#カブなら路地巡りできる
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遠回りして帰ろう #めっちゃ寒いけど #カブなら路地巡りできる #神社仏閣好き #今日もお疲れ様でした #通勤快速 #寄り道マシーン #リッター52km #ja10 #スーパーカブ #スーパーカブ110 #バイクが好きだ (稲岡神社) https://www.instagram.com/p/CllGocZpsiR/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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「種子法(主要農作物種子法)」といわれても、ピンとこない人が多いかもしれない。一般にはあまり知られていないが、戦後の日本で、コメや大豆、麦などの種子の安定供給を支えてきた法律だ。この法律が突如、廃止されることになった。今年2月に廃止法が閣議決定され、4月には可決、成立。種子法は来年4月1日に廃止される。なぜ廃止されたのか。私たちの食や農業は大丈夫なのか。ご自身も採種農家の生まれという龍谷大学経済学部教授・西川芳昭さんに聞いた。
コメや麦の安定供給を縁の下で支えてきた「種子法」
――今回、突然廃止されることが決まった種子法(主要農作物種子法)ですが、そもそもどんな法律なのか教えてください。
西川 専門的な法律なので、名前も聞いたことがないという人が多いでしょう。種子法は、コメや麦、大豆といった主要作物について、優良な種子の安定的な生産と普及を“国が果たすべき役割”と定めている法律です。種子の生産自体は、都道府県のJAや普及センターなどが担っていますが、地域に合った良質な種子が農家に行き渡るように、種子法の下、農業試験場の運営などに必要な予算の手当などは国が責任を持って担ってきたのです。
種子法が制定されたのは1952年5月。注目したいのは、第2次大戦終結のためのサンフランシスコ講和条約が発効された翌月というタイミングです。戦中から戦後にかけて食糧難の時代を経験した日本が、「食料を確保するためには種子が大事」と、主権を取��戻すのとほぼ同時に取り組んだのがこの種子法の制定でした。私はそこに、“二度と国民を飢えさせない”“国民に食料を供給する責任を負う”という国の明確な意思があったと考えます。
――そんなに重要な意味をもった法律が、なぜ突然廃止されることになったのでしょう?
西川 政府や農水省は、「国が管理するしくみが民間の品種開発意欲を阻害しているから」と説明しています。種子の生産コストが国の財源でまかなわれているなど、今の制度では都道府県と民間企業との競争条件が対等ではないというのです。
TPP(環太平洋パートナーシップ協定)やRCEP(東アジア地域包括的経済連携)などグローバル化を推し進めるなかで、企業の活動を阻害するような規制を緩和する措置の一環という見方もあります。これまでも種子法は民間の参入を禁じていたわけではありませんが、種子法をなくしてハードルをさらに下げることで、民間企業、とくに外国企業の参入を積極的に進めようという思惑があるのではないでしょうか。
種子が値上がりし、食品価格に転嫁される懸念も
――種子法の廃止によって、日本のコメや麦などの種子を巡る状況はどう変化していくのでしょうか?
西川 まず、種子の生産・普及事業にかかる費用が、将来的に国から出なくなるのではという懸念があります。今回、種子法廃止後も、従来通りに都道府県の種子生産に予算が確保されるよう国に求める付帯決議が採択されました。このこと自体は評価できますし、これまで種子生産に取り組んできた米どころの行政担当者は種子の生産を継続する意欲を示していますが、予算の“根拠”となっていた種子法がなくなることの影響は未知数です。
コメや麦の種子を巡る状況がすぐに大きく変わるということは恐らくないと思いますが、万が一、公的資金のサポートがなくなれば、将来的に生産コストが上乗せされて種子の価格が跳ね上がり、食べ物の価格に影響が出るかもしれません。また、都道府県が種子事業から撤退し、民間企業による種子の私有化が進むことも起こり得ます。
――種子の私有化というのはどういうことですか?
