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Strange Fruit
キャリル・フィリップス 作
ナンシー・メディナ 演出
Bush Theatre
https://www.bushtheatre.co.uk/event/strange-fruit/
西インド諸島のセントキッツ島に生まれ英国に育ったキャリル・フィリップスの1981年の処女劇作 Strange Fruit を Bush Theatreにて鑑賞。
1980年代はじめの英国、カリブ系移民二世の兄弟と母の物語。レイシズムと貧困、ミソジニーと女性搾取、偶像化された母国、あるいは概念としてしか存在しない「アフリカ」のふたつの「約束の地」、絶望と怒りと暴力… 次々と新たな傷が暴き出され絶えることなく血が滲むような、そんな重い、重い芝居だった。
2歳と5歳の幼子の手を引いて西インド諸島の旧植民地から英国へと移り住んだヴィヴィアンは、蔑視や差別、貧困に苦しみながらも二人の息子を大学へ進学させ(注 当時の英国の大学進学率は10%にも満たない)教師として働いている。大学を出た息子二人は、目の前に高い壁のごとく立ちふさがる暴力的なまでに人種差別的な英国社会に激しい怒りを抱いているが、「黒人」としてのアイデンティティの錨を下ろすべきカリブとの絆は母から聞かされた昔話の断片しか持ち合わせていない。自分を抑圧排除しようとする英国と、手の届かぬ「約束の地」の狭間で、身動きが取れない若者二人のフラストレーションが膨らんでゆく。息子のためにと母が作り上げた世界の虚像が明らかになった時、兄弟は音を立てて崩れていく。お互いを、母を道連れに、暴力的に崩壊していく。
兄弟たちの怒りの咆哮は大きく胸に響くが、より強い痛みを引き起こしたのは、大学で経済学と政治学を��攻した彼らが語る抽象的な「黒人問題」よりも、母親が語る���体的で個人的な蔑視と差別の経験(胸が引き裂かれるようなモノローグ)と、目の前で展開する白人の少女へ向けられた暴力的搾取の方だった。怒りを母や自分を慕う少女といった自分たちよりも弱いものへと向けるしかない男たちに単純に共感や同情を抱くのは難しく、同時に母親の諦めも少女の依存も歯がゆいばかりだが、この徹底した厳しさ、救いようのなさが、作品に確固としたリアリズムをもたらしているのだと思う。
ゆっくりと、だが確実に、母と息子、英国人と移民、移民一世と二世、男と女、英国と西インド諸島、階級(低賃金の仕事を渡り歩くしかなかった母親に対して息子二人は大学卒)、偶像と虚像、あらゆるところに開いた亀裂が可視化されていく。そんな重苦しい芝居のそこここに挟まれる軽口は、深い絶望と諦めの底から上がってくる泡のようなものだと、私には笑うことができなかったのだけれど、後列の若い黒人女性たちは盛大に笑い転げていた。すこし驚いたが、この排除と拒絶と絶望の物語のすべてが、40年後の社会を生きる彼女たちの心をナイフのようにえぐらないのだとすれば、それはそれで喜ばしいことなのかもしれない。
同じくカリブから移住してきた隣人とは違い、髪をストレートに伸ばし、イングリッシュアクセントを身につけ、薄い色のストッキングを履いた母親ヴィヴィアンの目指した白人中流家庭的「世間体」(respectability)を象徴するかのようなインテリア(オリーブ色のソファ、花柄のティーカップ、写真立て、エリザベス女王の肖像などが並んだ焦げ茶色の木製のチェスト等々)がオーディトリアムのすぐ外に再現されていた。ところが、一旦オーディトリアムの中に入ると、客席が四方を囲む方形の舞台は、緑色の古めかしいカーペットに覆われてはいるものの、セットらしいセットはなく、中央が低く沈められているだけだった。母の長年の渾身の努力にも関わらず、一見、移民の「夢」を実現したかに見える家庭の中心は実は空っぽなのだと示唆しているようだった。
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Columbus
11.10.2018
director: Kogonada
午後からぽっかり時間が空いたのでColumbusを観てきた。ロンドンのモダン建築の代表格であるバービカンセンター付属の映画館で観ることになったのは何かの縁か。少女がモダン建築に救われ、建築に父を奪われた男がその少女に救われる話だったから。
貧しさが生む生活の混沌に翻弄されていた15歳の少女の目に、ガラスと直線の造形が、ただただまっすぐに軽やかに宙に浮かぶ様は、そのシンプルで透明で明解な姿はどう映ったんだろう。夢のようだったんではないだろうか。
父と息子/母と娘、父を見送る息子/母から巣立つ娘と、物語の構造は、それこそ現代建築のそれのように明確で、ぴたりと均整が取れている。それを単純に見せることなく、光と影、血と肉を与えているのが、作品全体に豊かに施された繊細なテクスチュアと、ケイシーを演じた若い役者(ヘイリー・ルウ・リチャードソン)の素晴らしい演技だ。
コロンバスの街の現代建築の数々(サーリネンや、サーリネンや、サーリネンや!)を案内するケイシーが、ガイドブックのように「客観的」に解説するのを遮って、聞きたいのはこの建築がなぜ、どうやって彼女の心を動かしたのかだと、ジンが問う。カメラはガラス越しに、頬を紅潮させ、夢見る瞳で語るケイシーのいきいきとした表情を音声無しで見せる。ケイシーの言葉は聞こえない。建築と向き合う誰もが自らに問うべきことだと、この空白を埋めるのは私たち個人の言葉で声であるべきだというメッセージだったんだと思う。
すべてのショットが建築への恋文だった。こんなにも美しい恋文を受け取��て心動かされない建築従事者はいないんじゃないかしら。建築というの仕事の可能性を信じさせてくれる。もう一度夢を見させてくれる、そんな映画でもあった。
映画研究から製作へと移っての初監督作品ということもあってか、彼がこれまで夢見てきた「映画」のあれこれをできる限り詰め込もうとしたのか、詰め込みたいと思ったのか、やや映画的過剰に走った箇所が気になったりもしたけれど(ジンとかつての思い人の会話を、ジンの救いの求めが拒絶される様を鏡に映してのみ語る場面など)、そういう一見ミニマリストでありながらありとあらゆる細部が計算し尽された緊張感はとても小津っぽいなあと思ったら、小津で博士論文書いた人で、Kogonadaというペンネームが野田 高梧からとったものという話だった。道理で。
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Akram Khan, “Xenos”
sepoy /ˈsiːpɔɪ,sɪˈpɔɪ/ noun An Indian soldier serving under British or other European orders.
