#アントニオ猪木VS前田日明
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yoshimiyo3 · 6 years ago
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新日本プロレスエースになれなかった前田日明
  私生活でも数多くの武勇伝をバラエティー番組で語る前田日明
アントニオ猪木が世代交代の時に
もっとも恐れたレスラーではなかっただろうか
  前田日明が新日本プロレスを、追放とは少し
言い回しは凄いが、2度新日本プロレスを出る事になった事実は変わらない。
  前田日明が、新日本プロレスに在籍し続けたら
間違いなく、プロレスの歴史は変わっていた。
前田日明に魅力を感じるファンは多く
  アントニオ猪木を中心に回っていた新日本プロレスに楔を
打ち���む事になる前田日明
  新日本プロレスにいながら、IWGPヘビー級王座にもならず
恐れられた選手は前田日明位である。
前田日明が新日本プロレスに登場した時
長州力・藤波辰巳がアントニオ猪木を相手に
世代交代を仕掛ける序章
  前田も猪木とのシングル戦を行った。
前田日明も藤波辰巳・長州力と同じように
  挌闘王アントニオ猪木を倒すことが、プロレスラー最強と認められる
と信じ打倒アントニオ猪木を目指す若者であった。
  アントニオ猪木の後継者としては藤波辰巳がファンの中で
認識は強く、その中に長州力・前田日明と続く存在になる
しかしアントニオ猪木のカリスマ性は強く
結果、アントニオ猪木に次ぐ絶対エースはこの3人からは生まれなかった。
  アントニオ猪木の影響は、藤波辰巳・長州力・前田日明に留まることなく
橋本真也・蝶野正洋・武藤敬司などにも多大なる影響を与えた。
棚橋弘至や中邑真輔の世代でアントニオ猪木の魔法がようやく解けた様に思える。
  結果藤波辰巳や長州力がアントニオ猪木からフォールを取ろうが
新日本プロレスにアントニオ猪木がいる限り
エースの存在感は出すことは出来なかった。
  ※藤波辰巳は1990年に藤波辰巳から藤波辰爾にリングネーム変更
  画像出典元 新日本プロレス 藤波辰爾VS長州力
  特筆すべきは、前田日明はアントニオ猪木との対戦を
拒否されていたのか?
  アントニオ猪木との対戦すら組まれる事はなかった。
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アントニオ猪木VS前田日明・若き日の前田日明とアントニオ猪木
新日本プロレス凱旋帰国後
アントニオ猪木VS前田日明の試合が組まれた。
  この当時の前田日明のレスリングは前田日明に殺伐としたものはなく
大型の前田日明の出すダイナミックな技
フライング・ニールキックは重々しく
一気にファンは魅了され、今までの新日本プロレス選手にない物を感じていた。
  新時代のエース候補であると確信した。
試合に負けはしたが、一気に前田日明を支持する
若者が増えた。
  フライング・ニールキック
キャプチュード
大車輪キック
ジャーマン
ドラゴンスープレックスと追い込んだが
延髄切り一発でアントニオ猪木の勝利となった。
  まだ、粗削りながらもアントニオ猪木と好勝負を展開した
前田日明だが、アントニオ猪木の手のひらの中であった。
  画像出典元YouTube
アントニオ猪木延髄切り
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前田日明新日本プロレス離脱
  前田日明が、新時代のエースと信じていた
新日本プロレスファンに衝撃が走った。
前田日明が、新日本プロレスを離脱して
新団体を設立する情報が舞い込んだ。
過激な仕掛け人
新間久の乱か・・・
1984年3月25日、マディソン・スクエア・ガーデンにて、突如として「WWFインターナショナル・ヘビー級王座決定戦」が開催された。これに出場したのはカナダ出身のピエール・ラファエル、そして、新日本プロレスに当時籍を置きながら謎の欠場を続けていた前田明だった。試合前に当地のWWF関係者から直々に激励も受けたという前田は、短時間で王座獲得に成功。決まり手はアバラ折り(コブラツイスト)だった。
前田が獲得したこの「WWFインターナショナル・ヘビー級王座」のベルトには、認定団体の名称(WWF)を差し置いてまで「UWF」の文字が大きく書かれており、前田は東京スポーツの記者にその意味を問われると「そうです、僕はUWFに行きます」「今の新日本は正規軍と革命軍の抗争に明け暮れ、本当のプロレスができない」と答え、UWFへの移籍を認めた。このタイトルマッチで用意されたチャンピオンベルトは、当時 藤波辰巳が保持していたチャンピオンベルトとは全くの別物でありながら、タイトル名称が同じという とても物議を醸し出すものであった。言わば、同じ名称のチャンピオンベルトが2本同時に存在する形となった。
  新日本プロレスのお家騒動については
割愛するが、アントニオ猪木と新日本プロレスの諸事情により
前田日明がアントニオ猪木と新間久から指名を受け
新団体、UWFに移籍
その象徴として、新日本プロレス新間久が会長を務める
WWFで強引にインターナショナルのベルトを作り
新団体UWFの象徴にした
しかしこのベルトに価値が出る事はなかった。
  前田日明の参加した、UWFは当然アントニオ猪木の息のかかった
団体である事は間違いない
  前田日明もUWFでプロレスをやるつもりであったが
アントニオ猪木の裏切りと言う筋書きになり
  新団体に移籍したにも関わらずいきなりピンチに見舞われる。
しかし、このUWFが思わぬ波紋を呼ぶことになる
UWFはプロレスに楔を打ち込んだ団体として伝説化している
  しかし地方のファンは置いてけぼりで
プロレス=テレビ
全日本プロレスと新日本プロレスはテレビ中継をしていて
選手も数多く知っていたが
  新団体UWFに移籍した、前田日明の情報は乏しかった。
しかし、都市型にUWFは進化していく
  UWFブームの立役者は、タイガーマスクである佐山聡の影響が大きい
佐山聡は、タイガーマスクでムーブメントを起こし
新日本プロレスを倒産の危機から救った。
しかし新日本プロレスを電撃的に
契約解除引退
わずか、2年余りの出来事であった。
  佐山聡は元々格闘技思考が強いレスラーと言われていて
新間久の紹介で、新日本プロレスに入���
  タイガーマスクになる事を再三拒否したが
1度限りの約束で、タイガーマスクになる事を受託
不本意な形でタイガーマスクになった。
  しかし、人気が爆発したため
継続する事になり。
タイガーマスクとなり新日本プロレスを退団・引退
その後新間久の誘いで、UWFに参加となる
  この、佐山聡の参加を機にUWFは劇的な変化を見せる。
関節技、蹴りを中心とした
格闘技に変化していく。
全日本プロレスや新日本プロレスのジャイアント馬場
アントニオ猪木の伝統的なプロレスに類似するのか?
  格闘技思考の強い物が集まった団体に変化していくのか?
見るファンにとってはどうでも良かった。
  前田日明や佐山聡がどのようなプロレスに変化していくのか?
