キャス変で思うこと(キャストの名前出してます)
どん���りのチケットツイを見ていたら、TLに「えっ、シンジくん…」とういうツイが流れてきて、不穏な空気を感じつつチケットの詳細を見に行ったら何も書いてなくて、HPを見に行ったら
「シンジ ボイスキャスト変更のお知らせ」
サーッと血の気が引いていくのがわかった。
仕事が一段落して、最近はお片付けにちょこちょこ行くだけになっていたので今日もぼちぼち行くかな~と思って準備していた矢先の出来事。もう行く気にはならなかったよね。
信じられない気持ちと混乱と全てを察した悲しみとふつふつと湧いてくる運営サイドへの怒りと。
しばらく「えっ???」しかツイートできなかったわ。
キャス変に対する危惧は以前からあって、最初は歌詞さんのご病気によるレイジの休業のとき。
それでもあのときは直接レイジが絶対に戻ってくるからって言ってくれたから信じて待っていることができたのだけど、逆にその前例があったから今回キャス変に至ったのなら本当にもう無理なんだなということでもあって放心状態。
このコンテンツのやり方的にキャス変するのは難しそうだから、Vキャスが辞めるときはキャラごと引退だと思っていたし、今回も正直そうしてくれたらどれほど良いかと思っている部分はある。
でもVキャスだけがシンジくんではないという思いもありつつ。
まだ公式からの発表がたった数行のあのお知らせだけなので何もわからない状態なのだけど、とりあえずシンジくんはこれからもシンジくんとしてARPのメンバーで有り続けるのだから、見届けたいと私は思う。
それでもやっぱり無理だと思ったらきっと担降りすると思うけど。
今のシンジくんとはもう会えないのかな?1月が最後だったのかな?
シンジくんはこれからもシンジくんだからお別れもへったくれもないのだけど、βからREWINDの一部以外ほぼ全通してシンジくんを応援してきたいちファンとしてはこれまでのシンジくんに感謝の気持ちを伝えたいのとサヨナラをさせてほしいんだよ。
そうでなければ煮えきらず割り切れず、永遠にモヤモヤしたものを抱えて生きる亡者になってしまう。本当に割り切れるかどうかは別として。何にせよ突然すぎた。
ここからは完全に私の憶測
当時ツイートもしたけど、KENNさんが事務所を電撃移籍することになってまず思ったのがARPは続けてくれるのかなということだった。個人Twitterも辞めてしまったし、ラジオも終了してしまったしね。
とても失礼な話、ARPが始まった当初すぐにけんぬだ!って皆がわかるくらいには人気のある方だけれど、それでも売れっ子と言われる他の声優さんと比べるとそこまでアニメにバンバン出ているわけでもなくまだ余裕があったのかなぁと。
移籍をしてからはかなり露出が増えたように思うし、アイナナからもぐっとファンが増えて最近はとても忙しそうに見えた。
いつの間にかハワイロケに行っていたり、今度出る写真集は全編ウラジオストクで撮影していたり。それなのに某ゲームをクリアした!と言っていたり一体この人はいつ休んでいるのだろうかと思うくらい。
だから今回の件で真っ先に思ったのは体調崩したわけではないよね?大丈夫だよね?という心配。冷静になって考えたらつい最近も生放送に出てたじゃないかと思い出したのだけど。
それくらい他のコンテンツでも多忙なうえ、ARPは週1のラジオのための収録、ライブ前はリハ、本番は丸々2日以上と拘束時間の長いコンテンツ。
商売である以上、事務所としてもあまりに拘束時間が長いと他の仕事を回せなかったり支障が出たりするのは困るよね。
特に去年は夏にナナライとARPが2ヶ月連続で。今年も同じスケジュールだけど大丈夫かなぁと思ってた。
ナナライも観に行ったけれど、あっちは歌もダンスも自分で全てこなさなければならないし、その分稽古だってしなきゃならない。ARPはダンスはないとはいえ生歌で一日に2公演ずつ、Aキャスさんとの連携のため精神疲労がすごそう。人気商売としては休みがないほうがありがたいのかもしれないけれど、本当に大変だったと思う。
ARPの本番で他のコンテンツのイベントや生放送を欠席していることに対してきちんと説明することもできず、ファンからこのコンテンツが嫌いなのかなぁとか干されてるのかなぁとか言われてたのも知ってる。
だから、もう限界だったのかなと。
KENNさんのことはテニミュからそこそこ見てきたけど、いつも役に対してファンに対して一生懸命で色々なことを考えてスタッフさんと議論して方向性を決めているとおっしゃっていて、ファンとして役者でありアーティストである彼のことしか知らないけれどお仕事にとても誠実な人だなと思っていて、そういうところが好きだった。
本当に何も知らないけれど、ただの憶測でいうなら仕事に好き嫌いがあったり面倒になったから途中で辞めちゃえとかそういうことをする人では絶対にない。
憶測に次ぐ憶測だけれどそういう人だからこそ本人にとっても今回のことは苦渋の決断だったのではないかな。ファン(特にプリンセス)に対して思うところも色々とあると思う。プリンセスがお金相当かけてるの知っているだろうしね…笑
まぁどう思っていたとしても私達は一生その思いを知ることはできないのだけど。
実のところ(失礼極まりないけど)KENNさんの歌は好きだけどハマり役とハマらない役があるなぁとか思っていて他のコンテンツでも最推しになることがあんまりなかった。
でもシンジくんにここまで落ちてしまったのは1stのあの涙の優勝なんだよね。シンジくんとしてプレッシャーを乗り越えての優勝だったし、そこまで思い入れてやってくれているのかと思って。
正直私は台本は割とあると思っていて、いつかのチームインタビューで色々と考えて演技しているようだったからひょっとしたらあの涙も演技だったのかも…だとしたらそれはそれですごいなと思ってしまった。
あと素だとちょっぴりおばかさん(本当に失礼)なのに、生の現場でパッとアドリブで秀才を演じられるのもすごいなと感心してしまってより一層好きになってしまった。
だから本当に本当に残念。彼のキャリアアップのための決断なのだとしたらもう何も言えないけれど。
新しい人もきっとインタビューで言ってたこれまでのチームシンジの設定ノートや台本を元に寄せて作りこんでくれるとは思うけど、どこかでやっぱり違うと感じてしまうところがあるだろうなと思うとこのやり方は諸刃の剣だなと。これがリアルさを生み出しているとはわかっているのだけど。
それで運営に対して思うのは、たった数行のお知らせでファンが納得すると思っているのかということ。
キャスト非公開というやり方をとっている以上、キャストの都合などに関して言及できないことは承知しているし期待もしていない。
私も長い間キャラコンで客商売をしていたから言いたくないけど、あまりにもお客様を蔑ろにしすぎている。特に今回の件は真っ先にFC会員に伝えなければならないでしょ。
私達はそれ相応の価値があると思って対価を払ってる。よそから見たら決して安くはない金額だけど価値があると思うからこそ払ってる。これまでシンジくんに課金してきたことに後悔は全くないし、次こそは勝ってFinalist歌わせる!って思ってたし。
それがこのたった数行で、ツイートするわけでもなくしかもチケット販売の直前に。
運営の対応ひとつでどんなに良いコンテンツでも傷がつくし、失った信用を取り戻すことはただ売上を上げることの何倍も難しい。
客の要望を全て聞き入れる必要はないと思うけれど、これだけは考え直してほしい。
お客様と直接関わるところで働いているスタッフさんたちの愛も努力も伝わっているし、その他の方たちも決していい加減な気持ちでやっているとは思わないんだけれど、だからこそ残念。
最初は運営のノウハウが全くなかったかもしれないけど、もう何年やっているの?レイジのときにも一悶着あったよね?そう思われても仕方がないのでは。
えーべはなんのためにわざわざファンを呼びつけて会議を開催したの?結果がこれですか。
シンジくんがイベントや生放送に出られないことに対して何かしら考えると言っていたそうだけど、何かしらがこれですか。
新しいことを考える前にもっとやることが先にあるのでは?
期待が大きければ大きいほど、しくじった時の失望は大きくなることわかってほしい。私はファンとアンチは紙一重だと思ってる。
もっともっと言いたいことは山ほどあるけれど、それでも応援し続けたい気持ちはあるし期待もしている。これまでと同じように課金できるかといったらそうはいかないかもしれないけど。
新しくシンジくんに魂を込めてくださる方がどなたかわからないけれど、きっとプレッシャーもあるだろうし批判もあるだろうし、これまで作り込まれてきたチームワークの中に入っていくのはとても大変だと思う。
どうかシンジくんをよろしくお願いします。
超長くなったし途中で消えたからえらい時間かかったけど、最後に聞きたい。
シンジくんとして過ごしたこの数年、楽しかったですか?
私はめちゃめちゃ楽しませてもらいました。シンジくんを演じてくれて本当にありがとう。
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北方領土の解決抜きで平和条約…?
