#ルーマニア:主菜
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✿ サルマーレ | Sarmale ・ルーマニア風ロールキャベツ。ひき肉や野菜、米などをキャベツやブドウの葉で包み、じっくり煮込んで作られます。ルーマニアの主食「ママリガ」とサワークリームが一緒に供されることが多く、クリスマスや正月などのお祝いの席では欠かせない料理としても知られています。サルマーレは、トルコ(オスマン帝国)にルーツをもち、類似した料理はヨーロッパや中東で広く親しまれています。
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長文だけど、モルドバ人からの疑問 【モルドバはソ連から分離しました。 私たちがロシアに食料を与えている、独立しなければならないという叫び声とスローガンの中での独立。 独立すれば、私たちはめちゃくちゃ裕福になるでしょう。 そして私たちの国には、まさに繁栄の時代が来るでしょう。 ���、30年が経ち、この30年間ずっと私はこの国に住んでいて、そして理解しました、私はバルティ市にいます、バルティ市はモルドバで二番目に大きい都市です、私はこの国で起こっているプロセスを判断することができますが、そして私は間違いなく言えるのですが、我が国はただの貧しい国になってしまったのです。 私たちは年寄りのことも気にしません、子供たちのことも気にしません、 しかし、これらすべてのことにもかかわらず、政府から、議会で、ロシアが依然として責任を負っているという会話を聞いています。なぜ? 私たちは兄弟を裏切り、友人を裏切り、 私たちはこの国で彼らとともに築いてきたものを完全に失ってしまいました。 さて、3月26日はルーマニア人、ドイツ人、ファシスト、ナチスからベルティ市が解放された日となります。 そして私たちが彼らを追い出したとき、都市は事実上破壊され、単に瓦礫の山でした。膨大な人口を失いましたが、すべて共同の努力によって再建されました。 現在一部の国家主義者、教育を受けていない野蛮人の集団が、彼らは占領者たちに電話をかけ、「スーツケース、駅、ロシア!」と叫び始めた。 そして、これらすべてのスローガンの下で、彼らは私たちの国を売り渡し、全てを失なってる。 私たちがソ連の一部だった頃、この国はまだ素晴らしかったのですが、 この国には無料の医療があったこと、この国には優れた教育があったこと、 この国には特別な技術教育がありましたが、今日ではまったく存在していないと言えます。 本質的にこの国を建てられる人さえいない。 人々はここを去りました、そして私は、今日彼らは再び叫び、すべてのことをロシア人のせいにしている。 彼らが教育を受けていないからとか、愚かだからではないかと私は確信しています。 しかし、彼らはこの国に何も良いことを望んでいないことが判明したこれらの人たちによって指揮されています。 説明してくれるすべてのモルドバ人の視点を聞きたいです なぜ西側諸国ではなくロシアが現状の責任を負うのか? ご存知のとおり、我が国はもはや自国で食っていくことができません。 私たちは砂糖も生産せず、牛乳も生産せず、すべて購入しています。 私たちの果物は外国産であり、野菜も外国産です。 もし本当にロシアがすべての責任だと思うなら、では、このロジックを説明してください。
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バス・ドゥヴォス監督『Here』 2回目
主人公の男が、親しい人たちに会いに行き、「スープだ」と言って手作りのスープを渡していくシーン。そのシーンに物語が始まるよ、という空気が漂っていて好きだ。
5/1は映画の日で、当日は割引サービスをやっている長野ロキシー。タイミングよくバス・ドォヴォス作品をやっている期間にあたったので、行ってきた。ちなみに一回目は高田世界館。同時上映の「Ghost Tropic」も観た。(今回は「Here」に集中したかったので見送ってしまった)
もう一人の主人公。彼女��赤毛のアンではないが、苔の世界に強い関心がある。蘚苔学者。私には、呉明益の短編集「雨の島」に登場するソフィー・マイヤーを連想させた。
赤いスープを作るシーンだけでスープが美味そうに見える。
ビーツが入っているという言及もあるので、このスープは、チョルバかボルシチか? でもボルシチにしては赤色が派手じゃないし、ルーマニアだと前者の方がポピュラーらしいから、チョルバと思うことにした。チョルバならポトフを作ったことのある人なら、難しくないと思うし、ちょっとチャレンジしてみたい。 その後に作った緑のスープはどんな味なんだろう? 緑色の葉物野菜とマッシュルームが入ってるように見えたけど、、、すごく気になる。
この二人に邂逅があり、別れがある。 だが、この別れには続きがある。それが分かる。それがうれしい
ゴースト・トロピックも今作もブリュッセルを舞台にした連作「バス・ドォヴォスのブリュッセルn部作」のひとつと捉えるのが妥当だろう。時間が許せば、両方見るのがよい。
https://www.sunny-film.com/here 「Here」
https://www.sunny-film.com/ghosttropic「ゴースト・トロピック」
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自主隔離な日々 16
2020年4月16日 木曜日 晴れ
新型コロナウイルスの感染が広まり、世界各国が国境を閉じ、人々の行き来が難しくなり出した頃、英国の大規模農家から春から初夏にかけての作物の収穫を案じる声が聞こえた。
近年、英国の農業の大規模集約化は目覚ましいスピードで進んでいた。30年前には6月の末ごろに出回って9月の声を聞く前に消えていく露地物の苺しかなかった国で、今は3月から11月ごろまで国産の苺が出回っている。かつては小さく不揃いであった粒も、今は日本の苺と見劣りせぬ色と大きさを誇り、艶々と輝いて店頭に並んでいる。広大なビニールハウスの中で、きっちりと計算された需要に基づき栽培され厳しく品質の管理された苺を摘むのは、主に東欧からの季節移民労働者たちだ。
「東欧からの季節移民労働者」と聞いて、「低賃金で働く低技術の肉体労働者」を想像すると肩透かしを食らう。実のところ、私もそういった昔ながらのイメージを疑わずに長年過ごしてきたのだが、機械での収穫が不可能な果物や野菜の、鮮度だけではなく傷ひとつない美しい見た目も重視する現代の消費者の需要に応えねばならぬ農業の場では、工業製品のごとく管理され作り出された作物の最後の仕上げともいうべき収穫には、厳しく品質を見極め、商品を傷つけることなく丁寧に、しかも高速度で収穫していくプロの技術が求められるのだという。夏休みの学生バイトがこなせるような作業ではない。東欧の「収穫のプロ集団」は、春にドイツで白アスパラを収穫し、夏に英国で苺やブルーベリーを摘み、秋はフランスへ葡萄を刈りにゆく。豊富な経験と高い技術と生産性を持つ人々は、欧州各地で引く手数多だそうだ。
当初、国内で臨時かつ緊急の収穫労働者募集をかけた英国農業だが、結局、チャーター機を飛ばして、政府が農業労働者に限り出国を許可した(同じくロックダウン中の)ルーマニアから収穫のプロを連れてくることになったのだそうだ。彼らには、搭乗の前に検温があり、問診票への回答が求められている。英国農業が必要とする収穫作業員は9万人とされ、通常その85〜90%が海外からの移民労働者だが、ロックダウンと同時にかけられた国内での求人に対し面接まで希望したのはわずか5500人だという。ドイツも既に東欧から1700人の農業労働者をチャーター機で「輸入」済。東欧のプロたちには、英国の素人を訓練する役割も課されるのだそうだ。
移民労働者に頼らねば食料の供給が不可能な英国やドイツも、国内では緊急事態宣言を延長し厳しいロックダウン体制を保持しつつ、外貨を稼いでくる農作業員は送り出せねばならないルーマニアも、どちらもdesperateだ。新型コロナウイルスが引き起こした世界的な危機的状況が当てた光で可視化された、現代の農業経営と「食料の自給」という概念の裏にある複雑な事情に思いを馳せる。
