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#ウラジオストク事件
metal-cn · 1 month
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【悠仁さま、リーク騒動】では、秋篠宮家は、全員、外モンゴル(ヤルタ協定)をも、目指すか?逃亡。それ、外モンゴル自身が難民条約を不都合と考え、批准していない!本ブログの言う、シベリア抑留!
もちろん、秋篠宮家は、シベリア抑留を知る。だからこそ、本ブログは、先手をね。反スターリニズムもね。高らかにだね。言うまでもなく、ヤルタ協定(1945,2)によって、外モンゴルの地位は保障された。だが、それこそ、シベリア抑留者=難民条約の指す、難民か、判断嫌がって、外モンゴルは、同条約を批准していない。秋篠宮は、一家で国際逮捕がほぼ決まった。既述。みんなが脱出した。必死に。シベリア抑留から。然るに秋篠宮家は、そこしか、生存の地がない。だからこそ、本ブログは先手で、これを否定しまくった。逃亡の地?無駄だ!貴様の、収容所番号は、いくつだとね。逃也逃不了。逃都逃不完。要は、逃げるなと。
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kennak · 2 months
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軍事転用可能として輸出が規制されている水上バイクや船舶エンジンなどをロシアに不正輸出したとして、大阪府警は10日、外為法違反(無許可輸出)の疑いで、大阪市中央区の貿易会社「アストレード」社長でロシア国籍のソワ・アンドレイ容疑者(38)=大阪府吹田市=を逮捕した。ロシアによるウクライナ侵略に伴う経済制裁以降、不正輸出容疑での逮捕は初めて。制裁後、同社は韓国経由で約40回ロシアに物品を輸出したとみられ、府警は他にも違法取引があったとみて実態解明を進める。 逮捕容疑は昨年1月、経済産業相の許可を得ず水上バイク4台や船舶エンジン、トレーラー、中古バイク18台など約4300万円相当の物品を大阪・南港から、韓国・釜山を経由しロシア極東のウラジオストクの港へ不正輸出したとしている。ソワ容疑者は「弁護士と相談して話す」と供述しているという。 不正輸出は韓国の企業を経由し、ソワ容疑者が経営に関与するウラジオストクの会社に送るルートで繰り返されていたとみられる。府警は水上バイクなどが軍事転用された可能性や韓国企業の関与についても調べる。 日本政府はウクライナ侵略に伴い、ロシアに広範な経済制裁を実施。半導体や通信機器といった軍事転用が可能な物品や、産業基盤強化に資する物品などの輸出を禁止している。 制裁「抜け穴」性善説制度に課題も ロシアに不正輸出したとして外為法違反容疑でロシア国籍の「アストレード」社長、ソワ・アンドレイ容疑者が逮捕された事件では、第三国を経由する迂回(うかい)ルートが「抜け穴」として利用された。ロシアのウクライナ侵略以降、日本など先進7カ国(G7)は広範囲に経済制裁を強め、ロシアの弱体化を狙う。ただ、中国など制裁に加わらない国による下支えに加え、第三国経由の不正輸出も後を絶たず、課題は山積している。 「今回は氷山の一角と認識している」。大阪府警幹部はこう話す。 ロシアへの輸出は、軍事転用が可能などとして、外為法に基づく輸出貿易管理令で品目などが厳しく規制されている。だが、輸出の許可申請については、事業者側が主体で行っており、いわば「性善説」に基づく制度なのが実態だ。 今回の事件で、ソワ容疑者はロシアへの不正輸出を隠し、韓国企業に輸出すると税関に申告していたことが判明した。捜査関係者は「外為法はいわゆる『ザル法』。虚偽の申告を捜査当局側がすぐに気づき、追跡調査するハードルは高い」と明かす。 「不正輸出は小さなリスクで大きな利益が得られるため、手を染める事業者は後を絶たない」。国際問題アナリストで元国連専門家パネル委員の古川勝久さんも「今回の摘発は重要な一歩」とした上で、不正輸出を巡る現状について懸念を示す。 古川さんによると、日本の製品は品質の高さから多くの国で需要が高い。ただ、仮に外為法違反に問われても「執行猶予にとどまるなど軽い罰則で済まされるケースが多く、甘くみている事業者もいるのではないか」とし、「資産凍結など厳しい罰則を設けるべきだ」と話す。 今回のアス社もウクライナ侵略でロシア国内の日本企業が軒並み事業を停止する状況を「ビジネスチャンス」と捉えたとみられる。アス社の売り上げは経済制裁前と比べて大幅にアップ。民間信用調査会社によると、令和5年3月期売り上げは約23億円で、前年の約2・5倍に膨らんだ。捜査関係者は「不正輸出をしてでも利益を得ようとしたのだろうが、軍事目的で使われた恐れもゼロではない」と話す。 また、古川さんは今回、迂回ルートとして韓国・釜山が選ばれていることに着目。釜山は不正輸出の経由地として、仲介役として暗躍する人材など密輸ネットワークが集積している場所だといい、「韓国側とも協力して、関係者全てに包括的に制裁を与えなければならない」と指摘する。すでにロシア軍の兵器に日本製品が使われた事例もあり「製品にかかわらずロシアとの取引自体を全面禁止すべきだ」と訴えた。(有川真理、鈴木文也)
水上バイク、船舶エンジン…ロシアに不正輸出か、貿易会社社長を逮捕 韓国経由で40回 - 産経ニュース
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reportsofawartime · 6 months
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シベリア出兵 日本は1918年8月11日のウラジオストク上陸以来、増兵を繰り返して協定兵力を大きく超える兵力7万2,000人を派兵。ハバロフスクや東シベリア一帯を占領した。 中国8年戦争 日本は1937年盧溝橋事件に始まった日中戦争は8年間にわたり、満州には74万人、中国本土には8年間で約500万人の日本軍が中国を焼け野原にした!
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ari0921 · 10 months
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和五年(2023)11月10日(金曜日)
    通巻第7994号
 
  中国経済の舵取りを担うことになった何立峰ってWHO?
   福建省時代から三十数年、「習近平べったり男」。財政通ではある
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 世界90ヶ国から国防大臣クラスをあつめて北京で開催された「香山フォーラム」をそっちのけにして、10月下旬に習近平は「最高金融会議」を開いていた。この会議にはトップセブン(政治局常務員全員)が雁首をそろえるほどの異常事態だった。
 結局、浮かび挙がったのは中国経済の舵取りを何立峰・副首相が采配することになったことだ。
 何立峰は「中央金融委員会弁公室主任」に任命された(これは金融業界監督強化のため3月に設置されたばかり)。加えて何立峰は、金融システム全体における党のイデオロギー・政治的役割を強化する別組織「中央金融工作委員会書記」にも任命された。
 何立峰は福建省永定県生まれ(68歳)。
廈門大學で経済学を学んだ。財政金融の専門家として頭角をあらわし、87年廈門市財政局長、このときの廈門市副市長が習近平だった。
習の結婚式にも出席するほど、その距離が近く、92年に廈門市副市長、95年には泉州市書記に栄転した。泉州はマルコポーロの時代から海外貿易に拓けた貿易港である。
 2009年に、何立峰は習近平の強い推挽で、出世コースといわれる天津に配置換えとなり、2015年8月におきた天津浜海地区の爆発事件の責任を問われず、トントン拍子で2017年には中央委委員に、22年には政治局員に出世した。
2023年三月の全人代で副首相を兼ねることとなった。たしかに何立峰は財政政策通だが、その立身出世の過程を振り返ると、習べったり人生である。 
 経済政策は国務院の専管事項だが首相の李強は上海書記時代の長期に亘るロックアウトの責任者であって評判が悪い。経済的な業績はと言えば、テスラのEV工場を上海に誘致したことくらい。
この李強首相を輔佐する副首相は四人。丁薛祥、何立峰、張国清、劉国中だ。
 政治力量は政治局常務委員を兼ねる丁薛祥がもっともパワフルだ。丁は江蘇省南通出身で、エンジニアから政治家に。中央弁公室主任(米国で言うと首席大統領補佐官にあたる)から序列六位へジャンプ。丁もまた習の「側近中の側近」とされる。
 張国清は兵器関連の企業で長く勤務し、重慶市長、天津市長、遼寧省書記などを務めた。清華大学で経済学博士、つまり「清華大学閥」で習近平と強い絆がある。ことし九月、ウラジオストクで開催された「東方経済フォーラム」に習近平名代として参加し、プーチン大統領と会談しプーチンの一帯一路フォーラム出席の確約を得た。
 
劉国中は黒竜江省副省長、吉林省、四川省とどさ回りが続き、陝西省省長、同書記などを務めた。習近平との絆は不明だが、九月の北朝鮮訪問団の団長格として金正恩と会見している。
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yuurasu · 3 years
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こんばんは。今日は休みでやはり一日中自宅。BSTBSで「西村京太郎サスペンスシベリア鉄道殺人事件」をやってました。シベリア鉄道は長年の夢でウラジオストクからモスクワまで乗り通したい思ってます。
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keyakizaka46shop · 7 years
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ENTAME(エンタメ) 2017年 11 月号
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【特別付録】 欅坂46 両面クリアファイル 織田奈那/小池美波/小林由依/今泉佑唯×平手友梨奈×長濱ねる 【表紙&巻頭グラビア】 織田奈那×小池美波×小林由依(欅坂46) 【グラビア】 阪口珠美×山下美月(乃木坂46) 小栗有以(AKB48 Team8)×久保怜音(AKB48) 木﨑ゆりあ(AKB48) 矢倉楓子&城恵理子(NMB48) 田島芽瑠(HKT48) ほのか 久松郁実 天木じゅん 仲村美海 【勢いが止まらない! 坂道特集】 欅坂46ユニット座談会 上村莉菜×小池美波×長沢菜々香(156) 石森虹花×織田奈那(五人囃子) けやき坂46 『Re:Mind』収録密着レポート 乃木坂46 アンダー&3期生MV密着2連弾! 乃木坂46 アンダー「新たなる船出」 樋口日奈×寺田蘭世×渡辺みり愛 【特集記事】 SKE48&NMB48 秋の卒業特集 斉藤真木子×大矢真那/江籠裕奈×大矢真那 木下百花×三田麻央 じゃんけん大会2017決勝出場ユニットAKB48グループ越境TALK 市川美織(NMB48)村川緋杏(HKT48)高倉萌香(NGT48) 渋谷凪咲(NMB48)藪下楓(STU48) 木﨑ゆりあ(AKB48)卒業記念インタビュー 3カ月連続特別企画 ハロー! プロジェクト2017新体制決定スペシャル モーニング娘。'17へようこそ! 譜久村聖×森戸知沙希 中山莉子inロシア・ウラジオストク もふくちゃん森高千里を語る! GIRLS FRONT LINE 高月彩良 善き人のためのアウトレイジ入門 プロ野球平成ドラフト感動&驚愕事件簿 SF映画の金字塔! 『猿の惑星』徹底解剖 木村祐一が語る「笑わせたい」と「笑われたい」 【新連載】 NMB48加藤夕夏の「うーかとデートなう」 【好評連載】 HKT48 なこみくGIRLS COLLECTION 2017 NGT48の部活動勧誘会/中村歩加×村雲颯香 特別ゲスト:風男塾 私立恵比寿中学「サブカルの奥のほそ道」 井上咲楽 イノサクさんの事件簿 アイドルネッサンス色彩を奏でる/比嘉奈菜子 IDOL Who's next/鎌田サラ(TOKYO5)
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metal-cn · 1 month
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仰天識者!では、シベリア抑留とは?俘虜だったのか?こういう、本当にシビアな、話なんだ!これが、国際法なんだ!
