荒くれインディペンデント批評誌『アラザル』です。2017年はVOL.10を刊行、予定。バックナンバーはこちら→ https://arazaru.stores.jp/
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アラザル読書会・第一回マンガ分科会『黄色い本』(高野文子 著)抄録
開催日:2020年12月19日 出席者:西中賢治、やまのせりか、高内祐志、梅田径、諸根陽介、近藤久志
★絵柄、コマ割り 西中 スクリーントーンの使い方がおしゃれ。P8ではスクリーントーンを削ることで水滴の影が表現されており、影なのに光って見える。線も細くてデザイン的だが、多くのコマで線がはみ出していたり、手技感も出している。 梅田 デジタルでこれを描くのは難しそう。書き直ししない決断主義的な決意を感じる。アナログ手法にもかかわらず、電気を消すシーンとか、コマとコマの間に大きな飛躍を見せるのがすごい。 西中 一番最初のページで、最後のコマに出てきた指が、次のページで本をめくる手になる。読者の視点が手の持ち主へ誘導される。さらに手の持ち主が「ジャック」に感情移入していることも示されている。 諸根 実験的な作品だと思った。省略の仕方が面白い。説明的な要素がないので最初は戸惑ったが、少しずつ繋がりが見えてきて物語の中に入っていける。 梅田 『ねこぢる草』のような、事象としては連続しないのに、精神性みたいな謎の連続性を信じ切るコマの使い方に近い印象��受けた。説明がなくてよく分からないけど納得感がある。ただ、最近の萌え漫画ばかり読んでる身としては、かなりしんどい。 西中 P50はおそらく虚を突かれてスローモーションに見えている。少女漫画的な特殊なコマ割り。 高内 ジャンプ漫画は保守的。戦後の漫画は映画をもとに発展したからか。
★マンガの中の文章 西中 活字が絵として描かれていることと、コマに合わせて文章が改行されているのがポイント。活字のままだと背景として読者に処理されて読まれないかも。 高内 描き文字は強い表現で、「読んでくれ」と主張している。作家にも「読ませたい」という強い意志があったことがわかる。 せりか 私は最初読み飛ばしたが、すぐに「読まなあかんやつや」と気づいて読み直した。改行されてコマの中に文章が全部入りきっているところって、普通は違和感だけど面白いな〜って思った。
★本 諸根 P9「雨の日に本なんか読むからだわ」という理由がよくわからなくて面白いと思った。「バスの中で本なんか読むからだわ」ならわかるけど。 梅田 コマの断絶と関係あるように思う。意味がないようなあるような文句だけど、意味がある。 西中 「ほりゅうの質」という本の中の語彙と、方言の混じった日常会話の語彙が違うことに実地子は無自覚。 梅田 見えない文化資本の差みたいなものかな? 高内 自覚してないんじゃなく、わざと使ってるのかも。 西中 確かに、本が好きな人は子供の頃から自覚している経験。好きなバンドや映画の話をそうそうできないのも同じ。 諸根 現実と読書体験、どっちかが正しいじゃなく、どっちもあるから救われる。自分は読書をポジティブに捉えている。 せりか このマンガからは、本を読んでる自分が好き、みたいな気持ちを感じる。わかるわー。 西中 自分は読書することが必ずしもいいとは思えない。世の中、本を読まない人の方がちゃんと大学を出てちゃんと就職して家庭を作って楽しく生きてるケースも多い。 諸根 気持ちはわかる。でも今の自分が嫌いなんだったらしょうがないけど、本を通じてできた自分が嫌いじゃなければ否定しなくていいのでは。 西中 本や映画や音楽の話が素直にできる友達はアラザルだけ。
