kotsurender
コツだら
13 posts
音MAD
Don't wanna be here? Send us removal request.
kotsurender · 11 months ago
Text
Tumblr media
2023年パンまつり手抜き抗議文
0 notes
kotsurender · 2 years ago
Text
宗教勧誘についていった話
高校生時代、私は目立った生徒ではなかった。
部活は文系のものを友人と一緒に入るも二人して幽霊部員となりほとんど帰宅部だった。
友好関係はその友人含め5人ほどの典型的なオタクグループに属しその青春を陰気臭く過ごした。
幸いなことに私のクラスの雰囲気は全体的に友好的で、目に見えたスクールカーストみたいなものもなく安寧な3年間だった。
そんな高校生活も卒業し、親元を離れた大学へ進学することとなった。
高校では中くらいの成績だった学業に見合う大学、というなんの計画性もない流れるままの進学だった。
人生初の一人暮らし。そこでなにか変わることもなく流れるままの大学生活が始まった。
そして当たり前のように孤立した。
大学では友人も作れず常に一人だった。
当時便所飯なんて言葉が流行っていたがあれはまだ見栄を張るくらいのコミュ力を持ったやつが知り合いに一人で飯食っていると知られたくないという話だが、私の場合はお昼の時間は誰一人からも認識されなくなる時間だった。食堂はもちろん購買にもいかず飯は食べない。ただ誰も通らない非常階段に居座って次の講義の時間を待つだけ。孤独な時間だった。
家に帰ると速攻で大学生協で買わされたボッタクリ価格の低スペノートPCを立ち上げる。実家にはインターネットはなかった。私は成人手前になってインターネットの沼にハマっていたのだ。
そんな生活も一ヶ月がたったころの講義終わりの帰り時間、入学時の新歓サークル熱はどこへやら、人もまばらなキャンパス内でそそくさとインターネットの待つアパートに向かって立ち去る私に突如声をかけてきた男がいた。
男は先輩でスポーツをやっていそうな健康的な身体と清潔な見た目服装、そして私に対して友好的に話しかけてきた。少しのさりげない日常会話の後、突然なんだけど、と枕詞を付けて一枚の紙を手渡し私にある問いを投げかけてきた。
「なんのために人間は生きていると思いますか?」
紙は「人はなぜ生きるのか」と大きく書かれた座談会のお知らせだった。
このときの心情をよく覚えていない。断ることができず流されるようにはいと答えたようにも思うし、一方でインターネットに染まった私はとある宗教を馬鹿にしていて面白半分で飛び込んだ気もする。
大学から近くもなく遠くもない小さな弁当屋の二階にある事務所で座談会は行われた。そこにいたのは勧誘してきた男の仲間と、私のような灰色の新入生と思われる参加者だった。
弁護士をやっているというスーツの男が、集まった学生たちに講義を行った。
まだこのときには全体像を掴めていないが結論を言うとカルト的な部類に属する宗教ではなかったと思う。
この宗教は教科書で習った親鸞聖人の真宗の教えだった。
「皆さんが想像している”幸せ”というものは即物的なものだったりある日突然もろく崩れ去ってしまうものです。そんな絶望的とも呼べる人生を生きていくのは陸のない海を泳いでいるようなもの。人生はある目的があって生きるのです。それがこの教え。すなわち信ずればたすかる」
この座談会は定期的に行われていた。はっきり言って最初の一回目以降参加しなくなればなんてことのない話で終わっていたと思う。だが私は座談会に頻繁に通うようになった。
なぜなら座談会後には夕食がタダでついてくるからだ。
会を重ねるごとに参加していた新入生の数は減っていった。そしていよいよ本当にヤバいやつしか残らなくなっていった。彼らと私との違いは、私は心の奥底で馬鹿にして話を聞いていたことだ。私はこの時嘘をつくのがうまくなっていったような気がする。表面上では先輩たちに関心があるように装って、家に帰ってから頭がパーンする動画をみて笑っていた。一方で嘘をついていると自覚しながらも座談会を介して先輩たちと会話できる場所というものを手放せなかったという側面も否めない。座談会は唯一孤独から開放される場所でもあった。
そんな油断もあってか先輩に家まで送ってもらうことがあって今考えればこれは一番の失敗だったかもしれない。
そんな日々が続いたが、大学一年の夏季休暇、この時実家に戻ったため座談会からは離れた。
高校卒業から半年、あれだけ毎日つるんだ友人たちとも連絡をとらず無益な休みを取った。
休みも明け大学へ戻ってから幾日も立たないある日、ついぞ連絡を取らなかった友人から電話が来た。
クラスメートでかつてのオタクグループの友人が亡くなったという話だった。
