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Tumblrを始めてから1周年を迎えました 🥳
おー、もう1年経ったのか(*´艸`)早いものだねぇ☺️
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ペルソナ5Rのモルガナ考察
久しぶりにペルソナ5をやって、ストーリーを4周ほどしてモルガナについてうにゃうにゃ考えたので、それをつらつら書いてみようと���う。
元気にネタバレするので、嫌な人はお気をつけください┏○ペコッ
ストーリーやってて思ったのは、初めてやってた時もそうだけど、モルガナってやたら上から目線で物言う割に、めちゃくちゃ他者に頼ってる(自分ではやらない)よなぁ、というところ。
もちろんこれには「異世界では不思議生物として自由に動けるけど、現実世界では猫の姿である」という所が理由だと思っている。人間が便利に生きられるようにデザインされた世界で、猫の姿で、かつ自分の言葉が通じるのは怪盗団のメンバーのみ(他の人には猫の鳴き声にしか聞こえない状態)なので、猫の姿では思うように行動できないし、やりたいことも出来ないというやむにやまれぬ事情があるよねって思う。そこの部分は致し方ない部分だなぁって。
異世界ではともかく、現実世界では、モルガナは「誰かの手を借りなければ自分の望みを叶えられない」という状態だよなって思う。それはある意味でモルガナにとっては理不尽なことだろうし、それに鬱屈した思いがあるのもわかるな、と思う。
ただ、それにしても現実世界でのモルガナの言動は「人にやって貰っている状況なのに、そこに感謝は示さずに常に上から目線でものを言う」という感じで、なんというか「なんでそんなに偉そうなの?」と思��ことが多々あるな、って。
別に「有り難き幸せ〜!」みたいに、やってもらうことに過剰に感謝したり、やってもらってることについて引け目を感じて欲しいって思ってるわけじゃないんだけど。「やってもらって当たり前」と思ってると感じてしまうほどに上から目線で偉そうだなって感じることが多かったなって。誰かの助けを借りてるにも関わらず、そこに感謝の念も持たずに当然のように振舞って、そのくせ偉そうに人が出来ないことを嘲笑うような発言するなぁ、みたいな(竜司に対しての発言とか、祐介への変人扱い、事情があって対人スキルが育ってない双葉への発言などなど)
とはいえ、じゃあモルガナって嫌な奴かって言うとそうではなくて。たとえば竜司が鴨志田に足を壊されて居場所を台無しにされたことや、杏や志帆が鴨志田に強要されてた理不尽な扱いへの怒り、斑目の祐介への仕打ちへの怒りなどなど、誰かの受けた理不尽とそれに伴う苦しみに寄り添う発言を心からしていると思うし、主人公の境遇について心から憤れる情に厚いところがあって、優しく義理堅い奴だなって思う���困ってる人を見過ごせない、見過ごす自分になりたくないって思ってるタイプなん��なぁ、と。
そういう、なんか嫌だなと思う側面と、本当に良い奴だなと思う側面のどちらも持ってるキャラクターだなって。
その中で、9月のオクムラパレス関連の出来事というか、怪盗団で意見が割れてしまって仲違いみたいになって、モルガナが出ていってしまうくだりを見た時に、私は竜司にもムッとしたけどモルガナにも同じだけ、というか寧ろモルガナに一番ムッとしてしまったんだよね。
竜司に関して言えば、マジでこの子デリカシーないなっていう発言をしてるし、そもそも奥村社長を狙う理由も「ランキング上位だから」というかなりふわっとした理由なのが気になってて。
確かに奥村社長は社員どころか自分の娘すら道具扱いするような人だったから、悪人であるということは事実なんだけど。それがわかったのはあくまで娘である春ちゃんとの出会いと、なし崩し的に侵入したパレス内で知ったことで、事前に調査して知ったことでは無いわけで。つまり、なんとなく選んだら結果的に悪人でした、という状態だったな、と。
鴨志田の場合は自分が受けた仕打ちもあるし、志帆ちゃんの飛び降りや杏ちゃんの苦悩、そして三島から聞いた話で「悪人である」と確定した状態での対応だった。斑目の場合も、疑いを持ってから色んな形で怪盗団なりにできる範囲で調べた結果、間違いなく悪人だとわかってから本格的にパレス攻略に入った。金城の場合も同じ。双葉ちゃんに関してはちょっとイレギュラーだったけど、オクムラパレスまでは、怪盗団なりにしっかり調べて確信持ってから行動してたと思う。
そういう意味で、オクムラパレスに行く過程はかなり「結論ありき」で竜司は発言してたな、と(まあ、その傾向は結構最初からあったけど、周りが言えば足を止めて聞き入れてたなと思う)
怪盗団フィーバーに浮かれちゃったんだなっていうのを理解しつつ、竜司のそういう浅慮な言動にウーンってなってた(ハラハラしてたが正しいかも)
そんな気分の中、モルガナを役立たずと言ってからかったのを見て、デリカシーないなって思ったし、それだけ浮かれ気分で浅はかな言動してて、よくそんなこと言えたな、みたいな気持ちになった。
とはいえ、自分が竜司と同じ立場だったらきっと浮かれ気分になって短慮なことしないとは言いきれないし、寧ろ似たような行動したり、デリカシーのない発言しそうだなと思ったりもするから、竜司に対する感覚は同族嫌悪的なものや、共感性羞恥的な部分が大きいと思う(まるで自分の至らないところを見ているようでイライラしたり恥ずかしくなったりする感じ)
そういう意味で、9月の仲間割れ事件の竜司にはそこそこムッとして��た( ᐛ )
それから、モルガナにもムッとしてて。それは、先に書いた通りモルガナは異世界ではともかく、現実世界では(致し方ないとはいえ)主人公や怪盗団メンバーに様々なことを代わりにやって貰ってる状態だったわけで。それなのに、そこを全然意識せずに偉そうに「お前らたるんでる」なんてどの面下げて言ってんだ、と思ったし、竜司に放った暴言も、竜司と同じくらいデリカシーないなって思った。
もちろん、モルガナがああいう発言してしまうに至った過程は複雑で、自分がなんなのかわからない不安定感をずっと抱えていたことや、真ちゃんや双葉ちゃんのような有能な人が入ってきた(自分が担ってた異世界での役割を自分以上にできる人が入ってきてお株を奪われる形になった)ことで焦ったという事情もある。不安定な自分であってもこれが出来る、という部分に自分のアイデンティティみたいなものを感じてたのに、それが揺らいでしまったから不安が大きくなっちゃったんだろうな、というか。
でも、そこで不安が大きくなったのは、たぶんだけどモルガナがもともと「他の連中より自分は知識がある、玄人だ」ということをやたらと誇示してたこと(要は偉そうにしてしまったこと)が一因だよなと思う。できるできると天狗になってたのに、自分を軽く上回る能力の人が来てしまって、鼻っ柱折られてしまって、通常よりもっと不安になってしまったんじゃないかな、と。
これで、ここに至るまでのモルガナが「現実世界ではこの姿で迷惑かけることも多いかもだけど、異世界ではその分取り返すぜ。普段頼ってるぶん、異世界では頼られるように頑張る!」という態度だったらここまで強烈な反応にならなかったんじゃないかな、と思う。不安にはなっただろうけど、ほかのメンバーが寄り添ってくれたんじゃないかな、と。
でも、モルガナは普段の言動が上から目線だったからこそ、不安を抱いた時に相談しにくい空気になる状況を自分で作ってしまった。偉そうに言ってて今更何を、と言われるんじゃないかという空気に自分がしてしまった。というか、そういう後ろめたさがあったから、主人公にも相談できなかったんじゃないかなと思うし、そういう態度だったから周りもモルガナが悩んでると気づきづらい状況を作ってしまった。
それなのに、仲間割れイベントの時に自分の非は一切認めずに全部ほかのメンバーが悪いという態度をして、それで飛び出して行ったのはいくらなんでも人のせいにしすぎって感じて、私はそれにイラッとした。もちろん、あの態度だったらそうならざるを得ないなと思うけど、まあ、プレイヤーとして神の視点で見てるからこそそう思った。
そういう意味で、モルガナも悪いよねって思う。もちろん、竜司も悪いけど。とはいえ、そういう状況だったから竜司の非よりもモルガナの非の方が大きいかな、と思う。竜司だけじゃなく怪盗団のほかのメンバーもモルガナの苦悩に気づけてないのを鑑みると、モルガナの態度が周りをそうさせた部分は大きいなと思うし。怪盗団メンバーにしてみれば、唐突にモルガナが怒ったようにしか見えないし(モルガナにとっては最初からずっと抱えてた苦悩だけど、モルガナ自身がそれを隠してしまっていた)
ただ、ストーリー全部終わってみると、この流れって凄くよく出来てるな、と思う。
モルガナは、��ルベットルームの本物のイゴールが、悪神に囚われる寸前にどうにか状況を打破するために生み出した、希望をより集めて作った存在だった。つまり、生まれて間もない「子ども」なんだな、と。
怪盗団のメンバーも子どもではあるんだけど、年齢的には高校生なので「大人と子どもの狭間にいる子ども」という存在だなと思う。大人とは呼べないけど、何も知らない子どもだとも言えない。大人に足を踏み入れつつある子ども、という立ち位置だなと。
でも、モルガナはそうじゃない。モルガナはまだ「生まれて間もない子ども」であり、ほかのメンバーに比べて経験の量が少ないわけで(特殊な経験はほかのメンバーよりも若干してるけど、一般的な経験は遥かに少ないという意味で)
だから、こと人間関係に関しては怪盗団メンバーよりも遥かに素人だなと思う。怪盗団の皆がもっと前にたくさん経験してきたことを、今まさに経験している過程なわけで。ようは社会性を確立しつつある怪盗団メンバーとは違って、今まさに社会性を育んでる途中なんだよね、モルガナって。
そう考えると、モルガナのやたらと上から目線の偉そうな態度も凄く腑に落ちるんだよね。小さい子と接してるとよくあるんだけど、小さい子は「自分が出来ること」を過剰にアピールするし、自分が一番できると思ってる。「ぼくが/わたしがいちばんできるんだよ!」って実際に言うし、心からそう思ってるし、大人が手加減して花を持たせてることにも気づかなくて、自分が一番できて、自分が一番偉いと思ってる。だから、言ってしまえば偉そうなこと、ようは「生意気なこと」を結構言う。
モルガナってまさにそういう言動なのかも、と思ったらすごい納得感があったんだよね。誰かにやってもらうのを当然のように思ってて感謝しないのも、子どもは結構ある。冷蔵庫に手が届かないから親やほかの大人に頼まないと冷蔵庫の牛乳が取れないんだけど、大人が取るのが当然と思ってる。だから、取らないと怒るし、取ってくれたことに感謝もしない。そうして怒られて、本来は自分でやることで、出来ないから代わりにやってもらってるんだと学ぶ、みたいな。つまり、教わらなきゃわからない。教わらないままなら、他の誰かがやるのは当然だと思っちゃうわけで。
それに、モルガナが自分が一番の玄人だと思ってたのに、そうじゃない人が出てきたことで癇癪起こしたのもそう。モルガナにとっては「自分が一番」だと思ってたのに、真ちゃんや双葉ちゃんが入ってきてそうでは無かったと知るのは、たぶん初めての経験なわけで。いや、初めてはたぶん主人公なんだけど、モルガナにとって主人公は親のような存在だから、ある種自分の一部的な感覚があって許容できたんだと思う。いわゆる「ぼくの親はすごい!だからぼくもすごい!」という感覚。でも、真ちゃんと双葉ちゃんはそういう立ち位置ではなく、本当に他人なわけで。その他人の立ち位置で自分より突出してるとモルガナが認識する人が初めてだった。
だから、モルガナはあそこで初めて「勝てないと自分が感じる他人」に初めて出会ったわけで。自分が一番だと思ってたのは勘違いで、上には上がいるんだと思い知らされた。それまで持ってた無根拠な万能感、有能感をここで砕かれてしまったわけで。そりゃあんなにも不安定になるのは当然だな、と。
今までの世界が���れるくらいの衝撃だと思う。けれど、怪盗団メンバーはそれはもう結構前に済ませてきた経験でもあって。でも、モルガナは今まさに経験してる最中。そういう時期的な乖離もあって、怪盗団メンバーはモルガナに寄り添えないんだよね。最早挫折なんて当たり前になってる高校生(それをどう乗り越えるかを悪戦苦闘してる子たち)と、今初めて挫折したモルガナじゃ、視点が違い過ぎる。
初めての挫折に対して抗おうとしたモルガナは、だからこそ拙い抗い方をしてしまう訳で。でもそれはほかのメンバーにとっては拙すぎて受け入れられないし、なんでそんな拙いことを?と戸惑ってしまう。だから寄り添えないし、え、急にどうしたの?みたいな反応しかできない。怪盗団の面々はモルガナは同じラインに立ってる相手(ようは同じ高校生に対する態度でいい)と思ってるから、そのように接するけど、初めての挫折のモルガナにはその対応じゃ足りない。物足りない。だってこんなに苦しいのは初めてなんだから。
だから爆発してしまって、家出という形になったんだな、と。そして家出して、自分の力で出来る、なんでも出来るんだともう一度あの自信を取り戻そうとしたけど、当然それは出来なくて打ちひしがれて。そこに春ちゃんが来た。ペルソナ覚醒も不安定で、自分の自尊心(自分が1番と思いたいという気持ち)を満たせる相手だし、何より春ちゃんも同じように社会性が偏った育ち方をしてる子だった。
春ちゃんは、子どもよりも大人と接する機会の方が多くて、しかもその大人も特殊な人ばかり(自分の父親に取り入ろうとする人ばかりで自分を見てない相手ばかり)という環境に置かれてて、それ故に対人関係に意味を見いだせずに当たり障りない距離感でいる子だった。ある意味で、悪い意味での「大人」のような対人関係しか経験がなくて、同世代での剥き身のぶつかり合いのような対人関係はほとんど経験してない。そういう意味で、怪盗団メンバーとの対人関係においてはモルガナとかなり近い状態だったと思う。
だから怪盗団と邂逅した時に春ちゃんはすっとぼけたやり取りになってしまうし、どこかズレてしまう。それで怪盗団メンバーに「あれ?」ってされてしまう。上手にやれない。
でも、春ちゃんは素直な子で、言われたことに素直に反応してびっくりしたり、謝ったりする。そこはモルガナとは少し違った気質の子だったんだなと思う。モルガナはちょっと背伸びする気質の子で、春ちゃんは素直な気質の子、みたいな、生まれ持ったものの違い的な。
似たようなスタートライン(ほんの少しだけ春ちゃんが前かもだけど、大差ないスタートライン)の人で、でもモルガナとはアプローチの仕方が違う人。同じように経験不足で、今から経験していく人。そんな春ちゃんと出会って、そこで初めてモルガナには(一部かもしれないけど)同じ視点の仲間に出会えた。そして、そこで得た経験で社会性(対人関係)を学んだからこそ、時には頭を下げることも必要だと学べたし、それを実践できたのかなぁと。
そして、モルガナの行動を見たからこそ、呼応するように春ちゃんも初めて自分の飾りなしの本音「あの人無理!キモイ!」を言えたのかなと思う。今まで流されるままに流される生き方をして、まともに対人関係育��なかったけど、モルガナが怪盗団のみんなに対して示した行動を見て、自分もと奮い立って行動できた。そしてそれを経験したことにより、モルガナに嘘つくのやめよう、正直に言おうって言えた。
モルガナと春ちゃんは、互いに対人関係においては似たようなスタートラインにいて、それが故に相手が進むなら自分も進みたい、自分が進んだなら相手にも踏み出して欲しいしその手助けがしたいと思えて、二人で手を取りあって前に進んだのかな、と思う。そうすることで怪盗団のほかのメンバーも、二人はまだスタートライン付近にいたんだと気づけたし、かつて自分も似たようなスタートラインに立ってたことを思い出せて、モルガナが本音を言うのを見守ったり、応援したり、モルガナの偽りない本音を受け入れることが出来たかなと思う。