*** ロンドンでは不要不急の外出を避けよ、公共交通機関の使用は避けよという指示が出されています。なので「私の日常」は「ロンドンの日常」では��く「ロンドンの東の先っぽの新興開発地に住む独り身のおばちゃんが自転車で30分以内の場所で垣間見たもの」であること、お忘れなきよう。どうぞよろしくお願いします。
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WASITE.store 2022.02.02 now OPEN 今日の海 2 ふ 「麩」 「麩の日」!!!! それは室町時代に明からやってきたお坊さまによって 伝来した当時の精進料理における タンパク質を補う食材!!! 子供の頃から黒糖味の「麩菓子」もよく食べたなぁ。 麩はうどんと同じ「小麦粉」から作りますが、 生地を作ったら布の袋に入れて 水中で揉み込む! だから、でんぷん質が水に流れる。 残るのはグルテン。 ってことは低-炭水化物。 なのに高タンパクでいてナトリウム、カルシウム、鉄、亜鉛 といったミネラルが 凝縮!!!栄養食です!!! これには、ブリア=サヴァランもびっくりでしょう。 ジャン・アンテルム・ブリア=サヴァラン (1755/4/1〜1826の今日) フランスの法律家・政治家で、 美食批評家です 著書「美味礼讃」は1825年に出版されてこれまで、 一度たりとも絶版になったことがない名著。 その中でも名言は 「あなたが普段から食べているものを教えて欲しい。 あなたがどんな人であるか、当ててみせよう」 (美味しんぼで読んだ気がする) そして・・・ サヴァランこそ「炭水化物を制限する食事法の父」! だから 「タンパク質を取れ!デンプンを避けろ!」 と力説。 このことを、自然界から美食家は学ぶわけですよ。 そこが知的。 「野生肉食動物に太ってる奴はいねぇ! だが、じゃがいも、穀物、小麦粉を食べ始めた途端、 瞬く前に肥え太っていくぜ!?」 地球が誕生して46億年 生命の誕生は35億年前 人類の誕生は20万年前 人類の構造はいまだにサバンナで獲物を探していた時のまんま、 と現代の学者も言います。 けど、食べ物や栄養などは、急には変わらないです。 ただね 「塩」 塩はやばい。 当たり前の調味料ですが、 現代人、塩、取りすぎ。 国の調査による平均は10g/1日。 本来であれば、2g/1日で足りる。 これ、マサイ族の人たちの摂取量。 彼らが特別? いやいやいや、同じ人間ですよ。 塩を取りすぎている我々に何が起きてるかというと ぶっちゃけいうよ? 「ジャンキーと一緒」 マウスに塩分の多い餌を与え続ける実験で、 ある時にその餌を急にやめる。 マウスの脳の中では、 「麻薬中毒者が麻薬を欲しがる時に増える ”特別なタンパク質"が多く現れる」 ということが明らかになってます。 なんでこんなに「塩」が好きなのか? それはやはり私たちが「海」からきた生物だということ。 海水の塩、主成分はナトリウム。 体の細胞はナトリウムなしでは生きていけない! そして陸上に上がった生物は海水=塩が欲しすぎて、 塩味を感じる細胞を海の生き物たちより 多く持つように進化した。 さらに必要なものを欲しがるように 「塩は美味い」という反応を獲得。 で、さらに「腎臓」が進化! 体内ですぐに使われなかったナトリウムは 尿で出て行ってしまう。 そのまま捨ててたら勿体無い! ってことで腎臓が進化して、 尿の中からもう一度ナトリウムを吸収したろ! って仕組みを備えてしまったのだ。 これで本来の人類 Like a マサイ族の、 2g塩分生活は可能に。 じゃあ、なんで塩分をさらに欲しがるようになったか? ��いう謎は、8000年前のルーマニアで発見。 きっかけは「農耕」です。 野菜を作り、腹を満たせるようにはなった。 が、その野菜には「ナトリウム」がほとんどなかった。 ナトリウム不足を引き起こした昔の人類は、 農耕とほぼ同時期に 「塩づくり」 を始めたのですよ。 だから最初は調味料というより、 「サプリメント」 だったのではと考えられている。 しかし、人類は気づいてしまう。 「塩」は美味い! ルーマニアに見られた「原始の塩づくり」は不純物も多かった。 結果、不味い。 が、ある時「岩塩」を見つけてしまった! ピュア!!! それまでの塩よりも純度が高い透明な岩塩は、 強烈な塩気! きっと身体の全細胞が震えたことでしょう。 体が欲しがる塩をこんなにも純度の高いナトリウムで摂取! さらに、肉や野菜にかけても美味い! 食ってみな・・・・飛ぶぞ? まさにそれは純度の高い麻薬と同じ。。。 で、話を現代に戻すと、 我々の体はサバンナの人類とほぼ一緒。 けど医療の進化で長生きです。 昭和20年あたりで日本人の平均寿命は50歳でした。 塩気の多い食事を続けてても なんとか「腎臓」はもった。。。 「昔は、腎臓が壊れる前に、寿命です」 100歳近く生きる時代「腎臓」はそう簡単に変わらない。 40代から腎臓は次第に小さくなり 機能が衰えていく。。。怖 塩を取りすぎる現代の食事をこのまま続けてて 平気なわけないよね。 塩ジャンキー現代人どうする? 人生にも大事です、 「塩加減」 では、今日も良い1日を #WASITE #ワシテ (WASITE) https://www.instagram.com/p/CZd1G_-P1AG/?utm_medium=tumblr
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古典的なウクライナのレシピ:どのようにBORSCHを調理する ボルシチの作家たちは、ルーマニア人、ロシア人、ハンガリー人、ベラルーシ人、ポーランド人。私はこの多成分給油スープを醸造することを誰が最初に考えたのかわからないが、ウクライナでは、私の意見では、最も美味しく調理されている。ハンガリーのbograch-guillasも何もないが、むしろ最初の料理ではなく濃厚なシチューに似ている。ロシアのキッチンでは、いくつかの秘密の料理を知っていますが、ボルシチはしばしば茶色になります。美しいルビーではありません。ウクライナでは、この濃いスープを作る方法はたくさんあります。ポルタヴァのレシピは古典的なものと考えられています。どのようにボルシェを調理し、香り豊かで豊かな濃い赤色にするか、この記事を読んでください。 このスープの最初の秘密は、さまざまな種類の混合物です肉。あなたは野菜のグリースを調理し、菜食主義のボルシェ – ができます。肉がなければキャベツ、ビート、トマト、ブルガリアの胡椒を加えます。あなたはあらかじめ浸した豆や豆を投げ捨てることができます。しかし、これは特別なレシピです。古典的なborschを作る方法 – ウクライナ語?一から二の割合で脳の骨と牛肉と豚肉の胸肉をとる必要があります。脂肪とともにもストック���る – それは既に提供する前に追加されている。肉(0.5 kg)を洗って冷たい水を注ぎ、調理する。 古典的なレシピ – どのようにボルシックを調理する – が必要です注目と忍耐のホステスから。水が沸騰したら、火を少なくして定期的に泡を取り除いてください。ブロスはきれいにしてください。蓋の下で約2時間半肉を煮る。これとは別に、2-3個の大きなビートをオーブンに入れます。それらを「ユニフォーム」で溶接することもできます。私たちは骨と肉を引き出します。肉を小さく切る。 料理は美しいブルゴーニュ色をしていた、このスープの主成分であるビートを適切に準備する必要があります。レシピ(ウクライナのボルシック調理方法)は、調理したまたは焼いたボラージュを掃除し、大きな削り粉でそれをこすり、沸騰したスープを注ぐことを強く推奨します。即座に半分のレモンからこの “クワス”ジュースに絞るか、酢2スプーンを加えてください。我々は冷やすために置く。ビーツを準備する別の方法があります:生の塊茎をストローで切ったり、ひび割れやバターを出したり、レモン汁や酢で振りかける。 野菜の連続敷設 – 不可欠要件。スープを調理すれば、写真付きのレシピが明確な行動アルゴリズムを教えてくれます。このブロスには、皮をむいた、スライスしたジャガイモが加えられる。 10分後 – キャベツを切った。植物油やラードタマネギでグリドルパッセロ、パセリの根、ニンジン。オプションとして、トマトやピーマンを加えて揚げることができます。別の5の後zazharkuブロス中のキャベツ投球後5分、 – 正確に「kvasok」(ビートパルプなし)ひずみ。塩と火災シーズンオフスープの前に8分と香辛料(ガーリック、コリアンダー、唐辛子)を追加します。 ボルシェをいかに正しく調理するか、私たちへのレシピ私に言ったが、それを認証する方法は?料理は少なくとも30分は暖かい場所で醸造する必要があります。フライパンでは脂肪をシンクし、細かく刻んだニンニクで亀裂を炒めます。私たちはそれをプレートにレイアウトし、新鮮なパセリの緑を加えます。私たちはボルシェを注ぎ、サワークリームを提供します。大きなポットを煮た場合、スープは小さな容器で一度加熱する必要があります。一度perekipev、borschは赤い色を失い、茶色になります。 http://bit.ly/2WrYBZ8