西川 種子法のベースにあったのは、新しい品種をつくるために素材となる品種=遺伝資源は、国や都道府県が“公共の資産”として持つという考え方です。これが民間に委ねられた場合、遺伝資源を基にして改良された新品種について、改良部分だけでなく種子全体に特許をかけ企業がその所有権を主張するということも起きかねません。ロイヤリティ(特許料)を払わなければその種子が使えなくなる。遺伝資源が企業に囲い込まれ��しまう。これは「種子の私有化」を意味します。
すでに民間が主体となっている野菜などの作物では、圧倒的な技術力と資本を持つ数社の多国籍企業が、中小の種苗会社を次々に買収し、世界中にシェアを拡大しています。今スーパーなどで販売されている野菜の多くも、そうした多国籍企業の種子によるものなのです。種子法がなくなることで、公的に支えられてきたコメや麦などの主要作物の開発についても、効率や経済性の追求に傾いていかないか心配されます。
もともと種子というのは自然のなかにあったもので、人間との関わりでいえば、どんな新しい品種もその基になる種子は数万年の歴史の中で先人たちが積み重ねてきた改良の賜です。そうした本来は公のものである、もっと言うと、“誰のものでもない”種子を、特定の誰かが所有していいものなのか。しかも、人が生きていくのに必要な食べ物の種子が一部の企業に独占されるのを許してしまうことに私は違和感を禁じ得ません。
利益優先の民間で、種子の多様性が保てるか
――農水省は、種子法廃止によって多様なニーズに対応する品種が開発されると言っていますが、この点についてはどう考えますか。
西川 農水省のいう多様なニーズとは、ビタミンAを強化したコメとか花粉症緩��米といった、ピンポイントの機能性のことを指しているのだと思います。たしかに機能面での付加価値という意味では、いろいろなコメが出てくるかもしれません。
一方で、種をつないでいくという営みの主体が利益優先の民間企業に移ったら、種子の開発は「できるだけ同じものを効率的に広めていく」という方向になっていくでしょう。日本では現在300品種近くのコメが作られていますが、民間企業が300品種の種子を取り続けるというのは、コスト的にも手間的にも現実的ではありません。
例えば、愛知県の中山間地で栽培されているミネアサヒという大変食味のよいコメがあります。三河地方以外ではほとんど流通せず、いわば“まぼろしのコメ”として地域振興の資源となっているのですが、こうした地域品種の種苗が供給され続けてきたのも公的な制度や予算の基盤があったからこそ。ミネアサヒのように特徴はあるけれど小規模にしか栽培されていない品種は、種子法廃止によって将来的に消滅してしまうことも考えられます。
地域特有の気候や風土のなかで育まれ、それぞれの土地の食文化を支えてきた多様性は、大きく損なわれてしまう可能性がありますね。画一的な種子ばかりになってしまうことで、害虫や病原菌、異常気象などの影響も一律に受けやすくなることが心配です。消費者の側から見ても、食の選択肢が減るのは、暮らしの豊かさ���社会としての豊かさを失うことに等しいのではないでしょうか。
「何を作るか」「何を食べるか」――選ぶのは私たち
――この先、“公共のもの”としての種子を守り、食料を安定的に確保していくためにはどうしたらいいのでしょうか。
西川 消費者にとっては「何を食べるのか」を、農家にとっては「何を作るのか」を、自分で選んで決めていく権利を“食料主権”といいます。種子ビジネスが一部の多国籍企業に独占されている現状では、農家は企業が売りたい、作らせたいと思う種子を購入せざるを得ず、その結果、消費者の食べたいものを選ぶ権利も狭められてしまっています。
一方、世界各地では、こうした巨大資本による種子の囲い込みに対抗し、自分たちの食料主権を守っていこうという市民や農民によるムーブメントも起こっています。最初に食料主権の考え方を提起した世界的な農民組織「ヴィア・カンペシーナ」は、地域の特性や自然の持続性を損なわないような農業を取り戻す活動の一環として在来種子の保存にも取り組み、FAO(国連食糧農業機関)に対して、小規模農家が食料生産の重要な部分を担っていることに基づいて様々な提言を行っています。
日本でも、約5000点の種子を保管している広島県農業ジーンバンクが、「種子の貸し出し事業」を実施し、一度は作られなくなった作物を地域の特産品として復活させています。ほかにも、固定種として農家が自家採種を続けてきたカブ「清内路あかね」から品質の揃ったF1品種を作り、民間種苗会社の協力を得て種子を供給している長野県の例や、大分県の大手焼酎メーカーが、地元の農業試験場が開発した大麦を上乗せ価格で買い取り商品化している事例もあります。
コメや麦のような主要作物と野菜とでは、種子を管理する仕組みが異なるので同列に語ることはできませんが、このように、さまざまな立場の人たちが地域に見合った品種の開発に関わり、付加価値のある商品を作り、その付加価値をまた地域に還元しようとしている。そうした循環が各地に見られることが希望ですね。
「種子が消えれば食べ物も消える。そして君も」
――私たちが消費者としてできることはありますか?