狐につままれたようなまるで現実味のないふわふわした感情の中急いで地元に戻ることとなった。
彼はキリスト教の家系らしく教会で葬儀が行われた。まるで身になっていないスーツ姿で半年ぶりに再開する同級生たち、皆悲しいというよりか呆気にとられた印象だった。彼と同じ大学へ進学した友人の話では、元々体が悪く大学へ入学後すぐに体調が悪化して結局大学へほとんど行くことは出来なかったらしい。確かに彼はものすごく体が細く健康的な体つきではなかった。高校では微塵もそんな素振りは見せなかった。彼との思い出を思い浮かべると悲しくやりきれない気持ちだった。
日常に戻った時、相変わらず座談会に参加したものの彼の死をきっかけにして自分の気持ちに嘘をつくのが嫌になってきた。そんなある日大きな座談会へ誘われることになった。
いつものメンバーに数人加わり小型のバスに乗って県外の”施設”に着いた。私は慣れないスーツをまた着て大勢の集団のいる座布団が並べられた会場に正座をしてお偉い方の説法を聞き親鸞聖人のアニメを見て最後はお経の大合唱をした。
そして会場を去る際にお布施として5000円を受付に渡して会は終わった。
この日を境に座談会へ行くことを辞めた。色々心情の変化があったが、結局金払わなきゃいけないということが決め手となった。
最悪なことに急に来なくなった私を迎えに先輩が家に来るようになった。居留守で対処していたものの来る日も来る日も訪ねられるので、帰宅する際は部屋に入らずアパートの自室が見える人気のない道路に身を隠し、先輩が訪ねてきて去るのを確認してから帰宅するというまるでストーカーのような日々でこれを乗り切った。
何日かたったある日先輩がポストに一通の手紙を残していった。道を違えることになるのは非常に悲しいことですみたいな内容だったと記憶している。その日以来先輩が来ることはなくなった。
再び孤独に戻った秋、大学の掲示板を見るとキャンパスで宗教勧誘の事例があったということで注意喚起の張り紙がしてあった。それ��ら一年以上たった頃、たまたまあの弁当屋の前を通りかかると弁当屋自体が無くなっているのに気がついた。あの座談会に参加していた学生たちの行方は私には知りようがない。
結局のところ大学デビューという入り口から間違えた私のつまらない人生の汚点の一つなわけであるが、今でも私は信じている。インターネットを。
0 notes
kotsurender · 2 years ago
Photo
Tumblr media
2022年パンまつりCM抗議文
0 notes
kotsurender · 3 years ago
Photo
Tumblr media
2021年パンまつり抗議文
0 notes
kotsurender · 4 years ago
Text
貸した金が返ってこない話
これから述べることは自分のバカらしいお人好しさを晒すものなので恥ずかしいのだが、記録に残して置きたいと思う。 2015年年末、 Aととある仕事場で知り合う。年は40近く、やけに馴れ馴れしい人だった。そこで連絡先を交換。 2016年年始以降、仕事では会わなくなる。その後ちょくちょく連絡する仲に。 この時点で聞いたAの情報 親から引き継いだ会社が倒産。再出発中。 既婚。子供は高校生の長女がいる。その下にもいるらしい。 2016年3月頃、 遊びの誘いがあり食事を奢ってもらう。 同年4月頃、 Aから連絡が。出張先で財布の盗難にあって困っているのでお金を貸してほしいという。 私はここで5万送ってしまう。 後日、直接彼と会って話す。財布の中身は使い切られ、なんとクレジットカードと暗証番号メモまで手を付けられたとのこと。あまりのアホさに色々察せられるが、追加で5万貸してしまう。 さらに後日、なんと娘が不良と金銭トラブルを起こしてしまったと相談される。さらに10万を貸すことに。 その翌日、お礼の言葉と20万円の借用書を持ってくる。 数日後、借用書通り全額返済された。 数ヶ月後、 返済以来に会って話す。このところ体調不良が続きなんと自身が癌であることが発覚。ステージ2であることを告白。またこれまでの金銭トラブルにより奥さんと離婚が決まったという。私は年上に人生相談した。 その後私は仕事の関係で引っ越し、Aと会わなくなる。 2016年10月、 LINEでお金貸してほしいと連絡が入る。特に事情も話してくれないので断る。 2017年7月、 LINEで一言だけ生存報告。 2018年1月、 LINEで新年の挨拶。薬漬けであると言っていた。 しばらく連絡が途絶える。 2020年3月、 久しぶりの連絡。一年前に心臓の手術、現在は生活保護を受けていて、数日前に唯一の家族だった父親が他界したとのこと。なんとその父親がスナックにて大量のツケを残していることが発覚。 