ロシアのプーチン大統領が存在感を発揮している。9月12日にはウラジオストクで開かれた東方経済フォーラムの壇上で突如、同席した安倍晋三首相に「年末までに平和条約を締結しよう」と提案した。大統領の思惑は、どこにあるのか。
プーチン氏は「われわれは70年にわたって交渉してきた。安倍首相はアプローチを変えよう、と提案した。私の考えはこうだ。(日本とロシアが)平和条約を今ではないが、今年が終わる前に、前提条件を付けずに締結しよう」と語った。
ブルームバーグによれば、安倍首相は返事をしなかったが「聴衆は喝采した」という。安倍首相が答えなかったのは当然だ。日本は「北方領土問題を解決して日ロの国境を確定したうえで、平和条約を結ぶ」というのが基本的方針である(https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/hoppo/hoppo_rekishi.html)。
プーチン氏は提案について「いま思いついたことだが、ジョークではない」と語り、ロシアの外務次官は「(提案は)日本への事前通告なしだった」と説明している。大統領が、どこまで本気だったかは疑わしい。一種のスタンドプレーだった可能性もある。
安倍首相は壇上で苦笑いしていた。あえて前向きに受け止めれば、そんな話を公衆の前でできるほど、2人は率直な関係を築いている、と評価できるかもしれない。
そもそも平和条約とは何か。法的に戦争状態にある2国が戦争の終結を宣言して締結する条約だ。日本はロシアの前身である旧ソ連と戦ったが、1945年8月15日にポツダム宣言を受諾し、9月2日に降伏文書に調印した。
旧ソ連軍は日本がポツダム宣言を受諾した後、北方領土に入り、9月5日までに北方領土を順次、占領した。その後、一方的にロシア領土への編入を宣言した。日本は51年に米国などとサンフランシスコ平和条約を結んだが、旧ソ連はこれに調印しなかった。
以上の経過から、日本がロシアと平和条約を結ぶには、まず日本の領土である北方領土を返してもらって、国境線を確定することが前提になる。戦争後の領土の帰属を最終的に確定するのが、平和条約の役割そのものと言ってもいい。
北方領土問題の解決抜きで平和条約を結んでしまえば、ロシアの領土編入を既成事実として認める結果になりかねない。プーチン氏は「前提条件を付けずに平和条約締結を」と提案したが、日本にとっては「北方領土はもうあきらめろ」と言われたのも同然なのだ。
「北方領土がだれのものか決まっていないが、とりあえず棚上げして平和条約を結ぼう」と言っても、世界史をみれば、領土の争いが戦争になった例はいくらでもある。「戦争の火種を残す平和条約」というのは原理的矛盾だ。それでは平和条約にならない。
「米軍基地」という難題
さて、東方経済フォーラムには常連の安倍晋三首相に加え、中国の習近平国家主席も初めて参加した。習氏は共産党や国営企業の幹部ら600人を引き連れていた。ロシアは同じタイミングで、冷戦後最大規模となる軍事演習を実施した。
フォーラムと軍事演習は、プーチン氏にとってロシアの存在感を世界にアピールする絶好の機会になったのは言うまでもない。
安倍首相がプーチン氏と会談したのは、これで22回目だ。5月に会ったときも首脳会談に先立って、同じロシア国際会議協会が主催したサンクトペテルブルク国際経済フォーラムにプーチン氏とともに出席している(https://www.mofa.go.jp/mofaj/erp/rss/hoppo/page25_001358.html)。
今回の首脳会談では、北方領土で日ロが進める共同経済活動に関して、海産物の共同開発や温室野菜栽培など5つの事業のスケジュールを確認した。日本の一部には「共同経済活動よりも、真正面から北方領土交渉に取り組むべきだ」という意見もある。
安倍政権は、まず経済協力を進めて「その先に領土問題の解決がある」というスタンスである。私は経済優先アプローチに賛成する。いくら日本が「返せ、返せ」と叫んでも、相手がその気にならなければ、話は前に進まないだろう。
まさか、軍事力で奪い返すわけにもいかない。結局は「相手がその気になるかどうか」の勝負なのだ。となれば、相手に「返したほうが得だ」と思わせるためには、日本が経済的メリットを示すことが、もっとも効果的ではないか。
北方領土問題には、安全保障と軍事が絡んだ難題もある。
米国は日米安保条約に基づいて、必要なら、日本のどこにでも米軍基地を置くように求めることができる。外務省の解釈によれば、日本の同意は必要だが、合理的な理由がない限り、日本が拒否する事態は想定されていない。ということは、北方領土が返還されれば、米国はその島にも米軍基地を置くかもしれない。
ロシアとすれば、米軍基地ができる可能性があると分かっているのに、北方領土を返す気にはならないだろう。ここでは、米国が鍵を握っている。日本と米国、ロシアの間で、米軍基地問題について友好的な合意が成立しない限り、領土問題の解決は難しい。
まさか、金正恩と…?
大前提になるのは、まず日本とロシアの信頼関係である。それから良好な日米関係。これは現状、申し分ない。最後が米国とロシアの信頼関係だ。米ロ関係は史上最悪と言われているが、7月の米ロ首脳会談で改善に向かう兆しもある。
プーチン氏は安倍首相と会った後、中国の習近平国家主席と会談した。習氏は対ロ貿易や投資の拡大を約束するとともに、同時に実施されたロシアの軍事演習に大規模な中国軍部隊を派遣し、ロシアとの蜜月関係を誇示した。
一方で、プーチン氏は安倍首相と10月の再会談を約束した。自衛隊制服組トップの河野克俊統合参謀長の10月訪ロを受け入れ、軍事当局者同士の交流を促進する姿勢も見せた。中国との連携を進めながら、日本との友好関係も強化しようとしている。
このあたりがプーチン氏のしたたかさである。中国と日本を両天秤にかけて、互いにけん制する効果を狙っているのだ。結果的に、ロシアの存在感を高める思惑が見え隠れする。突然の平和条約発言も、中国をけん制する思惑の延長線上で思いついたのかもしれない。ロシアの日本接近を一番、嫌がるのは中国だ。
もう1つ、プーチン外交で見落とせないのは、いまだに北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党委員長とは会談していない点だ。金氏は中国の習主席とは、もう3度も会った。ところが、プーチン氏との首脳会談は「いつか開かれるだろう」との観測が流れているが、まだ1度も実現していない。
それはなぜか。「自分を安売りして、中国の風下に立ちたくない」という理由は容易に推察できる。もっと積極的に、決定的な出番を狙っているのかもしれない。自分が主導権を握って、朝鮮半島情勢の行方を左右するような機会を待っているのだ。
いつロ朝首脳会談は開かれるのか。プーチン氏の動向は朝鮮半島問題をめぐっても、目が離せない。
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1.
9/21
成田で刺身を食べ、ビールを飲んだ。87番ゲートで、ロシア人男性に話しかけられた。ぼくはロシア語を話せないので、英語でのやりとりを試みた。すると、彼の表情は徐々に曇っていった。中年でスキンヘッド、背たけはロシア人の平均身長からしたら、あまり高くはない。澄みきったスカイブルーの瞳をしている。彼は仕事で日本に来ていたと言う。茨城に滞在していたようだ。これから母国に帰るとのこと。15:40の便で、ウラジオストクへ飛んだ。飛行機の造りは荒くみえ、ところどころ汚れが目立っていた。
ウラジオストク国際空港。ATMで現金がおろせなかった。出立前に少し調べたところ、ATMでのキャッシングが、最も低いレートで現金を手に入れることができるらしい。だから、事前に換金しなかった。ATMから現金が引きおろせないのが、時間帯の問題なのか、カード自体の問題なのかは、わからない。空港の換金所も閉まってしまい、もう使うことができない。マニラでは遅くまで換金することができた。当然だが場所によって運営形態は異なるのだろう。
どうしようもない。朝まで待たなければならない。「サハリン島」を読み、メモを書くことにする。それで時間をやり過ごすしかない。明日、ユジノサハリンスクに到着したら、カード会社に問い合わせてみることにする。それでだめなら、まず手持ちの4000円を換金し、次の手を打つべきだろう。まったく、やってしまった。こんなことなら、多少レートがあがったとしても、成田で現金をおろし、換金しておくべきだった。ぼくがATM操作にあたふたしていると、ロシア人男性が英語で操作方法を教えてくれた。実践してみたけれども、だめだった。
ロシア美女の美しさ。けして触れてはならない存在のように思えてならない。
空港にたむろする様々な民族が、世界の狭さを表している。
飛行機の窓から外をみると、下の方に雲がみえた。その雲と地上の、どちらがどちらかわからず曖昧蒙古としている。遠くをみると地上と空が溶けている。
9/22
サハリン、ユジノサハリンスク空港。日本よりは気温が低いが、思ったほどではない。空港近辺には英語表記が全くなく、茫然としていた。困っていた。ATMもなく、換金所もない。しばらくうろうろしていると、バスの停留所らしきところがみえた。バスの運転手に駅まで行きたいと英語で伝えたが、通じない。もうひとつのバスの運転手もだめだった。立ち尽くしていた。途方に暮れていた。すると、後ろから英語で声をかけられた。現地のロシア人青年だった。最初タクシーの運転手かと疑ったが、どうやら違うらしい。マニラでの苦い経験を思い出した。いくつかのことを話し、何に困っているかを伝える。彼は、ひとまずバスで市内へ向かおう、とぼくの分の運賃も払って、バスに乗せてくれた。
バスの窓の外には閑静な住宅が並んでいる。建物は洋風なつくりだが、赤、青、緑、黄などの原色に近い色合いで塗装され、ミニマルな構造。ロシア構成主義を思わせる。
