいえ杉元は軍帽をなぜか捨てられない男として描かれているのに対し、鶴見はむしろ「覚悟」の顕在化としてヘッドプロテクターを装着している。そしてその内部には、自ら御することすらできない暴力への衝動があり、その暴力を行使する時に、そのヘッドプロテクターからあたかも精液/涙のように変な汁が”漏れ出る”。編集の煽りによるとこれは「悪魔」の「仮面」である。たかだか煽りの一文を根拠に、悪魔かどうかを議論するのはかなり難しいが、それでもやっぱりヘッドプロテクターが「仮面」であるというのは、意を得た一文と言って良いのではないだろうか。それは不思議にも姿を隠す鶴の昔話に符合する。
正直に言おう!鶴見が悪魔だったらどれだけ解読が楽だった事か!原典が山ほどある。しかも悪魔は二面性を持つ。ファウスト 第一部「書斎」でメフィストフェレスはこのように話す。
Ein Teil von jener Kraft, 私はあの力の一部、すなわち
Die stets das Böse will und stets das Gute schafft. 常に悪を望み、常に善をなすもの。
Ich bin der Geist, der stets verneint! 私は常に否定し続ける精霊。
Und das mit Recht; denn alles was entsteht, それも一理ある、
Ist wert dass es zugrunde geht; すべてのものはいずれ滅びる。
Drum besser wär’s dass nichts entstünde. であれば最初から生まれでない方が良かったのに。
そしてイワンの夢の中で、スメルジャコフは「メフィストフェレスはファウストの前に現れたとき自分についてこう断じているんです。自分は悪を望んでいるのに、やっていることは善ばかりだって。」と、ファウストに言及するのであった(第四部第十一編九、悪魔。イワンの悪魔)。
このファウストの素敵な一節にはいずれ触れるとして、鶴見は悪魔を自称はしないことを念頭に先を急ごう。
この情報将校を語る上で、最も大事な事象は彼が自身を「死神」と定義することだと私は考えている。そんな中で、数々の日本的ーキリスト教的装飾に彩られ、たとえば「スティグマ」というキリスト教的文脈で鶴見に聖痕/烙印という聖別を与えることを全く厭わない私からも、「死神」がキリスト教的であるかどうかには首をひねってしまう。よしんばキリスト教のものを作者が意図していたとして、「死神」という訳語を当てるのは、デウスに大日という訳語を当てたザビエルの如き、弊害の多いものであるように思える。もしかしたら鶴見はpaleな馬に乗った男であり、隣に連れるハデスが月島か何かであり、第一~第三の騎士が鯉登、宇佐美、二階堂のいずれかの人物であるのかもしれないが…それにしても示唆する表現が少なすぎるのだった。このことは私を悩ませた。というのも鶴見をキリスト教的に読み解くという行為は、私にとって禁忌だからこそある程度の魅力を感じさせるものだったからである。ましてや鶴見を「弱い神」と位置付けるならなおの��とであった。日本におけるキリスト教的神は、決して強者たりえない。強者だと感じていたらこの程度の信者数には収まっていない。そもそもゴールデンカムイには何となくキリスト教を思わせるような描写が散りばめられており、それでもいかにそれが合致していてもその文脈で語る必要はないのではないかと思われる事象も多々ありつつ(たとえばアシㇼパによる病者の塗油をサクラメントとして読み解く必要はないと感じるなど)、その禁じられた評論とやらを、試しにやってみるとこうなる。
そもそもにおいてまず、キリスト教に触れること自体に禁忌感がある、というのは既に記した通りだ。「スティグマ」「マリア」一つに取っても、私にとっては言及する前に、日本的キリスト教観について長大な考えを巡らせることがそもそも不可欠であった。キリスト教自体は現地の土俗宗教を取り込んで来たが、こと日本においてはそれすら叶わず、日本的キリスト教観というのは、おおざっぱに言えば日本の多神教感との習合ということが出来るかもしれないが、むしろ、日本の側がキリスト教の本質を捉えることなくキリスト教を取り込んでいく、という逆転現象の方が著しいほどだ。
評論家における教義の解釈のズレは、ともすれば不勉強や読み違えとたがわない為、私も慎重にならざるを得ない。しかし創作者における教義や解釈のズレは、等しく芸術となり得る力を持っているのであって、私はそれを読み解いて良いのかどうなのかずっと逡巡していたのだった。日本に於いてキリストを描くことの可能と不可能は、作家自身がキリスト者であった遠藤周作が身をもって体現していた。遠藤の描く神は一部で絶賛を受け、2016年にマーティン・スコセッシが映画化したことも記憶に新しいが、一方でカトリック協会の一部からは明白な拒絶を受けた。そして彼の描く神は、誰かを救う力を持つような強い神ではなく、弱い誰かに寄り添うような神であった。
鶴見は「愛という言葉は神と同じくらい存在があやふや」であるものに、覚悟を持って形を付けていった。それは日本人に許された特権であるかもしれない。ゴールデンカムイの作品世界の中で「神」「運命」「役目」が目に見えぬ大きな力としてキャラクターを飲み込む中(そしてそれが本誌に置いてリアルタイムでますます力を持とうとし、ともすれば谷垣のボタンすらそれに組み込まれてしまうのではないかという恐怖に怯えながら)、鶴見はひたすらに自律できる人生を求めている。運命を意のままに操ることへの飽くなき渇望。その裏返しとして彼は大嘘つきとなった。
そんな大嘘つきの鶴見ですら、嘘すらつけなかった事実が月島をあの手この手で自らの手元に置いておこうとした事実であった。9年間も彼はその努力をひた隠しにしようとした。それは大嘘つきの死神に存在した「俺は不死身の杉元だ」と同義の『言えなかった言葉』であった。奇しくも遠藤周作は、まさにこの国での神との対話の困難さについての一片の物語を、まさしくこのように著したのである――『沈黙』と。
対話の不可能さには逆説的な神性がある。
それはアイヌのカムイにおいても同じである。だからこそ送られるカムイに現世の様子を伝えてもらおうとし、それでもバッタに襲われた時にキラウシは天に拳を振りかざして怒ったのだ。しかしカムイとキリスト教的神の間には決定的な違いがある。キリスト教的神は全てを統べているのだ。そして「知って」いる筈なのだった。長年このことは日本の作家を悩ませていた。遠藤の『沈黙』においても、主人公は繰り返し、聖書におけるユダの記載、そして「あの人」がなぜユダをそのように取り扱ったのかを問うている。
だが、この言葉(引用者注:「去れ、行きて汝のなすことをなせ」)こそ昔から聖書を読むたびに彼の心に納得できぬのものとしてひっかかっていた。この言葉だけではなくあのひとの人生におけるユダの役割というものが、彼には本当にところよくわからなかった。なぜあの人は自分をやがては裏切る男を弟子のうちに加えられていたのだろう。ユダの本意を知り尽くしていて、どうして長い間知らぬ顔をされていたのか。それではユダはあの人の十字架のための操り人形のようなものではないか。
それに……それに、もしあの人が愛そのものならば、何故、ユダを最後は突き放されたのだろう。ユダが血の畠で首をくくり、永遠に闇に沈んでいくままに棄てて置かれたのか。(新潮文庫 遠藤周作『沈黙』p.256)
当時若干25歳の萩尾望都が抱いたのも全く同じ疑問であった。編集から1話目にて打切りを宣告されるも、作者自ら継続を懇願した結果、その後少女漫画の祈念碑的作品として今尚語り継がれる『トーマの心臓』において、萩尾は以下のようなシーンをクライマックスに持ってくる。
ーーぼくはずいぶん長いあいだいつも不思議に思っていたーー
何故あのとき キリストはユダのうらぎりを知っていたのに彼をいかせたのかーー
“いっておまえのおまえのすべきことをせよ”
自らを十字架に近づけるようなことを
なぜユダを行かせたのか それでもキリストがユダを愛していたのか
その後も「知ってしまうこと」は萩尾望都の作品の中で通底するテーマとして描かれ続け、時にそれはキリスト教的なものとして発露した。『トーマの心臓』の続編『訪問者』はもちろんのこと、『百億の昼と千億の夜』ではまさに遠藤が指摘した通りの役回りをキリストとユダが演じ、そして敢えてキリスト教的な赦しを地上に堕とした作品として、『残酷な神が支配する』を執筆することとなる。
私は日本に生まれた非キリスト者であるからこそ、むしろ不遜に、無遠慮に、宗教的な何かについて切り込んでいけるのではないかと常々感じていた(例えば私にとっては聖典とされる教義の中でも聖書に記載がないのではないかと思う箇所がままある)。そしてその鏡写しのように、概して宗教が封じ込めるものは懐疑と疑念と疑義と疑問ではないか、と考えてきたのだった。
神とは何か、愛とは何か。
そういった問いを挟まないために自ら��神になることを決めた男。
それはおそらく弱さを自認した上での自らへの鼓舞であった。