先の大戦。でも、本ブログは、合わせて言う!貴様の、収容所番号は?スターリズムに、屈しないために。〽all thimgs are true〽だから、8,9騒動の、根幹は、反スターリニズムだったわけ。長崎に外交権ない!当たり前!長崎から、反スターリニズムとは?これのみ、正解やったわけだね。
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psalm80-lilies-ii · 6 years
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尹東柱の「懺悔録」 2
韓国併合のいきさつなんてうろ覚えなのである。だから改めて山川の『詳説日本史研究』(1998年版)をひもとくのだが、この本(要は「日本の高校生が習うこと」)によれば、日本は「第一次日韓協約で日本人顧問を派遣して韓国の財政と外交に介入し、第二次日韓協約で韓国の外交権を握り韓国統監府を置いて韓国を保護国にし、第三次日韓協約で内政権を奪って韓国軍を解散させ(ウィキペディアによれば司法権と警察権の委任も定められていた)、義兵運動を軍隊で鎮圧したあと伊藤博文が暗殺されて韓国は併合された」とある。この間大韓帝国皇帝・高宗が登場するのは「ハーグ密使事件を起こして退位させられた」という話だけである。
つまり「高宗は保身と引き換えに韓国を日本に売った」と書いてあるわけではないし、そういう事実もなさそうである。でもなんか高宗って日本の傀儡だったようなイメージがあるのは朝鮮の独立が下関条約によるからなのかなあ、と思ったりしたのだが、上に引いた高宗についての「ウィキペディア」の記事に『朝鮮日報』のコラムというのが引かれている。少し長いが、シンプルな文章なので全文を引く。
【コラム】高宗に問うべき三つの罪
記事入力 : 2019/02/06 05:03
高宗は、日清戦争時は米国公使館、日露戦争時はフランス公使館へ避難しようとした。1884年の甲申政変の時は清の軍隊に救出され、1895年の明成皇后(閔妃〈びんひ〉)暗殺事件の後は「俄館播遷」でロシア公使館へと逃亡した。日露戦争直前には、中国の青島かロシアのウラジオストクに亡命するといううわさも流れた。何かあれば外国公使館への避難・亡命説が出回る国家指導者を、どこの国がきちんと認めてくれるだろうか。
高宗は、国を生かせるチャンスを幾度も逃した。高宗の在位44年間は、韓中日3カ国が生存のため必死に近代化競争を繰り広げていた時代だった。だが、国家改革を急ぐよりも君主の威信を高めることに予算を注ぎこみ、甲申政変や東学革命(甲午農民戦争、1894)といった山場を迎えるたびに外国軍を引き入れた。日露戦争時は中立国宣言で危機をやり過ごそうとした。だが日本軍が進駐して紙切れと化した。自らを守る能力がない大韓帝国の中立国宣言は、世界の笑いものにしかならなかった。
高宗が国力を結集して憲法と議会、近代的司法システムを整備し、国の存立を賭けて近代文明国へと転換していたなら、あれほど無力に植民地へと転落はしなかっただろう。だが高宗は、国家改造のため互いに手を携えるべき友好勢力の独立協会・万民共同会を弾圧した。下からの改革要求が君主権を侵害すると判断したからだ。皆が力を合わせても手に余る時期に、高宗は徹底して「味方と敵」を分ける陣営政治の先頭に立った。
高宗が各国へ密使を送り、日本による主権侵害を暴露する秘密外交を展開したのは事実だ。だが、それだけだった。弱肉強食の時代に、無力な国を助けてくれる善意の隣人はいなかった。このところドラマや映画、展示などで見られる、高宗に「改革」「抗日」の色付けをして再評価する熱気は、事実を誤解させる危険性が高い。よその国の公使館に逃げていった道を、近代国家を夢見た「高宗の道」と美化しても、亡国へと導いた罪は軽くならない。日本による35年間の支配を呼んだ第1次の責任は、高宗に問うほかない。
金基哲(キム・ギチョル)論説委員
朝鮮日報/朝鮮日報日本語版
ひとことで言えば「ふがいない」皇帝だったのである。植民地化に反対して民衆が武装蜂起までしたという事実がありながら、高宗自身は韓国併合後日本の宮様にしてもらって余生を過ごした。これは、裏切りだろう、韓国民衆にとっては。
いまの韓国において「右寄り」な『朝鮮日報』にこういうコラムが載るのは(「皆が力を合わせても手に余る時期に徹底して『味方と敵』を分ける陣営政治の先頭に立つ」ことの愚を指摘して誰かさんを批判したいのかもしれないけれど)、高宗のこの「ふがいなさ」を直視できるようになることによってしか、いま大韓民国の真の独立はない、ということである。誰かのせいにばかりしていても、自分の望む未来はやってこないのだ。明らかに専制国家だった大韓帝国で、それでも民衆が自分たちの未来のために何ができるかを考えていたとき、控えめに言って「高宗にそれを汲む力がなかった」のは、日本のせいではなくて高宗の責任である、ということである。
「高宗に『改革』『抗日』の色付けをして再評価する熱気」とはいま韓国で高まっている「ぜんぶひとのせいにする」熱気の一部なのだろう。韓国の武装蜂起を日本が軍隊で鎮圧したという歴史があるとき「それは鎮圧された奴が悪い」というのは暴論だ。でも、この世にはフィンランドの冬戦争みたいなこともあるのだから、どうすれば「あれほど無力に植民地へと転落はしなかった」のかという自省がいまの韓国にある方が、民族主義によって未来を開く挑戦の方向性としてはむしろ健全なんじゃないかと、日本人としては他人事みたいな言い方で失礼かもしれないが、正直なところぼくは思う。「いやだから、まさにその挑戦のために金日成がいたし、いま金正恩がいるんだよ」ということかもしれないが、「それはないだろ」というのがこのコラムの立場だし、ぼくも同感である。
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rasyuka · 5 years
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キャス変で思うこと(キャストの名前出してます)
どん���りのチケットツイを見ていたら、TLに「えっ、シンジくん…」とういうツイが流れてきて、不穏な空気を感じつつチケットの詳細を見に行ったら何も書いてなくて、HPを見に行ったら
「シンジ ボイスキャスト変更のお知らせ」
サーッと血の気が引いていくのがわかった。
仕事が一段落して、最近はお片付けにちょこちょこ行くだけになっていたので今日もぼちぼち行くかな~と思って準備していた矢先の出来事。もう行く気にはならなかったよね。
信じられない気持ちと混乱と全てを察した悲しみとふつふつと湧いてくる運営サイドへの怒りと。
しばらく「えっ???」しかツイートできなかったわ。
キャス変に対する危惧は以前からあって、最初は歌詞さんのご病気によるレイジの休業のとき。
それでもあのときは直接レイジが絶対に戻ってくるからって言ってくれたから信じて待っていることができたのだけど、逆にその前例があったから今回キャス変に至ったのなら本当にもう無理なんだなということでもあって放心状態。
このコンテンツのやり方的にキャス変するのは難しそうだから、Vキャスが辞めるときはキャラごと引退だと思っていたし、今回も正直そうしてくれたらどれほど良いかと思っている部分はある。
でもVキャスだけがシンジくんではないという思いもありつつ。
まだ公式からの発表がたった数行のあのお知らせだけなので何もわからない状態なのだけど、とりあえずシンジくんはこれからもシンジくんとしてARPのメンバーで有り続けるのだから、見届けたいと私は思う。
それでもやっぱり無理だと思ったらきっと担降りすると思うけど。
今のシンジくんとはもう会えないのかな?1月が最後だったのかな?
シンジくんはこれからもシンジくんだからお別れもへったくれもないのだけど、βからREWINDの一部以外ほぼ全通してシンジくんを応援してきたいちファンとしてはこれまでのシンジくんに感謝の気持ちを伝えたいのとサヨナラをさせてほしいんだよ。
そうでなければ煮えきらず割り切れず、永遠にモヤモヤしたものを抱えて生きる亡者になってしまう。本当に割り切れるかどうかは別として。何にせよ突然すぎた。
ここからは完全に私の憶測
当時ツイートもしたけど、KENNさんが事務所を電撃移籍することになってまず思ったのがARPは続けてくれるのかなということだった。個人Twitterも辞めてしまったし、ラジオも終了してしまったしね。
とても失礼な話、ARPが始まった当初すぐにけんぬだ!って皆がわかるくらいには人気のある方だけれど、それでも売れっ子と言われる他の声優さんと比べるとそこまでアニメにバンバン出ているわけでもなくまだ余裕があったのかなぁと。
移籍をしてからはかなり露出が増えたように思うし、アイナナからもぐっとファンが増えて最近はとても忙しそうに見えた。
いつの間にかハワイロケに行っていたり、今度出る写真集は全編ウラジオストクで撮影していたり。それなのに某ゲームをクリアした!と言っていたり一体この人はいつ休んでいるのだろうかと思うくらい。
だから今回の件で真っ先に思ったのは体調崩したわけではないよね?大丈夫だよね?という心配。冷静になって考えたらつい最近も生放送に出てたじゃないかと思い出したのだけど。
それくらい他のコンテンツでも多忙なうえ、ARPは週1のラジオのための収録、ライブ前はリハ、本番は丸々2日以上と拘束時間の長いコンテンツ。
商売である以上、事務所としてもあまりに拘束時間が長いと他の仕事を回せなかったり支障が出たりするのは困るよね。
特に去年は夏にナナライとARPが2ヶ月連続で。今年も同じスケジュールだけど大丈夫かなぁと思ってた。
ナナライも観に行ったけれど、あっちは歌もダンスも自分で全てこなさなければならないし、その分稽古だってしなきゃならない。ARPはダンスはないとはいえ生歌で一日に2公演ずつ、Aキャスさんとの連携のため精神疲労がすごそう。人気商売としては休みがないほうがありがたいのかもしれないけれど、本当に大変だったと思う。
ARPの本番で他のコンテンツのイベントや生放送を欠席していることに対してきちんと説明することもできず、ファンからこのコンテンツが嫌いなのかなぁとか干されてるのかなぁとか言われてたのも知ってる。
だから、もう限界だったのかなと。
KENNさんのことはテニミュからそこそこ見てきたけど、いつも役に対してファンに対して一生懸命で色々なことを考えてスタッフさんと議論して方向性を決めているとおっしゃっていて、ファンとして役者でありアーティストである彼のことしか知らないけれどお仕事にとても誠実な人だなと思っていて、そういうところが好きだった。
本当に何も知らないけれど、ただの憶測でいうなら仕事に好き嫌いがあったり面倒になったから途中で辞めちゃえとかそういうことをする人では絶対にない。
憶測に次ぐ憶測だけれどそういう人だからこそ本人にとっても今回のことは苦渋の決断だったのではないかな。ファン(特にプリンセス)に対して思うところも色々とあると思う。プリンセスがお金相当かけてるの知っているだろうしね…笑
まぁどう思っていたとしても私達は一生その思いを知ることはできないのだけど。
実のところ(失礼極まりないけど)KENNさんの歌は好きだけどハマり役とハマらない役があるなぁとか思っていて他のコンテンツでも最推しになることがあんまりなかった。
でもシンジくんにここまで落ちてしまったのは1stのあの涙の優勝なんだよね。シンジくんとしてプレッシャーを乗り越えての優勝だったし、そこまで思い入れてやってくれているのかと思って。
正直私は台本は割とあると思っていて、いつかのチームインタビューで色々と考えて演技しているようだったからひょっとしたらあの涙も演技だったのかも…だとしたらそれはそれですごいなと思ってしまった。
あと素だとちょっぴりおばかさん(本当に失礼)なのに、生の現場でパッとアドリブで秀才を演じられるのもすごいなと感心してしまってより一層好きになってしまった。
だから本当に本当に残念。彼のキャリアアップのための決断なのだとしたらもう何も言えないけれど。
新しい人もきっとインタビューで言ってたこれまでのチームシンジの設定ノートや台本を元に寄せて作りこんでくれるとは思うけど、どこかでやっぱり違うと感じてしまうところがあるだろうなと思うとこのやり方は諸刃の剣だなと。これがリアルさを生み出しているとはわかっているのだけど。
それで運営に対して思うのは、たった数行のお知らせでファンが納得すると思っているのかということ。
キャスト非公開というやり方をとっている以上、キャストの都合などに関して言及できないことは承知しているし期待もしていない。
私も長い間キャラコンで客商売をしていたから言いたくないけど、あまりにもお客様を蔑ろにしすぎている。特に今回の件は真っ先にFC会員に伝えなければならないでしょ。
私達はそれ相応の価値があると思って対価を払ってる。よそから見たら決して安くはない金額だけど価値があると思うからこそ払ってる。これまでシンジくんに課金してきたことに後悔は全くないし、次こそは勝ってFinalist歌わせる!って思ってたし。
それがこのたった数行で、ツイートするわけでもなくしかもチケット販売の直前に。
運営の対応ひとつでどんなに良いコンテンツでも傷がつくし、失った信用を取り戻すことはただ売上を上げることの何倍も難しい。
客の要望を全て聞き入れる必要はないと思うけれど、これだけは考え直してほしい。
お客様と直接関わるところで働いているスタッフさんたちの愛も努力も伝わっているし、その他の方たちも決していい加減な気持ちでやっているとは思わないんだけれど、だからこそ残念。
最初は運営のノウハウが全くなかったかもしれないけど、もう何年やっているの?レイジのときにも一悶着あったよね?そう思われても仕方がないのでは。
えーべはなんのためにわざわざファンを呼びつけて会議を開催したの?結果がこれですか。
シンジくんがイベントや生放送に出られないことに対して何かしら考えると言っていたそうだけど、何かしらがこれですか。
新しいことを考える前にもっとやることが先にあるのでは?
期待が大きければ大きいほど、しくじった時の失望は大きくなることわかってほしい。私はファンとアンチは紙一重だと思ってる。
もっともっと言いたいことは山ほどあるけれど、それでも応援し続けたい気持ちはあるし期待もしている。これまでと同じように課金できるかといったらそうはいかないかもしれないけど。
新しくシンジくんに魂を込めてくださる方がどなたかわからないけれど、きっとプレッシャーもあるだろうし批判もあるだろうし、これまで作り込まれてきたチームワークの中に入っていくのはとても大変だと思う。
どうかシンジくんをよろしくお願いします。
超長くなったし途中で消えたからえらい時間かかったけど、最後に聞きたい。
シンジくんとして過ごしたこの数年、楽しかったですか?