西川 まずは、一人ひとりが、自らに与えられている“食料主権”を意識して、自分が口にする食べものに、これまで以上に関心を払うことでしょうか。誰がどこでどういう想いで作っているのかがわかる食材を選ぶこと。そして、できるだけ地域で大切に育まれてきた種子を使った食べものを選ぶこと。台所で、食卓で作物の生産者や産地への想像力を働かせてみることが大切だと思います。
私の生家は、奈良で玉ねぎと緑肥用のレンゲの種苗商を営んでいました。昭和40年代になって、野菜の種取りが一気に海外に移行してしまい廃業せざるを得なかったのですが、子ど��のころからタネのにおいのなかで育��、タネを取り巻く状況の変化を肌で感じてきました。
「種子が消えれば食べ物も消える。そして君も」――これは国際的な種子貯蔵庫の創設に尽力されたスウェーデンの研究者ベント・スコウマン氏のメッセージです。人間は、食料のすべてを直接あるいは間接的に植物に依存している。つまり、種子によって生かされているのです。
種子法が突然廃止されたことは大きな衝撃ですが、これを機に種子の大切さを改めて認識し、種子にどう関わっていくことが望ましいのかを考えてみたいですね。プランターでもいいから、何か育ててみるのもおすすめです。種子が命の源であることを、きっと実感できると思いますよ。
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えっ!車でなくても!公共交通で九州ぐるっと快適な旅?熊本のゲストハウス提案します!
ゲストハウスランキング
こんにちは!同じレーンを何周もぐるぐるする回転寿司の売れ残りネタ状態で4拠点を巡る生活中、じゃけんです。
その移動に使う乗り物これまで春~秋はカブ(バイク90cc)
冬は車でした。
それが、とっても便利な移動手段が出来たので移動方法変わりました。
それは、博多⇔阿蘇駅直行バス運行開始!!
【ASOエクスプレス】
これ!最高です!
それは早い!安い!快適と文句なしです。
先日乗りましたが、阿蘇駅へ直行!時間のロスなく良いです。
福岡側の乗り場・降り場⇒ 博多、天神、福岡空港。
阿蘇側の乗り場・降り場⇒ アーデンホテル阿蘇 、阿蘇駅、阿蘇プラザホテル、内牧温泉(はな阿蘇美)
そして…… カドリー・ドミニオン(ここから阿蘇び心阿蘇店徒歩3分)
所要時間は片道約3時間です。
1日3便、博多を朝10時出発すれば13時には阿蘇駅へ到着。
するとその日のうちに……
大観峰
こんな抜���の景色をみれたり
”雲海”
運がよければ”雲海”に出会えたり
草千里
中岳
阿蘇山頂へ、路線バスで行けます!
そう!阿蘇のメインスポットは公共交通でも楽々行けますよ!
そんな阿蘇の楽しみ方は”阿蘇び心”阿蘇店へお任せ!
目的地までの行き方、路線バスの時刻表、地元ならでは情報満載です!
そして
夜は地域談話室で”焚火&七輪BBQ"
お昼はおもいきり観光を楽しんで、夜は世界からの旅人さんと交流も楽しめますよ!
翌日は阿蘇⇒熊本市内へ
阿蘇び心 阿蘇店から徒歩3分のバス停から熊本空港~熊本駅まで直通!
バスで熊本市内まで楽々移動!
話題の”平成駅”
いま、外せないスポット!
ここは”阿蘇び心”熊本店から最寄り駅(徒歩7分)
縁側でまったり
ここ、阿蘇び心熊本店の縁側は元気出るスポット!ここでゆっくり癒されるも良し!
交流を楽しむ?
ゆっくりor交流=無理なく自分のペースで楽しめます!
そして今の”熊本城”の姿をみたり、くまモンに会いに行ったり
熊本を満喫したら
平成(熊本店)⇒ 令和(太宰府)へ!
移動はバスor電車どちらでもお好きな方でどうぞ(約2時間)
朝一番、静寂な太宰府天満宮へお参り
今、話題!令和のゆかりの”坂本八幡宮”
阿蘇び心 太宰府店
ここへ泊まると、静寂な空間で上質な眠り+朝晩の本当の太宰府を楽しめます!