初めてアクラム・カーンの名を耳にしたのはロンドン五輪の開会式だった。エミリー・サンデイの歌うスコットランドの讃美歌の、静かで美しいメロディーの根底に潜む激しい鼓動を鏡に映して見せたようなコレオグラフィーが強い印象を残した。それと前後して、建築を離れてダンスの道へ進むという友人から「アクラムのDESHは、何が何でも観ておいたほうがいいから」と勧められた。勧めてくれた友にはきっと一生感謝し続けるだろう。それ以来、彼自身が踊る時も、振り付けのみの作品も、ロンドンで観る機会があれば足を運んだ。
そして今回、そのアクラムが自らが踊るソロ作品としてはこれが最後と宣言したXenos(他者)を観て来た。
第一次世界大戦から100周年を記念して制作を依頼された作品の基礎としてアクラムが選んだのは、150万人に及ぶインドからの志願兵(sepoy / シーポイ)の物語、そしてその上に重ねるように、ゼウスから火を��み人間に与えたプロメテウス神話。遠い昔にプロメテウスが人間を哀れに思って与えた火、そこから生じた文明の一つの帰着点としての世界大戦。ヨーロッパ世界を覆った戦闘の最中に、東洋から送られたシーポイ。二つの物語の境は明確ではない。交互に立ち現れたかと思えばぴたりと重なり、重なったかと思えば少しずつずれていく。ポリフォニックな構成とでも言えば良いか。
舞台装置もまた自在にその意味を変える。シーポイが戦場で、あるいは帰還後のPTSDの発作の最中で見る悪夢であり、前線の塹壕であり、プロメテウスが磔にされたコーカサスの荒れた山肌であり、希望と絶望と、死と生とを繋ぐ/分け隔てる急斜面だ。シーポイの心の中に存在していたであろうランドスケープ。そこから抜け出すことは叶わなかったであろう場所。抽象的でありながら真実味を感じさせる、どこかで見たようなランドスケープだと気づく。きっと私の心の中にもある。遠い記憶として受け継いだ風景だ。
いつもながら、アクラムの作品は小道具も秀逸だ。ありふれて日常的でありながら、どうしようもなく胸を絞られる。実存と象徴との境界に置かれ、物語とその背後にある宇宙を繋ぐ物。DESHでは巨大な椅子や送風機、Xenosでは蓄音機だった。蓄音機は、他国の戦場で戸惑うシーポイに次々と命令を下し、亡くなった他のシーポイたちの名前を読み上げる。やがてサーチライトとなって闇を照らす。逃げ出すことも隠れることも許さない。冷たい機械に見張られて、シーポイの他者/Xenosとしての孤独の輪郭が濃く刻まれる。
アクラム/シーポイ/プロメテウスは、踊ると言うよりは踊らされているといった様子だ。赤い靴でも履いたかのように、内なる不安と恐怖に、混乱と慙愧の念に、音楽に、モーツアルトの鎮魂曲に、踊らされているかのようだった。舞台後方、虚空にぼんやりと浮かぶ音楽家たちは、オリンポスの神々かもしれない。後方の司令官たちかもしれない。
やがて、音楽に突き動かされるように踊る彼の足元に、ひとつ、ふたつと、やがて彼の世界を覆いつくすように、たくさんの松かさが雪崩れ込む。小さな頭骨のような松かさの、軽く乾いた音が胸に刺さる。私もまた、言葉を失って立ち尽くすしかない。
それにしても、これほど複雑で壮大な物語/思考を、舞踏という手法で、しかもたった一人の踊り手で、表現しようとは、なんという勇気だろう。そして、彼の挑戦が見事に成功したことは、鳴り止まぬ拍手と歓声、満場のスタンディングオベー��ョンが証明していたと思う。
ひとつだけ、気になっていることがある。戦争の悲惨を、20世紀の戦争をモチーフにして描き出すのはそろそろ難しくなっているだろう。少なくとも豊かな先進国/社会では、戦争は急速に身体的なものではなくなりつつある。現代の戦争は、遠く離れた土地で、大国の代理戦争として、あるいは民兵同士の争いとして戦われる。貧しい国からやって来た傭兵たちによって、戦地に足を踏み入れることもないドローンパイロットたちによって戦われる。(そして彼らは戦地に立たぬままPTSDで次々と除隊していく。)戦争で命を落とす人々の大多数は戦闘員ではない。戦争はもはや国同士で争うものでさえなくなっている。(以前書いた「『戦争』について思うこと」も読んでいただければ幸いだ)
だから戦争が身体性を失った社会に住む私たちの持つ「戦争観」をアップデートすることが急務ではないだろうか。そうしなければ、こんなにも現実の「戦争」と遠くなってしまった私たちが、中東でアフリカで起きていること、日々の現実を理解することは難しい。現実を理解せぬまま、いかに平和を築く努力ができようか。そのためにもアートが現代の戦争を如何に描くか、語るかが重要だと思う。強く思う。いつまでも20世紀の戦争を振り返って、なぞっただけで、戦争を知った気持ちに、戦火の日々を分かった気持ちになっていてはいけないと思う。
それでも、この作品には「戦争」という枠組みを超えて伝わる強さがある。より深いところへ、人間の存在の根源へと届く根があるように思える。Xenos、他者というタイトルが喚起するもの、シーポイの経験する二重の疎外と孤独、善意から破壊を生んだプロメテウスの慚愧の念、踊っているのか踊らされているのかと常に問い続ければいられない存在の不安、どれも21世紀に戦場とは遠く離れて生きる私とも、易々と、しかし深く共鳴する。
いつか彼以外の踊り手がこの作品を踊る日が来るだろうか。そうなれば良いと思う。何度も踊られる価値のある作品だと思う。アクラムが舞踏家として第一線を退くのは例えようもなく寂しいけれど、同時にこれ���ら彼のコレオグラファーとしての行く末を思うと期待に胸が膨らむ。踊り手としての自分の身体からインスピレーションを受けることがなくなったという彼が、一転し、他者の身体の中にどんな可能性を見出し、物語を作り出していくのか、どのようなランドスケープを投影していくのか。お楽しみは、これからだ。
http://www.akramkhancompany.net/productions/xenos/
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The Plague, Arcola Theatre
Text after La Peste by Albert Camus Direction Neil Bartlett Adaptation Neil Bartlett
アーコーラ劇場で「ペスト」を観た。カミュの原作から5人の登場人物に絞って語られる黒死病に侵された街の有様、そこに閉じ込められた人々の有様を、小道具のみのミニマルなセットで重苦しいまでのリアリティをもって描いた、見事なプロダクションだった。淀んだ空気の匂いまでするようだった。
85分間に凝縮した一幕物で緊張が途切れないのも良かったし、三方を客席に囲まれた舞台の閉塞感をうまく利用していたと思う。視覚情報が限定されることで私/観客のうちに潜在する「恐れ」が自ずと舞台上に投影されるのだと思う。物語の内と外で、私と隣に座った見知らぬ人々の間で、目に見えぬ「恐怖」が共有される。
キャストもそれぞれも良かったが、何よりもアンサンブルとして素晴らしかった。(ジャーナリストのレイモンドを演じた若い俳優は故ピート・ポスルスウェイトの息子だそうだ)彼方此方の劇評で高い評価を得ていたせいもあるのか、今日も満席、残りの日程も全て売り切れだとか。
https://www.arcolatheatre.com/event/the-plague/
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I Am Not Your Negro
ドキュメンタリーと云うのだろうか。云えばよいのだろうか。
ジェイムズ・ボールドウィンの Remember This House - 暗殺された3人の公民権運動活動家、メドガー・エヴァーズ、マルコム・X、マーティン・ルーサー・キングJrとの交流の記録と友情の記憶を通してアメリカの人種問題を考察する未完の原稿 - を映像化した作品で、サミュエル・L・ジャクソンによる朗読に、ボールドウィンのインタビューや講演などの映像、アメリカ社会の在り方を切り取った過去から現在までの報道資料映像やアメリカ映画の抜粋の数々が幾層にも自在に重なる。そうやって1960/70年代に書かれたと思われるボールドウィンの文章に、現代アメリカ社会の様相がぴたりと重なる。
監督はハイチ生まれのラウル・ペック。ハイチは19世紀初頭にアフリカから強制的に連れてこられた黒人奴隷らによる蜂起で、奴隷解放を成し遂げ宗主国フランスからの独立を勝ち取った国だ。
ボールドウィンの文章もペックの映像も、決して何らかの解答を容易く与えてくれる訳ではないが、彼らの切実な問いと痛みは、鋭く鮮やかに、まっすぐに届く。こちらの首根っこを捕まえて、ぐいと引き寄せ、目を開け、耳をすませ、よく考えてみろと訴える。それにしても、なんと鋭利で力強いボールドウィンの言葉なんだろう。思考なんだろう。そして、扱う主題の複雑さそのままに入り組んで立体的なコラージュを、無駄のない構成の密度の高い1時間半にまとめあげたペックの技量力量にも圧倒された。
強く印象に残ったのは、何箇所にも分けて挿入される、ボールドウィンのケンブリッジ大学での講演の映像。演説を終えてスタンディングオベーションで迎えられる彼の様子が俯瞰で捉えられているのだけれど、席に戻った彼を囲む学生たちが全て白人男性であると云う、深く刺すようなアイロニー。
人種問題をはじめとし、社会の未だ癒えない病と傷が連日のように白日の下に晒され続けている感のある最近のアメリカだけれど、こう云う映画が作られ、ドキュメンタリーとしては破格の収益を上げるのならまだまだ大丈夫だと、その底力を信じる気持ちになった。そして、NFT3という比較的小さな映画館での上映とは云え、平日の夜の最終上映回がほぼ満席で、エンドロールでは拍手も起きた英国も、ひょっとしたら。
Film director Raoul Peck on his documentary I Am Not Your Negro
❈❈❈
ボールドウィンは、アメリカ社会の人種間の関係を、黒人は怒り(rage)を、白人は恐怖(fear)を持ってお��いと対峙していると説き、白人の抱く恐れは自分たちの��した罪=奴隷制度を思い出させ意識させる存在への恐怖であると指摘する。そこでふと、それは日本人と在日韓国朝鮮人との関係にも当てはまるのではないかと考えた。目の前に存在することで私たちが過去に犯した罪の忘却を許さぬ相手を、悪であるとみなし、声をあげて非難排斥することで、過去そして現在の彼らに対する不当な抑圧を正当化しようとする心理が働いているのではないか。そして、怒りをあらわにせず接してくれる相手からは、罪に対する無言の赦しを感じているのではないか、何かと言えば「親日」がもてはやされる理由は、そこにあるのではないだろうかと。
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Fractus V, Sidi Larbi Cherkaoui
Sadler’s Wells
シディ・ラルビ・シェルカウイのFractus Vを鑑賞。ここしばらく観た中で一番印象に残るダンス作品。(やはりコンテンポラリーが好き。肌に合うんだと思う)最後は会場見渡す限りスタンディングオベーション。座っている人など一人も見えなかった。Bravo! Bravo!