毎月5万ずつ返済するので50万貸してほしいと頼まれる。 本当に返済できるか信用ならないので問いただすと、父親の生命保険が100万円入ってくる見込みがあり、また自身は土木関係の仕事に就く予定があるという。 正直話を信じたところで彼の現状と計画の適当さを考えると返済できる可能性は低いと感じた。 自分が失ってもギリ許せる15万を貸す。それでなんとかやってもらうよう話す。 同年4月6日、 借金の取り立てに悩んでいると電話で話す。法テラスに相談したがどうにもならないらしい。私に相談してももう一銭も貸す気はないし、状況を整理して然るべき相手に相談しろ、死にたいとまで悩むならいのちの電話に相談しろと言っておいた。電話したらしい。 4月17日、 LINEにて連絡。15万の返済日について。6月15日に一括で返済するとのこと。 6月15日、 期限を伸ばしてほしいとの連絡。 7月15日、 電話にて連絡、来月返済できるとのこと。 8月17日、 明日返済すると連絡。 翌日、 体調が悪く家にいると連絡がくる。病院行けと返事。 そしてまた連絡が途絶える。 2021年5月21日、 突如LINEで連絡が来る。以下全文 「○○くん、お元気ですか?Aです。急死に一生とはこのようなもので、色々な方の助けを受けながら、昨日退院しました。 末期のガンではありますが、このように一日でも長く生還出来ていることが大変嬉しいです。ずっとご連絡出来なくて本当に申し訳ありませんでした。 25日の火曜日にまとまったお金を持って司法書士さんや保護をしてくれた民生委員の方が参ります。その後に○○くんに対して返済をしたいと思います。」 正直彼と関係を切りたい私は内容を見たうえで未読スルーした。 その後連絡はなし。 5月28日、 だんだんイライラしてきて黙っているのも癪になり説教返信をする。 まずきちんと順序立てて経緯を話せ。 今のお前がどう借金返済すんだよ。 もう15万はどうでもいいわ。 既読が付くも依然と連絡なし。 というのがAとの経緯のすべて。 振り返るとこんなのに金を貸す自分のバカさ加減に笑いもでない。 しかしAの人物像を実際に会った私の目線で見るとただ騙して金をパクったやつでもない気がする。 最初の20万円は、わざわざ借用書作って実際に返済している。私を泳がせたとも考えられる。しかしそんな頭が回るような感じはしなかった。この行為は金をパクろうとしてお金を貸してほしいと頼んだわけではないのでは?金を借りなければならない理由には存分に嘘が含まれているとは思う。ただ返そうという意思はあって、その意思だけしかなく計画性がない。 Aは単に頭が足りない。 すべてが嘘とは限らず、本当のことも混じっているかもしれない。 こう考えてしまうのは、私がただ騙され続けただけという事実から目を背けたいということなのだが。 ふとAの本名(漢字はわからないのでひらがな)で��グってみた。 同姓同名のフェイスブックが1件、あとは似た名前がヒットした。よく見るとサジェストが出ている。 Aの漢字フルネームと出身地らしい場所。 それを検索してみる。 数件のヒット。 出身地のローカル掲示板、人探し掲示板、地方のニュース。 掲示板には2016年3月の書き込み 「Aを探しています。借金返済せずに困っています。」 年齢や身体的特徴も書いてあって私の知るAの人物と一致している。 同じ時期の別の書き込み 「Aってしってるか?そろそろ出てくる頃だろ。」 その書き込みは詐欺報告の掲示板だった。 長い間放置されたまとめサイトらしき所には2009年の地方ニュースが転載されていた。 「架空の補助金の話で300万円を騙し取った男が逮捕されました。逮捕されたのは△△(出身地)のA容疑者。建築工事会社に勤めていたA容疑者は他にも20人あまりから騙し取っていたと供述し被害額は8000万円にのぼるとみられています。」
点と点がつながった。私はアホだった。 真実かはわからない。もう関わりたくないので連絡手段は断った。 以上が15万円を支払って、なんとも不思議な体験談を貰った話。
0 notes
kotsurender · 4 years ago
Photo
Tumblr media
2020年パンまつり抗議文
0 notes
kotsurender · 4 years ago
Text
Youtubeに投稿した音MADがものすごく不評になった話
この間ニコニコ(複垢)とYoutubeで全く同じ動画を投稿しました。 ニコニコではいつものように数千再生・二桁マイリスの大半の音MADと同じ評価でした。 一方Youtubeでは私のYoutube動画内ではありえない伸び方で数日で数千再生され、そしてたくさんの低評価がつくこととなりました。
そこでYoutubeのシステムならではの音MAD失敗例として分析をしたいと思います。