彼の名前はセルゲイで、大学で英語の講師をしている。自分の大学の同僚に日本語を話せるひとがいるから、と電話をかけてくれた。電話のむこうは、日本語が堪能な、現地人女性だった。ぼくは彼女に日本語で要件を伝え、電話を彼にかわる。彼はぼくの要件を彼女から聞き、電話を切った。
メインストリート、レーニン通りも、建物に統一感があり、色彩がカラフルだった。ミニマルで、統一感のある空間は嫌いではないが、街全体にその光景が繰り返されると、やや重たい印象をもってしまう。銀行にいったが、キャッシングできなかった。限度額を超えているのだろうか。その後、いくつかのアプローチを試みてみたはものの、状況はうんともすんともいわない。君は疲れているようにみえる、とセルゲイはぼくを気遣い、タバコを吸わせ、水を買い与えてくれた。朝食もごちそうになった。駅前のファストフード店に入った。店ではロシアの最近の音楽がかかり、ハンバーガーがそろっていた。ロシア少女が、音楽にからだを揺らし、注文の対応をする。そばかすに、はにかんだ表情が素敵だった。窓辺の席にすわる。セルゲイはロシアの最近のポップミュージックが好きではないらしかった。窓越しの空には異様な数の燕が飛び交っていた。
ホステルに向かった。住所は把握していたものの、建物の外見は知らなかった。所在地付近に着いたが、これといってホステルらしき建物は見当たらない。セルゲイは一緒にホステルを探してくれた。周囲で工事をしている男性や、通りがかった人たちに場所をたずねたところ、ホステルは、立ち並ぶ巨大ぼろアパートのうちのひとつのなかにあるらしかった。
工事中のぼろアパートの玄関には、パスワード入力式のセキュリティがかかっていた。セルゲイはインターフォンでおそらく管理人であろう人物に連絡をとり、パスワードを入力する。ロックが解除され、中に入った。階段は歪み、高さはまちまちで、ときどきつまずきそうになる。何度か違う階の部屋をノックしてしまったが、そのたびに部屋の住民にホステルの場所を聞き、なんとか3階のホステルらしき部屋の前にたどり着いた。
ノックをするとドアは開き、隙間からこわもてのロシア人男性が怪訝な表情をのぞかせた。彼はホステルのスタッフで、ホステルはここで間違いないようだった。中に入ると、セルゲイがスタッフに事情を伝えはじめる。おそらく、ぼくに現金がないこと、このホステルに予約してあることなどを伝え、ひとまず荷物をおかせてくれないか、と頼んでくれたのだろう。このホステルの宿泊代は一週間で約7000円と安いが、カードで支払うことはできない。セルゲイとこわもてのスタッフの交渉中、ぼくは申し訳なさそうな、困ったような、けれども予約はしてあるのだから冷静な、といった微妙な顔を演出し、じっと二人のやりとりをみていた。なるべく疑われないような態度を示す必要があると感じ、それを模索していた。最初首を横に振っていたスタッフだったが、セルゲイが何度も頼んでくれたからか、交渉がまとまったようだった。セルゲイが言うに、今夜は泊めるが、明日までに宿代を払ってくれ、とのことだった。セルゲイは、心配だから、お金を手に入れることができたら連絡するように、また何か困ったことがあったら連絡してくれ、と言って去っていった。こわもてのスタッフは、人差し指でぼくをこまねき、ホステルの中を案内した。
カードについて調べたところ、海外でのキャッシング手続きをしていなかったため、キャッシングできなかったことがわかったし、そのため何度カードを出し入れしてもキャッシングできなかったことがわかった。キャッシングするための手続きは審査のために最低でも約一週間かかるわけだが、一週間後には旅程の終盤なので、キャッシングできるようになった時には、キャッシングする必要がなくなっている。そして今キャッシングできなければ、その時までここに滞在することはできない。ということは今キャッシングできなければ意味がないということだ。つまり、今回キャッシングで現金を得ることはないということだ。
日本とは時差が2時間ある。まだ感覚が合わない。今日、ある日本料理屋にいった。観光客むけの内装とメニュー。その店の日本人オーナーと話しをすることができた。オーナーのM氏と少し会話し、アルバイトで一週間雇ってくれないか、と頼んでみた。キャッシングできない以上、なんとか現金をつくる必要があった。せっかくだし、ロシアの仕事を体験してみてもよいだろう、というやけっぱちな思惑もあった。けれども、それはだめだと言われた。ロシアでは人を雇うのに、いくつもの書類と審査が必要なのだ。ましてやMさんはユジノサハリンスクの市民として、ある重要な役割を担っていた。もし、その審査なしに人を雇ったことが行政にばれたら、まずいことになる。彼はぼくみたいな形でアルバイトをしたいという人は初めてだと言った。また彼は、ぼくのとんちんかんな懇願に、いかにロシアが知られていないか、と言った。
Mさんは、札幌で育ち、ホテルを二つ経営し���いる父のあとを継いでいた。たまたま旅行でソ連にいくことになった彼は、ハバロフスクで当時のソ連人が日本人墓地を綺麗に保ち、礼儀正しく振る舞う姿を目にし、そのことを印象的に覚えていた。その時にまたソ連に来たいと思ったようだ。1983年くらいのこと。
数年後、彼は稚内からフェリーでサハリンの港町コルサコフにむかった。コルサコフのとあるパーティで、当時のKGBの大物と出会い、サハリンのホテルの経営をもちかけられるが、適当にあしらう。しかし、その後、KGB職員のはからいで、何度もサハリンにくることになり、結局その年の正月はサハリンで過ごすことになった。そのままホテル経営の一端を任されるようになったが、ソ連崩壊と同時に、当時のクセのある女オーナーにクビを切られ、路頭に迷う。契約書類を巧妙に偽造され、借金を負うことになった。タクシー運転手などをして食いつないでいたところ、ホテル経営時代の仲間からの支援を受け、今の店をはじめることになった。けれども、当初はただ次から次へと金をつぎ込むだけで、店は火の車だった。数年前やっとのことで軌道にのった。近年の子供のワクチンの支援や音楽などの文化活動の功績が認められ、現在は、市民としてある重要な立場を担っている。
ロシアでは、一年契約で、職の管理が徹底している。労働手帳があり、そこに経歴が記載される。だからアルバイトでも簡単に雇うことができない。もし行政に黙ってアルバイトをしたとしても、ぼくが入ることによって誰かの仕事なくなる。仕事を奪われたそのひとは、きっと行政に報告するだろう、とのこと。ロシアで、急にアルバイトを雇うことは難しいと言う。
労働手帳は、辞める理由も明記しなければならないため、従業員の経営者への態度は、丁寧なものにならざるをえないようだ。失敗しても頭をさげ、クビにならないように謝る。退社の際には、円満に退社した旨を手帳に書くようにお願いする。そのために、金を出すこともあるそうだ。
サハリン人は大陸人より、日本人に敬意を払う、それは歴史を同じ場所で重ねてきた者同士の、あるいは外交のたまものである、と彼は言う。
彼は最後に、領事館に問い合わせてみるべきだ、とアドバイスをくれた。また本当に困ったら、日曜日にこの店に訪ねるように、と言った。
9/23
海外送金会社を頼ることにした。両親にそのことを連絡し、ウェスタンユニオンの手続きをしてほしい旨をメールで伝え、お願いした。午前中、母から連絡が来なかったので、ホステルで待機することにした。12時すぎにホステルのスタッフにもう一度現状を説明し、月曜日まで支払いを待ってくれるように頼んだ。主に、Google翻訳を使って会話した。彼は、大柄の無愛想な30代中ごろで、無骨で頑強な印象をぼくに与えた。元軍人にもみえなくない。
結局のところ、銀行で換金した現金から今日までの宿泊代を払い、残金は、800ルーブル。空腹が耐え難かったので、街にでて、食事をとることにした。しかしガイドブックを忘れたため、いこうとしていたロシア料理屋にいくことができなかった。仕方がないので、駅まで歩き、昨日のファストフード店に入り、ハンバーガーのセットを注文した。支払いはクレジットカード。キャッシングはできないけれど、カード払いはまだ可能だった。
その後、チェーホフ記念文学館、サハリン州立美術館にむかった。入場料はとても安いので今の残金でも入ることができる。もちろん、のちの送金をあてにしていた。
チェーホフ記念文学館、表記がロシア語しかなく、文章を読むことができなかった。しかし、当時のチェーホフの様子、また流刑地時代の囚人の生活の一部は、蝋人形を用いた展示、写真などでうかがうことができた。実際使用された手枷や、生活用具などもおかれていた。
チェーホフ記念文学館とチェーホフ記念ドラマ劇場の周りは、美しい公園になっていて、チェーホフ作品に登場する人物たちの銅像がある。「犬を連れた奥さん」のアンナも。彼女の写真を撮った。
サハリン州立美術館は、日本統治時代の北海道拓殖銀行豊原支店を利用した、新古典主義的な建造物だった。一階で展示されていた現代作家の作品は、水彩の風景画と、花を用いたインスタレーション。二階にあがると、中世のイコン、1900年前後の移動派の絵画が展示されていた。
移動派