だから、あそこでモルガナが離脱するのは必要な過程だったのかもなと思う。まだ生まれて間もないモルガナが社会性の意味でほかの子に追いつくこと(その経験をすること)、対等になるために必要な通過儀礼的な意味もあったのかなと思う。モルガナが親以外(主人公以外)との関係性を自分で構築する上で、竜司のような心の機微に疎くデリカシーはないけど心根が真っ直ぐな奴もいることや、今の時点ではどうしたって勝てない能力を持っている真ちゃんや双葉ちゃんのような人がいること、応援してくれる杏ちゃんのような人、本音を受け入れて清々しいと言ってくれる祐介のような人間もいるし、自分と同じように対人関係の経験が薄い春ちゃんのような子もいることを知って、自分ができる人でなくても、万能じゃなくてもいいと思えたという意味で、あそこはモルガナの成長の為に必要だったんじゃないかなーと。生まれたての子どもから、成長した子どもへの道というか。
そしてそれは春ちゃんにとってもそうで。あそこはモルガナと春ちゃんの二人が、手を取り合って前に進む為の過程だったのかもなーと思う。そう考えると凄くいいイベントだなーと。
そうして全員が成長したからこそ、ニイジマパレスの策略が成功したんじゃないかなと思う。あの綱渡りで死と隣り合わせの策略の成功には、モルガナが以前のような「生まれたての子ども」のままだったらダメだし、怪盗団がモルガナを本当の意味で理解出来てないままでもダメ。それだけじゃなく、怪盗団メンバーがそれぞれ得手不得手が違っていて、互いに補い合わないと立ち向かえないことを自覚するっていう過程としてオクムラパレスのくだりがあったのかな、と思った。
あの9月の仲違いイベントは、だから誰が悪い誰が悪くないという見方をするイベントではなくて、人間関係の上で起こりうる衝突の話で、かつモルガナというキャラクターが実は「ほかのメンバーよりもスタートラインが後ろにあった」ということ、そしてモルガナにも成長が必要なんだということを示すイベントなのかなと思う。そして、モルガナが「希望を集めた存在=可能性が沢山ある子ども」という立ち位置のキャラクターなんだなと知る機会だったのかもなーと。
そう考えたらやっぱりモルガナ可愛いなって思うし、生意気で腹立つけど憎めない、良い奴だなって思う(*´ω`*) 戻ってきて早々にモルガナが放った「相変わらず辛気臭いとこだぜ」という言葉が、ひねくれてるけど暖かく感じたのも、モルガナがそういう子だってわかったからこそなのかもなーと思った(*´ω`*)
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平和な家族の終わり
プロセカの今回のイベスト読み終わったので感想をちょっとまとめてみる。以下すごくネタバレありなのでご注意を。
今回、本当に丁寧に丁寧にまふゆちゃんがお母さんと向き合うことを描いていた、すごくいいイベストだなと思った。あと、残酷なようだけど「正攻法ではなかった」ことがここに来て効いてしまったな、というのも感じた。もちろん、それをするより他になかった、みたいなところはあるんだけども。
今回すごく印象的だったのが、まふゆちゃんの行動がすごく「幼い」行動だったこと。テストが帰ってきたのを隠すとか、次の模試で取り返せばどうにかなるかも、とか、そういう思考はある種「幼い行動」と言えると思う。それをまふゆちゃんがやった、ということがとても意義深いように思った。
外から見た時の、学校のクラスメイトや後輩たちから見て取れるまふゆちゃん像は、優等生で、なんでも出来る落ち着いた人って感じだと思う。それこそ「大人っぽい」と称されるような。実際、ニーゴの子たち以外の子の前でのまふゆちゃんは、同学年の人よりも少し大人びて見えると思う。
そんなまふゆちゃんが、期末テストの返却が遅れているなんていう下手な嘘をついた。学校に電話したら一発でバレるような嘘をついてお母さんを誤魔化して、次の模試でいい点をとって一緒に渡せば、っていう安易な考えを実行しようとした。これって周囲のイメージと行動にめちゃくちゃギャップがあるなって思って。
もちろん、高校生でもテストの答案隠すっていうことをやる人もいると思う。でも、多くの高校生はそうしないんじゃないかなと思う。誤魔化すなら、例えば「今回は平均点が低くて、みんな点数悪かったんだよ」とか、「テスト中に具合が悪くなっちゃって」とか、そんな感じじゃないかな。それもまあバレる嘘ではあるけど、少なくとも「返却されてない」よりはマシな嘘だと思う。でも、まふゆちゃんはそういう嘘を選ばなかった。たぶん、思いつかなかったんだろうな、と思う。
そして、模試で取り返して一緒に渡す、っていうのもすごく拙いやり方だと思う。なぜなら、たとえ模試の点数が良かったとしても、なぜすぐに答案を渡さなかったのか、と言われるようなことだと思う。期末テストの点数が悪かったから、模試の点数で誤魔化そうとしたと直ぐにバレてしまうよなぁ、と。そういう意味で、幼いし拙い。
じゃあまふゆちゃんが何故そんな幼くて拙い嘘ややり方を選んだのかといえば、たぶんだけど「今までそんなことをする機会がなかった」からなんじゃないかなと。親の目を盗んでイタズラしたり、悪い結果のテストを机の奥でクシャクシャにし��り、そういうことをして来なかったし出来なかった。親の言うことを全て守ってきて、反発することがなかったからこそなんじゃないかな、と思う。
それが、ここにきて初めて反発……とまでは行かないまでも、親に対して疑問を持った。従うべきなのか?と悩んだ。そして、都合の悪いことが初めて起きて、慌てて隠そうとしたからこそこんなやり方になっちゃったんじゃないかな、と。
多くの人たちは、たぶんもっと前に親に刃向かったり、親を誤魔化したりして叱られて、それである種嘘や誤魔化しが鍛えられてくると思う。だから、もう少し違う段階の嘘や誤魔化しを身につけてると思う。でも、まふゆちゃんはそれをして来なかった、できなかった、やろうとすら思えない環境にいた。だからこそ、今になって初めてやったから盛大に失敗してしまったのかな、と。
そして、だからこそまふゆちゃんのお母さんを説得することも出来ない状態になっちゃったんじゃないかな、と思う。そんな幼くて拙い嘘や誤魔化しをした直後に何を言ったって信用を得るのは難しい。口からでまかせに聞こえてしまうだろうし、安易に逃げようとしてると受け取られてしまう。そして、「大人は子どもを教え導くもの」という一般的な考えに凝り固まった人が相手なのだからなおのこと、そこを突かれたら反論がものすごく困難だと思う。嘘や誤魔化しをしたという「事実」を持ち出されたらだいぶ反論が苦しいもの。ラーメン頼んだのにチャーハン出した人が、次は絶対間違えないって言ってもあんまり信用されないじゃん🍜
本来ならもっと前に経験してるはずのことを、まふゆちゃんは今からやろうとしてる。そして、今までがあまりに「大人っぽかった」せいで、そんな拙いやり方で対抗しても「今まで出来てたのにどうして」と言われてしまう。今まで通りにしてよ、と。急に変なことしないで、と。
そうなってしまったのは、きっと遊園地でお母さんを困らせた(悲しませた)ことがトラウマになってしまっていて、しかも相手は意識してか無意識にかそういうやり方を得意とする相手だったからという不運ゆえなんだけど。相手にしてみればすごく御しやすい育ち方になっちゃってるんだろうなと思う。それに、まふゆちゃんの元々の気質が優しいからこそ余計に効いてしまう。お母さんにしてみれば少し悲しんで見せるだけで言うことを聞くのだから、その手を使おうと思ってしまう(もちろん、いい手ではないし褒められたことじゃないんだけど)
それでも、もしかしたら他の子に比べたら遅きに失したかもしれないけど、ようやくまふゆちゃんがお母さんに対して自分の意見を言えた。圧倒的不利な状況下になっちゃったけど、トラウマ刺激されて揺らいだりもしたけど、ミクちゃんやカイトさんに支えてもらってどうにか自分の思いを言うことが出来た。これは本当に頑張ったと思う。それこそ、死ぬほ��怖くて苦しかっただろうに、何とか泣きながらでも言葉にできたのは、本当に頑張ったなって😭
その言うまでの流れも、まふゆちゃんはずっとパニックになってて、心の中もぐっちゃぐちゃで、今にも呼吸が止まりそうなくらいの混乱の中絞り出したことが描写されてて本当に読んでて辛かったけど、それがまたまふゆちゃんが「初めて親に意見した」ということを強く伝えてくるようでグッときた(ちょっと��リラは吐血したけど( ᐛ ))
生まれてきて今までずっとしてこなかったこと、出来なかったことをこんな圧倒的不利な酷い状況下でやった、ということがすごいなと思った。そして、それを出来たのはミクちゃんとカイトくんがそばにいてくれたことと、今までニーゴの子たちと育んできた繋がりがあってこそっていうのもすごく伝わってきた。
親への反発は、ともすれば「居場所の喪失」に繋がるような、まさしく清水の舞台から飛び降りるような行為なわけで。一般的な家庭に育った人が当たり前に親に反発できるのは、親が自分を見捨てない、という無根拠な自信があるからだと思う。その無根拠な自信は、幼い時から今までで親に大切にされてきた経験があってこそのものだと思う。だから、お母さんとの優しい思い出が少ないまふゆちゃんにとっては、その無根拠な自信は持ててないわけで(遊園地の迷子の経験で、微かでも持ってたはずの自信を壊されてると思うので) だから、まふゆちゃんにとって親に反発することは、自分の居場所を失うかもしれない恐怖との戦いとも言えると思う。
だからこそまふゆちゃんは今までそれが出来なかったんだろうな、と思う。下手なことをすれば親から見放される(とまふゆちゃんが感じている)環境で、そうされないために親の言うことをずっと忠実に聞いてきたのは、居場所を失いたくないからだろうな、と。だから苦しくても誤魔化し誤魔化しやってきた。それが限界に達した時に「消えたい」と願ったのは、お母さんを裏切ることは居場所の喪失と同義なのだから、それなら消えてしまうのと変わらないからなんじゃないかなと思う。むしろ、消えてしまった方が「自分の居場所は残ったまま」になるわけで。ただ自分がそこから居なくなるだけって考え方もできるかなぁと。
けれど、そんな崖っぷちをそろそろと歩いてたまふゆちゃんにとって、安心できる居場所ができた。それがニーゴの子たちとの繋がりで。家族との繋がりしか居場所のなかったまふゆちゃんが、初めて家族以外の関係性の中に居場所を見いだせたのがニーゴとの繋がりなんだろうな、と思う。この居場所を無くしたら終わり、という状況から、この居場所を無くしてももうひとつ居場所がある、とまふゆちゃんが初めて思えたのがニーゴの子たちなんだろうな、と。
だからこそ、今、このタイミングでやっと反発できたんだと思った。安心できる居場所が出来たからこそ、今の居場所を変えたいと思えた。家族との関係がぶっ壊れていいと思っているわけじゃないとおもうけど(むしろそれは望んでないと思う)、仮にこの居場所がダメになっても、自分にはまだ居場所がある。だからこそ立ち向かおうと思える。頑張れる。もちろん、怖くて体は震えるし、苦しくて胸が潰れそうだっただろうけども。それでも、そんな自分を助けようとしてくれる人がいると思えるくらい、ニーゴの子たちやバーチャルシンガーたちとの関係を築き上げてきた。しかも、親の干渉がない場所で、まふゆちゃんの行動で掴んだ、自分の手で獲得した初めての場所なんだし。
お母さんに自分の気持ちを伝えている時、まふゆちゃんが思い浮かべるのがニーゴの子たちやバーチャルシンガー達、そしてその人たちに言われた言葉なのがすごくその「繋がりが育まれてきた」というのを感じられて凄い胸が熱くなった。ゆっくりゆっくりと、時間をかけて作り上げられてきたんだなっていうのが伝わってきて😭
そんな、清水の舞台から飛び降りるような、死ぬ思いで絞り出した言葉はお母さんには届かなかったけど(状況的にあのタイミングで届くのは不可能に近いと思うし)、それでも自分を守れるのは自分だけだと思って(絵名ちゃんの���葉)、苦しくて辛くて堪らないなら逃げ出そうと思えて(瑞希ちゃんの言葉)、そして逃げた先に選んだのが奏ちゃんのところというのが、本当に今までのイベストで起きたことがまふゆちゃんの心に柔らかな火を灯していたんだな、と感じてすごく感激した。まふゆちゃんがひとつひとつの出来事を大切に大切に抱えてたんだなって思って😭
正直、状況は良くなってない。お母さんは完全にまふゆちゃんの言葉を「子どもの戯言」として流してて受け止めてくれてないし、大変なことが起きてる自覚もない。ただ、自分の娘が自分にたてついたということしか認識できてない。それでも、たてついた、という事実は今までまふゆちゃんのお母さんが経験してこなかったことだと思う。実際、まふゆちゃんが反論した後のお母さんは穏やかな「世間ばえのする」人から、単なるヒステリックな人に変貌したし。だから、まふゆちゃんのお母さんも初めてのことを経験することになった。これは大きいと思う。
今までにないことが起きて戸惑って、それ故にヒステリックな反応をしたんじゃないかなと思う。そういう意味ではまふゆちゃんのお母さんもやっとスタートラインに立った。子どもとぶつかり合うというスタートラインに。そして、初めてだからこそ相手もたぶん拙いやり方になると思う。もちろん、大人としての経験を使って立ち回るだろうけども。それでも初めてのことに変わりはない。
今まで表面的には平和で幸福な家族だった朝比奈家が、ここにきて砂上の楼閣だった事が露呈した。まふゆちゃんという子どもの上に立つ、地盤の安定しない場所に立っていた崩れやすい幸福だったという事実が顕になった。もちろん、それを認めたくないからこそお母さんはあの手この手で来るだろうとは思うんだけども。それでも、「仮初の幸福な家庭」がここにきて壊れたことはすごく大きな出来事なんじゃないかな、と思う。
そう考えると、今後の展開がすごい楽しみだなぁと思った(吐血しつつ)
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大人の立ち位置
ビビバスのイベストめちゃくちゃ良かった……という感想です。
サードイベントを見て、大河さんが、謙さんが、街の人たちが、ビビバスを始めとした若い世代がかつての最高のイベントを超えてくるかもしれないと認めたあとのお話だったけど、めちゃくちゃに良かった。
なんというか、大人たちがビビバスの子達を「大人」と認識したんだな、と思った。
こういう言い方はアレかもしれないけれど、今までの大河さんや謙さんのビビバスに対するスタンスはずっと、ビビバスの子達を「子ども」として扱っていたんだな、というのがすごく伝わってきた。それは侮った子ども扱いという意味ではなくて、まだ巣を飛び立つ準備が出来ていない雛鳥を見守る親鳥のようなスタンスだったんだな、みたいな。
まだ飛び立つには頼りない羽で、それでも大空を夢見る雛鳥に、大空の広さや素晴らしさを語り、その大空への憧れや期待に胸を膨らませることを温かく受け入れて見守るというか。早く飛び立てるように羽を鍛えるんだぞ、その先には素晴らしい大空が待っているぞと広い世界を伝えるようなイメージというか。夢や希望を見せることで巣から飛び立つことを後押しするようなスタンスという感じかなと思う。
それが、サードイベントの功績を見たところで、もうビビバスの子達は間もなく巣を飛び立てるほどに羽を鍛えられたと認めた。もう大空を羽ばたくことはできると、そう感じたんだなと思う。
けれど、大空を羽ばたくということは、親鳥の庇護から離れるということでもあって。それは確かに誰かに止められたり親鳥に巣に押し止められるいわれも無くなるという意味での、とても自由で素敵なことでもあるけれど、同時に危険や苦難とも出会うということで。大空には他の鳥たちがいて、自分よりも大きな鳥や、自分を食糧と見なして襲いかかってくるほかの鳥や動物もいる。たた飛ぶだけなら問題なくても、そういった危機は飛ぶこととは別次元の問題なわけで。
大空に飛び立つということは、そういう他の鳥や動物たちとも渡り合っていかなければいけない。親鳥の目を離れているのだから、雛鳥自身の知恵や力でそういった危機から逃げたり立ち向かったりしなければいけない。いくら親鳥が守りたいと願おうとも、大空に飛び立ってしまえば守ることは物凄く難しくなってしまうわけで。
それに、親鳥にしても自分の食糧を探して自分が生きる道を確保しなければいけないわけで。飛び回る雛鳥を守りながら自分が生き残ることも考えるということは物凄く困難だし、極端に言えば無理があるわけで。それに、親鳥は雛鳥よりも先に死んでしまうから、いつかは雛鳥は一人で危機に立ち向かわなければいけない。そういう現実が大空には待ち構えているわけで。
