#「抗うまま生きる不幸を受け入れるならば自由を探して」
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ゼェェロォォイィィチィィィィ!!!
#ゼロが並べば安心です。でも01として踏み出しますlol 💪#「抗うまま生きる不幸を受け入れるならば自由を探して」#「割り切れないこの理由を抱きしめては歌う 今日も」#Lol sometimes it takes me a while to process queen bee songs but when I finally get it I'm always like 'oh THAT'S why I like this song!!' 💪
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教室で小さく咲いていた君のこと
君の心が砕け散る音が聞こえる
中学を卒業して十五年が過ぎた三十歳の早春、同窓会の席で、俺は小南がすでに亡くなっていることを知った。 俺は焦って思わず死因を訊いてしまったけど、「さあ……病気?」「事故じゃない?」とみんな詳しく知らないようだった。担任だった先生にも尋ねてみたけど、逆に「あいつはもう亡くなったのか」と驚かれてしまった。 俺は伊原と御橋のすがたをとっさに探したけど、幹事によると、ふたりは来ていないとのことだった。 小南が、伊原と御橋にされたこと。そんなの、誰も憶えていないみたいだった。確かに、憶えていたって気分が悪いだけなのかもしれない。 けれど、俺は忘れていない。忘れられず、こんな歳にもなってしまった。
「ありがとう、舞島くん」
一番最後に小南に会った日、彼女はそう言って咲っていた。相変わらず、咲えるはずもないのに咲っていた。手当てもされない手首の傷が、震えていた。
「私の味方になってくれて、ありがとう──」
中学三年生になって、高校受験がストレスになってくる二学期の残暑、小南希子はそのはけ口のようにイジメを受けていた。クラスの人間はみんな抵抗しない小南を蔑んで、特に女子連中はイジメのリーダーの伊原姫奈に従っていた。 俺は正直イジメを苦々しく思っていたものの、割りこんで小南をかばう勇気も持てずにいた。 俺でもできること。先生に言えばいいのかな。でも、あの担任ってそもそも気づいてないのか? 普通気づくだろ。教室で殴る蹴るされてんだぞ。 じゃあ、ほかのクラスの先生に言うか? いや、そうしても結局担任の耳に入って、無視を決めこむかもしれない。先生なんて、役に立たない。 昼休み、弁当を食っていると、小南の弁当を取り上げた伊原が中身をゴミ箱に引っくり返した。教室では失笑が起こる。 笑いたくない。「やめろよ」って言いたい。 なのに、小南がそんなことをされても弱々しく咲っているから、俺も自己嫌悪にさいなまれながら、一緒に弁当を食う奴に混ざって笑う。 笑いたくないときに笑ってしまう。両親が離婚してから、俺はずっとそうだ。平気なふりで笑ってしまう。泣きたくても笑ってしまう。父親が家を出ていく別れ際、やっぱり俺が笑っていると、「お前は、かあさんみたいに人の機嫌に取ってばかりだな」と吐き捨てていった。 十月になって、受け持つ委員の後期を決めることになった。じゃんけんに勝って、どれも特にやりたくないなあ、と悩んだけど、早く決めないと後ろが並び始めたので、適当に図書委員に名前のマグネットを貼った。 図書委員はクラスからふたり出る。もうひとり誰だろ、と見守っていると、うつむきがちに俺の名前の隣にマグネットを貼った女子生徒の名前は、『小南』だった。 後日、学活が委員会に当てられて、俺は小南と並んで図書室に向かった。「何か、小南とは初めて話すな」と俺が緊張しながら言うと、「舞島くんだよね」と小南はやっぱり小さく咲った。名前を把握されていたのかと思うと、ますます小南へのイジメに何もできないでいるのが恥ずかしくなった。 図書委員は、同じクラスのペアで、昼休みと放課後に受付につくのが主な仕事だ。そこで貸し出しや返却の手続きをする。小南はてっきり、ひとりで仕事をさせられると思っていたらしい。初日の放課後、俺が少し遅れて図書室に来て、「遅くなってごめん」と隣の椅子に座ると、小南はぱちぱちとまばたきをした。 「何?」と俺が首をかしげると、「私と一緒なんて、サボるかと思った」と小南が言うので、「何でだよ」と俺は苦笑した。「一緒に頑張ろ」と笑みを作ると、小南はめずらしく嬉しそうに咲った。 図書室は静かに、が決まりだけど、俺と小南は抑えた声でいろんな話をした。イジメのことも話題に出た。「私が嫌だって言えないから」と小南は言った。
「嫌なのに、もう、嫌だって言うのも怖くなっちゃった」
俺はそんな話をする小南に、咲わなくていいよ、とせめて言いたかった。泣きたいなら泣けばいい。俺はそれを疎んだりしないし── よく見つめてみると、小南は委員の仕事も教室での勉強も、まじめに頑張っている。伊原に宿題のページを破られたりしても、嫌な顔ひとつせず、宿題をやり直している。あんなにまじめに生きている子なのに、どうして彼女にいいことがないのか、俺には理不尽だった。 秋が深まって、冬服になった制服もなじんできた頃、放課後、小南が図書室の当番に顔を出さなかった。初めてのことではなくて、こういうとき、たいてい小南は伊原につかまっているのだ。 俺は小南が心配でそわそわしていたけど、ひとりなので当番を離れるわけにもいかない。結局十七時まで働いて、荷物が置きっぱなしの教室に向かった。 ドアを開けようをして、がたっとつくえがぶつかる音が教室から聞こえた。誰か残っているのか。もしかして小南──と、伊原たち? 明かりはついていないけど。 俺はおそるおそるドアに隙間を作って、月明かりが射す教室の光景に、目を開いた。 学ランの背中が見えた。紺のスカートをたくし上げられ、女子が白い脚を開かせられている。男子の乱暴な腰遣いで、それが無理やりの行為だと分かった。
「御橋ー、もっとレイプ感出して」
そんな声がして、教室のロッカーに伊原が座っているのに気づく。「こいつ、狭すぎんだけど」と御橋の声がして、伊原はけたけた笑うと「こんなイケメンに処女もらってもらえて幸せだねえ」とロッカーを降りてつくえに顔を伏せる女子の髪を引っ張って顔を上げさせた。 それは、間違いなく、小南で── 俺は息を飲みこんで���退った。 いや、違う。ドアを開けて。声を上げて。やめさせないと。手後れかもしれないけど。それでもせめて、助けないと。 そう思うのに、はっきりそう思っているのに、俺は身を返して階段を駆けおり、上履きのまま学校を飛び出した。 家には誰もいなくて、俺は部屋にこもると、膝を抱えて嗚咽と吐き気をこらえた。ひと晩じゅう、眠ることができなかった。 月光に映った小南は、ついに咲っていなくて、涙を流していた。男の俺には、どれだけの痛みなのか想像もつかない。でも、��れはきっと、大切なものを引き裂くような── 翌日、俺は早めに登校して、置きっぱなしのつくえの中身と持ってきた教科書を入れ替えて、宿題をやった。小南は何もなかったように教室に来た。「あいつ、まだ学校来るんだね」という聞こえよがしの陰口に、やっぱり彼女は咲っていた。 しばらく、誰にも言えなかった。でも、あの光景は脳裏から消えるどころか、まざまざと焼きついている。誰も小南があんなことまでされているとは思っていない。ばれるのを待ってみたけど、誰も気づかない。図書委員で一緒に仕事をしていても、小南は相談してこない。 でも俺は知っている。知っているなら、俺がどうにかすべきなんじゃないか? 出口が欲しい。この鬱血する思考の出口が知りたい。
「あ……あの、……小南希子のことなんですけど」
俺がそう話しかけると、初老の男の担任は、眉を寄せて振り返ってきた。その顔で迷惑がっているのは察したが、俺はあの月明かりの元で行なわれていたことを担任に話した。担任は仏頂面のまま、「本人たちに確認してどうすべきか決めよう」と言った。 確認、って。「俺、ほんとに見たんです」と継ぎ足したけど、担任はまともに聞こうとせず教室を出ていった。 俺が突っ立っていると、「今の話ほんと?」という声がかかった。クラスメイトの女子だった。聞かれてた、と焦ったものの、ふと、ここで肯定してみんなに知れ渡ったら、担任も事なかれにできないかもしれないと思った。 俺はうなずき、「伊原が御橋に命令してやらせてた」と言った。するとさすがに彼女は「ひどい」と声を上げ、「何?」「どうしたの?」と彼女の友達が駆け寄ってくる。 そして、あっという間にクラスには、伊原の指示で小南が御橋に犯されていたという話が広がった。
「違うよ。伊原関係ねえし、小南が誘ってきたんだ」
しかし、御橋がそう言って伊原をかばうと、もともと伊原の言いなりで、ルックスのいい御橋のことも悪く思わない女子連中は、俺がひがんだ物言いをしたのだと、すぐに手のひらを返した。御橋と関係したということで、小南への風当たりはさらに強くなった。 レイプされたのに、それをひがまれて、責められて、ついに小南は学校に来なくなった。そして、俺もクラスのみんなが見ている前で、伊原と御橋に謝るよう担任に命じられた。 俺が謝りたいのはこんな奴らじゃない。 俺は、小南に謝らなきゃいけないのに── 冬が近づいてきて、受験がいよいよ騒々しくなる中で、俺はぼんやりしていた。三年生の委員活動は二学期で終了だ。それがなくなれば、本当に小南とつながりがなくなる。 そう思っていたら、図書室の先生が小南が借りたまま返却していない本があるので、手続きはいいから引き取りにいってくれないかと頼んできた。俺はもちろん請け合って、知る由もなかった小南の住所を手に入れることができた。 放課後、雨か雪でも降りそうなほど寒い中、小南の家を訪ねた。マンションのインターホンに出た小南の母親は、希子は誰にも会いたくないと言っていると面会を断ったが、俺の名前を伝えてみると小南が玄関から顔を覗かせた。
「……舞島くん」 「よ、よう」
小南は俺を見つめて、咲う。壊れそうだけど、咲ってしまっている。
「あ、あの──」 「私の家、知ってたの?」 「いや、えと、図書室で借りてた本あるだろ。それ、俺が返しとくからさ。持ってこいって先生に言われた、というか」 「……ああ。あの本。そうだね、返さないとって気になってた」 「持ってこれる?」 「うん。あ、中入って。寒いでしょ」
小南は俺を玄関先に通し、家の中に入っていった。俺は鼻水をすすって、風がないだけであったかいな、とか思う。 小南の家の匂いがして、それは彼女が隣に座ったときに感じた匂いに通じていた。小南の母親がちらりと顔を出して会釈して、俺も頭を下げる。 小南はすぐ戻ってきて、「はい」と本を俺にさしだした。その拍子に左手首の内側が見えたけど、気づかないふりをした。
「この本、おもしろかった?」 「うん」 「俺も読んでみようかな」 「舞島くん、いつもラノベしか読んでなかったけど」 「たまには文学っぽいのも読むよ」 「そっか。うん、おもしろいから読んでみて」 「おう」
俺は本をかばんに入れて、玄関の段差のせいで目線が変わらない小南を見た。小南は微笑んで、「あのね」と穏やかな声で言った。
「ん?」 「ありがとう」 「えっ」 「ありがとう、舞島くん」 「……何、」 「私の味方になってくれて、ありがとう」
小南を見つめた。その瞳を見つめているうちに、俺は泣きそうになってくる。
「そん、な……俺が、黙ってれば、」 「ううん。教室に行かない切っかけになったから、もういいの」 「でも、小南は悪くないのに、みんな」 「私がつらいのに咲ってたのが、悪かったから」 「悪くないよ」 「つらいって言えばいいのに、言えなかったから。舞島くんのおかげで、やっと言えたの。だから、ありがとう」
何で。傷つけたのに。俺は小南を傷つけたのに。なのに、どうして許してくれるんだよ。ありがとうなんて、���んな言葉── 俺には、言ってもらう資格はないのに。 その帰り道、俺はひとり、耐えきれずに泣き出してしまった。冷たい風が当たると、濡れた頬が引き裂かれるように痛かった。 俺は正しくあろうとした。でも、周りがぜんぜん正常じゃなかった。伊原も。御橋も。担任もクラスメイトも学校そのものが。おかしかった。 だから、俺も間違えてよかったのかもしれない。「俺は小南が好きだから、そばにいるよ」って……そんな、ひとりよがりかもしれない言葉を伝えていたら、もしかしたら── 同窓会から数日後、俺はどうしても小南の死の原因が気になり、十五年ぶりにあのマンションを訪ねた。引っ越してるかなあとも思ったが、そこには変わらず『小南』の表札があり、子供のはしゃぐ声がしていた。小南の母親は俺の名前を憶えていて、あのときのように小さく会釈すると、小南の死の経緯を話してくれた。 小南は結婚して妊娠したが、子宮がもろくて母体か子供かどちらかだと言われ、子供を生んで亡くなったのだそうだ。居間に通された俺は、泣きそうになりながら咲って、「小南は俺の初恋なんですよ」と言った。すると、小南の母親も、「あの子も舞島さんの話をよくしてくれたから、そうだったんでしょうね」と涙ぐみながら微笑んだ。 今は旦那も一緒にここに暮らしていて、幼い娘の面倒は祖父母で見ているという。仕事だという旦那が帰ってくる前に、俺はその家をあとにした。 小南。最後は幸せだったんだよな。咲えたんだよな。 ああ、そうだといいな。 俺は弱くて何もできなかったけど、お前が心から咲った顔を見たいって、あの頃いつも、そう思ってたんだ。 薄暗い冬が終わり、空には春めいた柔らかい青さが広がり、桜もつぼみをつけはじめている。
FIN
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クィアたちのZINE交換【後編】
前回の記事に書いたが、ZINE交換会で、私は7冊のZINEをいただいた。 今回の後編では、それぞれを読んだ感想をまとめてみる。
※作者がセクシュアリティをどの程度オープンにしているか分からないため、ZINEの作者名は伏せています。 ※オンラインで公開・販売されているものについては、末尾にリンクを貼っています。
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■「ノンバイナリーがわからない」というテーマ詩またはエッセイ シンプルな紙面から、生きているだけで「男/女」と申告させる社会への失望が伝わってくる。これまで深く知る機会のなかった生きづらさに気付かされる。 「お兄さん」「お姉さん」という呼びかけも、時として相手のメンタルを削ることを学んだ。会話の端々で、知らず知らずのうちに相手を「男/女」のカテゴリーに���てはめていたかもしれない……と怖くなる。
「男/女」のあわいにいる人と同じ社会に生きているのだと、もっと意識して生活しなければと思う。 そして、無意味な性別の振り分けをなくす方向に社会を変えることも必要だ。当事者を死に追いやるレベルの苛烈なトランスヘイトが実際に起きている今、一層強く感じる。 シスジェンダーの自分には、まだまだ見えていないことがあると気付かせてもらえた一冊。
■YOGA HAMSTER STAMP ヨガのポーズを、素朴なハムスターのイラストと共に解説するZINE。 モフモフしたハムスターが、1ページごとに「チャイルドポーズ」「猫のポーズ」などを決めている。手足が短いなりに頑張っていて可愛い。
様々な研究で、クィアが精神を病む率は、そうでない人よりも高いことが分かっている。 体をほぐし、リラックスする時間を意識的に取ることも、クィアとして豊かに生きる上では大事だなと認識した。いや……いっそハムスター飼う?
■LIFE LIFE LIFE vol.3 そうだ、京都行こう 写真が趣味の6人(Gender Identityは男性寄りと思われる)が、京都で撮った作品をまとめたZINE。 作品と共に、撮影エピソードも載っている。歴史ある町並みや自然の佇まい、旅の興奮が伝わってくる。
ZINE作りに参加した6人のうち、3人は一緒に撮影旅行をしたそう。 1人では挑戦しづらい着付け体験に連れ立って行き、着物姿で街を散策しながらお互いを撮り合う。スーパーで食材を買い、airbnbの宿で一緒に料理をする。朝は古い喫茶店でモーニングを楽しみ、香り高いコーヒーを優雅に味わう。 エッセイパートで若者たちの予測不能な旅の面白さを追体験しながら、友達が家庭を持ってしまった今はこんな旅行もしづらくなった……と少し切なさもよぎる。
なお、この3人のうちの1人が、旅先で気分が落ち込んでしまったときに2人がそっとしておいてくれて嬉しかったと書いており、印象に残った。 自分が相手より優位に立っていることをアピールしたり、キャバクラなどの空間で女性にケアしてもらいながら親睦を深めたりする「ホモソーシャル」なノリではなく、お互いに褒め合ったりケアし合ったりする友情の育み方が、読んでいて気持ちよかった。 作者のクィアネスについては特に触れられていなかったが、シスへテロ男性らしさを要求されないコミュニティが、作者の精神を支えているのかもしれない。
■Q&Q スモールトークが苦手なわたしのための質問カンペZINE A6版の手に収まるサイズ感と、ポップなイラスト、ドミノピザの箱のような色使いが可愛い。 イベントで初対面の人と実のある対話ができるようにという心遣いから、各ページに「今日はどうしてこちらへ?」「今の社会に足りないものはなんだと思いますか?」などの質問が並び、読者(ユーザー?)はページを指差したりめくったりして会話を進めるという仕組み。便利!
