#ジョセフ・コスース
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jinsei-pika-pika · 1 year ago
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Joseph Kosuth - "One and Three chairs"
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コンセプチュアルアートとは、
コンセプチュアルアートとは、1960年代にアメリカで始まり、1970年代にかけて世界的に行われた前衛芸術運動。別名「概念芸術」とも呼ばれ、芸術作品の形式や美的価値よりも、アイデアや思想を重視し発展。1961年にヘンリー��フリント(※1)が初めて「コンセプトアート」という名称を使用した。制作するうえでの技術的なテクニックよりも、作品に込められた発想や観念を重んじるコンセプチュアルアートの代表的な芸術家には、マルセル・デュシャン、ジョセフ・コスース、ヨーゼフ・ボイス、ピエロ・マンゾーニ、マルセル・ブロータースなどがいる。日本には概念芸術や観念芸術と紹介され、高松次郎、松澤宥、柏原えつとむらが「日本概念派」(※2)といわれた。
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kasa51 · 3 years ago
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people on the escalator by kazu saito Via Flickr: 樹々は成育することのない 無数の芽を生み、 根をはり、枝や葉を拡げて 固体と種の保存にはありあまるほどの 養分を吸収する。 樹々は、この溢れんばかりの過剰を 使うことも、享受することもなく自然に還すが、 動物はこの溢れる養分を、自由で 嬉々とした自らの運動に使用する。 このように自然は、その初源から生命の 無限の展開にむけての序曲を奏でている。 物質としての束縛を少しずつ断ちきり やがて自らの姿を自由に変えていくのである。 フリードリヒ・フォン・シラー
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ryotarox · 6 years ago
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映画 聲の形 - Wikipedia
脚本が完成した初期段階で牛尾が制作チームの一員として参加し、監督の山田と作品の根幹に関わる観念的で抽象的なコンセプトの共有が徹底して行われた
具体的なコンセプトワークとしては、画家であればジョルジョ・モランディの描く静物画の影やヴィルヘルム・ハンマースホイの光の描き方などを元に、"影のにじみ"や"レンズのぼけ"といった物理現象を"音"という物理現象に置き換えていくようなコンセプトなどが共有される[58]。また他にインタビューで言及されている、山田と牛尾の間で参照されたものは以下の通り。
現代美術家のゲルハルト・リヒター[59]
写真家のベアーテ・ミュラーやアンドレアス・グルスキー[59]
コンセプチュアル・アーティストのジョセフ・コスース[59]
紀友則の詠んだ百人一首「ひさかたの 光のどけき 春の日に 静心なく 花の散るらむ」[59]
以上のほか(略)具体的な固有名詞でのやり取りが交わされた。
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http://manapedia.jp/text/2159
日の光がこんなにものどかな春の日に、どうして桜の花だけは(落ち着いた心がなく)散っていってしまうのだろうか。
この歌は紀友則が詠んだ歌で、小倉百人一首にも収録されています。ちなみに紀友則は土佐日記で有名な紀貫之のいとこです。 さて、この歌の楽しみかたです。まず「ひさかたの」は「光」にかかる枕詞です。「ひかりのどけき」は「光がのどかである」と訳しています。ここで言う「花」とは「桜の花」のことで、「暖かくなってきた春の日なのに桜の花だけはさっさと散っていってしまうのはなんでだろうか」という、慌ただしく散る桜を惜しむ気持ちを表した、とても日本らしい歌ですね。
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g00melo5-art-blog · 3 years ago
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ichikunsworld · 3 years ago
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写真についての走り書き
写真は死を想うのだろうか、それともそれは詩であるか、私であるか。僕はデリダ「留まれ、アテネ」の「私たちは自らを、死に負うている」という文章にどうしようもなく惹きつけられてしまった。「死に負うている」。喪に服す、ということはロラン・バルト「明るい部屋」からずっと俎上にあげられている一つの問題である。私たちは解釈する、そこに死がある。それはものの死であり、親しい人間の死であり、現実の死であり、一回性の現実の死である。ジョセフ・コスースを引きたい、1つと3つの椅子に置いて、その写真は、その現実を殺している。写真に写るのは、〈a chair〉である。しかし現実にそれは、そこにあったという意味で〈the chair〉である、しかし目の前にあるthe chair と同じであろうか、本当に?そこに同一性は失われるのである、〈それは=かつて=あった〉ものである。しかしそれは、今、この世界とは切断されている。それを三つの椅子、文章、写真、現実の椅子からはっきりと見るのである。そこに死はある、断絶された過去と、獲得されたある種の普遍性はタナトスに近い場所にある。しかし同時にまた、そこに違和感も発生する。むしろ現代は、その逆----エロスがそこにあるのではないだろうか。篠山紀信から、タナトスを感ずるだろうか、という単純な話である。映画(原作なのかもしれない)「チワワちゃん」のある一節が、僕を苦しめる。曰く、「撮りたい女の子ってやっぱやりたい女の子なの?だって、なんだかんだ欲求があるから、カメラ向けるわけでしょ?何かを感じて、選んでるんでしょ?」それはあまりも逼迫した、しかし現実に差し迫った指摘である気がする。対象への衝動、それはリビドーに近い。そこに確かに性の囁きを見る。もちろんそれが全てではない、しかし、写真を撮ることは、ある種のレイプとまで思える。そこに衝動はあり、暴力性はあり、しかし残っているものは死の香りではなく確かに性への意識である気がする。そしてそれは消費的なイメージと、錯乱する承認欲求の形をとって現前する。
では僕は、どうそれに対峙すれば良いのだろうか。