舞台の上にはコレオグラファーでもあるシェルカウイを含めて踊り手5人(モロッコ/ベルギー、フランス、アメリカ、スペイン、ドイツ。コンテンポラリー、アクロバット/サーカス、リンディホップ、フラメンコ、ヒップホップ/ブレイクダンス)音楽家4人(韓国、日本、インド/英国、コンゴ。太鼓、琴、ピアノ、サロード、歌)九人の男性、九つの国籍。多様なスタイル、多様な出自、多様な楽器、歌声、言語…
それだけではない、踊り手も歌えば、音楽家も踊る。ありとあらゆる場所で境界はぼやけ、混ざり合い、重なり合う。(クール「ブリタニア」とかクール「ジャパン」とか、どうでもいいな、くだらないなと思う。真の「クール」は最先端はここにあるんだと強く感じる)
そういった作品の出発点/芯となったのが、ノーム・チョムスキーの思考の規制とプロパガンダ、対抗手段としての個と個の連帯を説く文章であったというのも面白い。哲学的思考をいかに身体的思考/表現へと翻訳するか。舞踏的出自の異なる5人が群舞を披露する時、露わとなる差異がポリフォニーのようであるのも興味深かった
Brexit的な、あるいは私の母国日本や米国でも顕著になりつつある排外的な態度が、ナショナリズムがこれ以上幅をきかせれば、こういった多様性が存在し対話すればこそといった芸術を生み出す土壌が狭められ痩せてくるのではと、人々が憂慮するのもさもあらんという気持ちでサドラーズウェルズ劇場を後にした。守らねばならないものがまた一つ増えた
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Scenes from 68 Years, Arcola Theatre (Studio 2)
Hannah Khalil 作 Chris White 演出
イスラエル建国から68年間のヨルダン川西岸の日常のスナップショット(シーン)を積み重ねた作品。時間も空間も自由に行き交いつつ、芝居が進行するにしたがって、幾つかの短いエピソード(シーン)が有機的につながってゆく。一見ばらばらな欠片が組み合わさってゆく。ある意味映画的手法ともいえようか。
舞台の奥に積み上げられた雑多な家具や小物が、各シーンごとに引き出され組み合わされて、それぞれの場面/空間を喚起するセットとなる。横倒しにされたテーブルがタクシーの車内の一部となり、スチール棚がある時はカフェのカウンターに、ある時は検閲場の窓口となる。キャストは7人。年齢も民族もアクセントも多様な20数名に昇る登場人物を自在に演じ分けて見事であった。
ひとつひとつのシーンはどれも「パレスチナの日常」の不条理と悲しみ、時には諦めに満ちているのだけれど、その中にあって閃光の如く立ち現れる、共感や思いやり精神の不屈といったヒューマニティに彩られ、短いながらも深く鋭く心を揺さぶる。怒って、悲しんで、笑って…。
そうやって入れ替わり立ち替わり、シーンごとに波のように寄せては返す感情に先導されつつも、半ば過ぎまで細切れのシーンの連続に混乱する気持ちも大きかったのだが、その混乱の中からパズルのピースを拾い集めるように、少しでも大きな「絵」を理解しよう、意味のごときものを見出そうと努めるうち、このメンタルかつエモーショナルな作業こそが「パレスチナの日常」を生きることの追体験となっているのではないかと思えてきた。
観劇後に読んだ劇評の中には、そのカオス��作品の完成度の低さと捉えてか、より整理整頓された構成と演出を望む意見も見られたのだけれど、それではここまでパワフルで圧倒的な作品にはなりえなかったのではないかとも思う。ナラティヴを用意し強いてしまっては、混沌と不条理の中を手探りでなんとか生きていかねばならないパレスチナとイスラエルの人々の日々の不安と憤りは、あれほどの現実感を持って喚起できなかったのではないだろうか。
頭だけで観る芝居ではないと思う。68年間の出来事のアーカイヴに自身を投入することを要求する芝居だと思う。
同じく、頭だけで理解してはいけないのがイスラエル・パレスチナ問題ではないかとも思う。
幾つかのエピソードは独立して短編としても良いほどの印象を残した。特に、エルサレムを追われたパレスチナ人の音楽家(バレンボイムのウェスト=イースタン・ディヴァン楽団員を想起させる)が、ホロコースト生存者2世で「帰郷」したフランス系ユダヤ人が住む、母のかつての実家を訪ねる物語。(重層する「ディアスポラ」と「帰郷」の意味が問われて秀逸な設定だ)「パレスチナ問題」の繊細さを理解しつつ、いくばくかの羞恥を隠しつつ、それでもなんとか家族と自身の行為と立場を正当化しようとする欧州在住の裕福なユダヤ知識人層のジレンマを描き出して見事であった。親の勧める英国の大学への留学を拒否し「ガザを訪ねて自分の目で何が起こっているのか確かめたいのだ」というイスラエル中流家庭の少女のエピソードと、「パレスチナを去ることは戦いを放棄すること、負けを認めることだ」と説く親の意思に反して、「ここにいては息が詰まる」と地元の大学から英国の大学への転学/逃避を望むパレスチナの青年のエピソードの対比も秀逸であった。
https://www.arcolatheatre.com/event/scenes-from-68-years/2016-04-06/
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German Skerries, Orange Tree Theatre
手の込んだ入れ子細工のような観劇体験であった。
きりりと快晴の冬の午後、ロンドンの西の端、テムズ河畔の非常に豊かな住宅地であるリッチモンドにある小さな劇場Orange Tree Theatreで、イングランド北西部の重工業地帯、約40年前の夏の数日を舞台にした作品を鑑賞した。
プロダクションの共同設立者であるバーニー・ノリスの作品二つ(”Visitors” “Eventide”)に次ぐ、Up In Arms 初めての外部作品だが、その扱う題材、主眼、語り口など、ノリス作品と共通するものが多い。いや、その年齢、経験から言って、ノリスのような若い作家がベテランのホルマンに受けた影響が浮き彫りになったというべきか。
「ごく普通」の人々の「ごく普通」の人生のひとコマを丁寧に見つめ繊細に語ることで、誰もが抱えながらもそれぞれ独特の色形を持つ悲しみや諦観、夢や恐れなどが炙り出されてくる。鮮やかに、とは言うまい。観る側も息を潜め、目を凝らし、耳を澄ましておらねばならないし、そうやって浮き上がったものが、鑑賞者の心のどの扉を叩くかは、またそれぞれなのであろうから。ハミルトンの洞察深く穏やかで、壊れ物を扱うかのように繊細な心遣いに満ちた演出は、こういった共有されていながらも非常に個人的でもある感傷/感情を巧妙に描き、差し出す。何か大きな出来事や流れがプロットを推し進めるわけでもなく、一見取り留めのない小さな会話の積み重ねで構成された物語を、急かせるでもなく十分に余裕をもたせ、その余白を信じて語らせる、作品に対する深い敬愛の情を感じさせる演出であった。また観客に対する信頼が、こういった演出を可能にするのかもしれない。
同じような色彩と手触りであるとはいえ、Up In Armsの前2作が、どれほど望んでも努力を重ねても必ずしも思うようにはいかない人生の、静かに胸を絞るような哀切に満ちていたのに比べ、本作品には穏やかな希望の光も射す。不幸とはいえぬまでも、幾多の悔いを含んだ人生の最終章の入り口に立つ老教師から、20代の若夫婦へ渡されるバトンのようなもの、一つの人生の夕暮れと、もう一つの人生の日の出が、ティーサイドの草原で交錯する。マーティンが何十年も通い続ける南デボンを休暇旅行の先に選んだジャックとキャロルは、彼の後悔と諦めが散りばめられた人生をも踏襲することになるのか。それとも聡明な強さを持つキャロルが、ジャックを新しい広い世界へと押し出すのか。
私は、若い二人の前途の明るさを信じた。