趣味や好きなカルチャーに関する比較的軽い質問もあれば、「どんなジェンダーの相手とでも、友情は成り立つと思いますか?」「自分の力で社会は変えられると思いますか?これまでに何か変えられた経験はありますか?」など、ぱっと答えられないような深い質問もある。
後ろの方には、作者が推している海外ドラマや本などの紹介も付いていて、世界が広がる。 最近はセクシュアリティの問題を扱った作品の数が増えて嬉しい反面、作り手側に深い理解や考察のない作品は観ても傷つくだけなのでうかつに手を出せないという現実もある。 セクシュアリティについて日々真剣に考えている人から、口コミで良作を教えてもらえるのは有難い。
読んだのがイベントから帰った後だったので、作者の方と会場でこれを使って喋れたら更によかったかも。次回に期待。
★おまけ★ 「どんなジェンダーの相手とでも友情は成り立つか」について: 友達になれないと感じるジェンダーの人は思い浮かばないが、テレビに出ているゲイやトランスジェンダー(ドラァグクイーン)に時折見受け���れる「自由=性的に奔放」という考え方は苦手だなと思う。 タレントの恋愛相談に「積極的にどんどん行っちゃいなさいよ!そうやって経験を積んで人は大人になるんだから~」と答えるオネエ言葉の人たちは、恋愛やセックスをしない自由という発想がなさそうなので、友達になれる気がしない。知り合い止まりにしたい。 でも、あの人たちも、テレビが作り上げたステレオタイプを演じさせられているのかもしれない……どうなんだろう。 ドラァグクイーンでも文化人寄りのヴィヴィアン佐藤さんあたりは、恋愛相談に対してもっと深みのある言葉を返すのではないかと思う。
■アセクシュアルである私がどのようにしてサトシに救われ、今回の件でどのようなことを考えたか 2022年の冬、25年もの期間にわたって放送されてきたアニメ版ポケットモンスター(以下「アニポケ」)の主人公が、次のシーズンから���トシではなくなることが発表された。 このニュースは、アニポケのオタクであり、アセクシュアルでアロマンティック傾向のある作者にとって、人生を揺るがす出来事だった。
作者は、小学校時代から自身のセクシュアリティを自覚し、友人の恋バナについてゆけず疎外感を味わってきたという。 恋愛に無頓着でありつつポケモンバトルに魂を燃やし、そのまっすぐな生き方で人々に愛されるサトシの姿は、作者にとって救いだった。 脚本を書いた人は意図していなかったかもしれないが、テレビの前でアニポケを観ていた一人の小学生は、恋愛がなくても充実した人生を送ることができるというメッセージを受け取ったのだ。
主人公の少年が戦いを通じて成長するストーリーの少年向けアニメでは、多くの場合、サイドストーリーとして恋愛が描かれる。 「るろうに剣心」「NARUTO」「鬼滅の刃」など、主人公と女性キャラクターのカップルをぱっと思い浮かべられる作品は多い。 これらの恋愛は基本的に異性愛であり、同性カップルは登場しない。ほとんどの少年向けアニメの世界観は、シスへテロ恋愛規範に基づいていると言えるだろう。 こういった状況にあって、物語に恋愛を持ち込まないアニポケは、作者にとって抵抗なく楽しめる希有な作品だった。 サトシに好意を持つ女性キャラクターが登場しても、サトシにはぴんと来ず、「そんなことよりバトルしようぜ!」という態度を取る。そして、周囲はそんなサトシを責めたり馬鹿にしたりせず、「まあサトシだからね」と受け入れる。 こういった物語に触れることで、恋愛感情の湧かない作者は、自分自身も肯定されたと感じていた。
しかし、サトシが主人公のアニポケは、もう制作されない。作者の心の支えが、一つ失われてしまうのだ。
そして作者が危惧しているのは、「NARUTO」→「BORUTO」のような続編への移行だ。 「NARUTO」の続編である「BORUTO」は、「NARUTO」の主人公うずまきナルトとヒナタの息子が主人公。 この展開によって、主人公が異性と結婚して家庭を持つ=ハッピーエンド、という原作者と制作者の世界観が鮮明になった。 もし、同じように次期アニポケの主人公がサトシの子供になってしまったら――それはつまり、制作者の中に、「バトルに熱中していた少年も、大きくなれば異性を好きになって恋愛→結婚・セックスするのが当たり前」という考え方があることを意味する。 これまでアロマンティックやアセクシュアルを肯定する存在だったサトシが、シスへテロ恋愛の模範として再定義されてしまうことを想像し、作者は何度も泣いたという。 やり場のない不安を整理すべく、このZINEが作られた。
このZINEが突きつけてくるのは、恋愛や性愛のない人生を肯定してくれる物語の少なさだ。 純文学などの中には探せばあると思うが(谷崎潤一郎「細雪」とか)、沢山の人が楽しむアニメや漫画などのポップカルチャーの中に、主人公が恋愛なしで満たされている作品を見つけるのは難しい。 2022年、主人公がアロマンティック・アセクシュアルのドラマ「恋せぬふたり」がNHKで放送され、話題を呼んだ。 このような、恋愛に縛られない幸せの形を提示できる物語が、もっと作られてほしい。 そして、私も何か書けるかな……。
https://note.com/ichijosayaka_59/n/n93046e8a589f
■2306 最悪のプライド月間を、なんとかやり過ごすZINE 1968年にアメリカで起こったクィアによる反差別運動(通称「ストーンウォールの蜂起」「ストーンウォール事件」)にちなみ、6月は「プライド月間」とされている。 今年の6月も、世界各地でセクシュアルマイノリティへの理解を深めるキャンペーンやイベントが行われた。 日本でもこうした取り組みは盛り上がりを見せたが、一方でLGBT理解増進法案が保守勢力によって骨抜きにされるなど、国や社会によるクィアへの抑圧が鮮明になるような出来事もあり、国内のクィアにとっては希望を感じづらい1ヶ月となってしまった。
このZINEには、ゲイであり鬱療養中の作者がこの6月をどう過ごし、何を考えたかが記録されている。文章の合間にゆるい漫画や犬の写真が配置されているので、深刻な内容があってもそこまで肩肘張らずに読めて有難い。
鬱によって思い通りに動かない身体。過去に受けた性被害のトラウマ。 反差別というメッセージが限りなく薄められたLGBT理解増進法案や、SNSでのトランスバッシング。 彼氏が両親の留守中に犬の世話をするため実家に帰ることになり、こっそり同行させてもらうという楽しいイベント。 彼氏が両親にカミングアウトしていないため、表向きは友人を装わなければならない現実��� 彼氏と犬のユズちゃんと共に過ごした穏やかな時間。 無職である後ろめたさ。梅雨時の湿気。 その時々の作者の感情が、グラデーションになって迫ってくる。
二人と一匹の間に流れる温かい空気を感じながら、二人が堂々と一緒に暮らせないことを悔しく思う。 また、病気などの理由で一日八時間労働が難しい人が社会から零れ落ちてゆくような現状も、もっと改善できないものかと感じた。 (「Marriage for All」に署名し、選挙の時も人権意識のありそうな人に投票するようにはしているが、まだ足りないんだろうな……。) 一応、作者が欲しいものリストを公開した時に、応援を込めて1品ポチッとした。まだ足りないだろうけど。
※「はじめに」のみ公開 https://nigenige2020108.hatenadiary.jp/entry/2023/06/30/090000
■恋愛も結婚もセックスもしたくない人がいるんです アロマンティック・アセクシュアルである作者が、自身のこれまでの人生と現状、将来のビジョンをエッセイ漫画にしたZINE。
作者は30代で、性自認は女性。アロマンティック・アセクシュアルでありつつ、BLが好きで百合も読む「腐女子」。 自分が恋愛や性愛の当事者になりたくはないが、フィクションの恋愛や性愛は読者として楽しめる、ということになる。
恋愛を経ての結婚をする気はないが、何かあったときに助け合える人がいてほしい気持ちもあり、いわゆる「友情結婚」にも興味がある。 助け合うことと恋愛・血縁が分かちがたく結びついている現代社会では、恋愛感情や性欲がなかったり少なかったりすると孤立しがちだな……と改めて認識する。 「恋愛経験がない/少ない=人間的に未熟」というバイアスに苦しめられるくだりは、共感しかなかった。
平日は金融機関で働き、週末にオタ活を楽しむ作者の人生は、ちゃんと充実している。 変わるべきは、「人生には恋愛と性愛があるべき」という価値観を振りかざし、無駄なコンプレックスを味わわせる世間の側だろう。 恋愛・性愛のない豊かな人生はあり得るという希望を見せてくれる、爽やかな読後感のZINEだった。
※8/11時点でこのZINEは完売、続編は購入可能 https://hinotoya-akari.booth.pm/
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こうして感想を並べてみると、作者7人のセクシュアリティと抱えている事情が千差万別であることに、改めて驚く。 本やウェブで「LGBTQ+とは?」みたいな解説を読んだだけでは絶対に見えてこない現実と実感が、それぞれのZINEから生々しく伝わってくる。
社会がカテゴライズした性別���恋愛・性愛規範に自分を無理矢理当てはめて解釈しようとすると、どこかで無理が生じる。 クィアはそうでない人より無理をしなければならないが、自分がクィアだと明確に認識していない人も、実は無理をしていることがあるのではないかと思う。 (「��自認が男なのにメイクしたいと思うのは変かな?」「恋人との時間より友達との時間が楽しいと思う私は間違ってるのかな?」といったように。)
既存の枠組みに囚われずに自分のセクシュアリティを語ることは、社会や権力の都合によって奪われた自分の一部を取り戻し、自分の生を自分に合う形にカスタマイズする第一歩なのかもしれない。
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御茶ワールド「ここが表版仮想大鉱山のメンバーが入ったきり籠っている封鎖ビルだね」
〜レンタルヒーロー業開始〜
高級ゴールドデューク/バズー「ピクピクッあはははは 俺は大物だ、(ガタガタガタガタガタ)」超電チャブル「早速精神崩壊してるクズ発見」御茶ワールド「頭に留めてほっとこう、😬」
二人が探索してから15分、ある謎の女の子と出会う(主人公達は思った、このミステリアスな雰囲気は只者ではないと)
御茶ワールド「さっきフェイグランドの幹部が精神崩壊してたけど君何か知ってる?」謎の女の子「私が善良でしか例えられない感情を起こした」超電チャブル「(あいつらに救いようはない)。……💡、もしかして血の繋がりがある存在だけを苛めた事だけ覚えたままにして他人や大物だけを忘れさせて一方的に嗤った?」
謎の女の子「これから睡眠をとっている間の霧島04の記憶をいじるの。プライドを傷つけて自己矛盾を生ませる為に、捕獲はすんでる 後は一方的な暴力で荒療治」超電チャブル「つまり良心に見える恥の部分で改心させると?……うまくいくかなあ…あいつマジで頭おかしいからとんでもない屁理屈こねるよ オムニバス形式みたいな存在のゴールドバズー達より異質だから」御茶ワールド「※やつは表版仮想大鉱山みたいな焼き直しの有象無象とは違います」 二人はもう時間がないと説明されて、どんな煽り方でやるのが効果的か聞かれた
謎の女の子「みっともないわねwww改心したら少しは��シになるのに」
レッドラバ「いつの日かお前を殺す日が来る。必ずな」
謎の女の子「ばーかwwwお前をいじめたA達も私も痛くも痒くもないよ?口先だけで恥ずかしくないのかな?」
レッドラバ「まずは心からだろ?強さは後から手に入れればいい。家族やペットしか殺せていなくたっていつか他人の大物を殺せるさ {{{勝ちたいと勝てるは、きっと一緒だよ(ニチャア❤️🔥)}}} だから自分が情けないなんて思えないよ。お前みたいなのに弄ばれたら俺と一緒に育つ、より弱い家族だけがまたあおり食うだけなんだよ(赤き真実)」
ピシッバリバリバリバリ‼️‼️ 封印は解けた。
御茶ワールド「下がって!こいつの周りには”””””真の裏ストボス”””””しか比較対象が居ないんだから格落ちするなんて当たり前だよ何もおかしくない。それでも敵は想像以上の化け物 表主人公の俺達より遥か上。だから逃げるよ」
謎の女の子「……本当に、誰も敵わないのね。表版仮想大鉱山の方がずっと青臭いじゃない)」
霧島狩魔「いいや、敵うやつなんて沸くほどいる。パラレルワールドの獅童正義さんが相手にしたのは全世界��騒がせた怪盗団ファントム。一人残らず現実で殺害するチャンスは幾らでもあったのに狡賢さの短所をオールカバーする傲慢さが、勝ち続けてきた根幹となるリーダーシップで不運の積み重ねを引き起こし、結果改心させられた。兼ね備えた溢れる才能が元で洗脳されてしまったら泣くしかない(自分が自分じゃなくなるんだから)」
主人公二人「(やばいいつもの絶対悪のペースが始まった。本当によく喋るよな(・・;))」謎の女の子「つまんない話しは無視してこそこそと立ち去る💦」
無印04「俺達は経験値にしかならない雑魚に恵まれていただけなんだ。シッ���スさんが前世で相手にしたのはネウロだよ??、チートフィクションがリアルに来てしまったら仕方無い しかも終盤辺りの所で主役二人それぞれを二手に分かれて追うメンバーが逆だったら普通に勝っていた。ゾディアさんが負けた理由は自分を信じてたからだ 自らが弥子ではなく強者だと考えているネウロを屠ろうとしたプライドの上位を意味する魔王の資質が仇になったらどうしようもない…ダメなんだよ、無理に決まってるけど、ちっぽけな俺が、自分が超えなきゃ」
主人公二人&謎の女の子「ε=ε=ε=ε=ε=ε=┌(; ̄◇ ̄)┘」
霧島04(裏ストボス)「この野郎逃げんな!待て待て〜〜(゜0゜)」
〜三時間前〜 高級ゴールドデューク/バズー「2ちゃんのフェミババアに言ってやるぜ!!目を覚ませ現実を見ろよwww女ってのは白馬の王子様どころかコ��ュ障や陰キャ以外なら誰でも手に入るメス豚コンテンツなんだよwww」高級ゴールドクイーン/ガッチャ「それにしても我はワンピースを追いかけ視聴しておるのじゃが、モンキー・D・ルフィが勝ちまくってカッコいいのじゃ。我のメスに対するような男の優しさと芯の強さが伝わってきおる」高級ゴールドキング/バラバズー500F「それに引き換え……ハイエナのベラミーは終わってると思わないかね?」ゴールドデューク「あいつよえーんだよ、本当の悪って奴を教えてやりてえわザコが、あ〜あ。ルフィとゾロに勝ちを諦めさせて無抵抗にして一方的に痛ぶってやった時が全盛期だな。チッ!何が2年後に変わっただよ、真の勝利を手に入れたのはこの時だけなんだからな(黄金の���実)」
漫画とアニメの負けが定まってる悪役に共感する現実の存在はいつだって善良な人間、モデルとなった現実のクズに限って心の底から自分の分身として生み出されたキャラクターを馬鹿にして何も学ばず嘲笑う。彼らにはカッコいいか、強いか。そんな事しか見えていない
“””霧島04”””はこれ以上に終わっている。騙されてはいけない ベタ褒めは確かにある絶対的な現実でしかない。だから守るべき弱者にはもっと残酷な事も言える(赤き真実)
賢者の預言書「野比のび太君より小さいチンコを武装色の覇気で固めると、何本目に死ぬかな〜?と言いながら女性の腹のあちこち50か所に突き刺して遊ぶ頭のおかしい奴が産まれる(大量のバイ菌が入って刺された穴から腐った糸を引く死体が幾つも出来上がった)。それは空前絶後の純粋硬派柱を司る申し子 鬼難バラワッシャの最上個体」
今回の後日談➡︎ 御茶ワールド「いや〜のっけから大変だったかも😵」超電チャブル「なんだこの映像?」チー牛「ゴミクズのディストピア自慢です。最後まで観たら通報します」ゴールドバラバズー500F「お邪魔させて貰っているのだよ、劣化ラオウコンビ(笑)」
〜ビデオ〜
高級ゴールドキングが操作する女子中学生(15)「女の子って筋力が男性の身障並にない性能がデフォルトなのよ?🧡 」G(グランド)「それでもこれから何百本もの肉棒をしなやかなスジで気持ちよくしなくちゃいけないんだゾウ💛」〜現在〜 防聖孤島「おいみんな、ポケモン程尊く無いにしても女性の人生の敵を討つぞ。例の音楽かけろ🖕😡👎」 キモオタ「ガッテン承知の助🌟」カチッ☠️
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〜ビデオ〜
ゴールドバラバズー500F(女体操作)「そうやって私達下等生物を見下しながら貧弱な後ろ手を掴んでいっぱいするんでしょ?ハメハメ💛」もみっもみ🧡⤴︎ ゴールドバラバズー500F(女体操作)「んっ💛(プシャッ///) あ、あッ🧡」 クリクリッ🧡 スリスリスリスリwww ゴールドガッチャ「これはお手て、ふむふむ……これは…チュパチュパされる為の母性の象徴…に、ピストンの度に揺れる柔らかい太もも🧡そして、最後に調べるこれが、❕ッ」総勢「ペニス様を喜ばせるッ!おマンコ!(笑❕)!」グイッ🧡パンパンパン★ ゴールドバラバズー500F(女体操作)「ちょっとッ?何の取り柄もない身障には優しくしなさいよ💛はあああ、あ、あ、あ/// 誇り高き乙女の赤ちゃん部屋がキモデブペニスから攻撃を受けている‼️」ゴールドガッチャ「こいつ知恵遅れなのじゃあ〜w、貴様はもう薄汚れて恋愛的価値も失った肉便器なのじゃぞ?ww……… ビュルルルルルーーーッ🧡 ほっほっほほぉ💛(笑)
もう使用済みには何の価値も無い(真顔)」
チー牛「僕達はカモネギ様に敬意を払って調理させて貰っています」キモオタ「増して俺達のような誇り高き猪の一族は宝魔 端武者の大幹部程度に従う気はない」高級ゴールドキング/バラバズー500F「言ってくれるではないかね。我々の食用ポケモンinデスゲームの娯楽を理解できない愚か者だったとは(笑) そんなに慈悲深いならベジタリアンとして生きたまえw」超電チャブル「お前本当にわかってねえんだな」御茶ワールド「人類の祖先は肉を食べて進化してきたんだよ、そんな事言って退化するリスクを背負えって??」超電チャブル「御茶ヶ滝みたいに生物学の基礎くらい勉強しろよ。カモネギ殿とヨワシ様は俺達の命なんだからよ。肉がなきゃ幸福ホルモンが枯れて自殺するのがたかが人間ごときだ(黄金の真実) ラオウ様はラーメンを食べる。強くて優しいから、男の中の男だから、霧島04がビビらなかったんだ(赤き真実)」
高級ゴールドキング/バラバズー500F「ああそうかね、せいぜい会話の刺激が無い下等生物とお幸せに。我々は性奴隷と幸せに暮らすよ(ぺっ)」
プルルルルッ(電話音) ガチャ★ キモオタ「ええと、秘密結社ゲゼルシャフト様ですよね?ああ、はい。害悪な人を殺せる阿部鬼を、…表版仮想大鉱山に派遣して欲しいんですけど……え?色違いのアルセウスの提供者B(バグ)への借りを倍にして返す?ありがとうございます。ポケモンがよく懐いてるエレクトロ・ゾルダート様が誘導作戦をとるんですね分かりました」ガチャ🌟
表主人公二人&複製電脳軍要塞メンバー「もうどれだけ逃げれば良いんだよ四面楚歌ヽスタコラサッサ〜( ̄д ̄;)ノ=3=3=3」
ゴールドバラバズー500F「我々に土地を差し出すと言うのかね?それならそうと」踵をクルッ★
❓❓❓「やらないか?」
300時間連続アッーーーーー‼️‼️‼️(肛門裂傷)‼���‼️‼️
霧島04の涙はラオウ様の小便より汚い(赤き真実) 、それと同様に
ゴールドバラバズー500の脳味噌はラオウ様の大便より全くもって価値が無い(黄金の真実)
おまけ⤵︎
防聖孤島「まさかこんな所で修行する事になるとはな。今回紹介してくれる訓練はなんだ?」
知球GrassShining2 キモオタ「茶々松ブラザーズ軍団。ヤツらは腕相撲でこちらを負かした後に弱すぎるね、才能が全てなんだよwwはは。と馬鹿にしてくる その瞬間にトレーニング器具の数々が神のような光を帯びながら君臨をして君達は無駄な努力と煽られる中で成長するコンテンツだ」
ダーン!!!(御茶ヶ滝の勝利)
茶々松君1号「はは、所詮腕相撲だよw」 超電波油「負け惜しみか?それすらできねえのがお前だ」茶々松君2号「僕には勝てないよwwその兄は最弱と言っていい。ははw」御茶ヶ滝「何い!より優れた弟がいただって!?😱」
ダーン‼️ 超電波油「次❗️ 」
茶々松無数兄弟「ゾロゾロゾロゾロ⭐️🤩⭐️」表主人公二人「え、🥶」
新しくガンガン増える茶々松147番目の兄より強い新型弟「その通りだよ。はは、無駄な事をよく頑張るね」超電波油「テメェも超えてやる‼️」 〜しかし遂に負け三日間、サンドバッグを使ってスパーリングに筋トレを重ね���能力値で上をいった表主人公達〜 茶々松148「ザコな旧型兄に勝っても無駄だよ。僕は更に上を行く(ドヤ)」防聖孤島「それも通じないぜ!ズバーン‼️」※彼等の伸び代は無限大の為、ここから70人増えた弟達を連続でボコボコした 〜3分後〜 御茶ヶ滝「茶々松くん無限ブラザーズ修行飽きたね(ーー;)」 超電波油「こいつら虫けらだろ。生産が追いついてねえ、重大な枯渇問題だぞ」知球GrassShining1 チー牛「二人とも強すぎです…この拠点の住人なら、僕達についていけない設計ではないのですが……」知球GrassShining4 パワー系池沼「怒りの力で体を鍛える上級者向けの安価なトレーニングルームなのに無双物になってるww」御茶ヶ滝「そう言えば、どうしてみんなは夢いっぱいあるこの世界線で強くなろうとしないのかなあ?😶」知球GrassShining3 細デブ「無茶いうな、人口の0.001%以下しかいない無限成長型のお前らと違ってそれは一生叶わない夢なんだよ」超電波油「夢がある世界って弱者には更に残酷になるんだな)」
複製電脳軍要塞の住人達「今回の件は絵になるほど良かった、君達イケメンだし筋肉質だからモテまくるよww」 テレビのインタビューの前で 御茶ヶ滝「あー、俺そういうの興味ないから」 (目を閉じながらツンと澄ました態度をとる表主人公の片割れ。そうしてオカズにされながら夜が明けた
御茶ヶ滝「複製電脳軍要塞では繰り出す攻撃を強力に思い込むイメージするのが大事だよね」超電波油「これ考えてみるとアニメや漫画で影響を受けたパワー型ってのも意外と悪くねえよな。さっきのコンテンツが限界のある器に入った住人でも攻略できる理由はこれか」知球GrassShining1 チー牛「そうなんです。NPCと違ってより重要な対人戦では相手が恐怖した分も威力が上乗せされるから初対面で慣れられてない内は誰にでも有効ですよ」防聖孤島「だから俺は鋭い斬撃で攻めようと思う。ところで……前々から度々聞くリベンジブラックジョーカー検定。何を盗む予告をするか決めたか? 俺達は初めてだからあんまり高価なのは狙わないつもりだ。」知球GrassShining1 チー牛「コーラ」御茶ヶ滝「可愛い🤭」
続く
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【 出演作品公開のお知らせ 】
10/12-10/18 名古屋・シネマスコーレにて 田中晴菜監督特集上映公開です。
田中晴菜監督短編5作品のうち 『幸福な装置』に出演しております。
共演には岡慶悟さん、清水みさとさん。 スチールには柴崎まどかさん。 僕と清水さんの衣装はカミフクモトジュンさんが担当してくださいました。 岡さんの衣装はCompanie van Verre・水野隆守さんがこの映画のために作ってくださいました。
劇伴は金沢・白鷺美術、富山・nolla cafeでの 田中晴菜さん書き下ろしでの「朗読と音楽」でもお世話になりましたMusic For Isolationさん
憧れの素晴らしきスタッフとキャストさんとご一緒させていただく機会に恵まれ、タイトル通り幸福な時間でした。(スタッフのみなさまは最後にご紹介いたします)
初日は舞台挨拶に登壇いたします。 連日、トークゲストをお招きして、アフタートークをいたします。
