#「サハリン島」
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1945年8月8日に旧ソ連が日本に宣戦布告。北方から破竹の勢いで日本領に攻め込んできた。その1つに樺太、サハリンがある。サハリンは1945年8月、太平洋戦争で最後の市街戦が行われたところでもある。 広大なサハリン島の北緯50度から以南は日本領で、約40万人の人口を擁し、日本企業も多く進出していた。中でも島内に存在する豊富な針葉樹に目を付けた製紙企業が進出。しかし、敗戦で施設はそのまま手つかずのまま現在もその姿をさらしている。フォトグラファーの那部亜弓氏は、そんな日本企業の工場だった廃墟を訪れ、シャッターを切った。(写真はすべて那部亜弓氏撮影) 天を仰ぐ煙突、摩耗した外壁。静謐な大地にどんと立ちはだかる巨大建築物。ここまでの広大な水平の土地に浮かぶ��物を初めて目にした。太平洋戦争前にサハリンの大地に日本が建設した夢の痕跡だ。 日本の領地拡大に興味を持ち、かつての樺太の地、サハリンにはいったいどんな遺構があるのか知りたくなった。 たった40年間の日本領 運よく州都のユジノサハリンスク直行便に搭乗できた。フライト時間は2時間10分程度。千歳からは1時間20分。日本から一番近いヨーロッパだ。2009年9月のことだった。 樺太はもともとアイヌをはじめ先住民族が住む土地で、その樺太の北緯50度より南、いわゆる南樺太が日本の領土になった時代があった。日露戦争終戦後の1905年から太平洋戦争が終わった1945年までの40年間だ。 樺太が日本の領土になると、多くの人が新天地を求めて次々と開拓の理想に燃えて活動していた。明治の終わりには約1万2000だった南樺太の人口は、1945年には40万人だったと言われている。 1945年8月9日に日ソ中立条約を一方的に無視してソ連軍が侵攻を開始し、わずか2週間あまりで樺太は占領された。樺太の地では、本当の戦争は8月以降に起きたのだ。
サハリンに廃墟として残る戦前の日本製紙工場 豊富な資源を目当てに設立、現在もその姿を残す | 旅行 | 東洋経済オンライン
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「虚無への供物」中井英夫 0041
序章
4蛇神伝説
バア「アラビク」で、 久生と亜利夫、そして藍ちゃんの会話のつづきです。
この東京で、アイヌを見かけたという藍ちゃんに 久生と亜利夫は、それぞれ、サンドイッチマンや花やしきでの出し物を疑います。
日本堤を藍紋様の晴着をきたアイヌが闊歩しているのは、想像できないのでしょう。 たしかに滑稽な感じはしますね。
ところで、戦前あった日本堤が、戦後、台東区に含まれたそうで、 まさに、バア「アラビク」は、日本堤にあるということのようです。
藍紋様の晴着とは、あの独特のアイヌ紋様を指しているのでしょうが、 晴着という表現がピンときません。 一般的に、ふだんとは違うハレの日に切る服を言うのだと思いますが、 それを着ているということは、例のアイヌ人にとって、 まさにハレの日だと言うことを言いたいのでしょうか?
単にそう表現したとも考えられますが、 やはり、何か、ハレの日にふさわしい出来事でもやったという意味にも取れますね。
しかし、藍ちゃんは、見かけたのは2度めだというし、ホヤウカムイの��いだといいます。 久生は多少興味があるようにホヤウカムイについて訪ねます。 ホヤウカムイは、洞爺湖の蛇神で、それは現実の恐怖から生まれたものでアイヌの伝説の一つだそうです。
アイヌ語でシャック・ショモ・アエップ(“夏、口にだしてはいけない”)が“怖い蛇の神様”と同じ意味に使われるくらい、 蛇を恐れているそうです。
ちょっと調べたところアイヌ語では、 シャックは“夏” ショモは“~しない” アエップは“食べ物や餌(エ)”なんかだそうです。 間違っているかもしれませんが、 大雑把に訳せば、「夏、食べない」「夏、口にしない」というところでしょうか? “夏、口にだしてはいけない”とは、少しニュアンスが違う気がしますが、そういう言い回しもあるのだと言われればそうかもしれません。
蛇の出てくるユーカラは、夏場に頼んでも、決して歌ってくれない。 ユーカラは、アイヌ語では叙事詩を指すそうですが、単に歌を指す言葉でも使われるみたいです。 蛇の出てくる歌(そんな歌があるんですね)は、決して歌わないということでしょう。