そして博多へ(太宰府から電車orバスで約40分)
B&C Gakubuchi
初めてのゲストハウス利用する女性一人旅が多いお宿
けん玉で国際交流♪
世界からの旅人と言葉いらずですぐ仲良く!
こうして九州の旅は公共交通でも手軽に楽しめます!
ちなみにこのモデルコース、博多⇒阿蘇⇒熊本市⇒太宰府⇒博多
3泊4日ですが、旅行日数に合わせて組み合わせすれば1泊2日でも博多+阿蘇or博多+太宰府、博多+熊本市 どれでも楽しめますよ!
さあ!新緑と青空綺麗な5月の九州へ旅しませんか?
そして私(じゃけん)博多へ移動開始!
今日も良い1日を!!
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阿蘇び心、新たな仲間を募集します!
将来ゲストハウスを開業したい
ゲストハウスで働きたい
阿蘇び心で働きたい
気になる方はご連絡下さい!
《連絡先》
阿蘇び心代表:吉澤(じゃけん) ✉ [email protected]
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※各店4月より休館日設定させて頂きます
〇阿蘇店毎週火・水曜日/熊本店・大宰府店・B&C Gakubuchi毎週月曜日
(祝前日・お盆8月12日(月)営業)
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ゲストハウスランキング
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父の死 連載第20回 母の店じまい
大���連休の前半に、父親の七回忌の法事が自宅でおこなわれた。命日は8月だが、遠方に住む妹が帰省しやすいように、この時期に設定された。父親より3歳下の母親は、現在84歳である。
「こんな歳をとるとは思わへんかった」
母親がしみじみと言う。父親の命日が誕生日の私は、8月で56歳になる。母親同様、私も自分の年齢が信じられない。まだ10代のような気がする・・・まあ、そんなことはないのだが。
昨年春に家族旅行した際、母親と同じ部屋に泊った。朝方に顔を合わせると、口がすぼまっている。寝る前に入れ歯をはずしていたのだ。初めて対面する”別の顔”を見て、ずいぶん老けたなあと思った。八十路も半ばなので、当然ではある。私も早晩ああなるのだろう。
昨年秋に母親が私の自宅に泊まった際、朝食に柿とカブのサラダを出した。柿はなくなっていたが、カブは皿に残ったままである。両方とも一口大に切ったのだが、どうやらカブは固かったようだ。これまでそんなことはなかった。これからは、食材やカットする大きさにも気をつけなければならない。
母親にとって、亡くなった父親が守り神であることは今も変わらない。台風がくれば「お父ちゃん、守ってよ」と話しかけ、親しい身内が手術すると聞けば「成功するように祈っとってよ」と仏壇に手を合わせる。
実家で泊まる際、夜になると寝る前に、母親が涙声で父親に話しかける声が聞こえてくる。6年も経つのに、今も変わらぬ日課である。お父ちゃん、どこへ行ってしもたんよ・・・たぶん、そんなことを問いかけているのだろう。
* * * *
帰省するときは、飼い犬・桃次郎(ヨークシャテリア、10歳、オス)を連れて帰ることが多い。出張や旅行の間、預かってもらうためである。
独り暮しの身で、しかも大の犬好きの母親にとって、桃次郎はかわいくて仕方がないようだ(実際、かわゆい)。1日3~4回の散歩も厭わず、奴の言うがままに遠方でも嬉々としてついて行く。連れていくのではない、ついて行くのである。
飼い主である私がいるときも、四六時中、話しかけている。
「きょうは誰と寝んのん? お母さんと寝よか?」
「こっちおいで、抱っこしたろ!」
私同様、恥ずかしがり屋なので、奴は何も答えず、母親の顔をじっと見ている。
私がいないときは、もっと話しかけているに違いない。ひとりでいると、つい身近な動物に話しかけてしまうものだ。この私がそうだ。ライターは孤独である。誇張や冗談ではなく、私が世界中でいちばん話しかけているのが、この桃次郎なのだ。
過去に母親に預かってもらっているとき、奴がどうしても言うことを聞かないことがあったらしい。母親が「わがまま言うとったら、のぶちゃん(私)、迎えに来てくれへんで!」と叱ると、奴は玄関に飛んで行き、私をしばらく待っていたという。過敏に反応するので、私が不在の実家では、「のぶちゃん」は禁句である。
