Tumgik
#そして今朝感染について外科医に電話した
ayumistudies · 2 years
Text
Kjæresten min flyr til England i kveld. Jeg er så glad for at han har muligheten til å reise, men jeg skal også savne ham 😭 I mellomtiden vil jeg fokusere på meg selv — Jeg ønsker å forbedre min skriving, og ha en bedre balanse mellom oppgaver på universitet og privatliv.
彼氏は今晩イギリスに飛びます。午後七時ごろに出発します。旅行ができて嬉しいけど、彼がいなくて寂しくなりますよ😞 でも、大丈夫。楽しみにしていることが多いから!例えば、「バイオハザード4:RE」は3月24日に発売されます。私の誕生日の前日!☺️
2 notes · View notes
reportsofawartime · 9 months
Text
Tumblr media
このツイートには人工地震兵器存在の可能性も0%と書いている。元々、思考を纏めるために書いていて、今日、公開するつもりは全く無く、あるグループに投稿するに留めるつもりだった。 ところがグループに投稿した30分後に地震が起きた。まあそういう偶然もあるんだろう。そういう経緯もあって、神の意思かもと思い(神様信じてないけど)、纏まってないまま投稿しておくことにした。 いつもの通り、自分の思考の説明 どんな可能性でも否定しない(例えば1%はある)という返信してくる方を何人もみかけている。その意味だとほとんどの陰謀論に私は0%と判断している。ここが大きく違うのだろう。 * 人口削減計画のためにワクチン作った -> いや、インフルワクチンとか他のものにも入れれば? -> アフリカは射ってないよ * ビルゲイツは人口削減を目指していた -> いや昔から感染症死を減らすことでの多産多死かた多産少死になり、人口抑制が必要という話は一般的にあって、ビルゲイツの話は何らおかしなことは言ってない。 * WEFやEvent201でパンデミックの話がどうのこうの -> 医学界が入れ智慧して、パンデミックにはワクチンが重要って刷込んでんだよね 軍で開発された配列が使われた -> 軍がウイルス兵器や兵士を守るワクチン作るのは当然。アドバイスするのも実際に研究開発するのは医学研究者。作ってみたらどっちも生物兵器だったというオチ。 私にとって、毒ワクチンによる人口削減計画に繋がる可能性は全て 0% だから足しても 0% (そもそも足してよいのかというのはさておき) それぞれに可能性は 1% 残すと足して全部で 4%、そういう話を幾つも聞いたら数十% とか、皆が言ってたら 90% とかになっていくのかなと。 * 5G の電磁波で人を支配する -> 電磁波が有害って話なら分るけど、5G で出来るのなら 4G で出来無い理由が分らない。 * マイクロチップ入ってる -> 今の科学技術では無理。電池とかアンテナとかどうするの? 何故、皆が知ってるブルートゥースのような通信方式で通信? 独自企画にすればバレないよ。 * 酸化グラフェンを意図的に入れた -> 検査したら出るってのはあり得る。入ってるのなら人体に打込むなんて有害だろう。でも鉄でも銅でも工場で使われるような物質は調べれば出るんじゃない? 検出を目的としないと物質って検出できない。 でも上の三つの可能性を少しでも認めてしまうと、「酸化グラフェンが自己組織化してナノチップを形成し5Gで操る」可能性も認める必要が出てくる。 こういうことの蓄積かな、と。 私にとっては上の三つの可能性は全て0%で、酸化グラフェンが自己組織化してナノチップを形成し5Gで操る可能性も0% そもそも半導体製造工場の動画を見て欲しい。最先端技術で凌ぎを削っている人を馬鹿にしている話だとも思う。 私は、聞いた話を今までの智識や経験と照合して矛盾が無いのかチェックしてから智識として蓄えるという作業をしている。 * 人工地震兵器 人類が持っている最大出力のものは核兵器。北朝鮮で地下核実験すれば世界中の地震計で観測されてる。だから揺らすことはできる。継続的な地震になるかどうかは難しそうに思う。それで誰がどうやって敵国に核兵器埋め込むの? 実際使ったら世界中の地震計で使ったことバレるよね? 何故公表されない? 標的になった国も公表しないのは何故? 支配されてる? 公表できない程の支配が完了してるんだったら何でも好きに命じて実行させればよいのでは。 自国に核を埋めるとなると尚更意味分らない。核以外の技術だというのなら動作原理など説明して欲しい。 * 軍は一般には知られてない科学技術を持っている 幾らかは持ってるだろうけど、今の時代、民生品とそんなに違わないのでは? 近代になってから西側諸国の民生品の幾つかの品目は、ロシアなどへの輸出が禁止されている。西側の民生品の方が上だって話。 熊本にTSMCの半導体工場が2兆円で建設されるのだけれど、それ以上の技術を、どこかの軍が独占的に保有していて、外には知られてない? 民生品に活用すれば大儲けだし、半導体分野でその一国が世界の覇権を握ると思うのだけれど。 * アポロは月に行ってない 月に反射板が置いてあって、反射させて実験している研究者が沢山いる。人は行かずに設置した? 当時の技術力だと、人が置くよりロボットに置かす方が難しいのだが。 * ケムトレイル 飛行機雲だよね? 実験用の飛行機飛ばして散布実験することはあるだろうけど、雲を作れるかとかその程度。1000m以上の上空で何撒いたって地表に影響は出ない。拡散するし風もある。感染対策は換気だってコロナ禍で学習しなかった? 松本サリン事件や地下鉄サリン事件でも近辺にしか影響出てない。 私自身に思い違いはあるだろうけど、私の認識が合ってるかどうかというかということよりも、新しい話を聞いたときに、こういう手順で今までの智識や経験と照合して矛盾が無いのかチェックしてから智識として蓄えるという作業をしているのか? というのが主題。 ほとんどの人がこういう作業をしていないいのでは無いか? だから可能性が低いという判断だったことも情報が蓄積されてだんだんと可能性が増えていくのでは? 今回の地震も、核兵器埋める意味が分らないし、核では無いというのなら動作原理が分らないしで、人工地震兵器が存在している可能性は0% 変電所でのニュースで変なことがあったのは見ているが0% という判断は変らず。
* マスクやワクチンの場合 どこまで現実世界の事象で考えて自粛やマスクやワクチンを拒否したか? 何となく嫌とか、邪悪なものを感じたとか、精神的な判断で躱せたのならそれはラッキーなのだけれど、少なくとも私はそうでは無い。 マスクは症状がある人だけすればよくて(後にこれも間違いと分るが)、感染予防効果は無いって常識だったよね? 若者の致死率は低いので、高齢者だけ制限かければよいのでは? (後に、高齢者でも元から元気な人は不要だし、罹ってもデキサメタゾン使えばよいから、別に制限不要と知る) 仮に40万人死んでも、元から日本では130万人死ぬし、死因のつけ替えになるだけだから、増えても20万くらいでは? 40万だとしても、喪中葉書年間2〜3枚の人が、3〜4枚になる程度の話。回りでバタバタ人が死んだりしない。 弱毒ウイルスしか感染は広まらない。強毒だと宿主が動けなくなったり死んだりするから拡がらない。 自粛して感染拡大抑えても自粛やめれば感染拡がるんだから、学習環境と経済破壊するだけ。若者に自殺者が出る。 人工呼吸器やICUの数��足りないとか行ってたけど、延命しても、予後が結局悪くなって亡くなって、長い目でみて死亡率はそんなに変らないのでは? 何故、ワクチンが駄目だと思ったかと訊かれれば、現実の事象を元に下に書いたことくらいは答えられる。これを精神論や陰謀論(5G、マイクロチップ)で回避している人は結局足を引っぱる側になる。 - 安全で有効なワクチン開発には10年かかる(それも嘘だと後から知ったが) - 風邪のウイルスは変異するからワクチンは難しい(当時は、インフルワクの存在の矛盾に気付いてなかったが) - mRNAの原理を聞いて自身の細胞に抗原作らせたら駄目なのでは? 今までやってこなかったし一度も成功してないのにと考えた。(それ以上の智識は当初は無かった) - 2020年11月の治験で発熱が異常だった。夏に風邪引いた方がましだと思った。 - 2021年1月にはワクチン射ち始めて感染症爆発したセイシェルズという国があった。 - 2021年2月には米国VAERSの登録が10倍以上に。 - 2021年4月ごろにmRNAが免疫が自身の細胞が攻撃する機序をはっきりと知るようになった。 マスクやワクチンの場合は害である機序がはっきりしていて論理矛盾も無いし、現実世界とも整合性が取れている。だからマスクやワクチン有効説の方が嘘だと判断している。 その他の上に挙げた陰謀論は作用機序とか動作原理が分らないし、説明があっても論理矛盾が目立って見えている。可能性は0%としか思えない。幾つ事例を聞いて可能性を足しても0%で変らない(足してよいのかという話はさておき)
2 notes · View notes
miraimonogatarilabo · 6 months
Text
未来に繋がるニュースのご紹介-2024/04/09
New Post has been published on https://senor-blog.com/%e6%9c%aa%e6%9d%a5%e3%81%ab%e7%b9%8b%e3%81%8c%e3%82%8b%e3%83%8b%e3%83%a5%e3%83%bc%e3%82%b9%e3%81%ae%e3%81%94%e7%b4%b9%e4%bb%8b-2024-04-09/
未来に繋がるニュースのご紹介-2024/04/09
皆さま、こんにちは。未来に繋がる情報を研究し発信するブログを運営する「みらいものがたりラボ」代表のせにょです。
本ブログでは、未来のトレンドを予測する上で役立つニュースをご紹介します。具体的には、週一回程度の頻度で、「私が未来に繋がる!面白い!」と感じるニュース記事を10本程度ピックアップし、簡単に解説します。解説は、どんなトレンドが予想できるか?それに対し我々はどう対応すべきかを中心に私の意見としてご紹介します。それでは、本題に入りましょう。
NASA、月のタイムゾーン設定へ!2026年を目指す 有人探査機ミッションなどで極限の正確さ必要に
NASA、月のタイムゾーン設定へ!2026年を目指す 有人探査機ミッションなどで極限の正確さ必要に|よろず〜ニュース
月のタイムゾーンが設定される予定だ。米政府のもとNASA(米航空宇宙局)は、コーディネイティッド・ルナー・タイム(LTC)を設け、宇宙船や衛星の時間記録や時間の正確性が求められるミッションに活用されるという。 地球と比べて毎日58.7マイ…
yorozoonews.jp
この記事から、宇宙開拓の本格化のトレンドが予測できます。月における標準時を設定するということは、将来的に月面開発における正確な位置情報の取得につながります。GPSは、2拠点間の時差で計算しているからです。したがって我々としては、いよいよ月面が開発する拠点として認識されつつあると考えて良いでしょう。
人の細胞でマウス肺再生 東北大、人工臓器に弾み
人の細胞でマウス肺再生 東北大、人工臓器に弾み
東北大は、マウスの肺から細胞を取り除き、残った組織に人の細胞を加えて培養した「ハイブリッド人工肺」を作製したとする研究成果を4日付の英科学誌に発表した。この人工肺を別のマウスに移植し、血流が再開した ...
www.47news.jp
この記事から、人工臓器開発のトレンドが予測できます。記事によるとヒトと異なる哺乳類の体内環境でヒトの細胞を用いた人工肺を作成し、臓器として一定の機能を確認したようです。もちろん、咽喉臓器を作成する媒体として哺乳類を使うことは、倫理上の慎重な議論が必要です。しかし、臓器ドナーを待つ患者にとっては希望の光となります。したがって我々としては、続報に期待すると良いでしょう。
スペースX、スマホと直接通信できる機能を備えたスターリンク衛星を打ち上げ(Starlink Group 8-1)
スペースX、スマホと直接通信できる機能を備えたスターリンク衛星を打ち上げ(Starlink Group 8-1)
スペースXは日本時間2024年4月7日に、「ファルコン9」ロケットの打ち上げを実施しました。搭載されていた第2世代スターリンク衛星「V2 Mini」は無事に軌道へ投入されたことが、同社のSNSや公式サイトにて報告されています。
sorae.info
この記事から、衛星通信のトレンドが予測できます。ついに、手元の携帯電話が通信衛星と繋がる未来がやってきました。これが実現すれば、理論上地球上に圏外はなくなります。さらに他の惑星を開拓する際にも同様に通信網の構築に応用できるでしょう。したがって我々としては、自分のキャリアがスターリンクに対応する日を待つと良いでしょう。
DNA研究で1500年前の中国皇帝の顔を復元
DNA研究で1500年前の中国皇帝の顔を復元 | Forbes JAPAN 公式サイト(フォーブス ジャパン)
ネアンデルタール人からエジプトのミイラ、イングランド王リチャード3世まで、科学は歴史的人物の顔を驚くような精密さで再現してきた。そして今回、6世紀に生きた中国の古代皇帝のDNAにより、その容姿、健康状態などが明らかとなった。中国・北周王朝の...
forbesjapan.com
この記事から、考古学研究における計測技術進展のトレンドが予測できます。記事によると、1500年前の遺骨からDNAを抽出し遺伝子解析をした結果、生前の故人の姿をデジタルで再現できたようです。これらの情報と当時の文献などを照合すれば、考古学研究は飛躍的に進展するでしょう。またさらに、故人の姿を再現するサービスなども生まれるかもしれません。ただし、個人の姿を復元することは、人権や倫理上の問題を進捗に議論する必要があります。したがって我々としては、歴史的な新たな発見に期待すると良いでしょう。
持続的感染、後遺症要因か 「ミニ腸」で新型コロナ実験―感染研など
持続的感染、後遺症要因か 「ミニ腸」で新型コロナ実験―感染研など:時事ドットコム
国立感染症研究所や国立成育医療研究センターなどの研究チームは5日までに、実験容器内でヒトの人工多能性幹細胞(iPS細胞)から生み出したミニサイズの腸に、新型コロナウイルスを感染させる実験を行った成果を米消化器病学会誌の電子版に発表した。デル...
www.jiji.com
この記事から、臨床研究のトレンドが予測できます。記事によると、IPS細胞を用いたミニ臓器(オルガノイド)にコロナウィルスを感染させて後遺症が長引くメカニズムを解析しました。最近特にオルガノイドを用いた臨床研究の事例に関するニュースが増えてきました。したがって我々としては、今後、病気のメカニズムの解明およびそれに伴う薬の開発期間短縮を期待して待つと良いでしょう。 以上です。全体として今後の技術トレンドは、宇宙開拓、人工臓器、DNA解析という流れかもしれません。皆さま、トレンドを捉えてしっかり対応していきましょう。 最後までお読みいただきありがとうございました。また、次回、皆さまに役立つ情報を発信してまいります。 よろしくお願いします。
0 notes
vexationsofannatto60 · 9 months
Text
12月12日の火曜日の夕方、フラフラするので熱を測ってみたら38.5度。こりゃ、どっちだ? しかしどっちかだろう、ということで、翌日、近所の発熱外来で検査をしてもらったら、コロナもインフルエンザも共に陰性(コロナは念のためにPCR検査までしてみたが、翌日、陰性の知らせ)。熱冷ましと咳止めと扁桃腺の腫れどめを処方されて、〔鼻の奥+喉〕の痛み(あとで、それは「上咽頭」と呼ばれる部分だと知った)と、始まったら止まらない咳(喘息患者の苦しみがわかったような気がした)による、一種の呼吸困難状態を一週間辛抱した。
一週間の間、体温は、夕方から夜をまたいで明け方まで高くなり、朝から昼かけて低くなる(しかし決して平熱にはならなかったが)
という「タチ」の悪さ。つまり、日の出と共に、熱その他の症状が沈静化するせいで、朝になるたびに、病み上がりのような独特の清々しさを錯覚してしまい、「ああ、昨夜は辛かったけど、これで峠は越えたなあ」と騙され続けることになるからだ。
で、発症から一週間経ったが、良くなった気がしない。仮にコロナの偽陰性だったとしても五日もすれば症状は「軽快」しているはずだが、熱は下がらないし、咳も止まらない。それになんだか、昨日から目が充血してきて、ちょっと寝て起きたら目ヤニで目が開かないことも(こんな体験は幼児期以来)
。何より、唾を飲むだけで鈍痛が走る喉(上咽頭)の状態が鬱陶しくて仕方がない。症状が悪化してくると、頭蓋骨にある空洞(目、鼻、口、喉)全体で、大規模市街戦が展開しているような有様。ようやく、これは、病気が違うぞ、と思う。
というわけで、行きつけの耳鼻咽喉科クリニックに予約の電話を入れ、電話口で事の次第を説明したら、その時点で看護師に「ああ、アデノですね〜」と言われ、実際の医師の診断もアデノウィルス感染
だった。所謂「咽頭結膜熱」別名「プール熱」。子供がよく罹る。
身近に子供はいないし、子供に接する機会もほぼ皆無なので、どこで「拾って」きたのか全く見当がつかないが、さっき少し調べてみたら、全国規模でアデノ大流行中とのこと。全国規模で大流行中なら、そこらじゅうに転がっているのだろう。
処方された薬のおかげか、自己免疫軍がポツダム宣言を出すあたりまで来たおかげかは不明だが、今は、すっかり楽。喉は全く痛くなくなったし、咳もほぼ出ない。鼻も詰まらない。目はまだ赤いので「終戦」とまではいかないが、全体としては、このような記録が書けるほどには回復している。
アデノでいろいろ一週間飛んだ。そして体重は3キロ減った。(2023.12.21記)
0 notes
abeya38 · 1 year
Text
戦後日本の国民性と新型コロナ
戦後日本の国民性といふものを考へるには、戦後日本といふ社会の構造とその教育を知らねばならない。戦後日本の国民性とは非科学的である事、情緒的である事。 詰まり、バカである。・・いや、失礼。言葉が乱暴だつた。 詰まり、気違ひである。
何故さうであるかといへば戦後日本の社会に見られる論理性の欠如、整合性の欠如からであり、その社会でどのやうな教育がなされてゐるかといへば、本質でその非科学性を頑なに守り、上辺では科学的であれ、論理的であれといふ二律背反の気違ひ状態を強化するための教育がまかり通つてゐる。これを教育と呼ぶのならだが。
学問に於いてまづ大切な事は、物事を客観的に、詰まり科学的に認識する事であり、それを無視して各自の思想や立場、情緒から物事を判断するのはとても危険な事であり、短期的に一部の者達を利する事があつても、結局は人類社会にとつて有害である。
戦中の日本は軍国主義であつたので、天皇ないしは皇軍上層部・官僚は私利私欲のために権力を不正に行使し、自己保身に終始する悪であり、愚かである。そしてそれに扇動された臣民は集団ヒステリーを起し、正常な判断力を欠いてゐたといふ見方ばかりされる。
