#ラファエル・ローゼンダール
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戦略会議 #26 POST/PHOTOGRAPHY/イメージの物質性ーラファエル・ローゼンダール|Calm @Takuro Someya Contemporary Art
今年度の大学院紀要は提出期限がかなり厳しく苦戦したが7月の末に最終的な内容でなんとか提出をした。今回の紀要論文は博論として「ポスト・フォトグラフィ論」を書き上げることを目指す中で、重要なパラダイムシフトのポイントであり、今後の議論のスタート地点となる「写真の物質性」について考えるものとした。
「写真の物質性」はライターであり、写真のキュレーターであるシャーロット・コットンが2015年の著書『写真は魔術』の中で
この本はアートの中における写真の現在の状況、その文化的地位をある一つの視点から考えます。(中略)この文脈でもっとも重要なのは、写真の物質性��マテリアリティ)が経験されうる方法、またそれが表し促すものが極めて自由で、様々なものを包括しながら同時に拡張しているという点なのです。 ーシャーロット・コットン、『写真は魔術』、深井佐和子訳、光村推古書院、2015年、 p. 7
と紹介したものである。コットンの名著『現代写真論』の後に出版された『写真は魔術』は80名以上(ほぼ1970年以降に生まれた)のアーティスの作品とシャーロット・コットンのエッセイ「写真は魔術」によって構成されたものであった。観客の目の前で行われるテーブルマジックを現代写真のメタファーとして取り上げ展開されたこのエッセイは、非常に示唆に富んだ豊かなものではあったものの、当時の僕にはどこか本質が捉えきれないものであった。そこから6年経った2021年、現在の視点をもってこの「写真の物質性」というものが何を示しているのか?ということを再検討し、「ポスト・フォトグラフィ」への道筋をつけ、イメージだけで語られることの多い写真に関しての議論を一歩先に進めることを目指したのが今回の紀要論文となる。 「写真の物質性」ということに関して、当初写真における「イメージ」と「オブジェ」の問題、つまり「イメージではなく写真を見ている」ということを中心に進めていこうと考えていたのだが、写真というメディアの特性なのか、どうしてもこの議論はイメージ優位の従来の議論を突破する破壊力を持つところまでには至らずにもがいていたというのが提出期限の1週間前という感じであった。徹夜明けの指導教官との論文指導の時間の後、ある展覧会に意識が朦朧とする中、足を運んでだことで展開は一変した。
翌朝駅へと向かう移動の中「今年はもしかしたらいいもの書けないかもしれないな…」とやや弱気に思っていた時にふと頭に降りてくるものがあった。
「これはスネ夫の髪型の問題なのかもしれない」
「写真の物質性」というものをこれまでの写真の考え方で捉えてきた。しかし既に議論の中心地はそこにはないのかもしれない。そこの前提を変えて思考してみることで、途端に様々なことが降りてきたのだった。これまでに書いていた内容の前提を大きく変更し、溢れるように出てくる言葉を紡ぎ、これまで苦しんでいたことが嘘のように論文を仕上げていった。詳しい内容は今年の紀要のリポジトリが公開されたら共有をする。
論文を仕上げて「写真の物質性」ということに理解が進んだことで、この問題がフルッサーの言うテクノ画像、いわゆる写真だけでなく様々なメディア、表現の問題に関わっているということが見えてくることとなった。この拡張��そが清水穣さんの言う「写真性」というところになるのだろうかと思う。。。
この忙しかった夏の期間に観た展覧会について少し書いておこうと思う。論文提出後の7月中旬からTakuro Someya Contemporary Artで開催中のラファエル・ローゼンダールの展覧会へ何度も足を運んだ。この世の中の状況的にそれほどの数を訪れたわけではないが個展としてはこの夏、文句なしの最高のものであった。
ラファエル・ローゼンダールはオランダ出身で、レンチキュラーの作品や、インターネットアートなどインターネットを発送の場として作品を制作し、ポストインターネットを代表するアーティストである。
■ラファエル・ローゼンダール|Calm 17 July - 28 August, 2021 Venue : Takuro Someya Contemporary Art
ギャラリー入り口に飾られたノートPCを開いたような壁面作品が印象的なこの展覧会では、2つの方向性(出力)によって制作されたものが展示されていた。ひとつは描画七宝(ペイント・エナメル)を用いた「Mechanical Painting」、もうひとつはプレキシグラスの「Extra Nervous」というシリーズである。どちらのシリーズもシンプルな平面構成によって構成された模様、もしくは壁にある窓や扉、エレベーターの出入口とったような境界線となるものをモチーフにしたイメージをもったものとなっている。
