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つまさきになみのおと
そういえば、自分から電話することだって滅多になかったのだった。 ディスプレイに浮かぶ名前を、そっとなぞるように見つめる。漢字三文字、向かって右手側の画数が多いそれは、普段呼んでいるものよりもなんとなく遠くに感じる。同じ、たったひとりの人を指す名前なのに。こんな場面でやけに緊張しているのは、そのせいなのだろうか。うんと昔は、もっとこれに近い名前で呼んでいたくせに。本人の前でも、居ないところでだって、なんだか誇らしいような、ただ憧れのまなざしで。 訳もなく一度ベンチを立ち上がって、ゆるゆると力なく座り込んだ。ただ電話をかけるだけなのに、なんだってこんなに落ち着かないんだろう。らしくないと叱咤する自分と、考え過ぎてナーバスになっている自分が、交互に胸の中を行き来する。何度も真っ暗になる画面に触れなおして、またひとつ詰めていた息を吐き出した。 寮の廊下はしんと静まり返っていた。巡回する寮監が消していく共同部分の照明、それ以外は規定の中だけで生きているはずの消灯時間をとうに過ぎている。水泳部員の集まるこのフロアに関して言えば、週末の夜にはもう少し笑い声も聞こえてくるはずだ。けれど、今日は夜更かしする元気もなく、すっかり寝息を立ててしまっているらしい。 午前中から半日以上かけて行われた、岩鳶高校水泳部との合同練習。夏の大きな大会が終わってからというもの緩みがちな意識を締める意味でも、そして次の世代に向けての引き継ぎの意味でも、今日の内容は濃密で、いつも以上に気合いが入っていた。 「凛先輩、今日は一段と鬼っスよぉ」 残り数本となった練習メニューのさなか、プールサイドに響き渡るくらい大きな声で、後輩の百太郎は泣き言を口にしていた。「おーい、気張れよ」「モモちゃん、ファイト!」鮫柄、岩鳶両部員から口々にそんな言葉がかけられる。けれどそんな中、同じく後輩の愛一郎が「あと一本」と飛び込む姿を見て、思うところがあったらしい。こちらが声を掛ける前に、外しかけたスイミングキャップをふたたび深く被りなおしていた。 春に部長になってからというもの、試行錯誤を繰り返しながら無我夢中で率いていたこの水泳部も、気が付けばこうやってしっかりと揺るぎのない形を成している。最近は、離れたところから眺めることも増えてきた。それは頼もしい半面、少しだけ寂しさのような気持ちを抱かせた。 たとえば、一人歩きを始めた子供を見つめるときって、こんな気持ちなのだろうか。いや、代々続くものを受け継いだだけで、一から作り上げたわけではないから、子供というのも少し違うか。けれど、決して遠くない感情ではある気がする。そんなことを考えながら、プールサイドからレーンの方に視線を移した。 四人、三人と並んでフリースタイルで泳ぐその中で、ひときわ飛沫の少ない泳ぎをしている。二人に並んで、そうして先頭に立った。ぐんぐんと前に進んでいく。ひとかきが滑らかで、やはり速い。そして綺麗だった。そのままぼんやりと目で追い続けそうになって、慌ててかぶりを振る。 「よし、終わった奴から、各自休憩を取れ。十分後目安に次のメニュー始めるぞ」 プールサイドに振り返って声を張ると、了解の意の野太い声が大きく響いた。
暗闇の中、小さく光を纏いながら目の前に佇む自動販売機が、ブウンと唸るように音を立てた。同じくらいの価格が等間隔に並んで表示されている。価格帯はおそらく公共の施設に置いてあるそれよりも少しだけ安い。その中に『売り切れ』の赤い文字がひとつ、ポツンと浮き上がるように光っている。 ふたたび、小さく吐き出すように息をついた。こんな物陰にいて、飲み物を買いに来た誰かに見られたら、きっと驚かせてしまうだろう。灯りを点けず、飲み物を選んでいるわけでも、ましてや飲んでいるわけでもない。手にしているのはダイヤル画面を表示したままの携帯電話で、ただベンチでひとり、座り込んでいるだけなのだから。 あと一歩のきっかけをどうしても掴めない。けれど同時に、画面の端に表示された時刻がそんな気持ちを追い立て、焦らせていた。もう少しで日をまたいで越えてしまう。意味もなくあまり夜更かしをしないはずの相手だから、後になればなるほどハードルが高くなってしまうのだ。 今日は遅いし、日をあらためるか。いつになく弱気な考えが頭をもたげてきたとき、不意に今日の後ろ姿が脳裏に浮かんだ。途端に息苦しさのような、胸の痛みがよみがえる。やはり、このままでいたくなかった。あのままで今日を終えてしまいたくない。 焦りと重ねて、とん、と軽く押された勢いのまま、操作ボタンを動かした。ずっと踏み出せなかったのに、そこは淡々と発信画面に切り替わり、やがて無機質な呼び出し音が小さく聞こえ始めた。 耳に当てて、あまり音を立てないように深く呼吸をしながら、じっと待つ。呼び出し音が流れ続ける。長い。手元に置いていないのだろうか。固定電話もあるくせに、何のための携帯電話なのか。そんなの、今に始まったことじゃないけれど。それに留守電設定にもしていない。そもそも設定の仕方、知ってんのかな。…やけに長い。風呂か、もしくはもう寝てしまっているとか。 よく考えたら、このまま不在着信が残ってしまうほうが、なんだか気まずいな。そんな考えが浮かんできたとき、ふっと不安ごと取り上げられたみた��に呼び出し音が途切れた。 「もしもし…凛?」 繋がった。たぶん、少しだけ心拍数が上がった。ぴんと反射的に背筋が伸びる。鼓膜に届いた遙の声色は小さいけれど、不機嫌じゃない。いつもの、凪いだ水面みたいな。 そんなことを考えて思わず詰まらせた第一声を、慌てて喉から押し出した。 「よ、よぉ、ハル。遅くにわりぃな。あー、別に急ぎじゃないんだけどさ、その…今なにしてた? もう寝てたか?」 隙間なく沈黙を埋めるように、つい矢継ぎ早に並べ立ててしまった。違う、こんな風に訊くつもりじゃなかったのに。いつも通りにつとめて、早く出ろよ、とか、悪態の一つでもついてやろうと思ってたのに。これではわざとらしいことこの上なかった。 「いや…風呂に入ってきたところだ。まだ寝ない」 ぐるぐると頭の中を渦巻くそんな思いなんて知らずに、遙はいつもの調子でのんびりと答えた。ひとまず色々と問われることはなくて、良かった。ほっと胸を撫で下ろす。 「そ。それなら、良かった」 電話の向こう側に遙の家の音が聞こえる。耳を澄ませると、何かの扉を閉じる音、続けて、小さくガラスのような音が鳴った。それから、水の音、飲み下す音。 …あ、そっか、風呂上がりっつってたな。向こう側の景色が目の前に浮かぶようだった。台所の、頭上から降る白い光。まだ濡れたまま、少しのあいだ眠っているだけの料理道具たち。水滴の残るシンクは古くて所々鈍い色をしているけれど、よく手入れがされて光っている。水回りは実家よりも祖母の家に似ていて、どこか懐かしい。ハルの家、ここのところしばらく行ってないな。あの風呂も、いいな。静かで落ち着くんだよなぁ。 「それで、どうしたんだ」 ぼんやり、ぽやぽやと考えているうちに、水かお茶か、何かを飲んで一息ついた遙がおもむろに投げかけてきた。ハッと弾かれるように顔を上げ、慌てて言葉を紡ぎ出す。 「あー、いや…今日さ、そっち行けなかっただろ。悪かったな」 「…ああ、そのことか」 なるほど、合点がいったというふうに遙が小さく声を零した。 そっち、というのは遙の家のことだ。今日の合同練習の後、岩鳶の面々に「これから集まるから一緒に行かないか」と誘われていたのだった。 「明日は日曜日なんだしさ、久しぶりに、リンちゃんも行こうよ」 ねぇ、いいでしょ。練習終わりのロッカールームで渚がそう言った。濡れた髪のままで、くりくりとした大きな目を真っすぐこちらに向けて。熱心に誘ってきたのは主に彼だったけれど、怜も真琴も、他人の家である以上あまり強くは勧めてこなかったけれど、渚と同じように返事を期待しているみたいだった。当の家主はというと、どうなんだと視線を送っても、きょとんとした顔をして目を瞬かせているだけだったけれど。きっと、別に来てもいいってことなのだろう。明確に断る理由はなかったはずだった。 けれど、内心迷っていた。夏の大きな大会が終わってやっと一息ついて、岩鳶のメンバーとも久しぶりに水入らずでゆっくり過ごしたかった。それに何より、他校で寮暮らしをしている身で、遙の家に行ける機会なんてそう多くはない。その上、一番ハードルの高い『訪問する理由』というものが、今回はあらかじめ用意されているのだ。行っても良かったのだ。けれど。 「わりぃ、渚。今日は行かれねぇ」 結局、それらしい適当な理由を並べて断わってしまったのだった。ミーティングがあるからとか、休みのうちに片付けなきゃならないことがあるとか、今思えば至極どうでもいいことを理由にしていた気がする。 始めのうちは、ええーっと大きく不満の声を上げ、頬を膨らませてごねていた渚も、真琴に宥められて、しぶしぶ飲み込んだみたいだった。 「また次にな」 まるで幼い子供に言い聞かせるようにやわらかい口調につとめてそう言うと、うん、分かったと渚は小さく頷いた。そうして、きゅっと唇を噛みしめた。 「でもでも、今度こそ、絶対、ぜーったいだからね!」 渚は声のトーンを上げてそう口にした。表向きはいつものように明るくつとめていたけれど、物分かりの���いふりをしているのはすぐに知れた。ふと垣間見えた表情はうっすらと陰り曇って、最後まで完全に晴れることはなかった。なんだかひどく悪いことをしてしまったみたいで、胸の内側が痛んだ。 ハルは、どうなんだ。ちらりとふたたび視線をやる。けれど、もうすっかり興味をなくしたのか、遙はロッカーから引き出したエナメルバッグを肩に引っ掛け、ふいっと背を向けた。 「あ、ハル」隣にいた真琴が呼びかけたけれど、遙は振り返らずに、そのまま出入り口へ歩いていってしまった。こんなとき、自分にはとっさに呼び止める言葉が出てこなくて、ただ見送ることしかできない。強く引っ掛かれたみたいに、いっそう胸がちくちくした。 「なんか、ごめんね」 帰り際、真琴はそう言って困ったように微笑んだ。何が、とは言わないけれど、渚の誘いと、多分、先ほどの遙のことも指しているのだろう。 「いーって。真琴が謝ることじゃねぇだろ」 軽い調子で答えると、真琴は肩をすくめて曖昧に笑った。 「うん、まぁ、そうなんだけどさ」 そう言って向けた視線の先には、帰り支度を終えて集まる渚、怜、江、そして遙の姿があった。ゆるく小さな輪になって、渚を中心に談笑している。この方向からでは遙の顔は見えない。顔の見える皆は楽しそうに、ときどき声を立てて笑っていた。 「言わなきゃ、分からないのにね」 目を細めて、独り言のように真琴は口にした。何か返そうと言葉を探したけれど、何も言えずにそのまま口をつぐんだ。 その後、合同練習としては一旦解散して、鮫柄水泳部のみでミーティングを行うために���めて集合をかけた。ぞろぞろと整列する部員たちの向こうで、校門の方向へ向かう岩鳶水泳部員の後ろ姿がちらちらと見え隠れした。小さな溜め息と共に足元に視線を落とし、ぐっと気を入れ直して顔を上げた。遙とは今日はそれっきりだった。 「行かなくて良かったのか?」 食堂で夕食を終えて部屋に戻る道中、宗介がおもむろに口を開いてそう言った。近くで、ロッカールームでの事の一部始終を見ていたらしかった。何が、とわざわざ訊くのも癪だったので、じっとねめつけるように顔を見上げた。 「んだよ、今さら」 「別に断る理由なんてなかったんじゃねぇか」 ぐっと喉が詰まる。まるで全部見透かしたみたいに。その表情は心なしか、成り行きを楽しんでいるようにも見えた。 「…うっせぇよ」 小さく舌打ちをして、その脚を軽く蹴とばしてやる。宗介は一歩前によろけて、いてぇなと声を上げた。けれどすぐに、くつくつと喉を鳴らして愉快そうに笑っていた。 「顔にでっかく書いてあんだよ」 ここぞとばかりに、面白がりやがって。