なるほど、確かに事実も含まれてゐる。如何に天皇であつても人間である以上、そのやうな考へが浮かぶ事があるかも知れない。姦吏に至つては軍属であつても君側の奸と呼ぶべき者から、能力が不足し正しく実行出来ぬといふ者まで様々であるだらう。 そして何時の時代でも大衆は本質的に変はらないのかも知れない。それに輪をかけて戦後民主主義といふ歪さが日本社会の民度を次第に劣化させ続けてゐる。
私利私欲、党利党略、いはゆる高度に政治的な判断とでもいふのだらうか、要するに政府が誤つた決定をし、マスメディアを利用して大衆の恐怖心を煽り、洗脳し、新型コロナワクチンなる治験もしてゐない危険な薬物を多くの人々に接種させた。世も末である。
新型コロナウイルスの流行が始まり、ほんの1~2年で出てきたワクチンがまともであると考へる方がどうかしてゐる。通常、新薬が認可されるまでに多くの実験が行はれ、接種後の影響も十分に観察されねばならない。それもこれまで人類が経験した事のない遺伝子ワクチンである。いくら急がせたとしても、物理的に無理筋だといふのは一般的な知性を持つ者であれば理解できる筈であつた。
最悪、未知のワクチンではあるが、この新型コロナに有効であつたならば、一応の体裁は保てる。
だが、現実は臣民の8割程が多重接種しても、感染拡大は止まらない。寧ろワクチン以前の日本人が持つてゐた免疫機序の方が感染拡大に対して有効であり、ワクチン開始以降にこそ爆発的に拡大したやうに思ふ。・・「それはウイルスの変異によるもので云々」といふ者がゐるが、さうであれば変異前のワクチンは既に無用の長物であるし、元々感冒、いはゆる風邪に対してどうしてワクチン接種を行はなかつたのかといふ話になる。
物の本で読んだ事だが、風邪を引き起こす原因はこれまでのコロナウイルス以外にも多様であり、ワクチン接種では対応できないといふ事であつた。インフルエンザにしても、どのウイルスが流行するのかを予想して、博打のやうに接種してゐたわけでだが、根本的にインフルエンザワクチンが本当に有効であつたのか疑はしい。
有効であるどころか、本来人体に備はる免疫機序に対してどのように影響してきたのか考へると却つて有害であつたのではないかと思ふ。病を治すのは医者でも薬でもない。私達の体に備はる免疫機序によつて病を治してゐるのだ。医療はそれを助ける為に存在し、その本来の働きを妨げるのなら、それは毒にしかならない。
話を新型コロナウイルスに戻すが、それが変異するから、最初のワクチン接種が感染拡大に効果を出せないといふ論法であるなら、これまでの風邪を含めて全てのウイルスとその変異後のウイルスに対して全てワクチンを用意し、これを接種すれば、世界人類が病知らずであるといふ理屈だが、そんな事をすれば、とても健康な状態を保てる筈がない。人類滅亡である。
繰り返すが、病を防ぎ、治すのは人体の免疫機序であり、医者や薬ではないのだ。私は小難しい事をいふのではない。ただ、この根本を確認してゐるだけなのだ。
更には超過死亡数に表れてゐる通り、突然死や急速な癌の進行など、そしてワクチン由来と考へられる体調不良の数々は、先に述べた通り、人体の免疫機序に対して余計な真似をして、その働きを妨げてゐるからと考へるならば、数字に対して筋が通る。
新型コロナワクチンについては、私は専門外であるから、一般的な事を述べてをく。このワクチンはmRNAを利用したいはゆる遺伝子ワクチンであるらしい。これまでは弱毒化したウイルス等を昆虫や動物の細胞で増殖させて、これを様々な添加物と共に体内に直接、注射してゐたわけだが、そもそもこれまでのワクチンからしてアナフィラキシー反応のリスクがあり、添加物の影響、免疫機序への影響と問題山積と思ふのだが、遺伝子ワクチンであるといふ事は体内に注射された後に、自身の細胞を利用してウイルスが増殖する仕組みだ。・・あれ程変異だ変異だと騒がれるものの遺伝子だけ取り出して自分の体内で増殖させるといふのは科学技術の狂気に思へるが、ここではそれは一旦置く。
その遺伝子は私達の体内のどこの細胞に辿り着いて、どこで増殖するのか?注射した位置から移動しないやうな話を聞いたが、どのやうな理屈でさうなるのか納得できない。
するとワクチン接種後に心筋炎だの脳梗塞だとといふ事例があると分かつたのだが、なるほどこれは納得した。
遺伝子ワクチンが心臓で増殖すれば、本来なら外敵を攻撃する筈の免疫機序が自分の心臓を攻撃し炎症を起こす、これが脳内を含めた血管であれば、そこで生じた残滓などが血管を詰まらせるわけだ。眼球であれば、視力に影響するだらうし、神経系であればそれなりの症状として現れる。
なるほど。起こるべくして起こつてゐるといふだけの事だ。 接種した方は自己免疫力を高める生活を心掛け、可能な限り免疫機序を回復させて欲しい。
因みに、電脳世界に於いてもウイルスと呼ばれるものがある。コンピューターウイルスである。昭和最後の年、7月15日。これを題材にしたアニメーション映画が公開された。「機動警察パトレイバー the Movie」がそれである。新型OS「HOS」はシェアを独占する勢ひで採用され続けてゐたが、それに比例して不可解な事件が多発してゐた。本作���主役機であるAV98も既に「HOS」へ書き換へ済みであるとされる緊張感のある不安な状況下で、衝撃の事実が唐突に告げられた! (※ネタバレあり)
「いや向かうでHOSがやばいつてわかつたときはやつた、と思つたね。これも親父さんの日頃の教育のたまものよ。いくら便利なもんでも素性の知れないOSをのつける気にやなれなくつてさ。」
何故、新型コロナワクチンのやうな人災が起こり、これを止められないのだらうか。
戦後日本には上にも下にも、論理性と道理を欠く者が多く気違ひ社会であるからだといへる。
本日8月15日は前日に発布された「大東亞戰爭終結ノ詔書」詰まり
ポツダム宣言受諾に関する玉音放送がなされた日である。
新型コロナウイルスよりも悲惨で、多くの被害を出した大東亜戦争でさへ、本土に戦力を残した状態であつたにも関はらず、人類が経験した事のない核兵器の実戦使用もあり、民の生命を重くみた御聖断により、ポツダム宣言を受諾した。
これは常識的にみて君主は処刑される事になる状況であり、2度の核兵器使用を挙げるまでもなく、東京大空襲などの無差別爆撃などの戦争犯罪を犯し「迅速且完全ナル壊滅アルノミトス」と宣言するやうな相手に対してである。
大東亜戦争に関して、天皇が悪い、軍の上層部が悪い、姦吏が悪いといふのは、確かにさう解釈される部分も、そのやうな現実も一部にあつた筈だが、講和から71年の今、客観的に、科学的に、論理性を持つて、大東亜戦争を再確認する事で、漸く整合性の取れた真相に触れられるのではないだらうか。
まづ前提としてどのやうな状態であつたのか。 歴史は一部だけ切り取つても分かるものではない。ある程度の通史で見る必要があるだらう。
大侵略(大航海)時代から欧米列強の他文化への侵略行為は止まらず、我が国や幾つかの緩衝地帯、不毛地帯を除き、世界は彼らに支配されてゐた。
我が国に於いてもポルトガルによるマレー半島・セイロン島侵略の際、漂着したポルトガル人により種子島に鉄砲が伝はる。
侵略の尖兵である宣教師が訪れ、日本人が奴隷として売られてゐた状況があり、つひには太閤秀吉によるバテレン追放令、更には列強侵略に対抗し明征伐を目的とした朝鮮出兵へと繋がる。
時を経て支那では清王朝がイギリスに阿片漬けにされ香港が割譲された。その後、我が国にも黒船が来航し、明治御一新による急速な工業化、西洋化により、日清戦争(遼東半島(旅順)併合)、三国干渉、義和団の乱を経て、列強による清国への駐屯 東洋唯一の大国として対ロシアの日英同盟締結、日露戦争(旅順開城 水師営)を経た上で、第一次世界大戦では連合国側として参戦しドイツを破つた。
これは本当に驚異的な事であるが、このやうな世界情勢下にあり、我が国も他の列強国に飲み込まれぬ為に国力の増大、版図の拡大を行ふ必要があつたわけだ。私はそこには綺麗事だけではない私利私欲、党利党略が皆無であるとは考へてゐないし、事実その一面もある事だらうが、それが当然の生き馬の目を抜く世界情勢であつたといふ事だ。
そして、このやうな我が国の躍進は即ち、日本脅威論(黄禍論)となる。
我が国は一貫して自衛と独立性の維持の為に邁進してきたやうに見えるが、その時点で既に世界の覇権主義的版図は列強と共産主義により飽和状態にあつたのだ。先述した劇場版パトレイバーではないが、それはまさにバベルの塔、砂上の楼閣であつたわけだ。後は崩れ落ち、バラバラになる道理。
パリ講和会議では利害が対立、国際連盟規約に於ける日本の「人種的差別撤廃提案」が否決される。
その後、昭和12年から支那事変、昭和16年「米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書」が発布された。大東亜戦争である。
大東亜戦争とは即ち植民地支配から東亜を解放する事を目的とした自衛戦争である。
自虐的歴史観を疑ひもせぬ貧弱な知性の持ち主は「東亜の解放?ああ、建前だろ?」といつて憚らない。
確かに全てが清廉潔白である筈もない。戦争目的を達成する為には、その為の戦力確保、士気高揚が必要なのだ。戦である以上、非情な事や道理に反する事も起こる。
では、我が国が大東亜戦争を戦ひ抜いた結果、世界中の植民地はどうなつた?現在の独立国の数は?
何も日本のお陰でさうなつたのだといふ積りはない。
単なる歴史事実として、我が国は植民地支配の解放を掲げた戦を始めた。戦争相手の連合国側とは植民地の宗主国である。
これまでの歴史の流れから、整合性のある事実を確認して欲しい。
このやうな歴史的事実を覆い隠し、日本を悪者にして置く事で、得をするのは誰なのか?
自分達の罪を日本に着せる為に、侵略し7年もの間占領した日本に対して連合国GHQがとつた占領政策とは何か?
侵略者であるGHQが起草した多国間合意の文書を「日本國憲法」といふ名称にして、占領下の政府に制定させたのだ。
これは日本といふ不都合な邪魔者を、奴隷の鎖に繋いで於いて「その鎖の銘を見てみろ!日本國憲法と書いてある。自分から望んでそれに繋がれたんだろ?」といふ事だ。だからこそ前提として大東亜戦争が悪でなければならないわけだ。
鬼畜米英のやる事である。その位はするだらう。
それはまだ分かる。
許せないのは「あれ?この鎖も古くなつてきたな。今風に塗装し直すべきかも?」とかいふ気違ひ共。戦後日本といふ社会だ。
私達は奴隷なのか?神代から繋がる伝統ある独立國家だろ。 「戦に破れ、一時期、鎖に繋がれはしたが、我々は奴隷ではない!」といふ真相をこそ認めねばならない。 「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス」とはまさにこの事である。
日本國憲法は憲法に非ず。
日本國憲法は多国間合意の国際法でしかない。
■ 國體護持總論
■ 祭祀の道
1 note · View note
ichinichi-okure · 1 year
Text
Tumblr media
2023.7.29sat_kanagawa
回想、思っていることでも良いとのこと、長い文を書く。ちなみに文章はいつも長い。
5月下旬、8歳の長女は柔道で県内に遠征、その日に限って父はついていけなくて、柔道の会に預けていたら、昼過ぎに長女が怪我をして左腕負傷、でも動くから大丈夫だろうとの連絡があった。
心配しつつ、私も用事が終わり3歳の次女と公園で遊ぶ、夕方そろそろ柔道の先生が長女を連れて家まで送ってくれる時間なので帰ろうと言うが、盛り上がっている次女は帰りたがらず、やっと帰路につき、父に連絡したら、もう長女は家に着いているはずだと。なぜ連絡しないと口論になりながら家に着くと長女不在、慌ててご近所さんに連絡すると、預かってくれていた。
お隣のマンションに住む大変お世話になっているUさん宅に迎えに行き、娘の左腕を見ると想像以上に腫れていて、熱を持っていた。
病院に今から行きたくない、動くから大丈夫、明日行くって言うので、土曜夕方診察無い頃合いやし、そうしようか、、と言ったら、お隣さんが絶対今日行った方が良い!と言ってくれた。確かに明日の日曜日に調子悪くなったらもっと大変だ。 家に帰って病院調べます。と言ったら、ノートパソコンだしてきて、一緒に探してくれた。 救急病院に連絡したら、8800円別途かかる事を伝えられる。高い、多分折れて無さそうだし、どうしよう…と思っていたら、近くの病院の整形外科の番号を教えてくれた。 電話したら、今すぐなら良いとのことで、今から行ってきます、と言ったら、3歳の次女を預かるよ、って優しさ! 長女、うちにそのまま帰って無くてお隣に行ってくれて本当に良かった。と心底思った。
病院に行ったら、シンとしていて誰も居ない。レントゲンをとって、時間外なのに先生が来てくれて、腕を見るなり、折れてるね、もっと早く来ないとだめじゃないか、と言われた。
高齢でちょっと厳しそうな先生だな、と思ったけど、学生時代、柔道をやっていて、骨折して、その当時は整形外科がなくて、接骨院でみてもらったこと、年上の先輩は骨折したとき、うまくくっつかなくて、腕が曲がってしまったこと、今は技術が進んだからそんなことは無いんだけど。と話してくれた。ほんの何十年前はそんなだったんだ。 折れた骨が神経にはあたってないから手術せず、腕を吊ったまま一週間入院しようか、と言われた。翌週森道の予定で、今年の森道終わった、、と気が遠のくが、はっとして、付き添いや面会はできるんですか?と聞いたら、コロナの影響で、ネットから申し込んで1日に全体で3人しか受付てないとのこと、そんな宝くじのような確率で一週間、8歳が過ごせるのか、、と、娘も私も不安がっていたら、見かねた先生がここの入院患者は高齢の人ばかりで、退屈だろうからと、小児病棟のある病院に連絡しよう、と電話してくれた。数回電話して、やっと繋がって受け入れてくれることになった。
結局、近くの救急病院に行くことになり、それやったら8800円ケチらんと払ってれば良かった、、というのは人生の教訓なので、みなさんも緊急のときは参考にしてください。
でも先生の話を聞けたことは私にとっては良かった。
お隣に次女を迎えに行った父と合流して、入院と伝えて荷物を用意する。もう夕食は出ないだろうし、おなかがすくだろうから、少し食べてから出発したら、これが悪かった。
先程の病院でとったレントゲン画像をCDに焼いて連携してもらったのに、再度レントゲンや採血、CT。そこまでせんでもと思うほど検査検査の結果、 「すぐ手術した方がいいです」と言われた。 ?! 先程の病院でも手術の可能性も示唆されたけど、病院によってこんなに違うのか。最後に食事したのは、と聞かれて、さっき。と言ったら、ため息混じりに、今日は手術できないから一晩入院して明日にしましょう。と言われた。
救急にすぐ行かず、たらい回しにしてこんな夜遅く眠たい娘に痛い思いをさせて、一晩病院に1人で泊まらせて、なんて親だろう。後悔と自分を呪うしかなかった。 コロナ後なので、病室にずっといれず、明日の朝9時に来てください。寂しがる娘を残して帰る。
朝9時ギリギリに着いたけど、待つこと30分以上。
昨日から見ていると、大学病院は働いている方がみんな若くて、お医者さんもイケメンで、看護師さんも化粧バッチリ綺麗な方ばかり。 ピッピッと心電図か何か不安になる音がずっと鳴る中、世間話して時折笑ってはって、すごい世界。私には絶対勤まらない。命を扱う仕事、ここに勤める人にはこれが日常なんだ。
手術の説明を受け、手術室に向かうベッドに寝たまま管に繋がれた長女とすぐバイバイ。
手術のとき、付き添いは出来ず、3時間位、ロビーで待ってください。と言われた。 家が近所なので少し戻っても良いですか、と言っても、病院で待ってください。と言われ、持ってきた小説を読もう、とカバンを見たら見当たらず、お経だけだった。
うちの母が日蓮宗派のお経を毎日朝晩あげていて、何か困ったことがあったら、お経をあげたら守ってくれると小さい頃から言われていて、困った時の神頼みでカバンに入れたのである。
なんで忘れたんや、と思いながら、お経を読むしかなくて、日曜日の人がほとんどいないロビーでボソボソ読経する自分がおかしかったが、そのうち涙が出てきた。お経は意味がわからないところもあるし、ほんまかいな、と突っ込むところがあるんだけど、光を感じることがあって、おばけが怖い時や、信心深くないくせに、本当に困った時は、南無妙法蓮華経と実は唱えているのである。お恥ずかしい限りだが、横尾忠則と細野晴臣さんが「南無妙法蓮華経」は宇宙と繋がっている言葉と対談してるのを読んで、そんな素晴らしい言葉なのか感動して以来、恥ずかしさは少し薄れた。
コロナの影響でお見舞いに来ても患者に会えず、看護師さんに近況を聞きながら衣類を渡して、ありがとうございます。と去っていく患者さんの親族を見たり、 こんな平日昼夜問わず怪我や病気を治すのために働いている人たちがいるのに、平和から遠ざかろうとしている政治家がいること、軍備費を増やしてミサイルを買ったり、おかしな政策を勝手に推進する人、遠くで戦争している人がいることにまた涙が出てきた。悲しいというより、怒りに近い。
娘の手術は無事終わり、麻酔で意識朦朧、腕にたくさん管が繋がれている姿を目にして、普段の威勢の良さが全く無くて泣きそう。報告した方が良いかな、と写メを撮ろうとしたけどやめた。
小児病棟に移動して、はほぼ入院患者が居なくて、コロナ真っ盛りの頃は、ここに人が溢れていたのだろうか。そんな中、この方達は、命を守っていたのだろう。
森、道、市場もトラブルありつつ無事出店でき、7月、骨を固定していたピンも外れて、包帯も三角巾もとれて、開放された長女は嬉しそうにプール行ったりしています。通院するたび増えていった包帯、洗濯して巻き直していた包帯が不要になった。包帯が不要な世の中になりますように。
Tumblr media
-プロフィール- 近藤妙子 42歳 神奈川県 sometae 染色業、図案 Instagram @sometae87
0 notes
shintani22 · 2 years
Text
2022年12月23日
Tumblr media
強烈クリスマス寒波 広島市中心部も積雪 混乱の1日(RCCニュース)
この冬一番の強烈な寒波が、県内を襲い、広島市など沿岸部でも雪が積もりました。23日朝から各地で取材した雪の状況です。
坂本可織 記者 「午前7時過ぎ、広島市中心部の八丁堀交差点に来ています。けさから降り続いている雪の影響で道路沿いの植え込みにはおよそ3センチほどの雪が積もっています」
Tumblr media
朝の通勤・通学時間帯…
Tumblr media
通勤する人 「朝起きて、窓を開けたら真っ白だったので、あわてて出ました。電車がゆっくりだと思うので、仕事に遅れたらいけないので…」
Tumblr media
原爆ドーム
Tumblr media
広島城
Tumblr media
宮島(廿日市市)
Tumblr media
広島市郊外では…。
Tumblr media
山崎有貴 記者 「広島市中心部から車でおよそ20分のところです。とっても寒くて、一面、真っ白。雪国のようです」
通勤する人 「朝5時から歩いて、ここまで来たんですけど」
Tumblr media
― 何キロくらい?