★革命と就職 梅田 みっちゃんの思想はヤバい。この子はマジで革命やコミンテルンにいっちゃうのでは。コミンテルンの中心になりたいような王様的な幻想に惹かれているのに、自分は労働者との対話をしていない。僕は就職できなかったんじゃないかと思っていて、そういう意味で労働と革命に対する日本の学生的な感性を代表するような思想なのかもしれない。 諸根 自分はわりと素直に革命に行くのではなく大久保メリヤスに就職したと思った。「就職するので遠ざかるけどあなたたちが近くにいてくれたことは忘れないよ」、と黄色い本とその中の登場人物たちに伝えている話だと読んだ。不安定な時期に救われた読書体験を描いた漫画だと思った。 西中 実地子はセーター編みなど高い能力を持つが、その手技を行かせない機械制工業の大久保メリヤスに就職するところが残酷ではある。 梅田 大久保メリヤスにさえ落ちるほど学校的な能力が低い子として描かれているのでは。だから、本の中に逃げ込んだ。 せりか 最後は本を買わなかったのか? 実地子の顔を見てると、仕事につくワクワク感の方が大きいように見える。 西中 なぜ買わなかったのかも語りどころ。「お別れしなくてはなりません」と自分で決意した。 近藤 市場原理の中で働かなければならない悲しみもあるけど、トーチャンの「本いっぺえ読め」とか、「メゾン・ラフィットに来てくれたまえ」という言葉に希望を感じる。 諸根 P74-75の「ブブブ」は何なのか。 西中 P74の方は手の震えから出る音に見える。 近藤 頁を捲るときに紙と指が擦れる音がするよね。その音かも。
★実地子 西中 読者が最初に見る美智子は車酔いしたひどい顔で、その後も現実世界では常に猫背でおばあさんみたいな表情。本を読むときや本の世界に入っているときだけシャンとしている。しかし第五章は現実でも顔がまともで、成長とか卒業を表しているのか。 近藤 P57に出てくる左翼青年が山本直樹の『RED』っぽい。 諸根 「とっくり」でさりげなく左翼性を示すところなど、説明的じゃなくてうまい。 西中 青年の登場シーンはたまたま実地子の顔が赤くなっていて恋愛感情を匂わせるが、その後に「彼は同志じゃない」と否定するアンビバレントさがある。 近藤 舞台は浅間山荘以後の左翼運動が挫折した時代(※)。それが最後の「お別れしなくてはなりません」にもつながるのかな。 西中 革命で死ぬチボーと70年代日本の革命の挫折が重なってる。このへんも実地子の中で虚実が入り交じる仕掛け。 ※高野本人の実体験は70年代半ばだが、��者インタビューによるとマンガの舞台は60年代後半とされているよう。
★トーチャン 西中 P43で、革命の根本的な矛盾に悩む実地子が語りかけるのは、なぜトーチャンなのか。 せりこ 単純に、トーチャンに自転車で追い越されたからむかついたのでは。 諸根 トーチャンの顔の近くに♥が描かれているのも謎。 西中 トーチャンはほんとにいいシーンが多い。それに比べてカーチャンは本を取り上げたり煮物を教えたりするだけ。カーチャンは実生活を教え、トーチャンは本の世界を教える、ということか。 諸根 P33「ほめられたらいかれ」「よろこんだらはじろ」という本の中の言葉もアンビバレント。 西中 「おめでねば編めねえようなセーターを編む人に」「好きな本を一生持つのも」と言うトーチャンは、いい人だという見方もあるし、現実性のない偽善的な人だという見方もある。そして実地子はいずれの助言も受け入れない。 諸根 絵本にバツ印を付けるシーンでトーチャンが字を読むのが苦手だということが分かる。自分がそういう境遇にいたからトーチャンは子供たちに本をたくさん読んでほしいと思っている、素直に善良な人だと思った。本棚に子供用の本をたくさん置いているところとか。それに反発もあるが遠ざかりきれないのが家族。
近藤 家族や家にほだされるということはあると思う。普通の善良さに対しての複雑な気持ち。P43の「自分以外の〜」は、トーチャンのような普通の善良さですべての人を救えるの?という葛藤。
