fizzzm
のうみそのなかみ
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fizzzm · 2 years ago
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しにたいというよりすこししにそう どこまで行っても受動的 でも受動的になりきれないエゴが底にこびりついているのがとても醜い
すごく誰かに頼りたい。甘えているんだと思いながら預けたい。毎晩よるすこし泣いている たまに朝も泣くけど だれもそれを知らない、知る必要もない でもほんとうは、監視カメラか天使にみていてもらいたいと思っています どうにもならなくても、そう
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fizzzm · 4 years ago
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先々週のこと/日記とブログと記憶
9月そして10月となんだかんだで週休1日以下が続いていて、というよりかはそれなりに仕事で色々なことがあって(でも色々なことがあったと言っていいほどに仕事を出来ている気はしない)、その週に一度あるかないかの休みを朝寝坊して過ごすことが多くなっている。もともと朝はべらぼうに弱いし、寝ていていいのならば寝ていたい。そこにコロナがやってきて、あまり出歩くでないというその影響の残滓が、そして月曜日はどこも休みだという状況が、昼前まで寝ていることの都合のよい言い訳みたいになっていた。 遅く起きると、洗濯機をまわし、掃除機をかけ、ここのところはまっているヨガの真似ごとをして、あさひるごはんを食べる。コーヒーか紅茶もたっぷり入れて、最初はyoutubeとかを見ているのだけれどそのうちに飽きてなんどかホームをリロードしているうちに、つくえの脇に積んである本を手に取る。最初から本を読めばいいのに、といつもあとになって思っている。 その日開いたのは三品輝起さんの『雑貨の終わり』という本だった。関心ごとのひとつだった生活工芸周りのことを考えるにあたって読みたいな、と思っていたところ、「考える人」のウェブでサイン本プレゼント企画をやっていて、これまた何か仕事のこと��落ち込んでいた昼休みになんとなく応募したら後日ほんとうにサイン本が送られてきた。サイン本というものに応募するのも、当たるのも初めてで、ポストを見てびっくりして嬉しかったのに、一週間ほど寝かせていたのだった。あらゆるものが「雑貨化」していく世の中を、すこし憂うように雑貨のお店のなかで見つめ語る言葉を読んで、自分の本棚に並ぶいろいろなものを見返してしまった。小さな石のついたオブジェ、サイコロ、郷土玩具、大きな松ぼっくり、わたしはまさに「雑貨感覚」を曲がりなりにも習得して発揮してしまっているのだと思う。そしてこんな本を、「サイン本プレゼント企画」なんていう方法でいただいて読んでいることが、あまりにミスマッチに思えて、すこし気が引けてしまった。けれども体温の低い語り口と視線が巧妙で、半分くらいまで読み進める。なかには村上春樹の書斎の話がでてきて、その高度な「雑貨感覚」のことを読んで思わずペンギンブックスのウェブサイトから村上春樹のページをチェックした。レコード棚のうえに置いてある野球選手のフィギュアは、確かにハイソな雰囲気を和らげていた。 そのままいくとほんとうに自宅と職場の引きこもりになってしまうので、すこしは出かけようと思ってかるく化粧をしてから考える。何もやる気がおきなくてもうだめだという気分だけれど、これ以上だめになりたくないというとき、自分が出かける先は二つある。ひとつは美容院で、もうひとつは映画館。どちらも、自分は座っているだけで何かが起きてくれるから。(わたしは映画のことをなんだと思っているのだろう。ひどい話だ。)そしてその日は気になっているものがあったので、映画館へ行くことにする。今住んでいる町には映画館がないので、電車に乗っていけることもまたよい。車内では北村薫さんの『詩歌の待ち伏せ』を読む。北村さんの本は、本屋さんになったゼミの同期の人が何年か前に小説を勧めてくれてから読むようになった。(コロナウイルスが世を賑わしたGW中に、彼が久方ぶりに連絡をくれてまた本を勧めてくれた。そのときに教えてくれた本はやっぱりどれも良くて、また何かおすすめして欲しいと思うけれどなんだかずうずうしいかなと思って連絡を取ることができない。)