「10キロくらいですかね」
坂道を上がれない車も…。
山崎有貴 記者 「トラックのタイヤがスリップしてしまっています」
Tumblr media
雪の中、チェーンを装着。そのとき…。
Tumblr media
山崎有貴 記者 「融雪剤をタイヤのまわりにまいています。ああ、風がすごい。木から大量の雪が落ちてきました」
三次市では、住宅の軒先を雪かきする人の姿。
Tumblr media
最北・庄原市では、「道の駅たかの」に除雪車。
8時41分ごろ 広島市南区的場町
11時38分ごろ 広島市南区的場町
大雪続く広島・北部の豪雪地帯(庄原市 高野��は 気象予報士リポート
大雪が続く広島・北部の豪雪地帯(庄原市 高野)から今(午後6時過ぎ)の様子を伝えてもらいます。
RCCウェザーセンター 乙藤亮平 気象予報士「現在も横殴りの雪が降り続いています。午後4時台に中継でお伝えしたところから移動しまして、道の駅たかの(庄原市)に来ています。1時間くらい前に到着したのですが、5分~10分おきくらいに強弱を繰り返しながら雪が降り続いています。(午後6時積雪 84センチ)どれも細かい粒の雪です。
特に午後6時を過ぎたあたりくらいから強めに雪が降っている感じです。突風のように一気に強く吹く風はないのですが、絶えず西寄りの冷たい風が吹き続けている印象です。
手元の気温計でもマイナス2~3℃くらいでして、一日、氷点下の真冬日になろうとしています。きのう22日より気温が3~4℃低くなっていますので、細かい雪、さらさらとパウダースノーのようになっている感じを受けます。時折り、強めの風が吹くだけで雪が舞い上がるような光景も見られます。
Tumblr media
今夜、大雪のピークは過ぎつつありますが、あす24日にかけて強い冬型の気圧配置は続く見込みです。特に県北部の山沿いでは、断続的に雪が降って、一時的に強まるタイミングもありそうです。
引き続き、今夜、積雪が増えていくこともありますし、路面の凍結など交通障害にもまだまだ十分に警戒が必要となります」
youtube
山陽新幹線の指定席予約 この年末年始は前年より増加(NHKニュース)
ことしの年末年始に広島駅などを発着する山陽新幹線の指定席の予約状況は前の年と比べて13%増えています。
ただ、新型コロナの感染拡大前と比べると、7割ほどにとどまっています。
JR西日本は、12月28日から来年1月5日までの年末年始に、広島県の三原駅から山口県の新下関駅までの「広島エリア」を発着する山陽新幹線の指定席の予約状況を取りまとめました。
それによりますと、12月15日時点で▼指定席の予約状況は前の年と比べて13%増えていて、▼座席の予約率は39%となっています。
指定席の予約状況は回復傾向にありますが、新型コロナの感染拡大前と比べると、7割ほどにとどまっています。
また、年末年始の利用のピークは▼博多方面に向かう下りが今月29日、▼新大阪方面に向かう上りが来月3日と見込まれていてJR西日本は指定席を利用する場合は早めの予約を呼びかけています。
Tumblr media
新規感染者が急増中 年末年始 医療現場で “ひっ迫” 危機感(RCCニュース)
学校も冬休みに入り、職場の多くもまもなく年末年始の休みです。そんな中で新型コロナの感染者数は、深刻な状態です。医療の現場では、年末年始にかけて「ひっ迫」への危機感が高まっています。
広島市にあるクリニックの発熱外来です。発熱やのどの痛みなどの症状で受診を予約した患者が相次いで訪れています。
医師が抗原検査の結果を確認すると…。
Tumblr media
「(新型コロナ陽性と)出ている」
こうした状況が連日、続いています。
大橋内科医院 大橋信之 院長(広島市医師会 常任理事)「第7波のときもそうだが、(陽性率は)多いときは8割くらい。流行が強くなっているのをひしひしと感じるような数字」
Tumblr media
患者を受け入れる現場の医療機関は、厳しさを増しています。各地の病院で院内クラスターが相次いで発生��ていて、現場のクリニックにもその影響が及んでいます。
Tumblr media
大橋信之 院長 「病院内で新型コロナ陽性者が出てしまうこと、これはスタッフでも、入院している人でもあり得ると思うが、そういう中でどうしても病室の数を制限しないといけなくなってしまう。スタッフの数も制限せざる得なくなる。だから、救急で病院に搬送されても入院できないということが実際に起こっている」
実際にかかりつけの患者の救急搬送が、困難になったケースもあったといいます。
大橋信之 院長 「家で倒れている状況で、意識はあるが、おそらく脳血管障害だと思われるので、早急に救急搬送が必要な状態だが、それをお願いしたところ、そういう病院の今の受け入れ状況で、どうしても難しいということ」
さらに心配しているのは、この冬一番の寒波の到来で急激に冷え込みが厳しくなっていることです。
大橋信之 院長 「特にことしは急に寒くなって来ているので、いわゆる感染症でかぜをひく。コロナになる。それから発展して肺炎になる人も増える懸念があるし」
Tumblr media
「脳の血管とか、心臓の血管の病気とか、どうしても増える時期なので、それが今の寒さですごく危惧される」
感染拡大が続くコロナの第8波。広島県は、このペースが続けば、年末には第7波のピークを超え、年明けにはコロナ病床が満床になるおそれがあるとしています。
Tumblr media
では、コロナの入院患者を受け入れている病院の現状は―。
舟入市民病院 北原良洋 内科主任部長 「このパーティションの向こう側がコロナ病棟になる」
Tumblr media
高熱などの軽症患者や肺炎などの中等症患者を受け入れている舟入市民病院。現時点でコロナ病床が20床ありますが、すでに8割から9割が埋まっている状態だといいます。
Tumblr media
北原良洋 内科主任部長 「以前(第7波まで)は若い人が多かったので、ある程度、治療すれば、残りの期間は自宅に退院して療養することができたが、現在は80~90歳の高齢の人が多いので、なかなか退院できないのが現状」
Tumblr media
病床のひっ迫が懸念される中、気になっているのが、インフルエンザの流行状況です。
北原良洋 内科主任部長 「インフルエンザの患者も少しずつだが、いるので、これが年末年始にかけて増えてくると、インフルエンザの患者もコロナの患者も同じように診療しないといけないから、今以上に病床がひっ迫してくる可能性はあると思う」
さらに年末年始にかけ、懸念しているのが、救急医療への影響です。
舟入市民病院 北原良洋 内科主任部長 「現状では発熱があると、救急要請しても受け入れ先がなかなか見つからないということが多い。現に当院にも15件以上、断られて、『何とか受けてほしい』という要請があったことがある。今後も発熱患者の『救急搬送困難例』が増えてくることが非常に懸念される」
医療ひっ迫という事態が、目の前まで近づいています。
― 広島県は、年末年始を中心にした発熱患者などの診療・検査体制を21日に公表しました。それが、こちらの表で、発熱などの患者が診療や検査を受けられる医療機関をご覧の数ほど確保したとしています。
Tumblr media
具体的な医療機関のリストは、県のホームページに26日から掲載されます。県では、受診前に必ず事前の電話予約をするよう呼びかけています。
Tumblr media
【本日(12/23)の広島県内の感染状況】(広島県)
新型コロナ 県内で5114人感染確認9人死亡 23日発表(NHKニュース)
広島県では23日、新たに5114人が新型コロナウイルスに感染していることが確認され9人が亡くなったと発表されました。
感染が確認されたのは、▼広島市で2087人、▼福山市で1105人、▼呉市で343人、▼東広島市で326人、▼尾道市で281人、▼廿日市市で187人、▼三原市で131人、▼府中町で79人、▼府中市で71人、▼三次市で69人、▼庄原市で60人、▼海田町で51人、▼大竹市で44人、▼安芸高田市で42人、▼熊野町で38人、▼江田島市で36人、▼竹原市で35人、▼世羅町で34人、▼坂町と北広島町でそれぞれ27人、▼神石高原町で23人、▼安芸太田町で10人、▼大崎上島町で8人のあわせて5114人です。
感染確認は、1週間前の金曜日より802人多くなっていて、1日の発表が5000人を超えるのは4日連続です。
一方、福山市は今月20日に発表した1人について取り下げました。これで県内での感染確認は、のべ62万人8020人となりました。
また、県内で患者9人が亡くなったと発表されました。県内で新型コロナウイルスに感染し、その後死亡した人は983人となりました。
新型コロナ医療体制 病床使用率は61.2% 22日時点(NHKニュース)
22日の時点で病床の使用率は61.2%です。(確保病床数806床、入院患者493人)
このうち重症患者用の病床使用率は16.0%です。(確保重症病床50床、重症の入院患者8人)
軽症の人や症状がない人が入る宿泊療養施設は1228室を確保し、350人が過ごしています。(利用率28.5%)
直近1週間の人口10万人あたりの新規感染者数は1154.96人です。
現在、広島県の感染レベルは、1から4の4段階のうち発熱外来を受診する患者が増えるなど、保健医療の体制への負荷が高まり始めていることを示す「レベル2」です。
【新型コロナ 厚労省まとめ】315人死亡 17万3336人感染 (23日)(NHKニュース)
厚生労働省によりますと、23日に発表した国内の新たな感染者は、空港の検疫などを含め17万3336人となっています。また国内で亡くなった人は315人で、累計5万4680人となっています。
東京都 新型コロナ 22人死亡 1万7332人感染 18日連続前週比増(NHKニュース)
大阪府 新型コロナ 19人死亡 1万537人感染確認(NHKニュース)大阪府内の感染者の累計は246万5352人となりました。府内で感染して亡くなった人は合わせて6995人となっています。
Tumblr media
コロナ死者、��多371人 感染者は17万4079人(共同通信)
国内で23日、新たに371人の新型コロナウイルス感染症の死者が報告され、1日当たりで過去最多となった。流行「第8波」で感染者数が膨らむのに伴い、死者数も増えている。これまでは第7波だった9月2日の347人が最多だった。一方、今年の累計死者数は3万6600人余りとなり、平均で1日100人以上が亡くなったことになる。
23日の感染者は17万4079人が確認された。前週の同じ曜日より約2万人多い。
都道府県別の死者は神奈川28人、北海道25人、東京24人など。福井と鹿児島を除く全ての都道府県で報告があっ���。
Tumblr media
インフルエンザ 6都県で「流行期入り」 コロナ感染拡大以降初(NHKニュース)
新型コロナウイルスとの同時流行が懸念されているインフルエンザについて、全国の医療機関から今月18日までに1週間に報告された患者の数は全国で2592人でした。
全国では流行期入りの水準を下回っていますが、この冬は岩手県や東京都など6の都県で新型コロナの感染拡大が始まって以降、初めてその水準を上回っていて、専門家は注意を呼びかけています。
厚生労働省によりますと、今月18日までの1週間に全国およそ5000か所の医療機関から報告されたインフルエンザの患者数は、前の週より1354人多い2592人でした。
インフルエンザは、1医療機関当たりの1週間の患者数が全国で1人を超えると「全国的な流行期」入りとされていますが、現時点では0.53人と下回っています。
患者は45の都道府県で報告され、1医療機関当たりの患者数は▽岩手県が2.84人▽富山県が1.33人▽青森県が1.25人▽熊本県が1.14人▽東京都が1.12人▽神奈川県が1.05人とこの冬は、新型コロナの感染拡大がおととしに始まって以降、初めて「1」を超えていて、それぞれの都県は「流行期に入った」と発表しています。
感染症に詳しい東邦大学の舘田一博教授は「来週以降『流行期入り』となる地域がさらに増えるとみられ、全国的な流行につながるリスクが高まり、懸念されていたコロナとの同時流行も現実的になってきている」と話しています。
Tumblr media
新型コロナ 新規感染者数の1週間平均 増加傾向もペース下がる(NHKニュース)
新型コロナウイルスの新規感染者数を1週間平均で比較すると、全国では1.12倍と増加傾向が続いていますが、感染者数が増えたすべての地域で増加のペースは前の週よりも下がっています。
NHKは、厚生労働省が発表した感染者数をもとに、1週間平均での新規感染者数の傾向について前の週と比較してまとめました。
全国 全国では▽先月24日までの1週間では前の週に比べて1.08倍▽今月1日は1.27倍と7週連続で増加が続いたあと▽今月8日は1.00倍とほぼ横ばいとなりました。
その後 ▽今月15日は1.26倍と再び増加に転じ▽22日まででは1.12倍となっています。
一日当たりの全国の平均の新規感染者数は、先週よりおよそ1万7000人多い15万6000人余りで、37の都府県で前の週より多くなりましたが、増加のペースは感染者数が増えたすべての地域で下がっています。
感染が遅れて拡大した九州などでは増加の幅が比較的大きく、鹿児島県で1.52倍、福岡県で1.36倍、熊本県で1.35倍などとなっています。
また、鳥取県と島根県、岩手県では、一日当たりの平均の新規感染者数が過去最多となっています。
佐賀県 人口当たりの感染者数が最も多いのは佐賀県で▽今月8日までの1週間は前の週の1.09倍▽今月15日は1.66倍▽22日まででは1.22倍と8週連続で増加しています。
一日当たりの新規感染者数はおよそ1610人で、人口10万当たりの感染者数は1389.26人となっています。
1都3県
【東京都】 ▽今月8日までの1週間は前の週の1.01倍▽今月15日は1.22倍▽22日まででは1.11倍で一日当たりの新規感染者数はおよそ1万6487人となっています。
【神奈川県】 ▽今月8日までの1週間は前の週の1.02倍▽今月15日は1.23倍▽22日まででは1.10倍で一日当たりの新規感染者数はおよそ9862人となっています。
【埼玉県】 ▽今月8日までの1週間は前の週の1.07倍▽今月15日は1.22倍▽22日まででは1.09倍で一日当たりの新規感染者数はおよそ8512人となっています。
【千葉県】 ▽今月8日までの1週間は前の週の1.02倍▽今月15日は1.29倍▽22日まででは1.10倍で一日当たりの新規感染者数は7255人となっています。
関西
【大阪府】 ▽今月8日までの1週間は前の週の1.08倍▽今月15日は1.36倍▽22日まででは1.18倍で一日当たりの新規感染者数はおよそ9247人となっています。
【京都府】 ▽今月8日までの1週間は前の週の1.09倍▽今月15日は1.34倍▽22日まででは1.10倍で一日当たりの新規感染者数はおよそ2642人となっています。
【兵庫県】 ▽今月8日までの1週間は前の週の1.17倍▽今月15日は1.40倍▽22日まででは1.19倍で一日当たりの新規感染者数は5950人となっています。
東海
【愛知県】 ▽今月8日までの1週間は前の週の0.94倍▽今月15日は1.24倍▽22日まででは1.15倍で一日当たりの新規感染者数はおよそ9866人となっています。
【岐阜県】 ▽今月8日までの1週間は前の週の0.97倍▽今月15日は1.26倍▽22日まででは1.12倍で一日当たりの新規感染者数はおよそ3135人となっています。
【三重県】 ▽今月8日までの1週間は前の週の1.09倍▽今月15日は1.33倍▽22日まででは1.27倍で一日当たりの新規感染者数はおよそ2580人となっています。
その他の地域
【北海道】 ▽今月8日までの1週間は前の週の0.79倍▽今月15日は0.89倍▽22日までは0.89倍で一日当たりの新規感染者数はおよそ5046人となっています。
【宮城県】 ▽今月8日までの1週間は前の週の0.93倍▽今月15日は1.10倍▽22日まででは0.92倍で一日当たりの新規感染者数はおよそ3345人となっています。
【広島県】 ▽今月8日までの1週間は前の週の1.08倍▽今月15日は1.30倍▽22日まででは1.15倍で一日当たりの新規感染者数はおよそ4543人となっています。
【福岡県】 ▽今月8日までの1週間は前の週の1.16倍▽今月15日は1.62倍▽22日まででは1.36倍で一日当たりの新規感染者数はおよそ7858人となっています。
【沖縄県】 ▽今月8日までの1週間は前の週の1.15倍▽今月15日は1.15倍▽22日まででは1.08倍で一日当たりの新規感染者数はおよそ724人となっています。
東邦大 舘田教授「年末年始 さらに医療体制が厳しくなる」
新型コロナウイルス対策に当たる政府の分科会メンバーで、東邦大学の舘田一博教授は、現在の感染状況について「感染者の増加ペースはやや緩やかになっているが、中国・四国や九州などでは増加が大きくなっている。行動制限がないなかで年末年始の時期を迎え、クリスマス、忘年会、帰省、新年会と接触機会が増えることなどで、感染が急増に転じないか注意が必要だ」と指摘しました。
また、亡くなる人の数の報告が全国で一日に300人を超えていることについて「まだ第8波の入り口の段階で、ことし夏の第7波のピークに近づきつつあり、これから感染が拡大し亡くなる人がさらに増える事態を懸念している。年末年始は、ただでさえ通常の疾患の患者が増え、医療体制が弱くなる時期で、事故によるけがや、心疾患などの病気の人に対応できなくなる事態もありうる。さらに3年ぶりに季節性インフルエンザの『流行期入り』となる地域が増えてきており、今後も広がっていくことが見込まれる。インフルエンザとコロナの同時流行が起これば、さらに医療体制が厳しくなる」と述べ、懸念を示しました。
そのうえで、舘田教授は「感染状況は日に日に厳しくなり、医療ひっ迫が近づく今の状況について、もう一度考えてもらう必要がある。忘年会や新年会はあまり大人数にならず、換気ができるところで短時間で楽しむことや、帰省する際はなるべくワクチンを打ち、自分の体調を事前にしっかりチェックするなど基本的な対策を一人一人に続けてもらうことが重要だ」と述べました。
岐阜県 感染拡大続き 全国初 対策レベル3に引き上げ
岐阜県は、新型コロナの感染拡大が続き、医療体制がひっ迫しているとして23日に政府の新たな方針に基づく対策のレベルを、4段階のうち2から3に引き上げました。
県によりますと「第8波」に備えた新たな対応方針に基づき、レベルを3に引き上げたのは全国で初めてだということです。
岐阜県は23日、新型コロナの対策本部会議を開き県の担当者が、病床使用率が50%前後で推移し、一般病棟や救急医療を制限している医療機関が19あるほか、救急搬送の困難事案も今月だけで60件に上り、受け入れまでに1時間以上かかるケースも出るなど、医療体制がひっ迫していると説明しました。
そして、助かる命が助からない状況になりかねないとして、政府の新たな方針に基づく対策のレベルを、4段階のうち、2に当たる「感染拡大期」から、3の「医療負荷増大期」に引き上げるとともに、22日から来月22日までの1か月間、「岐阜県医療ひっ迫防止対策強化宣言」を発出することを決めました。
県によりますと「第8波」に備えた新たな対応方針に基づいてレベルを3に引き上げ、対策強化宣言を発出するのは全国で初めてだということです。
岐阜県は人の移動が増える年末年始を中心に対策を強化することにしていて、初詣などで混雑した場所への外出を控えるとともに、新年会などでの長時間の飲食を避け、大人数の会食や大規模なイベントへの参加は見合わせることも含めて、慎重に検討するよう要請するということです。
岐阜県の古田知事は、対策本部会議のあとの記者会見で「他県と比較して岐阜県の感染状況が突出しているから真っ先に手をあげたのではない。レベル3の水準に照らして宣言が必要ではないかと考え、実態とやるべき対策とをわれわれのルールに照らして判断した」と述べました。
そのうえで「残念ながら感染の勢いが止まらず、むしろ人流が盛んになる年末年始に向けてさらに拡大している。本来なら受けられるべき救急搬送が滞ってしまい、身近な医療にも問題が生じている。それぞれの立場で全力で警戒し、徹底した感染防止対策をお願いしたい」と呼びかけました。
0 notes
herbiemikeadamski · 2 years
Photo
Tumblr media