そこに一番興味があった。
  プロレスの延長線上に考える前田日明
プロレスに見切りをつけた、佐山聡の格闘技路線
この2つのぶつかり合いにも見えた。
  しかし、初期のUWFは前田日明の団体と言うより、佐山聡主導で
人気が出てきたのも事実であった。
画像出典 元UWF スーパータイガーVS前田日明
  UWFで注目を浴びた選手は、前田日明以外にも多数いた
藤原喜明・木戸修・高田延彦・山崎一夫など
  前田日明を支持するファン達は・・
佐山聡を支持するファンは達は・・
  皆こう言うようになった。
UWFこそ最強で、プロレスをやってるものは弱い
UWFこそ本物のプロレスであると
全日本プロレス・新日本プロレスを純粋に愛するファンを馬鹿にした。
  何時しか、プロレスファンは2分化する不思議な現象が起きた。
UWFは、関節技、蹴りなどを中心に
レスリングを展開し、プロレスで見る
ロープワークを使った攻撃などを全て排除した
  今まで、地味な技と言われた関節技で勝敗が決し。
三角締め、アキレス腱固め、膝固めなど今まででは
プロレスの勝敗を決する事のない、痛め技が
フィニッシュホールドとなった。
  初期の、UWFでの前田日明は、足のレガースなどはつけておらず
佐山聡のスーパータイガーに蹴り技でボコボコにされたが
佐山聡は、前田日明の恐ろし潜在能力を痛感していた。
まだ、進化系の前田日明は
UWFでは、本調子ではなかった。
しかし、スーパータイガー戦で佐山聡に言わせた一言
  三角締めで前田日明に勝利した、スーパータイガーは、あれで
調子が悪い?・・大したもんだよと言い放った。
  UWFと共に挌闘王に進化する
初期の前田日明のUWFであった。
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新日本プロレスと電撃提携
UWFは、前田日明が電撃移籍して
1年半経過していた。
  前田日明と佐山聡の2枚看板でスタートした
UWFは運営方針などの違いで分裂
  前田日明と佐山聡は分裂した決定的な試合は
前田日明が佐山聡に喧嘩マッチを仕掛けた。
静まる館内で佐山聡のソバット
前田の張りて攻撃
  殺伐とするリング内
最後は、前田日明の金的攻撃が入り試合ストップとなった。
  この試合後
佐山聡はUWFを退団した。
  佐山聡との関係は、前田日明をプロレスに誘ったのは
佐山聡と言われている
お互い盤石の人間関係と思いきやあっさり、決別となった。
  しかし、佐山聡の抜けた穴も大きく
UWFは、経営困難になる
  そこに、救いの手を差し伸べたのがジャイアント馬場と言われている
前田日明、高田伸彦に全日本プロレスに来ないか?・・・ジャイアント馬場
  当時の全日本プロレスはジャパンプロレスの、長州力達が天龍源一郎と抗争を展開
外国人も豊富な全日本プロレスは新日本プロレスを圧倒していた。
  前田日明が全日本プロレス入りを決断していたら
ジャンボ鶴田VS前田日明
天龍源一郎VS前田日明
三沢光晴VS前田日明
三沢光晴VS高田伸彦
などの、夢のカードが実現していたかもしれない。
  しかい前田日明の選んだのは、新日本プロレスへの出戻りであった。
  前田はリング上で「1年半UWFとしてやってきたことが何であるか確かめに来ました」とマイクアピールを行った。
電撃的に新日本プロレスに復帰した前田日明率いるUWFは、危機的状況だった
新日本プロレスに息を吹き返すチャンスを与える事になる。
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新挌闘王前田日明
新日本プロレスに復帰した、前田日明率いる
UWFだがプロレスと融合する気はサラサラない試合を繰り返していた。
  UWFは、ロープワークわ使わず、蹴り、関節技を容赦なく
仕掛けてきた。
本来プロレスには受けの美学もあり
スイングする相手との攻防が醍醐味である
  格闘技路線のUWFと新日本プロレスではかみ合うはずもなく
選手、ファンはともストレスを感じる試合が続いていた。
  最初に、UWFと新日本プロレスが融合した試合が
高田伸彦VS越中詩朗であろう
  お互い、ヘビー級転向前のジュニアヘビー級時代
新日本プロレスにジュニアヘビー旋風を巻き起こした
新日本プロレスジュニアヘビーに新しい歴史を作ったのは
この、高田伸彦VS越中詩朗であろう。
  高田伸彦VS越中詩朗の歴史
一方の前田日明は新日本プロレスから煙たい存在になっていた。
  一方的に、打撃・関節を繰り出す前田に新日本プロレスは仕掛けた
なんと大巨人アンドレザ・ジャイアントにセメントマッチで前田日明をつぶすよう
指令したと言われている。
人間山脈と言われた、アンドレザ・ジャイアント巨漢にも関わらず
身体能力も高く、ある意味人間凶器でもある
  その、アンドレがセメントを仕掛けたら大変な事になる
    投げも容易ではない、関節技も難しいアンドレザ・ジャイアント
顔面にエルボーを入れてくるアンドレ
全体重を浴びせ、潰しに来るアンドレ
  前田を潰すのがありありと、見える試合展開に
前田も臨戦態勢に入り、アンクルホールドで膝を破壊
その後、膝の皿に蹴りを繰り出す前田日明
とうとう、アンドレザ・ジャイアントは戦闘不能に陥り
  試合放棄になる。
なんとも、不可解な試合にファンも納得しなかった。
  しかし、後にこの試合がセメント所謂ガ��の潰し合いが行われていたことを
知る事になる。
  それだけ、新日本プロレスが前田日明を持て余していたことが
わかる試合という事だ。
  前田日明を持て余した新日本プロレス、新日本プロレスのアントニオ猪木ですら
前田日明との試合を組まなかったのがその証拠である。
  なんのサイドストーリーもなく、突如組まれた
前田日明VSアンドレザ・ジャイアントの試合
アンドレが、前田に顔面や全体重を乗せた攻撃を仕掛ける
  不穏な動きを感じた前田は、自分を潰しに来てると感じ
山本小鉄にセメントでやっていいのか?とリング上から
問いかけたと言う・・・
  テレビ放送もお蔵入りした
新日本プロレス事件簿にまでなった。
前田日明伝説がまた一つ誕生した。
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新挌闘王前田日明誕生
  挌闘王と言えば、アントニオ猪木
プロレスは最強と、異種格闘技を行い
数多くの格闘技と対戦、異種格闘技ブームを作り
  新日本プロレスをメジャー団体にした。
モハメド・アリ〜極真空手の熊殺しウイリー・ウイリアムス
画像出典元 新日本プロレス
  まさに、挌闘王アントニオ猪木であった。
そのアントニオ猪木が自身の復権をかけて
異種格闘技を復活させた。「INOKI 闘魂 LIVE」
スペース・ローンウルフ「610」武藤のお披露目
などがあったが注目はアントニオ猪木VSL・スピンクス戦
  あの、モハメドアリに判定勝ちし
世界ヘビー級チャンピオンを獲得
  しかし、この試合が凡戦に終わってしまう
赤いグローブで登場した
アントニオ猪木、ボクシングスタイルで試合を行い
  4Rからグローブを外し
最後は、KOでもなく強引にフォールにいって3カウント試合終了となった。
  見ていたファンは、10年前の異種格闘技期待していたのが
全く違うものに見え、唖然とした。
アントニオ猪木の、格闘王神話が崩れた瞬間でもあった。
  それもそのはずで、猪木の前に試合を行った
前田日明VSD・Nニールセン
  画像出典元http://kakutolog.cocolog-nifty.com/kakuto/2017/08/post-bd23.html
  この2人の試合がかみ合った
プロレスVSマーシャルアーツの異種格闘技戦である。
後に起る総合格闘技ブームを見るかの様な試合であった。
  試合前から、感情むき出しにする
前田日明とニールセン
  ファンに伝わる殺気
試合開始早々、ニールセンのパンチが前田にヒット
会場は前田日明コール一色
  前田はキックから、グランドに持ち込もうとする展開
ニールセンのパン・キックが前田に炸裂
一進一退の攻防と前にでる2人のファイトスタイルに
会場のボルテージは上がる。
  3Rになると、前田日明がニールセンを捕まえる場面が多くなり
グランドの展開が多くなるがニールセンも関節技をうまくロープに逃げる展開
  起き上がりざまに前田日明に攻撃を仕掛ける
しかし結果、前田が逆方エビ固めで勝利となり
お互い健闘をたたえ合った。
  前田日明の強さを証明した日にもなり
アントニオ猪木に代わって新挌闘王・前田日明誕生となった。
  新日本プロレスのレスラーが前田日明を敬遠する中
前田は異種格闘技で結果を出したがそれはまた孤立の原因となった。
全日本プロレスがぶち上げた元横綱輪島のデビューへ対抗するべく帰国した武藤。「スペースローンウルフ」のキャッチフレーズで売り出したが、思惑通り人気は爆発しなかった。最大の理由がUWFだった。ムーンサルトプレスよりもキックと関節技を主体とするUWFスタイルが当時のファンは支持した。さらに武藤が凱旋初登場した86年10月の「INOKI闘魂LIVE」でキックボクサーのドン中矢ニールセンと戦ったエースの前田日明が異種格闘技史上に残る激闘を展開。アントニオ猪木に代わるカリスマとしてファンは前田へ傾倒していったのだ。
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藤波辰巳VS前田日明
カリスマ化していく前田日明は新日本プロレスから孤立していく
新日本プロレスの主力レスラーが対戦拒否という噂も
  事実、前田日明とかみ合うレスラーは少なく
前田日明の強さばかり目につくのは否めない
  事実前田日明は、新日本プロレスの事を無人島と表現している。
前田日明の目指すプロレスと新日本プロレスの目指すプロレスは違うとも表現している
  その中で英断を下したのは
藤波辰巳「藤波辰爾」であった。
  プロレスで舞台裏を多く語る人がいるが
ファンにとって舞台裏のゴタゴタは関係ない
見るものが全てで感じる事が出来るのがプロレスの凄みでもある。