ロシア初の独立芸術家団体。アレクサンドル2世治下の1870年に設立。63年にペテルブルグ美術アカデミーから追放されたI・クラムスコイら14人の学生が芸術家協同組合を結成。チェルヌイシェフスキーの社会主義思想の影響下で農奴制や資本主義を告発する作品を制作した。70年にモスクワとペテルブルグの進歩的芸術家が集まり移動派美術展協会を設立、ロシア美術の成果を国内各地で知らせる目的で71年11月にペテルブルグ美術アカデミーで展覧会を開催、1923年までにペテルブルグ、モスクワなどの諸都市で計48回の移動展を開催した。同時代の主要な画家の多くが参加した移動派は批判的リアリズムと呼ばれる写実主義の手法でロシアの民衆の歴史、風景、民俗学的題材を描き、批評家スターソフらの支持、庇護を受けた。1880年代に最大の評価を得て20世紀初めまでにロシアの主要美術学校の教職の大半を占めるに到り、1932年以降はソヴィエト社会主義リアリズムの先駆として権威化された。主要な作家としてクラムスコイの他にI・レーピン、V・スリコフ、V・ヴァスネツォフ、I・シーシキン、V・ペロフ、N・ゲー、V・マコフスキー、I・レヴィタン、V・セロフら。モスクワの実業家パーヴェル・トレチャコフは移動派の作品蒐集や移動派作家への著名文化人の肖像画発注を通じて支援を行ない、ロシアの歴史的絵画のコレクションと合わせてトレチャコフ美術館を創設した。日本では、近年、Bunkamuraザ・ミュージアムが国立トレチャコフ美術館の所蔵作品を集めた「忘れえぬロシア-リアリズムから印象主義へ」(2009)、「レーピン展」(2012)で移動派の活動の一端を紹介した。
(松本晴子 artscape)
街を歩くと、いたるところで、工事をしている。サハリンの資源開発プロジェクトも進む中、経済的な発展も見越した整備なのだろう。特に目立つのが道路工事と、アパートメント、ビルディングなどの補修工事で、場所、地域にもよるかもしれないが、前者の現場で働くのは、アジア系、中国人、朝鮮人、パキスタン人など、あるいはその子孫たちが目立っているように思えた。ショッピングモ���ル近くの露天商も同様。民族によって、職種がわかれてしまっている、ということも考えられるが、まだ判断するには情報量が少なすぎる。後者の現場では、ロシア人のいるところもあったし、前者においても必ずしもくっきりと人種によって分かれているわけではないかもしれない。
多くのロシア人は「汚いこと」はしたがらない、そんなことをMさんが言っていたことを思い出した。
王子製紙の工場跡地をみた。古びたマッチョな建物が広域にわたってそびえている。都市の碁盤目状の中心部は、古いアパートが立ち並び、各所に、日本統治時代の建造物が未だのこっている。場所によっては危ない雰囲気がある。大きな通りの周辺は綺麗に整備されている。おそらく早めに手をつけたのだろう。目立つところは、きれいに、というわけだ。一軒家や大きな住宅は、郊外や山沿いに並んでいるのをみた。そちらにいってみてもよいかもしれない。
9/24
昨夜、ホステルに泊まっているロシア人男性の一人に話しかけられた。コミュニケーションをとりたいようだった。英語は通じない。iPhoneのGoogle翻訳を使うことを提案するが、それには頼りたくない、というニュアンスのジェスチャーをした。なんとかコミュニケーションをとろうとする彼をみかねて、紙とペンを取り出し、漢字、平仮名、片仮名、ローマ字、キリル文字で、自己紹介をしあった。斜視気味の女の子も途中で会話に参加し、部屋の他の客ともあいさつをかわした。昨日からいる二人の日本人学生のうちの一人はモスクワ大学に留学経験があり、ロシア語が多少できたので、通訳をしてもらった。TシャツにはWの頭文字、早稲田大学の学生だろうか。ロシア人男性にタバコをもらい、一緒にのまないか、と誘われたが、お金がない事情を話し、断って、そのまま寝ることにした。
フェイスブックメッセンジャーを使って、日本にいるプロジェクトメンバーとやりとりをした。友人の近況を知ることができる。それだけで少し安心する。また、現地のひとのちょっとした優しさが、言葉の通じない場所に一人でいるぼくのこころを温めてくれる。街の穏やかな雰囲気とぼくを助けてくれるひとのあたたかさが相まって、卑屈なぼくの性格の一部をやわらげてくれる。明日、両親から送金される予定だから、安心しているということもある。手続きがうまくいけばの話しだから、完全に安心しきってはいないのだけど、かすかな希望が気慰みにはなる。
今日は、街の南へむかう。
これから、食事をとって、サハリン州立博物館にむかう。それから日本人墓地へむかう。再び、駅前のファストフード店で食事をとって、そのまま、日本人墓地へむかった。具体的な墓らしきものはなかった。そこには、戦争関連のモニュメントと公園があった。休日だからか、子供と家族が遊んでいる。幼い子供は銃の玩具を鳩に向けていた。そこは日本人墓地ではなかった。
公園近くの道路沿いに、1立方メートルくらいの石のキューブが二つあった。そこには日本語で文字が刻まれている。
―――かつてお住まいの方々に敬意を込めて
―――気ままに吹く風があなたに挨拶をしています
結局、日本人墓地はみつからず、ユジノサハリンスク市街を外回りにサハリン州立郷土博物館にむかった。日本統治時代の樺太庁博物館の建物をそのまま利用している。まるで城のようないでたちをしている。展示物の一部も引き継がれているようだ。そこにはやはりロシア語のみだが、サハリンの歴史について、記録とともに展示されていた。
ホステルに戻り、1日ぶりのシャワーを浴びて、iPhoneでサハリンについてのネット情報をみていた。
いささか古い話に戻る。ロシアとの間に交わされた条約の一つに下田条約 (1855年)がある。この条約では、ロシアとの国境に関して、 択捉(以南は日本側)ウルップ(以北はロシア側)の間に国境線を制定し、樺太(サハリン) に関してはこれまでと同様、両国の間に分割しないで混住すると規定されている。つまりサハリンをロシア領でもなく日本領でもない両国の混在地域とした。当時のサハリンは政治犯や刑事犯などの流刑地だった。ロシアの文豪、チェーホフの「サハリン島」は、彼が30才の時、すなわち1890年にサハリンへ 赴いて書いた記録で、当時の様子がよく描かれたルポルタージュである。その後、日露戦争の結果、ポーツマス条約(1905年)が締結されて、樺太 は北緯50度線をもって国境として、以北をロシア、以南を日本が領有することになった。この頃、樺太には先住民が住んでいたことも言及しておかなければならない。ニヴフ、エヴェンク、アイヌ、そしてオロッコの諸民族である。樺太には膨大な石炭をはじめとする地下資源や森林が存在する。日本は この資源を求めて南樺太(北緯50度以南)への入植(移民)策を推し進めた。 『樺太沿革・行政史』(社団法人 全国樺太連盟編・昭和53年6月15日発行) によると、豊原(現ユジノサハリンスク)に樺太庁が置かれたのは1907年3月のことであり、それまでの軍政が解かれた。1907年の人口はわずか12,361 人だったのに対して、1941年末には406,557人と急激な人口増をみた。これは 日本政府の積極的な植民政策が、資源開発、開拓政策とともに押しすめられた結果であろう。また軍政が解かれたとは言え、樺太は日本にとって対米、 対露(対ソ)軍事作戦上、重要な位置を占めていたので、千島とともに、陸 海軍の基地が設けられた。
(写真展と語り合い サハリン残留朝鮮人の軌跡 片山通夫 フォトジャーナリスト)
日本統治時代の旧豊原、現在のユジノサハリンスクは札幌をモデルにしているため、碁盤の目状の都市構造をしている。サハリンは、国際法的に所属未定の地、という解釈もあるようだ。ここで過去起こった出来事は複雑で、大まかにさえ把握するのが難しい。しっかりと勉強したい気持ちもあるが、今のぼくにとって重要なのは、この土地が誰のものでもないような、言わば「どこでもない場所」の気配をもっていることだ。それは、いわゆるグローバ��ゼーションによる均一的な場所性、などとはいささか異なると思う。ところどころに日本的な姿をとどめ、他民族が混在しているこの土地、行政はロシアだが、一部の住民の意識はもっとゆるやかなものだろう。逆に制度によって人々の意識を無自覚に政治的なかたいものにしている可能性もある。今ここには多くのアジア系の人たちいるが、そういったひとへの偏見差別もあるだろう。無意識的な人種の優劣意識がある感じがする。現地に住むひとで複雑な環境にいるひとも多いのではないだろうか。
このレポートがどんなものになるかはわからないが、きっとぼくの関心を掘り下げる意味で重要なものになるに違いない。今はふらふらしていればいい。
明日、送金手続きはうまくいくだろうか。少し不安だ。もし無理だったら、領事館にいくことにする。助けを求めることにする。
ここでは、屋外で酒をのんではならない。信号は歩行者も車両もきちっと守る。横断歩道でひとが待っている、すると、必ずといっていいほど、車は止まる。そして、歩行者を優先的に渡らせる。歩行者は申し訳なさそうに、素早く横断する。どの店の外見も閉鎖性を感じさせる。外からではロシア語を読めないかぎり、何があるのかわからない。あるいは、窓からちらっとだけ、商品がみえるようになっていたりする。マジックミラーの店が多い。中から外は見えるが、外から中はみえないのだ。ガラス張りの開放的な建築が一軒もない。気候も関係しているのだろうか。以前あった建物を利用しているからだろうか。そしてあまりにも多い、巨大アパート、マンションとその廃墟、そして工事の量から、この場所の興廃、また展望が見え隠れする。ユーラシアの田舎街には違いない。サハリンには子供が多く、また政策で支援されているという。子供たちは、街のいたるところにある公園で、天使のように舞っている。大通り沿いのアパートメント群の一階には小型のスーパーが設置されている印象がある。日本で言うコンビニエンスストアの役割を果たしているのだろう。ショッピングモールも多い。買い物はそこでおこなわれるのだろう。場所の機能がきっちりわかれている印象がある。風俗街はないし、バー(café barはあるのだが)はあまり見当たらない。規制されているのだろうか。グラフィティはこじんまりしている。目を盗むのが大変なのだろうか。保守的な雰囲気は感じる。
ホステルのドミトリー、若いロシア男性のパソコンから戦争映画の音、そして戦争ゲームの音が聞こえる。“Be our flag!!”