シネマスコーレさんは僕の特集上映もしてくださった思い出と憧れが共存するミニシアター。 とても楽しみにしております。
併映『いきうつし』『ぬけがら』『Shall we love you?』『甘露』と瑞々しい映画の時間をお楽しみいただきましたら幸いです。
今回、シネマスコーレさんで初登場となる新たなチャリティグッズとしてキネマ旬報・川本三郎さん連載のイラストでもおなじみの赤池佳江子さんのイラストポストカードも販売します。 能登豪雨に係る災害義援金に寄付いたします。
かなり長くなりますが 『幸福な装置』シネマスコーレさんでの上映によせて(よろしければ、お読みいただきましたらうれしいです)
まずはあらすじから
生きものが丸切りいなくなって、千年ほど経った星に残された一体のAI。人の心の恐れや痛みを和らげ、祈るために神の似姿として作られた彼は、渡りの途中に立ち寄ったつばめ(スパイ用に作られた長距離高速移動型AI)に出会ったことで、初めて自らの心の輪郭を感じ始める。つばめが去った後、身体を失い、思考回路のある心臓部だけの「小石」のような見た目になっても、彼は過去の記録を反芻し思考し稼働を続けていた。ある日その傍らに、生きている何者かが内包された、生命維持装置カプセル「棺桶」が落ちてくる。 ーーーーーーーーーーーーーーーー
オスカー・ワイルドの『幸福な王子』から着想を得て作られた作品。
(田中晴菜監督から)コロナ禍に撮った、あなたに触れずに心に触れるための映画です。小石とつばめと棺桶の恋。彼等が恋焦がれずっと待ち続けるものをあなたは既に持っています。
田中晴菜監督とは愛知県・おおぶ映画祭でお会いしました。 『いきうつし』を監督されていて、打ち上げで田中監督とほろ酔いながら色気のある岡慶悟さんともこのときが初対面だったと思います。
それから数年が経って、コロナ禍となり、田中監督から新作のオファーがきました。なんと、滑舌が悪く、イントネーションにも難ありの僕に朗読劇です。 キャスティングの経緯に関してはここでは割愛しますが、たいせつな出来事を経て、それを受けとめなければいけないと思いました。
コロナ禍、人々が会うことや外出などを避けて過ごす日々で、いろんなことが起きた。
生活をするための環境や条件の悪化からやりたいことができないストレスなどから人の心が貧しくなっていったと思いました。
それでも生活のためにやることが増えていく、その日々で本来憎むべきものを間違え、近くにある手頃なものにあたるようになり、見下したり、冷笑したり。 生活をたてなおしたり、向上していく目的は同じはずなのに、人としての心の通わせ方を自ら悪い方向に持っていく人も増えていった。 自分たちは「涼しい」とか「温かい」場所にいて、そうではない暑さや寒さに苦しまなければならない状況の人たちを見下したり、嘲笑することで自身の機嫌をキープする人もいる。
僕は自分で言うのもですが、基本的には朝起きて機嫌が悪いなどのコンディションの波がない。 3人兄弟の真ん中で、朝の兄弟の機嫌を鏡のようにうけることが多かった。機嫌が悪そうなら話かけないし、テンションが高い場合には自分もテンションを上げて接していた。 だから機嫌が悪いということがよく理解できなかったりする。 だから兄弟の機嫌が悪くて自分もそういうところに晒されると、自分も話しかけないし、黙るしかなく心の中で不条理に思いながら過ごしていると��に「あんた、何怒ってるの?」なんて言われたこともある。怒ってないのにね。 当時はない言葉かな?あれがフキハラというやつか! だからフキハラって自分より上からも下からもうける。。
人の心がどんどん貧しくなり、不機嫌な人、不機嫌な毎日になっていく。その中で自由に楽しく過ごしている人を憎むようになっていく。 「自由に活動する」っていろんな解釈があるけど、そのために不自由な条件を受け入れないといけないときがあって、自由に活動することや自分が幸福になるためにずっと抱きしめている装置、信条を脅かすものや壊そうとするものが現れたらもちろん抵抗しなければいけないとも思っている。
かなり話がそれましたが、そういった幸福はもちろん、喜び、かなしみ、さみしさ、つらさ、痛みなどを田中さんは拾い集めて映画にて投影している印象を僕は受けました。同時にこの作品は公開、上映されるのだけど、とてもパーソナルなものとしても生きているように思います。
適切な表現や言葉が僕は相変わらず出てこなくて、ずっとそんな言葉を探しています。
今回、名古屋・シネマスコーレの公開にはアフタートークのゲストの中に僕がお世話になっている辻村健二さん、辻卓馬さんの名前がございます。 僕は自分の声が嫌いと公言しているのですが、 辻村さんも辻さんも、その声を認めてナレーションで使っていただいたことがあります。そして今回は田中監督が朗読劇として映画化。 自分にしかない、自分が嫌いなものを肯定してくださいました。今回、シネマスコーレでしか実現しない運命的なゲストのみなさまとのアフタートークもお楽しみください。
そして、この映画に出会えたことで、自由に活動することに臆病にならず、その先にあるはずの幸福を見つけられたらと思います。 そう決心させてくれた映画です。
今回、公開を決めてくださった、シネマスコーレさんにも感謝の気持ちをこめて。
みなさま、劇場にてお待ちしております。
ーーーーーーーーーーーー
田中晴菜監督特集上映 名古屋・シネマスコーレにて <舞台挨拶登壇者>(予定)
10/12(土) 星能豊、岡慶悟、田中一平、田中晴菜 ゲ��ト 辻村健二(映像ディレクター)
10/13(日) 岡慶悟、田中一平、田中晴菜 ゲスト 辻卓馬(映像・映画プロデューサー)
10/14(月祝) 田中一平、田中晴菜 ゲスト 二宮拓也(gallery Nギャラリスト)
『幸福な装置』Appliance 出演 星能豊 岡慶悟 清水 みさと
脚本•監督•編集:田中 晴菜 撮影・照明・録音・整音:中島 浩一 撮影・照明・録音助手:鳥海佳奈 車輌・制作:秋山友希 ヘアメイク:竹本磨理子 (Anita Hair&Make Office) 衣装:上福元 淳(tone) つばめ衣装制作:水野隆守、小谷 祐輝、高橋 友里(Companie van Verre) スチール・タイトルデザイン:柴崎 まどか カラリスト:清原真治 音楽:MUSIC for ISOLATION 鋳金:正田忠雄 美術:三鷹ユメノギャラリー英語字幕翻訳:鈴木なお 協力:栃木県フィルムコミッション、佐野市、佐野市地域おし協力隊 荻原広明 吉本義人、公益財団法人佐野市民文化振興事業団 機材協力 高橋怜央
(全て敬称略)
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エルサレム賞受賞講演「小説とヨーロッパ」1985年
ミラン クンデラ
「
イスラエルで最も重要な文学賞が国際的な文学に贈られるのは、偶然の産物ではなく、長い伝統の賜物だと私は思います。実際、祖国から追放され、ナショナリズムの情熱から離された偉大なユダヤ人たちは、常に超国家的なヨーロッパ、つまり領土としてではなく文化としてのヨーロッパに並々ならぬ思いを抱いていました。もしユダヤ人たちが、ヨーロッパが悲劇的に彼らを失望させた後でさえも、ヨーロッパのコスモポリタニズムを信じ続けたとすれば、彼らの小さな祖国をようやく取り戻したイスラエルは、ヨーロッパの真の心臓であり、肉体の外側に位置する特異な心臓であると私には思えます。
エルサレムの名を冠し、偉大なる国際的ユダヤ人精神の証であるこの賞を、本日、深い感慨とともに受け取りました。私は小説家としてこの賞を受け取ります。私は作家(ライター)ではなく小説家(ノベリスト)と言いました。小説家とは、フローベールによりますと、その作品の背後に身を隠したいと思っている者のことです。作品の背後に身を隠すとは、公的人間の役を放棄するということです。昨今、これは容易なことではありません。わずかでも重要なことがあれば、マスメディアが耐え難いほどに目をぎらつかせているところへと足を踏み入れなければならなくなりますし、フローベールの教訓に反して、作品が作者のイメージの陰に隠れて消えてしまうことになります。誰も完全には逃れることのできないこのような状況において、フローベールの言葉は一種の警告のように私には思えます。つまり、小説家は公的人間の役を引き受けることで、自分の作品を危険にさらすことになるのです。作品が、その小説家の行為や声明、立場の表明などのたんなる附録とみなされてしまう危険があるのです。
さて、小説家は誰の代弁者でもないばかりか、彼自身の思想の代弁者ですらないとさえ言えます。トルストイが『アンナ カレーニナ』の第一稿を構想したとき、アンナは最も無愛想な女性であり、その悲劇的な結末はまったく当然のもので、正当なものでした。最終版はまったく異なっています。しかし私は、トルストイがその間に自分の道徳観を修正したとは思いません。むしろ、執筆の過程で、個人的な道徳的信念とは別の声に耳を傾けていたのだと言うべきだろうと思います。彼は、私が小説の知恵と呼びたいものに耳を傾けていたのです。真の小説家は皆、その超人間的な知恵に耳を傾けます。偉大な小説が常に作者よりも少し知的であるのはそのためなのです。自分の本よりも知的な小説家は、別の仕事に就くべきです。
しかしその知恵とは何でしょうか。小説とは何でしょうか。「人間は考え、神は笑う」という、みごとなユダヤの諺があります。この格言に触発されて、私は好んでこんなことを想像します。つまり、ある日、フランソワ ラブレーは、神が笑うのを聞き、そうしてヨーロッパの最初の偉大な小説のアイデアが生まれたのだと。小説という芸術が神の笑いのこだまとして誕生したという考えは気に入っています。
でもなぜ神は考えている人間を見て笑うのでしょうか。なぜならそれは人間が考えても、真実は人間から逃げていってしまうからであり、複数の人間が考えれば、一方の考えは他方の考えとますますへだたってしまうからであり、そして最後に、人間は自分がそうであると考えるものでは決してないからです。
中世を脱出した人間の、この根本的状況が明らかになるのは、近代の黎明期です。ドン キホーテは考え、サンチョは考えました。そして世界の真実だけでなく、彼ら自身の真実さえも彼らから逃げていきました。ヨーロッパの最初の小説家たちは、人間のそのような新しい状況を見て取り、その上に新しい芸術、すなわち小説という芸術を築き上げたのです。
フランソワ ラブレーはたくさんの新語をつくり、それらはその後フランス語や他の言語でも使われるようになりましたが、そのうちの一つが忘れられてしまったのは非常に残念です。それは「アジェラスト」という言葉です。ギリシャ語に由来する語で、「笑わぬ者」「ユーモアのセンスのない者」の意味です。ラブレーはアジェラストを憎み、恐れていました。彼は、アジェラストたちからあまりに非道な扱いを受けたため、筆を折ってしまいそうになったと不満を漏らしています。
小説家とアジェラストの和解は不可能です。アジェラストたちは神が笑うのを聞いたことがなく、真実は明瞭であり、すべての人間は同じことを考えているはずであり、そして自分たちは自分たちがそうであると考えているものであると確信しています。しかし人間が個人となったのは、まさに真実の確信と他者の満場一致の同意を失うことによってなのです。小説は個人の想像上の楽園です。そこは、アンナもカレーニンも、誰も真実を持ってはいませんが、アンナもカレーニンも、誰もが理解される権利を持っています。
『ガルガンチュアとパンタグリュエル』第三之書で、ヨーロッパが初めて目にした偉大な小説の登場人物であるパニュルジュが、次の問いに苦しめられています。結婚すべきか否か。彼は医者、予知能力者、教授、詩人、哲学者に相談し、それぞれがヒポクラテス、アリストテレス、ホメロス、ヘラクレイトス、プラトンを引用します。しかし、この書全体を占めるこの膨大で博学な研究の末、
パニュルジュはいまだに結婚すべきかどうかわかりませんし、私たち読者もわかりません。しかしその一方で、私たちは、結婚すべきかどうかわからない人という、滑稽であると同時に本質的な状況を、あらゆる角度から探ったのです。
ラブレーの博学は、デカルトの博学とは別の意味を持っています。小説の知恵は哲学のそれとは違います。小説は理論的な精神ではなく、ユーモアの精神から生まれているのです。ヨーロッパの大きな失敗のひとつは、最もヨーロッパ的な芸術である小説を理解できなかったことです。その精神も、その偉大な知識と発見の数々も、その歴史の自律性も。神の笑いに触発された芸術は、そもそも、イデオロギー的な確信に奉仕するものではなく、それに反するものなのです。それは、ギリシャ神話のペネロペのように、神学者、哲学者、学識者たちがその日に織り上げたタペストリーを、夜毎に解くのです。
最近、十八世紀を悪しざまに言う習慣が定着してしまい、こんな決まり文句に到達するようにさえなりました。ロシアの全体主義の不幸は、ヨーロッパの、とりわけ啓蒙の世紀の無神論的合理主義、理性の万能に対する信仰の産物だというものです。私はヴォルテールを強制収容所の責任者とする人々と論争する資格があるとは感じませんが、次のように言う資格ならあると感じています。すなわち、十八世紀はただルソー、ヴォルテール、ドルバックの世紀ではなく、また(とりわけ、ではないにしても!)フィールディング、スターン、ゲーテ、ラクロの世紀でもあるのだ、と。
その時代の小説の中で 私が最も好きなのは、ローレンス スターンの『トリストラム シャンディ』です。不思議な小説です。スターンは、トリストラムが懐妊した夜の描写から小説を始めますが、その話をやっと始めたところで、別のアイデアが突然彼を惹きつけ、自由連想によってそのアイデアが別のアイデアを駆り立て、さらに逸話が続き、ひとつの脱線がまた次の逸話へとつながっていきます。そしてこの本の主人公であるトリストラムは、100ページものあいだ忘れ去られてしまうのです。この贅沢な小説の構成法は、形式的なゲームに過ぎないと思われるかもしれません。しかし、芸術においては、形式は常に形式以上のものなのです。
どの小説も、好むと好まざるとにかかわらず、次の問いに何らかの答えを提示しています。すなわち、人間存在とは何か、その詩(ポエジー)はどこにあるのかという問いです。スターンの同時代人たち、たとえばフィールディングは、アクションと冒険の非凡な魅力を特に味わっていました。スターンの小説から感じられる答えは、まったく異なるものです。彼にとって詩とは、行為の中にあるのではなく、行為の中断の中にあるのです。おそらくここに、間接的な形ではあれ、小説と哲学のあいだの大いなる対話が始まったと言えます。十八世紀の合理主義はライプニッツの有名な文句「理由なく存在するものは何もない (nihil est sine ratione)」に基づいています。このような確信に刺激された科学は万物の何故を熱心に検討し、その結果、存在するものすべてが説明でき、したがって計算できると考えるようになりました。
自分の人生に何らかの意味があることを願う人間は、原因も目的もないようなどんな行いも断念することになり、あらゆる伝記はそんなふうに書かれることになります。人生は原因、結果、失敗、それに成功の明るい軌跡として現れ、人間はみずからの行為の因果関係を示す繋がりにじりじりと眼差しを注ぎ、死に向か��狂おしい走行をますます速めることになります。
世界を出来事の因果的な連続に還元することに対抗して、スターンの小説は、その形式そのものによって、詩は行為の中にあるのではなく、行為が止まったところにあるのだと断言しています。それは原因と結果のあいだを繋ぐ橋が砕け、思考が甘美で無為な自由をさ迷うところにあるのだと断言するのです。スターンの小説は、人間存在のポエジーは逸脱の中にこそあると言っているのです。それは計算できないものの中、因果関係の反対側に、理由がないままに、ライプニッツの文句の反対側にあるのだ、と。このように、ある時代の精神は、その芸術、特に小説を考慮することなく、その思想や理論的概念だけで判断することはできません。
十九世紀は機関車を発明しました。ヘーゲルは普遍的な歴史の精神そのものを把握したと確信していました。しかし、フローベールは愚かさを発見しました。私はあえて申しますが、これこそが、己の科学的理性をかくも誇りに思っていた世紀の最大の発見です。
もちろんフローベール以前にも、愚かさが存在することを疑う者はいませんでしたが、それは少し別なふうに理解され、単に知識の欠如や、教育によって正されうる欠陥だと見なされていたのです。ところがフローベールの小説では、愚かさは人間の存在と切り離すことのできないものなのであり、それは哀れなエマが日々を過ごす間、愛の床から死の床にまでつきまとい、オメーとブールニジアンという二人の死神が、一種の葬送演説のように、くだらない話を延々と続けるのです。しかし、フローベールの愚かさについてのビジョンで最も衝撃的で最もスキャンダラスなことは次のこと、すなわち愚かさは、科学、技術、近代性の進歩に道を譲ることはなく、それどころか、進歩とともに愚かさもまた進歩する!ということなのです。
フローベールは底意地の悪い情熱を傾けて、周囲の人々が自分は利口で事情に通じていると見せようとして口にする紋切り型の決まり文句を収集し、それを元に、かの有名な『紋切り型辞典』を作りました。この表題を使ってこう言いましょう。現代の愚かさとは無知ではなく、紋切り型に受け入れた考えの無思考を意味しているのだ、と。
フローベールのこの発見��、世界の未来にとって、マルクスやフロイトのもっとも衝撃的な考えよりもずっと重要です。なぜなら、階級闘争のない、あるいは精神分析のない未来を想像することはできても、紋切り型の考えの抗しがたい増大のない未来は想像できないからです。紋切り型の考えはコンピュータに入力され、マスメディアによって流布され、やがて一つの力となって、あらゆる独創的で個人的な思考をも押しつぶし、その結果、近代ヨーロッパ文化の本質そのものが窒息させられかねないのです。フローベールがエマ ボヴァリーを構想してから80年ほど後、私たちの世紀の1930年代に、もう一人の偉大な小説家ヘルマン ブロッホは、近代小説がいかに雄々しくキッチュの潮流と闘おうとも、結局はキッチュに圧倒されてしまうと書いています。「キッチュ」という言葉は、どんな犠牲を払ってでも最大多数の人々を喜ばせたいと願う人々の姿勢を言い表しています。喜ばせるためには、誰もが聞きたいと思っていることを確認し、受け入れられている紋切り型の考えに従わなければなりません。キッチュとは、受け入れられている紋切り型の考えの愚かさを、美と感情の言語に翻訳することです。それは、私たち自身を憐れみ、私たちが考え、感じていることの凡庸さに涙するように私たちを促します。
50年後の今日、ブロッホの言葉はさらに真実味を増しています。多くの人を喜ばせ、それによって多くの人の注目を集めなければならないマスメディアの美学は必然的にキッチュなものとなり、マスメディアが私たちの生活にますます浸透していくにつれ、キッチュは私たちの日常的な美学と道徳規範となりました。つい最近までは、モダニズムとは、紋切り型の考えやキッチュに対する不適合者の反乱を意味していました。今日、モダニティはマスメディアの巨大な力と融合し、そして、モダンであることとは、最新であること、適合すること、そして最も適合している人たちよりもさらに徹底的に適合することへの努力を意味します。モダニティはキッチュの服をまとったのです。
アジェラストたち、紋切り型に受け入れた考えの無思考、そしてキッチュ、これらは三つの頭をもった同じひとつの、神の笑いのこだまとして生まれた芸術の敵なのです。この芸術は、だれも真実の所有者ではなく、だれもが理解される権利をもっている、魅惑的な想像的空間を創出することができました。この寛容な想像的空間は、近代ヨーロッパとともに生まれた、ヨーロッパのイメージそのものなのです。あるいは少なくとも、ヨーロッパに私たちが抱く夢なのです。それは何度も裏切られた夢ですが、それでも、小さなヨーロッパ大陸をはるかに越えて広がる友愛の中で、私たち全員を団結させるのに十分な強さを持っているのです。しかし私たちは、個人が尊重される世界は(小説の想像上の世界でも、現実のヨーロッパでも)、もろく朽ちやすいことを知っています。
地平線上には、私たちの一挙手一投足を見張っているアジェラストの軍隊が立っています。そして、まさにこの宣戦布告なき永久戦争の時代に、劇的で残酷な運命を背負ったこの街で、私は小説のことだけを語ろうと決心しました。これは私が深刻な問題を避けようとしているからではないことはお分かりいただけただろうと思います。
今日、ヨーロッパ文化が脅威にさらされているように見えるとしても、ヨーロッパ文化の最も貴重なもの、すなわち個人の尊重、個人それぞれの独自の思想、侵すことのできない私生活の権利、それらに対する内外からの脅威がヨーロッパ文化を覆っているのだとしても、ヨーロッパ精神の貴重なエッセンスは、宝箱の中に大切に保管されているように、小説の歴史の中に、小説の知恵の中にあると、私は信じています。
私がこの感謝のスピーチで称えたかったのは、その小説の知恵です。
でもそろそろやめ時ですね。
私が考えているのを見て、神様が笑うことを忘れていました。
」
Jerusalem Address: The Novel and Europe
A speech by Milan Kundera
https://medium.com/@mijolo/jerusalem-address-the-novel-and-europe-585bf2e7a848
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ノイズキャンセリング機能の搭載
「わたしのこころ」を取り巻くネガティブ。
わたしたち人間は、危険察知能力の発達によってネガティブノイズに反応しやすくなりました。
これが過剰になって、近くの身の回りの大切にしてくれる人へ、感謝を示したり大切にすることよりも、遠くのノイズへナイフを投げる“欲求”に駆られます。これを逆説すると、遠くのノイズへナイフを投げることを『諦め』て、近くの大切な人たちに沢山のプレゼントを届けるほうが、ロジカルに自分のためとなり周りの人たちのためになる、ということができると思います。
ブラックノイズ……悪いノイズは、タトゥーのように心にへばりつき、離れにくい粘着性を持っています。
ホワイトノイズ……良いノイズは、さらさらと水のように、右から入っても左へ流れ去っていってしまう性質を持っています。
特徴から対処方法を見てみます。
ブラックノイズ=タトゥーを植え付けた犯人は、たとえば虐待やいじめの当事者です。タトゥーは入れる時に大きな痛みを伴いますが、やがて肌につけた傷はふさがり、墨だけが体内に残ります。
つまり表面の傷がふさがっても、体内に入った墨は消えません。
ホワイトノイズは、どれほど浴びてもすぐに体から抜けて消えてしまいます。体内に入った瞬間は心地よいかもしれませんが、抜けてしまった後の喪失感は、かえってこころの癒しにならないかもしれません。
ホワイトノイズをこころに残すためには、どうしたら良いでしょうか。
ブラックノイズによってこころを汚されたひとは、積み重なった悪意によって、こびりついた記憶が中々消えません。
悪意のないものも悪意として認識するようになると、蓄積されたネガティブから、やがて強いバイアスがかかるようになり、どんどん強化されてゆきます。そして最悪は一生、その強いイメージから抜け出せなくなります。
この様に強い悪意は、ひとの人生を大きく歪ませてしまう原因となっています。
ブラックノイズの環境に身を置いてきたひとは、中々ホワイトノイズの環境に馴染むことができません。
そうなる前に、ノイズキャンセリング機能を搭載することをおすすめします。
人間は、言語によるコミュニケーションを発達させてきました。
言語も包丁と同じで、使い方によって良いものにも悪いものにもなります。