プロレス感の違う藤波辰巳と前田日明がどのような試合になるか予想もつかなかった。
  藤波は攻守と考えたら受けながらプロレスを展開する
レスラーである長州力との名勝負数え歌と言われた試合も
藤波の受けの技術があって成り立っていた。
  しかし、藤波辰巳が前田日明の攻撃をまとも食らったらひとたまりもないと感じた
ファンも多いはず。
しかし藤波辰巳は、前田日明の攻撃を全て受け止めた。
  前田日明攻撃を受け止めながら、藤波辰巳のレスリングを展開した
試合は壮絶な展開になった。
新日本プロレス時代の前田日明を語るにはこの試合を見る事であろう
  前田の凄み藤波の強さが良くわかる異種格闘技ではなくプロレスの試合である。
    キャプチュード・キック・関節・ニールキック・大車輪キックなど前田日明は
この試合で数多くの技を藤波辰巳に繰り出す
一方藤波も前田日明の技を受けながらキック・関節・ドロップキック・スープレックスを繰り出す。
  激闘の終止符は、ニールキックをはなった前田レッグラリアット気味の技で応戦する
藤波空中で激突した藤波と前田は10カウントで両者KOとなった。
    新日本プロレスのが復権した試合でもあった。
前田日明を拒絶することなく
堂々と受けてたった藤波辰巳の強さが新日本プロレスのストロングスタイルの象徴であった。
  前田日明は試合後
無人島と思っていた島に仲間がいたと表現した。
  前田日明がおこなった新日本プロレスでのプロレスのベストバウトと言っても良い
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長州力新日本プロレス復活
  新日本プロレスから〜ジャパンプロレス
全日本プロレスを主戦場にしていた、長州力が新日本に復帰した
  しかし、この事がまた前田日明を混迷に導く事になる
新日本プロレスVSUWFVSジャパンプロレス
新日本プロレスは活性化していった。
  しかし覇権争いが勃発
世代闘争などアントニオ猪木とマサ・斉藤
長州力を主導に藤波辰巳・前田日明も巻き込まれていく
  しかし飽和状態になり、世代闘争は集結
ジャパンプロレスとUWFの6人タッグマッチで前田日明は長州力がサソリ固めを
木戸修にかけている背後から、顔面キックをはなった。
  長州の顔面はみるみる腫れあがり、危険行為とみなされ結果新日本プロレスを解雇となる
プロレスの世界では、遺恨勃発など
次なる試合で清算するものだが
  意外な展開にファンは驚いた、覇権争いなど新日本プロレスの裏の事情もあるのだろうが
全く不可解な解雇
前田日明の追放と言った印象を受けたファンは多かった。
  しかし、新日本プロレスで残した前田強さはカリスマ化し
第二次UWFブームを巻き起こすことになる。
  第2次UWF崩壊後も前田日明は新日本プロレスに戻る事は2度となかった。
前田日明の強さは、伝説化し
新日本プロレスに残っていたら、新日本プロレスがどう変わったのか
  UWF崩壊後、ジャイアント馬場から全日本プロレス入りを進められた
全日本プロレスに移籍したら前田日明はまた違った、伝説を作ったかもしれない
  しかし、UWF、リングスと前田日明の強さはそこでも発揮され
今でも、多大な影響力を持つ
新日本プロレスでカリスマ化し、新挌闘王になった前田日明
そして、新日本プロレスを2度出て行った前田日明であった。
  前田明の作ったUWFから分裂したUWF
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wasite · 4 years ago
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WASITE.store 2020.06.14 now OPEN 今日の海 80年前の今日、東京は隅田川にかかる「勝鬨橋(かちどきばし)」が完成! 海外の技術者などの協力を求めず、日本の技術力だけで設計・施工し、 「東洋一の可動橋(かどうきょう)」 と呼ばれるほどに!!! 誉! 可動橋というのは、読んで字の如し。 動くことが可能な橋。 川をゆく船が間を通れるように、橋桁が跳ね上がるんですよ。 1980年からはロックされて開くことはないんですが、 近年もう一度、橋をあげてぇやろうじゃぁねーか!ってんで、 「勝鬨橋をあげる会」 が活動! しかし、橋のメンテ、機械の復旧、そんなコストが・・・ 約10億円。 実現には程遠い。。。 しかし、橋自体は国の重要文化財(建造物)に指定され、 下町の名所として地元のみなさんの心の拠り所。 橋は、橋はいいよね〜。 あの美しいアーチ。 そう、まるで、背中から腰周りをがっちり腕でつかんで、 そのまま後方へ反り、 アーチを描きながら相手を投げても相手を離さず、 「ブリッジ」した状態で両肩をマットについて3カウント。 ジャーマンスープレックス! を得意としたのが、アントニオ猪木。 1984年の今日 アントニオ猪木 vs ハルク・ホーガン戦。 そこに長州力が乱入したことで、 「暴動」 が起きます。蔵前警察署が出動する騒ぎとなる。 蔵前警察署も隅田川の近くにあります。 まるでストロングスタイルのようなデカ達も、 喧騒から離れたい時に川辺や橋の真ん中あたりで たそがれ たりするんでしょうか? いろんな人間ドラマがありますもんね、警察署も。 はぐれ刑事純情派よろしく人と人の 「橋渡し」 的なこともあるのでしょうか? ジャーマンスープレックスは別名「人間橋」っていいますもんね。 ジャーマンスープレックスは、いいよね〜。 プロレス技の中でもっとも美しい技とも言われています。 誉! けど、あれを許されるのは屈強なプロレスラーだけ。 ブラジリアン柔術、柔道、これらの中では、 「禁止技」 です。危ねぇから。 だから、あの美しいアーチを見られるのは、プロレスだけ! (週刊少年ジャンプのキャッチコピーみたいだ) 馳のジャーマンのアーチを足場��、ムタのシャイニングウィザード。 感動したなぁ。 (プロレスファン以外はポカーンでしょう) つまりは、橋っていいですねw マニアックトークで終わってごめん。 明日はもう少しいい話する。 「明日にかける橋」 サイモン&ガーファンクル! 名曲! それも掘り下げず、「投げっぱなし」で、今日はおしまい。 今日もよき日を。 #WASITE #ワシテ (Wasite) https://www.instagram.com/p/CBZvUkajJs3/?igshid=1rzot3fmvpxrb
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karate-ja · 5 years ago
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“熊殺し”空手家ウィリー・ウィリアムスさん死去 アントニオ猪木 ...
#空手 #正道会館 [デイリースポーツonline]84年に師匠の大山茂氏が設立したUSA大山空手に移った後、空手選手を引退。だが、90年代には度々試合に出場し、91年には「USA大山空手VS正道会館5対5マッチ」で佐竹雅昭に判定負け。92年には総合格闘技リングスで前田日明と、97 ...
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chilidogyt · 6 years ago
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vol.1 堕落さん
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――プロレスを見始めたのはいつからですか。 これが結構謎なの(笑)。初代タイガーマスクのデビュー戦(1981年4月23日/vsダイナマイト・キッド)をリアルタイムで観た記憶があるんだけど、定かではなくて。俺は最初から藤波辰巳(現・辰爾)ファンだったから、それ以前に藤波の試合を観ているはずなんだけど、藤波のジュニア時代はまったく記憶にないの。観ているのかもしれないけど、おぼえてない。藤波の試合でちゃんと記憶に残っているのは、83年の小学校3年のとき。俺、夏に肺炎で入院して、入院患者がくつろぐようなスペースで藤波vs長州(力)の攻防を観たんだ。それは確実に観たおぼえがある。 ――その試合は、ある程度プロレスのルールがわかっている状態で観たんですか。 もちろん。ルールをわかっていて、好きで観た。最初のきっかけは思い出せないんだけど、親父が金曜8時にテレビをつけていたんだと思う。親父はプロレス、あんま好きじゃないんだけどね。ほかに見るものがなかったのかもしれない。 ――どんなところに惹かれましたか。 単純に、藤波辰巳は格好良かった。元祖アイドルレスラーだからかね。女の子がイケメンに惹かれるのと一緒で、男の子も格好いい人に惹かれるじゃん。藤波はスラッとしていて、筋肉質で、動きも早くて。(アントニオ)猪木は結構動きがバタバタしているように感じて。俺は、猪木は運動神経が良くないんじゃないかって思っていて。あの人は、ドタバタが味というか、フックになるんだよ。一方で、全日を観たら(ジャンボ)鶴田、(ジャイアント)馬場、ファンクスとか。同世代だとテリー(・ファンク)からプロレスを好きになった人は多いんだけど、俺は当時、あの外連味がすごく嫌で。プロレスファンとしてキャリアを積んで、プロレスの仕組みやワビサビがわかってから好きになったけどね(笑)。「テリー最高!」って。 ――当時は同級生も金曜8時の『ワールドプロレスリング』を観ていたんですか。 そう。今じゃ信じられないけどね。当時の小学校は土曜が半ドンで、3時間だけ授業がある世代だから、クラスの男子の半分以上がプロレスの話やプロレスごっこをしていたね。実家は神奈川の田舎町なんだけど、1学年に6、7クラスある結構でかい小学校に通ってたの。男子は1クラス20人くらいはいたんだけど、その半分がプロレスに興味を持っていたね。ちょうどキン肉マンもあったから。 ――なるほどなあ、キン肉マンですか。 空前のプロレスブームだったね。