#メキシコの入墨女の人
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TGE - 30.10.23
This time Carla, Asael and I made some pics with the help of E. (a.k.a. M.J.). Very interesting experience since it was actually different from the kind of images I produce regularly. Hope you enjoy them. Cheers!!!
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40yotb最後の休日
2月22日 メキシコ サン・ホセ・デル・パシフィコ
オア��カを出たらメキシコシティに戻って、その数日後にはいよいよ帰国の予定だ。もうバタバタした予定はいいから、とにかくゆったりと過ごせる時間をとりたい。そんな思いからオアハカ滞在中に街の喧騒を離れ、山間の村へ一泊旅行に出掛けた。
”サン・ホセ!” ドライバーがそう告げて、ライトバン・サイズの乗合バスであるコレクティーボがごく細い幹線道路の傍らに停車する。1時間ほど続いたつづら折りの山道に現れた小さな集落には、道の両側に活気のないごく数軒のレストラン兼土産物屋が並んでおり、ドレッドヘアーやボヘミアンスタイルの男女が数人たむろしている。それらの脇からは急な山の斜面に向けて細い路地が数本だけ伸び、よく見ると入口の外壁にペンキで”この先ホステルあり”と書かれていた。そのうちの一本を辿り、見晴らしのよい南向きの斜面に点在する素朴な民家や農地を眺めながら、すれ違った長い髭の欧米人旅行者に道を訊いて、「Cabañas La Cumbre」という宿の門を叩く。
飛び込みだったが150ペソ(≒900円)で山小屋風の簡素なシングルが空いていた。西向きの大きな窓から視界いっぱいに遠くまで続く尾根の連なりを見渡せるのが最高で、僕はさっそくビールを買い込んで数時間後の日没に備えた。買い出しがてら軽く散歩をし、あとは宿の部屋やテラスで当初の目論見通りゆったりと過ごす。こういうときはたいていkindleを開いて読書をするが、僕はこの旅で1冊だけ、せっかくラテンアメリカに行くのだからとガルシア=マルケスの���い短編集を家の書棚から抜いて持参していた (コロンビアには行かなかったが) 。陽気で情熱的、などと形容されることの多いかの地だが、ではなぜ彼は徹底した愛の不在を書いたのか? あるいはホルヘ・ルイス・ボルヘスの、人間を拒絶する漆黒の円環と無限は。――渡航前に抱いていた素朴な疑問であり、つまりは日本好きの外国人が、”オヅの映画には日本人らしい静謐さがあるけど、なんでキタノは暴力ばかり描くの?”と言っているような話かもしれないが、それでも旅行中に答えやヒントが見つかればと思っていた。結局、ほとんど何もわからないまま旅を終えることになりそうだけれども。旅をした程度では、その土地の本質は見えてこない。
読書ととりとめもない夢想とを往復していると、宿のスタッフが小声で話しかけてきた。”キノコに興味はあるか?”――現在でこそ相当寂れたとはいえ、サン・ホセ・デル・パシフィコという名のこの寒村がバックパッカーに人気があるのは、かつてサイケデリック・ムーブメントの時代にマジック・マッシュルームの世界的産地として名高かったからだ。
ナワトル語で”テオナナカトル”と呼ばれメソアメリカ先住民族の宗教儀式に用いられた、シロシンおよびシロシビンを含有するこの菌類は、今日でも細々と採取され続け、物好きの旅行者相手に取引されているというわけだが、どうやらその物好きの旅行者と見られたらしい僕はといえば、かつて、やはりマジック・マッシュルームの産地として名高いバリ島を旅行した際(40yotbよりずっと前のことだ)、クタの薄暗い路地で現地の売人からたどたどしい日本語で、”キノコ?ソレトモ、オンナノコ?”、と話しかけられた程度には縁のある旅行者だが、幸か不幸かそれ以上の縁はない。まー、僕には、コレがあるからね、と、手元の缶入りの合法ドラッグを指差すと、スタッフはニコリと笑って去っていった。各国を旅すれば、あるいは歴史を学べばわかることだが、事実として人は何かを禁じられても他の何かに淫せずにはいられないものだ。アルコールも近年は脳への損傷等々との相関関係を示唆するレポートがポツポツと上がりはじめているし、遠くない将来に違法化されることは十分に考えられる。そうなれば、中途半端な清教徒的倫理に支配されたわれわれもその事実に直面することになるだろう。
ともあれ、この旅で得られたものは旅先の土地の本質ではなく、渡航前に抱いていた幻想とはまた異なる新たな幻想であり、それがときには酩酊の力を借りて増幅したことは紛れもない事実だ。昼間には晴れ渡っていた空が、夕刻になって湧き出た暗雲によってたちまちのうちに覆われ、墨色に連なる尾根の向こう側に見える太陽は中空に赤黒く開いた穴のようだった。目を瞑れば、このラテンアメリカの旅で目にした光景の数々が思い出され、次の瞬間にそれらはアブストラクトな音像に変換されて脳内に響いた。そのエキゾティシズムはマーティン・デニー的、細野晴臣的であり、あるいは菊地成孔的であった。もしかしたら太田順也的であったかもしれない。エキゾティシズムは音楽的である。似たような体験はこの旅で何度も体験した。その旅が、もうすぐ終わる。
ソパ・デ・フンゴ(キノコのスープ)。この地はもちろん普通に美味な食用のキノコも豊富に採れる。これを食べるためにこの地まで来たのだ。
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どうぶつえんvo.11 後記
2019年9月16日
9月16日月曜日敬老の日は午前10時の段階でもパラパラ雨が降っていて、内容の変更をともなった上でのどうぶつえんになるかなぁという感じもあり、発表者には10時半くらいにその旨を書いたメールを共有していた。僕が渋谷駅に着いたのは13時手前。そこからカフェに一度寄ってから公園を目指す。 だんだんと天気が曇り空のままになっていくのがわかった。 渋谷に近い方の公園内の野外ホール近くでは福島での原発事故を受けての反原発、反核のフェスのような催しが行われていた。気になったのは参加者のほとんどが高齢者で、もちろんこのテーマで他の集まりもあるだろうから何か世代の分断があると思わず一瞬の感想として思ってしまった。そうだ、世代間を越えての交流はずっとテーマだ。
昼13時半過ぎにしていつもより暗めの公園、原宿門入ったところでちらほらとメンバーが集まってくる。 下村唯くんやかんばらけんたさんなど。 今回のメンバーはほとんどがはじめましてということもありぽつぽつと挨拶を交わしながら、雨上がりのさみしい感じがいつものわいわいしている代々木公園の表情とは対照的で静かに映る。 段々メンバーが集まり始めるとその近くをちょくちょく自転車で警備の人が通りすぎる。 今日は全体的に公園自体に遊びに来てる人がやっぱり少ない。