「Mechanical Painting」はエナメル・ペイント、つまりホーローであり、ガラス質の釉薬を支持体に焼き付けて作られた焼き物の作品ということになる。一見するとヌメっとしていて、艶やかな表面は丁寧に均一な表面に仕上げられたアクリルを透明のメジウムでコーティングしたようにも見える。作品は大きめで、焼き物であると聞いて急に作品の重さを感じるようになった。
一方、「Extra Nervous」は小さめのカラーのプレキシグラスにミラーの裏打ちをし、鑑賞者が作品の中に映り込むような作品であった。
これらの作品がいったい何であるのか…イメージは色面を構成した模様的であるため、何が描かれているかから何かを考えることは難しく、マテリアルとそのマテリアリティの体験から考察することにした。
どちらのシリーズも元々はローゼンダールがPC内で構成した色面の組み合わせであり同じ種類のデータである。テクノロジーのデジタル化の進歩によって、どちらもデータから出力によって制作することが可能となっている。つまり、印画紙ではないがこれらはどちらもプリント(出力)作品ということになる。その意味で僕としてはこれも「写真性」によって拡張された写真作品であろうと考える。しかし、これららの作品はプリント作品ではるものの、あくまでローゼンダールが作り出した、イメージ世界のものでありデータが見せるイメージは現実世界には由来したものではない。つまり、これらがもつリアリティはイメージ世界にのみ存在するものである。
これは僕が今回の紀要論文にて触れた「写真の物質性」と同様の問題を孕んでいる。それぞれの作品を生み出すイメージは同様のデータであることは、作品における鑑賞者の物質的な体験の差はイメージ世界のリアリティを現実世界へと持ち込む際に生まれる物質的な質量の問題によるものであるということになる。問題は出力の差、つまりアーティストの「選択」によって鑑賞者である私たちは同様のデータの持つ「イメージの物質性」の体験に差が生じることである。この差によってコットンが言っていた「写真の物質性(ローゼンダールの場合はイメージの物質性)」の体験がなされることとなる。 わかりやすい例をあげよう。「Mechanical Painting」において、色面の「境界線」はエナメルの釉薬の「重なり」によって表現される。つまりこの作品場合、青い釉薬の上に赤い釉薬が重なる、つまりレイヤー構造によって生み出されている。
一方で、「Extra Nervous」において、色面の「境界線」は色の境界線をそれぞれ異なったパーツの構成によって作り出すため、プレキシガラスとプレキシガラスの「接触」によって生まれることとなる。
これに限らず、出力の差によって様々な表現の差が現れる。これらのことが示すことが何であるのかということを考えるのがこの作品のおもしろさであった。 つまり、イメージ世界のリアリティを現実世界へと持ち込むということはこれまで、三次元世界を二次元平面に変換すると考えられてきた写真であったが、実際には二次元世界から���次元世界、つまり「現実世界をシュミレートする」ことこそが現段階での写真表現の主戦場であり、コットンが示した「写真の物質性」が経験されうる方法についての話なのだということだ。「写真の物質性」とは三次元世界にある写真という物質の話ではない。イメージ世界に私たちが感じる物質性の話であり、それをどう扱うのか?という問題である。
ここから考えられることは、テクノロジーの急速な進歩により、ローゼンダールのような作品も含む写真表現の世界はイメージだけでは語れなくなってきているというこである。さまざまな出力が可能となっているということは、「出力の選択」も「表現」となることを示している。写真が装置が生み出す「テクノ画像」以上、アーティストの思考やイメージが伝える内容だけでは作品の写真というメディアの本質には本来は辿り着けない。この点が写真の難しくもあり面白い点である。写真とは元来メディアアートなのだ。同様のことは写真の領域に限らず様々な領域を横断する形で同時多発的に発生している。そしてこれはまさに「スネ夫の髪型の問題」なのである。
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memo998
上田 良 個展「A Magpie’s Nest」を見た.写真のなかに背景でもなく,確固としたものではないけれど,どこかしらにサーフェイスを感じた.それは背景でもなくて,どこかの面でもなく,恐らくは,上田さんが言っていた「格子」をサーフェイスだと感じたのだろう.穴と線とでできる格子をひとつのサーフェイスだと感じで,その手前と奥とが別れる感じ.それは「穴」が大きな役割を演じているのであろう.依存的存在としての穴と影ということを論じたけれど,穴と影とができる依存的? 仮想的なサーフェイスが生まれている.それがグリッドとなっている.穴と線,あるいは面がないという穴の部分がサーフェイスとなる.背景でも,写真平面でも,手前のアクリルの板でもなく,どこかにサーフェイスが生まれること.「手前」と「奥」とを分ける存在としてのサーフェイスを見てしまうこと.