猪木、藤波、長州、タイガー、そしてキン肉マン(笑)。当時は、新日が金曜8時。全日は土曜の夕方だったけど、全女は月曜の7時代。クラッシュ(・ギャルズ)全盛で、(長与)千種がダンプ(松本)に坊主にされるシーンがゴールデンタイムで流れてた。 ――テレビは毎週観るのが当たり前でした? 毎週観てた。金曜8時は、俺がチャンネル権をガッツリ確保して。弟と妹がいたけど、まあ勝負にならないから。でも、親父に対してはどうしてたかな。昔ながらの親父で、機嫌悪いとぶん殴られるし。小学校の入学式で、全校児童の前でビンタされたこともあったから。母ちゃんの腹の中に妹がいて来られないから代わりにパンチパーマに髭の親父が来たの(笑)。俺がはしゃいでいたら、「うるせえ」って感じで。弟をいじめたらキレられて、往復ビンタを食らって。翌日、学校に行った時も顔面に手の跡が残ったりしてたし。 ――そういう体験があったから、対抗するために強さに憧れたとか? それは関係ないかも。 ――鬱憤晴らしでプロレスごっこなんかも? そう(笑)。プロレスごっこといいながらひどい技かけてた。敷布団と掛布団を四重くらいにして、そのうえにドラゴンスープレックスとか(笑)。 ――ひどい(笑)。 ひどいよね。そりゃあ弟もプロレス嫌いになるよ(笑)。そんな弟が、将来プロ格闘家になるとは思ってもみなかった。一昨年くらいに引退しちゃったけど。リングスにも上がってんだよ。 ――そのあたりも追々伺いますね。初めて生観戦したのはいつですか。 1985年の7月かな。『バーニング・スピリット・イン・サマー』茅ケ崎青果市場大会。ブルーザー・ブロディが初めて新日のシリーズに出場したとき。 ――どういう経緯で観戦することになったのですか。 そのへんも全然記憶にないんだけど、近所のオッサンというか、親父の友だちに連れてってもらったの。チケットは、誕生日が近いからそのへんに絡めてもらったんじゃないかな。自分で買ったとは思えないから。 ――その時のメイン、おぼえてます? 猪木、藤波、ザ・コブラvsブロディ、キングコング・バンディ……あ、キングコング・バンディはセミかな。バッドニュース・アレンかマット・ボーンかな。ネットでもすぐに出てくると思う(注:正しくは、ブルーザー・ブロディ、ブラック・タイガー、マット・ボーン)。 ――会場の規模はどれくらいですか。 バスケットコート2面くらいあるのかな……そんなにないか。青果市場だからね。湘南地区でプロレスっていうとそこだった。鶴見五郎の聖地。国際プロレス、IWA格闘志塾がずっと使ってたとこ。そこで全日も観たし、IWA JAPANの旗揚げシリーズも観た。 ――堕落さんのなかではどんな思い出になっていますか。 そりゃ大きいよ。だって、チェーンを振り回しているブロディに追っかけまわされたんだもん(笑)。俺個人が追っかけられたわけじゃないけど、近く��見たら「でけえ!」「怖ぇ!」って(笑)。 ――テレビ観戦との差異でここに感動したとかは? 音。プロレスは音だよ。「バシーン」ってすごい音がするじゃない。第1試合から「ワー」って……第1試合のカード、なんだったかな。(ドン)荒川さんかな。当時、ドン荒川ってストロングスタイル転向宣言とかしてて、名前変わったのもそれがきっかけなのよ。その1年後くらいにIWGP Jrに唯一挑戦したことがあったの。ザ・コブラ戦。当時はまともな試合をしてたの。俺が唯一観たドン荒川の試合が、まともな試合だったんだよ(笑)。当時は、ジャパンプロレスに行く維新軍団が抜けて、何もなくなっちゃった頃だね。それでブロディを引き抜いて、85年の4月に両国で初めて猪木とシングルをやって、救世主になって。 ――それから会場にはコンスタントに行くようになりましたか。 全然。次に行ったのは91年くらいじゃないかな。なぜかというと、中学で部活に入ったから。 ――部活は何を? バスケ部(笑)。まあ2年でやめちゃったけど。 ――バスケで憧れている選手がいたとか? 全然。単純に運動をやりたいなって思って。 ――プロレスラーを目指して体を鍛えるような感じ? いや、背も伸びてなかったし。なりたかったけど。だって、中学3年で162cmしかなかったからね。中学入学したときに145cmしかなかったから。まだ覚えてるけど、中1の初めての身体検査で145cm、中2で152cmになって。1年間で7cm伸びたから、「おお、やっぱバスケすげえな」って。あ、背を伸ばしたかったのかもしれない。今もそうだけど、当時も太ってて、145cmで45kg。それが中2で7cm伸びたのに3kg減ったから、相当痩せたんだよ。公立だけど県大会で準優勝とか3位とかに入ってたから。俺はユニホームすらもらえなかったけど。 ――バスケ部っていうのはすごく意外です。 隣町に光GENJIのメンバーになった佐藤アツヒロがいて、そこそこ強いバスケ部がある学校に通ってた。俺らの1つ年上だった。 ――部活を一所懸命やっていたから観戦にも行けなかった? だって、中高生ってお金ないじゃん。部活やっている時間に『ワールドプロレスリング』が放送されてて、ビデオに録画して観てたけど。当時は、藤波が長期欠場した頃で。 ――腰ですね。 そう。89年の6月に長野の佐久大会で(ビッグバン・)ベイダーのバックドロップを食らって、そこで腰やっちゃって。猪木の選挙応援に駆けつけて悪化して(笑)。飛龍革命があって、俺的には「やっと藤波の時代が来た!」って感じだったのに。俺、いじめられっ子だったから。 ――それ、想像つかないです(笑)。 いじめられっ子だったし、��息持ちだったから、一日おきに死ぬことを考えた。俺は性善説の人間だったから、いじめられると「なんでこんなひどいやつらがいるんだろう」って傷ついてた(笑)。むかつくっていうより、悲しいっていう。身体も弱かったし。でも、「藤波が天下を取るまでは死ねねえ!」って(笑)。で、(88年8月8日の横浜文化体育館で)猪木と引き分けて、IWGP王者になった、ついにエースになった、ついに待ち焦がれていた日が来たんだけど、それも長く続かずにあの人は腰をやっちゃって、欠場して。 ――傷ついている人がプロレスラーに自分を重ねるケースは多いと思うんですけど、堕落さんも多少なりともそうだったということですね。 マジで支えだったもん。俺、見た目も性格もオタクっぽいと思うんだけど、俺が漫画やアニメやゲームにいかなかったのは、プロレスがあったから。ウルトラマンよりも、仮面ライダーよりも、戦隊物よりも、プロレスラーがいたから。実在のヒーローとして。〇〇マンよりルチャドールの方がカッコいいじゃん(笑)。 ――週プロとゴング、どっち派でした? 雑誌どころか、小学生3、4年の頃から東スポとレジャーニューズ読んでた。 ――小学生で?(笑) 家族と出かけるとき、駅のホームにいったらキオスクでプロレスの見出しが出てるわけ。「なんだこれ、安いし買っちゃおう」って。東スポはまだいいんだけど、レジャーニューズは完全にプロレスと風俗だけだから(笑)。 ――親に何か言われませんでした? とくに何も言われなかった(笑)。エロ記事は隠れて読んでたしね(笑)。で、雑誌はゴング。初めてプロレスを観に行った人とは違う、家族ぐるみで付き合っている一家がいて、そこの親父がプロレス好きでゴングをたまに買ってて、もらってた。たぶん、小学3年くらいから自分で買い始めたんじゃないかな。当時、喘息の治療をするために、隣の市の病院まで行って注射を打ってたの。減感作療法ってやつ。それが毎週金曜日で、行くついでに買ってた 。当時、ゴングと週プロは木曜発売で、俺はゴング派だった。 ――ゴング派だった理由は? 誌面がきれいだったから。紙質が良かったし、写真もきれいだったし。当時、週プロが250円、ゴングが300円で、週プロの方が50円安かった。ゴングの方が高級感があった。ゴングは創刊したのが週プロより後なんだよね。週プロはまだそんなにアクの強さはなかったんだけど、ちょっとクセはあって、それが小学生には引っかからなかった。俺はもっとプロレスラーの生の声や情報が欲しいし、きれいな写真が見たいって。ゴングは「ルチャリブレ広場」もあったし(笑)。 ――毎週ゴングを購入されて、一字一句漏らさず読むくらいの勢いで。 もちろん。 ――どんどん知識もついていくなかで、プロレスの話ができる友人はいたんですか。 高校までいなかった。 ――じゃあ、さっき話していた91年の観戦はその友人と一緒に? そう。クラスでいつも体育を休んでて、全然しゃべらなくて、お笑いのネタにされているようなやつがいたの。俺もどっちかっていうとからかっていたけど、そいつと話すようになったら、プロレスが好きで、同レベルで話せるくらい結構詳しいの。それで意気投合して。で、ほかにもうひとりプロレスの話ができるやつがいて、翌年の1月4日、新日の後楽園に3人で行って。それが2回目だと思うんだよね。話せる人がいたら、また盛り上がるじゃん。 ――よくわかります。 当時は、チケット���取るのに新日の事務所に普通に電話してた。学校のロビーの赤電話から休み時間にかけたんだけど、神奈川の田舎と東京じゃ距離があるから10円玉もすぐになくなって、何回か通話が切れて、(新日の)事務員の姉ちゃんもキレてた(笑)。特リンを買ったんだけど、すごい悪い席で。前年の秋に藤波が復帰したけど、アニマル浜口にピンフォール負けするくらいの感じで、徐々に復調してて。年末の浜松かな、メインが長州と藤波のIWGP戦。藤波が復活を賭けて長州に挑戦、みたいな。生中継だったけど、お約束でメインの途中で放送が終わった(笑)。同じ日にルー・テーズの最後の試合もあって。テーズが74歳にして……。 ――おぼえてます。バックドロップをやりましたね。 そう。あと、猪木がニック・ボックウィンクルとやるはずだったけど、急遽猪木が欠場して、マサ(斎藤)さんとやって。 ――メインは? メインはなんだったかなあ……。藤波はセミだった。浜松で王者になって、初来日のムッシュ・ランボーっていう、ヨーロッパのCWAを主戦場にしていたでかい選手とやった。で、ツーカーのやつと3月にもうひとつ行ってて。『スターケードin闘強導夢』。藤波vs(リック・)フレアー。藤波がWWEの殿堂入りしたときも、一番のトピックとして扱われてた。