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おふとんこ
「ほらほら。今日はもうおやすみなさい」
珍しく小雪を布団に追い込みながら、シロがいう。彼は最低限の生活を維持させる以外は、小雪の思うままにさせがちなので、こうした物言いや行動はごく珍しいことなのだが。
「わかったんだよ」
「いい子です」
そして素直にベッドへと向かう小雪はまた珍しい。ただ理由は直ぐにわかった。声が掠れている。季節の変わり目には小雪のやる気も勝てなかったようだった。
「シロー」
「なんですか?」
「なでなでしてほしいんだよ」
「……いいですよ」
えいとベッドに横たわったうさちゃんパジャマの小雪に、タオルケットと毛布をかけてやる。その途中での要求に、シロは一瞬手を止めて目を丸くした。
そのあとゆっくり手を差し伸べて、ふわふわの髪の毛をした小雪の頭を撫でる。とても大事なものをなでるような――事実小雪より大事なものはシロにはないのだ。
「大事な小雪。ほら、」
鼻の頭に口付けたあと、唇に唇。
「いい夢を見てよく寝てください」
早く治りますようにと言い添える顔が明後日を向いていた。
小雪��ふんすと息まいて、布団の中へと潜っていった。
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Good morning,my sweet
「おはようございます」
「……」
「おはようございます、小雪」
「……」
「こーゆ、き。」
今日の彼女は一段とよく寝入っていた。 寝台の横にかけて、シロは微笑みとともにため息をこぼす。
名前を呼ぶと口元がむにゃむにゃした彼女は、こどものようである。それでいて、誰もが振り返る美少女であり……全てをひっくるめてほかの何よりもシロのいとしいものだった。
「……」
頬を人差し指でつつく。すべすべして柔らかい。
刺激を受けたからなのか、反射的な小雪の口元がほころんで。
「……参ったな」
最近は参りっぱなしだ。
起きなさいよ、と声をかけてから、耳の縁にキス。
よく眠れた?と、頬にキス。そういえば昨日も遅くまで起きていた。はちみつ入りのホットミルクのカップがシンクに放置されている、
まだ眠いの?と、反対の頬にキス。
こーゆき、と、鼻の頭にキス。彼女の白い肌に染められたような淡い赤みが広がってきた気がする。
「……おはよう?」
唇にキス。
「おはよう、小雪」
もう一度キス。
「……おはようなんだよ……」
小さな返事とともに、閉じられていた目が開いて、宝石のように綺麗な瞳がシロを映している。
シロは自分の頬にも血が上って行くのを感じながらいつものように朝の献立をつげる。
「今日はフレンチトーストですよ。」
「勝利!」
「勝利 」
大切な人に、大事に触れる、朝のひととき。
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静電気
触れようとすると、バチッと音が立つ。
指先に軽い痛み。
はねつけられたような気がして、鼻白む。そして、臆する。
いつだって甘えてきたから、彼の――彼らの好意に。
不意打ちの静電気みたいな、胸の痛みをなんて言ったらいいのか、わからない。
今日の放課後は、なにしろついていなかった。
何故って、まず冬の乾燥した空気が、あるまじき静電気の群れを丁寧に森に纏わせたからである。髪の毛はセットしたとおりになってくれずに暴れだし、何かに触ればバチンと静電気がはしり、顔を顰める羽目になる。
その時点でもう結構な不運を吸い寄せていたと思う。
森はつい幸いと不幸せを意識してしまう。波のある運気というものに形を整えて意識してしまうのだ。多分、自分の生まれ持った性質による所だと思う。実際いい日と悪い日は明確にあると思うが、気の持ちようでもあるし、気にしない方が生活をする上で適していると思いさえする。占い師としては言語道断だな話だが、一人の少年としてはそんなものだ。
今日も努めて意識しないようにしていたが、どうしても「良くない」……という思いは払えない。
なんとか乗り切った放課後のことだった。
「先輩、好きです。付き合ってください!」
「うーん、……いいよ?……」
大和は、モテると思う。
脇に森がいることが多いから、 ほかの女子は声をかけにくいだろうが。サッカー部、人当たりも良くて、背も高くて、優しくて……。
大和のいい所を並べるのに、森にまさる人はいないと自負がある。
だから――。
泣いた訳ではない。タイミングよく……悪く吹いた風に乗ってきた砂埃が目に入ったのだ。
くるりと踵を返して、見なかったことにする。全部の話を聞いたってどうしようもない出歯亀の気持ちになるだけだ。それにちょうど砂埃を流そうと目に張った水の膜も躍起になっているのだ。
「あっ、めめこさん?」
「……ちゃんとその子と話してきて。」
「ちょっとまって」
大和の手が伸びてきたのに、
バチッ。
静電気は弾いてしまった。
大和はびっくりしていたと思う。
森は……反動で目の端から涙が一粒転げ落ちるのを感じていた。
森はそのまま走って、走って一人で、一人の家に帰った。
柊家に行こうかとも思ったのだ。でも、ドアノブに触れたらやっぱり、……バチリ!
