ophelia333k-2
純白の中に見失ったこの白い点を
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ophelia333k-2 · 2 years ago
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duration like a melody
 Twitter、「大学院を出て博士号を取っても、生活保護だからな。恐ろしい時代になったよ。大学で非常勤講師をするよりも、コンビニやマクドナルドでバイトした方が実質的な時給は高いからな。博物館の時給が1000円くらいだが、皿洗いも同じ。専門知識なんて糞の役にも立たないよ。酷い時代だね」(2023年01月28日)というツイートを見る。一応、自分は大学院に行く可能性がある身だけど、そういうことに対してほとんど怒りとかを感じられなくて、「コンビニやマクドナルドでバイトした方が実質的な時給は高い」と言われても、まあそうですよね、という気持ちになる。昔から、マクドナルドのバイトが仕事の中で一番難しいと思っていて(一番というのは誇張にしても)、あんなマルチタスク全開で忙しい仕事、どうやったらできるんだろうって思っていた。社会的に悪い待遇を受けていても、何と言うか、最悪自殺するか、みたいなマインドで、給料を上げろ、とか、待遇をよくしろ、という姿勢が自分の内側から全く出てこない。よくないとは思うけど、どうすれば変えられるんだろう。自分の人生を引き受けている実感がない。ずっと、遠く��ら眺めているみたいな気分だから。最近、受験や就活は発達障害者を弾くシステムだという言説を目にすることがあって、自分がそうだから、経験上、それは完全にそうなのだけど、じゃあどうすればいいんだろう。会社、に対しても、給料がよくて待遇がよい会社に入りたい、とか、大企業に入りたいとか、そういうことをほんとうに一度も思ったことがなくて、何でもいいから生活をギリギリ維持できるだけのお金をもらいながら、はやく終わりたいといつも思っている。でも、そんな自分だけど、一度、真夏に、派遣で国道沿いの、近くには一軒のドラッグストアしかない終わっている(もちろんほんとうはそこで人が暮らしていて終わっていないのだけど)輸送拠点みたいなところの日雇いバイトをしたとき、ドラッグストアの洗剤とか重たいものをひたすらベルトコンベアに載せ続けるのだけど、完全に肉体労働だから疲れるというのはまずあるし、真夏だから暑いけど半屋外だからエアコンもなくとにかく暑いし、隣では何らかの知的障害がありそうなおじさんが、別の上司のおじさんに怒鳴られているし、そのとき、ここで働いている人たちは、死ぬまでここでずっと怒鳴られながら、重たい箱をただベルトコンベアに詰め続けながら、そうして肉体を滅ぼしながら、死ぬまでここで暮らすんだ、と思って、少し、ちゃんとした企業とかで働かないといけないんだ、みたいな気持ちが湧いた。そうしないと、肉体が壊れていくと。もちろん実際のところどうなのかは知らないし、すべては自分の偏見で、バイアスで、思い込みで、そういうところでも何かしらの確かな幸せがあって満足に暮らしているのかもしれないけど、そう思わせるだけの何かがあった。プロレタリア文学の代表作のひとつである葉山嘉樹の『淫売婦』には、タイトル通りの「淫売婦」が出てくるのだけど、娼婦とかではなくて「淫売婦」であることには理由があって、その女性は病気があって身体を売っているものの、いわゆる高級娼婦とかではないし、通常の娼婦ですらなく、「それは死体だった」と描かれるような、「嘔吐したらしい汚物が、黒い血痕と共にグチャグチャに散らばっていた」と描かれるような、文字通りの淫売婦。病のために動くことすらままならない、ほとんど死にかけた淫売婦。主人公は「それ」を、「その瞳は私を見ているようだった。が、それは多分何物をも見ていなかっただろう。勿論、彼女は、私が、彼女の全裸の前に突っ立っていることも知らなかったらしい」と描写する。でも、重要なのはまなざされること。「彼女は瞬(またたき)をした。彼女は見ていたのだ」。「私」が、そんな彼女を見世物にしている男たちを糾弾すると、「皆が病気なんだ。俺達あみんな���きすぎたんだ。俺達あ食うために働いたんだが、その働きは大急ぎで自分の命をすり減らしちゃったんだ」と言う。