…のではあるけれど。
それでもこれは1970年代の物語なのだ。イングランド北部の重工業地帯が国の基幹であった時代。コミュニティの強い結びつきと労働組合が、ジャックのような若者を守り育てる拠り所でありえた時代。中学卒業資格(Oレベル)を取ることが、労働者階級の若者の将来に大きな意味を持ち得た時代。彼らがより良い未来を自分たちの努力で掴めると信じられた時代。夢を持ち得た時代。
2016年現在、イングランド北部は、そして彼の地に生きる若者��ちは、同じような支援を得、同じような夢を持ち、同じように明るく照らされた道筋が見えているのだろうかと思う。ジャックが眺め誇らしげに数え上げた北海沿岸の工業地域のうちいったい幾つが今も同じく操業していることか。ブリティッシュスティールもICIも海外企業に吸収合併されてしまった。現在のティーサイドの岸に立つ労働者階級の若いカップルの目に映るのは、いったいどんな景色なのだろう。
1977年の初演以来の再演だというこの作品を、今(2016年)ここ(リッチモンド)で観ることの、この作品と今ここで出会うことの意味にも思いを馳せずにはいられない。入れ子細工の箱を一つ開けるたびに、見えて来る風景も風の匂いも鳥の声も、少しづつその色合いを変える。だから観劇というのは、一期一会だなと思うのだ。
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The Invisible, Bush Theatre
→ English
レベッカ・レンキェヴィチ作 マイケル・オークレイ演出
ブッシュ・シアターでThe Invisible鑑賞。移民や社会福祉関連を主に扱う町の小さな弁護士事務所を舞台に、2010年以来の政府による急激で容赦のないリーガル・エイド(弁護士費用扶助)削減に影響を受けた人々の悲劇を描いた作品。昨年ヒットした映画「イーダ」をパヴリコフスキ監督と共同で書いたレベッカ・レンキェヴィチの新作で、英国の弁護士協会の一つであるThe Law Societyと、人々の法の下での正義へのアクセスを支えるチャリティー団体Legal Action Groupがサポートしている。
リーガルエイド削減で家庭裁判所では民事で弁護士費用が捻出できずに「自己弁護」という手段に頼らねばならない人の数は30%増加しているというが、影響を受けるのはそういった私費で弁護士を雇う財力のない人々だけではなく、彼らを時には職務を超えた範囲で助け救ってきた、小さな小さな正義を勝ち取ってきた、主人公ゲイルやローラのような弁護士たちもだ。
随所に現政権やゴーヴ法相への真正面からの批判がちりばめられていたりと、非常に政治的な内容なのだけれど、登場人物のひとりひとりがカリカチュアにならずきっちりと多面的に奥行きをもって描かれているため、人間ドラマとしても楽しめる。胸を打つ。
また中心となるテーマの上に、ゲイル個人とパキスタンから来た花嫁アイーシャ(家庭内暴力と抑圧に苦しむ彼女もまた「invisible」だ)を通して問われる女性の社会の中での立場の問題や、離婚に際し子供との接触の機会をも失ってしまった父親であるケンとアイーシャの夫のリズを通して浮き彫りにされる、追い詰められた弱者とその弱さが生む暴力への衝動などのテーマが重なる。オイスターカード(公共交通機関用のプリペイドカード)がわずか数ポンドのバス代も払えない貧困を象徴するとともに、その貸し借りが人々の小さな善意のモチーフとして、幾度か繰り返されるのも印象的だ。
孤独な老人ショーンにとっては彼の存在を直視し認めてくれる唯一の人間であり、一度は「ジャンヌ・ダルクのように」彼を窮地から救ってくれたゲイルだが、彼女自身が追い込まれた窮状に、相談に訪れたショーンを「今は話を聞けない。また後日」と追い返してしまう。拒絶してしまう。これまで小さくても大切な正義のために孤軍奮闘してきたゲイル(あるいは彼女のような数多の存在、ショーンのような弱者にとっての最後の砦、セーフティネット)が脆くも崩れさる瞬間だ。そして完全にinvisibleとなっってしまったショーンが焼身自殺をほのめかしてのラストは、まさに「悲劇」。
(先日の新幹線内での高齢者の焼身自殺を思い出させて、胸が痛んだ。きりきりと痛んだ。私たちはどうしてこうまでも冷徹で非情になってしまったのかと。)
友人の知人が出演していると聞いて、テーマを聞いて興味をもってチケットを取ったはいいものの、各所のレヴューにあまり高い評価のものがなくて少し不安になっていたのだけれど、行って良かったと心から思う。今作られ、今上演されるべき、大切な作品だと思う。コミッションしたブッシュシアターに拍手を送りたい。
ショーンを演じたナイル・バギー(Niall Buggy)が素晴らしかった。
ところで、レヴューでの批判に、所々に挿入される夢のような現実逃避のような音楽と踊りのシーンの話の流れの中での座り心地の悪さ、というのがあったのだけれど、初演ゆえの問題で、もし再演されることがあれば、もっとしっくりなじむんじゃないだろうか。或いはNTのEverymanのように、もっと豪華で趣向を凝らすことが(金銭的に)可能であれば、より効果的だったかもしれない。或いは、映像作品であれば、わりと散見される手法なので、違和感は少なかったのではないかとも思う。
https://www.bushtheatre.co.uk/event/the-invisible/
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To Kill A Mockingbird, Regent’s Park Theatre Production, at Barbican Theatre
“The one thing that doesn’t abide by majority rule is a person’s conscience.” - Atticus Finch, To Kill A Mockingbird
この台詞にどれだけ勇気をもらったことか。
バービカン劇場でTo Kill A Mockingbird (アラバマ物語)を鑑賞。Regent’s Park Theatreのプロダクションで初演は2013年。
久しぶりにほろほろと泣いた。ロビーには珍しくリターンチケットを待つ人の列があった。夏休みということもあってか、客席には10代の子供連れの姿も多く見られた。(原作は英語圏では中等教育で頻繁に取り上げられる作品とはいえ、差別、貧困、暴力と重いテーマを持つ作品に子どもを連れてこられる環境もいいなと思ったし、何よりこれだけ完成度の高い舞台演劇作品に子どもの頃から親しめる環境も羨ましい)
ステージの床を黒板に見立て物語の舞台となるメイコムの町の地図をチョークで描いたり、背景を使わず小道具の配置のみで空間を想起させたり、舞台でこそ可能な工夫を凝らした演出が楽しく、それでいて妙に奇を衒った所のない真摯で誠実な語り口が気持ちよかった。
人種差別、貧困、偏見、人間の尊厳、父と子、家庭内暴力、個人の良心と社会の規範、と幾層にも重なるテーマを省くことなく、かつナラティブを途切れさせない脚本も秀逸だった。芝居として演じられる部分と朗読を通して語られる部分の二重構造が「端折ってしまわないこと」を可能にしていたのだと思う。朗読の際には役者本人の英国アクセント、劇中人物としてはアメリカ南部訛りと使い分けるところなど、よく考えてあるなあと感心した。観客の多くが少年期の読書体験を通じて初めて触れたであろう物語を原作とするからこそ可能な構成なのかとも思う。無実の黒人青年に有罪判決を下すコミュニティーに対し「怒っているのは君たちだけだ」と云われたスカウト、ジェム、ディルの三人の子ども達の心へ、より近づくことを可能にする仕掛け、あるいは切っ掛けとなっているのかもしれない。