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reflections-in-t · 4 years ago
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. . 国立国際美術館のコレクション展3 . 見えるものと見えないもののあいだ :Between Visible and Invisible . ■出品作家 米田知子、オスカー・トゥアゾン、ヤン・ヴォー、田中敦子、芥��(間所)紗織、マイク・ケリー、フェリックス・ゴンザレス=トレス、杉本博司、坂上チユキ、ウテ・リンドナー、カリン・ザンダー、トニー・アウスラー、北野謙、石内都、ジョセフ・コスース、キム・ボム、オノデラユキ、アンドレアス・グルスキー、トーマス・デマンド、ローリー・シモンズ、シンディ・シャーマン、森村泰昌、ヴォルフガング・ティルマンス、アンリ・サラ、ダン・フレイヴィン、須田悦弘、青木野枝 . . #国立国際美術館 #コレクション展3 #見えるものと見えないもののあいだ #BetweenVisibleAndInvisible #5月30日まで #一般430円65歳以上無料 #LeicaC #ライカC #LeicaC112 #VarioSummicron . . https://www.instagram.com/p/CNg0WT6sFzU/?igshid=d6froyu84dgs
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hajimetenoyamada · 4 years ago
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shuntsuzawa · 5 years ago
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夜街彫刻 20200719 ジョセフ・コスース《呪文、ノエマのために(テキスト:石牟礼道子「椿の海の記」、ジェームズ・ジョイス「若い芸術家の肖像」) 》1994 ファーレ立川 https://www.faretart.jp/art/880/ #JosephKosuth #artnightcruising (ファーレ立川アート) https://www.instagram.com/p/CEW0Fg5D7Aw/?igshid=17871sqon5bue
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kuizuneta · 5 years ago
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junichiroishii · 3 years ago
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15 centimeters
【English below】
そこで拡張されるものは何か
『科学の興味の対象は、空間内の「遠近」の観察から、「瞬間」という時間の観察へと移りつつある』 フランスの思想家、ポール・ヴィリリオ(Paul Virilio / 1932 - 2018)は、1990年に著書「瞬間の降臨 」においてそう指摘した。現代の科学はもはや人間に与えられた「最初の目」を信じておらず、自ら作り上げた「機械の目」によって、そして自分たち独自の理解の方法で、本来は見えない世界を観察しているという。[*1]
アインシュタインの相対性理論に従えば、ものの大きさは、観察者との相対的な関係によって初めて決まる。幅一メートルというのは、あくまで静止している観察者が決定した大きさにすぎない。広い森を短期間で走り抜ければ、知覚される空間は狭くなり、ゆっくり歩いてゆけば空間は広くなる。つまり知覚される森の広さは、知覚する主体が経験する時間の長さによって決定される。
したがって、等身大の意味において、空間と時間は同義である。「どれだけよく見えるか」は「どれだけ近づけるか」であり、「どれだけ離れているか」は「近づくのにどれくらいかかるか」である。
わたしたちが何かを「よく見よう」と思って目を凝らしてみても、そこには自ずと限界がある。技術の発達によって拡張された「目」は、現実をピクセルに分解しながら、大きさを問わないイメージを生成��る。この「新しい別の現実」においては、実際の大きさはもはや問題にならない。『ビデオスクリーン上の月の大きさが、画面の横に置かれたリンゴより小さくとも、不思議に思う人はいないだろう。(…)月と太陽がスクリーン上に並んだ時、言い換えればスクリーンというインターフェイスを通して見た時、月は太陽よりも小さくなければならず、初めて大きさは意味を持つようになる 』[*2]。
ところでそうしたピクセルの集合体として、ものが実物よりも大きく描かれるとき、私たちは一体何を見ているのだろうか。
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15 centimeters © 2018 Jun'ichiro ISHII
作品 «15 centimeters» は3枚の「15cm」の写真によって構成された作品である。写真のフレームはそれぞれ 15cm四方で、1枚目の写真には画面の中央に「15cmの定規」が写っている。15cm四方のフレームの中に被写体として「15cmの定規」が写っているのだから、当然イメージは画面構成的な要求から、鑑賞者が認識しやすいサイズにまで「縮小」されている。
続く2枚目の写真には「実寸大」の15cmの定規が写っている。15cm角のフレームに実寸大の15cmの定規を配置すると、当然ながら両端が「見切れる」。1枚目の写真の基準、つまり具象的な、あるいは説明的な文脈においては、この2枚目の「15cmの定規」は確かに不完全なものである。定規はフレームの外で20cmまで続いているかもしれないし、あるいは「0」を中心として、反対側にも長々と目盛りが伸びているかもしれない。(そんな定規はない、と言い切れるだろうか?)しかし、同時にこの写真(フレーム)は、端から端までがきっちりと「15cm」なのである。つまり画面の外にどれだけ想像力が続こうとも、物体としてのこの「写真フレーム」はどうしても15cmであり、したがって実際に(そう望むなら)「15cmの定規」として使用することも可能なのである。
最後の3枚目の写真の中央には、大きく「15」の文字が写る。画像の「15」の目盛りの右のほうには定規の端も見て取れるから、これは紛れもなく「15cmまでを測る」ために作られた製品である。そして写真は、そのもっとも象徴的な要素を「拡大」提示したものであると言える。