はたして私のような不信の徒が、どのような表象にまで「神」を見て良いのか、いつも憚られると同時、そしてその弱い神をまさに、ドストエフスキーは『白痴(Идиот-Idiot)』として現代化を試みたのではなかったか、という思いがある。『白痴』という和訳は今からするとやや大袈裟なきらいもあるが、それでもやはり、罪なく美しい人間というのは、当時のロシア社会において『Идиот』としてしか発露し得ないというドストエフスキーの悲痛でやや滑稽な指摘は、裏を返せば知恵の実を食べた狡猾な『人間』であるためには、罪を犯し汚れる覚悟をしなくてはならないということであり、それをナスターシャ・フィリッポブナとロゴージンというキャラクターに体現させていた。このような本作を、黒澤明は、日本的なキリスト映画の『白痴』として図像化したのである。このように日本において不思議と繰り返される弱い一神教の神としてのキリストという存在は、ますます持って私の鶴見観を固めていく。
罪を犯し汚れる覚悟は、鶴見によっては以下のとおり示されているものかもしれない。
殺し合うシャチ… その死骸を喰う気色の悪い生き物でいたほうが こちらの痛手は少なくて済むのだが… 今夜は我々がシャチとなって狩りにいく
一方でキリストを『Идиот』と呼ぶことすら厭わないその姿勢は、私にとっては極めてロシア的なものである。信仰において美しく整っていることは最重要課題ではない。そのような本質性がロシアでは”イコン”に結実している。家族が毎日集まって祈る家の片隅のイコンコーナーの壁に掛けられた、決して高い装飾性や芸術性を誇るわけではなく、木片に描かれたサインすらない御姿の偶像。しかしそれこそが最も原始的な「信仰」のあり方なのではないか。ゴテゴテとした教会の装飾でも着飾った司教の権威でもなく、余分なものが根こそぎ取り払われて、日々の礼拝と口づけの対象となる木のキャンバス。真に信仰するものへの媒体としてではあるが、特別な存在感と重みを持つ象徴的なイコンという存在は、英語では「アイコン」と読み下されるものであり、文脈を発展させながらポップカルチャーにおいてもその役割を大きくしていったことは周知の通りだ。
7、親殺しの示唆と代行 ー 尾形の場合
翻って尾形の新平の親殺しはどうか。
父殺しってのは巣立ちの通過儀礼だぜ…お前みたいに根性のないやつが一番ムカつくんだ
鶴見も尾形も親殺しの事を「巣立」ち、という同じ形容を使うという事実。きっと何度も語られてきたことだろうけど、改めて15巻にて新たな父殺しが描かれてたことで、その関連性に驚く。父親の妾を寝取りながら、自らが手を汚す事もなく、両親が絶命した事で自由を得る新平のような人物は、私が『因果応報のない世界』として称するゴールデンカムイの特徴である。あるいは『役目』重視の世界とでも言おうか。そこで『役目』を果たしたのは意外にも尾形と彼の「ムカつき」であった。ただし尾形は、他人を結果的に助けてもその事を認識されない人物であるので、この『役目』もまた誰にも認識されることなく消えていく。
ホラ 撃ちなさい 君が母君を撃つんだ 決めるんだ 江渡貝君の意思で… 巣立たなきゃいけない 巣が歪んでいるから君は歪んで大きくなった
江渡貝の母は既に死亡していたが、江渡貝には支配的な母の声が聞こえ続けており、その声は鶴見に与することに反対し続けていた。母は江渡貝を去勢していたことすらわかっている。そんな母を殺せと示唆する鶴見。何より面白いのは「決めるんだ 江渡貝君の意志で…」という鶴見らしくない言い回しである。しかし結果として齎される“対象の操作””偽刺青人皮の入手”という点では功を奏しているので、単に相手によって取る手法を変えていて、それが本人にとってプラスに働くこともあれば、そうでないこともあるだけかもしれない。
ここで関谷のような問いを死神たる鶴見に投げかけるとこうなるーー鶴見は江渡貝から得る『見返り』がなくても江渡貝を助けただろうか?
これは関谷への以下の問いはこのように繋がるーー弱く清い娘を殺し、殺人鬼たる関谷を生かす神だったとして、関谷は神を信じ続けただろうか?
善き行いをした者に幸運しか降りかからないのであれば、なぜこの世に不遇は、不条理は、戦争はあるのであろうか。
これに対して「すべての出来事には理由がある」とする尾形が、自分の置かれた環境と新平の環境をダブらせた上で、親を殺す事が出来ず(巣立つ事が出来ず)大口を叩くのみの新平に対する「ムカつき」であることは明らかでありながらも、そこで結局新平が「救われた」事の偶発性、蓋然性、見返りのなさは見逃してはならないであろう。
同時に、墓泥棒を捕まえるのは自分の仕事ではない、と語る鶴見が、なぜ遺品の回収をしていたか(出来たか)、そして「傷が付いていた」という詳細、のっぺらぼうがアイヌだということまで尾形に情報共有していたという二人の結びつきを考えるのも実に面白い。アイヌを殺したのは誰なのか? そこにいたと分かっているのはもはや鶴見だけなのである。
兎にも角にも、鶴見は、むしろその「不遇、不条理、戦争」の側に立つ事で、幸福を齎そうとする者なのである。
それは奇しくも、イワン・カラマーゾフが大審問官で言わせた「われわれはおまえ(キリスト)とではなく、あれ(傍点、悪魔)とともにいるのだ。これがわれわれの秘密だ!」のセリフと合致するのであった。
8、デウス・エクス・マキナの否定
と、ここまで書き上げた中で、本誌でキリスト教の神を試すキャラクター関谷が出てきた事で、私は論考を一旦止め、その後176話が『それぞれの神』というタイトルで柔らかく一信教を否定する日本的描写にひどく満足し、自らの「弱い神」「死神」の論考を少しだけ補強のために書き加え、大筋を変える事がなかったことに安堵した。
既に触れたファウストでの悪魔の発言、「すべてのものはいずれ滅びる であれば最初から生まれなければよかったのに」は、自らの死に対して諦念を、そしてウイルクとの再会に疑念を抱いていたインカラマッを連想させる。インカラマッ、そして関谷がこだわった『運命』は、やはり緩やかに谷垣によって、そして土方・門倉・チヨタロウによって否定される(このあたりはまさにドストエフスキー論的に言うポリフォニーというやつだ)。
関谷の持つ疑問は「ヨブ記」に置いて象徴されている。ヨブは悪魔によって子供を殺されるが、信仰を捨てず、最終的に富・子供をもう一度手にいれる。『ファウスト』では、やはり悪魔がファウストを試すが、最後に女性を通じて神がファウストを助ける。『カラマーゾフの兄弟』では、神を疑ったイワンは発狂・昏睡に陥る。つまりヨブ記を元にした作品群では、一神教の神は勝利している(『カラマーゾフの兄弟』のドミートリーのストーリーラインは除く)。これは演劇において「デウス・エクス・マキナ」と呼ばれる手法であり、最後に神が唐突に出てきて帳尻を合わせていく手法の事である。
関谷は自らの死にそれを見た。自らの悪行に等しい罰、裁きが下され、意志の強い土方が奇跡を起こしたと考えることで神の実在を感じたのであった。もっとも、我々読者にとっては、関谷への裁きは遅すぎるし、それが娘の死の何の説明にもならないため、関谷がどう捉えようと我々には神の存在が十分に確認できた「試練」ではなかった、と指摘しなければならないだろう。ただ、「デウス・エクス・マキナ」はむしろ因果応報を覆す超常的な描写であり、関谷が見た「意志の強い人間の運命」や「奇跡」、「裁き」という物差しすら飛び越えるものであったので、皮肉なことに、かえって関谷を包む状況とは一致を見せるとすら言えるのであるが……。おおよそにおいて良作とは、物語も人物も「あべこべ」で「矛盾」と「パラドックス」を抱えるものであるため、関谷とヨブ記についてまとめた記載をするには、稿を改めた方が良いと思われる。
それでも関谷についての序章を、本稿の終章に持ってきたかったのは、まさに、新平への運命を急に出てきて変えていく尾形が、あくまで人として、それも銃の腕を除くととてつもなく弱く、惨めな人間として現れ、新平の親の殺人によって新平を救ったという、いわば「デウス・エクス・マキナ」の”変形という名の否定”ではないか、と指摘したかったからである。
時に死神でなくとも、人の子も人を救う。その一端が、尾形の「ムカつき」であったこと、そしてそれが本誌の白石や1牛山に引き継がれていくことを指摘して、この文の結論とする。
そこに「見返り」はない。尾形は新平を助けようとしたわけではないし、白石はアシㇼパを助けても依頼主の杉元が生きているかどうかすら知らないし、チヨタロウは牛山を失って自身に新たな力を得たわけではない。
だからこそ、「見返り」を問題にしてはならないーー外れてしまうとしても、ボタンを縫い付ける必要はあるのだから。
そしてインカラマッはきっと、情を持たず自分を守ってくれないとしても、谷垣に愛を伝えなくてはならなかったのではなかったのかと思うのだ。
読んでくださってありがとうございました。
過去の文をまとめたモーメント。
マシュマロ。なぜ書いているってマシュマロで読んでるよって次も書いてって言われるから書いているのであって、読まれてない文も望まれていない文も書かないですマシュマロくれ。と言って前回こなかったので人知れず本当に筆を絶ったのであった。そのことを誰にも指摘されなかったので、やっぱそんなもんなんだなって思ってる。
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さよならさんかくまたきてしかく hello,good-bye,see you later.