甘えさせてもらっている……彼らの好意に甘えている……そんな声が頭の中をうわんうわんと回っていて。
――臆する。
今日は柊家の扉も叩けなかった。いつでも来ていいと、あなたのおうちよと言われているのに。
大和がいつ帰ってきたかはわからない。
森は泣き疲れて眠ってしまったから。 一人の家の一人の部屋で、枕を抱きしめて泣いた。泣くのは、どうしたってひとりがいいにきまっているのだから。
泣いて、泣いて、疲れて、今日はなんだか本当に。
不意打ちの静電気にやられた痛みを、どうしていいのかわからなかった。
静電気の起こった指先じゃなくて、胸が痛いのはなぜなんだろう。抱きしめた枕を見つめてみても、斑に濡れたカバーが目に入るだけだった。
なんて、ひどい痛み。
なんて、ひどい一日。
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惜しみなく与える
「おかえり、涼くん」
夜更けの帰りにも眠らずに待っていたらしい。いつものような柔らかい笑顔をしたミヅキは、いかにも嬉しそうに涼明を迎えた。
アパートの周りはしんと静まっている。帰りを待って起きていたミヅキは、涼明の帰宅する音を聞いて、彼の家を訪ねてきたのだった。
「まだ起きてたのか……」
「そうさ、だって今日……もう昨日か。ホワイトデーだったんだもの。深夜にごめんね」
「ホワイトデー」
「そう、ホワイトデーだよ」
「特別何ってわけじゃないだろ?」
「特別だよ」
ミヅキはそう言ってなにか包みを取り出した。小さな箱のようだ。何しろ涼明の掌に乗せられる大きさなのだから。
困惑した涼明の右手を取って、はい、と包みをもたせてよこす。意識してかしないでなのか、持たせた手ごと包むように、涼明の手をぎゅっと握った。一瞬びっくりするものの、ミヅキの人懐こさに慣れてきた涼明は、もうさほど反応せずに嘆息するくらいにとどめることができた。
「特別か……あとで見るよ」
「うん。好きな時にどうぞ。でも、開けてね」
「当たり前だろ。……」
特にミヅキのことが嫌いな訳でもないのに、ついぶっきらぼうな言い方をしてしまう。どうしたらいいのかよく分からないのだ。
二人しかいない空間に少しだけの沈黙が流れる。玄関先の冷えた空気が、夜の深さを思わせる。
ミヅキは憎まれ口をきかれても気にした様子もなく、邪険にされても何度でも触れにくる。変なやつだ、と思う。出会いからして明らかな不審者だったから今更のことかもしれない。
取り留めないことを考えて沈黙を保っていると、相手から踵を返した。
「���れじゃ、今日はもう夜も遅いから、おやすみ。私ももう寝るよ、涼くん帰ってきて安心したし」
そうしてミヅキは、自室に戻るべく涼明の部屋のドアに手を伸ばす。
シナプスが脳内でどう繋がっていたものか、涼明は大事なことを忘れていたのを思い出す。思わずそれが声に出た。
「あ。」
「?」
ミヅキに渡された小箱を持った手の反対側にぶら下げた白いビニール袋。相手が押してくるものだからすっかり存在を忘れていたが。
「これ。」
「お菓子?」
「安かったから買ったけど、食欲ないから食べきれないし」
「私にくれるの?」
「別に変な意味じゃない」
質問への答えがわりに、胸元に押し付けてやる。最も必要とされていた時間帯をすぎて、見切り品に成り下がり、安売りされていたワゴンの品物たちだ。その日用件が長引いた涼明が帰る頃には、何処の店もしまっていた。すっかり遅くなって帰路に着いたとき、いつものコンビニだけは開いていた。そこで目に付いたのである。
ミヅキはしばらくぽかんとしていた。しかしすぐに零れんばかりの笑顔になって、直後に何故か泣いた。わっと泣いた。
前二つの挙動はともかく最後がどうしてそうなるのかさっぱり分からない。彼はよく泣く男だったが、涼明にはどうしてもわからない。
「ちょっと!なんで泣くんだ」
「涼くんが私にホワイトデーのおかえしをくれるなんて……嬉しくて……」
目の端の涙を拭う。彼の言葉に偽りがないのは、口元の笑みから知れた。
ありがとう!と抱擁してくる。背の高くない涼明は上背がしっかりあるミヅキに抱きつかれると――困る。
「やめろよ夜中に暑苦しい!」
「ありがとうねえ、涼くん」
大切に食べるよ、などといいながらめそめそなついてくるミヅキを部屋から追い出して、やっと一息つく。
バタン。閉じたドアに背中を預けてぼやいた。
「変なやつ……」
独りごちたあと、今度は手の中の箱のことを思い出す。
なんだろう。
丁寧に施された包装を解くと、上品な小箱。更に開けると手触りのいい天鵞絨のような布。それに包まれて宝物のように鎮座しているのは、時計だ。
華奢だがかえってスマートなデザインで男性らしさを失っていない。ごつくない分、体の小さな涼明にも良く似合うだろうことは一目で知れた。明確に良いものだということがわかる。
「……?」
中にはメッセージカードが添えられている。
手書きの、何度か見たことのあるミヅキの筆跡。
『最近ますます忙しくなってきた涼くんの役に立つように 。いつもそばに ミヅキ』
えへへと照れ笑いする彼の顔が目に浮かぶような文面と筆��だった。
「……変なやつ」
ミヅキの気持ちを身につけるようで照れくさい。
こんなところ���で、ブリンガーとシースの運命の関係のようで……なんだかよく説明は出来ないが、涼明は玄関に座り込んで、随分長い間時計を眺めているのだっだ。
時計をちゃんと身につけるか飾っておくかは……また今度考えることにしよう。
ひとまずはそう結論づけて、疲れた体を家の中へ運んで行った。