穴と影ということでラファエル・ローゼンダールの《Shadow Objects》を思い出した.上田さんの作品の影はどこかキワが曖昧で,そこがローゼンダールの作品とは異なった.影のキワの曖昧さが,影それ自体が存在を主張していない感じがあった.影をつくりだすモノのキワの存在の方が強調されている.だからこそ,影よりも,モノの延長としてのサーフェイスを意識したのかもしれない.
手前と奥とを生み出す基準面としてのサーフェイスを穴と影とから考えて見てもいいのかなと,ここまで書いてきて思った.「基準面としてのサーフェイス」というのは,しっかりと考えてみたい.そのサーフェイスがあることで,はじめて奥と手前とが生まれる.背景でも,写真平面でもないサーフェイス.
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個人的には村上隆のNFT参戦よりも、2000年頃すでに作品とドメインを結合させて「ドメインごと売る」ことでネットアートの唯一性を実現したラファエル・ローゼンダールのNFT作品が売れたことが感慨深いし、もっと注目されてもいい。 https://t.co/rNHXa0JYUs alumican_net さんのツイートから
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特別展示|山下麻衣+小林直人、ラファエル・ローゼンダール
天王洲のTakuro Someya Contemporary Artにて、最新作"KEEP CALM, ENJOY ART"を展示しています。 「特別展示|山下麻衣+小林直人、ラファエル・ローゼンダール」 会場:Takuro Someya Contemporary Art 会期:2019年9月7日(土)- 10月5日(土) ウェブ:http://tsca.jp
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神戸と京都の展示に向けてアイデアスケッチ
2018/04/22(Sun.)
高架下のギャラリーを見て、とりあえず来月までに展示作品のアイデアをまとめる必要があるのでスケッチを描いた。アイデアとしては、JRの時刻表から高架下を通過する電車のタイミングを予測してアクションを���こすサウンドインスタレーション作品と、LEDテープを使ったラファエル・ローゼンダール的な色面作品。個人的には色面をコントロールする作品に可能性を感じるぜ。
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戦略会議 #21 アートライティング/ ラファエル・ローゼンダール《Abstract Browsing》 Takuro Someya Contemporary Art
修論の下書きを書かなくてはならないのだが、土曜日は展覧会へ足を運びたくなる。昨日はわりとたくさんの展示をまわったのだが、圧倒的なインパクトを残した作品の一つがTakuro Someya Contemporary Artで観たラファエル・ローゼンダール。
ラファエル・ローゼンダールに関しては以前、ここTakuro Someya Contemporary Artで観たレンチキュラー作品を拝見している。変化する表情を持った抽象画は作品を中心に鑑賞者の側を動かし、絵画と向き合い「鑑賞」するということを再考させる装置として機能していた。聴覚と視覚を刺激し、同じく鑑賞者を動かす装置として機能するという点でアニッシュ・カプーアのパラボナとの共通点を感じた作品であった。
今回のTakuro Someya Contemporary Artでの展示は山下麻衣+小林直人の自転車を使ったインスタレーションと空間を共有しての特別展。横長のファブリック作品2点とサイネージでの動画作品1点。 レンチキュラーの作品のイメージが強かったので、割とソリッドで機械的な工業製品をアウトプットとするアーティストという印象を勝手に持っていたのだが、ついてすぐにその感覚はいい意味で裏切られた。 目の前に現れたのはファブリック作品で、織物として編み出された表面はどこかに温かみと身体性を感じるテクスチャとなっている。バウハウスの教師であったジョセフ・アルバースの妻、アンニ・アルバースも織物で幾何学模様を編み出した作品を作っていたことを先日知っていたのだが、ラファエル・ローゼンダールの織物はそれとはまた違った印象を受ける。