. (^o^)/おはよー(^▽^)ゴザイマース(^_-)-☆. . . 11月15日(火) #先勝(壬申) 旧暦 10/22 月齢 20.7 年始から319日目(閏年では320日目)にあたり、年末まであと46日です。 . . 朝は希望に起き⤴️昼は努力に生き💪 夜を感謝に眠ろう😪💤夜が来ない 朝はありませんし、朝が来ない夜 はない💦睡眠は明日を迎える為の ☀️未来へのスタートです🏃‍♂💦 でお馴染みのRascalでございます😅. . 日本が敗戦してGHQが侵略し思う ままに日本国民を操り嘘の教育まで 擦り込み、それが本当の常識の様に して洗脳させたら、小麦やら添加物 を与えては様々な病気やら癌患者を 増やしては、多額の治療費に薬代で 金を捲き上げ、それでも足りないの でしょう💢顔保険会社を作り金を 絞り取ると云う魂胆も限界だと察知 して、次は疫病に感染症を口実に 全くもって科学的根拠も無いマスク に手指用毒とワクチンを強要すると 云う事が平然と行われてるのに気付 く日本人は極僅かで、こんな話をし たりすると非国民扱いにまでさせら れてしまう。冷静に考えて科学的な 観点から、紐解けば判る筈なんです。 インフルエンザも嘘だったし、風邪が感染 する事自体が嘘になるんじゃと思う この辺の事を科学的医学的に調べて 居ないんでしょうね🤚昔から言わ れ伝えられて来た嘘を疑うもなしに 千年近く騙されて来たんです⤵️⤵️ ここ今の騒ぎも千年以上は続くのか 本当にグレートリセットされて篩にかけら れ選ばらた者だけの新世界が誕生す るか、人類が滅亡するかのどちらか でしょうね🤚今や核兵器よりも恐 ろしい兵器のプロパガンダにより人類 の危機なんでしょうね🤚私は長く ないので、もう構いませんけど😅💦 って今日はネタ帳を事務所のPCと 同期が出来てなくて辺な話で🙏🙏 . 今日一日どなた様も💁‍♂お体ご自愛 なさって❤️お過ごし下さいませ🙋‍ モウ!頑張るしか✋はない! ガンバリマショウ\(^O^)/ ワーイ! ✨本日もご安全に参りましょう✌️ . . ■今日は何の日■. #ワイ公国建国(ワイコウコクケンコク). 2004(平成16)年11月15日(月)先勝.のオーストラリアのモスマン市の話である✋  地元自治体に道路の敷設を申請したが自宅前に道路が敷設されなかったことに激怒したポール・デルプラットが  モスマン市に独立を宣言しモスマン市長によって正式に受理されました。  しかし、後の2013年の裁判所の判決で道路敷設は公共の目的と反するため認められないと下りました。  この独立国家の#ワイ公国とは、オーストラリアのシドニー郊外のモスマン市に位置する家族国家(ミクロネーション)である。  人口は、ポール公とその妻、息子1人、娘2人の家族のみで5人で構成されていて、領土は全体が首都になり  領土内にはポール公の宮殿(家)のみがあり、公共交通機関はエレベーターのみであると。  ポール公は芸術家であり、芸術学校を経営している。  色々と謎が多くの珍事に近いのですが、オーストラリアに入国するのにパスポートが必要なのかとか?  エレベーターやら家の電灯も電力はどうして居るんでしょうね😅💦変な話しです🤣😆🤣.  オーストラリアでは続々と新帝国が出現して居るとか❓ . #先勝(サキガチ、センカチ、センショウ). この日は勝負ごと、訴訟や急用などに運がよいとされ、早い時刻ほど良くとされ、午後は凶になるなどの俗信がある。 . #大明日(ダイミョウニチ).  この日は、建築・旅行・婚姻・移転などすべてのことに大吉であって、他の凶日と重なっても忌む必要がないともいう。 . #神吉日(カミヨシニチ). この日は神社への参拝や、お墓まいりに行くといい日です。 . #母倉日(ボソウニチ).  暦で、母が子を育てるように、天が人間をいつくしむという日。 . #横田めぐみさん拉致. #イベリコ豚の日. #いいインコの日. #かまぼこの日. #きものの日. #七五三. #のど飴の日. #昆布の日. #生コンクリート記念日. #炉開き. #いい遺言の日. #一般鳥獣狩猟解禁日. #口腔がん検診の日. #蔵(KURA)の日. #予防争族(相続)を考える日. #目師会(日蓮正宗). #貞徳忌. . . #ダブルソフトでワンダブル月間. #宇お菓子の日(毎月15日). #生命保険見直し月間(1日から30日). . . ●パレスチナ独立宣言記念日. ●ブラジル共和制宣言記念日. ●ドイツ語共同体の祝日(#ベルギー). . . ■本日の成句■. #親の背を見て子は育つ(オヤノセヲミテコハソダツ). 【解説】 親と一緒に暮らしている子どもは、親の良い面も悪い面も自然に身につけてしまう。 それが当たり前の事と思って、自分の常識にしてしまうと云う事。 同義句で「子は親を映す鏡」があるが、常日頃から親は「言動に気をつけなさい」 と云う戒めの言葉であり教えです。 . . 1974(昭和49)年11月15日(金)大安. #やついいちろう (本名:#谷井一郎) 【お笑い芸人/エレキコミック】 〔三重県四日市市〕. . . (菊陽町) https://www.instagram.com/p/Ck9fO1WyfoQjgtm0mEUTar5iqd2FhAER_K52as0/?igshid=NGJjMDIxMWI=
1 note · View note
tatsukii · 3 years
Quote
「こんなに仕事をした政権はない」小泉環境大臣の言葉ですが、実際はどうだったのでしょうか。菅総理の補佐官として官邸で勤務している私がこの一年間を振り返り、ファクト(事実)として記録しておきます。 ◎新型コロナ対策に全力。医療体制を確保し、感染防止を徹底するとともに、感染対策の決め手となるワクチン接種を進めてきた。7月末までに希望する65歳以上の高齢者のワクチン接種を完了。3000か所の職域接種を含め、6月以来、1日100万回を超える接種を実現。8月末に全国民の5割近く、9月末に6割近くの2回接種を行い、現在の英米なみに近づく見通し。重症化が防げる画期的な中和抗体薬を1万人以上に処方。入院しなくても使えるように、外来でも使用可能とした。この中で、新型コロナの影響を受けた方々の声に耳を傾け、徹底して支援。事業者の人件費や資金繰りへの支援、困窮する世帯への支援を行う。また、9月には、ワクチン接種が進展したのちの社会経済活動の規制の緩和の在り方について検討し、基本的な考え方を提示する。 以下、時系列に記します。 1. デジタル庁発足 (20年9月30日準備室発足、21年5月12日関連法成立、9月1日発足)昨年の総裁選で御約束して1年弱という異例の短さで「デジタル庁」を発足。強力な司令塔として、デジタル化により暮らしを便利に。マイナンバーカードを使って、引っ越しや児童手当などの申請が自宅からオンラインでできるようにする。 2.不妊治療の保険適用(20年9月検討開始、21年1月助成引き上げ)共働きで頑張っても、一人分の給料が不妊治療に消えてしまうとの声に応えるため、今年1月から、補助 制度の所得制限を撤廃して、補助する金額は倍増( 1回15万円→ 30万円)、回数も増やした。来年度から保険を適用して、若い人にも使いやすくする。 3.携帯電話料金の値下げ(20年9月検討開始、20年末 大手3社新プラン発表)法改正などにより、利用者の方々が携帯会社の乗り換えを簡単にできるようにして、競争を促進。昨年末には、大手3社が従来より6割以上安い料金プランを発表。家計負担は4300億円軽減。 4. 初外遊でASEAN 訪問(20年10月18日~20日)インド太平洋地域の中心に位置するアセアンは、「自由で開かれたインド太平洋」の実現に向けた取組の要(かなめ)。「インド太平洋国家」である日本として、地域の平和と繁栄に引き続き貢献していくとの決意を明確に発信した。 5. 2050年カーボン・ニュートラルを宣言(20年10月26日施政方針演説)政権発足直後に「2050年カーボンニュートラル」を決断。温暖化対策は経済の制約ではなく、投資や雇用を生むものだと発想を転換し、成長戦略の柱に。洋上風力、水素、蓄電池などの技術開発や投資を進め、2030年に140兆円の経済効果を見込む。 6.RCEP締結(20年11月15日署名式)中国を含めたRCEP協定参加国のGDPの合計、貿易総額、人口のいずれも世界全体の約3割を占める。昨年秋の協定署名、そして先の通常国会での承認は、自由で公正な経済秩序の形成に向けた、画期的で重要な一歩となった。 7. 国土強靭化 5年15兆円(前例のない長期コミットメント) (20年12月11日閣議決定)ここ数年、大規模な水害が頻発。「5か年対策」により「5年で15兆円」を約束。川底の工事(しゅんせつ)や、役所の縦割りを解消したダムの事前放流の一元化などで、豪雨被害の軽減に取り組む。 8. 若い世代のための医療費窓口負担見直し(20年12月15日閣議決定)若者と高齢者で支え合う社会保障改革の第一歩として、75歳以上の高齢者のうち、年収200万円以上の方々の医療費の2割負担をお願いし、現役世代の保険 料負担を720億円軽減。 9.2025年大阪・関西万博に向けた準備(20年12月21日第1回国際博覧会推進本部開催)国際博覧会推進本部を設置し、第1回会合を開催。『いのち輝く未来社会のデザイン』と『いのちを救う、いのちに力を与える、いのちをつなぐ』がテーマの同博覧会に向けた政府の基本方針を決定。 10.コロナ禍での雇用対策を徹底強化 (21年2月5日産業雇用安定助成金創設)雇用調整助成金の特例措置を本年9月末まで延長したほか、労働者向けの休業支援金・給付金についても対象を拡大。加えて、在籍型出向を活用して雇用維持を図る事業主(出向元・先)を支援する「産業雇用安定助成金」を新たに創設するなど、「失業なき労働移動」を実現するための取組を強化。 11. 農林水産品の輸出額が過去最高 (21年2月5日20年輸出額公表)農水省、厚労省などの縦割りを解消し、認可手続きなど、輸出のハードルを改善。産地の支援も行い、新 型コロナの中でも昨年の輸出額は9,000億円を超えて、過去8年で倍増。本年も対前年30%増。 12. 孤独・孤立担当大臣の新設(21年2月12日)新型コロナの中の人々の不安に寄り添うため「孤立・孤独担当大臣」を創設。自殺防止、子供食堂など、NPOの活動に異例の60億円の支援を決定。行政と民間団体との連携を強化し、きめ細やかなセーフティネットを構築。 13. バブル崩壊後の株価最高水準(21年2月15日)株価も本年2月には3万円の大台を超え、その後も27000円台と順調に推移。30年ぶりの高水準。昨年度の税収は過去最高に。 14. 初の QUAD 首脳会議(21年3月12日)3月、日米豪印(クワッド)会議を、初めて閣僚級から首脳級に格上げして開催。普遍的価値と戦略的ビジョンを共有する4カ国のリーダーが、「自由で開かれたインド太平洋」の具体化に向けた決意を一致して発信する重要な機会となった。 15.10兆円大学ファンド創設(21年3月26日第6期科学技術・イノベーション基本計画閣議決定)大学の国際競争力の強化、わが国成長への貢献という長年の課題に対応するため、10兆円の大学ファンドを創設。運用益を、トップレベルの大学の研究に充てる。 16. 小学校35人学級決定 (21年3月31日改正法成立、4月1日施行)40年ぶりに「義務教育標準法」を改正し、公立小学校の1クラス当たりの定員を40人から35人以下に引き下げ。少人数によるきめ細かな教室づくりを実現。学校の先生方の負担にも配慮し、長年の議論に決着をつけた。 17.教育のデジタル化(21年4月1日)21年4月から、「GIGAスクール元年」の施策として小中学校における一人一台端末環境下での学びを本格的にスタート。 18. こども庁開設準備(21年4月1日検討指示)担当省庁が複数にまたがる子供に関する施策について、役所の縦割りを打破して、真に子供の視点に立った政策に取り組む省庁横断組織の創設の検討を党に指示。 19. 福島第一原発処理水問題に結論 (21年4月13日関係閣僚会議で基本方針決定)福島第一原発のアルプス処理水について、6年以上にわたり処理方法の検討が続けられてきたが、国内 の規制基準の40分の1となる高い安全性を確保し、事業者の風評対策を十分に行う前提で、海洋放出 が現実的と判断。 20. 日米同盟の強化(21年4月16日日米首脳会談)4月、バイデン政権発足後、初の外国首脳として訪米し、日米同盟の固い絆を力強く発信。新型コロナ、 気候変動などのグローバルな課題、中国や台湾、北朝鮮の拉致問題などにつき率直に議論し、首脳声明にも反映できた。声明での台湾への言及は52年ぶり。 21.「慰安婦」という用語用いることが適切と閣議決定(21年4月27日質問主意書答弁閣議決定)政府が質問主意書(馬場伸幸衆議院議員)に対し、「『従軍慰安婦』という用語を用いることは誤解を招くおそれがあることから、『従軍慰安婦』又は『いわゆる従軍慰安婦』ではなく、単に『慰安婦』という用語を用いることが適切である」と答弁。今年度以降の教科書検定で当該政府見解が反映される見通し。 22.わいせつ教員への厳正な対処(21年5月28日新法成立、6月4日公布)児童生徒を教育職員等による性暴力から守るため、これを禁止し、一度行った教員が教壇に戻ってくることのないよう、教員免許が失効した者のデータベースの整備や教員免許の再授与を制限する法律を制定(議員立法)。 23.ワクチン外交 (21年6月2日ワクチン・サミット、6月4日台湾への第一弾分到着)国内接種に必要な量を確保しつつ、ワクチン外交にも注力。6月にはワクチン・サミットを主催し、「途上国人口の3割分のワクチン確保」との目標の達成に貢献した。台湾やアジア諸国などに既に2300万回分の供与を実施し、今後も拡大していく。 24. 男性育児休業取得 (21年6月3日改正育児・介護休業法成立、22年4月1日から段階施行)出産・育児の負担が女性に偏る中で、男性の育児参加を進める。男性国家公務員には1か月以上の育休取得を求め、結果として平均50日取得されている。法改正により、民間企業でも、男性が育休取得しやすい職場環境を義務付け。 25. 国民投票法改正(21年6月11日成立、9月18日施行)憲法改正に必要な手続きを定める改正国民投票法が、法案提出から約3年を経て、通常国会で成立。 26. 英国 G7の成功に貢献 (21年6月11日~13日)6月、英国でのG7では、普遍的価値を共有するチームとしての結束を確認し、世界が直面する重要課題につき率直に議論した。中国をめぐる課題についてのセッションでは議論を積極的にリードし、その成 果は首脳宣言に反映された。 27. 重要土地等調査法(21年6月16日成立、22年9月全面施行)自衛隊の施設の周辺などの土地について、不適切な利用を防ぐ法案を通常国会で成立させ、安全保障上重要な土地を守るべきとの長年の議論に決着をつけた。 28. オンライン診療2022年度解禁決定 (21年6月18日規制改革実施計画閣議決定)住んでいる場所にかかわらず、医療が受けられるように、オンライン診療を大幅に拡大。これまでは、同 血圧や糖尿病のみで、初診は対象外。来年度からは、初診も対象となり、対象となる病気の限定もなくなる。 29. 最低賃金の引き上げ率過去最高へ(21年7月16日中央最低賃金���議会答申)今年の最低賃金は史上最大の28円、3.1%アップ。非正規労働者をはじめ、新型コロナによる賃金格差を是正。引き上げの環境整備のため、飲食・宿泊を中心に、雇用調整助成金などによりきめ細かく支援。 30 . 黒い雨訴訟上告断念、 救済措置 (21年7月27日上告断念の総理談話閣議決定)84名の原告に被爆者健康手帳を発行。さらに、原告以外でも同じような事情にあった方々については、訴訟への参加・不参加に関わらず、認定し救済措置を講ずる。 31 . 東京五輪・パラリンピック (21年7月23日~9月5日)五輪には約1万1,000人、パラリンピックには約4,400人の選手が参加。国民の命と健康を守るために、感染対策、水際対策、セキュリティ対策などを徹底し、安全・安心な大会を実現。開催国としてその責任を果たした。また、東日本大震災からの復興五輪として立ち直った被災地の姿を発信した。
菅義偉政権の1年の成果 | 木原みのる公式サイト
身内からなので“強力に”や“徹底”といった過飾気味な表現もあるけど、内容は貴重な話。 メディアからは絶対出て来なそう。
104 notes · View notes
nyantria · 2 years
Text
これはフェイスの物語である。
私の名前はフェイス、16歳で、もうすぐ17歳になります。私のことはジェラール・レニックやチャンネル7のニュースなどですでにご存知のことと思いますが、私は6ヶ月前に起こったコビッドの副作用で最初に公表された被害者の一人です。
この事件が起こる前、私は学校に通い、パートタイムの仕事をし、車の運転を学び、参加したほとんどのことにおいて成功していたのです。私は健康で、身体的にも健康で、精神的にも安定した幸せな女の子でした。副作用の話も聞いたことがなかったし、私の仕事は薬局だったので、副作用の話を聞くたびに、これはいい考えだと思いました。 結局、タスマニア州政府は、この薬がいかに安全で効果的かをしつこく宣伝していました。私は同年代の中ではいち早くロンセストンで取得しました。もっと調べておけばよかったと思います。
2021年7月24日、初めてファイザー社のCOVIDワクチンを接種しました。 私はいつものように腕が痒かったのですが、それ以外はすべて順調でした。私は2021年8月7日に2回目のファイザーCOVIDワクチンを接種しました。最初の24時間は腕の痛み以外何も感じませんでしたが、3日後に胸郭の下に10段階中9.5の刺すような痛みがあり、吐き気がして嘔吐したくなり、目が覚めてしまいました。その日のうちにかかりつけの病院に行くと、医師は盲腸の疑いがあると言い、病院に直行する必要があると言いました。
病院に着くと、血液検査、超音波検査、レントゲン検査、そして待合室で点滴を打たれ、6~7時間待たされましたが、これは違法だとわかりました。その後、鎮痛剤を大量に飲まされ、胃の病気だからもう大丈夫だと言われ、家に帰されました。私は24時間家にいて、鎮痛剤はかなり効きましたが、まだ気分が良くなかったので、母が私を病院に連れて行ってくれました。病院に着くと、前の晩に行ったことを告げ、事情を説明すると、外科医の一人が来て、私を見てくれました。そして6時間後、私のビタミンDが低いことを告げ、ビタミンDの点滴をし、ロンセストン総合病院の小児病棟に入院させました。そして、盲腸に異常がないかを調べるために、予防的に盲腸の顕微鏡手術を行うと言われました。
翌日からずっと手術を待ち、24時間水なしで絶食させられました。その夜、私は手術に入った。手術の1時間後に激痛で目を覚ますと、盲腸を切除することになり、翌日まで小児病棟に寝かされました。翌朝になると、手術は成功し、すべてが順調で、そのおかげで早く退院できたと言われました。
家に帰り、それから2週間はずっと休んでいましたが、相変わらず胸郭の下に鋭い刺すような痛みがあり、食欲もなく、あまり眠れず、手術が終わったばかりだったので、回復しているのだろうとばかり思っていました。
2週間後、手術後の検診のためにかかりつけの病院に戻りました。医師は私がポルフィリン症に苦しんでいるのではないかと心配し、血液専門医の診断を仰ぎましたが、すべて異常なしとのことでした。ループス、肥満細胞症、甲状腺など、思いつく限りの検査をしましたが、すべて異常なしでした。
その時、盲腸にも異常がないことを告げられました。虫垂炎はないと書いてあったのです。ただ、「本当は必要ない」ので取ったと言われました。
母が初めてファイザーワクチンの話をしたら、外科医が笑いながら、そんなバカなことを言うなと言った。
どうしたらいいかわからず、鎮痛剤をもらって家に帰りました。
翌日、私は全く調子が良くなかったので、母はテレヘルスに電話をかけ、起こったことをすべて説明し、そのまま病院に戻るようにと言われました。病院到着後、鎮痛剤と吐き気止めの錠剤を渡され、婦人科と小児科の医師が来てくれました。その後、2晩入院し、痛みと吐き気の治療を受け、せめて少しは休めるようにと、最終的には自宅でも発症する可能性があると言われ、家に帰されました。
それから1週間、私はまだたくさんの痛みに耐えながら薬を飲み、水分補給をし、できるだけ安静にしていましたが、痛みは治まりませんでした。そして、免疫学の教授と小児科医を紹介されました。
免疫学の教授に会ったとき、母はコビド・ワクチンのせいかと尋ねました。しかし、書面ではファイザー製薬のワクチンによるものだと断り、その代わりに、ウイルス感染後の症状だと書きました。私たちは、レニック議員と同じように病院に公式に苦情を申し立てました。教授は手紙を書き直し、報告書を訂正して、これはファイザー・ワクチンによる遅発性副作用であると言いました。