���はついこの間からYoutubeにアカウントを新設してニコニコに投稿した動画を補完することをしています。 主には過去にTmboxに投稿した183音声に簡易な動画をつけて再投稿することです。 つまり私にとってはYoutubeはあまり人には見られたくないしょうもない動画を投稿する場としています。
ニコニコとYoutubeの違いは多くありますが、私が感じたのは視聴者が能動的に動画を探す場であるかどうかでした。
ニコニコでは動画検索がまず第一にあると思います。タグ機能がその大きな役割で音MADタグで検索すれば最新の音MADは網羅できます。 そこにはニコニコができた当初からタグ機能による動画検索に力を入れていたことで、何の動画を投稿するにもタグありきだったことが大きく起因します。
一方でYoutubeでは検索機能が弱いです。 一応検索機能は使えないわけではないのですが、Youtube側で勝手に提示された関連度の高い動画が真っ先に出てきたり、そもそもキーワードをタグなどに含ませることをしない投稿者も多いと思われます。 検索機能が弱い代わりにYoutubeでは投稿者が全面に出ることをサービス開始当初から押していて、どの動画でもチャンネル登録してねと言われるくらい再生数を稼ぐために投稿者を知ってもらう必要があります。 またYoutubeホーム画面では動画の視聴履歴からおすすめ動画を自動で(勝手に)表示する使用となっていてそもそも検索機能を使わない人も多いはずです。
つまりYoutubeは視聴者が受動的に動画を見るサービスであり、反対にニコニコは能動的に動画を探す必要があるということです。
話を戻し、私が投稿した動画というのは、テレビ番組「相席食堂」のスギちゃんを素材にした音MADです。 この音MADは少しひねくれていて、素材に合わせて曲を改変するというものです。 素材そのままが一番おもしろいと感じたのと音MADでは素材を曲に合わせるという常識を裏切ることで意表を突く面白さがあるのではと思ったのです。 つまりこの動画は音MADであるという条件をメタ的に利用して初めて効果的になるというものです。 この手法自体は初出ではないと思いますし、後日これよりもっと面白い同じ手法を用いたMADが投稿されましたので相席食堂音MAD、おすすめです。
ニコニコでは音MADタグから私のこの動画にたどり着��、上記の試みが受け入れられてまあまあ好評のコメントを頂きました。
問題はYoutubeでした。 この動画はたいした編集もしておらずしょうもない動画群の一つとしてYoutubeにも投稿しました。 Youtubeに投稿する際、タイトルに相席食堂をつけておりこれが大きな失敗となりました。 タイトルに相席食堂とつけたため相席食堂の無編集(無断転載)動画を見たい人に関連づけておすすめ表示されてしまったのだと思います。 またサムネイルも無編集だったためひと目みてこの動画が音MADなどの加工した動画であるという情報がわからなかったのも問題でした。
結果として相席食堂の無断転載を見ようとした人は意味がわからない音楽が変に加工されて乗ったものをみることとなり幻滅したことでしょう。 相席食堂の人気もあってか多くの人の目に止まり低評価を頂くこととなったのです。
もちろんこの動画の試み自体を批判する声もあると思いますが、批判の多くは無断転載そのものを見たかっただけでしょう。 音MADを見ようとしてこの動画にたどり着くか、相席食堂の無断転載が見たくて動画を見るか、この条件の違いがニコニコとYoutubeの評価の違いとなりました。
最後に反省としてはYoutubeはやはり動画サービスの最大手ということで、不特定多数に見られるかもしれないということをよく考えなくてはいけませんでした。 条件を絞れるようキーワードに気をつける。動画を見る前に内容がわかるようにサムネ・タイトルに注意する。 ニコニコでも当たり前なのですが、あまりにもニコニコがクローズドコミュニティだったため失念していました。
おわり
0 notes
kotsurender · 5 years ago
Text
前衛的音MADについて 追記
全く知識のない芸術にからめて前衛的音MADについて書きましたが、音楽に関しては少し知識があるためそれに関わる話をしようかなと思います。ただこの知識というのは学校で学んだようなことではなく、ネットなどから断片的な情報を拾い上げ自分がこう思うという私見に過ぎません。そもそもこれから語る音楽シーンのリアルタイム世代でもありません。
音楽には様々なジャンル分けがあり細分化がされています。現代の音楽では作曲者が自ら定義したジャンルを作り上げているケースも少なくありません。
ただそれはジャンルの細分化の行き過ぎた例であり、歴史を遡ればジャンルは大まかなものに分けられています。
