#ジョン万次郎上陸の地
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『龍馬が通る!』
~明治維新と欧米化~
■2012年6月9日 - 高知にて撮影
■坂本龍馬 - Wikipedia 1836年に坂本龍馬は、土佐藩下級武士の次男(末っ子)として生まれた。子供の頃の龍馬は泣き虫で、周りの友達によくからかわれていたそうな。
12歳の頃、龍馬は塾に通い始めたが、上士の同級生と喧嘩をして喧嘩両成敗という名目で父に塾をやめさせられた。その年に母が亡くなり龍馬は継母の伊与(いよ)に教育を受けた。
家族の中で龍馬と最も仲の良かった三歳年上の姉・乙女(とめ)と、よく二人で「ヨーロッパ」というあだ名を持つ“川島猪三郎”(いさぶろう)の家に遊びに行き、欧州の話を聞かされていたのだとか。
龍馬が姉の勧めで剣術を習い始めると、その天賦を早くも発揮し始めた。
1853(嘉永6)年に、龍馬は18歳より剣術を学ぶ為に江戸に留学。その時、偶然にもアメリカ合衆国より艦隊を率いたマシュー・ペリー提督の黒船が来航し、藩の命令で品川の警備を命じられた龍馬もそれを間近に見る機会があったのだ。
黒船のあまりの大きさに龍馬は慄きながら、同時に「日本の剣術では海外とは渡り合えない」と即座に覚り、龍馬は西洋式の技術を学ぶことを決意した。
江戸時代の町人は「江戸が最も文明の発達した国」と考えていた。しかし、この黒船来航により、西洋の文明が予想以上に進んでいると流石に気付くことになった。
ペリー提督が提出した開国の要求書は「漢文」「オランダ語」「英語」の三種類で書かれたもので、貿易で馴染みのある漢文とオランダ語に関しては解読できたが、当時の日本人にとって英語だけは見慣れない文字だった���うだ。
ちなみに「オルゴール」はオランダ語(英語ではミュージック・ボックス)だが、これは鎖国時代もオランダから来る商船は受け入れていたため、江戸にオルゴールが持ち込まれた際そのままオランダ語で定着したもの。
また、鎖国の背景にはオランダが日本貿易を独占するため、スペインやポルトガル等の《カトリック教》の国が日本植民地化の意図を持っており、危険であることを徳川幕府に助言していた事情もあるようだ。
▲「キリスト教を信仰しない異教徒は野蛮」として先住民を大量虐殺を決行するスペイン軍
戦国時代の日本は「ヨーロッパ全土に匹敵する数の火縄銃までも保持する戦闘部族」という評判もあり、当時は太陽の沈まない国と呼ばれるほど世界各地を植民地支配していたスペインさえも、日本を警戒して侵攻までには至らなかったとされる。
そうして、今の幕府では日本を護れないと考えた龍馬は「打倒、江戸幕府」を掲げ奔走することになる。
安政元年(1854年)6月23日、龍馬は15か月の江戸修行を終えて土佐へ帰国。在郷中、日根野道場の師範代を務めながらも、絵師“河田小龍”宅を訪れて国際情勢について学び、海運の重要性について説かれて大いに感銘し、後の同志となる“近藤長次郎”や“長岡謙吉”らを紹介されている。
27歳で脱藩した後に幕臣・勝海舟を訪ね、海軍を作ってアジア諸国と連帯するという話を聞いた龍馬は、そのスケールの大きさに感激し、海舟の弟子となって神戸海軍操練所の創設の為に行動を起こした。
その後、1864年以降に何度か長崎を訪れ、慶応元年(1865年)に幕府機関である神戸海軍操練所の解散に伴い、薩摩藩や商人(長崎商人小曽根家など)の援助を得て、長崎の亀山に日本初の会社となる「亀山社中」が結成された。
ちなみに"西郷隆盛"の勧めにより日本で初めて新婚旅行をしたのは坂本龍馬だが、その時の出来事をイラストも交えて手紙に書いて姉の乙女に送り続けたらしく、連絡がマメな龍馬の手紙は実に130通以上も残っているという。いやはや、驚愕である……。
ところで1841年にアメリカ合衆国を目指して航海中だった"ジョン万次郎"は、生まれて初めて世界地図を見た時に、世界における日本の小ささに驚いたという。
このように大きく広い世界の中の「小さな自分」に気付くことは、客観的に自己認識することに直結する。世界地図による世界認識の拡大=地理教育は、人々の視野を広げ、人を積極的な思考に変える力を持つのだろう。
ちなみに坂本龍馬の逸話として、初めて世界地図を見せられた時に「日本はどれだと思う?」と問われ「これが日本じゃろう!」とアメリカ大陸を指さしたという話がある。 黒船来航の前にペリーは琉球王国と交流し、江戸幕府の情報を収集しており、それにより江戸との開国交渉に至った。当時は鎖国していた江戸と異なり、琉球王国は長崎や神戸と同様に欧米・日本・中国・韓国・東南アジア等を相手に貿易を行う東洋経済の中枢だったのだとか。
ある日、坂本龍馬は「土佐の海が世界に通じていると思うと愉快ぜよ」と語ったという。
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欧米化について
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日本の近代化、つまり西洋化は「明治維新」より本格的に始まりま��た。
西洋化の手始めに、まずはヨーロッパ(特にドイツとイギリス)の言語、及び学問が片っ端から翻訳されましたが、現代の日本において馴染みのある「技術水準(technical level)」「概念(concept)」「哲学(philosophy)」「芸術(art)」「愛(love)」「変態(abnormal)」等の単語は、当時の日本語に該当する語彙がなく、この翻訳過程で新たに作られた語句でありました。
夏目漱石は英語、森鴎外はドイツ語の翻訳に貢献しました。
当初の日本では病院のカルテはドイツ医学に則り、ドイツ語で書かれていたのは有名でしょう。
たとえば「技芸」や「恋」等の単語は江戸時代の日本にもあったようですが、「芸術(art)」や「愛(love)」は本来の日本語にはなかった語彙なので、上辺だけは理解したふりをできたとしても、これらの概念や価値観が日本男児にとって根深く馴染まない根本的な理由が、遺伝子と文化的な要因にあると解釈できるのではないでしょうか。
明治維新以降、日本政府は先進国(白人の国々)の技術水準に比肩したいがために西洋化を推し進めてきましたが、「アキレスと亀���という詭弁があるように、追い続けるだけではどこまで行っても追い抜くことはできないと慮る次第であります。
medicine (西洋)医学 physics 物理学 philosophy 哲学 geography 地理学 psychology 心理学 economics 経済学 politics 政治学 mathematics 数学 chemistry 化学 biology 生物学 astronomy 天文学 ethics 倫理学 archeology 考古学 linguistics 言語学
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森鴎外
"森鴎外"は、夏目漱石と並び「明治の二大文豪」と称される作家です。ドイツ語の翻訳家としても活躍し、西洋文化を感じられる作品を手掛けました。
当時の日本社会や思想を客観的に描写した物語も多くあり、見識の広い森鷗外ならではといえます。
森鴎外がドイツ留学の実体験をもとに書いた日本人留学生とドイツ人女性の非恋『舞姫』は森鷗外の代表作です。
森鷗外の作品は古文で書かれたものが多く、さらに文中にフランス語やドイツ語が織り交ぜられるなど、格調高い文体が特徴。
西洋文化を取り入れた言葉や文体は、後の多くの作家に影響を与えました。
夏目漱石『吾輩は猫である』
日本の教員・小説家・英文学者"夏目漱石"の著書「吾輩は猫である」読了後、どうしても腑に落ちなかった点があります。
それは主人公の吾輩君が最後は酩酊して水瓶に落ちて溺死することに他なりません。
『吾輩は猫である』は、明治維新以降の急速に西洋化する日本を猫の視点から描いた風刺・滑稽噺ですが、それにしてもこの終わり方は死を美化する日本文化の象徴とも言えなくもありません。
また、私が二十代の頃に読んだドストエフスキーと比較して、日本文学はロシア文学より劣っているのではないかと落胆したこともありました。
しかしながら夏目漱石が三十代の頃に国費で英国留学したものの人種差別に遭い、己の醜さから鬱になり自室に引きこもっていたら、「外に出て自転車にでも乗ったらどうだ」と勧められて自転車に乗る猛特訓をしたのに、結局は乗れなかったという訳の分からない滑稽なエピソードを読んで、どうしても夏目漱石を嫌いになれず、吾輩君の死も無駄には思えなくなりました。
きっと吾輩君は読者諸君の心の中で生き続けているのである。
それはさておき、推奨されるがままに始めた自転車の猛特訓中に"英国紳士"から「チン・チン・チャイナマン!」と侮辱された夏目漱石も、日本に居���頃は自他共に認めるほど容姿がいい部類だとされながらも英国の街を歩いた際に「背の低くて醜い奴が歩いていると思ったら、硝子窓に映った自分の姿で落胆した」とのこと。
それでも"英国淑女"からは「ハンサム・ジャップ。ご一緒にサイクリングでもいかがかしら?」と誘われたので、「怒るべきか喜ぶべきか悩んだ」と悲痛な葛藤を手記に残していたそうな。
日本の英文学者で初めて英国に渡航した上で、有色人種に対する人種差別を体験した夏目漱石ですが、江戸時代末期に生まれた上役達には、このような人権にかかわる諸問題についての理解は当然ながら及ばなかったのだと慮る次第であります。
ちなみにスマホや腕時計もない明治以前の日本人にとって、例えば「2時集合」とは「大体2時~3時までの間に集合しよう」というウチナーのような寛容なニュアンスでしたが、鉄道の運用が開始されてから新聞などで大々的に「文明社会にとって時間の厳守は重要」と宣伝され、そうして現代の「5分前集合」が浸透したようです。
「おはよう」と「さようなら」の語源
「おはよう」の語源は、「今日もお早うございます」の略なのは有名です。
海外で最も有名な日本語の「さようなら」の語源は、「左様ならば、これにて御免」というお侍さまの別れの挨拶の略です。
今もなお、お侍さまの語感が残されるとは、まさに《武士道》の本場だからだといえるでしょう。
ちなみに"I Love You"を中国語で言うと、英文法と品詞の並びが一致する"我爱你"(ウォー・アイ・ニー)になるようですが、日本語だと“私はあなたを愛してる”と非常に多くの文字数を消耗するので140文字以内に収めるのも困難かと慮る次第です。
いずれにしても、中国の"爱"には心がありませんが、日本の"愛"には友がおりません。
ステレオタイプの欧米のように、"愛と友"に恵まれないものでしょうか……?