あれ、どうして葉山嘉樹の『淫売婦』の話をしていたのだろう、あ、そう、その日雇いのバイトをしていたとき、その種の絶望を感じたということ。もちろん、そこまで酷くないとか、自分の場合は単なる日雇いとか、諸々の相違があるけれど、人生と労働について考えたときそのような暗い気持ちになる。それとも、本来、もっと労働は明るくて楽しいものなのかな。あるいは、労働の本質は本来的に暗く苦しいものなのかな。たぶん、後者だと思う。そういえば、昔、葉ね文庫行った時に、自分の詠んだ短歌(もう今は短歌なんて詠まなくなってしまったけれど)を褒めてくれた中年くらいのおじさんに仕事のことを聞いたら、「数十年間、ずっと毎朝、会社に行くの嫌すぎる、と思いながら出勤しているよ」と言っていて、よかったことを思い出した。美しいと思った。そこには欺瞞がなかった。数十年も会社に行っていたら、普通、「働くことにもいい面はある」みたいにして正当化してしまいそうなところを、ちゃんと毎朝、通勤するのが嫌すぎると思いながら数十年間通勤して、いまでもそうやって働いていること。美しいし、賞賛されるべきだと思った。  目を開けたら、利用できるインターネット接続がありません、と表示されて、安心する。全学連が街頭宣伝を叫ぶ声が浸透してくるマツモトキヨシでブロンを買ったら、「濫用の恐れがある薬物について」みたいな文字が書かれた大きめのシート見たいなのを出されて、いくつかの質問をされて、適当に「はい」と答えていた(ところで、ゲームで会話を飛ばすためにボタンを連打したら大切なものを見逃してしまうからやめようね、人生)。幻覚剤をやっているときには目をつむると虹色の光が見えるからうれしい。ずっと川で鳥を眺めていた、鳥と目を合わせていた。街で規則的に道を歩いている人たちの動きがロボットみたいに見えた。自分はその規則的な動きから脱して、一人だけ、自分だけが完全に規則性を脱した存在としてそこにいるのだと思った。光があふれてくる、かすかに、川がただ流れている。虹色の一番奥の方まで行きたいと思うけど、奥にはいけなくて、そっと水を飲んだ。そう、ほんとうは、ただ冷たい水を、やわらかい、あまりにもやわらかくて透き通った雪解け水を、紛れもないただの水を飲んでいるだけで、それが抗うつ剤に、発達障害の薬に、幻覚剤に、テトラヒドロカンナビノールになればいい。それが人類の夢。マルセル・プルーストの『失われた時を求めて 1』をブックオフで買って、適当にページを開いたら、「ベッドで寝ていても、眠りが浅くなり、精神が完全に弛��すると、それだけで精神は寝入った場所の地図を手放してしまう。すると夜の��だなかに目覚めたとき、自分がどこにいるかわからないので、最初の一瞬、私には自分がだれなのかさえわからない」と書かれていて、抱きしめたくなった(誰を? もちろんマルセル・プルーストを。プルーストの魂を)。あの状態がずっと続けばいい。目が覚めた直後の一瞬の、すべてが空白で、自分がだれなのかさえわからないあの一瞬が、ずっと続けばいい。続けばいい、窓の方から差し込んだ光が誰かの定規とかで反射して、教室の黒板の上の方に光の標ができる。ずっとそれを眺めていた時間とか、何も進んでいない自分をどこかへと運び続ける電車の揺れとか、そういう風に、続けばいい。続いていく、終わり続ける、始まり続ける。プルースト、すでに古典となった小説を読むのは落ち着く。今生きていて、まさに今勢いを増しているような現代の作家の小説を読んでいると、何だか急いで読まないといけない気がするし、自分も今すぐに何かを書かなければならない気がして、気が焦る。その意味で、古典となった作家の小説は、純粋に小説のその持続を体感していられる。
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ophelia333k-2 · 2 years ago
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竹田青嗣「完全読解 カント『実践理性批判』」
〈カントは、実践理性の根本法則を「君の意志の格律が、常に同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ」という定言命法によって規定したが、その内実は、いくつかの理由で近代社会の倫理の本質を表現している。つまり、カントの「道徳」の概念は、それまで存在していた共同体的、宗教的倫理から、本質的に���別されるべきものだ(p6)〉