久生も興味が湧いてきたのか、北海道旅行に言ったときの友人に聞いた話をします。
夏になると、洞爺湖の饅頭(まんじゅう)島から中島へ蛇が群れになって泳いで渡る。 調べてみると、饅頭島はヘビ島と呼ばれるほどに蛇が多い島だそうです。 実際に、中島へ蛇が渡るのかどうかは知りませんが、想像すると確かに怖い光景かもしれません。
純粋なアイヌが残っているとしても、 ホヤウカムイという蛇神は、 五弦琴(トンコリ)をならし、氓び(ほろび)の歌の中にでてくる話なのだろうといいます。
アイヌと氷沼家に 因縁があると思わせてますね。
ところで、 五弦琴(トンコリ)は、樺太アイヌ起源の楽器だそうです。 ハープ等と同じく基本的には弦の数(つまり五音)しか音が出ない。 かなりシンプルな音なんでしょうね。
氓び(ほろび)の歌はアイヌの歌にあるのでしょうが、 この氓びの意味がよくわかりません。
滅びるや亡びると同じような意味だと見て取れますが、 実際に、検索してみると民としての意味合いが強いようです。
つまり、民が亡びるというような解釈すればいいのでしょうか? それは、すなわちアイヌが消滅するということに繋がつのかもしれません。
アイヌを恐れているのは、 藍ちゃんの従兄弟同士であり、 亜利夫の学校の先輩後輩に当たる氷沼蒼司の弟、紅司(こうじ)であると。
それを引き取って、久生は、氷沼家とアイヌの因縁を探ろうとします。
アイちゃんの曽お祖父ちゃんの誠太郎(せいたろう)が、開拓使の役人で、クラーク博士の通訳をしていた。 氷沼家は曾お祖母さんの実家だとのこと。
なんと、 ここでw.s.クラーク博士の名前が出てきます。 そうです。あの“ボーイズ・ビー・アンビシャス”の人です。
明治三年(1870年)以降、アーマスト州立農業学校時代に、クラーク博士と誠太郎が知り合ったことになっています。 アーマスト州立農業学校は、厳密には、マサチューセッツ大学アマースト校のようですね。
で、同行帰朝したと『クラーク先生とその弟子たち』(大島正健著)にあるが、 これは間違いで、明治七年(1874年)に誠太郎が先に帰国し、 北海道・サハリン(樺太)の開拓のために設けられた開拓使に、出仕しています。 青山試験場勤務から、明治九年の博士の来日とともに、札幌勤務となっています。
『クラーク先生とその弟子たち』の中身までわかりませんが、同行帰朝ということは、 国命によって外国に使者として出かけたものが帰国するということなので、誠太郎は、国の仕事をしていたことになります。
そのクラーク博士が翌年明治十年(1877年)帰米したあとも、内村鑑三(うちむらかんぞう)や新渡戸稲造(にとべいなぞう)を北海道に送り込んだりと勢力的に働いていたはずなのに、 誠太郎によるアイヌ狩りともういうべき残虐な行為が、黒田清隆(くろだきよたか)の耳に届き、 長崎出張申シ付ケ候事と明治六年(1873年)に官営となった高島炭鉱へ追いやられてしまいます。
その後、誠太郎は、失踪。最後は、狂死したと言う連絡が、函館の実家に入ります。
と、 ここまで、実在の人物名を挙げて詳細に述べられると、現実の話のような気にさせられます。 うまく現実と絡めて盛り上げていますね。
その後、藍ちゃんのお祖父ちゃんの光太郎が昭和9年3月21日の函館大火でなくなったり、 長女の朱美(あけみ)が広島の原爆で、 洞爺丸の事件で長男の紫司郎と三男の薫三郎が亡くなったりと、 氷沼家では、ろくな死に方をしないと言われるようになります。
結局、目白にいるには、蒼司とその弟の紅司それに藍ちゃん それから同居人の叔父橙次郎(とうじろう)夫妻ということになります。
ここまでで、アイヌとの因縁が匂わされると、 ミスリードさせようとしてる感じがプンプンです。
あとは、主な登場人物が出てきましたね。
氷沼蒼司(ひぬまそうじ) 氷沼紅司(ひぬまこうじ) 氷沼藍司(ひぬまあいじ) 橙次郎(とうじろう)夫妻
光田亜利夫(みつだありお) 奈々村久生(ななむらひさお)
つづく。
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#ロシア の救助タグボート「ベーリング海峡」がタンカー「サハリン島」を流氷から解放した。ユジノサハリンスク海洋救助サブセンターが発表した。 日本時間の31日深夜0時50分、「サハリン島」は流氷を脱出し、津軽海峡を通って目的地のナホトカ港に向かった。救助した「ベーリング海峡」は露コルサコフ港へと帰還した模様。 船を所有するロシア法人「ナヤダ」の代表によると、タンカーは北海道沖で厚さ50センチの流氷に囲まれたという。タンカーはカムチャツカを出港後、ナホトカまで貨物なしで航行していたとのこと。 写真はSNS