深夜の一帯は、いよいよ静寂に満たされて行った。
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だしまきたまご
「たすくくん。今日のお夕飯、何か食べたいものはある?」
「そうだなー、だしまきたまごがいいかな、あっちゃん特製の」
「料理上手なお姉ちゃんにまかせなさーい!」
だしまきたまご。
たまごを三個も使って母が焼いてくれるだしまきたまごは、日常のとびきりのおかずであり、特別な日のおかずでもあった。オムレツより、卵焼きより、目玉焼きより、ゆで卵より好きなたまご料理だった。
母にそのことを言うと、手間のかかるものが好きねえ佐も、と冗談めかして笑っていた。
だしまきたまごを自分で作れるようになってから、言葉の意味や料理の難しさを理解したが、それでもやはり母の、佐の一番の味はだしまきたまごで変わらなかった。自分には決して作れないその味が本当に大好きだったのだ。
片親で苦労していた母が再婚してからでさえも、それは変わらなかった。義父の連れ子の少女は“しっかりしていて”“本当によくできた”姉だったから、率先して食事を作ってくれることも多かった。
それでも、彼女の作る味も、母のそれには及ばなかった。
義姉と自分がいっぺんに大事なものを失ったのは、家族になってから程なくのことだった。
「あっちゃん、大根下ろすの手伝うよ」
「まっ。お姉ちゃんに任せておいてもいいのよ?」
「そのくらい��伝うし、早くあっちゃんのだしまきたまご食べたいし」
「甲斐甲斐しい弟ね。なでなでしてあげましょう」
「なでなではいいから早く作ってあげてちょーだい」
「たすくくんは冷たいなあ!」
片親だけで暮らしてきた二人は家事を分担することもあるが、どちらもしっかり生活を営めるだけしっかりした家事能力がある。だいたい与が家事を受け持つことが多く、佐もそれに甘えることはあるが、こんなふうに分担作業をすることも少なくない。
健気でしっかりしたいい姉弟だ、血の繋がりはないのに仲もいいしと、ご近所では評判の仲良し姉弟だ。
「できたよ、手を合わせて」
「いただきます���
「いただきます!」
「……やっぱりおねえちゃんのだしまきたまごはおいしいねえ」
「あらたすくくんのおろしてくれた大根もからくなくていいわよ」
「佐くん別のところ褒めて欲しかったかなー!」
「こらー!お姉ちゃんの真似しないの!」
佐はだしまきたまごが好物だ。
でもそれは“お姉ちゃん”の作ったものではない。
自分のものでもない。料亭のものでもスーパーの弁当に入っているものでもない。
母のだしまきたまごだけが好きなのだ。
二人は微笑み合う。
――仲良し姉弟。
彼女は嘘つき。
佐もまた、嘘つきである。
けれど、二人は――。
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ココア
ココアのカップが空いたのだった。
上に乗っけていたクリームまでスプーンでしっかり食べてある。
ガタガタするほど甘い飲み物と甘い時間を過ごした小雪は、ヴァイオリンをもって防音の別室にたーっと走っていった。
カップを左手に持ったまま、シロは自分の唇を右手指でなでていた。
シロは別段甘いものが好きではない。嫌いという程でもないが、一人だとまず食べないし、コーヒーにも紅茶にも砂糖はいれない。
一方小雪は逆で、渋いお茶や苦いコーヒーを飲もうものなら、世界を巻き込んだ惨事になる。
小雪のために甘いものを用意するのは、ある雪の日に彼女と公園で出会って以来シロが心がけていることで、特にココアを選ぶことが多い。特別な時には殊更そうしている――といってシロの勝手な取り決めなのだが。
戯れに彼女の飲み干したカップ、飲み口に口付けてみる。
「……甘い」
甘すぎた。
そしてそれよりも甘い感触を思い出して、シロは顔に血が昇る感覚にそっぽを向いたのだった。扉から小雪が出てくるはずもないのに、背中を向けずにはいられなかった。
「僕には、甘かった」
――でも。
そんな甘さは病みつきになりそうなのだった。
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桜貝
街を歩いたときに見た女の人が、とっても綺麗だったから。
そんな理由だった。
彼女の白い指先、綺麗に整った爪は、色とりどりに染まっていて。まるで花びらで飾ったようだと思ったのだ。あるいは、おはじきやビー玉……祖母の家にあった素敵な昔ながらの玩具たち。あるいは、色とりどりの貝殻……これも祖母の家にあったお気に入りの宝物。
森がモノレールの駅前の店でマニ���ュアを買っても、誰も疑問に思う人はいなかった。女の子は小さい頃からおませなものなのだと、人々は思っているのだろう。
今日もひとりきりの家にかえって、部屋に戻って、早速マニキュアの蓋を開けてみる。鼻をつくような独特の匂いに一瞬顔を顰めるが、慣れてしまえばどうということのない些細な匂いだ。
手先は取り立てて器用な方ではない。手がとても綺麗かと言うと普通くらい。こわごわと、小さな刷毛で爪先を染めていく。思ったのと少し違うぺたぺたとした手応えは、慣れてくると楽しい。
あの女の人はどんな気持ちで爪を染めていたのだろう。大人の女の人としてのマナー?ちょっとしたオシャレ。それとも好きな人に見せたいのか……。
すっかり爪の上の塗料が乾いた頃に、窓越しにお隣からの合図が来た。
「めめこさーん」
「今開けるね」
返事をして窓を開けた。隣家の窓からひょっこり覗いた顔が、開口一番こう言った。