フレアーに勝って、IWGPとNWAの2冠王になって。チケットはどうしたのかな。母親に泣きついたけどお金貸してもらえなくて(笑)、友だちに借金したのかな。当時のドーム大会って映像観てもらえるとわかるけど、すげえセットバック組んでアリーナも傾斜になってんの。何だかんだで観えるんだろうなって思ってたけど、一段嵩上げしている程度で全然観れない。だから、後ろ向いてヴィジョン観てた。 ――高校生で藤波さんが好きっていうのは渋好みに思えます。 そんなことないよ。だって、当時の藤波辰爾は38だし。昔のレスラーはちょっと老けてるから。 ――15、16歳のころっていうのは、まだ素直にプロレスを観ていましたか。 いわゆる高橋本(ミスター高橋『流血の魔術 最強の演技 すべてのプロレスはショーである』)以前・以降って話になるけど、以前の人の見方で、「相手の技はちゃんと受け合うけど、最後は力尽きた方が負けるんじゃないか」みたいな。頑なにガチだとは思ってなかったけど、勝敗は決まってないんじゃないかなって。 ――その頃って、将来こうなりたいとかって考え始めるじゃないですか。さっき、プロレスラーになりたかったって話もありましたけど。 無理。今も抱えている持病が高1の頃に発症しちゃって、かなり世捨て人だった。クラス替えで仲良い奴が1人もいなくなり、溶け込めなくなって。高3の頃は孤立してて、学校もちゃんとは行ってなくて。まあ卒業はできたけど。 ――高校卒業後はどんな生活をしていましたか。 2年宅浪して、家で何もしないで、『電気グルーヴのオールナイトニッポン��を録音して、テープが擦り切れるくらいまで聞いてた(笑)。その少し前だけど、92年に藤波のファンクラブに入ったんだよ。藤波が腰痛から復帰したあとにまた欠場して、その復帰戦が異種格闘技戦(vsリチャード・バーン)で、おそろいのTシャツをつくって入場を先導する感じで。よくあるじゃん、昔の(ミル・)マスカラスとかテリーの親衛隊みたいな。ハチマキまいてダッセーやつ(笑)。横浜文化体育館なんだけど、花道の前で待機したりして。そのつながりで、そこでドームのチケットを取ってもらって行くようになったりしてた。その翌年に、藤波がG1で優勝して。 ――決勝で馳(浩)とやったときですね。 そう。それは観に行ってないんだけど、「ついに藤波が完全復活!」みたいな感じでファンは盛り上がってたの。で、渋谷で祝勝会をやるっていって、ファンクラブのメンバーとして行って。そのファンクラブで仲良かった人がいて、コアな人たちと手伝いに行ったりしてたのかな。そんな中で無我をやるって話が出て、大阪までわざわざ夜行バスで旗揚げ戦に行ったりして。95年10月29日。大阪ATCホール。 ――よくおぼえてますね(笑)。 その前の93年にはドームと、WARの東京体育館大会に行った。2月14日、バレンタインだった。それもファンクラブにチケット取ってもらって、おそろいのジャンパー着て。メインは、天龍(源一郎)、石川(敬士)VS藤波、馳。しかも、馳って当時は藤波と組んだことがなかったの。俺は長州派に対して疑心暗鬼だったから、藤波が負けさせられるんじゃないかっていう嫌な予感がしてたの(笑)。それは1カ月後か2カ月後に、藤波、長州VS天龍、石川で石川にフォール負けっていうのがあって。石川、あまり評価してなかったから、こんな屈辱はないと思って。なんで天下の藤波辰爾が石川敬士に負けなきゃいけないんだって。石川は巧いとか言われるけど、全然巧いと思ったことなくてさ。彼はいろいろやるんだけど、器用貧乏の逆。貧乏器用。ヘタなのにいろんなことをするけど、どれもたどたどしい。中堅でやっている分には活きが良くていいけど、藤波に勝つのは……しかも2回勝ったからね。イリミネーションマッチでも藤波からピンフォールとってる。当時、阿修羅・原が失踪してSWSに復帰してからそれほど経たないくらいだったし、身体がボロボロで使い物にならなかったから。石川を格上げしなきゃいけないって事情はわかるんだけど、だったら長州が負けろよって思った(笑)。その頃はもうそういう見方をしてたね。東京体育館は、セミが(ジョン・)テンタVS(キング・)ハクだったかな。モッサリした試合で、いっぱい来てた新日ファンからかなり野次られてた。当時、俺たち新日ファンはかなり差別意識をもって(WARを)見ていたからね(苦笑)。 ――本当に藤波さんが好きなんですね。 藤波史観だから(笑)。 ――当時だと、全日とかFMWはいかがでしたか。 大仁田(厚)と(ターザン)後藤の最初の電流爆破のビデオは買ったよ。親に見せて、「こんな思いしてやってんだぞ」ってアピール��て(笑)。俺ね、FMWはホセ・ゴンザレスを使った時点でかなり冷めた。ブロディの命日って、俺の誕生日なの。当時、うちは日刊スポーツを取ってて、ブロディが死んだことを知って大ショックを受けて。まだネットがないわけじゃん。朝刊スポーツ紙と夕刊の東スポと週プロ、ゴングが情報源で、突発的なニュースが入ったら編集部に電話してたもん。「〇〇が亡くなったって本当ですか?」って聞いたら「はい、そうです」って沈んだ声で言われたり。 ――僕も試合結果はよく週プロの自動音声を聞いてました。 テレフォンサービス? あれは俺もかけまくったよ。なかなかつながらないこともあったよね。 ――ありました。懐かしいですね。今なら試合結果もすぐにネットで見れますけど。 勝手に客がツイッターとかで「〇〇が勝った」って書いちゃうからね。 ――で、藤波さんがいる新日を中心に観ていた、と。 全体的な流れは追ってたよ。ルチャが好きだったからユニバーサル(・プロレスリング)観てえなって思ったり。話がさかのぼるけど、俺は『世界のプロレス』がアメプロばっかりだったのが不満でしょうがなかったから。ロス・ファンタスティコスの試合とかが流れて。俺は毎週ルチャをやってほしかったけど、やってくれなかったからね。カト・クン・リーのロープ歩きとかがゴールデンタイムで流れることもあった凄い時代だね(笑)。 ――90年代前半からは、いろんなインディー団体が出てきたりもしましたね。 インディーも結構行ってた。IWA  JAPAN旗揚げシリーズの茅ケ崎行ったでしょ、NOWの旗揚げシリーズの茅ケ崎も行ったでしょ、あと、オリエンタルプロレス、湘南プロレス、UNW、PWC、WARも後楽園に1回行った。当時、怨霊とかが第1試合で。天龍VS仲野信市がひでえ試合だったよ。「天龍、殺しちまえー」みたいな怒号が飛んでて。本当に殺すんじゃないかって試合で、仲野の顔面を蹴ったらパコーンって音がして、仲野は鼻から一気に大流血で、鼻が折れてたもん。 ――いろいろ観てるんですね。 俺、冬木(弘道)の講演会かなんかも早稲田大学に見に行ってるもん。その時に抽選が当たって特リンのチケットもらったんだけど、後楽園に行ったらダフ屋に捕まって、チケットむしり取られて1000円渡されたっていう(笑)。ダフ屋がそんなに悪徳だとはまだ知らなかったから。 ――プロレスを観ていない時期はなさそうですね。 新日のドームは毎年行ってるけど、2000年以降はあんまり記憶がないかな。週プロ、ゴングを買わなくなったのが2001年くらいか。友だちの家に転がり込んでから金もなかったし。あとはスポナビとか2chを見たりするくらい。棚橋(弘至)、(中邑)真輔の暗黒期とか、空気も暗黒だったし、自分の熱も低かったから。もちろん、彼らがどういうストーリーをたどってきたかはわかってるんだけど、一つひとつが記憶になくて。この前、真輔VSカート・アングルの試合をYouTubeで観たんだけど、「こんな試合だったっけ?」っていうくらいおぼえてなかった。 ――トピックとしては総合も��りましたけど。 俺は格闘技も好きで、���盛期は週プロ、ゴング、ファイト、格通、紙プロを買ってた。K-1の1回目が93年、フジテレビの夢工場とかいうゴールデンウィークの企画の中の一つだった。 ――まったく別の競技として観ていた? うん。やっぱリングスが大きかったかな、プロレスと格闘技のハブという意味では。藤波のファンクラブの人がいろいろプロレスのビデオを回してくれて、その中でリングスを観て。正道会館がトーワ杯に出たりさ。藤原組からも高橋義生と石川雄規が出たり。そこで正道会館勢が猛威を振るって。もっと前だと、全日本キックの武道館大会とかをフジテレビが夜中にやってたの。立嶋(篤志)が成り上がってくる頃の試合だった。 ――UWFは? TBSで特番とかやってたね。俺は、新生UWFは何が面白いのかさっぱりわからなか���たけど、プロレスに文句を言うやつにはUWFを観ろって言ってた(笑)。でも、これだったら修斗を観た方がいいなって当時から思ってた。UWFが明確に旧来のプロレスと同じだとは思ってなかったんだけど、暗くて緊迫感がねえなって。だったら、旧UWFの方が情念が感じられて特別感があった。 ――当時UWFが世間的に受けていたことをどのように感じていましたか。 文化人とかに支持されるプロレスだなって。 ――糸井重里とか? 糸井重里とか、クマさん(篠原勝之)とか。プロレスの胡散くささを排除して。「プロレスは八百長じゃねえ!」って言ってる人でも、言い切れないことってあるじゃん。馬場さんの十六文とか、「なんでロープに走るの?」とか。でも、UWFはロープに飛ばないし派手な大技がないから。 ――堕落さんもクラスメイトにそういうことを言われましたか。 そういうのと闘ってた。 ――闘ってた(笑)。 当時のプロレス少年は理論武装をしないと駄目だったの。「あんなの八百長だよ」って言うやつは絶対いるから。それは今でもそうだけど。 ――前田日明にカリスマ性は感じた? 時代のスターだとは思った。ルックスも良かったし、デカいし、借り物かもしれないけど言葉も持っているし。やっぱり、週プロとか格通とかが盛り立てたしね。「プロレスっていう言葉が嫌いな人、この指とまれ」とかさ(笑)。前田は突破者だったよ。でも、実際に試合を観ると面白いとは思えなかった。 ――で、K-1とUFCの始まりが93年。すごいものがでてきたっていう衝撃はありました? すごいものっていうより、プロレスラーが負けたじゃん。