それから1週間後、痛みはもうどうにもならないところまで来ていたので、また病院へ行きました...。小児科の医師が来るまで4時間半ほどそこにいましたが、すぐに小児病棟に入院し、睡眠薬を処方されました。その日の午前2時、私は初めて経験するチックで目を覚ましました。看護師は私の母に、この映像が必要だと言って、カメラを出して撮影を始めるよう伝えました。登録医が呼ばれ、彼女は恐怖の表情を浮かべ、こんなことは見たことがないと言い、どうしたらいいかわからないと泣いていました。その間も私は激しいチック症状を起こしていました。医師は私にバリウムを投与することにしました。
翌日、目が覚めると、10kmのマラソンを終えたような気分で、そこから日中チックが始まりました。
その後、薬が変更され、3日間入院しましたが、薬以外は何も飲まずに家に帰され、依然としてチックが続いています。彼らはチックについて全く気にしていないようでした。現在もチックは止まらず、さらに悪化して毎晩起こり、1回のエピソードが4時間も続き、非常に苦痛です。
10段階中10の筋肉痛のような痛みで、体中の筋肉が引っ張られて痙攣しているような、痙攣のような、自分ではコントロールできない、やればやるほど痛くなる、だから自分を解放するしかない。12月初旬、事態が悪化したため、再び病院に戻ることになりました。ト��アージの看護師は、「COVIDにならなくて本当によかった、もっとひどくなって死んでいたかもしれないからね」と言いました。
私はママと一緒に4時間待ち、パナドールを頼んだのですが、それさえももらえませんでした。その後、歯医者のような椅子のある小さな部屋に通されました。そこには上級小児科医と登録医が2人いて、そのうちの1人が私の試練を知っていました。彼は、なぜか私たちの車がどこにあるのか何度も尋ね、それから私のママを指差して「フェイスにしっかりしなさい」「これはすべて画面の見過ぎが原因なんだ」と言い続けました。その時、ママは腹が立って、私たちはそれを最終的なものとして受け入れず、うんざりして帰ってしまいました。
3週間前、ひどい痛みと吐き気に襲われ、再び病院に戻るよう言われました。輸液が必要だと言われ、行きたくなかったのですが行きました。医師は何が起こっているのかわからず、点滴はできないと言い、鎮痛剤も出すつもりはないと言われました。担当医は急用ができたので、その場を離れました。戻ってきた先生は、私を病院の奥の部屋に連れて行き、EDの私に鍼を打ってくれました痛みに耐えながら呼吸をするようにと、恩着せがましいことを言われ、文字通り痛みに泣きながら耐えるしかないのです。結局、家に帰されました。私は3日間、水さえも飲まず、何も喉を通らず、いつ吐いてしまうかわからない状態でした。氷柱で無理やり水分を補給するのが精一杯でした。それ以来、病院には行っていませんし、行きたくもありません。
10月末にメルボルン小児病院の思春期クリニックを紹介され、キャンセル待ちをしたところ、紹介状が受理されました。しかし、私の病状は雪だるま式に悪化しているため、紹介状を更新するためにGPに戻りました。雪だるま式に病状が悪化し、毎週大変なことになっています。
2022年1月28日、これまで問題にならなかった地域外であることを理由に却下されたことがわかりました。コードブラウンのせいなのかどうかはわかりませんが、GPと小児科医はこの15年間、問題なく紹介をしてくれています。今、私たちはどこか他の病院を探しています。
現在、ガラス製のコップやマグカップは、誤って投げて壊してしまわないか心配で、使うことができません。
もう運転はできないし、仕事もできないけど、良くなったら復帰できると言われたし、キャリアも積めないし、学校にも半年間行っていません。私は光と音に極端に敏感でいたりいなかったりします。一日平均20錠の薬と飲み薬、物忘れ、集中力低下、最近では突然足が崩れて担がれるようになりました。
Faith Ranson - 16歳、Pfizer COVIDワクチンによる重篤な副反応について
ディープル翻訳
4 notes · View notes
saritamix · 2 years
Text
違和感
8/27
深夜~朝
子の泣き方がいつもと違うことに気付く。お腹が空く(通常2~3時間間隔)と怪獣のように泣いて主張⇒ゾンビ飲みをするのに泣かない。起こしてミルクを飲ませる。
体温が高めで測ると38.5°Cを越える。色々調べて薄着にさせたり室温を下げる。体温下がる。
熱がまた上がる。泣き方も弱々しいし、オムツ替えの時の暴れもない(いつもは足をバタバタさせて泣くことが多い)。ミルクを飲みながら苦しそうに唸る。
●今回の発熱についての懸念点
子の面倒は平日の夜間は私、休日は夫と共に面倒を見ていた。平日の昼~夕にかけては義実家(上の階)に預けていた。第二子を出産して里帰りしていた義姉も面倒を見てくれていた。第一子は保育園に通っている。この日の昼、里帰りを終える義姉の引越し手伝いのため、子と私と夫の3人で上の階に向かう。義姉は発熱のため別室で寝ていた(コロナかどうかは不明だった)
----------------------------
⇒夕飯を食べながら経過を見ていたが、怖くなり#8000に発信
⇒私がかけた時は繋がらず、少し時間を置いた後に夫がかける
⇒いつも通っている大学病院に電話をした方が良いと勧められる
⇒マスクが出来ない、ワクチン未摂取の子どもは熱がある場合、問答無用でNに入院しなければいけない
⇒大学病院のNの空きがないので、家の近くの総合病院に連携される
⇒タクシーに乗って緊急外来へ向かう
ぐったりした子と共にタクシーで病院に向かった。病院はタクシーで20~30分の距離にあった。本当はいつも通っている大学病院の方が安心感はあるが、空きがないならどうしようもない。せめて良い病院であることを祈りながら子の手を握っていた。
病院は想像よりも大きかった。インターホンを押して名前を伝えると、緊急外来は別の入口だと伝えられる。グルっと大きく外周させられて入口に向かう。あまりの遠さに苛立つ。やっとのことで入口に辿り着き、インターホンを押して再度名前を伝える。看護師に扉を開けられ部屋に通された。
コロナ陽性の疑いを強く持たれているとここまで徹底された対応をされるのか、と思うくらい看護師の対応は冷ややかだった(医療従事者が倒れたら大変なのは承知している)(人によるのかもしれないが指示や口調そして表情、あまりの冷たさに驚いた)
しばらく待つと小児科医(M先生)が入室して来た。看護師があまりに冷たかったのでこの病院に対して早くも不信感が芽生えていたが、M先生は柔らかく丁寧な口調で対応してくれ安心した(後に知ったがM先生は大学病院でお世話になっているI先生と繋がりがあるらしい)
診察と検査を進めるに当たって先生と私と夫で話したが、驚いたのは子の情報だけではなく私の病気についても細かく連携されていたことだった。私が8月末に再入院して、9月に手術があることまで伝わっていた。M先生からは 「お子さんにはコロナの疑いがあるので、免疫力が低下しているお母さんが一緒にいるのは危険。感染したら手術が受けられなくなるし、今の体では重症化する恐れもある。これ以上同じ空間に居ない方が良いから、お母さんだけ先に帰宅して下さい」 と優しくも毅然とした口調で伝えられた。戸惑い渋ったが、先生と夫に強く促され仕方なく1人でタクシーを呼び先に帰宅した。
帰路に着く車内では複雑な気持ちだった。子が苦しんでいるのに、一緒に居て見守ることも出来ない親なんて…私が来た意味は何だったのだろう。でも、先生の言っているリスクも分かる。これでもし、コロナに自分がかかったら全てのスケジュールが一旦白紙になる。それだけは避けないといけない。頭では理解していたが、あまりにも悔しかった。
----------------------------
8/28~8/31
結論、子はただの風邪だった。子は8/31に退院し、私は8/30に入院したので入れ違いになった。
術後、問題がなければ退院予定は9月中旬。それまではしばらくお別れ。
今しか見れない成長を夫と一緒に見れないのは寂しいけど…どうか健やかに過ごしていてね。
2 notes · View notes
guragura000 · 4 years
Text
自殺未遂
何度も死のうとしている。
これからその話をする。
自殺未遂は私の人生の一部である。一本の線の上にボツボツと真っ黒な丸を描くように、その記憶は存在している。
だけど誰にも話せない。タブーだからだ。重たくて悲しくて忌み嫌われる話題だからだ。皆それぞれ苦労しているから、人の悲しみを背負う余裕なんてないのだ。
だから私は嘘をつく。その時代を語る時、何もなかったふりをする。引かれたり、陰口を言われたり、そういう人だとレッテルを貼られたりするのが怖いから。誰かの重荷になるのが怖いから。
一人で抱える秘密は、重たい。自分のしたことが、当時の感情が、ずっしりと肩にのしかかる。
私は楽になるために、自白しようと思う。黙って平気な顔をしているのに、もう疲れてしまった。これからは場を選んで、私は私の人生を正直に語ってゆきたい。
十六歳の時、初めての自殺未遂をした。
五年間の不登校生活を脱し高校に進学したものの、面白いくらい馴染めなかった。天真爛漫に女子高生を満喫する宇宙人のようなクラスメイトと、同じ空気を吸い続けることは不可能だと悟ったのだ。その結果、私は三ヶ月で中退した。
自信を失い家に引きこもる。どんよりと暗い台所でパソコンをいじり続ける。将来が怖くて、自分が情けなくて、見えない何かにぺしゃんこに潰されてしまいそうだった。家庭は荒れ、母は一日中家にいる私に「普通の暮らしがしたい」と呟いた。自分が親を苦しめている。かといって、この先どこに行っても上手くやっていける気がしない。悶々としているうちに十キロ痩せ、生理が止まった。肋が浮いた胸で死のうと決めた。冬だった。
夜。親が寝静まるのを待ちそっと家を出る。雨が降っているのにも関わらず月が照っている。青い光が濁った視界を切り裂き、この世の終わりみたいに美しい。近所の河原まで歩き、濡れた土手を下り、キンキンに冷えた真冬の水に全身を浸す。凍傷になれば数分で死に至ることができると聞いた。このままもう少しだけ耐えればいい。
寒い!私の体は震える。寒い!あっという間に歯の根が合わなくなる。頭のてっぺんから爪先までギリギリと痛みが駆け抜け、三秒と持たずに陸へ這い上がった。寒い、寒いと呟きながら、体を擦り擦り帰路を辿る。ずっしりと水を含んだジャージが未来のように重たい。
風呂場で音を立てぬよう泥を洗い流す。白いタイルが砂利に汚されてゆく。私は死ぬことすらできない。妙な落胆が頭を埋めつくした。入水自殺は無事、失敗。
二度目の自殺未遂は十七歳の時だ。
その頃私は再入学した高校での人間関係と、精神不安定な母との軋轢に悩まされていた。学校に行けば複雑な家庭で育った友人達の、無視合戦や泥沼恋愛に巻き込まれる。あの子が嫌いだから無視をするだのしないだの、彼氏を奪っただの浮気をしているだの、親が殴ってくるだの実はスカトロ好きのゲイだだの、裏のコンビニで喫煙しているだの先生への舌打ちだの⋯⋯。距離感に不器用な子達が多く、いつもどこかしらで誰かが傷つけ合っていた。教室には無気力と混乱が煙幕のように立ち込め、普通に勉強し真面目でいることが難しく感じられた。
家に帰れば母が宗教のマインドコントロールを引きずり「地獄に落ちるかもしれない」などと泣きついてくる。以前意地悪な信者の婆さんに、子どもが不登校になったのは前世の因縁が影響していて、きちんと祈らないと地獄に落ちる、と吹き込まれたのをまだ信じているのだ。そうでない時は「きちんと家事をしなくちゃ」と呪いさながらに繰り返し、髪を振り乱して床を磨いている。毎日手の込んだフランス料理が出てくるし、近所の人が買い物先までつけてくるとうわ言を言っている。どう考えても母は頭がおかしい。なのに父は「お母さんは大丈夫だ」の一点張りで、そのくせ彼女の相手を私に丸投げするのだ。
胸糞の悪い映画さながら��日々であった。現実の歯車がミシミシと音を立てて狂ってゆく。いつの間にやら天井のシミが人の顔をして私を見つめてくる。暗がりにうずくまる家具が腐り果てた死体に見えてくる。階段を昇っていると後ろから得体の知れない化け物が追いかけてくるような気がする。親が私の部屋にカメラを仕掛け、居間で監視しているのではないかと心配になる。ホラー映画を見ている最中のような不気味な感覚が付きまとい、それから逃れたくて酒を買い吐くまで酔い潰れ手首を切り刻む。ついには幻聴が聞こえ始め、もう一人の自分から「お前なんか死んだ方がいい」と四六時中罵られるようになった。
登下校のために電車を待つ。自分が電車に飛び込む幻が見える。車体にすり潰されズタズタになる自分の四肢。飛び込む。粉々になる。飛び込む。足元が真っ赤に染まる。そんな映像が何度も何度も巻き戻される。駅のホームは、どこまでも続く線路は、私にとって黄泉への入口であった。ここから線路に倒れ込むだけで天国に行ける。気の狂った現実から楽になれる。しかし実行しようとすると私の足は震え、手には冷や汗が滲んだ。私は高校を卒業するまでの四年間、映像に重なれぬまま一人電車を待ち続けた。飛び込み自殺も無事、失敗。
三度目の自殺未遂は二十四歳、私は大学四年生だった。
大学に入学してすぐ、執拗な幻聴に耐えかね精神科を受診した。セロクエルを服用し始めた瞬間、意地悪な声は掻き消えた。久しぶりの静寂に手足がふにゃふにゃと溶け出しそうになるくらい、ほっとする。しかし。副作用で猛烈に眠い。人が傍にいると一睡もできないたちの私が、満員の講義室でよだれを垂らして眠りこけてしまう。合う薬を模索する中サインバルタで躁転し、一ヶ月ほど過活動に勤しんだりしつつも、どうにか普通の顔を装いキャンパスにへばりついていた。
三年経っても服薬や通院への嫌悪感は拭えなかった。生き生きと大人に近づいていく友人と、薬なしでは生活できない自分とを見比べ、常に劣等感を感じていた。特に冬に体調が悪くなり、課題が重なると疲れ果てて寝込んでしまう。人混みに出ると頭がザワザワとして不安になるため、酒盛りもアルバイトもサークル活動もできない。鬱屈とした毎日が続き闘病に嫌気がさした私は、四年の秋に通院を中断してしまう。精神薬が抜けた影響で揺り返しが起こったこと、卒業制作に追われていたこと、就職活動に行き詰まっていたこと、それらを誰にも相談できなかったことが積み重なり、私は鬱へと転がり落ちてゆく。
卒業制作の絵本を拵える一方で遺品を整理した。洋服を売り、物を捨て、遺書を書き、ネット通販でヘリウムガスを手に入れた。どうして卒制に遅れそうな友達の面倒を見ながら遺品整理をしているのか分からない。自分が真っ二つに割れてしまっている。混乱しながらもよたよたと気力で突き進む。なけなしの努力も虚しく、卒業制作の提出を逃してしまった。両親に高額な学費を負担させていた負い目もあり、留年するぐらいなら死のうとこりずに決意した。
クローゼットに眠っていたヘリウムガス缶が起爆した。私は人の頭ほどの大きさのそれを担いで、ありったけの精神薬と一緒に車に積み込んだ。それから山へ向かった。死ぬのなら山がいい。夜なら誰であれ深くまで足を踏み入れないし、展望台であれば車が一台停まっていたところで不審に思われない。車内で死ねば腐っていたとしても車ごと処分できる。
展望台の駐車場に車を突っ込み、無我夢中でガス缶にチューブを繋ぎポリ袋の空気を抜く。本気で死にたいのなら袋の酸素濃度を極限まで減らさなければならない。真空状態に近い状態のポリ袋を被り、そこにガスを流し込めば、酸素不足で苦しまずに死に至ることができるのだ。大量の薬を水なしで飲み下し、袋を被り、うつらうつらしながら缶のコックをひねる。シューッと気体が満ちる音、ツンとした臭い。視界が白く透き通ってゆく。死ぬ時、人の意識は暗転ではなくホワイトアウトするのだ。寒い。手足がキンと冷たい。心臓が耳の奥にある。ハツカネズミと同じ速度でトクトクと脈動している。ふとシャンプーを切らしていたことを思い出し、買わなくちゃと考える。遠のいてゆく意識の中、日用品の心配をしている自分が滑稽で、でも、もういいや。と呟く。肺が詰まる感覚と共に、私は意識を失う。
気がつくと後部座席に転がっている。目覚めてしまった。昏倒した私は暴れ、自分でポリ袋をはぎ取ったらしい。無意識の私は生きたがっている。本当に死ぬつもりなら、こうならぬように手首を後ろできつく縛るべきだったのだ。私は自分が目覚めると、知っていた。嫌な臭いがする。股間が冷たい。どうやら漏らしたようだ。フロントガラスに薄らと雪が積もっている。空っぽの薬のシートがバラバラと散乱している。指先が傷だらけだ。チューブをセットする際、夢中になるあまり切ったことに気がつかなかったようだ。手の感覚がない。鈍く頭痛がする。目の前がぼやけてよく見えない。麻痺が残ったらどうしよう。恐ろしさにぶるぶると震える。さっきまで何もかもどうでも良いと思っていたはずなのに、急に体のことが心配になる。
後始末をする。白い視界で運転をする。缶は大学のゴミ捨て場に捨てる。帰宅し、後部座席を雑巾で拭き、薬のシートをかき集めて処分する。ふらふらのままベッドに倒れ込み、失神する。
その後私は、卒業制作の締切を逃したことで教授と両親から怒られる。翌日、何事もなかったふりをして大学へ行き、卒制の再提出の交渉する。病院に保護してもらえばよかったのだがその発想もなく、ぼろ切れのようなメンタルで卒業制作展の受付に立つ。ガス自殺も無事、失敗。
四度目は二十六歳の時だ。
何とか大学卒業にこぎつけた私は、入社試験がないという安易な理由でホテルに就職し一人暮らしを始めた。手始めに新入社員研修で三日間自衛隊に入隊させられた。それが終わると八時間ほぼぶっ続けで宴会場を走り回る日々が待っていた。典型的な古き良き体育会系の職場であった。
朝十時に出社し夜の十一時に退社する。夜露に湿ったコンクリートの匂いをかぎながら浮腫んだ足をズルズルと引きずり、アパートの玄関にぐしゃりと倒れ込む。ほとんど意識のないままシャワーを浴びレトルト食品を貪り寝床に倒れ泥のように眠る。翌日、朝六時に起床し筋肉痛に膝を軋ませよれよれと出社する。不安定なシフトと不慣れな肉体労働で病状は悪化し、働いて二年目の夏、まずいことに躁転してしまった。私は臨機応変を求められる場面でパニックを起こすようになり、三十分トイレにこもって泣く、エレベーターで支離滅裂な言葉を叫ぶなどの奇行を繰り返す、モンスター社員と化してしまった。人事に持て余され部署をたらい回しにされる。私の世話をしていた先輩が一人、ストレスのあまり退社していった。
躁とは恐ろしいもので人を巻き込む。プライベートもめちゃくちゃになった。男友達が性的逸脱症状の餌食となった。五年続いた彼氏と別れた。よき理解者だった友と言い争うようになり、立ち直れぬほどこっぴどく傷つけ合った。携帯電話をハイヒールで踏みつけバキバキに破壊し、コンビニのゴミ箱に投げ捨てる。出鱈目なエネルギーが毛穴という毛穴からテポドンの如く噴出していた。手足や口がばね仕掛けになり、己の意思を無視して動いているようで気味が悪かった。
寝る前はそれらの所業を思い返し罪悪感で窒息しそうになる。人に迷惑をかけていることは自覚していたが、自分ではどうにもできなかった。どこに頼ればいいのか分からない、生きているだけで迷惑をかけてしまう。思い詰め寝床から出られなくなり、勤務先に泣きながら休養の電話をかけるようになった。
会社を休んだ日は正常な思考が働かなくなる。近所のマンションに侵入し飛び降りようか悩む。落ちたら死ねる高さの建物を、砂漠でオアシスを探すジプシーさながらに彷徨い歩いた。自分がアパートの窓から落下してゆく幻を見るようになった。だが、無理だった。できなかった。あんなに人に迷惑をかけておきながら、私の足は恥ずかしくも地べたに根を張り微動だにしないのだった。
アパートの部屋はムッと蒸し暑い。家賃を払えなければ追い出される、ここにいるだけで税金をむしり取られる、息をするのにも金がかかる。明日の食い扶持を稼ぐことができない、それなのに腹は減るし喉も乾く、こんなに汗が滴り落ちる、憎らしいほど生きている。何も考えたくなくて、感じたくなくて、精神薬をウイスキーで流し込み昏倒した。
翌日の朝六時、朦朧と覚醒する。会社に体調不良で休む旨を伝え、再び精神薬とウイスキーで失神する。目覚めて電話して失神、目覚めて電話して失神。夢と現を行き来しながら、手元に転がっていたカッターで身体中を切り刻み、吐瀉し、意識を失う。そんな生活が七日間続いた。
一週間目の早朝に意識を取り戻した私は、このままでは死ぬと悟った。にわかに生存本能のスイッチがオンになる。軽くなった内臓を引っさげ這うように病院へと駆け込み、看護師に声をかける。