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「です」の変遷
◆江戸時代からあった助動詞「-でござる」「-でござります」は次第に「-でございます」に変化し、さらに明治時代に「-であります」から「-である」に縮まり、そうして現代の「-です」に落ち着きました。
一人称の「吾輩」は「私」のへりくだった言い方。 明治時代から活用され始めた「-である」は「-であります」の略。
つまり「吾輩は猫である」を現代風に書くと「わたくしめは猫であります」というへりくだった言葉使いということになります。
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芥川龍之介『あばばばば』
大正時代の文豪"芥川龍之介"著『あばばばば』という短編があります。この小説を読んで、情緒を感じて芥川龍之介を見直した思い出があります。
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ある日のこと、学生の保吉は行きつけの煙草屋に足を運びました。ところがいつもの店主の親父の姿はなく、代わりに若い女が店番をしていました。 不慣れなのか彼女は恥ずかし気な初々しい接客で、注文とは違う煙草を取り出して赤面してしまうほどでした。 その後いつ行っても彼女が店番でしたが、応対はつかえ、品物は間違え、時々赤い顔をされました。しかし、保吉はだんだん彼女に好意を感じたようです。といっても恋愛感情ではなく、いかにも人なれないところに気軽いなつかしみを感じたとのこと。 ところがある日から突然、彼女が姿をくらまします。わざわざ不愛想な店主の親父に行方を尋ねるわけにもいかず、その後は何事もなく過ごしました。 それからさらに歳月の流れた後、大学の授業(英語講演会)のあと煙草屋の前を通ると、両手に赤子を抱えた若い母親がいました。 「あばばばばばば、ばあ!」 現代でいうところの「いない、いない、ばあ!」の意です。 女は店の前を歩き、面白そうに赤子をあやしています。そうして保吉と目が合いました。保吉は赤面する彼女を想像しましたが、しかし彼女は澄ましたままでした。のみならず、揺り上げた赤子に目を移すと、人前も恥じずに繰り返し「あばばばば」とあやしたのです。 「女はもう『あの女』ではない。度胸の好い母の一人である。一たび子の為になつたが最後、恐ろしい『母』の一人である」
そういえば、子供の頃に常連だった個人サイトのチャットでよく「あばばばばば!」と書くお調子者がいましたが、元ネタが芥川龍之介だと気付くのに十数年ほどかかりました。
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作家を大きく分けると、毎回異なる性質の登場人物が多種多様な物語を繰り広げるシェイク・スピアタイプと、毎回同じような登場人物が同じような問題に直面して一つの題材を深く掘り下げて行くドストエフスキータイプに大別できるようです。
ドストエフスキー著 『カラマーゾフの兄弟』
『カラマーゾフの兄弟』◆あらすじ ある日の朝、修道院の見習い僧侶"アリョーシャ"(アレクセイのあだ名)のもとに、14歳の"リーズ"(リーザ)という車椅子の少女が訪れました。リーズはここ最近に病を患い車椅子に乗っていますが、修道院の長老から治療を受けて順調に快復に向かっていました。 アリョーシャは子守りとして、二年前にリーズと接したので久しぶりの再会でもありました。 再会 リーズは事実、ずっと悪戯に夢中だった。彼女はアリョーシャと顔を合わせた時から、彼が自分を見るとひどくどぎまぎし、なるべく目を合わせないようにしているのに気付いた。彼女はそれが面白くて、相手の視線をとらえようとじっと身構えていた。 するとアリョーシャは、自分にそそがれる視線に堪えきれなくなり、自分からふいにリーズにちらりと目をやると、彼女は勝ち誇ったような笑みを浮かべ、彼の方をまっすぐ視線を向けてくるのだった。 アリョーシャは、またどぎまぎして、ついにリーズからすっかり顔をそむけて修道院の長老のうしろに隠れた。しばらくして自分を見ているのか確かめると、彼女は車椅子から身を乗り出すようにして、こちらを振り返るのを一心に待ち受けているのがわかった。そうしてアリョーシャの視線をとらえるとまた大声で笑った。 それを見た長老がリーズを注意すると、彼女は顔を赤らめ、きらりと目を輝かせ、真面目な顔つきになった。そして今度は熱っぽい訴えをこめて、早口で話し始めた。 「どうしてアリョーシャはぜんぶ忘れちゃったの? 前は小さなあたしを抱っこしてくれたり、一緒に遊んでくれたりしたのに。だって、あたしに読み書きを教えてくれたのはアリョーシャよ。二年前にさようならをした時に、アリョーシャは『ぼくたちは永遠の友だちだよ。永遠の友だちだからね。ぜったいに忘れないから』って言ってくれたわ。なのにあの人、今になって急にあたしのこと怖がり出して。あたしがあなたのこと、取って食べちゃうとでも思ってるのかしら? どうしてそばに寄ってくれないの、どうしてお話してくれないの? どうしてうちに来たがらないのかしら」 リーズはこらえきれなくなって顔を手で覆うと、急にはげしく笑い出した。長老が話を聞き終えると優しさをこめて十字を切った。 すると今度は彼女がいきなり泣き崩れたのだった。 リーズの手紙 その日の夜に、アリョーシャが道中でリーズの母の使者から手渡された封筒を開くと、そこには「リーズ」と署名のある手紙が入っていた。 「アレクセイさま。誰にも内緒でこの手紙を書いています。ママにも、わたしの心に生まれたこの気持ちを告げずに、わたしもわかっているつもりです。でも、わたしの心に生まれたこの気持ちを告げずに、わたしはもう生きられないんです。このことはわたしたち二人以外は、その時期が来るまで誰にも知られてはいけません。でもわたしの気持ち、どうやってあなたにお伝えしたらいいでしょう? 便箋は赤くならないって言いますよね。でも本当を言うと、それって嘘なんです。便箋だって、わたしと本当に同じように赤くなるんです。 大好きなアリョーシャ、あなたを愛しています。小さい時から、ずっと好きでした。あなたが今とはまるで違っていたモスクワ時代から、ずっと好きでした。わたし、あなたを心の友って決めたんです。あなたと一緒になって、年を取って、一生を伴に終えると。もちろん、修道院から出ていただくことが条件ですわ。年��のことを言うと、わたしたち、法律で許される時まで待ちましょう。それまでにわたしも必ずよくなって、ちゃんと歩けるようになるし、ダンスもできるようになります。そんなこと当然ですよね。これでわたしがずっと何を考えていたかおわかりになったでしょう。ただ一つだけ、わからないことがあります。この手紙を読んだら、あなたはわたしのことをどう思うのかしら。わたしはいつも笑ったり、ふざけ��ばかりいるんですもの。今朝もあなたを怒らせたでしょう。でも本当を言うと、こうしてペンを執る前に、わたし聖母さまの像にお祈りしたんです。そして今もお祈りをしながら、ほとんど泣き出しそうなんです。 わたしの秘密はもうあなたの手に握られてしまいました。明日おいでになった時、どんなふうにあなたにお目にかかったらよいか、わたしにはわかりません。アレクセイさま、わたしまた馬鹿みたいに自分が抑えられなくなって、今朝みたいにあなたを見つめるうちに、吹き出したりしたらどうしよう。だってあなたはわたしのことを、いやらしい冷やかし屋って思うでしょうし、この手紙だってまともには受け取ってくださらないでしょうから。ですからお願いがあるんです。もしこのわたしをかわいそうって思ってくださるなら、明日わたしの家にいらっしゃった時、どうかわたしの目をあまり見つめないでください。だってわたし、あなたと目が合ったらぜったいに笑い出してしまうし、おまけにあなたはあんなに長い服を着ているし……今でもそのことを考えると、体が冷たくなってしまうくらいなの。ですから家に入ってくる時は、わたしのことはしばらく見ないでくださいね。ママか窓の方を見てくださいね。 わたしとうとうラブレターを書いてしまいました。ああ、なんてことをしてしまったのかしら! アリョーシャ、どうか軽蔑しないでくださいね。何かひどく馬鹿なことをしてあなたを怒らせても、どうか許してくださいね。こうしてわたしの秘密はあなたに握られてしまったのです。わたしの評判は、もしかしたら永久に地に落ちてしまったのかもしれません。わたし、今日はずっと泣いてしまうでしょう。さようなら、次のおそろしい出会いまで。 P.S. アレクセイ、ぜったいに、ぜったいに、ぜったいに来てくださいね! リーズより」
あとがき
その後、アリョーシャとリーズがどうなったのかは、各自でドストエフスキー著『カラマーゾフの兄弟』を読むか、グーグル検索をしてご確認くださいませ。
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自己実現や己の幸の為もあれば、自己犠牲を冒してまで目的を成す為に時間・労力・生命を捧げる者も居ます。人は生まれた瞬間から死を迎えることが確定しています。どれほどの富や名声を得ても最期を迎えれば遺産相続者が居なければ「財産はすべて銀行の資産」となります。
誰もが"エジソン"並みの発明王である必要はないし、"レオナル・ド・ダヴィンチ"ほどの叡智が必要な訳でもありません。誰か一人が発見して突破口を拓けば後続が可能なのだと思います。
どこかには人々を導く為に生まれた者も居るのでしょう。
■2012年6月9日 - 高知にて撮影
《和》の中に《個》はあるから、どちらか一方を尊重するべきか独断は出来ません。
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■週刊現代2006年6/3号 「小沢一郎の“隠し資産”を暴く」を掲載。小沢氏の政治団体・陸山会が大半が都心一等地にある十件以上の不動産を「所有」しており、調査の結果、それらはすべて登記簿上、小沢氏の名義であると突きとめた。 これに対し小沢氏と民主党は名誉毀損で損害賠償を求める民事訴訟を東京地裁に起こした、しかし、07年8月10日東京地裁は「意見の前提となる事実の重要部分は真実」と断定し、小沢氏側の訴えを棄却した(小沢氏側は控訴したが控訴審でも棄却) 小沢氏側は、07年2月20日に記者会見し「確認書」なるものを掲げ、「私は最初から『陸山会』所有の全ての不動産について、いかなる権利も持っていません」と釈明。この「確認書」とは、小沢一郎氏が代表を務める陸山会(甲)と、個人である小沢一郎氏(乙)の間でかわされたもので、個人としての小沢氏(乙)が「本件不動産につき、何の権利も有さず、これを甲の支持なく処分し、または担保権の設定をすることはできない。売買代金その他購入に要する費用、並びに、管理費光熱費等本件不動産の維持に冠する費用は、甲がこれを負担する。」と明記している。 ■『アエラ』2007年10/15号 フリージャーナリスト・長谷川熙氏による「『政治団体が所有』という実態への疑念 小沢と都心マンション」の記事が報じた事実は下のとおり。 ・小沢一郎民主党代表の政治団体兼資金管理団体である「陸山会」が所有する資産として、赤坂な東京都心の一等地にあるマンション・8物件(*)が、平成18年ぶんの政治資金報告書に記載されている。 ・8物件の各居宅の所有者はいずれも、「岩手県水沢市袋町2番地38号(06年2月20日から奥州市水沢区袋町2番38号)小沢一郎」と登記されていた。 (*)問題の8物件が政治活動に使用されているのか。長谷川氏が小沢氏の秘書と電話で問答したところ、下記が現状だと報じている。なお、平成18年分の政治資金報告書によれば、関係マンションの賃貸料は陸山会の収入とされているという ・「元赤坂タワーズ902号室」と「チュリス赤坂701号室」は、小沢氏と秘書等の打つあわせなどの場として用いられており、後者は陸山会事務所もおかれている。ただし、後者は「小沢一郎東京後援会」に賃貸されている・ ・「ライオンズマンション赤坂志津林305号室」は小沢氏関係の書庫などに使われている。 ・「グラン・アクス麹町602号室」は「ジョン万次郎ホィットフィールド記念国際草の根交流センター」に賃貸されている。 ・「プライム赤坂204号室」は「株式会社エスエー・コンサルティング」賃貸しされている。 ・「クレアール赤坂203号」は英国人秘書の事務所兼居宅 ・「デュオ・スカーラ赤坂802号」は韓国人辞書の事務所兼居宅 ・「ラ・セーナ南青山502号」は中国人秘書の事務所兼居宅。 なお、長谷川氏は外国人秘書の職務、背景は不明だとしている ■「IZA!」2007年1月28日 産経新聞の阿比留瑠比氏が、自身のブログ『国を憂い、われとわが身を甘やかすの記』において「官報」を調べ、総務省に資金管理団体を届けている衆参両議院562人全員(引退議員、落選中議員らも含む)の資産をチェック���た結果、資金管理団体が「建物」を取得している現役国会議員は5人(小沢氏を含む)、「土地」を購入していたのは小沢氏だけだという。 阿比留氏の調査によると、小沢氏の資金管理団体所有の土地は下記のとおる ・平成6年5月/東京都港区 1億1300万円 ・平成6年6月/同 1800万円 ・平成6年11月/東京都千代田区 1億1000万円 ・平成6年12月/同 1376万円 ・平成6年12月/同 1650万円 ・平成7年1月/同 1億7000万円 ・平成11年1月/同 2410万円 ・平成11年11月/岩手県水沢市 4200万円 ・平成13年1月/東京都港区 1561万円 ・平成13年12月/同 3320万円 ・平成15年3月/宮城県仙台市 3000万円 ・平成15年3月/岩手県盛岡市 2650万円 ・平成17年1月/東京都世田谷区 3億4264万円 計9億5531万円、建物代は別途計上 ■「週刊文春」2007年6/28号 「小沢一郎『現金25億円』の錬金術」で、小沢一郎民主党代表が25億3500万円もの巨額資金を溜め込んでいたことを報じられた。特に問題となっているのは、「改革フォーラム21」と「改革国民会議」とい���2つの政治団体。 ≪前者には約7億円、後者には約12億円6000万円という現金がプールされている≫という。 「改革フォーラム21」は新生党の、「改革国民会議」は新進党、後に自由党の政治資金団体。それが両党解党後にも生き残り、自由党解散当日(平成15年9月26日)、自由党から「改革国民会議」に対して総額約13億円もの寄付が行われている。 ≪最大の問題は、自由党から「改革国民会議にわたった約13億円のうち、5億6000万円が政党助成金だったことである≫と報じられた