私はめちゃめちゃ楽しませてもらいました。シンジくんを演じてくれて本当にありがとう。
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jazieta-blog · 6 years
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安倍のバカっぷりはとうとうグローバルに(笑)2018年、安倍首相のバカ丸出し&人格破綻発言集 豪雨、地震、森友加計で信じがたい冷酷と厚顔! 2018年、安倍首相のバカ丸出し&人格破綻発言集
litera(前編)https://lite-ra.com/2018/12/post-4460.html litera(後編)https://lite-ra.com/2018/12/post-4462.html 28日に「2018年、安倍首相がついた真っ赤な嘘とインチキ総まくり」をお届けしたが、今回は、「え?  この人、ホントに総理大臣なの?」と耳を疑った唖然茫然発言と「よくそんなこと言えたな!」とツッコまざるを得なかった無神経発言を厳選した。  これま��、さんざん無知、無教養をさらし、民主主義を全く理解していない、国民をバカにした発言を連発してきた安倍首相だが、今年はそのバカっぷりを外交でもいかんなく発揮。海外メディアからツッコミを受ける事態まで起きた。  題して「安倍首相バカ丸出し&人格破綻発言集」。そのひどさ、恥ずかしさに思わず頭を抱えてしまうかもしれないが、こんな人物を総理大臣に戴いているのが日本の現実だ。まずは前編の7本を公開するので、大いに笑い、そして怒りに震えてほしい。 ◎バカ&人格破綻発言その1 (トランプ大統領の)歴史的な勝利に対してお祝いを申し上げたい」 11月30日、日米首脳会談の冒頭に  ご存じのとおり、11月にアメリカでおこなわれた中間選挙では下院で民主党が大幅に議席を伸ばして過半数を奪還した。──にもかかわらず、すっかりトランプ大統領へのご機嫌取りが板についた安倍首相は、臆面もなく“フェイクニュース”で祝福。これに失笑したのは海外メディアで、CNNコメンテーターのアクセルロッド元大統領上級顧問は「安倍氏は中間選挙に関してきちんとした説明を受けていないか、トランプ氏の精神構造についてきちんとした説明を受けたかのどちらかだ」(朝日新聞デジタル12月1日付)と皮肉り、民主党のリュー下院議員も「日本大使館の方、事実は違うと首相にお伝えください」とTwitterに投稿。“kiss ass外交”で世界に恥を晒すのは、もう勘弁してください…。 ◎バカ&人格破綻発言その2 「(プーチン大統領とは)ウニなどについて合意しましたよ!」 9月14日、日本記者クラブでの総裁選討論会で  で、次もトランプにつづいて安倍首相が都合のいい御用聞きに成り下がっているプーチン大統領とのロシア外交問題。9月にウラジオストクでおこなわれた東方経済フォーラムでは、プーチン大統領に“北方領土返還の前提条件を一切抜きにした平和条約締結”を突きつけられ、焦ったときに必ず浮かべてしまうニヤニヤ笑いしかできなかった安倍首相だが、総裁選の討論会でも記者から「国民に期待をもたせているのに無責任では」などと質問が飛ぶと、キレ気味に「私が意欲を見せないかぎり動かないんですよ。いままで1ミリも動いていなかったじゃないですか」と主張。一体どんな成果を誇るのかと固唾を呑んで見守っていたら、出てきた言葉はなんと「ウニで合意した!」 (笑)。……いまは「2島返還プラスアルファ」で交渉が加速するかのように必死で喧伝しているが、「ウニ」を成果だと叫ぶ人間がプーチンから2島返還を取り付けるなど、夢のまた夢の話である。 ◎バカ&人格破綻発言その3 「背後(せいご)には、1980年代以降、日本からこれら諸国に向かった大規模な直接投資がありました」 9月26日、国連総会一般討論演説  せ、せいご??? 国連総会での一般討論演説を観ていた人は、誰もが首を傾げたことだろう。安倍首相は昨年も「云々」を「でんでん」と読み間違えたことが話題になったが、「せいご」も「でんでん」も、そう読み間違えるほうが難しいだろうに……。  だが、読み間違えは誰にでもあるものだと百歩譲ったとして、聞き捨てならないのは、安倍首相が今年も性懲りもなく自分のことを「立法府の長」と言い間違えたことのほうだ(11月2日衆院予算委)。安倍首相は2016年にも「私が立法府の長」「立法府の私がお答えのしようがない」などと3回も国会で答弁。さんざん問題になったのに、まだ繰り返すか、という話だ。  これは、わたしたちの想像の域をはるかに超えたおたんこなす宰相の証拠であるような気もするが、もうひとつ可能性がある。それは、この総理が自分は事実上の「立法府の長」だと思っている、ということだ。いや、三権分立などを超えて、本気でこの人はあらゆる権力を握っていると盲信しているのではないか──。頼むから、小学校の社会(と国語)からやり直してくれないだろうか。 ◎バカ&人格破綻発言その4 「(エンゲル係数の上昇は)物価変動のほか、食生活や生活スタイルの変化が含まれているものと思います」 1月31日、参院予算委員会  エンゲル係数は家計の消費支出総額中に占める食料費の割合のことで、一般に高ければ高いほど生活水準の低さ(生活の苦しさ)を表している。この数値が、第二次安倍政権のもとで急上昇している──。国会でそう突きつけられた安倍首相は、何を血迷ったのか「生活スタイルの変化だ」と強弁したのである。  不都合な記録は改ざん・捏造・隠蔽するのが安倍政権の常套手段と考えれば、アベノミクスで庶民の生活が苦しくなっていることを端的に示すデータもなんとかねじ曲げようとしたのだろうが、さすがに中学生でも知っているエンゲルの法則までごまかそうとするとは…。開いた口が塞がらない。 しかし、もっと驚く珍事が起こったのである。 このバカ答弁の翌日、ユーザー参加型のインターネット百科事典「Wikipedia」における「エンゲル係数」の項目が、まるで安倍首相の主張に合わせるかのように書き換えられたのである。何者による改変なのかは不明だが、「事実」すらも安倍政権に都合よく改ざんされるーー。ジョージ・オーウェルの小説『1984年』を彷彿とさせる空恐ろしい一件であった。 ◎バカ&人格破綻発言その5 「柚木議員の話は、まるで高プロを導入すると、過労死が増えるかのごときのお話」 5月23日、衆院厚労委員会  昨年2月、安倍首相は過労自殺した電通の高橋まつりさんの母親と面会し、まつりさんとの思い出話を涙ぐみながら聞きいて、長時間労働の是正を「なんとしてでもやります」と述べたという。ところが、長時間労働や過労死を助長する「高度プロフェッショナル制度の創設を打ち出した挙げ句、「全国過労死を考える家族の会」が安倍首相との面談を希望すると、これを拒否。その日、過労死遺族が傍聴するなか、国民民主党の柚木道義議員が「直接、安倍総理とお会いしたいとおっしゃっているんです。加計理事長と同じ15分でも、せめて15分でも会えないんですか」と安倍首相に訴えると、安倍首相は事も無げに上記のとおり言い放ったのだ。  しかも、この日の夜、安倍首相は銀座の料亭で、高プロ創設を宿願としてきた経団連の今井敬、御手洗冨士夫・両名誉会長らと会食。高プロの創設が目前に近づき、経団連のお歴々と祝杯をあげたことは想像に難しくない。  高橋まつりさんの過労自殺を「働き方改革」の宣伝として使い倒し、時間外労働の上限規制と高プロ創設をセットにすることで本質をはぐらかし、過労で死に追い詰められたまつりさんの事件を過労を合法化するために利用した上、そのことに批判が高まると面会を拒絶して経済界の大物たちと乾杯する──。どこをどうとっても「人でなし」としか言いようがないだろう。 ◎バカ&人格破綻発言その6 「(遊説から帰国し)時差が激しく残っているなかにおいて、明日は(参院)法務委員会、2時間出て、ややこしい質問を受ける」 12月5日、「年末エコノミスト懇親会」挨拶で  臨時国会で最重要法案に位置づけられた「外国人材拡大」法案は、中身が空っぽな上に土台となる外国人技能実習生の劣悪な労働環境の実態を“捏造”していたことが発覚するなど、実態の見直しをおこなってから法案をつくり直すほかないことが明々白々に。というのに、安倍首相は法案審議じたいを「ややこしい質問を受ける」などと挨拶して、会場の笑いを取ろうとするという醜態を晒したのだ。  しかも、その参院法務委では、法務省がようやく出してきた技能実習生の「死亡事案一覧」で、2015?17年のあいだに技能実習生がじつに69人も死亡していたことについて質問が飛んだが、安倍首相は「亡くなられた例については、私はいまここで初めてお伺いをしたわけでありまして、ですから私は答えようがない」と、法務省資料にさえ目を通さないという自身の怠慢を正当化。ほかの質問でも「お答えのしようがない」と繰り返した。  あきらかになっていく技能実習生の非人道的な実態についての追及を「ややこしい質問」と呼び、その質問に答えた結果が、これ。そして、安倍首相はこのまま法案を通してしまったのである。 ◎バカ&人格破綻発言その7 「自衛隊が合憲であることは一貫した(政府の)立場で、自衛隊を明記することが(憲法改正の)国民投票でたとえ否定されても変わらない」 2月5日、衆院予算委員会  だったら改憲する意味も国民投票する必要なんかないじゃん! とツッコまざるを得ないだろう。そもそも、安倍首相は他方で「自衛隊を明記し、違憲論争に終止符を打つことはいまを生きる私たちの責務だ」と言いふらしてきた。ようするに、「違憲論争云々というのが改憲の目的などではなく、平和主義を具体化した9条の戦争放棄と戦力不保持を骨抜きにし、改憲によってフルスペックの集団的自衛権の行使を可能にすることを目指しているのである。  しかも、姑息なことに、9月1日に掲載された読売新聞のインタビューでは「(国民投票は)政権選択の投票ではないと、明確にしないといけない」と発言。国民投票で過半数の賛成票を得られず改憲案が否決されたとしても、それによって自分が退陣することはない、といまの段階からすでに保険を打っているのだ。  国民が望んでいる景気回復や雇用、社会保障の問題よりも改憲を最優先課題にあげて、否決されても総理は辞めないと宣う──。この無責任ぶりに、来年はどこまで拍車がかかるのだろうか。 前編では世界規模に鳴り響いた安倍首相のバカっぷりをお届けしたが、後編では、人格破綻としか思えない、詭弁、開き直り、冷酷発言を紹介しよう。国民が危機に瀕しているとき、自らに疑惑が降りかかったとき、安倍首相はどんなとんでもない言動に走ったのか。笑いは一切なし、怒りしか呼ばない、国民無視の7つの言葉をしかと心に刻んでほしい! ◎バカ&人格破綻発言その8 「(赤坂自民亭は)和気あいあいでよかった」 7月5日、西日本豪雨のさなか「赤坂自民亭後のぶらさがりで  この日、7月5日には西日本を豪雨災害が襲っていた。14時には気象庁が「厳重な警戒が必要」と異例の緊急会見を開き、実際に同日には避難勧告が数十万人におよんでいた。ところが、自民党は左藤章議員いわく「酒飲んで、ワァーっというだけ」の「赤坂自民亭」なる内輪の宴会を開催。安倍首相も総裁選対策として参加し、宴が終わると、記者にこんなノーテンキな感想を口にしたのだった。  しかも、酷かったのはこのあと。翌6日には被害はどんどんと拡大していったのに、安倍首相は7日の午前中に関係閣僚会議を15分間開いただけで、その後は私邸に帰宅。非常災害対策本部を立ち上げたのは8日午前8時。あきらかに初動が遅れに遅れたというのに「救命救助、避難は時間との戦い」と言い出し、その後も初動対応の遅さを指摘されると「政府として一丸となって、発災以来、全力で取り組んでまいりました」などとうそぶいたのだ。  安倍首相はこれまでも、頻発してきた災害に対して毎度毎度、信じがたい対応をとってきたが、今回はとくに酷い。救えたはずの命が初動対応の遅れにより失われたのではないか。──そうした声もあがるなか、しかし安倍首相は、またも信じられない行動に出た。それが、次の発言だ。 ◎バカ&人格破綻発言その9 「(虎ノ門ニュースを見たこと?)密かにありますね」 9月6日放送、『虎ノ門ニュース』で  今年9月6日午前3時すぎ、北海道胆振地方を最大震度7の大きな揺れが襲った。そんな緊迫した状況のなか、なんと同日、朝8時から放送されたネトウヨ向け番組『真相深入り! 虎ノ門ニュース』(DHCテレビ)に安倍首相が登場したのである。  しかもその中身は、インタビュアーの有本香らに同番組の“隠れ視聴者”であることを告白したり、収録にスタッフとして参加した百田尚樹の姿を見つけて顔をほころばせながら手を挙げて挨拶するなど、安倍首相は“応援団”に囲まれて終始ご満悦。最後には再び番組に出演することを約束したほどだった。  収録済みのVTR出演だったとはいえ、放送は災害が発生してわずか5時間後のこと。安倍首相は2016年にも『ワイドナショー』(フジテレビ)の収録に参加したあとに熊本地震が発生、そのときは安倍首相出演回の放送は延期されるという処置がとられたが、このときの放送延期は官邸からの申し入れによるものだったという。だが、この日の『虎ノ門ニュース』にはそうした対応をとらず、国民の神経をわざわざ逆撫でするような放送を許したのだ。  その理由もまた酷い。じつは、この放送翌日は自民党総裁選の告示日。総裁選は公選法の範囲ではないが、対抗馬である石破茂氏の単独メディア露出を封じるため自民党は新聞・通信各社に対して総裁選での「公平・公正な報道」を求める文書を配布するなど圧力をかけていた。その手前、告示日前のこの日に放送するしかなかったのである。  ようするに、北海道で発生した大地震で被災し不安の只中にある国民がどう思うかという感情や、総理大臣としての態度よりも、総裁選を控えてネトウヨにアピールするためのネット番組のインタビュー放送のほうを安倍首相は選んだ。しかも、沖縄ヘイトを垂れ流して放送倫理・番組向上機構(BPO)から「重大な放送倫理違反があった」「人種差別を扇動」と認定された『ニュース女子』を制作するDHCテレビによるネット番組に、である。まさに“ネトウヨ宰相”と呼ぶにふさわしいだろう。 ◎バカ&人格破綻発言その10 「(杉田水脈議員に)『もう辞めろ』と言うのではなく、まだ若いですから、注意をしながら、仕事をしてもらいたい」 9月17日、『NEWS23』(TBS)出演時に  性的マイノリティには”「生産性」がない”と「新潮45」(新潮社)8月号の寄稿文で主張したことが大きな問題となったものの、いまだに何の説明も公の場でおこなっていない杉田水脈議員。批判が高まるなか、しかし安倍首相は50歳を過ぎる立派な中年である杉田議員を「まだ若いから」と擁護し、「党としても、多様性について尊重する党であります」とつづけたのだ。  差別発言を容認する党のあり方を「多様性」だと言い張る……。これだけでも唖然とさせられるが、もっと驚かされたのは、自民党がかたちばかりの見解と処分を下さない旨を公表した8月2日の夜、安倍首相が出席した赤坂の中華料理店でおこなわれた自民党山口県連青年部・青年局の会合に杉田議員が参加していたこと。「週刊文春」(文藝春秋)8月16・23日合併号によると、杉田議員はこの会合に「すみませーん、お騒がせしています」と笑顔で登場したという。しかも、安倍首相は杉田議員の辞職を求めるデモに対して、「彼女はそんなに有名じゃないのに、なんでみんな騒いでいるんだろうね」と語っていたという。  杉田議員は慰安婦問題を否定したり朝日バッシングを繰り広げたことで極右政治家として名をあげ、安倍首相はそうした言動を「素晴らしい」と評価して自民党に引き入れた張本人。 稲田朋美議員や和田政宗議員らと同様、総理大臣という立場上、自分では言えない歴史修正や報道バッシングなどの“本音”をズバズバと発言・発信してくれる人物として自民党に招き入れた。つまり、安倍首相のガス抜き要員であり、ネトウヨの支持拡大要員である杉田議員を辞めさせるような考えは、安倍首相にはハナからないのだ。  国会議員として絶対にあってはならない差別発言を容認する、その自民党の態度の元凶は安倍首相にほかならないのである。 ◎バカ&人格破綻発言その11 「哀れですね。朝日らしい惨めな言い訳。予想通りでした」 2月6日、自民党・和田政宗議員のFacebook投稿へのコメント  まず、このおよそ品性が見当たらないFBコメントにいたる経緯について簡単に紹介すると、籠池泰典前理事長が財務省に提出した設置趣意書に「安倍晋三記念小学校」と記したと朝日新聞の取材に証言したことについて、財務省が開示した趣意書では「開成小学校」となっていたことを鬼の首を取ったかのように問題視し、「朝日新聞は籠池容疑者が言ったことを鵜呑みにした」「ファクトが根本から違っている」「朝日新聞の報道は真っ赤な嘘」などとがなり立ててきた安倍首相。対して朝日は紙面で報道の経緯を伝えたのだが、これに和田議員が噛みつき、〈謝れない朝日新聞〉などと投稿した。すると、この和田議員の投稿に、なんと安倍首相が〈哀れですね。朝日らしい惨めな言い訳。予想通りでした〉とコメントをつけたのだった。  一国の首相ともあろう人物が、SNSでいちメディアを叩く……。しかも、このあと約1カ月後に朝日のスクープによって決裁文書改ざん問題が明るみに出たのだが、公開された交渉記録では近畿財務局とのやりとりのなかで、大阪府私学・大学課の職員が「小学校名『安倍晋三記念小学校』として本当に進捗できるのか、取り扱いに苦慮している」と話していたことが記録されている。つまり、「安倍晋三記念小学校」という名から“総理案件”であることを、近畿財務局と大阪府は承知していたのである。この交渉記録を見たあとでは、「哀れですね。安倍首相らしい惨めな言い訳。予想通りでした」とお返しするほかないだろう。  だが、この交渉記録をめぐっても、安倍首相は信じられない発言をおこなっている。それが、次だ。 ◎バカ&人格破綻発言その12 「(公開した交渉記録について)3000ページをちゃんと真面目によく精読していただければ(わかる)」 「みんな3000ページ読んでるわけがない。3000ページは大変なんですから」 5月28日、参院予算委員会  あのー、したり顔で説教かましてますが、財務省が公開した交渉記録は約1000ページ。約3000ページというのは改ざん前の決裁文書のほうなんですが……。ようするに、安倍首相は説教をぶちながら、自分は交渉記録を読んでいないどころか、交渉記録と決裁文書の区別さえついていないことを自らバラしてしまった、というわけなのである。  いや、じつのところ“肝心な部分”は読んでいるだろう。実際、昭恵夫人の「いい土地ですから、前に進めてください」発言が出た2014年4月28日の交渉記録は、いまなお出されていないままだ。一体、誰がこの交渉記録を消し去ったのか。真相を闇に葬らせるわけにはいかない。 ◎バカ&人格破綻発言その13 「私が(加計孝太郎理事長に)食事をごちそうしてもらいたいから国家戦略特区で特別にやるって、たとえば焼肉をごちそうしてもらいたいからそんなことするって、これ、考えられないですよ!」 