大空に飛び立つということは、大人になるということはそういう事なんだよ、ということを大河さんも謙さんも今示しているんだな、と思った。もう巣から飛び立てる。ならば、大空への希望や期待だけでなく、絶望や苦難も待ち受けているのだということを知って欲しいと。飛び立つ前の最後の準備が必要なんだと、立ちはだかる現実と今こそ向き合う時が来たんだぞ、ということを伝えたんだな、と思う。
大河さんは、その「現実の厳しさ」を自分が壁となることで示した。大空に飛び立つなら、俺と戦うことになるんだぞ、と。俺と生存競争するってことだぞ、と。雛鳥ならいざ知らず、成鳥であるならば俺とお前たちは対等であり、こちらが手加減する義理はないんだ、ということを示した。その覚悟をしなければ大空に飛び立っても死ぬだけだ、と。お前たちを大人として扱うのであれば、俺はもう手加減も容赦もしない、ライバルとして生存競争を勝ち抜くために立ちはだかるぞ、と示して見せた。
大河さんには大河さんなりの野心や叶えたい夢がある。それは大河さんの中で絶対に譲れないものなわけで。相手が子どもなら手加減や容赦をして大目に見てはやれるけど、相手が大人ならそんなことする義理はないのだから、自分の野心や夢を優先するぞ、という立ちはだかる壁やライバルという立ち位置としての大人を示したんだな、と思う。
それは物凄く厳しくて、苛烈な大人の姿だと思うけど、でも見るべき大人の背中のひとつでもあるよなぁ、と思う。近しい人ですらそうなるのだから、他人なら更に容赦ないわけで。交流のない相手に対しては義理も思い入れもないのだから、もっともっと苛烈に来る可能性だってあるわけで。だからこそ、近しい立場の人が厳しい姿勢を見せることで、その可能性に気づくきっかけになるだろうなと思う。まあ、大河さんは交流があろうとなかろうとギラギラした姿勢で立ちはだかってくるのだろうけど(*´艸`)
そして、謙さんは立ちはだかる壁ではなく、その壁とどう戦っていくか、どう立ち向かっていくかを一緒に考えようという立ち位置なんだな、と思う。間もなく巣立つ雛鳥達を大空の一員として迎え入れるための最後の準備をしようぜ、という後押しをする側のスタンスというか。雛鳥と成鳥の間、子どもと大人の狭間にいるビビバスの子たちが本当の意味での「大人」になる為の手助けをする大人の立ち位置なんだな、と。
だからこそ、謙さんはRAD WEEKENDの顛末を話した。ビビバスの子達が見て憧れた、煌びやかなステージの裏側にどんな厳しい現実があったのか。その厳しい現実に自分たちがどれだけ打ちのめされて、そしてそれに立ち向かって行ったのか。そして立ち向かった結果があのRAD WEEKENDだったんだぞ、と伝えてくれた。光にばかり目を向けていたビビバスの面々に、光の裏側には必ず影があると伝えた。
そして、その影の中からも光が生まれていたこと。それが凪さんが杏ちゃんに託した夢であり、そしてその夢は杏ちゃんの夢を守り導く道標でもあり、温かな巣でもあったんだということを教えてくれた。凪さんのエゴと、そのエゴに込められた途方もない杏ちゃんへの愛情、歌うことを愛する杏ちゃんの障害にならないための配慮、街の人たちのエゴや嘘も巡り巡って杏ちゃんの夢を守ってきた温かな巣を形作っていたんだということ。杏ちゃんの知らないところで、見えないところで、実は守られていたんだという事実を教わった。
認め立ちはだかる大人と、教え導く大人。大河さんと謙さんはそういう立ち位置でいるんだな、と感じた。それがとてもこう……カッコイイ大人の姿だなぁ、と思った。
そして、凪さんの立ち位置もまた素敵だな、と。自分に降り掛かった不幸に対して打ちひしがれた時、杏ちゃんとの交流が支えになっていたんだな、と思う。そして、だからこそ杏ちゃんに夢を託しながら、杏ちゃんの夢を守ろうとしたんだな、みたいな。歌うことが苦しくならないようにと自分の病気や死を隠し、杏ちゃんの未来を守るための巣を作り上げた。その温かな巣の中で健やかに育って、そして羽ばたいていってほしい。巣立ちを見守ることは出来ないけれど、きっと街の人達が、大河さんが、謙さんが杏ちゃんを守ってくれるとそう信じて。そして、杏ちゃんがきっと力強く巣立っていくと信じた。これもまた物凄く素敵な大人の姿だな、と。
そういうのが身に染みてわかったから、杏ちゃんはあれだけ声を上げて泣いたんだろうなと思う。途方もなく大きな愛情だとわかるからこそ、ちゃんとお礼が言いたかった。直接言いたかった。でももう凪さんは居ないし伝えられない現実がそこに横たわっている。大好きだってありがとうって伝えたくてももうどうすることも出来ない。それがどうしようもなく悲しくて悔しいからこそ、街の人達や謙さんや大河さんを責めたい。どうして教えてくれなかったのって言いたい。でも、黙っていたのが愛情だということもわかるから、恨むことも出来ない。どうしようもない。だからもう声を上げて泣くしかないよな、と。子どもだからこそ、そうして守られるしかなかった自分に気づいてしまったから。
そして、大声上げて泣くことで、その「子どもの自分」と大いに向き合って体験して、そして子どもとしても目線ではなく、光だけ見た目ではなく、影とそこにあった愛情を見たその目で、目線で「RAD WEEKENDを超えたい」と口にした。大人の目線で夢を語った。そんな感じなのかなと思ってギュッとした。ここで杏ちゃんは「温かな居心地のいい巣(愛する街)」から飛び立とうと決意し、覚悟したんだな、と思う。
自分の力不足では片付かないような、どうしようもない現実がこの先自分たちに立ちはだかるかもしれないこと。それに自分たちの力で立ち向かわなければいけないということ。それを目の当たりにしたビビバスの子たちが、それでもその夢を見続けると決意して覚悟した、みたいな。その中心を担ったのが「街に育てられた」杏ちゃんだったの、めちゃくちゃいいなって思った。だからこそここまで引っ張ったんだな、ってすごく納得した。
素敵なイベストだった(*´ω`*)
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一択から二択、二択から三択
「ボク達の生存逃走」のイベスト全部見た。すごく良かった。めちゃくちゃグッときた。
まふゆちゃんの置かれている状況がどんどん悪くなっていく中、瑞希ちゃんが満を持して「明確に」まふゆちゃんに働きかける、言葉を届ける、想いを伝える、というストーリーだったけど、物凄く丁寧な展開で、かつ瑞希ちゃんにとっても大切な意味があるストーリーだったな、と思った。
あと、まふゆちゃんのお母さんの方針というか、手法が見えたのも凄くよかった。なんというか、やっぱり愛なんだなと思った。まふゆちゃんに対する愛ではある。ただ、その愛の手法が物凄く画一的で弾力のないものなんだな、と。幅もなく、狭く、そして潰しの効かない愛。もう少し突っ込んで言うと、赤ん坊や幼児に対する愛の段階で止まっている、硬直した愛だな、と。
赤ん坊や幼児は、社会の仕組みを知らないし、危険も安全もわからない。だから、ある程度成長した子どもなら触らないであろう、沸いたお湯の入ったヤカンに触れてしまったりする。周りを確認もせず、突然道路に駆け出してしまったりする。ヤカンが熱いこと、道路には車が走っていること、そういう危険があることをそもそも知らない。知識として持っていない。だから、大人が見たら無謀なことをする。命知らずなことをする。
だから、大人は赤ん坊や幼児の意志を無視して手を掴んでヤカンに触れないように、道路に飛び出さないように止める。どんなに触りたいと喚いても、走っていきたいと泣いても、大人は絶対に赤ん坊や幼児の手を離さない。自由を許さない。なぜなら、そこで自由を許せば、酷い火傷を負ったり、最悪の場合は命すら失うから。だから、自由を制限する。赤ん坊や幼児が怪我をしたり命を失うことがないように、と。それは愛だろう。その子の身体や命を守ろうという愛。
まふゆちゃんのお母さんは、そこで止まってるんだなと思った。まふゆちゃんを赤ん坊と同じように扱う。まふゆちゃんに選ばせることは危険だと考えているんだろうな、と思う。まふゆちゃんにそういう選択ができるということを信じていないというか、考えてもいない。まふゆちゃんはい��までも子どもで、赤ん坊で、判断力のない無力な存在だとどこかで思っているんだろうな、と。
だから、選択肢を潰す。本来ならば無限にある可能性をひとつに絞ろうとしている。まふゆちゃんのお母さんが考える「確実に幸せになれる方法」の選択肢以外を全て排除しようとする。選ばせないようにする。そうすれば、まふゆちゃんが苦しむような未来への道を全て潰せると思ってるんだろうな、みたいな。
そして、今まではそれでよかった。少なくとも、小学生くらいまではそれでも良かったんだろうなと思う。私が小学生の時なんて、粘土齧ったり、ガラスで出来たグラスを噛み割ったり、危険な高い場所によじ登って転落したりしてるから、ある程度自由を奪うことは必要だっただろうなと思う。幸いにして私は怪我したり命を失ったりせずにここまで来たけども、運が悪ければ後遺症が残るような怪我や病気をしたり、最悪死んでただろうし( ᐛ ) だから、ある時期まで自由を制限する、奪うことは子どもを守ることにも繋がってた。
ただ、まふゆちゃんはもう高校生なわけで。そして、まふゆちゃんはとても聡く賢い子なわけで。もうそんな「とんでもなくリスクの高いこと」は選ばないくらいの知識や判断力を身につけていると思う。多少痛い思いするような選択肢を選んでしまうことはまだまだあるだろうけど、少なくとも取り返しのつかないデンジャラスな選択肢を選ぶような可能性はすごく低いと思う。粘土齧ったり、グラス噛み割ったり、高いところに登って転落するような事はしないと思う。
それなのに、まふゆちゃんのお母さんはまだ粘土を齧るような幼い子どもを相手にするように接している。自由の制限が赤ん坊や幼児の時のレベルと変わらず、物凄く少ない選択肢にしている。他にも無数にある幸せへ続く道を潰していって、自分がこれと思う選択肢だけを選ぶようにしている。選択肢を次から次へと潰している。それは愛だけど、とても幼い愛だな、と。
子どもがどうして向こう見ずに危険なことをするのかと言えば、知識がないのももちろんだけど、もうひとつの理由として、周りが見えてないからなんだよね。道路の向こう側にある綺麗な花しか見えてない。その道路に走っている車が見えていない。そういう狭い視野で世界を捉えているから、道路に飛び出してしまう。少し離れたところを猛スピードで走ってきている車が見えてないから飛び出す。
まふゆちゃんのお母さんの考える幸せも、それと同じじゃないかな、と思う。たった一つの幸せへの道しか見えてない。他にもたくさん幸せへ至る道があるのに、たったひとつしか見えていない。それ以外が目に入っていない。それならば、子どもが道路の向こう側にある綺麗な花に向かって走っていくのと同じじゃないかな、と思う。とても幼い行動だな、と。
何より、道路の向こう側にある花を走って見に行くというのは、自分の「見たい」という欲求が最優先になった行動なわけで。そこに他者が存在しない欲求でもあるわけで。尖った言い方をすれば、利己的な行為だとも言えるかなと思う。そう考えるならば、まふゆちゃんのお母さんが選択肢を潰して一つだけにする行為も、やはり同じく利己的だとも言えるだろうなと思う。「私の考える幸せ」には、他者が存在しないんだから。まふゆちゃんがそれを幸せと捉えるかという視点がないのだから、まふゆちゃんの存在がそこにほとんど意識されていないのだから、幼くて利己的な幸せ観とも言えるんじゃないかなぁ、と。
それに対して、ニーゴの子達やバーチャルシンガーたちは、ずっとずっと「まふゆちゃんの存在」を念頭に置いて考えたり行動したりしてきている。それぞれがそれぞれに、「私はこういう方法がいいと思う」と提示しながらも、「それを選ぶのはまふゆちゃんである」というところを常に���識している。あまりにも自分の意志を無視され続けてきたせいで、自分が選択肢を掴み取る事を悪い事だと思っているかのように動けないまふゆちゃんに対して「自分から動け」と檄を飛ばすことはあっても、この選択肢を選べと強要してはいない。それは、赤ん坊や幼児に向けられた愛よりももっと段階が上の愛だなぁ、と思った。
その人が「自分の手で幸せを掴むことが出来る」と信じる愛というか。その力を貴方は持っていると信じることが出来るというのは、相手を「無力な子ども」ではなく、「無限の可能性を持った子どもであり、人間である」と認めることでもあるのかなと思う。それはかなり発展した、進化した愛だなぁ、と。
ニーゴの子たちやバーチャルシンガー達は、まふゆちゃんの選択肢を「増やそう」としているんだなと思った。お母さんに潰されて見えなくされていた選択肢を、これだって選んでいい選択肢だよと掘り起こして見せている。んで、絵名ちゃんの家にまふゆちゃんが行ったイベストや、前回の奏ちゃんとまふゆちゃんのお母さんが対面したイベストで、明確に掘り起こされた選択肢が「立ち向かう」という選択肢だったんだな、と思う。お母さんが示した、たったひとつだけにした選択肢を「選ばない」という選択肢。そして、その選ばない方法として「反発する」という方法を提示した。
そして、今回のイベストでは、「選ばない」という選択肢の中にもうひとつの選択肢を掘り起こして見せた。選ばずに反発する、という選択肢だけじゃなくて、選ばずに逃げる、という選択肢を示した。それを示す役割を担ったのが瑞希ちゃんというのがめちゃくちゃに熱いな、と思った。
今までのイベストでは、奏ちゃんや絵名ちゃんが進んでいく様が示されていた。二人がそれぞれの抱えた問題に対して、文字通り向き合っていく姿が描かれていた。
もちろん、その描き方は二人とも違っていて、奏ちゃんはひとつひとつに向き合いながら、自分なりに納得出来る形に取り込んでいく形かなと思う。お父さんを壊した事実を見つめて、その事実に対して自分がどうしたいのか、何を願うのかをひとつひとつ考えて、自分の中に取り入れていくというか。事実を受け入れていくという感じかなと思う。そういう立ち向かい方というか。
絵名ちゃんは、真っ向から向き合って身体全部心全部でぶつかりに行って、そこで見つけた自分の問題点をひとつひとつ見つめて改善していく、みたいな感じかなと思う。ようは、事実と向き合い戦うという手法。戦うために力をつけようとするみたいな、かなりアグレッシブな方法で立ち向かっている。けちょんけちょんにされながら、時にKOされながら、それでも震える足で立ち上がってまたぶつかりに行く形。
形はこうして違えど、二人がしている事は明確に「向き合うこと」で。向き合い、片や受け入れていき、片や戦っていくという手段の違い。向かう先は似ているけど、そこに至る過程が違うのが奏ちゃんと絵名ちゃんなのかな、と思う。
そこに来て、瑞希ちゃんは今までのイベストではひたすらに逃げ続けている描写がされていた。向き合うことをせず、目を逸らしたり耳を塞いだりしながら、苦しい現実から距離を置き続けている。立ち向かう描写はなく、自分が逃げているという事実ばかり浮き彫りになっていくというだいぶつらい描写が目立つなぁと思ってた。
それが、ここで生きてきたなと思う。
瑞希ちゃんは逃げることに関してはほかのメンバーの誰よりも上手だと思う。巧みに煙に巻いて姿をくらませて、苦痛から逃げていく。恐らく、ある意味では他の誰よりも「衝突」の経験がないんじゃないかなと思う。衝突を避けて逃げているのだから当然と言えば当然なんだけども。
じゃあ、衝突を経験してないから苦しんでいないかと言えば、そうではなくて。逃げているというその事実にひたすらに苦しめられている。何も解決していない、臭いものに蓋をしているだけ、見たくないものに目をつぶっているだけ、聞きたくないことに耳を塞いでいるだけということを、瑞希ちゃんは物凄く理解している。蓋をしても、目を閉じても、耳を塞いでも、そこにそれはずっとあって消えないのだと痛いくらいに経験している。何も変わっていないし進んでいないと、苦しいくらいに理解している。それが瑞希ちゃんの聡さであり、悲劇でもあるなと思う。
その場しのぎでしかないわかってしまうから、苦しいんだろうな、と。その場しのぎだということに気が付かなければ、瑞希ちゃんはきっと苦しむことは無い。これが解決策だと心から思えていれば、蓋をして目を閉じて耳を塞げば「なかったことになる」と心から思えていれば、きっと苦しいなんて思わない。自分が知覚しない場所にあるものは「存在しないものとしていい」と本気で思えていれば、瑞希ちゃんは苦痛なんて感じずに楽しく生きていられるのだろうと思う。