集まっていると近くに寄ってきたおばぁさんがニコニコしている。何か始まるのを楽しみにしているみたいで、話しかける。もうすぐに帰っちゃうというので、今出来ることをと思いせっかくなので一曲歌わせてもらった。どう聞こえたかな、彼女の親戚?もこういうことしてるんだ、と言って応援してくれた。そしてさよならをした。さて、まだ準備に戻る。
何人かから少し遅れそうという連絡が入っていた。雨ということもあり、結構みんな遅れたり予定通り進んでいない様子。 とはいえ14時くらいにはいい具合に集まってきたのでそろそろ始めることになった。 はしっこの売店横で集まって20人くらいになる。それぞれ発表者の自己紹介をしていく。
川上元哉 濱田明李 キヨスヨネスク(遅れていて15時頃に途中合流するとのこと) 村田紗樹 豊島彩花(1歳半くらいの娘さんヒノちゃんを連れて) かんばらけんた Aokid 下村唯
自己紹介のタイミングで事前説明が必要であればしてもらう。 川上元哉くんは、黄色の紐を持って来ていてそれを参加者に両手を伸ばしてもらって採寸したものを切ってそれぞれに渡していき、後にそれを集めてパフォーマンスを行うこと、また採寸自体はちょくちょくタイミングをみて行ってい��旨を説明する。 村田紗樹さんは開催中、色んな人の声を録音させてほしいということを伝える。
「いよいよ、どうぶつえんvol.11開園します!」
早速、普段なら売店からコンクリートの道を歩き始めるのだけどこの日は売店の裏側の森のようなスペースに入っていこうという声を聞いたのでそっちに入っていく。先日の台風の影響も残っていてがれきなどが倒れたりしてなかなか面白いスペースになっている。虫除けスプレーを濱田さんが持ってきていて色んな人がしゅっしゅっしていく。かんばらさんの車椅子が入れるか個人的に心配するがこの程度なら全然行けるということだった。 豊島さんが早速やってみることに。 最初にちょっとやることの説明が入り、自分やヒノちゃんの胴体の一部と思われる写真で切り取られた部位のカラープリントをインスタレーションのように立っている木の幹や折れた木の枝の周りなど配置していき、そして始まっていく。移動すると写真のもとにそれを見、比較的ゆっくり豊島さんが動いていく、ひのちゃんはお母さんの動きについて回る。 豊島さんの脚の膝下の部分が出てきて、こっちから見て向こう側の道路の車の動きに対してのコントラストとしての肌の色を感じられたり。 まだ公園の景色に慣れていない目や集中力がだんだんとゆっくりなパフォーマンスを見ていく中で慣れていく。道路を歩いているのがさっきの速度ならこの森の中のスピードが次第に見ている人の運動の中でも慣らされていきそうな。 写真に映った体の部位を豊島さんがトレースしていく、一方で枝などを拾いそれの真似もしていこうとすると、娘のヒノちゃんが不規則にお母さんの動きについていく。2歳くらいだから少しお母さんの真似をするももちろん徹底されていない動きだから微妙になぞっているような印象をもたらすけど、またイメージする動きとはズレていく。少し観客の方も豊島さんとの距離を変えたりしながら関わっていく。もう少し長く行われてもよかったかな?の10分ちょいのパフォーマンスでした。
そのあとで、思いつきで僕Aokidが30秒づつみんなで何かをじっと見てみることを指示するWSのようなことをしてみた。 上空に向かって伸びる木の枝、向こうの道路、近くの濃い緑色の葉っぱ。 もしかしたらやり方に工夫が必要だったのかもしれないけど思いつきで少しだけ皆さんとやってみました。
そこから移動する。 濱田明李ちゃんがメキシコから帰ってきての参加ということもあり、ケツァルコアトル像の元へ移動。このくらいの時間になってくるとだんだん、代々木公園の中にもお客さんが集まり始めてくる。もう雨が降らないことが確認されたかのように。 話し始める明李ちゃんは一方でパフォーマンスの準備かのようにおもむろにたくさん持ってきていた白のハ��ガーをほどきまっすぐに伸ばしては足元に置いていく。20~30本くらいあった? 話は東京オリンピックのあとにメキシコオリンピックがあり、代々木公園はかつて選手村だったこともありそういったことも関連してのこの場所にメキシコからのこの送り物が出来たという話。 そしてそのあと、ビニールの質感でたとえば風呂場のカーテンなどに使いそうな少し厚めの材質の物体を取り出し、それを端から丸めていく。四方向から丸めていき、真ん中にスペースがある状態になり、船か何かかなぁ?と思っていると今度は墨?インクを取り出しその空いたスペースに垂らしていく。 そのあと確か先ほどまっすぐに強制したハンガー(もはやハンガーというより伸ばされた針金)を束にして持って像の後ろのスペースを走り始める。まるで槍を持って狩をするように少したくましそう、肩が走る際に張っていた、しかし息切れはしているといったように。息を切らし帰ってくると足の指先に先ほど垂らして水たまりになってるビニールの中心地へ足をつけ黒くする。コーヒー豆が入ってそうな材質の袋を頭の上からかぶり床の上でもぞもぞと中で動きだし、内側から少しづつビリビリと袋を破いていき、終いには顔がそこから出てくる。もうそこから出てきた時には走って息を切らして、手足はインクで汚れて袋の中で呼吸を乱して髪の毛や額は汗で濡れた人物でそこにいた。頭と手を袋から出した、ぎりぎりの袋藁袋星人のような状態でパフォーマンスが終了した。(キヨスヨネスクくんが途中合流)
明李ちゃんの使った備品を色々片付けたり、トイレで洗ったりみんなを待たせてる間、下村くんが漫談みたいなことを始めていて面白かった。 少し公園の奥の方に向かって歩き出す。 僕が発見したのは右側の奥まった森的スペース。 そこでやります、と伝���て準備じゃないけど始めていく。 こないだの台風で散らばった木の枝を集め、面した道路面に並べていく。四角形をなるべく目指して。 そのあと、大きな木の枝を地面に叩く時に生じる音や枝についたはっぱのしゃんしゃんした音を呼び起こしていく。上を見上げると木の葉が重なる向こうに曇り空がある、音が今度は上でなるようにクラップハンドする。だんだんと声も出していく、小さい音、大きい音、近づいたり遠くなったりするのをめざす。下で鳴らしていたものを上に今度は上げていくみたいな。 今度はもう少し親しみのある音へと、だんだんギターを取り出して、ギターを演奏する。お客さんに向けてだったりあるいは奥の森の方へ行って、空間にも音を聴かせるように。 一通りすんだと思ったから、今度は一言喋ってスピーカーで音楽を鳴らす。 昨日聴いてよかったAwesomecity clubのエイリアンズのカバーver.を流す。bluetoothスピーカーを持って森の奥に回り込む、すると公園の作業員の方、警備員の方が仕事をしていて見つかって大きな音は出さないようにと注意を受ける。少し音量を下げながらお客さん側に戻ってくる。そこから今度はスピーカーを置いてダンスに移行しようと踊り始めることすぐに、さきほどの警備員の方が止めに入る。 至急、警備員の方に体を向け注意を聞く、終わらせます、と伝えスピーカーを切る。ここで何してるの?と聞かれたのでピクニックですと伝えるとさっき(ギターをならすような仕草)じゃんじゃんしていたよね?といわれたのでついピクニックが盛り上がってと逃れようとする。ダメですよ、映像も撮影しちゃダメですよ、許可必要ですよ、と言われるが写真です、とこれは写真ですと嘘をついて交わしていく。とにかくみんなにはストップを伝える。いったん警備員の方も去り、ピクニックに戻る体をみんなと共有し移動する。 お客さんの方でも何か同じようにドキッとする感じを引き受けてくれたようだった。発表者だけじゃなく、同じようにそれを感じてくれたのは嬉しかった。