そして、子役たちの素晴らしかったこと。なんと堂々として確信に満ちた演技だったことか。スカウトとディルの間の友情のような幼い恋愛のような微妙な感情、アティカスとジェムの間の小さな軋み、子供と大人の境界線上で爪先立ちでバランスを取っている様子、すべて見事に演じきっていた。特にジェム役の少年の奥行きのある演技には舌を巻いた。大人たちも皆好演。胸に響いいて圧巻の弁護シーンはもとより、アティカスの疲れっぷりも見事だった。真実のみを求め、良心に従��生きていくことが生む疲労だ。
http://www.barbican.org.uk/theatre/event-detail.asp?ID=16999 https://openairtheatre.com/production/to-kill-a-mockingbird-barbican
おまけ。 ウェストエンドの古い劇場の後だと特に、バービカン劇場の素晴らしさが身に沁みる。座席はゆったりとして快適だし、足元広々だし、音響は素晴らしいし、傾斜が十分で前に長身の人が座っても大丈夫だし。しかもチケットも安いし。笑
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Lynette Yiadom-Boakye at Serpentine Gallery, and Shirley Baker at The Photographers’ Gallery
快晴の土曜日、美術展をふたつ梯子してきた。サーペンタインギャラリー(本館)でLynette Yiadom-Boakyeと、フォトグラファーズギャラリーでShirley Baker。意図したわけではないけれど、女性アーティストふたり、肖像画家とストリートフォトグラファー、2013年のターナー賞候補の最新作を含む展示と、昨年亡くなった写真家の60〜70年代の作品を集めた展示、色々と対比が可能な組み合わせとなった。
リネッテ・イアドム=ボアキエに関しては、ほぼ何も知らないまま、ネットで出会った幾つかの作品のイメージが気に入ったので足を運んだ。マネやドガなどの印象派を思わせる勢いと流れのある筆使いで、ほぼ背景描写をともわない黒人の肖像や人物画。あちらを向いていたり、視線が下へ向けられてたりというのが肖像画としては新しい、そして色が良い、と思った。A Passion Like No Otherなど、タイトルが謎めいて詩的でさえある。
驚いたのは、展示会場を出てから入口付近のイントロダクションを読んだとき。モデルは特に実在せず、スクラップされた写真や実在の人物などを融合させた想像上のモデルなのだという。なんだか騙されたようでもあり、それまで疑うことさえしなかった「肖像画」の定義を根本から揺るがされたような気にもなった。私が、作品からモデルの表情から読み取ろうとしていた「個」とは「人」とはなんだったんだろう、「誰」だったんだろうと。私が「見た」と思ったあれは、いったい何だったのだろう。
*more?*
Shirley Baker展は、彼女の故郷サルフォードやすぐ隣のマンチェスターで60年代に行われた大規模なスラム再開発の模様と、取り壊し再開発の対象となった地域に住んでいた人々、コミュニティーの日常生活の様子などを記録した写真を集めたもの。90年代頭に私が一時期住んでいたマンチェスターのヒュームの様子も含まれている。ベイカーの写真に記録されたスラムが取り壊された後に建てらてた、建設当時最新のデザインと設備を誇った大規模公営住宅は、私が住んでいた頃には再びスラム化し、その次の再開発計画の真っ最中だったというのが、なんとも皮肉だ。
英国で最初の女性ストリートフォトグラファーと言われるベイカーの写真展のタイトルは「女性と子供と徘徊する男たち」その名の通り撮影された対象はほとんどがスラムに住む女性たちと子供たちと、無職者と思われる男性たち。背景は取り壊しが進む街。半壊した建物を遊び場とする子供達。皆、それぞれに貧しい様子だ。それでも子供たちの多くが笑っている。彼らの自然な様子、偶然の組み合わせが作り出した視覚的ユーモア、日常に立ち現れる詩的瞬間などが捉えられている。センチメンタルなものはかけらも感じさせないのに、その作品は共感と親愛の情に溢れている。写真家と被写体の間にある信頼を感じさせる良い写真群だった。
ベイカーと同じ時代に、やはり英国の庶民の生活の有様を撮り続けたストリートフォトグラファーのトニー・レイ=ジョーンズの作品展を訪れる機会が昨年あったのだけれど、同じくストリートフォトグラファーと呼ばれ、同じような被写体を撮っていても、ベイカーとレイ=ジョーンズの作品は随分と違うと思った。ベイカーの方がより被写体に近い。カメラも、視点も、心も。おどける子供たちを撮った作品��ら、シャッターを切る彼女��笑い声が聞こえてくるようだった。
http://www.theguardian.com/artanddesign/gallery/2014/oct/08/laughter-in-the-slums-the-best-work-of-street-photographer-shirley-baker-in-pictures#img-5
イアドム=ボアキエの肖像画群の中心に置かれた空虚と、なんという違いだろうと感嘆する。同じく「人物」を写し取っても描いていても、その持つ意味はこれほどまでに異なるのだなと。どちらが良いとか好みだとかいう話ではなく、この差と多様性こそがアートなのだなと。
と同時に、イアドム=ボアキエ展の後だからこそ、私がベイカーの写真から「読み取ったと思ったもの」に対して、健全な懐疑心をも持つことができる。私がそこに見たと思ったものは存在したかもしれないし、ひょっとすると幻かもしれない。芸術鑑賞とは作品と私の間に生まれるもの、対話なのであろうと、まったく意図しなかった組み合わせが与えてくれた、考える種だ。
http://www.theguardian.com/artanddesign/gallery/2014/oct/08/laughter-in-the-slums-the-best-work-of-street-photographer-shirley-baker-in-pictures#img-7
【ヒュームの記憶】
1990年頃のこと、60年代にスラムを取り壊し新たに建てられた大規模公営住宅は、80年代には再びスラム化し、ちょうどサッチャー政権下で当時副首相だったマイケル・ヘゼルタイン主導での各地のスラム再開発計画の先頭を切って、再開発計画が進められていた。
外国人でスクウォッターだった私は、もちろん住民説明会などに堂々と顔を出すこともできず、ことの成り行きを外から興味深く眺めているだけしかできなかった。ほとんどが空き家となり、長年のメンテナンスの不備から建物の状態は非常に悪く、毎日のように階段室に薬物中毒患者が倒れていた。唯一生き残った酒屋は、商品も従業員も防弾ガラスの向こう側で、防犯用の金属メッシュで窓という窓を覆ったコーナーショップは、いちいちドアベルを鳴らし、番犬を連れた店員のチェックの後でしか入店できない仕組みになっていた。そんな場所でも、そこを「わが家」と呼ぶ人々、そこで生まれ育ち子どもを産んで生活し、コミュニティーを作り上げてきた人々の一部は、取り壊しに反対していた。
再開発後再び同じ土地へ戻ってくれるのかという不安もあっただろう。(何しろ都心に近く立地条件だけは最高の場所だった)数年間離れて暮らすこと���コミュニティーが失われる、築いてきた絆が途切れるとの不安もあっただろう。
当時バブルの絶頂にあった日本から来た私には、映画やテレビでしか見たことのないようなレベルの貧困と社会問題の山積のなかで、修理や再生も不可能なのではと思われる場所を、それでも愛し離れたくない、壊してくれるなと叫ぶ人々の存在が、信じられないと同時に魅力的でもあった。理解できなかった。だが、理解したいと思った。人と場所のつながりとは何だろう。コミュニティーとはなんだろう。生活に重要なものとはなんだろう。便利さ、清潔さ、安全、それらだけでは計れないなにか。その後、回り回って貧困地域の再生計画の仕事などをするようになったのは、ひょっとしたらあの頃のヒュームで見たものの影響なのかもしれないと思う。