だから、プロレスの範疇にある異種格闘技戦を抜け出して、明らかにガチ(競技)で、しかも強いと思われていた(ケン・)シャムロックがあっさり負けたことに、呆然とした感じはあった。しかも、シャムロックが90kg台で、ホイス(・グレイシー)が70kg台だったでしょ。(ジェラルド・)ゴルドーもやられたし。噛みつきも金的もやって負けたからね。当時はリン魂(『リングの魂』)と『SRS』っていう番組があって、あとはなぜかNHKでUFCをやったんだよ。たしかBSかな? 当時はアルティメット大会って言ってた。 ――言ってましたね。UFCが始まっても総合��ンリーにならず、プロレスはプロレスで楽しんでいた? うん。藤波辰爾とルチャが好きだから、元々ね。 ――2000年には桜庭(和志)がホイスに勝利しますが、ドームには行きました? 行ってる。その前のドームの高田(延彦)vsホイス(・グレイシー)、のちの船木(誠勝)vsヒクソンも観てる。 ――その頃、格闘技の好きな知人にNOAHの話をして「まだそんなの観てんの?」みたいに言われたことをよくおぼえています。 つうか、二極化したじゃん。NOAHと総合を両方好きって人は、たしかにあまりいなかった。俺は両方観てたけど。 ――当時「プロレスはもういいや」ってなった人は多かったと思うんです。そんな中で堕落さんは、プロレス界の流れを把握しつつ、総合の細かい技術面まで理解してチェックしているのが面白いなって。 自分がやりたかった人間だから。プロレスは体が大きくないとできないし、病気もあったから無理だったけど。格闘技に関しては、病気さえ治れば体のサイズ関係なしにできるじゃん。街で教えてくれるから。住んでいた赤羽って、U-FILE CAMPもGRABAKAもあったから。 ――なるほど。 プロレスも総合も、どっちも構造に興味があるんだよ。何をしたらどうなるのか。定型というか、詰め将棋みたいな。プロレスのロジックと格闘技のロジックって対極かもしれないけど、構造はある意味同じじゃないかな。こうしたらこうなる、こうしたらこう返す、みたいなさ。それが相手を組み伏せるものか、試合を構築するためなのかの違いだけであって、定型はあるから。その定型の積み重ねの破れ目みたいなところがプロレスの醍醐味じゃない? いわゆる不穏試合とか、不穏試合じゃないけど思いがけない展開になってすごい盛り上がって素晴らしい試合になるとか。 ――たとえば? 藤波vs天龍の3戦目とか。藤波と天龍って3回試合をしてるんだけど、じつは全部不細工な試合になってんの。2人とも受けのレスラーでしょ? 必ずいい試合をする名勝負製造機って言われる2人だけど、3戦とも不細工。初戦は唯一藤波が勝ったんだけど、天龍が突っ張りをやったときに藤波の歯で手首を切っちゃって、最後救急車で運ばれたの。2戦目は天龍が勝つんだけど、パワーボムをすごい急角度で落としちゃって3カウント。3戦目は、藤波がドラゴンロケット3連発をやって鼻を折って。藤波は負けたし大流血戦だけど、俺はその3戦目が大好きなの。アクシデントで予定とは違う終わり方になった気がするけど。でも、そのまとめ方がすごいテンポが良くて、やっぱり2人も一流だなって思った。天龍は藤波にドラゴンスリーパーをかけられたときに鼻血がドバーッとついたりして、相当嫌だったと思う。最後は天龍のラリアットで唐突に終わるんだけど、流れがすごくいい。唐突に藤波がトップロープからニードロップをやって、天龍は避けたように見えないんだけど当たってない感じになって、藤波が着地したところにラリアットを浴びせかけて、たぶん「これで終わらせよう」みたいな合意がその瞬間にあったんじゃないかな。 ――今、おもに情報ってどこから仕入れていますか? ネットだよ。スポナビとか。あとは昔の情報なら昭和プロレス掲示板ってところがあって、そこは国際プロレスの話をずっとしてたりするので、たまに追って読んじゃう(笑)。雑誌だったら『G-SPIRITS』は毎号買いたいくらい。この前、(Vol.18を)ちょっと立ち読みしたんだけど、石川が藤波のこと呼び捨てにしてるのはカチンときた。お前より先輩だろって(笑)。 ――また藤波さんだ(笑)。個人的には、同じ号の記事で馳が冬木(弘道)を高く評価しているのが面白かったです。 冬木の評価もわかるんだけど……。冬木vs橋本(真也)がすごい嫌いでさ。冬木が意地を見せた試合なんだけど、橋本がDDTをやって冬木が返して、2回目も返して、3回目でフォール負けっていう、俺が一番嫌いなタイプ。それだったら、1回目で返したあと、あと2連発で勝負を決めろよって。爽快感がない。 ――細かく見てますね(笑)。 あれは冬木が意地悪なのか、もともとそういうふうにやるつもりだったのか知らないけど。時々あるんだよ、そういう試合。藤原(喜明)vsダン・スバーンもそうだったんだけど、あれも酷くて。スバーンは水車落としをフィニッシュにしてたんだけど、同じパターン。1回目は返される、もう1回やって返される、3回目でフォール。 ――確かに爽快感はない。 ほかにもよくあるじゃん、カウント3でギリギリで返したように見えてもゴングが鳴って「今のは入ってないだろう」ってアピールするとか、3カウントで負けた後にすぐにスタスタ帰っちゃう武藤(敬司)とか、長州とか(笑)。ああいうプライドを見せつけるのは駄目だよ。その点、藤波は偉いと思うよ。石川にもちゃんとフォールを取られたし(笑)。藤波と対戦した選手で藤波を悪く言う人はまずいないと思う。 ――「無人島に流れ着いたと思ったら仲間がいた」って言った人もいますしね。 あの日(2017年4月20日ドラディション『藤波辰爾デビュー45周年ツアー』後楽園大会)ね、前田に長州と藤波がつっかかったの。最後にみんなのあいさつが終わってリングを降りるとき、藤波が前田を突き飛ばして、「かかってこい」とかやってさ。長州も「やれよ」みたいになって。3人ともニヤニヤ笑ってるんだけど、前田にそんなことできるの、ほかにいないと思うよ。前田はそういうのに本気で怒るタイプだから。 ――そんな藤波さんの社長時代についてもどう思っているか聞きたいんですけど。 俺、赤プリでやった藤波の社長就任記念パーティーに出席したから(笑)。キラー・カーンと堀辺正史とそれぞれ2ショット写真撮ってる(笑)。司会が生島ヒロシで、チェリッシュとかも来てた。2度とこんなところでパーティーに参加することはないと思った。 ――新日の暗黒期は記憶が薄いって言ってましたけど、ほとんど見てなかったですか? テレビを見なくなってたから、ネットばっかりやってて。深夜に30分だし、アルティメット・クラッシュとかやっちゃってるし(笑)。ちょっと冷めてたね。やっぱり藤波史観だから。社長でほとんど試合してなかったし、2000年に引退カウントダウンも始まったし。トップの座から落ちて、年齢的にもトップに返り咲くことはないような。今の棚橋より上、40代後半だったから。今の棚橋���って、トップに返り咲く感じはしないじゃん。1回くらいIWGPを獲ることはあるかもしれないけど、エースとしてではない。 ――そうですね。 暗黒期といえば……藤波が永田(裕志)に1回も勝ててないっていうのが俺は不満だね。永田と3、4戦はやってるんだよ、G1とかで。1度も勝ってない。永田の実力は認めてるけど、なんか腑に落ちねえなって(笑)。安田(忠夫)に負けた時点でもう駄目だと思った。藤波ってさ、凱旋帰国試合で「アイ・ネバー・ギブ・アップ」ってさ、ガキの頃、ずっと信じてた。実際に藤波はギブアップしなかったし、記録にもほとんどなかったし。だけど、実は普通にしてるんだよね。3本勝負の1本をギブアップで取られたり、海外でNWAインタージュニアを1回獲られるんだけど、その時に4の字でギブアップしてるし。最初に明確にしたのは、G1の橋本戦(1994年8月7日の『G1 CLIMAX』 Bリーグ公式戦)なんだよ。形は腹固めなんだけど、当時の公式発表では逆肩固めとかになってた。俺が明確に見たのはそれ。それってUWFとか総合の影響。関節技が極まったら本当は返せるものではないっていうのが世の中に広まったから、プロレスでもギブアップ決着が多くなった。昔はトップレスラーってあんまりギブアップ負けしなかったよ。両者リングアウトがなくなったのと、ギブアップ負けが多くなったのは、UWFと総合の影響だと思う。決着がつくカタルシスが格闘技にはあって、判定がつくじゃん。ドローもあるけど。最初に総合の影響を受けたのは意外にも全日なんだよ。馬場の鶴の一声で両者リングアウトがなくなって。 ――ああ、たしかに。 当時の雰囲気だと……四天王プロレスをガチだと思っちゃう感覚がすげえなって。俺は思ってなかったけど(笑)。人間って、インパクトにやられるんだなって。いや、実際すごかったよ、四天王プロレス。人間の限界に挑戦していたと思うけど、ガチだと勘違いさせるくらい恐ろしいことをやっていた。相手を殺す気がないけどハンマーで頭をぶん殴る(笑)。「あれは殺しにいってるだろう!」「いや、殺しにいくつもりは全然ない、でも本物のハンマーで力を加減して頭を殴ってる」っていう。 ――そのハンマーが、三沢(光晴)vs小橋(建太)の、三沢が小橋にかけた花道から場外へのタイガースープレックスだったり。 小橋vs秋山(準)の、小橋がやったエプロンからのブレーンバスターもそうだしね。 ――「NOAHだけはガチ」って言葉、当時流行りましたね。 ある意味、ガチな結末になっちゃったじゃん。三沢が亡くなって。 ――今日はそのへんの話も伺いたかったんですけど、リング上におけるレスラーの事があったとき、どうやって自分の中で折り合いをつけていますか? 三沢の死は…93年かな、鶴田が欠場したときの三沢vs川田(利明)の頂上対決。三沢が投げっぱなしジャーマン連発で勝った試合。それを観てから、四天王プロレスは嫌いになった。 ――その理由は? 美しくない。さっき言ったように、DDTを3発やるとして1発1発返していったら美しくないでしょ。1発返されたら2発連続でやってダメ押しするみたいにしないとダラダラした印象になる。それと同じで、危険な技を散発的に出すことに理屈が感じられない。 ――フィニッシャーに説得力が感じられない、と。 