下村唯くんは少し歩いた先の木の林立するさっきよりは明るいスペースで行うことに。 ピクニックだということを言われていたのでじゃあとブルーシートを広げなるべくそのスペースにみんな入ってもらう。足りない分は明李ちゃんが持ってきていた分割された茶色いシートも使う。 キヨスくんが助手みたいな役割で少しだけセリフを与えられ白衣を与えられ、スピーカーも置いて発表が始まった。 どうやらコンテンポラリーダンスに至るダンス史についての話ということで、下村くんが前に立つ形で話し始めていく。iPadで画像のスライドショーを見せようとするが思ったよりも画面が小さくそれはキャンセルして話し始めていく。 クラシックダンスやモダンダンス、ポストモダンダンス、など、下村くんが学んできた情報によって語られる。意外に知らないことも多かったし、こんなに言葉にして人前でダンス史を話す人というのも珍しいように思う。彼の強いキャラクターを交えながら時に前後に動き、時に生徒のようにシートに座る観客に質問を答えを受けならがら強いキャラクターだけどどこか柔軟な対応可能性も持ち合わせての15分くらいが経ったろうか。ちょっとうさんくささもある、観客の反応もどうやらそれぞれの様子。 助手からそろそろ、という声が入りキヨスくんは後ろに退いて、いよいよ音楽が始ま��。そして話してきた中でそれがコンテンポラリーダンスかもしれないというような予感を持った振り付けで踊られていく、どこかさわやかで、しかし説得力を持って。向こうには僕ら以外の人たちがその様子を見ている。子供もいる。途中彼らにも絡んでいったりまたダンスに戻るのが自然で良い。 振付の展開は前後、斜め、上下、横などありバランスが良いし、流れている曲はさわやかで、木と木の間を通り抜けるような風が促されるような感じさえするダンス。話したあとでのダンスはなにか説得力があり、そんな気もしてくる感じがした。 そして終わって拍手が起こった。
途中、僕のバイト先の友人がミーアキャットを連れて後の方から見ていた。 下村くんがおわったあとにみんなでミーアキャットがかわいいから触りに行った。”どうぶつえん”に本物の動物が来ると負けてしまう。ましてミーアキャットはかわいすぎた。w
今度は噴水の方へ移動する。途中トイレなんかを挟みながら。今回はパフォーマンスをがっつりやる人が多いどうぶつえんだ。 かんばらけんたさんは最初、コンクリートの上でやろう、なんて言っていたのだがみんなに触発されて土の上で、また木の近くでやることにしたそうだ。
ブルーシートを敷いて、かんばらさんの背景には噴水や小さなブリッジなど奥に公園的景色が展開している。小さなスピーカーを客席前にセッティングし、やはりおもむろにダンスを始めていく。 地面を車椅子が転がる音やかんばらさんが伸ばした腕の線が強くたくましく差し出される。 映像なんかで見ていた時よりもよっぽど強く、そしてその腕の筋線維や顔も含めた肌の質感と上に伸びていく木の幹、そして横にひらべったい茶色い土の地面、が肌とコントラストとも言えるし近さもあるような、そういう状態でダンスが展開していてまだ音楽は流れていないから積極的に鑑賞に参加することでそれらが結ばれていくようだ。また得意の車椅子の上での逆立ちなどが披露される、その時に普通であれば目線は地面を見つめるか一点を見つめるのが常だけど、かんばらさんの場合は余裕があるのか目が自然に動き景色を見回していく、それをこちらから見ていると思わず見ているこっちも一瞬その逆立ちの動作の状態こそが自然状態なのかという錯覚が起こり、まるで逆立ちをして見回しているのが僕らの体でもあるような気分が起こったように思えた。 そのあと、音楽を流して踊っていく。 最初、近くで見ていて他のノイズもなく目の前の画格の中で集中出来て、その後、うしろに移動して見てみたらまた違う見方は出来るもののやっぱり集中して見たいから前で見ていた。かんばらさんは車椅子から降りると地面と近いところでダンスするのがほとんどになるので何かストリートでの座りこんで練習している時間を思い出した。地面の平行線が近い状態でダンスを見ている時間について思ったりした。 人の体の質感と、車椅子の質感、木や土の質感、と抜けていく風などがそれぞれの関係性をフラットに提示するみたいでとてもいい機会でした。
たまたま付近にはどうぶつえんを見に来たお客さん以外の人もピクニックをしたりしていて、いつの間にか彼らもダンスを見ていて拍手を送っていた。
今度は開けた原っぱの方に移動。 川上元哉くんは、公園入り口を出発してからマイペースに重ねてきた黄色紐による採寸を参加者に対して行っていた。ある人はその紐を一時的に輪っかにして首から下げたり、ある人はポケットの中に入れておいたり、一見軽そうなその黄色い紐は1ポイントアイテムのようにしてどうぶつえんの人々のキャラクターを少し形作っていた。 それらがやっと、夕方を前にして1つ1つほどかれて。 公園のはらっぱは秋に向けて草が膝くらいまでに伸びっぱなしになっている。前回4月に来た時よりも随分伸びたなぁ〜と思わされる。 これから1、2、3段階で各自アクションをお願いします、とWSみたいなことが始まる。 うる覚えだが、 1、ストレッチ、紐を使って体を横にいっぱいに伸ばす。両手で持った紐が少し鼻の手前触れるか触れないかくらいのところで。そしてしゃがんで屈伸もする。 2、キャッチで上に紐を投げる、そして草の上に落ちた紐の形を体でトレースする、1で少しストレッチされた体で試行錯誤のポーズを各々がする。みんな変なポーズして、笑ったりしてる。伸びきった草の形と人の形が面白い様相の層。 3、リリース、最後にもう一回それぞれ輪っかを作って、真ん中で川上くんがポーズをとり輪投げの的になる。中々かからないから何回か投げる、柔らかいわっかだから、なんかひっかかってんのか微妙だけど、OKみたいで、終わる。 輪投げなんて懐かしい。絵画、彫刻、飛翔を行き来するような川上くんの意図だったように思われた。紐や、空や、原っぱの膝まで伸びっぱなしの草、そして木のような形のそれぞれの人の体。豊島さんやかんばらさん、川上くんと何か体のポーズや材質のポーズの展開的な共通点などが並び何か考えれそうで面白い。
ちょくちょくみんなが豊島さんの娘、ヒノちゃんと絡むのがこの日のアイドルみたいだと思った。17時を過ぎ、何人かのお客さんは離脱していく。