北村さんのなかで詩と詩が、作家とエピソードが、どんどん繋がっていくさまがミステリーみたいで、登場する作家や文学のほとんど何も知らないのに、贅沢に味見をさせてもらうようにすこしずつ読んでしまう。待ち伏せに遭うのも、その愛情と熱量と深い知性があってゆえのことなのだろうと、��れる。 映画館には開演ぎりぎりの時間で間に合って、「真夏の夜のジャズ」を観る。1958年のニューポートジャズフェスティバルのドキュメンタリー。クレジットの文字組が水面に揺れて(いた気がする)、サックスの手元が映る。見えないけれど、すこしくぐもった、煙ったようなまろやかなトロンボーンが聴こえる。なんだかBob Brookmeyerみたいですきな音だ、と思っていると、クレジットがでて、Jimmy Giuffre Threeというそのトリオの名前を知る。そして、最後にちらっと映ったトロンボーンプレイヤーがまだ若かりし(?)ブルックマイヤー氏でびっくりする。自分がまだ、自分のすきなものを分かることに、ほっとしてすこしうれしくなった。あとはひたすらぼーっと映画をみる。観客たちの服装がかわいいな(柿色のニットに白いシャツ、ジーンズにベルトを締めてビール片手に踊る女のひと、チェックシャツにメガネでカメラを構える女の子)、とか、もうちょっとこのひとの音楽を聴いていたかったな、とか、もっとバンド全体を写してほしい、とか、チェロの音はいいなあ、とか、勝手なことを思ってぼんやりとスクリーンをみつめ、かかとの感覚のなかだけで2・4のリズムを刻む。おじさんがふたり、大学生らしき男子がひとり、そしてわたししかいない映画館で、もう半世紀以上も前の一瞬が刻々と流れる余白みたいな空間。自分にまだ一応すきなものがあるということがわかったのは幸運だった。 そのまま歩いてすぐにあるジャズ喫茶にでも行けるとよかったのだけど、案の定月曜はどこもお休みなので、本屋さんに行く。せっかく街に出てきたのだからと、大きい本屋さんをうろうろとする。(街に出てくる、という感覚がよく分かるようになってきた。)小説棚をうろつき、雑誌コーナーで立ち読みをし、レシピ本を物色して、小説をひとつ、そして映画の余韻につられて『文學界』のジャズ特集を買った。月曜日の繁華街は仕事終わりのひとたちで賑わいはじめ、明らかに休みであるような格好で人ごみを抜ける。おおむねみなさん働いたような格好をしている。電車の窓に映る俯きがちの顔々をみつめる。 家��帰り、文學界をぱらぱらとめくると、村上春樹がレコード棚を背にゆったりと腰掛けていた。棚の上には今朝PCで見ていた野球選手のフィギュアが相変わらずお茶目さを放っている。北村さんのエッセイみたい。一日が円環となってつながったみたいだった。
「先週のこと」とタイトルだけつけて書き出した一日は、もう二週間以上も前のことになっている。ここのところ書けなくなっていた日記を、ブログにすれば書けるかと思ってすこしずつ書き出していた。ブログならきっとそのままを書かないから、ちょっとは楽かと思ったのだがそうでもない。(でも、すこしは楽しい。これは自分に認めてほしい。)そしてそれとは全く別のところで聡明な友人に日記を書くきっかけをもらった。久しぶりに書く日記はうまく書けない。一日はぜんぜん書ききれない。そして書いた風にわたしは記憶をつくっているのだった。空白の多い2ヶ月くらいのページを見返して、記憶から抜け落ちるいろんな日の細部をちょっとだけ思う。誰も見ていなくたってブログに書くことはすこし整えられた気持ちで、日記もその程度は落ちれどすこしは作り物。でも記憶をなくしやすいわたしは、そうやって書いたりたまに読み返したりして、昨日と今日を同じひととしてやってきたのだった。それならばもしかして。もしかして、と思う。
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fizzzm · 5 years ago
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もうちょっと何か書きたかったはず
たぶん久しぶりに会った父に、真面目に話(表現の自由、自分の国籍がある国が関わった戦争について話すこと、祈りを込めて茶碗を作っているひとのこと、等々)をしたら、「そんなに色々考えているんだったら他人の面倒みてるんじゃなくて自分で表現しろ」と言われた。そして「考えすぎ」とも。
その日は確か十何連勤の果ての一日だったので、なんだかそれだけでとても悲しくなってしまい、そのままの気持ちを持って帰るかと思いきや、道すがらひたすらYoutubeをみて、一人の部屋に戻っても詰め込むように何かをみて、やっと明日起きなくてはならない時間のことが頭をよぎってくれた頃、日記も書かずに布団にくるまった。