説得力��いえば、四天王プロレスの技自体にはあったじゃん。でも、首が折れるんじゃないかって技をなんで何発もやるんだっていう。そうなってくるとタフマン・コンテスト、残酷ショーでしょ。「信頼している人間だからこそ危険技を掛けられる」って言うけど、信頼している人間を殺す寸前までやる必要はないだろうって。四天王プロレスのきっかけって、豊橋でやった小橋vs(スティーブ・)ウィリアムスだと思う。ウィリアムスのバックドロップドライバー、殺人バックドロップが最初に出た試合。あれ当時ね、夜中に全日の中継見てて、解説の百田(光雄)と一緒に思わず「うぉー!」って言ったくらい衝撃的な試合だった。あの試合の小橋はすごい好きなの。すごい表現力があって、バックドロップを食らった後、意識を失うんじゃなくて、ガクガクしながらロープに這っていって逃げ惑うの。ウィリアムスはそこにもう1発バックドロップを食らわせてフォールを取るんだけど、それだったら俺は納得がいく。でも、小橋は散々受けてきたのに自分がやる方になって、それがちょっとげんなりしてさ。後に2chとかで“勝ちブックおじさん”っていわれるんだけど、NOAHでの絶対王者時代、小橋自身がブックを書いていたっていう。しかもあんな危ない技で勝ちまくる小橋、みたいなさ。そこに小橋の魅力はないわけ。確かにあの頃の小橋もすごかったし、小橋のことは認めてるんだけど、四天王プロレスは嫌いなの。小橋は��スター・プロレスだと思うし。スタイル自体は違うけど、小橋は藤波とキャラクター的には同系統だと思う。2人とも生粋のベビーフェイスで、ヒールだったことが1度もない。藤波はメキシコでルードになったこともあるんだけど、ものすごく非難をされた時期がないじゃん。で、2人とも生粋のプロレスファン上がりのレスラーじゃん。格闘技の実績があったわけじゃなくて、入団当初期待されていたわけでもなかったのに、練習熱心で身体をつくって、努力で上がったと。レスリングのスタイルとしては、藤波から受け取ったのは武藤、棚橋、SANADA。それってじつは、猪木とは違う系統。 ――今言った藤波さんに連なる系譜は同感ですけど、小橋と同系統っていう解釈は新鮮に感じます。 俺は今の新日は面白いと思うんだよな。藤波がすごい棚橋批判をしているらしいんだけど、それは乗れない。いくら生粋の藤波ファンとはいえ。WWEっぽさとかが駄目なようだけど。 ――僕はWWEをちゃんと観ていなんですけど、やっぱり近づいてきてますか? フィニッシャーを大事にするところとかね。フィニッシャーを決めて、そこから逆をたどって試合をかっちりつくってる。さっき言った破れ目が試合に全然ない感じ。アクシデント性、アドリブ性は昔に比べてなくなったなあって。昔はいわゆる基本的なチェーンレスリング、こう来たらこう返すっていう型がいくつもあるんだけど、その組み合わせ自体は完璧に決めないでお互いのアドリブ感覚で試合をつくっていくっていうのがあったっぽいんだけど、今はかなりきっちりつくられている。 ――いつくらいからですかね? 2010年前後? そのくらいじゃないかな。2000年代半ばはちゃんと観てないんだけど、あの頃は「しょっぱいな」って試合が多かったから、移行期だったのか、まだだったのかって感じ。少なくとも2012年には今のスタイルになってた、レインメーカーショックは完全にWWEのスタイルの流れを汲んでいると思う。そうそう、俺、オカダ(・カズチカ)の凱旋試合観て、「アメプロのテレビマッチだな」ってツイートしてるの。いわゆるスカッシュマッチっていうんだけど、見せ場もほとんどなしに終わらせる試合。一応、相手のYOSHI-HASHIの凱旋試合でもあるのに、波もなくあっさり終わったの。勝った方と負けた方で明確に格の差があるのが、向こうの試合っぽいなって当時思った。そうしたら今の流れになったから、あながち間違ってなかったなって。 ――新日が盛り返したのは本当にうれしいです。 ただね、けが人が多すぎる。 ――最近だと、柴田ですね。 まだオカダ戦も観てないんだよね。観れない。別に凄惨な試合じゃないってのはわかってるんだけど。 ――僕はリアルタイムで観ましたが、すごくいい試合でした。 想像はつくんだよね。今の対立軸としても最高のふたりだったし。ものすごくもったいないし惜しいけど、ある意味では最高の終わり方かなって気もする。問題は本人がどう思っているか。ありがちなのは、会社は止めるけど本人がやりたがるとかさ。ただ、彼との試合で過去にひとり亡くなっていることは考えてほしいと思う。あまりいい言い方はではないけど、すごい因果だよね。でも、それはそれでそういうストーリーとして受け止めるしかない。 ――僕自身は、ああいうことが起こるたびに「このまま観ていてもいいのかな」って自問するんですけど、結局、いつも忘れて流されちゃってるんですよね。 俺が最初に通ったリング禍は、プラム麻里子。尾崎魔弓のライガーボムだけど、写真を見る限りはきれいに受け身も取ってる。脳の障害は慢性的なものもあるだろうし、人間の体って紙一重で助かるケースも多いと思うの。とくに脳はね。たとえば、棚の下を掃除してて、棚があることを忘れて頭を上げた瞬間にぶつけるっていう……日常でよくあるドジ。でもそんなことで死んだ人だって世の中にいるから。脳なんて水に豆腐を浮かべてるようなもんだし。ちょっとした角度とか、寝不足だったとか風邪気味だったとかで、人間は死んだり再起不能になったりするんだろうなって。首とか背骨もそうだけど。だから、どうすればいいって言いきれないんだけど、なるべくそのリスクを軽減されていることが平常であるべきだとは思う。だから、「危険技がどうのこうの言ったらプロレス見れねえ」っていうけども、できるはずだから。それでも事故は起きるよ。でも、確率を減らすことはできるはずだから。危険技があれば面白くて感動するものではないってことは、もうわかってるはずだから。だったら、減らすべきだろうし。そういうのを徹底した上で、どうしてもそういう技を入れたいっていう時にやったら、それはそれでインパクトがすごいだろうし、温存することにもなるから。料理にたとえたら、激辛のハラペーニョを500g入れたラーメンとすごく繊細な出汁をとったまろやかなラーメン、どっちが旨い?って話で。(前者は)刺激��あるけど、(後者を取るのが)人間の英知でしょって。それは何��ってそうだけど。 ――ケニー(・オメガ)なんかは試合によってそのへんをうまく使い分けているように感じます。 ただね、(2017年の)1.4の雪崩式ドラゴンはやり過ぎだと思う。あれはさすがに……。オカダもよく大丈夫だったと思うもん。ジャーマンだと胴体を持つから相手の可動域も広くて途中で回転しやすいけど。ドラゴンって、本当に勢いつければ支点がてっぺんの方にあるからうまく体が回るはずなんだけど、首は固定されたら何もできない場所だから、中途半端に落ちる可能性がものすごく高い。ジャーマンをかけられた方が途中で切り返すときって、かける方は必ず相手の胸の方をグリップしてる。ドラゴンは首を固定しているから本当に危ないんだよ。 ――堕落さんがこの前ツイートしていたみたいに、藤原、(ザ・グレート・)カブキレベルになれば、リングに立っているだけでいいわけですもんね。 妖気漂う爺さんが隈取をしてね。首が曲がっちゃってて、言い方は悪いけど背虫男みたいになってるけど、逆にそれが不気味さを醸し出してる。藤原も胃がんをやって、体なんかダルダルになっているけど、藤原なわけじゃん。そのふたりが何もせず睨み合っているだけで成立する。ふたりの歴史もあるし。そういうものを使って見せるのがプロレスだと思う。だから、棚橋とオカダは正しいんだよね。レベルが高いし、危険技をほとんど使わずにあれだけテンションを保って、毎回アレンジを加えて名勝負をしているんだから。一昨年(2015年)のドーム、オカダが試合後に泣いた試合、あれは最高のアクセント。危ない技も派手な技も派手な仕掛けもなく、ただ泣いただけ。でも、あのオカダが泣いたから、ストーリーが翌年につながって。 ――オカダに一つだけ注文をつけるとすれば、マイクやバックステージのコメントで「この野郎」って言うのは似合わないからやめてほしいなって(笑)。 うん、慇懃無礼かつ愛されキャラでいいと思う。最近、地方では子どもにマイク振ってるみたいだよ。「なぜだかわかる?」って振って、「レベルが違うよ」って言わせてる。それでいいと思う。だって、どう考えても愛されキャラだから。ちょっと悪ぶっている気のいい兄ちゃん。 ――プロレスと言えば、テーマ曲も大切ですよね。好き選手のテーマ曲以外で、この曲を聴くとブチ上がる、みたいなものはありますか? 俺も基本的にオリジナルが欲しくて、一曲のためにアルバムを買うタイプだったから、「IRONMAN」が欲しくてブラック・サバスを買ったり(笑)。あと、ヘルレイザーズが出てきたときは、オジー・オズボーンのアルバムも買ったし。藤原の「ワルキューレの騎行」とか。「スーパーファイターズテーマ集」とか買ったけど、納得いかなくて、藤波の「ライジング」って曲――飛龍革命をやっていたころに使っていた――悲壮感があって、「ドラゴンスープレックスより合っていたと思うけど、オリジナルはビクターレコードから出てて。だけど、キングとビクターって、お互いにオリジナル原盤を持っていない方が必ずカバーを出すの。ほかのレコード会社が出した「ライジング」は、あきらかに音が違うわけ。ちゃんとしたスタッフがいる団体はそれを使わないはずなんだけど、DRAGON GATEに藤波が出た時にはそれが使ってやがって。ビクターから2回出てるんだけど、1回は橋本、蝶野(正洋)、藤波のテーマでミニアルバムが出て。その時に、藤波のテーマのあとにエピローグとして音が入っていたんだけど、表記が「ライジング~エピローグ」で。そうなると、知らないやつが曲名をそれだと思ってて、藤波のテーマ曲が「ライジング~エピローグ」って表記されてたりする。許せない、それは(笑)。あと、(グレート・)ムタのテーマ曲は、プロトタイプバージョンと音源バージョンだと全然違う。 ――知りませんでした(笑)。 会場使用がプロトタイプで、試作品をずっと使ってたのに、商品にする際に新録してるから、「会場でかかっているのと違うな」って思ったら、やっぱり違った。 ――やっぱり細かい(笑)。個人的にこれを聴くとテンションが上がるっていう曲はありますか? スタン・ハンセンの「サンライズ」かなあ。でもね、俺、UWFが嫌いだったのに、田村(潔司)がKOKトーナメントでヘンゾ(・グレイシー)とやったときだけ特別に使った『U.W.F.プロレス・メインテーマ』は良かった! 別に山ちゃん(山崎一夫)が使っててもそんなに気にならないのに(笑)。田村がついにグレイシー狩りに行ったとき、「ヒクソンより強いかもしれない!」と言われていたヘンゾと1回戦であたったんだけど、リングアナが「田村潔司選手の入場です!」って言った後に、数秒の間を置いてあの曲がかかったら、会場が「ウォー」ってなって、実況も「オオー!」とか言って(笑)。「Uを背負ってやる」って姿勢に瞬時に感動したわけだよね。 ――田村も面白い選手ですよね。UWFインターのときのドームに出なかったことも含め。 田村は本当にいいプロレスラーだと思う。自分でストーリーなりフックなりをつくるし。 ――プロレスラーは愛すべき個性を持っている人が多いですけど、いろいろな逸話を楽しんだりするのも好きですか。 嫌いじゃないけど、社会運動にかかわって、いろんなコード(規範)みたいなものをより意識するようになって。それと照らし合わせると、「あり」とは言えないものも多々ある。過去のシゴキの話とかも、昔は笑っていた気がするんだけど、今は「駄目でしょ」って思うし。 ――僕も以前は好きだったんですけど、今だったら駄目だよね、と思うことが増えています。たとえば、以前の新日の巡業でレスラーが女風呂を覗いていたっていうのも、もちろんナシでしょうし。 ホモソーシャルな中で笑い話にはできるかもしれないけど、表向きは絶対できないよね。 ――レスラーの政治志向なんかも気になりませんか? たとえば、ハンセンは(ドナルド・)トランプに投票したんだな、とか。 そうそうそう。でも、それはそうだろうなとしか思わなかったよ。 ――テキサス出身だったらトランプなのかな、とは思いましたけど。 俺も気になって調べた。レスラーとか格闘家って基本的には保守的な連中だと思っているから、その中でリベラルっぽい人をチェックしたの。俺は英語が苦手だから自動翻訳だとわかりにくかったんだけど、ジョシュ(・バーネット)は左派を揶揄してるように見えるツイートをしてた。今も付き合ってるか知らないけれど、白人のジョシュはアフロアメリカンの格闘家の彼女がいたし、リベラルな人なのかなって思ってたんだけど、そうでもなかったのかな。 ――そういう情報まで含めて細かいところまでチェックされて、そこからさらに深く考えてますよね。僕自身は、後楽園とかに行って、半裸の男女がプライドをかけて闘っているのを見るだけで「プロレスいいなー」って思っちゃう単純さだから、余計にそう思います。 いま「半裸」って言葉が出たけど、セックスワーカーの話にもつながるよね。仲の良いゲイの人が過去にウリをやっていて、その時の思ったことを著書(ハスラー・アキラ『売男日記』)につづっていたの。それを読むと、セックスワークにおける充実感とかがつづられていたりするわけ。俺は昔からセックスワーク、セックスワーカーが大嫌いで、蔑んでいたの。自分でも絶対利用したくないって思ってた。けど、いろいろな情報を得たり、そういう人たちと出会って、だいぶ考えが変わって。「あ、これはありだな」って思った。いわゆる売春自体が、人類最古の商売っていわれるくらい根源的なものとしてあるでしょ? あと、なぜ嫌悪するのかっていうところを突き詰めて考えると、性的なプライド、尊厳、肉体的なきつさを金にしていいのかっていうのがあると思うんだけど、いざ、自分が日雇い肉体労働派遣仕事しかできないような状況のときに、病気で体力もないのに現場派遣に行って、40kgあるガラを一輪車に乗せてダンプを駆け上がってっていうのを一晩中やらされて、死にそうになってしゃがみ込んでいたら、俺より明らかに若いアンちゃんに「てめえ、何さぼってんだよ」って言われたときに、肉体的にも死にそうになって、プライドもズタズタにされて、それで一万円も稼げないわけ。その時のことを思い返して考えたの。肉体労働とセックスワークは何が違うのかっ���。セックスワークは、いいお客さんに当たったら、相手を気持ち良くしてそれなりにお金をもらって、もしかしたら自分も気持ちいいかもしれない。だったら、それは素晴らしいことでしょ? もちろん現実はそんな理想的ではないだろうし、ゲイの人のとヘテロ男性向けの女性のとで事情も違うだろうけど。誰も損しなければね。搾取で行ったら、一般の肉体労働派遣の方が酷いこともあるし。だとしたら、その二つにどんな違いがあるのか、どっちが蔑まれるべきものなのか。そういうことを突き詰めたらね。もちろん、無理やりやらされてたり、酷い扱いをされるとかだったら駄目だけど、その存在自体は否定されるべきではないんじゃないかなっていうことをここ数年で思った。でも、世間的には未だに賤業なわけじゃん。それってプロレスと同じなんだよ。 ――なるほど。 プロレスってこんな熱く何時間も語れてさ、一緒に観に行けば「うわー!」って叫べて、生きる糧にもなってるわけじゃん。でも、やっぱりバカにされる。「いい年したおっさんが裸になって八百長やって何がいいんだ?」って扱いをされるわけじゃん。実際レスラーは身体ボロボロにしながら夢を売ってるのに。 ――今後もずっとプロレスは見ていこうと思っていますか。 ほかに趣味がないんだよね。���画も観ないし、本も読まないし、音楽も全然知らないし。漫画もアニメもゲームも……ゲームはスマホで野球のゲームをやるくらい。最近、ツイッターもプロレスのツイートばっかりしてるもん(笑)。 取材日:2017年4月下旬 取材・文:チリドックYT イラスト:鈴木侑馬
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yoshimiyo3 · 6 years ago
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格闘王前田日明プロレスリングマスターズのリングに登場、BATT VS TEAM2000結果は?
昭和・平成と駆け抜けた往年のレスラーたちの前に前田日明登場
武藤敬司がプロデュースするプロレスリングマスターズ
藤波辰爾、長州力のアントニオ猪木の直下の世代から
武藤敬司、蝶野正洋の闘魂三銃士
小島聡、天山広吉の第三世代
  新日本プロレスからUWFに移籍そしてリングス、藤原組と袂を分けた
前田日明と藤原喜明
なんともバラエティーあふれる顔ぶれである
  この選手たちをリングでみると時代を思い出すファンも多いはずだ。
まず藤波辰爾と長州力はポストアントニオ猪木を争い対立
打倒アントニオ猪木はお互いの目標であったが
  長州力は維新軍~ジャパンプロレスを作り全日本プロレスへ移籍再び新日本プロレスへ帰っていた。
前田日明は、アントニオ猪木の指示とも言われたUWFの旗揚げに参加
当初はプロレス団体であったが、間接、蹴り、投げを中心としたUWFブームを作った。
  前田日明はUWFから新日本プ…
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karate-ja · 5 years ago
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“熊殺し”空手家ウィリー・ウィリアムスさん死去 アントニオ猪木 ...
#空手 #正道会館 [デイリースポーツonline]84年に師匠の大山茂氏が設立したUSA大山空手に移った後、空手選手を引退。だが、90年代には度々試合に出場し、91年には「USA大山空手VS正道会館5対5マッチ」で佐竹雅昭に判定負け。92年には総合格闘技リングスで前田日明と、97 ...
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yoshimiyo3 · 5 years ago
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四天王小橋建太新日本プロレスG1クライマックス参戦表明の愛弟子KENTAにエール
小橋建太プロデュースVS前田日明
ファンには伝説と化した2人がリングに登場した。
全日本プロレス四天王元ノアGHCヘビー級チャンピオン鉄人小橋建太
    新日本プロレス、UWF、リングスとプロレスと格闘技を融合させた
新格闘王事前田日明
強さゆえに新日本プロレスを追放された前田日明
その2人がリングに登場
画像出典 小橋プロデュース興行 東スポWEB
この2人が現役時代もし戦う事があれば
ビッグマッチでドームすら満杯にしたであろう
  小橋建太はプロレス道を貫き
前田日明はプロレスからUWF~リングスへと路線が変わった。
両者の共通点は強者と言う事であろう。
不沈艦”スタン・ハンセン氏(69)の話題で盛り上がり、小橋がジャンボ鶴田さんのセコンドに就いた際のエピソードを披露。「なぜか俺が(ハンセンに)やられたんですよ」と振り返るや、前田氏も「自分も(アントニオ)猪木さんのセコンドの時にやら…
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karate-ja · 5 years ago
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“熊殺し”空手家ウィリー・ウィリアムスさん死去 アントニオ猪木 ...
#空手 #正道会館 [デイリースポーツonline]84年に師匠の大山茂氏が設立したUSA大山空手に移った後、空手選手を引退。だが、90年代には度々試合に出場し、91年には「USA大山空手VS正道会館5対5マッチ」で佐竹雅昭に判定負け。92年には総合格闘技リングスで前田日明と、97 ...
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