#ディケンズ
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fourthsan · 6 months ago
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ダニエル・ディケンズ
I adore his game design so I decided to draw him. It brings me so much nostalgia. I am not sure if it will be done !!!!
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key-cat · 2 years ago
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太陽は昇ったばかりのときは弱々しいが、時間がたつにつれて力と勇気を増していく。
The Sun himself is weak when he first rises, and gathers strength and courage as the day gets on.
Charles Dickens チャールズ・ディケンズ
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mlyzvt-no2157 · 1 year ago
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一文字の間違いで物凄い意味が違った事
【ご注意】
今回のエピソードは、かなりお下品です。っていうか、ガチで下品です。それでも大丈夫って方なら、どうぞ👇
私が前に勤めていた会社は珍事件の宝庫だった。特に、ユニークで面白いというか個性的(変な人とも言う)が非常に多く、常に誰かがネタを落としてくれていた。
私が新人の頃、嘱託で読書家だったZさんはスペイン語、フランス語、イタリア語、ポルトガル語を話すマルチリンガルで、若い頃の記者時代はキューバ革命や冷戦中のキューバ危機、コロンビアの紛争など、主にスペイン語圏の中南米の記者だった。そして、かのカリスマ革命家のチェ・ゲバラにも会ったという事で私も含めて若手記者達の目標と憧れでもあった。(ちなみに私は、アル・カイーダのウサマ・ビンラディンに会ってみたかったが、終ぞ、彼に会う事は叶わないまま、ビンラディンは死亡してしまった)
ただ、Zさんはラテン語は物凄く上手なのに、英語は超が付くほどド下手だった。ハッキリ言って、そこら辺にいる小学生や、中学生の方が遥かに英語が上手だろうと思うくらい、英語が下手で、普通に英単語の発音が間違っていたり、ラテン語が混ざっていたりするので、Zさんが使う英単語が何を意味するのか理解出来ない人がほとんどだった。例えば、イギリスのチャールズ皇太子(現チャールズ国王)をラテン語読みで「シャルル皇太子」と言うので、理解できるまで???状態になってしまう事もしばしばだった。
ある日、所属長のMさんと同期のS君と私との3人でのんびり過ごしている時、Zさんが我々の部署にやってきて、私の隣の席(もともと誰も座っておらず、常に空いている)に座り、声をかけてきた。
Zさん「なぁなぁ、みずほちゃん、今暇?時間大丈夫?」
私「暇なわけじゃないですが、立て込んでないので大丈夫ですよ」
Zさん「よかった。ところで、みずほちゃん、『ペニスの商人』って知ってる?」
私は教皇の間に呼び出されたミロのように、思わず、「はっ?」と言ってしまいそうになったのをグッと堪えた。
『ペニスの商人?なんじゃそりゃ????臓器売買のブローカーのことかな???いや、ペニスは臓器じゃないか(👈どうでもいい)...ペニスを除去するのなら、私が子供の頃はモロッコ、今はタイが主流だけれど、何の事だろう???そもそも、ペニスを取り除くって需要があるのは知っているけれど、ペニスが欲しいって需要なんかあるのかな?それとも、私が知らないだけで、ペニスの売買っていう市場があったのかな?しかし、需要と提供のバランスはちゃんと取れているのかな?ペニスを提供する人は何の為に提供するのかな?ひょっとして物凄い高額な市場なのかな?でも、聞いた事ないしな~???』
私の頭の中は疑問符が飛び交っていた。
私が珍妙な表情をして黙りこんでしまうと、Zさんは、「おーい、みずほちゃん、聞こえてる?」っと尋ねてきた。
「聞こえてますよ」
「じゃぁ、返事くらいしてよ」
「いや~、Zさんが仰った『ペニスの商人』って何だろう?って思って、考え込んでしまったんです。『ペニスの商人』って何ですか?臓器売買のブローカーか何かですか?」
「臓器売買のブローカーって恐ろしい事いうなぁ...ペニスの商人は明るい話で、有名な小説だよ。知らんの?」
「小説ですか。初めて聞きました。」
Zさんが、『ペニスの商人』が小説だと言うので、私はそのとき、ふと小松左京さんの『アダムの末裔』という小説の事を思い出した。以下がアダムの末裔の簡単なあらすじである。
ポルノ小説作家である主人公は、恋人と幸せに暮らしていたが、自分の作品がマンネリ化している事に悩んでいた。新しい小説の連載の締め切り期���が近づいているが、一向に新鮮なネタが思い浮かばず、悩んでいるとき、自宅のリビングの飾り棚に物凄く巨大なペニスのオブジェがある事に気付く。恋人と自分の関係もマンネリして、恋人がこの巨大なオブジェを買ったのだろうか?と疑問を抱きながら、主人公がオブジェを見ていると、なんと、そのオブジェが動き出した。ビックリ仰天した主人公は腰を抜かしてしまう。そして、気が付くと、自宅の周りには、その最初に見たオブジェと同じぐらいの大きさのペニスのオブジェが溢れかえっていた。恐れおののく主人公。巨大ペニスの大群が自宅の中を好き放題荒らしていったが、一匹(と言っていいのか分からないが💦)のペニスがネズミ捕りの罠にかかり絶命してしまう。その他のペニスはいつの間にか忽然と消えていた。すると、巨大な人がやってきて、そのペニスはずっと未来の人間の男性の姿なのだと言う。遠い未来、男性の役割は子種を残す為だけのものとなり、進化の過程の一環で、身体はペニスだけとなり、文明の繁栄をもたらす女性は巨大化したのだという。絶命したペニスは未来からやってきた女性に持って帰られ、主人公は男性の未来の姿がペニスだけになるという事い愕然とする一方で、男性で人類の祖先と言われている聖書の「アダム」の「末裔」が「巨大化したペニス」という小説のネタを思い浮かぶ
30年以上前に、親友に借りて読んだ小説なので、あまりはっきりとした事は覚えていないが、アダムの末裔のあらすじはこんな感じだったような気がする。私は、Zさんが言っている「ペニスの商人」と言うのは、ちょっと内容は異なるが、ひょっとして「アダムの末裔」のことではないかと思った。
私「ペニスをテーマにした題材なら、小松左京さんの『アダムの末裔』なら知ってますけど、「ペニスの商人」は初めて聞きました。誰の作品ですか?」
Zさん「ペニスの商人の作者は、日本人じゃなくて、外国人の作家。有名な作家だよ。けど、ボクは作者の名前を発音できないけど、ファーストネームは『ギジェルモ』で、ラストネームは『○×◆□×////』ダメ、ボクは発音できない。しかも、ペニスを売るからペニスの商人っていうタイトルじゃなくて、ペニスっていうのは地名だよ」
私「『ペニスの商人』は、ギジェルモ・ナントカさんって人が書いた小説なんで、ペニスは地名ですか...?」
私の頭の中は益々混乱した。
ギジェルモって誰だろう?有名な外国人作家でギジェルモなんて人はいたかな?トーマス・マン、フランツ・カフカ、オスカー・ワイルド、アレクサンドロス・デュマ、エミリ・ブロンテ、ビアトリクス・ポター、アーネスト・ヘミングウェイ、ドストエフスキー、レフ・トルストイ、チャールズ・ディケンズ、ヘルマン・ヘッセ...やっぱり、ギジェルモって人は知らんなぁ...
しかも、ペニスなんて地名はあっただろうか?一体何処だろう?未承認国家の山の奥地かな?それとも、インドネシアのジャング���の奥地に住んでいる原住民みたいなペニスケースを衣服としている人々の集落かな?うーん、検討もつかない...Zさんは、一体何の何処の場所を言っているんだろう??