しかしあらためて1枚目の写真、具体的・説明的「縮小」の画像と比較してみると、これはやはり異なる文脈の中で機能していると言うことができる。つまりここには、ゾウの鼻だけを指して「これはゾウである」と断定するような高文脈の抽象性が存在する。また2枚目の文脈と合わせてみた場合、「定規」は相変わらず画面の外では分度器に変わっているかもしれず、(そうでない定規がある、と言い切れるだろうか?)そういった意味で3枚目の写真は、他の二枚との間にあって「相対的な抽象性」を獲得するのである。
冒頭のポール・ヴィリリオの声にもう一度耳を傾けたい。「現代の科学はもはや人間に与えられた「最初の目」を信じておらず、自ら作り上げた「機械の目」によって、そして自分たち独自の理解の方法で、本来は見えない世界を観察している」「スクリーン上の月の大きさが、画面の隣に置かれたリンゴより小さくとも不思議に思う人はいない」
それぞれの「15cm」は、それぞれの文脈において意味を確立している。文脈の異なるそれらを、同列に配置することによって、初めて認識の奇異が発生する。わたしはジョセフ・コスースの同義反復的な技法を援用しながら、作品 «15 centimeters» においてまず、この前提を提示した。
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[*1] L'inertie polaire / Paul / Virilio / 訳:土屋進 [*2] 瞬間の降臨 / ポール・ヴィリリオ / 土屋進(訳者)補足より
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15 centimeters © 2018 Jun'ichiro ISHII
What is expanded there?
“The interest of science is shifting from the observation of distance in space to the observation of an instant in time.”
In 1990 French philosopher Paul Virilio (1932-2018) wrote: “modern science no longer believes in the ‘first eyes’ that are given to humans, instead observing the invisible world through self-invented ‘mechanical eyes’ with their own manner of understanding.”[*1]
According to Einstein’s theory of relativity, the size of things is only determined by the relative relation-ship with the observer. One meter wide is just the size determined by a stationary observer. If you run through a large forest for a short period, the perceived space will become narrower, and if you walk slowly, the space will become wider.
In other words, the perceived size of forest is determined by the length of time it is experienced. There-fore, when it comes to life-size meaning space and time are synonymous. “How well we can see” means “how close it is” and “how far away” means “how long it takes to approach”.
Even if we have the intention of observing something, there is a limit to how much we really wish to see with our own eyes. The ‘new eyes’ that are augmented by digital technology are transcoding our reality into pixels, generating images that don’t question the real size. The original size is no longer important in this new, alternative reality. “Nobody will be surprised even if the size of the Moon on a video screen is smaller than an apple that is next to the monitor. […] The Moon has to be smaller than the Sun when they are juxtaposed, in other words, the size gains meaning when they are observed through the same interface, the screen.”[*2]
By the way, what exactly we are seeing when we observe things as an aggregation of pixels that is reproduced bigger than its actual size?
[*1] L'inertie polaire / Paul / Virilio / 訳:土屋進 [*2] 瞬間の降臨 / ポール・ヴィリリオ / 土屋進(訳者)補足より
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15 centimeters © 2018 Jun'ichiro ISHII
The work «15 centimeters » is composed of three 15cm photographs. Each photo frame is a 15cm square. The first picture features a 15cm ruler in the centre. Since it’s a picture of a 15cm ruler in a 15cm square frame, for the sake of composition, the image is of course shrunk to a size that’s easy for viewers to recognize.