西中 トーチャンの持つ普通の善良さや理想主義的なところが、実地子の革命思想や就職という問題に対立する。だから実地子はトーチャンに語りかけ、最後もトーチャンと会話するのか。
★その他 諸根 いとこが一緒に住んでてその母親がたまに来る関係が気になる。最後に市民病院に行くから、母が入院していたのだろうか。 西中 病院にいるのがいとこの母なのか自分のカーチャンなのかわかりにくい。P18とか、誰なのか混乱するところが多い。 近藤 この本の『CLOUDY WEDNESDAY』という短篇がすごくいい。朝、玄関で娘を送り出すときのくしゃみのコマとかすばらしい。
(採録:西中)
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『アラザル VOL.12』刊行の辞
前号より一年越しの新刊『アラザル vol.12』が来る5月6日(月・祝)に開催される文学フリマ東京にて、増刊号の予告通り発売と相成りましたことのご報告を、奇しくも令和最初の投稿と代えさせていただきます。 今号は、2014年に刊行した『アラザル vol.9』ぶりに寄稿者数が2桁の大台にV字回復。大型新人や豪華ゲストの寄稿もある掲載記事は、以下のような盤石のラインナップとなっています。
《「重症心身障害児(者)」と「芸術」の臨界点》堤拓哉
《キラッとプリ☆チャンを信じろ》安倉儀たたた
《夜明け》杉森大輔
《壁の中の最後のダンス ドゥニ・ヴィルヌーヴ論》西田博至
【連載:ラッパー宣言】第6回《無記名の川》安東三
《『スパイダーマン:スパイダーバース』と“大いなる誤算”》山下望
【連載:音と音楽と時間】第6回《『Never Too Late But Always Too Early.』》諸根陽介
《ロンドンに雨は降らなかった。を、前提としたファントム・スレッド覚書》dhmo from TAP LAB
《Have One on Me》serico
《《メタスタシス》前夜 クセナキスの習作時代 (2) ル・コルビュジエ時代:難民からエンジニアへ》三上良太
��ドキュメンタリー、ゲーム/アニメ、音楽、映画、アメコミ、ASMR動画といった十人十色の芸術・文化を、批評文はもちろんのこと詩、エッセー、漫画、論考といった多種多様な形式で「批評」している今号は、A5版230頁という批評誌の醍醐味を味わっていただけるボリューム満点の体裁ながら、「926円+税」、つまり現状の8%の消費税の間はジャスト1,000円でお買い求めいただける設定とさせていただいております。
そんな『アラザル vol.12』が世界で最も早く手に入るのは、東京流通センター第一展示場で開催される第二十八回文学フリマ東京の、「オ-30」ブースです(文学フリマ東京以外での販売については、また改めて告知させていただきます)。 是非とも今すぐメモの筆頭にアラザル(オ-30)と書き込んで、当日はお忘れなきようアラザルブースへ直行していただけますよう、今号の編集発行人である私からお願い申し上げます。 令和元年5月1日 堤拓哉
✴︎『アラザル VOL.12』取扱店(2019年6月10日更新)
・アラザルオンラインショップ
・模索舎(新宿)
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アラザル12号予告編
約一週間前の第二十七回文学フリマ東京にて多くの通りすがりの読者の方々に好評をいただいておりました、件の新作フリーペーパーの電子版を本日より公開させていただいてもよろしいでしょうか。
え? ダメですか? この美大卒のAdobe製品を駆使するスキルが数年に一回来るか来ないかのアラザル増刊号を制作する短い時間くらいでしか役に立たない男が一晩でデザインをやっつけたスピード感を共有したくないですか!?