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和五年(2023)3月23日(木曜日)
通巻第7681号
ファンビンビン(中国で有名な女優)、五年ぶりに復活
取り調べの恐怖には口をつぐんだ
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五年間消息を絶っていた女優のファンビンビンが、最近ハリウッドに出現し、話題になった。彼女は2018年に突如スクリーンから消え、海外に「不法に」取得したとかの不動産など「脱税」容疑で取り調べを受けたとされた。罰金は47億円とも言われた。
郭文貴がユーチューブで、「王岐山(国家副主席=当時)の愛人となって減刑して貰った」などと伝えたこともあったが真偽は不明である。
「第二のファンビンビン」と言われた女優は鄭爽。テレビドラム最優秀女優賞も受賞したが、やはり脱税で51億円の「請求書」とともに芸能界を追われた。
これらはスケープゴートであり共産党が民衆の嫉妬と羨望がこきまざった感情に政治的意図を含んで、効果的に訴える。脱税とか海外への資産隠匿はつかまるのか、もっと旨くやればよいのになぁというのが民衆の偽らざる反応だろう。
しかし捕まるのはすべて習近平の政敵か、政治家のパトロンがいない有名人で、習近平派幹部は誰も捕まっていない。
中国のM&Aで有名だった「華興資本(ルネッサンス・ホールディングス)」のCEO、包凡が2023年2月から行方不明になった。自宅拘束による監視状態か、あるいは特別の場所で勾留されているか。後者をRSDL(指定居所監視居住)という。
スペインの人権監視団体『セイフガード・デフェンダー』(23年3月6日)は包凡が特別収容所に拘留中と報じた。
インサイダー取引の黒幕として証券ビジネスで稼ぎ、「江沢民派の財布」と呼ばれた肖建華は香港の豪華ホテルから拉致され、刑務所にいることが確認された。
日本でも土地の爆買いで有名な「復星集団」CEO郭広昌は2015年に一時期「失踪」した。海外リゾートやクラブメッドの買収で世界に名を馳せたが、数ヶ月後に株主総会に現れた。ただし失踪期のことは一言も喋らない。
日本の大学教授をちとめる朱建栄も数ヶ月失踪後、日本にかえったが、「そのこと」は一切喋らない。
王岐山の庇護があったので、好き放題の習近平批判をしてきた任志強は18年の禁固刑を喰らった。彼は一時、その放言癖で「中国のトランプl」を言われた。
アリババのジャック・マーは中国を離れ、スペインからオランダに長期滞在後、半年ほど日本にいた。まるで逃亡生活である。
▲インターポール総裁だった孟宏偉も捕まったのだ
数多くの実業家が突然失踪し、数年後に刑務所にいることが分かるというのは中国では日常茶飯事である。民間人ばかりかインターポール総裁だった孟宏偉、最高裁判所判事の王琳清らの身にも同じことが起こった 。
中国語の「双規」とは、中国共産党の中央規律検査委員会(CCP) とその下部組織が行っている党内の懲戒システム、もしくはそのプロセスを意味する。「規律違反」の疑いがある党員に対して行われる。
通常の法執行機関とは別のシステムで秘密裏に行われ、弁護士や家族と接見も禁止される。多くの場合、舞台裏ではすでに有罪を立証する証拠を確保しているので罪を認めなければ、拷問を受ける。
RSDL(指定居所監視居住)は中国警察が運営している。「指定された時間と場所で」で取り調べを受ける。別名「LIUZHI(音訳=六枝)とも呼ばれるが、この「拷問取り調べを含む特別収容所」のことは誰も知らない。いや、おおやけには存在も認めていない。
国家監督委員会 (NSC) が発足して以来の新組織で、経済犯罪で告発された人を調べる。
『財訊』雑誌がRSDLにおける拷問死を報じたところによれば、福建省のチェン・ヨンは 26日間拘留され死亡した。彼が標的にされたのではなく、単に調査対象者の運転手だった。遺体を見た家族は、広範囲にわたる拷問の痕跡を報告した。
また或る証言では「部屋は柔らかいゴム製の壁でした。壁に頭をぶつけて自殺しようとした役人が多すぎたため、設置されました」と言う。