でも、瑞希ちゃんは聡いから、そうは思えない。自分が知覚しないようにしているだけで、問題はずっとそこにあるということに気づいてしまう。察してしまう。知っている。だからこそ、自分はその場しのぎで楽な方に流れているだけだ、問題から逃げているだけだということに物凄く自覚的で、だからこそ苦しむ。周りに立ち向かって進んでいく人がいるから、余計に逃げ回っている自分が情けなく見えて、でも逃げることを辞めることが怖くて出来ず、立ち竦んでいる。それが、瑞希ちゃんの現状なのかなと思う。
たぶん、瑞希ちゃんにとって「逃げる」という選択肢はあまりにも情けなく、みっともなく、どうしたって否定的にしか見れない選択肢だったと思う。力強く立ち向かっていく絵名ちゃん、覚悟を携えて進んでいく奏ちゃんの姿は瑞希ちゃんにあまりにも眩しくて、だからこそ自分の「逃げる」という行為が後ろめたく薄暗いものに見えてるんじゃないかな、と。
だからこそ、今の今までまふゆちゃんにも「逃げていい」と言えなかった。逃げ続けた自分がたどり着いたのが「進みたいのに足を踏み出せずに立ち竦んでいる」という現状と苦しみだからこそ、それをまふゆちゃんには渡せなかった。自分が苦しんでいる道にまふゆちゃんを連れていく訳には行かなかっただろうし。
それに対して、ルカさんが別の視点を与えてくれた。確かに瑞希ちゃんは逃げているし立ち向かっていない。それは臆病なことであるともしっかり明言された。でも、ルカさんはそれを否定するでもなく「見方を変えてみたら?」と提案した。逃げて逃げて逃げ続けたのが瑞希ちゃんだけれど、それで手に入れたものは何?と。逃げることで失ってきたものにばかり目を向けていた瑞希ちゃんに対して、逃げることで得たものに視線を向けさせた。
そうして瑞希ちゃんが気づいたのは、逃げたことで得たものが確かにある、という事実で。それが「家」という逃げ場であり、その「家」に隠れて生き延びたことで出会ったニーゴの皆との関係だ、と気づいた。逃げずにいれば、きっと瑞希ちゃんは潰れていたし、そうなっていれば家が安全基地だと気づくことも出来ず、ひいてはニーゴの皆とも出会うことは無かったと気づいた。確かに逃げまくって来たけれど、逃げたからこそ今までどうにか生き延びることが出来て、そして大切なものに出会えた。それに気がつけた。
否定的にしか見れなかった「逃げる」という選択肢に対して、肯定的な面が見えた。だからこそ、瑞希ちゃんはまふゆちゃんに「逃げろ」と言うことができるようになったんだろうな、と思う。選ばずに逃げてしまえ。苦しいなら逃げていい。そうして得たものがある、得られるものがあると、心から思えたからこそ口にできた。
今の弱り果てたまふゆちゃんには、立ち向かう選択肢はかなりハードルが高くて、まふゆちゃんは怖くて選べない。でも、そ��を選ばないなら、まふゆちゃんの前には��母さんが用意した選択肢しかない。どちらに行っても辛かったり怖かったりする選択肢しかない中に、瑞希ちゃんが見せてくれたもうひとつの選択肢、逃げる、が追加された。二つだった選択肢が三つになった。それって本当に凄いことだな、と思う。
そして、瑞希ちゃんは逃げる達人だからこそ、警告もくれた。逃げ続けることはオススメしないよ、と。それを選んだ自分は今別の苦しみに囚われているから、と。だから、逃げる選択肢ばかり選ぶのはきっと辛いよとも伝えた。それでも、一時、今にも死んでしまいそうなくらい苦しい時に逃げるのは、ひとつの手段だよ、と。逃げの達人だからこそのアドバイスを贈れた。しかも、逃げる実践付きで。
これは、選択肢の少ないまふゆちゃんにもうひとつの選択肢を用意したことと、もうひとつ大切な意味があるなと思う。それは、瑞希ちゃんが今までの自分を「肯定できた」ことだと思う。つまり、瑞希ちゃんはまふゆちゃんの救いの道をひとつ増やすと同時に、自分の救いの道もひとつ見つけたんだな、と。
今まで瑞希ちゃんは自分を肯定的に見れていなかった。少なくとも、「逃げる自分」に対しては否定的に見ていたし、後ろめたさしか感じていなかった。そこに来て、瑞希ちゃんは初めて「逃げた自分」を肯定することが出来たんだな、と思う。情けなくてみっともなくてどうしようも無いと思ってたけど、無意味で無駄だと思っていたけど、そうじゃない部分もあるということに気づけた。
逃げたことで生き延びることが出来たという成果に気づけたし、その経験がまふゆちゃんの助けになる可能性を見出した。そして、まふゆちゃんがそれを選ぶなら、自分は助けられるという一種の自負も生まれた。それは、立ち竦むことしか出来なかった瑞希ちゃんの新たな道だと思う。瑞希ちゃんの側にも選択肢が生まれてきた。それがすごいな、と思った。
そして、何よりもグッときたのが、瑞希ちゃんが「責任」という言葉を使ったこと。絵名ちゃんにガチンコで向き合ってもらった時ですら「誰かがボクの事全部話してくれたらいいのに」と、自分がやらなきゃいけないことを他者に任せて逃げようとしていた瑞希ちゃんが、ここに来て初めて「まふゆが逃げることを選んだなら、それはボクの責任だ」と明言した。誰のせいにもせず、自分のところに言葉の責任を持ってきた。それってめちゃくちゃ凄いことだと思う。ここに来て初めて、瑞希ちゃんは「逃げ」を選択しなかった。責任という言葉で自分の逃げ道を塞いだ。激アツ過ぎる。
なんてーか、まふゆちゃんを救おうとすることで、それぞれが救われていくというか、自分の問題と向き合って変わろうとしていってるな、みたいな。苦しんでいるまふゆちゃんが拙くも必死に足掻くことで、周りも頑張ろうと思えているように見えて凄く心が震えた。まふゆちゃんの頑張りが、人一倍臆病で立ち竦んでいた瑞希ちゃんに、「責任」という言葉を使えるほどの勇気を与えたんだな、みたいに思って目頭熱くなっちゃった( ᐛ )
一方的に救って、救われての関係じゃない。一方的に助けて、それに助けられるだけの関係じゃない。勇者が無力な人を救うのでなく、か弱い人達が互いに影響し合って影響され合いながら、少しずつ成長していく関係が見えたような気がして、本当に素敵だった。そしてそこには強要はなくて。何を選ぶかはそれぞれに委ねられていて、誰かが何かを選んだなら、他の人はそれを支えようと皆が必死になって考える。誰かの選択を受け入れていく。
それは凄く、こう、多面的でしなやかな弾力があって、強く温かい関係性だなと思った。それを強く感じたイベストだったなと思った。めっちゃ好きです、このイベスト☺️
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瑞希ちゃんの家族について
リボンイベで、瑞希ちゃんのご家族についてはお姉さんとお母さんが登場して、そこで深掘りされたのはお姉さんについてのみだったかなと思う。瑞希ちゃんのお姉さんが海外に旅立ってしまうというタイミングで、ニーゴの子達と出会い共に音楽を作り上げていくサークルが今の形になるという感じで。それから、類くんの卒業に伴う類くんとの別れの描写と。
過去のあのタイミングで、瑞希ちゃんはまず「類くん」という学校の中での理解者を失っている。なんとなく「みんなと同じが良い」という価値観が付きやすい学校という場で、瑞希ちゃんと同じように「みんなと違う」という個性を保ち続けていた人との別れ。他の人と違っても「こういう自分でありたい」という願いを持つ人と、「こういうことがしたい」ということに誰もついてこなくとも貫いている人という違いはあるけれども。でも、「みんなと違うからこそ独りになる」という孤独の中にいるという共通点のある人という意味で、類くんは瑞希ちゃんにとっての学校の中でのたった一人の理解者だった。その人が、卒業というどうすることも出来ない形で離れていってしまった。
そして、その事をじわじわと実感していく最中、今度は「家族」というとても近しい間柄であり、かつ理解者であるお姉さんが海外に行ってしまうという形で失うことが確定していた。瑞希ちゃんがありたいと願う姿を明確に肯定的に捉えてくれてた人。そして、「こういうものが素敵だ」と感じる部分で、他の人と異なっていたせいでやはり孤独だった、孤独を共通点とする相手。
類くんにしても瑞希ちゃんのお姉さんにしても、共通点は「孤独」なんだろうな、と思う。特に「自分が一番大切に思うこと」が他の人と異なっていて、そこについて周囲からの理解が得られていないという意味での孤独。
ただ、たぶんだけどこういう書き方をすると恐らく「孤独は言い過ぎじゃない?」と思う人もいるんじゃないかなぁと思う。例えば、瑞希ちゃんと類くんは確かに卒業で離れてしまうことにはなったけど、死んでしまうなどして永遠に会えなくなった訳じゃない。瑞希ちゃんとお姉さんにしても、日本と海外という凄く離れた距離になると言うだけで、家族の縁が切れるわけじゃない。極端に言えば、連絡を取りあって話をすることは可能な状態なわけで。永遠の別離でもなく、互いに連絡を取り合うという労力を払えば話せるし、なんなら会いに行ける。だから、そういう意味では「孤独」は言い過ぎじゃない? という感じで。
それは確かにそうだなぁと思う。理解している人が地球上から消え失せてしまったわけじゃないし、それこそ今はいなくなったとしても、未来に目を向ければいつか同じように理解してくれる人に出会えるかもしれない。いや、理解してくれなくても「そういう人がいてもいいよね」と受け入れてくれる人が出来るかもしれない。未来に目を向けずとも、現時点で存在している類くんやお姉さんがいる。それは果たして孤独かな? と。
ただ、私はそれでも「孤独」であると思う。それは物理的な意味ではなく、精神的な意味で。いるじゃん理解者、で片付かない孤独感��やっぱりあるだろうな、と。
というのは、瑞希ちゃんの主義の問題でもあって。瑞希ちゃんは自分が「みんなと同じではない」という自覚があることが、瑞希ちゃんを孤独にさせていると思う。孤独にさせているというか、孤独感を感じざるを得ない状態になっている、みたいな。
そもそも、同じ人間なんて私はいないと思ってる。遺伝子が完全に一致する人は、一卵性双生児かクローンで生まれた生物しか今のところいないとされている。そしてその一卵性双生児にしても、遺伝子的には同じかもしれないけれど、経験してきた事が違う。同じリンゴを一卵性双生児が同時に見る時、二人の視点の位置は違う。一人はリンゴを少し斜め右前から見ていて、一人は少し左斜め前から見ているかもしれない。あるいは、位置は同じでも高さが違うかもしれないし、見るタイミングがズレているかもしれない。その経験は、厳密に言えば「同じ経験」ではない。2023年4月28日17:34にリンゴを右斜め前の高さ1.5メートルから見たという経験と、2023年4月28日17:47にリンゴを左斜め前の高さ1.54メートルから見たという経験は、同じじゃない。「リンゴを見た」という荒い括りの言葉では同じかもしれないけれど、もっと細かい括りをつけたら全然違う経験だ。似た経験ではあるけれど、同じじゃない、と思う。その経験を元に育つのであれば、やっぱり同じ人間にはなり得ないわけで。
それを踏まえて考えると、同じ人間なんていないと思う。私と同じ姿かたちをし、同じ経験をし、それに対しての感じ方が同じ、考え方のプロセスが同じ、そしてそれが全く同じ時間やタイミングで起こるなんて人は絶対にいない。だから、同じ人間なんていない。どこを探しても、どの時代に生まれようと、絶対に。
そしてそれは同時に、「私のことを完全に理解できる人」というものはいないということでもあって。感じ方が違うのだから、考え方が違うのだから、私が感じたことを感じたままに感じ、私が考えたことを考えたままに考えられる人はいない。せいぜいが似た経験を過去にしたり、あるいは想像力が高くて想像ができるが故に、私の感じ方、考え方に「近いところ」まで接近してくれる人くらいじゃないかな、いるのは。だから、本当に真の意味での理解者は誰にも、どこにもいない。
自分と目の前の人が「違う存在だ」と自覚するっていうことは、究極的にはこのことを自覚することだと私は思う。同じ人がいないと自覚することは、自分が世界でたった一人しか存在しないということを自覚すると同時に、自分が感じたことをそのまま理解してくれる人などいないということを自覚してしまうことだと思う。ぽつんと独りで私はこの世界に存在していると思い知ってしまう、という。
それって、凄まじい孤独じゃない? と思う。同時に、全員が全員そうである、孤独であるということを知るということでもあるけど。その事実の冷たさに触れてしまって、その冷たさが指に残っているような感じじゃないかな、と思う。凍りついちゃいそうなくらい、なんなら触れた指先が凍傷で壊死してしまうくらいの冷たさが。
何故孤独が冷たいかと言えば、そもそも人間自体が「一人で生きられる」ようには出来てないからかなと思う。歴史を遡っていけば、人類は大きな肉食の動物に捕食される立場の弱い動物だったとされてて。それ故に、生き残るためには群れでいなければならなかった。
そして、群れという意識を持つには、相手が「同種である」と認識できなければいけない。間違って肉食動物を同種と認識しちゃえば、その日の夕方にはその肉食動物のご飯になっちゃうし。じゃあ、どうやって同種を認識するかと言えば、「二本足で立っている���という共通点や、「コミュニケーションが取れる」とか、「顔の中で目と鼻と口の配置が似ている」とか、そういう「共通点」を見つけることで。そこから同種であると認識する必要がある。さらに、その共通点を持つ同種には自分たちの身を守るという共通目的がある。そこに向かって協力しあえるなら、仲間という認識にもなると思う。そして、仲間が増えれば自分達を襲う肉食動物を追い払えるかもしれないし、逆に狩りの獲物とできるかもしれない。だから私たちは共通点を探すし、探して見つけることで仲間意識を持てる。そして、仲間意識を持ち群れを作ることで「命を守る」ということが出来る。そういうのが社会性だと思う。
逆に言えば、それが出来なければ死ぬだけなのよね。たった一人ではライオンには立ち向かえない、殺されるだけ。独りになるということは死ぬということ。だから孤独であることに恐怖を覚える。それはすなわち「生きることが出来ない」ということだから。その恐怖があるから、独りを恐れるし、独りを冷たいと感じる。それを辛いと感じるから、共通点を探して、仲間を探す。そんな感じかなーと思う。つまり、孤独の冷たさは死の冷たさなんじゃないかな、と。
もちろん、現代では仲間がいなくても死なずに済むかもしれない。いわゆる社会保障とかのセーフティーネットがあるし、そこに引っかかればどうにか生きられる。ただ、そのセーフティーネットだって万全じゃないから、独りになったことで死ぬ人は現代にもいる。そういう意味で、独りはとても死に近い。だから死の冷たさがある。仲間と思ってもらえなきゃ、目の前の相手と共通点がなければ、私たちは死に触れることになる。
だからこそ、共通点ではなく「違い」を見つけてしまうと怖いんだと思う。そして、それを自覚してしまうことも怖い。違うということは仲間ではないということで、仲間ではないということは、その群れからは追い出される。自分達を捕食する敵か、あるいは自分たちの糧となる獲物か、どちらと認識されるかはわかんないけど。でも、どちらにしてもはじき出されればそれだけ死に近づいてしまう。
ま、ぶっちゃけここまで普段考えることは無いと思うけど( ᐛ ) ただ、たぶんまだ人間の本能というか機能には残ってるんじゃないかな。だから村を作るし、街を作るし、国を作る。私たちの群れを作る。意識はしないけど、でも無意識にそうするように出来てる。だから孤独になると漠然と不安になる。正体不明の不安に胸が潰れそうになる。正体不明だから掴めなくて、取り除くことも難しい。仮に正体を判明させたとしても、結局孤独は死に繋がるという現実にしか行き着かないし( ᐛ )
だから、他者と自分が違うとガッツリ認識してしまうと孤独を感じちゃう。このままだと死ぬぞというアラートとして孤独感を覚えちゃう。しかも、悲しいことに自分の「違い」を自分なり相手なりが認識してしまうと「群れの仲間では無い」判定がされておん出されてしまうから、その場では死なないまでもガッツリ嫌な思いはするわけで。それが孤独が自分にとって有害であるという認識を強化しちゃうだろうし。だからさらに孤独感を強く感じてしまうようになる。アラートの音量が上がってく。