一体わたしが何を考えすぎているというのだろう。
 優しくないことを言ってしまったし、もっと優しくないことを思ってしまったからおなかがちょっと痛い。いろんなことが渦巻いているけれど、これはすべてただの反射のように思う。難しい言葉も引用も、まどろっこしい言い回しも、ぜんぶわたしのものではない。何か戦っているから、矢継ぎ早に言葉を繰り出さなくてはならない。そんなこと、考えてるの?喋った倍の時間を黙っていなくてはうまくバランスが取れない。ついでにいうとそれは何のためのバランスか。書いているとむにゃむにゃと思ってしまうな。
 茨木のり子さんの「自分の感受性くらい/自分で守れ/ばかものよ」という詞がほんとうにわかるようになってしまった気がする。皮膚の厚くなってしまったのも、首すじのこわば��ているのも、眼のかすむのも。でも、あっ��かもしれないやわらかさなんていうのも、また都合の良い幻想だという気も大いにするのである。そんななかで、心底つよくやわらかいひとがいるというのもきっと事実である。何もかも言い切れないけどそういうものなんですね世の中は、と、クリシェと思われようがそう括るしかできないのです。言葉にするってそういうことだ。思いも考えも、言葉にすこし引っ張られるようにして、ちょっとずつかたちを変えて、それでやっと動いてくれる。
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fizzzm · 6 years ago
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湯気
休みの日。半日寝込んでしまったので、近所の喫茶店に仕事に来た。正直にいってパソコンを広げるのが似合う場所ではないけれどいたしかたない。ちょっとだけ書いて、修正をして、えいやっとメールで送って、引き続きわたしはパソコンを広げている。送信ボタンを押すのは、いつもこわい。 常連らしきおじさまが、こないだスターバックスに行ったよ、と言うと、ママさんが、え〜**さんが!あんなおしゃれなところ!似合わない!何飲んだの?と応える。ここが休みなのがいけないんだよ、え〜っと、なんだっけ、キャラメル…マキアート?え〜!キャラメルマキアート!可愛いもの飲むのねぇ!もう一人のおじさまも話に加わる。僕も好きだよ、キャラメルマキアート。甘いけど、美味しいよね、あれ。でも若い子でいつも混んでるんだよなあ、スタバ。ホール係の女の子は、お土産でもらった半月を食べている。わたしはふと鎌倉に帰りたいなと思い出す。このあいだは祖母の誕生日だった。 ここはこういう町だ。
ここ数日、湯気になりたい気持ちが消えない。ほんとうは、湯気立つようないきものになりたいのだが、いきものでありたいという気持ちの所在はおぼつかない。しかし湯気になりたいとはどういうことか。水分が熱されてあたたかい湯気になる。湯気はつめたくなればただの水蒸気。上昇気流にのって上のほうへ行ければ、冷やされて、水滴になって、雲になる。集まりすぎて重くなれば、雨になってまた下のほうへ落ちていき、紆余曲折を経てもしかするとまたコンロの上、やかんの中、熱されて湯気になる。ふわふわと白く見えて、あたたかさをふれて感じることのできる湯気は、あるひとときの状態である。いつも見えるわけじゃない、いつまでもあたたかいわけじゃない。かたちも性質も変わってしまうけれど、湯気は湯気ではなくなってしまうけれど、消えてしまうことはない。 続いているもののことを考える。ある種の無理な���命措置やホルマリン漬けみたいな仕事をしている気がしていて、どうしたらこれらのものも、わたしも、自然に生きることができるのか、とぼんやり思うことがある。(炎上しそうな言い方だなあ。)でも、生まれてしまったものは、ただそれだけで生まれてくるわけではないし(これを何かの結果であると言うことは、わたしにはまだできない)、そしてそれは存在してしまった以上、影を残して、それがふくみこまれているところのおおきな渦のひとかけらの重みになる。なってしまう。これが祝福すべきことなのか、憎らしく思うことなのか、まだまだわからないけれど、なんとなくそういうことなんじゃないか、と思うことがある。自分の仕事を歴史のなかに真剣に考えて語る人はもちろん、わたしみたいなものも、存在してしまった以上、渦の一部、螺旋のなかにいる。交わることがあってもなくても、概ね、神様の目で観れば、おおきなかたまりとなって流れている。そんな感じ。どうせならばその渦みたいなものが、どこか良いところへ流れてくれればいいと思うけど、渦は渦で、特に意味なんてないのだろう。ほんのひと部分として思っています。 そんななかで、やはり湯気になりたいのである。あったかくて、ふれることができて、続いていて、あ、でも、つかめないね。ちょっとさみしいね。