それから風呂に入っても、言い訳に使った課題に手を付けていても、ずっと何かがつかえたままだった。宗介にはああいう態度をとったものの、やはり気にかかって仕方がない。ちょっとどころではない、悪いことをしてしまったみたいだった。 だからなのか、電話をしようと思った。他でもなく、遙に。今日の後ろ姿から、記憶を上塗りしたかった。そうしなければ、ずっと胸が苦しいままだった。とにかくすぐに、その声が聞きたいと思った。 寮全体が寝静まった頃を見計らって、携帯電話片手にひと気のない場所を探した。いざ発信する段階になってから、きっかけが掴めなくて踏ん切りがつかずに、やけに悩んで時間がかかってしまったけれど。 それでも、やっとこうして、無事に遙と通話するに至ったのだった。 「…らしくないな、凛が自分からそんなこと言い出すなんて」 こちらの言葉を受けて、たっぷりと間を置いてから遙は言った。そんなの自分でも分かっているつもりだったけれど、改まってそう言われてしまうと、なんとなく恥ずかしい。じわじわと広がって、両頬が熱くなる。 「んだよ、いいだろ別に。そういうときもあんだよ」 「まぁ、いいけど」 遙は浅く笑ったみたいだった。きっと少しだけ肩を揺らして。風がそよぐような、さらさらとした声だった。 「でも、渚がすごく残念がってた」 「ん…それは、悪かったよ」 あのときの渚の表情を思い浮かべて、ぐっと胸が詰まる思いがした。自分のした返事一つであんなに気落ちさせてしまったことはやはり気がかりで、後悔していた。いっつもつれない、なんて、妹の江にも言われ続けていたことだったけれど。たまにはわがままを聞いてやるべきだったのかもしれない。近いうちにかならず埋め合わせをしようと心に決めている。 「次に会うときにちゃんと言ってやれ」 「そうする」 答えたのち、ふっとあることに気が付いた。 「そういえば、渚たちは?」 渚の口ぶりから、てっきり今晩は遙の家でお泊り会にでもなっているのだと思っていた。ところが電話の向こう側から��話し声どころか、遙以外のひとの気���さえないようだった。 「ああ。晩飯前には帰っていった」 「…そっか」 つい、沈んだ声色になってしまった。何でもないみたいにさらりと遙は答えたけれど、早々にお開きになったのは、やはり自分が行かなかったせいだろうか。過ぎたことをあまり考えてもどうにもならないけれど、それでも引っ掛かってしまう。 しばらく沈黙を置いて、それからおもむろに、先に口を開いたのは遙の方だった。 「言っておくが、そもそも人数分泊める用意なんてしてなかったからな」 渚のお願いは、いつも突然だよな。遙は少し困ったように笑ってそう言った。ぱちりぱちりと目を瞬かせながら、ゆっくりと状況を飲み込んだ。なんだか、こんな遙は珍しかった。やわらかくて、なにか膜のようなものがなくて、まるで触れられそうなくらいに近くて、すぐ傍にいる。 そうだな、とつられて笑みをこぼしたけれど、同時に胸の内側があまく締め付けられていた。気を抜けば、そのまま惚けてしまいそうだった。 そうして、ぽつんとふたたび沈黙が落ちた。はっとして、取り出せる言葉を慌てて探した。だんだんと降り積もるのが分かるのに、こういうとき、何から話せばいいのか分からない。そんなことをしていたら先に問われるか離れてしまうか。そう思っていたのに、遙は何も訊かずに、黙ってそこにいてくれた。 「えっと」 ようやく声が出た。小石につまづいてよろけたように、それは不格好だったけれど。 「あ、あのさ、ハル」 「ん?」 それは、やっと、でもなく、突然のこと、でもなく。遙は電話越しにそっと拾ってくれた。ただそれだけのことなのに、胸がいっぱいになる。ぐっとせり上がって、その表面が波打った。目元がじわりと熱くなるのが分かった。 「どうした、凛」 言葉に詰まっていると、そっと覗き込むように問われた。その声はひどく穏やかでやわらかい。だめだ。遙がときどき見せてくれるこの一面に、もう気付いてしまったのだった。それを心地よく感じていることも。そうして、知る前には戻れなくなってしまった。もう、どうしようもないのだった。 「…いや、わりぃ。やっぱなんでもねぇ」 切り出したものの、後には続かなかった。ゆるく首を振って、ごまかすようにつま先を揺らして、わざと軽い調子で、何でもないみたいにそう言った。 遙は「そうか」とひとつ返事をして、深く問い詰めることはしなかった。 そうしていくつか言葉を交わした後に、「じゃあまたな」と締めくくって、通話を切った。 ひとりになった瞬間、項垂れるようにして、肺の中に溜め込んでいた息を長く長く吐き出した。そうしてゆっくりと深呼吸をして、新しい空気を取り入れた。ずっと潜水していた深い場所から上がってきたみたいだった。 唇を閉じると、しんと静寂が辺りを包んでいた。ただ目の前にある自動販売機は、変わらず小さく唸り続けている。手の中にある携帯電話を見やると、自動で待ち受け状態に戻っていた。まるで何ごともなかったみたいに、日付はまだ今日のままだった。夢ではない証しのように充電だけが僅かに減っていた。 明るさがワントーン落ちて、やがて画面は真っ暗になった。そっと親指の腹で撫でながら、今のはきっと、「おやすみ」と言えば良かったんだと気が付いた。
なんだか全身が火照っているような気がして、屋外��涼んでから部屋に戻ることにした。同室の宗介は、少なくとも部屋を出てくるときには既に床に就いていたけれど、この空気を纏って戻るのは気が引けた。 寮の玄関口の扉は既に施錠されていた。こっそりと内側から錠を開けて、外に抜け出る。施錠後の玄関の出入りは、事前申請がない限り基本的には禁止されている。防犯の観点からも推奨はできない。ただ手口だけは簡単なので、施錠後もこっそり出入りする寮生が少なくないのが実情だった。 そういえば、前にこれをやって呼び出しを受けた寮生がいたと聞いた。そいつはそのまま校門から学校自体を抜け出して、挙げ句無断外泊して大目玉を食らったらしいけれど、さすがに夜風にあたる目的で表の中庭を歩くくらいなら、たとえばれたとしてもそこまでお咎めを受けることはないだろう。何なら、プールに忘れものをしたから取りに行ったとでも言えばいい。 そうして誰もいない寮の中庭を、ゆっくりと歩いた。まるで夜の中に浸かったみたいなその場所を、あてもなくただ浮かんで揺蕩うように。オレンジがかった外灯の光が点々とあちこちに広がって、影に濃淡をつくっている。空を仰ぐと、雲がかかって鈍い色をしていた。そういえば、未明から雨が降ると予報で伝えていたのを思い出した。 弱い風の吹く夜だった。時折近くの木の葉がかすかに揺れて、さわさわと音を立てた。気が付けば、ほんの半月ほど前まで残っていたはずの夏の匂いは、もうすっかりしなくなっていた。 寝巻代わりの半袖に綿のパーカーを羽織っていたので、さして寒さは感じない。けれど、ここから肌寒くなるのはあっという間だ。衣替えもして、そろそろ着るものも考えなければならない。 夏が過ぎ去って、あの熱い時間からもしばらく経って、秋を歩く今、夜はこれから一足先に冬へ向かおうとしている。まどろんでいるうちに瞼が落ちているように、きっとすぐに冬はやってくる。じきに雪が降る。そうして年を越して、降る雪が積もり始めて、何度か溶けて積もってを繰り返して、その頃にはもう目前に控えているのだ。この場所を出て、この地を離れて、はるか遠くへ行くということ。 たったひとつを除いては、別れは自分から選んできた。昔からずっとそうだった。走り出したら振り返らなかった。自分が抱く信念や想いのために、自分で何もかも決めたことなのに、後ろ髪を引かれているわけではないのに、最近はときどきこうやって考える。 誰かと離れがたいなんて、考えなかった。考えてこなかった。今だってそうかと言えばそうじゃない。半年も前のことだったらともかく、今やそれぞれ進むべき道が定まりつつある。信じて、ひたむきに、ただ前へ進めばいいだけだ。 けれど、なぜだろう。 ときどき無性に、理由もなく、どうしようもなく、遙に会いたくなる。
ふと、ポケットに入れていた携帯電話が震え出したのに気が付いた。メールにしては長い。どうやら電話着信のようだった。一旦足を止め、手早く取り出して確認する。 ディスプレイには、登録済みの名前が浮かんでいる。その発信者名を目にするなり、どきりと心臓が跳ねた。 「も、もしもし、ハル?」 逡巡する間もなく、気が付けば反射的に受話ボタンを押していた。慌てて出てしまったのは、きっと遙にも知れた。 「凛」 けれど、今はそれでも良かった。その声で名を呼ばれると、また隅々にまで血が巡っていって、じんわりと体温が上がる。 「悪い、起こしたか」 「や、まだ寝てなかったから…」 そわそわと、目にかかった前髪を指でよける。立ち止まったままの足先が落ち着かず、ゆるい振り子のように小さくかかとを揺らす。スニーカーの底で砂と地面が擦れて、ざりりっと音を立てた。 「…外に出てるのか? 風の音がする」 「あー、うん、ちょっとな。散歩してた」 まさか、お前と話して、どきどきして顔が火照ったから涼んでるんだ、なんて口が裂けても言えない。胸の下で相変わらず心臓は速く打っているけれど、ここは先に会話の主導権を握ってしまう方がいい。背筋を伸ばして、口角をゆるく上げた。 「それより、もう日も跨いじまったぜ。なんだよ、あらたまって。もしかして、うちのプールに忘れもんしたか?」 調子が戻ってきた。ようやく笑って、冗談交じりの軽口も叩けるようになってきた。 「プールには、忘れてない」 「んだよ、ホントに忘れたのかよ」 「そういうことじゃない」 「…なんかよく分かんねぇけど」 「ん…そうだな。だけど、その」 遙にしては珍しい、はっきりとしない物言いに首を傾げる。言葉をひとつずつひっくり返して確かめるようにして、遙は言いよどみながら、ぽつぽつと告げてきた。 「…いや、さっき凛が…何か、言いかけてただろ。やっぱり、気になって。それで」 そう続けた遙の声は小さく、言葉は尻切れだった。恥ずかしそうに、すいと視線を逸らしたのが電話越しにも分かった。 どこかが震えたような気がした。身体の内側のどこか、触れられないところ。 「…はは。それで、なんだよ。それが忘れもの? おれのことが気になって仕方なくって、それでわざわざ電話してきたのかよ」 精一杯虚勢を張って、そうやってわざと冗談めかした。そうしなければ、覆い隠していたその���在を表に出してしまいそうだった。喉を鳴らして笑っているつもりなのに、唇が小さく震えそうだった。 遙はこちらの問いかけには返事をせずに、けれど無言で、そうだ、と肯定した。 「凛の考えてることが知りたい」 だから。そっとひとつ前置きをして、遙は言った。 「聞かせてほしい」 凛。それは静かに押し寄せる波みたいだった。胸に迫って、どうしようもなかった。 顔が、熱い。燃えるように熱い。視界の半分が滲んだ。泣きたいわけじゃないのに、じわりと表面が波打った。 きっと。きっと知らなかった頃には、こんなことにも、ただ冗談めかして、ごまかすだけで終わらせていた。 ハル。きゅっと強く、目を瞑った。胸が苦しい。汗ばんだ手のひらを心臓の上にそっとのせて、ゆるく掴むように握った。 今はもう知っているから。こんなに苦しいのも、こんなに嬉しいのも、理由はたったひとつだった。ひたひたといっぱいに満たされた胸の内で、何度も唱えていた。 「…凛? 聞いてるのか」 遙の声がする。黙ったままだから、きっとほんの少し眉を寄せて、怪訝そうな顔をしている。 「ん、聞いてる」 聞いてるよ。心の中で唱え続ける。 だって声、聞きたいしさ、知りたい。知りてぇもん。おれだって、ハルのこと。 「ちゃんと言うから」 開いた唇からこぼれた声はふわふわとして、なんだか自分のものではないうわ言みたいで、おかしかった。 できるだけいつも通りに、まるで重しを付けて喋るように努めた。こんなの、格好悪くて仕方がない。手の甲を頬に当ててみた。そこはじんわりと熱をもっている。きっと鏡で見たら、ほんのりと紅く色づいているのだろう。はぁ、とかすかに吐き出した息は熱くこもっていた。 「あのさ、ハル」 差し出す瞬間は、いつだってどきどきする。心臓がつぶれてしまいそうなくらい。こんなに毎日鍛えているのに、こういうとき、どうにもならないんだな。夜の中の電話越しで、良かった。面と向かえば、次の朝になれば、きっと言えなかった。 「こ、今度、行っていいか、ハルの家」 上擦った調子で、小さく勢いづいてそう言った。ひとりで、とはついに言えなかったけれど。 「行きたい」 触れた手のひらの下で、どくどく、と心臓が弾むように鳴っているのが分かる。 無言のまま、少し間が開いた。少しなのに、果てしなく長く感じられる。やがて遙は、ほころんだみたいに淡く笑みを零した。そうして静かに言葉を紡いだ。 「…うん、いつでも来い」 顔は見えないけれど、それはひらかれた声だった。すべてゆるんで、溢れ出しそうだった。頑張って、堪えたけれど。 待ってる。最後に、かすかに音として聞こえた気がしたけれど、本当に遙がそう言ったのかは分からなかった。ほとんど息ばかりのそれは風の音だったのかもしれないし、あるいは別の言葉を、自分がそう聞きたかっただけなのかもしれない。あえて訊き返さずに、この夜の中に漂わせておくことにした。 「それまでに、ちゃんと布団も干しておく」 続けてそう告げる遙の声に、今度は迷いも揺らぎも見えなかった。ただ真っすぐ伝えてくるものだから、おかしくてつい吹き出してしまった。 「…ふっ、はは、泊まる前提なのかよ」 「違うのか」 「違わねぇけどさ」 「なら、いい」 「うん」 くるくると喉を鳴らして笑った。肩を揺らしていると、耳元で、遙の控えめな笑い声も聞こえてきた。 いま、その顔が見たいな。目を細めると、睫毛越しに外灯のオレンジ色の光が煌めいて、辺りがきらきらと輝いて見えた。 それから他愛のない会話をひとつふたつと交わして、あらためて、そろそろ、とどちらともなく話を折りたたんだ。本当は名残惜しいような気持ちも抱いていることを、今夜くらいは素直に認めようと思った。口にはしないし、そんなのきっと、自分ばっかりなのだろうけど。 「遅くまでわりぃな。また連絡する」 「ああ」 そうして、さっき言えなかったことを胸の内で丁寧になぞって、そっと唇に乗せた。 「じゃあ、おやすみ」 「おやすみ」