「寒さと飢えにさらされるのはごく普通のことです。縛り付けられたり、殴られたり、侮辱されたり、睡眠を奪われたりするような拷問もあります」。
RSDL は国家機密で、情報が公開されておらず、毎年秋に党大会に提出される CCDI (中央規律委員会)の年次作業報告にも含まれない。
こうした暗黒部分を中国共産党は決して明るみにしないが、他方では民衆のナショナリズムを強く掻き立てる術は心得ている。
習近平はモスクワへ向かい、プーチンとサシで話し合い和平仲介と口にした。その一方で現在ロシア領土の沿海州や樺太をネルチンスク条約以前の、清朝時代の地名で地図に記している。
樺太はサハリンと呼ばれるが、中国の地図では「庫頁島」だ。ウラジオストックは、「海参威」のままである。やがてロシアがへたれば、とりかえすのだという潜在的決意の表れだろう。
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ロシア・サハリン島の放棄された空軍基地🇷🇺
Abandoned airbase on Sakhalin Island Russia 🇷🇺
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サハリンの軍施設で保管されていた旧型戦車や大砲も昨年秋から相次いで姿を消した。小泉氏は「ロシア軍は極東の兵器を引き抜いている。戦車や大砲がウクライナの前線に送られているのは間違いない」と指摘した。
S300V4を装備するミサイル部隊は択捉島中部の単冠湾の湾岸と、国後島中部にある中心集落の古釜布近くに駐屯し、いずれも大隊規模だった。小泉氏は米宇宙技術企業マクサー・テクノロジーズが撮影した衛星画像を分析した。
小泉氏は極東からの兵器の移転について「ロシア軍が使える限りの兵器を全て投じ、戦っている証左だ」と話している。
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ロシアの安全保障会議副議長を務めるドミトリー・メドベージェフ(Dmitry Medvedev)前大統領は3日、今年これまでにロシア軍に約28万人が入隊したと明らかにした。 国営タス通信(TASS)によると、ロシア極東のサハリン(Sakhalin)島を訪問中のメドベージェフ氏は「国防省のデータによると、1月1日以降に入隊した契約兵は28万人に上る」とし、「一部は予備役、残りは志願兵その他」だと話した。 メドベージェフ氏は先月上旬、今年に入ってからの入隊者は23万人超だとしていた。 AFPはこうした数字について独自に検証できていない。 昨年9月の部分動員令を受け、数十万人が国外脱出したとされる。その後、新たな動員令は発動されていない。 しかし今春以降、ロシア軍はインターネッ���や街頭の広告看板で勧誘活動を積極的に推進しており、金銭的なインセンティブも提示している。(c)AFP
ロシア軍、今年の入隊者28万人 前大統領 写真3枚 国際ニュース:AFPBB News
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チェチェン・イチケリア共和国、自由ロシア軍団などが参加し、ロシア連邦からの少数民族の独立を目指す「ロシア後の自由な民族フォーラム」の未来予想図。#北方領土 だけではなく、全千島列島とサハリンの南半分まで日本に返還予定。1905年ポーツマス条約時にまで戻ります。皆さん、応援しませんか?
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「縄��時代について(後編)」~竹末の読書メモ④
お待たせしました!昨年10月のブログ配信以来、久しぶりの投稿です。 前回(2022年10月末)のブログでは、縄文時代は、日本の古墳時代から21世紀の現代までの1700年間の8倍以上の13000年の長さであることの概要をお話しました。また、弥生時代というのは、わずか800年です。なんと1/16の短さです。・・・と言っても、現在を生きる我々からするととんでもない長さなのですが・・・