ビビットな色合いの四角い平面が横長の画面を分割、構成する。これはPCのデスクトップ上で動かしたChromeというブラウザをプラグインにて抽象化した画像のスクリーンキャプチャを画像データとして、ジャガード織機によって織り出したものだ。 本来、ブラウジングというのはUI(ユーザーインターフェース)を通して、文字情報や画像情報をユーザーに届けるといった役割を果たす装置、プログラムとして機能するものである。しかし実はそこには文字や画像といったユーザーが解読可能な情報以外にもさまざまな情報が含まれる。ラファエル・ローゼンダールはそのコンピューターによって構築られる情報から文字、画像といった表面的な情報を還元的に排除し、その向こう側にある、ブラウザの構造そのものを画面を構築する色情報として抽出して見せている。 つまり、現れた色のコンポジションは検索などのブラウジング時に、文字情報や画像情報を見やすいようにであったり、ユーザーの視点を誘導するなどを目的として、コンピューターやインターネットというプログラムによって構築された情報の向こう側に作られたデザイン、情報とも言える。それは文字などの情報を料理とした場合に、お皿にあたる部分だ。これはPCによってインターネットをする人であれば、必ず見ているのも関わらず、��にもせず、見えていないかのようにされ、まるで無いもののようにされている。そして、ここに現れているのは人の手によるものではなく、自動的に生み出されたコンピュータ、インターネットが示したプログラムの「意思」でもあると思え、その存在をも浮き彫りにする。その情報の向こう側にある「意思」は、色のレイアウト、コンポジションという形で抽象的なヴィジュアルイメージとして画面に現れてくる。 最終的にデジタル上に現れたビジュアルはラファエル・ローゼンダールによって織物というフィジカルを持った実存するオブジェとして現実世界へ誘われる。 織物としての表面は暖かさを持ちながらも、その縦横のひと織り、ひと織りはPCモニタのピクセルのようでもある。ベタと広く同色で編まれた部分にはモアレのような表情が浮かぶのだが、これもデジラルのピクセルノイズのように思えてくる。ジャガード織機はかつてはパンチカードによって織りの柄をコントロールし、コンキューターの原型ともなったと言われる。この辺の因果関係にもアウトプットの選択としてファブリックを選んだ作家の持つセンスの良さを感じる。 また、僕にはこれはブラウザという装置を通して変換を行ったフォトグラフィック・オブジェクトであるとも思える。つまり、装置を使って生み出されたイメージであり、写真の概念の拡張して生み出された作品のひとつであると考えられるのだ。 そして、スマートフォンが普及し縦で見るブラウジングがいずれ横で見るブラウジングを駆逐する時が来て、さらには5Gでブラウザ内部に我々が入り込むような時代が来るとすれば、この横で見るブラウザの作った抽象的な世界もなくなっていく。装置によって生み出されたテクノ画像は、その装置を生み出した文化を映し出す。
非常にコンテンポラリーでいい作品であった。 ギャラリーですっかり話し込んでしまった。
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memo913
風邪をひいてしまい作業があまり進んでいない.そんな中でグレアム・ハーマンの『四方対象』を読み終えた.まだ読み終えただけで,何も書くことはないけれど,面白かった.これから写経して行きたい.頭が働いていない.もう寝ないといけない.
できるだけ早くグレゴリー・ベイトソンの本を読み返したいと思いつつも,なかなか読めないまま,あたらしい仕事が舞い込んできた.その仕事のためにはレム・コールハースの『錯乱のニューヨーク』を読んだ方がいい気がしている.XYグリッドに垂直性を与えたものとしてマンハッタンを考えて,それを再びディスプレイのXYグリッドに��とし込んで考えるう.水平的なXYグリッドの垂直性と垂直性を圧縮した平面としてのディスプレイのXYグリッドという流れで考えると,永田さんの作品も別の視点から考えることができるのではないかと思っている.
また,谷口さんの《何も起きない》も考えたい.保坂和志の小説との関係やラファエル・ローゼンダールの何も起きないスクロールされ続ける都市の作品との比較などを通して,谷口さんの作品を考えてみたい.
何も起きないということで,ライブ変換もまたスペースキーを押して変換を確定しないという何も起きないことから文章が出来上がっていくということも興味深い考察対象かもしれないと思っている.