悪いものに使えばブラックノイズに、良いものとして使えばホワイトノイズになります。
脳内に悪魔の声が響いていると、ホワイトノイズを発することは難しくなります。
比較的軽傷の人は、このことに気づくことによって、意識してゆっくりと思考を変えてゆくことができます。
それを望んでいる人は、この性質を知って、ゆっくりと切り替えてみて下さい。
コツは、周囲に感謝する人がいる場合は、その人たちと分かち合うことで悪意を寄せ付けないように、悪意は徹底して無視をすることです。
他人の悪意は、自分のこころを蝕みますが、無視するスキルを獲得することで、こころの平穏を手に入れます。
無視をするということは、自分のレベルがあがることと、イコールで繋がっています。
瞑想も、手段として有効です。時間はかかりますが、ゆっくりと自分の脳内の動きを観察します。このときに怒りや憎しみが湧いてきても、それを否定しません。
わたくしが強く憤っていても、それはそれとして認め、許します。
実際に、わたくしの中に憤りが巣食う原因は、わたくしではなく「アイツの」せいです。
他人を憎むことに喜びを感じるひとはいません。この感情を抱かざるを得ない存在、それが原因であることは間違いありません。それがなければ、わたくしはこんなに湧いてくる憎しみに苦しめられることはありませんでした。
わたくしの憤りと憎しみを許します。わたくしの憤りと憎しみを許すことができたら、次はわたくしの憤りと憎しみを許してくれる有難い友たちの顔を思い浮かべます。
彼らはありのままのわたくしを許してくれました。それに感謝します。
わたくしは、強い憤りがよみがえるたびに、この瞑想を繰り返し、こころを落ち着けます。
そして現実に立ち返ったとき、実際にまわりの仲間たちに感謝を述べます。彼らは許し、受け止めてくれます。
時間軸をヨコに置いて、こころのチャートを可視化します。
わたくしたちは、多かれ少なかれ、こころの振れ幅を持っています。
怒りなど、大きくこころを揺らす出来事があれば、チャートは上下に乱高下します。人間として、普通の反応です。
つねにこのチャートを念頭に置いておくことで、今のわたくしのこころの振れ幅を観察するようにします。
自信がついてくると、この振れ幅が小さくなってゆくことを体感できるようになります。
PTSD
いじめや虐待を受けてきたわたくしは、虐げられてきた時間に応じて、比例してこころを環境要因によって歪められ、壊されてきました。
たとえて言うならば、狭い箱の中に押し込められた状態で、逃げ道を塞がれて、長時間にわたって暴力を受けてきた、そういう状態です。
世の中の分布比率のうち、わたくしに暴力を振るってきた人物は1%前後かもしれませんが、わたくしにとっては、わたくしへの暴力を傍観していた99%も敵でした。助けを求めても、保身に走った大人は助けてくれませんでした。わたくしに味方はいませんでした。
わたくしは、わたくしのこころを守る術も教わることができず、人格形成の大切な時期に、大切な時間をすべて、この暴力によって奪われました。
この強烈な辛い記憶は、何度でも脳裏によみがえり、まったく消えません。
わたしはこの記憶によって、人生の時間を止められてしまいました。
わたしの人生を、狂わされました。
誰も信用できません。
苦し��です。
どうしたら良いでしょうか。
複雑な心の醸成
ある夢を抱いた女性がいました。彼女は経済的には恵まれておらず、日常生活を過ごしながら空いた時間に作業して夢を追い続けていました。しかしこの彼女もまた、欲求依存症が蝕んでいました。
通常の仕事と睡眠、そして依存症のためにかける時間を除けば、夢を追いかけるための時間はごく僅かです。
そんな彼女ですが、結婚して子供ができました。それでも夢は諦めていませんでした。しかし家族ができても、時間の使い方は直りませんでした。当然、家庭生活も合わせて歪んでいきます。
彼女はもう一つ、大きな病を抱えていました。ある特定の物事に対して、極端に繊細な部分を持つことが、正常な日常生活を保つことを難しくしていました。不幸なことに彼女は、幼少期に虐待を受けていたのです。その結果、些細な物音にも敏感になり、夜は眠れず、不快感を紛らわすために依存症を悪化させました。
繊細な心に虐待や罵声を浴びせられ続けた彼女は、自分に対する周りの声に対しても、敏感に反応するようになりました。彼女の耳には、場合によってはアドバイスも自分への指摘に聞こえます。反論したり、耳をふさいでいくうちに、周りからは人が遠ざかっていきました。そして家族から見限られて、ついには強制入院させられてしまいました――。
人が目の前のことに一生懸命になっているとき、メタ認知能力は発揮されません。彼女は、生きることに精一杯でした。それに合わせて、依存症により脳萎縮が進行し、徐々に考える力を失っていきました。考える煩わしさを嫌い、自分の殻に閉じこもりました。彼女が保つプライドによる、必死の抵抗が続きました。幼少期からの自分への否定の言葉は、彼女のコンプレックスを増大させていました。
甲殻類が硬い殻を身につける理由は、柔らかい身を守るためです。その身が弱く繊細であるほど、外殻を硬くしなければ外敵から身を守れません。また、環境も重要です。敵が多ければ多いほど、自分の身を守るための戦いは厳しいものとなります。
個々人は、それぞれに持つ特性を生かして、それぞれの殻を身につけていきます。
多重人格障がいを抱えたビリー・ミリガンは、24人の人格をつくることによって目の前の苦痛から逃れてきました。想像を絶する現実が、彼を病へと追い込んでいきました。
暴言による虐待も、肉体的な虐待も、間違いなく犯罪です。虐待された人のその後の人生を、大きく歪ませてしまいます。しかし、虐待をする人は自分の行為が虐待である、ということに中々気づくことができません。
虐待をするその人自身が、独自に身につけた「プライド」によって硬く心を閉ざしてしまっていて、自分の認知が歪んでいることにも気づけません。
心は、複雑です。色々なものが絡み合って、それぞれ独自に複雑なものを抱えています。この複雑さを解きほぐすことも、一朝一夕ではできません。このわだかまり自体、長い年月で醸成されていることがほとんどなのです。
理不尽ではありますが、問題を風化させたくなければ、当事者や同じ痛みを知っているひとが、声を上げ続けるしかありません。これは風化させたいひととの戦いになります。簡単ではありませんが、雨水も穴を穿つことはできます。
成功哲学
成功したいという欲求や、幸福になりたいと願う欲求は「今よりも良くなりたい」と願う人生の根源的な欲求に起居します。
わたくしが出した結論は、シンプルにこれしかありません。
『瞑想によって自己探求し、瞑想によって解を得る』
自分探しの旅の本質は、大枚をはたいて遠くへ旅行することではありません。
深く自分の内部へ潜り込み、わたくしを観察すること。わたくしが得た結論はそのようになりました。
これが正解ではなく、外側に解を求めていて、見つけられないという方へのアドバイスです。
わたくしにとって“それ”が要るのか要らないのか。そのひとつひとつを精査するのは、他人ではなくわたくしです。
これが自分軸のつくり方です。
すべての道程に共通すると思いますが、体得するまで何度でも繰り返すこと。これが「変化」への要となります。
繰り返しの行動は、始めは根気がいるものですが、やがて筋力の上昇とともに難なく繰り返すことが出来るようになり、またその後は頻度もスピードもアップしやがて習慣へと昇華します。
他者との関係に見てみますと、言っている内容が正当かどうかに拘わらず、相手の言動や行動によって、こちら側に言葉が入ってくること、入ってこないことがあります。
これは相手の主張の正当性ではなく、相手の感情(おもに怒りに任せた)のこもった言い方などが、到底受け入れられない、といったことがあります。
同じ内容でも、穏やかな口調で説明されると、すんなり入ってくるということがあります。
わたくしとあなたの間にラポール形成がなければ、互いの意思疎通——双方向通信は不可能、ということになります。
わたくしがあなたをたくさん傷つけていれば、あなたはわたくしが反省して提案しても、わたくしの意見などは到底受け入れられない、といったことが起こります。
これが結論であり、ご判断はお任せします。
わたくしは度々、自ら持つ野心(エゴイズム)に従って、あなた(ミクロ)を無視してマクロに行動することがあります。
しかしそれは、ミクロ的にはあなたとは何の接点もないものです。
『ノイズキャンセリング機能搭載』の記事を掲げた、理由のひとつです。
マクロを断行するということは、加害者たるわたくしと被害者たるあなたを離れて、全体を俯瞰して意思決定を図るということです。
このように、瞑想によって手に入れた「多視点」を使用して、統合されていた“わたくし”という人格から離れて、様々なスタンスから思考することが可能となりました。そしてこのことが混乱をきたす原因となっており、ご迷惑をおかけすることになりました。
わたくしの視点切り替えについてゆけず、置いてけぼりのような状態になっていたものと推察します。
アレルギー反応を解かし溶かす—その意味—
「他人を変えることはできないが、自分を変えることはできる」
ありふれた自己啓発の一部には、アレルギー反応があることも少なくなりません。
簡単に要約すると、以下の��文に集約できるのではないでしょうか。
・(わたくしですら)そんなに簡単に変えられるわけがない。それはわたくしの過去の経験からも、明らかである。
・わたくしは悪くない。悪いのは相手なのに、なぜわたくしが変わらなければならないのか。変わらなければならないのは相手の方であり、わたくしではない。
この設問に対する“わたくし”の答えは、次の通りになります。
・この問題の本筋(論点)は、そこではありません。
さて、わたくしにアレルギーのある方も、まずは発信者が
“わたくし”であることを忘れて、澄んだ目で以下に目を通してみて下さい。
このことをロジカルに分かりやすく説明できる名詞があります。
『地震』は自然災害であって、人名ではありません。
地震が好きだとか、地震を好む稀有な方はおいて、ほとんどの人は地震が嫌い、もしくは出来れば一生関わりたくないと思っているはずです。
しかし地震に「こっちに来るな!」とか「頼むから俺が生きている間は、地震を起こさないでくれ」と言っても、相手はわたくしの言いなりにはなってくれません。
地震を回避したい人がどのような行動を起こすのかは、ご想像にお任せします。
地震への回避行動もしくは予見して備える人というのは「相手を変えずにわたくしを変えて」います。
お分かり頂けましたでしょうか。つまり、この回避行動をとる人は、相手が悪いかどうか、ではなく相手を見極めて、わたくしの行動を変える、という手段をとっているに過ぎません。
もうひとつ、分かりやすい例を挙げます。
「Shut up」
「Shut out」
この違いが理解できますでしょうか。
そう、他人軸か、自分軸か。
そして、どちらがより簡単か、理解できるでしょうか。
「自責~」「他責~」こういった論展開にアレルギー反応が起こるのは、他人からの「自己責任」圧力が原因だと思います。
しかしここでの論点は、相手が悪いかどうか、は関係ありません。極めてロジカルに考えるのであれば、後者の方がより労力が少なく、合理的な選択である、と言う事をお伝えしたいと思います。ですから、過去のそういったネガティブバイアスによるノイズは、いったん脇に置いて頂き、理論としての考え方を押し付けではなく“理解”して頂ければ、と考えました。
このことの本筋は「わたくしが今とこれからを快適に過ごすために、手っ取り早い方法」を模索することが起点となっています。
わたくし自身がノイズ発信機として、ロジカルブーメランが跳ね返ってくることも恐れずに言うのであれば、ノイズは無視して自分のことや目の前のことに邁進する方が、より合理的であるという風に説明できます。
あなたがshut upではなくshut outを選択したとき、あなたは他人軸から自分軸へと移行しています。つまりたとえ��意識下による行動であったとしても「相手を変えずに自分を変えて」います。
変化へのハードルは、固定観念が勝手にハードルを上げているだけであり、小さく刻んでみればとても些細な行動であり、大きなマクロの結果も、小さな選択の積み重ねの結果に過ぎないものである。このことをロジカルに理解してもらえれば、幸いです。それを理解することで、入り口のハードルは大きく下がります。
「自責思考」「他責思考」と言った冠、名詞を有名無実と化すことで、行動へのハードルを下げます。この意味を、体感して頂ければと思います。
主語を大きくすることで、燃料投下をして感情を逆なですることができます。このことは本質へのアクセスを遠ざけ、反射反応を助ける効果があります。主語を小さくすることは、冷静な判断を促す作用へと繋がります。詐欺被害の構図は、こういった効果によるものです。
この結論から逆算すると、この筋力を身につけることは詐欺被害も減少させることに繋がる、ということができます。
否定からの解放
こころのコアに入り込みます。傷つけないように、慎重に入ります。
“わたくし”のこころのフィルターの枚数は、わたくしが傷つけられてきた枚数です。
わたくしを馬鹿にしてきたその傷は、他人からの嘲笑でしょうか、それとも知らず知らずのうちに、わたくしもわたくしを信じていなかったのでしょうか、それともその両方でしょうか。
原因がどちらであるにせよ、方法は同じです。
“わたくし”はノイズキャンセリング機能を搭載し、わたくしを傷つける他人や自分、馬鹿にする嘲笑の声、それらの一切をキャンセリングすることに成功し、静かな空間を手に入れます。
わたくしは静けさの中で、ノイズキャンセリングに成功したようです。
“あなた”がノイズキャンセリングに成功したら、わたくしもあなたの周囲を包み込み、一切の音声をshutoutするよう手助けします。
これにより“あなた”は、こころの平穏を手に入れることができます。
あたりが一切、静かになったら“わたくし”は“あなた”のこころのコアを観察します。
あなたのこころは、今も冷却装置に入れられて、凍結していますか。
わたくしは、あなたのこころのコアに熱が戻り、脈が戻ってゆくのを感じます。あなたはまだ気づいていないかも知れません。
あなたとわたくしで、時間がずれているかもしれません。
しかし、確かにわたくしは、あなたのこころに熱が戻り、脈打つ動作を感じています。
冷却装置は、まだあなたの周りにありますか。
わたくしは、あなたの中で生まれる熱を、一切否定しません。
その熱が全身を巡るまで、静かに待ち続けます。
あなたの熱を否定するすべての存在を、溶かし、無効化します。
360度全方位検証可能性
わたくしが“嫌い”なこの欠点。
本当に“欠点”でしょうか。
わたくしが“嫌い”なこの特徴。
あらゆる角度から、評価の見直しや、価値観を変換できる可能性を、検証したり見直したり、したことはありますでしょうか。
あなたに「無限の可能性」などはないかもしれません。
しかし、自由の国に生まれていれば「無限の選択肢」はあるかもしれません。
狭められているとすれば、その原因は「植え付けられた固定観念」。
あなたの熱を否定するすべての存在を、溶かし、無効化するお手伝いをします。
固定の個体に生まれてきた以上、無限の可能性などはありません。
しかし個体が固定していても、無限の選択肢はあり得ます。選択の自由がある限り。
植え付けられた固定観念が、わたくしの視野を狭めてきました。この原因は「他人のせい」です。
しかしこの事実を知った『今』と『これから』は
わたくしがつくってゆきます。
万人共通の課題として、自分から見た自分の評価と他人から見た自分の評価は、少なからずズレている、というものがあります。ここから導き出される結論は、確率の低い答えを追い求め続けていると、永遠に報われない、ということになります。
つまり知らず知らずのうちに、他者評価に依存する体質がつくられてしまいがちなのが人間社会である(とくに日本)ということです。
熱いこころは叩かれる確率が上がりますが、熱いこころで戦うことは、良き仲間や良き結果を生むために必須であります。
戦いは疲れるかもしれません。疲れを減らすためには、良き仲間に目を向ける『癖』をつけることです。自ずとノイズキャンセリング機能もパワーアップしてゆくでしょう。
学習性無力感のつくり方。
真剣にやる⇒馬鹿にされる、叩かれる⇒へし折られる
本気でやる⇒馬鹿にされる、叩かれる⇒へし折られる
真面目にやる⇒馬鹿にされる、叩かれる⇒へし折られる
結論『どうせ頑張ったって無駄なんだ』
『だったら、抵抗などせず流れに身を任せた方が楽にやり過ごせる』
『もう、疲れた』
学習性無力感を打ち消す手段。
ノイズキャンセリング機能搭載、応援し合える仲間と環境を整える、自分と深く向き合う、真理の探究、etc⇒「瞑想」集約
無敵の人のつくり方
人間の成長過程を視点移動で表してみます。
成長過渡期においては、水平方向でしか物事を見ることができません。水平方向から球体へと視点移動していくための訓練(筋力)は、一朝一夕では身につきません。
人格形成期において、水平方向以外の視点を獲得できるかできないかは、大変重要です。
この幼少期に、周りの人間はすべて敵である、という環境で育った場合を、同じ思いをしてこなかったひとが想像できるでしょうか。恐らくほとんど不可能です。少なくとも、実体験に近い形で臨場感を伴うことは不可能です。
ですから少し不快な表現になってしまうことを、先にお詫びします。
人格形成期において周囲のオトナを含めてすべて敵と認識せざるを得ないような環境で育った場合、デフォルトの戦略が「人間=敵」「他人=敵」で形成されます。
これは幼少期から「こころ」にナイフを突き立てられて、ぐちゃぐちゃに抉られてきたことによる、修復困難な深い傷であり、後から対症療法しようとしても困難を極めます。
デフォルトの戦略が「周りはすべて敵」ですから、球体アプローチが効きません。身を守るために必死で、視点移動が容易にできないということです。
視点移動をするということは、たとえれば唯一の拠り所の「家」を空にして外へ出るようなものです。
水平方向の視点から移動できないひとの背景まで想像して、コミュニケーションをとることは大変に困難です。
ニュースを見ると、不甲斐ないオトナによる被害で、重篤になったり命を落としたりする子供たちが世の中にいることに気づきます。
しかし「自分がもしあのようなオトナに育てられたら、どのような人生になっていただろうか」とそこまで想像することは稀です。いちいち一つ一つの事柄に、自分の時間を割いて過ごす人はほとんど居ません。そんなひとたちが社会に溢れてしまえば、人間の全体活動は大きく滞ります。
ひとりひとりの苦しみを紐解いてみると、だいたいこの視点の問題に行き当たります。
しかしひとりひとりの苦しみの背景は、ひとりひとり違います=自分で自分を救うという方法以外にわかりません。
背景がわからぬままに「自己責任」を他人が言う場合、相応のリスクが伴ったり、ブーメランが返ってきたりします。
水平方向から視点移動できない根本原因を辿れば、他人や環境のせいです。
加齢とともに自然に身につくとすれば、自然に身につくまで許してくれる環境があったから、とも言えます。
組織的弱者マウントの規模が大きくなると、マウントは次々と下へ下へと押しやられてゆきます。ピラミッドの一番下へマウント圧力の負荷がかかり、最終的にピラミッドの一番下に居住する住民が、玉砕覚悟の「無敵のひと」になってピラミッドの最上階に武器を投げ込んだ場合、ロジカルバタフライブーメラン(自己責任)と呼んでも良いでしょうか?
ひとりひとりの人間の持つ時間は有限ですから、自分の時間を有意義に使うために、他人に時間を使わないという戦略も、ある意味重要です。このバランスの答えもひとりひとり違いますが、文明の利器が時間泥棒(不快な時間の増加)に寄与している可能性はあります。
毒親に受けた傷を抱えたあなたは、つねにその痛みと戦っていることでしょう。
たしかに、直接的な原因は毒親に責任がありますが、間接的な原因は違います。もうわかりますね?
あなたの親が毒親になってしまった責任は、間接的には社会(環境)の要因が深くかかわっています。
つまり、あなたの毒親もまた、社会の憐れな犠牲者のひとりです。このことを深く理解しておいてください。
おおくのひとが成功できないもっとも根源的な理由は、大きな理想に対して行動できないor行動が伴わないことが原因です。
それに対しての答えは、大きな目標=マクロを、小さな目標=ミクロへ細分化して、行動のハードルを下げてゆくということを提示しました。
それともうひとつ、行動への邪魔もの=頭の中の「でも」「だって」を排除します。
行動を変えるために思考を変えます。
「でも大丈夫」「だって出来るから」
呪文のように唱えてください。
さて、繰り返しますが、全体を通して俯瞰し、文脈を理解する癖を身につけてください。そして次の燃料投下に備えてください。
一応、矛盾の無いように心がけておりますが、もしも矛盾と思われましたら都度、ご指摘ください。疑問(矛盾)の解消に向けて、丁寧にご説明いたします。
成功哲学の手順をまとめておきます。
まずは何らかの執着を手放さなければならない。
それは、あなたの成功を邪魔する執着です。依存症であれば、その依存症をまず治療しなければ前に進めません。逆説的ですが、たとえばあなたがわたくしに執着していた場合、それは立派な依存症です。憎しみか、愛情か。もしくはその両方か。人間の感情のやっかいなところです。時間を一緒に過ごすうちに、いつしか憎しみの中にも正体不明の感情が芽生えてくる。
あなたとわたくしの人生は、ここ以外のところでは永遠に交わることはありません。
また嫉妬できるのは、元気な証拠です。逆に嫉妬すらもできなくなってしまった場合は黄色~赤信号です。精神的にはかなり疲弊していると言ってよく、休息が優先されます。
わたくしの成功哲学によれば、執着はどこかで解消しないと成功できないということです。
わたくしのアドバイスによって成功し始めているひとは、もはやわたくしのアドバイスを必要としないひとです。
わたくしなどにここで関わっている暇はなく、自分の道に邁進していらっしゃいます。
自分の道が見つからない、というひとがいます。
何かに夢中になる、ということは夢中になるまでそれに関らなければ、夢中になることはありません。したがって、道が見つからないということは夢中になるまで何もしていないということです。
執着を手放したり、依存症を克服するために瞑想を教えました。しかし瞑想をまともにしていない、ということであれば、道は永遠に見つかりません。瞑想は、夢中で自分の中を旅する自己発見の旅です。ですから他者への依存、執着によって自分の中へ向かうことが出来ないということであれば、それも立派な「愛憎依存症」です。
執着の手放し方がわかれば、時間の使い方は自ずと変わってきます。
あなたの執着を手放す手伝いをするために、わたくしはしばらく黙ってあなたを見つめています。
あなたが自分のこころを通して、執着というものの正体を知り、そしてそれを客観的に見つめることが出来るようになり、やがて自分のこころの正体を知るころには、他人のこころ——自分と他人がさして変わらない部分も知ることができるようになります。
どれほど言い方を変えても、わたくしは同じことしか言っていません。その中核には本質があります。
特別授業
小さな経験の積み重ねについて、もう少し詳述させていただきます。
あなたがいじめの被害者の場合、恐らくですが脳内では、いくらでも合法的に復讐する方法を思いついているのではないでしょうか? それほどの恨みを抱えながら考えないはずはない、と思えます。
しかしそれでもあなたは、実際には復讐を遂げてはいません。それが合法的範囲であるにもかかわらずです。それはなぜか。
あなたには、実際に行動に移す勇気が無いからです。その勇気が無いことを、責めているわけではありません。勇気が出ない理由を、丁寧に紐解きます。
実際に行動に移す勇気とはどのようなものなのか?