Next, the second photo shows a 15cm ruler at actual size. Of course, by placing an actual size 15cm ruler in a 15cm square frame, the ends of are cut off from view. In the context of the representational, explanatory standard set by the first picture, this second 15cm ruler feels somehow incomplete. It could continue 20cm beyond the frame, or with the 0 as the midpoint, it might extend on and on in both directions (can we really say such a ruler doesn’t exist?). However, at the same time the photo (frame) is exactly 15cm from end to end. In other words, no matter how much one’s imagination extends beyond the frame, the physical photo frame is definitely 15cm and as such (if one wishes) it’s possible to use it as a 15cm ruler.
The middle of the third and final photo shows a large number 15. To the right of the “15” mark, the edge of the ruler can be seen, and so, this is without a doubt a product that was made for measuring as far as 15cm. You can also say that this photo features the most abstract element enlarged.
However once again, when we compare it to the first very representational, explanatory scaled down image, we can say that this image is functioning in a different context. Here we have high-context abstraction, like how we can point to the trunk of an elephant and come to the conclusion that it’s an elephant. Furthermore, when we combine it with the context of the second image, the ruler may have turned into a protractor outside the edge of the frame (can we say for sure such a ruler doesn’t exist?), for which reason the third photo becomes abstract in relation to the other two images.
Let’s return to the words of Paul Virilio from the opening: “modern science no longer believes in the ‘first eyes’ that are given to humans, instead observing the invisible world through self-invented ‘mechanical eyes’ with their own manner of understanding to observe a world that would be otherwise invisible.” “No one would find it strange that a moon on a screen should be smaller than an apple placed next to the monitor.”
Each “15cm” has meaning in its respective context. By placing these three different contexts side by side, a strangeness in perception occurs. Using the tautological method of Joseph Kosuth, I presented this premise for the work «15 centimeters».
Exhibition : 2019.08.11 - 08.14. "TODAY IS YESTERDAY'S TOMORROW" HIGURE 17-15 cas, Tokyo, Japan 2018.09.21 - 09.23. "15ans, c'est un anniversaire" 2angles, Flers, Normandy, France
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insideheadofkobayashi · 6 years ago
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芸術作品の脱物質化(抄訳)
ルーシー・R・リパード&ジョン・チャンドラー
Alberro and Stimson(eds.), Conceptual Art: A Critical Anthology, The MIT Press, pp.46-50