「あのう。一週間ほど薬と酒以外何も食べていません」
「そう。それじゃあ辛いでしょう。ベッドに寝ておいで」
優しく誘導され、白いシーツに倒れ込む。消毒液の香る毛布を抱きしめていると、ぞろぞろと数名の看護師と医師がやってきて取り囲まれた。若い男性医師に質問される。
「切ったの?」
「切りました」
「どこを?」
「身体中⋯⋯」
「ごめんね。少し見させて」
服をめくられる。私の腹を確認した彼は、
「ああ。これは入院だな」
と呟いた。私は妙に冷めた頭で聞く。
「今すぐですか」
「うん、すぐ。準備できるかな」
「はい。日用品を持ってきます」
私はびっくりするほどまともに帰宅し、もろもろを鞄に詰め込んで病院にトンボ帰りした。閉鎖病棟に入る。病室のベッドの周りに荷物を並べながら、私よりももっと辛い人間がいるはずなのにこれくらいで入院だなんておかしな話だ、とくるくる考えた。一度狂うと現実を測る尺度までもが狂うようだ。
二週間入院する。名も知らぬ睡眠薬と精神安定剤を処方され、飲む。夜、病室の窓から街を眺め、この先どうなるのかと不安になる。私の主治医は「君はいつかこうなると思ってたよ」と笑った。以前から通院をサポートする人間がいないのを心配していたのだろう。
退院後、人事からパート降格を言い渡され会社を辞めた。後に勤めた職場でも上手くいかず、一人暮らしを断念し実家に戻った。飛び降り自殺、餓死自殺、無事、失敗。
五度目は二十九歳の時だ。
四つめの転職先が幸いにも人と関わらぬ仕事であったため、二年ほど通い続けることができた。落ち込むことはあるものの病状も安定していた。しかしそのタイミングで主治医が代わった。新たな主治医は物腰柔らかな男性だったが、私は病状を相談することができなかった。前の医師は言葉を引き出すのが上手く、その環境に甘えきっていたのだ。
時給千円で四時間働き、月収は六万から八万。いい歳をして脛をかじっているのが忍びなく、実家に家賃を一、二万入れていたので、自由になる金は五万から七万。地元に友人がいないため交際費はかからない、年金は全額免除の申請をした、それでもカツカツだ。大きな買い物は当然できない。小さくとも出費があると貯金残高がチラつき、小一時間は今月のやりくりで頭がいっぱいになる。こんな額しか稼げずに、この先どうなってしまうのだろう。親が死んだらどうすればいいのだろう。同じ年代の人達は順調にキャリアを積んでいるだろう。資格も学歴もないのにズルズルとパート勤務を続けて、まともな企業に転職できるのだろうか。先行きが見えず、暇な時間は一人で悶々と考え込んでしまう。
何度目かの落ち込みがやってきた時、私は愚かにも再び通院を自己中断してしまう。病気を隠し続けること、精神疾患をオープンにすれば低所得をやむなくされることがプレッシャーだった。私も「普通の生活」を手に入れてみたかったのだ。案の定病状は悪化し、練炭を購入するも思い留まり返品。ふらりと立ち寄ったホームセンターで首吊りの紐を買い、クローゼットにしまう。私は鬱になると時限爆弾を買い込む習性があるらしい。覚えておかなければならない。
その職場を退職した後、さらに三度の転職をする。ある職場は椅子に座っているだけで涙が出るようになり退社した。別の職場は人手不足の影響で仕事内容が変わり、人事と揉めた挙句退社した。最後の転職先にも馴染めず八方塞がりになった私は、家族と会社に何も告げずに家を飛び出し、三日間帰らなかった。雪の降る中、車中泊をして、寒すぎると眠れないことを知った。家族は私を探し回り、ラインの通知は「帰っておいで」のメッセージで埋め尽くされた。漫画喫茶のジャンクな食事で口が荒れ、睡眠不足で小間切れにうたた寝をするようになった頃、音を上げてふらふらと帰宅した。勤務先に電話をかけると人事に静かな声で叱られた。情けなかった。私は退社を申し出た。気がつけば一年で四度も職を代わっていた。
無職になった。気分の浮き沈みが激しくコントロールできない。父の「この先どうするんだ」の言葉に「私にも分からないよ!」と怒鳴り返し、部屋のものをめちゃくちゃに壊して暴れた。仕事を辞める度に無力感に襲われ、ハローワークに行くことが恐ろしくてたまらなくなる。履歴書を書けばぐちゃぐちゃの職歴欄に現実を突きつけられる。自分はどこにも適応できないのではないか、この先まともに生きてゆくことはできないのではないか、誰かに迷惑をかけ続けるのではないか。思い詰め、寝室の柱に時限爆弾をぶら下げた。クローゼットの紐で首を吊ったのだ。
紐がめり込み喉仏がゴキゴキと軋む。舌が押しつぶされグエッと声が出る。三秒ぶら下がっただけなのに目の前に火花が散り、苦しくてたまらなくなる。何度か試したが思い切れず、紐を握り締め泣きじゃくる。学校に行く、仕事をする、たったそれだけのことができない、人間としての義務を果たせない、税金も払えない、親の負担になっている、役立たずなのにここまで生き延びている。生きられない。死ねない。どこにも行けない。私はどうすればいいのだろう。釘がくい込んだ柱が私の重みでひび割れている。
泣きながら襖を開けると、ペットの兎が小さな足を踏ん張り私を見上げていた。黒くて可愛らしい目だった。私は自分勝手な絶望でこの子を捨てようとした。撫でようとすると、彼はきゅっと身を縮めた。可愛い、愛する子。どんな私でいても拒否せず撫でさせてくれる、大切な子。私の身勝手さで彼が粗末にされることだけはあってはならない、絶対に。ごめんね、ごめんね。柔らかな毛並みを撫でながら、何度も謝った。
この出来事をきっかけに通院を再開し、障害者手帳を取得する。医療費控除も障害者年金も申請した。精神疾患を持つ人々が社会復帰を目指すための施設、デイケアにも通い始めた。どん底まで落ちて、自分一人ではどうにもならないと悟ったのだ。今まさに社会復帰支援を通し、誰かに頼り、悩みを相談する方法を勉強している最中だ。
病院通いが本格化してからというもの、私は「まとも」を諦めた。私の指す「まとも」とは、周りが満足する状態まで自分を持ってゆくことであった。人生のイベントが喜びと結びつくものだと実感できぬまま、漠然としたゴールを目指して走り続けた。ただそれをこなすことが人間の義務なのだと思い込んでいた。
自殺未遂を繰り返しながら、それを誰にも打ち明けず、悟らせず、発見されずに生きてきた。約二十年もの間、母の精神不安定、学校生活や社会生活の不自由さ、病気との付き合いに苦しみ、それら全てから解放されたいと願っていた。
今、なぜ私が生きているか。苦痛を克服したからではない。死ねなかったから生きている。死ぬほど苦しく、何度もこの世からいなくなろうとしたが、失敗し続けた。だから私は生きている。何をやっても死ねないのなら、どうにか生き延びる方法を探らなければならない。だから薬を飲み、障害者となり、誰かの世話になり、こうしてしぶとくも息をしている。
高校の同級生は精神障害の果てに自ら命を絶った。彼は先に行ってしまった。自殺を推奨するわけではないが、彼は死ぬことができたから、今ここにいない。一歩タイミングが違えば私もそうなっていたかもしれない。彼は今、天国で穏やかに暮らしていることだろう。望むものを全て手に入れて。そうであってほしい。彼はたくさん苦しんだのだから。
私は強くなんてない。辛くなる度、たくさんの自分を殺した。命を絶つことのできる場所全てに、私の死体が引っかかっていた。ガードレールに。家の軒に。柱に。駅のホームの崖っぷちに。近所の河原に。陸橋に。あのアパートに。一人暮らしの二階の部屋から見下ろした地面に。電線��。道路を走る車の前に⋯⋯。怖かった。震えるほど寂しかった。誰かに苦しんでいる私を見つけてもらいたかった。心配され、慰められ、抱きしめられてみたかった。一度目の自殺未遂の時、誰かに生きていてほしいと声をかけてもらえたら、もしくは誰かに死にたくないと泣きつくことができたら、私はこんなにも自分を痛めつけなくて済んだのかもしれない。けれど時間は戻ってこない。この先はこれらの記憶を受け止め、癒す作業が待っているのだろう。
きっとまた何かの拍子に、生き延びたことを後悔するだろう。あの暗闇がやってきて、私を容赦なく覆い隠すだろう。あの時死んでいればよかったと、脳裏でうずくまり呟くだろう。それが私の病で、これからももう一人の自分と戦い続けるだろう。
思い出話にしてはあまりに重い。医療機関に寄りかかりながら、この世に適応する人間達には打ち明けられぬ人生を、ともすれば誰とも心を分かち合えぬ孤独を、蛇の尾のように引きずる。刹那の光と闇に揉まれ、暗い水底をゆったりと泳ぐ。静かに、誰にも知られず、時には仲間と共に、穏やかに。
海は広く、私は小さい。けれど生きている。まだ生きている。
4 notes · View notes
xf-2 · 4 years
Link
1981年に防衛大を卒業し陸上自衛官になった私は、事故のちょうど1年前に、千葉県の習志野駐屯地に所在する第1空挺団に配属されました。普通科群普通科中隊(当時)の小隊長として30名ほどの部下を率いる立場で、階級は2等陸尉。まだ独身で26歳でした。
 自衛隊では8月に定期異動があり、12日は駐屯地内の「隊員クラブ」で、転入隊員の歓迎会が開かれていました。私はお酒も飲んだため、駐屯地外に借りていたアパートには戻らず隊舎で寝ることにしました。
 その晩、中隊当直幹部として勤務していたのが、作間優一2等陸曹(当時36歳)でした。寝る前に作間2曹から、航空機墜落の報告を受けました。第12師団(当時)の担任区域における事故らしく、第1空挺団に災害派遣の準備命令等が発出されていないことを確認し、ひとまず眠りにつきました。
 その間、ヘリコプターからのリぺリング降下(ロープを使った垂直降下)による迅速な現場進出の必要性から、第1空挺団の出番となり、第12師団に配属しての災害派遣が翌早朝までに決していたのでした。
 朝5時前には「命令受領ラッパ」が鳴り響き、営内に残っていた我々は即座に出動準備を整えて集合、V-107という大型ヘリ6機に乗り込み、7時54分、習志野を出発しました。準備といっても、装備を詰めた背のうは常に用意してあるので、出発前に地図と乾パンを支給されたくらいです。
 6機のヘリのうち、1番機には第1空挺団派遣部隊指揮官である普通科群長以下の「救助部隊本部」の要員が、2番機から6番機にはそれぞれ隊員12名が乗り込みました。12名のうち1名は衛生隊員なので、私は3番機の小隊長として、自分の部下から10名を選抜しました。
 小隊長である私のサポート役として、普段の演習でも常に一緒に行動していた作間2曹は、もちろん真っ先に指名しました。ヘリのパイロットたちもいつになくピリピリしていて、張り詰めた空気が漂っていました。
 現場の「御巣鷹の尾根」上空に到着し、降下を開始したのが8時48分。まず1~3番機の隊員が現場に降り、4~6番機は麓の相馬原(そうまがはら)でいったん待機することになりました。空挺部隊には指揮官が“先頭降下”するという伝統があって、3番機では私がリーダーですから、最初にロープを伝って山の斜面に降り立ちました。私の次に降りたのは作間2曹です。
 空挺隊員にとってリぺリング降下は日常茶飯事ですが、急峻な斜面に着地した瞬間、強烈な違和感を覚えました。ブーツの裏にグニャッとした柔らかい感触があったんです。「なんだろう?」と思って足下を見ると、そこにあったのは人の“耳”でした。ご遺体を踏んでしまったことに気づき、すぐに“申し訳ございません”と心の中で謝りました。
 降下後、普通科群長が命令を下達しました。我々の任務は、「生存者の救出」と「地形の偵察」です。2番機の小隊と共に生存者を捜索しながら尾根を登っていきました。私と2番機の小隊長を中心に、左右各人5~10メートルほどの間隔で横一列に広がって斜面を登るのです。
■「生存者発見!」
 息を飲む光景でした。航空機燃料が燃える独特の臭いがして、岩肌には人の内臓がベタッと張り付いている。見上げると、髪の毛が付いた頭皮が木からぶら下がっていました。傾斜がきつく、木の幹に掴まりながら登るのですが、触った瞬間に滑る感じがする。見ると木全体が血と肉片で真っ赤に染まっていました。私の後ろを歩いていて、やはりその“赤い木”を触ってしまった隊員が「ギャーッ」と大声で叫びました。
 その時に私が感じたのは、「職業選択を間違えた」ということです。地獄絵図のような現場を目の当たりにして、私は「戦場の光景というのは、多分こういうものだろうな」と考えました。とても耐えられない、おれはこの仕事に向いていない、そう思いました。部下の前では表情にこそ出さないものの、それが本音でした。御巣鷹は私にとって初めての災害派遣だったのです。翌朝には慣れて、そういう気持ちは払拭されたのですが。
 同時に、隊員の誰もが「こんな悲惨な状況で、生存者なんているわけがない」と感じていました。斜面を上がれば上がるほど、まともな形を残したご遺体も少なくなっていきます。あるのは手や足だけの部分遺体や、肉片、皮膚ばかり。あまりに凄惨な場所でした。こんな事故で、到底人間が生きていられるはずがない、と。
 生存者を見つけられないまま尾根を登り、今度は別の方角に向かって下りながら捜索を続けようとした時です。無線から驚くべき情報が流れてきました。「生存者発見!」。耳を疑いました。「えっ?」と他の隊員と顔を見合わせました。
 無線を送ってきたのは、4~6番機から降りたグループでした。当初、相馬原で待機を命じられた3機は、我々のおよそ1時間後、9時45分に現場へ来て降下を開始しました。我々が降下地点から尾根を登って行ったのに対し、彼らは群長の命令で逆方向に下りながら捜索をしていたのです。そして、「スゲノ沢」と呼ばれるあたりで、麓から徒歩で登ってきた地元の消防団や松本駐屯地の第13連隊と合流し、そこで4名の生存者を発見したのです。
 尾根の上にいた我々には、「降下地点に戻れ」と指示がありました。急峻な山の中で、その辺りがかろうじて平坦になっていたからでしょう。その付近から生存者をヘリに吊り上げることになりました。降下地点に戻り暫くすると、下から生存者が運び上げられてきました。たしか事故機のトイレのドア等を担架がわりにして運んできたと思います。
 生存者4名は、あの悲惨な現場で一晩発見されずにいたので、当然かなり衰弱していました。そのうちの一人の少女、後で川上慶子さんと知ったのですが、彼女に「頑張れ!」と声を掛けると「うんうん」と頷くようなリアクションがありました。それを見て「大丈夫だ、助かる」と思いました。
 でもそこからが長かった。救出用のヘリがなかなか来ないのです。こちらからは何度も要請しているのに一向に来ない。報道陣のヘリも含め、多くの航空機が上空に飛来していたため、二次災害の危険もありました。
 結局、生存者が吊り上げ地点に搬送されてから、ヘリへの収容が完了するまで1時間近くかかりました。ヘリを待つ間、誰もがイライラしていて、そのうち、現場に到着された赤十字の女性の看護師さんから、ものすごい剣幕で怒鳴られたんです。私の顔をキッとにらんで、「もしこの人たちが亡くなったら、あんたたちのせいだからね!」と。それはよく覚えています。「おれだってどうしようもないんだ」という気持ちでしたね。
 ヘリを待ちながら、現場ではホイスト(ヘリからのワイヤによる吊り上げ)準備をしていました。赤十字の医師から、「隊員が直接抱えて上げたほうがいい」と言われて、自衛隊の茶色い毛布で生存者の体を包みました。最初に吊り上げたのは、吉崎美紀子さん(当時8歳)です。毛布に包んだまま、空挺隊員が抱えてヘリに収容しました。
 次が当時14歳だった川上慶子さん。彼女を収容したのが、私の相棒だった作間2曹でした。1人目と同じように、毛布で包んで準備をしていると“事件”が起きました。救出される生存者の姿を撮影したかったのでしょうが、なんと、いつの間にか周りにいた報道陣から手が伸びてきて、毛布を剥ぎ取ったんです。「何をするんだ!」と怒りましたが、もうヘリは真上にいてワイヤが下りてきている。仕方なく、作間2曹は毛布無しで川上さんを抱えて吊り上げられました。
 3人目の吉崎博子さん(美紀子さんの母、当時34歳)と4人目の落合由美さん(当時26歳)は、担架に乗せた状態で吊り上げました。というのも、抱えて吊り上げるには脱力した大人は相当重たく、途中で落下する恐れもあり、危険だと判断したのです。
 ここで我々はミスを犯してしまいました。3人目の吉崎さんのお母さんを乗せた担架が、ヘリから吹き下ろされる風を受けて、吊り上げた途端にグルグルと回転してしまったのです。すごいスピードで回転して、いまにも担架から体がずり落ちてしまうのではないかと気が気ではありませんでした。私は真下で両手を広げて、「万が一落ちてしまったら、絶対に受け止めなくては」と覚悟していました。
 結果的には無事に収容できたのですが、これは我々の本当に初歩的なミスです。本来、担架の把手にロープを付けて、担架が回転しないように地上の隊員がロープを保持すべきなのです。基本的な作業ですが、やはり異様な現場に平静でいられなかったのでしょうか、あの非常時に誰もそれに気づかないまま吊り上げてしまった。今でも思い出すたびに血の気が引きます。最後に落合さんを収容する際は、きちんと補助ロープを付けました。
 生存者の救出を終えたのが、13日の13時29分。そこから次の任務が命じられました。ヘリポートの構築です。獣道すらない急峻な山に、人員や救助物資を迅速に送り込むにはヘリを使うしかない。我々は上空からロープで降下できますが、以後の作業にはヘリを着陸させることが必須でした。
 普通科群長は私に、大型ヘリ(V-107)用を一つと中型ヘリ(HU-1H)用を一つ、あわせて二つのヘリポートを構築するよう命じました。我々は訓練・演習で簡易ヘリポートを作りますが、その際、なるべく広くて平坦な場所を探します。そこで私は、日航機の主翼が落ちていた辺りに目をつけました。その辺りは比較的広くて平らだったからです。ただ、航空機事故ですから、事故原因の究明のために現場検証も必要です。勝手に現場の状態を変えるわけにいかないので、現場を管轄する群馬県警の責任者を探しました。
 周りにはたくさんの警察官がいましたが、長野県警だったり警視庁だったりで、なかなか群馬県警の責任者が見つからない。ようやく見つけて交渉したところ「ダメだ」の一点張り。仕方なく、現場検証を要しない下方の地点に決定し、周辺の木を切り倒して斜面を掘削し、削った岩石や土を下側に盛るやり方で、中型ヘリ用ヘリポートのみを作ることにしました。
 我々がヘリポートを作っている間にも、続々とご遺体が運ばれてきます。やがて夜になり、13日の深夜にはヘリポートの大枠ができました。暗い中では細かい仕上げができないので、その日はその場で仮眠することにします。そして翌14日の朝3時頃から作業を再開し、7時頃にヘリポートが完成しました。
■“モミジ”
 ただ、この仮眠がつらかった。翌朝からヘリで搬送するべく、ヘリポート付近にはご遺体が集められていました。その隣で横になって眠るのですが、真夏の暑さで傷んだご遺体は、死臭を発しているんです。何度も目を覚ましました。
 14日は、完成したヘリポートを使って朝から何度もヘリが往来し、15時くらいまでに計121のご遺体を搬送しました。この数字に関しては苦い思い出があります。この日、上級部隊から連絡幹部が現場にやってきたのですが、ヘリポートの運用を指揮していた私を見るなり、「今日は何体運んだ?」と聞くのです。私は返答に窮しました。
 ご遺体といっても、五体満足なものは少なくて、手だけ、足だけといった部分遺体も多い。それを現場では努めて早く収容すべく、個別に包装した部分遺体の何体かを一緒に毛布に包んで“1包み”として搬送していました。そういう状態で“121包み”搬送したのであって、「何体か」と聞かれてもわからないのです。
 ところが連絡幹部は、即答できない私を見て、「それでも責任者か!」と叱責したのです。ロクに寝ていなかったせいもあるでしょうが、さすがに頭に来て、部下の一人に「おい、そこの毛布を開けろ!」と命じました。そして「あなたには、このご遺体が“何体”かわかるんですか!?」と聞き返すと、相手も黙ってヘリに乗って帰っていきました。
 今思い出しても、いちばんつらかったのは「モミジ」です。ご遺体の搬送準備中、ビニール袋に入った何かが運ばれて来ました。赤くて小さくて、最初はモミジの葉のように見えました。でもそれは、血に染まった小さな子どもの掌だったのです。徐々にご遺体を見ることにも慣れていたのですが、あれは衝撃的でした。本当にかわいそうで、堪らない気持ちになりました。
 14日の15時過ぎから天候が悪化し、ご遺体の搬送作業はそこで中断しました。雨がしとしと降る中、その夜も前日と同じようにご遺体の隣で仮眠し、翌15日の朝、我々空挺部隊は任務を終えてヘリで習志野に帰投しました。ですから、私が御巣鷹山にいたのは13日の朝から15日の朝まで、48時間くらいです。睡眠も食事も不十分なまま過酷な状況にいたので、今思えばかなりストレスが溜まっていたのでしょう。