近所に野良犬の家族がいる。雑種だがシェパードの血が入っているらしい。外見は似ているが妙に小柄で足が短い。
9/26
昨日は両親からウェスタンユニオンを利用して送金される予定だったので、朝からそわそわしていた。後に借りた分を両親に返金することを考えるとさらにそわそわした。ともかく日本時間1時すぎまで待たなければならない。けれども、時差は2時間あり、こちらでは3時すぎ、送金にかかる時間を考えると今日中に資金が得られるかわからない。午前中は部屋で時間をつぶし、午後再び駅前のファストフード店へいった。それからガイドブックを確認し、日本人墓地を目指して歩いた。大通りを40分ほど南に歩くと、墓地らしき場所があった。
空は徐々に暗くなり、南から濃い雲が流れてきていた。空気が湿気を含みはじめ、雨が降る気配が感じられた。森に囲まれているからか、墓の周りはほとんど整備されておらず、草や花が鬱蒼と茂っている。ところどころに、献花がされている。ぼやっと眺めただけでは、生えている草花と献花の区別がつかない。それくらい墓地と自然は混ざり合っている。
ウェスタンユニオンの手続きまでにはホステルに戻らなければならない。ほどほどに時間をみながら墓地を歩く。入口付近はロシア人の墓が並んでいた。戦争で亡くなった方も多くいるだろう。墓石には写真を利用し遺影が刻まれていた。遺影には軍服をまとった男性の姿が数多く見受けられる。
花を持った二人の中年女性がやってきて、すれ違った。彼女たちと交差する時間が、異様に長く感じられた。もちろん、それはぼくだけが感じたものだろう。かつての出来事のことを考えると、どうにも心が落ち着かなかった。彼女らの行く墓の下には、日本人に殺されたロシア人が眠っているかもしれない。
日本人墓地にたどりつく前に引き返すことにした。時間が迫っていたし、雨が降りそうだった。案の定、墓地をでて数分後、激しい雷雨が降りだした。ぼくはパーカのフードをかぶり、近くのバス停の屋根の下にかけ込んだ。
雨はすぐに弱まった。少しおさまったのを見計らってホステルにむかって歩いた。通り雨のようだった。
ホステルに戻り、両親とやりとりし、送金の手続きが済んだ、という連絡を受けた。ぼくは謝罪とお礼のメールを送り、近くのウェスタンユニオン取り扱いのバンクへ急いだ。その日じゅうにホステルのスタッフに料金を支払う約束をしていたから、少し焦っていた。彼が次の日以降まで待ってくれるとはかぎらない。銀行は市内のいたるところにある。とても多い印象がある。
建物に入り、二階にあがると廊下に部屋が並び、奥に人が待っている。そちらが窓口らしい。受付番号を発券するマシーンの画面は、全てロシア語で表記され、英語には切り替わらない。操作方法をたずねようと、待合席に座っている男性に話しかけたが、うまく伝わらない。仕方がないから、適当な部屋をノックし、銀行の職員に英語で事情を説明し、助けを求めた。すらっとした若い綺麗な女性が他の従業員と目をあわせ、やれやれといった感じで席を立ち、発券を手伝ってくれた。順番が来て、受付に行き、管理番号を伝え、パスポートを渡す。しばらく確認をしてくれていたが、また明日来てくれ、とのこと。なるほど、まだ送金が完了してないらしい。ぼくは一度ホステルに戻り、ウェスタンユニオンに電話で送金状況を確認した。すると、どうやら送金は完了しているらしい。おそらくバンクの担当者が確認してから今の間に、送金が完了したのだろう。バンクの営業は18時までだった。時計をみると17時前、やや急いでバンクに戻った。再び受付を例の女性に頼むと、また明日来てくれ、と断られる。ぼくは、ウェスタンユニオンに電話で確認したところ、送金が完了しているらしい云々、を英語で伝えたが、伝わっていない。ぼくがなんの理由もなしに来たと思われたのかもしれないし、対応が面倒だったのかもしれない。言葉が扱えない、あるいは片言、というのは多くの場合、人を愚かに見せるには充分な条件なのかもしれない。交渉をするのは無駄だとわり切り、他の銀行にいった方が早いと判断した。Wi-Fiを携帯していなかったので、一度ホステルに引き返し、インターネットを使用する必要があった。次に近いウェスタンユニオンを取り扱うバンクを、マップで調べなければならない。ホステルの玄関でiPhoneをWi-Fiに接続、マップでバンクの所在地を確認し、足早に歩いた。
しかし、そこにバンクはなかった。
もうホステルに戻る時間はない。ぼくは目ぼしいバンクを片端から訪ね、ウェスタンユニオンを扱っているか聞くことにした。大きな店舗を二軒ほどまわったが、いずれも取り扱っていなかった。
最後の望みに通りを曲がると、ウェスタンユニオンの表示のあるバンクがあった。18時前だった。時間がなかった。中に入り、手続きを試みた。まだ窓口は開いているようだった。
ウェスタンユニオンを担当している女性とは、片言の英語とGoogle翻訳を利用して、やりとりをした。彼女は例によってロシア美人で、ぶっきらぼうなところもあったが、割り合い朗らかにコミュニケーションをとってくれた。けれども、作業は手間がかかるようだし、退勤時間も迫っていたからか、何度もため息をつく様子だった。途中、彼女は、何度かiPhoneで電話をかけた。迎えの車の運転手、だろうか。薬指に指輪をはめている。この街の接客はあらゆるところでぶっきらぼうでよい。好感を覚える。少なくとも客に媚びていない。あるいはもちろん客によって態度を変えているかもしれないのだけれど。彼女の作業が完了し、いくつかの用紙にサインをすると、お金を受け取る窓口を指示され、その方向へむかうが、窓口がわからない。けれども、待合席に座っている、グレーのスーツを着たダンディな中年男性が、ゆったりと足を組みながら、指を用いたジェスチャーで入るべき部屋を教えてくれた。この旅は、ひとに助けられることで、かろうじて成り立っている。感謝しなければならない。
部屋の中に入ると、大きなレンズと太い黒縁フレームのメガネをかけた浅黒い肌のアジア系女性がガラス窓越しに座っていた。口紅の明るいピンクが妙に目立っている。書類を渡すと、彼女は、お金を出すように、と言う。ぼくが換金しようとしていると誤解しているらしい。しかしぼくはお金を受け取りにきたのであって、換金をしにきたのではない。どうやらウェスタンユニオン他の旨が書類上で伝わってないらしい。英語で説明しようとしたが、伝わらない。彼女はしまいに、マニー!マニー!と怒鳴りはじめてしまった。先ほどの女性が部屋に入り、事情を説明した。書類は彼女に返され、再び手続きをしなおすことになった。そしてまたアジア系の女性と対面する。今度は無事に現金を手に入れることができた。ぼくは彼女にスパスィーバ!と言うと、意気揚々と部屋をでてホステルにむかった。
現金がないという、あのヒリヒリした不安感をもつことはもうない。そういった状況に満足し、安心している反面、心のどこかに残念な気持ちがあった。
ホステルに戻り、例の大柄のスタッフに宿泊代を支払った。これまでの彼の印象からは考えがたい柔らかな対応をしてくれた。多少ぼくを信用してくれたようだ。共通言語としての貨幣、言語を均一化する手段としての貨幣、そこに言葉はいらない。
しかし、あのバンクの東洋風の女性は、もしかしたら在留朝鮮人の子孫ではないだろうか。あるいは、二ヴフやアイヌの血が入っていることも考えられる。
日本統治時代、強制労働のために半島から連れてこられた人、その子孫が今なおサハリンで生活している。彼らの多くは先祖の言葉を失いロシア語を使っている。そして「ロシア人」だ。けれども、彼女らのアイデンティティの一部が、「日本人に強制労働させられていた朝鮮人の子孫」である可能性も否定できないだろう。この土地のロシア人を含め、日本、日本人によい印象を持っていないひとがいることも確かだ。銀行の帰りがけ、すれ違った若い男性に、遠くから唾を吐き捨てられるような場面もあった。もちろん、その理由はわからない。けれども、彼女、彼らの苛立ちや怒りを咎める気にはならない。個人的な怒りやストレスは社会的、政治的な問題と不可分だから、出来事を完全に個人に還元して安易に判断することは、ぼくには難しい。例えそれをぼくにぶつけたところで、どうにもならないことは確かだけれども、ぼくにはその行為に反論することができない。とはいえ、またその責任をぼくだけが負うべきだとも思えない。それはかえって傲慢だ。しかし、責任を完全に個人に還元することができないとしたら、罪とはどのようにありえるだろうか。あるいは罰とは。
バーでウォッカをのんだ。
今日は、南の港街、コルサコフにむかう。
9/29