「爪!どうしたの?桜貝みたいで綺麗だねー!」
桜貝は森の宝箱に入っている小さな桃色の薄い貝殻だ。少しショックを与えたら割れてしまうような。これも祖母から貰ったもので、大和に随分前に見せたことがある。
「 」
君のそういう所が好き。とはまさか言えなかった。
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キスチョコ
彼の――やや野生味のすぎた個性的で天才的でとびきりの美少女であり喋ると全て台無しにする天使のような――お姫様はお眠りあそばしていた。
熟睡である。
スリーピング(時だけ)ビューティだ。
合鍵をもったまま、シロは深くため息をついた。
眠れる姫、小雪は昨晩突然何かを思いついたらしにことは知っている。タンバリンとマリンバで何かをチャカポコやっていたのだ。そしてそれはほんの30分前まで続いていた。
静かになったので、エネルギー切れか寝落ちたかあるいは考えたくないが死んだかだろうと様子を見に来たら、案の定よく眠っている。追記するならば、腹を出してソファで楽器とともに寝ている。
彼女は天才だった。天才にして天真爛漫というか怪力乱心というか。“フツウ”の枠に嵌らないところがある。唯一無二――そう思う。
「~♪」
眠りこけながらも時折何かのメロディを口ずさむ彼女を、よいしょと慎重に持ち上げる。
「亜麻色の髪の乙女でしょう。知ってますよ」
「~♪♪」
亜麻色の髪の乙女。タンバリンとマリンバで演奏されるとは乙女も思っていない��ろう。しかしドビュッシーの作曲にして小雪のアレンジによるその曲は、なんだかやけに耳に残るものになっていたのだった。
熟睡の彼女からは普通答えは返ってこないが、曲の名残はなんとなくシロに特別な気持ちを与え、気づくと彼女の綺麗な髪を撫でていた。
ベッドに横たえた彼女は、ふが、とかふにゃ、��か言ってほっぺを擦っている。シロの統計からすると、このままおやつの時間までは起きないだろうと推測される。
腹からはみ出たシャツをしまってやり、腹の上にブランケットをかける。寝顔は本当に天使だ。亜麻色……金色の髪の乙女。
……。
もう一度彼女の髪の毛を手で梳きながら、今日が特別な日ということも思い出す。
バレンタインだ。
小雪と知り合ってから毎年のバレンタイン、シロはお菓子を作って小雪とお茶をしている。
ホワイトデーにも、お菓子を作っている。
口に出して伝わるかわからないし、言っても仕方ないことだと思うので言わないが、小雪はただ小雪であるだけで唯一無二だ。途方もなく素晴らしい存在だと思う。だからシロはそばにいられればそれでいいと思っている。
彼女の笑顔を守るためになら、かなり強硬な手をとることも厭わないだろう。
そばにいればいい。少し世話を焼いて。
ただ――、
ただ本当に、ごく稀に……
ほんの少しだけ、“足りない”時がある。
何かより多くを求めたくなる時がある。
今日がその日だった。
髪を梳くうちに、ブランケットの上に投げ出された柔らかく白い手が目につく。そっと手に手をとり、手の甲にキスをした。それから、華奢な手首に。
頬、耳、額。
自分がどんなに顔をしているかわからない。苦しいような押し殺した声で独りごちた。
「……起きないんですか」
起きない。
瞼。鼻の頭にキスして……。
どうしても愛しいのだった。けれど今目覚めたら彼女の笑顔はどうなるのか。
唇。に、キスはしない。
「続きは起きたら、でいい……うん、それでいい」
色の薄いシロの肌には、少し朱が昇っていた。
長いまつ毛の目を擦ってため息をつく。彼女の笑顔を奪う危険を犯すのはもってのほかだと言うのにと。
――結論から言うと。
シロの得た小雪おひるね統計データは統計的に有為なものだったらしい。だいたい予想通りの時間に小雪は起きてきた。
「あーよくねたんだよー」
「小雪」
「あい!」
「おやつですよ!」
「今日のおやつーはー」
「フォンダンショコラですがそのまえに……」
「前に?」
むに。首を傾げる小雪の唇に何かが触れた。
「むい」
甘い。
「キスチョコっていうんですって」
雫のような特徴的な形をしたチョコレートを小雪の唇に押し付けたのだった。
「キス」
「バレンタインなので」
「バレンタインかー!」
もぐもぐパリパリする小雪を見ながら、シロはくるりと踵を返してオーブンへと向かった。
「フォンダンショコラはおいしいです。席に着くこと。」
「はーい」
「今日はバレンタインですから、豪華ですよ」
「勝利ー!」
バレンタインのティータイムは始まったばかりである。シロは甘いミルクティー��淹れる。
目覚めたあとの彼のお姫様は、天真爛漫に笑っている。これでよく、これがよい。
砂糖を抜いた自分の分の紅茶を飲みながら、シロは彼女につられて少しだけ笑い、少しだけ菓子をつまむ。いつもの風景である。
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たなごころ
「おおきい」
「ちいさい!」
掌を合わせて、二人の子供は異口異音。
強い日差しを遮るために引かれたレースのカーテンが揺れている。レース模様の合間からは時折、心地よい風が吹き抜けてくるのだ。夏休みの夕暮れ、空になったかき氷の器。銀色のスプーンが朱色を弾く。少しだけ残したソーダ水。
なんのことはない、二人が夢中なのは比べっ子だ。
発端は背比べだった。
大和と森。二人の子供の背丈は、この夏の時点ではあまり変わらなかった。俺の方が高いよだの、私の方がおおきいわだの、背中合わせにワイワイやっていたのだ。