そんな中で数少ない仲間ができて、安心が得られることは幸運なことだけど。それを失うというのは、そりゃもう怖いことなわけで。そばにいないということは、いざと言う時に協力できないということ。今ライオンが目の前にいるのに、仲間は海外です、なんてなんにもならないじゃない。海外からこっちに飛んでくる頃には私はライオンの胃袋の中よ( ᐛ )
だーいぶ話が遠くに行っちゃったところから本題に戻ってくると、つまり瑞希ちゃんはそういう冷たさを感じた経験があって、それでもどうにか仲間が出来たのに、でもそれを失った状態なわけで。そりゃ恐ろしいよな、と思う。絶望するよな、と。
いやいやお待ちなさいよ。類くんとお姉さんについて語って、元気に孤独と死とか、人類の進化の歴史やら本能やら社会性やら語っておりますけども。瑞希ちゃんにはお母さんもいるじゃない。お忘れですかゴリラさん。そもそもタイトルは瑞希ちゃんの家族についてでしょ。お姉さんだけじゃなく、お母さんの話もしなさいよ、という感じだと思���。はい。今します( ᐛ ) 本題はそこっす。
お母さんは、瑞希ちゃんが学校に行きたがらないことを受け入れている描写が出てきたし、心配してくれている感じの描写もあったと思う。だから、たとえ類くんとお姉さんがいなくなっても、まだお母さんがいるじゃない。だから、瑞希ちゃんは孤独にはなってないんじゃないかな、という意見もあると思う。お母さんも理解者であるならば、仲間じゃないかな、と。
ただ、個人的にまだそこはわかんないなぁ、と私は思ってて。お母さんは本当に瑞希ちゃんの理解者なのかな、という疑問がある。
リボンイベントで瑞希ちゃんのお母さんが登場したのは僅かで、かつ発した言葉も少なかった。瑞希ちゃんの行動(学校を休むこと)にとやかく言わなかったというくらいの描写しか無かったように思う。それだけで「理解者」と捉えていいのかな、みたいな。
ものすごーく悲観的に考えると、「理解できないから触れたくない」という行動に見えなくもないかな、と。理解できないから、共通点が見いだせないから、仲間だとは思えない。かと言って刺激して攻撃されても困るし。だから、そっとしとこう。そういう考えの元の行動じゃないと言い切るにはまだちょっと材料足りないな、と( ᐛ ) だから、現状としては「孤独かもしれないし、孤独じゃないかもしれない」というぼんやりした状態だなぁって。
また、仮に理解者だったとしても問題は残ってて。瑞希ちゃんの現在に立ち戻った時、仮にお母さんが理解者だったとして、でも現状の「瑞希ちゃんの群れ」はお母さんだけになっちゃうんだよね。一番受け入れて欲しい部分を受け入れて、その上でそばに居てくれて、群れの一員であるのはお母さんだけ(お父さんもかもだけど)ニーゴの子には打ち明けてないし、類くんとか杏ちゃんは理解者ではあっても、瑞希ちゃんが仲間意識を持っていない。理解者という認識はあっても、群れの中にいるという認識が持ててない。別の群れにいる人、みたいな感じで。
そうなると。瑞希ちゃんが安心していられる場所が、家しかない状態じゃない?と。 しかも、それは「親」という居場所で。それは確定で「失う」居場所なんだよね。なぜなら、親は通常、子よりも先に死ぬものだから。失う未来はずっと先なのかもだけど、でも失うことは確定していると思う。その確定で失う居場所以外に今の瑞希ちゃんに居場所は、所属する群れ、仲間はない状態なわけで。それって、だいぶ苦しいよなぁと思う。しかも、今まで瑞希ちゃんは、描写されている限りでは親、姉、類くんという仲間しかいなくて、そのうちふたつを失う経験をした訳で。残るもうひとつが無くならない、なんて心から信じ込める状況にあるかな?と。
私の現状の瑞希ちゃんの捉え方と、家族に関するアレコレはこんな感じ。考え過ぎてると思うけど( ᐛ ) ただ、出来れば瑞希ちゃんのお母さんやお父さんは理解者であって欲しいなぁと思う。温かく、時に厳しくも瑞希ちゃんを受け止めて、受け入れてくれて���人だったらいいなぁって。数少ない登場シーンながらも、優しそうでいい人そうだなって感じたそのままだったら嬉しい☺️
そんなことを考えてた( ᐛ )
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思い立って電子版で新聞をとりはじめた。一人暮らしを機にテレビを見なくなり、ニュースはYahooとかで見るようにしてたんだけど、どうにも私の見方が良くなくて、心が波立つゴシップばっか見てしまって疲れたのがたぶん一番の原因な気がする。
情報が欲しいのに、トップニュースだけ拾うとかサジェストされるニュースばっか見てたからだろう。あとは、Twitterでトレンドを眺めるとかそういう感じで情報に触れてたのも大きいのかな。ニュースのコメント欄や、トレンドに関する色んなツイートはかなり「感情的」で尖ってるのが多くて、なんか凄くぐったりするなぁと思うようになったのが最近だった。感情的な情報じゃなくて、もっと淡々としたニュースに触れたくなった。んで、できるだけ社会情勢のことに関するニュース。芸能とかそういうのはもういいやってなってた。
そんな時にふと、家に届いた市報を何の気なしに読んだ。いつもはパーッと表紙を眺めて終わってたのを、頭からおしりまでじっくり読んでみた。市の情報とか、求人、今後やる催し物とか今やってる空手教室とかそういうのばっかりなんだけど、なんかちょっと楽しかった。へー、こんなのやってるんだ。はー、こんな求人あるんだとか、そんな感じが新鮮だった。
それから、選挙に立候補した人の広報も一緒に届いてたから、こっちもじっくり読んでみた。実現可能なのかはともかく、どんな政策をやろうと志してるのかをざーっと見ていくと、何となく今何が注目度が高いかとか、その立候補者が所属してる党のなんとなくのカラーがぼんやり見えて、それも面白かった。ヤバい人もいたけど( ᐛ )
んで、ああ、なんかいいなコレって思った。もちろん世の中の全部が見えるようになった訳でもないし、わかんない言葉とか知らないワードというか、言葉としては知ってるけど具体的にどのように問題かまで��知らないことが書いてあるけど、それがなんか楽しい。別に市政も政治もそこまで興味はないんだけど、その興味ないことも意外と面白いなって思った。自分が興味を持ってない世界がそこにあるのが面白かった。
たぶん、Yahooニュースとかそういう検索エンジン系のニュースや、Twitterのトレンドって結局は「自分が興味を持っている事柄」に関してサジェストしてくれるから、そうじゃない事が新鮮に感じたんだろうな。テレビを見なくなって、情報をネットから仕入れようってなった時、記事を選ぶのは自分だから、どうしても「自分が興味を持っている事柄」を選んでたんだろうな。意識的にも無意識的にも。たまにそれは良くないと思って他のニュースにも触れようとするんだけど、でもたぶんそれもどこかで自分の興味の近くにあるものを選んじゃうんだろうな。だから似たような情報ばっかりになって、それをさらに詳しく知ろうとすると、それに詳しい人だったりそれに強い関心を持っている人の記事やツイートに触れる機会が多くなる。
そして、深みに行けば行くほど「それだけに関心がある」みたいな人や、それについての激しい意見なんかにも触れるようになってくる。そこまで行くとかなり「感情的」な部分が強い意見が多くなってきて、その感情に当てられて怒ったり悲しんだりし始めて、その出来事の実態もよく知らないのに感情だけ先行するようになって、それに大なり小なり振り回されて疲れてくるのかなーと。さらに、検索エンジンやTwitterなどのSNSは、その人の興味にあった情報をサジェストしてくれる。それによってさらに「興味」の分野に特化した情報にばっかり触れるようになっていくから、その流れからなかなか抜けられなくなる。
それにプラスして、検索エンジンやSNSは広告が散りばめられている。酷い時は記事の間とかにヌルッと入ってて、文章を読んでいる途中に挟まっててめちゃくちゃ読みづらくなったりする。気になったことを調べようと検索エンジンに単語を入れて検索して、それでたどり着いたサイトも広告まみれで文章が変なところで飛んでて読みにくい。それが地味にストレスだったんだなーと思う。先鋭化した意見の感情に振り回され、広告に振り回され、それで疲れたんじゃないかな、と。
そして、市報や立候補者の広報にはそれがなかったから、ただ情報が並んでるだけだったから、それが凄く新鮮に感じたんだろうなと思う。淡々と並んでる情報が、動く広告や途中に差し挟まる広告を見ることなくスルスル読める。しかも、自分が興味無いことにもたくさん触れられて、そうなんだ!って思える。それが楽しく感じた。
それで、それに一番触れられるのはなんだろうって考えたら、新聞のような気がしたんだな。ネットニュース見てても、新聞社の出している記事は思想の偏りはそれぞれの新聞社にあれど、それでも極端に先鋭化はしてないなとぼんやり感じてた。なんていうんだろう、文章のプロが書いた文章だな、みたいな。もちろん、深く読み込めばかなり偏ってたり、尖ってたりするものもあるんだけど、少なくとも「感情的」な部分が凄く少ないなと感じた。少なくとも、ゴシップ紙系のニュース記事とか、Twitterに流れている個人の文章と比較したら格段に感情が薄くて淡々としてた。情報の偏りはあっても、過度な感情論はほとんど無かった。だから、新聞なら感情に振り回されたりしなくて済みそうだなと。しかも、情報のサジェストは無くて、全 広くいろんな記事に触れられるかもって。��済や政治や社会、文化、科学などなど幅広く。
そんなこんなを考えて、ノリと勢いで電子版の新聞をひとつサブスクリプションしてみた。実家が取ってたということで、日経新聞。かなり経済に重きを置いた新聞なんじゃないかなーと思うけど、なんとなく、だからこそそこまで思想の左右は無さそうだなという偏見も込みで🤣
それが土曜日のお昼頃で、そこから土曜日の夕刊〜今日の夕刊まで全部の記事に目を通してた。ぶっちゃけ政治や経済や科学その他の専門用語も知らないし、背景知識もさっぱりないから( ᐛ )?って顔してるけど、それが楽しい。なんかよくわかんないけど、そんなこと起きてるんだとか、世界ではこんな取り組みがあるんだとか、それに触れるのが面白い。色んな世界があるんだなってわかるのが楽しい(*´艸`)
もちろん、検索エンジンのニュースサイトが悪いとか、Twitterが悪いとか、サジェスト機能が悪いとかそういうんじゃない。そういうものだと知っていながら、それにズルズルっと引き摺られてた自分とか、自分が見たいものばかり選んでた自分が問題なんだよね。ようは、素敵なテクノロジーなのに、そのテクノロジー���ちゃんと使えてないこと、使いこなせる能力が自分にない、あるいは育ってないことに気づけなかったり、あるいは気づいてても自分を律せなかった私の問題。便利だから、楽だからと頼ってたらなんかそれに振り回されてただけなんだよね、私🤣 だから、テクノロジーが悪いわけじゃない。使いこなす為の訓練や勉強が私に足らなかっただけ。
どれだけ新聞購読の習慣を続けられるかは分からない。私は飽き性だし🤣 でも、続けられたらいいなーと思う。続けて、読み続けていくうちに知識を得て、今はわかんないこともわかるようになっていって、その先でテクノロジーと仲良くしたい。今はテクノロジーくんの方が出来が良くて、私がスットコドッコイだから振り回されてるけど、もう少し知識がついて、わからないことがわかるようになってきたら、今ほど振り回されずにテクノロジーと仲良くできる気がする。それに、意見も極端に尖らずにいられるかもしれない。そうなったらいいなぁ☺️
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プロセカのニーゴのキーストーリーのひとつである、「そしていま、リボンを結んで」について、Twitterで色々な意見が飛び交ってたんだけども。私が見た限りだと、多くの人は「絵名ちゃんは奏ちゃんに見つけてもらって救われたのに、瑞希ちゃんに変わってしまった」という感想を抱いてたのかな、と思う。つまり、出会いの順序が変わってしまっているじゃないか、という部分。
感想に関しては、人が抱く感想はそれぞれだから正解とか不正解はないと私は思う。過去��改変していると多くの人に感じさせてしまうストーリー運びだったのかもしれないし、読み手が思い込んじゃってたのかもしれない。それは正直、私程度では判断できないことだろうし( ᐛ )
ちなみに私は、リボンイベに関して抱いた感想は「なるほどそういう形で出会ったのね」というもので、つまりはストーリーに疑問をそんなに抱かなかったんだけど( ᐛ ) じゃあなんで疑問に思わなかったのかと言えば、以前ふせったーで語ったことを纏めると「奏ちゃんが見つけてくれた、という絵名ちゃんの言葉の真意は、きっと『この人に認めて欲しい』と絵名ちゃんが思っている相手が自分を評価してくれたこと、というものなんだな」と思ったから。一番認めて欲しかったお父さんから認めて貰えなくて、それが心の傷になってた絵名ちゃんが、お父さんからの否定を経て初めて『認めて欲しいと思った相手』から認められたと感じたのが奏ちゃんからのオファーで、それを指して「見つけてくれた」だったんだな、という。
ただ、確かに「見つけてくれた」というワードに対してそこまでの深い意味を考えるのは、ある意味深読みのしすぎじゃない? と言われればそれはそうだなと思う。見つけてくれた、という言葉の一般的な意味はシンプルに「お、そこに居た」と発見するというものだと思う。その深読みをしてもらいたいなら、もう少し丁寧な描写が必要だったんじゃないと言われればそれはそうかな、とも思う。
じゃあなんで私はそれをスルッと飲み込めたのかなと考えると、たぶん奏ちゃんのキャラクターを考えたらこの展開が一番自然で説得力があるな、と感じたからなんだろうなと思う。
奏ちゃんは、曲を作ることに全てをかけている子で。言ってしまえば「そこに全力を注いでいて、他のことに意識が向いてない」子だなと私は思っていて。それの裏付けとなるのが、リボンイベよりも以前のイベントでの、「曲を作ることに必死になるが故に健康面が疎かになって倒れる」という描写だと思う。んで、それ以外にももうひとつ、奏ちゃんのそういう面を示す描写があって。それは「まふゆちゃんが奏ちゃんの曲と出会った時のサムネイルの描写」だと思う。確か、その時のサムネイルの描写は「真っ暗な画面」だったと思う。真っ暗な画面のまま曲だけが流れる動画、という描写。
たぶん、私はこの描写が頭にあったから、絵名ちゃんと奏ちゃんの出会いがあの形になったことに納得感があったんだな、と。
過去時点での奏ちゃんは「曲」のことしか頭になかった。だからひたすら作り続けてた。それをどのように広めるか、つまり、多くの人に届けるにはどうしたらいいか、という視点はなかったように思う。届け届けと願いながらも、その手法について考えるよりも大切なのは、とにかく曲を作ること、それ以外の時間は「食事や睡眠の時間」と同様に無駄だとすら思ってた可能性があるよな、と。
そんな奏ちゃんが、「自分の曲のイメージに合うイラストはあるかな」と探すかな? という疑問があったんだと思う。曲を作る時間を削ってまで、それをやるだろうか、と。んで、私はやらない気がする、と思ってたんだろうな。
曲を作ること以外に奏ちゃんの意識が向いたのは、たぶんだけど「まふゆちゃんの編曲と出会ったこと」のように思う。自分の動画のコメント欄に送られてきたまふゆちゃんの編曲のリンクを開いて、その編曲を聞いて、自分の届けたかった音にさらに深みを与えてくれるものがあるということに、あの時初めて気づいたんじゃないかな、と。逆に言えば、あの時まふゆちゃんがコメント欄にリンクを貼るという行動をしなければ、奏ちゃんはきっとまふゆちゃんと出会ってないし、どうすれば自分の曲をよりたくさんの人に聞いて���らえるか、何をしたらたくさんの人に届けられるか、という発想に至るのはもっと後だったように思う。