5月28日、衆院予算委  いやいや、誰も「焼肉をゴチになったから、そのお返しに」というかたちで特区が決まったなんて言っていないし、思うわけがない。しかも安倍首相は「こちら側も相当ごちそうしている」「焼肉屋の場合はこちらが払ってる場合もありますし」と証拠も何もないままざっくりした記憶を並べ立て、「贈収賄になるとはとても考えられない」と強弁。何をトチ狂ったのか、ついには「(会食の)その後も、家でもう1回食べるってことも(ある)」などと言い出したのだった。接待を受けたあとに家でシメのお茶漬けをかき込めば贈収賄にならないって、それはどんな理屈なのか……。  むしろ、「加計さんは長年の友人だ」と強調し、あたかも学生同士のカジュアルな付き合いのなかでおごってもらったかのように「印象操作」しているのは、安倍首相のほう。そして、安倍首相と加計理事長の仲はそんな「焼肉をおごる・おごられる」というような庶民的なものではけっしてなく、実際に「週刊文春」(文藝春秋)2017年4月27日号では、加計理事長が「(安倍氏に)年間一億くらい出しているんだよ」と口にしていたと報じられている。「焼肉」をもち出して矮小化しようとは、姑息すぎるだろう。 ◎バカ&人格破綻発言その14 妻が名誉校長を務めているところは数多ある」→(「一体どこの学校や保育園なのか」と問われて) 「これはあのー、学校としては御影インターナショナルとですね、えー、あ、あの、み、瑞穂の國記念小學院ですか? はい」 3月26日と28日、ともに参院予算委員会  端的に「アホなんじゃないだろうか」と言うほかない。3月26日、安倍首相は国会で「妻が名誉校長を務めているところは数多あるが、それが行政等に影響を及ぼしたことはない」と断言したのだが、その2日後に共産党の小池晃議員が「数多あるという名誉校長を務めている学校は一体どこか」と質問。すると安倍首相はしどろもどろになって「名誉校長ではなく名誉職に訂正したい」「名誉職は相当な数がある」「そのほとんどは辞退することになっている」「ちょっと待って下さい……えーっと、校長と園長ということでは現在の段階ではありませんが」「おそらく校長とか園長はない」などとごまかしつづけた挙げ句、「すでに……えー、現在はですね、それはあと2つあったわけでございますが……すでに辞めているというわけでございます」と答弁。無論、「それはどこなんですか」という声があがり、安倍首相がしぶしぶ答えたのが「御影インターナショナルと「瑞穂の國記念小學院」だったのだ。  言うまでもなく、瑞穂の國記念小學院は森友学園で、御影インターナショナルこども園は加計学園が運営する学校。ようするに、「名誉校長を務めているところは数多ある」というのも嘘、さらには「行政に影響を及ぼしたことはない」というのも真っ赤な嘘だった、という見事なオチがついたのである。  自ら蒔いた種で墓穴を掘るとはなかなかできない芸当だが、同時にこの嘘は、モリカケがいかに「アベゲート」であるかを物語っているだろう。 ◎バカ&人格破綻発言その15 「ゴルフに偏見を持っておられると思います。ゴルフはいまオリンピックの種目にもなってますから。ゴルフがダメでですね、テニスはいいのか、将棋はいいのか、ということなんだろうと思いますよ?」 9月17日、『NEWS23』(TBS)出演時に  数ある今年の発言のなかでも、思わず目がテンになってしまったキング・オブ・バカ発言といえば、やはりこれだろう。  総裁選を控えて石破氏とともに『NEWS23』に出演した際、キャスターの星浩氏が加計問題を追及。許認可を与える立場の安倍首相が利害関係者である加計孝太郎理事長とゴルフや会食を繰り返すことは適切ではないと指摘すると、安倍首相は「加計さんとは利害関係者になってからの付き合いではなく、学生時代からの長年の付き合いだ」と反論したが、星氏が“たとえば利害関係者である金融庁の幹部とメガバンクの頭取は学生時代からの友人であってもゴルフをしちゃいけませんよ”とごく当然のツッコミを入れると、安倍首相はいつものムキになったときの口調で、上記のようにまくし立てたのだ。  テニスだろうが、将棋だろうが、利害関係者と交友をもつことが問題だと言っているのに、なぜかゴルフ擁護をおっぱじめた安倍首相。挙げ句「テニスならいいのか」って……。これぞまさに今年の流行語・新語に選ばれた「ご飯論法」、いや、遠足のおやつ持参を禁止されて「だったらバナナはおやつに入るんですかぁ?」などと言い出す小学生そのものではないか。  総理大臣という最高権力者が、利害関係者と頻繁にゴルフや会食をすることの不適切性をまったく理解せず、小学生メンタリティで幼稚な反論をテレビで繰り出す。これぞ、この国の恥ずかしい実情なのである。 ----------------------------------------------------  ここまで読んだ読者は、「どうしてこんな人物が総理なの……」 と溜息をつかずにはいられないだろう。今年の発言を振り返って確実に言えることは、国民の命を守ることに関心がなく、お仲間を優遇し、国民を欺き、フェイクを垂れ流し、つねに詭弁を弄する、そういう総理大臣だということだ。そして、公文書改ざんという国家的大犯罪が発覚したというのに、いまだ居座っているという信じがたい現実──。ぜひ、来年の年末こそは、このような発言をまとめなくても済むよう退陣を願いたいものである。 litera(前編)https://lite-ra.com/2018/12/post-4460.html litera(後編)https://lite-ra.com/2018/12/post-4462.html
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thefunkychicken · 6 years
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 【ウラジオストク共同】ロシアのプーチン大統領は12日、極東ウラジオストクでの東方経済フォーラムで、安倍晋三首相に対し、一切の前提条件を抜きにして今年末までに日ロ間で平和条約を締結するよう求めた。北方領土問題はその後に解決するよう呼び掛け、事実上先送りする姿勢を見せた。
 菅義偉官房長官は12日の記者会見で、10日の日ロ首脳会談ではこうした提案は出なかったとした上で「北方四島の帰属問題を解決し、平和条約を締結する日本の方針に変わりはない」と指摘。日本政府高官は、ロシア側に抗議や真意の確認は「しない」と明言した。
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xf-2 · 6 years
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北方領土の解決抜きで平和条約…?
ロシアのプーチン大統領が存在感を発揮している。9月12日にはウラジオストクで開かれた東方経済フォーラムの壇上で突如、同席した安倍晋三首相に「年末までに平和条約を締結しよう」と提案した。大統領の思惑は、どこにあるのか。
プーチン氏は「われわれは70年にわたって交渉してきた。安倍首相はアプローチを変えよう、と提案した。私の考えはこうだ。(日本とロシアが)平和条約を今ではないが、今年が終わる前に、前提条件を付けずに締結しよう」と語った。
ブルームバーグによれば、安倍首相は返事をしなかったが「聴衆は喝采した」という。安倍首相が答えなかったのは当然だ。日本は「北方領土問題を解決して日ロの国境を確定したうえで、平和条約を結ぶ」というのが基本的方針である(https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/hoppo/hoppo_rekishi.html)。
プーチン氏は提案について「いま思いついたことだが、ジョークではない」と語り、ロシアの外務次官は「(提案は)日本への事前通告なしだった」と説明している。大統領が、どこまで本気だったかは疑わしい。一種のスタンドプレーだった可能性もある。
安倍首相は壇上で苦笑いしていた。あえて前向きに受け止めれば、そんな話を公衆の前でできるほど、2人は率直な関係を築いている、と評価できるかもしれない。
そもそも平和条約とは何か。法的に戦争状態にある2国が戦争の終結を宣言して締結する条約だ。日本はロシアの前身である旧ソ連と戦ったが、1945年8月15日にポツダム宣言を受諾し、9月2日に降伏文書に調印した。
旧ソ連軍は日本がポツダム宣言を受諾した後、北方領土に入り、9月5日までに北方領土を順次、占領した。その後、一方的にロシア領土への編入を宣言した。日本は51年に米国などとサンフランシスコ平和条約を結んだが、旧ソ連はこれに調印しなかった。
以上の経過から、日本がロシアと平和条約を結ぶには、まず日本の領土である北方領土を返してもらって、国境線を確定することが前提になる。戦争後の領土の帰属を最終的に確定するのが、平和条約の役割そのものと言ってもいい。
北方領土問題の解決抜きで平和条約を結んでしまえば、ロシアの領土編入を既成事実として認める結果になりかねない。プーチン氏は「前提条件を付けずに平和条約締結を」と提案したが、日本にとっては「北方領土はもうあきらめろ」と言われたのも同然なのだ。
「北方領土がだれのものか決まっていないが、とりあえず棚上げして平和条約を結ぼう」と言っても、世界史をみれば、領土の争いが戦争になった例はいくらでもある。「戦争の火種を残す平和条約」というのは原理的矛盾だ。それでは平和条約にならない。
「米軍基地」という難題
さて、東方経済フォーラムには常連の安倍晋三首相に加え、中国の習近平国家主席も初めて参加した。習氏は共産党や国営企業の幹部ら600人を引き連れていた。ロシアは同じタイミングで、冷戦後最大規模となる軍事演習を実施した。
フォーラムと軍事演習は、プーチン氏にとってロシアの存在感を世界にアピールする絶好の機会になったのは言うまでもない。
安倍首相がプーチン氏と会談したのは、これで22回目だ。5月に会ったときも首脳会談に先立って、同じロシア国際会議協会が主催したサンクトペテルブルク国際経済フォーラムにプーチン氏とともに出席している(https://www.mofa.go.jp/mofaj/erp/rss/hoppo/page25_001358.html)。
今回の首脳会談では、北方領土で日ロが進める共同経済活動に関して、海産物の共同開発や温室野菜栽培など5つの事業のスケジュールを確認した。日本の一部には「共同経済活動よりも、真正面から北方領土交渉に取り組むべきだ」という意見もある。
安倍政権は、まず経済協力を進めて「その先に領土問題の解決がある」というスタンスである。私は経済優先アプローチに賛成する。いくら日本が「返せ、返せ」と叫んでも、相手がその気にならなければ、話は前に進まないだろう。
まさか、軍事力で奪い返すわけにもいかない。結局は「相手がその気になるかどうか」の勝負なのだ。となれば、相手に「返したほうが得だ」と思わせるためには、日本が経済的メリットを示すことが、もっとも効果的ではないか。
北方領土問題には、安全保障と軍事が絡んだ難題もある。
米国は日米安保条約に基づいて、必要なら、日本のどこにでも米軍基地を置くように求めることができる。外務省の解釈によれば、日本の同意は必要だが、合理的な理由がない限り、日本が拒否する事態は想定されていない。ということは、北方領土が返還されれば、米国はその島にも米軍基地を置くかもしれない。
ロシアとすれば、米軍基地ができる可能性があると分かっているのに、北方領土を返す気にはならないだろう。ここでは、米国が鍵を握っている。日本と米国、ロシアの間で、米軍基地問題について友好的な合意が成立しない限り、領土問題の解決は難しい。
まさか、金正恩と…?
大前提になるのは、まず日本とロシアの信頼関係である。それから良好な日米関係。これは現状、申し分ない。最後が米国とロシアの信頼関係だ。米ロ関係は史上最悪と言われているが、7月の米ロ首脳会談で改善に向かう兆しもある。
プーチン氏は安倍首相と会った後、中国の習近平国家主席と会談した。習氏は対ロ貿易や投資の拡大を約束するとともに、同時に実施されたロシアの軍事演習に大規模な中国軍部隊を派遣し、ロシアとの蜜月関係を誇示した。
一方で、プーチン氏は安倍首相と10月の再会談を約束した。自衛隊制服組トップの河野克俊統合参謀長の10月訪ロを受け入れ、軍事当局者同士の交流を促進する姿勢も見せた。中国との連携を進めながら、日本との友好関係も強化しようとしている。
このあたりがプーチン氏のしたたかさである。中国と日本を両天秤にかけて、互いにけん制する効果を狙っているのだ。結果的に、ロシアの存在感を高める思惑が見え隠れする。突然の平和条約発言も、中国をけん制する思惑の延長線上で思いついたのかもしれない。ロシアの日本接近を一番、嫌がるのは中国だ。
もう1つ、プーチン外交で見落とせないのは、いまだに北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党委員長とは会談していない点だ。金氏は中国の習主席とは、もう3度も会った。ところが、プーチン氏との首脳会談は「いつか開かれるだろう」との観測が流れているが、まだ1度も実現していない。
それはなぜか。「自分を安売りして、中国の風下に立ちたくない」という理由は容易に推察できる。もっと積極的に、決定的な出番を狙っているのかもしれない。自分が主導権を握って、朝鮮半島情勢の行方を左右するような機会を待っているのだ。
いつロ朝首脳会談は開かれるのか。プーチン氏の動向は朝鮮半島問題をめぐっても、目が離せない。
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mitenjaneeyo2525 · 3 years
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2016年11月初旬、いくつかのウェブサイトやインターネットコミュニティで、コメット・ピンポンと様々な民主党員が、「ピザゲート」と呼ばれる空想上の児童人身売買組織の一員であるとして事実と異なる主張が行われた[1]。
gate - 政治スキャンダル事件を表す際、その名称によく使われる接尾語。ウォーターゲート事件に由来する。
1980年代にアメリカをはじめとする各国で、保育園や幼稚園などの施設の経営者や職員らが子供たちに対し性的虐待を行ったとして親たちに相次ぎ告発された現象である。告発の内容は、職員らが子供たちの性器に触れた、拷問した、性的な行為を強要したなどであり、中にはエーカー託児所事件のように別室へ連れて行かれピエロに襲われたという証言や、マクマーティン保育園裁判のように魔女の出現を証言した子供たちもいた。
計量文献学 (けいりょうぶんけんがく、英: stylometry) とは、文献の特徴を数値化し、統計学的手法を用いて文献の分析や比較を行う方法、またはそれに関する学問分野。文体に注目して計量文体学などの名も使われる。
ドミトリー・シガチョフ (Дмитрий Сигачёв) を首犯とするオウム真理教のロシア人信者による、教祖麻原彰晃(松本智津夫)奪還を目的とした対日テロ未遂事件である。2000年7月の沖縄サミット直前に東京、青森、札幌の三都市にある幼稚園や橋など公共施設での爆弾テロが計画されていた。日露当局者の協力により未遂に終わった。
2021年現在、世界の海底には447本の海底ケーブルが張り巡らされている。
日本最初の海底ケーブルは1871年に敷設された長崎-上海間及び長崎-ウラジオストク間のものである。現在の長崎市南山手一丁目18番地には「国際電信発祥の地」の碑があるが、かつてここにあったホテルベルビューの一室を借りていた大北電信会社によって同年8月12日、一般公衆電報の取り扱いが始まった。これは日本における国際電報事業が開始された日であり、翌年開通した欧亜陸上電信線と接続された。その後1883年に呼子-釜山間の海底電信線も敷設された。
一方、国内通信では、1873年にお雇い外国人指導の下で関門海峡に敷設したのが始まりである。1896年には、日清戦争で獲得した台湾への電信線敷設のため、日本最初の本格的海底ケーブル敷設船となる沖縄丸を導入。日露戦争では逓信省技師浦田周次郎らが軍用海底電線を敷設[46][47]。国産船では小笠原丸が、1906年に後述の太平洋横断ケーブル工事を目的として建造されている。
1906年8月1日に、日米間太平洋横断国際海底ケーブルが開通した。これは、日本が東京から敷設したケーブルと、米国がサンフランシスコ-マニラ線のグアムから分岐して敷設したケーブルを父島で接続したもので、当初のルートは東京-小笠原(父島)-グアム-ミッドウェー-ホノルル-サンフランシスコであったが、1931年5月に東京側の陸揚地が鎌倉に変更された。
1914年8月末、同盟国のイギリスが芝罘・青島・上海に接続しているドイツ帝国の海底ケーブルを切断した[48]。11月、青島の戦いが終結。このあと切断したケーブルの利権について日英間で交渉が行われた。1916年3月、切断したケーブルを日本が付け替え工事。青島-上海間は佐世保-上海間に、上海-ヤップ島間は沖縄沖で切られて那覇-ヤップ間に利用された。竣工は5月であった[49][50]。
1919年、戦勝国がヨーロッパとアジアで切断し各国が実効支配しているドイツ帝国のケーブルは、パリ講和会議でその処遇が中心議題の一つとなった。3月の十人委員会席上でロバート・ランシングとウッドロウ・ウィルソンが、ドイツへ返還するか、または戦勝国が共同管理するという措置を提案した。しかし、決着はつかなかった[51]。
#IT
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yuurasu · 6 years
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みなさんこんにちは😃久しぶりの日曜日の休み。今BS-TBSで西村京太郎サスペンス「シベリア鉄道殺人事件」見てます。シベリア鉄道にウラジオストクからモスクワまで乗ることが私の高校生の頃からの夢です。#BSTBS #西村京太郎 #十津川警部 #十津川警部シリーズ #渡瀬恒彦 #渡瀬恒彦さん #シベリア鉄道 #シベリア鉄道の旅 #транссибирскаямагистральмагистраль
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metal-cn · 1 month
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持ち込み企画かい?問題は、だから、京都第1,第2が、収まるか、に尽きる。答え→決まっている!収まらない!現代版、応仁の乱!