私の頭の中は、益々激しく疑問符が飛び交っていた。
私「ペニスってどんな場所ですか?未開の地のジャングルか山奥の原住民が暮らしている集落ですか?アフリカの奥地ですか?それともアマゾンの奥地ですか?もしくは、鎖国している国にある秘境か未開の場所ですか?」
Zさん「違う違う!ペニスはキレイな事で有名な街だよ。そうだな~一番の特徴は、お面を付けるお祭りがあることかな」
私「ペニスには、お面を付けるお祭りがあるんですか?」
Zさん「そうそう!お面を付けた華やかなお祭り!いっぱい観光客が来るよ♪」
私の頭の中はまたもや疑問符だらけになってしまった。第一「ギジェルモ」なんて名前の有名な小説家は聞いた事が無いし、お面を付けたお祭りなんて、ひょっとこのお面にドジョウ掬いぐらいしか思い浮かばなかった。ひょっとこのドジョウ掬いは、島根県に由来する事は知っていたが、私の頭の中で、島根県に『ペニス』なんて地名はない。島根県のドジョウ掬いを、外国の有名な作家が、わざわざ舞台にして小説化するだろうか?ドジョウ掬いの祭を見に行ったことはないが、観光客が押し寄せるとも考えにくい。しばらく考え込んでから、私は再びZさんに尋ねた。
私「お面を付けたお祭りって、もしかして、島根県でやる、ひょっとこのお面を付けたドジョウ掬いの事ですか?」
Zさん「違う違う。そんなんじゃなくて、もっと洗練されたカッコイイお祭!」
私「洗練されたカッコイイお祭りですか。ペニスってお面を付けたお祭り以外にも、何か有名な物ってないですか?」
Zさん「ええっとねぇ。まず、ヨーロッパにあって、観光客が常にいて、車の乗り入れが禁止されていて、アドリア海に面していて、昔都市国家だったときに凄く繁栄していた街。それでね、物凄く街並みがキレイで、世界遺産にもなっていて、ペニスは別名として『アドリア海の女王』とも呼ばれている所!」
私は、『アドリア海の女王』という言葉を聞いて、やっとZさんが言っていた「ペニス」が何処であるかを分かった。都市国家、車の乗り入れ禁止、物凄くキレイな街並み、かつては都市国家として栄光の歴史を歩んでいる、『アドリア海の女王』、これはすなわち、アドリア海に面した運河の街、イタリアのヴェネツィアで間違いないだろう、と。
私「Zさん、ペニスって、イタリアのヴェネツィアのことですか?」
Zさん「そうそう!ヴェネツィア!ヴェネツィアを舞台にしたギジェルモ・ナントカの喜劇小説!」
私「やっと分かりました。ウイリアム・シェイクスピアの『ヴェネツィアの商人』の事ですね」
Zさん「そうそう!その通り!」
ヴェネツィアは、英語読みすると『ベニス』と発音する。Zさんは、英語が恐ろしく苦手な人なので、濁音の「ベ」が半濁音の「ペ」になってしまっていたのだろう。そして、ウイリアム・シェイクスピアのファーストネームであるウイリアムはスペイン語読みで「ギジェルモ」と発音する。『シェイクスピア』をZさんは発音できなかったのだろう。
この後、Zさんとどういう会話をしたか、あまり覚えてないが、チラっとMさんとS君の方を盗み見ていると、PCの画面に顔を埋めて肩が小刻みに���えていた。恐らく我々の会話を聞いて、吹き出したいのを堪えていたのだろう。
私は、Zさんに、ヴェネツィアの英語読みは、『ペニス』ではなく、『ベニス』と発音すると教えてあげるかどうか迷ったが、Zさんに恥じをかかせる事になると思い、黙っておくことにした。
しかし、一文字の違い、しかも濁音か半濁音かの違いで、トンデモナイ意味の違いがあるのだなぁと改めて思った。同じ事を意味のつもりでも、『ヴェネツィアで、仮面を付け、仮装した人々でカーニバルが開催される』と『ペニスで、お面を付けたお祭りがある』では、Zさんにとっては同じヴェネツィアのカーニバルの事を意味していても、聞く方になってみると、全く違うモノを想像してしまう。
一文字の違いが、こんなに大きな意味の違いになってしまうとは、字書きとして、気を付けなければと思った瞬間だった。
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otarulove · 1 year ago
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〈お元気ですか?今日は、何の日・〉
https://sunnyhomewor.thebase.in/
ドライりんご・プルーン 発売中です。
おはようございます。
「わたしは心の中で クリスマスをたたえ、
一年中 その気持ちを失わないようにする」
曇り時々雪 最高気温マイナス3℃の予報です。
凍れるねええ!
1843年の今日は チャールズ・ディケンズ氏
作の クリスマスキャロル が出版さ��た日
です。三人の精霊 過去現在未来、いいね!
クリスマスまであと すこし・・・
If were the last day of my life,
I want to do what I am about
to do today?
今日もいろいろ頑張ります。
よろしくお願い申し上げます。
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sobajima · 1 year ago
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「大いなる遺産」
BBC制作の大いなる遺産の新作ドラマ。1話1時間程度の全6話。
ざっくりとしたお話の流れは原作と一緒だが(ラストは全く違う)悲劇と喜劇が織り混ざったディケンズの世界観は
意図的に排除されている。キャラクターの雰囲気もかなり違い(いないキャラもある)別のお話のようでもある。
ここまでしてまで映像化することに(映像は美しい)意味があるのかとも思うが、いろいろな需要もあるのだろう。
いずれにしても、ディケンズファンが観ると、やや物足りないかもしない。
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thetaizuru · 2 years ago
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 「シルエット」とは、「輪郭の中が塗りつぶされた単色の切り絵」のことを言い、そこから「輪郭」や「ものの形」、「影絵」などを言い表す言葉としても使われる。この「シルエット」という語は、もともとは人名だったらしい。   フランス王ルイ15世の治世下で財務大臣を務めたエティエンヌ ド シルエットは、七年戦争が長引いたことでフランスが財政難に陥った際、特に富裕層に対して厳しい倹約を要求しなければならなかった。これにより、「安上がりで済ますこと」が人々の間で「シルエット」と言われるようになる。  切絵によるシンプルな肖像は人物の特徴を記録する最も安上がりな方法であり、エティエンヌ ド シルエットもこれを好んだため、このような肖像画のことも「シルエット」と呼ばれた。この「シルエット」と呼ばれる「切り絵による肖像画」は、その後、18世紀後半から19世紀前半に、ヨーロッパだけではなくアメリカでも流行し、「シルエット」の語が定着した。