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1/12 2019【ルーマニア11日目】首都ブカレスト初日。 宿の受付でスーパーマーケットを教えてもらい、夕飯の材料を買いにいく。 24レイ620円くらい買う。 量り売りのお惣菜コーナー似合ったキャベツ炒めのお惣菜がルーマニアぽいなと思って、店員のお姉さん��頼むと、 ルーマニア史上最強に不機嫌でぶっきらぼうなお姉さんだった😅……。 ちょうぜつ、すーぱーふきげんそうにお惣菜を詰めてくれた。スゲー。 うーん首都はちょっとすさんでるかも知れない。😨))) ブカレストは無機質でつまらないし、治安も評価が低い…と言うのでのでスルーする旅人もいる。 それでもわたしがここに一泊したのは、『ルーマニア共産主義時代』を観たかったから。 田舎の村、旧い修道院、古都……と来て、最後はコミュニズム(共産主義)!!これを抜きにしてルーマニアは語れない……はず。 他の街のホステルはどこも空いてたけど、ブカレストのホステルは一番混んでた。色んな国の旅行者がいて、不思議とワイワイしている。 それを横目に、買ってきたものを何となく混ぜ合わせてパスタソースを作った。 ぶっきらぼうなお姉さんが量ってくれたキャベツ炒めのお惣菜は、東ヨーロッパらしい味わいでなかなか美味しかった。パスタにもちょっと入れてみた。 他に、副菜として魚のマスタードソースの缶詰めと、マッシュルームのパテ(クリーム)。りんご。 ホームステイしてたお家で、美味しいベジタリアンフードとしてパテを教わったのでこっちでもベジタリアン仕様のパテを買ってみた。 パンに塗ればサンドイッチになるし、便利だな~。 今日のお小遣い帳 1レイ=27円くらい シビウでブランチに揚げパン4.5 この旅初のスタバでカプチーノ・トールサイズ12 朝のタクシー9 シビウ→ブカレストのバス50 休憩でジュースを買う4 ブカレスト市内交通費2.5 宿代30 スーパーマーケット買い出し24 合計136レイで3617円くらい 明日はルーマニア最終日でーす。 #旅人nina #旅人ニーナ #ルーマニア旅行 #ルーマニア料理 #ルーマニア #旅行 #蚤の市 #女子旅 #女性一人旅 #一人旅 #世界一周 #バックパッカー #女子バックパッカー #バックパッカー女子 #イラストレーター (Bucharest) https://www.instagram.com/p/BsjEFfsgdm6/?utm_source=ig_tumblr_share&igshid=2zvv1euuzdyv
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【旅ごはん|共産主義時代からのマーケットで】ブカレストでディープなローカル
【旅ごはん|共産主義時代からのマーケットで】ブカレストでディープなローカル #ルーマニア #ブカレスト #マーケット #ミティティ
共産主義というと、 若いころにはなんだか、 理想的な世界のような憧れというか、 怪しい感じの怖いもの見たさというか、 変な興味があったけど、 本当に生活してた人は、 本当に大変だったみたいで。
ルーマニアの首都ブカレストの、 共産主義時代の住宅地にある、 まだまだ現役のマーケットへ出かけました。 現地のツアーに参加してみると、 自分以外の5人はなんと全員アメリカ人。
夏ということもあって、 野菜や果物が豊富でどれもおいしそう。 特に、薄い緑のパプリカ、 12㎝位のチリがなかなかおもしろい。 トマトなども形が揃ってなくて、 それでもきちんと丸くなってないのは安かったり。
サクランボが葉っぱ付きで。 奥のから手前にちょっとづつ値が上がります。 真ん中のは酸っぱくてケーキによさそう。 手前のはそのまんまでしっかり甘い。
青ネギ、Spring Onion は、 みずみずしくしっかりと育ってて、
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ルーマニア語や英語にナス専用の包丁?お料理以外のこともたくさん習えるTomokoさんのルーマニア料理教室♡
こんにちは!HIKERのKumiです。 今回はTomokmoさんのPop-Upに参加してきました。 [popup api=”https://kitchhike.com/api/popups/58a015c4528beb026800012a.json”%5D ルーマニア料理ってどんなものか全く想像ができませんでしたが、TomokoさんのPop-Upを見るとどうやら野菜をたくさん使ったヘルシーメニューのよう。ほぼ出産時と同じ体重になりつつある私としては、新メニュー且つヘルシー料理ということで参加を決めました。 メニューは茄子のペースト、ズッキーニのスープ、ルーマニア式ロールキャベツ、ママンガというとうもろこしの粉でできたルーマニアの主食の4品です。 …
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「ナチズム」対ファシズム、前者の見地での二篇
訳序
世界大戦以降、世界は徹底的な脱ナチ化を経験したが、それに匹敵するような冷戦後の脱ボル化は決して起こらなかった。いわゆる「文化的マルクス主義」(田中英道『日本にリベラリズムは必要ない』を見よ)に活力を与えているのがこの反枢軸思想である。したがって、いかなる右翼にとっても国民社会主義の再評価は一定の意義がある。
しかし、「ナチズム」――国民社会主義の蔑称――及びファシズムという言葉を乱用する人間が後を絶たない。特に左翼は約百年前にイタリア簒奪を阻まれた恨みで、敵がみなファシストに見える精神病を患っている。そして、彼ら左翼こそが歴史を語る。
我々は国民社会主義とファシズムを正しく理解しなければならない。なぜならば、それは現世界秩序の起源たる第二次世界大戦に関わるからである。その唯一正しい方法は、後付けと外様のレッテル張りをすべて懐疑し、その概念を当時の当事者の言語に即して再建することであろう。その手間を嫌うにせよ、おそらく最善の手がかりは現代の国民社会主義者やファシスト自身の言葉に耳を傾けることで得られる。
本稿では隔絶した二人の国社主義者が同じ主張に達する事例を目にすることができる。
戦中・戦後の自由主義者の大きな誤りは、「蹄鉄」や「共産ファシズム」、「赤褐色」に託けて、政敵を適切に格付けせず、すべて同一視してしまう怠惰さにあった。もはやこの知性の放蕩に耽る余裕はない。国民社会主義・ネオ国民主義(*)は現行社民体制の共産主義(「文化的マルクス主義」)政策よりはるかにマシであると、すべての右翼が認めるべきときが来ている。
*ネオ国民主義(neo-nationalism):二〇一〇年中葉の欧米の移民受け入れ政策を機に発生した反移民イデオロギーの総称。
第一篇 ウィリアム・ピアス博士、国民社会主義とファシズムの違いについて
アドルフ・ヒトラーの国民社会主義はもっと一般的に定義される「ファシズム」の類型や変種であるという観念はマルクス主義のプロパガンダと分析の主要生産物である。実際、マルクス主義者はこの虚偽の主張する際、国社を自認する者の思考を汚染するほどカン高くしつこかった。(事例:ベニート・ムッソリーニとアドルフ・ヒトラー、一九四一年において)
一九七〇年の頃、ウィリアム・L・ピアス博士は「国民社会主義者のための一問一答」というコラムでこの論点に取り組んだ。このコラムが掲載されたのは『ホワイト・パワー:白い革命のニュースペーパー』であり、これは国民社会主義白人党の大量流通タブロイドであった。(ピアス博士はこの号の「共同編集者」としてリストに載っている。)
問:リベラル〔左翼リベラル〕はしばしば国民社会主義者を「ファシスト」と呼びます。彼らのこの習慣は正しいのですか?