ヒューマニズムより、人事抗争。それが社会人たる、裏の像でもあり続ける。潰し合い続ける。
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carrying space #02 レポート
carrying space #02レポート
  carrying space #02
http://raccoondogsteakettle27.tumblr.com/post/164882775542/carrying-space-02#164882775542
  1.
  9/21
  成田で刺身を食べ、ビールを飲んだ。87番ゲートで、ロシア人男性に話しかけられた。ぼくはロシア語を話せないので、英語でのやりとりを試みた。すると、彼の表情は徐々に曇っていった。中年でスキンヘッド、背たけはロシア人の平均身長からしたら、あまり高くはない。澄みきったスカイブルーの瞳をしている。彼は仕事で日本に来ていたと言う。茨城に滞在していたようだ。これから母国に帰るとのこと。15:40の便で、ウラジオストクへ飛んだ。飛行機の造りは荒くみえ、ところどころ汚れが目立っていた。
  ウラジオストク国際空港。ATMで現金がおろせなかった。出立前に少し調べたところ、ATMでのキャッシングが、最も低いレートで現金を手に入れることができるらしい。だから、事前に換金しなかった。ATMから現金が引きおろせないのが、時間帯の問題なのか、カード自体の問題なのかは、わからない。空港の換金所も閉まってしまい、もう使うことができない。マニラでは遅くまで換金することができた。当然だが場所によって運営形態は異なるのだろう。
どうしようもない。朝まで待たなければならない。「サハリン島」を読み、メモを書くことにする。それで時間をやり過ごすしかない。明日、ユジノサハリンスクに到着したら、カード会社に問い合わせてみることにする。それでだめなら、まず手持ちの4000円を換金し、次の手を打つべきだろう。まったく、やってしまった。こんなことなら、多少レートがあがったとしても、成田で現金をおろし、換金しておくべきだった。ぼくがATM操作にあたふたしていると、ロシア人男性が英語で操作方法を教えてくれた。実践してみたけれども、だめだった。
  ロシア美女の美しさ。けして触れてはならない存在のように思えてならない。
  空港にたむろする様々な民族が、世界の狭さを表している。
  飛行機の窓から外をみると、下の方に雲がみえた。その雲と地上の、どちらがどちらかわからず曖昧蒙古としている。遠くをみると地上と空が溶けている。
  9/22
  サハリン、ユジノサハリンスク空港。日本よりは気温が低いが、思ったほどではない。空港近辺には英語表記が全くなく、茫然としていた。困っていた。ATMもなく、換金所もない。しばらくうろうろしていると、バスの停留所らしきところがみえた。バスの運転手に駅まで行きたいと英語で伝えたが、通じない。もうひとつのバスの運転手もだめだった。立ち尽くしていた。途方に暮れていた。すると、後ろから英語で声をかけられた。現地のロシア人青年だった。最初タクシーの運転手かと疑ったが、どうやら違うらしい。マニラでの苦い経験を思い出した。いくつかのことを話し、何に困っているかを伝える。彼は、ひとまずバスで市内へ向かおう、とぼくの分の運賃も払って、バスに乗せてくれた。
  バスの窓の外には閑静な住宅が並んでいる。建物は洋風なつくりだが、赤、青、緑、黄などの原色に近い色合いで塗装され、ミニマルな構造。ロシア構成主義を思わせる。
彼の名前はセルゲイで、大学で英語の講師をしている。自分の大学の同僚に日本語を話せるひとがいるから、と電話をかけてくれた。電話のむこうは、日本語が堪能な、現地人女性だった。ぼくは彼女に日本語で要件を伝え、電話を彼にかわる。彼はぼくの要件を彼女から聞き、電話を切った。
  メインストリート、レーニン通りも、建物に統一感があり、色彩がカラフルだった。ミニマルで、統一感のある空間は嫌いではないが、街全体にその光景が繰り返されると、やや重たい印象をもってしまう。銀行にいったが、キャッシングできなかった。限度額を超えているのだろうか。その後、いくつかのアプローチを試みてみたはものの、状況はうんともすんともいわない。君は疲れているようにみえる、とセルゲイはぼくを気遣い、タバコを吸わせ、水を買い与えてくれた。朝食もごちそうになった。駅前のファストフード店に入った。店ではロシアの最近の音楽がかかり、ハンバーガーがそろっていた。ロシア少女が、音楽にからだを揺らし、注文の対応をする。そばかすに、はにかんだ表情が素敵だった。窓辺の席にすわる。セルゲイはロシアの最近のポップミュージックが好きではないらしかった。窓越しの空には異様な数の燕が飛び交っていた。
ホステルに向かった。住所は把握していたものの、建物の外見は知らなかった。所在地付近に着いたが、これといってホステルらしき建物は見当たらない。セルゲイは一緒にホステルを探してくれた。周囲で工事をしている男性や、通りがかった人たちに場所をたずねたところ、ホステルは、立ち並ぶ巨大ぼろアパートのうちのひとつのなかにあるらしかった。
  工事中のぼろアパートの玄関には、パスワード入力式のセキュリティがかかっていた。セルゲイはインターフォンでおそらく管理人であろう人物に連絡をとり、パスワードを入力する。ロックが解除され、中に入った。階段は歪み、高さはまちまちで、ときどきつまずきそうになる。何度か違う階の部屋をノックしてしまったが、そのたびに部屋の住民にホステルの場所を聞き、なんとか3階のホステルらしき部屋の前にたどり着いた。
ノックをするとドアは開き、隙間からこわもてのロシア人男性が怪訝な表情をのぞかせた。彼はホステルのスタッフで、ホステルはここで間違いないようだった。中に入ると、セルゲイがスタッフに事情を伝えはじめる。おそらく、ぼくに現金がないこと、このホステルに予約してあることなどを伝え、ひとまず荷物をおかせてくれないか、と頼んでくれたのだろう。このホステルの宿泊代は一週間で約7000円と安いが、カードで支払うことはできない。セルゲイとこわもてのスタッフの交渉中、ぼくは申し訳なさそうな、困ったような、けれども予約はしてあるのだから冷静な、といった微妙な顔を演出し、じっと二人のやりとりをみていた。なるべく疑われないような態度を示す必要があると感じ、それを模索していた。最初首を横に振っていたスタッフだったが、セルゲイが何度も頼んでくれたからか、交渉がまとまったようだった。セルゲイが言うに、今夜は泊めるが、明日までに宿代を払ってくれ、とのことだった。セルゲイは、心配だから、お金を手に入れることができたら連絡するように、また何か困ったことがあったら連絡してくれ、と言って去っていった。こわもてのスタッフは、人差し指でぼくをこまねき、ホステルの中を案内した。
  カードについて調べたところ、海外でのキャッシング手続きをしていなかったため、キャッシングできなかったことがわかったし、そのため何度カードを出し入れしてもキャッシングできなかったことがわかった。キャッシングするための手続きは審査のために最低でも約一週間かかるわけだが、一週間後には旅程の終盤なので、キャッシングできるようになった時には、キャッシングする必要がなくなっている。そして今キャッシングできなければ、その時までここに滞在することはできない。ということは今キャッシングできなければ意味がないということだ。つまり、今回キャッシングで現金を得ることはないということだ。
  日本とは時差が2時間ある。まだ感覚が合わない。今日、ある日本料理屋にいった。観光客むけの内装とメニュー。その店の日本人オーナーと話しをすることができた。オーナーのM氏と少し会話し、アルバイトで一週間雇ってくれないか、と頼んでみた。キャッシングできない以上、なんとか現金をつくる必要があった。せっかくだし、ロシアの仕事を体験してみてもよいだろう、というやけっぱちな思惑もあった。けれども、それはだめだと言われた。ロシアでは人を雇うのに、いくつもの書類と審査が必要なのだ。ましてやMさんはユジノサハリンスクの市民として、ある重要な役割を担っていた。もし、その審査なしに人を雇ったことが行政にばれたら、まずいことになる。彼はぼくみたいな形でアルバイトをしたいという人は初めてだと言った。また彼は、ぼくのとんちんかんな懇願に、いかにロシアが知られていないか、と言った。
  Mさんは、札幌で育ち、ホテルを二つ経営し���いる父のあとを継いでいた。たまたま旅行でソ連にいくことになった彼は、ハバロフスクで当時のソ連人が日本人墓地を綺麗に保ち、礼儀正しく振る舞う姿を目にし、そのことを印象的に覚えていた。その時にまたソ連に来たいと思ったようだ。1983年くらいのこと。
数年後、彼は稚内からフェリーでサハリンの港町コルサコフにむかった。コルサコフのとあるパーティで、当時のKGBの大物と出会い、サハリンのホテルの経営をもちかけられるが、適当にあしらう。しかし、その後、KGB職員のはからいで、何度もサハリンにくることになり、結局その年の正月はサハリンで過ごすことになった。そのままホテル経営の一端を任されるようになったが、ソ連崩壊と同時に、当時のクセのある女オーナーにクビを切られ、路頭に迷う。契約書類を巧妙に偽造され、借金を負うことになった。タクシー運転手などをして食いつないでいたところ、ホテル経営時代の仲間からの支援を受け、今の店をはじめることになった。けれども、当初はただ次から次へと金をつぎ込むだけで、店は火の車だった。数年前やっとのことで軌道にのった。近年の子供のワクチンの支援や音楽などの文化活動の功績が認められ、現在は、市民としてある重要な立場を担っている。
ロシアでは、一年契約で、職の管理が徹底している。労働手帳があり、そこに経歴が記載される。だからアルバイトでも簡単に雇うことができない。もし行政に黙ってアルバイトをしたとしても、ぼくが入ることによって誰かの仕事なくなる。仕事を奪われたそのひとは、きっと行政に報告するだろう、とのこと。ロシアで、急にアルバイトを雇うことは難しいと言う。
労働手帳は、辞める理由も明記しなければならないため、従業員の経営者への態度は、丁寧なものにならざるをえないようだ。失敗しても頭をさげ、クビにならないように謝る。退社の際には、円満に退社した旨を手帳に書くようにお願いする。そのために、金を出すこともあるそうだ。
サハリン人は大陸人より、日本人に敬意を払う、それは歴史を同じ場所で重ねてきた者同士の、あるいは外交のたまものである、と彼は言う。
彼は最後に、領事館に問い合わせてみるべきだ、とアドバイスをくれた。また本当に困ったら、日曜日にこの店に訪ねるように、と言った。
  9/23
  海外送金会社を頼ることにした。両親にそのことを連絡し、ウェスタンユニオンの手続きをしてほしい旨をメールで伝え、お願いした。午前中、母から連絡が来なかったので、ホステルで待機することにした。12時すぎにホステルのスタッフにもう一度現状を説明し、月曜日まで支払いを待ってくれるように頼んだ。主に、Google翻訳を使って会話した。彼は、大柄の無愛想な30代中ごろで、無骨で頑強な印象をぼくに与えた。元軍人にもみえなくない。
結局のところ、銀行で換金した現金から今日までの宿泊代を払い、残金は、800ルーブル。空腹が耐え難かったので、街にでて、食事をとることにした。しかしガイドブックを忘れたため、いこうとしていたロシア料理屋にいくことができなかった。仕方がないので、駅まで歩き、昨日のファストフード店に入り、ハンバーガーのセットを注文した。支払いはクレジットカード。キャッシングはできないけれど、カード払いはまだ可能だった。
その後、チェーホフ記念文学館、サハリン州立美術館にむかった。入場料はとても安いので今の残金でも入ることができる。もちろん、のちの送金をあてにしていた。
チェーホフ記念文学館、表記がロシア語しかなく、文章を読むことができなかった。しかし、当時のチェーホフの様子、また流刑地時代の囚人の生活の一部は、蝋人形を用いた展示、写真などでうかがうことができた。実際使用された手枷や、生活用具などもおかれていた。
チェーホフ記念文学館とチェーホフ記念ドラマ劇場の周りは、美しい公園になっていて、チェーホフ作品に登場する人物たちの銅像がある。「犬を連れた奥さん」のアンナも。彼女の写真を撮った。
サハリン州立美術館は、日本統治時代の北海道拓殖銀行豊原支店を利用した、新古典主義的な建造物だった。一階で展示されていた現代作家の作品は、水彩の風景画と、花を用いたインスタレーション。二階にあがると、中世のイコン、1900年前後の移動派の絵画が展示されていた。
  移動派
ロシア初の独立芸術家団体。アレクサンドル2世治下の1870年に設立。63年にペテルブルグ美術アカデミーから追放されたI・クラムスコイら14人の学生が芸術家協同組合を結成。チェルヌイシェフスキーの社会主義思想の影響下で農奴制や資本主義を告発する作品を制作した。70年にモスクワとペテルブルグの進歩的芸術家が集まり移動派美術展協会を設立、ロシア美術の成果を国内各地で知らせる目的で71年11月にペテルブルグ美術アカデミーで展覧会を開催、1923年までにペテルブルグ、モスクワなどの諸都市で計48回の移動展を開催した。同時代の主要な画家の多くが参加した移動派は批判的リアリズムと呼ばれる写実主義の手法でロシアの民衆の歴史、風景、民俗学的題材を描き、批評家スターソフらの支持、庇護を受けた。1880年代に最大の評価を得て20世紀初めまでにロシアの主要美術学校の教職の大半を占めるに到り、1932年以降はソヴィエト社会主義リアリズムの先駆として権威化された。主要な作家としてクラムスコイの他にI・レーピン、V・スリコフ、V・ヴァスネツォフ、I・シーシキン、V・ペロフ、N・ゲー、V・マコフスキー、I・レヴィタン、V・セロフら。モスクワの実業家パーヴェル・トレチャコフは移動派の作品蒐集や移動派作家への著名文化人の肖像画発注を通じて支援を行ない、ロシアの歴史的絵画のコレクションと合わせてトレチャコフ美術館を創設した。日本では、近年、Bunkamuraザ・ミュージアムが国立トレチャコフ美術館の所蔵作品を集めた「忘れえぬロシア-リアリズムから印象主義へ」(2009)、「レーピン展」(2012)で移動派の活動の一端を紹介した。
(松本晴子 artscape)
  街を歩くと、いたるところで、工事をしている。サハリンの資源開発プロジェクトも進む中、経済的な発展も見越した整備なのだろう。特に目立つのが道路工事と、アパートメント、ビルディングなどの補修工事で、場所、地域にもよるかもしれないが、前者の現場で働くのは、アジア系、中国人、朝鮮人、パキスタン人など、あるいはその子孫たちが目立っているように思えた。ショッピングモ���ル近くの露天商も同様。民族によって、職種がわかれてしまっている、ということも考えられるが、まだ判断するには情報量が少なすぎる。後者の現場では、ロシア人のいるところもあったし、前者においても必ずしもくっきりと人種によって分かれているわけではないかもしれない。