だれに届くわけでもないけれど、投稿する ボタンを押すのもやはりこわい。
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fizzzm · 6 years ago
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ものんくる@ApolloBase/役立たずの灯台
これから書くことは、ほとんど「ものんくるのライヴがすごくよかった」の一文で過ぎてしまうことだ。実際のところそれだけでいいのだけど、今日は午後から休みの日のよるで、わたしは今隣町のスターバックスまで意味もなく来ている。ソファ席のテーブルは低すぎて、はっきり言って書き物には向いていない。開店してまだひと月というお店の店員さんたちがコーヒーを淹れる手つきは、そそっかしくて好ましい。
 さて、ライヴ。繰り返し読み込み直される(リロード)HOT CVのテーマと数々の楽曲だったり、アコースティックなパート、踊っているスーツ姿のひとたちだったり(映画「きみの鳥はうたえる」を見てから、踊りたくて仕方なかった)、「宇宙人」の新曲だったり、何よりもあの声だったり、素晴らしいことがたくさん詰まっていたのだけれど、一番ぐっときたのは「優しさを重ねること」だった。
なまじ時間があるせいか、もううんざりするほどに毎晩きたなく嫌なこと���シャワーを浴びながら考えつぶやき叫んでいる。そんな精神に、声と言葉とリズムブレイクがささるように沁みた。
”この世界に優しさ重ねて 空高く伸びる大きな灯台をつくる” この灯台はきっとアントニオ・タブッキの『島とクジラと女をめぐる断片』にでてくるような灯台だと、勝手に感じた。inutile phare de la nuit、役立たずの夜の灯台。ほんとうは存在もしない(かもしれない)、ただ光っているだけの灯台。誰もみていないけれど、空よりもくらい地上と海の境目で光っている灯台。なんて心が落ち着くイメージなんだろうと思って、たまに口の中で飴玉のように転がしているフレーズだ。それがもうありありと浮かぶ。
役立たずの灯台が、優しさでできていたらいいなあと思う。優しさが役に立たないものであるといいな、とも思う。
(ヘンリー・ダーガーの部屋はみつかってしまったけれど、ダーガーの 話は「発見」されなかった/されていない無数のヘンリー・ダーガーについて想像させてくれる。(こう思っている人がこの世に一定数いることも、知っている。)無数のダーガーと彼らの部屋やノートブックは、優しさなんてものでは決してないけれど、彼らがいるという可能性もまた、わたしにとっては”役立たずの灯台”である。その可能性はわたしにとって紛うことなきみえない灯りなのだ。)
ものんくるが歌う灯台は煌々とあかるい。でも、なんとなく、それはずっと待っていて、なんなら自分が役に立つなんてことがなくなるように祈っている、そんな灯台に感じたのだった。
 あとで歌詞を検索したら、この灯台はもうちょっと役に立っていて、誰かが見つけてくれるそうだった。結局のところ人は(わたしは)見たいようにしか見ていないし聴きたいようにしか聴いていない。
このアルバムも欲しいなあ。ライヴに行かれた方、匿名でも、矢文でも構わないので、感想をおしえてくれたらうれしいです。
 コーヒーで薬をのんで、アップルパイを食べているおじさんがいる。いいなあ、なんてぴったりなんだ、秋の夜にアップルパイなんて。みんなあったかくして、アップルパイを食べているといいなって思う。
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fizzzm · 6 years ago
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8月31日
いつまでそんな青臭くいるつもりだ、と頭の片隅は嘲笑するが、8月31日というのはやはりどこか心臓をきゅっとつかまれる心地がする。夏休みが31日に終わることなんてなかった気もするけれど、明日もきっとそれなりに暑いけれど、やはり夏が終わる気がする。明日は9月なのだ。