ちなみに私の住んでいた1991年頃、取壊し前のヒュームはこんな感じだった…
我ながら、よくもまあ、こんなところに住んでいたな、とは思う。若かったなあ(笑)
#art#exhibition#shirley baker#lynette yiadom-boakye#serpentine gallery#the photographers gallery#photography#painting
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Death of a Salesman, RSC, Noël Coward Theatre
ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー(RSC)の「セールスマンの死」を観てきた。アントニー・シャーのウィリー・ローマン、アレックス・ハッセルのビフ。RSC芸術監督のグレゴリー・ドラン演出。過去と現在、主人公の病んだ心の内と外を頻繁に行き来しながら進行する作品を見事に流れるように、しかも舞台ならではの手法を駆使しての構成が素晴らしかった。
ドラン演出作品を観るのはこれで5作目なのだけれど、ここまでひとつも「はずれ」はなし。重厚にして繊細な演出に、俳優陣による緻密で多面的な人物描写が絶妙。いつもながらRSCのプロダクションの、その一分の隙もない質の高さに脱帽させられた。
シャーのウィリーは一時として止まることなく、流れるように変幻自在で、傲慢さと脆さが瞬時に入れ替わり、繕った外面の下から傷ついた魂がひら��くように覗く、その変わり身の速さと不安定さが深く病んだ彼の心そのものを見るかのようであった。感情の鍵盤の上の、嫌悪と同情と共感と、あらゆるキーが自由に叩き鳴らされた後で、劇場内に明かりが灯ると、なるほど演じるとは表現するとはこういうことかと舌をまく。シャーは来年はリアを演じるそうだ。もう、今から楽しみ。待ち遠しい。
ハリエット・ウォルターのリンダも、どうしようもなく悲しく愛しく、胸を裂いた。夫ウィリーへの深い愛と絶望と、履き古したストッキングをなんどもなんども繕うように、家族が夢が夫が壊れてゆくのをなんとか防ごうとするその強さと諦観と。リンダの穏やかな佇まいのうちに潜む嵐のような混沌が、何かと言えばぶつかり合う男たちの狭間でその背後で、静かな演技の中に立ち上がるのは見事だった。誰よりも何よりも饒舌な表情と視線が、刺すようであった。
セールスマンの死は20年近く前にナショナルで観ているのだけれど、随分とあやふやになった記憶を辿ると、その時は確か長男ビフに非常に共感し、父親ウィリーには同情はするもののいまひとつ歩み寄れなかったような気がする。もちろんキャストも演出も違うのだけれど、20年の時を経て、人生の経験を積んで、私の視点も変わったように思う。今は、ウィリーの問いが心に響く。彼の絶望に恐怖する。リンダの報われぬ努力が共鳴する。
ウィリーとビフ親子を駆り立てた「アメリカの夢」の儚さと暴力性、夢が現実を侵食するさま、破滅へと追いやるさまを、私の住むこの街のどこかで実際に目にした気がする。私の生まれ育ったあの街で実際に触れたような気がする。彼らに出逢ったことがあるような気がする。叶わなかった夢や、背負いきれなかった欲望や、果たされることのなかった約束に、息を詰まらせている人々を、私も知っているという気がする。
今年はアーサー・ミラー生誕百周年ということもあってのプロダクションだそうだけれど、65年前発せられた「ア��リカ社会」へのミラーのこれほどまでに厳しく容赦のない問いかけは、現在のロンドンでも違わぬ鋭さと切迫感をもって響く。リバイバルとしてはまたとない好機ではなかろうか
http://www.rsc.org.uk/whats-on/death-of-a-salesman/
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Barbara Hepworth: Sculpture for a Modern World, Tate Britain
Tate Britainでバーバラ・ヘップワース展。いつもは展覧会というと、とにかく好き勝手に心向くまま、自分の感情と反応だけを頼りに回るのだけれど、初めてオーディオガイドなるものを試してみた。なかなか「勉強」になった。
展示の趣向の面で興味深かったのは、ヘップワースの作品の「特異」な点よりも、彼女がいかに彼女を取り巻く世界と綿密につながり、その一部であったかの方に焦点が置かれていたように思えたこと。アーティストという「個」の「唯一無二の才能」を強調する方が、「物語」は作りやすいのだろうけれど、ヘップワースのアーティストとしての人生とその作品を同時代のアートと社会の文脈にきっちりと置くことで、自然と 彼女ならではのよさが立ち上がってくるのは素晴らしいと思った。
特に第二室、夫であったベン・ニコルソンと共有したスタジオをコンセプチュアルに再現してあったのは面白かった。ニコルソンの作品も多く展示されているのは、英国美術作品を多く所蔵するテイトならではかもしれない。何しろ、わざわざ借りてくる必要がないのだから。
その後、1930年代のモダニズムの時代、手軽になった写真や雑誌出版などを通してアーティストたちの横のつながりが盛んとなった、そのインターナショナルなコンテクストと影響の中でのヘップワースの作品の変化/発展の様子、戦争とコーンウォール移住が与えた影響、これもまた現代社会の特徴でもあるアーティスト自身による「作品のプロモート」の有り様などのテーマを経て、圧巻は最後の2室。寄贈されたグアレアの丸太を掘った巨大な木彫りの彫刻シリーズ。まさにランドスケープといった感じで、見飽きない。少し角度を変えるたびに姿が変わる。これまで幾度も出会った作品もあるのだけれど、これだけの数が一室に集められるとまた趣も違うし、見え方も変わってくる。少し離れてみると、一室に集められた作品同士の呼応する様も面白く、部屋を後にするのは後ろ髪を引かれる思いだった。
http://www.tate.org.uk/art/artworks/hepworth-corinthos-t00531
最後は、彼女の作品が、特にパブリックアートとしてあちらこちらへ引っ張りだこになってからの、ブロンズの作品。オーディオガイドによると、ブロンズへの移行の原因は大量(?)生産が可能であることからだというけれど、ブロンズが彼女に与えた構造上の自由と軽さが、重く密度が高く内向的なグアレアの作品と好対照をなす。同じ「インテリア/内部」を扱っていても、ブロンズ作品はより解放され、動��があり、軽やかだ。踊りを見るかのようだ。石、木、ブロンズと、彼女がそれぞれの素材の中に見つけ出す独特の「言語」が、こうやってひとつに集められ整理されることによって明確になるのも興味深かった。
また、彼女の作品が、その繊細さを失わないまま、自信と名声の拡大を表すかのようにどんどん大きくなっていくのも面白い。
もうひとつ、オーディオガイドで学んだこと、ヘップワースは特に木の扱いが上手く、エルムなどの繊維が入り組んだ材を選び、また大きく内部をくり抜くことで、外縁部と中心部の乾燥の速度の違いからくるひび割れが抑えられているのだそう。だから彼女の作品は木彫りでも非常に安定していて、この音楽のように美しいPelagos(ギリシャ語で「海」)という作品も、1946年作というのに、ぴんと張られた糸にほぼ緩みがないのだという。