かれ、すなわち、東の国の偏屈、人を呪い世を疎む、庵の隠者、善いたましいの子どもたちには祝福を、悪いはらわたの大人たちには呪詛をもたらすファウスト先生、ずいぶん長く生きてはいるが、しかし人間ぎらいのほかに、魔法使いらしい陰湿さを備えない男に、やさしさというものを付与(enchanted)したのは、実際のところ、寄る辺のないさみしさの、無限の夜の底で、微睡むことさえできずにいる過去の亡霊、墓石の下の憤ろしさの、風に散らされた手向けの花の、無数のかそけき輝きなのだった。つよいものがなべて! 支配者、君臨者として立つのではない。風もない夜にたなびく旗印のすべて、誇り高く高潔に、掲げられたのではない。
灯火はいつでも明るいというわけにはいかないが、けれど、さみしさは胸の底に積み重なっていつでも取り出して眺めることができる。火を灯しつづけるには、燃やすべき油が必要だが、心のなかの、感情のはしりは、時がすぎて、忘れたころにいま一度燃えあがるものだ。いつも、いつまでも、あの日を忘れない。あの火を、あの碑を、あの悲を、思い出すまでもなく、毎晩のようにゆめにみる。ただみているだけだ。伸ばした手は届かず、喉はひりついて声にもならず、影を縫い止められたよう、一歩も進めはしない。なべて過ぎ去った日のことだ。そうして、魔法使いたる我々は長くを生きるが、旗を振った手で松明を掲げ、城砦のぐるりをめぐった足で刑場の土を踏み鳴らした人々は、血を継ぎはしても意思を継がず、記憶は潰えて、まことしやかに語られる伝承だけが、あるじなき影のように揺蕩っている。
ここまでにしよう、疲労困憊でへとへと、といった体の若い魔法使いの姿を見咎めてかファウストが言って、本当はとうに限界を超えていたであろうシノ、シャーウッドの森の番人、森のこども、みなしごのかれは家名を持たないが、文字どおりに生まれて育ち、このさきもかれの、ゆりかごであり、家であり、墓でありつづけるであろう森の矜恃のためにけしてつかない膝を、わずかにゆるめた。かれは力ある魔法使いで、自信にあふれ、強靭で豪胆なところがあるが、ゆえに危うい。いつだってシノはシノ自身ではないもののために、膝をつくことができないのだ。それも間もなく終わりを告げることだろう、ヒースクリフ・ブランシェット、かれのあるじ、かれのかけがえのない友人は、ひどく優しく臆病で、ためらいにそのうつくしい横顔、まなざしを、揺らしていたけれど、近ごろはわずかに、かれ本来のするどさ、知性のひらめき、芯のつよさを、のぞかせるようになった。これを言えばヒースクリフは謙遜して、すべて先生に教わったことです、と微笑むだろうが、かれ自身にもまだ気づかれていない、誰に教えられるともなく、ヒースクリフ自身をして獲得した強さが、確かにその片鱗を覗かせはじめていた。
先生役なんてまるきり不似合いだよ、とファウストは嘯くが、けして、不釣り合いだよとは口にしない。ひとを教え、ひとを鍛え、ひとの前にたち、かれらを導き、また導かれながら生きた日々は、もう夢の中にしかない古い記憶であるけれど、しかし夢は毎晩に、あらゆるひとに訪れる。ひとりの暮らしは静かで、満たされていて、ゆえにあまりに、幸福だった。魔法はファウストを生かしたけれど、けして救いはしなかった。戦乱は遠くさり、いまは平穏の時代だけれど、魔法使いに産まれたことを、恥じいるように、愛されて育った少年が、両親を不幸にしたと睫毛を伏せるさまに、心が揺れる。しかし、シノが英雄たりえるように、ヒースクリフは間違いなく、善い魔法使いとして、しなやかでつよく、なるのに違いない。これからのかれらの日々に、孤独に癒しを求めるような、厭世の日は、来るべきでないのだから。
ねぎらいの言葉をかけ、少年たちが律儀に礼を述べるのをみる。ファウストの、指導者としての姿に歓びを抱くのはかつての部下のレノックスで、義理などかなぐり捨ててしまえと思いはすれども無下にあしらうにも躊躇われてこそばゆい。過去は過去で、それは必ずしも未来と地続きでないのだけれど、泥濘む土を、靴の汚れも気にせずに踏み、下生えの草を払い、鬱蒼としげる枝を落として歩き、ファウストを探し続けたという男には、辿り着けない場所などないのかもしれなかった。たとえ途方もない夢の、いつか願い、焚き火を囲んで語り合った青い理想であったとしても。そういうところがかれの美点で、どうしようもなく、愚鈍な部分でもあろう。口下手で言葉少なく、愛想がないうえにただでさえ身体の大きなかれには、たたずむだけで威圧の気配がある。背を預けるにこれほどに頼もしい男もないが、鍛え抜かれた屈強な戦士たち、歴戦の騎士たちのなかにも見劣りしないレノックスが、しかし魔法使いであることは、四百年の歳月を経てなお変わらぬ姿が如実に示した。例外はあれど、魔法使いはその力のもっとも高まったときに時をとめる。驚くほどにかれが変わらずにいられたのは、かれの魔法や、身体の強さのゆえだけでないと、再会してとみに思う。隠遁し、世を疎み、ひとを恨み、顔を隠すと同時に世界をたそがれに塗りつぶす色眼鏡をかけて暮らしてきたファウストなどを、かれは慕うべきでない。もはやレノックスのそれは、子どもが親の後を追う刷り込みのようだった。
思い出はただうつくしい。顛末はけして幸福なものではなかったし、のみならず、吊るされ、架けられ、火あぶりにされた日の夢は、いまだにファウストを苦しめるが、それでもなお、穏やかに語り合った日々はすばらしかったし、ひとを率い、誰からも愛されて、どこまでもひたすらに昇っていく親友が信じているのがなんだかおかしかった、すべてを片づけたらきっと生まれ故郷にもどり、嫁をもらい子を成して、ふつうの一生を終えることができると。そんな親友の肖像はいま、あの荘厳なグランヴェル城の王の間に、初代国王として飾られている。かれに寄り添った魔法使いの親友の処刑の事実は闇に葬られ、ただ伝承のなかに、革命に尽力した善き魔法使いとして刻まれているというのだから皮肉なものだ。人違いだ、繰り返してファウストは言うが、伝承を紐解けば紐解くほど、そのひとはファウスト自身とかけ離れた人格であるように、思われてならない。いくらかいまより青かったのは認めよう。初代国王が、故郷の小さな村での穏やかな暮らしを夢見ていたのと同じくらい、ファウストにもふわふわと浮世離れした理想があった。なにもかもが叶うとは思わなかったが、少なくとも、自分ではないものに名を奪われて、姿も、何もかも、失うとは。