地に足がつかないとは、こういうことなのかもしれない。中庭から、玄関口、廊下を通ってきたのに、ほとんどその意識がなかった。幸い、誰かに見つかることはなかったけれど。 終始ふわふわとした心地で、けれど音を立てないように、部屋のドアをいつもより小さく開けて身体を滑��込ませた。カーテンを閉め切った部屋の中は暗く、しんと静まっていた。宗介は見かけに反して、意外と静かに眠るのだ。あるいは、ただ寝たふりなのかもしれないけれど。息をひそめて、自分のベッドに潜り込んだ。何か言われるだろうかと思ったけれど、とうとう声は降ってこなかった。 横向きに寝転んで目を閉じるけれど、意識がなかなか寝に入らない。夜は普段言えない気持ちがするすると顔を出してきて、気が付けば口にしているんだって。あの夏にもあったことなのに。 重なったつま先を擦りつけあう。深く呼吸を繰り返す。首筋にそっと触れると、上がった体温でうっすら汗ばんでいた。 なんか、熱出たときみてぇ。こんなの自分の身体じゃないみたいだった。心臓だって、まだトクトクと高鳴ったまま静まらない。 ふっと、あのときの声が聞こえた気がした。訊き返さなかったけれど、そう思っていていいのかな。分からない。リンは奥手だから、といつだかホストファミリーにも笑われた気がする。だって、むずかしい。その正体はまだよく分からなかった。 枕に顔を埋めて、頭の先まで掛け布団を被った。目をぎゅっと瞑っても、その声が波のように、何度も何度も耳元で寄せては引いた。胸の内側がまだいっぱいに満たされていた。むずむず、そわそわ。それから、どきどき。 ああ、でも、わくわくする。たとえるなら、何だろう。そう、まるで穏やかな春の、波打ち際に立っているみたいに。
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(2018/03/18)
両片想いアンソロジーに寄稿させていただいた作品です。
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淡い紫
シドニーからのフライトの直後だというのに、凛はいつもと変わらず、すっきりとした顔で迎えてくれた。待ち合わせとはいえ、本来なら出迎えるのはこちらのはずなのに。やはり待つのは凛が先だった。機内で寝るのは慣れていると言うけれど、それにしても、��う少し疲れた顔をしているかと思っていたのに。 『保安検査場の前にいる』 十分ほど前に届いたメッセージにはそうあった。確かに凛は、保安検査場の近くにいくつか置かれたソファーの端に座っていた。ソファーには他にも何人かが座っていて、ぽつぽつとした間の取り方が、彼らがはっきりと赤の他人同士であることを物語っている。さすがに年末らしく帰省か旅行目的と思われる人ばかりで、誰もが大きなバッグやスーツケースを手元に携えている。その中で凛は、濃い色の細身のデニムに黒っぽい厚手の上着を羽織って、見覚えのあるシンプルなキャップを被っていた。半月形をしたつばの影になっていてその目元は見えない。 そう派手な格好をしていなくても、一目で凛だと分かった。同じような色を着た人の中でも、きっと人ごみの中でも見つけられた。それはただ、凛が待っていると分かっているからなのかもしれない。それでも、違えることはない気がした。これまでも、この先も。 近付いていくと、僅かに上げた視線でこちらの存在に気が付いたらしい。凛は、ようっと軽く手を上げ、表情を明るくした。その一瞬で、そこだけさっと筆を払って色付いたみたいな。そういえばあのときもそうだった。夏に、後輩たちの応援のために、車で迎えに来てくれたとき。冴えた朝の空気の中で熱のかたまりみたいに現れた。 凛は手にしていたスマートフォンを腰に仕舞い、こちらを見上げた。 「はよ、久しぶりだな」 「ああ。待たせて悪い」 「そんなでもねぇよ。到着ちょっと遅れてさ。ちょうど良いくらい」 言いながら、凛がすくりと立ち上がった。目線の高さが合うと、いつも通りでしっくりくる気がする。 「んじゃあ、さっそくなんか食うか」 凛は足元の荷物を拾い上げて背負うと、迷いなく大きく踏み出して前へ進んだ。見慣れた黒のリュックサックだった。もう随分と使い込まれているらしく、よく見ると両の角に白く擦れた跡があった。 足を踏み出そうとして、ふと、辺りを振り仰ぐ。傾斜のついた天井、その高い部分に接するようにガラス窓が連なって並んでいる。差し込んだ薄い黄金色の朝陽が、陰った天井に幾何学的な模様を作っていた。それが内側の壁にも反射して白く照っていて、そうやって、まだ青白くひんやりとした空港内をあたため始めている。冷気と熱気とがもったりと大きくうねり動いて、混じり合っている気がする。目覚めるとき、始まるときには、こうやってあたたかな熱や光を取り込むらしい。物も場所も等しく、まるで生きもののように。 「なんか面白いもんでも見つけた?」 足を止め、振り返った凛が問いかけてくる。少し肩をすくめて、けれど心なしかその眼差しは和らいで見えた。いや、とかぶりを振り、すぐに凛を追って並んだ。 早朝の今は疎らだが、じきに人の往来も増えていくはずだ。東京は今日も、からりと晴れるらしい。 すぐ近くを、幼い子供���連れた家族連れが、検査場の方へ向かって足早に通り抜けていった。帰省だろうか、背中や肩に大荷物を背負っていた。子供は幼稚園児か、小学校に上がったくらいか。小柄な男の子だった。きっと親の都合なのだろうが、この時間は子供にはまだ少し早いのだろう。空港という日常から離れた場所に騒いだりはしゃいだりする様子もなく、眠たそうにその目を擦っていた。 「ハル、なに食いたい?」 真隣りよりも半歩ほど先を歩きながら凛が肩越しに訊ねた。問いには答えずに、凛は? と訊き返す。すると、くるりと顔を向け、そこは鯖じゃねぇんだ、と大げさに呟いてみせた。そこ、に笑いを含んだ、喉を鳴らす声色が、まるでくすぐるように耳に届く。けれど、すぐに前を向き直してしまう。じゃあ、うどんかな。凛が上向き加減に答えた。 「蕎麦じゃなくて?」 「蕎麦は年越しで食うだろ」 ああ、なるほど。言われてみればそうだった。凛は昔からこういう頭の回転が速く、判断が的確だ。要領が良いというか。線の正しさは、知っている中だとたとえば怜と似ている。けれど、もっと迷いがなくて切り込みが早い。その分いつも一足先に抜けて行ってしまう。気が付けば、その背中ばかり見ている。 胸の内にひとすじ懐かしい風が通った。たった一年半ほど前のことが、遠く静かに、棚の中に収まっていた。 そうやって昔から、いつも。自らの足元に視線を落とした。この春から使い始めたスニーカーの爪先が、一歩、一歩、また一歩と前に踏み出す。そうして、ふたたび顔を上げた。湾曲した通路に沿って一面にガラス窓が並んでいる。そこから横向きに差し込む陽光は、陽が高くなるにつれて強く眩くなるばかりだった。進むたびに視界の中でチカチカと白く反射する。思わず目を細める。その中を凛は迷いなく歩いている。 それが、そういうところが、きっと���ほんの少し力を込めて、追う足を速めた。
年末という時期的なものが影響してか、蕎麦を謳い文句にする店ばかり目についた。海老天がのっている、温かいもの。縁起物。東京は、やっぱり蕎麦なのか。 つい数日前のクリスマスが終わった途端、街中ではツリーに替わって門松が並び出した。赤、緑、金や銀ときらびやかな装飾はたった一夜にして紅白色のそれに変化し、スーパーやコンビニに入れば、新年には飽きるほど耳にする、定番の和楽器の曲が流れていた。 片手で数えるほどとはいえまだ数日残っているのに、もう次の年に向かって走り出していかなければならないらしい。年の瀬、とはよく言ったものだ。ときどき背中を押されて、急いで、と走り抜けていく。取り残されたわけでもないのに、せわしいなと思う。けれど、つられて足が急ぐのも少し分かる気がした。まるで先程の幼い子供みたいに。 まだ開いていない店も含めて、和食の店は決して少なくなかった。焼き物だけれど、魚料理を出す店もあるようだった。うどんがいいと口にしてはいたものの、こちらが別のものをリクエストすれば、その通りになるような気がする。けれど、せっかく食べるのなら凛に選んでもらうのがいい。凛が、というより自分がそうしたいだけだった。選ぶようなふりをして、黙って何となく視線を巡らせていた。 「なんかさ、あれ、卵のってるやつがいいな」 店の並ぶフロアをしばらく歩き眺めている中で、凛がぽつりと言った。 たまご。凛の言葉を反芻してみる。すぐに脳裏に薄黄色のふわふわとしたものが思い浮かんだ。 「かきたまのことか?」 こちらの答えにどうもしっくりこなかったらしい。凛は眉根を寄せ、小さく唸った。 「や、もっと半熟の…」 「半熟……」 凛の挙げたもう一つのキーワードが繋がり、まるで表面に滲み出るようにその像が浮かび上がってきた。 というと、あれか。 「釜玉?」 ぱちり、と思わず瞬きをする。発した声が、凛のそれと綺麗に重なった。語尾の上がった調子も同じくらい。 「はは、それだ!」 珍しくハモったな。パチンと軽く手を鳴らし、人差し指でゆるくこちらを指す。 そうやって声を弾ませて、凛が笑った。その拍子に、光の粒のようなものが散る。目の前で軽くはじけて、ほんの一瞬、瞼の奥で光るみたいに。 それは、凛自身から発するものなのか、瞬く自分の瞳から零れるもの、なのか。いや、窓を背にした逆光だから、そう見えただけなのか。なぜなのか分からない、けれど、ずっと前からそうだった。こうやって凛が、笑うとき。誰にも話したことはない。だから、誰にとってもそうなのかも分からなかった。 「お、なんかそれっぽい店ありそう」 手早くスマートフォンで検索したらしく、液晶画面を見つめながら凛はそう呟いた。やがて、こっちだな、と振り返ると、目的の場所に向かってふたたび大きく歩き出した。そうしてまた、後ろからその背中を追っていく。 それでも、少なくとも過ごす時間は心地が良かった。何でもないやり取りを交わすこの瞬間に、内側の触れられないところがじわりと熱を持つ。くすぐったいような、力が抜けるような感じがする。芯がぎゅっとするような気もする。 凛はどうなのだろう。泳がない時間。その中でも、きっと些末なことだ。楽しいとか、嬉しいとか、思うことはあるのか。どうしようもなく隔てられているのか、それとも、もっと近い場所にいるのだろうか。知りたいようで、知りたくない。そんなのは、靴の裏側で小石を転がすみたいにするだけで、今はとても訊ねることはできないけれど。