さて、青森市郊外の青森湾に注ぐ沖館川の右岸台地上にある「山内(さんない)丸山(まるやま)遺跡」はご存じでしょうか? ここでは、戦後、小規模な発掘は行われていましたが、1992年に県営野球場の建設をきっかけに大規模な事前発掘が実施されました。縄文時代前期中頃から中期(今から5500年ほど前にあたります)までを中心に、約1500年続いた大規模集落の遺跡です。その広さは35ha(東京ドームが7.5個分)、ここだけで500人近い人びとが住んでいたと言われています。1994年には、直径約1mのクリの巨木を、4.2m間隔で6本立てた大型掘(ほった)立��(てばしら)建物跡が見つかり、同年8月には公園の計画が変更され、遺跡として保存されることになったところです。
考古学者の説によりますと、一万5千年ほど前の日本列島は、現在より温暖であったようです。したがって、現在の日本列島の北部地区での縄文遺跡の発見が続いたために、長い間、北方起源と考えられていました。その根拠は、①縄文時代の初期に東北日本を中心に数多く分布した、大型で特徴のある石槍や石斧などが北方系であること、②かねてより、縄文文化が東高西低であると考えられていたこと、などの理由から、「縄文文化は北から南へ伝播し、弥生文化は稲作を中心に、ゆっくりと北上した」と考えられていました。 ところが、近年、種子島も含めた南九州で、約一万一千年前に噴火した桜島起源のサツマ火山灰の下から、続々と縄文時代初期(草創期)の遺跡が発見され、北方起源ではすまされなくなってきたのです。 筆者の住んでいる昭島市の隣にあきる野市がありますが、その多摩川沿岸では縄文遺跡が発掘されています。そもそも昭島市では戦後、200万年前のクジラの骨が発見され、昭島市の市立図書館に隣接する郷土資料館にはクジラの骨や多数の土器が展示されています。今の東京湾から昭島市あたりまで海だったと推定されています。つまり、日本国中にはまだまだ発見されていない縄文遺跡が眠っているのかもしれませんね。
さて、唐突ですが、【図2】に「縄文カレンダー」というものをご紹介しましょう。 國学院大学名誉教授の小林達雄氏(現在85歳)が提唱されたもので、縄文文化の食料の季節変化を円に描いて表わしています。縄文人が、季節の変化を考慮して、計画的な労働を展開していた様子がよくわかります。
図2:縄文カレンダー(國学院大学名誉教授・小林達雄氏提唱)
縄文時代の前半の住居形式は、地面を掘りくぼめた「竪穴式住居」の中で寝起きしていました。後に向けて、次第に「平地式」が増加していきます。 食べ物は、主に自然から集めており、クリやクルミ、トチ、ドングリなどの堅果(けんか)類、シカ、イノシシなどといった陸獣、タイ、スズキ、サケといった魚類。また、甘み不足を補うために、アケビやコクワ、ヤマブドウ、そして昆虫食も食べていたとされています。 堅果(けんか)類は地面に穴を掘って貯蔵もしていたし、ハマグリなどは、いったん煮てから干し貝にしたり、魚や肉類も干し魚や干し肉、燻製にして保存食品にしていたようです。
道具としては、東日本域では、石刃を素材とし、主に手持ちの槍の先として使用されたと推定。 ナイフ形石器類は、北海道、東北、関東などに多様な地域に存在が認められています。 土器の出現は、北と西でほぼ同時期に出現したとみられています。しかし、北も西も大陸からの伝播の痕跡はなく、列島各地での発祥とみられています。 土器の持つ歴史的な意義は、ものを入れる容器としてよりも、煮沸具としての方が大きかったようです。 動物のスジや頬肉など硬い部位の肉、草菜の植物繊維なども煮込むことによって、柔らかくなり食べることができるようになりました。また、熱を加えることによって、人体に有害な物質を除去することも可能になるので、重要なデンプン質の供給源であるトチやドングリ類も食料資源として十分に利用できるようになりました。また、貝類や魚類を土器で煮ただろうし、獣骨を煮て骨髄からスープを取り出したりもしただろうとも言われています。
土器が利用されるのは、なにも食料を調理する場面だけではなく、たとえば、植物の繊維を柔らくするために湯に長時間浸け込んだり、アスファルトを溶かしたりするときにも用いられました。また、ウルシの精製をしたり、染料や顔料も焼成・煮沸し、接着材や塗料としても活用していたと言われています。
樹木についてですが、ナラやクリは縄文時代全時期を通じて重要な植物とされています。特にクリは実が食用にもなる一方、樹木は建築材料にも使われていました。それは比較的加工が容易であることと、耐久性、保存性に優れ、特に水湿に強く腐食しにくい���質があるからです。当時の人々はそれらの特性をすでに知識として獲得していたと思われます。集落の周辺にクリを意図的に植栽し、群生させ、これを管理していたと考えられています。