答:リベラルは「ファシスト」というレッテルを、彼らが嫌悪したり危険とみなしたりする理念の誰に対しても――保守主義者に対してさえ――貼り付けます。特定のイデオロギーの信奉者に限らず、彼らはこの用語を侮辱語として使う傾向があります。そうして、どんな政敵に対しても「ファシスト」というレッテルで侮辱することに正当性を感じているのでしょう。
問:えっ、では国民社会主義者が「ファシスト」を自称するのは適切ですか?
答:決して適切ではありません。我々がこの用語を使うときは、事実上つねに、ベニート・ムッソリーニがイタリアで創始した統治システムに関する特定の社会政治学説の信奉者――大文字のFでのファシスト(Fascist)――を指しています。
リベラルにとって重要には見えないようですが、国民社会主義とファシズムには深い違いがあります。
問:しかしわたしはファシズムも国民社会主義も高度に集権化した権威主義的で強度に国民主義的な形態の政府であり、活動の仕方にはわずかな違いしかないと思っていましたが。
答:あなたはリベラルが著した教科書を多く読みすぎました。確かにファシスト国家と国民社会主義運動は権威主義的ですし、どちらも強い社会的基盤をもちます。しかも、アドフル・ヒトラーの国民社会主義政府とムッソリーニのファシスト政府はどちらも集権化した全国的な基盤において国民的社会的刷新の綱領のほぼすべてを経営しました。どちらの政府も計り知れないほど大衆的な熱狂を生み、これが公共の膨大なデモンストレーションとセレブレーションに現れました。これらすべてが見かけ上の類似に寄与しました。しかし二つのシステムの違いは決してわずかではありません!
問:それらの違いの幾つかは何ですか?
答:本当に根本的な違いは両システムの下での国家と人種の役割にあります。
ムッソリーニの言葉では、
ファシストの国家の着想は総括的である。��の外には人間的または精神的な��値は存在できない、いわんやどんな実質的価値をや。かく理解され、ファシズムとは全体主義的であり、ファシスト国家――全価値の総合兼単位――は人民の全生命を解釈し、開発し、強化する……。それは国家を生成する国民ではない……それはむしろ、人民に意志を、ゆえに実質的生命を授けながら、国民を生成する国家である……。ファシストの着想では、国家は絶対者であり、その前では諸個人と諸集団は相対者である……。
かたわら国民社会主義者にとっては、最も重要なのは我々の人種であり、国家ではありません。アドルフ・ヒトラーが『我が闘争』に記すとおり、
国家は目的への手段である。その目的は物理的及び精神的に類似した被造物の共同体の維持と前進にある……。この目的に尽くさぬ国家は出来損ないの怪奇体である。(II:2)
この態度の基本的な違いには多くの重要な帰結があります。たとえば、ファシズムの下では国家の責任を受け入れるかぎり、人種的素性にかかわらず誰もが市民でありえます。かたわら、国民社会主義の下では人種的共同体のメンバーシップが市民の第一要件です。(WHITE POWER: The Newspaper of White Revolution, number 11, January-February 1970, p. 5)
ジェームズ・ハーティングのコメント
ピアス博士が討論した理論的考察を別としても、ファシズムは歴史的には人種とユダヤ問題の枢要な論点で悪名高いほど弱腰だった。これはムッソリーニの原典とオズワルド・モズレーのもののような盗品の両方に当てはまる。
一九一四年から一九三五年まで、ムッソリーニの愛人兼腹心、政治的顧問は裕福なイタリア系ユダヤ人知識人マルゲリータ・サルファッティであった。彼女はこの期間に疑問の余地なくファシスト学説と政策へ影響しており、おそらく国民社会主義とヒトラー運動に対するドゥーチェの初期の敵意の原因である。
ファシスト政策のもっと公的な例はイタリア人による一九三五年のエチオピア侵入と征服である。この行為は国民社会主義の立場からは絶対的に正当化不可能である。他の批判をすべて措いても、数千万人のエチオピア人をムッソリーニのネオ・ローマ帝国に持ち帰ることの結末はイタリア人の血筋の破滅的な人種汚染であっただろう。最も強行な反混血法を定めても、ネグロ遺伝子は時経るほどイタリア人の遺伝子プールに流れ込み、そこからアーリア人ヨーロッパ全土に迷い込むだろう。
わたしは人種とユダヤ人に対する態度と政策がファシズムの第二次受肉の期間に、一九四四年~四五年のイタリア社会共和国で、顕著に良くなったことには気づいている。ファシストはドイツ人からの直接���接の圧力の下で、ヒトラー派新秩序に与するよう努力した。しかしそれは少なすぎたし遅すぎた。
ファシスト運動の外縁で、ユリウス・エヴォラ男爵(1898-1974)はファシズムに人種のイデオロギッシュな基盤を設けようと努めたが、彼の努力は要件を満たさなかった。エヴォラの理論は国民社会主義の科学的生物学的レイシャリズムとは相容れない「精神的」レイシャリズムに基づいていた。エヴォラの理論はハインリヒ・ヒムラーの指示でSSにより調査され、非国社であるとして公式に拒絶された。
ファシズムをもっと広く定義して一九三〇年代と四〇年代の平行諸運動をすべて「小文字のf」ファシスト(fascists)に包含したがる運動が幾つかあることは知っている。スペインのファランヘ主義者、ハンガリーの矢十字運動、ルーマニアの大天使ミカエル軍、ノルウェーのヴィドクン・クヴィスリングの国民連合。その皮相的な類似にもかかわらず、これらの運動はそれぞれイデオロギー上では互いに判明であった――そして、ヒトラーの運動とは程遠かった。各国は各自の国民復興を、各国の独特の歴史的経験と当座の政治的必要に基づいて生産した。それらの運動が一九四五年以前の世界で存在するためにどんな正当化をもっていたにせよ、それらは二十一世紀においては無である。というのも、二十一世紀に我々の運動が前進する道を敷いたのはただ国際的汎アーリア人ヒトラー運動だけだからである。
ピアス博士の運動キャリアについての注記――ウィリアム・ピアスの運動キャリアは三つの期間に分けられる。
前期:一九六〇年代初期から一九六七年のリンカーン・ロックウェル暗殺まで。この期間において、彼はロックウェル司令官の顧問として尽くし、『国民社会主義世界』の初めの複数号を生産したが、それ以外の彼の活動関与は最小限度であった。
中期:一九六八年から一九七〇年まで、ピアス博士は自ら党員であり指導的な幹部であった国民社会主義白人党と書記長を務めた国民社会主義者世界同盟で活発な役割を演じた。
後期:一九七〇年の国社白人党と世界国社同盟からの離脱についで、彼は『国民青年同盟』を引き継いで作り直し、後に『国民同盟』と名付け直した。この長く生産的な運動関与の期間において、四冊の作品を著し、長大な『アメリカ反体制派の声』を放送し、数えきれない演説をうって、無数の記事と詳論、社説を書いた。
彼はアメリカ・ナチ党と国社白人党を支持した初めの二つの期間において、自らを国民社会主義者であると公然と同定しており、彼の著作物は明示的に国社であった。第三の期間においてはもはや公然とは自らを国社に同定しなかったが、彼の書くこと、彼の言うこと、彼の成すことはすべて、明示的にではなくとも、暗に国民社会主義者であった。