黒くて丸くて深い、たとえば宇宙空間みたいな。陶器製のそれはじっとりと重たく、静かに目の前に佇んでいる。 そんなどんぶりの中身は、白く、つやつやとしていた。ガラス窓から差し込む光を受けて、照り輝いている。湯気の立つ温かいうどん、半熟めの玉子の白身、それから黄身は表面の膜に覆われてピンクがかって見える。その上に香ばしい色をした天かすと刻みネギ、まだ揚げたばかりらしいちくわ天が、縁からはみ出しそうになっている。それらの隙間を埋めるようにして、濃い色をした出汁がちらりとだけ見えていた。これでは量が足りないだろうと、レジの��にあるおにぎりも一つずつ買った。炊き込みご飯をラップで大きめに包んだものだ。 凛が見つけたのはセルフサービス式のうどん専門の店で、讃岐うどんを売りにしているらしかった。凛の望む釜玉うどんという名前ではなかったが、半熟玉子が乗っているメニューがあったので、ふたりともそれを選んだ。 後で知ったことだが、どうも釜玉というのは、釜揚げうどんに生卵を乗せたものを言うらしい。うどんの熱で温めて半熟にするのだそうだ。端末で調べながら凛は、なるほどと真剣な表情を作って頷いていたが、まぁどっちでも美味いよな、と最後にはそう結論付けていた。 いざ食べ物を目の前にすると、胃袋がまるで絞られるようにきゅうとする。意識していなかっただけで、随分と腹は空いていたらしい。そういえば今朝は、何も口にせずに家を出てきたのだった。いただきますと手を合わせて、早々に割り箸に手を伸ばす。向かいに座る凛を見やると、割り箸で麺と玉子と具材をさっとかき混ぜて、さっそく最初の一口を頬張っていた。 凛もかなり腹を減らしていたようで、一口の後「うまい」と口にしたきり、その後はほとんど会話もなく麺を啜っていた。積もる話よりもまずは食欲が勝ったらしい。食べ終えるまで視線の先は手元のどんぶりに固定されたまま、無心で胃に収めていた。 後で訊いたところ、凛も向こうを発つ前に軽く食べたきりだったらしい。律儀に待たずに、先に食べていれば良かったのに。一言言いたかったけれど、そういうところが凛なのだから、黙っておくしかなかった。 あっという間に平らげて、どんぶりの中身は空になってしまった。甘辛くてなかなか美味しかった。続いておにぎりに手を伸ばして包装のラップを開き、一口齧り付く。小さく刻まれた人参、筍、舞茸など、見た目以上に具だくさんだった。もち米を使っているらしく、弾力があってねっちりとしている。食感はおこわとか、ちまきに近いのかもしれない。 ちらりと見やると、凛は早々と、手元でラップを丸めながら、おにぎりの最後の一口を咀嚼しているところだった。食べ終えるのも、大体いつも凛の方が早い。 急ぐ理由もない。飛行機の時間までまだ二時間以上もあった。国内線なので、搭乗手続きにもさして時間は掛からないだろう。ゆっくりと少しずつ胃に収め、皺だらけのラップを指先で適当に折り畳む。そうしながら、階下の様子に視線を向けた。 飲食店の並ぶ通路は吹き抜けになっていて、正面には飛行機の便の案内板、下を覗き込めば、保安検査場やチケットの発券機や有人のカウンターなどが見える。この僅かな時間に、そこを行き交う人は目に見えて増えていた。先ほど凛を待たせていたソファーには、隙間なく囲むように人が座っていた。名前も知らない人々が各々動く様子を、こうやってぼんやりと眺めるのはちょっと面白い。 こうやって開放的で広い場所では、普段煩わしい雑踏も話し声も大きく広がって薄まるので、一定の距���間を保てる気がする。まだひどく混み合っていないからだろうが、心地の良い環境音くらいに思えるから、不思議なものだった。 温かいものを口にして腹も満たされて、なんだかほっとしたせいか、深い欠伸が込み上げた。手のひらで抑えながらやわく噛み殺す。 「眠いかよ」 横から、凛の笑った声がする。 「…眠くはない」 笑われてしまった。待ち合わせた手前、少し苦い気持ちになる。本当に、眠いわけじゃない。ほんのちょっとばかり気が抜けただけで。 「ハル、何時起き?」 顔の向きごと視線を正面に戻すと、凛が続けて問い掛けてくる。凛も、椅子に背中を預けて深く腰を掛けていて、やっと一息ついた様子だった。 「四時」 「はっや」 「大体、毎朝そんな感じだ」 「へぇ。走った?」 「走った。起きて、少しだけ」 早朝のランニング。元々は凛に倣って始めた習慣だ。今朝はここに来る予定があるから、いつもより短めのコース。川沿いの遊歩道を軽く往復した。さすがに他に出歩く人は誰もいなかった。深く寝静まった街の中で、川のせせらぎだけが変わらず絶え間なく聞こえていた。 「おれもさ、毎朝走ってるぜ。家からプール向かうまでに」 「うん」 「練習ない日も、近くの公園のランニングコース走ったりとかさ」 「俺も、そうしてる。あとは筋トレも。大学のトレーニングルームが使えるときは使う。身体が鈍るから」 こちらの言葉を受けて、凛も頷いた。 それから、と続きを言いかけて、そっと口を噤んだ。本当は話したかったはずなのに。こっそりと奥底に押しやって、蓋をしてしまった。 陽の昇らない時間は夜のように暗くて、枯れ木の間から覗いた空にはまだ星が見えたこととか、キンと冷えた空気は、晒した頬や手の甲を浅く刺すようで、その中で深く吐く息が驚くほど白く、長く残ることとか、コンクリートの欠けた溝にできた小さな水溜まりが薄く凍っていたこととか、始発の電車の窓越しに見えた東の空が端から白みかけて、淡く色づいて綺麗だったこととか。写真を撮ろうとしたけれど、スマートフォンを取り出す間に建物の影になってしまってうまくいかなかったこととか。 ふと、凛と視線が重なった。いつもよりやわらかに感じられるそれを、すぐには解きたくなくて、解かれたくなくて、不自然に見えないようにゆったりと瞬きを繰り返した。 今朝は、これから凛に会えるのだと思ったら、胸が弾んで、なんだかいつもより足取りが軽かった。鏡の前で寝癖をふと気にしたこと。普段と変わらない街の景色が少し輝いて見えたこと。見つけたものを共有したいと、滲むように胸に生まれた熱。思い返せば、そういうことだった。やっと気が付いて、じわじわと恥ずかしくなる。わざとらしくないように少しずつ、すいと視線を動かした。トレーの上の紙コップに手を伸ばし、残った水を飲み下す。 「そっか、ハルも頑張ってんだな」 「それは、当たり前だろ」 「へへ、そうだな」 凛はそう言って満足そうに口角を上げただけで、からかうような素振りは見せなかった。
ランニングの話題が膨らみ、凛は続けて、向こうでの話を聞かせてくれた。暮らしのこと、関わる人々のこと、大きな変化のこと、日々の小さなこと。凛の話を聞くのは好きだった。自分とは違う視点で物事を捉えていたり、抱く感情も異なったり。何より、そんな日々の出来事の一つ一つを、凛は大切にしているのだと感じられた。 「道の途中でよく会う犬がいんだけどさ、でっけぇの。なんか人懐っこくて、通りかかるといっつもじゃれついてきてさ。可愛いんだよな」 そうやって楽しそうに、かつて留学先から唯一送られてきた、あの手紙のことを思わせるような調子で。こちらまで口元が緩む。今ではこうやって笑っているから、よかった。 「凛は、犬にはよく懐かれるんだな。ウィニーとか」 「はは、まぁな。ウィニー、こないだ会いに行ったけど、変わらず元気だったぜ。ラッセルとローリーも相変わらずだった」 「そうか」 「ハルにもまた会いたいってよ」 懐かしい名前に、あの頃の出来事が想起される。立ち止まっていたあの時に、凛に連れ出されて旅をした。そこでのいくつかの出会い。そうだ、あれからも一年以上も経つ。忘れずに、今でも気にかけてくれているのだと知って、じんわりと嬉しくなる。 「俺も会いに行きたい。近いうちに」 「ん、伝えとくよ」 凛も少し安心したみたいだった。本当は、もっと前からこの話題を出そうとしていたのかもしれなかった。夢を見つけたあの場所。それから、今の凛が住む街。見ている景色。もう一度行ってみたい。そうして、もっと見てみたい。もっと知りたくて、触れてみたかった。凛は、どう思う。
そうやって食後しばらくはくつろいで、どちらともなく、そろそろ行くかと目で合図をした。時間も早いのでまだ混み合うほどではないけれど、多少なりとも人の通りがあるここでは長居するにも落ち着かない。 凛はすっかり空になったどんぶりを前にして改めて、「ごちそうさまでした」としっかりと手を合わせた。格好はつけるけれど、基本的に真面目で礼儀正しい。こういうところが良いと思う。高校の頃を思い返せば、江もそうだった。きっと家庭での教えがしっかりしているのだろう。 「もう上のデッキも開いてんじゃねぇ?」 テーブルの端に置いたスマートフォンに触れ、画面上の時刻を一瞥して凛が言った。最上階にある、滑走路を見渡すことのできる展望デッキ。確か自由に座れる場所などもあったはずだ。 なんかコーヒー飲みてぇ。ぽつりと呟いた凛の言葉に、俺も、と重ねる。温かくてさっぱりしたのがいい。よし、決まりとばかりに凛が椅子を引いて立ち上がるのに続いて、掛けていた上着を羽織って身支度を整えた。 「じゃあ行くか」 「ん」 トレーを片付けて、凛に続いて歩き出す。改めて見渡した空港内は、もう随分と光に満ちて明るかった。 ときどき不意に零れる、凛の、ああしたい、こうしたい、に付き合うのは悪くない。そのほとんどは小さくささやかなもので、わがままと言えるようなものはなかった。それに、放っておいても凛は一人で行動するし、きっ��自分もそうすると思う。深く知るほど、凛はこういう人間なのだと思い知らされる。昔はあんなに自分勝手に思えたのに。���は、逆に感じられる。してほしいことなら、出来ることなら、何でもしてやりたい。凛が望むのならば、そうしたかった。本当は、もっと近付きたい、のだけれど。
途中で見つけたスタンドカフェでコーヒーをテイクアウトして、展望デッキに持ち込むことにした。エスカレーターでフロアを上がり、屋上を目指す。 最上階から屋外に出ると、もう既に家族連れや一眼レフカメラを首に提げた人の姿がまばらに散っていた。しかし日中の混雑具合に比べれば、ほとんど貸し切りに近いと言っていいくらいに人影は見られない。雨よけのある、テーブル席がいくつか並ぶ場所にも今はまだ誰一人座っておらず、がらんとしていた。 手前寄りの、適当なその一つに荷物を置き、腰を下ろした。そうして手のひらを温めながら、そろりと手持ちのカップに口をつける。まだ中身が熱いうちに、と小さくあおって一口飲み下した。軽めのあっさりとした味を選んだので、舌には酸味の方が目立って残った。小さく息を吐くと、まだ白い。吹いた風ですぐに掻き消えてしまったけれど。 「結構さみぃな」 そう呟いた凛の声で顔を上げる。くっきりとした瞳は僅かに細められ、その視線は滑走路の方向に向けられていた。キャップを外した頭は相変わらず形が良い。風が吹くと細い髪が揺れて、横向きのその目元を隠した。 「寒い」 一言そう返して、視線の先を追った。機体の、つやつやと白い塗装。コンテナ船が行き交う、鈍い色の、泳げない海。東京の、からりとした真冬の空気。 「空が白い」 「んー」 やがて大きく音を立てて、視界の中を、斜め右方向をめがけて機体が飛んでいく。ひとすじその姿を目で追っていくと、みるみるうちに遠くなって、あっという間に米粒のように小さくなってしまった。ふと横を見やれば、凛も同じように飛ぶ様を眺めていたみたいだった。 「今年も、もう終わりかぁ」 しみじみと呟くと凛は、座ったままぐうっと縦に伸びをして、深く長く息を吐き出した。伸び終わって、だらんと腕を下ろすと、 「なんか、すげぇあっという間だった」 独り言のようにそう零し、今度はテーブルに両腕をついて背を丸めた。そうやって自らの手元に視線を落とし、しばらく黙って指をゆるく曲げたり伸ばしたり、爪の先を眺めたりしていた。水を掻く指先。凛のあの泳ぎを生み出す指先。何かに、誰かに触れる指先。何となく横目で、一緒になって眺めていた。 やがて凛が思いついたようにはっと顔を上げた。ちょっとどきりとした。幸い、見ていたのを咎められることはなかったけれど。そのまま、じいと覗き込むように視線を合わせてくるので、僅かに上体を引いた。 「…何だ」 問い掛けへの返事はない。けれど、こちらを見上げる凛の表情は、どこか楽しげだ。わくわくと目を輝かせて、そしてまるで何かを企んでいるみたいな。なんだか少し懐かしかった。視界の先に回り込んで、今とは違う呼び方で。 あの頃は、たとえ凛が持ち出すのがどんな話題であっても、最後にはどうせまたリレーに誘ってくる気なんだろう、と構えるばかりだった。実力はあるらしいが、面倒な���つにひどくかき乱されて���る、と溜め息をついていた。今振り返れば、こちらも随分と意固地になっていたように思う。苛立って顔を背けた。望みを突っぱねた。時には傷付けた。 それでも凛は何でもない顔をして、また目の前に現れては言った。一緒に泳ごうと。 今の凛は、今度は、何を言い出すのか。多少の興味と、怪訝な気持ちで目を瞬かせていると、ニッといたずらっぽく口角を上げてみせた。 「どうでしたか」 「どうって」 「東京での競泳生活一年目は」 いきなり何だと思ったが、そう来たか。一年の総括を訊きたいのなら、普通に訊けばいいのに。懐かしがってはみたものの、からかうようなのは、基本的にあまり得意じゃない。相手の望むように上手に合わせてやれないだけなのだけど。 この一年。改めて記憶を手繰り寄せる。春、夏、秋、冬、と順を追って歩いてみた。 そうしてたっぷりと間をおいて、答えた。 「まぁ、そうだな。色々あった」 考えたけれど、色々、あった、としか言えなかった。本当に、この一年は。厳密には、東京で暮らし始めて八ヶ月程度だけれど。その間は今まで以上に濃密だった。環境も、フィジカルもメンタルも、随分と、目に見えて大きく変化があった。振り返ればあの頃の自分が、遥か遠くに感じられるくらいに。 「ハール、それじゃあインタビュアー泣かせだぜ」 それじゃあ分かんねぇよ。もうちょい具体的に、かつ手短に、端的に。呆れたように笑いをにじませ、そうのたまうものだから、む、と小さく唇を尖らせる。昔から口の上手い、凛には分からないだろう。それにそもそも質問自体が抽象的なのだから、お互い様だ。 むっつりとしていると、凛はくつくつと喉を鳴らした。 「まぁ、ハルらしくていいけどな」 そうして今度は、まるでマイクを持つようなポーズで片腕を伸ばし、こちらに向けた。 「では続いての質問。七瀬選手の、来年の抱負をお聞かせください」 まだ続けるのか。軽く溜め息が出た。目の前の、楽しげにマイクを向ける姿をじとりと見つめる。 