党首は不動産王_! 小沢一郎衆院議員の豪華マンション一挙世界初公開
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▼ジョン万次郎やれよ。こいつの人生は凄いぞ 土佐の漁民として少年時代を過ごす。ある日、漁に出たときに船が台風に巻き込まれ仲間と4人と漂流してしまう。 ↓ 小さな船は運良く太平洋の孤島へ流れ着くが無人島。そこで雨水を飲み、鳥の卵を食べ、数ヶ月を生き延びた。 ↓ 幸運なことに、アメリカの捕鯨船が無人島へ水の補給に立ち寄ってきた。その時にアメリカ船員に救助される。 ↓ 鎖国中なので捕鯨船は日本へは行かず、ハワイへ向かう。万次郎は船上で捕鯨の仕事を手伝いながら英語を習得していく。 ↓ 働き者の万次郎は船長や船員に気に入られる。ハワイで万次郎以外の3人は船を降りたが、万次郎はそのまま捕鯨船に残る。 ↓ 万次郎を乗せた捕鯨船はアメリカ本土へ帰港。万次郎はアメリカ本土で船長の養子息子として学校へ通い出す。 ↓ 万次郎、勉強しまくって成績優秀になる。しかも大学にも通う。船舶技師や捕鯨技師として一級の人材になる。 ↓ 万次郎、アメリカで捕鯨船員をしながらアメリカ人として暮らす平和な数年間。アメリカでリア充生活を送る。 ↓ アメリカ人の彼女も作って結婚も考えたが、彼女が遠洋漁業に出ている間に病死してしまった。泣き���ぶ万次郎。 ↓ ホームシックになった万次郎は日本帰国を決意。しかし資金がない。そこでゴールドラッシュにかけて金山へ。 ↓ 奇跡的に万次郎の一団が大金鉱を掘り当てる。万次郎、超金持ちになる。運命のチート発動。 ↓ 万次郎は大金をはたいて遠洋漁業船を購入。日本へ向け太平洋横断の大航海に出航する。 ↓ 途中ハワイに寄って別れた日本人3人を拾いにいく。しかし一人は病死、一人は現地で結婚していていた。 ↓ 万次郎はぼっちの日本人1人だけを連れて行く事にする。 ↓ いきなり土佐に行くと外国船は打ち払われるので、まずは琉球へと向かい、そこから日本へ戻ることにした。 ↓ 船は無事に琉球に着くが、1年近く取り調べられ、やっとこさ土佐への帰郷を認められる。 ↓ この時、土佐漁民としての身分を剥奪される。出航禁止命令。以後は農民として陸で暮らす条件つきで帰郷する。 ↓ しかし時代は幕末、江戸にペリーが来航し黒船騒動。英語が出来ない幕府は交渉が出来ずに困り果てる。 ↓ アメリカ帰りの万次郎のうわさが幕府に流れる。農民で英語万能な万次郎は通訳として江戸城へ呼ばれる。 ↓ 江戸城には武士しか上がれないので、万次郎は異例の身分昇格。なんと旗本にジョブチェンジ。万次郎は武士になった! ↓ 武士になった万次郎は通訳として大奮闘。アメリカの知識を求めて来る幕府の重鎮や維新志士は多く、どんどん仲良くなる。 ↓ やがて明治維新が始まる。日本大混乱。鳥羽伏見の戦いで幕軍敗走。江戸城無血開城。明治新政府誕生。日本開国へ。 ↓ ここでも万次郎の英語が大活躍。アメリカの現状、交渉術、船舶知識なども豊富な万次郎はそのまま新政府の役人になる。 ↓ その後も明治維新の一端を担う存在として日本に尽くす。晩年は土佐へ戻り、母や家族と静かに暮らしたとさ。
【失笑!】思わず吹いた秀逸なレス集合『ジョン万次郎の人生』
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1927年に権力者になった蒋介石は宣教師たちを蔑んでいた。
しかし、ある時から自身が洗礼を受け、宣教師たちを擁護するようになる。それは自身の保身のための策略であった。
ドイツの将軍を軍事顧問に迎えて万全の防御態勢を固めた上海戦で敗北すると、「宣伝戦」に切り替える戦略を採用する。孫子の兵法で称揚されているもので、自国の立場を有利にするプロパガンダ作戦である。
蒋介石はそのための組織を1937年11月に整えるため、国民党中央党部と国民政府軍事委員会を改組して中央宣伝部を組織する。
これは、上海戦で敗北し、南京への追撃戦が展開されている時であり、軍事力に代えて、「タイプライターで闘う」戦術への転換である。
宣伝部副部長には米国の大学を卒業し、新聞編集にも長じた董顕光を当てる。留学以前にはわずかな期間ながら、蒋介石の英語教師をしたこともあり、戦後は台湾の駐日大使となる。
また、宣伝部の下に対外宣伝を専らにする国際宣伝処を設け、その処長には大学教授で文学者の曾虚白をあてる。
国際宣伝処の本部は重慶(南京後の国民政府の首都)に置くが、上海と香港に支部を開設、昆明や米英加豪墨印星(シンガポール)の首都か大都市に事務所を設ける。
特に米国ではワシントンのほかにニューヨークとシカゴにも事務所を構えた(北村稔著『「南京事件」の探求』、以下同)。
国際宣伝処は蒋介石に直属して各地の党機関と政府機関を管轄して活動する。本部、支部、事務所がそれぞれに刊行物を出し、通信社も設立する。
宣伝に信憑性をもたせるために処長が採用した方策は、「中国人は顔を出さずに手当てを支払うなどの方法で、『我が抗戦の真相と政策を理解する国際友人に我々の代言人となってもらう』という曲線的手法」である。
この国際友人として働く中心的な人物が、オーストラリア人の元ロイター通信記者で、当時は英国のマンチェスター・ガーディアン紙中国特派員のティンパーリ��(中国名・田伯���)である。
蒋介石の国民党・国民政府の顧問になり、「百人斬り競争」の武勇伝や「怒濤のごとく南京城内に殺到した」などと日本の新聞が報じると、これらを取り込み「日本軍の悪行」に歪めて『WHAT WAR MEANS』(戦争とは何か)をロンドンで上梓する。
中国語版の『日軍暴行紀実』が同時並行して出る手際の良さは宣伝網が有効に機能していたことを示している。
また、ティンパーリーからの話を受けて、金陵大学教授で安全地帯国際委員会委員でもあったスマイス(中国名・史邁士)が南京戦で日本軍が与えたとする被害状況『南京戦禍写実』(通称「スマイス報告」)を著述する。
いずれも1940年のことで、「両書は一躍有名になった」というが、蒋介石政権の威信をかけた宣伝戦であり、当然であろう。
蒋介石の米国世論操縦策
日中戦争時の1939年4月から12月まで重慶の国民党国際宣伝処で働き、のちにピュリッツアー賞も受賞するセオドア・ホワイト(中国名・白修徳)は回想録『歴史の探求』で、蒋介石の米世論操縦について明かしている。
米国への接近は米国で教育を受けた蒋介石夫人の宋美齢が、夫を説き伏せてメソジストに改宗させたことから始まるという。
そして主要な部長(閣僚)、たとえば財務部長(オバーリン大・エール大卒)、外交部長(エール大卒)、教育部長(ピッツバーグ大卒)、情報部長(ミズーリ新聞学校卒)は米国の大学卒で、政府内の米大学出身者を数え上げたらきりがなかったという。
そうした中でも、各国に派遣された大使の面々は、圧倒的に米国の名門大学卒業生で、ワシントンにはコーネル大・コロンビア大卒、ロンドンにはペンシルバニア大卒、そしてパリにはコロンビア大で3つの学位を取得した顧維鈞を任命していた。
顧維鈞は国際聯盟で日本非難の演説を行った人物で、息子もハーバード大に在籍しているのを自慢にしていたという。
また、中国銀行頭取(ハーバード大卒)、司法院長(コロンビア大・カリフォルニア大卒)、国家保健監督官、海外貿易委員会、塩務署など中央機関のトップも多くが米国の大学出身者が占めていた。
ハーバード大学を1938年秋に最高学位で卒業したホワイトは、世界旅行の給費を受け、ロンドンを皮切りに、パリからスーダンやパレスチナ、インド、シンガポールなどを旅して、39年初めの数カ月間を上海で過ごす。
上海を根城に北京にも出かけ、また日本軍のスポークスマンに取り入り、満州も旅行する。
英米人などに牛耳られた上海では工場労働者の少女たちが日に何人もごみの山に捨てられている状況も見てショックを受ける。
いままでに見たこともない不条理が記者になる決意をさせ、4月から重慶の蒋介石政権の宣伝員に繋がる。
自身のハーバード大の学位はボストンよりも中国でずっと意味があり、「中国ハーバード・クラブを結成したが、会員にはジョン・F・ケネディ(大統領)がワシントンでハーバード・クラブを作ってもこうはなるまいと思えるほど、蒋介石政府高官の割合は大きかった」と述懐している。
米国の学歴を持つ中国高官が多かったのは、ホワイトには「好都合な人脈であったが、中国国民にとっては大いなる悲劇であった」と冷静である。
立派な英語を話す政府高官たちではあったが、「自国の民衆とは異質の存在で、民衆に対する理解を―重慶という古都についての理解さえも―欠いている」ので、「中国で何が起きているのか」さえ知らないと手厳しい。
ホワイトは蒋介石に最初は尊敬と称賛の念をもっていたが、「次第に憐れみを感じ始め、最後は軽蔑するようになった」という。
それでも「私はアメリカの世論を操るために雇われたのだ。日本に敵対するアメリカの支援は、政府が生存を賭ける唯一の希望だった。アメリカの言論を動かすことは決定的(に)必要なのだ」と述べる。
当時のホワイトは、軍国主義日本に対する中国政府は正義という認識に立っており、「アメリカの言論界に対して嘘をつくこと、騙すこと、中国と合衆国は共に日本に対抗していくのだということをアメリカに納得させるためなら、どんなことをしてもいい、それは必要なことだと考えられていた」と明言している。
報道の真実性
ホワイトは国際宣伝処で「自身が脚色した」戦時報道の実例を2つ挙げている。
一つは、日本軍に占領されていた浙江省のある所の劇場で、日本軍兵士が観劇中に蔡黄華(ツアイ・フアン・フー)という中国人女性が手榴弾を投げ込んで数人を殺し、無事に逃げおおせたという中国語の記事を目にしたことである。
ホワイトは文字から忠実に「ミス・ゴールデン・フラワー・ツアイ」とし、「ゲリラの首領、中国抵抗戦士団の巴御前」と英語に翻訳し、少しだけ脚色したというのだ。
すると、ニューヨーク・タイムズ特派員のダ―ディン記者を除き、通信員たちは飛びつき、各通信員の本社からは写真を要求してきたという。
そこで情報部の同僚が、腰に二挺拳銃を下げた若い中国人女性の写真を提供すると、彼女は「二挺拳銃のゴールデン・フラワー嬢」となる。
通信員たちはますます情報を欲しがり、情報部は気前よく彼らの要求に応じ、数カ月のうちに「ゴールデン・フラワー」ツアイは、蒋介石夫人に次ぐ抵抗運動のヒロインになったというのである。
リライトマンの手にかかった彼女の偉業は、米国で伝説となり、ホワイトがタイム誌の極東部長になっていた3年後には、タイム誌��取り上げたらどうかとの提案が持ち上がり、作り話の張本人であったことを白状しなければならなくなったというのである。
もう一つは難民と彼らの苦難についての記事で、1937年から38年の漢口陥落までの14か月間に、国民救済委員会は難民キャンプに2500万食配ったというものである。
ところが「どうしてか間違って」、記事では「統計によると中国が抵抗を始めた最初の数年間に日本軍侵略者の手を逃れてきた人々の数は、2500万人にのぼる」となってしまったという。
数字は海外に伝送され、新聞社の資料に残り、雑誌の記事に使われ、日中戦争の学術的数値となって何度も現われ、「すでに歴史の一部となってしまった」と述べる。
実際は「二百万あるいは五百万だったかもしれない」が、「二千五百万という数字がほとんど全ての歴史書にしっかり残っている」ので、「日本軍による混乱を(正しくは)誰一人知ることはないだろうと悟った」と自省している。
誰も否定できない「嘘」の独り歩きは、「南京大虐殺」の構図を想起させる。
中国における米国人宣教師たち
1931年に上海副領事として赴任し、第1次上海事変を体験した米外交官のラルフ・タウンゼントは、その後福建省副領事となるが33年に帰国すると外交官を辞する。
そして、中国の真実が外部世界に伝わっていないとして著述したのが『暗黒大陸 中国の真実』である。
中国に住んでいる外国人で中国の国情を把握しているのは宣教師、民間事業家、そして領事館員や外交官等の政府役人であるが、宣教師は事実が知られると援助が打ち切られる危惧を持ち、事業家は不買運動を恐れ、政府役人は外交辞令的なことしか言えないわけで、一種の「箝口令ともいうべきものが敷かれる」結果だという。
3年の外交官生活でしかなかったが、新聞記者と大学教授をそれぞれ3年づつ経ての外交官であり、他方で書籍を通しての中国しか知らないで赴任したことや好奇心が旺盛であったことなどから、「中国の真実」が全く伝わっていないことを痛感し、その現実を宣教師と事業家と政府役人の在り様に見つけたのだ。
全10章のうち大部は中国人と中国の実情、そして阿片に費やし、日本(人)と中国の関係などもあるが、中でも宣教師と布教については2つの章を割いて実例を挙げて「糾弾」ともいえる記述をしている。
事業家や政府役人は概ね都市部に所在するが、宣教師は啓蒙などの使命から、辺鄙なところに所在し、危険なところなどにも出かけたりして、中国の実体を事業家や政府役人より詳しく知っているからである。
他方で、米国では富める人も貧乏な人も分に応じた寄付をすすんで行うのは、それが有効に使われているという認識に立っているからであるが、中国での布教は不毛の歴史であったし、いま(当時)の布教活動の実態は国民の��待に沿うようなものではないとバッサリ切り捨てる。
カトリックやプロテスタントを問わず、ミッション・スクールには米国から多大の金が投入されているが、聖職者になるのはほんのわずかでしかない。宣教師が中国人の孤児を育てても、成人して泥棒の親玉になって育てた宣教師を狙う話なども書かれている。
宣教師の敷地を貸したら、ついには住みついて、返却を要求しても逆に損害賠償を請求される状況であるという。
こうした事例をいくつも挙げ、他にも理解できないようなこと、理不尽なことが数え切れないほどあるが、ともかくこうした実態は何一つ本国、なかでも支援者たちに全然伝わっていないし、事実は全く逆のことになっているという。
タウンゼントは上海や福建省で見た宣教師を主体に論述しているが、南京の宣教師たちも日本軍を悪者にする嘘を捏造してでも報告するのが中国(蒋介石政権)を助ける道という意識が通底していたと思われる。