ピアスが一九六六年に『国民社会主義世界』で著した内容と二〇〇二年に『アメリカ反体制派の声』で放送した内容にイデオロギー上の不連続性はない。むしろ、彼の言葉はアメリカ・ナチ党への関与の始まりから彼の生涯の終わりま��継ぎ目のない全体を構成している。わたしはウィリアム・ピアスが生産したすべてを、いつ生産されたかにかかわらず、アメリカ国民社会主義の重要な統合的部分であると考えている。
第二篇 国民社会主義とファシズム
「ヒトラーは精神の船、半神であり、もっとうまく言えば、神話である……ムッソリーニは人だ」―カール・ユング
国民社会主義とファシズムの唯一の関係はどちらも資本主義共産主義二分論への対抗であることにすぎなかったし、これが彼らの政治的同盟を説明するのだが、国民社会主義ドイツとファシスト・イタリアの枢軸側の繋がりは(ヒトラーの思考への主な影響源はムッソリーニであったと笑止千万にも主張するイタリア人プロパガンダとともに)国民社会主義とはファシズムの分家、あるいはファシズムの特殊なブランドであるという通俗的な誤着想に至った。反シオニズムは本来はファシスト・イデオロギーの部分ではなく、国民社会主義ドイツの台頭の後で同盟を固めるために付け加えられたにすぎなかったことは注目に値する。また、第二次世界大戦が終盤に向かうにつれて、国社ド労党(国民社会主義ドイツ労働者党)はファ国党(ファシスト国民党)に対し、後者がシオニスト連合と手を取って彼らの敗戦に寄与していたと考えて明確に感情を害していたことも注目した方がいい。
「根はファシズムの過剰評価に遡る。ヒトラーは第一次世界大戦の全く幻滅ものの経験に気づかず、少なくとも一九四三年まで、ムッソリーニの意志はイタリア人民を仕立て直すこと、人民を新たな水準に引き上げることであろうと確信していたようであった」―アルフレート・ローゼンベルク
にもかかわらず、国民社会主義をリバタリアンなど小さな政府提唱者により容易に却下可能な総称的ファシスト藁人形に調整するため、シオニスト・エージェントはこの合成を第二次世界大戦後にも押し付けてきた(国民社会主義者を「ファシスト」と侮辱しながら。我々はこれをまったく受け入れない)。現在のファシストがかった陣営とリバタリアンがかった陣営の間に新しい敵対的二分法を形成することで、国民社会主義はこの討論からは政治的に離れており、イデオロギー上でははるか上を行っていると気づくことが重要である。
権力への意志(対)自由への意志
「かくも多くの憎悪者が考えていそうなこととは対照的にも、ファシズム自体は国民社会主義ではなかった。それは政治的――及び経済的――システムであり、政治以上の信条ではなかった。それは実践的な当座の――期限付きの――意義の運動を鼓吹したのであり、宇宙的な範囲のものではなかった」―サヴィトリ・デヴィ
我々はファシズムで、社会を団結させエネルギーを加えるために、経済とメディアその他の国民的機構に対し公然と国家主義を使用する独裁制を意味する。それは棒の束は一本の棒よりはるかに壊れにくいという意味での結束での強さの原理を寿ぐ古代ローマのファスケスに象徴される。実際、ファシズムの好例はムッソリーニのイタリアではなく古代ローマ自体であるに違いないという、ルドルフ・ヘスが触れたとおりの強い議論が提出されうる。いわく「辛いとき、ローマ人は若く有能な指導者に全権力を与えた――ローマ人は統治するとは何かを知っていたのだ! 彼らは『人が歴史を作る』ことを知っていた」。ムッソリーニのイタリアはムッソリーニ以前には深く分断されていた社会を急速に纏め上げるこのローマの象徴の復活というわけで現代世界でのファシズムの良い例である。とはいえ、「ファシズムは民主制への道中の独裁制である」という彼の言葉を考え合わせるに、ムッソリーニは根本的な水準では民主制に反対しなかったことが注目されねばならない。北朝鮮のチュチェ(「主体」、統合主義の意)は自称こそせざれ現在実行中のファシスト体制の好例である。それでもやはり、ファシスト(特にそう自称する者)は定義ゆえその考え方において本質的にローマ的である。
かくて、アンティファ/主流派メディアのレッテル張りとは対照的にも、統一ではなく民族的か宗教的かの線に沿って社会の分断を創造する人種主義極右諸集団は、ちっとも正真正銘のファシストではなく、むしろその真逆である。それらは棒を多くの束に分けて、すべての棒が壊れるまで一方の束で他方の束を叩き付ける。我々は彼らを擬似ファシストであると、真正ファシストとは逆であると言う方がいい、ちょうどネオナチ主義が真正国民社会主義とは逆であるがごとし。ムッソリーニが言ったことを――「生物学的に純粋な人種が今日まで存在を現しているとわたしに信じさせるものはないだろう……人種の譫妄は国民の誇りには必要ない」と言う極右はいない。ローマ人の考え方に共鳴するのがムッソリーニの見解である。かたわら、極右の見解はローマ文明ではなく西洋文明から来るのであり、ゆえに、極右としてはアラゴンのフェルナンド二世とカスティーリャのイサベル二世の人種主義者/イスラム嫌悪者の紋章学に因んでファランヘ主義者を自称する方がまだ正確であろう。(ファランヘ主義はフランシスコ・フランコ(ユダヤ人)治世下のスペインのイデオロギーであった。公然たる親ユダヤ人だったフランコと初めて会ったあと、ヒトラーはもう一度フランコと会うくらいなら同じ量の時間を歯医者に歯を引っこ抜かれるために費やした方がまだマシだろうとムッソリーニに語った。ムッソリーニはちっともイスラム嫌悪者ではなかった。彼はイスラム教徒をファ国党に加えるのみならず、参加を促すため特別にAML(リクトルのイスラム教徒協会)を設けた。そのようなものとして、我々は擬似ファシストからファスケス――統合の象徴――を取り戻すための真正(すなわち、非人種主義的、非イスラム嫌悪的)ファシストのありとあらゆる努力を支持する。それはちょうど、我々真正国民社会主義者がネオナチからスワスティカ――高貴の象徴――を取り戻しているのと同じ在り方である。
ローマ人は人種主義者ではなかった、ゆえにファシストも人種主義者ではないはずだ。
ファシスト国民党は決して人種主義者ではなかった。事実、軍役の見返りの市民権はアウグストゥスが始めて実施したローマ政策であり、ムッソリーニはコピーしたにすぎない。
これがファシズムである。この理念を嫌う者は「ファシスト」ではなくファランヒストを自称した方がいい。
かたわら、国民社会主義をファシズムの一種と言うのは菜食主義を料理の一種と言うのも同然である。その言明は技術的には間違いではないが、原因より結果に焦点を当てることで知性的には治安妨害の罪である。ファシズムと国民社会主義の鍵たる相違を理解する最も単純な仕方はそのレトリックの本質を検分することである。
ファシズム:我々が一丸となれば、望むがままにどんな目標でも達成する権力を得るだろう。(「他人が歴史を書いている間、我々が手を拱くままなのは屈辱的である。誰が勝つかは大した問題ではない。人民を偉大にするには彼らを戦闘に送る必要がある。たとえそれが酷い仕打ちであってもだ。これこそわたしがすることである」――ベニート・ムッソリーニ)