その答えは、行動の積み重ねです。
あなたのこころを「生まれて初めて、プールに入る前」に遡らせます。
あなたは水面を目の前に、とても緊張しています。心臓が早鐘を打つように脈打ち、恐怖心からぎゅっと目を瞑って、水面が見えないようにしています。背後から声が聞こえてきました。
「大丈夫だよ。さあ、入って」
穏やかな優しい声です。さらに続きます。
「失敗しても、助けてあげるから大丈夫。勇気を出して、飛び込んでごらん」
まだ心臓はバクバクと音を立てていますが、この優しい声に背中を押されて、あなたは目を瞑ったまま、いよいよプールへと飛び込むべく、ジャンプしました——。
この小さな勇気の積み重ねが、行動することへのハードルを下げてゆきます。
残念ながらあなたは、こういう経験の積み重ねをする機会に恵まれませんでした。それは環境(社会)のせいですが、しかしこのロジックを理解したことで、次の一手を探ることができるようになります。
失敗を許さない社会が、失敗を許さないオトナをつくり、失敗を許さないオトナが子供の失敗に不寛容になります。極端にリスクを恐れるこの負の連鎖が、あなたから「遠慮なく挑戦する」機会を奪ってきました。当たり前ですが、犯罪者を許せと言っているわけではありません。常識的な範囲でのお話です。
それでは具体的に、どのように考え行動すると変わることができるのか、例示してゆきます。
あなたは今、自分の部屋に居ます。今は自由な時間です。
あなたはその場で立ち上がることもできるし、座り込むこともできます。
あなたは窓外に目をやり、景色を眺めることもできるし、部屋の中を見回すこともできます。
目を閉じれば、視覚以外の感覚器官が起動します。
お香を焚けば嗅覚に作用し、音楽を聞けば聴覚に作用します。
いずれに意識を向けるのか、それはあなたの“選択”です。
無意識を意識することは簡単ではありませんが、意識を意識することは比較的容易にできるようになります。
文字情報だけで脳の構造を丸暗記しただけでは、それを理解したことにはなりません。
実際に体感し、経験して試行錯誤を繰り返してようやく、理解できたことになります。
あなたにとっては、その場に立ち上がることは少し勇気がいることだったかもしれません。
しかしある日、あなたは部屋で立ち上がることに成功しました。小さな成功のひとつです。
ひとつひとつの、それらの成功を拾ってゆく作業が『人生』となります。
それをちっぽけだと馬鹿にしたり、恥ずかしいからと敬遠することで、大切な成功のチャンスをひとつ、逃してゆきます。そのひとつひとつの積み重ねもまた、あなたの『人生』として蓄積されてゆきます。
小さな立ち向かう勇気を積み重ねてゆくことで、次第に大胆な行動も難なくこなせるようになってゆきます。
当たり前ですが、復讐を助長したいわけではありません。常識的な範囲内でのお話です。
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何かの意思決定は、私(わたくし)の領域の開けた所にてゴーサインがあるはずだからこそ難しいという感覚。深夜に考えると情緒とか大丈夫か?!と思うなかを、深夜じゃなくても慣らしたくない、出来るような簡略なんか与えられないのでうろつく、いとまを感じだす相対時間なのかなと気づきつつ。与えられた自分の仕事とは何だろうの棘の周辺。。 言葉(単語、その役割)がどうというより言葉づかいの裏の規範が違和感に思うのだという視点になるほどなと思えて 過去,記憶や思い出それ自体がというより、取り巻いた空気を条件付ける規範が思い入れにも繋がっている気がしたし、簡略化されてたり過程が見えなかったりも当然含みながらだから、本当に強いものだなと自覚。疑う必要も備わりも改めて頷ける。影響を受けたもん勝ちやーっなら心の奥深くから聞こえちゃったりもするやつで、しかし振る舞いと問いもまるで追われるように必要なのだろうしで。喜んだ者が勝つというよりか..笑える環境 こそが私と地続きだといいのかしらと祈っていたのだ今
定義したり理由をあとから付けて探し出せるという人間らしさに即して... 。自分がいくつかの言い切りに対してえっじゃあ全ておかしいのか?!とびっくりしたー子供の頃の感覚と変われずに、そう思ったことが時代的な古さの価値観やステレオタイプ'のっかり'についてでもあったろうことは、共通として括ることもして良いかもしれない。自分の中にも先入観や区別は育ってしまうし、比べられない部分を持って何か形と迷いながらいて、何か常に抗うことを、'言葉だけで'分かっても、公の空気が煩悶していくことも許すしかないなら、不安定としか言いようもないし。アットホームな以下略です!、なんとなく言わないでおこう,どうせひとこと声かけた後はもう本人の判断なんだし、とか。ヘラヘラせざるを得ないのは何でどんな下地があったりして。 過程を分け合えない要約や簡略化、象徴、比喩。心を問わないわけにいくかいな!全然頭良くなれないぜい。今は2020年代の感じ、が付きまとうことも含めて。哲学だって学問だから、やっぱりわざわざフォーカス当てて拡げて論じていくしかないんだろうかとも思うけど、生活の中や外にどんな時空間を持てるかで変わっていく面も捨てちゃだめで。考えてないと怖いけど、それこそひとりの人間としていてもいいわけになる今回。ミラーボ��ルの健やかな反射のほうを探す、夢みたいな自動も夢の中にはある、出来ないものや寝言のような領域を、他人が混ぜたり言葉でならしたらいけないんだろうに、壊れてもいく。どんなどこを簡略化できていってしまうか、それによって感情がついて回ってしまうか...生き延びることが浮き彫りになるほどには、困惑ごと幸せと定義づく、はずなのに、情報の混雑と偏りは生きるほどに目に見えてるものね どうやって、命だけは大丈夫と思いながら言葉を往来させていくんだろう、筋違いや文脈を逸れてでもむしろどうやって分け合えばいいのかの一歩のきっと、誠実な対応がうんぬん以上の難しさ
流行できた言葉づかいに思い馳せると。アンガーとかヒステリックとのマネジメントが私から公への距離かもね、と考え。でもその瞬間のみならず、パフォーマンスとは?の範疇では残酷さが権利みたいなことになるのだね 両面だからな。。自意識も評価も別のまま 信頼という観念なんか話されなくてもそうなるんだものね 間接的な愛情で、へへん偉そうにできたり、空気という見えない過ぎてくものに慣れたり 生まれた時にはもう...と子供の頃よりは直視しなくて済んでるが消えないものも どうにもならなくなっていくこと残す、それは強い事実に思える。私のこと、エッセイも増えるだろうなあ ケアとキュアはどのように心のひだや 生ぶ毛として 発達させたり守ったり出来るのか、していいんだな、時に壁にしたり無理やり鈍らせたりさえ歴史なのであれば... 落ち込んでいく気持ち思い出せてしまう気持ちなくならないことごと守ること、せざるを得ないように思うこと、。比較に焚き付けても、または気力の演出やマナーが絞られても、併し矛盾しながらもやる行為として持つ何かのこと、なんか他律的なものの中で許せずに残っている怒りや恐怖が、温まらない ように(温める必要も、冷やす必要もだ) 思いついて考えたり落とし込んだり出来そうもんは全てやるしかないとして、ツールが敵わないものは遠めの星のままに なぜ震えるのか固まっているのだな
心の辺縁って全然冷たいかもな。近郊。田舎という言葉が指す土地に何かのやりがいを見出さないならそれでいいのさ、でも破綻してもなくならないんだ土地としては、土地的な隔たりと思い込める世界ではよ。植民とか由来のことを一度でも考えちゃうとなのかしらんけどほんと...どこも繋がってるよ隔てられず 北風と太陽のことも思い出していたけれど、それは 書かないでも。。やっていけるか続いてみる なんか......深刻なんだから😹
振る舞いって神経系そのものぽいギクッとしかたがあるなぁ、、すみませんひとつで今の自分はきっと違かったと何度も思う、
わかってみられるよ わかるよ 問いにだってなれるよ 優しくなんかないんだけど、出会いたいんだ
0 notes
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【⚫️】🍊👰⚰️
ユトレヒトさんの算命学。
自分自身を表す日干支が『丁亥(ひのとい)』という異常干支でした。
丁亥は六十干支一番、あの世と近く霊感が高いと言われています。
また、嫁ぎ先で意思疎通が困難なことから『異国の花嫁』とも呼ばれています。
ユニット名がオランダの都市なので、オランダ王家に同じような人がいないかと探してみたところ、このゾフィー・フォン・ヴュルテンベルク王妃を見つけました。
1818年6月17日 ドイツ出身。
誕生日から命式を見たところ丁亥は無かったのですが、肉体に異常が出やすい『辛亥(かのとい)』という異常干支でした。
女性の社会進出が進んでいない時代。
先見の明ある父ヴュルテンベルク王の方針により、政治に関わりのある教育を受け、父の影響の下、絶対王政ではなく民主主義を支持していたようです。
その後、ギリシャ王国から結婚の申し込みもあったものの、父親の意向でオランダ王家に嫁ぐことになりました。
政略結婚で嫁ぎ先に信頼出来る人はあまりいなかったようで、当時の王室の様子を毒付きながら酷評しています。
(これを見た時、違う意味で暗号異常干支の辛巳『蔑みの花嫁』かな?と思ってしまいました🫢)
当時オスマン帝国から独立した新興国ギリシャ王国へ嫁ぐことが出来たなら、その先進的な教養を活かす機会もあったかもしれませんね。
女性本人が伴侶を選べない��いうことはとても不幸なことですね。
で、
このゾフィー王妃は結婚生活が嫌過ぎて
「ウェディングドレス姿で埋葬するように」
という遺言を残してこの世を去ったそうです。
自分の人生は結婚式の日に終わっていたという強い抗議ですね。
ユトレヒトさんのデザインも右下側にフィッシュテールのスカート(?)を纏っているので、もしかしたらウェディングドレスの意味合いもあるのかなと思って取り上げて見ました。
大変印象深いエピソードです。
これを見て私は、実に民主主義的な終わり方だと思いました。
民主主義の使い方を間違ってるのは分かっているのですが、後世に与えるインパクトが強い。
この時代の女性は死なないと自由を得られない方達も多かったのだと思います。
自分の責任で選ぶということが出来なかった女性の最期の権利であり主張だったんだろうなと。
こういう積み重ねがあって女性の権利が確保され守られてきたのでしょうね。
男性、女性。
お互いに尊重しあって社会が成り立つのは大変素晴らしいことだと思います。
『ガウェインの結婚』
は義務教育に入れておくべきでしょう。
ただ今の時代、女性の人権が守られ発言力を持つようになって、それを勘違いした一部の知性侭ならない方達が、責任の所在なく権利を行使しようとする無作法も多く散見されるようになりました。
(発信している人が本当に女性かどうかは分かりませんが)
本当に、本当に。
ネットやメディアの世界では
ディストラクション多くて
辟易してる。
もう冥王星は水瓶座へ移動しました。
11月にはもう山羊座に戻りません。
土星は魚座に2025年までいます。
隠し事は出来ません。
秘密は暴かれます。
人を悲しませたり陥れる黒魔術はやめた方が身の為です。
日本って、おまじないの国ですよ。
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小野 正裕 (Ono Masahiro) - 富の伝承と文化の伝承
小野 正裕 (Ono Masahiro) - 富の伝承と文化の伝承
アメリカは世界で最も多く慈善寄付をしている国です。 ギビングUSA財団が発表した「2020年米国慈善寄付報告書」によると、2019年、米国の個人、遺産寄付、財団、企業は慈善団体に約4496.4億ドルを寄付しました。 アメリカの慈善寄付は、どのようにしてこの高みに達したのでしょうか?
アメリカの慈善事業の発展過程をたどってみると、富が蓄積された最初の黄金時代である19世紀後半から20世紀初頭にかけて、アメリカの富豪たちが大規模な慈善寄付を始めたことがわかります。 『アメリカの富豪はなぜ慈善活動をするのが好きですか? (一)』では、著者は当時の富豪企業家が置かれていた外部環境の変化について分析しました。一つは経済と社会関係の変化が富豪への寄付を推進する基礎要素を形成したことです。もう一つは政府の行政介入が富豪への寄付を促進する制度の基礎を築いたことを指摘しています。
社会批判が集中的な爆発し、政府の介入が続いたことで、先見の明のある富豪たちが反省を始めました。 彼らは具体的にどのように考え、またどのようにしたのか? 本記事では、引き続き詳しく解説しています。
激動する社会環境は、米国政府に変革を迫っています。 富裕層と起業家の役割問題も、さらなる論争を巻き起こしています。 経済生活の時代における起業家の重要性を疑う人がいないですが、アメリカ人の深い認識では、成功には善良な人格に基づく道徳的秩序が伴うべきです。しかし、ダーウィニズムに支配された弱肉強食の大企業のやり方は、この考え方に逆行するものであり、人々は起業家に対して両義的な感情を抱き、畏怖と不信の両方がありました。
大企業に対する態度について、支持派は、大企業の台頭は産業の進歩を反映したもので、それは良いことであり、より安い商品を提供し、より多様な商品やサービスを提供できるようになったと主張しました。改革派は、大企業はその経済力を利用して政府を引き込み、腐敗を引き起こすことで政府の手先になってしまったと主張しました。 彼らは企業家が公益を追求すること、またその冷酷さや腐敗を糾弾しました。批評家たちは、上院を富裕層の利益に奉仕する「大富豪クラブ」とまで表現しました。
特に1890年代半ばの経済恐慌の時期には、その不満は声高に叫ばれました。 アメリカでは社会的対立の兆候が非常に多く、カーネギーなどは民主主義が存続するのかどうか疑問に思っていました。 アメリカ社会では改革への意識が高まり、自由放任の原則に挑戦する古い価値観と新しい現実との間に緊張が高まっていました。
富豪たちの行動と現代公益思想の誕生 底辺の怒り、批判と抵抗、そして政府の改革に直面し、ヨーロッパ社会主義思潮が絶えず伝わってきて、大手財団にストレスを与えました。彼らは苦境から抜け出す道を探して、彼らの「強盗男爵」の悪いイメージを変える必要があります。 このような状況で、富豪や社会のエリートたちが反省し始めました。 一方、巨大な富の情報が自分の手に集中して、どのように富を処理しますか? 私有財産を守るにはどうすればいいですか? これは当時の大金持ちたちが直面していた時代の課題です。 再投資? 投資収益率は減少しています。消費? 富は消費能力をはるかに上回り、贅沢はもう不愉快になりました。 子孫に残しますか? 子孫に災いが及ぶことを心配して、富豪家族は子孫が衣食に困らない生活を送ることを望んでいますが、ハングリー精神を失いたくないし、巨額の富が彼らの互いの計算と傷害の伏線になることを望んでいません。
一方、富の所有者自身の生い立ちを見ると、彼らの多くは貧しい出身で、何もないところから出発しています。 制度の受益者として、彼らは動乱と革命が現状を根本的に変えるのを見たくなくて、温和で効果的な行動によって社会の矛盾を是正して緩和したいです。 彼らは自分が社会に貢献すべきだと考え、消極的に社会の矛盾を緩和するのではなく、積極的に自分の信念に基づいて社会の進歩を促進しようとしています。 最も簡単で便利な方法は、寄付して財団を設立し、公益を解決案とすることで、社会に利益をもたらし、子孫に事業を残すことができます。
カーネギーは1889年に発表した「富の福音」の中で、慈善活動を富の創造過程で急激に出現した社会問題を解決する方法としています。 「私たちの時代の問題は富を合理的に管理することであり、裕福な人と貧しい人の間は兄弟のような調和関係であるべきだ」と本は述べています。 彼は富の集中による貧富の格差の拡大は文明の進歩にとって避けられない代償であり、金持ちは社会に対して避けられない責任を持っており、社会が安定し、自分にとっても有利であると考えています。 財を集めるには散財と同様に高度な経営能力が必要であり、富豪は生前に適切な運営を通じて富を公共に利益をもたらす事業に使うべきだと主張しています。
どうやって公衆に利益をもたらしますか? カーネギーはまた続編『公益寄付の最良の分野』を書きました。彼は富を寄付する鍵となる要件は、被援助者に自己救済に不利な傾向です。例えば怠惰、不真面目、救済に頼るのではなく、人々を鼓舞し、自分の努力に頼って行動し、現状を改善できるようにすべきだと考えています。 このポイントに基づいて、カーネギーは富を寄付する6つの「最良の分野」を提案しました。大学、無料公共図書館、公園、公共プール、教会を建設し、病院などの医療機関を設立または拡大します。
カーネギーのこの二つの文章はアメリカ公益事業の古典的な作品と呼ばれ、20世紀のアメリカ現代基金の発展の思想基礎を築きました。 同時代のロックフェラーの基本的な考え方と行動はカーネギーと一致しています。
二、寄付して財団を設立することは富豪たちが選んだ組織方式です。 財団は公益事業の重要なキャリアであり、富豪たちは財団という組織形態を通じて、社会環境の改善を目指しています。 発展の歴史から見ると、財団は通常、社会で推進者、協力者、触媒の3つの役割を果たしています。私たちは20世紀初頭の3つの財団からこれらの役割の影を見ることができます。20世紀初頭に設立された最初のリーダーシップのある財団は3つあります。それぞれ1907年に設立されたセッチ財団、1911年に設立されたカーネギー財団、1913年に設立されたロックフェラー財団です。彼らは理念、経営方法、寄付モデル、寄付分野の選択において模範的な役割を果たし、その後の財団の発展基盤を築いています。
三大財団はいずれも、理事会の設置やプリンシパルの任命など、企業の運営方式を導入しており、理事会は意思決定権を持ち、財団のニーズに応じて業務プログラムや優先順位を調整することができます。 それ以来、財団の経営は専門化に向かって発展し始め、常勤の職員も大幅に増え、次第に独立した産業となりつつあります。また、鉄道や通信手段が発達したおかげで、財団の視野はもはや寄付者のコミュニティ、宗教に限定されず、アメリカ全土、さらにはアメリカ国外にまで目を向けるようになりました。 寄付の分野では、大多数の財団が教育、医療、農業、物理学、化学、生物学、天文学などの科学研究分野に投資しています。スタンフォード大学、ジョンズ・ホプキンス大学、コーネル大学、ヴァンダービルト大学、シカゴ大学など多くの大学は、アメリカ南北戦争後の寄付によって設立されました。 同時に財団は、ニューヨークのMOMAやロンドンのV&Aなど、美術分野への寄付も好んで行っています。
企業家が公益事業を寄付する動機について、一般的な見解では、慈善寄付の免税はアメリカの富豪が財団を設立する重要な理由の一つであると考えられています。 これは、米国財団の発展の過程で、税収���策の調整が慈善寄付に重要な役割を果たしていることを否定するものではないです。 しかし、本論文で述べたタイムノードで、特に前述の3つの財団が設立されたとき、米国には明確な慈善税優遇政策はないです。 アメリカは1913年から個人所得税を徴収し始め、1917年まで慈善寄付免税の税法がありました。 そのため、「米国財団の発達は政府税制の奨励に由来し、脱税は創立者の主な動機である」という認識は正確ではないです。
しかし、一つ指摘できるのは、この時期の企業家は慈善寄付には寛大に見えますが、労働者の労働条件を改善し、労資矛盾を緩和するなど、企業の社会的責任の面ではコントラストが大きいことです。金持ちと貧しい労働者との間はずっと対立状態にあります。カーネギーを例にとると、彼は他の業界リーダーと同様に、労働者に困難で危険な労働条件を与え、労働者スト運動を鎮圧し、彼の工場で労働組合を設立することに断固反対しました。 一方で、彼は不幸者に対する関心はまた真実で、1919年に亡くなる前に、累計は3億3000万ドルを寄付して、自分の巨大な富を社会福祉分野に投入しました。 ロックフェラーの箴言は、「手に入るものはすべて手に入れ、与えるものはすべて手に入れる」というコントラストの表れとも言えます。
統計によると、1913年から1919年にかけて、アメリカの実質賃金は上昇するどころかむしろ低下し、1日8時間労働制が確立されたにもかかわらず、それが企業で普遍的に実施されるにはほど遠かったです。 8時間労働を求める闘いは、ロックナー訴訟によって一時中断しました。 ロックナーはベーカリー経営者で、労働者に1日10時間以上の労働を要求し、ニューヨーク州ベーカリー法に違反したとして訴えられました。 この法律は、ニューヨークのパン職人組合とマスコミによる絶え間ない闘争の末、1895年にようやく成立しました。 裁判所はロックナーに直ちに50ドルの罰金を支払い、50日間の服役を命じました。 ロックナーは、ベーカリー法は労働者階級を優遇する階級偏重の法律であり、憲法修正第14条の平等保護条項に違反すると主張し、判決を不服として連邦最高裁判所に上訴しました。 ロックナーに勝訴の見込みはないと誰もが思っていました。 しかし結局、高裁はロックナーを支持する判決を下しました。 原判決は次のように述べています。「この法律は、雇用主と被雇用者の間で契約を結ぶ権利、すなわち雇用主のパン工場における被雇用者の労働時間に関する権利を必然的に妨害するものであります。 自分のことに関して契約を結ぶ一般的な権利は、連邦憲法修正第14条が保護する個人の自由の権利の一部です」。 それ以来、「ロックハートイズム」が優勢となり、数十年にわたる労働争議と労働者運動を引き起こしました。
もちろん、8時間労働制を実施している企業もあります。 1914年、ヘンリー・フォードは比較的大胆な措置を講じて、労働者の給料を1日5ドル、勤務時間を9時間から8時間で、つまり「5ドル勤務日」に減らすことにしました。 当時、自動車業界では一般的に日当が2-3ドルでした。 このようにした結果、フォード社の労働者欠勤率は下がり、離職率も0.5%以下に下がり、同時に採用事務室の入り口には長い列ができました。 また、自動車の生産規模の拡大に伴い、自動車の生産量は急速に向上し、コストの低下は明らかで、有名なt型車の出荷価格は1950ドルから290ドルに下がりました。 フォードは「給料を1日8時間5ドルにすることは私がこれまでにしたことのない最もきれいな管理決定であり、それを6ドルに引き上げることは、私がその上でさらにきれいな管理決定である」と誇りに思っています。 この決定は、フォードが技術的に熟練した��実な労働力を得ただけでなく、一部の労働者の給料を上げることで自動車を買うことができる大衆消費者を育成しました。 しかし、パイプラインの労働者は依然として疲れ果てており、革新効果は次第に減少しています。フォードの試みは結局、一部の企業活動が暴露した道徳問題や、鋭い階級対立、環境汚染、社会不安などの問題を解決することができませんでした。