だからこそ、南京の宣教師たちは、日本軍兵士が行ったとする掠奪、強姦、放火(これらも中国敗残兵によるものが多いとみられるが)などを大虐殺に仕立てる蒋介石のプロパガンダ作戦に進んで協力したのだ。
宣教師による米国内の宣伝行脚
国民党・政府の意を受けて大活躍するのはティンパーリーである。
日本の罪行を告発する『WHAT WAR MEANS』を著述する前から、国民党外交の主目的である米国への工作を推進する。
南京安全区国際委員会委員で国際赤十字委員会委員長でもあったアメリカ人のジョン・マギー牧師が撮影した金陵大学病院で治療中の民間人負傷者を示す16ミリ・フィルムが宣伝に活躍されることになる。
ティンパーリーは米国人のジョージ・フィッチが持参したこのフィルムを見て、一計を案じる。フィッチはYMCA理事で、教会の関係者として、またロータリー・クラブの会員など交友範囲が絶大なことから、全米の宣伝マンにする発想である。
「ハル(国務長官)からはきっと会見を申し込まれるだろうし、もしかすると、大統領(ルーズヴェルト)とも会うようなことになるかもしれません。彼のワシントン行きは、将来アメリカの中国政策にとって重大な意義をもつようになるでしょう」(北村著)とまで述べている。
実際にマギーのフィルムをもって渡米したフィッチがたどった道を眺めてみよう。
1938年1月19日、日本軍の許可を得て、軍用列車で日本兵とともに南京から上海へ行く。
このとき、虐殺場面を撮ったとされるネガ・フィルム、8リール(ほとんどは大学病院で撮影したもの)をオーバーの裏地に縫い込んでいたため、「少し気を遣った」という。
上海では直ちに複写するためにコダックの営業所に行き、4セットを作成する。
フィッチは約5週間滞留しており、ティンパーリーに会い、米国での面会者などの根回しをしたに違いないが、ティンパーリーのこと��、滞在間に何をしたかについても一切言及していないとされる。
2月25日に上海を立ち、香港を経て広州からハワイに飛ぶ。ホノルルでは「ある中国人グループと食事をし」、次のサンフランシスコでは中国総領事に会い、「中国人の友人」も交えてチャイナタウンで会食する。
さらに「ロサンジェルスなどで持参のフィルムを交えた2、3の講演会を行った」という。
4月18日、ワシントン着。国務長官や大統領には会えなかったが、国民政府の米国大使・王正廷に会い、また旧知のホーンベック国務省次官(彼は反日親中の中心人物)の斡旋で中国に関係の深い米国人の要人たちに面会し、下院の外交委員会、戦時情報局、新聞記者団に件のフィルムを見せている。
その後、ニューヨークに赴き、6月に中西部を経由して7月に再び西海岸に戻り、サンフランシスコで講演する。
このとき、会場にいた唯一の日本人から「脅迫に近い抗議を受けた」とされる。北村氏は、この頃に日本側もフィッチの反日的言動をマークし始めていたとみる。
フィッチはこのあと再びニューヨークに戻るが、やがて体調を崩して入院。11月10日に西海岸のロングビーチから中国への帰途に就く。
「フィッチのアメリカでの活動は文字通りの大旅行であり、多額の資金と周到な計画を必要としていた。これら全てが、国民党国際宣伝処によりアレンジされたことは容易に想像がつく」と北村教授は述べる。
当時の日本側の見方
『スマイス報告』は、昭和15年、興亜院(1938年に設置され、42年に大東亜省に吸収)に勤務していた吉田三郎氏が上海に調査に行き、同所でアメリカ長老教会のミリカン夫人を知り、同夫人から紹介された金陵大学のベイツ教授から説明を受けた時に入手する。北村教授の前掲書中の「『スマイス報告』の徹底的検証」から、当時の日本がどのように見ていたかが分かる。
吉田氏は「こういうものを世界中に配って基金を集めているのです。その中には南京地方に於ける農産物の調査、南京地方の人口調査等、いわゆる科学的調査を標榜しつつ、そのことによって日本が飛んでもないひどいことをやっているような印象を世界中に統計を通して与えている。しかしよく見ると科学的な研究という面を被った排日宣伝文書であります」と報告を見抜く。
その理由として、「南京地方における損害の統計を作る場合に、(中略)火災の場合についていえば、支那軍が逃げる時に放火したために焼けたものまで皆その中に一緒に入れてある。・・・これで見ると皆日本軍がやったことのように見えるのです。斯様に巧妙なる科学戦争というものが世界中に、この機関を通してまかれている事実を見た」というように、的��に指摘している。
また、ベイツ教授は「今度の戦争による被害が支那全体でどの位あるかということを書いたものですが、それを是非読んで貰う必要ある」として「WHAT WAR MEANS」を紹介する。吉田氏は上海の書店で入手する。
殺人競争の章を見て、「材料は日本の新聞から取ってありました。何々少尉武勇伝という記事がそのまま載せてあったのであります。そういうように新聞記者が日本の文献その他日本側に不利な情報を編集してできているのがこの本でありまして、かような排日的な宣伝文書は外国人の間に多く読まれている」として危惧する。
ミリカン夫人にこのことを話すと、「ぎょっとして『あれはあまりよい本ではない。あの書物は熱を以て書かれているのだから、歴史家があれをそのまま談じては困る。あなた方は歴史家であるから、もっと客観的にものをみなければならない。・・・ああいうものが全部であると思われては困る』と言って居りました」と、外国人でも疑問視していたことを指摘している。
「その書物を見ますと、日本の官憲の或る部分はこの書物を出すことを支持していると書いてある。・・・恐らくそれは嘘だろうと思います。この書物による利益は皆赤十字社に寄贈すると書いてある。なかなか上手に出来ています。かような種類の本がどんどん売れているのですから全く困ったことです。日本の左翼の人がそれを訳すことを許可してくれといって盛んにミリカンのところへ来る」と聞いたと述べる。
おわりに
当時の日本人の方が賢明ではなかっただろうか。世間の信用をバックに、戦争に伴う「通常の犯罪」(もちろんないに越したことはない)を「大虐殺」に衣替えさせるのに米国人宣教師たちが大いに関係していたのだ。
すべては全世界に巧妙に張り巡らせていた国際宣伝処の仕業であったことが今や明確になってきたのではないだろうか。
日本軍も犯罪は犯した。しかし、それは中国が主張するような人道に悖る何十万人の市民を虐殺するなどではなかった。
中国は依然として「南京大虐殺」を主張し、拡大流布さえしようとしているが、論点のすり替えや証拠資料としていたものの撤去など、綻びも見えてきた。
日本は決然と否定することが大切ではないだろうか。
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ジョン万次郎上陸之地記念碑
2018年2月18日に糸満市の大度海岸でジョン万次郎上陸之地記念碑の式典が盛大に開かれました。
式典には、糸満市の上原昭市長をはじめ、ジョン万次郎の直系5代目となる子孫の中濱京さんなど全国から万次郎ファン約260人(新聞では220人)が建立を祝いった様です。この式典を沖縄のローカルテレビ製作会社が番組を作成し県内のニュースや新聞で放送されています。
市長は「日帰り観光地だった糸満観光を、整備、活用し滞在型、体験型を作り上げる」と観光事業の本格的な���入を目指すと宣言しています。
実際に糸満市は今年から大型リゾートホテルの開業がいくつか進行しています。
ただ、ジョン万次郎は沖縄の県民との交流や会話は一切していませんし、今回の記念碑は郷里の土佐の方向に向かって立っていると説明していますが、薩摩藩から土佐に向かったのは1852年10月5日のことなので、1851年1月2日とか3日ではありません。また、小型ボートで一人万次郎がアメリカから沖縄にたどり着くことができるはずありません。
沖縄県の報道にあるジョン万次郎の話は微妙に違うので正しくジョン万次郎の物語を簡単に紹介しておきます。
【ジョン万次郎の軌跡】
土佐の中濱で漁師の子として生まれた「万次郎」
1841年1月、15歳になると親元を離れて先輩漁師の筆の拯、重助、五右衛門、寅右衛門4名と初めての漁に出ますが、土佐清水市の足摺岬(あしづり)の沖合で嵐に遭い船は遭難。一週間くらい漂流し無人島鳥島に漂着します。
5人はアホウドリを捕まえるなど自給自足で5ヶ月間を過ごした頃、捕鯨船「ジョン・ハウランド号」が鳥島に近づいてきました。助けを求めるとホイットフィールド船長が船に乗せてくれます。
言葉は全く通じませんが、最初に着いた島はハワイ。
3名はハワイで船を降りますが、万次郎は船長とアメリカに行くことになり、東海岸のマサチューセッツ州フェアヘーブンで船長の養子になります。
1843年までの2年間学校で勉強し、1846年にアメリカを出て、アフリカの南を経由してグアム、琉球に上陸するも全く言葉が通じなく豚と牛をもらって船で返されてしまいます。
万次郎は琉球を「マンビコシン」という島だと思ったと回想している。
しかし、万次郎はこの時、鎖国している日本で四国より琉球はゆるゆるな島だと感じたので、帰国の島は琉球にしようと決めます。
琉球を出てグアムへ向かう途中、船長が病気でマニラで船を降りることになり、船の中で新しい船長を選挙で選ぶことになります。万次郎は1位になるが先輩のエンキーに譲りハワイを経由してアメリカに戻りました。
1849年、サンフランシスコでゴールドラッシュが起こります。
万次郎は日本に帰国するための資金を得るために東海岸から西海岸まで船で8ヶ月かけてサンフランシスコへ行きました。
7ヶ月で約400万円(当時600ドル)を稼ぐと、ハワイに渡り日本人仲間を連れて日本に戻ろうと誘います。
重助は既に亡くなっていて、寅右衛門は結婚していてハワイに残ることになります。筆の拯は伝蔵と改名して五右衛門と3名で日本に帰ることになります。
金山で稼いだ金でアドベンチャー号を買い、更に中国のお茶を買い付けている巨大船「サラボイド号」にアドベンチャー号と共に乗せてもらうことができ、グアムを経由して琉球に到着。
漂流から10年、琉球に上陸した3名でしたが、日本語も忘れていて、琉球の言葉もわからなかったために7ヶ月間取り調べを受け、その後当時支配していた薩摩藩に1ヶ月間滞在。
当時は、取り調べ調書は琉球から薩摩藩に送られ、薩摩藩から江戸城に送られていたので時間がかかっていました。
1852年10月5日に解放された万次郎は土佐に戻ることができました。
帰国後の万次郎は江戸城付きの武士になり中浜万次郎と名乗ります。
1853年ペリー来航
当時、中浜万次郎は江戸城付きの武士になっていたが、スパイ容疑がかかっていてペリーと会うことは禁止されました。
1860年、日米脩好通商条約
品川から咸臨丸がアメリカのサンフランシスコに出向することになります。
艦長「勝海舟」万次郎は通訳として乗船。福沢諭吉も軍艦奉行のお付きで乗船していました。万次郎以外は全員初めてのアメリカ、船の知識も経験も万次郎が一番優れていました。
アメリカの帰りにハワイを経由すると、ハワイでは万次郎が有名人で大人気だったのを見た咸臨丸の乗組員は万次郎のすごさに驚きます。
日本に戻り、明治維新後は現在の東京大学で英語の教師になり1898年72歳で永眠。雑司ヶ谷霊園に眠る。
ということで、ジョン万次郎がアメリカで勉学したのは2年間。
特に造船技術を学びクジラ漁で地球の約7週分を移動しました。
ジョン万次郎がいなければ、勝海舟も福沢諭吉も生前アメリカに渡ることはできなかったかもしれません。
特に、ペリーとの会談で両国の事情を知っているジョン万次郎が同席できていたならば、明治維新は違う形で早まったのではないかとも思います。
明治維新後のジョン万次郎は、本人の希望や能力は生かされることなく英語の教師にされてしまいます。「ABCの歌」を日本に伝えたことは有名ですね。
【学校法人 岩谷学園 沖縄事務所】
IWATANIGAKUEN-OKINAWA campus
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Omoromachi Naha city Okinawa 900-0006 Japan
E-mail : [email protected]
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たびたび★スリランカ
先月末、仏教関係のグループと一緒に、スリランカに行ってきた。機中と空港での2度の日付け変更を含む、1週間弱の短い旅行である。私は99年、11年に続いて、3度目だった。
初めて訪れたのは、最初の本を刊行した直後だった。私にとって、書く仕事は苦行である。何もかも終ったら、旅に出ることだけを夢見て筆を進めていた。
69年に公開されたニューシネマの傑作『真夜中のカーボーイ』の中で、テキサスの田舎から冬のニューヨークに出てきたジョー(ジョン・ヴォイト)は、病に苦しむ半失業者のラッツォ(ダスティン・ホフマン)と貧しい共同生活を送る破目に���何をやってもうまくいかないふたりは、一旗挙げるべく、長距離バスで温暖なフロリダに向かう。車中、ラッツォの病は悪化していくのだが、太陽が燦々とふりそそぐフロリダの砂浜を、ふたりが駆け抜けるシーンが挿入される。両者の願望をあらわしたカットである。
取材がうまくいかないとき、また執筆がはなどらないとき、私はいつもこのシーンを思い浮かべる。陽光が降り注ぐ中、砂浜をひた走る自分を・・・。
初めてひとりで訪れたスリランカは、まさに楽園だった。南部にある海辺の町ヒッカドゥワは、素もぐりするだけで、驚くほどの量と種類の熱帯魚を見ることができた。海に面した宿は、美味い食事付きで1泊3000円ほど。バルコニーで飽きるほど青い海を眺めた。夢にまで見た”フロリダ”である。行ったことはないけれど。
移動はもっぱら、バスか鉄道だった。高速バスや特急はなく、旅をするにはおそろしく時間がかかった。
今回は団体旅行。エアコン付きの貸し切りバスで移動したため楽だったが、現在もほとんどの道路は整備されていなかった。大都会のコロンボを離れると信号はなく、2車線道路が延々と続く。交通に関しては、まだまだこれからといったところである。