国民社会主義:これが我々の目標である。これを達成する唯一の方法は一丸となることだ。(「彼らは果たすべき使命があるという感情に鼓吹されるのであり、我々は彼らをあまり扇動しない方がいい」――アドルフ・ヒトラー)
ファシズムは最初に目標を特定しない。そうせず、――恣意的な目標を成し遂げるための国民権力の形での――参加の見返りを個人に約束する。ムッソリーニの最も有名なスローガン、「国家の中にすべてあり、国家の外に何もなし、国家に抗する者はなし」は、他のすべてを国家への積極的か消極的な影響により測定するが、国家それ自体の価値を測定できるような固定的な目標を何も差し出さない。言い換えれば、権力それ自体がファシズムの精神的動機付けであり、ファシスト国民の業績はつねにその権力を自分や他人に誇示する単なる軽率さとなる。かたわら、国民社会主義は権力とは厳密には目標――搾取の終わり――を成し遂げるための手段であると言い張りこれが最初に具体化され、しかる後に他のすべてが収束する焦点を設ける。たとえば、ファシストは政治一般と戦争特殊を性格作りの最善の方法の一つであると考え、ゆえにその経験上の価値のためにそれらに参加することに喜びを感じる。かたわら、国民社会主義者はそれらを不幸な負���であると考え、ゆえにそれらに対して純粋に義務感から、純粋に敵を倒す目的からアプローチする。ヒトラーいわく、「戦争指導者とはわたしがわたし自身の意志に反することである。わたしの心を軍事問題に適用するとしたら、それは差し当たりわたしよりうまくそれをやれる者が誰もいないと知るからである」。国民社会主義は個人的参加を栄光ではなく義務として動機付ける。国民社会主義は熟達ではなく高貴を価値付ける。我々の効能(効果)は統一での強さであるかもしれないが、我々の大義(原因)は高貴での統一である。
鍵十字が肝であり、武器は道具にすぎない。
ファシズムは、その指導者が国民を強く保つかぎり、その国民が存在する目的について実際には(指導者含め)誰も知らないか気にしないでも、完全に成功であることができる。これは国民社会主義には当てはまらず、目的への忠誠が最優先である。したがって実践的にはファシストは単なる国家主義者な栄光漁りであり、かたわら国民社会主義者は真正のイデオロギー戦士である。幾人かのファシストは間違って国民社会主義者を自称する。それらが起こる理由は普通、ファシストのパースペクティブで、彼らが国民社会主義ドイツの秩序と効率性に感銘を受けるからである(ヒトラーが記述したとおり、「新帝国にはたった一つの軍、一つのSS、一つの行政しかないという事実は並々ならぬ権力効果を生み出すだろう」)。逆は起こらない。真正国民社会主義者をファシストと呼ぶことは、我々が単なる道具としてではなく目標としての強さに動機付けられていると示唆することであり、侮辱である。
「『時の』人はまったくイデオロギーをもたないか、まったくもっていないふりをする、あるいは彼らは『時を越え』るか『時に逆ら』う信仰に仕えるふりをして、彼ら自身の目的のために後者を食い物にする(神の名において自分のために戦う偽者クリスチャン全員と同じであり、自分を権力へと動かすつもりでしかないのにスワスティカの旗の下で戦う偽者国民社会主義者全員と同じである)」―サヴィトリ・デヴィ
混乱の一部はファシストと国民社会主義者の両者が「物質主義」を批判するところを、この言葉が各陣営で異なる使い方をされていることに気づかぬまま、傍観者が見ることから生じている。ファシスト(と多くの正統派ユダヤ人)は「物質主義」で単に消費者生産物を意味するにすぎず、これが行き過ぎると諸個人の権力動機を散らしてしまう。国民社会主義者は「物質主義」で、単なる消費者生産物ではなく、ファシスト(と多くのユダヤ人)が崇拝する権力動機それ自体を言っている! 我々の眼では、国民権力のために消費者生産物を手放すファシストは消費主義者であると同様に物質主義者であり、単なる集団主義者にすぎない。
そのイデオロギー上の劣等性にもかかわらず、その独裁的政府形態の優位のためであれ、ファシスト国民はもっと有意義な何かへと急速に発達する可能性をもっている。たとえば、宗教が外的目的���埋め合わせ、国民がその宗教を真剣に追求するに足るものと受け取る(ベルギーのための「キリスト教社会主義」イデオロギーとされるレクシスム実験に導いた、レオン・ドグレルのクリストゥス・レークス〔キリスト王〕概念のような)場合や、あるいはその指導者が時を経るごとに国民社会主義に転向する場合である。これを念頭におけば、我々は一般的にはいかなる国においても随時のファシスト指導部の政治的見解に同意しないときでさえ民主主義国家よりファシスト国家を選好すべきである。それは少なくとも問題を――大衆のためよりはむしろ――指導者のための勝利に、我々のイデオロギーに単純化する。
「文化が政府下の要素であったと言えるのはローマ帝国だけである」―アドルフ・ヒトラー
我々は国民社会主義者として共通の実践的目標のために、ファシスト指導が合理的で尊敬に足るパーソナリティーであるかぎりは真正ファシストとの同盟に心を開かなければならない(すなわち、反シオニズムのために。「考えてみよ、ローマ人はユダヤ人が所持する最も神聖な物をあえて没収した。彼らの神殿に積み上げられた黄金を!」―アドルフ・ヒトラー)。かたわら、人を腐敗させる権力と壮大さの誘惑は決して過小評価されてはならないので、国民社会主義者は自身がファシストに堕落することを警戒しなければならない。これは国民社会主義ドイツが十分に直視し続けられなかった一つの挑戦である。我々は反シオニストとして、シオニスト・エージェントがどこであれ国民社会主義に対する可能ファシズムを、ファシズムに対する擬似ファシズムを促進し、彼らが「ファシズム」と呼ぶが実際には擬似ファシズムである広い旗の下で互いの区別を混乱させて、そのような運動を支配しシオニスト・アジェンダに仕える目的で、独裁制運動に浸透するためにありとあらゆることを成してくるだろうと予想する。
超人(対)敵破壊者
「快楽」といわゆる「栄光」への欲望……は野蛮人の印である」―デイヴィッド・マイアット