だから、奏ちゃんとまふゆちゃんの出会いは、まふゆちゃんからの行動がきっかけで、奏ちゃん自身は曲を作って公開するという今までのスタンスを崩してない。スタンスを変えない中でまふゆちゃんと出会ったのであれば、じゃあもっと広める方法を探そう、とは思わないような気がする。そうじゃなくて、きっと自分がしてきたことが出会いに繋がったと考える。つまり、もっと曲を作り続ければ、もしかしたらまふゆちゃんのような人に出会えるかもと考えて、さらに曲作りに没頭するんじゃないかな、と。
だから、奏ちゃんが自分からサムネイルイラストを探す、という展開はあんまりしっくり来ないなと思ってて。しかも、奏ちゃんは動画サイトに曲をアップしてるわけで。ということは、メインで使うのは動画サイトだし、そこでサジェストされるのも動画。でも、絵名ちゃんが絵をアップするのはピクシェアで、絵がメインのサイト。全く別のサイトにそれぞれ作品を上げているのだから、少なくとも動画サイトをメインに見ている奏ちゃんに「偶然にも」絵名ちゃんのイラストがサジェストされることはないと思う。
その交わらなさを繋いだのが、瑞希ちゃんの「動画作成」と考えると、物凄くしっくり来たんだろうな、と。同じ芸術というジャンルながら、「音楽」と「絵」という異なる表現を突き詰めている二人は、海の上に二つ浮かぶ島のように離れている。その離れた島の橋渡しになったのが、「音楽と絵を融合させる動画」なのかな、と。要は、瑞希ちゃんの役回りは絵名ちゃんの存在を奏ちゃんの島に知らせるメッセンジャーだったんだな、と私は思ったんだろうな。
そうして、絵名ちゃんのイラストと奏ちゃんの曲を組み合わせて、かつその二つをより印象的に伝える動画を作って、奏ちゃんのいる動画サイトにアップしたことで、絵名ちゃんの絵が奏ちゃんのところにサジェストされる可能性を作った。サジェストされないまでも、動画サイト内を検索すれば絵名ちゃんの絵がヒットするような状態にした。そういう流れで奏ちゃんと絵名ちゃんが出会ったのだとしたら、それはとてもドラマティックで、かつ説得力があるなって私は思ったんだろうな。
まあ、たぶん私の考えすぎの部分もだいぶでかいんだけど🤣 でも、仮にそうだと考えると、絵名ちゃんがあれだけ奏ちゃんに心酔するのもわかる。だって、音楽と絵というお互いに離れた島にいる相手だもの。それなのに出会えたのはとても感激する出来事だし、しかも向こうから声かけられたのなんて奇跡だと感じるだろうし。だからこそ絵名ちゃんは奏ちゃんからのオファーを二つ返事で受けたんだろうなと思う。
それから、絵名ちゃんが瑞希ちゃんを気にかける理由にもなってるよなと思う。絵名ちゃんにとっては音楽という島に自分の絵を届ける橋渡しをしてくれたのが瑞希ちゃんなわけだし。乱暴に言うと、一番の目的である、自分が焦がれた相手(奏ちゃん)と出会うということの、きっかけを作ってくれたわけだから。
絵名ちゃんから奏ちゃんに向けられる感情が敬愛や心酔で、瑞希ちゃんへ向けられる感情が親愛や親しみなのはここの差なのかなと思う。奇跡的に出会った相手と、偶然出会った相手。だから対応も違うし、言動も違う。そもそも絵名ちゃんから向けられた気持ちが違うのだから、こういう違いも出てくるんだろうな、と。そんなふうに思ったから、スッと飲み込めたんだろうなと思った。
もちろんこれは「私の感じ方」であって、これが皆の正解になる訳じゃないと思う。あくまで私がそう考えたら納得するなっていう話。だから、そうじゃない��ろって思う人もたくさんいると思う。私と似たような意見の人は、もしかしたら少ないのかもしれない。
だからまあ、「そんなふうに考えるやついるんだー。私には理解できねぇわー」という緩さで適当に読み飛ばして欲しいし、似たような考えの人がいたら、なんか私達似てますね💕︎って思ってくれたら嬉しい( ᐛ )
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何かに対して何かを言うとき、その言葉をそんなに気軽に使っていいの? と感じる言葉を選ぶ人がいると思う。もちろん、私も誰かにそう思われているのだろうけど、私から見て「その言葉が日常会話に出てくるのはよほどの時だけじゃない?」という言葉が結構ある。
例えば誰かを指して「カス」とか「ゴミ」という言葉を使う場合。「カス」にせよ「ゴミ」にせよ、その言葉が本来意味するのは「取るに足らない塵芥」だったり、「不要になって廃棄するもの」であり、人に向けて使うにはものすごく尖った、攻撃的な言葉だと思う。言ってしまえば「貴方は取るに足らない、誰の目にも留まらないような存在ですよ」とか「貴方はこの世に不要な存在ですよ」と言うことと等しいと思う。
そんな言葉を日常会話でポンポン使うのは、私は目の前にいる相手や、同じ世の中を生きている相手を尊重しない人間ですよ、と自分を宣伝しているに等しいと思ってしまう。日常会話だけじゃなく、怒ったりしている時であってもそうそう口にしてはいけないような、それくらい酷い言葉だなと思う。
同じように「金蔓」という言葉も酷い言葉だと思う。最近だと「ATM」も同じく酷い言葉だなと思う。それって要は「貴方のことはお金を私に寄越すだけの、人格も感情も思想もない存在だと思っています」ということと同じだと思う。だから、「貴方は私にとっての金蔓やATMです」と言うのはあまりにも相手を尊重していないと思う。
他の国がどうかはわからないけれど、少なくとも日本には「謙遜」という文化があって、誰かに自分が評価された時にそれを誇ることは尊大だと思われてしまうから、あえて自分を低く評価する、みたいなことがある。例えば「貴方はとても足が速いですね」と言われたら、「いえいえ、そんなことは無いですよ。大したことないですよ」と言うみたいな。そういう文化の一環で、自分を指して例えばカスやゴミと言ったり、金蔓やATMと表現することがある。
個人的には仮に謙遜の一環だとしても、その言葉を自分に向けるのはあまりに自分に優しくない、自分を尊重してないと思うから好きじゃないけど。でも、まだ自分に向けるなら、私は日本人なので「まあ……謙遜なのかな」と思う。本来は違うけど、謙遜して言ってるのかな、と。
でも、自分以外の���かにその言葉を向けるのは、やっぱりちょっと違うというか、それはダメだろと思ってしまう。相手の人格を、存在をあまりにもぞんざいに扱っていると思う。万が一、自分以外の誰かに対してその言葉を使うことがあるとすれば、それは余程酷いことをされた時や、自分の存在をあまりにも粗雑に扱われた時だけじゃないかな、と思う。
なんでそう思うかと言えば、相手を非難するにせよ自分を謙遜という形で卑下するにせよ、もっとニュアンスが軽くて優しい言葉があるから。例えば「カス」や「ゴミ」よりも軽いニュアンスで優しい言葉を考えると、「困った人」とか「しょうもない人」というものがあると思う。他にもあるだろうけど、私がぱっと思いつくのはその言葉かな、と。それから「金蔓」や「ATM」よりも軽いニュアンスの言葉なら、「援助してくれる人」や「支援者」でいい。もし企業に対して使うなら「客」や「消費者」でもいい。
そういう言葉があるのに、あえて強烈で尖ってて攻撃的な言葉を使うのは、乱暴だし傲慢じゃないかな、と思う。
じゃあ、どうしてそんな刺々しい言葉を気軽に使うようになってしまうのかな、と考えると、たぶん「その言葉の意味」や「その言葉のニュアンスの強弱」を知らないからなんじゃないかな、と思う。そして、何故意味もニュアンスの強弱も知らないのに気軽に使うのかと言えば、たぶんだけど「その人の周りにいる人たちも、あまりその言葉を理解しないまま気軽に使っている」からじゃないかな、と思う。
例えば、細長くて先端が少し膨らんでて楕円形になっている棒があったとして。私の周りの人達はその棒を誰かを叩くのに使っているとする。それを見ている私は、その棒は人を叩く為の道具なんだな、と思うだろう。しかも、その光景が毎日どこでも見掛けるような状況なら、その棒で人を叩くことは「当たり前のこと」であり「大事では無い」と思うだろう。だから私もその棒を人を叩くために使うし、毎日のようにそれで人を叩くだろうと思う。
でも、その棒は実は「ゴルフクラブ」だったとしたら、本来の用途はゴルフをすることだ。だから、ゴルフを知っている人がその光景を見たら、「この人たちは一体何をしてるんだ?」と戸惑うと思う。確かにゾンビ映画やゲームでは、あるいは強盗が家に押し入った時には、やむなくゴルフクラブを武器代わりにして戦うこともあるだろう。本来の使い方では無いけれど、人を、何かを叩くのに使える道具ではあるから。でも、それはあくまで緊急時であって日常的なものではないわけで。
言葉も同じだと思う。言葉の正しい使い方を、正しい意味やニュアンスを知らなくて、かつ周りの人も同じように知らなければ、適切な用途やタイミングで使えなくなる。もちろん、言葉は時代によって意味や用途が変化していくという性質があると思うから、絶対的に正しい意味というものは実は無いのかもしれないけど。でも、「同じ時代を生きている人達」の間での共通認識という観点での「正しい意味」はあると思う。そこを意識しないと、社会の中で生きていく時に自分も相手も困るんじゃないかな、と思う。
そういうのを教えるのが教育で、そういうことを学ぶことが勉強で、そういうことを指すのが知識という言葉なのかな、と思う。そして、それを上手く使えることが知恵なのかな、と。
だから、できるだけそういうところを意識して生活したいなと思うし、同時に常に自分も学ぼうとしたり、伝えようとしたり、覚えていかなければいけないんだろうなと思った( ᐛ ) 35歳、まだまだ学ぶことが山ほどあるな( ᐛ )
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今日は父がエリック・クラプトンのライブに行っている。出かける時から、会場着いたり、中に入ったりする度にLINEが来ててなんか和む☺️
私が幼稚園児の時に父は車を持ってて、毎回では無いけど日曜日には車で山の方に行ったり大きな公園に連れてってくれたんだけど、その車の中でかかっていたのはビートルズやサイモン&ガーファンクル、ローリング・ストーンズなどなどで、その中にエリック・クラプトンの曲もたくさんあった。当時はCDなんて無いから、カセットテープで、父がラジオやレコードから取り入れたやつだったな。
だから、昔から父がエリック・クラプトンが好きなことは知ってて、昔のライブ映像のビデオを見てたり、今はYouTubeとかに上がっているライブ映像なりを見てるのも知ってた。そのせいで私は私の同級生と音楽の趣味がズレてしまった部分もあるんだけど🤣まあそれはいいとして。
そんな中、2019年に高校時代の音楽好きの親友が、エリック・クラプトンのライブのチケットを取って、私に行かないかって誘ってくれたんだよね。それで、父ほどではないにせよ影響受けてるからそれなりに好きだと思ってた私は、行く!って二つ返事で一緒に行ったんだけど。
ライブは本当に最高に楽しかった。素晴らしい音楽を聞けたし、客層��良くて心から楽しかったんだけど。同時に、「父の方が私よりも見たかった、聴きたかっただろうな」とぼんやりと思ったんだよね。基本的に私はひとつの物事に対する熱量が低いタイプ(あれも好きこれも好き、広く浅く緩く楽しむタイプ)だから、私が幼稚園児の頃から未だに好きでい続けてる、それこそ私が生まれる前から好きでい続けてる父の方がライブ行きたかっただろうなーと。
でも、2019年の時点でエリック・クラプトンもなかなか高齢で、もう日本には来れなくなるかもしれない、来れたとしても父が行ける状態かわかんないな、と思ってちょっとしんみりしたんだよね。私よりも行きたい人がいるんだよな、みたいな。
んで、ぼんやりと「もしもう一度来日してくれて、その時に父が元気なら、行くように焚き付けちゃお」とか思ってて。行きなよ、せっかく日本に来てるんだよって言おうって思ってた。
まあ、それが四年くらい前のことなので当然のごとくそう思ったことは今まで忘れてたんだけど( ᐛ ) 私の記憶力はそんなに当てにならない( ᐛ )
それを急に思��出したのは、どういうわけかYouTubeでバーチャルライバーの配信アーカイブ見てたら、広告でエリック・クラプトンのライブがあるって流れたからなのよね。私、ゲーム系のアーカイブとか動画ばっか見てるのに。まあ、YouTubeの年齢設定80代にしてるから、そのせいなんだろうけど。でも、洋楽系の動画はほぼ見てないのに。
そして、その広告見たのがたまたま父の誕生日の数日前で、しかもまだ申し込みができるときてる。しかも、ライブは四月開催で父の誕生月にドンピシャ。色々偶然だけど、あまりにもナイスタイミングだった。その場で申し込んだら、平日ど真ん中&公演までひと月もなかったからか、抽選もなくチケット取れちゃうし。
なんてーか、世の中って不思議なタイミングがあるもんだなぁと思った。偶然なんだけど、たまたまなんだけど4年越しの伏線回収みたいでちょっとテンション上がった(*´艸`)
チケットは流石に高かったけど、誕生日プレゼントだよって渡したら父が飛び上がって喜んでくれたし、その日からずーっと上機嫌だしでなんか可愛いし、いいお金の使い方だったかなと思う。少なくとも、ソシャゲに課金したもののグロ画像みたいなガチャ結果になった時よりはいい消費な気がする🤣(いいガチャ結果ならいいんだけど、酷いガチャ結果だと流石に……ね)
今頃きっと、父は初めて生でエリック・クラプトンの演奏や歌を聴いてるんだろな。楽しんでるかな。楽しんでたらいいな。ステージからは遠い席っぽかったけど、それでも楽しめたらいいな(*´艸`)
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Twitterでちょろっとアレソレしてた、◯◯概念が上手く自分の中で飲み込めてないとか、巨大感情という言葉がしっくり来なくて使えないとかいう話、よくよく考えると面白いなと思う。この飲み込めない、しっくり来ない感がいわゆる「ディスコミュニケーション」の原因のような気がしてきた。
そもそも言葉というものは、ある意味自分以外の人間の存在がいるからこそ生まれたんじゃないかなと思ってて。自分が感じていること、見たもの、聞いた音、感じた味、手触りなどなどの事柄について、自分以外の誰かに伝えることが主目的なのかなと思う。社会の中で生きるために他の存在との意思疎通が必要で、それに使われているのが言葉、みたいな。
人間以外の動物にも意思疎通の手段はあるけど、それは鳴き声の高さや低さ、大きさや小ささだったり、全身の毛を逆立てることだったり、���羽を広げることだったりする。それでシンプルな怒り、悲しみ、喜び、悲しみを表しているというか。いや、そういう感情よりももっと前段階の快・不快の表現という見方も出来るかもしれない。
ほかの動物が言葉ではなくそういうもので意思疎通を測っているのは、それで事足りるからなんだろうな。そのシンプルな表現で困らないから、その快・不快の表現の段階で留まっているというか。それより先の表現を必要としなかったから、それで済んでいるのかもしれない。
でも、群れで生きる系の動物だったりするともう少し表現が複雑になったりすることもあって。それは「他の個体」との関わりが多いからこそ複雑になっていくのかもしれないな🤔
んで、人間という動物は、他の動物では類を見ないほどに巨大な群れで生きている動物だよな、と思う。古くは村の単位だったけど、今や世界中も一種の群れと捉えられるから、そうなるとハチャメチャにデカい群れで生きていて。だからこそほかの個体と関わる機会も他の動物と比べられないくらい多くなる。そうなってくると意思の疎通にはもっと複雑な表現が必要になってきて、それが言葉なのかもしれないな、と思う。
そうだと仮定すると、言葉というのはその背後に「他の個体との意思疎通」という目的があるから、言葉のひとつひとつの意味が群れ全体である程度共有されて、共通の意味を持っていないといけないわけで。共有され、共通の意味を理解した上で使うから言葉での意思疎通が可能になってくるのかな、と思う。
で、例えば別の国に行くと使っている言語が違ったりするけど、それはその土地独自の発展を遂げて、それが共有されたからなんだろうな。ヨーロッパとかは使っている文字が似てたり、発音や綴りが似ているのは、土地が地続きだから混じり合いやすく、故に似た言語になったんだろうな。別の言語ではあるけれど、ニュアンス的には方言に近いのかもしれない。地続きと言っても高い山とかで隔てられてたりする場合は、混じり合うことが困難だから混じり合わず、独自に発展してったのかもな🤔