1960年代、ここ20年を特徴的づける、反−知性的で感情的/直感的な芸術制作のプロセスにとってかわって、極度に概念的〔conceptual〕な芸術が台頭し始めた。この芸術は、ほとんどもっぱら思考のプロセスに重点を置く。作品がスタジオでデザインされ、職業的な職人たちによって他の場所で制作されるようになり、オブジェは単なる最終的な生産物となったがゆえに、数多くのアーティストは、芸術作品の物理的な進歩に対する関心��失いつつある。スタジオ〔a studio〕は、またしても研究〔a study〕となるのだ。こうした流行は、芸術の、とりわけオブジェとしての芸術の、根本的な脱物質化を呼び起こしているようだ。もしこの動向が広がり続けるのなら、最終的にオブジェは完全に消滅してしまうだろう。
高度に概念的な芸術は、極度に拒絶的な芸術や、あるいは一見してでたらめな芸術のように、「なにも見るべきものがない」が故に、中傷者たちを苛立たせる。いやむしろ、彼らが探し求めるよう習慣づけられているものが不足しているが故に、だ。単調な、あるいは極端に単純な相貌の絵画や、まったく「のろまな〔dumb〕」オブジェは、空間のなかに存在しているのと同じように、時間のなかに存在している。その理由は鑑賞体験の2つの側面にある。まず、これらの作品は、一見して敵意(敵意というよりはよそよそしさや自己閉鎖性なのだが)にあふれているにも関わらず、鑑賞者の参加をより必要としている。細部を欠く作品の経験には、より多くの時間を費やさなければならない。というのも、観者は細部に焦点をあて、そうした細部によって作品の印象へと没入することに慣れきっているからだ。第二に、「からっぽ」の作品や、最小限の行為しか伴わない作品を眺めるのに費やす時間は、〈行為や細部に満ちた〉作品を眺めるのに費やす時間よりも、無限に長いように思われる。この時間的な要素は、もちろん、心理学的である。けれども、この要素によって、芸術家に連続的〔serial〕な手法にたいするオルタナティヴや、そうした手法の拡張がもたらされるのだ。たとえば、画家であり彫刻家のマイケル・スノウによる映画作品《波長》は、45分間のなかにうねるように拡張されている。この時間をかけて、カメラは、大きなロフトという背景から、非常にゆっくりと照準を定めてゆき、ひとつらなりの窓へ達し、最終的に水面、あるいは波、それら二つの中間を写した写真に達する。そして、写真がスクリーンを次第に埋め尽くしていく。そこに至るまでに、観者はほとんど我慢できないほどの期待〔anticipation〕に気づく。この期待は、ふつうものを見るときの速度以下に引き伸ばされた、あの耐え難いほどの時間の長さの結果であるようだ。この強度は音によって増強される。映画のほとんどの時間は単調なのだが、音高と音量が高くなっていき、最後には激しいハムノイズに至る。この音はエキサイティングであり、また苦痛に満ちてもいる。
ジョセフ・シュリンガーという、あまり知られていないアメリカ人のキュビストは、25年間をかけて、『芸術の数学的基礎』というなかなか並外れたところのある本を書いた。彼は芸術の歴史的な進歩を5つの「区域」に分け、それらが互いに、加速度を増しながら置き換わってゆくとした。1.前−美学。模倣という生物学的な段階。2.伝統的−美学。魔術的で、儀式−信仰的な芸術。3.感情−美学。感情の芸術的な表現。4.理性的−美学。経験論や、実験的な芸術、新しい芸術に特徴付けられる。5.科学的、美学以後。この段階では、完璧な芸術的生産物の製造、流通、消費を可能となり、芸術の諸形式やもろもろの素材の融合によって、そして最終的には、「芸術の解体」や「観念の抽象化と解放」によって特徴付けられることとなる。^1
この枠組みに則ると、私たちはいま最後の2段階の間の、移行期にいると考えられる。ただし、この2つの段階が、視覚芸術が通過する字義通り最後の段階であるとは考え難い。人間自身の持つ身体を通して美学的な現実を再創造する、という直感的なプロセスの後で、再生産や模倣のプロセスや数学的な論理は芸術に入り込んでくる。(バウハウスの教え「より少ないことは、より豊かである」は、オッカムのウィリアムによって準備されていた。いわく、「より少ない原則で説明できるものを、たくさんの原則で説明する必要はない。」唯名論〔nominalism〕とミニマリズム〔minimalism〕は単に語感が似ているだけではないのだ。)その後、人間は徐々に自分の進歩の道のりを意識するようになり、複製された現実〔=直感的なプロセス〕の仲介なしに、諸原則から直接創造行為を行うようになった。このことは、あきらかにグリーンバーグ的なモダニズム解釈に対応している(彼の弟子たちはモダニズムという言葉をグリーンバーグに帰そうとするが、この言葉は、彼が言い出すよりずっと前から使われてきたものだ。)最後の「美学以降」の段階は、他の芸術に決定論者的なスケジュールで応答するような、自己意識的、あるいは自己批判的な芸術を乗り越える。狭めていくよりも開いていくことによって、より新しい作品は、興味深いユートピアニズムを提供してくれる。このユートピアニズムをニヒリズムと混同するべきではない。すべてのユートピアがそうであるように、ニヒリズムを間接的にタブラ・ラサの代弁者とするなら話は別だが。たいていのユートピアがそうであるように、タブラ・ラサは具体的な表現を持たない。
脱物質化された芸術は、ますます非視覚的になるその重点においてのみ、美学以降的である。原則の美学は未だ美学であって、そのことは数学者や科学者たちが等式や公式、あるいは解についてしばしば述べていることが示している。「なぜ美学的な批評基準はこれほどに頻繁に、これほどに成功するのだろうか。ただ物理学者を満足させてくれるからだろうか。思うに、正解はひとつだ。自然は本質的に美しいのだ。」(ムーレイ・ゲル=マン、物理学者)。「この場合、私がいかに自然が作用するか知った瞬間があったということだ。自然は優雅で美しかった。とんでもないものがきらめいていたんだ」(リチャード・ファインマン、ノーベル賞受賞者)。^2 こうした発言を読めば読むほどはっきりとしてくるのは、科学者たちが宇宙の秩序や構造を発見しようとし、そしておそらくは押し付けようとさえするのは、本質的に美学的な目算に基づいているということだ。秩序そのものは、そしてそれが含意する単純さや統一性は、美学的な批評基準である。