とはいえ空港からコロンボまでの約50キロは、高速道路が整備されていて、これには驚いた。中国の援助で建設されたとか。ツアー中に乗車した貸し切りバスも中国製だった。
以前は日本との関係が深かっただけに、この10年、20年でずいぶん変わったなあと思った。
* * *
最初の旅では、海辺に長く滞留した。私はまだ30代半ば。砂浜を目にすると走りたくなり、海を見るとバシャバシャと泳ぎたくなる”ヤングマン”だった。漁師のごとく毎日海に出ていたので、日焼けし過ぎて肌が荒れ、帰国後に皮膚科で診療を受けなければならなかった。とんだ大馬鹿野郎である。
2度目の旅は、大学の先輩ふたりと主に内陸の古都・キャンディに滞在した。ハーブオイルを使ったマッサージ・アーユルヴェーダを体験したいと、美容関係の職に就く先輩(女性)が言うので、森の中のコテージを予約したら、街中からトライシクルで1時間もかかる辺鄙な場所だった。
先輩と私は、さっそくアーユルヴェーダを体験してみたが、大した効果は得られなかった。だが、人里離れた森の生活は、心身に心地よく、生まれ変わったような気がした。
キャンディ観光の白眉は、美しい湖と湖畔に建つ仏歯寺である。��迦の歯がまつられていることからこの名がついたらしい。
ご本尊は、釣り目で背の高い金ぴか���仏像だった。2度目の旅に対面したとき、寺の関係者とおぼしき人物が、仏像の裏側に手招くではないか。日本から贈られた木彫の仏像を近くで見せたかったようだ。それはいいのだが、布施を要求されたのには苦笑した。見せてくれとは頼んでへんで。あんたが勝手に連れてきたんやがな。
今回は熱心に経を読み、祈りを捧げる老若男女のスリランカ人の姿が印象的だった。その表情が、なんとも慎み深く、かつまた美しい。この国に限らず、これまでに何百回と宗教施設に訪れているが、こんな神々しい光景を見るのは初めてだった。ひとびとの信仰心が篤いからだろうか。
キャンディからバスで約1時間余りのダンブラの石窟寺院には、5つの石窟・石仏があった。古いものは紀元前、新しいそれは20世紀に入って建設されたとか。
最古の寝釈迦は、趣きがあってたたずまいに威厳がある。ところが時代が新しくなるにつれて仏像のつくりが雑に見え、ありがたみがない。
考えてみれば、日本の新しい寺院建築や仏像も同じで、莫大な予算をかけてつくっても、昔のものにはとうていかなわない。古ければいいというものではないが、新しければいいというものでもない。やはり時間を経ないと落ち着いた色、質感にはならないのだ。
* * *
私は現在、大阪市内に住んでいる。7年前、家の近くに、キャンディ出身者がシェフを務めるスリランカ料理店がオープンした。気になって入ったら、当地のカレー・ギャミラサが抜群に旨かった。昭和時代の小さなスナックを居抜きのまま使っているのも一興だった。
カレーと言えばインド。ここは合計すれば3ヶ月くらい旅しているが、スリランカのギャミラサは、インド・カレーとはまったく違う。米飯の上に、数種類のカレーと具が乗せてあり、それらを混ぜて食べるのだ。辛味、甘味、酸味が口の中に次々とあらわれ、心とからだを刺激する。
インドやスリランカ、ネパールを旅し、向こうの料理を何百回と食べているが、家の近くで食べたギャミラサがいちばん美味だった。以後、北川景子とたびたびこの店に通っている。
オープン当初、客はそれほど多くはなかったが、SNSや雑誌のカレー特集で頻繁に紹介され、今では昼時ともなれば行列ができる繁盛店になった。いつだったか、カウンターで隣りの席の客に話しかけたら、千葉から来たと言っていた。
今回の旅行では、かなりいいホテルに宿泊した。団体ツアーの強みである。朝・夕食のバイキングは、どこも合格点だった。
私は食べることが生きがいだ。仕事は手を抜いても(嘘です)、食事を適当にやりすごすことはない(本当です)。
今回、ホテルで色んなカレー、具を混ぜて、自分流にギャミラサを��みたが、味がぼんやりとして、大阪の贔屓店にはかなわなかった。ホテルのように万人向けではなく、野性味があるところがいいと改めて思った。
今回のツアーでは、宝石店や食材店、紅茶専門店にも立ち寄った。スリランカは、ルビーやサファイヤなどの宝石の採掘で有名で、英国帝国主義が残した紅茶の産地でもある。
私は家でカレーをよくつくる。立ち寄ったスパイスガーデンで、カレーに必要な食材、香辛料をたんまり買った。気合を入れて物色、購入しているのは私だけだった。
数ヶ月前、高知県の知り合いから、大量の生姜を送っていただいた。近所におすそ分けし、生姜を使った料理をつくってもつくっても、なかなか減らない。ふと、インドなどで飲まれているミルクティー・チャイに、たっぷりの生姜を入れることを思い出した。
ミルクティー用の紅茶の葉、おろし生姜、シナモンスティック、カルダモン、クローブ、少量の水を入れてぐつぐつ煮たあと、濃厚な牛乳を入れる。ピリピリするくらい大量の生姜を入れると、本格的なチャイができる。
毎日嗜んでいたら、大量にあった生姜が、またたくまになくなった。ないと寂しくて仕方がない。チャイ(無し)シンドロームである。
そんなときにスリランカに行った。帰りのトランクは、カレーとチャイの食材、香辛料でパンパンになった。私の目的は達成された。
* * *
団体ツアーには、スリランカ人のガイドが行動を共にしてくれた。流暢な日本語で、国の歴史や文化を教えてくれる。
「スリランカの道路には、エクボがたくさんあるんです」
エクボは、道路のくぼみを指すらしい。比喩が巧みな上級者だった。そのガイドによると、国民は教育・医療費は無料だという。
巨大な岩山シギリア・ロックの階段を登っていたときのこと。あるスリランカ人の一行が、登り専用の階段を降りようとしていた。
「これだからスリランカ人はダメなんですよ。恥ずかしいですね。教育がなってないんですよ!」
ガイドが日本語で私たちに訴えた。するとすかさず、我らがツアーの一員が返した。
「そら、教育費はタダやもん!」
ガイドの厳しい言葉を和ませる、絶妙のツッコミだった。実際に、その場は和んだ。
私たちのグループは、関西のメンバーが中心で、ガイドの説明にメンバーがいちいちツッコミを入れる。そのやりとりが、聞いていて可笑しかった。なるほど、私はこういう文化の中で育ったのかと改めて思った。
団体ツアーの参加者は、集合時間にはきわめて正確で、遅れて行ったこともある私は、肩身が狭かった。ツアーに参加すると、自分が帰属する社会の特質がわかって、それはそれで面白かった。
1、2度目の個人・少人数の旅とは違い、団体ツアーは、スリランカ人民と接する機会は少なかったが、日本社会をじっくりと体験できた。フリー(ライター)は、団体で行動することが稀である。
常夏の国から帰国し、現在は酷寒の関西にいる。覚悟はしていたが、めちゃくちゃ寒い。日常生活に戻り、私は再び、陽光が降り注ぐ中、砂浜をひた走る自分を思い浮かべている。<19・2・12>
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ジョンマンデニムメイキングストーリーNO8
「Johnmung」デニムプロジェクト
志国高知幕末維新博、土佐清水市ジョン万次郎資料館リニューアル記念
大政奉還150周年を迎えた2017年より、高知県では「志国高知 幕末維新博」として土佐が生んだ偉人ゆかりの地など���高知県内25の歴史文化施設などで貴重な歴史資料の展示を行っています。明治維新150年を迎える2018年には「博覧会第二幕」として、様々な施設がリニューアルオープンを予定しており、ジョン万次郎ゆかりの施設では高知市にある「坂本龍馬記念館」、そして土佐清水市の「ジョン万次郎資料館」がリニューアルオープンします。
そのリニューアルに際し、高知県、土佐清水市は郷土が生んだ偉人「ジョン万次郎」が伝えた「アメリカ」に着目、「開国」に大きな影響を与えた存在でありながら、あまり知られていない偉人が遺した功績を紐解きます。「初めてアメリカを伝えた人」として「漂流」「ゴールドラッシュ」「デニム」そして「ミシン」というキーワードをベースに、1870年代に「万次郎」がはじめて日本でジーンズを縫い上げるというフィクションストーリーを史実に基づいて編み上げます。
このデニムプロジェクトにおいて、高知県土佐清水市が依頼した人物はヴィンテージジーンズの案内役として、雑誌、テレビ等に多く出演する「ベルベルジン・藤原裕氏」(高知県出身)そして藤原氏自らがデニム作りを依頼したのは、早くから19世紀のデニムの歴史を研究し、忠実に基づき再現することで世界的に知られるデニムメーカー「ウエアハウス」です。
これまで得た莫大なヴィンテージジーンズの知識、ウエアハウスが持つコンセプト「徹底的なディテールの追及」が融合し、「古いだけではなく現代に穿ける、それでいてクラシックな」デニムを作り上げるプロジェクトです。
「アメリカを伝えた人」ジョン万次郎をオマージュしながら「デニムタイムトラベラー」となった藤原氏が、その史実にもとづいたフィクションストーリーをご案内します。
初めてアメリカを伝えた人
ジョン万次郎こと中浜万次郎は、文政10年(1827年)1月1日に土佐の中浜、今の高知県土佐清水市中浜で貧しい漁師の次男として生まれました。 9歳の時に父親を亡くし、万次郎は幼い頃から稼ぎに出ていました。
天保12年(1841年)、14歳だった万次郎は船頭の筆の丞(伝蔵)等、仲間4人と共に漁に出て遭難。数日間漂流した後、太平洋に浮かぶ無人島「鳥島」に漂着します。万次郎達はそこで過酷な無人島生活をおくりました。漂着から143日後、万次郎は仲間と共にアメリカの捕鯨船ジョン・ホーランド号によって助けられます。この出会いが万次郎の人生を大きく変えることとなりました。
救助されたものの当時の日本は鎖国をしており、外国の船は容易に近づくことはできませんでした。それに、帰国できたとしても命の保証はありません。ジョン・ホーランド号の船長ホイットフィールドは、万次郎を除く4人を安全なハワイに降ろし、万次郎はそのまま船に残ることにしました。万次郎を気に入っていたホイットフィールド船長は、アメリカに渡ることを決心した万次郎を快く受け入れます。そうして万次郎は、アメリカへと渡りました。この時、船名にちなんだジョン・マンという愛称をつけられました。そして万次郎は日本人として初めてアメリカ本土へ足を踏み入れたのです。
アメリカ本土に渡った万次郎はホイットフィールド船長の養子となり、マサチューセッツ州フェアヘーブンで共に暮らしました。学校で、英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学びました。万次郎は首席になるほど熱心に勉学に励んだそうです。卒業後は捕鯨船に乗り、数年の航海を経た後日本に帰国することを決意。帰国資金を得るために万次郎が向かったのは、ゴールドラッシュの起こっていたカリフォルニアでした。金鉱で得た資金で船を購入し、ハワイの漂流仲間のもとへ向かいます。1847年、フロリダ号で日本に帰国することを試みて、八丈島や蝦夷地の近くまで達しながら、帰国することができなかった経験を経ていた伝蔵と五右衛門とともに日本に向けて出航するのでした。
このフロリダ号で、伝蔵はアーサー・コックス船長より様々な生活用品や衣料とともに、青デニム3ヤードを75セントで購入した(宮永孝著『ジョン・マンと呼ばれた男』(集英社1994年)とあります。
嘉永4年(1851年)、薩摩藩領の琉球(現:沖縄県)に万次郎は上陸します。万次郎達は番所で尋問後に薩摩本土に送られ、薩摩藩や長崎奉行所などで長期に渡っての尋問を受けました。 そして嘉永6年(1853年)、帰国から約2年後に土佐へ帰郷します。帰国した際に日本語をほとんど忘れていた万次郎は、蘭学の素養がある絵師・河田小龍が立ち会う土佐藩の尋問を受けます。このとき河田小龍によってまとめられたのが「漂巽紀略全4冊」です。漂流から米国などでの生活を経て帰国するまでをまとめており、絵師ならではの挿絵が多くあります。土佐藩主山内容堂公にも献上され、多くの大名が写本により目にし、2年後河田小龍を尋ねた坂本龍馬や多くの幕末志士たちも目にしたといわれます。
同年の嘉永6年(1853年)、万次郎は幕府に招聘され江戸へ。直参旗本となります。その際、故郷である中浜を姓として授かり、中浜万次郎と名乗るようになりました。この異例の出世の背景には、ペリー来航によりアメリカの情報を必要としていた幕府の事情があったと考えられます。万次郎は翻訳や通訳、造船指揮にと精力的に働き、また藩校の教授にも任命されました。しかし、やがて解任���スパイ疑惑により、ペリーの通訳からも外されてしまいます。しかしながら陰では日米和親条約の締結に向け、尽力していました。
万延元年(1860年)万次郎は、日米修好通商条約の批准書交換のために幕府が派遣した海外使節団の一人として、咸臨丸に乗り込むこととなりました。この軍艦・咸臨丸には、艦長の勝海舟や福沢諭吉ら歴史的に重要な人物らも乗っていました。
この際滞在したサンフランシスコのホテルで、当時アメリカで発売され、大人気であった家庭用ミシンの実演販売を目の当たりにします。そこで万次郎はミシンを購入、初めて日本へ持ち帰ったのです。
その後、捕鯨活動、教授就任、海外渡航などめまぐるしく動き続けます。 明治3年(1870年)、普仏戦争視察団としてヨーロッパへ派遣されます。ニューヨークに滞在したときに、フェアヘーブンに足を運んだ万次郎は約20年ぶりに恩人であるホイットフィールド船長に再会を果たしました。 しかし帰国後、万次郎は病に倒れます。それ以後は静かに暮らすようになりました。
時間的な余裕が出来た万次郎、その頃懐かしいアメリカの地では洋服に「ジーンズ」というものが生まれ、丈夫な作業着として人気が出ていることを知ります。
そして、ハワイからの帰国の際、伝蔵らとともに持ち帰った3ヤードのデニムを使い、一台の貴重なミシンでそのジーンズを作ることを試みたのでした。「ああ、思えばゴールドラッシュでは、人々が「黄金熱」に熱狂していたとき、作業ズボンとしてこんな丈夫なパンツがあれば、大事な3ピースを汚すこともなかったのに・・・」
当時、ホイットフィールドとの思い出が詰まった大切な3ピースで金を採掘した万次郎は、そう回想したに違いありません・・・
そして明治31年(1898年)、71歳で万次郎はその生涯を終えました。
ジョン・マンこと、中浜万次郎が伝えたアメリカが、日本近代化の礎を築いたといっても過言ではありません。