 18世紀末より、シルエットは肖像だけでなく本の挿絵などにも用いられるようになる。複雑なイラストレーションよりも安価で容易な方法でもあり、また、その独特な雰囲気を好む作家も多く、演出技法としても用いられるようになっていく。  童話作家のアンデルセンもシルエットによる表現を好み、切り絵制作を得意とした。自作の切り絵などを貼った絵本を作り、友人への贈り物にした。  シルエットによる表現は、想像力を掻き立てることで、美しさや、あるいは滑稽さなどを際立たせる演出にも用いられるものの、やはり、暗く、怖い。   アンデルセンの、特に初期の作品では、主人公が死ぬ結末を迎えるものが多い。これは、若き日のアンデルセンが、死ぬ以外に幸せになる術を持たない貧困層への嘆きと、それに対して無関心を装い続ける社会への嘆きを、表現を通して訴えようとしたものだと解説されている。  1804年にナポレオン ボナパルトがフランス第一帝政の皇帝に即位(在位 1804年-1814年、1815年)し、イギリスやロシアと敵対する。フランスと同盟を結���でいたデンマークも、イギリスから砲撃や封鎖をされ、不況に陥っていた。  アンデルセンはそのデンマークに1805年に生まれる。貧しい靴職人だった父親は1812年から2年間従軍したが、1813年に国が財政破綻し、軍から支払われるはずの給金も得られなかった。  1835年に最初の小説『即興詩人』と『童話集』を発表したアンデルセンの、初期にあたる1830年代から40年代においては、作品にも現れる貧困層の窮状は写実的であり、多くの人が抱える問題意識でもあった。  七年戦争によって帝国の礎が築かれ、絶頂期となるヴィクトリア朝(在位 1837年-1901年)に入る頃の大英帝国でも、同様の問題意識はあり、アンデルセン(1805-1875)と同時代のイギリスの作家であるチャールズ ディケンズ(1812-1870)の作品にも、貧困層の視点からの社会風刺という形で描かれている。  問題意識としては多くの人が共有しているように見えながら、そこから抜け出す術を見出せないやるせなさは、アンデルセンの作品では、無関心を装う社会への嘆きとして滲んだ。  アンデルセン作品のこうした傾向は晩年になっていくにつれて緩められ、死以外にも幸せになる術があることを作中に書き出すようになっていく。  アンデルセンは1859年に書いた「子供のおしゃべり」という作品で、自身の名前の「アンデルセン(デンマーク語の発音ではアナスン。英語ではアンダースンまたはアンダーソン)」にもある最後の「セン」という言葉は「だれだれの息子」という意味で、それがついている名前はきちんとした姓ももらえなかった貧しい家の出ということを示しているという謂われに触れている。子供たちがそのことを話しているのを、一人の貧しい男の子がドアの隙間から覗いて聞いていて、自分の名も最後がセンで終わるので悲しくなってしまったが、でもこうして生まれてきたんだ、りっぱに生まれてきたんだ、と男の子は考え、そして大人になってりっぱになり、話をしていた子供たちもそれぞれ幸福になった、と書いている。作品は、あの時考えたり言ったりしたことは、あれはただの子供のおしゃべりだったのです、という終わり方をする。最後がセンで終わる名前の男の子はトルバルセンという名前で、アンデルセンの友人である世界的に有名な彫刻家のトルバルセン(1770-1844)をモデルにしている。
 1830年代にエッセイや小説で人気を獲得し、1837年から1839年に連載した長編小説『オリバー ツイスト』で人気を不動のものにしたチャールズ ディケンズは、貧しかった幼少時の経験から、労働者階級の視点に立って、日常生活と多様な登場人物を具体的に生き生きと描写した。エンターテイナーであることを常に心がけ、楽天的で理想主義的なハッピーエンドで締めくくるスタイルを貫いた。そのため、後期や没後の文壇からの批評としては、偶然に頼ったご都合主義的な物��展開と強引なハッピーエンドが批判の的にもなったが、現在に至るまで大衆からの人気が衰えたことはない。  ディケンズは写実主義に分類される。アンデルセンの初期の作品に滲んだ嘆きも写実性であり、1840年代のヨーロッパを覆ったリアリズムだった。そこからなぜか1850年代に大衆文化が花開く。
 「諸国民の春」 と総称される1848年から1849年にかけてヨーロッパ各地で起こった革命により、大国の被支配地域を中心にナショナリズムが先鋭化する。その後、英露対立やフランス第二帝政の成立(1852年にルイ=ナポレオンがナポレオン3世として皇帝に即位)などを背景として、クリミア戦争(1853年-1856年)が起こる。これはウィーン体制の崩壊を意味していた。  ウィーン体制は、ウィーン会議(1814年-1815年)以後のヨーロッパの国際秩序であり、フランス革命とナポレオン戦争で荒廃したヨーロッパを、それ以前の状態に復活させることにより大国の勢力均衡を図っていた。  ウィーン体制は、従来の君主制に立脚する列強を中心に、自由主義と国民主義運動を抑圧していたが、 産業革命による市民生活の発展や大国間の利害関係の複雑化などにより、1830年代から枠組みが揺らぎ始めていた。  「諸国民の春」により自由主義と国民主義を抑圧する機能が維持できなくなり、そして、列強間の平和維持の役割も果たせなくなったことが、クリミア戦争によって露わになった。  以降列強は、各国の国益の赴くままに帝国主義に走ることになる。イギリスは、その国力を持ってして「栄光ある孤立」を選択、大陸の列強は、欧州域内の勢力均衡を図るため交互に同盟を結び、ヨーロッパは産業革命と植民地主義を掲げた新たな時代へと突入した。
 イギリスの歴史区分では、1840年代までを産業革命の時代とし、1850年代からを資本の時代としている。「大衆文化」の成立も1850年代とされ、場合によってはそれ以前の大衆の文化は「民衆文化」や「世俗文化」として区別される。「大衆文化」成立の条件として、大衆の自主的な選択が反映されることが挙げられる。産業革命によって市場の環境が整ったことで、大衆文化が成立したと説明される。  労働と消費が市場を介して社会に反映されるようになっていき、アンデルセンの初期の作品に滲んでいた嘆きから、抜け出す術が見え始める。  一方でディケンズは、1850年代から社会への批判を強めていく。時事的課題に対するジャーナリスティックな関心を強め、クリミア戦争に関する攻府の無策ぶりや、制度の腐敗、慈善活動という名の偽善、金儲け主義と立身出世主義に嵌る産業界などを批判した。  アンデルセンもディケンズも、そして彼らの作品の読者も、変わっていく時代の中で、変わらない美徳を見出そうとしていた。  どんなに機械的に反復されているものでも、外的な賞罰なしには存続しえない行為の中には、美徳がない。