母親は毎朝、仏壇に手を合わせ、父親に話しかける。お鈴を鳴らすと駆けつけてきて、ワンワン吠える。ある朝、母親が仏壇に向かって父親に話しかけていると、そのうち哀しさのあまり涙声になった。すると近くにいた奴が異変を察し、「どうしたん?」と言わんばかりの心配そうな表情で、母親を見つめたらしい。連休中に母親から聞いた話である。奴は奴なりに、自分は母親の守り神と思っているのかもしれない。
* * * *
七回忌の法事の際、桃次郎をどうするかが家族の懸案であった。当然仏間でおこなわれる。奴をしめだし、別の部屋に閉じ込めると「オレを無視するな!」とワンワン吠える。かといって法事に参加させると、お鈴が鳴るので収拾がつかない。そうなれば連れ出すしかない。考えても答えが出ない。ええい、ままよと、北川景子(妻の仮名、容貌は別)に抱きかかえてもらい、午前中に法事が始まった。
案の定、住職の派手なお鈴に、奴は「ワン!」と大きく吠え、たちまち北川景子に口を押さえられていた。しかし、そのうち状況を察したのか、静かになった。
安心した北川は、隣りにいた母親に抱かせた。母親が誘ったのだろう。ところが気を許した隙に、奴が母親のもとを飛び出し、住職の背後に迫った。たちまち取り押さえられ、事なきを得る。
もう少しで厳粛な法要が台無しになるところだった。何事もなかったかのように読経にいそしむ住職は、さすがプロである。以後、逃亡犯は、再び北川の厳重な監視下に置かれた。
前半の読経のあと、住職が話をされた。
「早いもので、もう6年になります。亡くなったのは夏の暑い盛りでしたね。檀家さんと話していても、いい人やったねと、いまだに話題に出ます。人徳がありました・・・」
住職のありがたい言葉に、母親が激しく同意する。住職は月日が経つのが早いことを述べ、昨年末に発表された”今年の漢字”を覚えてますか? その前年、またその前年は? と私たちにたたみかけた。昨年はともかく、他は知らんがなとは言えず、しばらく沈黙が続く(答えは、災・北・金)。
さらに山口県で行方不明になった2歳男児を発見したボランティアの名前を問いかけ、そこから彼(尾畠春夫さん)の座右の銘ーーかけた情は水に流せ、受けた恩は石に刻めーーの意味について説いた。尾畠さんの思想は、仏教と共通するという。
仏教にも”和顔愛語”という言葉があるとのこと。穏やかな表情をし、やさしい言葉をかけ続けることで世界が変わるーー。
なるほど、そうだったのか! もっとはやくこの説法を聞いていたら、私の人生は違ったものになっていたかもしれない・・・。
「印税で2億くらいは稼いだ?」
説法の合間に、住職が私に問う。高貴な世界から一転、えらい世俗的な話である。
「いや、そんなに稼いでたら、こんなとこにいません!」
咄嗟にそう答えたが、私はおのれの失言に気付き、
「こんなとこって、どんなとこや!」
と自分で自分にツッコミを入れた。
* * * *
約2時間の法事が終ると、桃次郎は「静かにしとったな」「かしこかったな」と家族に褒められていた。周囲の大賛辞に、奴はまんざらでもない顔をしている。
「1回吠えたで。住職を襲おうとしてたで!」
私はそう言いそうになったが、大人げないのでやめた。
午後から、私たちきょうだい3人とその家族(姪は大学生と高校生になった)、それに母親の計9人が仏間で会食した。料理担当者は、遠方から来た妹である。時間はかかるが、いい仕事をする。もちろんそれなりの報酬は払わなければならない。
兄と妹とは、こういうことでもない限り、滅多に会わなくなった。だが、会っても特に話をすることはない。長い間、離れ離れで暮らせば、共通の話題も少ない。年々そうなっているような気がする。
数少ない共通項であり、この日の”主人公”であるはずの父親の話は、ほとんど出なかった。
ただ、遺産相続について、母親が意見を述べた。自身に何かあれば高齢者施設に入所するつもりであること、その前に財産を処分する意志があること。
さらに兄が重大発表をおこなった。その遺産で法人を設立し、地域社会に還元したいと言う。母親も妹も、了解済みらしい。なんや、俺だけ知らんかったんや・・・。寝耳に水の話に、私は驚きを隠せなかったが、もういい大人なので、その場で賛意を表明した。