シュリンガーが予見した解体は、次のような動向が明らか���示している。1958年以来の伝統的な媒体の瓦解や、電子機器、光、音、そしてもっとも重要なことにはパフォーマンス的態度の絵画や彫刻への導入――つまり、ジョン・ケージが予見している、いまのところまだ現実化はされていない、間メディア的な革命である。また、この解体は、目下国際的な強迫観念となっている、エントロピーが示すものでもある。たとえば、ワイリー・サイファーによるならば、「未来とは、時間が効力を持つようになることである。私たちのシステムが徐々に無秩序へと向かっていることが、時間のしるしとなる。…時間のすぎる間、エントロピーが増加していく。時間は私たちのシステムから構造が失われる度合いによってはかることができる。システムは根源的なカオスへと戻ろうとする傾向をもつ。このカオスからシステムが生まれたのだ。…時間のもつひとつの意味は、不活発に向かって漂うことである。」^3
今日、多くのアーティストが、無秩序と偶然を含み込むような秩序や、ある全体を提示するための、諸部分の能動的な配置を否定することに、関心を抱いている。^4 20世紀のはじめ、不確定性と相対性の要素が科学的なシステムのなかで発表されたことは、非理性的な抽象化が巻き起こる要因のひとつであった。プラトンの反芸術的な主張や、模倣的で表象的な芸術への反対、そして狂人と彼が目した芸術家による制作物への蔑視は、ここで検討するにはあまりにも周知のことである。しかし、「正常さ」に回帰する目下の流行から、それらをふたたび取り上げることは興味深い。この流行は、イースト・ヴィレッジの共同組合、ラニス・ミュージアム・オブ・ノーマル・アート〔ラニス普通の美術館〕のオープニング展が証だてるものである。そこでは、ここで論じている作品のいくつかが展示されていた。実際、この「美術館」は、アドノーマル美術館と呼ぶのがよいと思う。というのも、この美術館は晩年のアド・ラインハートや、「芸術としての芸術」こそが芸術の普通の姿だという彼の主張に、控えめなオマージュを捧げているからだ(画家兼館長のジョセフ・コスースは、普通の流派〔normal schools〕というごろあわせを通じて、ラインハートのドグマにも通ずる自身の衒学的な傾向を認めつている。)しかしながら、「観念〔idea〕がない」ということがラインハートの規則であり、彼の理想は超概念的なものを含んではいなかった。芸術作品は、言葉にも似て、アイデアを運ぶ記号である。であるなら、芸術作品はものそれ自体ではなく、ものの象徴か表象かである。そうした作品はむしろメディウムであって、その目的とか、「芸術としての芸術」ではないのである。メディウムがメッセージである必要はないし、一部の超概念的な芸術は、慣習的な芸術のメディアがもはやメッセージそのものに対して適切なメディアではなくなってしまったことを宣言しているようだ。〔…〕
観念芸術〔idea art〕は、むしろ批評に関する芸術であって、〈芸術としての芸術〉でもなければ、芸術に関する芸術でさえないとみなされてきた。それどころか、オブジェの脱物質化は、最終的には今日批評として知られるものの解体を導くだろう。これらの芸術家の大勢が主張する、衒学的であったり教育的であったりドグマ的であったりする基礎は、芸術のなかに吸収されている。こうした芸術は批評そのものを迂回してしまう。観念に対する判断よりも、その観念を追いかけることの方が興味深いのである。そのプロセスのなかで、あるものは良いアイデアであり、劣った観念であり、悪い観念であることに気づくだろう。良い観念とは、つまり無限の可能性を示唆するのに充分なほど豊かで開かれているものだ。劣った観念とは、枯渇が目に見えているもので、悪い観念とは、ほとんど使い尽くされてしまっているか、それ以上先を検討することがもはやできないほどにわずかな実体しか伴っていないものだ。(同様のことは形式的な意味でのスタイルにも当てはめることができる。個人のトレードマークとしてのもの以外、スタイルは新奇さの行く末のうちに消え去ってしまう傾向にある。)もしオブジェが時代遅れになるならば、客観的な距離もまた時代遅れとなる。近い将来、書き手は芸術家になる必要が出てくるだろうし、芸術家もまた書き手になる必要が出てくるだろう。研究者と美術史家は残るとしても、同時代の批評家は、創造的なオリジナリティと説明的な歴史主義とのどちらかを選ばなければならなくなるだろう。
超概念的な芸術は、一部の人々からは、「形式主義者」とみなされるだろう。というのも、この芸術は、切り詰められた様子や厳格さを、現在最良の絵画や彫刻と分かち合っているからだ。実際には、この芸術は最も無定形な芸術や、あるいはジャーナリスティックな表現主義と同じくらい、〈反形式〉的である。この芸術は、リアリズム、つまりは形式的なリアリズムであり、色彩のリアリズムであり、その他あらゆる「新しいリアリズム」の宙吊りを表象している。しかしながら、芸術は、観念やそれを下支えする知的な図式を、その形式的な本質を知覚するのと同様に取り出すために経験されうるという観念は、対立する形式主義者の持つ前提から連続するものである。その前提とは、絵画や彫刻は、他のイメージに対する参照とか表象としてではなく���オブジェそのものとして見られるべきだというものだ。視覚芸術として、高度に概念的な作品は、いまだにそれがどう見えるかによって成功したり失敗したりする。しかし、単一性や自律性にみられる原初的な、拒絶的な流行は、与えられる情報の量を制限しており、従って可能な形式的分析の量を制限している。高度に概念的な作品は、批評家や観者に対して、単に形式的、あるいは情動的なインパクトを与えるというよりも、自分たちが見ているものについて考えるよう仕向けたのである。知的で美学的な快楽は、作品が視覚的に強力で、理論的に複雑であるときに、この経験のなかに生じる。
30年ほど前に、オルテガは「新しい芸術」についてこう書いた。「新しい芸術が自らに課した努めは莫大なものだ。新しい芸術は無〔nought〕から創造したいと思っているのだ。いつか、私は予想するが、芸術はより少ないもので満足するようになり、より多くのものを獲得するようになるだろう。」^5 新しい芸術の困難さにはっきり気づいているのだから、彼は驚きはしないだろう。一世代かそれ以上あとに、芸術家たちがより少ないものによってより多くを獲得したことを、マレーヴィチの《白の上の白》が無をきっぱりと定義してから50年経っても、「無」からなる何かを作り続けていることを知ったとしても。私達は未だ、どれだけ少なければ「無〔nothing〕」に達するのかわかっていない。黒の絵画、白の絵画、光線、透明フィルム、無音のコンサート、見えない彫刻、あるいはここで言及したその他のプロジェクトによって、究極的な零の点は到来したのだろうか。どうもそうではないようだ。