もちろん、大富豪やその財団の公共福祉に対するアメリカの世論は��ずしも肯定的ではなく、批判は続いています。 一方では、財団がその富を利用して教育や医療制度、さらにはアメリカ社会全体の野心をコントロールし、最終的には一般市民を混乱させ、麻痺させ、地域社会に深刻な脅威をもたらすと批判されています。ある人々は、大富豪たちの「寄付」は利己的な喜びであり、恩着せがましく、優越感に満ちている、あるいは贖罪意識からくるもので、善行とはみなされないと批判しています。またある人々は、こうした公共の福祉は本質的に、自分たちの財産を守るための大コンソーシアムによる脱税であると非難しています。 善行です。また、これらの公共の福祉は本質的に、財産を守るための重要な方法である税金の支払いを回避するためのコンソーシアムであり、さらには、移転の犯罪を「清算」するための寄付を通じて不正な利得を求める不適切な手段の使用であると非難する者もいます。
では、富豪寄付基金の効果はどうでしょうか? これは非常に重要で評価が難しく、また答えなければならない質問です。 資中筠さんはかつて非常に重要な観点を述べました:「一つの社会の継続と発達はどのように発展と平等のバランスを取るかにある」。 この観点から、アメリカの財団は両方の面で積極的に貢献しています。 同時に、大資本家は基金会を設立することで税収減免と富の移転と継承による利益を享受し、基金会の資金運営によって大きな資本利益を得ました。
三.社会的な力としての財団は、新しいタイプの政府と企業の関係に貢献します まず、米国財団は社会的矛盾を緩和する上で大きな役割を果たしていることを認めなければなりません。 20世紀初頭、アメリカ社会の矛盾が鋭く、大規模な調整と改良が必要な時、財団は政府より先に教育、医療などの分野で救助を行い、先駆的な役割を果たしました。
1929年の大恐慌は、アメリカ社会のパニックと空前の激動を引き起こし、問題の深刻さは民間救済では解決できず、さらに起業家も危機で深刻な傷を負いました。 ルーズベルトの当選とニューディール政策の登場に伴い、アメリカの社会福祉は新しい時代に入りました。 「ニューディール政策」は社会保障体系を確立し、労働者の自由組織の権利と代表を選ぶ権利を保障しました。 また、民間寄付を大いに奨励し、大企業の寄付に対して一部の免税待遇を与え、民間寄付を奨励することを士気を高め、社会的結束力を高める手段としています。 このような状況の中で、いくつかの大財団は政府ができる限り社会を救うことに協力して、ルーズベルト新政は政府の介入政策と民間の寄付行為との対立を避けて、政府の行為が民間の慈善事業に完全に取って代わられないようにしました。
ニューディール政策の後、富裕層と一般大衆の妥協は成功し、経済は大きく成長し、所得格差は着実に縮小しました。1940年代から1970年代にかけて、アメリカの上位1%の富裕層の所得シェアは、1940年の約16%から1970年には7%にまで低下しました慈善事業も強力な力となり、ある分野では社会のアジェンダにも影響を与えることができます。例えば、ゲイツ氏は2014年のインタビューで、財団の活動の目的は、政策立案者に直接何をすべきかを指示することではなく、政策立案者が選択できる選択肢を増やすこと述べました。
その後、アメリカ政府の福祉政策は企業、民間公益寄付と並行して矛盾せず、相補的な新しい政商関係を形成しました。 政府にとって、財団は政府の遺棄を補い、政府が「していない、できない、またはしたくない」ことをすることができます。 一方、財団は政府の公益事業資金の不足を補い、政府が社会の矛盾を緩和し、社会福祉を満足させ、文化教育を発展させるのを助けることができ、またアメリカの価値観とイデオロギーを輸出する有効なキャリアとなり、政府外交政策の「見えない手」となります。 基金会にとっても、政府との関係は政府の意思決定への影響を増やし、自分の影響力とコントロール力を拡大することができます。 ロックフェラーが指摘したように、「ワシントンの国務院は私たちの最大の助っ人であり、多くの大使と部長たちは私たちが世界で最も遠い隅に新しい市場を開拓するのを助けてくれました」。
社会組織である財団と政府との間の人員移動もよく見られます。 アメリカの多くの政府高官は財団と密接な関係を持っています。 例えば、ロックフェラー財団だけでも、国務長官を務めた政府高官が3人います。 第一は、ラスク(Dean Rusk)は、トルーマン政権で国務次官、ジョンソン政権で国務長官を務め、2回の政府職務の間にロックフェラー財団の会長を務めました。 第二は、ジョン・フォスター・ダレス(John Foster Dulles)はロックフェラー財団の会長職を退き、アイゼンハワー政権で初代国務長官を務めた後、カーネギー平和財団の会長を務めました。第三は、サイラスヴァンス(Cyrus Vance)で、ロックフェラー財団の会長職から退任した後、カーター政府の国務長官を務めました。このように、この財団は「影の内閣」とも呼ばれています。
慈善寄付は社会の進歩を推進する重要な原動力となっています 20世紀以来の基金会は、アメリカ社会の改良を推進する三つの力の一つとみなされ、世界経済の発展を促進し、社会の進歩を推進し、貧困を減らし、健康を促進し、貧富の格差を解消する重要な力です。 彼らはグローバル財団の発展をリードし、今日でもグローバル文明を推進する上で重要な役割を果たしています。
財団の教育、科学研究に対する強力な支援、および知識の伝播と文化学術交流に対する熱心な提唱は、社会生産力の発展に積極的な推進作用を果たしました。 同時に財団は社会的弱者にも注目しています。 アメリカの特定の条件下では、人種の矛盾と貧富の差は常に深刻な社会問題ですある。 慈善基金は社会の不平等を根本的に解消することはできませんが、アメリカの1世紀以来の矛盾の先鋭化を防ぐ重要な力を構成しています。
特に、自然科学でも社会科学の分野でも、いくつかの新しい発明や研究は、最初の肝心な時に財団の助成に役立つことが多いです。成功が自信がない場合や、実際の利益が明らかでない場合、一般政府や企業はリスクを冒したくないからです。 この助成金の割合は小さいですが、「無から有へ」の推進作用を果たしています。
ロックフェラー財団を例にとると、1928年、ロックフェラー財団は英国人フレミングによるペニシリンの発見に資金を提供しました。ロックフェラー医科大学の設立後、数年以内に鉤虫症、流行性髄膜炎、ポリオ、黄熱病、梅毒の研究が飛躍的に進み、鉤虫症だけでも6500万米ドルが投資されました。1930年、ロックフェラー財団は近代的な職業・精神医学研究の先駆者となりました。ロックフェラー・ウイルス研究所に勤務していたテイラーは、黄熱病に対するワクチンの開発でノーベル医学・病理学賞を受賞しました。ロックフェラー財団は、フォード財団やその他の財団と共同で「緑の革命」プログラムを立ち上げ、米やその他の作物の収量を倍増させました。また、当時最先端であった遺伝学、生物物理学、生化学の飛躍的進歩や、検出器ミラーやX線分解装置などの研究機器の改良と発明も、すべて財団の支援によって実現しました。
同時に、財団が始めた新しいプロジェクトが、後に新たな政策として政府に引き継がれることも多かったです。 例えば、フォード財団のスラム対策「グレーゾーン」プロジェクトは、ジョンソン政権の「貧困との戦い」プログラムの先駆けとなりました。カーネギー財団の公共図書館と大学教員の年金プログラムは、公共の福祉に分類されました。ロックフェラー財団の公共図書館と大学教員の年金プログラムは、公共の福祉となりました。カーネギー財団は、公共図書館や大学教員の年金プログラムを開始し、これらは公的給付として分類されるようになりました。ロックフェラー財団は、第二次世界大戦後のアメリカにおける人口動態の変化を初めて分析しました。
今、主要な財団は、経済発展と平等のバランスを世界的に維持する上で重要な役割をしています。 例えば、ゲイツ財団は、世界保健機関、世界銀行、ユニセフと協力して、グローバルワクチン免疫連合(Gavi)を設立し、各国政府と関連機関に共同で資金調達してワクチンを購入し、低所得国の子供たちに提供するよう呼びかけています。 2019年までに、Gaviは7億1300万人以上の子供のためにワクチン接種し、1300万人の子供の死亡を回避しました。 この機関はまた、より多くのワクチンと物資をより安い価格で市場に導入することに成功しました。例えば、1剤で5種類の致命的な感染を予防できる5連ワクチンは過去の価格で3.65ドルでしたが、現在では1ドル未満に下がっています。
財団の設立と管理は富の分配と継承の構成構造となっています 現在、米国には特別で独立した慈善法はなく、憲法、税法、会社法、非営利団体法などの連邦および州の法律法規に慈善に関する規定と条項が散在しています。 米国の法律による基金会の税収規定は、基金会を富豪たち脱税のための有効な道具とし、財産を長期的に保存するための重要な手段の一つとなっています。
『アメリカ連邦国内税収法典』第501条(c)項(3)項の規定に従って、登録された基金はすべて所得税を免除する優遇政策を享受することができます。 慈善団体の収入は、私立財団の純利益に消費税を徴収し、目的に関係のない商業収入に課税することを除き、免税です。 また、慈善団体に寄付した組織と個人に税金控除を与え、個人が享受できる税金優遇はその年の税前収入の60%に達し、会社は税前収入の25%に達します。これは慈善寄付を大いに奨励しています。
米国国税庁は財団に対し、毎年財団の投資資産の時価総額の5%に相当する金額を慈善目的のために、支出することを義務付けており、余剰分は翌年度の最低支出額に対して積み立てることができ、最長5年間繰り延べられます。その結果、ほとんどの財団は、毎年わずかな部分のみを慈善目的に支払い、多額の資金を財団に留保しています。様々な投資を通じて、財団は「保全と感謝」という目的を容易に達成することができ、財団の財源が持続可能な発展を達成し続けるようにすることができます。ルンドバーグが言ったように、「財団を通じて、創設者はより多くの資金を得ることができ、より多くの資金を残すことができる」のです。
アメリカには慈善団体の支出比率をハードに規定する法律がなく、慈善団体の中には慈善の看板を掲げて私利をむさぼる人もいます。 統計によると、アメリカの数十の慈善団体の管理支出は70%を超え、一部は90%を超えています。 例えば2015年に明らかになったがん財団のスキャンダルでは、「アメリカがん基金」という慈善団体が受け取った1ドルの寄付金のうち、実際にがん患者に寄付したのはわずか3セントでした。 慈善基金はアメリカの現在の「贈収賄」方式の一つになっており、クリントンやトランプなどには自分の名前をつけた慈善基金があるとの告発もあります。 利益グループがある役人に賄賂を贈りたいとき、慈善基金に寄付することができ、基金は「個人の金庫」になります。 彼らはほんの一部を慈善活動に使うだけで、残りのお金は日常の花屋に使うことができ、その名の通り「行政費用」です。 このように、財団は発展の中で、富豪家族が財団を利用して利益を求める、財団と企業が互いに利益を求める、財団が不正に投資するなどの問題がよく発生しています。
米国政府は税制上の免除を提供する一方で、慈善団体に対する入会基準や運営上の要件を定めています。税法では、財団は毎年、その財務および運営活動の状況を文書化した詳細な年次報告書、フォーム990(公的慈善団体の場合)またはフォーム990-PF(私的財団の場合)として知られています。慈善活動の詳細が記載され、特定の質問に対する回答には、文書や説明資料の添付が義務付けられています。フォームの必須項目には、利益相反を回避し、慈善団体の資金の不正使用を防ぐために、団体の管理者の個人情報、相互関係、給与についても規定されています。慈善団体が免税を受けられるのは、申請書が内国歳入庁によって審査され、承認された後です。
米国政府はまた、法律ハードルール基金を通じて社会公衆の問い合わせ要求を満たし、社会監督を受けなければなりません。そうでなければ、国税庁は厳しい処罰を与えます。 税法によると、免税資格を取得した慈善団体は、免税資格申請書とすべての添付資料、年度財務諸表が公共書類であり、社会全体に公開して、公開して閲覧できるようにしなければなりません。一部の組織は厳しい鑑査を受けなければなりません。情報の透明性は慈善団体を監督する多くの機関を生みました。 これらの機関は慈善団体が提出した公開情報の抽出を簡素化し、財政状況、説明責任能力、透明性などの指標を用いて慈善団体を評価採点し、寄付者に参考を提供し、社会監督の目的を達成しました。 慈善資金を慈善事業に投入することを奨励するため、2021年1月『フォーブス』は過去のフォーブス400��善ランキングの評価方法を変えました。 このランキングでは、ランキングメンバーが一生の間に財団に投資した資金を計算するのではなく、これらの財団からの寄付金に加えて、追跡できる直接の寄付金を集計し、フォーブス400ランキングのメンバーが実際にどのくらい寄付したかを試算しました。
慈善寄付が家族の伝承に与える積極的な役割は主に富の伝承と文化の伝承の2つの側面に現れています。 富の継承の観点から見ると、一方で、国家の巨額の遺産税の存在により、家族の富を基金会に移すことで富の最大の残存が実現し、「敗者」の出現により巨額の財産が急速に浪費されることも防止されています。 一方、慈善事業は家族に分散投資の機会を提供し、すべての財産を家庭の主要な経営業務に投入する潜在的リスクを回避します。 文化伝承の観点から見ると、慈善活動は「裕福な世代」たちの個人と家族に対する価値観の基本的な表現で、慈善活動が家族リーダーの存在の価値観を実践に追い込むのです。 アメリカでは、慈善活動は裕福な人々に子供と外部との接触を奨励する重要な手段とみなされています。 家族は慈善活動を通じて富の真の意味を理解し、親や先祖が行っている慈善事業に誇りを感じ、家族への更なる賛同を形成しています。 多くの後輩はこれによって先人の慈善事業を継続し、さらにはそれをより広い分野に広げました。 子孫に受け継がれるのは富の管理だけではなく、家族の慈善精神もあります。
慈善活動を通じて、家族の社会的価値も向上しました。 慈善事業への投資を通じて、ロックフェラーやカーネギーなどは自分のイメージの再構築を成し遂げただけでなく、アメリカ社会のあらゆる面で家族の影響力を高めました。 例えば、ロックフェラー家は長年ブルッキングス学会などのアメリカのトップレベルのシンクタンクを支援して、連邦政府の決定に直接影響しています。マンハッタン東区の土地を寄付することで国連本部をニューヨークに移転した話はさらに美談になりました。 国際交流では、フォード財団に代表される家族財団がアメリカ外交の先駆者となり、海外で直接または間接的にアメリカの利益を推進しています。
現在、ロックフェラー家族は第6世代に発展しています。 百年を経て、ロックフェラーの子孫たちは文化、衛生、慈善事業に積極的に参加し、大量の資金を大学に投資し、病院を運営し、社会全体で彼らの富を共有できるようにしました。 家庭の富の内部伝承に加えて、ロックフェラー家は彼らの富を使って社会に貢献し、家族の影響力を世界各地に浸透させました。
以上のことから、アメリカの慈善寄付の現代的発展の歴史を分析すると、慈善寄付は社会各界が合意を得ることができる事業であり、国、人種、宗教、文化を問わず、さらには異なる組織でも合意を得ることができ、参加者も積極的に行動します。 将来の発展には、より長期的な社会問題に対応して解決し、人類の進歩を促進するために、富の所有者と政府、司法機関、学界、新たに出現した業界協会などの様々な進歩エリートとの間に協力関係を築く必要があります。
アメリカの富豪が最初に財団を設立した寄付の動機を見ると、彼らが寄付を始めた目的は、自分たちが置かれている社会環境を変え、社会の矛盾を緩和し、さらに社会全体の環境を変え、社会の進歩を促し、教育、医療、芸術分野での寄付がより高い社会構造を示していることがわかります。 彼らの慈善活動は、すべての人の利益を最大化し、社会的矛盾を解決することです。 全体的に見ると、「いかなる慈善的動機に基づいても、慈善事業自体の目的は人類文明の福祉、幸福、文化を推進することである」。
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毎度最高な未来をどこか期待している
抗うまま生きる不幸を
受け入れるならば自由を探して
01|女王蜂
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ある画家の手記if 佐伯/雪村光視点 告白
わたしはひとが好きだった
お父さんが外国にお仕事にいって、すぐにかえってくるって言ったけど、わたしが見れたのはテレビにうつってる事件現場だけだった。 どこかにお父さんがうつってるかもしれないと思って、お母さんにたのんでぜんぶの報道を録画してもらって、何度もよく見た。でも画質がわるくてお父さんは見つからなかった。 毎日テレビにはりついて見てたらお母さんはわたしにやめるように言って、録画は消された。 わたしはお母さんに辛いことを強いていた。わたしはお父さんを探してたけど、お母さんはもう死を受けいれてわたしのために次にすべきことを考えてた。そのあいだもわたしはほとんどただの繰り返しや使い回しにちかい同じ映像をずっと見ていた。わたしにとってその映像はお父さんが生きてるかもしれない希望だったけど、死を受けいれたひとにとってそれはただ惨いだけのものだった。 それでもお母さんはわたしがテレビを見ているときは、寄りそって一緒に見てくれた、かならず。あまりにグロテスクな映像が出たり子供が見てはいけないものが写ったときにすぐ消せるように。 わたしは 守られてた。
わたしが希望を頑なに信じるとき、現実を見据えた誰かが傷ついている。 それでもわたしは、明るいほうへ進むと決めた。世界中のひとが絶望したとき、イレギュラーな存在が必要だ。狂っているように見えたとしても。みんなが足並みそろえてしまったら、現実さえ、おわりだ。 お父さんは死んだ。目指す先に明るいものがどこにもなくなったんなら、わたしは自分で光を放つ。
光るものは狂っている。 そんなことは知っている。 絶望しない人間なんて だれの救いにもならないんだよ
お母さんは前より病気でずっと寝てるようになって、一人のお兄ちゃんがうちにきた。 お母さんに「お兄ちゃんができるなら誰が良いか」聞かれて、わたしが選んだ、パーティ会場でよく会った春輝くん。 お母さんは春輝くんのことを、「お父さんだと思わなくていいから、お兄ちゃんができたみたいに思ってね」って言った。お母さんがそう言ってるのをわたしと一緒に春輝くんも聞いてて、「それがいいですね」って優しく笑ってた。 その頃おとなの年齢の違いはあんまり見分けがつかなかったけど、春輝くんはお母さんよりすごく若かった。 春輝くんにされたことにどう反応したんだったか、自分の挙動や様子をよく覚えていない。春輝くんを見てたから。
どちらが先だっただろう わたしはひとが好きだった
誰に何をされても怒りや憎しみを抱けなかった 害意を向けられて、それが害悪や犯罪であるとして 誰もが完全な悪人になれない現実があるなら誰もの善性と光をわたしが信じよう ほかの誰が悪だと決めつけたものからも、わたしが美しいものを見出そう 現実の、一側面だ そんなのは詭弁だ、許せないものをそうやって存在から否定してるんだ 悪を真正面から受け入れることで許せないものを抱える勇気がないだけだ 許すのでも許さないのでもない わたしはそういう判断を下す存在じゃない 誰一人裁かない …そのころのわたしは、そうおもってた お父さんを殺した人間は警官に見つかってその場で銃で撃ち殺された 言い分のひとつも訊ねられないまま わたしが唯一憎める存在は、知らない誰かに殺されてしまった、怨恨でも個人的な感情に基づくものでもない、公的な権利が裁きを下した 警官を非人間的に社会的な役割だけでその存在と行為を見るのなら、そういうことになる 現実は? 警官は、ただの人間だ
わたしはひとが好きだった 撃ち殺す瞬間に、自分の家族が殺されたわけでもない無関係な一警官の心に、悪を許さない独善的な正義感が生じたのかもしれない それは彼の行為を自身の中で是とするために生まれたか 殺人という行為への抵抗感を快感へすり替えるためになされたか あるいは無機質な義務感が感情も伴わず引き金を引いただけかも もしくは今日もその瞬間を思い出して泣いているかもしれない 単純ではない、そういうものを、愛しいと思った 人間らしいと わたしはひとが好きだった
誰との関わりも禁じられた空間で わたしが個人的に人間同士として愛せるものがなかったからそうなったのか わたしの中で人間は個人にはならないのか わたしは 人と関わらずに、ただ愛でているだけで、高い場所へ逃げ込んで 神のような視点なんて、誰かと関わるのを恐れてるだけの臆病者じゃないか、誰への責任も持つつもりのない卑怯者じゃないか それで美しいものを空から眺めてみつけてあげようって? 現実感を地に落っことしたただの愚者じゃないか
それでも裁きを下したのは、わたしじゃなかった それが事実だ どうして 撃ち殺すのはわたしじゃなければならなかった… いや、わたしはその行為を愛していた とにかく、なんだっていい、憎しみに呑まれてはだめだ わたしはお父さんに生きててほしい そのために、わたしはどうすればいい?死んだんだ、どうにもならない わたしがここで停止すれば、お父さんを生かせる そんなわけがあるか
だれにも 話せなかった お母さんにも 春輝くんがああなのはわたしが空から眺めているからだ 春輝くんを個人として見ていないから だからなんでも許せてしまう 許せるわけがあるか、わたしは、許す許さないなんて場所に居ない わたしに対する行為に罪も罰もない だってここは家の中で、法治国家であるこの国の唯一の完璧な無法地帯だ 怒りを抱けない自分だけを許さずにいればいい 自殺をだれもに許さない神はいつでも自分だけに甘いんだから だめだ だめだ わたしは人間でなければならない。お父さんはわたし���そう扱ってくれた。 これじゃあ だれのことも 愛せない
変わらない体 狂った味覚 おいしい食事は万人の幸福だ 世間的な幸福から逸れてしまったわたしは、世間的ではない幸福を求めるべきなのか みんなに追い抜かれて置いていかれる わたしがとどまってる場所にお父さんはいないのに? 知ってるんだ、わたしの体が止まったのはお父さんと一緒にいたいからじゃない、だれを失っても時間は勝手に進むんだ 成長が止まったのは春輝くんにされたことが原因だろう 時期的にみてもそうだ 春輝くんの言うわたしの病気は、嘘だろう わたしはお母さんの病気の容体をいつも隣で見ていた。同じ病気のわけがあるか。 わたしは隣で見ていた。同じなわけがあるか。あれと。あの苦しみと。それを、まるで同じもののように お母さんの苦しみをステータスのように扱ってわたしに簡単にあてはめた 許さない
許さない
…そうやって、わたしは憎しみを得た お母さんがわたしを人間にする代わりに死んでしまったみたいだった そうじゃない、病気が悪化したからで、わたしと関係なんて あったの? なかったら さびしい なかったら、お母さんが死んだことも お父さんが死んだことも わたしはだれの死にも関係のない場所にしかいられないの? 守られてるから?