〈カントの「道徳」はなぜ共同体的、宗教的倫理から自立して、近代人の倫理の本質を表現しているのか。それが純粋な理性の能力(つまり推論の能力)に人間の道徳性の根拠を基礎づけるものだからである。そしてその意味は二重である(p6)〉 〈第一に、カントは何が善であり悪であるか、人間は理性の力によって必ず判断することができる、と主張した。言い換えれば、善悪の判断は、すでに存在している善悪についてのどんな基準(権威)も必要とせず、ただ理性によってのみ可能である、と主張した。つまり、善悪について、人間の理性という根拠だけからその普遍的基準を取り出すことができると主張した。このことで、カントは「道徳」概念を、共同体的なもの、宗教的なもの(聖なるもの)の権威から完全に切断したのである(p6)〉 〈第二は、さらに重要性をもっている。  カントによれば、善悪の判断は純粋な形式性から現われる。その内実はある意味できわめてシンプルである。つまり主観にとっての「善い」ではなく万人にとっての(客観的な)「善い」だけが、「普遍的立法」の基準となるというのだ(p6)〉  個人が自ら立法して、その自ら立法した法に従うというモデル。そして、その立法された法は普遍的立法の原理と一致する。  *とりあえずはすべて二項対立に落とし込んでみること。整理の仕方。
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ophelia333k-2 · 2 years ago
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読みたい本(読む本)
◆小説 ・M・バルガス=リョサ『都会と犬ども』 ・マルスの歌・ロブ=グリエ『反復』 ・ドストエフスキー『地下室の手記』 ・川上未映子『夏物語』
・ジョン・キーツ『キーツ詩集』
・『ランボー詩集』
・麻布競馬場『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』
・吉本隆明初期詩集
・岸田将幸『生まれないために』
・岸田将幸『岸田将幸詩集』
・現代詩手帖2011年5月号「言葉は力そのものである」
・藤原賢吾『人民の敵 外山恒一の半生』
・千坂恭二『哲学問答2020─ウィルス塹壕戦』
・『脱原発「異論」』
・J‐P・シャンジュー, P・リクール『脳と心』
・吉本隆明, 芹沢俊介『対幻想 : n個の性をめぐ��て』
・吉本隆明『共同幻想論』
・他人を見下す若者たち
・もうおうちへ帰りましょう
・ベケット『どんなふう?』
・透明だった最後の日々へ
・エデン・エデン・エデン ◆哲学・思想 ・ドイツ・イデオロギー ・仮面の解釈学 ・共同幻想論 ・吉本隆明『天皇制と日本人』 ・吉本隆明, 芹沢俊介『対幻想 : n個の性をめぐって』 ・吉本隆明『共同幻想論』 ・中国が読んだ現代思想 サルトルからデリダ、シュミット、ロールズまで ・Ckaire Colebroo "IRONY" ・千坂恭二『哲学問答2020─ウィルス塹壕戦』 ・『脱原発「異論」』 ・J‐P・シャンジュー, P・リクール『脳と心』 ・プラトン『政治家(ポリティコス)』 ・『感覚の論理―画家フランシス・ベーコン論』 ・埴谷雄高――夢みるカント ・天皇と日本のナショナリズム ・埴谷雄高――夢みるカント ・雪片曲線論 ・チベットのモーツァルト ・生命の臨界―争点としての生命 ◆その他 ・自然哲学の数学的諸原理 ・みんなの前で褒めないでください ◆映画 ・シャイニング ・窓辺にて
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ophelia333k-2 · 2 years ago
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断片3
「思考するということはひとつの能力の自然的(ナチュレル)な(生まれつきの)働きであること、この能力は良き本性(ナチュール)と良き意志を持っていること、こうしたことは、事実においては理解しえないことである。人間たちは、事実においては、めったに思考せず、思考するにしても、意欲が高まってというよりむしろ、何かショックを受けて思考するということ、これは「すべてのひと」のよく知ることである(『差異と反復 上』p354)