 1756年から1763年まで行われた七年戦争は、 オスマン帝国を除く当時の欧州列強が全て参戦しており、戦闘は ヨーロッパだけでなく、北アメリカ、カリブ海、アフリカ、インドで行われた。そのため、事実上史上初の世界大戦とも呼ばれる。世界中に影響を及ぼし、ヨーロッパにおける政治再編を引き起こしただけでなく、アメリカ合衆国の独立とフランス革命の遠因となった。  イギリスは、ヨーロッパでは同盟国プロイセンに対する資金援助を中心にして深入りせず、海上や植民地での対仏戦争に戦力を集中させた。  植民地での戦闘の勝利により、名誉革命以来長く続いていたフランスとの植民地争奪戦に終止符が打たれ、イギリスは北アメリカ大陸、インド、西インド諸島を掌握し、これらが後に世界最大の植民地帝国となる大英帝国の土台となった。  七年戦争を実質的に指導し、イギリスを勝利に導き大英帝国の基礎を築いたと称される南部担当国務大臣のウィリアム ピットは、「愛国者」「偉大な平民」と呼ばれ、自身もそれを好んだ。  「王 (宮廷)」への「忠誠心」を重要な美徳としていた時代から、「愛国心」と「平民性」を重要な美徳とする時代へと移る。大英帝国にとっては皮肉なことに、アメリカが独立の精神として重要だと捉えたのが「パトリオティズム」と「コモンセンス」だった。産業革命が進み、「シヴィライゼーション (文明)」と「シビリアン (市民)」を重要視するようになった頃、アメリカでは「シビルウォー (南北戦争 1861年から1865年)」が起こっていた。ヨーロッパではパリなどを中心に「シティ (都市)」と「シチズンシップ (市民性。市民権)」が重視され、現在のフランスの国歌でもある『ラ マルセイエーズ』 の中でも「シトワイヤン (市民)」という言葉がリフレインする。
2023年4月 シバリング コンツール エッセー
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moko1590m · 13 days ago
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見知らぬ人を助ける利他的行為で体の痛みが即座に軽減することが判明 著者パルモ 公開:2024-12-31・更新:2024-12-31  「情けは人の為ならず」ということわざは、「親切にすることはその人のためにならない」と間違って解釈している人も多い。だが本当の意味は「人に親切にすれば、その人の為だけでなく、自分にも良い報いとなって返ってくる」だ。  実際にこれは真実であることが科学的な研究によって証明されている。 広告の下に記事が続いています  見返りを期待しない利他的な行為は、肉体的な痛みの緩和、ストレスの軽減、さらには幸福感の向上にも繋がることがわかったのだ。そしてそれはすぐに作用するという。 様々な研究が示す利他的行為の良い影響  近年の研究により、利他的な行為が心身の健康に良い影響を与えることが明らかになっている。  例えば、ボランティア活動はストレスの軽減やうつ症状の改善、��知機能の低下リスクの減少、さらには寿命の延長にも寄与することが示されている。  さらに、2017年の研究では、慢性的な痛みを抱える人々がボランティア活動に参加することで、痛みの軽減と生活の目的意識の向上が報告されている。 この画像を大きなサイズで見る Photo by:iStock 利他的行為はすぐに体の痛みを軽減させることが判明  これまでの理論や研究のほとんどは、利他的な行動がもたらす長期的かつ間接的な効果がほとんどだった。  だが2019年の研究では、「利他的行為が即座に良い作用をもたらし体の痛みを軽減することが明らかになった。  この研究では、以下のような状況での痛みの感じ方が調査された。 地震後の献血者: 地震後に自発的に献血を行った人々は、そうでない人々よりも注射針の痛みを感じにくかった。 労働者の子供たちのための活動: 出稼ぎ労働者の子供たちのためのハンドブックを改訂する活動に参加した人々は、極寒の外気にさらされても寒さや辛さを感じにくかった。 がん患者のボランティア活動: 慢性的な痛みに苦しむがん患者が他人のために料理や掃除を行った場合、自分のために行った場合よりも痛みの度合いが軽減された。 寄付者の痛みの反応: 孤児を助けるための寄付を行った人々は、寄付を行わなかった人々よりも電気ショックに対する痛みの反応が弱かった。  これらの結果は、利他的な行為が脳の痛みを感じる部位の活動を抑制することを示している。  この画像を大きなサイズで見る Photo by:iStock 誰かの役に立っていると感じることで痛みが軽減  今回の研究から、脳がどれくらい痛みを感じるかは、他人に施した善行にその人がどういう意味を感じているかも大きな要素になることがわかった。  より他人の役に立っているとその人が信じるほど、痛みを感じにくいという。  これは、利他的な行いがその人に役割意識を与えることと関係があるのかもしれない。  自発的な利他的行為が、ある種の役割喪失感(例えば子育て卒業や、有能な社員といった役目を失ったときなど)から起こる、ストレスやうつ病、目的意識の欠如感を軽減させるのに役立つのかどうか、研究者たちはとくに関心をもっている。  他にも、利他的行為によって脳のドーパミンが放出され、行為者が”温かなぬくもり”を感じて気持ちが高揚する「ヘルパーズ・ハイ」というべつの要因もあるかもしれない。  「ヘルパーズハイ」とは、人を助けたり、親切にすることで幸せを感じる状態のことだ。 この画像を大きなサイズで見る  痛みの軽減とこの心地よい気分を促す化学物質が合わさり、わたしたちは見返りを求めずに人を助けるという行為で自分に報いているともいえる。  ただし利他的行為がなぜ肉体の痛みを軽減させるのか、その詳しいメカニズムを解明するには更なる研究が必要になるという。  イギリスの小説家、チャールズ・ディケンズはこんな言葉を残した。 この世に生きる価値のない人などいない。人は誰でも、誰かの重荷を軽くしてあげることができるからだ  日本では本当に困っている人がわかりづらい状態になっているが、���いにもネットがある。どこかで誰かが救いの手を求めている。  自分が困難に陥ったときほど、誰かを助けたいと強く思うことで、結果的に自分が救われることになるのかもしれない。まさに「情けは人の為ならず」だ。  この研究は『PNAS』(2019年12月5日)に掲載された。 References: Volunteering and other good deeds reduce physical pain, a study finds | KSL.com 広告の下にスタッフが選んだ「あわせて読みたい」が続きます あわせて読みたい まだまだ人間捨てたもんじゃない、駐車場に車を止めて泣いていた女性を見た親子の配慮にグっとくる 走行中に意識を失った運転手を居合わせたドライバーたちが協力して助ける 小さなやさしさが心に大きく響く。思いやりのある隣人に恵まれた12人の物語 病気で外に出られない3歳の子のために、住民らが庭でパフォーマンス。その優しさに家族全員が励まされる(アメリカ) 満点の星空や広大な海を見つめると、人は人に優しくなれる(米研究)
見知らぬ人を助ける利他的行為で体の痛みが即座に軽減することが判明|カラパイア
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taketea44 · 25 days ago
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毎日が記念日
12月19日は…
国際南南協力デー
(United Nations Day for South-South Cooperation)
1978年12月19日、国連総会で「ブエノスアイレス行動計画」が承認され、2004年の国連総会で制定されました。ちなみに「南南協力」とは「途上国相互の協力」のことです。
ブラジルって、途上国?