もうなにものにもなれないぼくらに、子どもたちはなるべきではない。ヒースクリフ、シノ、東の国の若い魔法使いたち、かれらはしばしば若すぎて、衝突は日常茶飯事、国に帰り、家に戻れば主従の間柄というふたりは、それ以上の紐帯を結びつつあった。すなわち、友情である。互いが互いに誇りに思えるような、大人からみたら微笑ましくさえあるささいなすれ違いや、意見の相違をこえて、かれらはかけがえのない友になるだろう。その友情にヒビが入らないことを、お節介にも祈るが、かれらの間には言葉があり、世話焼きで面倒見のよい年長者がおり、故郷にあれば邸宅と森番の小屋とに隔てられるかれらの寝床は、なんとこの魔法舎にあれば隣のドアなのだ。距離がすべての感情を担保してくれるとは言うまいが、��たびれた肩を叩きあって着く帰路の、分岐は極力、��くないにかぎる。
「おつかれさん」
「まだいたのか」
「ひでー言い草」
「いやすまない」
言って肩をすくめる青年は、おなじく東の国の魔法使いとして招集されたネロだった。若い魔法使いたちの訓練につきあって、かれもまたくたびれているだろうが、そこは年長者らしく微笑むくらいの余裕はあるらしい。詳しく尋ねたことはないが、どうやらファウストよりも年長なのは間違いない。魔法は心で使うもの。かれは自分をたいしたことのない魔法使いだと揶揄するが、長く生きるということは、日々に心を乱しすぎずに、自分を律するということだ。力に振り回され、心に振り回され、若くして石になる魔法使いなどいくらでもいる。その意味では、魔法舎での暮らし、むかしの因縁や、あたらしく結ばれる絆やらは、かれらにとって、甘い蜜の猛毒でもあった。人と過ごすなら衝突は避けられない。一年分の会話を一日でこなすなら、ここで一年暮らすだけで、四百年の孤独を、ほとんど塗りかえることになるだろう。
他意なくつむいだままの言葉は、むきだしのナイフのようにやさしい他人のはらわたに突き立って透明な血を流させる。革命に血はつきものだ、だれも傷つけられないままに世界が塗り変わるはずがないと、はじめに力を持ち出したのは誰だろう。振り上げた拳は、抜き去った剣は、いつだって行き場をなくしている。孤独はファウスト・ラウィーニアというひとと、自分を出逢わせてくれはしたが、愛は鏡、愛は欺瞞、愛は孤独、素顔を知れば知るほど、ファウストというひとが分からなくなった。かれは偏屈で人間ぎらい、猫が好き。棲家は東の国の嵐の谷、いつしかかれの棲みつくところ、誰が呼んだか呪いの谷。呪いの魔法を生業とする男が暮らすのだからしごく当然の呼び名だ。不名誉であるとすれば谷にたゆたう精霊たちだろうが、どうもかれらに自分は相当気にいられている。
口では不平を述べながらさほど傷ついたふうでもないネロは、好物の薄く伸ばして焼いたガレットに、アイスクリームを載せてやろうか、といたずらに笑う。からかっているのかと思ったけれどどうやら真剣だったらしい。流れに流れていまは東、ファウストがそうだったように、料理人、ネロ・ターナーもかつてはほかの国に根を下ろしていたという。東の国はかならずしも、ぼくたち魔法使いにとって暮らしやすい土地ではない。人々の多くは魔法使いを恐れ、街に敷かれた法典は厳密、弾圧は時代遅れだと憤慨してくれたのは中央の国の王子だったか。あの裔はどうにも清廉潔白な、あまりに真摯でありすぎ、ただしさのゆえに折れかねんと、思ったままに四百年の月日がすぎた。どうやらかの王家はいまだ健在であるらしい。何代を数えたものか定かでないが、正統に血を継ぎながら四百年の平穏は、かつてみた夢の続きなのかもしれなかった。そこにファウストはいなかったが、いまではすっかり東の国の水が身体に合っている。
「大丈夫だよ、僕は大人だし」
「褒められるのは子どもたちだけか? 先生」
「僕に甘えようとするな」
「そういう意味じゃなかったんだけど……。あんただって立派に先生をしてるだろ、褒められて、労われたっていいんじゃないか?」
ネロがとくべつにファウストにやさしいのでなくて、かれは元来やさしい人格なのだ、と、いまほど言い聞かせる夜はないだろう。恨み深くて根にもつ陰険な人格だなんてネロは言うけれど、かれは寂しいのがきらいだ。ずっとひとりで生きてきたから気楽だけれど、あの魔法使いには生きづらい東の国の首都に店を構えて数年、姿のかわらないさまに魔法使いであることを疑われるまえに逃げるように場所を変える、そんな生き方は呪いの依頼のほかにおとないのない谷の暮らしとどれほど違うというのだろう。したしい友人のひとりも持てず、伴侶なんてもってのほか、家族もなくて、それでも、ひとのなかにまぎれていたい。あるいは水と油、まるで別物であることを目の当たりにして、大勢のなかで孤独を知っていたのが、ネロ・ターナーという男だったのだろう。料理人としての腕はたしかで、粗野な口をきくくせに繊細な飾り切りなど瞬く間にこさえてしまう。器用なものだな、ナイフをつかう手元をみて単純に感心してみせるとわずかに言葉につまっていたように思うのは、あるいは照れていたのだろうか。
「……僕を、甘やかそうと、するな」
「はは、素直じゃない! あんたを好きなやつは苦労するな」
そんなやつはいないよ、喉まで出かかった言葉を呑み込んだのは寸でのところ、色のない、温度のない、深い意味のない軽口を、どうして聞き流せないのか、もう分かっている。苦労ばかり抱��込むのが好きなやつなのだ、このあたらしい友だち、魔法で作れば呪文ひとつの夕餉を、ひとつひとつ下拵えからていねいにやりたがるネロ・ターナーという男。褒められたいなんてゆめゆめ思ったことがない、ましてや甘やかされたいなんて、それだのにネロにかかっては、さしものファウスト先生もかたなしである。抱きしめあうでもなくて、囁く愛の言葉もなくて、もちろん、魔法も。キスをするとしたら額にひとつでほかにはいらない。もうなにものにもなれないぼくらは、長く生きた大人であるはずなのに、ファウストの魔道具は手に馴染んだ鏡、玻璃のおもてに張られた白銀、覗きこめば寄る辺のない、子どもの顔が映っている。ネロの手元でひるがえるカトラリーの銀にもきっと同じものが。ぼくたちはただひと匙の孤独を分け合って、やすらいで眠ることができるだろう。いまはまだ、お節介な隣人のふりをして。
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Japan 2019 summer schedule
Happy summer greetings from Italy! 夏のイタリアより、少し早い暑中見舞い申し上げます!