私の好きな音楽のジャンルにプログレッシブロックというものがあります。プログレッシブロック(以外プログレ)は60年代後半から70年代にかけもっとも盛り上がったロックに分類されるジャンルで、名前にあるように当時としては先進的・前衛的なロックのことを指します。
そのプログレという言葉の発祥は作曲者やバンド自らの触れ込みではありません。日本ではピンク・フロイドのあるアルバムの宣伝文句にプログレッシブロックという言葉を使っていてそこから広がったという話を聞いたことがあります。(確証なし)
とにかくプログレはバンドの人気と共にジャンルとして周知されることとなります。
しかしプログレはジャンルの定義としては曖昧でした。特徴は先進的な音楽であることですが、具体的には
・変拍子など音楽的に難解である
・10分以上にも渡る長い演奏をする
・アルバムを通してコンセプトがあり一曲一曲に意味を持たせる
・ロック以外の他のジャンルとの融合
などこれら要素があったりなかったりするもので、曲単位よりかバンドとしてプログレのバンドとして語られることが多い。またそのバンド一つとってもあるアルバムはプログレに属さないなど聞く人によって解釈に違いが出たりと、プログレの定義は曖昧なものでありました。
ただ一つ言えるのがジャンル名である先進的であるかどうかは一つの指標でありました。
そしてプログレは80年代以降段々と廃れていくこととなります。その原因は難解さを極める音楽からポップで分かりやすい音楽が商業的に成功したというのもあると思うのですが、プログレ自身がもつ自己矛盾にも廃れた原因があったのではと私は思います。
なぜならば先進的である=前衛的なものを一つのジャンルとして定着させたことにより、既存概念を覆す前衛性が手法として定義されて結果前衛的ではなくなってしまったということです。
プログレとしてジャンルが定着してしまったがために追い求めていた前衛性が失われたのです。
現にプログレバンドの代表格のキング・クリムゾンは自身をプログレと定義されるのを嫌い時代の変化とともに前衛的な音楽を模索し続けました。
以上のことから言えるのは前衛的と表面建てて一つのジャンルを打ち立てることは自己矛盾により成立しなくなるということです。
プログレというジャンルは現在も残っています。しかし実態は過去のプログレをなぞり現代風の要素が付け加えられているものです。かつてのプログレが持っていた先進的という意味合いは消えています。
前衛的なものは定着しないのです。正確には定着した瞬間前衛的ではなくなるのです。
音楽は今なお新しいものが生まれています。それらを前衛的と評価するのはできますが、前衛的だと名乗ることにはあまり価値のあることではないと思えます。
音MADも同じではないでしょうか。
目新しいやり方に飛びつくのは面白いでしょう。しかし似たようなものを曲を変えるだけとか工夫せず乱立させる行為はその目新しさを濁らせるだけでしょう。
0 notes
kotsurender · 5 years ago
Text
前衛的音MADについて
本記事は芋タルトさんのブログ記事���【雑記】前衛的音MAD、に対して思うこと」を読んだ上で私が勝手に思ったことをただ適当に書いただけのものです。
ですのでこの記事を読む上で上記記事を読んでおくのが前提となります。 また、本記事は先の記事に異議を唱える意図はないことを先に言っておきます。 私の解釈だとこう思いますというふんわりした意見であり、 先の記事に対してはなるほどそういう考えがあるのかと思った次第です。
本記事に関し解釈が違うなど意見があれば私のTwitterなど遠慮なく言ってください。 (文章がおかしいとか本筋に関係なくとも指摘くださるのはありがたいです。国語苦手なので)
ということで本題です。
まず前衛的音MADという言葉に対してです。 これは正確に定義され周囲に認知されている言葉ではないということです。 そもそも音MADそのものでさえ明確な定義付けされているかも微妙だと自分は思うのですが、さらに狭義なジャンルでは非常に曖昧になるのは必然です。 前衛的音MADという単語自体「前衛的"な"音MAD」として利用されているだけでそもそもジャンルに定義されるものか微妙に感じます。
ただ前衛的音MADという言葉自体はニコニコ初期からあります。前衛的音MADイベントがそうです。私も参加したことがあります。 このイベントは音MADスレにて誰かが提案した「前衛的すぎて伝わらない音MAD晒しイベント」が 突発的に発生したことから始まったと記憶しています。 本イベントは2008年11月から2010年3月の間、計4回開かれておりそれ以降はありません。 全イベントの総動画投稿数も65個にとどまり大きなイベントではありませんでした。 私は音MADスレを熱心に追っていたわけではないので憶測なのですが、本イベントは前衛的音MADというくくりを作ろうとしたわけではなくイベントの正式名称である「前衛的すぎて伝わらない」という作者に突きつけられた課題を作者目線で楽しむイベントであるように思えました。