「そんな格好で訊いてくるインタビュアーがあるか」 「そう言うなって。形はどうでもいんだよ」 まさか、どうでもいいことはないだろう。凛は催促するように、ずい、と見えないマイクを近付けてくる。 「どうでしょうか、七瀬選手?」 「からかうな」 「マジメに訊いてんだよ」 凛はそう言って、困ったように小さく笑った。そうして居ずまいを正し、正面から向き合った。 お互いに上げた視線がしっかりと絡む。隙間がない、と感じられるくらいに。きっと簡単には解けないんだろう。 「来年は、どうする? おれたち」 凛の声は真っすぐに伸びて、胸に届いた。口元にはほんのりと薄く笑みを敷いている。けれど、その眼差しは水の中で戦う者としての熱をはらんでいる。捉えて離さない、ようにも見えるし、冷静に試されているようにも思える。 びゅう、と高く、耳元で風の音がした。凛の眼差しが僅かに和らぐ。柔らかい部分が不意に垣間見える。こういうところが、凛の甘さで、優しさだと思う。凛からは見えない膝の上で、きゅっと拳を握った。 いつからか、こうしてひとつに括られるのを、どこか嬉しく感じている自分がいる。共に目指すということ。凛に、この男に、眼差しを向けられるということ。喜ばしい。そして��らしかった。けれど同時に、ひどく緊張して背筋が伸びる。それから、時に強い焦燥を感じた。浮き立って、足元がぐらつきそうになる。ときどき、怖くなる。漠然とした不安が襲い掛かってくることがある。 けれど、そんなときに強く心に思い浮かぶ。それらをすべて呑み込む勢いで、炎々と、奥底で燃えるもの。瞼の奥でずっと変わらず、燦然と輝き続けるもの。 ふと、過去を想う。きっと永続的に続くはずだったあたたかな場所から、この世界に飛び込むと、そこで泳いでいくのだと。もう、決めたのだった。そうやって生きていくのだと決めたのだった。それは他でもなく自分で踏み出した道であって、誰のせいにもできなくて、する気もなくて、もう後ろには戻れない。逃げ出すのは簡単だった。きっと、今ならばまだ傷も浅い。他に替わって何だってできるはずだった。けれど、今はそんなつもりもない。世界で泳ぐ。それだけは、いま確かに言えた。 ゆっくりと唇を開く。身の内の熱を一握り、言葉に乗せた。 「来年は」 また一機、飛んでいく。キィン、ゴウウ、と大きく音を立てて、滑走路を走り出したそれは、ぐんと浮き上がって、白い冬の空へ飛び立っていった。みるみるうちにその姿は遠くなって、やがて見えなくなる。 はっきりと言ってやった。正面から凛を見据えて。初めて口にしてみた。少しばかり大きく言い過ぎたかもしれない。目標を人前で宣言するなんて、子供の頃から苦手だったし、らしくもなかった。今までならば、そうだった。 いま、このとき。他でもなく、凛に聞いていてほしかった。きっと凛から見れば幼いばかりのその熱を、知って、触れてほしかった。本当に、自分勝手はどっちだと思う。昔の自分が見れば苦々しい顔を作りそうだ。 何より、偽らざる本心だった。口にしてみると、その言葉の持つエネルギーの大きさに視界が揺れる。対して、思考は冴えていく。必要なこと、足りないこと、手にするためにやらなければならないこと。道筋が見えてくる。追い立てられるように、走り出す。飛び立つ。 思えば凛は、出会った頃からそうだった。きっと出会う前からも、もっと幼い頃からそうしてきたのだろう。本当に、勇敢で、強くて。そういうところに。それから、そういうところを、ずっと、ずっと。 そんなこと、本人には言ってやらないけれど。 凛の瞳が少しだけ見開かれて、微かに揺らいだ。唇の両端がきっと真横に引き締められる。すぐにその表情はふっとゆるんで、それはほんの一瞬、見逃しそうなくらいの僅かな変化だったけれど。 「ん、頑張ろうぜ」 凛は静かに言った。そっと置くように。そうして淡く微笑んでみせた。意外な反応だった。ハル、熱くなってんな。なんて、いつものように言うと思ったのに。誰よりも自らが、熱のかたまりみたいなのに。楽しげな、好戦的な色よりももっと別の、何か。穏やかに目を細めて、まるで光るものでも見つめるみたいに。
「向こう着いたらどうする?」 指先で掴んだコーヒーカップを揺らしながら凛が訊ねた。もてあそぶみたいに、ふらふらと左右に、底で半円を描くように。不規則に動かされるその中身は、もうすっかり空っぽらしかった。 「どうする…」 と言っても、普通に帰って、買い出しをして、空けていた家の大掃除。両親はまだ大晦日まで帰ってこない��で、明日も一日かけて掃除するつもりだった。SCが空いていたら泳ぎに行って、あとはゆっくり休んで、会える人に会う、くらいか。 大まかにそんな予定を伝えると凛は、「じゃあ、しばらく一人?」とふたたび訊ねた。少し考えて答える。 「まぁ…一人だな」 両親は相変わらずの様子だし、何となく予定はしているものの、後輩たちにもすぐに会うわけではない。真琴はアルバイトの都合で、大晦日の前日に夜行バスで帰るらしい。 そもそも今回、真琴と帰省の日にちが合わなかったのが事の発端だった。春にこの地に来た時と同じように、自然と帰省も一緒になると思っていたから、少し驚いた。実家が地方で遠いのだからと、バイト先の同僚にはシフトに融通をきかせてもらえそうだったが、まだ今年始めたばかりの新人だから、と遠慮したらしい。子供たちが冬休み中ということもあって、人手はあればあるほど助かる状況だったというけれど、素直に甘えさせてもらえばいいのに。相変わらずのお人好しっぷりだ。 漠然と、真琴と合わせようと考えていたので、想定外のことになんだか肩透かしを食らったみたいだった。けれど、仕方のないことだ。それでも今はまだ一緒のことも多いけれど、これからきっとそういうことも増えていくのだろう。この半年で、薄々ながらそのことは分かり始めていた。 一人になると、当然自由度も高くなる。いつでもいいし、何でもいい。好きにしていい。とはいえ、何か基点を置かなければ決めづらい。 どうしようかな、とぼんやり考えていたところ、凛から連絡が入った。お互い何日に帰省するのか、会えたら会おう、という内容だった。 仲間として、訊ねてくれたのだと分かっている。けれど、やはり少なからず嬉しかった。泳がない場所でも、凛に会える。繋がっている。理由にしてよかったのだった。 そうして、バスに比べると割高にはなるけれど、凛の乗り換えに合わせて飛行機で帰ることにしたのだった。理由は、それらしいものを適当に並べ立てておいた。親から貰った株主優待券があるだとか、それらしく。 「ひとりか、そっか。うん、そうか」 こちらの言葉を受けて、凛はそう独りごちながら浅く頷いた。そのほかにも何か言いたそうにしていたのは明らかだったので、黙って視線を送り、続きを待った。 「や、分かった。なるほどな」 その続きは待たなくていい、ということらしい。わざわざ言い添えるなり、視線をあちらこちらに巡らせながら、指で小さくテーブルを叩いている。トン、トン、とゆったりとしたリズムで。 何かは分からないけれど、言いたいことがあるのだろう。普段は要領がよくて口も上手いくせに、ときどき、こういうところは分かりやすく不器用だ。凛のそんな様子を見ていると、くすぐったい感情が込み上げてくる。なんだか、張りつめたものがするすると緩んでいくような。 「俺が一人だと何かしてくれるのか?」 このまま待っていてやればいいのに。つい、意地の悪いことをしてしまう。 口にした途端に、凛が顔を弾き上げた。その表情は嘘がつけない子供みたいで、これだから凛は憎まれないんだろうな、と思う。どこへ行って、誰と関わっても。 「いったい、なんだろうな」 独り言のようにそう続けてみる。楽しみで、思わず心の声が漏れてしまったとばかりに。あるいはわざとらしく小首を傾げ���、ただの一意見を訊ねるように。 しっかりと視線が合うと、凛はじわりと恥ずかしそうな、悔���そうな顔を作った。ちょっとやり過ぎたかもしれない。胸の内ではそう思いながらも、いよいよ小さく笑ってしまった。 「んだよ、一枚上手みたいな顔しやがって」 「悪い。あんまり凛が面白いから」 「るせぇな、笑うな」 悪態をつきながらも、凛の顔はほんのり赤い。きっと、笑っている自分も少し赤い。抑えようと軽く咳込むと、ふん、と鼻を鳴らした。そのまま頬杖をつき、ふいっとそっぽを向いてしまう。唇を尖らせて、あからさまな「機嫌を損ねました」のアピールだ。子供か、とまた笑ってしまいそうになる。最近ごくたまに、凛はこんな顔を見せるようになった。ほんの少しは近付くことができたのだろうか。こうやって、水から離れた場所でも。 「ちゃんと聞く。ごめん」 息を整えて、背けられた横顔に向かってそう告げる。やがてしぶしぶと体勢を戻してくれたので、小さく胸を撫で下ろした。どうやらお許しは貰えたようだった。 改めて向き合った凛は首筋を掻いて、それでもまだ言い出すのを迷っているらしく、あー、とか、えっと、とか小さく前置きを繰り返した。 今度はおとなしく黙って待っていると、視線を逸らしながら、ぽつりと零すように凛が言った。 「昼、とか食う? 向こう着いたら」 「昼…」 なるほど、そういう話題か。勿体つけるから、何かと思えば。それでからかってしまったのも悪かったけれど。 昼。確かに、向こうに着く頃にはちょうど昼飯時になる。家に帰っても、大した食べ物はないので、まずは買い出しからだ。夜はともかく、昼はついでに食べて帰るのもいいだろう。 「ああ。ちょうど昼飯時だし、駅前で何か食べていくか」 駅前ならばいくつか飲食店もある。実はあんまり店は知らないのだけれど。でも、年末とはいえまだ大晦日ではないので、どこかしらには入れるだろう。 こちらの返事を受けて凛は、ふたたび言いにくそうに視線を揺らした。何か、良くない事情でもあるだろうか。心の中で小首を傾げる。 「あー、その、店でもいいんだけどよ。…多分、うちで用意してると思うんだよな」 ぱちり、と瞬きをする。つまり。というと。頭の中で言葉の意味をひらいていく。その間沈黙に耐えられなくなったのか、しびれを切らしたように凛はふたたび口を開いた。 「だから…そのさ、ハルも、うちに来て食ってく?」 ぱちり、ともう一度目を瞬かせる。うち、凛の家。ああ、そういうことか。凛の態度も反応も、ようやく合点がいった。パズルの残りのピースが無事に繋ぎ合わさった時のように、すとんと安心した心地になる。そうしてじわりじわりと、胸の中にあたたかい感情が広がっていく。 そこでふと、ある言葉が気にかかった。 「用意してるってことは、凛が作る…わけじゃないんだよな」 「…そうですけど」 「凛のおふくろさんに申し訳ない」 「いや、そこは気にすんなって」 「けど…」 凛は強くそう言うが、気にしないわけにもいかない。それに何しろ、先の予定ではなく当日のことだ。特にこんな年の瀬に伺うのなら、前もって伝えておかなければ、随分な迷惑になりかねない。 「いいだろ、たまには。気楽な気持ちでお呼ばれされろよ。そういうの、無いわけじゃないだろ?」 おれが良いって言ってんだからさ。段々と強気になってくる。確かに礼儀正しく優等生だけれど、しっかり長男坊の気質も兼ね備えているらしい。自分の家庭が変わっているだけで、世の中の十代男子は意外とこんなものなのかもしれない。 「たとえば、ほら、真琴ん家とか行くだろ」 「まぁ…真琴の家なんかは、しょっちゅう。夕飯食べて泊まったりとか」 「だろ? なら、たまにはいいじゃん、そういうのでも」 あんなに言い出すのに照れくさがってたくせに、一度吹っ切れたら強気になって。ほんの少し呆れながらも、けれど、たまにはまた、溜め息をつきたくなるような強引さに振り回されるのも悪くない。凛が、そこまで言うのなら。 「じゃあ…お邪魔する。します」 おとなしく、まるで頭上に白旗を掲げるようにそう答えてみせる。家の食事の場にお邪魔するのに、降参という表現が合っているのかは分からないが。 「よっし、決まりだな」 凛は満足そうに笑ってみせた。「勝った」のような、「嬉しい」のような。また、光りが散った。笑うとやっぱりあの頃みたいだった。こんなことで笑ってくれるなら、他にも何だってするのに。ずっと、いつだってそんな風に笑っていて、そのままでいてほしい。なんて、胸の内側ではそんな想いを抱いていることも、凛は知らないでいた。