朝の���想会 @ 富山県高岡市 スタジオプレーマ
8月23日(金)8時〜9時半
8月26日(月)8時半〜9時半
8月27日(火)8時半〜9時半
「内側から癒されて美しくなる」アーユルヴェーディックヨガ・リトリート @ 富山県立山市 KAKI工房
8月24−25日(土・日)
WEEKEND YOGA TRIP with Toshi @ 淡路 サンアシュラム
8月31日〜9月1日(土・日)
アーユルヴェーディックヨガ・集中講座 4回シリーズ @ 奈良YOGAスペースぼちぼち
8月7−8−14−15(土・日)
瞑想サイレント1Day リトリート @ 京都嵯峨野 厭離庵
9月29日(日)
<講座内容詳細>
以下をご覧ください
朝の瞑想会
山の頂上や、森の中で感じる静けさ。 自然の静けさはとても深く、私たちの体や心までをもその静寂で満たしてくれます。 この静けさは、私たちの内にも存在するのですが、ストレスや目まぐるしく過ぎ去る日々の生活や、外の世界への強い執着が、心やマインド、体の細胞に既に存在する静寂を締め付け、五感は心とマインドの分離を原因に、絶え間なく外の世界に満たされるものを追い求め続けています。 インドの伝統「ヴェーダ」によると、この心とマインドの分離は、現代社会での苦しみの原因になっていると言われ、病気の原因の8割は、内なる静寂の欠陥だと科学者は言います。これはストレスに人生を操られているようなもの。これを防ぐ為にも、瞑想を日課にする事はとても大切なのです。 台風、原子、太陽系であっても、静止している核の強さが、その活動に大きな影響を与えます。 台風の目が安定していればいるほど、風はとても強くなります。 このように、内なる静寂は、私たちの可能性を最大限に引き出してくれる鍵となるのです。 瞑想によって得られる、「安定した台風の目」のおかげで日々の生活が改善され、最小限の活動で多くを得ることが、私達の新しい生活スタイルとなることでしょう。 【こんな方へお勧めです】 ・体を動かすヨガから、もう少し深い世界に入ってみたい ・心の平安を感じたい ・内側から美しくなりたい ・瞑想に興味がある ・エナジーワークに興味がある ・歌やマントラが好き ・自分の可能性を最大限に発揮して生きたい 瞑想への興味から、ヨガを始めることとなり20年近くが経ちました。 去年ポルトガルにて導かれるように出会った、アドヴァイタ・ヴェーダンタの覚者ムージ。 あの時以来、サットグル、ムージの愛と導きを感じながら日々を過ごしています。 真理はシンプル。しかし、真理の探究者が複雑だとムージは言います。悟りがこんなにも難しいのは、制限のあるマインドの中でぐるぐる回り続けているから。私たちは未だ、何もしなくてもいいということが納得できずにいます。 頑張って特別な何かに「成ろう」とぜず、そのもっと深くにいつも在るもの、日々のマインドの動きを眺めている「その存在」に気づくこと。 それは、必死に勉強したり修行するから到達されるものではなく、神の恵みによって与えられるものであり、もう既にここに在る私達の超自然な姿なのです。 内なる静寂が日々の生活の源となり支えとなりますよう、瞑想会を開催いたします。 どなたでもお気軽にご参加ください。お待ちしております。 愛、そして内なる静寂に浸る時を共に過ごしましょう。 Om Sat Chit Ananda! 大西 枝美 【日程&内容】 瞑想はマインドを綺麗に掃除するような効果があり、日々継続する事により、大きな効果が得られます。その効果を少しでも感じていただきたく、3回シリーズにいたしました。 ①8月23日(金)AM8:00〜9:30 〜イントロダクション〜 瞑想とは何か?瞑想の効果などのお話が最初にあります。 その後、呼吸法やマントラによって少しづつ微細な世界に入ってゆき、誘導瞑想をします。 ②8月26日(月)AM8:30〜9:30 呼吸法やマントラによって少しづつ微細な世界に入ってゆき、誘導瞑想をします。 ③8月27日(火)AM8:30〜9:30 呼吸法やマントラによって少しづつ微細な世界に入ってゆき、誘導瞑想をします。 最後のお話 【会場】 STUDIO PREMA 【参加費】 ①3000円 ②2000円 ③2000円 ・2クラス受講 500円割引 ・3クラス受講 1000円割引 【お申込】 ・facebookから参加希望の方は「参加する」を押してください。 ・メールまたはお電話で参加希望の方はこちらまでご連絡ください。 メール:[email protected] 電話:080−3042−2916(サクライ)
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「内側から癒されて美しくなる」アーユルヴェーディックヨガ・リトリート
夏を終え、これから秋を迎えるにあたっての日々の養生法、リセット、セルフケアについてアーユルヴェーダの観点からヨガを深めてゆきます。 ヨガやアーユルヴェーダは初めての方でも充分に楽しんでいただけるリトリートです。 お食事は、野菜ソムリエYuiさんによるとても美味しいベジタリアンフード。みんなで楽しくお料理する時間もご用意しています。 日々の喧騒から離れて深い癒しを体験し、アーユルヴェーディック・ヨガで残暑を快適に乗り超えてゆきましょう! 【こんな方にお勧めのリトリートです】 ・ゆったりと自分をいたわる時間を過ごしたい ・アーユルヴェーダやヨガの教えを日常に取り入れてみたい ・内側からキレイになりたい ・アーユルヴェーダやヨガを体験する一日を過ごしたい ・自然に触れたい ・体に優しくて美味しい料理を味わいたい、学びたい ・歌うのが好き 【プログラム】 8月24日(土) 11:30 集合 1��:00 ランチ 13:30 アーユルヴェーディックヨガ&瞑想 16:00(ホテル宿泊の方チェックイン) 16:30 アーユルヴェーディック・クッキング 8月25日(日) 7:00 瞑想&朝ヨガ 8:30 朝食 10:00 朝の散歩・ウォーキング・メディテーション 12:30 ランチ 14:00 サウンドヒーリング&ヨガニドラ 16:00 クロージング・解散 *スケジュールは天候や現地の状況により変化することがあります。 【会場】 KAKI工房ロッジ 富山県富山市粟巣野
【参加費】 一泊二日 31000円 24日(11:00-16:00)7000円 25日(10:00-16:00)9000円
【お申込】 ・メールまたはお電話で参加希望の方はこちらまでご連絡ください。 メール:[email protected] 電話:080−3042−2916(サクライ) ・メールにて参加費の振込先をご案内します。申込後、一週間以内にご入金ください。 ・入金完了後、参加確定とさせていただきます。 ・人数に限りがございますので、お早めにお申込ください。 ・キャンセル料は3日前から50%、前日から100%となります。
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WEEKEND YOGA TRIP with Toshi @ 淡路 サンアシュラム