足の大きさは森が覚えていた。
「私と大和だと、1センチ、大和の方がおおきい」
玄関で靴を脱ぐとき、森は靴を揃える。時折、揃え忘れるうっかりものの分も、揃えもする。夏休みの間は二人ともサンダルだ。今も大和の家の玄関に二足ちょこんと並んでいる。
そうして手も比べてみた。
足と同じ。大和が大きく森が小さい。
「不思議だなー。背はおなじくらいなのに、めめこさんの方がちっちゃいの」
「何だかちょっと悔しい気もするけど、」
「けど?」
「ねえ、知ってる?猫や犬って、手足が大きい方が大人になってから大きくなるんだって」
「急に犬と猫?なんで?」
大和はきょとんとして尋ね返し、森はもどかしそうに語彙を強めた。
「だから!きっと大和は大きくなるのよ。私より」
「そうかな?犬と猫と一緒かなあ?」
「人間だってきっとそうよ」
二人は今はそう高さの変わらない目線を交わした。大和はいつものようににっこり笑い、森はちょっと恥ずかしそうにそっぽを向きながら微笑む。
またカーテンの隙間から風が吹き込み、垣間見えた夕焼けはいよいよ赤い。
大和はいつまでだって森を見つめてにこにこしている。森は何だか気恥ずかしくて、先に座ってしまうと、すっかりぬるくなって気の抜けたソーダ水を飲み干した。甘ったるさだけが、喉にずっと取り残されていた。
それから幾つかの夏が過ぎ。
また夏はやってきた。
「めめこさーん。」
「……」
「めーめーこーさーん」
あの時とは少しだけ違う柄になったレースのカーテン。風はあの日より今日の方がやや涼しく、乾燥して肌に心地よい。
カフェオレのカップが二つ。ひとつは汗をかいており、もうひとつは温かかったのだろう、つるりとキレイなままの地肌。
夕陽が今にも沈もうとして、部屋に存在するあらゆるもの達に長い影を作らせている。
「めーめーこーさーんーー」
不意に森の顔に、狐の形の影が射した。
「きゃっ!……何よ?」
「ぼーっとしてるから」
森の前で、狐の形を指で作った大和が笑っていた。彼は今でも時々悪戯なことをする。
「ほら、こーん、こーん」
「もう……ちょっと考えごとしてたの。」
大和は――。
昔より背が高くなった。森が見上げるくらいに。サッカー少年の彼は、スパイクのサイズだって森のローファー よりずっと大きい。服のサイズも全体的に大きいし、何より肩幅がしっかりしてきた。
「……」
「めめこさん?」
「手……」
狐の形をしたままの大和の右手。本体の疑問符をそっちのけにして、森は左手を伸ばしてそっとつかんだ。そのまま自分の手と合わせてみる。
「おおきい」
「ちいさい」
何だか嬉しそうな大和、口をとがらせた森。
するりと指をずらし、人差し指で彼の掌をなぞる。
「めめこさん、くすぐったいよ」
そのまま骨と血管を辿る。日に焼けた肌は小麦色がかり、腕にはしっかり筋肉がつき、男性性を強く感じる。真っ白な森の腕とは正反対だ。
肘のすぐ側まで伝うと戻って、しばらく指の間や指の先までを人差し指で弄ぶ。時には両手で。一切の装飾のない大和の爪と指。子供の頃より丸みがなくなり、骨ばってきた。
大和はされるがままになっていてくれる。
拒まれないのをいいことに、森は右手を合わせ、大和の手を握り込むようにする……こういう手の繋ぎ方をクラスメイトたちは恋人繋ぎと呼んでいる、知っている……。
遠くで家路を急いでいるだろう鳥の鳴く声。
静かだった。静けさに切りつけるように、何とか声を発した。
「……ね?」
「?何が、ね?」
森の顔が夕日で赤く染っている。
「手足が大きい方が大きくなるって、昔言ったでしょ?」
「あー……そんなことあったっけ!」
「あったよ!」
そっかーと笑う大和。そうよとそっぽを向く森。
森の顔はいよいよ赤い。夕日のせいだと自分に言い訳をした。
階下からは用意された夕餉の香り。この街には珍しく、どこかで風鈴のなる音がしている。
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めめ、こんな日
メメント森の星占いコーナーによると、おとめ座は最下位。特に恋愛運が最悪。ラッキーカラーは緑色。思わぬ出会いに気をつけましょう。
憂鬱な木曜日の幕開けは、自分の星占いの��果が最下位で、微妙にテンションが落ちたところから始まるのだった。
その一、朝家を出る前に髪がコテで上手くまけなかったこと。
その二、お気に入りのお守りを部屋の机の上に置き忘れたこと。
その三、今日提出の宿題を忘れたこと。
その四、こんな日に限って隣人は所用で先に学校に向かっており、
その五、珍しく人気のない往来で嫌な“モノ”に出くわした。
じわりと滲み出す影のようなもの。にじりにじり、蛞蝓のようにゆっくりはいよってくるそれを、決して見えているふうに振舞ってはいけない。存在に気づいていることがわかれば幸いと、自分のようなものに取り付きにかかってくることを経験から知っている。そうすると厄介なことになるのだ。
自分は昔からそのような存在が良く見えた。他の者が見えないモノなので嘘つき呼ばわりされていじめられたこともある。嘘つきと呼ぶのは勝手だが、自分には実際見えて概ね害を及ぼしてくるものなのだからどうしてくれるのだという話である。
それがなんなのか分からないにしても、なんのためにいてなんのために見えるのか分からないにしてもとにかく、「めめこ」には見えてしまう。
このことなのであった。
特に今朝のはタチが悪い。
何も見えていないように正面を見てあるきつづけるめめこを、じっとり撫で回すようにまとわりついてくる。気持ち悪い……しかしバレてはならない。ヤな感覚だった。