「みなさんの夏はいかがでしたか?」とネットの海に問いかけて、一体どんな答えが返��てくるのだろうか。あるいは、どんな口の外をでないつぶやきが生まれたのだろうか。
最近買ったうれしい音楽をiPhoneに同期しようと久しぶりにiTunesにつないだら、なぜかもうかれこれ6年、そう、指を折って数えるくらいだ、6年!も前のボイスメモが同期されてしまった。演奏の録音ばかり。自分の下手くそなベースと誰かの上手なドラム、お客さんのしゃべり声、これはどこだったか。自分の顔が赤くなるタイミングが手にとるようにわかるけれど、すごく楽しそうだし、実際泣きそうな顔して楽しかったのだろう。
楽しさは伝染する。かなしさも怒りも然り。わたしは善いメディウムだろうか。この夏は、伝染したい人や瞬間がいくつかあったはず。忘れない忘れないと念じると、透明な部分が白濁して固まる気がする。
自分が今ここにいることの、こうしていることの、自分であることの責任について考えている。考えている、と書いてはいるがその実考えてなどいない。考えていないほうの責任は、これは確かにわたしにある。
扇風機が、わたしが熱した空気を部屋の隅へと追いやっている。
草いきれたつ夏の終わり。サルスベリの百日の最後。かたちにならないままに9月がくるよ。
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fizzzm · 7 years ago
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言葉はいらない/このまま海へ飛ばそう/車で
初夏のようなけだるさが、秋のような何かぽかっとした空虚さへ。空虚さという言葉のその中身が空っぽだ。冷蔵庫の音を聞いていたくなくて、テレビの将棋トーナメントを流しておく。この人と喋ってみたいなあと妄想する。想像もできない話を聞きたい。先生というものに弱い。今日は寒かったですね。
勘違いも甚だしいのかもしれないけれど、シニフィアンやシニフィエの話を読んでいると、言葉は比喩、というか喩で成り立っているといる、と言われているように感じる。音と意味されるものにはそれぞれの体系がある。全く違うそのふたつに共通項を見出して(見出してなんかなくて、恣意的というのが論だ)同じものとして繋げる。比喩である。 このときの、意味されているもの、は、意味ではない。と思う。 ここからは別のはなし。意味ってなんだ、と最近殊更にわからない。このあいだ聞いた話に「美術とは究極的には代理表象であって、その意味に迫っていくことが鑑賞だ」という論があった。わたしの考える意味というものでは、その言説は理解というか納得しがたかった。意味はある程度絶対的なもので、自立している。物事の関係性であるところの理由とも異なる(わたしの悪いくせのひとつは意味と理由を一緒くたにすることだ)。そして、かなりの確率で言語的なものだ。意味をそのようなもの、つまり何かの解のようなものとして、考えたとき、件の論はなんだか堅苦しいように思えてしまう。国語の設問「このときの筆者の思いは?意図は?」のようなイメージである。ああ、また意味と理由が一緒になってしまっている。 意味も、言葉で考える限りは比喩であろう。そう考えると見え方はまた異なってくる。喩、喩、喩で連なっていく意味。入れ子のような、螺旋のような、同心円のような。身体の浮くようなイメージである。
さて、昨晩、偶然から聴いている山下達郎は「心のすきまに 風を貼り付けながら 僕等はたちまち 夏のコラージュに変わる」と歌っている。わたしはなんだかすっかり納得してしまった。納得するとか、そういうことじゃないのだけれど。わたしたち、意味なんかなくて、コラージュなんじゃない?って思ってしまう。夏のCollage、すてきな曲ですね。
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fizzzm · 7 years ago
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ロシアと『想像ラジオ』
花粉症ではないけれど、今日の花粉飛散量は「とても多い」と天気予報が真っ赤な顔をして告げているので、洗濯物を部屋干ししている。外は明るいのに、その分だけすこしひんやりとした部屋の中。