誰が何と言おうと平成の向こう側まで末長く見守る余裕がもし僅かにでも心の隙間の一片に微塵の微量で検出されましたならばお手すきの際には折り返し拡散希望の旨でご理解いただけますよう、四露死苦お願いいたします。
→『批評誌「アラザル」増刊 ARAZARADIO 2018年11月25日号』
■執筆者:堤拓哉/三上良太/安東三/西田博至/山本浩生/倉本陽介/諸根陽介/山下望
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新刊『アラザル vol.11』のお知らせ
10号からなんと僅か半年、アラザルvol.11が5/6(日)の文学フリマで発売されます! 僕は「切り裂けよ、夜」と言う原稿を寄せています。実質的に現代詩です。あと今回も表紙デザイン担当してます。#文フリ #文学フリマ #アラザル #arazaru pic.twitter.com/ZFdYbPNjPG
— 杉森大輔(アラザル) (@daixque)
2018年4月27日
【告知】5月6日(日)の文学フリマ東京にて刊行されるハードコア・インディペンデント批評誌『アラザル』11号に、超短篇小説《今日の自分はカワイイ》と、連作エッセー《4×「障害者」リレー》を寄稿しました。…そうです、私が今号からアラザルに移籍して来ました“たくにゃんメンバー”です!! pic.twitter.com/VZxlTru1dy
— たくにゃん@5/6文フリ東京 オ-72 (@takunyan223)
2018年4月28日
アラザル11号に小論「《メタスタシス》前史:クセナキスの習作時代」を寄稿しました。パリに到着した1947年から《メタスタシス》で楽壇デビューする1955年までの習作時代の創作の軌跡のうち、約半分を扱っています。前号で参考文献を羅列しただけだった習作時代の前半部分を時系列的に追いかけました。
— MIKAMI, Ryota (@leventdanslapla)
2018年4月27日
批評誌アラザルよりゴールデンウィーク中のご予定に関しまして大事なお知らせがございます。読者の皆様におかれましてはよくチェックして耳を貸すべき挨拶に代えさせていただきます。
おかげさまで昨年末に復活を遂げた「vol.10」が好評だった勢いに後押しされたこともあり、前作からわずか半年のペースで「vol.11」の完成に辿り着くことができました。
2018年5月6日(日)に迫って参りました第二十六回文学フリマ東京(於・東京流通センター第二展示場、一般入場無料)にて新刊を先行発売いたします!!
《目次》
・切り裂けよ、夜 −− 杉森大輔
・墓場の進行形--蓮沼執太『〜ing』展について −− 伏見瞬
・4×「障害者」リレー −− たくにゃん
・大和(カリフォルニア)の言葉(音) −− 山下望
・今日の自分はカワイイ −− たくにゃん
・CM批評
・《メタスタシス》前夜--クセナキスの習作時代 −− 三上良太
・はじめに −− dhmo from TAP LAB
版型:B6
104ページ
定価500円
【追記】文フリ後の取扱店はこちらです。
・アラザルオンラインショップ
・吉祥寺「百年」
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アラザル Vol.10刊行記念イベント、開催!!
【満員御礼!】本イベントは定員に達したため予約受付を締め切りました。ご了承ください。ご予約いただいたみなさまに当日お会いできるのを楽しみにしております。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
このたびアラザルは、Vol.10の刊行を記念して、 トークイベント『佐藤亜紀さんと珈琲を飲みながら(二杯目)』を開催する運びとなりました。
アラザルVol.10の巻頭ロング・インタヴューにご登場いただいた佐藤亜紀さんをお招きして、 作品にこめられたさまざまなたくらみについて、より深く読み解くお話をおうかがいします。 ぜひ足をお運びください。
●イベントタイトル
アラザルVol.10刊行記念トークイベント 『佐藤亜紀さんと珈琲を飲みながら(二杯目)』
●日時
1月28日(日) 午後6時開場、6時30分スタート
●会場
水道橋Ftarri http://www.ftarri.com/suidobashi/
●出演
佐藤亜紀(小説家)、西田博至(批評家、「アラザル」同人)
●料金プラン
A.一般:2,000円 B.アラザルVol.10付きパック:2,500円(ご入場時にアラザルVol.10を1冊お渡しします) C.アラザルVol.10割引(既にアラザルVol.10をお持ちの方限定・要持参):1,500円