8月31~9月1日 淡路島のサンアシュラムでWeekend Yoga Tripを開催します。 今回はスペシャルゲスト、Emiさんこと、大西 枝美先生をお招きしての開催です☆ 31日の朝にToshiの車(※1)で京都を���発して淡路島に向かい、 1泊2日でTriYoga、サンスクリットマントラ、アーユルヴェーダカレー作り、ビーチでの呼吸法&瞑想、と盛りだくさんの内容を 2日間に渡って満喫します☆ 9/1日の午後にはあさのともこさん主催のチャリティーキールタン(※2)も淡路サンアシュラムでありますので、そちらにも合わせて参加することができます☆ 至福の2日間を共に味わいましょう。 ※1 行きの車は8人乗りになります。 ご自身で直接来られる方はこちらをご参照ください。 http://unionyogajapan.com/category/about 復路は各自、公共機関での移動になります。 ※2チャリティーキールタンの詳しい内容は近日中にアップいたします。 【プログラム】 8/31(土) 朝 8:00時 京都駅八条口発 Toshiの車に乗って一緒にいきましょう! 11時~ Tri Yoga 13時~ ランチ(毎日食堂さんよりの特別ランチBOX) 16時~ サンスクリットのマントラ詠唱 18時~ 夜ごはん アーユルヴェーディックカレーをみんなで創ろう! 夜はみんなでお話会☆彡 泊まれる人はサンアシュラム泊(男女別) 多人数での就寝になります。 9/1(日) 午前 朝のPuja 海へ移動して Toshiによるリードでの呼吸法とEmi誘導による瞑想 10時半ブランチ(ケータリング) 午後~ チャリティーキールタン by あさのともみ 夕方 解散 【こんな方へお勧めです】 ・微細なヨガの世界に興味がある ・心の平安を感じたい ・内側から美しくなりたい ・瞑想���呼吸法に興味がある ・歌やマントラが好き ・アシュラムでヨーガ的な週末をすごしたい ・アーユルヴェーダが好き ・淡路島の自然の中でゆっくり過ごしたい 【参加費】 2Days 参加 19,800円(3食&宿泊込み) 1Day 8/31夕食前まで参加 10,500円(ランチ付き) 1Day 8/31夕食後まで参加 12,500円(2食付き) 1Day 9/1のみ参加 6,000円(ブランチ付き) 交通費 往路:京都→淡路島への車に乗る方 3,000円 別途 復路:各自 ☆早割り1,000円OFF(7月末まで) 【予約方法】 下記申し込みフォームよりお申込みください↓↓↓ https://forms.gle/rWNJJjbPqsHcwgdaA ☆もしくは メール [email protected]宛に 件名「Weekend Yoga Trip」として お名前、お電話番号、メールアドレスを明記してご連絡下さい。 ☆ご予約頂いた方に振込先をご連絡いたします。 入金完了後、参加確定とさせていただきます。 ・キャンセル料は8月24日より50% 当日以降100%となります。
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アーユルヴェーディックヨガ・集中講座 シリーズ❶ @ 奈良YOGAスペースぼちぼち
9月7日(土)13〜17時 9月8日(日)10時半〜16時 9月14日(土)10時半〜16時 9月15日(日)10時半〜16時 料金 7日 7000円 8、14、15日 8000円 (クッキング代とテキスト代は別料金) 早期割引 8/29までに予約をしていただきますと、なんと全てのクラスを各7000円で、受けて頂けます(^^) アーユルヴェーダはインドに古くから伝わるヴェーダの伝承医学で、体の健康だけではなく、心、行動や環境を含めた総合的なバランスを取ることを大切にしており、その名はサンスクリット語のアーユス(生命)、ヴェーダ(知識)を意味します。トリ・ドーシャ説に従い、鉱物、植物、動物、人間および環境は、ヴァータ「空 / 風」・ピッタ「火」・カパ「水」の三要素に分類され、それぞれのドーシャのバランスを取る食事法、ハーブ、ボディワーク、プラーナヤーマ、瞑想によるライフスタイルの改善方法が示されています。 2-4世紀にヨガの代表的な聖典「ヨガスートラ」を編纂したといわれる聖者パタンジャリは、アーユルヴェーダの教典であるチャラカ・サムヒターにコメントを残しています。このことからも解るように、アーユルヴェーダとヨガは切っても切り離せない兄弟のような関連性を持っており、アーユルヴェーダはヨガの道に沢山の気づきをもたらしてくれます。 【講座内容】 この集中講座ではアーユルヴェーダの知識で、身体や心の持つクセを知り、食事法、マッサージ、アロマ、ヨガ哲学、アサナ、プラーナヤーマ、瞑想、マントラなどのツールを使って、自分の癖を活かしたセルフケアを学びます。 自分の癖を「自分らしさ」へと導いてゆくような、シンプルで健やかに日々を過ごす術が盛りだくさんの講座です。 単なる美容法ではないヴェーダの霊的な教えに基づいたアーユルヴェーダ。自分の内なる自然のバランスが取り戻され、周りとの調和が生まれることで、内側からの輝きに溢れ真の美しさに満たされることでしょう。 9月7日(土) アーユルヴェーダ座学 アーサナ、ヨガニドラ 9月8日(日) カパドーシャ(土・水のエレメントを整える) アーサナ、女神ワーク(サラスワティ)、マントラ・サウンドヒーリング 9月14日(土) ピッタドーシャ(火のエレメントを整える) アーサナ、アーユルヴェーダクッキング、 女神ワーク(ラクシュミ)、マッサージ、マルマ瞑想 9月15日(日) ヴァータ(風・空のエレメントを整える) 女神ワーク(ドゥルガ)、ヤントラ・カラーセラピー、アドヴァイタ瞑想 【お勧めポイント】 ・自分の体質や気質に合ったヨガを習いたい。 ・アーユルヴェーダの知恵を毎日の生活に取り入れて心身ともに健やかな日々を過ごしたい。 ・内側から綺麗に、穏やかになりたい。 ・歌(マントラ)を詠唱して音に癒されたい。 ・マッサージや瞑想を日々の生活に取り入れたい。 ・ヨガのアーサナ(体位)だけではない、哲学やアーユルヴェーダを含めた伝統に沿った包括的なヨーガを学んでみたい。 ・自分らしい人生を送るヒントを得たい。
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瞑想サイレント1Day リトリート @ 京都嵯峨野 厭離庵
瞑想への興味から、ヨガを始めることとなり20年近くが経ちました。 去年ポルトガルにて導かれるように出会った、アドヴァイタ・ヴェーダンタの覚者ムージ。 あの時以来、サットグル、ムージの愛と導きを感じながら日々を過ごしています。 真理はシンプル。しかし、真理の探究者が複雑だとムージは言います。悟りがこんなにも難しいのは、制限のあるマインドの中でぐるぐる回り続けているから。私たちは未だ、何もしなくてもいいということが納得できずにいます。 頑張って特別な何かに「成ろう」とぜず、そのもっと深くにいつも在るもの、日々のマインドの動きを眺めている「その存在」に気づくこと。 それは、必死に勉強したり修行するから到達されるものではなく、神の恵みによって与えられるものであり、もう既にここに在る私達の超自然な姿なのです。 内なる静寂が日々の生活の源となり支えとなりますよう、京都嵯峨野の美しき禅寺、厭離庵にて瞑想サイレント1day リトリートを開催いたします。 どなたでもお気軽にご参加ください。お待ちしております。 愛、そして内なる静寂と喜びに浸る1日を共に過ごしましょう。 Om Sat Chit Ananda! 枝美 山の頂上や、森の中で感じる静けさ。 自然の静けさはとても深く、私たちの体や心までをもその静寂で満たしてくれます。 この静けさは、私たちの内にも存在するのですが、ストレスや目まぐるしく過ぎ去る日々の生活や、外の世界への強い執着が、心やマインド、体の細胞に既に存在する静寂を締め付け、五感は心とマインドの分離を原因に、絶え間なく外の世界に満たされるものを追い求め続けています。 インドの伝統「ヴェーダ」によると、この心とマインドの分離は、現代社会での苦しみの原因になっていると言われ、病気の原因の8割は、内なる静寂の欠陥だと科学者は言います。これはストレスに人生を操られているようなもの。これを防ぐ為にも、瞑想を日課にする事はとても大切なのです。 台風、原子、太陽系であっても、静止している核の強さが、その活動に大きな影響を与えます。 台風の目が安定していればいるほど、風はとても強くなります。 このように、内なる静寂は、私たちの可能性を最大限に引き出してくれる鍵となるのです。 瞑想によって生まれる「安定した台風の目」によって、日々の生活が改善され、最小限の活動で多くを実らせるというのが、新しい生活スタイルとなることでしょう。 「あなたは知識以前に存在し、英知を知るものなのです。 あなたは記憶以前の存在であり、記憶を目撃しているものなのです。 あなたは時を超えた存在であり、時間と空間、変化を目撃しているものなのです。 この世界を良くしようと頑張らないでください。 まず、自分自身を完全に良く知ることです。 そうすれば、あなたの取る行動は、深みから、自然に、真の理解を伴って溢れ出てくることでしょう。 