春が匂うこの時期、「あの時、どこにいた?」ということが頻繁に話題になる。私はあの日、高校3年生だった。正確にはもう卒業した後だったので身分としてはもはや何でもなく、そして、日本にもいなかった。初めての一人海外旅行でロシアにいた。ロシアに住んでいた友人の家に泊まらせてもらっていたので、全くもって一人旅という風情ではなかったけれど。 高層マンション(だったと思う)の友人宅の窓の外で街灯のオレンジ色が寒そうだったこと、ロシアのお姉さんは雪でもピンヒールだったこと、なんとなくイランと同じにおいがしたこと、断片的な記憶しかなくて、もしかしたら今書くことも間違っているかもしれない。 3月11日はボリショイ劇場にいた。観劇の前にロビーでお茶をしていて、そこでご婦人から声をかけられる。「あなた日���人?何だか日本が大変みたいよ」と。その時地震の話を聞いたのかは、よく覚えていない。観たオペラは、とある古典の現代解釈作品で、内容はほとんど理解できなかったのだがマンションの断面図みたいな不思議な舞台装置だけ目に焼き付いている。 友人宅に戻ってから、ニュースで津波の映像を見た。場所は家族のいる名古屋や鎌倉では無さそうだということに多分ほっとして、けれどただ事ではないらしい、とぼんやりとしか理解できなかった。外国語のナレーションが重なるまっくろな津波の映像はそのもっと前の9月11日のニュース映像に感じが似て、あまりにも非現実的だったのだ。(そのニュースを見たのは、もう数ヶ月したら、おもちゃみたいに崩れ落ちたビルがシンボルマークだったその華やかな街に、引っ越すことが決まっていたときだった。) 家族と連絡を取ったのかも覚えていない。けれども残り数日のロシアは友人一家のおかげで存分に満喫し、快晴のフィンランド・ヘルシンキ(こちらは本当に一人旅)も歩き回り、本当にたくさんの物事を見たり聞いたり嗅いだりするのに夢中で、よくよく日本で起きていることを考えもしないうちにわたしは中部国際空港に戻っていた。名古屋も春盛りの良い天気で、しかしやけに静かだったように思う。迎えに来てくれた母から、いくつかの商品がスーパーから消えていることなどを聞いた。 この後、進学先だった東京の大学の入学式は遅れ、周囲より少し長い宙ぶらりんの期間に、友人達の入学式に出席してみたり、ひたすら自転車を乗り回したり、新しい生活を思って不安になってみたり、色々したのだが、不思議と震災についてよく考えた記憶がない。家の前で開催した一箱古本市の売り上げをジャスコの募金箱に納めたとき、その内実をわかっていたとは思えない。 毎年3月が近くなり「あの時」の話になるとき、ちょっとしたうしろめたさが付きまとう。揺れていない、文字通り非常に遠くにいて、感覚がないこと。思って、考えていなかったこと。
働き始めてから、仕事の調べ物で行ったある大学図書館の新着本コーナーでいとうせいこう『想像ラジオ』を見つけた。仕事とは関係が無かったけれど、ひとまず借りて、帰りに寄った喫茶店で本を開いた。 物語の語り手その一、深夜ラジオの陽気で親密なノリで話すDJアークは、実は高い高い杉の木の上に引っかかっている「身体」である。ある限られた人たちに聴こえるラジオの声。いろいろなところにいるリスナーたちから届くメッセージ。そして、書くことを通じて亡くなった��人と話す作家。すべては生きている人が見たくて、聴きたくて、創りあげた虚像であると言ってしまうことは簡単だ。聴きたいのに聞こえない人だってたくさんいるのだろう。けれど、この本は、そう言い切って思考停止をさせない。想像ラジオは、想像とかなしみを媒体に放送されている。想像してますかー、と呼びかける。 誰のせいでもなくいなくなる人といささか人工的に生まれてくる人とで、出入りが激しい世の中は、目に見えること、事実だけで捉まえることは難しい。この世の輪郭があるとしたら、それを規定するのはその外側だ。この世にないもので、この世は出来ている。わたしはわたしではないあなたの存在によって、かたちづくられている。あの日はもちろん、多くの人の世界のかたちが否応なく変わった日だろう。 今日は様々なメディアで、あの時から続いている今を伝える情報が流れてきた。映像や文字を通じてだけれど、そこに本当に人がいて、色んな日を生きてきたことが伝わってくる。今日だけでない。年表上では1行にまとめられてしまう、あるいは言及もされないたくさんの日があった。想像できますか。あなたのものではない1日を。ままならない出来事を。ここにいない人の声を。きこえますか。時たまDJアークに問いかけられている気がする。 わたしにはまだ想像ラジオは聴こえない。ぽつんとそびえ立つ杉の木の姿を想像している。