実家に電話してくる。そう言って凛はスマートフォンを片手に席を立ち、滑走路の見えるフェンスの方向へ歩いていった。平然としながらもどこか機嫌のよさそうに、軽やかな足取りで。ここで話せばいいのに、と一瞬考えたけれど、逆の立場だったら、自分もそうするだろうなと思う。それになんだか、安心する。時折こうやって、変わらないものを数えている。 ふいに吹きつけた風で、離れた凛の上着の裾がはためいた。柔らかそうな髪が細かになびいた。また一回り逞しくなったその背中から、なんとなく目が離せなかった。 たくさんのことを教えてもらった。けれど、知らないことがたくさんあった。違う生きものだから、仕方がなかった。だからこそ、もっと知りたかった。近付くたびに、共に時間を過ごすたびに、それははっきりと浮き彫りになった。 少し、顔を斜めに傾げて見てみる。それからテーブルにうつ伏せるようにして、真横から。近くて遠い場所で燃えているような。離れた場所でも強く眩く光って、呼び寄せているような。あれが、あの熱が、今の凛だ。 手を伸ばそうとして、止めた。あの熱にいつか触れてみたい。指先でなぞりたかった。今はどこか頼りなく、淡く揺らぐばかりで、躊躇われた。こめかみに引っ掛かっていた前髪が次第に落ちて目にかかり、視界を遮った。今の自分は、凛の目にはどう映っているのか。 席から立ち上がり、その背中に向かって歩いた。電話片手に話を続けていた凛はゆるく振り返り、こちらが近付く姿を認めると、お、と少しだけ目を見開いた。邪魔をするつもりはなかったので、間を開けて隣に並んで、滑走路を眺めた。 じゃあ、着いたらまた連絡する。うん。はいはい。横から聞こえてくる息子の凛の声色は、軽くまろやかで、くすぐったそうだ。こういうやわらかさを、他には誰に見せるんだろう。 「オッケーだってさ」 電話を切った凛は振り返るように、一歩こちらに近付いた。その声は聞き慣れた、いつもの色に戻っていた。 「ん、悪いな。お邪魔します」 「や、おふくろすげぇ喜んでたぜ、逆に。家に連れてきなさいって、ずっと言ってたんだ」 ハルに会いたいんだってさ。そう言ってくしゃりと笑う横顔に、記憶の面影が重なる。 凛の、お母さん。前の冬の終わり、教習所に通っていた時期に、一度だけ顔を見て挨拶したことがある。すっかり陽の落ちた夜に、迎えに来た車の窓越しだった。 ああ、七瀬くん。凛と江がいつもお世話になってます。まるで鈴が鳴るような声だった。とても綺麗な人で、笑った目元が印象的だった。凛はお母さん似なのだと、そのとき初めて知った。 ハンドルに添えられた左手の薬指には指輪が白く光っていて、ふとそのことを思い出したときの、胸の底の部分がすっと落ちるような感覚をよく憶えている。その帰り道では何となく、海を見たくなかった。冬の海には珍しく、穏やかな波音だったけれど。 「わりぃけど、多分鯖はないぜ」 悪いと言いつつも、凛はいたずらっぽく口の端を上げた。いつまでも、鯖で釣れると思っているらしい。何でもいい。特別なことなんてしてくれなくてよかった。 「さすがにそんなわがままは言わない」 それよりも。一旦、言葉を切った。ん? と怪訝そうに凛が小首を傾げる。その眼差しが、続く言葉を待っていた。迷ったけれど、口にしてみることにした。 「ちょっと、緊張するな」 冗談めかすように笑いをにじませながら。実際にはわりと切実な本音だったのだけれど。 そんな胸の内など少しも知らないで、なんでだよ、と凛はからりと軽く笑い飛ばした。 「言っとくけど、そんな特別な家でもないぜ? ハルん家とおんなしくらいか、ちょっと新しいくらいで」 「そうなのか」 「んー、広さもそんな変わんねぇかな? 多分」 「そうか。でも、なんとなく、ドキドキする」 「はは、なんだよ、そりゃ」 分かんねぇな、と凛は肩をすくめた。それでいいと思った。遠回しにでも、言ってみたかっただけだった。今知れたら、きっと困る。凛も、自分自身も。 ふたたび滑走路の方に視線を移す。また一機、飛び立つ準備をしている。機体の半分辺りから尾翼の部分にかけて、薄い黄色と水色のラインで彩られている。これから自分たちの乗るものとは違う航空会社だ。あの機体は、どこに向かうのだろう。 凛の家。突然のことで、やっと今になってじわじわと実感が湧いてくる。限りなく普段の、この格好で大丈夫だろうか。搭乗前に、せめて手土産を買わせてもらおう。甘いとしょっぱいだと、どちらが良いのだろう。凛は辛い、江は甘い、が多分好き。お母さんはどうなのか。お父さんにお供えする分も。あとで凛に訊かなければ。 テーブル席に戻っても良かったけれど、何となくその後もしばらくフェンスの前に横並んで、景色を眺めていた。その間も凛は、隣で楽しそうに話を続けた。その話題のどれもが競泳からは離れたことばかりで、多分、通りすがりの知らない人から見れば、高校生か大学生の、年や背格好が同じ、くらいしか自分たちに共通点を見つけられないだろう。 そうすると逆に、大きな声で言ってみたくもなる。俺はこの男と泳いでいるんだって。競泳で、世界を目指しているんだって。 「あ、そういえば、うち猫いんだよ。話したっけ?」 「前に江が話してた。のんびりした、大きいオス猫だって」 「のんびりっていうと聞こえがいいけどな。ちょっとでけぇんだよな、図体も態度も」 色々と過去��出来事を思い出したらしく苦く笑って、ぶつぶつと凛は呟いた、けれど。 顔つきが、ちょっとだけお兄ちゃんに似てるんです。そうやって江が話していたことをふと思い返す。その際、写真も見せてもらった。ソファーにズンと鎮座する姿は、愛嬌はあるもののかなりふてぶてしくて、貫禄があった。そこまで似ているかは分からなかったけれど、言われてみれば確かに、ほのかに凛の要素を感じないでもなかった。反応を見るに、今は本人に伝えないほうがいいのかもしれない。 「なんでか、おれにはあんま懐かないんだけどな。でも多分、ハルのことは気に入ると思うぜ」 「そんなこと、分かるのか」 「分かるよ、なんか分かる」 凛はくつくつと可笑しそうに、小さく肩を揺らして笑った。 「ハルのこと、ぜってぇ好きだよ、あいつ」 「なんだ、それ」 つられて笑みが零れた。何を根拠にしているのか、やけに自信満々に言うけれど、本当だろうか。一体どんなやつなのか、だんだん気になってきた。図体も態度もでかい、ちょっとだけ凛に似ているらしい、松岡の家の猫。 じゃあ、凛は? 思わず口をついて出そうになる。耳にその音が引っ掛かる。だめだ、浮かれている。ゆっくりとひらきかけたものを閉じていく。かかとで擦るように地面を軽く蹴りつけながら。 隣で、よく笑って飼い猫の話をする。隣で、これまでの全てを背負って、泳ぐ。 深く呼吸をして、フェンス越しに空を見上げた。少しずつ陽が高くなっている。からりと晴れているけれど、やっぱり白かった。夏の青さに比べたら、薄めたみたいに白い。 うちにも来いって、ついでに言いそびれてしまった。まだ間に合うだろうか。今日のうち、どこで伝えられるだろうか。凛のことはからかったけれど、確かに、言い出すとなると少し照れくさいかもしれない。
地方に向かう便はさほど本数も多くない上に、機体も一回り小さいものをあてがわれている。この時期はどの便もほぼ満席で、並んだ二席を取るのはとても苦労した、と凛は大仰に口にした。もちろん、感謝は伝えた。すると凛は「いっこ、貸しだな」と告げてきた。なんだか勝ち誇ったように、そしてどこか嬉しそうに。自然と、悔しいとか、嫌だ、とは感じなかった。多分、そういうことだった。 結局、帰省を合わせた理由について凛は深く訊ねなかった。なんで、と訊かれなくて良かった。踏み込まれた際の答えは用意していたけれど、きっと上手くはない嘘だと思ったから。 離陸してからしばらく、気が付けば雲を抜けて、上空部分に辿り着くらしい。音も揺れも一旦落ち着いて、静かなものになった。 ああ、そういえば。ふと思い出したことがあった。それは取るにも足らない、小さな泡みたいに、何でもないことだったけれど。 凛。呼び掛けようと、隣に座る凛に、顔ごと視線を向ける。唇を開きかけて、そこで止まった。ぱちり、と瞬きをする。機内誌を読んでいたはずの凛は、いつの間にか眠っていた。薄い瞼をしっかりと閉ざし、向こう側に軽く首を傾げている。深い呼吸に合わせて、その肩が小さく、規則正しく上下していた。少し驚いた。つい先ほどまで起きて、全く眠たそうにしていなかったから。 あまりじっと見ているわけにはいかないけれど、その前髪がひと束、瞼に引っ掛かっていたのが気にかかる。とても迷った。それは細くてやわらかそうな、ほんの一��で、それこそ、凛にとっては些末なことで、そのまま放っておいたって良かった。けれど、それでも、手を伸ばした。細い髪を指先に掛けて、そうっとこめかみのほうへ流すようにしてよけてやる。じかに触れないように、ゆっくりと慎重に。ひどく、細心の注意を払った。指を引っ込めながら、おそるおそる反応を見る。今ので、くすぐって起こしていないだろうか、まさか、そもそも起きてはいなかったか。やってしまってから、心臓がどきどきと跳ねた。これこそ訊ねられても、咄嗟に上手い言い訳ができない。身を強ばらせていたけれど、しばらく経っても凛が起き出す気配はなかった。 ポーン、という機械音の後に、機内アナウンスが流れる。シートベルト着用のランプが消えて、離れた場所から一つ二つと席を立つ気配があった。 凛は、相変わらず目を覚まさない。少し緊張が解けたらしい機内の様子の変化に、身じろぎすらしなかった。深く眠っていると分かれば、ちらりと横目で見てしまう。そういえば、こうやって寝ている凛を間近で見るのは、久しぶりかもしれない。けれど寝顔はそんなに前と変わらない。相変わらず、少しだけ子供みたい。 凛を形づくる線はどれもはっきりとしているのになめらかだった。閉じられた唇は僅かに表面が乾いて見える。機体が進むにつれて角度が変わり、やがて奥の窓から強く陽光が差し込んだ。照らされたその肌は、光るように白かった。
(2018/12/29)
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青と金色
■サイレンス
この部屋のインターフォンも灰色のボタンも、だいぶ見慣れてきた。指で押し込めて戻すと、ピーンポーンと内側に引っ込んだような軽い電子音が鳴る。まだこの地に来た頃はこうやって部屋主を呼び出して待つのが不思議な気分だった。鍵は開かれていたし、裏口だって知っていたから。 「…さむっ」 ひゅうう、と冷たい風が横から吹き込んで、思わずそう呟いて肩を縮めた。今週十二月に入ったばかりなのに、日が落ちると驚くほど冷え込む。今日に限って天気予報を観ていなかったけれど、今夜はいつもと比べても一段と寒いらしい。 近いし、どうせすぐだからと、ろくに防寒のことを考えずに部屋を出てきたのは失敗だった。目についた適当なトレーナーとパンツに着替え、いつものモッズコートを羽織った。おかげで厚みは足りないし、むき出しの両手は指先が赤くなるほど冷えてしまっている。こんなに寒いのならもっとしっかりと重ね着してこれば良かった。口元が埋まるくらいマフラーをぐるぐるに巻いてきたのは正解だったけれど。 いつもどおりインターフォンが繋がる気配はないけれど、その代わりに扉の奥からかすかに足音が近付く。カシ��リ、と内側から錠の回る音がして目の前の扉が開かれた。 「おつかれ、ハル」 部屋の主は片手で押すように扉を開いたまま、咎めることも大仰に出迎えることもなく、あたたかい灯りを背にして、ただ静かにそこに佇んでいた。 「やっと来たか」 「はは、レポートなかなか終わらなくって…。遅くなっちゃってごめんね」 マフラー越しに笑いかけると、遙は小さく息をついたみたいだった。一歩進んで内側に入り、重たく閉じかける扉を押さえてゆっくりと閉める。 「あ、ここで渡しちゃうからいいよ」 そのまま部屋の奥に進もうとする遙を呼び止めて、玄関のたたきでリュックサックを開けようと背から下ろした。 遙に借りていたのはスポーツ心理学に関する本とテキストだった。レポート課題を進めるのに内容がちょうど良かったものの自分の大学の図書館では既に貸し出し中で、書店で買うにも版元から取り寄せるのに時間がかかるとのことだった。週明けの午後の講義で遙が使うからそれまでには返す、お互いの都合がつく日曜日の夕方頃に部屋に渡しに行く、と約束していたのだ。行きつけのラーメン屋で並んで麺を啜っていた、週の頭のことだった。 「いいから上がれよ」遙は小さく振り返りながら促した。奥からほわんとあたたかい空気が流れてくる。そこには食べ物やひとの生活の匂いが確かに混じっていて、色に例えるなら、まろやかなクリーム色とか、ちょうど先日食べたラーメンのスープみたいなあたたかい黄金色をしている。それにひとたび触れてしまうと、またすぐに冷えた屋外を出て歩くために膨らませていた気力が、しるしるとしぼんでしまうのだ。 雪のたくさん降る場所に生まれ育ったくせに、寒いのは昔から得意じゃない。遙だってそのことはよく知っている。もちろん、帰ってやるべきことはまだ残っている。けれどここは少しだけ優しさに甘えようと決めた。 「…うん、そうだね。ありがと、ハル」 お邪魔しまーす。そう小さく呟いて、脱いだ靴を揃える。脇には見慣れたスニーカーと、濃い色の革のショートブーツが並んでいた。