さすがに、我慢できない。もう走り出しそうだが、そうなると相手は何をしてくるかわからない。そんな時――。
「めーめーこーさーん!」
その瞬間に黒い影が霧散した。
ここにいるはずのない幼なじみが正面から走って寄ってきていた。満面の笑顔を向けて、こちらに手を振りながら。
彼はそうなのだ。いるだけでこうしたものを追い払ってしまうような力がある。めめこのようなものにとってありがたい存在。だから彼と付き合っているのかというと、もちろんそれだけではないのだが。
「大和。どうしたの?先に学校に用事があるんでしょ」
「用事済ませてからめめこさん迎えに来た」
「はぁ?きみ、それ、二度手間じゃないの。なんでそんなことわざわざ」
「そうしたかったから」
「ならありがとうって言っておくけど……」
と口で強がりを言いながら、緑のマフラーを巻いた彼が伸ばした手を、思わず両手で握っていた。手がすっかり冷えてしまっていて、震えさえある。でも、この幼なじみの手はあたたかく、自分よりずっと頑丈で頼もしかった。
「ラッキーカラーは緑色……」
「なに、めめこさん」
「なんでもないよ。帰りに、アイス奢ったげる」
なお宿題はそのまま忘れた。
やはり厄日だが、彼のラッキーカラーは一日ずっと横にいてくれた。
めめ、こんな日。
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彼のことの裏返し
涼くんがあまり人前に出ないのは、過去の傷が理由なのだと、聞いたことがある。当人からの内訳話というわけではない。彼の才能を取り合うような、本人を置き去りにしたようなことがあったというのは、ある方面では有名な話のようだった。
才能があるのに……そうぼやく人々の目を、ちょうどよく背の高い自分の背中で遮る。彼を隠すのにこの腕も背丈もいい働きをする。
その上で私だけは彼を見つめ、焦らなくていいのだと言い含める。
いつも薄暗いような彼の部屋でそう告げる時、太陽と人混みを避けて夜中に彼を連れ出す時、彼がおずおずと自分の部屋にやって来る時。
何からでも君を守ってあげられるのと同時に、私はほかのどんな人を排しても君の隣にいられることを知っている。
外に出なくていいよ。
ここにいればいい。
誰も傷つけないよ。
私が君を守るよ。
私の君でいてよ。
声に出さないけれど。
私は彼に執着している。
弟のようだと出会った時には思った。似ていたのだ。でも違う。
今私は――彼に執着しているのだ。
「涼くん、ごめんね」
出会った時から最後まで、私は彼には重すぎるだろう。きっと。
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ホットチョコレート
北風がまだ肌寒さをもたらすある日に、涼明は隣人から呼び出しを受けた。
どちらかの部屋で食事やティータイムをとることはあっても、大概それは隣人であるミヅキが押しかけたり、学校帰りに顔を合わせた涼明を誘うことが多い。だからあえて呼び出してということは実は滅多にない。
徒歩十数秒ほどの扉を開けるとき、思わず疑問が口をついて出た。
「わざわざ……どうしたの?」
「やあ涼くん。待ってたよ」
つっけんどんな口調になっても、相手はどこ吹く風だ。嬉しそうに人懐こい笑顔を向けて、涼明を自室へ招き入れる。
もはやくつろぎ慣れたリビングの、くつろぎ慣れたソファに勝手に腰掛けて、で?という目線を送ると、ミヅキはにっこり笑い、キッチンからトレイで何かを持ってきた。
トレイの上にはマグカップが二つ。ひとつはミヅキが愛用しているもので、ひとつは涼明が隣人の部屋を訪れる時に決まって選んでいるものだ(彼の部屋と違い、ミヅキの部屋には客用と思われるカップがたくさんある)。
ふわり、甘い香りが漂ってくる。
「?コーヒーじゃないの?」
「今日は昔で言うところの恋人たちの記念日なんだって。チョコレートを贈るのが流行ってたそうで」
「こっ、?」
「せっかくだから一緒にホットチョコレート飲もうかなと思ってね。最近部屋にこもりきりで疲れて��でしょ?」
「今、なんて?」
「チョコレートを贈るのが流行ってたんだって」
「……そこじゃなくて」
「さ。じゃあ冷めないうちにどうぞ」
満面の笑顔で、優しい光を宿した片目で、青年は大事そうにカップを手渡してくる。
まあいいかと、ひとつため息をついて涼明はホットチョコレートを一口含んだ。
甘い……が。体に染み渡るような甘さだった。香りもよい。気づかなないうちに冷えていたらしい手指の端が、じわりと温まっていくのに気づく。
「おいしい?」
「……悪くは無いかな」
「よかった。」
ソファの隣にかけたミヅキも自分のカップを手に、でも口はつけずに、ただ涼明を見ていたようだった。
何となく居心地が悪くなってそっぽを向く。
色々な疑問は湧き出ること、キリがない。けれどどうやら奇妙な隣人はいま緩やかに流れている時間と甘い香りを楽しんでいるらしい。
涼明は浅いため息をひとつついて、再びチョコレートをすする。
誰がそんな馬鹿らしい行事を考えたのやらと呆れながらも、今日は、それでいいことにしておこうと思った。
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彼のこと
涼くんはあまり人前に出たがらない。
あまり、ではなく全く、かもしれない。
「せっかく才能があるのに……」