その土地に住む同種と意思疎通をしながら群れで生活していくために言葉が発展していき、そして土地同士の交流がなければ独自路線になるし、土地同士の交流(あるいは衝突)が起きることで、相手のを取り入れたり、あるいは拒絶したりすることで混ざりあって発展して、そうして今に至るのかな。
でも、言葉の目的は「意思疎通」だから、その群れに属する人達にはある程度の共通認識が必要で。逆にその共通認識が持てなければ、その群れの中でやっていけないわけで。そうやって群れから外された個体も結構いるんだろうなと思う。同じ言葉を使うことで仲間だと認識して、一体感を得る的な。
だからこそ、自分が使っている言葉の意味と異なる意味が出てくると「ん?」ってなって座りが悪くなったり、微妙に気持ちが悪くなるのかもしれないな。同じ言葉を使うということは、同じ言葉を使うという「身内」を作ることでもあって、だから違う言葉を使うと身内ではなく「部外者」という認識になる。だから、うまく意味が取れないとなんとなく疎外感を覚えるのかもしれないな🤔
だから、誰かを阻害したいなら相手の理解できない言葉を使えば割と簡単に阻害できちゃう、みたいな事はありそうだな。逆に、仲間に引き入れたいと思うなら、相手にもわかる言葉で伝えて知ってもらうということになる。
となると、もし誰かと仲良くしたいなら、相手にわかる話し方をすればいいし、仲良くしたくないなら相手が理解できない話し方をすればいい、ということになりそう。仲間内で盛り上がるなら、仲間内でしか通じない言葉で盛り上がればいいし、外部の人も入れて盛り上がるなら、その外部の人と共通の言葉なりで盛り上がればいい。
こう考えると、言葉って本当に面白いな(*´艸`)
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先日母と話してて、何が困難な問題にぶち当たったりした時に、その困難を乗り越えられるのはぶち当たった人だけだよね、みたいな話になった。ぶち当たった人が乗り越えるもので、それが出来るかどうかは本人に掛かってるよね、という。
誰かの手助けが無意味とかそういう意味ではなくて、助けを借りたり支えてもらったりすることはあっても、周囲の人ができるのはあくまで乗り越えるための手助けであって、「乗り越えさせる」ことは出来ないよね、というようなアレソレ。
たとえば自転車に乗れない人が自転車に乗れるようになるには、本人が「自転車に乗れるようになりたい」と前向きにでも後ろ向きにでも思うことと、乗れるようになるまで練習しないとどうにもなんないわけで。周りがいくら自転車に乗れるようになる本や資料を集めてきたり、自転車に乗る動画を見せたり、はたまた自転車に乗せて後ろから押したりしても、本人が自分の足で漕いだり、ハンドルを操作したりしないと「その人が乗れるようになる」ことはないわけで。
もし仮に形ばかり支えがあって乗れてるように見えたとしても、その支えを失ったら倒れてしまうなら乗れるようになったとは言えない。というか、そういう状況になった場合はどちらかというと、その人が自転車に乗れるようになったと言うよりは、サポートした人のサポート能力が上がった、としか言えないよなと思う。つまり、自転車に乗ってた人の力ではなくて、自転車を支えてた人の能力の問題というか。
だから、何かしらの問題やトラブルにぶち当たった時にそれを乗り越えるには、そのトラブルの当事者が「乗り越えたい」と思って、そのために色んなトライを繰り返していった先で初めて実現するものなんじゃないかなと思う。もちろん、乗り越えられないことだってあるだろうけど、でも乗り越えようと思って行動しなければどの道乗り越えることはできないんだろうなと思う。やり過ごすことくらいは出来るかもだけど、それは自転車に乗らないように立ち回ることと同じで、自転車を乗れるようになってるわけではないし。
これって実は凄く残酷な話で、ようは動かなければ何も変わらないってことなんだろなと思う。出来ないことを嘆いたり、乗り越えられないことに不満を言っても、どうにもならない。出来ないことが出来るようになるわけじゃないし、乗り越えられなかったことが乗り越えられるようになるわけじゃない。ただただ、出来ない、乗り越えられないという現実が続くだけ。誰かがやってくれたとしても、それは誰かの功績や成果であり、自分の功績や成果ではない。それってめちゃくちゃ残酷な話だなと思う。
もちろん、問題やトラブルに対して嘆いたり悲しんだりしちゃダメという話ではない。やっぱりトラブルに見舞われれば苦しいし辛いし、なんで自分がこんな目に遭うんだと嘆きたくなるのは当然で。周囲を見渡してみても、自分が今直面しているトラブルに、自分と同じように今ぶつかっていない人がいると「なんで自分だけこんな目に遭うんだ」とも思うだろうなと思う。アイツは笑ってるのに、どうして自分はこんな苦しまなきゃならないんだときっと思う。それはとても自然な事だと思う。
そういうトラブルや、あるいは逆の幸福って、全員に平等に来るわけじゃなかったりするし。トラブルに全く遭わずに人生を送れる人はいないだろうとは思うけど、そんなに大きくないトラブルで済む人もきっといると思う。逆に「なんか悪いことしました?」って聞きたくなるくらい、デカいトラブルばかりに見舞われる運の悪い人もいる。その逆でめちゃくちゃ幸運に恵まれる人もいる。その辺って実は不平等で不公平だったりするよな、と思う。
でも、その不公平や不平等を嘆いても、その不公平や不平等はいなくなってくれないわけで。ずっと傍でデンと居座ってしまったりするわけで。それはもう本当にどうしようもないんだろうなと思う。運と巡り合わせが悪かったとしか言いようがない。
世の中とか人生ってそういう残酷さがあると思う。どうしようもなく不公平で不平等で、運の善し悪し、巡り合わせでなんかそんな感じの環境や状況になってしまう。もちろん、自分で引き寄せちゃったり遠ざけている場合もあるけど、全部が全部では無いと思う。誰も悪くないのにそうなることってあると思う。
そういう不幸な巡り合わせになってしまった時に、そういう巡り合わせになってない人を羨んだり妬んだりしちゃうのは仕方ない。だってやっぱ不幸に見舞われてる時に幸運な人を見ると「なんで私だけ😭」って思うもの。
でも、羨んで妬んでぐぬぬって思い続けても、目の前の状況って変わらない。時間が経てばやり過ごせることもあるかもしれないけど、本当にやり過ごせるかもわからないケースも多いと思う。そうなると、やり過ごせないのにやり過ごそうとして、永遠にやり過ごせないまま苦しみ続けなきゃいけなくなるかもしれない。それはだいぶしんどい。
だから、しんどいけど、きついけど、でもどうにか苦しさから逃れたいなら、乗り越えたいなら足掻くしかないんだろうなと思う。もちろん、足掻く力すら無いほど消耗してる時にまで立ち向かえとは思わないけど。でも、それならせめて「手を貸して」と声を上げる必要はあるのかな、と思う。そうやって声を上げることも「行動する」ってことだと思うし。
そんなことをぼんやり考えてた( ᐛ )
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ちらりと見た意見で、「いわゆるカスハラに関するニュースに対して烈火のごとく怒っているのに、ソーシャルゲームに対してはカスハラと大差ないことしてるのはなんでなんだろう」というのがあって、なんかすごくしっくり来た。と同時に、やっぱり多くの人は「自分だけは大丈夫」と思うものなんだなということも思った。
Twitterとか掲示板とかコメント欄とかで結構「ダブルスタンダード」「ダブスタ」って言葉が使われているところをよく見るんだけど、そう言いながらも自分もダブルスタンダード、二枚舌やってるって結構あるあるだよなと思う。それが上に書いた「カスハラに怒るのに自分はカスハラに類することを平気でやっている」という意見とも共通するのかな、と。
岡目八目という言葉が適切かなと思うのだけど。囲碁において、実際に対局している二人よりも観戦者の方が盤面が見えている(実際に打ってる人よりも観戦している人の方が八目先が見えている)という言葉だけど、本当にそうだなと思う。あと、確かチャップリンだったかな? が言ってた「本人にとっての悲劇は観客にとっての喜劇」とか。
何かが起きた時の当事者になると、その当事者にしか体験できない状況なり感情なりがあるものだと思うけど、同時に当事者であるが故に盲目になるということはままあるよなと思う。それは、目の前に差し迫った事態があって、直ちにそれに対処しなければならない状況だと精神的にも肉体的にも知らぬうちに余裕が失われて、反射的に行動しちゃうよなと思う。
たとえば目の前にナイフを振りかぶった人が立っていたとしたら、たぶん多くの人は咄嗟に手で顔を防御しようとしたり、しゃがみこんで頭を抱えてうずくまったりして防御姿勢をとると思う。目の前に明確な危機が迫っているのだから、反射的に被害を少なくしようとする心理が働くのは当たり前だし、それが自然だと思う。
でも、それを少し離れたところから見ている人は、当事者でない(危害を及ぼされていない)がゆえに少し心に余裕があるわけで。だから、たとえばそのナイフを振りかぶった人の後ろに穴が空いているから、体当たりすればナイフの人は穴に落ちて無力化するな、とわかったり、あるいはナイフの人の後ろにムキムキマッチョメンがいて、まさに今ナイフの人を取り抑えようとしているから怖がらなくてもいいとわかったりすると思う。でも、当事者には目の前のナイフの人しか余裕が無いから見えないわけで。
となると、傍目で見ている人は怯えて縮み上がっている当事者を滑稽だと思ったり、愚かだと思ったりするかもしれない。だって逃れられる可能性があるのに、あるいはもう既に逃れられているのに怯えているわけだから、それは滑稽に見えても不思議じゃない。
それくらい、傍から見ている人、ようは当事者ではなく第三者は引いた視線で物事を見れたりするわけで。立ち位置的にも状況的にも俯瞰的な位置に属することが出来ると思う。だからこそ、たとえばカスハラのニュースに対して「カスハラする人は最低だ」と冷静に、あるいは嘲りを込めて笑ったりできるんだろうな、と。
でも、当事者になった時はもう周りが見えなくて、相手(企業であったり運営であったり)に対して強烈な怒りなり悲しみを覚えているし、それが自分の中に満たされているから余裕が無いしで、物凄く攻撃的なことを言ってしまったり、乱暴な振る舞いをしてしまうんだろうなと思う。第三者なら切迫してない、余裕があるから多少冷静に見れていたけど、当事者になるとそれは出来なくなる���だろうな、と。
これが、ナイフを持った人が襲いかかっているという、文字通り命の危機の状況のときなら、それは仕方ないと思う。だ���て死ぬかもしれない状況で冷静になれなんてベリーハード過ぎるし。でも、たとえば企業なり運営なりに対して怒りや悲しみを覚えるということに関しては、ぶっちゃけ命の危機でもないのだから、そんなカーッとなってそのまま行動するのは悪手じゃないかなと思う。
もちろん、企業側、運営側が不適切なことをしたと感じたなら、それに対して怒りや悲しみを覚えるのは別にいいというか、当然の反応だと思う。どうしてって思うのも当たり前で自然な事だと思う。そう思うことが、その不適切な行為に対して「それはダメだ」と声を上げる原動力になると思うし。
問題は、不適切だと思ったことが実はそうでは無かった場合や、不適切だったことは事実でも、それに対して取った行動の方がより不適切になってしまった場合で。不適切ではなかった場合は「事実に基づかない誹謗中傷」になってしまうし、不適切だったけど自分の方がより不適切なことをしてしまった場合は「どの口が言うのだ」という評価にしかならないよね、と思う。
個人的に昨今のネット上での炎上の大半は、この2種類に当てはまるんじゃないかなと思う。誤解したまま燃え上がらせてしまったり、誤解ではないんだけどやり方が犯罪に触れる行為だったりするから。でも、どちらのケースにしても炎上に参加した人の心持ちとしては「自分は間違っていない。間違っているのは相手の方」という感じで、自分がおかしいかもしれないという意識を持ってる人はあんまりいないんじゃないかな、と思う。
だからこそ、「カスハラに怒りながらカスハラと大差ないことをしている」という状況が生まれるのかなと思う。当の本人は大真面目でも、傍目から見ている人にとってはチャップリンの喜劇にしか見えない、みたいな。本人には悲劇なのに、周りで見ている人にとっては笑える喜劇になっちゃう、みたいな。
実際、私自身も大真面目に悪戦苦闘してたのに、周りの人は大笑い、みたいなことたくさんあるし、気づいてないだけで今やってる事とかもそういう状況になってるものもあるんだろな。自分は二枚舌なんかしてないと思っているけど、二枚舌どころか三枚、四枚、十枚舌みたいな事になってたりもしそう。イヤン。自分のことってあんまりよく見えないからなかなか気づけないし、さらにイヤン(/ω\*)
どうしたら二枚舌やチャップリンにならずに済むかと言えば、全部は無理でも要所要所で一旦落ち着いて、深呼吸しながら自分の行いを振り返って検証するのがいいのかな、と思う。あの行動は本当に最善だった? 他にやり方はなかった? やり方が無かったと思う根拠は根拠になってるか? などなど、そういう観点で自分を振り返るしかないのかな。
あるいは、ちょいとお待ちよ、と声を掛けてくれた人がいたりしたら、その人の発言を聞いて一旦足を止めて考えてみるとか、そういうのが大事なのかな、とか思った。なかなか難しいけど、できるだけやって行きたいな(*´ω`*)
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プロセカのニーゴについて、まふゆちゃんを救うのは奏ちゃんであって欲しい。他の人に救われないで欲しいという人がちょこちょこ居るのを見かけるんだけど、個人的には「そうなって欲しくないな」と思っている自分がいたりする。まふゆちゃんが救われることに奏ちゃんが大きく関わるのはありうるし、それはとても素敵だなと思うんだけど、奏ちゃんの手だけで救われてしまう、みたいな展開になって欲しくないなぁ、と。
なんでそんなこと考えるのかっていえば、そういう形になってしまうと「まふゆちゃんのお母さんと奏ちゃん、何が違うの?」って私が思ってしまうからだろうなと思う。まふゆちゃんの意志をほとんど見ずにまふゆちゃんの将来を決めていく、自分の考える「理想の生き方」をまふゆちゃんにさせようとしているまふゆちゃんのお母さんと、もし奏ちゃんが極端な言い方をすれば「自分の手で救われて欲しい」と願うようになってしまうなら、それってどう違うの? と。
まふゆちゃんがそれを望んでいるかどうかという観点なら、確かに違いはあるかもしれない。まふゆちゃんのお母さんが望むこととまふゆちゃん自身が望んでいることは、現状の描写だと違っているわけで。んで、奏ちゃんに救われることは、と言うよりも、今の苦しさから救われることは、まふゆちゃんも恐らく望んでいることではありそうだし。そういう意味では、違っているのかもしれない。
でも、その違いって凄く些細じゃないかな、と思ったりもする。もっとざっくりした言い方をすれば「自分以外の人の力で望みを叶える」という部分は共通してない?みたいな。
自分の望みが叶うかどうか、自分の苦しみが解消できるかどうかが他人の手に握られているって、私はとても怖いことだと思う。それは大袈裟に表現すれば「自分の人生が他者に握られている」ということと同じだと思う。自分が何をしようが、何をしまいが関係なく、他の人の力で右にも左にも動いてしまう、白にも黒にもなってしまう。そういう状況は「支配される」という言葉が当てはまるんじゃないかな、と。
もし仮にそれが「支配」だとして、それの何が恐ろしいかと言えば、自分の人生が他者の都合でいいようにされてしまうことや、自分の意志が反映されなくなることだけじゃなく、もうひとつ、より怖いものがあって。それは「支配されないと生きて行けなくなること」だと思う。