1. Joseph Schillinger, The Mathematical Basis of the Arts (New York: Philosophical Library, 1948), p.17
2. Quoted in Lee Edson, “Two Men in Search of the Quark,” NewYork Times Magazine (8 October 1967).
3. Wylie Sypher, Loss of Self in Modern Literature and Art (New York: Vintage, 1962), pp.73-74. エントロピーという語は、ロバート・スミッソンやピエロ・ジラルディによって近年の芸術の異なる領域へと応用されている。この語は短編小説のタイトルにもなっており、たとえばトマス・ピンチョンによるものがある。
4. ニューヨークのアート・ワールドでは、この観念はドナルド・ジャッドによって創始されたようだ。
5. Jose Ortega y Gasset, The Dehumanization of Art (New York: Doubleday Anchor, 1956), p.50.
このエッセイは1967年の暮れに執筆され、Art International, 12:2 (February 1968), pp.31-36に掲載された。
https://ryoheiito.tumblr.com/post/107397561913
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keijukita2018 · 6 years ago
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戦略会議 #02 展示まわり/ Art Fair Tokyo 2019, 3331 Fair, Art in Park hotel Tokyo 2019から 前編
大学や作家仲間と展示をまわる企画として続けている「展示を観に行って、芸術作品はさん��話をしよう」もいつの間にか8回を数える。 前回のソフィ・カルに続き今回も北企画で今回はアートフェア3本立て。 Art Fair Tokyo 2019、3331 Fair、 Art in Park hotel Tokyo 2019の3ヶ所を1日でまわるという強行に! 今年の1月には台北で台湾當代、今月末の3月にはART | BASEL HONG KONGへ。美術館の展覧会やギャラリーの個展も好きなのだが、僕は実は無類のフェア好きだ。 フェアでは「観たいと思うものは”必ずしも”観れない」。 絶対にそうだということではないのだが、フェアとは見本市であって即売会だ。つまり作家の展示ではない。 「作品が飾ってある」ということは同じでも、そのラインナップにはマーケットの原理が働く。売れるもの、売りたいもの、その先にマーケットがチラつく。 「観たいと思うものが”必ずしも”観れない」ということを理解すればフェアそのものも、各ブースのラインナップも、作品個々に対してもその見方は変わる。入場料を払ってるからといって、単なるアートファンとして終わるのではなく、目利きとなって出会いと発見を求めるべきなのだと思う。 フェア全体で言えば今回の3つはそれぞれ規模感も、また特色も違う。また、アジアの他の国のフェアとも当然に違ったものである。 そこに言及してもあまり生産性はないが、3つ足してもART | BASEL HONG KONGの1/10位、台湾當代の1/2といったところだろうか? 世界展開しているメガギャラリーが立ち並ぶといったことはないが、相応の見応えはあるものだ。 まずは3331 FairのKana Kawanishi Galleryの藤崎了一氏の作品<TELLUS>。他の2フェアでも取り扱われていた石膏の堆積によって創り上げられた彫刻<gypsum>と並び、20代のころの地球物理学専攻だった時の自然科学に興味を持っていた自分の感覚が刺激される。 <gypsum>が堆積であることに対して<TELLUS>は侵食を模した作家のマニピュレーションによって創られた彫刻である。 侵食も堆積も地球上の循環サイクルにおける自然科学の現象だ。藤崎氏の作品を前にしていると、その循環サイクルによって生まれる地形や鍾乳洞のようなものも地球規模でのカービングであり、モデリングなのだと思い出させられるようであった。それは一個人の作家の意思を超えた領域での「あるべきフォルム」の生まれ方そのものなのだ。いい作品を発見した気持ちになった。Kana Kawanishi Galleryには時々お邪魔もさせてもらっているので、今後も注目したい。 Art Fair Tokyo 2019での発見は、いくつかあった。 まずはSCAI THE BATHHOUSEの神谷徹氏の作品。カラーグラデーションのアクリルペインティングの作品。 