●人数
定員30人・要予約
●予約方法
※お一人様1席のみのご予約とさせていただきます。
※予約キャンセルの場合は、必ず事前にご一報ください。
※料金のお支払いはイベント当日にお願いいたします。釣り銭のないようにご用意いただけますと助かります。
●主催
アラザル
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アラザルvol.10のお知らせ
三年ぶりに発行する『アラザル』第十号では、念願だった佐藤亜紀さんのロング・インタヴュを掲載いたします(約四万字。インタヴュアは不肖私です)。佐藤さんの文学のこれまでとこれからについて、最新作『スウィングしなけりゃ意味がない』の刊行直前に、とても貴重なお話をお訊きしてきました。 https://t.co/owJftc6EBF
— ama2k46 (@ama2k46)
2017年11月18日
たいへんお待たせいたしました。巻頭が佐藤亜紀さんの約40.000字インタビュー、そのほか安東三の初小説『ビューティフル・ガール 原題:THE BODY』と佐々木敦さんの『作業計画 2018-2020』、「VOL.2」「VOL.3」に参加していた三上良太による8年ぶりの論文『クセナキスとレヴィナスを中心とした���代音楽小史』も載っているアラザル10号がおかげさまで刊行の運びとなりました。取り扱いいただく書店などの情報につきまして、随時追加いたしますので今しばらく要チェケラでございます。
《目次》
・「佐藤亜紀さんと珈琲を飲みながら」 −− インタビュア 西田博至 (装画 畑中宇惟)
・芸術/音楽、そして世界と主体 3 即興の到来 −− 杉森大輔
・ビューティフル・ガール 原題:THE BODY −− 安東三
・【連載:音と音楽と時間】第5回『この日、あの時、その場所で。 ―フィールド・レコーディングをめぐって―』 −− 諸根陽介
・小説家・保坂和志のサウンドスケープ 音/音楽の模倣=描写をめぐって −− 山下望
・作業計画 2018−2020 −− 佐々木敦
・���セナキスとレヴィナスを中心とした現代音楽小史: 『存在するとは別の仕方であるいは存在することの彼方へ』理解のための一助に −− 三上良太
版型:B6
236ページ
定価1000円
《取扱店》
・アラザルオンラインショップ
・紀伊国屋書店新宿本店「文化系トークラジオLife」の選書コーナーにも置いていただいております。
・吉祥寺の 「百年」様にも入荷しました。
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三上さんがある日突然アラザル編集部に投稿してきた『クセナキスとレヴィナスを中心とした現代音楽小史』。図がすごい。(48冊越えました) #bunfree pic.twitter.com/L6pzNeMZI9
— 批評誌アラザル (@arazaru)
2017年11月23日
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◇日本語ラップ批評ナイトに行ってきた。終わり間近に駆け込んだと思ったが、ありがたいことに延長してくれたのでそこから2時間近く観覧することができた。 延長戦は、日本語ラップに対して批評は何ができるのかというところを出発点に、4人の登壇者が語り合うことになった。たしかに批評は常に対象の外側にあるものなので設定それ自体は頷けるが、とはいえしかし、こうしたテーマは時折、シーンの外側に特権的な「外野」というポジションを獲得することだったり、シーンの人��関係との距離の取り方といった程度の話と混同されてしまう危険を孕む。対象に対する外からの視点を獲得することと個人的な人間関係や立ち居振る舞いの話は当然別の問題だし、あるいは反対に批評対象から反論されない安全圏からの批評などというものも存在しない。身内の発表した作品に批評的な視線を介在させることができるならば、それは理想的なコミュニティを形成し、というかまさにヒップホップはそのようにして動いてきた。 批評がない状態というのは、ある種のポピュラーミュージックが迷い込む共感か否かで全てが決する世界のことである。ヒップホップは細かいトライブを形成しやすいカルチャーだが、各トライブは常に覇権争いをしていて、それらがひとつの価値観に基づいた統一的なトライブを形成することなど目論んでいない。シーン全体としては共感よりも批評の方が上に立ちやすい傾向にある。少なくとも現在のところは。 