そこから移動し、木が林立する中でしかし広く地面も広がった場所へ。 キヨスヨネスクくんは役者として普段活動をしている。 トイレ休憩を挟み、だんだん暗くなりつつある中でパフォーマンスが始まる。 これはイベントの終わりに、介護の仕事を通して担当した認知症の方の体をさしてキヨスくんが語った言葉だけど”たゆたふ”は、まさに大きなキヨスくんの体が雲のように、煙のように、あるいはぬいぐるみのような輪郭を持って空間を行き来する。 木が高く伸びる空間の中でキヨスくんの横移動する体はでも立体的に前後になるけども、空気のようにふくらんでいるみたいな錯覚を催す。 どこかから合唱をしているような歌声が聞こえてきて、それも1人じゃない復唱で。 森の中のような空間だからそれ��キヨスくんの動きが何か重なっていくような予感も常にあって。 (途中で僕はこれがキヨスくんのポッケから再生されているiPhoneからの音であることに気づく) とにかく小さな単位で物事がふわりと具体的に移行していく、まるで数学の計算がなされ、しかしもちろん抽象的なこととして目の前で起こっている。柔らかいけどそれを動かしているのは、訓練された時間なんじゃないかな、などなんとなく思う。もっとも今回のどうぶつえんの中でも、そこの場所を大きな展開を迎えることはなく眺めているような時間、じっと目を凝らすような時間で空間がじっと作られていった。
アフタートーク、今回は久しぶりにトークゲストのような人もいなくてみんなで感想を言い合ってみることにした。 この時残っていたのは15人くらいかな?ちょうど良い感じに聞くことが出来た。 何回か参加した人は、今日ほど公園の他の景色や音などを知覚できたことはなかった、と言っていた。それは今日、代々木公園に人が少なかったというのもあるだろうか。何度か参加してくれていた濱田さんは今回はいつもよりはくたくたにならなかったと言っていた、それも公園にいる人が少なかったということと関係があるのではないだろうかと思ったり。 ある人は僕の活動を見たりはしていてそれで今回twitterで知って見に来てくれたようだ、それで劇場や美術館、ギャラリーなどでこれを、この作品を外で見ることが出来たらどんなに素晴らしいだろうと思うことがあったこと、それがこのような形でなされる場があるということをとても嬉しく思ってくれたようだった。その感想を聞き僕もとても嬉しかった。
またこの日は久しぶりの友達が見にきてくれたりしてうれしかった。
一通り感想を言い合うと、村田紗樹さんが編集の終わった音を整えて、木で出来た小さな籠に入れて、その中には葉っぱや枝なども入っていて、生き物が住んでそうな、その中で再生を始めた。 するとまるで籠の中で生きていた生物の記憶や思い出が蘇るように、呼び出されるように、今日いろんな人が発したあの時の話し声やあの時の蝉の鳴き声や、音楽のメロディーがささやかれ始めた。音として再生されているのに一方で何か記憶や映像を眺めているような気分もあって、変な気持ちだった。(記憶とは見るよりも、眺めるものとして捉えているかもしれない)でもこれは傑作以外の何物でもない、まさに”どうぶつえん”を言い当てているような側面を持った発表だと思った。
アフタービールも盛り上がった。 お疲れ様でした。次は来年になりそう。 来年は違う場所での開催もしよう、広めていけないかと考えている。
2019年9月 Aokid
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東南アジアにおける欧米プロパガンダ - 本物の“サクセス・ストーリー” Andre Vltchek2017年9月25日New Eastern Outlook 全てが実にあつかましい形でおこなわれている。世界のこの場所にいない人々には、これほど‘完璧な’設計など到底想像できまい。 所属クラブに、私の場合はタイ外国人記者クラブ(FCCT)に入るやいなや、洗脳の長い腕が伸びて来る。 居心地の良い長椅子に座るとすぐ、しっかり世話をしてくれる。一体何を考え、考え方をいかに形成し、変更するか、指示され、命令されるのだ。 時折、中国における“���敗と不品行”に関する映画を見せられる。とりわけフィリピンの反欧米大統領を中傷するような公開討論に参加するよう奨励される。 最近のことではあるが、中東、特にシリアも、注目を浴びるようになった。 もちろん、FCCTのような場所で提供されるほぼ全て、欧米の見解というか、より正確には保守派から‘リベラル’に至るまでの一連の欧米の見解だ。クラブはアジアでも東南アジアの中心にありながら、欧米の思考方法に熟達したごく少数のタイ人を除いて、きわめて少数のアジア人しか招かれない。あるいは、ダライ・ラマのような欧米の代理人、もちろん、このような人々は何時でも大歓迎だ! ‘反対側’の話をきくことなどあきらめて頂きたい- 中国本土からの共産主義思想家や作家、フィリピンの親ドゥテルテ派の学者や活動家のような講演者たちに出くわすことは決してない。 FCCTで見受けられるタイ人の大半は、実際、欧米主要マスコミの権威者に支援業務を提供する人々だ。通訳、フィクサー、ウエーターや数人の業務担当者だ。 ここは、アジア人が欧米人に、アジアに関して講義をする場ではない。ここは、欧米人がアジア人に、概して、どのように考えるべきか、とりわけ、自分たちの国について何を考えるべきかを教える場なのだ。 FCCTと同じ階の絨毯を敷いた狭い廊下の先には、BBC、NBCや、いくつかの他の主要欧米マスコミ事務所がある。バンコクの‘ペントハウス’マニヤー・センター・ビルディングは、実際、自給自足可能なプロパガンダ総合施設なのだ。 そして今晩、シリア国境からわずか数キロの場所で、約80,000人の難民を収容しているヨルダン’の巨大なザータリ難民キャンプに関する「サラーム・隣人」と題するアメリカ・ドキュメンタリー映画の無料上映(我々のような会員向けに)が行われる。 FCCTのビラには、あからさまに、こうある。“在バンコク・アメリカ大使館とアメリカ・フィルム・ショーケースの協力“ アメリカ大使館職員が映画を紹介する。(あからさまに)アメリカ国務省が後援している映画だ。 FCCTは混雑している。皆ビールを飲んでいる。冒頭のあらゆる演説に、人々は従順に拍手する。帝国の外務省が東南アジアでも最も重要な都市の外国人記者クラブで催しを主催する皮肉には誰も気がついてないように見える。冗談が飛び交うこともなく、風刺は皆無だ。欧米マスコミ連中は、きちんとしつけられている。オリバー・ストーンの“サルバドル”など期待してはならない - 全く違う時代のも��なのだ。 生ぬるい当惑に満ちている。ここでは激烈なイデオロギー対決を目にすることは決してない。人は場所をわきまえている。彼らは、一体何を言うべきか、どう振る舞うべきかを十分承知している。しかし最も重要なのは、連中が何を書くべきかを知っていることだ。 * 映画は短く、わずか75分ほどで、実際はなから分かりきっていた。全く酷いというものではない。映画技法は立派で、おそらく、ごく僅かな事実しか提示していないせいで、事実上の間違いは非常に少ない。映画制作者たちは‘政治的に正しい’のだ。連中は時に、特に難民の子供たちとやりとりする際、感情を抑えきれず涙ぐむ。 “キャンプ住民は我々に心を開き、家も見せてくれた”などの陳腐なきまり文句に満ちている。 だがFCCTのあらゆる場所にあるモニター画面に冷ややかに規則的に現れる、いくつか当然予想できる場面もあった。たとえばこういうものだ。子供たちは暴力的な戦争ビデオ・ゲームで遊んでいる。