次に社会構造について触れてみたいと思います。 前期あたりの社会構造は母系的な社会であったと推定されています。というのは墓の人骨分布とそのDNA鑑定から、男性が集団内に婚入してくるような社会構造を有していたことが分かっています。 昔の女性にとって、出産は死の危険がともなう一大事だったでのしょう。江戸時代でさえ、出産の15%くらいは死産で、無事に生まれても、5歳までにおよそ1/4が死んでしまったと言われています。
超自然的で不可解なことを解消し、さまざまな願いを成就するために、縄文人は、祈りを捧げていたようです。森羅万象・万物に生命・精霊が宿ると考え、神格化した、あるいは人と同様な生き物に畏敬の念を持ち、その心を静め、災いを避けるために祈っていたようです。 万物への崇拝、つまり祈りを具体的に表すために、日を決めて行う儀礼である「祭祀」を行い、それを行う建物や墓地を含めた場が「祭祀場」であり、用いられた道具が「祭祀具」と言われています。 土偶は女性を表わし、とくに妊娠の姿を表わすことが多いことから、豊穣を祈る祭祀具であるとされてきましたが、これについては、ある芸術家が異を唱えており、機会があればご紹介したいと考えています。
「七歳までは神の子」といわれて、幼くして死んだ子どもはカミに返すため、葬式もせずに川原や村のはずれに捨て、あの世に送るのが通例であったとされています。 縄文人は、現代人がゴミとして遠ざける物を、汚い物、邪悪な物、遠くに捨てる物とは考えず、逆に自分たちに恵みを与えてくれた物として感謝を込めて送っていたようです。この時期、住居の入口に土器を埋めて乳幼児の遺体を埋め、再生を願うのが一般的な習俗であったとされています。 集落内には、貝塚・ゴミ捨て場・盛土遺構などと呼ばれるゴミの処理・送り(祭祀)をした場所が発見されています。ここは単なるゴミ捨て場ではなく、彼らに恵みを与えてくれた食べカスや、役目を終えた道具類に感謝を込めて、火を焚いてカミの世に送る所であり、現世は良かったと報告させて、また再び戻って来るよう祈ったとされています。
縄文人も様々なアクセサリーを身に着けていました。先日(2022年10月20日)に、NHKBSプレミアムの『英雄たちの選択』で放映されました「追跡!古代ミステリー“顔”に隠された古代人のこころ」でも、貝殻を刳り貫いた腕輪のよう��ものや、現代のアフリカ原住民が顔に化粧をしているような事例を紹介されていました。たとえば頭飾りとして、漆塗りの櫛や骨角系製の笄(こうがい)、耳飾り、鹿角製の腰飾り、トリの長管骨やイノシシの犬歯による足飾りなどで、装身具の着装は他者との差異を表わすと同時に、同じ装身具を着装することで、他者との同一性を示していたようです。まだ言語というコミュニケーションツールが確立していない状況であったでしょうし、そういった形で差異化をはかっていたのではないでしょうか。
ヒトの移動、渡海ルートは、朝鮮半島から北部九州の西回りルート(現在の瀬戸内海は陸続きだった)、沿海州からサハリンを経由して北海道(一部は新潟、富山、島根まで到達)へと至る北回りルート、そして南西諸島を北上してきた南回りルートが考えられています。舟は丸太を刳り貫いて造ったとされ、最近でも木を刳り貫いて造った舟を再現し、縄文時代の海洋交流を実体験している研究者もおられるようです。
以上、一万5千年以上前から一万3千年以上続いた縄文時代の生活について概説してきました。まだまだ謎の部分が多いのですが、ほとんどのことがわずか百年程度の研究で推察されてきたに過ぎません。彼(彼女)らが、現代の生活を想像することはまったくできなかったでしょう。自分たち人間の創ってきた文明の利器で自然を破壊し、同じ人間同士が殺戮を繰り返すことなど予想だにできなかったでしょう。 遥か昔のことを知ることによって、いろいろ考えさせられる良い機会となりました。
以上、前回と今回までで、ご意見やご要望があれば、下記メールアドレスに送信ください。 [email protected] 【筆者・竹末俊昭…一般社団法人ファブデザインアソシエーション【 FDA 】理事長・元拓殖大学工学部デザイン学科教授】
参考文献: ・「縄文の生活誌」岡村道雄*(講談社学術文庫、2008/11第一版発行) 岡村道雄氏*:1948年生まれ、東北大学博士課程修了、東北大学、東北歴史資料館、文化庁等歴任