とにかく前衛的音MADとはなんぞやと問われても、現時点では「各々が考える前衛的な音MADである」という説明になってないことしか言えないと思います。
ただ、それでは話が終わってしまうので"私が思う"「前衛的音MAD」というのを考えてみようと思います。 ここで注意すべきは「前衛芸術」と「前衛的な芸術」が意味するニュアンスが違うように、私がこれから述べる「前衛的音MAD」というのは前衛的音MADの定義付けをさせるようなものではなく「前衛的"な"音MAD」であるということです。 (音MADにおけるジャンルの定義付けやその形成プロセスみたいなものはまた別に議論の余地がありそう)
で、前衛的な音MADについてですが芋タルトさんの記事では前衛芸術の話を用い、今までの芸術を築いてきた��典的形式に対抗するものである「前衛芸術」が「前衛的音MAD」との類似性があるのではと提起されています。
私は芸術に関し無頓着かつ無知であるため表面的にしか捉えられていませんが、芋タルトさんと同様に「前衛芸術」が「前衛的音MAD」を語るために重要な前例であると考えます。
ここで芸術について、全く無知である私のざっくりとした考えを申します。
芸術(アート)と呼ばれるもののすべてには、それを作り出した人がなんらかの主張・テーマを入りこまれるもので、また作品を見る人はアートから各々の感性により何らかの主張・テーマを見て、その美しさなどに魅了されるもの。 芸術作品にはテーマを持つ。
そして前衛芸術でもテーマは重要。今までの常識を打ち破るという大枠なテーマや芸術とは何かという問いをテーマにすることによりテーマが作品を前衛芸術たらしめていることがある。(もちろん例外もあるだろうけど)
ということで完全に素人意見でした。 言いたいのはテーマというのは重要なファクターになるのではというのが「前衛的音MAD」に対する私の考えです。 もちろん芸術と音MADを一緒くたにして考えているのはどうなのかという意見が出るだろうけど、「前衛的音MAD」と名が付くとそこにテーマ性がもたらされざるを得なくなると考えられるのです。
つまり何かの音MADに対してこれは前衛的音MADだと主張すると何が"前衛的"であるかの問いが産まれてしまうのです。 その前衛的である要素にテーマ性が見いだされるのです。 そのテーマというのは「前衛的音MAD」は既存の音MADや風潮への抵抗や挑戦といったものが該当すると、前衛芸術を例にして言えると思います。
そして最終的に前衛的であるとは何かという問いが残ります。 それに関しては広く難しい問いであり考えるのはめんどくさいので、私の考えでは今までに見られなかった新しい何かということにとどめておきます。
ここまででまとめると私が考える「前衛的音MAD」とは ・今までの音MADにない何かをやって ・それには既存の音MADへの挑戦などといったテーマが見いだされる というものです。
付け加えるとこのテーマとは客観的に受け取られるものであり本人がどう思って作ったかはまた別の話です。 このテーマの部分は非常に曖昧な定義であるため、言いようによっては何でも前衛的音MADになってしまいそうですがそこは私的な意見であるので、先に述べたように「前衛的音MAD」が定義されない限りどこまでも曖昧なままでしょう。
こんなところが私が「前衛的音MAD」に対して思うことです。
芋タルトさんの記事はそこが主題ではなく「前衛的音MAD」が模造・氾濫することへの懸念を示しています。 それに関して全くそのとおりだと思うので付け加えて書くことはありません。
もう一つあえて言えば、「前衛的音MAD」という曖昧なものが言葉として定着する方が自分としては嫌な感じがします。 ついジャンル付けしがちですから。個人でやる分にはいいけど寄ってたかってやってると陳腐化してしまいそうです。 そしたら前衛という言葉は形骸化します。
0 notes
kotsurender · 5 years ago
Text
最近の音MADに対して思うこと
特にありません
0 notes
kotsurender · 7 years ago
Text
大喜利とその音MADについて
音MADは様々な映像・音声を素材として面白可笑しく曲にのせるものですが、とりわけ大喜利を題材とした音MADは非常に扱いが難しいと感じます。
私は一度大喜利を素材として音MADを作ったことがありますが、見事ボツになりました。