ある子供が突然こう言う。 “ああ、これはアサド政権の旗だ… この人たちが僕に弾や武器をくれるんだ。” ソフトで‘善意で’うまく撮影されたプロパガンダを吹き込まれたのだ。シリア戦争における欧米の重要で、恐ろしい役割に関して、一言たりとも発せられない。ザータリ難民んキャンプが、最も過激な親欧米、親湾岸諸国テロ組織の訓練キャンプの一つであることに一言も触れない。 映画が終わった後、Q/Aコーナーにも参加することにした。 アメリカ納税者の負担でタイまでやってきた二人の映画監督を、いささか皮肉に称賛した。私もケニヤ-ソマリア国境の悪名高い残虐なダダーブも含め、難民キャンプ内で何本か映画を撮ったと言った。そこで、私は単刀直入に聞いた。 “シリア難民は一方の側だけの話ししかすることが許されていないのはご存じですか? 私はザータリ難民キャンプを良く知っています。そこでは、イラクのクルド地域にあるシリア難民キャンプ同様、シリア人はふるいにかけられ、アサド大統領に反対だと言わない限り、対応してもらえず、支援を得られないのです。” 練達の欧米プロパガンダ制作者の当惑した顔が私をじっと見据えた。アメリカ大使館官僚連中は冷静さを保っている。連中はプロで、うろたえるようなことはまずない。 だがマスコミ連中は憤慨した。ロシア語なまりを誇張して、私が映画を制作している放送局の一つとして南米のテレスールの名前をあげた。よく言うよ。何と身の程知らず。非欧米人が、欧米の世論を形成する連中に、世界について説教を垂れるとは! 私はこう結論づけた。 “大半のシリア難民はシリア政府から逃れているのではありません。彼らは欧米や湾岸やあちこちの同盟諸国��始め、支持している戦争の恐怖から逃れているのです。” 沈黙は完璧になった。 すると、上流中産階級出身で、欧米で育ったことが明らかな現地タイ人の若い女性がマイクに近づき、可愛らしく笑いながら言った。 “ザータリ・キャンプを来年早々訪問したいと思います。中東については何も知らないので、なぜだかわかりませんが… 難民に何かできるかもしれませんね? 私は何かを学べるかも知れません?” “何枚か自取りを撮影するかも”と私は思った。 すぐに私は気分が悪くなり、文字通り、そこから逃げ出した。 * 東南アジア丸ごとが、欧米や日本の親欧米プロパガンダという、きつい拘束衣に閉じ込められているのだ。とは言え主要マスコミや、連中が欧米プロパガンダを流布する手口が、拘束衣が機能する仕方の唯一の例というわけではない。 ほぼ全ての真面目な大手書店(少なくとも英語本を販売している店)は、日本の巨大書店、紀伊国屋に、既に‘打ち負かされている’。東南アジアにおいて、書籍販売における紀伊国屋は、食品小売りにおけるカルフールにあたる。インドネシア、マレーシア、タイとシンガポールで営業しており、店舗は上品で、洗練されている。だが何か売れ筋の本を買いたいのでない限り、棚に見る(見つからない)ものに失望し、衝撃さえ受けるかも知れない。 こうした書店で、ノーベル文学賞受賞者のスヴェトラーナ・アレクシェェヴィッチ作品などの何百冊もの酷い反ソ連プロパガンダ本を見つけられるのは言うまでもない。だがエレナ・ポニアトウスカのような偉大な代表的メキシコ人左翼作家の本を探そうとしても、一冊も見つからない! ジョゼ・サラマーゴ、ダリオ・フォのような(だが共産主義の)思想家やハロルド・ピンター(この作家三人全員ノーベル文学賞を受章しているが、政権には大いに嫌われている)の大半の作品をそこで見つけることなどあきらめていただきたい。運が良ければ彼らの著作の一冊か二冊は見つけられるかも知れないが、それ以上は無理だ。 おそらくベルトルト・ブレヒトの戯曲の一編や二編なら見つけられるかも知れない。私はバンコクで探して、一冊しか見つからなかった。ガリレオだ。 東南アジアの書店では、反中国、反共産主義プロパガンダなら“食べ放題”だが、莫言を除いて、本当に偉大な現代中国共産主義の小説家や詩人の本は一冊もない。 もちろん、何か“好ましからぬもの”を見つけ出そうなどしてはならない。「好ましからぬ」という表現で、私は、欧米がこの地域に植えつけ、支持している、宗教や、新植民地主義や君主制や、‘文化’といった言葉の陰に隠れていることが多い現地の封建構造などのあらゆるものに対する皮肉っぽい批判を意味している。 インドネシアでは状況は最も途方もない。スハルト��陣後、急激に増えたあらゆるまともな書店は文字通り消滅した。以後、紀伊国屋はジャカルタの商売を‘模様替えし’、現在は大衆小説や、若干のペンギン・クラシックや似たような主流作品しか売っていない。 ジャカルタのプラザ・スナヤンにある紀伊国屋のマーケティング担当者アリフがこう説明してくれた。 “棚の配列はシンガポール店と同じはずですが、ここでは、インドネシア人経営層が何を売るか決めます。” 確かに彼らは決めている! 想像通り、アドルフ・ヒトラー (インドネシアでは、非常に人気の高い歴史上の人物)や、彼の‘ベスト・セラー’ (少なくともジャカルタでは) “我が闘争”を含む多数の本だ。そのすぐ隣には、最低の反共産主義プロパガンダに満ちた棚がいくつかある。 国民洗脳の点で、インドネシアは、1965年以来、常に東南アジアの先達だ。 もちろん、もっぱら東南アジア言語の本を売る現地書店チェーンもあるとは言える。とはいえ、それは極めて限定されている。率直に言って、世界でも、この地域では、高品質翻訳の本という文化がなく 現地言語で刊行されている書籍の数は比較的少ない。最も傑出したインドネシア人小説家プラムディヤ・アナンタ・トゥールでさえ、マクシム・ゴリキーの“母”を、バハサ・インドネシアに翻訳する際(“イブンダ”)、作業に、元のロシア文章をスクロールしながら(彼はさほどロシア語は話せないと認めている)オランダ語訳と彼の‘直感’を使ったと私に告白したことがある。 * 何十年もの大変な努力で、欧米による東南アジアの知的洗脳は今やほぼ完成している。 洗脳は、学生に奨学金を支出し、インドネシア人、タイ人、マレーシア人や他の‘学者’や教授に条件付きの資金供与をして部分的に‘教育’によって行われている。 欧米プロパガンダは‘文化’を通しても‘首尾よく’流布されている。欧米‘文化センター’は、大半の地方都市で、‘高尚な芸術’を提供する(奇妙にも)唯一の場所であることが多いのだが、明らかに、ヨーロッパと北アメリカの帝国主義的狙い(最新小説“Aurora”で私が鮮やかに描写した通り)を推進している。 現地エリートは、ほぼ完全に外国の企業権益と政治権益にこびへつらっている。愛国心などただのはやり言葉にすぎず、何の実態もない。 欧米帝国主義に対するイデオロギー的、物理的反対から、東南アジアほど隔離されている場所は、世界に他にない。 欧米による完璧な洗脳の結果は壊滅的だ。巨大な東南アジアが、偉大な思想家、作家、映画監督や科学者を生み出すことができないのだ。タイ(重要な小説家チャート・コープチッティ)や、インドネシア(オーストラリア人の友人で画家のジョージ・バーチェットが、‘ディエゴ・リ��ラとピカソの現地版の爆発的融合’と表現するスハルト・ファシスト政権時代の元政治囚だった政治画家ジョコ・ペキック)は、ごく僅かな例外だ。 