トラックに対する批評であり解釈であるのがラップだし、それに��する批評もまた、例えば楽曲へのディスだったり、あるいは客演だったりといった形で表現される。当然のことながら、批評は文章によってのみなされるわけではなく、そしてまた表現と対立するものでもない。あらゆる創作行為が批評行為を内包している。だから「○○に対して批評は何をもたらすのか」といった問いはたくさんあれど、少なくともヒップホップカルチャーに限っていえば、それに対する回答は、ラップが噴出します、ということでしかなくなってしまう。 ラッパーと批評家を分割してしまうのではなく、むしろ異分野の同業と看做す方が自然なのではないかと思っている。 ◇アラザルでやってる『ラッパー宣言』という連載は、ラッパーとして文章を書いている。ラップという言語を使用するのではなく、文章という言語を使用して対象との距離を言葉にする。つまり、対象と自分の間にある距離を言葉にすることが批評であり、それはラッパーが与えられた一定時間のヴァースの上で言葉を紡ぐことと同じである。言うだけ野暮だけど、何がラッパー宣言なのかあらためて言うと、文章という言語を使って時間=距離を言葉にしていく私もラッパーなんですよ、ということだったりする。 ◇トラックの批評としてラップが乗る。そのラップの批評として更にラップが乗る。(日々:文音体触 ~compose&contact~ http://d.hatena.ne.jp/andoh3/20160731)
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2016年の美術展10選。
2016年の美術展10選。
・アンフラマンスでの迫鉄平展、上田良展、加納俊輔展(コピートラベラーズではなく、それぞれがひとりの作家として、ガチでぶつかった三番勝負。すさまじい密度にぶっ飛んだ)。 ・ラッズギャラリーでの川嶋守彦展(グリーンバーグ以降の美術批評の言葉と、ミニマリズム以降の美術を踏まえ、マネにはじまるモダニズムの絵画のオールドマスターたちへの敬意と挑戦が、こういうかたちで実践できるという驚き)。 ・新宿眼科画廊での山本浩生展(ようやく実現した七年ぶりの個展で、この作家の現在のコアをさらけ出していた。きわめて手法に意識的でコンセプチュアルな作風だが、そこから次のステップへ向けて踏み出すため道筋が、しっかり刻み付けられていた)。 ・兵庫県美でのジョルジョ・モランディ展(まとめてみることができて、ほんとうによかった)。 ・豊田市美の「時と意識」展(河原温のデイト・ペインティングの充実したコレクションを軸にして、現代美術の系譜を、常設作品だけでみせきった)。 ・あいちトリエンナーレのマーク・マンダース(マーク・マンダースの個展を愛知県美はやるべき)。 ・東京都美術館のボッティチェリ展(閉館直前に滑り込んで、じぶん以外だれもいない空間でボッティチェリを舐めるようにみることができたのは僥倖だった)。 ・Oギャラリーeyesの野中梓展(やろうとしていることと、実際に実現した画面がいよいよ並走し始め、激しく火花を散らしている)。 ・横浜美術館の村上隆コレクション展(やはり村上隆は信用できる)。 ・愛媛県豊島のゲルハルト・リヒター《14 Panes of Glass for Toyoshima, dedicated to futility》(この体験に就いて、どうやったら書けるのかをずっと考えている)。
・メゾンエルメスの奥村雄樹による高橋尚愛展、Oギャラリーeyesの高野いくの展、ワコウワークスオブアートの竹岡雄二/ルイス・ボルツ/ゲルハルト・リヒター展、東京国立博物館の黒田清輝展、OギャラリーeyesとフローリストギャラリーNでの中小路萌美展など���よかった。
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けっきょく日本の明治以降の洋画ってのは、油絵具の厚みへのフェティッシュだったんじゃないか。もりもりに盛れて、支持体のおもてから浮き出ている!ってのが気持ちよかったんじゃないか。だからそれって、ほとんど絵画というより彫刻とか工藝に近いものだったんじゃないか。そして、そういう絵画じゃなくてもよかったんだけど絵画になったものの系譜は今も本邦の美術では途絶えていないんじゃないか、などと思えてくる。
http://d.hatena.ne.jp/ama2k46/20161119