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【栃木】2015年の大河ドラマに「徳川家康」を 知事、日光市長らがNHK会長に要望書を手渡す
26 名前:名無しさん@13周年 [sage] :2013/07/25(木) 23:34:51.71 ID:uZi9fGO70 ▼ジョン万次郎やれよ。こいつの人生は凄いぞ
土佐の漁民として少年時代を過ごす。ある日、漁に出たときに船が台風に巻き込まれ仲間と4人と漂流してしまう。 ↓ 小さな船は運良く太平洋の孤島へ流れ着くが無人島。そこで雨水を飲み、鳥の卵を食べ、数ヶ月を生き延びた。 ↓ 幸運なことに、アメリカの捕鯨船が無人島へ水の補給に立ち寄ってきた。その時にアメリカ船員に救助される。 ↓ 鎖国中なので捕鯨船は日本へは行かず、ハワイへ向かう。万次郎は船上で捕鯨の仕事を手伝いながら英語を習得していく。 ↓ 働き者の万次郎は船長や船員に気に入られる。ハワイで万次郎以外の3人は船を降りたが、万次郎はそのまま捕鯨船に残る。 ↓ 万次郎を乗せた捕鯨船はアメリカ本土へ帰港。万次郎はアメリカ本土で船長の養子息子として学校へ通い出す。 ↓ 万次郎、勉強しまくって成績優秀になる。しかも大学にも通う。船舶技師や捕鯨技師として一級の人材になる。 ↓ 万次郎、アメリカで捕鯨船員をしながらアメリカ人として暮らす平和な数年間。アメリカでリア充生活を送る。 ↓ アメリカ人の彼女も作って結婚も考えたが、彼女が遠洋漁業に出ている間に病死してしまった。泣き叫ぶ万次郎。 ↓ ホームシックになった万次郎は日本帰国を決意。しかし資金がない。そこでゴールドラッシュにかけて金山へ。
32:可愛い奥様:2013/07/26(金) 01:10:59.39 ID:9s6pnWYKP 27 名前:名無しさん@13周年 [sage] :2013/07/25(木) 23:34:57.95 ID:DbWBWNtvP ↓ 奇跡的に万次郎の一団が大金鉱を掘り当てる。万次郎、超金持ちになる。運命のチート発動。 ↓ 万次郎は大金をはたいて遠洋漁業船を購入。日本へ向け太平洋横断の大航海に出航する。 ↓ 途中ハワイに寄って別れた日本人3人を拾いにいく。しかし一人は病死、一人は現地で結婚していていた。 ↓ 万次郎はぼっちの日本人1人だけを連れて行く事にする。 ↓ いきなり土佐に行くと外国船は打ち払われるので、まずは琉球へと向かい、そこから日本へ戻ることにした。 ↓ 船は無事に琉球に着くが、1年近く取り調べられ、やっとこさ土佐への帰郷を認められる。 ↓ この時、土佐漁民としての身分を剥奪される。出航禁止命令。以後は農民として陸で暮らす条件つきで帰郷する。 ↓ しかし時代は幕末、江戸にペリーが来航し黒船騒動。英語が出来ない幕府は交渉が出来ずに困り果てる。 ↓ アメリカ帰りの万次郎のうわさが幕府に流れる。農民で英語万能な万次郎は通訳として江戸城へ呼ばれる。 ↓ 江戸城には武士しか上がれないので、万次郎は異例の身分昇格。なんと旗本にジョブチェンジ。万次郎は武士になった! ↓ 武士になった万次郎は通訳として大奮闘。アメリカの知識を求めて来る幕府の重鎮や維新志士は多く、どんどん仲良くなる。 ↓ やがて明治維新が始まる。日本大混乱。鳥羽伏見の戦いで幕軍敗走。江戸城無血開城。明治新政府誕生。日本開国へ。 ↓ ここでも万次郎の英語が大活躍。アメリカの現状、交渉術、船舶知識なども豊富な万次郎はそのまま新政府の役人になる。 ↓ その後も明治維新の一端を担う存在として日本に尽くす。晩年は土佐へ戻り、母や家族と静かに暮らしたとさ。
” - 【失笑!】思わず吹いた秀逸なレス集合『ジョン万次郎の人生』:哲学ニュースnwk (via tatsukii)
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Portland Report 18. 愛知ふるさと大使としては知っておくべき歴史を辿りに、 連れてきてもらいました! ジョン万次郎より先にアメリカに上陸してた日本人はなんと愛知県美浜町から来ていた! #ポートランド #バンクーバー #ワシントン州 #良い歳こいて #知らないことばかり #日々勉強 #日々成長 #良い天気 #これからヨット #原地化しています #気にせんといて #ママ応援プロジェクト #日本のママはカッコいい! (Fort Vancouver National Historic Site) https://www.instagram.com/p/B1KV64FlC7n/?igshid=u3urc40zb5o3
#ポートランド#バンクーバー#ワシントン州#良い歳こいて#知らないことばかり#日々勉強#日々成長#良い天気#これからヨット#原地化しています#気にせんといて#ママ応援プロジェクト#日本のママはカッコいい
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▼ジョン万次郎やれよ。こいつの人生は凄いぞ 土佐の漁民として少年時代を過ごす。ある日、漁に出たときに船が台風に巻き込まれ仲間と4人と漂流してしまう。 ↓ 小さな船は運良く太平洋の孤島へ流れ着くが無人島。そこで雨水を飲み、鳥の卵を食べ、数ヶ月を生き延びた。 ↓ 幸運なことに、アメリカの捕鯨船が無人島へ水の補給に立ち寄ってきた。その時にアメリカ船員に救助される。 ↓ 鎖国中なので捕鯨船は日本へは行かず、ハワイへ向かう。万次郎は船上で捕鯨の仕事を手伝いながら英語を習得していく。 ↓ 働き者の万次郎は船長や船員に気に入られる。ハワイで万次郎以外の3人は船を降りたが、万次郎はそのまま捕鯨船に残る。 ↓ 万次郎を乗せた捕鯨船はアメリカ本土へ帰港。万次郎はアメリカ本土で船長の養子息子として学校へ通い出す。 ↓ 万次郎、勉強しまくって成績優秀になる。しかも大学にも通う。船舶技師や捕鯨技師として一級の人材になる。 ↓ 万次郎、アメリカで捕鯨船員をしながらアメリカ人として暮らす平和な数年間。アメリカでリア充生活を送る。 ↓ アメリカ人の彼女も作って結婚も考えたが、彼女が遠洋漁業に出ている間に病死してしまった。泣き叫ぶ万次郎。 ↓ ホームシックになった万次郎は日本帰国を決意。しかし資金がない。そこでゴールドラッシュにかけて金山へ。 ↓ 奇跡的に万次郎の一団が大金鉱を掘り当てる。万次郎、超金持ちになる。運命のチート発動。 ↓ 万次郎は大金をはたいて遠洋漁業船を購入。日本へ向け太平洋横断の大航海に出航する。 ↓ 途中ハワイに寄って別れた日本人3人を拾いにいく。しかし一人は病死、一人は現地で結婚していていた。 ↓ 万次郎はぼっちの日本人1人だけを連れて行く事にする。 ↓ いきなり土佐に行くと外国船は打ち払われるので、まずは琉球へと向かい、そこから日本へ戻ることにした。 ↓ 船は無事に琉球に着くが、1年近く取り調べられ、やっとこさ土佐への帰郷を認められる。 ↓ この時、土佐漁民としての身分を剥奪される。出航禁止命令。以後は農民として陸で暮らす条件つきで帰郷する。 ↓ しかし時代は幕末、江戸にペリーが来航し黒船騒動。英���が出来ない幕府は交渉が出来ずに困り果てる。 ↓ アメリカ帰りの万次郎のうわさが幕府に流れる。農民で英語万能な万次郎は通訳として江戸城へ呼ばれる。 ↓ 江戸城には武士しか上がれないので、万次郎は異例の身分昇格。なんと旗本にジョブチェンジ。万次郎は武士になった! ↓ 武士になった万次郎は通訳として大奮闘。アメリカの知識を求めて来る幕府の重鎮や維新志士は多く、どんどん仲良くなる。 ↓ やがて明治維新が始まる。日本大混乱。鳥羽伏見の戦いで幕軍敗走。江戸城無血開城。明治新政府誕生。日本開国へ。 ↓ ここでも万次郎の英語が大活躍。アメリカの現状、交渉術、船舶知識なども豊富な万次郎はそのまま新政府の役人になる。 ↓ その後も明治維新の一端を担う存在として日本に尽くす。晩年は土佐へ戻り、母や家族と静かに暮らしたとさ。 ジョン万次郎 - コピペ運動会
http://copipe.cureblack.com/c/41604
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東京藝術大学大学院映像研究科映画専攻第11期生修了制作展
みんなで映画のつくり方を学ぶために友だちに書き送る手紙 vol. 2
わたしたちは遊ぶ 映画で遊ぶ この遊びとはなんだろう いくつか���義がある ここに二つ、三つその例を示そう 他人の鏡のなかに 自分の姿を映してみること 世界と自分自身とを 素早くそしてゆっくりと 忘れそして知ること 思考しそして語ること 奇妙な遊びだ これが人生なのだ
───「みんなで映画のつくり方を学ぶために友だちに書き送る手紙」より ジャン=リュック・ゴダール
本上映会は東京藝術大学大学院映像研究科映画専攻第11期生の修了制作展です。最初の上映から一年、四通の新しい手紙を書き送ります。
◆2017年1月28日(土) 29日(日) 横浜会場:東京藝術大学横浜校地馬車道校舎
◉2017年3月4日(土)〜10日(金) 渋谷会場:渋谷ユーロスペース
Twitter:@GeidaiFilm_11 Facebook:https://www.facebook.com/mintomo11/
◆横浜会場 【会期】2017年1月28日(土) 29日(日) 【会場】東京藝術大学横浜校地 馬車道校舎 3階大視聴覚室(103席) 横浜市中区本町4-44(みなとみらい線「馬車道」駅5、7番出口すぐ) 【料金】入場無料・予約不要 【主催】東京藝術大学大学院映像研究科 横浜市文化観光局 【スケジュール】 1月28日(土)12:30開場 13:00 『ミュジックのこどもたち』 14:30 『みつこと宇宙こぶ』 15:30 『わたしたちの家』 17:10 『情操家族』
1月29日(日)12:30開場 13:00 『情操家族』 14:40 『わたしたちの家』 16:20 『みつこと宇宙こぶ』 17:20 『ミュジックのこどもたち』
◉渋谷会場 【会期】2017年3月4日(土)~10日(金) 【会場】渋谷ユーロスペース 渋谷区円山町1-5 KINOHAUS 3F 【会場ウェブサイト】http://www.eurospace.co.jp/ 【お問合わせ】03-3461-0211 【料金】前売券:700円 当日券:900円(均一) フリーパス券:1500円(会期中何度でも入場可能) 【主催】東京藝術大学大学院映像研究科 【スケジュール】 3月4日(土) 『情操家族』 3月5日(日) 『わたしたちの家』 3月6日(月) 『みつこと宇宙こぶ』 3月7日(火) 『情操家族』 3月8日(水) 『ミュジックのこどもたち』 3月9日(木) 『わたしたちの家』 3月10日(金) 『みつこと宇宙こぶ』『ミュジックのこどもたち』 ※連日21:00から上映 ※会期中舞台挨拶・トークあり
単純明快な作品などひとつもない。みんなそれぞれに、何か大きなものに挑み、気持ちのいいくらいの試行錯誤を繰り広げ、複雑で重層的な語り口の中から、必死で信じるに足るものを探し出そうとしている。そしてその中から、おそらく偶然なのだろうが、全ての作品に共通の物語的主題がはっきりと浮かび上がってきていることに驚いた。そのひとつは、いまや従来の家族はまったく機能していないという点。もうひとつは、男はほとんど役に立たないか傍観者にすぎず、主体は女性の手に握られているという点。……なるほど、そうかもしれない。しかし4人の若い作家たちにとって、そのことは決して悲観すべきことではなく、むしろ希望、世界と映画に立ち向かうための絶好の主題であるように思える。 黒沢清(東京藝術大学大学院映像研究科教授)
ふと、昔見たある映画の中のセリフを思い出す。「世界を救うのはこどもや兵士や狂人なんだ」と。こどもとは、疲弊して色彩を失った世界を真新しい視線で再び息づかせるものであり、狂者とは、自分が何者であるか知らぬままに、世界の秩序や意味をかき乱し再生させるものであり、兵士とは、我を忘れて戦いに身を投ずるものであるとするなら、この4本の映画の中では、確かにそのようなものたちが、自ら傷つきながらも生き生きと行動し、世界に新たな光を与えているように見える。奇抜なアイディアや、派手な出来事によって映画を飾り立てることもないが、4本の映画はこどもと兵士と狂者とともに、それぞれの回路で世界に亀裂を生じさせ、映画と世界の新たな接続を試みるのである。 諏訪敦彦(東京藝術大学大学院映像研究科教授)
『ミュジックのこどもたち』
『ミュジックのこどもたち』 2017年/75分/ヨーロピアンビスタ/5.1ch/カラー/DCP 監督・脚本・編集:佐々木健太 脚本:木村暉|プロデューサー:池本凌太郎 渡邊健悟|撮影:龍浩錕|照明:上野陸生|美術:美崎玲奈|衣装:栗田珠似|衣装協力:山崎忍|サウンドデザイン:川神正照|サウンドデザイン助手:仲間章雄|記録:李奥洋|助監督:野頭雄一郎|俳優担当:小林のんき|製作担当:森田雄司|音楽:高橋宏治 出演:伊東茄那 中崎敏 新津ちせ 鎌滝秋浩 長内映里香 生津徹 菊池芙美 小林永実
【あらすじ】 女子高生のマーフは、幼い時に母を亡くし、実父と義母、そのこどもである6歳のまあやと暮らしている。しかし酒に溺れる父には乱暴に扱われ学校でも孤独な生活を送っていた。夢見がちな幼いまあやとだけはいつも一緒にいる。ある日、森に迷いこんだマーフたちは、狩猟を生業とし、森の入り口に建つ古びた一軒家に住むマサとその叔父の次郎に出会う。マサと過ごす日々に、亡くなった母親の記憶やなつかしいうたを思い出すマーフ。音楽とうたのあふれるふしぎな森から、こどもたちの新たな旅がはじまる。
【監督プロフィール】 1985年北海道生まれ。立教大学映像身体学科卒業。大学在学中に『クーラン・オプティック』が仙台短篇映画祭に入選。『帰って来た珈琲隊長』は、ぴあフィルムフェスティバル2015にて上映された。藝大で16mm短編作品『どうでもいいけど』(脚本:木村暉)、他に杉野希妃主演のファンタジー短編『Alice』。