ナイジェリアからレバノン、イランからメキシコに至るまで、世界の他の貧しい、荒廃させられた、複雑な場所は、文字通り、大量の素晴らしい作家、映画監督や知識人を生み出している。 * ベトナム (そして、ある程度は、ラオス)を除き、欧米は、全ての共産主義と社会主義的な考え方や国際主義を、文字通り根絶した。それは、大虐殺と粛清の画策によって、残忍に行われた。インドネシアだけで、何十万人、おそらく、何百万人もの左翼が、1965年のクーデター後に殺害された。東チモールでは、左翼FRETILIN運動が、ポルトガルからの独立を獲得し、公正で明快な選挙で、権力の座についた後、住民の30%が、スハルトの軍によって殺された。タイでは、共産主義者は、石油樽の中で、生きたまま焼かれた。マレーシア、シンガポールとフィリピンでは、共産主義者の殺害や失踪が起きた。 インドネシアを含む幾つかの国々で、‘共産主義イデオロギー’は依然、公式に禁止されている。 国際主義、反帝国主義や共産主義や知的追求が破壊された後、東南アジアには、外国から保守的な形の宗教や、大量消費主義、‘伝統的な家族の価値’や、グロテスクなほど極端な個人主義が注入された。 同時に、既に何年も、何十年も、この地域は、買春ツアーと、安く、安易な生き方を探し求めている多数の‘国外在住者’とで、有名、いや悪名まで高くなった。その過程で、彼らは現地‘文化’を形成し、この地域脱知性化してしまった。北京や東京は、磁石のように、無数の偉大な外国人学者、思想家や創造力ある人材を惹きつけているが、概して、東南アジアは、控えめに言っても、大いに異なる種類の外国人たちが殺到している。連中は、一体なぜここが居心地良いのだろう?年齢や功績と無関係に、白人だと言うだけで、東南アジアで享受できる‘大いなる尊敬’のおかげだ。この尊敬は、欧米文化は優れており、実際、世界最高だという何千回も繰り返される(大半は間接的に)明白なウソによる、現地人の洗脳に由来している。 ヨーロッパ人や北アメリカ人が、更に居心地がよくなるものがある。東南アジアでは、欧米プロパガンダによって広められるほぼ全ての基本原理、最もprimitive grain資本主義と右翼イデオロギーが歴史的に受け入れられ、大目に見られ、うやうやしく複製さえされている。 * 現地の学界の連中にとって、欧米(あるいは日本)のお墨付きだけが重要なのだ。その結果、東南アジアは、愛国的な自立思考が、実際一体どのように構成されるものかを忘れてしまったのだ。 大半の東南アジアの新聞は、遠い国々に‘海外特派員’を置いていない。彼らのほぼ全ての国際ニュース報道が、ロイター、AFPやAPなどの欧米主要通信社から直接送られている。それを通って、少なくとも、多少の異なる反対の情報が入り、大衆に影響を与えられるような抜け穴は、全くなさそうに見える。 バンコクやジャカルタやクアラルンプールの街頭で‘南-南’協力について質問をすると、相手はぽかんとする。何か新しい携帯電話用アプリかファスト・フード・レストラン・チェーンについて話をしているのではと思われるだろう。BRICSって何、石工? 書店は基本的に終わっており、商業映画は極めて入念に選ばれた(空虚であればあるほど良い)ハリウッド ‘ブロックバスター’や現地ホラー映画を提供している。 ジャワ歌舞劇の伝統的政治劇(ケトプラック)を含む、現地の芸術は最近は‘時代遅れ’、つまり、脇に追いやられ、全く意味のないものにされ、沈黙させられたのだ。 Scarce芸術映画クラブ、バンコクのリバー・シティーにある、アメリカやヨーロッパの文化施設 (“スポンサー”)ステッカーが玄関を飾っている。 リバー・シティー映画クラブ近くの画廊の一つにある行儀の悪い画商が、股から二基の醜悪なミサイルがぶら下がっているオバマの絵をつい最近無謀にも展示した。だが、どうやら、トルコ大使館が後援し、何人かの欧米外交官が出席する公式上映直前に挑発的な芸術作品を取り除くよう依頼されたようだ。“倉庫に一緒に行きましょう、ご覧にいれますよ”と、何か違法ポルノや麻薬の類をあっせんするかのように、彼は私にささやいた。 * たぶん、“いかに物事がおこなわれるか”の最も分かりやすい例は、数年前にジャカルタのゲーテ・インスティテュート構内で私が出くわしたものだ。学芸員たちは、グダニスクでのある抗議行動中に、治安部隊が、抗議行動参加者に向けて発砲した際のポーランドの‘連帯’時代の何枚かの古い写真を展示することに決めたのだ。 展示は‘共産主義’が公然と禁じられ、1965年、アメリカが支援したクーデターの際、何百万人もが虐殺され、巨大な群島全体が、多国籍や現地の採掘や、伐採カルテルによって、取り返しがつかないほど略奪され破壊されたインドネシアの首都でぬけぬけと、開催された。悪夢のような超過激資本主義が、何十年間もインドネシアを支配し、破壊しているのに、ドイツがインドネシア国民に見せることにしたのはグダニスクなのだ! 何十年か昔、ポーランドで殺害された一握りの共産主義者が追悼され、インドネシア国民に紹介されるのだ。もちろんドイツの文化施設は、インドネシアの親欧米虐殺部隊による共産主義者の大量虐殺を追悼する展示をしようなどとは夢想だにしなかった。 * 今東南アジアの人々は、ロ��アについて、ほとんど何も知らず、中国についても、ほとんど何も知らない(欧米の民衆扇動家連中が、民衆に知って欲しいと思っていること以外は)。南アフリカを含むアフリカはよその惑星にあり、中南米もそうだ。現地エリートだけが遠隔の地まで旅行する余裕があり、この連中は、欧米のご主人たちや、公式教義に忠実だ。彼らは決して真実をかたらず、決して偽情報に波風をたてることはない。 この地域の人々は、たいてい近隣諸国のことより、北アメリカのポピュラー音楽やヨーロッパのサッカーのことを良く知っている。東南アジアの貧しい人々は、公正で平等主義の社会を構築しようとしている中南米に関して、ほとんど無知のままにされている。彼らは、キューバ、ボリビア、ベネズエラやエクアドルについては、ほとんど何も知らない。 もちろん、東南アジアで、最近のアンゴラでのMPLA再選(アンゴラは、人類に対する欧米植民地主義犯罪と、新植民地的略奪の象徴の一つなので、世界にとって極めて重要な意味を持つ出来事)が論じられる可能性は全くない。東南アジアでは、キューバや、その国際主義についてや、欧米帝国主義に対し、今誇らしく、断固として立ち上がっている国々の連合についてさえ論議することは決してない。 中東についてはどうだろう? 話題は、パレスチナ問題のみに限定されており、それすら、大部分がイスラム教徒のインドネシアとマレーシアにおいてしか議論されていない。他の中東の‘つながり’は、余りに‘非宗教的’で、余りに‘社会主義者’だと非難されている、不自然に注入された、アサド大統領憎悪だ(もちろん、こうしたものは、こちらでは大変な‘犯罪’で、明らかに称賛にはならない)。 * 東南アジアでは、欧米が明らかに勝ち誇っている。欧米はこの巨大な(そして過去には多様だった)地域を、まんまと‘無力化し’、‘鎮定し’、洗脳し、知的に奴隷化した。 