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マイケル・フリードは「藝術と客体性」のなかで、「あるものが絵画として見られるための最低限の条件」というのは、あらゆる「時代を超え」て無時間的に変らない、絵画というものに共通する「諸条件」ということではなくて、あくまでも「いま現在」、或る絵画があったとして、これが過去の絵画のマスターピースたちとおなじ水準を保っていると、「確信を強要できる」もののことであると書く。 この「確信を強要するもの」を、フリードは「本質」であると云うのだが、これは「近い過去の強力な作品によって、大いに決定されており、またそれゆえそれへの応答において継続的に変化するものであ」り、「モダニストによる絵画の仕事とは、いま現在その因習だけが、彼の作品のアイデンティティを絵画として確立し得るような、そういった諸因習を発見することなのである」と説く。 さらにフリードは、モダニズムの絵画に関するこの「確信」、「つまり作品それ自体についてのその人の経験に始まり終わるような確信の正しさもしくは適切さは、常に疑いを免れないものだ」とも書いている。この「常に疑いを免れない」ことが、「確信」を得たと称する美術家や批評家や観者を、彼らだけの経験に自閉させないのである。つまり、「確信」を得られたものは、同時に、「本当にその経験をしたことがあるか否かという問題」に直面させられるのである。それは本当に本物の「恩寵」なのか、狐や狸に化かされているだけなんじゃないかとチェックされるということだ。そしてこれが、批評ということなのである。 だから、「近い過去の強力な作品によって、大いに決定されており、またそれゆえそれへの応答において継続的に変化するもの」という文のキモは、もちろん「継続的」というところだ。先述のように「あるものが絵画として見られるための最低限の条件」は時代によって変化する。では何が「継続」されるのか? それはもちろん、「いま現在その因習だけが、彼の作品のアイデンティティを絵画として確立し得るような、そういった諸因習を発見すること」である。それぞれの時代で画家たちが発見する「諸因習」は異なるはずである。しかし、「近い過去の強力な作品」と向き合うことで得られた「諸因習」や「確信」を、妄信するのではなく「常に疑い」つつ「応答」を繰り返してゆくことは、どの時代でも「継続」されなければならない。 これを「抽象表現主義以降」のグリーンバーグの言葉で云い換えるなら、もちろん「自己-批判」であり、藝術における「価値もしくは質の究極の源泉」であるところの「構想(コンセプション)」ということになる。あるいは「「フォーマリズム」の必要性」では、「維持されたり回復されたりするのは、過去の特定の様式や手法でなく、質の規範、水準なのである。これらの水準は、いちばん最初にそれに達したときと同じ方法で保持できる。つまり、不断の更新と刷新によって」と書かれていることである。
http://d.hatena.ne.jp/ama2k46/20170101
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山本浩生『非ざる「疵」/「補修」の非在』(11.992/23.461字分のダイジェストver.)、「アラザル」9号より
一・非ざる「疵」
● 1
新しく買う新築の家かマンションがあったとする。恐らく一般の人々にとっては生涯において最大の買い物か、それに近いものになるだろう。当然ながら新しく買った家は綺麗であってほしいだろう。ピカピカに磨いた床、すべすべした柱、シミひとつない壁。施主は、いかに綺麗か、粗漏がないか、欠如がないか、くまなく検分し、何かどこかに疵があればそれを指摘するだろう。 何もものが置いていない状態の、プレーンな空間。しかしこのプレーンな空間ではなく、ものが置かれた状態で、人は暮らすのである。冷蔵庫が置かれ、洗濯機、テレビ、机、ベッド……様々なものが置かれたその空間では、もはや床や柱についた小さな疵など気にして暮らすことはないだろう。ひょっとしたらそれが相当な大きな疵だとしても何年も気づかずに過ごすことさえあるかもしれない。 だがしかし、何も置かれていない新築の空間では、疵やシミはどんなに小さくても神経質にまで「気にされる」のである。