では、大喜利がなぜ音MAD題材として難しいのか、考えていきます。
まず、大喜利について。
大喜利は最初に質問の形で「お題」が提示されます。それに対し面白い「回答」をして笑いに繋げる。これの繰り返しです。
この「お題」から「回答」の流れが重要で、「お題」提示により視聴者は自分だったら何を答えるか?と考えさせる要素を含んでいます。そこで視聴者が思い付かなかった面白い「回答」が「評価」を受ける事となります。
このようにあたかも視聴者も参加できるような形であるのが大喜利の一番の特徴であるでしょう。見る人は深く考えることにより、どこが笑えるポイントなのか構造を捉えやすくなり、「回答」がより分かりやすく面白いと感じやすくなります。
では、音MADの素材としてはどうなのか。
大喜利自体は素材としてそれほど使いにくいものだとは思いません。
BGMにより音声が聞き取りにくくなることが少ないため音をのせるだけなら簡単なはず。
「お題」とそれに対する「回答」というシンプルな構成さえ守っていれば面白いのではないのか。
私はこれが簡単にはいかない理由を、音MADにすることで笑いの空気感と分かりやすさが薄れてしまうことによるものだと考えます。
大喜利の構成は、「お題」「回答」の2つだと言いましたが、さらに次の行程「評価」があって成り立つものだと私は考えます。
この「評価」という行程はテレビ番組のIPPONのポイント獲得であったり、笑点では座布団といった感じで、個々の「回答」に対し優劣をつけるものとして存在しています。
そもそもお笑い自体が観客やスタッフの笑い声などといった「評価」の行程を含めるものが多いのです。そこには、誘い笑いのように笑いの誘導の効果が期待出来ることや、滑った時はその滑った空気が笑いに繋がることのように、場の空気を制御する作用があると思います。「評価」により笑いを確実なものにしたり別の笑いに昇華させることができる。
大喜利はこの「評価」が特に顕著なものだと思います。一つの「お題」に対し時に複数の回答者が「回答」を行う。この構成は優劣をつけやすく、すなわち「評価」の行程が自然と入りやすくなっています。
では大喜利を音MAD素材とした場合、この「評価」という行程はどうなるのでしょう。
大抵の場合、観客の笑い声などは邪魔な音声となりますし、わざわざ笑点の山田君が座布団を持ってくるのをいちいち素材として扱うことはしないでしょう。
それに「評価」という行程はその場の空気感というものが実に重要です。先ほど滑っても笑いになると言いましたが、これもその場の空気が重要です。
音MADでは素材の空気感を引き出すのは簡単にはいきません。原曲の曲調によっては全く違う空気感になりますし、間のとり方などの工夫をしなければなりません。
この間の取り方が、最大の難関ではないでしょうか。
間について、「お題」提示の場面にも言えます。
大喜利では「お題」を視聴者の頭のなかに叩きこまないとせっかくの面白い「回答」も全く意味のないものになってしまいます。そのため「お題」を示した後にフリップを書いている場面を映すなどして、少し間を入れています。視聴者にも「お題」のシンキングタイムを与えて自然と「お題」を頭にいれるようにしているのです。
この「お題」をどのように処理するか、音MAD的に非常に難しいものです。音MADでは曲としてテンポが重要ですから、一つ一つの「お題」に対し間を作っていくのではテンポが悪いし、間を作らないでテンポ重視にしては「お題」が頭に残らず、分かりにくいものになってしまうのです。
そもそも、音MADには大喜利的な要素が含まれていると思われます。
定番素材や曲ごとのテンプレートは「お題」にあたります。視聴者はその組み合わせを見てどんな音MADなのか想像するはずです。
この考えさせる要素は大喜利的です。
大喜利を題材にすると大喜利の入れ子構造となってしまいます。考えさせる要素が複雑化して、分かりやすさへ繋げるのが難しくなります。
また、音MADは音や映像を弄って新たなボケを創作することが多々ありますが、大喜利素材でそれをやると、プロの「回答」を越えるボケをしなくては改変する意味がないためハードルが高くなるでしょう。
結果として素材をそのままの形でもっていく他なくなります。一つだけ作るならそれでも問題ないでしょうが、改変できないとなると後続のMADは生まれないでしょう。
単純に作るのでは分かりにくく、それをクリアできても音MADとして面白くできるかは別。やりにくいことこの上ない。
このように大喜利は非常に扱いづらい存在だと経験上思うのですが、だからこそそこに突っ込んでいく物が見たいなと私は思うのです。
また、入れ子構造であると言いましたが、これを存分に利用することが出来れば新たなものができるのではないでしょうか?