ロシアで見た現実味のない映像と、『想像ラジオ』がわたしの3月11日を形成している、と思って書きはじめたけれど書いてみて随分異なることに気がついた。繋がらないしオチもない。けれども、毎年感じるうしろめたさについて、想像を記しておくことは、何か大事なことのように思う。
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fizzzm · 7 years ago
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その次は、親指のささくれ
何か親不孝をしているのだろうか、というほどに親指(そして手の全般)が荒れている。日に日に寒くなり空は高くなる季節、毎年のことだけれど、原因としての親不幸も大いにあり得るのだった。
人には言えないような口癖がついてしまってもう2か月ちょっと。抜け出せそうで抜け出せない泥沼の思考ルートが常態化している。抜け出せそうかも、と感じるときは大抵こどもたちのことか料理のことを考えているときだ。
仕事のあれこれで、3000人以上のこどもたちと、それぞれにほんの短い時間ではあったが対面することができた。ほんとうに楽しんで観てくれる子、きっちりと質問を埋めたがる子、とにもかくにもだるそうな子、それはもう千差万別色々な子が��たわけだけれど、何人かに一人か二人、家族でも先生でもない「大人」とただお喋りがしたい子がいる。そういう子に出会うと、わたしはなるべく親や先生が言わなそうなことを、丁寧になるべく綺麗な言葉を使って話しをする。会話というほどの時間はない。あなたの退屈な日に、ちょっと辛いかもしれない毎日に、いつもと何か違うことが起こって欲しいなと思いながら、まだまだ未熟な「大人」同士になって、ほんの少しだけ話しをする。
こういうことを、もう少し考えて、やっていきたいのだと最近ぼんやりと気がついた。(でも考えるのはたぶん自分のためで、なんともいやらしい)
何が「こういうこと」なのか。これを上手く言えるようになるために、ちゃんと考えておこうと思っている。一緒に考えてくれませんか?と空に呼びかけてもみる。
今日は休みだ。図書館で仕事でもしようと思っていたけれど起きたのは昼にほど近い時間で、外は雨だし家もひんやりとしている。立ち上がると視界が白黒にちかちかとした。何もかも休むための言い訳みたいに感じられて、誰か許してくれよときりきり思う。
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fizzzm · 7 years ago
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割れた親指の爪のひっかかり
「午前休」が終わろうとしているお昼前。キャミソール一枚の姿が休みであることの象徴だと思いながら、だらしのない格好で久しぶりにここを開ける。本当は昨晩、何かを書くつもりだったのだけれど、もう書きたかったことは逃げ出してしまったようだった。ぼんやりと、どこまでもぺたっと白い空の前、小さなことで途方に暮れている。
ひと月以上に及ぶ連勤の、その日数を何となく検索にかけてみて、これは元気がなくなるのも当然かもしれない、とやっと思うことができた。けれど、問題はそういうところではない。煎じ詰めれば、わたしは何をやっているの?という人類のありきたりな悩み。そこに上手いこと折り合いをつけられなくなってしまったこと。
と、ここまでで午前が尽きてしまった。きっとまた戻ろう。
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fizzzm · 8 years ago
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聡明な小学生男子にあげてしまったヴォネガット、このポップをみて読み返したくなった。つぶやくことも考えることも、あんまり出来てはいない。ましてや叫ぶなんて。 今度もう一度買おう。文庫になるのですね。
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fizzzm · 8 years ago
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一日に 五本「国境」行きのバス (at Lake Biwa)
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fizzzm · 9 years ago