たとえば、今日着るものや食べるもの、何を勉強して何を勉強しないか、誰と遊ぶか、何時に眠るか。そういったことを全て(ないしはほとんどを)誰かに指示されるような生活をするとして。その生活がたとえば10年間続いたとして。その指示をする人、ようは支配をしていた人がいなくなったら、その時その支配されていた人は自分の意志で動けるようになるだろうか、と考えると、私は「きっと出来ない」と思う。
支配される、指示される、その通りに動くということは、思考しないということとかなり近いと思う。だって考えたところで支配者の意志と反していれば無視されてしまうわけで。そうなると考え損になる。一生懸命頭を使って考えることは体力や気力のいることだと私は思うんだけど、支配を受けているとその体力や気力は無駄になる。だって、必死で考えて出した結果でも、支配者の考えと違えば「その思考は捨てろ」と言われるわけなんだし。
そんな事が10年間も続いたら、いやもっと短くても継続的に続いてしまえば、私だったら「どうせ無駄なんだから考え��くてもいっか」と思う。考えることをやめて、言われるがままにしていれば体力も気力も無駄にならないどころか節約できるじゃん、みたいな。そう考えても、無意識にそう思っても不思議じゃない。
そうして考える習慣が失われてしまうと、考える能力っていうのはどんどん弱っていくと思う。一週間ベッドに寝たきりの生活をしたら人は歩けなくなると思うんだけど、思考力もそれと同じで「使わなければ退化する」ものだと思う。そして、その退化した機能を取り戻そうとすると、かなりの苦労をしなきゃいけなくなる。歩けなくなった人であれば、リハビリをしてようやく歩けるようになるわけだし。
それを踏まえて考えると、支配者を排除して、その支配を受けていた人に「これからは自由に考えて行動していいんですよ」と言ったって、その場で直ぐにできるようになるわけないと思う。だって、10年かけて退化してしまった機能を今からフル稼働させるなんて無理だし。
だから、支配から脱したとしても、支配されていた人が「自分の意志で考えて決める、行動する」ということが出来るようになるにはリハビリが必要で。逆にリハビリがなければ出来るようにはならないわけで。
そのリハビリは、とても根気のいる作業だし、そのリハビリに寄り添うことも凄く根気と労力のいることだと思う。寝たきりの例で考えるなら、まず真っ直ぐに立つだけで息が上がって汗だくになるだろうし、それを支える人だって倒れたりしないか、無理をして筋肉を傷めたりしないかと神経を張りながら見て、支えなきゃいけない。力の入らない人を支える筋力だって必要。それは今日言って明日できるようになるものでもないと思う。
そうなると、言い方は悪いけどめちゃくちゃ面倒なわけで。だったら車椅子に座って後ろから押してもらいたいと思うかもしれない。車椅子に座ってもらって後ろから押した方が早いと思うかもしれない。でも、それをやってたらいつまでも「自分の足で歩く」ということは出来ないままになるわけで。
それは思考するということも同じで。誰かに正解を教えてもらった方が楽だし、手っ取り早い。そして支配されてきた経験があるからこそ、そのことは身をもって知っているわけで。となると、こんなことなら支配されていた方がマシだったと思うかもしれない。あるいは支える側が面倒くさくなって、だったら支配しちゃおうと思うかもしれない。支配の怖いところはそこじゃないかなと思う。
もちろん、それでも支え続けられる人もいるだろうし、自分の力で考えられるようになる人だってきっといる。でもそれはとても稀有なケースだろうと思うし、少なくとも鼻歌交じりにできるようなことでは無いと思う。
そう考えると、「奏ちゃんだけで救う」ということは、それだけ奏ちゃんにかかる負荷が大きいということでもあるわけで。その負荷は、言ってしまえば「もうひとつの人生を同時に生きる」ということと同じくらいだと思う。そんなのベリーハードすぎる。それだと奏ちゃんは「自分の人生を投げ打ってまふゆちゃんの人生をより良いものにしようとする」か、あるいは「まふゆちゃんを支配して自分の人生を生きる」という選択肢しか選べなくなるんじゃないかなと思う。つまり、奏ちゃんかまふゆちゃんの人生のどちらかを犠牲にするしかないんじゃないかな、と。
点だけ見れば「まふゆちゃんは救われた」になるかもしれない。でも、その救われた時点で人生が終わる訳じゃなくて、その後も人生は続いていく。その続いていく人生のことまで考えると、一人で救う、他の人を関わらせない、ということはあまりにも危うくないかな、と思ってしまうわけで。
だからこそ、「奏ちゃんが一人で救う」形ではなくて、他の人に協力をしてもらったり、あるいはまふゆちゃん自身が自分の足で立とう、自分で歩こうとしていく中で���周りに支えられながら、自分で自分を救う」という形になった方が、まふゆちゃん本人を含めて周囲もハッピーになれるんじゃないかな、と思う。
あと、他の人が関わることが大事だと思うのは、万が一奏ちゃんに何か起きた時に、まふゆちゃんまで共倒れになる可能性を下げることが出来るという部分もあると思う。貴方だけしかいないの、貴方だけいればいいのという関係性は混じり気なくて美しいと思うけど、同時に危ういのは「万が一の時に共倒れになる」からだと思う。
まふゆちゃんのお母さんに対して私が思うのは「自分が死んだあとのこと、自分がいなくなった後にまふゆちゃんがどうなるか、この人考えてないな」って事だったりするんだけど。それと同じで、たった一人での救いは、その救い主がいなくなったら残された人はどうしたらいいの? という問題にぶち当たると思う。自分がいる間は相手は幸福かもしれない。でも、居なくなったあとは? そこを考えないのは、愛としては足りないと個人的に思う。
今の苦しみから解放されること、そして、未来に似たような苦しみに囚われてしまった時に、かつて自分を助けてくれた人の力がなくとも別の人に助けて貰ったり、あるいは自分の力で抜け出せるようにすること。それが、本当の意味での「救い」なんじゃないかなと思う。今と、そして未来も守る、救う。それが愛ではないかなと。
だから、まふゆちゃんの救いを考えると、奏ちゃんだけでなく、瑞希ちゃんや絵名ちゃん、それから雫ちゃんやえむちゃん、それ以外にもたくさんの人がまふゆちゃんと関わって欲しいし、それを力にまふゆちゃんに自分の力で立ち向かって欲しい。そうして「自分で自分を救って欲しい」と思う。全部一人の力でやる必要はないけど、自分の力を発揮するポイントがあって欲しいし、奏ちゃんにべったり寄りかかった状態での救いにならなければいいな、と思う。その先の未来でも乗り越えられるように。
これはプロセカというストーリーの中での話だけど、でも現実の人間に対してもそう思う。というか、現実に起きうることがプロセカ内で描かれているからこそ、そう思うんだろなぁと思う。あれだけ生々しく現実の問題を描いているからこそ、解決策もそういう形になって欲しいなというアレソレ。
まあ、それはそれとして、かなまふのえっちなお話なり、深い関係のお話なりは丼いっぱい欲しいけどね( ᐛ ) かなまふだけじゃなく、他のカップリングのお話も山盛りいっぱい欲しい( ᐛ )
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ブレイブリーデフォルト2の2週目をやっているのだけど、ヴィジヌのあの極まった厨二病感と、やたらとエマに執着する様がとてもこう……マズイ感じのオタク感があってヒエェってなっていた。
なんとなくだけど、ヴィジヌは人とのコミュニケートが上手じゃなくて、それがコンプレックスになってたんじゃな��ろかとぼんやり思う。キャラクター的にはフォリィと共通する部分多そうだなぁと。
周囲と上手くやっていけないのは、周りが自分を理解してくれないから(ゆえに自分は悪くない)。自分を周囲が理解できないのは、周囲の人が愚かだから、みたいな。そういうメンタリティが二人にはありそうだなと。
ただ、フォリィとヴィジヌが違うのは、フォリィは勝てないと感じる相手がいなかったのに対して、ヴィジヌはエマという勝てない相手がいた。だからヴィジヌはちょっとフォリィと違ったキャラクターになったのかなとぼんやり思う。
勝てない、エマより劣っているという自覚が無意識下にあって、それを認めると自分が惨めになってしまう(魔術では誰にも負けないという自負が、周囲に受け入れられない自分の支えになっているから、エマに勝てないと認めてしまえば、唯一の拠り所を失ってしまう的な)
何かが誰よりも優っていることが、周囲を愚かだと見下すための支柱だから、それが折れれば自分が保てないから、だからエマに執着する。でもエマは全然相手にしないし、それどころかある点では自分よりもヴィジヌのほうが優れていると認められる度量すら持ってて。それってものすごくヴィジヌにとってはキツいことなのかもなーと思った。
だから、死んでしまったエマと、死ぬ事が無くなった自分を比べて自分の方が優れていると言いまくる。でも、自分の無意識下でエマに勝てていないと感じているから、やたらと「私はエマに勝った。私はエマより優れている」と色んな人に言って回ってるのかなと。それに対して誰かにうんと言って欲しい。肯定して欲しい。なぜなら自分では肯定できないから(無意識に負けを認めているから)
だからこそウィズワルドを滅ぼそうとしたのかなと思う。たぶん、不死者になったところでこの根っこを認められないなら、ヴィジヌは永遠にエマに囚われたまま、拭えない劣等感を消すことも出来ないまま世界をさまようことになるしかなかったんじゃないかなぁ、と。
ブレイブリーデフォルト2、結構こう……人間のうへぁって思うところをガッツリ描写している感じがして胃にズシンと来るんだけど、そこが面白いなぁと思う。ヴィジヌのあの気持ち悪さとか、フォリィの気持ち悪さ、行ききった人間の成れの果てって感じがして、人間性としてはどっちも唾棄すべき奴だと思うけど、敵役としては素晴らしいなと思う。好きだ(人としては嫌いだけど( ᐛ ))
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Twitterでちょろっと呟いてたけど、何かについてオススメしてたり、逆にやめた方がいいと諌めてたりする文章で使われている言葉が大袈裟だと、なんか引いちゃうのなんでかなとちょっと考えてみた。
たぶん、理由はいくつかある、かな?
まずひとつは「大袈裟な言葉はそれだけ感情的な側面が強く感じられる」というところかなと思う。嬉しいとか楽しいとかのポジティブな感情でも、悲しいとか腹立たしいとかのネガティブな感情でも、あまりに強過ぎると怖くて引いちゃうんだろな、と思う。
じゃあ、なんで強い感情が怖く感じるのかなと考えると、たぶん、強過ぎる感情は行動や言動の制御を難しくしたり、制御不能にさせてしまうこ��があると思っているからかな、と思う。犬とかにあるいわゆる嬉ションとか、楽しくなって周りが見えなくなって危ない場所に走って行っちゃうとか、怒りや不安を覚えたから強く噛んでしまうとか、そういうのって人間にもあると思う。たぶん、それが怖い。
感情が強すぎると行動言動の制御が緩んでしまったり、そもそも制御不能になるから、そばに居ると何をされるかわからないって考えちゃうんだろうな。もちろんそれが楽しかったり嬉しかったりする事だったらいいのだけど、そういう制御不能になったが故の行動や言動は、理性が飛んでる状態、ブレーキが壊れた状態だから手加減がないって感じだと思う。
普段だったらポンって軽く叩く程度に加減できてることが、僧帽筋や上腕二頭筋、上腕三頭筋、前腕の筋肉などの筋という筋を張り詰めさせた状態でボゴォって叩いちゃうような感じというか。火事場の馬鹿力的な感じで、思ってもみないパワーが出ちゃうことがあると思う。言葉も、普段なら「これはちょっと表現としてシャープ過ぎるな、誰かを傷つけるかもしれないな」と自制してるような強い言葉を特に考えもなくパーンと放ってしまうことだってあると思う。
それが怖いんだろうな。だって、強い感情を抱くことって自然なことで、そこには悪意とかそういうものはないと思う。許せないって感じる心と害を与えようと考えることって、実は別のものだと思うし(感情を理由に害をなそうと考えることはありうるけど、感情それ自体が害をなそうとすることはたぶんないというか、そこまでの機能は感情には無いと思う的な。どちらかというと、不快な感覚などに対する防御的な、本能とか反射の部類だと思う)
つまり、自然な行為であるにもかかわらず、害になることがあるってことで。当の本人の意志と無関係に、反射的に周囲に害が及んでしまうわけで。その害を受けたくないって感じてるんだろうな。だから、そうなりそうなものを避けようとしちゃうっていう。
また、大袈裟な言葉に対する忌避感のもうひとつの理由は、「人間は慣れる生き物だから、大袈裟な言葉を使い続けると、それが大袈裟な言葉だと忘れてしまって、普通の表現だと思うようになる」というものかなと思う。自分の中では大袈裟ではないけど、周囲にとっては大袈裟に感じるという、自分と他者との感じ方の乖離が深まることが怖いんだろうな、と。
自分と他者との感じ方の違いっていうのは常にあるもので、それ自体は別に普通のこと、自然な事だと思う。私にとっては美味しいものでも、他の誰かにとっては美味しいと感じないことがあるように、何かの言葉や行動に対して、大袈裟だと思ったり、逆に大したことないと感じるのは自然な事だと思う。それ自体は別にいいんだけど。
問題なのは、その差異があまりにも沢山だったり大きくなってくると「相手との意思疎通が困難になる」という部分で。
人間は一人で生きているわけじゃなくて、周りにいる別の人間達と一緒に生きている社会的な生き物だと思う。だから、一人で、自分の力だけで生きていくというのは不可能では無いのかもしれないけど、非常に困難なことだと思う。誰かの助けがあって生きられているし、自分も気付かぬうちに誰かを助けてたりする。そういうものかなと思う。
それが上手く回るのは、多少の考え方、感じ方の差異があっても、ある程度受け入れられる部分がある時だと思う。よくわかんないけど、でもまあそういう人がいてもいいかな、と緩く受け止められるからこそ一緒にいられるというか。
でも、その差異があまりにも大きかったり、またはあまりにも多かったりすると凄く疲れてしまったり、傷ついてしまったりするわけで。そうなると人はそういう疲れたり傷つくことが嫌でその人を遠ざけようとしてしまうと思う。だって、誰だって疲れたり傷ついたりするのは楽しいもんじゃないわけだし。
だから、大袈裟な言葉や行動を日常化させてしまって、それが当たり前だと思うようになってしまうと、周囲にいる「そうではない人」にとっては困る相手になってくるわけで。困る相手だからできるだけ関わりたくないと思う、遠ざける、出来れば排除したいと願ったりしてしまう。そうすると、自分の周りからは人が居なくなっていくわけで。
んで、人間は社会的な生き物だから、周りに人がいないと生きていくのが困難になってくる。困ることが増えていくし、どうにかその困難を乗り越えられるのだとしても、周りに人がいる時よりもたくさんのパワーが必要になってくるんじゃないかなと思う。それが、怖いんだろうな、みたいな。
なんだかんだ、人間って自分の都合で色々判断するものだと思うから、自分にとって心地よいと感じる人といたがるし、不快になる人や害になる人とは一緒にいたくないと思うと思う。それを「薄情だ」と責めることは出来ないと個人的には思う。だって、自分だってそうしているわけだから、人に対してどうこう言えないし( ᐛ )
そういうのを複合して、あまり極端に大袈裟に表現することや、それを頻繁に使うことに対して忌避感抱いちゃってるんだろうな、自分は。
結構ネットで見かける主張や言説って過激な言葉を使われていることが多い(つまり大袈裟な表現が多い)から、それに対して毎回怖く感じてしまう事に疲れるんだろうな、と思う。怖いという感情も、ある種のネガティブな感情だし。そんで、その怖さに対して自分なりの説明ができない時が一番しんどくて、解消したり自分の中で落とし所が見つけられないのが居心地悪くてアハァンってなってるのかなと思った。
こうして自分なりに自分の忌避感を整理してみると、なんか面白いな(*´艸`) これが万人にとっての正解って話では無いけど、少なくとも自分の中では納得のいく理由のような気がする(*´ω`*)
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