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memo894
ローゼンダールの《Shadow Objects》を穴と影から考えているのだけれど,ここにはディスプレイとのつながりがあるように見えて,実際は希薄なのかもしれないと思いつつも,やはり「モノもどき」という点で,ディスプレイとのつながりは強いと考えるべきかもしれない.
歯医者で考えたことを書くべきだろう.影は光を遮るモノだけではなく,光を受けるモノも必要である.それゆえに,ここには少なくとも二つのモノがある.二つのモノには前後関係があって,それらの関係によって様々な影ができる.ここで穴を考える.ひとつの平面がもうひとつの平面の上にある.この段階では,上の平面には穴がない.だから,下の平面には上の平面のかたちが投影される.仮に,平面のかたちを四角形とすると,下の平面には四角形の影が統制される.四角形のなかをレーザーカッターで何かしらのかたちで切る.すると,何かしらのかたちの面とかたちが切り抜かれか平面ができる.ローゼンダールは切り抜かれか方をつかう.平面には穴があり,この穴が影をつくり,穴と平面の実在感/リアリティをディスプレイ寄りに引き寄せる.
ディスプレイには解像度があるが,影にない.影はとても鮮明である.穴も鮮明である.ベクター画像をよく使うローゼンダールが影と穴を選択した理由はここにあるのかもしれない.解像度がない影と穴.穴と影もともにネガティブな存在であり,ディスプレイはそれ自体が光源という点ではポジティブな存在だといえる.だとすれば,ともにネガとポジとを合わせるようなかたちで《Shadow Objects》を考える必要性があるのかもしれない.
ディスプレイは「モノもどき」なのだろうか.明らかにモノであるが,光の集積が表示する画像・映像・イメージはモノのように見えているが,向こう側の存在であり,それはやはり「モノもどき」だろう.モノもどきをフレームをもったモノが示している.だから,フレームを介して,モノとモノもどきが重なっているのがディスプレイということになるのだろう.
光のモノもどきというポジティブな存在を示すディスプレイと影と穴というネガティブな存在を示す《Shadow Objects》との関係を,ラファエル・ローゼンダールというネットアーティストを介して考えることで,ディスプレイがディスプレイから遠く離れていく「ディスプレイ場」を考える必要がある.
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memo892
『穴と境界』を読む.ラファエル・ローゼンダールの《Shadow Objects》を考えるために『穴と境界』を読む.「穴」と「影」とはともにモノではないけれど,モノに付随する存在だって「依存的非質量体」「依存的形相体」「依存的輪郭体」と言えるような存在らしい.ローゼンダールはベクター画像を表わすためにメタルのカッティングを選択したというところから考えると,ディスプレイ上のベクター画像もまた「依存的輪郭体」といえるのではないだろうか.そこから,ベクターも結局はディスプレイのXYグリットからつくられている輪郭からうまれるとすると,ディスプレイが生み出す画像が光の明滅に依存する「依存的輪郭体」と呼べて,それはものもどきの存在だといえるだろう.ディスプレイ上の「依存的輪郭体」をマテリアルにするさいに「依存的輪郭体」である「穴」と「影」とを用いるローゼンダールは鋭い.
ローゼンダールは「影」をオーガニックな要素と言っていて,セミトラの田中さんは「ドロップシャドウ」と呼んでいる.「影」という「依存的輪郭体」と,それがステンレスの切り抜かれた板が「壁から5cm浮いていることによって」生じていること.つまり,板と壁との重ね合わせによって影が生まれてくることを考えると,《Shadow Objects》は「ディスプレイ場」だと言えるだろう.ここにはディスプレイの性質が引き継がれている.いや,ディスプレイ以上にマテリアル化した「画像」がここには生まれているといえる.それが「穴」で示されていることは,とても示唆的であり,もっと考える必要がある.
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memo890
次のことを考えはじめるためのアイドリング中という感じ.ラファエル・ローゼンダールのShadow Objectsの影とインターフェイスのマテリアル化ということを別々に考えてたい.けれど,それはきっと表裏一体のことだと思う.Shadow Objectsのステンレスの板と壁というふたつの層の透き間があるからこそできる影とはどんな存在か.しかも,その影は穴から生まれている.ここが重要なような気がする.ディスプレイ場を現出させる穴と影.
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