・「縄文時代の歴史」山田康弘**(講談社現代新書、2019/01発行) 山田康弘氏**:1967年東京生まれ、筑波大博士課程中退、人類学者
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ロシアのオーロラ航空は20日、露極東ウラジオストクと北方領土・択捉島の紗那(ロシア名クリリスク)とを結ぶ旅客便の運航を、12月6日から始めると発表し、航空券の販売を開始した。同社は露サハリン州ユジノサハリンスクと紗那を結ぶ便を運航中だが、露本土にも路線を拡大する。
北方領土・択捉島とロシア本土結ぶ旅客便、露航空会社が運航開始へ…「自国領」と既成事実化か : 読売新聞
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「生は必要な方向へと転がっていくんだ、今にわかるよ」
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水曜日の午後は、 #伊豆高原 で #ロシア の #歌姫 🇷🇺 #エカテリーナ さんのミニ #コンサート ♪ 心地よ〜く響き渡る #歌声 に癒されてウットリ〜😍 特に #オペラ の #名曲 には、 #感動 🥺 日本語の歌の数々も素敵でしたが 私が大好きな曲の1つ「DARK EYES」も「百万本のバラ」も 原語( #ロシア語 )で聴くと美しさが一際違う💕 しかも、talkが面白い😆 #在日 27年とは言え、 #母語 以外で笑いを取りまくれるって ほんっとに凄いと思う🤩 お話しすると、と〜っても気さくで ほんわか柔らか〜くあたたかい雰囲気の素敵な方です😊 より多くの方に是非 聴いていただきたいです🎶 貴重な機会に参加させていただき、ありがとうございました😃 . . . 余談ですが 私の父方の祖母は、#Sakhalin #サハリン ( #樺太 )生まれで、 その祖父は、ロシア人。 ということで、うっすらですがw 1/16かな #ロシア混血 らしいですよ私🪆 #伊東市 #伊豆 #伊豆半島 #伊東温泉 #静岡県 #izu #izupeninsula #singer #vocal #russian #keyboard #song #music #concert (スイートヴィラ・四季の里 English Garden) https://www.instagram.com/p/CVWVjWYhfDK/?utm_medium=tumblr
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【最果てクネクネ散歩〜稚内市】 天気が良いので早朝から"オヤジ散歩" 市街地から"宗谷のランドマーク 利尻山(1721m)"が見えている。数日前に初冠雪があったとの報道があった。何となく頂上付近が"白い"感じ。また、宗谷海峡には"ロシア ・サハリン島"の島影も。"二つの島"が見えるなんて〜"なんて日だ‼️" #稚内市 #宗谷 #利尻山 #利尻島 #礼文島 #サハリン #島影 (Wakkanai, Hokkaido) https://www.instagram.com/p/CGJF400JiiF/?igshid=10s35n8dtlx5w
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和四年(2022)10月15日(土曜日)弐
通巻第7493号
軍事地政学からいえば北朝鮮のミサイルは中国にも照準
北京は金王朝の暴走をいかなる歴史感覚で認識しているのか?
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北朝鮮の核ミサイル、数十発が日本海へ、日本のEEZへ、そして本土を越えて太平洋まで飛翔し、つまりは日本列島全体を蔽う攻撃能力を誇示する。
日本の議論は、北朝鮮がいずれ韓国を従えて、日本攻撃を狙うという軍事脅威論が主流である。
はたと考えた。ミサイルの射程地図を『あちら側』に伸びしてみよう。
すると樺太(サハリン)、沿海州、旧満州国の殆ど(現在の中国遼寧省、吉林省、黒竜江省、内蒙古、河北省から山東省、山西省、河南省、湖北省まで、つまり北京、天津、鄭州、洛陽、太源、青島、済南を超えるのだ)。
南へ転ずれば、上海から寧波を飛翔して、はるか温州あたりまでが北朝鮮の核ミサイルの射程内だ!