学科の教授はいつもぼやいている。勿体ないと思われるほどの才能が明確にあるのだ。君からもなんか言ってやってくれよ、君ならなんか出来るだろうと、教授の目が語っている。
彼あての資料を預かりながら、私は曖昧に笑顔を返す。
教授だけではなく、僕を通して彼と関わろうとするほとんどの学生あるいは大人は、同じことを求めている。時には強く働きかけるようにと頼まれることすらある。
意図に善し悪しはあれ、彼が多くの人を魅了する能力の持ち主であること。そのことは間違いない。彼自身も既知のことだろう。
ただ、彼を見つめる他人の目が、必ずしも悪いものばかりではないこと。そのことを到底信じられないと、彼は思っているのだろうか。
無邪気に残念がる同級生や教授たちを見ると、心が痛むような気持ちになることがある。
だから、私は時折、――。
だから私は時折、彼のためのおつかいごとを果たしながら思うのだ。
伝えるべきなのだろうか、と。
「ねえ外の世界はそう悪いものじゃないよ、君のことを傷つける人はそういなくて、」
「何より今の君はそういうものから自分を守れるし、それに」
何からでも君を守るんだから。私が。
心配ないんだよって。
でも、それは――そんな風に言い切ってしまうのは多分時期尚早なのだと思う。彼は、多くを与えられた人であると共に、同じくらい多くのものを与えられなかった人でもあるのだから。
思うに、叩きのめされて沈んだあとに、二本の足で立って歩くということは、あまりにも難しいことだと思う。
傷をどうにかして、何とか歩くのに必要なのは時と、人――。
「涼くん、ごめんね」
私は時折彼のいない所で彼に謝りもする。
弟を重ねて……誰かにかわる誰かなんでいないのに、重荷だろうし、失礼だろう。私の負った傷が一番重く深く疼いていた時に、傍にいることを甘受してくれたのは彼だった。
それからここまでの時を共にすごしてくれたのも。
ただ涼くん。
今私の片方だけ残った目には、弟の面影より君の姿の方が色濃く写ってるんだよって。
そういうことも、教授たちのお使いごとよりかなり、言い難いことなんだけれどね。
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春に降る
「……」
ある、春の昼下がりだ。ドアノブを握ったまま、少年は無表情にドアを見つめている。
「……開かない。」
そればかりか開けようとすると不吉な軋みをかんじる。内側から見ればさもありなんと思うところであろう。部屋の中に昨日届いた段ボール箱がそのまま積まれているのだから。
彼に透視眼はない。遺憾ながら。しかしこれまでの数ヶ月で〝彼女〟の行動の自己統計はとれてきているつもりだ。対処法もまた然り。
――彼女。またの名を小さな怪物。愛しい暴君。コザルあるいは野猿。
これは、雪より白い少年と、見た目はフランス人形のように可憐な少女のある昼下がりのお話である。
穏やかな気候が多くなった今でも、昔の名残の風習はある。暦の上での春は芽吹きの季節と呼ばれるのもそうだ。冬が終わる喜びに人々は訳もなく浮かれる。
春には新緑やら、恋やら、色々芽生えると言われている。
突然の積雪が世間がざわめかせてから、時が経つのは早い。
春が来て……これもやはり昔の習慣の名残である、桜の花が開くと、いよいよ街は浮き立つようになる。
恋も新生活も新緑もひとまず置いて、少年は小さく息を吐いて腕組をした。
今行われていることに春も冬もない。少年が隣室の住人である彼女を、ただ起こしに行くだけの日常的な行事だ。ただし相手が彼女であるというそれだけで奇想天外な非日常があらゆる方向から降り掛かってくる。
5秒ほど止まった後、預けられた鍵をポケットにしまうと、玄関のドアから回れ右して、静かに自分の部屋のベランダまで歩く。窓を開ければ、春の風と日差しが心地よい温さで肌に触れていく。
何かあれば窓から。二人の間での決め事だ。なお、だいたい1週間のうち2度ほどは何か��らある。
しかして少年はベランダから隣のベランダへ移動を開始した。
白で彩られた少年は、その名もまさにシロという。彼の表情や仕草は、春の日差しの前でも雪と違って頑として溶けることがない。緑の眼差しも白い面もほとんど揺れることはなく、その鉄面皮ぶりはもう学園の同輩に当然だと受け入れられている節すらあるくらいだ。
そんな緑の目が、ふと宙に惹き付けられた。
窓を開けた瞬間、花びらが舞っていた。
白いそれは雪に似ている。緑の瞳の中で自在に踊る白い雪の影に。
「小雪。」
思わず唇からこぼれ落ちたのは彼女の名だ。今一時的なあかずの扉を作成している部屋主の名。
シロが小雪と出会った時、宙には本物の雪がちらついていた。あの珍しい積雪の日に二人は出会った。
誰もいない銀世界の公園。東屋があつらえられた舞台のようだった。雪と、シロだけが聞いている独奏会。
〝このように運命は扉を叩……き壊す〟――。あの曲を運命と言ったらベートーヴェンが困惑するはずだが、曲目は交響曲第5番ハ短調作品67。バイオリンが跳ね馬のような躍動をもって奏でるのを聞いた。
演者は篠目小雪。そこに誰がいても、誰もいなくても関係ない。彼女が感じたから奏でる。全身で、全霊で――。
絶望の奈落に突き落とされていたシロをして、心臓を鷲掴みにされるような体験だったのだ。
シロは、雪を見る度思い出す。
彼女のこと。その笑顔。面白いほどに多彩に変わる表情。生き生きとした青玉の瞳。
幸いなことに、今もって彼女に関する記憶は更新され続け、増え続けている。
彼女のことを考える時、シロの眼差しは――少しだけ優しく緩む。
「小雪。起きてますか」