【疑わしいAI-イチロウによる12月19日の出来事】
1732年 - アメリカの作曲家、作詞家であるベンジャミン・フランクリンが「責任のある新聞」の最初の号を出版。
1777年 - アメリカ独立戦争中、ワシントン軍がバレーフォージで冬営を開始。
1843年 - チャールズ・ディケンズの小説『クリスマス・キャロル』が初めて出版される。
1924年 - 日本の大正天皇が崩御。
1998年 - アメリカの大統領ビル・クリントンがイモーラ事件で弾劾される。
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picolin · 2 months ago
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Blitz
written & dir. Steve McQueen
2024年11月25日 Apple+
スティーヴ・マックイーンの新作。1940年、WWII開戦まもなくロンドンはドイツ空軍による空襲にさらされる。シングルマザーのリタ(シアーシャ・ローナン)はミックストレイスの息子ジョージ(エリオット・へファナン)を学童疎開に送り出すが、母への思慕と知り合いのいない環境での差別の雰囲気を嗅ぎ取った彼は汽車から飛び降り、母と祖父(ポール・ウェラー)がいるロンドンへと向かう。
マックイーンの過去作に比してあまりにもわかりやすく、ディケンズ的すぎるという評があるが、そもそもそういう作りと思って見るとなかなか楽しい佳作。戦火の中での少年の冒険物語ということで児童文学の雰囲気があり、その中で1940年当時の人種差別の苛烈さを描き、しかしながら既にかなり人種・民族が多様だったロンドンという街へのオマージュにもなっている。ジョージの家族が住むホワイトチャペル、チャイナタウンが近いソーホーのナイトクラブ、地下鉄のロンドンブリッジ駅というロケーションの経路を辿るのが見ていて楽しい。その中にさりげなく挿入される植民地政策についての展示で、そもそもこの多様性が帝国由来であることを提示する。戦争ものとはいえ衣装やセットが美しい。家族でロンドン大空襲と当時の街の庶民の暮らしについて学ぶような姿勢で、リラックスして見るつもりの方が楽しめるかもしれない作品。
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honyakusho · 2 months ago
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2024年10月31日に発売予定の翻訳書
10月31日(木)には21点の翻訳書が発売予定です。日本語から英語への翻訳も含みます。
あくたれラルフ ますますあくたれる
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ジャック・ガントス/著 ニコール・ルーベル/イラスト こみやゆう/翻訳
出版ワークス
新装版 輪切り図鑑 クロスセクション : 18の建物や乗物の内部を見る
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スティーヴン・ビースティー/イラスト リチャード・プラット/著 北森俊行/翻訳
岩波書店
ミュータントタートルズ:TVアドベンチャー ③
サラ・マイヤー/著 ルビー翔馬ジェームス/翻訳
フェーズシックス
オラクルオブザフェアリー スペシャルエディション ゴールドエッジ
カレン・ケイ/著 ジンジャー・ケリー/イラスト 宇佐和通/翻訳
JMA・アソシエイツ
日本の神話
湯川英男/著 高橋明弘/翻訳
鉱脈社
The Bento Lunchbox : Delicious Japanese Box Lunches in 30 Minutes or Less (With Over 125 Recipes)
Sachiko Horie/著 Makiko Itoh/翻訳
チャールズ・イー・タトル出版
The Illustrated Book of Japanese Haiku : A Journey through the Seasons with Japan's Best-Loved Poets (Free Online Audio)
William Scott Wilson/翻訳 Manda/イラスト
チャールズ・イー・タトル出版
病案本 1 Case File Compendium
肉包不吃肉/著 呉聖華/翻訳
すばる舎
病案本 2 Case File Compendium
肉包不吃肉/著 呉聖華/翻訳
すばる舎
高雄港の娘
陳柔縉/著 田中美帆/翻訳
春秋社
アントン・ブルックナー
フェーリクス・ディアガーテン/著 池上健一郎/翻訳
春秋社
ターシャ・テューダーの言葉 楽しみは創り出せるものよ
ターシャ・テューダー/著 食野雅子/翻訳
KADOKAWA
ターシャ・テューダーの言葉 今がいちばんいい時よ
ターシャ・テューダー/著 食野雅子/翻訳
改訂新版 最短距離でゼロからしっかり学ぶ Python ���門 実践編 〜ゲーム開発・データ可視化・Web開発
Eric Matthes/著 鈴木たかのり/翻訳 安田善一郎/翻訳
技術評論社
改訂新版 最短距離でゼロからしっかり学ぶ Python入門 必修編 〜プログラミングの基礎からエラー処理、テストコードの書き方まで
Eric Matthes/著 鈴木たかのり/翻訳 安田善一郎/翻訳
技術評論社
貧乏カレッジの困った遺産
ジル・ペイトン・ウォルシュ/著 猪俣美江子/翻訳
東京創元社
コアリーディング : たった1冊読んで人生を変える読書術
パク・サンベ/著 村山哲也/翻訳
ダイヤモンド社
テーバイ物語2
スタティウス/著 山田哲子/翻訳
京都大学学術出版会
ふたごの魔法使い 大冒険の始まり
ミリアム・ボナストレ・トゥール/著 中井はるの/翻訳
Gakken
クリスマス・キャロル
チャールズ・ディケンズ/著 村岡花子/著・翻訳 オスカー・ワイルド/著 河合祥一郎/解説
魂と運命
アラン・コーエン/著 赤司桂子/翻訳
ナチュラルスピリット
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respect-love33 · 3 months ago
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「チャールズ・ディケンズ」で驚く!意外な雑学と格言・名言の世界
### チャールズ・ディケンズに関する豆知識 チャールズ・ディケンズ(1812-1870)は、19世紀の英国を代表する作家であり、数多くの名作を生み出しました。その作品は、貧困や社会不正、子どもの権利など、当時の社会問題に深く切り込んでいます。彼の代表作『オリバー・ツイスト』では、孤児オリバーが厳しい環境から抜け出すために戦う姿が描かれています。 面白いエピソードとして、ディケンズは自らの作品を読者に届けるために、非常にユニークな方法を取っていました。彼は「連載小説」を発表し、作品を徐々に発表することで読者の期待感を高めていました。そのため、各章が公開されるたびに、読者たちは次の展開を心待ちにし、ディケンズは「文学のロックスター」とも称されるほどの人気を誇りました。 ###…
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hanepoti · 11 months ago
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パラクラHO6 天気予報士!
ぽやぽやしているおっさん。 大事な人は妻と娘と義父な家族大好き~♡の男
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KP:いと
HO1 蛸(ゴヴァン・トバイアス) HO2 まお(コーラル・オルコット) HO3 リキ(ティム・ワゴナー) HO4 まる(ロイド・アンダーバレル) HO5 とm(ダレル・D・ディケンズ) HO6 はねぽち(トーマス・エルソン)
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straycatboogie · 1 year ago
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2024/01/31
BGM: Sting - Let Your Soul Be Your Pilot