肉親他人を問わず、遺産を巡る骨肉の争いは、これまでの取材でよく知っている。醜い諍いをするくらいなら、社会のために役立てるほうが有意義である。
* * * *
法事の数日後に帰省し、母親とふたりきりで話をした。あとは6年後の13回忌やなと話しかけると「そんな先まで生きてるかどうか、わからへん。・・・おらなんだら、お兄ちゃんに(法事を)まかす」と答えた。指名されなかった私は、少しホッとし��。
母親は数年前から、着替えを詰めたボストンバックを居間に置いている。急病で入院するようなときに備えているのだ。法事の夜も「延命措置は要らんからな」とみんなに聞こえるように言っていた。
6年後には、母親は90歳である。地域の同年代の人々が次々と亡くなっているので、着々と”店じまい”の準備をすすめている。
父親の話に水を向けると、「いまだにお父ちゃんに世話になった、いろいろ教えてもろたと町内の人に言われるで」と住職と同じ話を繰り返し、あとは町内の最新ニュースやゴシップを延々と語った。私は再度、父親の話を振る。だが、すぐに町内の話題に戻った。
母親と父親の話ができないのは、さみしい気がしないでもない。だが、それが母親の”父親離れ”のきざしであるのなら、悪いことではない・・・というよりも、母親は人と父親の話をしなくなっただけで、今もひっきりなしに心の中で話しかけている。
6年後、母親は、そして私たち家族は、どうなっているのだろうか。<19・5・31>
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旅日記9/29
3:00起床。
前夜の22:00頃から風が強くなり、なんども目を覚ました。結露、霧雨、外はホワイトアウト。
ヘッドライトをつけても視界が悪すぎる。幕にテンションをかけて、中で朝飯を作ることにした。
お湯を沸かしてアルファ米。焼き鳥の缶詰を温め、メスティンで豚肉と舞茸のすき焼き風炒め物を作る。美味。
5:30、外が少し明るくなってきた。幕内の荷物整理をする。6:00、急いで撤収。ルナーソロはクシャクシャに入れても大丈夫だったので、撤収がクソ早く済んだ。
6:15、なんか急に電波が通じる。ライン返したり、ヤマップ読み込んだりした。
6:20、下山開始。
道が濡れてぬかるんでる。滑りやすくて危険。
岩場がほんとに多い、岩場苦手。濡れてるから滑るし。
道中、ホグロフスだったっけ、ホフグロスだっけ、ホグロクスだっけ、しかもなんの名前だったっけ。そんなことばっか考えてた。
靴下二重履きのおかげで足はそこそこ楽。沢の水量が増えて、時間がかかる。晴天時の平均時間を2倍くらいオーバーして巡視小屋まで。高度が下がれば難易度は下がるはずと思っていたけど、難所が多い。そういうことするんだ、って呟きながら死ぬかもと思いながらさらに下る。途中粘土ですべり、滑落した。2mほど落下して、股の間に木が引っかかって止まる。一面の笹が濡れてすべり、なかなか上がらない。近くの木の幹に捕まり、なんとか登山道に這い上がった。終わったかと思った。沢で水を��み、水分補給しながらゆっくり進む。誰ともすれ違わない。やべえなあ、やべえとこに来ちまった。頭の中でドリカムの晴れたらいいねが再生され始める。雨が本降りになっていく。岐路にたどり着き、緩やかなルートになっていく。沢を何度も渡る。水量が多い、岩場が滑る。難なくかわして、最後の沢渡。ここは水量が少ない。鉄砲水が来るんじゃなかろうか?そう思いなが���急いで通過。そこから2kmほど平坦な道を歩いて、登山道をようやく抜けた。道路を10分ほど登り返してロープウェイの駅へ。カブはそこに停めてある。トイレに行きたい。土合口について、トイレに駆け込む。やった。終わった。天国と地獄だった。
食堂で飯を頼もうとすると、ラーメンとチャーシューメンしかないと言われ、ラーメンを食べる。味覇の味がするスープだった。14:00、少し休んで、帰宅開始。左足のつま先がめちゃくちゃ痛い。シフトチェンジを丁寧に心がけて、走る。意識が飛びそう。死にたくない。
伊勢崎のガソスタで給油、休憩して、走る。しっかり走れたし、足がだいぶ回復してきた。19:45帰宅。来年また再チャレンジしよう。次の行程や、限界をとても意識した山行だった。水場、水量、日没時間、リミットが多い旅立ったし、色々ギリギリだった。
生きててよかった。
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