思わず喉をついてでた呟きを誤魔化すため、声をかけてみた。返事は当然なかったが、聞かれていなかったことにはかえってほっとした。
仕方が無いので柵を乗り越え、ベランダ伝いに隣室に侵入を果たす。
窓を開けると、中は一層に悲惨な有様である。倉庫の形をしたゴミ箱の中に日用品と服と引越し荷物をぶちまけたような部屋だ。
ただ、いくつもある楽器だけは丁寧に並べられていた。彼女らしさにいつも頬が緩む。とても〝らしい〟小雪の部屋である。
あの雪の日に結果的に〝ナンパ〟するようなことになって。お互いに同じ強い願いを共有する者として。いくつかの運命の介在を経て、今の二人は隣同士の部屋に住んでいた。
悲惨な床の紙やトロフィーの塔を慣れた足取りで避けていく。ベッドの方までつかつかと歩いていっても彼女は起きる気配がない。 健やかな寝息が続いていて、シロは……また微笑む。
ほんの至近距離まで近づいても彼女は目を覚まさない。
小雪、と声なき声で呟いた。少し顔を近づける。
小雪。また、少し。
小雪?ぐっすり寝入っている。睫毛が長い。
小雪。薔薇色の頬。健康的な肌の色。
鼻先が触れ合うような距離まで顔が近づく。よく眠っている。閉じていれば可愛い唇。
彼女からは日向の良い香りがするのだ、いつも。
「――」
緑の目が微かな困惑を交えて揺れた後、距離が離れる。
次の行動を起こすまでしばらく間を要した。ようやく、ひたり、と人差し指で頬に触れる。
ふにふにと弾力がある頬。むぅんとかうにゃとか、小さな奇声が聞こえる。
やがて開かれた宝石のように青い目が、シロをうつすと、笑みの形に細められた。
「今日は布団ひっくり返す前に起きましたね」
「勝利……むぇ」
「敗北」
彼女に触れる指先は温い。触れ返される心地良さは、春の風よりもずっと上だ。
テキパキと布団を片付けると、小雪には朝の身繕いを指��し、掃除。後食事の用意を始める。
奇妙な生活だが、ころころと変わる彼女の表情を至近で眺められる場所は何よりえがたい。
「小雪、今日は――」
桜が舞う。
シロが小雪の〝運命〟を聞いたのは、実は二度目のことである。
他ならぬシロのスケッチブック、その最初のページに昔の手で素描があるのだ。幼いが確かに今も面影を保っている〝彼女〟が描かれている。
絵自体は今の自分が笑ってしまうほど拙い。彼女の〝運命〟を耳にしたのは随分小さい頃……ほんの子供の頃だったから。
まだ絵筆をとったばかりの頃の話で、クラシックという言葉もよく知らなかったし、勿論曲のタイトルも知らなかった
ただ――惹き付けられた。
その曲に。彼女に。
何かを作るのに、描くのに、それ以上の力も理由もない。
「桜が綺麗なようです。今日は外にどうですか」
「デートだ!」
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ショートケーキ
「小雪」
「あい!」
「今日のはいつものと違うけど、わかりますか」
「今日はーたのしいークリッスマスー」
「正解」
「勝利!」
「引き分け」
「えー」
鈴を持って踊りだしそうな小雪を制して、シロは彼女に席に着くよう促した。テーブルにはもう特別なティータイムの用意ができているのだ。
皿の上に乗せられた少し大きめ、円形のショートケーキ。
生クリームたっぷりの、ふかふかのスポンジ生地。大きないちごが天辺を宝石飾りのように彩って、赤くつやつや輝いている。
メレンゲのサンタクロースの脇には、メリークリスマスと書かれたチョコレート。パリパリの���細工。
ランチョンマットにフォークを並べて、雪だるま型のキャンドルポットの中ではロウソクが暖かげに燃えている。
靴下の中にも、お菓子が詰められている。
つまりクリスマスパーティーなのだ。
「正解の賞品はおやつのクリスマスケーキです。そしてこちらは砂糖たっぷりのロイヤルミルクティ」
「わーいなんだよ!」
あと、とシロは付け足す。
「今日はクリスマスなので」
「なので」
「僕にも一口ケーキをください。小雪サンタ」
「いいよ!はい、あーん」
小雪サンタのプレゼント請負は早く、そして迷いなかった。
あーん。
ショートケーキをフォークでさくりと切り分けて、ぷすりと刺し、少年の口元まで運んでくれる。
手先がやや狂って口元に生クリームをくっつけて行くのがくすぐったい。
眩いばかりの笑顔の彼女が、真剣に、一心に自分に視線を向けている。
他の誰でもない自分に。
それが――。
口の脇についたクリームを拭いながら、シロは笑って言った。
「こういう時は指ですくうか舐めるんでしたっけ」
「シロがもうすくっちゃったんだよ!」
「ではサービスポイントでお願いしますサンタさん」
すくったクリームのついた指をひょいと彼女の唇の前に差し出す。
彼女が以前に言っていた高額なペロとはまたちょっと異なるが、ぺろりと上手に舐めとってくれた。
「くすぐったい」
「自分でやったんだよ!変なシロだよ」
「そうですね。さて実はチョコレートケーキもあります」
「勝利!」
「勝利」
「やったー!」
諸手を上げた後で、小雪はまず目の前のショートケーキからやっつけに取り掛かった。
小雪の笑顔が自分に向けられている。
彼女が笑顔でいてくれさえすれば、シロは構わない、けれど――これはちょっとした独占欲であり、幸福でもあった。
そしてそれが――
(そのことをクリスマスプレゼントと呼んだって、構わないだろう)
何よりのプレゼントなのだった。
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