今日、ある友だちがぼくにこう尋ねてきた。「どうやったらそんなに面白い本を見つけられるんですか」と。これは面白い質問だと思う。そして、答えるにも骨が折れる繊細な問いだとも。彼女がこの質問をしてきたのはぼくの短文での燃え殻という作家のデビュー作『ボクたちはみんな大人になれなかった』に関するコメントを読んでのことで(実にすばらしい、「刺さる」というか「グッと来る」作品だった)、この本に関して言えばネットフリックスの映画になったのを観たことでまずぼくはこの本について知り、そこから読み始めたのだった。こんな感じで、ぼくはさまざまな本をまずネットフリックスや読書メーター、X(Twitter)やFacebook、Discordなどで知って手に取ることが多い。9割方そうとすら言えるかもしれない。あとは図書館・書店で偶然見かけるとかそんな感じだ。
できるだけ正直に、ぼくなりに誠実にこの問いについて答えようとするならぼくはどんなふうにしてこの人生を生きているかを話すしかない(ぼくが言っているのはそう、ぼくのまったくの「ラ���フスタイル」そのものだ。どんな本を読んだかとかどんなポータルサイトを使っているかといった限定された話題にとどまらない、「生活そのもの」についてというか)。つけ加えて、ぼくは彼女に(いや、あなたにも)こんな話をしないといけない――「それは運という要素から生まれる問題だ」という。少なくともぼくにとっては、それは「どんなふうにして幽霊を見てしまったか」とか「どんな空飛ぶ円盤(俗に言う『UFO』)を見たか」というのと似ている。言い換えれば、それはどうしたってオカルト的な話にならざるをえない(ちなみにぼくは幽霊も『UFO』も見たことがまったく記憶にない)。
少なくとも本に限って言えば、ぼくは自分の持つ運を信頼して生きている。この日記でも書きつづってきたけれど、いつも運に導かれてぼくは自分の人生やこの性格を変え、支配さえしてきた本とめぐり会ってきた。スティーブン・キングを読み村上春樹を読み、ポール・オースターや柴田元幸、金井美恵子といった作家とめぐり逢い……別の言い方をするなら、ぼくはライフプランを立てて読書をしたことなんてこれっぽっちもない(『ノルウェイの森』の登場人物よろしく「もうこれからはずっとディケンズを読み込もう」なんて考えたりしたことなんてない)。いきあたりばったり、実に無軌道に生きてきた。
無計画。ただ、本能のささやきに身を任せる。いや、はたから見れば「アホでマヌケな読者」ということになるかもしれない(マイケル・ムーアの本みたいだけど)。それはまあ甘んじて受け止める。そして、人生を振り返る。この勘をずっと信じて生きてきた――アメリカ文学を学び、フィッシュマンズを聴いて彼らの曲を生きるよすがにしたり、30代の時にグループホームの関係者に初めて電話をかけてそこからつながりを得たり、そうやって人生を生きてきた。力強い声がぼくの中で常に語りかける。その声は今後ぼくをどう導くのだろう。燃え殻の本が語るように、それはある��味ぼくにとっての「希望」なんだろうか……そうだといいなと思う。というか、きっとそうだ。
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itocaci · 1 year ago
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開催間近 "osakentaro pop up"
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こんばんは。
僕は数年前まで、一度読んだ本を読み返すくらいなら、まだ読んだことのない本を読もうなんて思って、これまで読んだ本を振り返ることなんてほとんどしてこなかった。
しかし、昨年くらいからだろうか。
一度読んで数年経った本を読み返すことにハマってしまった。
そんな読み直しを覚えてから楽しみにしていたのが12月にディケンズの「クリスマスキャロル」を読むことだ。
先月、たまたま素敵な装丁のクリスマスキャロルに出会った。
(画像がなくて本当に申し訳ないです。Amazonにも掲載されていないverで、��なりレアなのかもしれません。)
もちろん家には新潮文庫から出ている「クリスマスキャロル」がある。ただ、今回は折角ならこの素敵な装丁の「クリスマスキャロル」を読んでみようではないか。
なかなかと忙しない12月で、ゆっくりと本を読むゆとりもないけど、日々ちょっとずつ読んでいけたらなぁと思っている。
折角なら皆さんもこの機会に「クリスマスキャロル」を読んでみてはいかがだろう。
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さてさて、本題に入るのだけど、いよいよ"osakentaro pop up"が今週末に控えている。
[osakentaro pop up]
日時:12/9(sat)- 12/17(sun)
時間:13:00〜20:00 (13・14・15日は15:00〜20:00)
会場:itocaci(大阪市北区中津3-20-10)
この秋冬のアイテムを僕は皆さんより少し早めの8月末に拝見させて頂いていた。
正直な感想だけど、めちゃくちゃ素敵なアイテムばかりで、かなりオーダーに迷った。
ただ、僕は唯一"osakentaro"だけはその日にオーダーをして帰るというようにしている。
もちろん後日に追加をしたり、修正をしたりすることもあるけど、"osakentaro"のアイテムは他のブランドと違って、見てから店頭に届くまでが早い。
だから可能な限り、その場でオーダーを決めるようにしている。
それにお店に合わせて色々とオーダーもできるので、結局持ち帰って後から悩んでも、リアルな場で生地を見たり、デザインアイディアを見ながらやりとりする方が良いものが生まれる。
そんな考えのもと、いつもその日にオーダーをできる限りまとめる。
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そして、今季はそんなオーダーにめちゃくちゃ迷った。
なぜなら、本当にどれも素敵だったからだ。
写真のコートもそうだ。
こんな生地の切り替えがユニークな素材のコートがあるだろうか。
まあ切り替えくらいならあるかもしれないけど、1点1点で柄が変わるブランドはさすがに無いだろう。
だから、この期間中に届くコートも完全なる出会いになるのだ。
同じ柄を纏う人はいないのだ。
そんな楽しいことがあるだろうか。
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ニットも個人的にこの色の組み合わせがとてもツボだった。
ダークトーンになりがちな冬のコーデに、ちょっと差し色として合わせて頂く。
そんな使い方がとてもオススメだ。
ちなみにニットグローブやマフラーもあるので、小物で取り入れて頂くというのも良い。
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そして、このインパクト大なパンツ。
当店は今季入荷直後にこのパンツから売れてしまったのだけど、今回このパンツも新たに届けてくれるということだ。
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このクロスステッチシリーズも見て欲しい。
ポニーの尻尾のふさふさがかわいいし、ポップな刺繍が目を惹くアイテムだ。
冒頭のお話では無いけど、良いアイテムはずっと着ていて楽しいから、シーズンを超えて楽しめる。
名作は何度読んでも楽しいように、"osakentaro"のアイテムは何度来てもワクワクする。
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そして、今回は、そんなワクワクをもっと楽しんでもらえるように、店内全てでそんな"osakentaro"を楽しめる空間にしたいと思っている。
こんな機会はこの期間にしか楽しめないので、ぜひ遊びに来てみてほしい。
それに、これが年内ラストイベントになる。
だから最後にもし良かったら今年を一緒にワイワイしながら振り返りできると嬉しく思う。
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それではこの期間に皆様にお会いできるのを心より楽しみにしている。
それでは次回もお楽しみに。
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ams0071 · 1 year ago
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“A day wasted on others is not wasted on one's self.”
「人のために無駄にした一日は、あなたにとっては無駄ではない」
Charles Dickens(チャールズ・ディケンズ)
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thetaizuru · 1 month ago