皆さん、ぜひ大喜利音MADに挑戦してみてください!
0 notes
kotsurender · 7 years ago
Text
Vtuber
今や音MAD界隈においてこの話題を見ない日はないでしょう。そのくらい大きなムーブメントとなっているVtuberですが、それについて考え思ったことをまとめます。
私自身この話題には付いていけておりません。ですが全く見ていない訳でもなく、短くまとめられたものだったり動画が少ないものは見ることもあります。その程度なので、ど��して流行ったとかどう分類されるだとかよく分かりません。そうしたかなりの俄としての立場からVtuberについて考えます。
まず本題にはいる前に、その元となったYoutuberについて。これはもっと前により広くの人に浸透したものですが、ブームの要因の一つとして双方向性・即時性のコンテンツである事が挙げられると思います。投稿者は短いスパンで動画を上げ、その反応や意見を即汲み上げ次の動画へ反映します。
現代人はネットの発達により広域なリアルタイムを受信することが可能になり、そこから好きな情報を共有し集団を形成しています。昔に比べ「今」という感覚はものすごく短くなっており、よりトレンドに敏感になっていると思います。
つまり好まれやすいコンテンツの必要条件はトレンドたり得る即時性であると考えます。そこから視聴者の意見の反応や反映による双方向性を持たせることでより強固な集団形成が行われ、力強いコンテンツになったのだと思います。
一方でYoutuberは「個人」を見せるコンテンツでもあります。内容の面白さの他にその「個人」についても人々は注目します。この「個人」の要素が好き嫌いの要因になったり炎上することにも繋がります。人間ですから、常に清く正しくあるのはたとえ表面だけ着飾ることでさえ困難でしょう。
この着飾るを体現したのがまさにVtuberなのではないでしょうか。「個人」を隠し、キャラになることにより人間として醜い部分を見えなくさせる。
キャラになるという所が受け入れ難い要因にもなり得ますが、前述のYoutuberよりもより強固な集団形成を促すコンテンツであると思います。
また、隠れているものは得てして見たくなるものです。視聴者はこのキャラの下にある「個人」はどんな人なのか考え知りたいと思い、より依存性を増す作用が働くと思います。特に生配信などの双方向性が強い事をする程この傾向があるのではないでしょうか。
こうして出来た集団は、部外者から見ればひどく入り込みにくいものであるでしょう。Vtuberに限らない事ですが、ここまで人を選ぶ要素が重なり合っているのはなかなかないと思います。
個人的には面白いと感じるものもありますが、それについて共有しあう集団には属したくないという感情が生まれ素直に楽しめないコンテンツであります。
最後に音MADに絡めて言うと、双方向性は二次創作の立場からもあり、素材の立場が自身のMADについて言及するという行為が日常茶飯事となっています。
ここまで「二次創作」とその「元」が近しい物はあまり例がないと思います。さらに音MADなんて色々と危ないものに触るなんて珍しい事であります。
そうした珍しさも音MAD的なブームの一因なのかなと思います。
ただアングラ的なものであることに変わりないわけですから、こうした素材の歩み寄りがあるとしてもきちんとわきまえた上で作るべきだし、歩み寄りを見越して押し売り的に作っているのであればそれは嫌いです。
と、こんな感じですが、あくまで一般的なVtuberに言及しただけでまだまだ言えることもあると思います。また、部外者からの見方であるため的外れな意見であるかもしれません。
こう、素直に流行に付いていけないってのは、元からの性格や年を取ったせ��でもあるので、なんだか悲しくなります。
1 note · View note
kotsurender · 7 years ago
Text
ブログ移転
長らく使っていないFC2ブログからTumblrへ移行。
ツイッターで書ききれないこと、残しておきたいことを投稿する予定です。
前のブログの内容についても整理して投稿し直します。
0 notes