27日夕方、ふと思い立ち、アレクサンドロスフク・サハリンスキーにむかうことにした。流刑移民が暮らしていたサハリンかつての中心地であり、チェーホフが調査のために3カ月滞在していた場所。今回の旅でいかなければ後悔すると思い、準備をし、ユジノサハリンスク駅に向かった。駅でチケットを買い、22:30発の寝台列車に乗る。一日に二つしかない、果ての街、ノグリスク行き。
寝台列車に乗るのは初めてだった。車両内はイメージ通りだった。列車の進行方向に対して左側に乗客室が並び、右側は通路になっていて、赤い絨毯が敷かれている。ぼくは客室に入り、窓がわに座った。六畳くらいの客室には二段ベッドが二つあり、真ん中にはテーブルが置かれていた。窓の外の暗闇を眺めながら、ぼーっと考えごとをしていると、体格のよい老婆が部屋に入ってきた。彼女は当然だがロシア語であいさつをする。ぼくは片言のロシア語であいさつを返し、お互いの行先を英語で話した。彼女もティモフスクで下車し、アレクサンドロスフク・サハリンスキーにバスでむかうらしい。その後、30代中盤くらいの大きなタトゥーの入った男が、気温とは不釣り合いの薄着で入室してくるなり、すぐに寝床の準備をはじめた。���布やシーツを手際よく三人分に振りわける。手慣れている様子だった。彼はぼくに「お前は上で寝てくれ」というようなことを言っていたと思う。「俺は準備をしたん���から、下の方でいいよな?」という暗黙の了解要請も含まれていたように思う。ぼくは一度部屋をでて、彼の寝仕度が済むのを待ち、横になったのを確認して、ひっそり踏み台に足をかけ、上のベッドにのぼった。ベッドにごろんと寝転がると、天井が近く、こじんまりしているが、不快な感じではない。むしろこのくらい狭い方が落ち着く気がする。寝心地は悪くなさそうだった。けれども、昼寝をしてしまったので、あまり眠れそうにもなかった。ティモフスクまでは約9時間ある。ガイドブックをみたり、iPhoneのマップで現在地を確かめたりして、考えごとをした。
朝がきて、支度をし、廊下にでる。窓の外を眺める。薄明かりのなか、森が遠く山のむこうまで広がっている。人が一切踏み込まない土地なのだろう。そこでは動物や植物が生態系をなし、営んでいる。先日博物館でみた剥製の動物たちが、人の目のとどかないところで、実際に生きている。そう考えるとなんだかわくわくした。昔、スキーにいったときに、リフトの下をながめ、雪に動物の足跡がついていないか、あるいはあわよくば足跡の主の姿が現れないか、こっそり探していたことを思い出した。あの静かな興奮にどことなく似ている。
しばらくすると、窓の外に小道が現れ、また道具がおかれ、トレッキングコースのようになっているところが見えはじめた。駅に近づくにつれ、徐々に人の手のはいった様相は高まり、廃墟、小屋、そして街のなかに入った。ぼくは森への夢想をやめ、次に行動すべきことを考えはじめていた。
寝台列車を降り、バスを探す。すぐにアレクサンドロスフク・サハリンスキーゆきの503番バスがみつかった。運転手に運賃をわたし、奥に座る。前の方の席は混んでいたが、後ろはすいていた。平日だったからよかったものの、土日だったら予約せずに座るのは難しかったかもしれない。一日一本のそのバスを逃したら、アレクサンドロスフク・サハリンスキーへは、タクシーでいくことになる。それは高くつきそうだし、避けたかった。最悪ヒッチハイクという手もあるが、ロシア語を話せない以上、なるべく安定した手段に頼りたかった。
バスの運転は荒く、道の状態もひどかった。ほとんど常にがたがたはやまず、ときたま飛び跳ねるほどの振動をともなった。山道は、舗装されておらず、砂利を蛇行しながらすすんだ。そのあいだ初期微動でもおきているかのように揺れ続け、はね続けた。ちょっとした遊園地の絶叫系アトラクションのようだし、揺れに弱いひとは、嘔吐は必至だろう。足元をみると清掃用のモップとバケツがあった。ぼくはあまりの現実離れした揺れの激しさに何度か笑ってしまったものの、幸い気持ち悪くはならなかった。後ろの席のほうが揺れやすい、ということもあったのか、前の方に固まっているひとたちは、慣れた様子で乗りこなしていた。乗客が固まることで振動が抑えられ、安定した座席を獲得することができるのだろうか、そういったことも、あの住民たちの固まり様とは関係があるのだろうか、あるいは暖房のない車内の寒さをしのぐために。
後方の座席にいるのは、やさぐれた少年と、入れ墨が入り、この寒さなのにはだけた格好をしている男、そして僕だけだ。
北原白秋のやや楽観的すぎる紀行文「フレップ・トリップ」にもサハリンの道路と車の描写があったが、あまり状況は変わっているとは思えない。
バスは一時間と少し走ると、アレクサンドロスフク・サハリンスキーの街中にはいった。ユジノサハリンスクと同様、原色の塗装がほどこされたぼろアパートがならぶ。ところどころにシベリア式の木造住居がある。最後の乗客と一緒にバスを降りた。
雪は降っていないものの、いつ降ってもおかしくない寒さだと感じた。ぼくは自分の服装がこの土地に合っていないことをすぐにさとった。わからされた、と言った方が近いかもしれない。シャツとパーカの上にダウンジャケットといった服装は、この土地の海風にとってなんのことはなく、容易に体温を奪うことのできる布きれにすぎなかった。街を歩き、iPhoneのマップを頼りに海にむかうことにした。久しぶりに海がみたかった。歩いていれば寒さも気にならないだろうと考えた。そういえば、横浜でちらっと眺めたのをのぞけば、今年は一度も海をみていない。古いシベリア様式の小屋。そこにも人は住んでいるようだ。野良犬の多さ、シベリア式住宅の飼い犬からは吠えられたが、野良犬は人懐っこく、立ち止まるとこちらによって来る。サハリンの街の動物は人間への恐怖心が薄いのだろうか。残念ながら海外保険にも入っておらず、ワクチンも打っていなかったので、彼らと遊ぶことはあきらめていた。また餌をあたえるのもこの土地の方針が定かではなかったので控えた。海の方へ階段をのぼり、くだる。いくつかの海沿いの街と同じく、この場所には坂が多い。街の中心地は丘の上にある。そこから5分くらい歩くと、工事中の公園に痩せこけたチェーホフ像が立っていた。その公園の前には、チェーホフがたびたび訪れたという元囚人Lの家があった。今ではチェーホフや囚人に関する資料が展示されている博物館になっている。近くのスーパーで菓子パンとチーズを買って朝食をとった。例によって店員はぶっきらぼうだった。先ほどの元囚人L宅の博物館に入るつもりだったが、まだオープンするまでは時間があった。海まで歩くことにした。
浜辺沿いの小丘にのぼる。海がみえ、例の三兄弟の奇岩が遠くにある。あれが三兄弟の岩、チェーホフの「サハリン島」に記述されている奇岩。そして、この土地に流刑者とチェーホフはいた。浜辺には、おそらく囚人たちが労働していたであろう廃居となった施設や作業場が未だならんでいた。座礁し、赤茶色に錆びついた船が、河口の方に点々としている。まるで世界の終わりの光景をみているようだった。ここにはぼくしかおらず、他のひとはいない。この世から去ってしまったみたいだ。あるいはぼくは亡霊なのだろうか。海から冷たい秋の風が吹きすさんでくる。
博物館がそろそろ開いているころだった。博物館に戻ることにした。インターフォンを押すとなかから女性スタッフが顔をだした。中に入り、やりとりをする。ロシア語を話せないからか、東洋人だからか、こういった若者が一人で来るのが珍しいからか、彼女は終始くぐもった顔をする。しばらくなかを見学し、外のトイレを借り、戻ると、博物館の入口が閉まっていた。スタッフはどこかに行ってしまったようだ。トイレが目的だと思われたのかもしれない。
仕方がないので、また海の方を歩いてみることにした。海辺をずっと河口の方へ歩く、あるいは、三兄弟の奇岩、座礁船の方へ。正面、南から強い風、フードをかぶり、頭の防寒をする。砂がふきつける。ゴォーという風の音が、強弱をつけて鳴っている。呼吸、衣服の擦れる音、足が砂をはむ音、足元を流れる砂の音、そして風によって運ばれる波の音が重なっていく。砂浜は貝殻が散乱し、ウォッカの空き瓶がカラカラ揺れている。夏は海水浴におとずれる人もいるというその砂浜につづく廃墟をながめる。目視できないが、海の向こうにはユーラシア大陸があり、ロシア本国がある。流刑者は、海のむこうの本国への郷愁にうちひしがれていたことだろう。チェーホフは、そう記述していた。
また、世界の果てへ来てしまったという観念が頭をよぎる。ユーラシアの最果ての島へ来てしまったという観念。アジアでもユーラシアでもない、どこでもない場所。無、虚無、無常。こういった言葉しか頭にうかばないし、またそういった言葉に相応しい場所なのだった。流刑地として栄えた場所は、今はもう捨てられたも同然の廃墟と化している。ここはゼロにほどなく近い場所。微かに廃墟のみによって、過去を読み取ることができる場所。絶望の地。