想定の上でのニーチェとヒトラーのイデオロギッシュな結合は一九三三年のニーチェ文庫でのヒトラーの紛らわしい写真以外に根拠をもたないが、彼はそこに率先して訪れたわけではなく、エリザベート・フェルスター(国社ド労党の資金提供者)の強要で尋ねたのだった。ヒトラーが国民社会主義をニーチェに鼓吹されたものと考えた証拠はない。対照的にも、彼はハンス・シェムのような人たちとの私的な会話で、国民社会主義をニーチェ起源と仄めかそうと試みたトゥーレ協会の会員を非難した。ヒトラー自身の言葉で、「わたしはこういうことを繰り返しはっきりと禁じてきた! すべてのくだらない『こと』が起こった。至祭だのヨルムンガルドだの、ドイツの先史から掘り返してきた、くだらないものが! それから彼らは十五歳の少年たちと一緒にニーチェを読んで、支離滅裂な引用句を使いながら、超人の図を描いて少年を言い含める――『これがお前だ……あるいは、これこそお前が成りつつあるものだ』と」。事実、ヒトラーの主な哲学的影響源は疑いなくショーペンハウアーであり、彼はその本を第一次世界大戦期の兵士として自ら研究したし、後に自称ショーペンハウアーの弟子なるディートリヒ・エッカートの下で再び研究を行った。アルフレート・ローゼンベルクは彼らの私的研究集団の日々を振り返る。「わたしがときどき彼に会いに朝訪ねると、彼は階段でわたしに会うや、その場でわたしに彼の最近の努力を語っていた……また、エッカートは彼の愛しのショーペンハウアーのまたもう一つの美しい一節に出くわしたのだろう、その場でわたしに読むよう言ってきた」。ヒトラーの他の大影響源はワーグナー(彼自身、偶然ではなしに、ショーペンハウアーの弟子)であり、彼は次のとおり言うほどであった。「国民社会主義を理解したい者は誰であれまずワーグナーを知るべきだ」。対照的にも、ニーチェのワーグナーとショーペンハウアーの両者についての意見は否定的であった。(「精神病の一種としてワーグナーとショーペンハウアーを見る無駄な努力が成されてきた。もっと科学的に、両者が代表するものを一種の退廃であるとすることで、計り知れぬほど本質的な洞察が得られるだろう」―フリードリヒ・ニーチェ)したがって、国民社会主義にとりニーチェ主義であることは不可能である。ニーチェ主義な政治的イデオロギーがあるとすれば、それはファシズムである。
ファシズムは内的には超人の概念とよく適合するし、ファシストがその政治的見解に加えてこの理念に魅了されることはありふれている。対照的にも(そしてシオニスト学会の主張にかかわらず)、国民社会主義は、一貫してアーリア人ミュトスに付き合うものであり、敵破壊者(アルハット……阿羅漢)の古代概念ともっと適合する。この二つの違いは、超人は(字義的には「人」の条件を「超える」ことでの)期待上の条件への前進であり、それをトランスヒューマニズムの精神的形態とするのに対して、敵破壊者は(字義的にはこの条件を腐敗させた「敵」を「破壊する」ことでの)本源的条件への復帰である。それゆえ前者は非アーリア人の無限増加の精神性に基づき、かたや後者はアーリア人の本来的高貴さの精神性に基づく。
「名声は勝ち取るべき何かである。名誉は失ってはならぬ何かである」―アルトゥル・ショーペンハウアー
ファシストは主な人間的二分法を主人と奴隷と見て、彼らは主人たらんと欲する。対照的にも、国民社会主義者は主人と奴隷を同じものの二つの側面であると考える。すなわち、野蛮人の二面であると。国民社会主義者は異なる人的二分法をみる――野蛮人と騎士だ。彼らは騎士たらんと欲する――虐げられる者みなの擁護者、虐げる者みなを破滅させる者。野蛮人は精神的奴隷であり、いかに強かろうと主人になってのける者はいない。なぜならば彼は高貴さ[1]を欠くからである。ただ騎士だけが真に自由[2]である。
「ニーチェのツァラトゥストラ。わたしはすぐに作品全体を吸収しようとしたが、何かわたしとは相容れないものが突っかかった。後で気づいたが、それは完全であるよちはむしろ頑迷であるように思われる、極度に病的な、芝居じみてすらいる要素であった」―アルフレート・ローゼンベルク
パリの判断
「組織は必要悪にすぎない。それはせいぜい一定の目的に達するための手段にすぎない。それが目的それ自体になるとき、最悪の事態が起こる」―アドルフ・ヒトラー
神話学において、女神ヘーラーとアテーナー、アプロディーテーはパリの至上美の評言をめぐって争い、アプロディーテーが判定を受けた。ここでの要点はパリが間違った選択を行ったことではない。我々は政治的革命家としてすでにアプロディーテー――純粋に私的な性質の満足感を表象する――が間違った選択であったことを知っている。三者間コンテストの要点は、間違った選択肢が二つあることを我々に警告する。
「ここでは彼自身の名前でさえ正しいのがよく分かる。ユングいわくドイツ語の『フロイト』は快楽を意味する。そしてフロイトは彼の理論を性的快楽に集中した。『アドラー』はドイツ語では猛禽類であり、彼の心理学説はその基盤を権力本能に置いた。『ユング』は若さであり、この偉大な学者はその教えの中心に永遠の若さの船首を立てて、再誕を据えた。彼の家では銘板を読むことができる――『我々は若かった。我々は永遠の若さを象徴化する』彼はこれを知っていた」―ミゲル・セラノ
我々としてはファシズムを国民社会主義と混同する者はまさにヘーラー(パリの支配者を世界で最も強力な王国にする者)の贈り物とアテーナー(パリを戦いで不敗にする者)のそれの違いを理解しない者であると思う。月並みな解釈はそれを軍事的覇業の保証が政治的覇業の保証で時代後れになることと推論させるが、これは国民の生存をかけて戦う国民の兵士が存在することを決め込んでいる。国民は超越的目的のために戦うのでないかぎり生存する理由をもたないと理解することでしかアテーナーの贈り物は実際には意味をなさない。
明らかに、ヘーラーの贈り物とアテーナーの贈り物は異なる種類の人々を魅了するだろう。我々はこの分裂がファシストと国民社会主義者の分裂に対して見事に相関すると予想する。偶然にも、アレースとヘーパイストス(ヘーラーの息子)が技術にかけてアテーナーと重なりながら高貴な性格の完全に欠如していることは先に討論されたファシズムと国民社会主義の皮相的な類似と直接繋がっており、願わくはこの二つを混同することの大なる危険をさらに強調したいものである。
選ぶべき第二の機会は近い将来に近づいているだろう。もしも我々が過ちを繰り返すならば、我々が第三の機会を得るまでどれほど待たねばならないか見当もつなかい。
原典
James Harting, “William Pierce on the Difference between National Socialism and Fascism,” National Vanguard, http://nationalvanguard.org/2015/06/dr-william-pierce-on-the-difference-between-national-socialism-and-fascism/ white biocentrism, http://whitebiocentrism.com/viewtopic.php?f=25&t=525
“National Socialism and Fascism,” Aryainism: United through Nobility, http://aryanism.net/politics/national-socialism-and-fascism/,
[1] http://aryanism.net/philosophy/what-is-nobility/
[2] http://aryanism.net/philosophy/what-is-freedom/
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✿ ミティティ | Mititei ・牛肉や羊肉のひき肉にニンニクやスパイスなどを混ぜて筒状に形を整え、炭火で焼いた肉料理。屋台やレストランで提供されていることが多く、フライドポテトやマスタードが添えられているのが一般的です。ルーマニアでは5月1日の「メーデー」を祝って、バーベキューやピクニックに出かける習慣があり、その際にミティティを食べることもあるのだとか。