首に巻いたマフラーを緩めながら短い廊下を歩き進むうちに、程よくあたためられた空気に撫ぜられ、冷えきった指先や頬がぴりぴりと痺れて少しだけ痒くなる。 キッチンの前を通るときに、流しに置かれた洗いかけの食器や小鍋が目に入った。どうやら夕食はもう食べ終えたらしい。家を出てくる前までは課題に夢中だったけれど、意識すると、空っぽの胃袋が悲しげにきゅうと鳴った。昼は簡単な麺類で済ませてしまったから、帰りにがっつり肉の入ったお弁当でも買って帰ろう。しぼんだ胃袋をなぐさめるようにそう心に決めた。 「外、風出てきたから結構寒くってさ。ちょっと歩いてきただけなのに冷えちゃった」 「下旬並だってテレビで言ってた。わざわざ来させて悪かったな」 「ううん、これ貸してもらって助かったよ。レポートもあと少しで終わるから、今日はちゃんと寝られそう……」 遙に続いてリビングに足を踏み入れ、そこまで口にしたところで言葉が詰まってしまった。ぱちり、ぱちりと大きく瞬きをして眼下の光景を捉え直す。 部屋の真ん中に陣取って置かれているのは、彼の実家のものより一回り以上小さいサイズの炬燵だ。遙らしい大人しい色合いの炬燵布団と毛布が二重にして掛けられていて、丸みがかった正方形の天板が上に乗っている。その上にはカバーに入ったティッシュ箱だけがちょんとひとつ置かれていた。前回部屋に訪れたときにはなかったものだ。去年は持っていなくて、今年は買いたいと言っていたことを思い出す。けれど、それはさして驚くようなことでもない。 目を奪われたのは、その場所に半分身を埋めて横になり、座布団を枕にして寝息を立てている人物のことだった。 「…えっ、ええっ? 凛!?」 目の前で眠っているのは、紛れもなく、あの松岡凛だった。普段はオーストラリアにいるはずの、同郷の大切な仲間。凛とはこの夏、日本国内の大会に出ていた時期に会って以来、メールやメディア越しにしか会えていなかった。 「でかい声出すな、凛が起きる」 しいっと遙が小声で咎めてくる。あっ、と慌てたけれど、当の凛は起きるどころか身じろぐこともなく、ぐっすりと深く眠ってしまっているようだった。ほっと胸を撫で下ろす。 「ああ、ご、ごめんね…」 口をついて出たものの、誰に、何に対してのごめんなのか自分でもよく分からない。凛がここにいるとは予想だにしていなかったから、ひどく驚いてしまった。 凛は今までも、自分を含め東京に住んでいる友達の部屋に泊まっていくことがあった。凛は東京に住まいを持たない。合宿や招待されたものならば宿が用意されるらしいけれど、そうでない用事で東京に訪れることもしばしばあるのだそうだ。その際には、自費で安いビジネスホテルを使うことになる。一泊や二泊ならともかく、それ以上連泊になると財布への負担も大きいことは想像に難くない。 東京には少なくとも同級生だけで遙と貴澄と自分が住んでいる。貴澄は一人暮らしでないからきっと勝手も違うのだろうが、遙と自分はその点都合が良い。特に遙は同じ道を歩む選手同士だ。凛自身はよく遠慮もするけれど、彼の夢のために、できるだけの協力はしてやりたい。それはきっと、隣に並ぶ遙も同じ気持ちなのだと思う。 とはいえ、凛が来ているのだと知っていれば、もう少し訪問の日時も考えたのに。休日の夜の、一番くつろげる時間帯。遙ひとりだと思っていたから、あまり気も遣わず来てしまったのに。 「ハル、一言くらい言ってくれればいいのに」 強く非難する気はなかったけれど、つい口をついて本音が出てしまった。あえて黙っていた遙にじとりと視線を向ける。遙はぱちり、ぱちりと目を瞬かせると、きゅっと小さく眉根を寄せ、唇を引き結んだ。 「別に…それが断わる理由にはならないだろ」 そう答えて視線を外す遙の表情には少し苦い色が含まれていて、それでまた一歩、確信に近付いたような気がした。近くで、このごろはちょっと離れて、ずっと見てきたふたりのこと。けれど今はそっと閉じて黙っておく。決してふたりを責めたてたいわけではないのだ。 「…ん、そうだね�� 漂う空気を曖昧にぼかして脇にやり、「でも、びっくりしたなぁ」と声のトーンを上げた。遙は少しばつが悪そうにしていたけれど、ちらりと視線を戻してくる。困らせたかな、ごめんね、と心の中で語りかけた。 「凛がこの時期に帰ってくるなんて珍しいよね。前に連絡取り合ったときには言ってなかったのに」 「ああ…俺も、数日前に聞いた。こっちで雑誌だかテレビだかの取材を受けるとかで呼ばれたらしい」 なんでも、その取材自体は週明けに予定されていて、主催側で宿も用意してくれているらしい。凛はその予定の数日前、週の終わり際に東京にやって来て、この週末は遙の部屋に泊まっているのだそうだ。今は確かオフシーズンだけれど、かといってあちこち遊びに行けるほど暇な立場ではないのだろうし、凛自身の性格からしても、基本的に空いた時間は練習に費やそうとするはずだ。メインは公的な用事とはいえ、今回の東京訪問は彼にとってちょっとした息抜きも兼ねているのだろう。 「次に帰ってくるとしたら年末だもんね。早めの休みでハルにも会えて、ちょうど良かったんじゃない」 「それは、そうだろうけど…」 遙は炬燵の傍にしゃがみこんで、凛に視線を向けた。 「ろくに連絡せずに急に押しかけてきて…本当に勝手なやつ」 すうすうと寝息を立てる凛を見やって、遙は小さく溜め息をついた。それでも、見つめるその眼差しはやわらかい。そっと細められた瞳が何もかもを物語っている気がする。凛は、見ている限り相変わらずみたいだけれど。ふたりのそんな姿を見ていると自然と笑みがこぼれた。 ハル、あのね。心の中でこっそり語りかけながら、胸の内側にほこほことあたたかい感情が沸き上がり広がっていくのが分かった。 凛って、どんなに急でもかならず前もって連絡を取って、ちゃんと予定を確認してくるんだよ。押しかけてくるなんて、きっとそんなのハルにだけじゃないかなぁ。 なんて考えながら、それを遙に伝えるのはやめておく。凛の名誉のためだった。 視線に気付いた遙が顔を上げて、お返しとばかりにじとりとした視線を向けた。 「真琴、なんかニヤニヤしてないか」 「そんなことないよ」 つい嬉しくなって口元がほころんでいたらしい。 凛と、遙。そっと順番に視線を移して、少しだけ目を伏せる。 「ふたりとも相変わらずで本当、良かったなぁと思って」 「…なんだそれ」 遙は怪訝そうに言って、また浅く息をついた。
しばらくしておもむろに立ち上がった遙はキッチンに移動して、何か飲むか、と視線を寄こした。 「ついでに夕飯も食っていくか? さっきの余りなら出せる」 夕飯、と聞いて胃が声を上げそうになる。けれど、ここは早めにお暇しなければ。軽く手を振って遠慮のポーズをとった。 「あ、いいよいいよ。まだレポート途中だし、すぐに帰るからさ。飲み物だけもらっていい?」 遙は少し不満そうに唇をへの字に曲げてみせたけれど、「分かった、ちょっと待ってろ」と冷蔵庫を開け始めた。 逆に気を遣わせただろうか。なんだか申し訳ない気持ちを抱きながら、炬燵のほうを見やる。凛はいまだによく眠ったままだった。半分に折り畳んだ座布団を枕にして横向きに背を縮めていて、呼吸に合わせて規則正しく肩が上下している。力の抜けた唇は薄く開いていて、その無防備な寝顔はいつもよりずっと幼く、あどけないとさえ感じられた。いつもあんなにしゃんとしていて、周りを惹きつけて格好いいのに。目の前��いるのはまるで小さな子供みたいで、眺めていると思わず顔がほころんでしまう。 「凛、よく寝てるね」 「一日連れ回したから疲れたんだろ。あんまりじっと見てやるな」 あ、また。遙は何げなく言ったつもりなのだろう。けれど、やっぱり見つけてしまった。「そうだね」と笑って、また触れずに黙っておくけれど。 仕切り直すように、努めて明るく、遙に投げかけた。 「でも、取材を受けに来日するなんて、なんか凛、すっかり芸能人みたいだね」 凄いなぁ。大仰にそう言って視線を送ると、遙は、うん、と喉だけで小さく返事をした。視線は手元に落とされていながら、その瞳はどこか遠くを見つめていた。コンロのツマミを捻り、カチチ、ボッと青い火のつく音がする。静かなその横顔は、きっと凛のことを考えている。岩鳶の家で居間からよく見つめた、少し懐かしい顔だった。 こんなとき、いまここに、目の前にいるのに、とそんな野暮なことはとても言えない。近くにいるのにずっと遠くに沈んでいた頃の遙は、まだ完全には色褪せない。簡単に遠い過去に押しやって忘れることはできなかった。 しばらく黙って待っていると遙はリビングに戻って来て、手に持ったマグカップをひとつ差し出した。淹れたてのコーヒーに牛乳を混ぜたもので、あたたかく優しい色合いをしていた。 「ありがとう」 「あとこれも、良かったら食え」 貰いものだ、と小さく個包装されたバウムクーヘンを二切れ分、炬燵の上に置いた。背の部分にホワイトチョコがコーティングしてあって、コーヒーによく合いそうだった。 「ハルは優しいね」 そう言って微笑むと、遙は「余らせてただけだ」と視線を逸らした。 冷えきった両の手のひらをあたためながらマグカップを傾ける。冷たい牛乳を入れたおかげで飲みやすい温度になっていて、すぐに口をつけることができた。遙は座布団を移動させて、眠っている凛の横に座った。そうして湯気を立てるブラックのコーヒーを少しずつ傾けていた。 「この休みはふたりでどこか行ってきたの?」 遙はこくんと頷いて、手元の黒い水面を見つめながらぽつぽつと語り始めた。 「公園に連れて行って…買い物と、あと、昨日は凛が何か観たいって言うから、映画に」 タイトルを訊いたけれど、遙の記憶が曖昧で何だかよく分からなかったから半券を見せてもらった。CM予告だけ見かけたことのある洋画で、話を聞くに、実在した人物の波乱万丈な人生を追ったサクセスストーリーのようだった。 「終盤ずっと隣で泣かれたから、どうしようかと思った」 遙はそう言って溜め息をついていたけれど、きっとそのときは気が気ではなかったはずだ。声を押し殺して感動の涙を流す凛と、その隣で映画の内容どころではなくハラハラと様子を見守る遙。その光景がありありと眼前に浮かんで思わず吹き出してしまった。 「散々泣いてたくせに、終わった後は強がっているし」 「あはは、凛らしいね」 俺が泣かせたみたいで困った、と呆れた顔をしてコーヒーを口に運ぶ遙に、あらためて笑みを向けた。 「よかったね、ハル」 「…何がだ」 ふいっと背けられた顔は、やっぱり少し赤らんでいた。
そうやってしばらく話しているうちにコーヒーは底をつき、バウムクーヘンもあっという間に胃袋に消えてしまった。空になったマグカップを遙に預け���さて、と膝を立てる。 「おれ、そろそろ帰るね。コーヒーごちそうさま」 「ああ」 遙は玄関まで見送ってくれた。振り返って最後にもう一度奥を見やる。やはり、凛はまだ起きていないようだった。 「凛、ほんとにぐっすりだね。なんか珍しい」 「ああ。でも風呂がまだだから、そろそろ起こさないと」 遙はそう言って小さく息をついたけれど、あんまり困っているふうには見えなかった。 「あ、凛には来てたこと内緒にしておいてね」 念のため、そう言い添えておいた。隠すようなことではないけれど、きっと多分、凛は困るだろうから。遙は小さく首を傾げたけれど、「分かった」と一言だけ答えた。 「真琴、ちょっと待て」 錠を開けようとすると、思い出したみたいに遙はそう言って踵を返し、そうしてすぐに赤いパッケージを手にリビングから戻ってきた。 「貼るカイロ」 大きく書かれた商品名をそのまま口にする。その場で袋を開けて中身を取り出したので、貼っていけ、ということらしい。貼らずにポケットに入れるものよりも少し大きめのサイズだった。 「寒がりなんだから、もっと厚着しろよ」 確かに、今日のことに関しては反論のしようがない。完全に油断だったのだから。 「でも、ハルも結構薄着だし、人のこと言えないだろ」 着ぶくれするのが煩わしいのか、遙は昔からあまり着こまない。大して寒がる様子も見せないけれど、かつては年に一度くらい、盛大に風邪を引いていたのも知っている。 「年末に向けて風邪引かないように気を付けなよ」 「俺は大丈夫だ、こっちでもちゃんと鯖を食べてるから」 「どういう理屈だよ…って、わあっ」 「いいから。何枚着てるんだ」 言い合っているうちに遙が手荒く背中をめくってくる。「ここに貼っとくぞ」とインナーの上から腰の上あたりに、平手でぐっと押すように貼り付けられた。気が置けないといえばそうだし、扱いに変な遠慮がないというか何というか。すぐ傍で、それこそ兄弟みたいに一緒に育ってきたのだから。きっと凛には、こんな風にはしないんだろうなぁ。ふとそんな考えが頭をもたげた。 遙はなんだか満足げな顔をしていた。まぁ、きっとお互い様なんだな。そう考えながら、また少し笑ってしまった。 「じゃあまたね、おやすみ」 「ああ。気を付けて」