毅然と憎しみの感情を爆発させる主人公のたたずまいが美しい。憎しみが美しいというのが粋である。映画のヒロインとはこうでなければならない。家の内から外へ、あるいはその逆へ、彼女は自分の居場所を見つけようと絶え間なく移動する。まるで映画そのものが居場所を見つけ出そうとしているかのように。それにしても、ここはいったいどこだろうか。街のような森のような、この世のようなあの世のような…全ての境界線が曖昧になった一種の寓話的世界で、コミュニティの崩壊と再生が思いのほか壮大に描かれる。それと、森の中で突然行われる情事がまことにエロチックだった。 黒沢清
映画は、たとえどんなに荒唐無稽な世界であっても、それを「信じる」ように仕向けられる。その世界に綻びがないよう細心の注意が払われる。しかし、ここでは映像と映像が相互に補いながら一つの出来事をスムーズに了解させるよりむしろ、断絶し、エッジを際立たせ、世界は軋みはじめる。震えのようなその綻びには、何かのっぴきならないアンビバレンツな力学が働いており、そこに「映画」と向き合う作者の精神が現れていると思う。山間の古い家屋で世界と隔絶し、銃によって「命を頂いて」暮らし、やがて気球で好きなところへ自由に飛んで行こうとするマサたちの暮らし=孤立したユートピアが箱庭のように描かれるのであるが、地上にもはやユートピアが不可能であるとすれば、本当に空を飛んでいかなくてはならないのかもしれない。しかし、私たちは目に見えるものよりも、この軋み(音楽)こそを信じるべきなのだ。冒頭のマーフの微かな歌声が、やがて、堂々とした死者とのコーラスとして響くとき、音楽はその綻びから物語を超えて世界へ染み出すような感動的な響きを湛えている。 諏訪敦彦
『みつこと宇宙こぶ』
『みつこと宇宙こぶ』 2017年/40分/アメリカンビスタ/5.1ch/カラー/DCP 監督・脚本:竹内里紗 脚本協力:峰尾賢人|プロデューサー:池本凌太郎 関口海音|撮影:松島翔平|照明:諸橋和希|美術:侯捷 王慧茹|衣装:栗田珠似|録音:清水裕紀子|サウンドデザイン:伊豆田廉明|編集:小林淳之介|助監督:川上知来 大杉拓真 山本英|製作担当:崔得龍|ヘアメイク:熊谷七海|特殊メイク:征矢杏子|音楽:金光佑実 出演:小松未来 金田悠希 島野颯太 宮野叶愛 百合原舞 伊原聖羅 篠崎颯夏 根矢涼香 坂井昌三 永山由里恵
【あらすじ】 9月20日。晴れ。目に見えない部分だから気になるのかな。最近「こぶ」の中身についてよく想像をふくらませてる。学校に行く道でも、お風呂に入っていても、夜に眠れない��きも、ずうっと考えちゃう。だって「こぶ」の中身がわかれば、他のことについてもわかるような気がするんだ。
【監督プロフィール】 1991年生まれ。神奈川県出身。立教大学映像身体学科・映画美学校フィクションコース卒。大学の卒業制作として監督した『みちていく』が第15回TAMA NEW WAVEにてグランプリとベスト女優賞をW受賞し、翌年劇場公開。現在、DVDがレンタル・発売中となっている。DVDには藝大にて1年次に制作した16mm実習の短編『感光以前』も特典として収録されている。
主人公は13才の女子中学生だ。だから彼女の人間関係は学校を中心として形成されている。にもかかわらず、授業も教師も出てこない。彼女も作者もそういうものにまったく関心がないのだ。それより彼女は、驚くべき執着で何でも破壊してまわる。おそらく表面を砕いてその中身を確かめたいのだろう。それが大人になるための通過儀礼なのか、それとも子供の領域だけに許された遊戯なのかはわからない。しかし、一途に突き進む彼女の身のこなしは、有無を言わせぬ感動を呼ぶ。ふとジャン・ヴィゴの名前が浮かんだ。映画はきっと、このような者を肯定するために発明されたのだろう。 黒沢清
映画の中のこどもは、多くの場合その可愛らしさを利用されたり、大人が見たいと思う子供らしさを演じさせられたりする。しかし光子がしりとりをしながら商店街を駆け抜けるスピード、横断歩道でフラミンゴのように片足をブラブラさせる立ち姿、セリフの間合いやちょっとした仕草が、彼女を映画世界の中にユニークに息づかせる。撮影、美術、音響も演出を的確に実現しているが、監督が俳優のユニークさを捉え、その身体を生かしながら、一方的な操作に陥らぬよう、共働者として光子を演じる俳優に映画作りに参画させているように思える。そのことで、私たちはまだ子供っぽい光子の妄想を生きることが可能になる。こぶを恋心のシンボルのように扱ってしまえば陳腐なイメージになってしまうが、こぶは光子の言うように宇宙そのものであって、その妄想を生きる狂気が、世界を息づかせるのだ。こぶが消えると、光子は大人になって、この現実世界に回帰する。彼女の身体表現や発話を変化させて成長というものが確かに視覚化されていることが素晴らしいが、光子がさらに別の宇宙を生きる結末を見てみたい気もする。 諏訪敦彦
『わたしたちの家』
『わたしたちの家』 2017年/80分/アメリカンビスタ/5.1ch/カラー/DCP 監督:清原惟 脚本:清原惟 加藤法子|プロデューサー:池本凌太郎 佐野大|撮影:千田瞭��|照明:諸橋和希|美術:加藤瑶子|衣装:青木悠里|サウンドデザイン:伊藤泰信|編集:Kambaraliev Janybek|助監督:廣田耕平 山本英 川上知来|音楽:杉本佳一 出演:河西和香 安野由記子 大沢まりを 藤原芽生 菊沢将憲 古屋利雄 吉田明花音 北村海歩 平川玲奈 大石貴也 小田篤 律子 伏見陵 タカラマハヤ
【あらすじ】 ある一軒の家には二つの時間が流れていた。 14歳のセリは母親の桐子と二人暮らし。セリは桐子が新しい恋人をつくったことに反発している。ある日、セリはお父さんの倉庫からクリスマスツリーを出してきて……。 自分がどこからやってきたのかわからない、突然記憶を失くしてしまった女、サナ。目覚めた船の中で、サナは透子という女に出会う。あてのないサナは透子の家で暮らし始める。
【監督プロフィール】 1992年生まれ。東京都出身。武蔵野美術大学映像学科卒。同大学在学中に監督した『暁の石』がPFFアワード2014に入選。同卒業制作の『ひとつのバガテル』がPFFアワード2015に2年連続で入選、第16回TAMA NEW WAVEにノミネートされる。他に藝大で制作した『しじゅうご円』『音日記』がある。
暗い古風な家の中で二つの物語が交錯していくわけだが、よくこんなアイデアを思いついたものだ。しかも、その突飛な設定がまったく上滑りせず、あらゆる画面にサスペンスとして機能している。これを実現するには、相当な才能と計算が必要だろう。また、海の向こうがザワザワしていて、妙に気になった。ここは多分どこかの島なのだろうと思うが、ひょっとすると黄泉の国? もしかして、どちらかが幽霊なのか!? そう言えば、冒頭は少女たちが白衣をまとって暗闇の中で揺れているシーンだった。あれが恐ろしい物語が始まる予兆だったのか!! 興味は尽きない。 黒沢清
目覚めると記憶を失っていた女は自分が誰であるのか分からないまま、偶然に出会った女と共同生活を始める。亡くした父の面影と、新しい母親の恋人との間で揺れる少女の日常。全く関係のない二つの物語が、いわゆる平行世界として同じ一つの家屋で進行してゆく。二つの別の脚本を、一つの家屋を舞台に撮影するという実験は、ともすれば作り手の作為が透けて見えるようなものになりかねないが、この作品が魅力的なのは、平行世界を俯瞰して操作するような作者の視点を消し去り、ただポリフォニックに響き合う二つの世界の音楽に耳を傾けるように寄り添い構成されていることにあるように思える。1+1が2になるのではなく、互いに依存することも葛藤することもなく、ただ1と1としてあることで世界を開いてゆく。その「開かれ」に風が吹き込むように、それぞれが奏でる淡い物語はやがて溶け合って、世界をみずみずしく息づかせるのである。 諏訪敦彦
『情操家族』
『情操家族』 2017年/80分/アメリカンビスタ/5.1ch/カラー/DCP 監督:竹林宏之 脚本:今橋貴|プロデューサー:池本凌太郎 井前裕士郎|撮影:城田柾|照明:上野陸生|美術:侯捷|衣装:栗田珠似|録音:伊豆田廉明|サウンドデザイン:清水裕紀子|編集:小林淳之介|助監督:西川達郎 大杉拓真|製作主任:林宏妍 鈴木麻衣子|ヘアメイク:橋本申二 中麻衣子|音楽:久徳亮 出演:山田キヌヲ 韓英恵 遠藤史人 松田北斗 川瀬陽太 柳谷一成
【あらすじ】 冬休み、小学校教師・小野今日子は勉学に遅れがある生徒・鉄平の補講授業を行う事になる。今日子は、鉄平の母・美映と不思議な絆で結ばれるのであった。一方、冬休みの合宿に行っていたはずの今日子の息子・三四郎が、なぜか万引きで捕まったという報が入り、ある隠し事をしている事が発覚するのだった……。
【監督プロフィール】 1988年生まれ、福岡県出身。明治学院大学文学部芸術学科に入学後、映画史を学び、映画制作を始める。主な監督作に『ハチとミツ-新しい季節-』(14)『帰れないふたり』(15)『ジョンとヨーコ』(16)がある。
面倒見のいい女教師が、何でもかんでも面倒を背負い込み、実に面倒臭いことになっていく物語。それにしても素晴らしくヘンな映画だった。まず主人公を含めて大人たちがみんなヘン。あまりにもずけずけと物を言う。家の構造もヘンだ。熱演する山田キヌヲが部屋を飛び出してクリスマスツリーか何かを押し倒すバルコニーのような場所のヘンさ。別れた夫がどうやら海辺の堤防と思われる場所で、突然タップダンスを踊るシーンでそのヘンさは極まる。息子もつられてタップを踏むのだが、これまで見たことのない異様な光景だった。テッペイという子供だけが唯一マトモで、物言わぬ彼のたたずまいが不思議と印象に残る。 黒沢清
小学校教師今日子は、彼女を取り巻く世界を律儀に秩序づけようと奔走し、同時にその過剰な行動によって世界を撹乱するトリックスターである。主婦仲間の下らない雑談から立ち去る今日子が、突如直角に方向転換して走り出す後ろ姿のように、彼女には他人や自分に見せようとする私と、彼女を突き動かす衝動の間をとりまとめる中間というものはなく、その変化は不意打ちとして周囲をたじろがせるのだ。しかし、不意打ちを食らうのはむしろ彼女のほうである。彼女の秩序は彼女だけのものであり、世界のほうは常に今日子の期待を裏切るように出現する。奇人、変人による(スクリューボール)コメディというジャンルに敬意を払いつつ周到に造形された脚本が素晴らしいが、一歩間違えばから騒ぎに陥ちるかもしれない狂気の主人公と世界との喜劇的対決を、俳優の演技、身体を信頼し、活写する演出の手腕がしなやかで恐ろしいほどに冴えている。 諏訪敦彦
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THE MEG(2018)
2018年/ワーナー 監督 ジョン・タートルトーブ 出演 ジェイソン・ステイサム リー・ビンビン レイン・ウィルソンほか
【あらすじ】
地球で最も深い海とされるマリアナ海溝以上の深海が発見され、探査チームが最新の潜水艇で調査に乗りだす。チームは世紀の発見に沸き立つが、突如巨大な何かの襲撃を受け、動けなくなってしまう。深海レスキューダイバーのジョナス・テイラー(ジェイソン・ステイサム)が助けに向かうと、200万年前に絶滅したはずの超巨大ザメ、メガロドンが出現する。(Yahoo!映画より)
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【感想】
どーもどーも、この度深海から再び浮上して参りましたラーチャえだまめでございます。ココへ来てのブログ停滞、そして天災災害ホントに日本どうしちゃったんですかね……被災地の一刻も早く事態が回復することを願っております。そんな予測不能な事が日本のみならず世界各地でも起こっております。例えばこの映画に出てくるサイズを誤った感アリストテレスなコイツとかね【MEGザ・モンスター】!!!
深海にはまだまだ我々の知らない未知の海洋生物が生息しているとされておりますが、今回は「また」サメです。サメ映画です。いつか【フラッパー】のサメバージョンが公開されることを願っております最近では空から降ってきたり首が3つあったり毎年新種のサメが誕生しておりますが今日は居酒屋で「メガハイボール頼んだらやたらサイズだけバカデカいやつ来ちゃったよ」的なノリで誕生してしまった、超超ウルトラ級その名も太古の昔ホントにいたとされる伝説のサメ「メガロドン」!!!が実はまだ現代の深海に生息していた!?
いやいやソンゲバソナ
一体何をどうしたらこんな巨大なサメが見つからないというのでしょうかモケーレ・ムベンベよりデケえじゃねえk…体長25mプールすら超えるデカさのとにかく超絶BIGでございます!!こーなりゃサメ専門家のロイ・シャイダーも処刑人トーマス・ジェーンも手に負えねえ!!どーする!?そーだ!!こんな時は最強使い捨て集団「エクスペンダブルズ・コールセンター」に連絡だぁーーー!!!!ぷるるーぷるるー、あ、シモシモ?あのデー、オタクの中で海のど真ん中デネー、巨大ザメと格闘出来るネー、優秀な探偵さんおりません?
あーなら元飛込選手でうってつけの野郎g
という流れがあったかは定かではありませんが陸地でドウェイン・ジョンソン様が巨大生物と大乱闘していた、その一方で海では我らがジェイソン・ステイサム兄が同じく巨大生物と一戦交えていたとは、、、、、
が!!この【MEGザ・モンスター】公開されるなやいなやウルトラ級のヒットを叩き出し只今「サメ映画No1ヒット」を樹立中だそうな!?サメ映画恐るべし!?否兄貴のネームバリューのおかげ!?否チャイニーズのおかげ…!?
「理屈はいらねえ!!とにかくバカデカいサメ映画が撮りたんじゃああああああ!!!!」とイワンコフばかりの、とにかく制作陣が一眼となってアタマん中を空っぽにしてこれぞ金の掛かった「BAKA・ザ・B級モンスター映画」の真髄のような映画なんですねー。過去に深海で決死の人命救助に当たった後第一線から離れた伝説の男、ジェイソン・ステイサム。伝説の男っていうのはですね、この後ヘリに乗った巨大組織から「お声」がかかるのを知っているので大体皆序盤で飲んだくれてます。で、はじめは仕事の依頼を拒否するんですよ。そうアナタが関わると誰かしら死にますから。でも昔の師匠とか友人とか恋人の危機がーとか言われちゃうとですよ、もう助けに行くしかないじゃないですか!?
「仕方ねえな今回だけだぞ。」とか言いながらメッチャやる気じゃないですか兄貴!?(笑)
深海で消息不明になった兄貴の元妻の乗った潜水艇を救助しに単身向かうわけですよ!そしたら巨大な「海洋生物」と遭遇!!ここで渾身の決めゼリフをはいッ!!!