 思考するというのは生まれつきの働きではもちろんないし、私たちが何かを考えるのは、暴力的な何かによって強いられたとき、何かが侵入してきたとき。愛知(フィロソフィー)ではなく嫌知によってこそ思考が始まるということ。 ***
・器官なき身体についてここにまた整理をしたい
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ophelia333k-2 · 2 years ago
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12/01 断片2(メノンそして教育、真似をすること)
 プラトンの『メノン』を読んだ。問われているのは「私たちが徳を心がける場合に、それを教えられうるものと考えたらいいのか、それとも、徳とは生まれつきによるものと考えるべきか、それとも、いかなる仕方で人間にそなわるようになるものと考えるべきか(『プラトン全集9』p295」という問題。しかし、ここでソクラテスはそもそも「徳とは何か」という問いを探求しなければ、「徳とは教えられうるものなのか」という問いについて考察できないと主張する。    しかし、結局のところ「徳とは何か」という問いの答えが明確に出ることはなく、それゆえ、ソクラテスは仮設(前提)を立てて問題を考察する。  そして、ソクラテスは問いを次々と変形させていく。問われるのは、「徳というものが、魂にかかわるいろいろなもののなかでも、とくにどのような性格をもったものであるならばそれは教えられるものだということになり、もしくは教えられないものだということになるか(p297)」ということ。ここで、「もし徳が一種の知識であれば、明らかに、徳は教えられうるものだということになるだろう(p298)」という前提が立てられ、「徳は知識であるか、それとも知識とは別の性格のものか」ということが問われる。  この問いに対して、ソクラテスは「徳は知である」という結論を出すものの、現実世界には徳を教える教師が存在しない、という事実から、このことは再び疑われる。ソクラテス曰く、たとえば誰かを優れた医者として育てたいのなら医者たちを教師にすればいいし、すぐれた靴職人に育てたいのなら靴職人を教師にすればいい。しかし、徳(卓越性)そのものを教える教師というのはどこにも存在しない(ソフィストは徳の教師足り得ない)。また、ペリクレスというアテナイの政治家は二人の息子に騎士としての教育や音楽や体育競技など、高い教育を施したものの、それによって息子が必ずしも人間的にすぐれたものになるわけではない。現実を見ると、徳というのはほとんどの場合、教えようとして教えられているものではない。    そして最後にソクラテスは「もし徳が誰かにそなわるとすれば、それは明らかに、神の恵みによってそなわるのだということになる。しかしながら、これについてほんとうに確かな事柄は、いかにして徳が人間にそなわるようになるかということよりも先に、徳それ自体はそもそも何であるかという問を手がけてこそ、はじめてわれわれは知ることができるだろう(p332)」と結論付ける(明確な結論は出ない)。    この引用については、「どのように(How)」よりも「何か(What)」という本質を問うという意味でいかにも哲学らしさを感じる。たぶん、自分なら「何か(What)」よりも「どのように(How)」の方を重視するだろうし、それはある種プラグマティズム的なのかもしれない。    全体の感想としては、プラトンの対話篇って面白いな、と思った。よくプラトンは教科書的に、イデア論がどうとか、四つの徳がどうとか、整理されて図式化された形で説明されるけれど、それはあまりにも退屈かもしれない。実際に対話篇を読むこと、いまそこで対話が行われていると思ってその会話を聞くこと、いままさに生成しつつある対話を追うことでしかそれは理解されないような気がする。必ずしもその内容だけではなく、対話篇という形式の重要性。    ***    (以下は上記の話と直接は関係しないけれど、教育についての話)    教育について。自分はいまだ学生だから教育される側の存在であるわけだけど、同時に何らかの形で人にものを教えることはある。そして、何かを教えることにおいて重要なのは常に「教えられないもの」の方だと思う。教える、ということには常に何らかの不可能性がある。  知識というのは教えられるけれど、何を欲望し、何を問い、何を意志して、どのように生きていくかということは教えることができない。