 警察と喧嘩もしました。自衛隊のヘリが運んでくるのは、ツルハシやスコップなどの工事用器材、ご遺体収容のための毛布だとか、任務に直結するものばかりです。ところが警察のヘリは、弁当やタバコ、寝袋やらをたくさん運んでくる。
 ある時、広げたまま���寝袋が、ヘリの風圧で巻き上げられそうになり、近くにいた私の部下が慌てて飛び乗って押さえた。すると警察官が彼に向かって「おい自衛隊さん、寝袋に穴開けないでくれよな」と言い放ったのです。部下は休憩中だったのでタバコをくわえていました。警察官には、彼がふざけて寝袋に寝っ転がったように見えたのでしょう。私はその警察官に「馬鹿野郎! 寝袋が巻き上げられてローターに接触したら、ヘリが墜落するだろうが!」と怒鳴りつけました。
 マスコミにも腹が立ちました。川上さんの毛布を剥ぎ取ったこともそうですが、遺体の写真ばかり撮る輩もいて、思わず「いい加減にしろ!」と叱ったこともあります。とはいえ、14日の昼頃、ある新聞記者が持ってきた朝刊を見た時は、やっぱり嬉しかった。そこには、川上さんを抱えてヘリに向かう作間2曹の写真が1面に載っていたのです。
 今でこそ災害時の自衛隊の活動はメディアでも取り上げられますが、当時の自衛隊はある意味、日陰者でした。マスコミが現場にいるのは認識していましたが、我々の活動が大々的に被写体になるなんて私自身は想像もしておらず、とにかく驚きました。それと同時に、おれたちは正しいことをしているんだ、という実感が湧いてきたんです。
 ただ5年前、事故から30年ということであるテレビ局の取材を受けた際、ディレクターから開口一番、「なぜ自衛隊の到着が遅れたんですか」と聞かれたのは心外でした。そもそも当時の災害派遣は、要請を受けて初めて出動できる仕組みでした。勝手に現場に向かうことはできません。
 また、「夜のうちに現場へ行けなかったのか」などという人もいます。我々空挺部隊・普通科部隊は深夜の現場であっても救助活動することは可能ですが、輸送に任じた当時の自衛隊のヘリには暗視装置が装備されておらず、暗夜における未知の山地・森林の飛行は危険極まりないものでした。一方で12師団隷下部隊は、夜を徹してまさに暗中模索で現場に向かって山を踏破していたのです。自衛隊はできる限りのことをやったと私は今も確信しています。
■ストレス障害
 御巣鷹での経験は、私のその後の自衛隊人生にも影響を与えました。一番大きいのは、「ストレス障害」について身をもって学んだことです。実は習志野に戻った後、私は不眠症に悩まされました。
 昼間仕事をしている時はなんともないのですが、夜アパートに帰ると、暗い場所があるのが苦痛に感じられるのです。寝室はもちろん、トイレや風呂の電気もつけっぱなしにしておかないと落ち着かない。そして就寝中にふと窓に目をやると、ベランダにたくさんの人が並んで私を見ているのです。ほぼ全身の人もいれば、上半身のみの人、炭化した人など、全員、御巣鷹の現場で我々が後送に関わったご遺体のお姿そのものでした。
 もちろん幻覚だと自分自身納得しています。彼らが現れることに恐怖心を覚える反面、それほど不快には感じなかった。ただただ、「なんで現れるんだ」という気持ちでした。結局、ウイスキーをガブ飲みしないと眠れない状態が1カ月ほど続きました。
 この間は肉類も全く食べられませんでした。でも、当時の私はそれを仲間の誰にも言えなかった。あの頃の自衛隊には、まだストレス障害という概念もなかった。空挺団は、男の中の男が集まった猛者ぞろいの精鋭部隊です。年上の部下を統率する若手幹部として、弱みは見せたくなかった。上司に相談しても「頭がおかしくなったのか? 病院に行ってこい」と言われるだけだと思うと、誰にも相談できなかった。
 ただ、御巣鷹に出動した者の中で、外泊を申請して出掛けたはずの営内居住隊員が、“不気味に感じる”と言って駐屯地に帰ってきて皆と一緒に寝ているという話を聞いた時は、妙に安心しました。私はその隊員に向かって「情けない奴だ」と笑ってやったのですが、内心、「おれだけじゃない、みんな同じなんだ」とホッとしたことを覚えています。
 それからずっと後の、私が1等陸佐として連隊長を拝命した2003年、自衛隊がイラクに派遣されました。私も派遣に備えて、部隊指揮官としてストレス障害に関する教育を受け(結局私自身はイラクには行かなかったのですが)、更にその後の勤務でも、指揮官・幕僚にとって必須の知識として学びました。
 そこで、当時26歳の私が御巣鷹山から帰って体験したことが、まさに「急性ストレス障害(ASD)」の典型例だったと気付いた。それ以来、ようやく自分の経験を他人に話せるようになりました。ちなみに、ASDの状態が1カ月を超えて続く場合は「心的外傷後ストレス障害(PTSD)」とされます。
 戦場や大規模災害の被災地などの過酷な状況下では、どんなに強い人間でもストレス障害になり得る。それを私は、知らないうちに自ら経験していたのです。たった48時間の任務で、私の心は壊れかけてしまった。そしてそれをひたすら隠し、一人で悶々と悩んでいた。
 現在の自衛隊では、海外派遣や災害派遣のたびにメンタルヘルスに関するケアを体系的に行っています。任務終了後の隊員を一人でストレス障害に立ち向かわせるような状態に放置することはありませんし、仮にあったとすればその指揮官は失格です。そういった意味で、この貴重な体験は私自身にとって、指揮官として大勢の部下を率いて任務を完遂する上で大きな糧となりました。
 あの悲しい事故から35年を迎える今、改めて犠牲者のご冥福と、生存者やご遺族の方々の人生に幸多からんことを、心からお祈り申し上げます。
岡部俊哉(おかべとしや) 元陸上幕僚長 昭和34年、福岡県生まれ。元陸上自衛官(防大25期)。第6師団長、北部方面総監などを経て、2016年、第35代陸上幕僚長に就任。2017年8月に退官。
「週刊新潮」2020年8月13・20日号 掲載
5 notes · View notes
cuttercourier · 4 years
Text
[翻訳] コロナ禍と印中対立のなかのインド華人
中国系インド人の愛と憧憬
2020年7月25日 アスミター・バクシー
ガルワーン渓谷事件後の印中関係緊迫化、コロナウイルス・パンデミックによる反中感情の高まりとともに、インド系中国人コミュニティは集中砲火を受けている
3月17日、41歳のミュージシャン、フランシス・イー・レプチャは、急遽切り上げたプリー〔※オリッサ州の都市〕旅行からコルカタに戻る列車の中にいた。新型コロナウイルスは全国でその存在感を示しつつあり、ナレーンドラ・モーディー首相が厳重な全国ロックダウンを発表する日も近かった。レプチャが家族と一緒にまだプリーにいた間も、彼がチェックインしようとするとホテルの宿泊客は反対の声を上げ、路上では「コロナウイルス」と呼ばれ揶揄された。
フランシスは中国系インド人で、母方と父方の祖父は1930年代に他の多くの人と同様に日本の侵略から逃れてインドに来た。彼らはダージリンで大工として働き、地元のレプチャ族の女性と結婚した。のちに彼の両親はコルカタに移り住み、そこで彼は生まれ育った。
このミュージシャンは1980年代に幼少期を過ごし、ドゥールダルシャン〔※インド国営TV局〕で『ミッキー・マウス』や『チトラハール』を見たり、マドンナに憧れたり、クリフ・リチャードの「ダンシング・シューズ」に合わせて頭を振ったりと、これらを6歳で楽しんでいたわけだが、童歌「ジャック・アンド・ジル」に関係があるという理由が大半だった。彼は流暢なベンガル語と「荒削りなヒンディー語」を話し、そして、彼によれば「ほとんどお向かいのチャタルジー一家に育てられた」という。
列車がガタンゴトンと進むなか、冷房寝台車の他の乗客たちは、彼には自分たちが何を言っているのかわからないと思い込んで、「中国人」について疑いの声を上げはじめた。フランシスはすぐさま口を挟んだ。「私は流暢なベンガル語で、自分がコルカタ出身で、中国に行ったことはなく、彼らに感染させることはないと説明した」のだという。「彼らの顔を見せてあげたかった」。
コルカタに戻ると、フランシスはプリントTシャツを注文した。彼はコルカタ・メトロのセントラル駅の真上に住んでいるのだが、それが明るい否定のメッセージとなり、かつ人種差別に対して有効なツールとなるだろうと考えた。フランシスのさっぱりとした白いTシャツの上の端正なベンガル語のレタリングには「私はコロナウイルスじゃない。コルカタ生まれで中国には行ったこともない」とある。
6月15日、国土の反対側では、俳優兼歌手のメイヤン・チャンが、過去13年にわたって本拠地と思ってきた都市ムンバイで、夕食をともにするために友人宅を訪れていた。彼らはテレビのニュースを見ていたが、その放送は特に憂慮すべきものだった。2つの核保有国が数十年間争ってきた境界である実効支配線に沿ったラダックのガルワーン渓谷でインド兵20人が中国軍に殺害されたのだ。
「衝突の後、ダウン・トゥ・アース誌のインタビューに答えた時、私の最初の反応は怒りでした。『どうして私が自分の愛国心を証明しないといけないのか。どうして私がインドを愛し、中国を憎んでいると言わなければならないのか』。私はその国のことを知りもしません。中国というレンズを通して自分が引き継いでいるものは理解していますが、それだけです。私にはインド以外の故郷はありません」と彼は言う。しかし、彼の経験上、怒りは何の役にも立たない。「その代わりに、私は異文化交流の美しさについて話しました。それはインド全土に存在するものです。私たちの外見だけを理由に自分たちの仲間ではないと考える人々には驚かされます」。
チャンもまた中国系である。彼はジャールカンド州ダンバードに生まれ、ウッタラーカンド州で学校教育を受けた。彼の父親は歯科医で、チャンもベンガルールで歯学の学位を取得している。彼は自分の家系を詳細に遡ることはできていないが、先祖が湖北省の出身であることはわかっており、そこは1月以来、ニュースを席捲している。新型コロナウイルスが最初に報告された武漢とは、同省の首都である。
37歳の彼は、主流エンタテインメント産業で名声を得たおそらく唯一の中国系インド人コミュニティ出身者である。2007年にTV番組『インディアン・アイドル』の第3シーズンで5位になり、2011年にはダンス・リアリティ番組『ジャラク・ディクラー・ジャー』で優勝し、さまざまなTV番組やクリケットのインディアン・プレミアリーグなどのスポーツイベントの司会を務め、『バドマーシュ・カンパニー』『探偵ビョームケーシュ・バクシー!』『スルターン』『バーラト』という4本の大作ヒンディー語映画に出演してきた。
しかし、この数ヶ月の間、彼もまたCOVID-19についての世間の興奮と、そして目下の印中対決についてのそれを感じている。パンデミックのせいで人々が人種差別的発言を黙認しているため、彼はオンラインや路上で野次られてきた。実効支配線での印中対峙後は、これに無言の圧力、あるいは彼が言うところの飽くなき 「愛国欲」が続いた。「医療、経済、そしてある程度の人道的危機の最中に国境での小競り合いや恐ろしい話が出てきて、どう考えていいのかわからなかった」と彼は言う。
中国系インド人3世として、チャンとフランシスは共通点が多いように見える。二人ともインドで生まれ、家系は中国に遡り、家業を継ぐという中国的伝統から逸脱し、ディーワーリー、イード、クリスマス、旧正月をまぜこぜに祝って育ち、フランシスが的確にもこの国の「微小マイノリティ」と呼ぶものに属している。
この二人はまた、パンデミックが世界中で反中国の波を引き起こし、米国のドナルド・トランプ大統領が新型コロナウイルスを繰り返し「中国ウイルス」と表現している時にあって、中国系インド人が味わっている苦難を象徴している。インドでは中国との国境問題が状況をさらに悪化させている。怒りの高まりにより、政府は59の中国製アプリを禁止し、大臣たちは中華食品やレストラン(大半はインド人によって経営されている)のボイコットを求め、中国の習近平国家主席の肖像が燃やされ、COVID-19と紛争は危険なまでに一体視された。
この敵意の副作用はチャンやフランシスのような市民や北東部インド人が被ることになり、路上で暴言を吐かれたり、家から追い出されたりした。デリー在住の中国系ジャーナリスト、リウ・チュエン・チェン(27歳)は、地元のスーパーで人種差別的な悪罵を浴びせられた。「私の母はいつもならウイルスから身を守るためにマスクをするように電話で言ってきたはずですが、国境紛争の後は顔を隠すためにマスクをするよう言われました」と彼女は言う。
印中関係が緊迫するなか、世代を越えて広がりつづけているトラウマである1962年の中印戦争の記憶が前面に出てきた。では、こんな時代にあって中国系インド人であることは何を意味するのだろうか。
中国人の到来
インドにおける中国系インド人コミュニティの起源は、1778年に海路でインドに上陸した商人、トン・アチュー〔塘園伯公〕、またの名を楊大釗に遡る。伝承によれば、アチューは当時のイギリス総督ウォーレン・ヘイスティングスより、日の出から日没まで馬に乗るよう、そしてその間に彼が通過した土地は彼のものになると言われたと、あるいは(より公式なヴァージョンでは)彼のホストとなったイギリス人に茶を一箱プレゼントしたおかげで土地を与えられたとされている。
フーグリー川沿いにあったアチューの土地は、現在はアチプルとして知られている。彼を讃えて記念碑が建てられ、中国系インド人の巡礼地となっている。アチューの後を追って何千人もの中国系移民が続いた。彼らの上陸港はコルカタであり、長年にわたっていろいろな職業の多様な集団が植民地インドの当時の首都にやってきた。
「1901年の国勢調査はカルカッタに1640 人の中国人がいたと記録している。中国人移民の数は20世紀最初の40年間、特に内戦と日本の中国侵略のために増加しつづけた」と、デバルチャナ・ビスワスは2017年8月に『国際科学研究機構人文社会科学雑誌』に掲載された論文「コルカタの中国人コミュニティ:社会地理学によるケーススタディ」1の中で書いている。
ダナ・ロイの祖父母も、日本による侵略の時期にインドにやってきた。コルカタの学校で演劇を教えている36歳の彼女は、『亡命』と題した作劇のプロジェクトに取り組んでいるときに、母方の中国人家系を辿った。「中国の家庭は一夫多妻制だったので、私の祖父は三度結婚しました。そのうち一人は中国で亡くなり、二人目は第二次世界大戦中に日本の侵略から4人の子供を連れて逃れました」と彼女は説明する。彼らの家は、広東省の小さな村唯一の二階建ての建物で、日本軍はそれを司令部としたのだという。
ロイの祖父は、その頃には既にインドで輸出入業を営んでおり、インドにはヒンディー語と広東語の両方を話す中国系の妻がいた。彼の職業柄、家族を船で渡らせるのは容易だった。「叔父の一人には眩暈症があり、大きな音を怖がっていたのですが、(道々)聞いたところでは、村から逃げる際に日本の戦闘機に追われたからだとのことでした」と彼女は言う。
長い間、彼らは均質的集団として見られてきたが、インドに来た中国人は実際には相異なるコミュニティの出身だった。その中でも最大のものは客家人で、まず皮なめしに、最終的には靴作りに従事した。彼らはコルカタのタングラ地区に住み着いた(市内に2つあるチャイナタウンのうちの1つであり、もう1つはティレッタ・バザール)。このコミュニティは他のいくつかのグループのように一つの技術に特化してはいなかったが、ヒンドゥー教のカースト制度が皮革を扱う仕事をダリトのコミュニティに委ねていて、客家人にはそのような階層的制約がなかったため、彼らはコルカタで皮なめし工場の経営に成功することができた。
チャンが属する湖北人コミュニティは歯医者と紙花の製造に従事していた。「ラージ・カプールやスニール・ダット主演の古いヒンディー語映画に出てくる花は全部私たちが作りました。俳優がピアノを弾き、メフフィル〔舞台〕の上に花々が吊り下がっていたなら、それは全部我が家の女たちが作った物です」とコルカタ湖北同郷会会長、65歳のマオ・チー・ウェイは言う。
広東人は大半が大工で、造船所や鉄道に雇われたり、茶を入れる木製コンテナづくりに雇われたりしていた。1838年、イギリス当局はアッサムの茶園で働かせるため、多くが広東人の職工や茶栽培農夫からなる中国人熟練・非熟練労働者を導入している。
1949年に毛沢東率いる共産党が政権を握ると、中国への帰国は問題外であることが明らかになった。そのため、女性たちはインド在住の家族と合流しはじめ、すぐに東部諸州の中国人居住区にはヘアサロンやレストラン、ドライクリーニング店などが点在するようになった。
寺院が建てられ、コルカタのタングラとティレッタ・バザール、アッサム州のティンスキアには中国人学校ができた。賭博場や中国語新聞、同郷会館などもでき、春節や中秋節を祝うほか、中国の儀礼に従って結婚式や葬儀を行うようになった。
「彼らがコルカタに定住し始めた18世紀後半から、1960年代初めまで、中国人移民は、とりわけ同じ方言グループでの内婚や、文化実践、独特の教育システム、住居の排他的なあり方を通じて『中国人アイデンティティ』を維持することに成功��た」と、張幸は彼の論文「中国系インド人とは誰か?:コルカタ、四会、トロント在住中国系インド人の文化的アイデンティティ調査」の中で述べている2。
このコミュニティと祝い事の時代は、1962年の印中紛争で突然終わった。戦前には5万人と推定されていた中国系インド人の人口は約5,000人にまで減少した。彼らの多くはその後、海外に移住した。
融合する文化
「アイデンティティとは、単に『私は中国人か、それともベンガル人か』というよりも複雑なものです」とロイは言う。「アイデンティティを主張したり断言したりする必要性を本当に感じるのは、それが奪われつつあると感じたときだけです。アイデンティティについて聞かれたとき、特にこのような時世には、『他のインドのパスポート保持者はこんなことを聞かれるだろうか』と疑問に思うのです」。
ロイは中国系移民と地元民との不可避的な混ざり合いの象徴である。彼の母親は中国系で、ベンガル人と結婚しており、一家はタングラやティレッタ・バザールから離れたコルカタ南部に住んでいる。ロイがこれらの地区を訪れるのは、たいてい中国式ソーセージを買うためか、たまに友人と中華の朝食を食べたりするためだ。
今日の中国系インド人は、中国的伝統が失われていく一方、国籍と文化遺産の間の摩擦が増えていくという二重の現実に直面している。例えば、かつてコルカタのチャイナタウンで行われていた旧正月の祝賀会は、ほとんどがプライベートなものになっている。チャンはただ友人を家に招待することが多い。ロイは親戚とご馳走で盛大に祝ったり、「みんなが忙しければ」ただオレンジを食べて祝ったりしている。
若い世代が広東語や北京語ではなくヒンディー語や英語を学びながら成長し、儒教のような中国の伝統的な宗教的習慣から遠ざかるにつれ、彼らのアイデンティティの中国的側面はますます衰えつつある。以前はそのアイデンティティの別称として機能していたタングラも、今や混合文化に道を譲った。また、環境問題により1996年には皮なめし工場が閉鎖された。
それでもフランシスのように、自分たちの文化を守るためにできることをしている人もいる。彼は友人と毎年の旧正月にはコルカタで龍の踊りを披露する。「私たちは衣装と太鼓を身につけ、旧チャイナタウン、新チャイナタウンその他、コミュニティが散在しているコルカタの各地で4日間にわたって上演するのです」とのことだ。彼らは彼が子供の頃に喜んで受け取っていた赤い封筒入りのお金を配る。
しかし、帰属と受容という、より大きな問題は残ったままである。チャンによれば、自身がエンタテインメント産業に加わっていることと「ヒンディー語とウルドゥー語に堪能」であること(彼はボリウッド作品を観て育ち、父親はマフディー・ハサンのガザル歌謡が大好きだった)は、人々が常に彼を「インド人」として受け入れてきたことを意味する。彼のファンは年齢層やエスニック・グループを跨いで存在する――『インディアン・アイドル』に参加していたときには中国人コミュニティが彼を支持し、より若いファンは彼が「K-POPスターやアニメ・キャラクターを彷彿とさせる」ゆえに彼を愛している。しかし、ソーシャルメディアで意見を表明することは、特に最近では危険であり、時に大騒ぎになる。