#ミティティ#mititei#ルーマニア:肉#ルーマニア:主菜#ルーマニア:ひき肉#ルーマニア:牛肉#ルーマニア:羊肉#ルーマニア#food:ルーマニア#主菜#肉#ひき肉#羊肉#牛肉#food:スパイス#ルーマニア:メーデー#メーデー#season:メーデー#バーベキュー
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✿ ポマーナ・デ・ポルク | Pomana porcului
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✿ ミティティ | Mititei
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オラデア日記 その弐
8月13日
オラデア観光2日目にして最終日。明日の朝の便でオラデアを発ち、ブカレスト経由でロンドンに戻る。今日もまた刺すような強い日差しの中を出かける。
12月1日公園(Parcul 1 Decembrie)で、オラデアに着いて初めて「これぞ旧共産圏!」という建物に出会った。嬉しくて小躍りする。モニュメンタルなファサードの大きな建造物だが、一体なんの施設なのか見当もつかないところもコミュニスト建築らしくて良い。北米資本主義の申し子Googleで調べてみたところ、「市民のための多目的娯楽施設」らしい。ますます嬉しくなる。
そして、同じく12月1日公園で、幼児を抱いた10歳ぐらいの少女にお金を乞われた。返答ひとつできずにベンチに座ったままの私に、眉を寄せルーマニア語で訴え続けた彼女の足は、裸足だった。
Cetatea Oradea (オラデア要塞)は不思議な場所だった。11世紀ごろに初めて建物が築かれ、その後次々と拡張、増築、改築、取り壊し、建て替えられてきた歴史を見せてくれる考古学的展示は大変面白かったが、そのまま館内を進んでいくと、様々な「特別展」が脈絡もなく次々と現れて驚いた。どうも部屋ごとに「貸し出す」ような形を取っているのではないかと思う。個人の写真関連のコレクション(現像トレイや印画紙まで!)を展示した部屋があったりした。説明文はルーマニア語とハンガリー語で、英語はあったりなかったりする。うまくこなれた英語のものもあれば、機械翻訳に毛が生えたような文章にも出くわす。手作り感溢れる展示が散見される。
要塞全体は、アートコンプレックスとなっているようで、博物館の他に文化センターやクリエイティブ産業向けのコワーキングスペースなどが併設されていた。小さな野外劇場もあった。観光のオフシーズンであるからか、カフェと食堂は閉まっていた。ここもやはりひっそりとしてあまり人影がない。行政の意欲に地元のキャパシティーが追いついていないような雰囲気がここにも漂っていた。
オラデア要塞の近辺には近代的な集合住宅がたくさん立っていた。団地育ちの私は懐かしさでいっぱい。もしオラデアに引っ越さなあかん日が来たら、このあたりに住むな、絶対、と勝手に胸に誓う。
ランチに入った川沿いのレストランでは、メニューの前菜の項に握り寿司があった。前の席の家族づれの小さな女の子(2歳くらいか)が手づかみで握り寿司を食べていた。母親はフォークで刺して食べていた。私が頼んだサラダのハニー&マスタードドレッシングはほぼ「ただの(極上の)蜂蜜」だったが、それはそれでなかなかの美味であった。
ランチのあと、川向こうを歩く。川沿いは木々が鬱蒼と茂る公園になっていて、ストリートレベルの遊歩道から川岸まで降りられるようになっている。ゆっくりと散歩する人々、木陰のベンチやカフェで休息する人々。岸には水着姿の若者たち、釣り糸を垂れるおじさんたち。川に沿って長く伸びた公園の中ほどの歩道橋を渡って、シナゴグへと向かう。川と橋のある街は良い。
Neolog Synagogue Sionは美しい場所だった。19世紀に建てられたムーア風のシナゴグは数年前に修復され、現在は地域のユダヤ教徒のためのシナゴグとしての機能は果たしてないためか、小額の料金を払えば中を自由に見学できる。そういえば、シナゴグの中に足を踏み入れるのは初めてだ。美しい幾何学模様が、すべて手書きで施された壁という壁、天井という天井。ため息をつきながら降りてきた階段の横に、金色の文字が書かれた黒い板がいくつも並んでいた。立ち止まって眺めて、アウシュビッツで殺された人々の名前が書かれたものだと気がつく。たった今あとにしたばかりの、座る人のいないベンチが並んだギャラリーを思う。かつてあそこに腰をかけていた人々の名前なのだ。
ハンガリー国境に近いオラデアは1940年にドイツとイタリアの仲介したウィーン裁定により、「北部トランシルヴァニア」としてルーマニア王国からハンガリー王国へ譲渡され、第2次世界大戦中はハンガリー領だったオラデアに住んでいたハンガリー系ユダヤ人は全員アウシュビッツへ強制収容された。中心部を少し外れた公園は、かつてアウシュビッツへ向けた列車が出発した場所で、そこに記念の少女像がある。おさげを垂らしたエヴァ・ヘイマンは静かにベンチに腰を下ろして死へと向かう列車を待っているようにみえる。隣に座ると、列車を/死を待つ彼女の目に映った景色が私にも見えるだろうか。
道端の小さなパン屋でCovrigなるパンを買う。「コヴリグをひとつ」というと「コヴリッヒだ」と訂正された。ひとつ2.5レイ、約50ペンス、65円。ホテルに戻って調べると、トルコ/アラブのベーグルとある。さもありなんといった形だが、手に持った感じはベーグルより軽い。割ってみると中からばら色のジャムが出てきた。酸味の爽やかなモレロチェリーのジャムだ。
Piata Unirii(統一広場)のカフェで夕食。広場に広げたパラソルの下の席に座ると、8時から予約が入っているが良いかと確認された。時計を見るとまだ6時半。大丈夫と頷く。オラデアの飲食店のサービスはどこもややのんびりしているが、観光客にはそれがちょうど良い。まだ日は高く、強く、パラソルからは時々涼を取るためのミストが撒かれる。頼んだのはラズベリーフローズンレモネード。ルーマニアについて以来すっかりレモネードファンになってしまった。
8時近くなってやっと日が陰って、統一広場に人の姿が増えてきた。日中あれほど閑散としていたのが嘘のように、ベンチに腰掛けて話しこむ老人たち、立ち話に興じる若い母親たち、乳母車で眠る赤ん坊、フットボールを蹴り合う少年たち、自転車やスクーターに乗った子供たち、家族連れ、手をつないで寄り添う恋人たち。観光客ではない、地元の人々だ。ははあ、暑い最中はみんな隠れていたんだなと思う。フォーマルなスクエアが村の広場に変身したかのようだ。オラデア最後の夜に、この広場で、この光景に出会えて本当に良かった。なんて素敵な旅の締めくくりだろう。
オラデアの写真はこちら オラデア日記 その壱
ブカレスト日記 その壱 その弐 その参
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