多くのロシア人は「汚いこと」はしたがらない、そんなことをMさんが言っていたことを思い出した。
王子製紙の工場跡地をみた。古びたマッチョな建物が広域にわたってそびえている。都市の碁盤目状の中心部は、古いアパートが立ち並び、各所に、日本統治時代の建造物が未だのこっている。場所によっては危ない雰囲気がある。大きな通りの周辺は綺麗に整備されている。おそらく早めに手をつけたのだろう。目立つところは、きれいに、というわけだ。一軒家や大きな住宅は、郊外や山沿いに並んでいるのをみた。そちらにいってみてもよいかもしれない。
  9/24
  昨夜、ホステルに泊まっているロシア人男性の一人に話しかけられた。コミュニケーションをとりたいようだった。英語は通じない。iPhoneのGoogle翻訳を使うことを提案するが、それには頼りたくない、というニュアンスのジェスチャーをした。なんとかコミュニケーションをとろうとする彼をみかねて、紙とペンを取り出し、漢字、平仮名、片仮名、ローマ字、キリル文字で、自己紹介をしあった。斜視気味の女の子も途中で会話に参加し、部屋の他の客ともあいさつをかわした。昨日からいる二人の日本人学生のうちの一人はモスクワ大学に留学経験があり、ロシア語が多少できたので、通訳をしてもらった。TシャツにはWの頭文字、早稲田大学の学生だろうか。ロシア人男性にタバコをもらい、一緒にのまないか、と誘われたが、お金がない事情を話し、断って、そのまま寝ることにした。
フェイスブックメッセンジャーを使って、日本にいるプロジェクトメンバーとやりとりをした。友人の近況を知ることができる。それだけで少し安心する。また、現地のひとのちょっとした優しさが、言葉の通じない場所に一人でいるぼくのこころを温めてくれる。街の穏やかな雰囲気とぼくを助けてくれるひとのあたたかさが相まって、卑屈なぼくの性格の一部をやわらげてくれる。明日、両親から送金される予定だから、安心しているということもある。手続きがうまくいけばの話しだから、完全に安心しきってはいないのだけど、かすかな希望が気慰みにはなる。
今日は、街の南へむかう。
  これから、食事をとって、サハリン州立博物館にむかう。それから日本人墓地へむかう。再び、駅前のファストフード店で食事をとって、そのまま、日本人墓地へむかった。具体的な墓らしきものはなかった。そこには、戦争関連のモニュメントと公園があった。休日だからか、子供と家族が遊んでいる。幼い子供は銃の玩具を鳩に向けていた。そこは日本人墓地ではなかった。
公園近くの道路沿いに、1立方メートルくらいの石のキューブが二つあった。そこには日本語で文字が刻まれている。
  ―――かつてお住まいの方々に敬意を込めて
―――気ままに吹く風があなたに挨拶をしています
  結局、日本人墓地はみつからず、ユジノサハリンスク市街を外回りにサハリン州立郷土博物館にむかった。日本統治時代の樺太庁博物館の建物をそのまま利用している。まるで城のようないでたちをしている。展示物の一部も引き継がれているようだ。そこにはやはりロシア語のみだが、サハリンの歴史について、記録とともに展示されていた。
  ホステルに戻り、1日ぶりのシャワーを浴びて、iPhoneでサハリンについてのネット情報をみていた。
  いささか古い話に戻る。ロシアとの間に交わされた条約の一つに下田条約 (1855年)がある。この条約では、ロシアとの国境に関して、 択捉(以南は日本側)ウルップ(以北はロシア側)の間に国境線を制定し、樺太(サハリン) に関してはこれまでと同様、両国の間に分割しないで混住すると規定されている。つまりサハリンをロシア領でもなく日本領でもない両国の混在地域とした。当時のサハリンは政治犯や刑事犯などの流刑地だった。ロシアの文豪、チェーホフの「サハリン島」は、彼が30才の時、すなわち1890年にサハリンへ 赴いて書いた記録で、当時の様子がよく描かれたルポルタージュである。その後、日露戦争の結果、ポーツマス条約(1905年)が締結されて、樺太 は北緯50度線をもって国境として、以北をロシア、以南を日本が領有することになった。この頃、樺太には先住民が住んでいたことも言及しておかなければならない。ニヴフ、エヴェンク、アイヌ、そしてオロッコの諸民族である。樺太には膨大な石炭をはじめとする地下資源や森林が存在する。日本は この資源を求めて南樺太(北緯50度以南)への入植(移民)策を推し進めた。 『樺太沿革・行政史』(社団法人 全国樺太連盟編・昭和53年6月15日発行) によると、豊原(現ユジノサハリンスク)に樺太庁が置かれたのは1907年3月のことであり、それまでの軍政が解かれた。1907年の人口はわずか12,361 人だったのに対して、1941年末には406,557人と急激な人口増をみた。これは 日本政府の積極的な植民政策が、資源開発、開拓政策とともに押しすめられた結果であろう。また軍政が解かれたとは言え、樺太は日本にとって対米、 対露(対ソ)軍事作戦上、重要な位置を占めていたので、千島とともに、陸 海軍の基地が設けられた。
(写真展と語り合い サハリン残留朝鮮人の軌跡 片山通夫 フォトジャーナリスト)
  日本統治時代の旧豊原、現在のユジノサハリンスクは札幌をモデルにしているため、碁盤の目状の都市構造をしている。サハリンは、国際法的に所属未定の地、という解釈もあるようだ。ここで過去起こった出来事は複雑で、大まかにさえ把握するのが難しい。しっかりと勉強したい気持ちもあるが、今のぼくにとって重要なのは、この土地が誰のものでもないような、言わば「どこでもない場所」の気配をもっていることだ。それは、いわゆるグローバ��ゼーションによる均一的な場所性、などとはいささか異なると思う。ところどころに日本的な姿をとどめ、他民族が混在しているこの土地、行政はロシアだが、一部の住民の意識はもっとゆるやかなものだろう。逆に制度によって人々の意識を無自覚に政治的なかたいものにしている可能性もある。今ここには多くのアジア系の人たちいるが、そういったひとへの偏見差別もあるだろう。無意識的な人種の優劣意識がある感じがする。現地に住むひとで複雑な環境にいるひとも多いのではないだろうか。
このレポートがどんなものになるかはわからないが、きっとぼくの関心を掘り下げる意味で重要なものになるに違いない。今はふらふらしていればいい。
明日、送金手続きはうまくいくだろうか。少し不安だ。もし無理だったら、領事館にいくことにする。助けを求めることにする。
  ここでは、屋外で酒をのんではならない。信号は歩行者も車両もきちっと守る。横断歩道でひとが待っている、すると、必ずといっていいほど、車は止まる。そして、歩行者を優先的に渡らせる。歩行者は申し訳なさそうに、素早く横断する。どの店の外見も閉鎖性を感じさせる。外からではロシア語を読めないかぎり、何があるのかわからない。あるいは、窓からちらっとだけ、商品がみえるようになっていたりする。マジックミラーの店が多い。中から外は見えるが、外から中はみえないのだ。ガラス張りの開放的な建築が一軒もない。気候も関係しているのだろうか。以前あった建物を利用しているからだろうか。そしてあまりにも多い、巨大アパート、マンションとその廃墟、そして工事の量から、この場所の興廃、また展望が見え隠れする。ユーラシアの田舎街には違いない。サハリンには子供が多く、また政策で支援されているという。子供たちは、街のいたるところにある公園で、天使のように舞っている。大通り沿いのアパートメント群の一階には小型のスーパーが設置されている印象がある。日本で言うコンビニエンスストアの役割を果たしているのだろう。ショッピングモールも多い。買い物はそこでおこなわれるのだろう。場所の機能がきっちりわかれている印象がある。風俗街はないし、バー(café barはあるのだが)はあまり見当たらない。規制されているのだろうか。グラフィティはこじんまりしている。目を盗むのが大変なのだろうか。保守的な雰囲気は感じる。
  ホステルのドミトリー、若いロシア男性のパソコンから戦争映画の音、そして戦争ゲームの音が聞こえる。“Be our flag!!”
  近所に野良犬の家族がいる。雑種だがシェパードの血が入っているらしい。外見は似ているが妙に小柄で足が短い。
  9/26
  昨日は両親からウェスタンユニオンを利用して送金される予定だったので、朝からそわそわしていた。後に借りた分を両親に返金することを考えるとさらにそわそわした。ともかく日本時間1時すぎまで待たなければならない。けれども、時差は2時間あり、こちらでは3時すぎ、送金にかかる時間を考えると今日中に資金が得られるかわからない。午前中は部屋で時間をつぶし、午後再び駅前のファストフード店へいった。それからガイドブックを確認し、日本人墓地を目指して歩いた。大通りを40分ほど南に歩くと、墓地らしき場所があった。
空は徐々に暗くなり、南から濃い雲が流れてきていた。空気が湿気を含みはじめ、雨が降る気配が感じられた。森に囲まれているからか、墓の周りはほとんど整備されておらず、草や花が鬱蒼と茂っている。ところどころに、献花がされている。ぼやっと眺めただけでは、生えている草花と献花の区別がつかない。それくらい墓地と自然は混ざり合っている。
ウェスタンユニオンの手続きまでにはホステルに戻らなければならない。ほどほどに時間をみながら墓地を歩く。入口付近はロシア人の墓が並んでいた。戦争で亡くなった方も多くいるだろう。墓石には写真を利用し遺影が刻まれていた。遺影には軍服をまとった男性の姿が数多く見受けられる。
花を持った二人の中年女性がやってきて、すれ違った。彼女たちと交差する時間が、異様に長く感じられた。もちろん、それはぼくだけが感じたものだろう。かつての出来事のことを考えると、どうにも心が落ち着かなかった。彼女らの行く墓の下には、日本人に殺されたロシア人が眠っているかもしれない。
日本人墓地にたどりつく前に引き返すことにした。時間が迫っていたし、雨が降りそうだった。案の定、墓地をでて数分後、激しい雷雨が降りだした。ぼくはパーカのフードをかぶり、近くのバス停の屋根の下にかけ込んだ。
雨はすぐに弱まった。少しおさまったのを見計らってホステルにむかって歩いた。通り雨のようだった。
  ホステルに戻り、両親とやりとりし、送金の手続きが済んだ、という連絡を受けた。ぼくは謝罪とお礼のメールを送り、近くのウェスタンユニオン取り扱いのバンクへ急いだ。その日じゅうにホステルのスタッフに料金を支払う約束をしていたから、少し焦っていた。彼が次の日以降まで待ってくれるとはかぎらない。銀行は市内のいたるところにある。とても多い印象がある。
建物に入り、二階にあがると廊下に部屋が並び、奥に人が待っている。そちらが窓口らしい。受付番号を発券するマシーンの画面は、全てロシア語で表記され、英語には切り替わらない。操作方法をたずねようと、待合席に座っている男性に話しかけたが、うまく伝わらない。仕方がないから、適当な部屋をノックし、銀行の職員に英語で事情を説明し、助けを求めた。すらっとした若い綺麗な女性が他の従業員と目をあわせ、やれやれといった感じで席を立ち、発券を手伝ってくれた。順番が来て、受付に行き、管理番号を伝え、パスポートを渡す。しばらく確認をしてくれていたが、また明日来てくれ、とのこと。なるほど、まだ送金が完了してないらしい。ぼくは一度ホステルに戻り、ウェスタンユニオンに電話で送金状況を確認した。すると、どうやら送金は完了しているらしい。おそらくバンクの担当者が確認してから今の間に、送金が完了したのだろう。バンクの営業は18時までだった。時計をみると17時前、やや急いでバンクに戻った。再び受付を例の女性に頼むと、また明日来てくれ、と断られる。ぼくは、ウェスタンユニオンに電話で確認したところ、送金が完了しているらしい云々、を英語で伝えたが、伝わっていない。ぼくがなんの理由もなしに来たと思われたのかもしれないし、対応が面倒だったのかもしれない。言葉が扱えない、あるいは片言、というのは多くの場合、人を愚かに見せるには充分な条件なのかもしれない。交渉をするのは無駄だとわり切り、他の銀行にいった方が早いと判断した。Wi-Fiを携帯していなかったので、一度ホステルに引き返し、インターネットを使用する必要があった。次に近いウェスタンユニオンを取り扱うバンクを、マップで調べなければならない。ホステルの玄関でiPhoneをWi-Fiに接続、マップでバンクの所在地を確認し、足早に歩いた。
しかし、そこにバンクはなかった。
もうホステルに戻る時間はない。ぼくは目ぼしいバンクを片端から訪ね、ウェスタンユニオンを扱っているか聞くことにした。大きな店舗を二軒ほどまわったが、いずれも取り扱っていなかった。
最後の望みに通りを曲がると、ウェスタンユニオンの表示のあるバンクがあった。18時前だった。時間がなかった。中に入り、手続きを試みた。まだ窓口は開いているようだった。
ウェスタンユニオンを担当している女性とは、片言の英語とGoogle翻訳を利用して、やりとりをした。彼女は例によってロシア美人で、ぶっきらぼうなところもあったが、割り合い朗らかにコミュニケーションをとってくれた。けれども、作業は手間がかかるようだし、退勤時間も迫っていたからか、何度もため息をつく様子だった。途中、彼女は、何度かiPhoneで電話をかけた。迎えの車の運転手、だろうか。薬指に指輪をはめている。この街の接客はあらゆるところでぶっきらぼうでよい。好感を覚える。少なくとも客に媚びていない。あるいはもちろん客によって態度を変えているかもしれないのだけれど。彼女の作業が完了し、いくつかの用紙にサインをすると、お金を受け取る窓口を指示され、その方向へむかうが、窓口がわからない。けれども、待合席に座っている、グレーのスーツを着たダンディな中年男性が、ゆったりと足を組みながら、指を用いたジェスチャーで入るべき部屋を教えてくれた。この旅は、ひとに助けられることで、かろうじて成り立っている。感謝しなければならない。
部屋の中に入ると、大きなレンズと太い黒縁フレームのメガネをかけた浅黒い肌のアジア系女性がガラス窓越しに座っていた。口紅の明るいピンクが妙に目立っている。書類を渡すと、彼女は、お金を出すように、と言う。ぼくが換金しようとしていると誤解しているらしい。しかしぼくはお金を受け取りにきたのであって、換金をしにきたのではない。どうやらウェスタンユニオン他の旨が書類上で伝わってないらしい。英語で説明しようとしたが、伝わらない。彼女はしまいに、マニー!マニー!と怒鳴りはじめてしまった。先ほどの女性が部屋に入り、事情を説明した。書類は彼女に返され、再び手続きをしなおすことになった。そしてまたアジア系の女性と対面する。今度は無事に現金を手に入れることができた。ぼくは彼女にスパスィーバ!と言うと、意気揚々と部屋をでてホステルにむかった。