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「 イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。 弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。 イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。 」(ヨハネによる福音書 9:1-3)
 ドストエフスキーの小説を初めて読んだ時に、自分が今何を読んでいるのか全然わからないという文盲的な体験をしたが、何を読んでいるのか全然わからないのになぜか、心をかき乱されるというか抉られるような感じがして、何か本音の感想みたいなものを持たなきゃいけないような気もして、つまり、すんません、登場人物の名前も覚えられなくて何がどうなってんのか全然わかんないけどなんかすごいっす的なことを思いながら、文字を追ってたことを覚えている。別の作品を、今度は予め解説を読んであらすじも知ったうえで読み始めたが、似たような感じだった。  それからしばらく経って、『地下室の手記』を読んだ。これも解説などを読んでたし、独白なので、登場人物の名前を覚えられなくて誰が誰だかわからなくなるというようなこともなく、読みやすく感じた。「堂々といってのけるが、わたしは今までなんど虫けらになりたいと思ったかしれない。けれども、わたしはそれにさえ値しない人間だったのだ。」という箇所や、「ね、もし本当にいつかわれわれの意欲や気まぐれ全部の方式を発見してしまったら、つまり、それらのものが何に左右されるか、いったいどういう法則によって発生するか、どんなふうに蔓延するか、またかくかくの場合にはいかなる方向に進んで行くか、といったような問題について、本当の数学的な方式を発見してしまったら、――その時はおそらく人間はすぐに意欲することをやめてしまうだろう、いや、確かにやめてしまうに相違ない。ね、表によって意欲するなんて、何が面白いものかね。そればかりでない、そのとき人間はさっそく人間でなくなって、手廻しオルガンの釘か、ないしそれに類したものになってしまうだろう。だって、希望も意志も欲望もないような人間は、手廻しオルガンのシリンダーについている釘でなくって、いったいなんだというのだ?」という箇所を見つけて、多分このあたりが、カフカの『変身』(1915)や、ヴォネガットの『プレイヤー ピアノ』(1952)に影響を与えたんだろう、というようなことも思った。「えいっ、諸君、何をいうのだ、問題が表や算術なんてところまで行ってしまって、ただ二二が四だけ幅を利かすようになったら、もう自分の意志も何もないじゃないか?二の二乗は、わたしの意志なんかなくたって、やっぱり四になるんだからな。自分の意志となると、そんなもの��ゃありゃしないんだ!」「ここでもまたわたしは出たらめをいっている!たしかに出たらめだ。なぜなら、けっして地下生活が一番いいのではなくて、わたしの渇望しているのは何かしら別なもの、まるっきり別なものだということを、二二が四というほどはっきり知っているからだ。ただそれがどうしても発見できないのである。地下などくそ喰らえだ!」という箇所は、オーウェルの『1984年』(1949)の「2+2=5」に影響を与えたのかなとも思った。後から知ったが、ドストエフスキーの「二二が四」は、ザミャーチンのディストピア小説『われら』(1927)に影響を与え、オーウェルはそこから影響を受けたらしい。オーウェルは1946年に『われら』の書評を書いている。  そうした箇所を見つけた気にもなったが、こういう読み方は、『地下室の手記』自体を読む読み方ではないということにも気づいた。何を読んでいるのか全然わからないのになぜか心を抉られるように感じる体験のほうが、小説それ自体を読む読み方に近い。ただ、わからないのにとりあえずもう少し読み進めようという気になれたのは、色んな作家が影響を受けた作家としてドストエフスキーの名を挙げ、作品解説や文学論のみならず色んな場で様々な形で語られていたからだし、さすがに何読んでるかくらいはわかっといた方がいいとも思う。  ドストエフスキーに影響を与えた作家のひとりがディケンズで、ドストエフスキーは特に『地下室の手記』(1864)から『白痴』(1868)の頃に、ディケンズに倣い、自身の小説のあり方を定めたという。それは、キリスト教精神に基づく「心の知恵」の思想であり、『クリスマス キャロル』(1843)に登場するスクルージのようなかたくなな人物の心さえも和らげ、精神の復活をもたらす思想であるという。
 ここ数年、ドストエフスキーの名が、時事解説などで頻繁に出てきた。ロシアの話をするときに、「ドストエフスキーとトルストイを昔読んだことがあるくらいで、ロシアのことはほとんど知らないが」というような言い方で出てきて、そういう文脈での登場の仕方のピークは、今年2月のタッカー カールソンによるプーチン露大統領へのインタビューで、プーチン大統領がドストエフスキーの名を挙げてロシアの精神性を語ったことについて話題になったときだった。  それとは別の形で、現在の社会的心理的状況を語るときにも、ドストエフスキー作品が例示される形で頻繁に出てきた。これは、アメリカが話題の中心だが、西側諸国の多くも当てはまる。虚無主義的な社会状況の中で、宗教観や精神性についての再認識が必要であることは認識しているものの、それは極めて難しいことだということも認識している状況である。  もともとは「文盲」を意味する「イリタレイト」「イリテラシー」という言葉も頻繁に使われた。相手の「基礎的知識や常識のなさ」を批判する言葉で、考えの違う者同士が互いに互いを批判する状況が硬直化し、「分かり合えなさ」「わからなさ」だけが隅々まで行き渡ったような社会状況である。  『地下室の手記』の主人公は、こうした社会状況に似た当時の社会状況を擬人化したような人物でもあるが、こうした人物像は19世紀中ごろのロシア文学に頻繁に登場し、「余計者」という一つのジャンルとなっていた。  皇帝アレクサンドル1世(在位1801-1825年)の時代には、西欧の自由主義思想が貴族階級を中心に広まり、専制政治や農奴制の改革を求める風潮が強まっていった。しかし、1825年に政府打倒を目指したデカブリストの乱が失敗に終わると、新帝ニコライ1世(在位1825-1855年)の苛酷な弾圧が始まる。その結果、有為の青年たち、特に貴族階級の青年知識人が活動の場を奪われ、進歩的な思想を身につけ、優れた資質をもちながら、それを社会のために生かせず、決闘や恋愛遊戯などの馬鹿げたことに精力を浪費したり、鬱屈しながら無気力になって屋敷にこもったりするものが現れた。1850年のツルゲーネフの小説『余計者の日記』によって、この種の人物を「余計者」と呼ぶようになった。また、1849年から1859年にかけて発表されたゴンチャロフの長編小説『オブローモフ』という、貴族階級に属する主人公オブローモフの生涯を描いた大人気小説があった。この主人公も「余計者」だが、他のロシア文学で描かれる余計者たちと違って斜に構えた格好良さのないオブローモフにより、「余計者」というのは、社会に抑圧された受難者といったものではなく、言い訳だけして行動に移さない「怠け者」であることが暴かれたとする批評も書かれた。「オブローモフ」または「オブローモフ主義」という言葉が、無用者や怠け者を指す一般名詞として定着し、後に辞書にも載った。そして、反動のように1860年代のロシアは「政治の時代」へと突入する。  『地下室の手記』が発表された1864年はすでに政治の時代であり、テロの脅威が現実になるほど過激な状況になっていた。が、ドストエフスキーが見たところでは、これは、余計者たちが余計者であることをやめたわけでも、社会が抑圧の時代を乗り越えようとしているのでもなかった。むしろ一層深く鬱屈した「自我の檻」に囚われ、その「外」を失う過程であるように見えた。ドストエフスキーは、ツルゲーネフを文学的に乗り越えるべき存在として、かなり意図的に、あえて「敵」として設定し、弁証法的な論争を一方的に仕掛ける形で創作を行った。ツルゲーネフと彼の作品のみならず、彼の読者をも射程に捉えた上で、つまり彼らは偉そうなことを語るだけの無能であり、むしろ地下室に籠っている方がましで、世の中の風潮に流されて何かをするとなると、無能な上に流されたバカは破壊しかできないので、テロリストになるのは必然だということを表現に込めた。1867年にはドストエフスキーとツルゲーネフのケンカがスキャンダルとして雑誌や文壇で話題になった。これもドストエフスキーが一方的にケンカを売る形だった。ドストエフスキーが、1869年にネチャーエフというテロリストが起こした殺人事件に着想を得て、テロ革命家に憎悪を抱いて書いた『悪霊』(1871)には、ツルゲーネフをモデルにした文豪気取りの作家を登場させ、その人物を罵倒している。ツルゲーネフのほうは、批判は構わないが、間違いは訂正し、嘘には反論するというような態度で、この貴族的な余裕のある態度がますますドストエフスキーを激昂させた。もともと、ドストエフスキーが文壇デビューした1840年代に、すでに人気作家だったツルゲーネフがドストエフスキーの作品を嘲笑したことを、これもかなり一方的にドストエフスキーがそう思い込んでる節があるが、ドストエフスキーは根に持っていたらしい。また、ドストエフスキーはツルゲーネフに金を借りていたが返せず、貴族であるツルゲーネフが怒っているときに金を返せと言い出すのは貴族の美徳に反するだろうから、とりあえず会うたびにケンカを売って怒らせてたという説もあるらしい。ただ、ドストエフスキーとツルゲーネフには、形而上学的とも言えるほど深い相違があり、これをドストエフスキーは意識する。ツルゲーネフは無神論者でコスモポリタンで西ヨーロッパ主義者であるのに対し、ドストエフスキーはギリシア正教派で救世主待望論者でスラブ主義者であり、なによりもロシア的世界観を作るということに作家生命を懸けていた。ドストエフスキーにとってツルゲーネフは、弁証法的論争を仕掛ける相手として申し分なかった。意思の自由と個人の力を確信し、それを確固たるものにしたかったドストエフスキーに対し、ツルゲーネフは運命論者であり、歴史を没個性的な過程と捉え、それを冷静に観察することに努めていた。ツルゲーネフは「神というものがあるのかどうか、わたしは知らない。だが因果律はわたしにははっきりしている。二掛ける二が四であるように」と書いている。