「コンナノキイテナイヨ。」
「メガロド…」き、決まったぁーーーー!!!!しかし兄貴!!!よくそんな一発でコヤツがあの「メガロドン」だとわかりましたね!!アナタサメ専門家じゃあないじゃないですか!!もっというならばこの後メガロドンを退治するメンバーに「誰一人サメ専門家がいない」というですね、いいんですよ!素人でも倒せりゃいいんですよ!!まあどうせ専門家いてもサミュエル・L・ジャクソンみたいにセリフの途中で食われるのがオチですし!?てか元はと言えばお前らが調子乗ったから深海から浮上してきちゃったわけですし!?テメエのケツ毛処理はテメエでしろ理論に則れば至極当然な事ですし!?そんなこんなでサメ退治が始まるわけなんでありますが
「迫力」は凄い!!!「迫力」は……
ちゃっちいCGではなくてワーナーと中華系会社が総力を結集して作り上げたメガロドンの大迫力な映像美!!IMAXの画面目一杯に映し出されるソイツの迫力と言ったら!!もうフカヒレスープ何杯飲めんだよ!!コレは完全に劇場で観た方がエエやつですね。また前半の「海底2万マイル」的なセカイやなかなか姿を表さないでジラジラ作戦したかと思えば「アニゴジ」並の絶望感を味わえたりとイイ所もあるのですがただ、ただですよ?欲を言うと「ちょっと暴れ足りない」かな……世界有数の…って言われても全然知らないんですけどおお…アジアのどっかの海水浴場でワンサカ賑わう人々。私はてっきりクジラがプランクトンを海水ごと丸呑みするみたいな、そんな豪快な「入れ食い」を期待していたのですが、これがなかなかどうして意外にも「人を襲うシーンが少ない」んですよ!!否!!ある時友人が言っていた
「ココまでデカいとさ、人とか全部丸呑みされるからあんまりグロくないよね」
そうか!!私はサメに食いちぎられてカラダが真っ二つになって文字通り「血の海」になる光景をひょっとしたら望んでいたのかもしれない!?否!!これぞB級サメ映画の定番だと履き違えていたんだ!?本作はあまりに巨大ゆえむしろ「ちょっと大人しくなってしまった」控えめなサメ映画、なのかもしれません!!無論そういった血の光景が苦手な方向けの映画かもしれませんが!!
ただこれだけデカいのだから、もういっそのことクルーズ船ごと丸呑みにしちゃうとか、ジャンプしてヘリコピター丸呑みしちゃうとか、陸地でドウェイン・ジョンソンと合流してビルとかドウェイン・ジョンソン丸呑みしちゃうとか、それくらいやることもデッカくても良かったんじゃないか、とも思ってしまいました。別にサメの生態系とかココまでデカきゃ誰も求めてませんしSF的なバケモノ感が欲しかったですねー。
それよりむしろ強調しまくりなのが「チャイニーズ」ですよ。もうコレハリウッド映画っていうより「中国映画」ですよね?海の上にポツーンと浮かぶ中華系科学研究所(…なんの?)はじめ、これほど中国、アジアの絡んだサメ映画はいまだかつてありません。最近やたら大国中国でヒットするような映画を作ろうと躍起になるハリウッド。今年やった【パシリム】は半分中国に買収されたような出来だったし、来年公開のゴジラも中華系レジェンダリーだしな……
そんな中ジャパン代表?世界のマシ・オカさんお久ブリーフにスクリーンで拝見致しました。彼の手書きの手紙がちゃんと日本語で書かれていて…良かった____!!!
リー・ビンビン?40代とは思えない!?いやーすごいキレイな女優さんですね!!「バイオハザード」シリーズのエイダ役や、そういえばネットフリックスで巨大サメならぬ「巨大クモ」と死闘を繰り広げた「なんちゃってララ・クロフト」の方ですか?ちなみにこの方新日ならぬ反日らしいですよ?
おおッ!!ルビー・ローズじゃあないですか!!あの【ジョン・ウィック】の無言の殺し屋も今回はメカニック役で登場です。ちなみにこの方撮影で海でホントに溺れかけたらしいですよ?
その他毎度おなじみ必ず一人はいる「面白い黒人」や多種多様なメンバーが勢揃いの「チーム・メガロドン」。その中に兄貴の元妻もいるのですが凄いんですよ、映画の都合上兄貴はリー・ビンビンと恋仲になる予定なのですがそれをむしろ猛プッシュする元妻!!はあああああなんて平和な三角関係なのでしょうか!?フツー命からがら元妻救助したらそのあと再びゴールイン…っていう通説を見事にぶち破りましたね!!あと今回やたら兄貴の「ニコッ」姿が数多く確認することが出来ました!!子供たちに笑顔で手を振る兄貴!!一体何があったんだ!?さては兄貴次回作でネズミー映画でも狙っているn…
監督は【フェノミナン】でジョン・トラボルタのアタマをメチャクチャにして【ナショナル・トレジャー】でニコラス・ケイジにギンギラギンにさりげなく「ジョーンズ」させたジョン・タートルトーブ。実はこの映画の企画は10年以上も前からあったらしく、これまでヤン・デ・ボンやイーライ・ロスといった名だたる監督が候補に挙がったものの、制作までいかなかったそうな。故にこの映画「サメブーム」が来る前から企画があった映画なんですよ!!恐るべしサメへの執着心!!人は何故これほどまでサメに魅了されてしまうのでしょうか!?でも待ってください!!サメもいいですけどヨークシャーテリアもかわいいんですよ!?ホラ観てください!!ねえねえ……!?
【MEGザ・モンスター】
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26 名前:名無しさん@13周年 [sage] :2013/07/25(木) 23:34:51.71 ID:uZi9fGO70 ▼ジョン万次郎やれよ。こいつの人生は凄いぞ 土佐の漁民として少年時代を過ごす。ある日、漁に出たときに船が台風に巻き込まれ仲間と4人と漂流してしまう。 ↓ 小さな船は運良く太平洋の孤島へ流れ着くが無人島。そこで雨水を飲み、鳥の卵を食べ、数ヶ月を生き延びた。 ↓ 幸運なことに、アメリカの捕鯨船が無人島へ水の補給に立ち寄ってきた。その時にアメリカ船員に救助される。 ↓ 鎖国中なので捕鯨船は日本へは行かず、ハワイへ向かう。万次郎は船上で捕鯨の仕事を手伝いながら英語を習得していく。 ↓ 働き者の万次郎は船長や船員に気に入られる。ハワイで万次郎以外の3人は船を降りたが、万次郎はそのまま捕鯨船に残る。 ↓ 万次郎を乗せた捕鯨船はアメリカ本土へ帰港。万次郎はアメリカ本土で船長の養子息子として学校へ通い出す。 ↓ 万次郎、勉強しまくって成績優秀になる。しかも大学にも通う。船舶技師や捕鯨技師として一級の人材になる。 ↓ 万次郎、アメリカで捕鯨船員をしながらアメリカ人として暮らす平和な数年間。アメリカでリア充生活を送る。 ↓ アメリカ人の彼女も作って結婚も考えたが、彼女が遠洋漁業に出ている間に病死してしまった。泣き叫ぶ万次郎。 ↓ ホームシックになった万次郎は日本帰国を決意。しかし資金がない。そこでゴールドラッシュにかけて金山へ。 27 名前:名無しさん@13周年 [sage] :2013/07/25(木) 23:34:57.95 ID:DbWBWNtvP ↓ 奇跡的に万次郎の一団が大金鉱を掘り当てる。万次郎、超金持ちになる。運命のチート発動。 ↓ 万次郎は大金をはたいて遠洋漁業船を購入。日本へ向け太平洋横断の大航海に出航する。 ↓ 途中ハワイに寄って別れた日本人3人を拾いにいく。しかし一人は病死、一人は現地で結婚していていた。 ↓ 万次郎はぼっちの日本人1人だけを連れて行く事にする。 ↓ いきなり土佐に行くと外国船は打ち払われるので、まずは琉球へと向かい、そこから日本へ戻ることにした。 ↓ 船は無事に琉球に着くが、1年近く取り調べられ、やっとこさ土佐への帰郷を認められる。 ↓ この時、土佐漁民としての身分を剥奪される。出航禁止命令。以後は農民として陸で暮らす条件つきで帰郷する。 ↓ しかし時代は幕末、江戸にペリーが来航し黒船騒動。英語が出来ない幕府は交渉が出来ずに困り果てる。 ↓ アメリカ帰りの万次郎のうわさが幕府に流れる。農民で英語万能な万次郎は通訳として江戸城へ呼ばれる。 ↓ 江戸城には武士しか上がれないので、万次郎は異例の身分昇格。なんと旗本にジョブチェンジ。万次郎は武士になった! ↓ 武士になった万次郎は通訳として大奮闘。アメリカの知識を求めて来る幕府の重鎮や維新志士は多く、どんどん仲良くなる。 ↓ やがて明治維新が始まる。日本大混乱。鳥羽伏見の戦いで幕軍敗走。江戸城無血開城。明治新政府誕生。日本開国へ。 ↓ ここでも万次郎の英語が大活躍。アメリカの現状、交渉術、船舶知識なども豊富な万次郎はそのまま新政府の役人になる。 ↓ その後も明治維新の一端を担う存在として日本に尽くす。晩年は土佐へ戻り、母や家族と静かに暮らしたとさ。
【失笑!】思わず吹いた秀逸なレス集合『ジョン万次郎の人生』:哲学ニュースnwk
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1/1元旦 誕生日/杉原千畝 堂本光一 役所広司 ジョン万次郎 増田明美 香山美子 尾崎紀世彦 庄司智春 大友康平 沢田亜矢子 小林恵美 誕生日 1383年 一休宗純(禅僧) 1827年 ジョン万次郎(通訳・教師) 1863年 クーベルタン(近代五輪の父) 1864年 川上音二郎(俳優・オッペケペー節) 1883年 鳩山一郎(政治家・元首相) 1900年 杉原千畝(外交官) 1907年 人見絹枝(陸上) 1919年 J・D・サリンジャー(作家) 1919年 細川隆一郎(評論家) 1919年 田端義夫(歌手) 1924年 マシアス・ンゲマ(赤道ギニア初代大統領) 1925年 大泉滉(俳優) 1925年 中野孝次(作家) 1926年 早乙女貢(作家) 1932年 長門勇(俳優) 1934年 児玉清(俳優) 1935年 角野栄子(童話作家) 1935年 新宮正春(作家) 1935年 倉本聰(脚本家) 1936年 アブドーラ・ザ・ブッチャー(プロレス) 1937年 水野久実(女優) 1940年 加藤一二三(将棋) 1940年 九里一平(漫画家・タツノコプロ社長) 1940年 淡路剛久(法学) 1944年 香山美子(女優) 1945年 ジャッキー・イクス(レーサー) 1945年 ロベルト・リベリーノ(サッカー) 1945年 角淳一(アナウンサー) 1945年 尾崎紀世彦(歌手) 1946年 槇大輔(ナレーター) 1947年 沢田亜矢子(女優) 1949年 Mr.マリック(超魔術) 1949年 高田渡(歌手) 1951年 高橋源一郎(作家) 1951年 夢枕獏(作家) 1953年 国友やすゆき(漫画家) 1956年 大友康平(ハウンドドッグ・歌手) 1956年 役所広司(俳優) 1957年 野呂一生(カシオペア・ミュージシャン) 1958年 しりあがり寿(漫画家) 1959年 ポップコーン正一・正二(タレント) 1960年 中森明夫(コラムニスト) 1960年 塚本晋也(映画監督) 1964年 ジミー大西(タレント) 1964年 増田明美(マラソン) 1976年 庄司智春(品川庄司・タレント) 1979年 堂本光一(KinkiKids・タレント) 1980年 箕輪はるか(ハリセンボン・タレント) 1981年 林智勝(野球) 1983年 小林恵美(タレント) 1987年 ジュンス(細亞俊秀) (韓国:歌手(東方神起)) 1989年 江成正元 (俳優,えなりかずきの弟) 1992年 秋山大河(ジャニーズJr.・タレント) 誕生花は 福寿草、花言葉は“幸せを招く” 誕生石は ガーネット(garnet)、宝石言葉は“真実の愛” 元旦 新年の幕開けの日。年のはじめを祝う国民の祝日。 1948(昭和23)年7月公布・施行の祝日法によって制定された。 「旦」は「日の出・朝」の意味で、「元旦」とは1月1日の朝を指す。 初詣 年が明けてから、初めて神社仏閣に参拝すること。 氏神様やその年の恵方に当る方角の社寺にお参りをして、その年の無事と平安を祈る。「恵方」とは、その年の福徳を司る神「歳徳神」の所在する方角のことで、何事をするにも最も良いとされる方角のことである。 昔は大晦日の夜に社寺にお参りして一度家に戻り、元日の朝になって再び参詣していたが、今では大晦日の夜から出かけて行って、社寺の境内で元旦を迎えるという形も見られる。 年賀 新年の挨拶を述べる為、親戚や知人、上司、近所の人々等を訪れる。 現在では年賀状でその代りをするようになっている。 初日の出 若水 元日の早朝に井戸から水を汲んで神棚に供えること。またその水��ことも「若水」と言う。 朝早く、まだ人に会わないうちに汲みに行き、もし人に会っても口をきかないしきたりだった。若水は一年の邪気を除くと信じられ、神に供えた後その水で家族の食事を作ったり、口を漱いだりお茶を立てたりした。 若潮,若潮迎え 元日の早朝、潮水を海から汲んで来て神に供える。 四方拝 天皇が、午前5時半(昔は寅の刻)に束帯を着て神嘉殿の南座(昔は清涼殿の東庭)に出御し、皇大神宮・豊受大神宮・天神地祇・天地四方・山陵を拝し、宝祚の無窮・天下太平・万民安寧を祈る儀式。 (旧)新年 1948(昭和23)年までは「新年」という祝日で、四大節(新年・紀元節・天長節・明治節)の一つとされていた。 少年法施行の日 法務省刑事局が実施。 1949(昭和24)年のこの日、前年7月15日に公布された「少年法」が施行された。 神戸港記念日 1868年1月1日(旧暦1867(慶応3)年12月7日)、神戸港が外国船の停泊地として開港した。 神戸港は、横浜港と並ぶ日本の二大国際貿易港で、神戸市発展の原動力となった。 鉄腕アトムの日 1963(昭和38)年のこの日、フジテレビで『鉄腕アトム』のテレビ放映が開始された。 初の国産アニメだった。 解放記念日 [キューバ] キューバのナショナルデー。 1959(昭和34)年のこの日、キューバ革命が達成された。 歴史・出来事 0646年 孝徳天皇により国政大改革の詔勅が宣布された(大化の改新発詔) 1618年 江戸城の大奥が男子禁制に 1869年 三浦半島・観音崎に日本最初の燈明台 (パーソナルカラー用品ドレープ、見本帳,PCCSのご用命はc3(シーキューブ)) https://www.instagram.com/p/B6wChj3A84s/?igshid=1n8mqwm9sfuhp
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