現金がないという、あのヒリヒリした不安感をもつことはもうない。そういった状況に満足し、安心している反面、心のどこかに残念な気持ちがあった。
ホステルに戻り、例の大柄のスタッフに宿泊代を支払った。これまでの彼の印象からは考えがたい柔らかな対応をしてくれた。多少ぼくを信用してくれたようだ。共通言語としての貨幣、言語を均一化する手段としての貨幣、そこに言葉はいらない。
しかし、あのバンクの東洋風の女性は、もしかしたら在留朝鮮人の子孫ではないだろうか。あるいは、二ヴフやアイヌの血が入っていることも考えられる。
日本統治時代、強制労働のために半島から連れてこられた人、その子孫が今なおサハリンで生活している。彼らの多くは先祖の言葉を失いロシア語を使っている。そして「ロシア人」だ。けれども、彼女らのアイデンティティの一部が、「日本人に強制労働させられていた朝鮮人の子孫」である可能性も否定できないだろう。この土地のロシア人を含め、日本、日本人によい印象を持っていないひとがいることも確かだ。銀行の帰りがけ、すれ違った若い男性に、遠くから唾を吐き捨てられるような場面もあった。もちろん、その理由はわからない。けれども、彼女、彼らの苛立ちや怒りを咎める気にはならない。個人的な怒りやストレスは社会的、政治的な問題と不可分だから、出来事を完全に個人に還元して安易に判断することは、ぼくには難しい。例えそれをぼくにぶつけたところで、どうにもならないことは確かだけれども、ぼくにはその行為に反論することができない。とはいえ、またその責任をぼくだけが負うべきだとも思えない。それはかえって傲慢だ。しかし、責任を完全に個人に還元することができないとしたら、罪とはどのようにありえるだろうか。あるいは罰とは。
  バーでウォッカをのんだ。
  今日は、南の港街、コルサコフにむかう。
  9/29
  27日夕方、ふと思い立ち、アレクサンドロスフク・サハリンスキーにむかうことにした。流刑移民が暮らしていたサハリンかつての中心地であり、チェーホフが調査のために3カ月滞在していた場所。今回の旅でいかなければ後悔すると思い、準備をし、ユジノサハリンスク駅に向かった。駅でチケットを買い、22:30発の寝台列車に乗る。一日に二つしかない、果ての街、ノグリスク行き。
寝台列車に乗るのは初めてだった。車両内はイメージ通りだった。列車の進行方向に対して左側に乗客室が並び、右側は通路になっていて、赤い絨毯が敷かれている。ぼくは客室に入り、窓がわに座った。六畳くらいの客室には二段ベッドが二つあり、真ん中にはテーブルが置かれていた。窓の外の暗闇を眺めながら、ぼーっと考えごとをしていると、体格のよい老婆が部屋に入ってきた。彼女は当然だがロシア語であいさつをする。ぼくは片言のロシア語であいさつを返し、お互いの行先を英語で話した。彼女もティモフスクで下車し、アレクサンドロスフク・サハリンスキーにバスでむかうらしい。その後、30代中盤くらいの大きなタトゥーの入った男が、気温とは不釣り合いの薄着で入室してくるなり、すぐに寝床の準備をはじめた。���布やシーツを手際よく三人分に振りわける。手慣れている様子だった。彼はぼくに「お前は上で寝てくれ」というようなことを言っていたと思う。「俺は準備をしたん���から、下の方でいいよな?」という暗黙の了解要請も含まれていたように思う。ぼくは一度部屋をでて、彼の寝仕度が済むのを待ち、横になったのを確認して、ひっそり踏み台に足をかけ、上のベッドにのぼった。ベッドにごろんと寝転がると、天井が近く、こじんまりしているが、不快な感じではない。むしろこのくらい狭い方が落ち着く気がする。寝心地は悪くなさそうだった。けれども、昼寝をしてしまったので、あまり眠れそうにもなかった。ティモフスクまでは約9時間ある。ガイドブックをみたり、iPhoneのマップで現在地を確かめたりして、考えごとをした。
  朝がきて、支度をし、廊下にでる。窓の外を眺める。薄明かりのなか、森が遠く山のむこうまで広がっている。人が一切踏み込まない土地なのだろう。そこでは動物や植物が生態系をなし、営んでいる。先日博物館でみた剥製の動物たちが、人の目のとどかないところで、実際に生きている。そう考えるとなんだかわくわくした。昔、スキーにいったときに、リフトの下をながめ、雪に動物の足跡がついていないか、あるいはあわよくば足跡の主の姿が現れないか、こっそり探していたことを思い出した。あの静かな興奮にどことなく似ている。
しばらくすると、窓の外に小道が現れ、また道具がおかれ、トレッキングコースのようになっているところが見えはじめた。駅に近づくにつれ、徐々に人の手のはいった様相は高まり、廃墟、小屋、そして街のなかに入った。ぼくは森への夢想をやめ、次に行動すべきことを考えはじめていた。
寝台列車を降り、バスを探す。すぐにアレクサンドロスフク・サハリンスキーゆきの503番バスがみつかった。運転手に運賃をわたし、奥に座る。前の方の席は混んでいたが、後ろはすいていた。平日だったからよかったものの、土日だったら予約せずに座るのは難しかったかもしれない。一日一本のそのバスを逃したら、アレクサンドロスフク・サハリンスキーへは、タクシーでいくことになる。それは高くつきそうだし、避けたかった。最悪ヒッチハイクという手もあるが、ロシア語を話せない以上、なるべく安定した手段に頼りたかった。
  バスの運転は荒く、道の状態もひどかった。ほとんど常にがたがたはやまず、ときたま飛び跳ねるほどの振動をともなった。山道は、舗装されておらず、砂利を蛇行しながらすすんだ。そのあいだ初期微動でもおきているかのように揺れ続け、はね続けた。ちょっとした遊園地の絶叫系アトラクションのようだし、揺れに弱いひとは、嘔吐は必至だろう。足元をみると清掃用のモップとバケツがあった。ぼくはあまりの現実離れした揺れの激しさに何度か笑ってしまったものの、幸い気持ち悪くはならなかった。後ろの席のほうが揺れやすい、ということもあったのか、前の方に固まっているひとたちは、慣れた様子で乗りこなしていた。乗客が固まることで振動が抑えられ、安定した座席を獲得することができるのだろうか、そういったことも、あの住民たちの固まり様とは関係があるのだろうか、あるいは暖房のない車内の寒さをしのぐために。
後方の座席にいるのは、やさぐれた少年と、入れ墨が入り、この寒さなのにはだけた格好をしている男、そして僕だけだ。
  北原白秋のやや楽観的すぎる紀行文「フレップ・トリップ」にもサハリンの道路と車の描写があったが、あまり状況は変わっているとは思えない。
  バスは一時間と少し走ると、アレクサンドロスフク・サハリンスキーの街中にはいった。ユジノサハリンスクと同様、原色の塗装がほどこされたぼろアパートがならぶ。ところどころにシベリア式の木造住居がある。最後の乗客と一緒にバスを降りた。
雪は降っていないものの、いつ降ってもおかしくない寒さだと感じた。ぼくは自分の服装がこの土地に合っていないことをすぐにさとった。わからされた、と言った方が近いかもしれない。シャツとパーカの上にダウンジャケットといった服装は、この土地の海風にとってなんのことはなく、容易に体温を奪うことのできる布きれにすぎなかった。街を歩き、iPhoneのマップを頼りに海にむかうことにした。久しぶりに海がみたかった。歩いていれば寒さも気にならないだろうと考えた。そういえば、横浜でちらっと眺めたのをのぞけば、今年は一度も海をみていない。古いシベリア様式の小屋。そこにも人は住んでいるようだ。野良犬の多さ、シベリア式住宅の飼い犬からは吠えられたが、野良犬は人懐っこく、立ち止まるとこちらによって来る。サハリンの街の動物は人間への恐怖心が薄いのだろうか。残念ながら海外保険にも入っておらず、ワクチンも打っていなかったので、彼らと遊ぶことはあきらめていた。また餌をあたえるのもこの土地の方針が定かではなかったので控えた。海の方へ階段をのぼり、くだる。いくつかの海沿いの街と同じく、この場所には坂が多い。街の中心地は丘の上にある。そこから5分くらい歩くと、工事中の公園に痩せこけたチェーホフ像が立っていた。その公園の前には、チェーホフがたびたび訪れたという元囚人Lの家があった。今ではチェーホフや囚人に関する資料が展示されている博物館になっている。近くのスーパーで菓子パンとチーズを買って朝食をとった。例によって店員はぶっきらぼうだった。先ほどの元囚人L宅の博物館に入るつもりだったが、まだオープンするまでは時間があった。海まで歩くことにした。
浜辺沿いの小丘にのぼる。海がみえ、例の三兄弟の奇岩が遠くにある。あれが三兄弟の岩、チェーホフの「サハリン島」に記述されている奇岩。そして、この土地に流刑者とチェーホフはいた。浜辺には、おそらく囚人たちが労働していたであろう廃居となった施設や作業場が未だならんでいた。座礁し、赤茶色に錆びついた船が、河口の方に点々としている。まるで世界の終わりの光景をみているようだった。ここにはぼくしかおらず、他のひとはいない。この世から去ってしまったみたいだ。あるいはぼくは亡霊なのだろうか。海から冷たい秋の風が吹きすさんでくる。
博物館がそろそろ開いているころだった。博物館に戻ることにした。インターフォンを押すとなかから女性スタッフが顔をだした。中に入り、やりとりをする。ロシア語を話せないからか、東洋人だからか、こういった若者が一人で来るのが珍しいからか、彼女は終始くぐもった顔をする。しばらくなかを見学し、外のトイレを借り、戻ると、博物館の入口が閉まっていた。スタッフはどこかに行ってしまったようだ。トイレが目的だと思われたのかもしれない。
仕方がないので、また海の方を歩いてみることにした。海辺をずっと河口の方へ歩く、あるいは、三兄弟の奇岩、座礁船の方へ。正面、南から強い風、フードをかぶり、頭の防寒をする。砂がふきつける。ゴォーという風の音が、強弱をつけて鳴っている。呼吸、衣服の擦れる音、足が砂をはむ音、足元を流れる砂の音、そして風によって運ばれる波の音が重なっていく。砂浜は貝殻が散乱し、ウォッカの空き瓶がカラカラ揺れている。夏は海水浴におとずれる人もいるというその砂浜につづく廃墟をながめる。目視できないが、海の向こうにはユーラシア大陸があり、ロシア本国がある。流刑者は、海のむこうの本国への郷愁にうちひしがれていたことだろう。チェーホフは、そう記述していた。
また、世界の果てへ来てしまったという観念が頭をよぎる。ユーラシアの最果ての島へ来てしまったという観念。アジアでもユーラシアでもない、どこでもない場所。無、虚無、無常。こういった言葉しか頭にうかばないし、またそういった言葉に相応しい場所なのだった。流刑地として栄えた場所は、今はもう捨てられたも同然の廃墟と化している。ここはゼロにほどなく近い場所。微かに廃墟のみによって、過去を読み取ることができる場所。絶望の地。
しかしふと気がつくと、絶望とともに希望も感じている自分がいた。何もない、ということの希望。空白がある、可能性がある、ということの希望。未来があるということそれ自体の光。
  ここにも兵士が配置され、子供と戯れ、デートしている。
  帰りがけ、街中のショップでジャケットコートを買った。アレクサンドロスフク・サハリンスキーでは縫製業も営まれている。バスを待つまで寒さに耐えきれそうになかった。ジャケットはブランドを装いながらも有名ブランドではなかったし、糸の処理が甘かった。タグには、Ice leopardという表記がされている。薄手にもかかわらず暖かかった。
  ティモフスク行きのバス停までの道を、地元の子供たちに教えてもらった。スパスィーバ。
  9/30
  昨日はホルムストクへいった。日本統治時代、真岡と呼ばれたその場所は、第二次世界大戦後の8日間、日本軍とソ連軍のあいだで激しい戦闘のあった場所だ。そこもまた、サハリンの他のいくつかの街と同じように、今もまだ、あるいは今だからこそ、日本の面影がちらちらと垣間見える。
博物館へいき、戦争に関連した展示をみてから、街へでる。すると、世界が変わった。駅前に並ぶ花屋は、死者への献花。トンネルの戦闘グラフィティは歴史画。
けれども、その変容は一時的なものにすぎなかった。今ここに生きてるひとたちがいる。
  ここのバスも例によって運転が粗かった。道路脇の崖はコンクリートで固められていない。おそらく頻繁に崖崩れがあるはずだ。そして、高速道路がないかわりに、公道を100キロ以上の時速で、駆け抜けるバスは、いつ事故を起こしてもおかしくない。ガードレールはお粗末。先日のフライトでも感じたが、この場所の乗り物には危険がつきまとう。けれども、彼らはおかまいなしだ。死んだら死んだでそこまでさ、とでも言わんばかりだ。だから飛行機が着陸すると拍手をする、のだろうか、それは偶然着陸したに過ぎないことを知っている、からだろうか。おそろしいが、素敵なことでもある。ぼくは自分のことをそこそこテキトーな人間だと思っていたが、そのぼくでさえもこの場所のあり方にいささかおどおどしてしまう。ぼくはそこまで偶然性にゆだねることができない。
  空港へのバスを街のひとに何度も尋ね、なんとか乗ることができた。危うく、フライトを逃すところだった。逆方面のバスに乗ってしまったのだった。しかし出会ったひとたちのおかげでなんとか間に合った。結局、セルゲイとは会えなかった。
そして今ハバロスクにいる。土産も買った。帰って味噌汁と米が食べたいと思う。
  10/1
  ハバロフスク。久しぶりに空港で寝た。よく眠れたと思う。防寒をしっかりすることが重要らしい。
  枠組みの目的性が強いとやはりやる気がでない。適当に無目的性、無意味性を担保していないとどうにもやる気にならない。
  ホステルに泊まる人達はほぼ男性であり、ぼくの印象では、彼らの朝は遅い、9時過ぎまで寝ている。
  店員の女性の冷たく、あしらうような態度が最高だ。例えそれがロシア語ができない人へのうんざりしたもの、差別的なものだとしても、悪い気はしない。正直でいること、そのままでいること自体は悪いことではない。問題は別にある。店員が客にへこへこするのは間違っている。しょうがなくやってんだ、という感じがよい。
  ユジノサハリンスクのあるホテルの地下レストランで一緒に踊った中年の夫婦、エレーナとセルゲイは、結婚記念日のようだった。彼女たちはコースを注文し、コニャックのボトルを入れ、店に照明と音楽を要求する。音楽が鳴り、店内がカラフルな光で彩られると、彼女たちは踊り始める。ぼくは隣の席で、トラウトを食べビールをのみながら、その様子をながめていた。夫側に写真を頼まれたので、何枚かシャッターをきった。すると、彼はぼくの空いたグラスにコニャックをそそぎ、こっちの席に来いと言う。遠慮したのだが、せっかくなので同席した。名前を名乗り、握手をし、踊った。写真をとり、食事をともにし、コニャックを飲み干した。ぼくもかなり酔っていた。レストランにくるまでに、すでに何件かまわってウォッカをあおり、足がもたついていた。セルゲイは、お前に娘を紹介するよ、という感じで、電話をかけはじめた。しかし、電話はつながらなかった。せっかくロシア美人と知り合う機会だったというのに。