しかしふと気がつくと、絶望とともに希望も感じている自分がいた。何もない、ということの希望。空白がある、可能性がある、ということの希望。未来があるということそれ自体の光。
ここにも兵士が配置され、子供と戯れ、デートしている。
帰りがけ、街中のショップでジャケットコートを買った。アレクサンドロスフク・サハリンスキーでは縫製業も営まれている。バスを待つまで寒さに耐えきれそうになかった。ジャケットはブランドを装いながらも有名ブランドではなかったし、糸の処理が甘かった。タグには、Ice leopardという表記がされている。薄手にもかかわらず暖かかった。
ティモフスク行きのバス停までの道を、地元の子供たちに教えてもらった。スパスィーバ。
9/30
昨日はホルムストクへいった。日本統治時代、真岡と呼ばれたその場所は、第二次世界大戦後の8日間、日本軍とソ連軍のあいだで激しい戦闘のあった場所だ。そこもまた、サハリンの他のいくつかの街と同じように、今もまだ、あるいは今だからこそ、日本の面影がちらちらと垣間見える。
博物館へいき、戦争に関連した展示をみてから、街へでる。すると、世界が変わった。駅前に並ぶ花屋は、死者への献花。トンネルの戦闘グラフィティは歴史画。
けれども、その変容は一時的なものにすぎなかった。今ここに生きてるひとたちがいる。
ここのバスも例によって運転が粗かった。道路脇の崖はコンクリートで固められていない。おそらく頻繁に崖崩れがあるはずだ。そして、高速道路がないかわりに、公道を100キロ以上の時速で、駆け抜けるバスは、いつ事故を起こしてもおかしくない。ガードレールはお粗末。先日のフライトでも感じたが、この場所の乗り物には危険がつきまとう。けれども、彼らはおかまいなしだ。死んだら死んだでそこまでさ、とでも言わんばかりだ。だから飛行機が着陸すると拍手をする、のだろうか、それは偶然着陸したに過ぎないことを知っている、からだろうか。おそろしいが、素敵なことでもある。ぼくは自分のことをそこそこテキトーな人間だと思っていたが、そのぼくでさえもこの場所のあり方にいささかおどおどしてしまう。ぼくはそこまで偶然性にゆだねることができない。
空港へのバスを街のひとに何度も尋ね、なんとか乗ることができた。危うく、フライトを逃すところだった。逆方面のバスに乗ってしまったのだった。しかし出会ったひとたちのおかげでなんとか間に合った。結局、セルゲイとは会えなかった。
そして今ハバロスクにいる。土産も買った。帰って味噌汁と米が食べたいと思う。
10/1
ハバロフスク。久しぶりに空港で寝た。よく眠れたと思う。防寒をしっかりすることが重要らしい。
枠組みの目的性が強いとやはりやる気がでない。適当に無目的性、無意味性を担保していないとどうにもやる気にならない。
ホステルに泊まる人達はほぼ男性であり、ぼくの印象では、彼らの朝は遅い、9時過ぎまで寝ている。
店員の女性の冷たく、あしらうような態度が最高だ。例えそれがロシア語ができない人へのうんざりしたもの、差別的なものだとしても、悪い気はしない。正直でいること、そのままでいること自体は悪いことではない。問題は別にある。店員が客にへこへこするのは間違っている。しょうがなくやってんだ、という感じがよい。
ユジノサハリンスクのあるホテルの地下レストランで一緒に踊った中年の夫婦、エレーナとセルゲイは、結婚記念日のようだった。彼女たちはコースを注文し、コニャックのボトルを入れ、店に照明と音楽を要求する。音楽が鳴り、店内がカラフルな光で彩られると、彼女たちは踊り始める。ぼくは隣の席で、トラウトを食べビールをのみながら、その様子をながめていた。夫側に写真を頼まれたので、何枚かシャッターをきった。すると、彼はぼくの空いたグラスにコニャックをそそぎ、こっちの席に来いと言う。遠慮したのだが、せっかくなので同席した。名前を名乗り、握手をし、踊った。写真をとり、食事をともにし、コニャックを飲み干した。ぼくもかなり酔っていた。レストランにくるまでに、すでに何件かまわってウォッカをあおり、足がもたついていた。セルゲイは、お前に娘を紹介するよ、という感じで、電話をかけはじめた。しかし、電話はつながらなかった。せっかくロシア美人と知り合う機会だったというのに。
エレーナは泣きだした。なぜだかわからないが、急に泣きはじめた。それをセルゲイが慰める。彼が花を準備していなかったから、内心怒っていたのか、それとも嬉し泣きか。いや、そうは見えない。悲しいできごとを思い出したのだろうか、ぼくにはわからない。
エレーナにエスコートされ、踊った。彼女はぼくの腕を自身の腰にまわし、まっすぐ目を見て、という仕草をする。体が密着し、豊満な肉体が紫色のドレス越しに感ぜられる。アルコールと甘ったるい体臭、柑橘系の香水���混ざった匂いがした。ぼくも酔っていたから、普段なら恥ずかしい場面にもかかわらず、目を見つめ、体を寄せた。今となっては彼女の瞳の色さえ覚えていない。スカイブルーに近い色だった気もする。
また席につき、食事をともにし、夫婦と抱擁し、キスをする。そして彼女たちは嵐のように会計をすませ、部屋に去っていった。ぼくは、しばらく茫然と座っていたが、ふと我に返り、会計をすませ、ふらふらホステルに戻った。
帰りがけスーパーに寄り、塩味のポテトチップスとスモークされたハムとチーズ、レタスなどがはさまれたサンドウィッチを買った。踊ったからだろうか、小腹がすいていた。ホステルのベッドに座って、ぼろぼろと食べ屑を落とし、水をのみ、眠った。
ポケットの中で、スペースがしわくちゃだ。ところどころねじれて、壁の外と内が入れかわり、箱と呼ぶには変形しすぎている。ま、いいか。
「サハリン島」を再び読みはじめた。以前読んでいたときにはピンとこなかった情景も、現地にいったことで、煌々と見えてくる。三兄弟の奇岩、元囚人L氏の家、シベリア式の木造住宅、農地、強い風、うつり変わりやすい天気、錆びついた座礁船、壊れた桟橋、砂に埋もれたトロッコの線路、全てが残っていた。百年以上のものがあんなにもそのままになっているなんて、信じがたかった。チェーホフのみた風景とぼくのみた風景が、差異と距離をたもちながら、部分的に重なる。
なお、よく言われたり書かれたりしていることではあるが、ギリヤーク人の間では、家長という存在も別段、尊敬を払われてはいない。父親の方も、自分が子供より年上だとは思っていないし、子供の方でも、格別、父親を敬おうとはせず、好き放題な暮らしをしている。年よりの母親も、家の中で特に未成年の娘より権力を持っているわけではない。息子が生みの母親を殴って、家から追い出しても、別に誰ひとり口を出す者もないのはよく見かけたところだ、とバシニャークは書いている。男性の家族はすべて同等なのである。だからもし読者が、ギリヤーク人にウォートカでも振舞おうとするなら、最年少者にまで飲ませなければいけない。
(チェーホフ「サハリン島」)
コルサコフの名物になっている店、ペンギン・バー。入口前の敷地の左右に、可愛らしい表情のペンギンの像が立っている。それとは対照的に、むすっとした女性店員に注文し(まるで戦闘直前のサラ・コナーのよう)、ニシンの塩漬け、ボルシチなどを食べ、地ビールをいくつか飲んだ。天気雨が降りはじめた。
コルサコフの博物館を探し、道行くひとに場所を訪ねて歩いていた。小さなスーパーに入ると、アジア系の男性が片言の日本語で話しかけてくる。日本統治時代の残留朝鮮人の二世の方だろうか。彼らは家族との別離をよぎなくされた。場所を教えてもらい、礼をいって、博物館へむかった。
サハリンの多くの場所はロシア化されているけれども、そこには、まだ微かに、しかもなかば可視的な形で、これまでそこに暮らしてきたひとたちの要素が香っている。それがサハリンを曖昧な、「どこでもない場所」として、醸している。それは存在しているのではない。「存在」という言葉では「かたすぎる」。風のように流れ、匂いのように漂っている。それはグローバリゼーションにおける「どこでもない場所」とは明確に異なる。その場所「固有」の「どこでもない場所」性。
あの道路のがたがたは、時間どおりにそこに到着しなければならない、という制約からの、自然との戯れや出来事の偶然性の波にのったちょっとした逃走。
あの土地の雀はひとに近づきすぎている。足元まで近寄っても気にもしない。考えられない距離まで近づいてくる。関係が良好とさえ思えるくらいに。
アレクサンドロスフク・サハリンスキーのレーニン広場のベンチに、少女が二人、鳩と戯れていた。その情景が、天使のイメージと結びついた。
2.