中国が安全保障上の基本として、隣国の軍事力は脅威という認識を体質的に持っており、「この野郎、生意気な」と金親子三代のことを思っているに違いないが、すでに核開発を終え、実験を繰り返し、小型化に成功したという情報もある。
ミサイルに小型核を装填したと推定されている。ならば最大の脅威を感得するのは韓国であるべきだが、感度が鈍い。日本は非常事態にあるにも関わらず防空壕もシェルターもない。防御ミサイルがアリバイ証明的にちらほら。つまり国防意識がゼロに近い。
さて北朝鮮の核を中国がなぜ脅威と認識するのか。
簡略ながら歴史を辿ってみよう。
高句麗の建国は紀元前、668年に滅亡するまで栄えた。軍事力に突出していた。
二世紀に後漢で起きた黄巾党の乱で、シナの王朝が衰えた隙に乗じた高句麗は、北部へ進出し、あちこちに山城を造成し、現在の吉林省集安を拠点とした。集安はこじんまりとした街だが、鴨緑江をこえるとすぐ北朝鮮であり、広開土王の石碑は、この地で発見されたのである。
高句麗は最盛期に現在の北朝鮮から沿海州、中国吉林省南部と遼寧省から、韓国の北部半分を抑えていた。当時の地域大国だった。
581年に隋が建国され、冊封体制に入るものの高句麗は隋に従う気配はなく、590年に最初の抵抗を示した。
文帝が死ぬと隋は煬帝となって、598年に水陸30万の遠征軍をおくりこんだ。ころが。燎河の洪水で隋軍の進撃が阻まれてしまい、撤退した。また突厥の台頭があって隋は高句麗だけを相手にしている場合ではなかった。
612年、隋の煬帝は満を持して百万の軍を派遣したが苦戦の末に撤退した。
613年 進撃途中に兵站が切れて、又撤退した。
614年 軍派遣するも隋国内に反乱が起こり退却する。
617年 煬帝はまたしても軍派遣を準備したが沙汰止みとなる。
さんざん手こずって、結局、随は高句麗に勝てなかった。
日本では百済、任那府との関与が深く、隋と高句麗の戦線状況を把握していた筈である。
645年に大和朝廷は乙巳の変で蘇我氏が滅亡したが、この同じ年に、唐の太宗は十万を高句麗に派遣し、激戦しつつ進撃をしたが、やはり撤退を余儀なくされた。新羅が唐に援軍を求めた。
647年、648年に 唐は遠征に失敗したが、660年に13万の軍をおくり、大々的に百済を攻撃し、662年に百済は事実上滅んだ。日本に亡命していた王子に5000の兵をつけて、天智天皇は百済救済に立つが、白村江海戦で唐海軍に敗れ、撤退した。
高句麗が滅亡したのは668年である。
そこで新羅が恩ある筈の唐に造反し、失敗して遺臣等は日本に亡命してきた。彼らを武蔵国に集団移住させた。その名残が、高麗神社である。
高句麗にかわって30年後に渤海国が698年に建国された。渤海は安全保障のため遠交近攻策をとり、じつに727年から919年の間に34回、「朝貢」のため日本に来た。現在ロシア沿海州のポジェト港あたりから出向し、前半は出羽、佐渡島などに漂着した。
後半は能登以西の港に着岸した。ヤマト王朝は最初歓迎したものの「朝貢」というからには日本の方が負担が大きく、夥しい土産、物資が必要となり、やがて12年に一度の制度としたうえ、最後は「もう来なくても良い」となった。かれらは情報収集の傍ら朝貢の返礼品が目的で、交易で巨富を得ていたのだ。(渤海使の一覧は拙著『葬られた古代王朝「高志国」と継体天皇』(宝島社新書)にあります)。
つまり、中国の皮膚感覚としての高句麗の脅威は、現在の北朝鮮の核戦力の脅威に連結している。
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https://www.jiji.com/jc/article?k=2022030201276&g=eco
ロシアによるウクライナ侵攻を受け、米欧の資源メジャーが極東サハリン沖の石油・天然ガス開発事業からの撤退を相次いで決めた。
事業は日本のエネルギー安全保障上、重要なプロジェクトと位置付けられ、政府や企業が深く関与している。しかし、米欧がロシアに対する強力な経済制裁を打ち出す中、日本の関与継続に逆風が強まっており、日本勢は難しい判断を迫られている。
米石油大手エクソンモービルは1日、主に石油を生産する「サハリン1」から撤退すると発表した。
サハリン1は、日本の官民出資会社サハリン石油ガス開発(東京)が3割の権益を保有。同社には経済産業省が50%出資し、伊藤忠��事や石油資源開発、丸紅なども出資者に名を連ねる。エクソンの撤退について、サハリン石油ガス開発は「情報収集中で、今後対応を検討する」と話す。
資源の乏しい日本は、原油の大半を中東からの輸入に依存している。「サハリン1は調達先を分散できる重要な権益。簡単に撤退はできない」(資源エネルギー庁幹部)のが実情だ。
三井物産が12.5%、三菱商事が10%を出資する石油・天然ガス開発事業「サハリン2」からは、英石油大手シェルが撤退を表明した。
サハリン2の天然ガス生産量の6割が日本向けで、東京ガスの場合、輸入量の1割弱に相当。購入量の約半分をサハリン産が占める広島ガスは「経済制裁などで影響が出ることを懸念している」(広報)という。エネルギーの安定供給に支障を来せば、地方経済に影響が広がる懸念もある。
三井物産の安永竜夫会長は2日、東京都内で記者団に、ロシアでのエネルギー事業について「継続するかどうかも含め政府と協議している」と語った。ウクライナへの連帯を示しつつ、エネルギーの安定調達も求められる中、日本のサハリンプロジェクトへの関与は窮地に立たされている。
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