エレーナは泣きだした。なぜだかわからないが、急に泣きはじめた。それをセルゲイが慰める。彼が花を準備していなかったから、内心怒っていたのか、それとも嬉し泣きか。いや、そうは見えない。悲しいできごとを思い出したのだろうか、ぼくにはわからない。
エレーナにエスコートされ、踊った。彼女はぼくの腕を自身の腰にまわし、まっすぐ目を見て、という仕草をする。体が密着し、豊満な肉体が紫色のドレス越しに感ぜられる。アルコールと甘ったるい体臭、柑橘系の香水���混ざった匂いがした。ぼくも酔っていたから、普段なら恥ずかしい場面にもかかわらず、目を見つめ、体を寄せた。今となっては彼女の瞳の色さえ覚えていない。スカイブルーに近い色だった気もする。
また席につき、食事をともにし、夫婦と抱擁し、キスをする。そして彼女たちは嵐のように会計をすませ、部屋に去っていった。ぼくは、しばらく茫然と座っていたが、ふと我に返り、会計をすませ、ふらふらホステルに戻った。
帰りがけスーパーに寄り、塩味のポテトチップスとスモークされたハムとチーズ、レタスなどがはさまれたサンドウィッチを買った。踊ったからだろうか、小腹がすいていた。ホステルのベッドに座って、ぼろぼろと食べ屑を落とし、水をのみ、眠った。
  ポケットの中で、スペースがしわくちゃだ。ところどころねじれて、壁の外と内が入れかわり、箱と呼ぶには変形しすぎている。ま、いいか。
  「サハリン島」を再び読みはじめた。以前読んでいたときにはピンとこなかった情景も、現地にいったことで、煌々と見えてくる。三兄弟の奇岩、元囚人L氏の家、シベリア式の木造住宅、農地、強い風、うつり変わりやすい天気、錆びついた座礁船、壊れた桟橋、砂に埋もれたトロッコの線路、全てが残っていた。百年以上のものがあんなにもそのままになっているなんて、信じがたかった。チェーホフのみた風景とぼくのみた風景が、差異と距離をたもちながら、部分的に重なる。
  なお、よく言われたり書かれたりしていることではあるが、ギリヤーク人の間では、家長という存在も別段、尊敬を払われてはいない。父親の方も、自分が子供より年上だとは思っていないし、子供の方でも、格別、父親を敬おうとはせず、好き放題な暮らしをしている。年よりの母親も、家の中で特に未成年の娘より権力を持っているわけではない。息子が生みの母親を殴って、家から追い出しても、別に誰ひとり口を出す者もないのはよく見かけたところだ、とバシニャークは書いている。男性の家族はすべて同等なのである。だからもし読者が、ギリヤーク人にウォートカでも振舞おうとするなら、最年少者にまで飲ませなければいけない。
(チェーホフ「サハリン島」)
  コルサコフの名物になっている店、ペンギン・バー。入口前の敷地の左右に、可愛らしい表情のペンギンの像が立っている。それとは対照的に、むすっとした女性店員に注文し(まるで戦闘直前のサラ・コナーのよう)、ニシンの塩漬け、ボルシチなどを食べ、地ビールをいくつか飲んだ。天気雨が降りはじめた。
  コルサコフの博物館を探し、道行くひとに場所を訪ねて歩いていた。小さなスーパーに入ると、アジア系の男性が片言の日本語で話しかけてくる。日本統治時代の残留朝鮮人の二世の方だろうか。彼らは家族との別離をよぎなくされた。場所を教えてもらい、礼をいって、博物館へむかった。
  サハリンの多くの場所はロシア化されているけれども、そこには、まだ微かに、しかもなかば可視的な形で、これまでそこに暮らしてきたひとたちの要素が香っている。それがサハリンを曖昧な、「どこでもない場所」として、醸している。それは存在しているのではない。「存在」という言葉では「かたすぎる」。風のように流れ、匂いのように漂っている。それはグローバリゼーションにおける「どこでもない場所」とは明確に異なる。その場所「固有」の「どこでもない場所」性。
  あの道路のがたがたは、時間どおりにそこに到着しなければならない、という制約からの、自然との戯れや出来事の偶然性の波にのったちょっとした逃走。
  あの土地の雀はひとに近づきすぎている。足元まで近寄っても気にもしない。考えられない距離まで近づいてくる。関係が良好とさえ思えるくらいに。
  アレクサンドロスフク・サハリンスキーのレーニン広場のベンチに、少女が二人、鳩と戯れていた。その情景が、天使のイメージと結びついた。
  2.
  言語の問題。英語で話しかけると、何人かのロシア人は不機嫌な表情をする。なぜだろうか。特に傲慢な態度はとっていないつもりだった。
ぼくは、自分がロシア語を多少なりとも学んでおかなかったことを恥じたし、この土地でロシア語を話そうとしないことは失礼に値すると感じた。もしかしたら、彼女たちは、「敬意を払わない」ということに対しての苛立ちを感じていたのかもしれない。ここはあくまでロシアであって、他の国ではない。あるいは、英語はアメリカを想起させるのだろうか。そもそもおそらくこれは場所によって言語の文脈が変わる、ということだろう。この「場所」では英語は使われていない。それはあるひとにとっては、単に意味不明な言語として��るのかもしれないし、あるひとにとってはアメリカを想起させるものかもしれない。何にしろ、ここでは英語は異物としての印象を禁じえない。そして言語は、領土化と関係していること。その土地で使われていない言語で話すということの「政治性」。つまり日本語でも同じ印象を与えたかもしれない。言語が通じないということの圧倒的な壁による諦め。「わたしとあなたは違うのだ」ということの証明でしかないただの雑音。けれども、違うからこそ、そこで生まれうる別種のやりとりがあると考えることができると思うのだが。しかし確かに、互いの言語が通じない、伝えたいのに伝えられない。受け取りたいのに、何も受け取ることができない宙づりの関係は、何か曖昧な不安をともなうものだ。だから多くの場合、あまり長い時間その空間に身を置くことができないし、特に何か目的をもったやりとり、例えば、買い物をする時や、事務的で一般的な速度を求められる手続きの時は、どこかお互いの精神に負担をもたらすことになる。目的を遂行するための効率性が、ディスコミュニケーションによって低下するからだ。
けれども、これがただコミュニケーションをとるため、という無目的性が強いものになるとどうだろうか。そのぎこちないやりとり、すれ違いを楽しむ可能性も生まれるかもしれない。互いの差異を差異のまま楽しむことができるかもしれない。
  安易に共通言語を形成することに違和感がある。それは相手を「わかったつもり」になってしまうことにつながるからだ。人がひとをわかることはありえない。それが前提されていないやり取りには疑問を覚える。例え、科学技術によって感覚と感覚が共有可能となったとしても、その感覚を判断するメタ認識は、異なるはずだし、そのメタ認識自体さえ共有できたとしても、その一連の「感覚-判断」の単位自体は、個々の文脈によって異なるはずだ。だから、もし感覚を「共有」できたとしても、その感覚は感覚の模造にすぎず、完全に「わかる」ことはない。そのことと、「わかりたい」という欲望は関係しているが、別のことだ。けして知ることができないからこそ、できるだけ知りたいと思うことは不思議なことではない。けれども、その欲望は傲慢な態度にも結びつく。「わかる」ということが「所有」と関係した事象、概念だからだろう。では、どのようにその欲望の対象、また欲望自身と付き合えばよいのか、ただそこには、対面する、という方法のみがあるように思う。けして分かり合えない二者は別々のままに、けして同化することなく、ただ対面している、というだけの状態。その対面の仕方こそが問題なのだろう。諸々の対面方法の間には無限のグラデーションがある。けれども「わかる」ことはない、各々が孤独のままであることに変わりはない。
共通言語は、時間と関係している。コミュニケーションの効率性に共通言語は関係している。共通言語を持ちたいという欲望は、時間の有限性に関係している。あるいは「わかること」の証明に共通言語は利用される。その共通言語は習慣になり、信仰になる。だから、そこから取りこぼすものが、見えなくなってしまう。もちろん、その構造にのった上で、交換できるものはあるのだけれど、それはあくまで活用するものだし、その効用に限界があるのは、あきらかだ。時間をかけて、継続的、断続的で、多様な方法のやりとりが、交わされること、試みられることが望ましいと思うのだが。例えば、意味から剥がれ落ちた言語の音を楽しむだけ、ということもできる。
もちろん、「わかること」がないとしても共通言語を用いたコミュニケーションを取る必要はある。それは、生きていかなければならないからだ。例え、それが欺瞞的で、無駄口で、多弁的なものだとしても、同じテーブルにつく、ということ自体が重要なものになるだろう。それは気持ち悪さを抱えたものだ。異物を内に抱えたまま、なお異物と対面していなければならないから。けれども、そもそも完全に真っ白な人間などいないことを思えば、薄汚い欺瞞的なテーブルにつく、というのも少しは気楽になる。そういったネガティヴな要素も人間の一面ということだろう。それを否定することはできない。むしろ時には愛おしくもある。
  そういった思弁とは別に、ただいるだけで楽しいね、とかはあるじゃん。
  その土地で多くの人が扱う一般言語があるとして、それとは異なる言語を発し、それを土地の人が聞くということ。それは、発声による空気の振動が、空疎な「意味」として、受け手に解釈され、その意味を吟味し終えるまで、空間を領土化する、ということになるのではないか。その意味は受け手の身体の中で反復し、領土化するのではないか。おそらくそれは往々にして不快なものだろう。そしてその不快感は、馴染みのない異物を身体になかば強制的に送り込まれる不快感、嫌悪なのではないだろうか。けれども、その「送り込まれている」という印象の要因は、「受け手側にも」ある。例えば、全く知らない言語を自分が所属している共同体内で、不意に現されるときに、その現れたモノにたいし、寛容に振る舞う、という可能性もあるのではないだろうか。そのやりとりの最中に、領土化/防衛という概念の当てはまる事象が、現れていない場合もあるのではないか。ただ「わからない」ということだけが「わかっている」宙づりの状態は、領土化/防衛という観念から逃れている状態、と言えないだろうか。
ぼくが無邪気にサハリンで現地住民に英語や日本語で話しかけるとき、おそらく大きく分けてその二パターンの出来事がおきている。
  全ての地は、同じ言葉と同じ言語を用いていた。東の方から移動した人々は、シンアルの地の平原に至り、そこに住みついた。そして、「さあ、煉瓦を作ろう。火で焼こう」と言い合った。彼らは石の代わりに煉瓦を、漆喰の代わりにアスファルトを用いた。そして、言った、「さあ、我々の街と塔を作ろう。塔の先が天に届くほどの。あらゆる地に散って、消え去ることのないように、我々の為に名をあげよう」。主は、人の子らが作ろうとしていた街と塔とを見ようとしてお下りになり、そして仰せられた、「なるほど、彼らは一つの民で、同じ言葉を話している。この業は彼らの行いの始まりだが、おそらくこのこともやり遂げられないこともあるまい。それなら、我々は下って、彼らの言葉を乱してやろう。彼らが互いに相手の言葉を理解できなくなるように」。主はそこから全ての地に人を散らされたので。彼らは街づくりを取りやめた。その為に、この街はバベルと名付けられた。主がそこで、全地の言葉を乱し、そこから人を全地に散らされたからである。
(旧約聖書 創世記)
  定住という観念について微細な視点をもっているべきではないだろうか。そこにとどまり続けているという思い込みについて考えるべきなのだろう。それは旅をすることでようやくわかることでもある。つまり移住と定住は「同じ」であるということ。意識的に無問題にすること、差異を前提に「在り方」として並列化させること。そう考えることで、領土化の作用を逃れることができるのではないだろうか。いつも仮の地点にしかいないということ。場所は揺れ動き続けているということ。
  この地域の人たちの、自然や偶然性に対する寛容さともいうべき、運命への譲渡についてどう考えるべきだろうか。こじんまりした家をたて、質素な暮らしをする。そして長年住んだ家が朽ちたら、補修などせずに、別の場所に移る。また新しい場所を家にする。壊れるなら壊れてもかまわない。いつか壊れるのだから、しっかり家を建てる必要もない。最低限の条件がそろっていればそれでいい。道路端の崖だって、やろうと思えば技術で制御できるのにやらない。田舎だからそんな技術がない?それとも、自然に対してのある種の諦めがある?
  準備をしないこと、失敗について。ぼくはこの旅で(も)多くの失敗をした。ぐだぐだである。そのほとんどはぼくの準備不足が原因だった。けれども、周囲の助けのおかげでなんとかなった。もちろんそれは迷惑をかけることでもある。そのことについて。例えば、ぼくがしっかり準備し、ミスをせず、スマートに事を運んでいたなら、数々の出会いはなかった。人の温かみも、自分のちっぽけさも再び、確認することができなかっただろう。けれども、そういった単純な旅の失敗弁護とは別に、ミスをせず、スマートに事を運ぶ、という観念が、それを実践できたことさえも、周囲の環境に要因があることを覆い隠してしまうものではないだろうか。あるいは「自己」という単一的な幻にのみ「成果」を還元してしまう誤った観念と結びつきやすくしてしまうのではないか。責任を引き受けるというのは、未来におこる出来事の要因を自己に一部、あるいは全面的に限定、収束する考え方だとも言える。
遠回りをして、眺める景色、また街の違った風景をみることができるということは、特に悪いことではない。むしろ良い機会にもなる。安全な道をいく、準備をしていく、というのはそういった偶然的な機会を自覚的にせよ無自覚的にせよ排除することだともいえる。もしあの時、空港行きのバスを教えてくれたあの人を信用せずにタクシーに乗っていたら、どうだっただろうか、それはそれでまた違った景色がみえただろうか。マニラのように高い金を要求されただろうか。それもそれでいいだろう。けれども、ぼくが街のひとが教えてくれた63番バスを信用し、助けてもらったということが決定的に重要だ。これでフライトに遅れるなら、それはそれでいいと思えたこと。もちろん、計画通り進める楽しさとやりがいもある。責任を一時的に引き受け、計画をし、準備をすることは、仕事や生活のなかでは必要なことだ。つまり、どちらでもいいということ。その時の周囲の流れのなかで、勘にしたがって判断していくしかない、という状態に身を置くこと。空間を滑る、ということ。旅や散歩、移動にかぎらず、時をすごすというのは、ぼくにとってそういった偶然性と戯れる遊びのようなところがある。小さいころのスキーのように。
  raccoon dogs teakettle ディレクター 森尻 尊
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