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4月
4月がまたやってきた。去年の今頃、わたしはずっと、何か自分のために書かなくてはと思っていた。書かないとしぬ。生きていくためには何か書かなくてはと、何故だか勝手に感じていた。桜の花びらを拾って、お供えしようと思っていた。実際のところ、わたしは確か花びらを拾うことさえできなかった。供える場所を知らなかったのだ。
日々が過ぎ る。午後の3時間は長く、一週間はあっという間だ。下書きは溜まって、ついぞ言葉も交わ���ない目も合わせられないままどこかで別れていた人がいたり、あるいはまた会えるようにと考えあぐねてお礼のメールを送った相手もいる。今の気持ちを忘れないようにと必死にノートに書きつける帰り道があって、音楽さえも聴けない電車の日があった。徐々に徐々に、3月が遠くなって、ただ想像のうちに甘い何かになって。きっと今年の4月も、何度も反芻する日がくると、もう夜桜を思い出して 知る。
焦燥感が募るという言葉が決してうそではなく馴染む今。
4月だ。新しいことをはじめよう。焦ることを忘れよう。
ああきっとこの人は帰ってこないと、羨望に似た思いで書いたりしてみる。
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fizzzm · 9 years ago
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#ポジション2016アートとクラフトの蜜月 #名古屋市美術館 丁度その日はアーティストトークがあり、運良く水谷さん、米山さん、徳田さんのお話を伺う。そして伺ってしまったぶんその作品が印象に残る。特に米山より子さんの、お米がきらきらひかる空間。雨が降り注ぐようなインスタレーションは、よくよくみるとお米で、一粒ずつつぶして糸につけてあるのだった。干からびた米粒がうつくしい。書いてみると酔狂に思えるけれど、展示室の床に置かれた鏡が鏡の国を想起させるように、米粒に何かを見出すのも、どこか向こう側への入口の一つかもしれない。写真は、徳田吉美さんの作業着。作業着というのも、何かの入口、あるいはあいだ、なのかも。 (名古屋市美術館)
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fizzzm · 9 years ago
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#陶と光のはざまに #陶芸 過ぎ去った一月、最初に見に行ったのはデパートの上の美術画廊でした。たとえば今泉さんの墨はじきの作品のバックに杉浦邦恵さんのモノタイプ的な写真作品が展示されている様は、連想ゲームのよう。なにがこの組み合わせにさせているのか、考えると楽しい。三原さんのお茶碗の好きなところは、あの近寄りがたく鬱蒼と茂る木々の、それもきっと夏の感じだとか、そんな。 ところで、写真にガラスの反射が写り込んで、多重露光みたいできれいだ。 となりは小川待子さんの作品。 (JR名古屋高島屋)
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fizzzm · 9 years ago
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あけましておめでとうございます。今年の目標は懲りずにたくさんあるけれど、そのひとつをここにします。楽しいもの、わくわくするもの、教えてください! #happynewyear
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fizzzm · 9 years ago
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#静岡市美術館 #しあわせの色たのしい模様 #芹沢銈介 見に行こう行こうと思っていた展覧会、大石先生が連れきてくださったと思うことにする。働くひとびとやその景色。文様化というにはあまりにもよくいろんなことがみえてきて、芹沢先生は本当に「みて」いたんだなあと思う。そうして考えると、見せていただいた芹沢先生からの絵葉書の、線のいきいきとした運びが思い出されて、またじっと見たくなる。次は芹沢記念館に行きたいです。 (静岡市美術館)
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