http://www.tate.org.uk/art/artworks/hepworth-pelagos-t00699
こちらの批評は展示物の多くがガラスのケースに入っていることを嘆いているのだけれど、私はそれはあまり気にはならなかったのだけれど、Single Formと名付けられた作品が、ふたつ並んで、同じケースの中で展示されているのはいかがなものかと思った。並べられた途端、作品は対話を始め、見る側もその対話に耳を傾けずにはおれないわけで、 “single form” とは少し違った何かになってしまうのではないかと思った。繊細な作品を守るためのガラスケースなのであろうけれど、作品の持つ意味の繊細さにももう少し気を使っても良かったのではないかと感じた。
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TOROBAKA, Akram Khan & Israel Galván, Sadlers Wells
サドラーズウェルズ劇場にて、アクラム・カーンとイスラエル・ガルヴァンのTOROBAKAロンドン公演。去年に続いて8ヶ月ぶり、2回目。
開演までは、さて去年と比べてどうだろうなどと思っていたのだけれど、肝心の私の記憶が頼りない。いや、細部を忘れてしまっているというだけではなくて、あの日あの場で得た思いや湧き上がった感情が、どれほどの正確さで確実さで刻まれているのか呼び起こせるのか、その辺り��全く心もとない。自信がない。人間の記憶なんてその程度のものなのだ。
なので前回の「記録」として、鑑賞直後のツイートをこちらにまとめておく。
音楽と踊りの神様たちの集いのようだという思いは今回もそのまま、ただ、前回感じたような「逡巡」はあまり感じられず、もう少しリラックスして、英語で言うところのcomfortable in their own skinといった印象であった。やはり時間をかけて各地で公演を重ねた結果なんだろうか。ふざけあうデュエットはより軽やかに、そこから展開しての対立部分ではシャープに攻撃的に、自由自在に打てば響くと呼応する様が気持ち良かった。楽しかった。
イスラエルの作り出す、縦へと長く伸びた鋭い形、閃光のようなキレのある動きと。
アクラムの大地を這う重厚さと、大地を覆う柔らかく丸みを帯びた動きと。
踊り手二人だけではなく、アジアと南欧の、音楽と踊りの出会いと呼応、対話の様も今回の方がよく見えた気がしたのは、やはり二回目の鑑賞で私の視力と注意力がよくなったからかもしれない。あるいは8ヶ月の間に舞台の上で培われた、踊り手とミュージシャンの関係の深まりが、コントラストやダイアログといった詳細をより明確にしていたのかもしれない。
(なんともはっきりとしない感想で申し訳ないことこの上ない。笑)
前回と同じく音楽が圧倒的に素晴らしかったのだけれど、パーカッショニストがひとり減っての4人編成だった。
どこかに初回の映像があり、もし今回の映像も手に入るのならば、じっくりと比較研究(笑)してみたいという気もする。(あるいは私が撮影機器のごとき記憶力の持ち主でさえあったなら!)二人の踊り手と4人の音楽家(含むパルメーロ)が、6人のアーティスト兼パフォーマーが、どうのようにして作品を作り演じ、そのなかで試し学び発展、熟成させていくのか。「完成」という状態はありやなしや。芸術の過程を知るのは、芸術作品を鑑賞するのと同じくらい面白かろうと思うのだ。
http://www.sadlerswells.com/whats-on/2015/akram-khan-israel-galvan-torobaka/
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Japan: Earth's Enchanted Islands, BBC Two
BBCの日本の自然紀行番組 Japan: Earth's Enchanted Islands の第1回を観た。不思議な感じ。随分とtidy upして��るというか、良いとこ取りが過ぎるのではという気もするし、でも日本の「紹介」番組ならばこれでいいのかなという気もするし。
と同時に、しばらく前に放送されたアラビア半島に取材した同様の番組も、今でも再放送があるとおもわず観てしまうほど大好きな中国に取材したシリーズも、物知らずな私は目を見張り口をポカンと開けて「凄いなあ。素晴らしいなあ」と見入ってしまうのだけれど、きっと同じくらいに良いところを摘んで集めて巧妙に語った「物語」で(も)あるのだろうなと思い至る。TV番組をどう捉えるか/TV番組に何を求めるかによって、評価は変わるのかもしれない。私個人は、良質のエンターテイメントとして、これでいいのではないかと思う。少なくとも、英国で観られる分には。日本での放送であればまた求めるものは違ってきて、もう少し内省を促す内容であって欲しいかもしれない。
ところで、番組の中の棚田の風景を観ながら、しばらく前にツイターで回ってきた休耕中の棚田にソーラーパネルが並ぶ写真のことを思い出した。先日読み終わったイギリスの湖水地方の牧羊農家の自伝(The Shepherd’s Life, by James Rebanks)にも幾度も出てきた言葉でもある cultural landscape 文化的景観というやつだ。人々の営みが作り出した景観。RTされてきたツイートには日本を代表する文化的景観の一つである棚田にソーラーパネルを並べた行為、あるいは並べたであろう人/人々への批判や嘆きや怒りのリプライがたくさんついていたけれど、文化的景観とはそれを生み出した人の営みが成り立たなくなった時に自ずと崩壊せざるを得ないものなのではないかと思う。ソーラーパネルが並ぶこととなった背景にある、棚田での米作りが立ち行かなくなった理由、日本の食文化の変化とか、米の価格の相対的下落や、山間部の集落の高齢化、過疎化、労働力不足、それらの問題に対する回答(たとえ一時的なものであろうとも)のひとつであろう収入源としてのソーラーパネル設置などを見ないで/見ない振りをして、表面的に「棚田にソーラーパネル」を批判することに何の意味があるんだろう。
前述したイギリスの牧羊農家は、湖水地方の景観を大切だと思うなら、その景観を長い時をかけて作り守ってきたその土地の牧羊農家を支えるため、英国産の羊肉を適正な価格で購入するか、牧羊農家を国が経済援助するか、或いは公的事業として文化的景観の継続/保護をするかしか方法がないのだと、読者���迫る。当然の話だと思う。外国産の安い羊肉を食べつつ(あるいは国産羊肉を買い叩きつつ)農業への経済援助を批判しつつ、ナショナルトラストに協力もせず、ただ文化的景観の崩壊を嘆き批判するのは、あまりにも無責任ではなかろうか。
同じように、「棚田にソーラーパネル」を嘆く時、そういった事態を招いた原因に自分も加担していないかと問うこと、棚田を生んだ文化の一部である自分に何ができるかと問うことが出来て初めて、文化的景観としての棚田を守り伝えていくことが可能になるんじゃないかと思うのだけれど。
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Light Shining in Buckinghamshire, National Theatre (Lyttelton)
ナショナルシアター(リテルトン)でLight Shining in Buckinghamshireを鑑賞。キャリル・チャーチル作、リンジー・ターナー監督
17世紀、イングランド内戦の前後の庶民の姿と声を通して、イギリスに生まれかけては徒花と散った「民主主義の可能性」を描く。初演は1976年。