急にひとりになると、より強く冷たく風が吹きつける気がする。けれど、次々沸き上がるように笑みが浮かんで、足取りは来る前よりずっと軽かった。 空を仰ぐと、小さく星が見えた。深く吐いた息は霧のように白く広がった。 ほくほく、ほろほろ、それがじわじわと身体中に広がっていくみたいに。先ほど貼ってもらったカイロのせいだろうか。それもあるけれど、胸の内側、全体があたたかい。やわらかくて、ちょっと苦さもあるけれど、うんとあたたかい。ハルが、ハルちゃんが嬉しそうで、良かった。こちらまで笑みがこぼれてしまうくらいに。東京の冬の夜を、そうやってひとり歩き渡っていた。
■ハレーション
キンとどこかで音がするくらいに空気は冷えきっていた。昨日より一段と寒い、冬の早い朝のこと。 日陰になった裏道を通ると、浅く吐く息さえも白いことに気が付く。凛��相変わらず少し先を歩いて、ときどき振り返っては「はやく来いよ」と軽く急かすように先を促した。別に急ぐような用事ではないのに。ためらいのない足取りでぐんぐんと歩き進んで、凛はいつもそう言う。こちらに来いと。心のどこかでは、勝手なやつだと溜め息をついているのに、それでも身体はするすると引き寄せられていく。自然と足が前へと歩を進めていく。 たとえばブラックホールや磁石みたいな、抗いようのないものなのだと思うのは容易いことだった。手繰り寄せられるのを振りほどかない、そもそもほどけないものなのだと。そんな風に考えていたこともあった気がする。けれど、あの頃から見える世界がぐんと広がって、凛とこうやって過ごすうちに、それだけではないのかもしれないと感じ始めた。 あの場所で、凛は行こうと言った。数年も前の夏のことだ。 深い色をした長いコートの裾を揺らして、小さく靴音を鳴らして、凛は眩い光の中を歩いていく。 格好が良いな、と思う。手放しに褒めるのはなんだか恥ずかしいし、悔しいから言わないけれど。それにあまり面と向かって言葉にするのも得意ではない。 それでもどうしても、たとえばこういうとき、波のように胸に押し寄せる。海辺みたいだ。ざっと寄せて引くと濡れた跡が残って、繰り返し繰り返し、どうしようもなくそこにあるものに気付かされる。そうやって確かに、この生きものに惚れているのだと気付かされる。
目的地の公園は、住んでいるアパートから歩いて十分ほどのところにある。出入りのできる開けた場所には等間隔で二本、石造りの太い車止めが植わるように並んでいて、それを凛はするりと避けて入っていった。しなやかな動きはまるで猫のようで、見えない尻尾や耳がそこにあるみたいだった。「なんか面白いもんでもあったか?」「いや、別に」口元がゆるみかけたのをごまかすためにとっさに顔ごと、視線を脇に逸らす。「なんだよ」凛は怪訝そうな、何か言いたげな表情をしたけれど、それ以上追及することはなくふたたび前を向いた。 道を歩き進むと広場に出た。ここは小さな公園やグラウンドのような一面砂色をした地面ではなく、芝生の広場になっている。遊具がない代わりにこの辺りでは一番広い敷地なので、思う存分ボール投げをしたり走り回ったりすることができる。子供たちやペットを連れた人たちが多く訪れる場所だった。 芝生といっても人工芝のように一面青々としたものではなく、薄い色をした芝生と土がまだらになっているつくりだった。見渡すと、地面がところどころ波打ったようにでこぼこしている。区によって管理され定期的に整備されているけれど、ここはずいぶん古くからある場所なのだそうだ。どこもかしこもよく使い込まれていて、人工物でさえも経年のせいでくすんで景観に馴染んでいる。 まだらで色褪せた地面も、長い時間をかけて踏み固められていると考えれば、落ち着いてもの静かな印象を受ける。手つかずの新品のものよりかは、自分にとって居心地が良くて好ましいと思えた。 広場を囲んで手前から奥に向かい、大きく輪になるようにイチョウの木々が連なって並んでいる。凛は傍近くの木の前に足を止め、見上げるなり、すげぇなと感嘆の声を漏らした。 「一面、金色だ」 立ち止まった凛の隣に並び、倣って顔を上げる。そこには確かに、すっかり金に色付いたイチョウの葉が広がっていた。冬の薄い青空の真下に、まだ���南に昇りきらない眩い光をたっぷりと受けてきらきらと、存在を主張している。 きんいろ、と凛の言葉を小さく繰り返した。心の中でもう一度唱えてみる。なんだか自分よりも凛が口にするほうが似つかわしいように思えた。 周囲に視線を巡らせると、少し離れた木々の元で、幼い子供ふたりが高い声を上げて追いかけっこをしていた。まだ幼稚園児くらいの年の頃だろうか、頭一個分くらい身の丈の異なる男の子ふたりだった。少し離れて、その父親と母親と思しき大人が並んでその様子を見守っている。だとすると、あのふたりは兄弟だろうか。大人たちの向ける眼差しはあたたかく優しげで、眩しいものを見るみたいに細められていた。 「な、あっち歩こうぜ」 凛が視線で合図して、広場を囲む遊歩道へと促した。舗装されて整備されているそこは木々に囲まれて日陰になっているところが多い。ここはいつも湿った匂いがして、鳥の鳴き声もすぐ近くから降りそそぐように聞こえてくる。よく晴れた今日はところどころ木漏れ日が差し込み、コンクリートの地面を点々と照らしていた。 休日の朝ということもあって、犬の散歩やジャージ姿でランニングに励む人も少なくなかった。向かいから来てすれ違ったり後ろから追い越されたり。そしてその度に凛に一瞥をくれる人が少なくないことにも気付かされる。 決して目立つ服を着ているわけでもなく、髪型や風貌が特に奇抜なわけでもないのに、凛はよく人目を惹く。それは地元にいたときにも薄っすらと浮かんでいた考えだけれど、一緒に人通りの多い街を歩いたときに確信した。凛はいつだって際立っていて、埋没しない。それは自分以外の誰にとってもきっとそうなのだろう。 いい場所だなぁ。凛は何でもないみたいにそう口にして、ゆったりとした足取りで隣を歩いている。木々の向こう側、走り回る子供たちを遠く見つめていたかと思えば、すぐ脇に設けられている木のベンチに視線を巡らせ、散歩中の犬を見て顔をほころばせては楽しそうに視線で追���ている。公園までの道中は「はやく」と振り返って急かしたくせに、今の凛はのんびりとしていて、景色を眺めているうちに気が付けば足を止めている。こっそり振り返りながらも小さく先を歩いていると、ぽつぽつとついてきて、すうと寄せるようにしてまた隣に並ぶ。 その横顔をちらりと伺い見る。まるで何かを確かめるかのように視線をあちらこちらに向けてはいるものの、特にこれといって変わったところもなく、そこにいるのはいつも通りの凛そのものだった。 見られるという行為は、意識してしまえば、少なくとも自分にとってはあまり居心地が良いものではない。時にそれは煩わしさが伴う。凛にとってはどうなのだろう。改まって尋ねたことはないけれど、良くも悪くも凛はそれに慣れているような気がする。誰にとっても、誰に対しても。凛はいつだって中心にいるから。そう考えると苦い水を飲み下したような気持ちになって、なんだか少し面白くなかった。
遊歩道の脇につくられた水飲み場は、衛生のためだろう、周りのものよりずっと真新しかった。そこだけ浮き上がったみたいに、綺麗に背を伸ばしてそこに佇んでいた。 凛はそれを一瞥するなり近付いて、側面の蛇口を捻った。ゆるくふき出した水を見て、「お、出た」と呟いたけれど、すぐに絞って口にはしなかった。 「もっと寒くなったら、凍っちまうのかな」 「どうだろうな」 東京も、うんと冷えた朝には水溜まりが凍るし、年によっては積もるほど雪が降ることだってある。水道管だって凍る日もあるかもしれない。さすがに冬ごとに凍って壊れるようなつくりにはしていないと思うけれど。そう答えると凛は、「なるほどなぁ」と頷いて小さく笑った。 それからしばらくの間、言葉を交わすことなく歩いた。凛がまた少し先を歩いて、付かず離れずその後ろを追った。ときどき距離がひらいたことに気付くと、凛はコートの裾を揺らして振り返り、静かにそこに佇んで待っていた。 秋の頃までは天を覆うほど生い茂っていた木々の葉は、しなびた色をしてはらはらと散り始めていた。きっとあの金色のイチョウの葉も、程なくして散り落ちて枝木ばかりになってしまうのだろう。 「だいぶ日が高くなってきたな」 木々の間から大きく陽が差し込んで、少し離れたその横顔を明るく照らしている。 「あっちのほうまできらきらしてる」 中央の広場の方を指し示しながら、凛が楽しげに声を上げた。示す先に、冷えた空気が陽を受け、乱反射して光っている。 「すげぇ、綺麗」 そう言って目を細めた。 綺麗だった。息を呑んで見惚れてしまうほどに。いっぱいに注がれて満ちる光の中で、すらりと伸びる立ち姿が綺麗だった。 時折見せる熱っぽい顔とは縁遠い、冴えた空気の中で照らされた頬が白く光っていた。横顔を見ていると、なめらかで美しい線なのだとあらためて気付かされる。額から眉頭への曲線、薄く開いた唇のかたち。その鼻筋をなぞってみたい。光に溶け込むと輪郭が白くぼやけて曖昧になる。眩しそうに細めた目を瞬かせて、長い睫毛がしぱしぱ、と上下した。粒が散って、これも金色なのだと思った。 そうしているうちに、やがて凛のほうからおもむろに振り返って、近付いた。 「なぁ、ハル」少し咎めるような口調だった。「さっきからなんだよ」 ぴん、と少しだけ背筋が伸びる。身構えながらも努めて平静を装い、「なにって、何だ」と問い返した。心当たりは半分あるけれど、半分ない。 そんな態度に呆れたのか凛は小さく息をついて、言った。じっと瞳の奥を見つめながら、唇で軽く転がすみたいな声色で。 「おれのこと、ずっと見てんじゃん」 どきっと心臓が跳ねた。思わず息を呑んでしまう。目を盗んでこっそり伺い見ていたのに、気付かれていないと思っていたのに、気付かれていた。ずっと、という一言にすべてを暴かれてしまったみたいで、ひどく心を乱される。崩れかけた表情を必死で繕いながら、顔ごと大きく視線を逸らした。 「み、見てない」 「見てる」 「見てない」 「おい逃げんな。見てんだろ」 「見てないって、言ってる」 押し問答に焦れたらしく凛は、「ホントかぁ?」と疑り深く呟いて眉根を寄せてみせる。探るような眼差しが心地悪い。ずい、と覗き込むようにいっそう顔を近付けられて、身体の温度が上がったのを感じた。あからさまに視線を泳がせてしまったのが自分でも分かって、舌打ちしたくなる。 「別に何でもない。普段ここへは一人で来るから、今日は凛がいるって、思って」 だから気になって、それだけだ。言い訳にもならなかったけれど、無理矢理にそう結んでこれ以上の追及を免れようとした。 ふうん、と唇を尖らせて、凛はじとりとした視線を向け続ける。 しかしやがて諦めたのか、「��、いいけどさ」と浅くため息をついて身を翻した。 顔が熱い。心臓がはやい。上がってしまった熱を冷まそうと、マフラーを緩めて首筋に冷気を送り込んだ。
それからしばらく歩いていくうちに遊歩道を一周して、最初の出入り口に戻ってきた。凛は足を止めると振り返り、ゆっくりと、ふたたび口を開いた。 「なぁ、ハル」今度は歩きながら歌を紡ぐみたいな、そんな調子で。 「さっきは良いっつったけどさ、おれ」 そう前置きするなり、凛はくすぐったそうに笑った。小さく喉を鳴らして、凛にしては珍しく、照れてはにかんだみたいに。 「ハルにじっと見つめられると、やっぱちょっと恥ずかしいんだよな」 なんかさ、ドキドキしちまう。 なんだよ、それ。心の中で悪態をつきながらも、瞬間、胸の内側が鷲摑みされたみたいにきゅうとしぼられた。そして少しだけ、ちくちくした。それは時にくるしいとさえ感じられるのに、その笑顔はずっと見ていたかった。目が離せずに、そのひとときだけ、時が止まったみたいだった。この生きものに、どうしようもなく惚れてしまっているのだった。 「あー…えっと、腹減ったなぁ。一旦家帰ろうぜ」 凛はわざとらしく声のトーンを上げ、くるりと背を向けた。 「…ああ」 少し早められた足取り、その後ろ姿に続いて歩いていく。 コンクリートの上でコートの裾が揺れている。陽がかかった部分の髪の色が明るい。視界の端にはイチョウの木々が並んできらめいていた。 「朝飯、やっぱ鯖?」 隣に並ぶなり凛がそっと訊ねてきた。 「ロースハム、ベーコン、粗挽きソーセージ」 冷蔵庫の中身を次々と列挙すると、凛はこぼれるように声を立てて笑ってみせた。整った顔をくしゃりとくずして、とても楽しそうに。つられて口元がほころんだ。 笑うと金色が弾けて眩しい。くすみのない、透明で、綺麗な色。まばたきの度に眼前に散って、瞼の裏にまで届いた。 やっぱり凛によく似ている。きっとそれは、凛そのものに似つかわしいのだった。
(2017/12/30)
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