この状況が永遠に続かなければ、それも余り長時間続かなければ良いのだが。 フィリピンとベトナムは急速に正気を取り戻し、欧米の命令に従わない意思を固めつつある。 だが、インドネシアは、‘イスラム教を侮辱した’という全く不合理で異様な非難(非難が余りに奇怪なので、現地の言語学者たちすら彼の支持に回ったが、判決は‘政治的’で、公正とは無関係だった)で中傷され、投獄されたジャカルタの進歩的州知事‘アホック’に対する伝統的な形の‘法的クーデター’の後、大きな挫折を味わった。彼の本当の‘罪’はこうだ。アホックが、この依然絶望的なファシスト国家において、少なくとも多少は社会主義的な要素を導入しようとしたことなのだ。彼は倒れた。間もなく、他の人々が新たな試みをするかも知れない。 一方、中国もロシアも、この地域に本格的に入り込もうとしている。現地の‘最上流連中’は��視している。東南アジア・エリートの大半は、もちろん北ベトナムの人々を除いて、何世紀もずっと売り物だった。 反帝国主義連合が、より強力でより豊かになるにつれ、実際、近い将来、いくつかの東南アジア諸国トップの本格的な心変わりもあり得る。共産主義さえ、最終的には再度合法化される可能性があるが、多少の資金提供や奨学金や相当な助成金を広めるのに成功できたらの話に過ぎない。 もしそうなれば、バンコクFCCTでの画一的な論議も、最終的に、活気に満ちた多様なものとなり得よう。 もちろん、欧米はそういうことが起きるのを阻止すべく、全力を尽くすだろう。 アンドレ・ヴルチェクは、哲学者、小説家、映画製作者で、調査ジャーナリスト。彼は数十ヶ国で、戦争や紛争を報道してきた。彼の新刊書、三冊には、革命小説“オーロラ”と、政治ノンフィクション・ベストラーの二冊 “帝国の嘘を暴く”と“欧米帝国主義と闘う”がある。他の著書は、ここで見ることができる。彼は、テレスールと、アル・マヤディーンTVに映画を制作している。ルワンダと、コンゴ民主共和国に関する彼の画期的ドキュメンタリー「ルワンダ・ギャンビット」を見る。中南米やオセアニアで暮らした後、ヴルチェクは現在、東アジアと中東に暮らし、世界中で働いている。ウェブサイトとツイッターで、彼に連絡ができる。 記事原文のurl:https://journal-neo.org/2017/09/23/western-propaganda-in-southeast-asia-a-true-success-story/ ----------
東南アジアにおける欧米プロパガンダ - 本物の“サクセス・ストーリー”: マスコミに載らない海外記事
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TGE - 30.10.23
This time Carla, Asael and I made some pics with the help of E. (a.k.a. M.J.). Very interesting experience since it was actually different from the kind of images I produce regularly. Hope you enjoy them. Cheers!!!
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パツクァロの嗤う骸骨と、微笑まない死の貴婦人
11月1日 メキシコ モレリア、パツクァロ、ハニツィオ
今回の旅行期間がメキシコのとりわけ盛大な祝祭である「死者の日」に重なっていたことは単純に幸運によるもので、それに気づいたのは渡墨の直前だったと思う。事前の情報収集不足を補うため出発後にいろいろ調べていると、メキシコの中でも死者の日の風習が本格的に残る地というものが二つあり、ひとつはメキシコ南東部のオアハカと、もうひとつはグアナファトから200kmほど南に行ったところにある「Patzcuaroパツクァロ」という名の街であるという。パツクァロなら、グアナファトの次に向かえばちょうど死者の日の期間である11月1日前後に当たる、という点もさらなる幸運だった。僕は旅行計画を変更し、パツクァロの街への日帰りが可能な範囲でかつ安宿のある、モレリアという街に滞在することにした。
モレリアはミチョアカン州の州都で、どことなく斜陽の地方都市めいた停滞がそこかしこに感じられるものの、大聖堂を中心としたコロニアルな歴史的建造物の立ち並ぶセントロ(街の中心)は世界遺産にも登録されており、国内外の観光客で溢れている。くすみを帯びた煉瓦が街並みの色調を統一しており、それがカトリック圏の歴史地区としては没個性的であるとも指摘できるが、これとは対照的なグアナファトの色彩に寄生する喧騒から逃れてきた身には心落ち着くものがあり、街外れのバスターミナルから8ペソのコレクティーボ――乗合のマイクロバス。セントロへの路線番号はローハ・ウーノ(赤の1番)だ――に乗ってこの街に辿り着いた僕は不思議な開放感に包まれた。訪れる街の印象は、そこに至るコンテクストに多くを依存するものだ。
The Only Backpackersという、部屋や設備は狭いが宿の主は親切で感じのよい安宿にドミトリーのベッドをとり、食事は近所のサン・フアン市場とその周辺で済ませる。ブランチならトルタス・デ・ハモン(ハムのバゲットサンド。ライム・ジュース付きで30ペソ≒180円)やエンチラーダ(トルティーヤでチーズや肉、豆を巻き、ソースをかけた料理。26ペソ)がちょうどよい。
早めの夕食に市場前の二階にあるマリスコス屋台で。何があるの?と店の親父に訊くと、”まずこれを食べてみろ”とばかりに、トルティーヤ・チップの上に二種類のセビーチェを載せて突き出してきた。これがたいへん美味いので、続いてソパを所望する。
カニが入って旨味の強いソパ。タコや、牡蠣形の小さな貝が大量に沈んでいる。根菜類も入って家庭的だ。これで50ペソ(≒300円)だというから驚く。
宿に戻れば、客のひとりがホーム・ブルーしたというプルケを振る舞われる。テキーラの原料になる竜舌蘭の樹液からつくった無濾過微発泡の醸造酒で、ビールよりやや弱い程度の度数があった。僕は喜んでいただいたが、世界各地にあるどぶろく文化に共通の、乳酸と酢酸に由来するギリギリ感のある味わいは好悪が分かれるだろう。
モレリアが腰を落ち着ける場所にふさわしい街であることがわかったところで、そろそろ話を本筋に戻す。そもそもメキシコの死者の日とは、日本の盆にもなぞらえられる風習であり、死者の��が生者の世界に戻ってくる期間とされる。故人を偲ぶ期間であり、祖霊信仰の一種の現れといえるが、死と明るく向き合い、死から影を取り払って華やかに祝い、ポップとさえ表現しうるほどにこの祝祭を愉しむのがメキシコ流死者の日といえる。モレリア到着早々、メインストリートでこんな人びとのパレードに行き会った。
倒錯した死のエレガンスとしての骸骨。骸骨はCaraveraカラベラと呼ばれ、還ってくる死者の表象として恐怖とは対極のポップ・イコンと化す。
頭骸骨の砂糖菓子が、街の露天に大量に並べられる。この他、骸骨の人形(小物から等身大まで)や頭蓋骨の置物、絵画、切り絵、マグネット、スマホケースといったありとあらゆる骸骨グッズがそこかしこで売られる。陽気な骸骨がこの祝祭の顔なのだ。