そしてその行動こそが恵みとなって、この世界に降り注がれるのです。 永遠に自由なものとなってください。 完全に幸福なもの、完全なるものとなってください。 ~ ムージ」 【プログラム】 この日は最後のお話会の時間まで、無言で1日を過ごしていただきます。 携帯電話の電源をお切りになり、読み書きや会話も止めて、内観する1日をお過ごしください。 9:30 - 10:00 会場 10:00 -13:00 アーユルヴェーディック・ヨガ / 瞑想 アーユルヴェーダで若返りや不死のエキスとも言われる「ソーマ」を増やすヨガで、お月様のように美しく、ツヤツヤになりま��ょう。 13:00 - 14:00 Milletさんの美味しいオーガニックランチ 14:00 - 15:45 瞑想 / マントラ・サウンドヒーリング 15:45 お話会 16:30 解散 【こんな方へお勧めです】 ・体を動かすヨガから、もう少し深い世界に入ってみたい ・心の平安を感じたい ・内側から美しくなりたい ・瞑想に興味がある ・エナジーワークに興味がある ・歌やマントラが好き ・自分の可能性を最大限に発揮して生きたい ・アーユルヴェーダが好き ・お寺で1日ゆっくり過ごしたい 参加費:8000円 milletさんの美味しいランチ付き 持ち物:楽な服装、座布団、飲み物 【予約方法】 ・メール [email protected] 宛に 件名「瞑想サイレント1day リトリート申し込み」 お名前とお電話番号を明記して ご連絡下さい。 ご予約頂いた方に振込先をご連絡いたします。 入金完了後、参加確定とさせていただきます。 ・キャンセル料は9/1より50% 9/15より100%となります。
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◆往生(おうじょう)
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◆往生(おうじょう) 往生はいろんな場面に使う。 説明出来無い「往生こいた」「往生した」こんな事。 何となく解って使っているのだろうけど自分では説明できない。 こんな言葉は他にも沢山有る。 日本語とはこういうものだと最近では理解している。 言葉の数 その使い方 外国から見たら理解出来ないはず。 英語で否定のノーを肯定の意味に使っている。 英語が出来無いのでニコニコで字幕入りの映画をよく見る。 見ていて最近何となく判って来たこと。 その場の雰囲気で理解しないと行けないことは多い。 立ち往生 立ったままの姿勢で死ぬことで「弁慶の立ち往生」くらいしか使わない。 「吹雪で汽車が立ち往生する」 「壇上で立ち往生する」コレなどの使い方はよく使う。
諦め付かない時よく往生際が悪くなる。 大往生することもシバシバ。 仏教用語が生活には沢山生きている。 コレもそのひとつである。 ◆大往生(だいおうじょう)大辞泉 [名](スル)少しの苦しみもなく安らかに死ぬこと。また、りっぱな死に方であること。 「大往生を遂げる」 ◆おう‐じょう【往生】 大辞泉 [名](スル) 1.仏語。現世を去って仏の浄土に生まれること。特に、極楽浄土に往(い)って生まれ変わること。 2.死ぬこと。「大―を遂げる」 3.あきらめて、行動などをやめ、おとなしくすること。「もう観念して、往生しろよ」 4.どうにもしようがなく、困り果てること。閉口。「自転車がパンクして往生した」 5.「圧状(おうじょう)2」に同じ。「無理往生」 ◆おうじょう‐ぎわ〔ワウジヤウぎは〕【往生際】 大辞泉 1.死に際。 2.ついにあきらめなければならなくなった時の態度や決断力。「往生際が悪い」 ◆おう‐じょう【圧状】 大辞泉 1.脅しつけて強制的に書かせた文書。 「乞素(こっそ)―と申して政道にも用ひず」〈盛衰記・二三〉 2.無理に押しつけて同意させること。当て字で「往生」とも書く。→往生(おうじょう)尽(ず)くめした ◆往生尽くめ(読み)オウジョウズクメ デジタル大辞泉の解説 不本意なことを強制的に承諾させること。 「遺言だと云うのを楯に取って―にして貰った」〈柳浪・骨ぬすみ〉 ・大辞林 第三版の解説 脅して無理に承知させること。 「月給引上を-に承知させる/社会百面相 魯庵」 ◆往生(おうじょう)の関連 仏教用語 今も生きている言葉は多い。 ◆往生 - Wikipedia http://bit.ly/AA6acG 往生(おうじょう)とは、大乗仏教の中の成仏の方法論の一つである。 現実の仏である釈迦牟尼世尊のいない現在、いかに仏の指導を得て、成仏の保証を得るかと考えたところから希求された。 様々な浄土への往生があるが、一般的には阿弥陀仏の浄土とされている極楽への往生を言う。 これは極楽往生(ごくらくおうじょう)といわれ、往とは極楽浄土にゆく事、生とは、そこに化生(けしょう)する事で、浄土への化生は蓮華化生という。 化生とは生きものの生まれ方を胎生・卵生・湿生・化生と四種に分けた四生(ししょう)の中の一つ。 1.胎生 人間や獣のように母の胎(からだ)から生まれる事 2.卵生 鳥類のように卵から生まれる事 3.湿生 虫のように湿気の中から生まれるもの 4.化生 過去の業(ごう)の力で化成して生まれること。天人など 極楽浄土への往生は、そこに生まれる業の力で化生すると言う。蓮華化生とは極楽浄土の蓮華の中に化生するという意味。 ◆大乗仏教(だいじょうぶっきょう、Mahāyāna Buddhism)http://bit.ly/zuZXMB 伝統的に、ユーラシア大陸の中央部から東部にかけて信仰されてきた仏教の分派のひとつ。 自身の成仏を求めるにあたって、まず苦の中にある全ての生き物たち(一切衆生)を救いたいという心、つまり大乗の観点で限定された菩提心を起こすことを条件とし、この「利他行」の精神を大乗仏教と部派仏教とを区別する指標とする。 ◆往生要集(おうじょうようしゅう)http://bit.ly/x3Zksk 比叡山中、横川(よかわ)の恵心院に隠遁していた源信[1]が、寛和元年(985年)に、浄土教の観点より、多くの仏教の経典や論書などから、極楽往生に関する重要な文章を集めた仏教書で、1部3巻からなる。 死後に極楽往生するには、一心に仏を想い念仏の行をあげる以外に方法はないと説き、浄土教の基礎を創る。 また、この書物で説かれた厭離穢土、欣求浄土の精神は貴族・庶民らにも普及し、後の文学思想にも大きな影響を与えた。 また、その末文によっても知られるように、本書が撰述された直後に、北宋台州の居士で周文徳という人物が、本書を持って天台山国清寺に至り、中国の僧俗多数の尊信を受け、会昌の廃仏以来、唐末五代の混乱によって散佚した教法を、中国の地で復活させる機縁となったことが特筆される。 ◆成仏(じょうぶつ)http://bit.ly/zlvSUs 仏教用語で、悟りを開いて仏陀になることを指す。成仏への捉え方は宗派によって異なる。 ◆仏陀(ブッダ、梵:बुद्ध buddha)http://bit.ly/ArkAHl 仏ともいい、悟りの最高の位「��の悟り」を開いた人を指す。 buddha はサンスクリットで「目覚めた人」「体解した人」「悟った者」などの意味である。 ◆阿弥陀如来(あみだにょらい)http://bit.ly/x74NCY 大乗仏教の如来の一つである。梵名は「アミターバ」(अमिताभ Amitābha[amitaabha])、あるいは「アミターユス」 (अमितायुस् [amitaayus])といい、それを「阿弥陀」と音写する。「阿弥陀仏」ともいい、また略して「弥陀仏」ともいう。 ◆如来 (にょらい)http://bit.ly/xCOAJC 仏教で釈迦を指す名称(十号)のひとつ。あるいは、大乗仏教における諸仏の尊称。 元になったサンスクリット語のतथागत(tathāgata タタ-ガタ)は、「真如(tathā タタ-)から来るもの、真如へと去っていくもの」という意味である。これが漢訳されて如去如来や如来如去となり、さらに縮まって如来となった。音写である多陀阿伽陀(ただあがだ)も同じ意味である。 ◆サンスクリット (梵: संस्कृत; saṃskṛta, Sanskrit) http://bit.ly/sfutpr 古代から中世にかけて、インド亜大陸や東南アジアにおいて用いられていた言語。 現在の母語話者は少ないが、インドでは憲法で認知された22の公用語の一つである。 宗教的な面から見ると、ヒンドゥー教、仏教、シーク教、ジャイナ教の礼拝用言語であり、その権威は現在も大きい。 日本では、一般には言語であることを明示して「サンスクリット語」と呼ばれる。 また、古くは梵語(ぼんご、ブラフマンの言葉)とも呼ばれた。 なお、日本における仏教関連の辞典や書物では skt などと略称される。 ◆真如(しんにょ、tathata、 bhUtatathatA भूततथता)http://bit.ly/z7FAEH 「あるがままであること」という意味があり、真理のことを指す。 金剛般若経 のサンスクリット本に出て、「真如性」と訳されている。 「真」とは真実、「如」とは如常の意味である。 諸法の体性虚妄を離れて真実であるから真といい、常住であり不変不改であるから如と言うとされる。 真如はまた、自性清浄心、仏性、法身、如来蔵、実相、法界、法性、円成実性と同体異名であるとされる。 ◆極楽(ごくらく、Skt:sukhaavatii)http://bit.ly/x3cpfT 阿弥陀仏の浄土であり、サンスクリット語「スクヮーヴァティー」は「スクヮー」(sukhaa)に「ヴァト」(vat)を加えたもので「幸福のあるところ」「幸福にみちみちてあるところ」の意味。 須呵摩提(しゅかまだい)、蘇珂嚩帝(そかばってい)、須摩提(しゅまだい)、須摩題などと音表され、安楽、極楽、妙楽などと訳出された。 『阿弥陀経』には「衆苦あることなく、ただ諸楽を受くるが故に極楽と名づく」というが、梵蔵文では、衆苦を身心の諸々の苦といい、諸楽を楽の材料というから、極楽とは身心が共に苦を離れていて、幸福の材料だけがあるところの意味。 ◆極楽往生(ゴクラクオウジョウ)とは - コトバンク [名](スル) 1 極楽に生まれ変わること。 2 安らかに死ぬこと。「極楽往生を遂げる」 ◆ 極楽往生の解説 - 三省堂 新明解四字熟語辞典 ごくらく-おうじょう【極楽往生】 死んだ後に極楽浄土に生まれ変わること。また、安らかに死ぬこと。▽仏教語。「極楽」は「極楽浄土」の略。西方に向かって十万億土を過ぎた彼方にあって、阿弥陀仏あみだぶつがいるとされるまったく苦しみのない安楽の世界。「往生」は死ぬこと。「往生極楽おうじょうごくらく」ともいう。 用例 まあ齢としに不足はないからねえ。勝負に勝って死んだんだから極楽往生ですな。<有吉佐和子・恍惚の人> 類語 浄土往生じょうどおうじょう 活用形 〈―スル〉 ◆幸福(こうふく、英:Happiness)http://bit.ly/zpkxkE 心が満ち足りていること。幸せとも。 ◆四生(ししよう)http://bit.ly/xROvPH 仏教における生物の分類方法で、その出生方法によって4つに分類したものである。 なお、胎卵湿化、卵胎湿化ともいうことがある。 四生の分類 ・胎生(たいしょう) 母親の胎内から出生するもの。 ・卵生(らんしょう) 卵からふ化するもの。 ・湿生(しっしょう) 湿気の中から出生するもの(虫など)。 ・化生(けしょう) 胎生・卵生ではなく、業により忽然と出生するもの。 ◆輪廻転生(りんねてんせい、りんねてんしょう)http://bit.ly/AsKpbg 1.輪廻のこと。 2.転生のこと。 3.1と2をあわせた言い方。 転生輪廻(てんしょうりんね)とも言い、死んであの世に還った霊魂(魂)が、この世に何度も生まれ変わってくることを言う。ヒンドゥー教や仏教などインド哲学・東洋思想において顕著だが、古代のエジプトやギリシャ(オルペウス教、ピタゴラス教団、プラトン)など世界の各地に見られる。 輪廻転生観が存在しないイスラム教においても、アラウィー派やドゥルーズ派等は輪廻転生の考え方を持つ。 「輪廻」と「転生」の二つの概念は重なるところも多く、「輪廻転生」の一語で語られる場合も多い。この世に帰ってくる形態の範囲の違いによって使い分けられることが多く、輪廻は動物などの形で転生する場合も含み(六道など)、転生の一語のみの用法は人間の形に限った輪廻転生(チベット仏教の化身ラマなど)を指すニュアンスで使われることが多いといえる。 また、キリスト教などにおける「復活」の概念は「一度限りの転生」と見なすことも出来よう。 ただし、復活の場合はより狭く、生前と同じ人格を保ったままの転生である。 ◆業(ごう)http://bit.ly/xXklc3 仏教の基本的概念である梵: कर्मन् (karman) を意訳したもの。サンスクリットの動詞の「クリ」(kR)の現在分詞である「カルマット」(karmat)より転じカルマンとなった名詞で、「行為」を意味する。 業はその善悪に応じて果報を生じ、死によっても失われず、輪廻転生に伴って、アートマンに代々伝えられると考えられた。 アートマンを認めない無我の立場をとる思想では、心の流れ(心相続)に付随するものとされた。 中国、日本の思想にも影響を与える。「ウパニシャッド」にもその思想は現れ、のちに一種の運命論となった。 ◆ブラフマン(ब्रह्मन् brahman)http://bit.ly/zlJmBl ヒンドゥー教またはインド哲学における宇宙の根本原理。自己の中心であるアートマンは、ブラフマンと同一(等価)であるとされる(梵我一如)。 ◆アートマン(आत्मन् Ātman)http://bit.ly/A1K8sH ヴェーダの宗教で使われる用語で、意識の最も深い内側にある個の根源を意味する。真我とも訳される。 ◆梵我一如(ぼんがいちにょ)http://bit.ly/wDjNAQ 梵(ブラフマン:宇宙を支配する原理)と我(アートマン:個人を支配する原理)が同一であること、または、これらが同一であることを知ることにより、永遠の至福に到達しようとする思想。 古代インドにおけるヴェーダの究極の悟りとされる。 不二一元論ともいう。 ◆ヴェーダ(梵: वेद 、Veda) 紀元前1000年頃から紀元前500年頃にかけてインドで編纂された一連の宗教文書の総称。 「ヴェーダ」とは、元々「知識」の意である。 バラモン教の聖典で、バラモン教を起源として後世成立したいわゆるヴェーダの宗教群にも多大な影響を与えている。 長い時間をかけて口述や議論を受けて来たものが、後世になって書き留められ、記録されたものである。 「ヴェーダ詠唱の伝統」は、ユネスコ無形文化遺産保護条約の発効以前の2003年に「傑作の宣言」がなされ「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に掲載され、世界無形遺産に登録されることが事実上確定していたが、2009年9月の第1回登録で正式に登録された。 ◆ヴェーダの宗教 (Vedic Religions) http://bit.ly/yB9Zgd 古代インドの聖典であるヴェーダ群を起源とする宗教(単一神教)で、英国人の名づけたバラモン教(Brahmanism、ブラフミンの宗教)がこれである。 ◆バラモン教(婆羅門教、ブラフマン教、Brahmanism)http://bit.ly/w4GzIO 古代インドの民族宗教を指す。ヴェーダなどの聖典を持つ。 ◆バラモン http://bit.ly/xyudDN インドのカースト制度の頂点に位置するバラモン教やヒンドゥー教の司祭階級��総称。 サンスクリット原語のブラーフマナ (braahmaNa ब्राह्मण)が漢字に音写された婆羅門を片仮名書きしたものであり、正確なサンスクリット語形ではない。 ブラーフマナとは古代インド哲学で宇宙の根本原理を指すブラフマンから派生した形容詞転じて名詞。つまり「ブラフマンに属する(階級)」の意味である。ブラフミン( Brahmin )ともいう。 ◆民族宗教(みんぞくしゅう��ょう)http://bit.ly/xVJaSF 一部の民族の範囲内で伝播し、広まっていく宗教。民間信仰とは異なる。
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