言語の問題。英語で話しかけると、何人かのロシア人は不機嫌な表情をする。なぜだろうか。特に傲慢な態度はとっていないつもりだった。
ぼくは、自分がロシア語を多少なりとも学んでおかなかったことを恥じたし、この土地でロシア語を話そうとしないことは失礼に値すると感じた。もしかしたら、彼女たちは、「敬意を払わない」ということに対しての苛立ちを感じていたのかもしれない。ここはあくまでロシアであって、他の国ではない。あるいは、英語はアメリカを想起させるのだろうか。そもそもおそらくこれは場所によって言語の文脈が変わる、ということだろう。この「場所」では英語は使われていない。それはあるひとにとっては、単に意味不明な言語として��るのかもしれないし、あるひとにとってはアメリカを想起させるものかもしれない。何にしろ、ここでは英語は異物としての印象を禁じえない。そして言語は、領土化と関係していること。その土地で使われていない言語で話すということの「政治性」。つまり日本語でも同じ印象を与えたかもしれない。言語が通じないということの圧倒的な壁による諦め。「わたしとあなたは違うのだ」ということの証明でしかないただの雑音。けれども、違うからこそ、そこで生まれうる別種のやりとりがあると考えることができると思うのだが。しかし確かに、互いの言語が通じない、伝えたいのに伝えられない。受け取りたいのに、何も受け取ることができない宙づりの関係は、何か曖昧な不安をともなうものだ。だから多くの場合、あまり長い時間その空間に身を置くことができないし、特に何か目的をもったやりとり、例えば、買い物をする時や、事務的で一般的な速度を求められる手続きの時は、どこかお互いの精神に負担をもたらすことになる。目的を遂行するための効率性が、ディスコミュニケーションによって低下するからだ。
けれども、これがただコミュニケーションをとるため、という無目的性が強いものになるとどうだろうか。そのぎこちないやりとり、すれ違いを楽しむ可能性も生まれるかもしれない。互いの差異を差異のまま楽しむことができるかもしれない。
安易に共通言語を形成することに違和感がある。それは相手を「わかったつもり」になってしまうことにつながるからだ。人がひとをわかることはありえない。それが前提されていないやり取りには疑問を覚える。例え、科学技術によって感覚と感覚が共有可能となったとしても、その感覚を判断するメタ認識は、異なるはずだし、そのメタ認識自体さえ共有できたとしても、その一連の「感覚-判断」の単位自体は、個々の文脈によって異なるはずだ。だから、もし感覚を「共有」できたとしても、その感覚は感覚の模造にすぎず、完全に「わかる」ことはない。そのことと、「わかりたい」という欲望は関係しているが、別のことだ。けして知ることができないからこそ、できるだけ知りたいと思うことは不思議なことではない。けれども、その欲望は傲慢な態度にも結びつく。「わかる」ということが「所有」と関係した事象、概念だからだろう。では、どのようにその欲望の対象、また欲望自身と付き合えばよいのか、ただそこには、対面する、という方法のみがあるように思う。けして分かり合えない二者は別々のままに、けして同化することなく、ただ対面している、というだけの状態。その対面の仕方こそが問題なのだろう。諸々の対面方法の間には無限のグラデーションがある。けれども「わかる」ことはない、各々が孤独のままであることに変わりはない。
共通言語は、時間と関係している。コミュニケーションの効率性に共通言語は関係している。共通言語を持ちたいという欲望は、時間の有限性に関係している。あるいは「わかること」の証明に共通言語は利用される。その共通言語は習慣になり、信仰になる。だから、そこから取りこぼすものが、見えなくなってしまう。もちろん、その構造にのった上で、交換できるものはあるのだけれど、それはあくまで活用するものだし、その効用に限界があるのは、あきらかだ。時間をかけて、継続的、断続的で、多様な方法のやりとりが、交わされること、試みられることが望ましいと思うのだが。例えば、意味から剥がれ落ちた言語の音を楽しむだけ、ということもできる。
もちろん、「わかること」がないとしても共通言語を用いたコミュニケーションを取る必要はある。それは、生きていかなければならないからだ。例え、それが欺瞞的で、無駄口で、多弁的なものだとしても、同じテーブルにつく、ということ自体が重要なものになるだろう。それは気持ち悪さを抱えたものだ。異物を内に抱えたまま、なお異物と対面していなければならないから。けれども、そもそも完全に真っ白な人間などいないことを思えば、薄汚い欺瞞的なテーブルにつく、というのも少しは気楽になる。そういったネガティヴな要素も人間の一面ということだろう。それを否定することはできない。むしろ時には愛おしくもある。
そういった思弁とは別に、ただいるだけで楽しいね、とかはあるじゃん。
その土地で多くの人が扱う一般言語があるとして、それとは異なる言語を発し、それを土地の人が聞くということ。それは、発声による空気の振動が、空疎な「意味」として、受け手に解釈され、その意味を吟味し終えるまで、空間を領土化する、ということになるのではないか。その意味は受け手の身体の中で反復し、領土化するのではないか。おそらくそれは往々にして不快なものだろう。そしてその不快感は、馴染みのない異物を身体になかば強制的に送り込まれる不快感、嫌悪なのではないだろうか。けれども、その「送り込まれている」という印象の要因は、「受け手側にも」ある。例えば、全く知らない言語を自分が所属している共同体内で、不意に現されるときに、その現れたモノにたいし、寛容に振る舞う、という可能性もあるのではないだろうか。そのやりとりの最中に、領土化/防衛という概念の当てはまる事象が、現れていない場合もあるのではないか。ただ「わからない」ということだけが「わかっている」宙づりの状態は、領土化/防衛という観念から逃れている状態、と言えないだろうか。
ぼくが無邪気にサハリンで現地住民に英語や日本語で話しかけるとき、おそらく大きく分けてその二パターンの出来事がおきている。
全ての地は、同じ言葉と同じ言語を用いていた。東の方から移動した人々は、シンアルの地の平原に至り、そこに住みついた。そして、「さあ、煉瓦を作ろう。火で焼こう」と言い合った。彼らは石の代わりに煉瓦を、漆喰の代わりにアスファルトを用いた。そして、言った、「さあ、我々の街と塔を作ろう。塔の先が天に届くほどの。あらゆる地に散って、消え去ることのないように、我々の為に名をあげよう」。主は、人の子らが作ろうとしていた街と塔とを見ようとしてお下りになり、そして仰せられた、「なるほど、彼らは一つの民で、同じ言葉を話している。この業は彼らの行いの始まりだが、おそらくこのこともやり遂げられないこともあるまい。それなら、我々は下って、彼らの言葉を乱してやろう。彼らが互いに相手の言葉を理解できなくなるように」。主はそこから全ての地に人を散らされたので。彼らは街づくりを取りやめた。その為に、この街はバベルと名付けられた。主がそこで、全地の言葉を乱し、そこから人を全地に散らされたからである。
(旧約聖書 創世記)
定住という観念について微細な視点をもっているべきではないだろうか。そこにとどまり続けているという思い込みについて考えるべきなのだろう。それは旅をすることでようやくわかることでもある。つまり移住と定住は「同じ」であるということ。意識的に無問題にすること、差異を前提に「在り方」として並列化させること。そう考えることで、領土化の作用を逃れることができるのではないだろうか。いつも仮の地点にしかいないということ。場所は揺れ動き続けているということ。
この地域の人たちの、自然や偶然性に対する寛容さともいうべき、運命への譲渡についてどう考えるべきだろうか。こじんまりした家をたて、質素な暮らしをする。そして長年住んだ家が朽ちたら、補修などせずに、別の場所に移る。また新しい場所を家にする。壊れるなら壊れてもかまわない。いつか壊れるのだから、しっかり家を建てる必要もない。最低限の条件がそろっていればそれでいい。道路端の崖だって、やろうと思えば技術で制御できるのにやらない。田舎だからそんな技術がない?それとも、自然に対してのある種の諦めがある?
準備をしないこと、失敗について。ぼくはこの旅で(も)多くの失敗をした。ぐだぐだである。そのほとんどはぼくの準備不足が原因だった。けれども、周囲の助けのおかげでなんとかなった。もちろんそれは迷惑をかけることでもある。そのことについて。例えば、ぼくがしっかり準備し、ミスをせず、スマートに事を運んでいたなら、数々の出会いはなかった。人の温かみも、自分のちっぽけさも再び、確認することができなかっただろう。けれども、そういった単純な旅の失敗弁護とは別に、ミスをせず、スマートに事を運ぶ、という観念が、それを実践できたことさえも、周囲の環境に要因があることを覆い隠してしまうものではないだろうか。あるいは「自己」という単一的な幻にのみ「成果」を還元してしまう誤った観念と結びつきやすくしてしまうのではないか。責任を引き受けるというのは、未来におこる出来事の要因を自己に一部、あるいは全面的に限定、収束する考え方だとも言える。
遠回りをして、眺める景色、また街の違った風景をみることができるということは、特に悪いことではない。むしろ良い機会にもなる。安全な道をいく、準備をしていく、というのはそういった偶然的な機会を自覚的にせよ無自覚的にせよ排除することだともいえる。もしあの時、空港行きのバスを教えてくれたあの人を信用せずにタクシーに乗っていたら、どうだっただろうか、それはそれでまた違った景色がみえただろうか。マニラのように高い金を要求されただろうか。それもそれでいいだろう。けれども、ぼくが街のひとが教えてくれた63番バスを信用し、助けてもらったということが決定的に重要だ。これでフライトに遅れるなら、それはそれでいいと思えたこと。もちろん、計画通り進める楽しさとやりがいもある。責任を一時的に引き受け、計画をし、準備をすることは、仕事や生活のなかでは必要なことだ。つまり、どちらでもいいということ。その時の周囲の流れのなかで、勘にしたがって判断していくしかない、という状態に身を置くこと。空間を滑る、ということ。旅や散歩、移動にかぎらず、時をすごすというのは、ぼくにとってそういった偶然性と戯れる遊びのようなところがある。小さいころのスキーのように。
raccoon dogs teakettle ディレクター 森尻 尊
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