 イギリスを中心とした、大英帝国史観とも呼ばれる歴史観では、1850年代に大衆文化が花開いたとされる。1840年代にはすでに、具体的には鉄道網や郵便制度などを指すが、市民革命や産業革命の成果とも言えるものが社会インフラとして導入されていたが、しばらくの間、空回りともとれる状況が続いたとされる。ディケンズが描いたような、あるいはアンデルセンの「マッチ売りの少女」(1845)のような、目の前にいる困難な状況にある人を助けられない状況である。問題を認識していながら、場合によっては解決法もわかっていて、できることはやっていたとしても、なぜか解決できない、後にカフカエスクとも呼ばれるような奇妙で不条理な状況である。1850年代に、このような状況を抜けて、社会が好転し始めたという考えが、大衆文化の開花として表現される。そこまで劇的なものではないとも指摘されるものの、経済指標としても表れ、識字率なども向上し始め、メディア状況なども変化する。大英帝国の状況は世界に影響を与える。大英帝国が1840年代の状況のままだったら、アメリカの南北戦争(1861-65)は起こっていなかったか勝敗が逆転していたかもしれない。ロシアも世界の変化に影響を受ける形で社会状況が変化していたが、ドストエフスキーは、1860年代、ロシアの民衆の文化はまだ開花していないと考えた。ディケンズがイギリス民衆の声となったように、ドストエフスキーはロシアの民衆の声になろうとした。  1840年代のヨーロッパの社会状況を的確に分析していたと後に評価される文章を、デンマークの哲学者キルケゴールが1846年に書いていた。文学評論として、匿名作家による『二つの時代』という小説を対象として書かれたもので、当時はほとんど注目されなかったという。1914年にドイツ語に翻訳され『現代の批判』と題され刊行されるや、ドイツで大反響となった。まさに20世紀の現代ドイツ社会を的確に捉えて批判したものだとして受け止められ、ヤスパースやハイデガーといった哲学者たちが大きく影響を受けたとされる。カフカの『変身』(1915)が発表される前年である。  キルケゴールの『現代の批判』は、「現代は本質的に分別の時代であり、反省の時代であり、情熱のない時代であり、束の間の感激に沸き立つことがあっても、やがて抜け目なく無感動の状態におさまってしまうといった時代である。」という文で始まる。「情熱的な時代」すなわち革命の時代が「励ましたり引き上げたり突き落としたり、高めたり低めたりするのに反し、情熱のない反省的な時代はそれと逆のことをする。それは首を絞めたり足を引っ張ったりする。それは水平化する。水平化はなにごとによらず人目につくことを忌避する、ひそかな、数学的な、抽象的ないとなみである。」そしてこの水平化によって「公衆」が生まれ、「公衆」が水平化を生む。「公衆は、ひとつの国民でも、ひとつの世代でも、ひとつの同時代でも、ひとつの共同体でも、ひとつの社会でも、この特定の人々でもない。これらはすべて、具体的なものであってこそその本来の姿で存在するのだからである。まったく公衆に属する人はだれ一人、それらのものとほんとうのかかわりをもってはいない。」「このような人たちから、すなわち、彼らがなにものでもないような瞬間における諸個人から成り立っている公衆というやつは、なにかある奇怪なもの、すべての人であってなんぴとでもない抽象的な荒野であり真空体なのだ。」「公衆は一切であって無である。あらゆる勢力のうちで最も危険なもの、そして最も無意味なものである。」そしてその公衆の犬であり代弁者である「新聞」を批判する。  キルケゴールの思想は、彼の信仰と宗教性に特徴づけられる。現在では有神論的実存主義と分類されることもある。  キルケゴールは、水平化の時代においては「個人個人は抽象的な無限性のめまいのなかで滅んでしまうか、それとも、ほんとうの宗教性のなかで無限に救われるか、そのどちらかしかない」とし、水平化の時代の宗教的な者は「英雄や傑物になるのではない。その人はただ、完全な平等という意味においてひとりの人間らしい人間になるばかりである。これこそ宗教性の理念である」とした。水平化を真正面から打ち負かそうというのは「権威を目ざして行動することになるからである。そうではなく、目立たない者は受難によって水平化に打ち勝つのであろう。」水平化の時代は個人個人が主体的に自分自身を助けなければならない。「彼はみずから飛躍をしなければならないのだ。神の無限の愛にたいする彼らの関係を、間接的なものにしてはならないのだ。」  人が他の人へする助力や、問題解決のためのアプローチというのが、支配するのでも、操縦するのでも、指導するのでもないという意味で、間接的なものになる。「受難によって奉仕すること」となる。  沈黙は内面性である。「公衆」という奇怪な無の巨大で抽象的な声に対し、沈黙すること、現実の人の声を聞き、本当のことを心で語ること。パラドキシカルなことにそれが民衆の声となり、大衆文化が開花する。
 旧約聖書において、アダムとイブの最初の罪の後、人類はエデンの園を失い、自然法則の奴隷となり、そのため死すべきものになった。人間が奴隷となったのは、自然から切り離されたからである。自然、つまり宇宙は、外部の物体となった。自然法則は人間から独立した。第二のアダムであるイエス キリストが、人間の魂と自然の法則との一体性を再現する。これは新約聖書において、キリストが水の上を歩くことで象徴される。  それが「公衆」という奇怪な無によるものであっても、『1984年』で描かれたような全体主義によるものであっても、カルトやメディアによるものであっても、人間意識の操作は、人間のさらに深い疎外となる。外的な自然からだけでなく、内的な、自分自身の内なる自然からも切り離される。もし、人間が内面世界全体から切り離され、内なる世界のすべてから追放されるようなことがあるとしたら、一体どんな大罪によってその「第二の堕落」「二度目の失楽園」は引き起こされるのだろうか。  ドストエフスキー作品が提示しているのは、罪とは、暴力によって社会正義を作ろうとする試みと、社会的にも個人的にも自由を失うことである。これはすなわち、科学技術が人間に対して行うように、個人と社会をオブジェクト(対象物。モノ)として扱うことであり、『罪と罰』(1866)に描かれたように、人間が他の人間をオブジェクトとして扱うことである。人が他の人をオブジェクトとして扱い始めると、奇妙なことに、その人自身の内面世界もその人にとってオブジェクトになる。ドストエフスキー作品に強く影響を受けたロシアの哲学者ニコライ ベルジャーエフは、「個人は社会の一部であると言われるが、社会が個人の内面世界の一部であると言うほうがより真実である」と述べ、人間の内なる世界と外なる世界には、強力で明白な並行関係と相互依存性が存在すると考えた。  外なる世界をオブジェクトとして扱うことは、当然、多かれ少なかれ誰もがやっていることだが、これが内なる世界からの疎外に直接つながる。これは他の人間や自分自身をオブジェクトとして扱うことに関しては特にそうである。外なる世界を「2+2=5」だと言い張り、内なる世界を「二二が四」に縛るまでに、堕ちてしまう。多かれ少なかれ、風潮だとかメディアとかに意識は操作され、また、外なる世界をオブジェクトとして扱うことで内なる世界をオブジェクトとし、内なる自然が切り離されていく。  「自分」と「自分の内なる世界」の再統合は可能なのだろうか。この問いはすなわち、人はモノではなくて、「精神」はあるのだろうか、という問いである。
 今年、精神はあると示されたように見えた。
2024年12月 アンファゾマブル マインド、ナウ ビーコン、ナウ シー
メリークリスマス よいお年を
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