「CAA(修正市民権法)のような問題については、間接的に言及して自分の意見を伝えるようにしています。これは大事なことだからです」、彼は言う。ガルワーン渓谷での衝突の後、陸軍大尉を名乗る匿名アカウントが、彼のYouTube動画の一つにコメントして、国家に忠誠を誓い、インド人兵士への支持を公に表明するよう彼に求めた。「私はそれを大したことではないと思い、〔陸軍大尉という〕彼の名乗りに引っかけて『敵との戦いに集中してください、あなたの仲間の国民とではなく』と言いました」。
ジャーナリストのリウ・チュエン・チェンは、アイデンティティとインド政治の両方についての自身の率直な物言いは、コミュニティ内では異例であり、しばしばオンラインやオフラインで嫌がらせの標的になることにつながっていると述べる。「一度、エアインディアの飛行機に乗るとき、係員たちが私に有権者証ではなくパスポートを見せろと言い張ったことがありました。彼らは私がインド出身でないと信じていたからです」、彼女は言う。「私はパスポートを取ってすらいなかったのに」。
年長世代の政治との関わり方はやや異なっている。彼らは今でも中国政治を追いかけてはいるが、距離を置いている。「調査中、国民党シンパと共産党シンパの間にあるコミュニティ内の分断を感じました」とジャーナリストのディリープ・ディースーザは言う。彼は1962年の印中戦争の歴史を、当時強制収容されていたジョイ・マーの口頭の語りとともに記録した『ザ・デオリワーラーズ』3の共著者である。
「しかし、それだけです。彼らは台湾とPRC(中華人民共和国)の対立を私と同じように見ています。そこに親戚はいるかもしれませんが、台湾市民になりたいとか、PRCに忠誠を誓いたいというようなものではありません」。
このような関わりの多くは目に見えない。このコミュニティに共通する話として、彼らは頭を低くして注目されずにいることを好む。これは1962年に中国系コミュニティと関係者が強制収容された結果という部分が大きい。
消えない恐怖
1962年の戦争後、中国軍が国境東部のNEFA〔北東辺境管区〕、国境西部のアクサイチンに進出したとき、インド世論は怒りと疑念に満ちていた。インド人は当時のジャワーハルラール・ネルー首相の保証に憤慨し、中国に裏切られたと感じていた。今回もまた、この敵意の矛先はインドの中国系コミュニティに向けられていた。
作家クワイユン・リー氏が学位論文『デーウリー収容所:1962~1966年の中国系インド人オーラル・ヒストリー』4で書いているように、「国民的な熱狂に駆り立てられ、主流派インド人は中国人住民を追放し、時に暴力を振るい、また、彼らの家や事業を攻撃したり破壊したりした」。
リーは付け加える。インド当局は「毛沢東支持に傾いた中国語学校や新聞、中国系団体を閉鎖した。蒋介石(台湾)を支持する学校、クラブ、新聞は活動を許された。これらの学校やクラブは、マハートマー・ガーンディーの肖像とインド国旗を孫逸仙〔の肖像〕と十二芒星の〔ママ〕国民党旗の横に加えた」。
これらの状況は、当局に「敵国出身者」を逮捕する権限を与えるインド国防法が1962年に成立し、1946年外国人法と外国人(制限区域)令の改正が行われたことと相まって、ラージャスターン州のデーウリー収容所で中国系インド人を抑留するための「法的なイチジクの葉〔方便〕」になった、とディースーザは言う。
3000人近くの中国国民または中国系の親族をもつインド国民がスパイ容疑で逮捕され、最長で5年間拘束された。
「ガルワーン渓谷の小競り合いが起こったとき、私はそれについて思いもしませんでした。祖母が最初にそれを口にしました。『もし雲行きが悪くなったら、私たちは逮捕されるかもしれない』」、チャンは言う。「たとえ私達も同じことを考えていようがいまいが、そんなことは起こらないと彼女を説得するのが私のおじと私の役目でした」。
フランシスは1962年に当時10代前半だった母親がダージリンの祖母を訪ねており、二人とも収容されたという思い出話を語る。イン・マーシュも同様であり、1962年11月に13歳でダージリンのチャウラスタ地区から父、祖母、8歳の弟と一緒に収容所に連行された5。
マーシュのように、このコミュニティの多数の人がインドを離れカナダ、米国、オーストラリアに向かった。しかし、歴代の政府がこの歴史の一章を認めたり、謝罪したりしていないことを考えると、圧倒的なトラウマと裏切られたという感情は今日に至るまで残っている。
中国系インド人はなおも傷を癒やす途上にある。アッサム州の同コミュニティ出身の48歳の女性(匿名希望)は、ガルワーン渓谷事件の後、89歳の父方のおばから電話を受けた。彼女はまたも強制収容されるのではないかと心配していた。「私はそれを笑い飛ばし、心配させまいとしました。私はね、もしまたそんなことになったら、皆一緒に行ってダルバートを食べましょうって言ったんです」と彼女は言う。
大昔の法改正はまた、1950年以前にインドに来た、あるいはインドで生まれた中国人移民のほとんどは決してインド市民権を与えられないということを確実にした。例えば、彼女のおばは今や87年間インドに住んでいる。「彼女は今でも毎年外国人登録事務所に行って滞在許可証の更新をしなければいけません。ここは彼女が知っている唯一の故郷ですが、法的には決して帰属することはなく、常に部外者のままです」と彼女は言う。
以上のような要因が、生まれた国への忠誠心を公にするようインドのこのコミュニティをせっついている。例えば、ガルワーン渓谷の衝突の後、コルカタでは中国系インド人が「我々はインド軍を支持する」と書かれた横断幕を掲げてデモ行進をした。
「人々には中国共産党(CCP)が中国系インド人のことを大して気にかけていないことに気づいてほしい。彼らはおそらく我々が存在していることすら知らない。もし私が完全ボリウッド風でやりたいと思ったら、『マェーンネー・イス・デーシュ・カー・ナマク・カーヤー・ハェー〔※私はこの国の塩を食べてきた、の意〕』と言う〔=愛国心を歌い上げる〕ところまでやります」とフランシスは言う。「私の優先順位は単純です。私はインド市民であり、インド憲法に従って暮らしており、私の支持は常にこの国にあります」。
印中間の緊張がすぐには緩和されそうにないなか、アイデンティティと帰属意識の問題が頻繁に前景化されるかもしれない。チャンの不安もまた、このような思慮をめぐるものだ。「エンタテインメント産業の誰もが仕事はいつ再開できるのかと心配していたとき、敵のような見た目の顔をしているから自分には誰も仕事をやりたくないのではないかなどと、余計な不安を私が感じていたのはどうしてでしょうか」と彼は問いかける。
http://www.iosrjournals.org/iosr-jhss/papers/Vol.%2022%20Issue8/Version-15/J2208154854.pdf ↩︎
張幸(北京大学外国語学院南亜学系副教授)は女性。引用論文は2015年刊行の論集に掲載されたもの。これを補訂したと思われる2017年の雑誌論文あり。 ↩︎
http://panmacmillan.co.in/bookdetail/9789389109382/The-Deoliwallahs/3305/37 デオリワーラー(デーウリーワーラー)はデーウリー収容所帰りの意。 ↩︎
1950年カルカッタに生まれ、強制収容は免れたが1970年代にカナダに移民した著者が、トロント在住の客家人元収容者4人の聞き取りをもとに2011年にトロント大学オンタリオ教育研究所に提出した修士論文。 ↩︎
元デーウリー収容者で、収容経験を述べた『ネルーと同じ獄中で』(初版2012年、シカゴ大学出版会より2016年再刊)の著者。 ↩︎
2 notes · View notes
straightlittle · 4 years
Text
「コロナにアビガンが劇的に効いた」 患者の声にも厚労省が使わせない
4/30(木) 8:02配信
抗インフルエンザ薬「アビガン」を特効薬と断じるのは尚早だが、縋(すが)りたい罹患者も少なくあるまい。だがアビガン使用には“厚労省の壁”が存在していて――。
東京都内に住む50代の会社員男性は、その効き目に思わず唸ったという。
「40度近い熱が続いていたのに、アビガン投与の当日に効果が出たんですよ」
 劇的な“復活”を、その顛末とともに振り返るには、
「3月末に熱っぽさを感じ、体温を測ると38・6度でした。3日間自宅隔離をしましたが、熱は下がらない。かかりつけの病院では、レントゲンを撮っただけで“コロナは陰性だろう”と言われ、総合病院でも、受付で“コロナの検査はできない”とあしらわれました」
 3月31日になって、
「港区内の大学病院に電話をして症状を伝えると、診てもらえることになりました。レントゲン撮影やCT検査で肺炎症状が確認され、���型コロナ感染の疑いありということ���、ようやくPCR検査を受けたのです」
 結果は陽性。4月に入りこの大学病院に入院しても、
「38度以上の熱が続き、40度近い高熱で意識が朦朧としたこともありました。最初に投与されたのはマラリアの薬でしたが、2日間続けても、熱と下痢が治まりません。次に使ったHIV(エイズ)の薬も私には合わず、下痢の副作用が強く出てしまいました」
 そして、入院から5日後。
「3番目の薬としてアビガンを投与されました。するとすぐに熱が引き、下痢も止まったのです。投薬初日なのに、です。最初は朝晩9錠ずつ服用しました。量の多さには驚かされましたけれど、症状が治まったからか、3日目からは1回4錠に減りました」
 まさしく、アビガンさまさまである。
特例として幅広く
 投薬前にはこんなこともあった。男性が続ける。
「副作用の説明を受けて同意書にサインする際、医師からはおもに、下痢や尿酸値の上昇といった副作用を告げられました。でも最大の副作用とされる催奇形性(さいきけいせい)、つまり妊婦が服用したとき、胎児に奇形が起こる危険性の説明はなかったんです」
 これから子どもを作りたい男性にも、奇形児が生まれる危険性はあるはずなのだが……。ともあれ、
「ただ私は痛風持ちなので、尿酸値が上がり、見事に痛風が出てしまいました。こちらは別の薬で抑え、問題はありませんでしたが」
 痛風の痛みはツラいが、重症化から落命に至る可能性は薄まった。喜びに浸る男性は、ふと思いつく。なぜ最初からアビガンを使わなかったか――。
「担当医に訊ねたら、“厚労省に申請していて許可が下りるのに時間がかかった”と言うんですね。これだけ劇的に効くのなら、多くの患者さんが使えればいいと思うんですよね」
 男性のこの思いを受け、政府関係者が解説する。
「いまアビガン投与が可能なのは、『富士フイルム』が行う治験と各医療機関による観察研究です。今回の男性のようにアビガンを使う場合、適応外使用ゆえに、観察研究における倫理審査などの手続きが煩雑で、時間がかかるという側面があります。しかしそれよりも、厚労省は副作用を恐れるあまり、消極的になっている。ドイツをはじめ、海外ではどんどんアビガンを輸入して積極的に投与する流れなのですが……」
 肝心の国内でなかなか使えない現実には、“厚労省の壁”が立ちはだかっていたのだ。日本医科大特任教授の北村義浩氏は言う。
「治験は96症例を集めるまで実施され、終了予定は6月末です。一方、感染者へのアビガン投与で軽症者の9割、重症者の6割に改善傾向がみられたとの研究結果があります。感染拡大がここまでの事態となったいま、効果があるのなら、厚労省は素早く、幅広く使用できるよう特例を認めてもいいのではないでしょうか」
 とりわけ、これから子どもを作る予定のない男女や重症化しそうな高齢者には、ぜひとも使うべきだろう。
「週刊新潮」2020年4月30日号 掲載
新潮社
1 note · View note
2ttf · 12 years
Text
iFontMaker - Supported Glyphs
Latin//Alphabet// ABCDEFGHIJKLMNOPQRSTUVWXYZabcdefghijklmnopqrstuvwxyz0123456789 !"“”#$%&'‘’()*+,-./:;<=>?@[\]^_`{|}~ Latin//Accent// ¡¢£€¤¥¦§¨©ª«¬®¯°±²³´µ¶·¸¹º»¼½¾¿ÀÁÂÃÄÅÆÇÈÉÊËÌÍÎÏÐÑÒÓÔÕÖ×ØÙÚÛÜÝÞßàáâãäåæçèéêëìíîïðñòóôõö÷øùúûüýþÿ Latin//Extension 1// ĀāĂ㥹ĆćĈĉĊċČčĎďĐđĒēĔĕĖėĘęĚěĜĝĞğĠġĢģĤĥĦħĨĩĪīĬĭĮįİıIJijĴĵĶķĸĹĺĻļĽľĿŀŁłŃńŅņŇňʼnŊŋŌōŎŏŐőŒœŔŕŖŗŘřŚśŜŝŞşŠšŢţŤťŦŧŨũŪūŬŭŮůŰűŲųŴŵŶŷŸŹźŻżŽžſfffiflffifflſtst Latin//Extension 2// ƀƁƂƃƄƅƆƇƈƉƊƋƌƍƎƏƐƑƒƓƔƕƖƗƘƙƚƛƜƝƞƟƠơƢƣƤƥƦƧƨƩƪƫƬƭƮƯưƱƲƳƴƵƶƷƸƹƺƻƼƽƾƿǀǁǂǃDŽDždžLJLjljNJNjnjǍǎǏǐǑǒǓǔǕǖǗǘǙǚǛǜǝǞǟǠǡǢǣǤǥǦǧǨǩǪǫǬǭǮǯǰDZDzdzǴǵǶǷǸǹǺǻǼǽǾǿ Symbols//Web// –—‚„†‡‰‹›•…′″‾⁄℘ℑℜ™ℵ←↑→↓↔↵⇐⇑⇒⇓⇔∀∂∃∅∇∈∉∋∏∑−∗√∝∞∠∧∨∩∪∫∴∼≅≈≠≡≤≥⊂⊃⊄⊆⊇⊕⊗⊥⋅⌈⌉⌊⌋〈〉◊♠♣♥♦ Symbols//Dingbat// ✁✂✃✄✆✇✈✉✌✍✎✏✐✑✒✓✔✕✖✗✘✙✚✛✜✝✞✟✠✡✢✣✤✥✦✧✩✪✫✬✭✮✯✰✱✲✳✴✵✶✷✸✹✺✻✼✽✾✿❀❁❂❃❄❅❆❇❈❉❊❋❍❏❐❑❒❖❘❙❚❛❜❝❞❡❢❣❤❥❦❧❨❩❪❫❬❭❮❯❰❱❲❳❴❵❶❷❸❹❺❻❼❽❾❿➀➁➂➃➄➅➆➇➈➉➊➋➌➍➎➏➐➑➒➓➔➘➙➚➛➜➝➞➟➠➡➢➣➤➥➦➧➨➩➪➫➬➭➮➯➱➲➳➴➵➶➷➸➹➺➻➼➽➾ Japanese//かな// あいうえおかがきぎくぐけげこごさざしじすずせぜそぞただちぢつづてでとどなにぬねのはばぱひびぴふぶぷへべぺほぼぽまみむめもやゆよらりるれろわゐゑをんぁぃぅぇぉっゃゅょゎゔ゛゜ゝゞアイウエオカガキギクグケゲコゴサザシジスズセゼソゾタダチヂツヅテデトドナニヌネノハバパヒビピフブプヘベペホボポマミムメモヤユヨラリルレロワヰヱヲンァィゥェォッャュョヮヴヵヶヷヸヹヺヽヾ Japanese//小学一年// 一右雨円王音下火花貝学気九休玉金空月犬見五口校左三山子四糸字耳七車手十出女小上森人水正生青夕石赤千川先早草足村大男竹中虫町天田土二日入年白八百文木本名目立力林六 Japanese//小学二年// 引羽雲園遠何科夏家歌画回会海絵外角楽活間丸岩顔汽記帰弓牛魚京強教近兄形計元言原戸古午後語工公広交光考行高黄合谷国黒今才細作算止市矢姉思紙寺自時室社弱首秋週春書少場色食心新親図数西声星晴切雪船線前組走多太体台地池知茶昼長鳥朝直通弟店点電刀冬当東答頭同道読内南肉馬売買麦半番父風分聞米歩母方北毎妹万明鳴毛門夜野友用曜来里理話 Japanese//小学三年// 悪安暗医委意育員院飲運泳駅央横屋温化荷開界階寒感漢館岸起期客究急級宮球去橋業曲局銀区苦具君係軽血決研県庫湖向幸港号根祭皿仕死使始指歯詩次事持式実写者主守取酒受州拾終習集住重宿所暑助昭消商章勝乗植申身神真深進世整昔全相送想息速族他打対待代第題炭短談着注柱丁帳調追定庭笛鉄転都度投豆島湯登等動童農波配倍箱畑発反坂板皮悲美鼻筆氷表秒病品負部服福物平返勉放味命面問役薬由油有遊予羊洋葉陽様落流旅両緑礼列練路和 Japanese//小学四年// 愛案以衣位囲胃印英栄塩億加果貨課芽改械害街各覚完官管関観願希季紀喜旗器機議求泣救給挙漁共協鏡競極訓軍郡径型景芸欠結建健験固功好候航康告差菜最材昨札刷殺察参産散残士氏史司試児治辞失借種周祝順初松笑唱焼象照賞臣信成省清静席積折節説浅戦選然争倉巣束側続卒孫帯隊達単置仲貯兆腸低底停的典伝徒努灯堂働特得毒熱念敗梅博飯飛費必票標不夫付府副粉兵別辺変便包法望牧末満未脈民無約勇要養浴利陸良料量輪類令冷例歴連老労録 Japanese//小学五〜六年// 圧移因永営衛易益液演応往桜恩可仮価河過賀快解格確額刊幹慣眼基寄規技義逆久旧居許境均禁句群経潔件券険検限現減故個護効厚耕鉱構興講混査再災妻採際在財罪雑酸賛支志枝師資飼示似識質舎謝授修述術準序招承証条状常情織職制性政勢精製税責績接設舌絶銭祖素総造像増則測属率損退貸態団断築張提程適敵統銅導徳独任燃能破犯判版比肥非備俵評貧布婦富武復複仏編弁保墓報豊防貿暴務夢迷綿輸余預容略留領異遺域宇映延沿我灰拡革閣割株干巻看簡危机貴揮疑吸供胸郷勤筋系敬警劇激穴絹権憲源厳己呼誤后孝皇紅降鋼刻穀骨困砂座済裁策冊蚕至私姿視詞誌磁射捨尺若樹収宗就衆従縦縮熟純処署諸除将傷障城蒸針仁垂推寸盛聖誠宣専泉洗染善奏窓創装層操蔵臓存尊宅担探誕段暖値宙忠著庁頂潮賃痛展討党糖届難乳認納脳派拝背肺俳班晩否批秘腹奮並陛閉片補暮宝訪亡忘棒枚幕密盟模訳郵優幼欲翌乱卵覧裏律臨朗論 Japanese//中学// 亜哀挨曖扱宛嵐依威為畏尉萎偉椅彙違維慰緯壱逸芋咽姻淫陰隠韻唄鬱畝浦詠影鋭疫悦越謁閲炎怨宴援煙猿鉛縁艶汚凹押旺欧殴翁奥憶臆虞乙俺卸穏佳苛架華菓渦嫁暇禍靴寡箇稼蚊牙瓦雅餓介戒怪拐悔皆塊楷潰壊懐諧劾崖涯慨蓋該概骸垣柿核殻郭較隔獲嚇穫岳顎掛括喝渇葛滑褐轄且釜鎌刈甘汗缶肝冠陥乾勘患貫喚堪換敢棺款閑勧寛歓監緩憾還環韓艦鑑含玩頑企伎忌奇祈軌既飢鬼亀幾棋棄毀畿輝騎宜偽欺儀戯擬犠菊吉喫詰却脚虐及丘朽臼糾嗅窮巨拒拠虚距御凶叫狂享況峡挟狭恐恭脅矯響驚仰暁凝巾斤菌琴僅緊錦謹襟吟駆惧愚偶遇隅串屈掘窟繰勲薫刑茎契恵啓掲渓蛍傾携継詣慶憬稽憩鶏迎鯨隙撃桁傑肩倹兼剣拳軒圏堅嫌献遣賢謙鍵繭顕懸幻玄弦舷股虎孤弧枯雇誇鼓錮顧互呉娯悟碁勾孔巧甲江坑抗攻更拘肯侯恒洪荒郊貢控梗喉慌硬絞項溝綱酵稿衡購乞拷剛傲豪克酷獄駒込頃昆恨婚痕紺魂墾懇沙唆詐鎖挫采砕宰栽彩斎債催塞歳載剤削柵索酢搾錯咲刹拶撮擦桟���傘斬暫旨伺刺祉肢施恣脂紫嗣雌摯賜諮侍慈餌璽軸叱疾執湿嫉漆芝赦斜煮遮邪蛇酌釈爵寂朱狩殊珠腫趣寿呪需儒囚舟秀臭袖羞愁酬醜蹴襲汁充柔渋銃獣叔淑粛塾俊瞬旬巡盾准殉循潤遵庶緒如叙徐升召匠床抄肖尚昇沼宵症祥称渉紹訟掌晶焦硝粧詔奨詳彰憧衝償礁鐘丈冗浄剰畳壌嬢錠譲醸拭殖飾触嘱辱尻伸芯辛侵津唇娠振浸紳診寝慎審震薪刃尽迅甚陣尋腎須吹炊帥粋衰酔遂睡穂随髄枢崇据杉裾瀬是姓征斉牲凄逝婿誓請醒斥析脊隻惜戚跡籍拙窃摂仙占扇栓旋煎羨腺詮践箋潜遷薦繊鮮禅漸膳繕狙阻租措粗疎訴塑遡礎双壮荘捜挿桑掃曹曽爽喪痩葬僧遭槽踪燥霜騒藻憎贈即促捉俗賊遜汰妥唾堕惰駄耐怠胎泰堆袋逮替滞戴滝択沢卓拓託濯諾濁但脱奪棚誰丹旦胆淡嘆端綻鍛弾壇恥致遅痴稚緻畜逐蓄秩窒嫡抽衷酎鋳駐弔挑彫眺釣貼超跳徴嘲澄聴懲勅捗沈珍朕陳鎮椎墜塚漬坪爪鶴呈廷抵邸亭貞帝訂逓偵堤艇締諦泥摘滴溺迭哲徹撤添塡殿斗吐妬途渡塗賭奴怒到逃倒凍唐桃透悼盗陶塔搭棟痘筒稲踏謄藤闘騰洞胴瞳峠匿督篤凸突屯豚頓貪鈍曇丼那謎鍋軟尼弐匂虹尿妊忍寧捻粘悩濃把覇婆罵杯排廃輩培陪媒賠伯拍泊迫剝舶薄漠縛爆箸肌鉢髪伐抜罰閥氾帆汎伴畔般販斑搬煩頒範繁藩蛮盤妃彼披卑疲被扉碑罷避尾眉微膝肘匹泌姫漂苗描猫浜賓頻敏瓶扶怖附訃赴浮符普腐敷膚賦譜侮舞封伏幅覆払沸紛雰噴墳憤丙併柄塀幣弊蔽餅壁璧癖蔑偏遍哺捕舗募慕簿芳邦奉抱泡胞俸倣峰砲崩蜂飽褒縫乏忙坊妨房肪某冒剖紡傍帽貌膨謀頰朴睦僕墨撲没勃堀奔翻凡盆麻摩磨魔昧埋膜枕又抹慢漫魅岬蜜妙眠矛霧娘冥銘滅免麺茂妄盲耗猛網黙紋冶弥厄躍闇喩愉諭癒唯幽悠湧猶裕雄誘憂融与誉妖庸揚揺溶腰瘍踊窯擁謡抑沃翼拉裸羅雷頼絡酪辣濫藍欄吏痢履璃離慄柳竜粒隆硫侶虜慮了涼猟陵僚寮療瞭糧厘倫隣瑠涙累塁励戻鈴零霊隷齢麗暦劣烈裂恋廉錬呂炉賂露弄郎浪廊楼漏籠麓賄脇惑枠湾腕 Japanese//記号//  ・ー~、。〃〄々〆〇〈〉《》「」『』【】〒〓〔〕〖〗〘〙〜〝〞〟〠〡〢〣〤〥〦〧〨〩〰〳〴〵〶 Greek & Coptic//Standard// ʹ͵ͺͻͼͽ;΄΅Ά·ΈΉΊΌΎΏΐΑΒΓΔΕΖΗΘΙΚΛΜΝΞΟΠΡΣΤΥΦΧΨΩΪΫάέήίΰαβγδεζηθικλμνξοπρςστυφχψωϊϋόύώϐϑϒϓϔϕϖϚϜϞϠϢϣϤϥϦϧϨϩϪϫϬϭϮϯϰϱϲϳϴϵ϶ϷϸϹϺϻϼϽϾϿ Cyrillic//Standard// ЀЁЂЃЄЅІЇЈЉЊЋЌЍЎЏАБВГДЕЖЗИЙКЛМНОПРСТУФХЦЧШЩЪЫЬЭЮЯабвгдежзийклмнопрстуфхцчшщъыьэюяѐёђѓєѕіїјљњћќѝўџѢѣѤѥѦѧѨѩѪѫѬѭѰѱѲѳѴѵѶѷѸѹҌҍҐґҒғҖҗҘҙҚқҜҝҠҡҢңҤҥҪҫҬҭҮүҰұҲҳҴҵҶҷҸҹҺһҼҽҾҿӀӁӂӇӈӏӐӑӒӓӔӕӖӗӘәӚӛӜӝӞӟӠӡӢӣӤӥӦӧӨөӪӫӬӭӮӯӰӱӲӳӴӵӶӷӸӹӾӿ Thai//Standard// กขฃคฅฆงจฉชซฌญฎฏฐฑฒณดตถทธนบปผฝพฟภมยรฤลฦวศษสหฬอฮฯะัาำิีึืฺุู฿เแโใไๅๆ็่้๊๋์ํ๎๏๐๑๒๓๔๕๖๗๘๙๚๛
see also How to Edit a Glyph that is not listed on iFontMaker
6 notes · View notes