「こんなに背が小さいのも初潮がこないのも、病気の影響だよ。この歳でこんなに背が低いなんて昔なら奇形児なんて言われて気味悪がられてるところだ。今でもそういうふうに言ってくる心ない人は外にたくさんいるけれど、光がここにいれば僕が守ってあげられる。お前はきっと一生一人では何もできないだろう。未成熟な醜い子だけれど、僕は光を誰より美しいと信じてるよ。光を愛しているからね」 わたしは表情を作らずただじっと相手を見返した。笑うべきだろうか。 笑うべきなんだろうな。おかしくてたまらないから。 気味悪がられてるって?そういうふうに言ってくる心ない人とは、今それをわたし本人に向けてわざわざ口にしたお前に他ならないだろう、これが笑わずにいられるか。 わたしは笑わなかった。 誰かをはっきり見下す勇気がない 好きでいるしかできない わたしは弱い
思考回路はめちゃめちゃな順序で意味不明なものと無作為に結びついて繋がってしまう わたしが本ばかり読むせいだ 無秩序に、大量に いくら歴史的文脈を踏まえて読んだって自分の居る時間軸と立ち位置、つまり自分の文脈をーーー現実を知らないならいくら知識を得ても無知だ 人間を育てるのは紙切れじゃない そういう意味ではわたしは春輝くんからも大きな学びを得てるんだろう ひとについて知らなければならない 紙切れからじゃなく実体に触れて 自分を文脈のなかに置かなければならない 学校で、付き合いたいって言われたすべてに快諾した わたしはだれのことだって好きだ 付き合えば嫌いになれるかもしれない ひとをよく知れば、憎めるかも 多様な悪性を知らなければいけない それは善性を否定することにはならない そうだよね、無条件の人間への信頼をただのお父さんの教えではなくて自分のものにするために わざわざ春輝くんに紹介すれば全員と別れさせられた 別れさせられても何も感じない まだ足りない わたしにはまだまだ足りない 欠落の底が、見えない
春輝くんはしらない人間にわたしのことを襲わせはじめた
それだけはだめだったのに
ルール違反だ、家族以外の他者を無法地帯に招き入れて犯罪者にしてしまった、それはだめだよ、春輝くん
わたしは逃げた 初めて、そういうものから わたしが他人に捕まれば春輝くんを犯罪者にしてしまう 小さな体で、あちこちに隠れて 息を潜めた 欺瞞だ、春輝くんのためなんて きっとわたしが怖いだけなんだ 逃げる理由を春輝くんに押しつけちゃだめだ 見つかったら どうしよう こわい 助けて たすけて たすけて おとうさん
わたしは遊んだ、昔みたいに みんながわたしと遊んでくれた 見つかればわたしの負けで それはわたしが弱かっただけだ いつも笑っていた みんなと遊ぶのはたのしかった だれにも見つけられないときは髪についてる鈴をふった
…真澄と初めて会ったとき、なんだか怖そうできらいだなって思った。 春輝くんのこともわたしは嫌ってるわけじゃない ひとなら誰でも好きだったのに 愛すべきものだから …それだけじゃない、だからこそ、愛すべきものだ なのに、なにも知らない初対面の相手に「きらい」なんて思ったのは初めてで それを初恋って言うのかなぁと思ったよ
すべてのものは自ら光っている お父さんが昔そう言っていた 発光できないものも外側から浴びた光を反射して光ることができる わたしはひとりで燃え尽きるつもりだった いまは わたしの光を受けた誰かが、わたしに光を跳ね返してくれれば、燃え尽きずにみんなが光りながら、わたしがおもってたより長くつづくかもしれない とか 終わりを見ながらおもうよ
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無限と自然
こんにちは😃
今日は書き続けてきた無限のブログの最終回、無限と自然についてです!
(前回までの内容:無一郎君、無限、無限2、無限3、無限と音、無限と音2、無限と音3)
これは鬼滅の刃のアニメからインスピレーションを得て書き始めたブログでしたが、書いているうちに思わぬ方向に進んで、内容もほぼないのに3ヶ月もかかってしまいました😅
長々とお読みくださってる方がいたら心から感謝です。多分いない👻
という感じで、このブログは主に私が読者の自己満ブログではありますが、今日の引用はとても勇気が出る内容なので、もしも読んでくれた方がいたら、ポジティブな気持ちになってくれると嬉しいなぁと思います✨
私もスマホのメモ帳に入れてよく読み返している内容です。
ではではさっそく前回から引き続き、ライフスパンという本から引用していきましょう✊
デビッド・A・シンクレア先生というハーバード大学医学大学院教授の、寿命を伸ばす研究に関する本です。
私が生涯をかけて研究している内容を批判する人は少なくない。
しかもそれは、ソーシャルメディアにたむろするような、名前も顔もない人々だけではない。ときにそれは同じ科学者であったり、親しい友人であったりする。
それでも私は、私たち共通の未来への明るい希望を捨ててはいない。否定ばかりする人間には同調しないことにしている。
名前も顔もない人々ってかなり辛辣な表現ですよね💦
その批判の内容は寿命を呼ばすことが不自然だという意見がメインです。
(なお、先生が主張されている “寿命を伸ばす” というのは尊厳死と合わせて議論されているようなチューブであちこち繋いで行う延命治療ではなく、健康寿命を伸ばすという意味です。)
では何が自然なのか。
より良い暮らしを送りたい、恐怖も危険も暴力もできるだけ少なくして生きられるようになりたい──私たちにそう思わせるやむにやまれぬ衝動こそが自然なのだ。
人間は地球で生き延びるために、数々の変化を遂げてきた。
その変化は、素晴らしきサバイバル回路と長寿遺伝子も含め、ほとんどが自然選択の産物であるのは間違いない。
生物は凄まじい進化を遂げてきて、その中には人間が起こした遺伝子の組み替えや変異もあるけれど、自然に起こったものの方が確かに多そうですよね。
そもそもの猿から人間への進化だって、研究室の中で起きたわけではありません🙅♀️
数十億年をかけて、環境が厳しいときに大人しくしていられなかった者は淘汰されていった。
しかし、人類が過去50万年のあいだに蓄積してきた様々な技術が、私たちの生存を大いに助けてきたのもまた事実である。
弱い遺伝子は自然淘汰されてしまいましたが、逆に私たちの発見(ペニシリンのような抗生物質等)が弱い遺伝子を生きながらえさせることもあるそうです。
チンパンジーが小枝を使ってシロアリの巣の中を探るのも、鳥が貝に石を落として貝殻を割るのも、サルが日本の温泉につかるのも、すべては自然なことなのだ。
幸運にもヒトという生物は、学習して技術を習得し、それを他者に伝えるのに長けている。200年ほど前からは、科学的手法と呼ばれるプロセスを編み出して活用し、それがさらなる学習を加速させてきた。
こう考えると、文化も科学技術もどちらも「自然」である。
例えば綺麗な景色を家族にも見せたいと思うこと。絵の具があれば絵を描いて、カメラがあれば写真を撮ること。これらもすごく自然なことですよね。
昔は魂を取られると恐れられていたカメラ、フィルム派の方々に邪道と言われていたデジカメだって、振り返ればひとつの進化であり、色々な発明全てが “自然” なのかもしれません。
より多くの人に食料を行き渡らせ、病気を減らし、そして、そう、健康でいられる時期を長くしようとする。そのための新しい工夫をするのは自然なことだ。
自動車に飛行機。ノートパソコンに携帯電話。家で飼われているイヌやネコ。眠るときのベッド。病気のときに人が人の世話をする病院。みんな自然である。
ホッブズの有名な言葉を借りるなら、人生が「孤独で貧しく、不快きわまり、獣じみて短い」状態に留まることで維持されていた人口を、私たちははるか昔に突破した。
そんな生物にとっては、どれもが自然なのである。
ホッブズについてはこの前の方にも記載があります↓
イギリスの哲学者トーマス・ホッブズは、1651年に主著『リヴァイアサン』(光文社)のなかで、いわゆる「自然状態」にある人間がいかに悲惨かを綴った。
「学問も芸術もなく、文字もなく、社会もない。そして最も忌むべきは、むごたらしく死ぬことへの危険と恐怖に絶えずつきまとわれることだ」。
人間の圧倒的大多数がそんな一生を覚悟していた世界から、私たちはとうの昔に決別したのである。
確かに電気やガスのない前近代的な生活が自然だったという考えもあるのかもしれませんが、ではその頃の人たちが幸せだったのかというと、そんなことは無さそうです。
アンドルーワイル博士というアメリカの医師の“人はなぜ治るのか”という本に、この100年ぐらいの医療の歴史が書かれていますが、数十年前の医療ですら、今から考えるとあまりの適当な処置に本当に驚かされます。
もし私がそんな時代に生きてたら、病気になるだけでとても不安だっただろうなぁと思います。
ここまでで強調したいのは、”人為的なことであれ、そうでないものであれ、安心、快適に暮らすために起こったことは全て自然だ” ということかと思います。
私が思う「不自然な」ものは1つしかない。
「より良い暮らしを送るためにできることには限界がある」という考えを受け入れることだ。
そんな不自然な発想は、人類の歴史が始まって以来一度も現われたことがない。
私たちはいつだって、限界とされるものを押し広げてきた。というより、生物としての本能がそう命じるのである。
人間という生き物は、何かが起きたら新しい工夫で対応せずにはいられない。それが私たちの自然な本能だ。
たったひとつの “不自然なこと” は “限界を受け入れること” だそうです😱 限界はない、つまり無限の状態こそ自然であり本能なのです!
さて、私たちにはできるのだろうか。
当たり前だ。過去100年を振り返ってみればいい。
じーん。ホントここを読むたび泣きそうになります😭 当たり前だと強く言い切ってくれるところが素敵です。
私はお仕事もプライベートもなかなか上手くいっていない上に歳もいい感じに取ってきて😭、チャレンジしたり学んだりがすごく難しく感じられるのですが、そんなの関係ねぇ!ですね🤭
歳だから、能力がないから、時間がないから、〇〇だからこのぐらいでいいや… と、自分をと小さく見積もってしまうことは、不自然なことなのです!
不自然だから身体や心が縮こまって、気力が萎んでしまうのです。
自分の生活を快適にすること、つまり幸せになることにもきっと限界はないんだと思います💡
私は少し前までシニアがメインのクラスを持っていたのですが、耳が聞こえなかったり、あちこち傷めていてほとんどのポーズができなかったり。そんな様々なハンデものともせず楽しそうにヨガをする方々に、本当に学ばされました。
身体が不自由で、思い通りにならないことが多くても、諦めなければこんなに朗らかでいられるものなのかなぁ、私もこうありたいなぁ。と思ったのでした。
“夜と霧” という名著を書かれたアウシュビッツ生存者の、ヴィクトールフランクル先生という医師が提唱している、”態度価値” というものがあります。
それについて書かれている漫画もとてもおすすめなので、お時間ある時にぜひお読みくださいませ♡
態度価値について少し上のページから引用すると、
あなたにも、何かやりたいこと、かなえたいことはあるはずです。しかしながら、それをすぐに実行できる人というのはマレです。
そんなときに大切なのは「態度価値」を思い出すこと。
行動できなくても「やるぞ!」「今の自分はそれを行うために生きてるんだ!」というように、心の中で明確にそのことを思い続けることです。
とにかくどんな環境であっても、どんなに時間や条件がそろっていなくても、「心」の中だけでは、その炎を燃やしてください。
それだけでも、十分に意味はあるんです。
とのことです。
若い頃から何度も読み返していて、ウケる😂(のに元気付けられる)漫画です。
態度価値についてはこちらのコラムもおすすめです。
「どんな時にも人生には意味がある。未来で待っている人や何かがあり、そのために今すべきことが必ずある」ーー。ヴィクトール・E・フランクル
どんな時でも、できることに取り組む自分でありたいですね😎
では最後は、その “夜と霧” 内で引用されている、ドイツの政治家ビスマルクの格言で終わろうと思います。
人生は歯医者の椅子に座っているようなものだ。さあ、これからが本番だ、と思っているうちに終わってしまう。
やりたいことが多すぎて、お金も時間も足りなくて諦めそうになるけれど、できる限りでいいからひとつひとつに取り組んで、自分に納得していたいなぁと今日書きながら改めて思いました。
おしまい😅
またフワッと終わってしまいましたが伝わりましたでしょうか?
限界があるという考えを受け入れないこと。自分を小さく見積もらないで、無限の可能性を信じること。
不遇の時も心の中では情熱の火を燃やすこと。
私も全然できなくてトライする毎日ですが、偉い先生たちの言葉を信じて一緒に頑張りましょう✊
そんなことを受け取っていただけたら嬉しいです。
長くなりましたが、”無限というのは人間の本能であり自然な態度なんだ” というデビッド先生の主張から、受け取ったことや連想したことなどを書いてみました。
本は難しいけれど、デビッド先生も翻訳の方も優しく説明するためにとても工夫してくださってるので���わからないところは飛ばしながらでも、是非最後まで読んでいただきたい本です。
私もなんとか時間をかけて読み終わりました💦💦
健康や生き方についても学びの多い内容だと思います。とてもとてもおすすめですす💡
ではではぐだぐだと様々な内容を詰め込んだ無限のブログになってしまいましたが、次からはいつもの中身のないブログに戻ります😭 お暇な時にまた読みにきてくださったら嬉しいです♡
最後までお読みくださり、本当にありがとうございました🙇♂️
(引用)
デビッド・A・シンクレア 他2名
LIFESPAN(ライフスパン): 老いなき世界
ヴィクトール・E・フランクル 他1名
夜と霧 新版
(おまけ)
youtube
でもそんなの関係ねぇっ!小島よしおさん、メンタルめちゃ強です😂
太平洋に平和が訪れますように🏝️🙏
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うたプリRepeat LOVE初プレイ感想(音也ルート)
スタツアでうたプリに出会ってから3ヶ月、毎日幸せな日々でした。
オタク休業をしていたこともあり、うたプリどころか業界全体に無知で……CDをかき集めたり(まだ半分も聴けてない)、リズムゲームなんてしたことがないのにシャニライを必死に叩いたり、的はずれな質問をしては先輩プリンセスに手取り足取り教えてもらったり。
で、やっぱりプリンスたちの人となりを理解するためには原作ゲーム!とわかってはいるものの、乙女ゲーム自体にちょっぴり抵抗があり……やったことないし、なんか恥ずかしい…そもそも夢属性がなさすぎてまだ夢女になりきれていない(とっくに翔くんに恋してるくせに)
複数の公式ifストーリーを浴びる未知の体験への怖さもあるし、ST☆RISHが結成されない世界線なんて信じられない気持ちもある。(ところで「マジLOVE軸」はアニメ+キングダム+スタツア、「原作軸」はゲームとCDドラマパート、シャニライやプリツイは両方の軸の融合って認識であってますか?それとも全部ミックスしていい?そもそも考える必要ない?難しいぞ)
まあでもうだうだ言うのはお終いにして、2022年の大晦日についに挑戦しました!はじめて自分でゲームソフトを買った。うたプリに次々と初体験を奪われる日々。
先輩プリンセスとの戦略会議の結果(ありがたい)、まずは音也くんルートから始めることにしました。理由としては、やっぱり音也くんがうたプリの中心人物であること、音也くんだーいすきだけど夢的には見ていないので情緒の損壊リスクが低そうであること、心の準備のために一推し💗、二推し💙は後回しにしたいこと、彼の生い立ちや学園長との関係を原作で触れておきたいから、などです。
主人公の名前はネットのランダム生成サイトで適当に作ったものとしました。自分との恋愛を望んでいない→本名✕、アニメ軸との混乱を防ぎたい→春歌ちゃん✕、という理由。(ちなみに泉本さんって名前になりました。どうでもいいですが)
全体的な感想
プレイした結論としては、めちゃくちゃ楽しかったよ〜!!!イエーイ!✌️うたプリ最高!!!!!!!!
今、「早乙女学園での学園生活、とっても楽しかった」「アイドルって素敵だね」という明るい気持ちです。
早乙女学園での彼らの生活はアニメ1000%でも知っていたけれど、やっぱり疑似体験ができるゲームは強いですね。先生からの愛のある指導をふむふむと聞いたり毎月挟まれるリズムなどの試験を頑張ってるうちに音楽の知識やリズム感を習得した気分になったり(気のせい)。
初対面のクラスメイトたちと少しずつ距離が縮まっていくのも青春を味わえてウキウキしちゃった。しかもクラスメイトはあのST☆RISHのメンバーですから…2022年にスターリッシュツアーズっていう伝説のコンサートをしたあの……この3ヶ月死ぬほど聴きまくった楽曲たちを紡ぎ出した彼らの…。「ST☆RISHの過去に忍び込んだ夢」って印象でした。楽しいしかないが?
ST☆RISH以外の、林檎先生、友千香ちゃん、学園長、龍也先生の魅力も物語の土台をしっかりと���えていますね。たくさんの懇切丁寧な指導のおかげで林檎先生は私の作曲家人生の師匠って気持ちでいます。そして友千香ちゃん、かなり好き。アニメよりさらにさっぱりしている印象。自分の軸がしっかりあってちょっとやそっとでは動じず、誰にでも分け隔てなく話せる彼女のおかげで大変な学園生活も明るく過ごせました。歌いにくい無茶振り作曲をしてくる彼女のパートナーの存在がかなり気になる。ブチギレながらも、負けねー!とボイトレに励むトモちゃん…愛してる。
音也くんルート感想(大恋愛エンド)
以下、音也くんルートの感想です。(画像なし、セリフ引用あり)
なお、連日のうたプリ活による寝不足な状況で、さらにシャニライのカウントダウンライブと反復横跳びでプレイしたため、記憶が曖昧な部分があります。適当なことを書いていたらすみません。
先に音也くんルートを終えた印象を書いておくと、「恋する思春期男子、大好き!!!!」、これに尽きます。少女漫画の世界。最近忘れてたけど少女漫画大好き人間なんです。音也くんは王道少女漫画の王道ヒーローのそれでした。
初めて恋をした思春期男子って、おそらく多くが音也くんのように「かわいい、好き!」「恋ってこの気持ちのことだったのか」「大事にしたいけど止められない」「二人の愛は絶対に間違ってない」みたいな高揚、衝動、葛藤を抱くと思うのですが、でもそんな自分を受け入れて素直に言葉にできる子はごくわずかではないでしょうか。人の視線が気になって恥ずかしかったり、これまでの自分自身とのギャップに戸惑ったり、相手に引かれるんじゃないかと自信が持てなかったり。でも女子としては好きな人のそういう感情は素直に自分にぶつけてほしいじゃないですか。彼の「はじめての気持ち」を自分が与えられたという喜びをさ…味わいたいじゃないですか。音也くんはそれをまっすぐに言えちゃうんだなって。つよい、つよすぎる。これはアイドルになるしかない逸材。
最後の旅行(旅行!?)の主人公のモノローグの
>少年と青年の間にある、思春期の揺らぎのように
というフレーズが大好き。思春期の揺らぎ。美しい。障害のある恋に燃え上がる万能感も含め、若さの輝きを見た……
音也くんのソロ曲であるTRUST☆MY DREAMは事前にたくさん聴いていたので、ゲームの中でこの曲が出来上がっていく過程に関われて感動したのですが、「不器用な愛のボリューム調節ができない」→「キスをしよう!」の歌詞の流れが完全に理解できて納得しました。一歩間違ったらがっつきすぎになるけど、ちゃんと優しいし愛にあふれているからなあ……首にキスマつけちゃったりとか、10代しかやらないやつ〜〜〜!妙にリアルで怖い………現役中高生にインタビューでもしてシナリオ書いたんか?
TRUST☆MY DREAMの制作過程でなんかかっこいいから英語の歌詞入れたい!Are you ready?とか!って言ってる音也くん、いいと思うよ〜って主人公に軽く流されてて面白かったな…ww
あと、思っていたより前半は恋愛要素は少なめに感じて、そこも青春っぽくていいなーと思いました。他の人も含めたクラス内の友情から始まって、夢に向かって努力する過程で縮まる距離……いいですね……
ちょっと憂鬱だけどここから学園長と音也くんのエピソードの感想も。
音也くんルートを選んだ理由のひとつはやっぱりここを知りたかったからなのですが、想像以上にがっつりと音也くんの出自問題に触れていて、胸が締め付けられました。学園長と音也くんがシリアスに話すシーンがたくさんあって、もう見てられない…!と目を覆いたくなること数回。
これ、音也くん絶対に学園長が本当の父親だって気付いてるじゃん…これで気付いてないとかありえます?「愛故に」を聴いていたのも、学園長の過去の愛の話を知りたがったのも、自分の父親だろうって思っていたからですよね?
でも最後にシャイニーは音也くんの母親を心から愛していたいたことを打ち明けたから、自分は愛から生まれた存在だとは思えたのかな……同じような経験もしたことだしね……
親からの愛を与えられる機会が少なかった彼だけど(おばさんもその夫(一十木姓?)もアニメ設定より早く亡くなっていたっぽい?)、そもそも愛にポジティブな考えを持っていなければ
>「今ならわかる。愛し合うことがどんなに���切で、生きていく上で必要なのか」
>「初めて、人との繋がりを実感できた。ひとりになんか戻れない。君を愛してる」
なんてセリフは出てこないはずで、それはやはり、父親の「愛故に」を聴きまくった影響もある…という考えはありでしょうか。彼の持論は、「歌はキスよりも気持ちを伝えられるもの」だから、触れ合うこと(=キス)はなくても、実の両親の共作である歌は彼に愛のパワーを与えていたのかな、そうだといいな……
この話、きっと次(AASS)に続きますよね?他のルートの前にそっちに取り掛かるのもあり?気になる。まだまだ知らないことが多いですよね。的はずれなことを書いていたらすみません。
でも、彼が歌った「愛と呼べる木の下で」や「Ok, Hello World!」などから私たちが受け取れるものが今の彼なんだろうな。だってリピラブで「俺がいるべき場所はステージの上」「歌が一番気持ちを伝えられる」と音也くんが言ったから…
ちょっと、もう、これ以上は泣いちゃうのでこの話は今回ここまでで。
他のST☆RISHメンバーとの思い出はどれもとっても楽しかったです!!!