第一幕終盤の、実際の議事録を短縮して構成したというPutney Debatesのシーンは特に有名だという。王党派/長老派をロンドン中心部から駆逐することに成功した後、オリバー・クロムウェル率いるニューモデル・アーミー内部での、急進派レベラーズの代表によって提案された「憲法」(An Agreement of the People)を論じたシーンだ。レベラーズたちが求めたのは、出自階級や財産の有無大小に関わらず「すべての自由なイングランド人」に平等に選挙権を与えよということだった。(注:女性、奉公人、外国人、物乞いは排除)
その場で戦わされた議論は、現政権の選挙公約である、英国における普遍的人権の定義と保護の基準の核となる人権法(Human Rights Act)廃止と人権の限定と限界をも含んだ新法への置換を巡り、今のイギリス社会で連日のように繰り広げられる議論とも繋がるものでもある。すべての人が生まれながらに持つ普遍的な権利とは何か。平等とは何か。また、格差と貧困、理想主義者が腐敗していく様と彼らの「いいわけ」なども、現代イギリス社会に生きる者にとってはまるで日々の現実が鏡に映ったように見えるはずだ。
(なのに、私の鑑賞した回は客席の反応が今ひとつぬるま湯のようで、最初は驚いたのだけれど、よく考えると、これが今のNTだよな、とも。例えば、アコーラやBACあたりでの上演であればスタンディングオベーションが取れたのではないかしら、などとも。笑)
リンジー・ターナーの(どこかオペラ的でもある)演出はこの歴��劇に内在する現代性をよりわかりやすく伝え、より「民主的に」することに成功していたのではないかと思う。キャリル・チャーチルの紡ぐ言葉は無駄がなく、それでいて非常にポエティックで、それだけでも楽しめるものなのかもしれないけれど。1970年代のアートな小劇場でというのならまだしも、現在のNTでかけるのであれば、特により多様なバックグラウンドを持つより幅広い層の観客に向けては、これくらいヴィジュアルにも音響にも工夫を凝らして正解ではないかと思う。
また、言葉に頼った(いわゆる「トーキングヘッド」型の)演出では、どうしても哲学的な主題(自由とは、普遍的人権とは、民主主義とは、云々)が強調されたのではなかろうか。ターナーの意図したものは、それよりももっと直接に心に感情に響く、語りかける、social agitationのような芝居であったのではないか。
多様性に富むキャストや、その衣装、彼らの手にする小道具が、視覚から現代社会との関連性を明確にしていく。小柄な東洋系の女性が清掃員のごとくモップがけをしていたり、クロムウェル軍の軍服が第1次世界大戦時のもの(特にTommy)を思わせたり、パットニー議論の際のクロムウェルの衣装が70年代の左翼学生、あるいは労働組合員風であったり、様々なレファレンスを駆使しながら舞台は進行する。
セットデザインも、その使い方も秀逸であったと思う。舞台のほぼ全てを占め、舞台上のもう一つの舞台となる巨大なテーブルの周りには、直接物語に登場はしないもののその背景にある存在がずらりと並ぶ。最初は国王チャールズを始め王党派の貴族たちが、王党派が追われたあとは既得権利を守ろうとレベラーズ等の過激派排除を図ったであろう議員たちが。社会の構造とそのメタファーが斬新かつ魅力的なデザインへと昇華されていて舌を巻いた。(Chimericaの、あの印象的な回る舞台をデザインした人だ)
「エキストラ」的な立場で舞台を埋めたのは40人に上る「コミュニティー・カンパニー」。NTの周辺地域の一般の人々から募ったキャストだという。彼らの存在もまた、17世紀のイングランドで起こった出来事が、多くの市井の人の生活に人生に影響を与えたこと、実現しなかったこと(参政権)で失ったものの大きさ深さを表していたと思う。プロの役者ではない人々がNTの舞台に上るという仕組みもまた、作品の根幹にあるものと強く結び付くのではないかと思った。
リンジー・ターナー演出作品を見るのはChimericaに次いで二回目。どちらも非常に気に入った。テンポとバランスがよく、輪郭が明確で自信に満ちている。エンターテイメント性と内容のシリアスさが見事に調和するのも良い。ちょっとマジックのようだ。笑(ルーファス・ノリス演出にも通じるところかもしれない)この秋のバービカンでのハムレットも俄然楽しみになってきた。彼女のスタイルによく合うんじゃないかと思う。
http://www.nationaltheatre.org.uk/shows/light-shining-in-buckinghamshire
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Sylvie Guillem “Life in Progress”, Sadler’s Wells
シルヴィ・ギエムの引退公演、ロンドン初日。ソールドアウトの看板。最後の演目のByeが終わってのカーテンコール、嵐のような拍手喝采、鳴り止まぬスタンディングオベーション。見渡す限り、座ったままの人などひとりもいなかった。シルヴィがどれほど愛されているか、手に取るようだった。
演目は、アクラム・カーン振付でシルヴィの新作ソロ「テクネ」(哲学由来のタイトルがアクラムらしい)男性ダンサー二人でフォーサイスの旧作「デュオ」のリバイバル、ラッセル・マリファント振付の新作「Here & After」はシルヴィとスカラ座のエマニュエラ・モンタナリとのデュエット、そしてインターバルを挟んでマッツ・エクがシルヴィに振り付けたソロ「Bye」の再演 ー なんとも引退公演にふさわしい幕引き。アクラムとマリファントの新作は、イタリア、ポーランド公演の後とはいえ、完成度の高さに驚いた。名を連ねたコレオグラファーたちといい、新たに書かれた曲といい、照明デザインといい(マイケル・ハルズの凄かったこと!)全てにおいて、一分の隙もなく、極上であった。
アクラム振付のソロでは、これで引退だというのに、今までにない新たなスタイル/表現へと挑戦してみせたシルヴィに舌を巻く。まさに、Life in Progressという公演名にふさわしい。宙へと伸びる四肢で有名な彼女が、地を這うようにうねる。蠢く。指の一本一本が音を捉えて動く。インドのパーカッション、ビートボックス、ヴァイオリンと人声で構築された音楽も素晴らしかった。
マリファント振付のHere & Afterでも、女性ダンサーとデュエットを踊るのはこれが初めてとのこと。マリファントらしい、音楽とダンスの対話。シルヴィの作り出す完璧なshape / 形がぴたりぴたりと絶妙のタイミングで決まっていく様に、鳥肌が立つ。剃刀のように閃く爪先。そろりと延びる指先。フォーサイスの男性デュオの作品に続けてというのが、また良い。ほぼ無音で時を刻むように対話するように踊る男性たちとの比較/対比、コンテクストが作られてこの作品へと繋がる。
女性の呼吸音を使うなどした、アンディ・カウトンの音楽のクールさ。ハルズの照明は言わずもがな。とにかく、かっこいいマリファント作品は、いつでももれなく、かっこいい(笑)
エクのByeを観るのはこれで3回目。それでも、観るたびに新しい発見がある。シルヴィの演技力、感情表現��繊細さ巧みさ、そして幅の広さを楽しめるプログラムだと思う。恐る恐る「そと」の世界へとひとりで一歩を踏み出した女性が、自由を味わい楽しみ、自由に悩み、自由と踊った後で、皆の元へと帰っていくフィナーレ(かな?)可愛らしくて滑稽で、でもちょっとどこか悲しくて、詩情が豊かに溢れる作品だと思う。これを「最後」に選んだってのも、いいよねえ。
インターバルを挟んで2時間半ほど、本当に楽しくて、瞬きするのももったいなくて、終わってしまうのが心から寂しかった。私はさっさと「さようなら」を云ってきたけれど、引退ツアーはこれからが本番。怪我なく無事に終えられますように。楽しい半年間でありますように。
http://www.sadlerswells.com/whats-on/2015/sylvie-guillem/
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