ある哲学者が何を言っていたのかを教えることはできても、実際にどのように哲学をするのか、ということは教えることができない。そして、それは芸術の分野で特に顕著だと思う。自分もやっているもので言えば、小説を書く、ということについて教えるとして、たくさんの言葉を教えたり、物語がどういうものかについて、あらゆる知識は教える事ができるけれど、実際に「小説を書く」という行為を教えることはできない。    ドゥルーズが、水泳の例を挙げながら、どうやって泳ぐのかを教える教師から学ぶことはなく、ただ「一緒に泳いでみる」ことを行う教師からしか学べない、というニュアンスのことを言っていたことを思い出す(おそらく『差異と反復』)。    重要なのは、真似をすること。究極的に教育というのは、ただ教師の真似をして実際に泳いでみることしかないのだと思う。    芸術もそうで、小説を学ぶのなら、ある小説を、ある作家を真似ることでしかそれが書かれることはない。何かを真似ること、実際にやってみること。  
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ophelia333k-2 · 2 years ago
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11/30 断片1 ドゥルーズと他者
・《他者》は厳密に言えば、誰でもなく、私でも君でもない、ということは、《他者》は一つの構造であるということを意味しているのであり、この構造が実現されるとすれば、それは、互いに異なるもろもろの知覚的世界のなかでの変化可能ないくつかの項――君の世界の中での君にとっての私、私の世界のなかでの私にとっての君――によってのみである(G・ドゥルーズ『差異と反復 下』pp293-294)
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ophelia333k-2 · 2 years ago
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11/30 ナジャ
 アンドレ・ブルトンの『ナジャ』についての話目当てで桜井哲夫の『「戦間期」の思想家たち――レヴィ=ストロース・ブルト・バタイユ』を読んでいた(『ナジャ』についてはここで少し書いています)。  『ナジャ』という小説は「美は痙攣的なものだろう、それ以外にはないだろう」「私はさまよえる魂」という風に、シュルレアリスムの精神に忠実に書かれたものであり、その世界観��とても美しかった。でも、(作品を読んでいる時にも薄々感じrうことではあるけど)作品の内部から一歩引いた目で見ると、また別の側面が見えてくる。   〈ブルジョワ出身の既婚の男性が、プロレタリア出身の薄幸な生い立ちの、精神を病みつつあった女性に強くひかれ、その境涯に同情して関係をもち、病んだ彼女に精神的に依存されつづけて、耐えきれず逃げだしてしまった。しかし彼女を救えなかった自らの不明を恥じ、良心の呵責に悩まされた、と言ってしまっては身も蓋もないかもしれない(p130)〉
 筆者はこの後、ブルトンの唐突な共産党入党はナジャに対する「贖罪」の意味を持つのではないか、ということを主張する。『ナジャ』という小説の中では、ナジャは自分の名前をロシア語の「希望」の最初の部分である」と説明したことになっているものの、この本では、生い立ちから考えてまともな教育を受けなかった彼女がロシア語を知っていたわけではなく、その説明はフィクションであると、断言している(アメリカ人の女性ダンサーに由来している可能性が高い)。    そして、実はブルトンは1925年の夏にトロツキーの『レーニン』を読んで政治的に目覚めているらしくて、「ナジャ」というのは革命家レーニンの妻(Nadejda Konstantinovaの名前の「はじめの部分」らしい。    とすると、「ナジャ」という名前はナジャ本人にとってはアメリカ人の女性ダンサーの名前であり、ブルトンにとっては革命家レーニンの妻の名前の初めの部分。それが、『ナジャ』においてはロシア語で「希望」を意味する言葉の初めの部分、として説明された、ということなのかな。
 だとするのなら、そこには最初からすれ違いがある。
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