11月1日、バスターミナルからパツクァロへ移動。この街のセントロは、死者の日とは関係なく他のメキシコの街とは明確に異なる独特のムードを持つ。コロニアルと沖縄と中国の折衷とでもいったような建築様式の民家が続く。
花屋の露天が立ち、マリーゴールドの花が大量に売られる。祝祭のもうひとつの顔、それがマリーゴールドの花だ。紫の花はケイトウだという。
墓地はそれらの花で鮮やかに飾られる。
街の広場には、「オフレンダ」と呼ばれる祭壇が設えられる。故人の遺影があるが、街の有力者か誰かのものだろうか。花の他に供えられるのはオレンジ、スイカ、バナナ、トウモロコシ、そしてパンだ。パンは「死者のパン」という、これまた骸骨と骨を象って焼き上げたもの。あとは酒や煙草といった故人の好きだったもの等々。
パツクァロ湖という大きな湖があり、そこに浮かぶ島Janitzio���ニツィオは、パツクァロ一帯でも特に古来から伝わる死者の日の風習がひときわ色濃く残される場所であるという。そこへ渡る。
ハニツィオの墓地もまたマリーゴールドを飾り付ける人びと、それを見守る観光客とで賑わっている。
教会の内部にもオフレンダが設えられていた。
ハニツィオは普段から観光客で細々と賑わう寒村であり、港から頂上のモニュメントまでの道沿いは土産屋とレストランとで埋め尽くされていて大した面白みはない。この日ばかりは観光客でごった返す表通りを逸れ、島を一周できる小径へと足を踏み入れれば、そこには地元民の平穏な生活の場が広がっている。パツクァロと同様の日に焼けたオレンジ色の瓦屋根が続き、窓には洗濯物がはためいていて、路地ではボールを蹴って遊んでいた子どもたちが、闖入者の僕をはにかみながらじっと見つめている。
彼らのオフレンダは各家のたいてい玄関を入ってすぐのところに飾り付けられていて、表からちょっと覗くと仔細に観察できる。木材を縦横斜めに組み、雛壇とともにマリーゴールドで飾り付けられたそれは、簡素かつ自由ながら、何がしかの儀礼細則に沿っているようにも見える。その傍らで、細い路地にテーブルを持ち出して、ビールを片手に大勢で食事をする家族も見られた。一見してその風景は、年に一度の祝祭に浮かれ騒ぐでもなく、かといってことさら厳粛に死と向き合う風でもなく、ごく平穏な日常の延長にあったと思う。まるでハロウィン・パーティーの延長にあるような外の世界の祝祭とは異なる死者の日の姿がそこにあるかのようだ。
そもそも死者の日という祭事の源流は何だろう。アステカ族には冥府の女神ミクトランシワトルに捧げる祝祭があり、一方で祖先の骸骨は死と再生双方のシンボルであり、身近に飾る風習があったという。ミクトランシワトルの祝祭はこちらでの収穫期にあたる8月前半に行われていたが、スペイン侵略後、カトリックの影響で諸聖人の日と融合し、「死者の日」として現在の期間に定着したと云われる。さらに云えば、アステカ期にはこれに生贄の儀礼が含まれており、取り出された心臓はアマランサスとともに煮て、それを皆で食べるものだったが、スペイン人に���ってその風習が止めさせられ、その代替が「死者のパン」なのだという。
フレイザー『金枝篇』を読み終えたばかりの身には、死と再生、収穫期の祝祭、そして生贄などと聞くと瞬時に”すわ神殺しか!”と反応してしまう。同書では、キリスト教以前のヨーロッパ各地に「死神の追放」と呼ばれる風習が存在し、穀物の生育を司る神を儀礼的に殺して、次なる春の到来を祈る儀礼が存在したとされるし、時代を遡ればヨーロッパにも生贄の儀式が存在したことも仄めかされている。類似した儀礼はヨーロッパだけでなく形を変えて世界各地に見られることから、メキシコの死者の日もこの神殺しとつながるのではないだろうかと考えたが、思うようにソースが見当たらない。ヨーロッパの「死神の追放」における死神が恐怖の対象としてよりも死を笑い飛ばす対象だったという点も、メキシコの死者の日と通じるニュアンスがあるし、もうすこし突っ込んで比較してみたかったのだが...。これまでの旅で何度か試みたことだが、こういう素人人類学はやってて本当に面白い(念のため付け加えるが議論の妥当性は保証しない)。まったくの余談だが、ミクトランシワトルについて調べようとするとFF15とロード・オブ・ヴァーミリオンの記事しかヒットせず断念を余儀なくされる。昨今のファンタジー系ゲーム界における神格マニアック化インフレには感心を通り越してもはや疲労を覚える。
さて、段々と日が暮れてきた。死者の日の祝祭はこれからが本番で、墓地にろうそくの明かりが灯され、そこに家族が集ってパーティーをしたり、場所によってはバンドの演奏があったりするそうなのだが、バスの時間もあるし、そろそろこの島を離れなければならない。さいわい、パツクァロの墓地だったらすこし寄れるだけの時間がありそうだから、ちょっとだけ覗いてみよう...
パツクァロの墓地。昼間はあんなに人がいたのに、夜はちょっと寂しい。ろうそくこそあったがそれほど本数もない。やっぱり本場はハニツィオ島だったか。残念。そう思ってバスターミナルへ足を向けた。ちょうど市場の脇を通り過ぎる辺りだったか、ふと気がつくと前方から小さな歌声が聞こえた。それはゆっくりとこちらの方角へ近づいてきて、見るとそれはある一組の家族のようだった。歌っているのはどうやら賛美歌のようで、先頭の母親は遺影を掲げており、その足取りは、時間の都合で後を追わなかったので正確にはわからないが、墓���を目指していたと思う。さらに見れば、同じような家族の一団は他にも何組か見えて、皆同じように遺影と賛美歌を共にし、神妙な面持ちで静々と歩いている。ああ、これが、この土地の死者の日か。細々とした歌声でゆっくりと前へ進む彼らを、僕は何とも云えない気持ちで見送った。写真は撮らなかった。彼らは見世物ではないから、声をかけて許可を取ることもはばかられた。僕はこうして、旅を終えるまでのもうしばらくの間も、旅先で地元の人びとのなかに臆面もなくずけずけと割って入るような真似をし続けると思うが、その瞬間を何としても写真に収めようという意識はだいぶ弱くなってしまった(だから、というか前からだから本質的に、だが、僕のブログは文章が多い)。関連して付け加えれば、今回の旅行では実は一眼レフを持参していない。写真はすべてiPhone7による撮影である。
一方、パツクァロのセントロはそれなりに盛り上がっていた。一角では素人のど自慢大会のようなものが開かれ、その隣の会場は大オフレンダ品評会とでも云うべき壮観な眺め。ろうそくの灯だけなので、雰囲気は抜群だが写真撮影には向かない。なので文章で説明しよう。死者の日で特に人気のある骸骨のモチーフは「カトリーナ」と呼ばれる骸骨の貴婦人であるのだが、この会場のカトリーナ・コスのみなさんは全員ものすごく気位が高い設定のようで、撮影しようとすると、わざとそっぽを向いて一向にカメラ目線をくれない。明らかにわざとである。結論:カトリーナはツン属性がデフォルトだったよ! 最後までデレるフラグを立てられず撃沈。
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