正直これまで、Aクラス、Sクラス、同室のライバル関係、っていうのがいまいちピンときていなかったのですが、それは原作を履修していなかったせいだったんですねー、すみません。
今回、Aクラスで過ごした1年間、本当に楽しかった。那月さんがほわほわしてて癒やされたし、真斗くん(まだまだあどけないBOY)が友千香ちゃんにマサやんって言われてからかわれるところはかわいすぎてニヤニヤ。学園長の過去を探るべく5人で協力するところも中高生っぽくて楽しい。
あと、音也くんと真斗くんの親友関係もアニメでは触れられていなかったと思うのですが、真斗くんが音也くんにお説教するアナザーエピソード3で納得。二人を心配して軽率だぞって怒ってくれる真斗くんと、反省しながらも自分の心境をしっかりと言葉にして相談する音也くん…さらにそれを聞いて「お前の気持ちはわかった。軽率などと言って悪かったな」と歩み寄ってくれる真斗くんの優しさよ。めちゃくちゃいい関係性。これは親友になる。性格は違うけど、ふたりとも純粋でいい子だから一緒にいて心地いいだろうなあ〜〜めっちゃ尊い。スタツアのオケハロイントロを今すぐ鑑賞したい。
あと、ルーレット組はかなりバチバチしていてびっくり。アイドルとして対照的な二人、学園時代からバトルしていたとは。MASATO様もめちゃくちゃ音也くんのこと煽ってくるし。トキヤさん→音也くんの「本当にバカですね」の言い方、容赦なくて好き。
主人公の私としては水球大会で突然翔くんとレンさんが登場してびっくりw学園で見たことある人だなってくらいの感じでした。クラスが違うことによる距離感がリアルとも言える。
それにしても水球大会のレンくん…真斗くんに張り合ってムキになりながら本気で試合参加しててカワイイ〜〜〜〜なにそれ〜〜〜ガキんちょか〜〜〜〜??早く神宮寺ルートもやりたいです!!
総括すると、3ヶ月前に今のスーパーアイドル・ST☆RISHを知った身としては、リピラブ、彼らの過去映像を見ているような気持ちで楽しめました。みんな若い、幼い!かわいいぞ!!
リアルタイムのTwitterまとめはここに。
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身体と情緒
PMS(生理前症候群)期に女性ホルモンが強制的に精神を不安定にして、常日頃は理性によって抑圧している悲しみや苦しみが噴出することを、薬などで緩和せず、そのままに受け入れるよう努めてきた。それが私の中にある悲しみや苦しみの存在を再認識する作用をもたらすことが、人生を正しく生きるためには必要不可欠だと思って、数日間の心の辛さに甘んじてきた。が、ここ数年の人生で受難するたびに抑圧してきた状況のおぞましさはとても人間の心が耐えられるものではなかったらしく、気がついたら女性ホルモンの作用によって噴出する悲しみや苦しみが私に「もう死のうよ」とあられもなく囁くようになっていた。
数日間でおさまるとはいえ、厄介な時期である。これまでに受けてきた傷の記憶の絶え間ないフラッシュバックに晒されて毎秒ごとに過去を傷つきなおし、その激しい痛みに悶え抜く。すると、もうこの人生を生きたくない、こんな人生はとても生きていられないという「理性的な判断」が生じる。徹底して論理的な私の理性は「徹底して論理的な希死念慮」を生じさせる。一時的な波にすぎない感情でも感覚でもない、理性のほうから希死念慮を提供されると、私はそれに反抗する根拠を本能から持ってくるしかなく、幸いにもそれは理性と同じくらい強靭な動物的本能を備えており、かつ肝腎の理性のほうでも「死んではいけない理由」を別ファイルで保存してあるため、現実的には衝動にしたがって身投げして死に至るようなことはないのだが、理性と本能���理性と理性が闘うときにその激しい摩擦によって生じる火の粉は私の感情に降り注いで発火し、私を構成する要素のなかで最も脆い私の感情を至極残酷に灼熱の炎にて焼くのであった。
これが私のPMSである。月に一度かならず来る精神崩壊。私の生き様が、私の体にその罪を引き受けさせ、罪を贖う罰として精神を破壊し尽くそうとする。自分で自分を業火に突き落とし、焼いても焼いても死なない様を見て泣く、それが私のPMSである。
ここ数度のその症候で、理性の突きつける「論理的な希死念慮」を突き返す力がもう自分にはなくなっていることに気がついた。ある日はごく冷静な顔をして包丁を手に取り、刺すのにもっともよい隙間を探して肋骨と肋骨の隙間を一番上から一つずつ降りていった。ある日は理性が保存している「死んではいけない理由」を破壊するためにつぶさに点検し、穴を見つけてそこにマイナスドライバーを差し込んだ。差し込んだそれをくいっと捻れば一発で瓦解するような致命点を見つけるまで執拗に点検し、そうしてその一点を見つけてしまった。その時は、症候の終わりによってはっと踏みとどまることができたが、次の症候がきたら間違いなく同じ箇所にドライバーを刺して破壊に至るだろうことは容易に想像できる。来月は死ぬだろうと。
どうして生に踏みとどまる力が次第になくなってゆくのか。
理性といっしょに考えた。本来だれにも毀損できないはずの、根源的な生命力を削られるほどに他者に差し出しているものが何であるのか、理性といっしょに点検した。それは愛だった。絶対善だと思っていた愛が、私を殺しにかかっていた。
愛は、無限の泉ではない。
愛と名づけて他者に差し出すことのできる愛は、活力や技術、知性、表現、他者に向けるだけの人生の余力、そういったいろいろな要素が支えているものだが、その核をなすのは自尊心である。
愛とは「私があなたを愛している」という二者関係がなければ成立しない。「私はあなたに愛されている」という二者関係がもたらす特権的な充足感がなければ成立しない。「あなたに愛される私こそ素晴らしい者なのだ」という形、理屈に寄り添う形で、相手を満足されるためにはじつは、差し出す側の自尊心を切り取って渡すことしかできない。それが私の経験による結論だ。
もちろん異議はいくらでも生じるだろう。愛の形はそれぞれだ。自尊心の捉え方も。しかし、地位や権力、名前や収入、所有と損得を完全に排除した関係があなたと誰かにおいて成立したと仮定したとき、あなたは何を担保にするだろう。「あなたが好きだ、あなたを愛している」と他者に伝えるとき、何を担保にして伝えるだろう。他者が「あなたを愛しているのだ」と打ち明けるとき、何を明け渡すだろうか。互いに差し出せるものは、やはり人生しかないのではないか。
人生とはなにか。他者に差し出せる「人生」とはなにか。
自分がこの世に存在していいと思えるだけの努力をし、人から認められ、愛され、優しくされ、求められ、そうして獲得した自尊心だけが、あなたが切り取って他者に差し出せるものではないだろうか。あるいは、人に疎まれ、蔑まれ、ないがしろにされ、愛されず、否定され、非難され、関心をもたれなかった、そういう負の感情を埋めるために人から奪おうとする衝動が、あなたが他者に愛されたいと願う理由ではないか。
誰もがその体にあなたの人生を記録しているだろう。本来的には、根源的には、それ以外に差し出せるものなんかないのではないか。
私がどうしてこれ以上生きていけなくなってしまったかということを、理性といっしょに考えた。そうして、自尊心を人に差し出しすぎてしまったのではないかという結論に至った。
人と関わる上で、関わる人の事情に配慮して、たくさんの我慢をしてきた。「私は我慢を強いられる程度の人間だから」というのは、自尊心を貨幣として、相手に差し出すことだった。繰り返し繰り返し差し出して、もう貯蓄が尽きてしまったのだった。
だから死のうとした。もう人に差し出せるものがないから。人に差し出すことでしか人と関係できない自分は、もうここから先には進めないから。
自分に与えられる愛が残らないくらい、人を愛して、愛し続けて、死に物狂いで与えて、もう自分が生きるために使うものがなくなってしまって、本当に愚かなことだと思うが、なくなってから、枯渇してから、枯渇したがゆえに精神が錯乱してから、ようやく気づいた。与えすぎたのだと。理解しすぎたのだと。理解し、理解したがゆえに己の望みを封じ込めてしまうようなことを、その我慢を愛と呼ぶ欺瞞に身を浸して、削り取られるだけの日常を自ら望んで送って、それが破綻して、今に至るのだと。
愛する人に「死んでいいよって言って」と泣きながら縋ったけれど、やっぱりどうしても言ってくれなかった���「本当に言ってほしいの」と訊かれて、うんと言えなかった。私はまだ惨めに生に縋っている。その理由を考えるのがもう億劫になってしまって、ついに考えるのをやめた。
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たまご
始発までまだ時間がある。 箱の中は外の静けさを無視し四打ちの音に満たされ、いつになく盛り上がっていた。 今日のメインであるDJがCDをリリースし、そのリリースパーティーとしてのイベントなのだが、今いる客の中でそのCDを聞いてきているのはほぼ皆無である。ほとんどは週末の夜になにか踊れるイベントはないかとフライヤーやネットでイベントを集めた中で一番盛り上がりそうなここを選んだ奴らだ。俺もその一人で、特に誰と待ち合わせるまでもなく、週末の夜にスパイスをふるような気分でここに来ていた。 地下にあるそのクラブはフロアが吹き抜けになっており、フロアから見て二階になるバーカウンターからDJブースを見下ろせるようになっている。俺は氷がとけだらしなく伸びてしまった酒を片手にフロアの喧噪をながめ、たまに下で踊ったりしていた。 そんなに広くはないフロアの正面にブロックを白いペンキを塗りたくって作られているDJブースがあり、フロアはここ以外にはほとんど照明がなく、その両サイドに天井まで届くようなスピーカーがある。天井を見上げるとミラーボールがあり、曲の盛り上がりに合わせ放射されるレーザーの明かりが乱反射しフロアに不規則な流星群を描いていた。背丈以上の高さのスピーカーの前で音の波間をただようクラゲのように揺れていると、音圧で服と腹に同じリズムが刻まれる。170bpm以上のテンポで刻まれているビニルの振動は時として早すぎてついていけないぐらい。音は止まる事がなく次から次へと疾走し、体は音圧の津波に流され、いつまでも留まる事のない浮遊感、焦燥感に似たそれでいていらだちのない多幸感に包まれる。時間の概念は融けだし目前で起きている事は終わりのないリズムの濁流こそがすべてで、溶け込んでしまった肉体を低音で揺さぶれる事で感じるだけなのである。思考は肉体と一緒に形をなくし、ウイスキーに落としたインクの一滴になる。盛り上がりの中にある混沌とした調和、フロアに響く新譜とスタンダード、未知の旋律、既知のリズム、シンセベースの連符、サイン波の歪み、潮溜まりに追い込まれるようなタメ、スモークの香り、泡立つリバーブ、湖底に揺らぐ絢爛、浮上の嬌声、踊、跳、音、乱、美、響、光、煙、幸、輝、悦、快、!。 音の中でおぼれている間はなにも考えず、ただただ体が動くままに動いている。ふと、今までの炭酸が何もしないのにパチパチと弾けるような高揚感が静まり、いつもの面々の一人にもまだ遭遇できないでいる漠然とした孤立感に、なんとなくの身の置き所のなさを感じていた。営業終了までしぶとく踊りつつけているつもりだったのだが、何となく腹も減ったので、どうする当てもなく夜明け前の街に出て漂よう事にした。 夜道は街頭で明るく、闇夜という言葉がこの世から消滅してしまうのではないかといらぬ心配をしながら、シャッターの閉じた駅まで歩き、適当な店が見つからず、駅周辺を足の向くままさまよっていた。 この時間に営業している店は、飲むか食べるか、もしくは色気のある店ぐらいだ。 今は腹が減っているだけであり、パーティーで手持ちぶささをごまかすのにいつも以上にタバコに火をつけていたせいか舌に苦い皮膜が張っているような感じがしている。こういう味のわからない時はできるだけ安くジャンクな食べ物で腹をごまかそうと思った。この時間に安くジャンクでというと、ラーメンとドンブリものに落ち着く。ただ何となくの食欲に選択するのも馬鹿馬鹿しい話なので、安い方を選び駅から少し離れた所にあった牛丼屋に入る。 街頭の明かりに慣らされた目には、牛丼屋の中の刺々しいほどに純白の蛍光灯の明かりは、なにやら消毒液を思わせるような体に障る清潔感を感じ、せっかくクラブでまとってきた夜の不健康が流されてしまうような気がした。 牛丼と生卵を頼み、渋皮のように舌にまとわりつくニコチンを水で流していると頼んだものが出される。 俺が食べようとした直前ぐらいからか耳障りな音が聞こえてくる。 入口から見てコの字型のカウンターの出入り口すぐに座ったのだが、奥の方から泥を混ぜてるような、高い所から粥を落としているような、ベチャベチャとした音を立てて食っている爺がいる。何を考えているのか知らないが、そいつは周りを見回しながら、そして見回した先の奴と目が合うとそいつに向かい見せつけるように大口を開けてわざとらしく口を動かしている。しつけのなってない犬だってもう少し静かに食べるのにもかかわらず、どういう環境で生きていたらそのような食べ方ができるのか不思議なぐらいだ。 内心ムカムカしながら箸を付けようとした時、その爺がこっちに口の中のものを見せるように大口を開けながら、その店で一番安い食べ物である牛丼を掻き込んでいた。 まばらに黒いのが混じるぼさぼさ頭、毛玉だらけのセーターに歯はほとんどが抜けていて、目元は野卑という言葉の似合う人にケンカを売るような好戦的で濁った視線。骸骨に皮を張っただけに見える肉のない顔についた口は、必要以上に大きく開かれているせいもあって上の前歯が3本、下の前歯が4本ぐらいだろうか、タバコやけをしているのか茶色い濁った色素が染みつき杭みたいになっているのが目に入った。 火傷跡みたいにヒリヒリとした嫌な感情が立ち上がり、運ばれてきた膳の中にあった生卵を反射的にぶつけてやろうかと思ったが、握った所で辞めた。 そのかわりに俺はほぼ呪詛に近い感覚で、死ねばいいと思いつつにらみつけていた。 卵じゃ煮え立つ感情には弱いので、湯飲みをぶつけてやろうか、それともしょう油瓶をぶつけてやろうかと思いながら、自分も箸を動かしていた。 だいたい、あの年にもなってまともに飯を食えない奴に生きている理由があるのだろうか、少なくとも人の目に触れる所に出してはいけない、どこか洞穴にでも押し込んで、一日に一回握り飯でも放り込んでおくぐらいで充分じゃないか、といらだちを増幅させ、ガンをつけ続ける自分を正当化し続けた。向こうもこっちをにらんでいる。ここは目がそらした方が負けなのである。 ほとんど獣のケンカみたいな状態で、何か動きがあったら投げつけてやろうと七味唐辛子の瓶を視界に入れながら、爺にガンをつけつつ丼を掻き込んでいた。 俺の丼の中はあと二口ぐらいだろうか、爺の方が目をそらした。腹の中に沸いていたヘドロみたいなむかつきは少しは引いたのだが、残ったのは情けない野良犬のいがみ合いのようなケンカの勝利だけであった。丼の底に小島のように固まっている牛肉のかけらとご飯の固まりを一気に掻き込んだ所で玉子の存在に気付いた。爺にむかついていたばかりに追加した玉子を丼に落とすのを忘れていた。食べて丼を置いたら勢いよく出て行こうかと考えていた所に気がつき、そこ置いていっても良かったのだが、卵を忘れていた自分に気が抜けそのままもって出る事にした。 店員に気付かれないよう、そしてできるだけさりげなく、上着のポケットに玉子を移す。 始発にはまだ時間があり、駅も開く気配がない。駅周辺をただようチリの気分になりながらのろのろと歩いていた。 上着のポケットにつっこんだ右手には卵がにぎられている。 店で出された時よりも手のぬくもりで暖められ、カルシウムのざらつきに包まれ���、ずしりとした下ぶくれの珠が手の中にある。 クラブの中でふらふらしていた時とは違い、牛丼屋の中でざらついてしまった気持ちのやりどころのない嗜虐心を、手中の卵にぶつけた。手の内で転がるそれは、紛れもなく卵なのだが、そっと力を込めると指先の肉を受け止め、中身を守ろうとする殻の抵抗に遭う。割れてしまうと上着が台無しになるなと思いつつも、右手はポケットの中に閉じこもり、卵にじんわりと圧を与えては離すという蹂躙を繰り返していた。指先の乱暴は駅前の一区画をさまよい、気を取り直して飲もうと探しているスツールに座して少しの酒をすすれる店がことごとく営業を終わらせているのをみてまわるまで続いた。次の区画にうつる頃には指先の暴行は肉による緩やかな締め付けから爪での直接的な加害に変わっていた。爪も殻も肉の中で作られ、その中を守るためのものだ。爪がざらついた表面をなぞる。手のひらで転がしていた時には工芸品を思わせるようななめらかな表面に感じたのだが、爪の先でつぶさに観察してみると、コンクリートを思わせる引っかかりを見つける事ができる。下ぶくれ部分の緩やかな面を人差し指の先で一通りひっかき、その曲面すべてを爪がなぞると、ポケットの中でごそごそひっくり返し反対側のとがった部分を爪でなぞる。指を頂点目指してはわせている時のグイッというラインの持ち上がり方と、頂から下りる時の直滑降のスピード感が気持ちよく、何度となく人差し指が登り降りを繰り返した。そのうち頂点に加害をはじめた。ガリガリと引っ掻く音がするのではないかと思えるほど、しかし殻が割れないほどに加減をしながら、目では判らなくとも顕微鏡でつぶさに観察したら見えるのではないかと思うるような傷は付いているだろうと、微細な世界へ思いをはせながら爪を押し当て動かし続ける。孵化する可能性のない白色レグホンの卵への継続的な暴力は終わる事はなく、酒とスツールを求め駅周辺をただよう間に、ついには打撃を加えるようになった。親指と薬指とでしっかりと押さえ、人差し指の先でノックするようにたたく。指先に伝わる殻のガードは、割れないでいて服が汚れないで済む事の安心と、なかなか割れない殻に対して冷淡に見つめるような気持ちとが入り交じり、飲み屋を求めてさまよっているだけにもかかわらず、ジャケットのポケットの中で行っている事に対し、熱湯と氷の両方が混じる事がなくよどみ続けるような壊したい衝動とそうしたくない迷いがぐるぐると入り交じっていた。 結局入れる店が見つからず、ポケットの中に入れた卵を指先でつつきつつコンビニで買った酒をあおり、ざらついた感情を溶かしながら始発までの時間を過ごしていた。駅前に戻ると地下鉄の入口の近くで丸まって寝ているサラリーマンらしきスーツの男がいた。地下鉄の入口は始発が出るまではその門戸を閉ざし、雨が降ろうが風が吹こうが始発待ちの客を優しく向かい入れる事はなく、やっと開いたとしてもベンチは冷たく、構内でゆっくりくつろげるような所もあるわけではなく、ただただ地上と電車の途中をつなぐ通路として、モグラやミミズが入ってこれないようにコンクリートで四方を固めているだけである。 始発にはまだ待たなければならない。 俺は卵をどうしたものかと思いながら、冷たい夜風が避けられる所はないかと探していた。風よけになりそうなスキマを見つけては入ってみて居心地を試してみるのだが、どこも完全には風から守ってはくれない。唯一風がなさそうな所はスーツ姿の男がビジネスバッグを抱えるようにして丸まっている。 その男は器用に寝ていて、ビジネスバッグを抱え、体に新聞紙をかけているつもりでいるのだが、寝ぼけながらも新聞紙を深くかぶろうとしたのだろうか、丸まっている体の中心にバッグやら新聞やらが集まり、まるで巣を守る動物のようになっている。 寒空の下で寝ていられるのを感心する一方で、俺の頭の中では妙案が浮かんでいた。 この男を立派な親鳥にさせてやろう。 近くの公衆便所に行きトイレットペーパーをこぶし大ぐらい取り、それを細かく裂いた。そして新聞とバッグを抱えて寝ている男の中心に、鳥がそうするように卵の安住の場所を作ってやるのである。 起きないようにゆっくりと、けれども気付かれるのもつまらないので素早く、男の側に近づいた。ビルとビルのスキマである男の仮宿はちょうど街頭の明かりが直接目に入らないような所であり、俺が近づいた事でかろうじて男の体を照らしていた明かりも全く入り込まなくなってしまった。ほぼ暗闇の中、男が抱えてる新聞とカバンの上にトイレットペーパーの羽を広げるなければならない。 俺は男の前に近づいた体勢のまま、できるだけ物音を立てないよう、そしてすぐに逃げられるように前屈をするような姿で作業していた。試行錯誤する余裕はなく、一発勝負である。手のひらの上でトイレットペーパーの巣を作り、置くのではなく、ギリギリの所まで降ろしてから落とすようにして新聞とカバンの土台の上に巣を作った。少し斜めになってしまったが成功である。いよいよ卵を置き完成させる。できるだけ巣の中心に、卵が心地よいであろうポジションに安置できるよう、細心の注意を払いながら巣の中に卵を置く。トイレットペーパーで作った羽の中、人差し指と親指に運ばれゆっくりと卵は沈み込む。巣にすっかりと沈み込んだのを感じると、だめ押しでぐらつかないように人差し指でそっと押し込んだ。 そのとき、男のいびきが止まる。 俺もそれに合わせ、一瞬の硬直で男にあわせる。秒針が少し進むぐらいでしかないが、男が目を覚ましてしまうとせっかくの妙案が台無しになってしまう。俺は自分を電信柱だと思いこみ、男に気配を感じさせず目を覚ますきっかけを与えないようにした。 再び男が寝息を立て始めると、俺は体の硬直を説き卵に異変がないかを人差し指で触れる事で確認した。 無事に卵が巣の中にたたずんでいるのを確認すると、近づいた時と同じようにゆっくりと素早くそこから遠のいた。 街灯の明かりが戻り、男の体の中心には卵が鎮座している。 巣作りをし終わり、煙草をくわえながら“親鳥”を見ていると地下鉄のシャッターが開いた。地下へと続く階段は白々と色気のない照明で照らされていた。のろのろと階段を降りながらあの男、目を覚ましたらどんな顔をするのだろう。そう思うと今まで俺の気持ちの底に横たわっていた砂地に落ちた氷のような暗い感情が熔けたような気になり笑いがこみ上げ、くしゃみをするような短い咳払いみたいな笑い声がでてしまった。 長く続く地下鉄の階段に俺の笑い声の破片が少しだけ響き、あとは俺の足音だけになった。
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