同一色相の明度変化によるグラデーションや色相を回したグラデーション。 表面に向けてエッジの立ったキャンバスが壁に落とす影。 絵画作品というものが描かれたものが何であるかではなく、絵画そのもののことを指すのだということをまざまざと感じさせられる。平面を観ているのに僕には色相環が自分の周りを全天空で囲むような感覚を感じる。つまり中心からそれを観る僕は「黒」つまり、「無」であり「全て」だ。 Aoyama|Meguroの礒谷博史氏の<The specter of surrealism>。 壁に取り付けられた棚の上に縦長の大きめの額に入った写真作品だ。 初見は「何だろうこれ?」というのが印象であった。一緒に行った方とこの作品は…とコミュニケーションを取りながら鑑賞をする中で徐々に作品の解釈が進む。額に入れられた写真のイメージは展示と同じ額が、同じ棚から落ちているその瞬間を写したものだ。額の裏側がこちらを向いていて額の中のイメージは「確認する方法がない(見えない)」。 この「確認する方法がない」というのがこの作品の肝だ。 イメージの中の額に「この額そのものが落ちている=同一の写真が入っている」はずがない…だが、この確認する方法がないことはこの「はずがない」という固定概念に揺さぶりをかけてくる。 そして、イメージの中の額に「この額そのものが落ちている=同一の写真が入っている」としたら…と自分の脳内に今まで考えもしなかった意識の拡張が起きていることが実感できる。 今がいつで、この写真のイメージはいつなのだ?この作品は時間というものの終わりと始まりをつなぎ合わせた「メビウスの輪」だ。 そんな解釈を参加した皆と共有し、ギャラリーの方からも作品の紹介を受け、非常に有意義な刺激となった。 「ヨーロッパではもっと多いが、ここだと来場者6万人のうちいいところ200人くらいの人がこの作品の本質に近づいて解釈を進めます」とおっしゃっていた。上位かどうかはわからないが現代写真なら作品を発見できる3.3%。恐らく1年前ならここには入らなかっただろう。大学院で鍛えられてきたおかげかと思う。 そして、KOTARO NUKAGAのStefan Brüggemannの一連の作品。 鏡にスプレー描かれたカラフルなグラフティのような文字で構成された巨大なサイトスペシフィック・インスタレーション。カラーフィールドペインティングのような抽象的ないくつかのペイントの上に同一のテキストをレタリングした作品、そしてネオン管を使った作品。 最初はストリートアートの作家のようにも思えたが、ジョセフ・コスースやブルース・ナウマンといった言語を使ったアーティストと繋がるコンテクストも色濃く感じる作家だ。 言語からその意味を引き剥がす形で素材として扱い、イメージとの境界線を曖昧にする。 言語を扱うコンセプチュアル・アートにもっと強かったらもっと楽しめたであろうとも思うが、この作家の素晴らしい点は、作品のヴィジュアルも抜群だ。 コスースやナウマンの作品も素晴らしいが、どうしても���方ないことなのかやや教科書の中の作品のように思えてしまう。自分の時代の作品として受け入れられないのだ。 一度ピークを迎えてしまい、その後行き場所を失ったあの時代の作品を参照すると、こういう形で表現されるのだと思うのと同時に、同時代を行きている感じるのが非常に心地がいい。不思議な感覚だった。 以上前編。
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shuntsuzawa · 5 years ago
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真夜中のコスースは、ネオン管がついていなかった。 夜街彫刻 20200708 ジョセフ・コスース 《The Boundaries of the Limitles》1997 クイーンズスクエア横浜 #josephkosuth #artnightcruising [日本語訳全文] 樹々は成育することのない 無数の芽を生み、 根をはり、枝や葉を拡げて 固体と種の保存にはありあまるほどの 養分を吸収する。 樹々は、この溢れんばかりの過剰を 使うことも、享受することもなく自然に還すが、 動物はこの溢れる養分を、自由で 嬉々とした自らの運動に使用する。 このように自然は、その初源から生命の 無限の展開にむけての序曲を奏でている。 物質としての束縛を少しずつ断ちきり やがて自らの姿を自由に変えていくのである。 ドイツの詩人、フリードリッヒ・フォン・シラーがデンマーク王子アウグステンブルク公にあてた手紙『人間の美的教育について(の手紙)』の一部を抜粋 (24/7 クイーンズスクエア横浜[アット!]) https://www.instagram.com/p/CCWFzc9DSlT/?igshid=7vvvu5k972if
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