「新築」のマンションや家などの壁や柱や床などは、当然「真新しい」のが当然だと思っている人はほとんどだろう。たしかにそれは間違いではなく、たしかに「新しい」。 しかし、建築をつくる過程というものは非常にほこりっぽく、多くの危険が伴うような場所でもあるわけである。危険とはいかないまでも、あらゆるものの運搬作業などで新しく設置された「真新しい」壁や柱や床に疵がつくケースは非常に多いのである。完成まであらゆる箇所に全く疵がつかないというのはほぼ不可能であり、大抵は工事の工程ごとに疵が出来るわけである。その都度「補修屋」がその疵をなおすわけである。建築業界にはそのような小さな疵を「なおす」専門の業種がある。それは通常「補修屋」と呼ばれている。疵があることによってその家や空間が新品ではなくキズモノのように認知されてはまずい。そこで、仮に疵があったとしても、その疵がなかったように透明化し隠蔽するのが彼ら「補修屋」の役割である。 つまりは完成されたばかりの「新しい」建物といっても、既にあらゆる箇所で修繕が行われているわけである。彼らが補修に使う素材は、柱や床や壁などの素材とは全く別物の「補填材」であって、欠けたところを構造的になおせ���ような仕事ではなく、なおしかたがおざなりであると、その補填材が変形したり欠落したりして再び元の疵が露呈することもある。あくまで建前としてプレーンであり新品であるように取り繕うようにみせる技術であり、つまるところはイリュージョンとして人の眼を欺くような技術なのである。
ちなみに彼らが「なおす」疵は、ほとんどすべて建築の構造にはまったくといってよいほど影響しない疵ばかりである。
(……)
● 3
さて、補修屋の技術は何が重要なのだろうか。 補修屋の技術として、いちばん基礎的な技術に「面出し」というのがある。疵は、大抵の場合平滑な面に疵が付くのである。その疵が付いた箇所は、多くは何かがぶつかってできるものだから大抵へこんでいる。基本的にへこんでいるところに充填剤を埋めることで元通りの平滑な面にするのである。電気鏝を使って充填剤を熱で溶かし、固まる前にへこみのところにそれを移す。すぐに冷えて固まってしまうのだが、それが固まる直前に摩擦熱を利用しながら平滑にするコーボルトといわれる道具を使って、凸凹を均すのだ。 その塩梅が難しく、うまく摩擦することができないと平滑にしたはずが小さな穴があいたままになってしまったり、平滑な面より痩せてしまったりする。だがうまく出来れば、その箇所を指で触ってもかつてそこに疵があったとは思えないくらい違和感なく平滑にすることができるのである。 だが平滑になったところで、色や柄が違っていたら、なおしたことがばれてしまう。よって、充填剤の色を元の床や柱の色とあわせなければならない。充填剤には様々な色があって、それを調色して本物と同じような色にするのである。しかしそれだけでは、よくみてみると、そこがなおした箇所だと判ってしまうのだ。何故か。たとえば木目調の柱の傷をなおしたとしよう。いくら同じ色であっても、木目の筋が突然そこだけ途切れていたら不自然である。さながら本物のようにするにはやはり、やり方がある。 まず疵の箇所を木目に沿って彫刻刀で削るのだ。つまり疵の箇所周辺の平滑な場所(疵ついてない場所)も削ってしまうのである。これは最初は勇気がいることなのだが、むしろ木目に沿って細く何回か刀を入れたほうが最終的に���填剤を入れた時に不自然にみえないようになる。 しかし木目の筋の途切れ具合によってはその作業ではごまかせない場合がある。その場合最終手段として彩色を試みる。日本画か水彩画のような顔料のセットで色をまぜあわせてつくり、「筆で木目を描く」のである。自然の木目と違和感のないように描くという技術は、絵画の心得がないとかなり難しい。もちろん調色も美術の専門とするところである。そういえば彫刻刀は「彫刻」の画材であるし、コーボルトの使い方なども美術的な器用さを要求される。 さらに応用編として、スプレー、コンプレッサーなどを用いる場合もあり、ここまでくると一見してなんらかの「美術作品」を制作するのと変わらないような作業である。 ここまで書いてくればご察しいただけると思うが、美術作家や美術大学出身のひとが生活の手段とするために補修屋の仕事をする場合が多い。平面、立体的な作業、道具の使い方、どれをとっても美術の技術と非常に近いものがあるからである。
● 4
建築工事というのは、工程や工期によって様々な職種のプロフェッショナルが夫々の仕事を分担して進んでいく。工程の初期に入る職種。最後の仕上げの段階で入る職種。しかし補修屋は検査のたびに、工事のいろんな段階に出没する。そして木部を中心とした様々な細かな疵をちまちまとなおしているので、まるで建築現場のゲリラ的な存在である。 様々な職種が入り交じっているが、当然それぞれの気質もあるし雰囲気の違いもある。だが補修屋は、その他の職種とくらべてもちょっと風変わりな雰囲気を持っていたりもする。(風変わりというか、何か、どこか型にはまっていないのである。他の職種の人と比べて、何かがずれている。)美大出身が多いからというのもあるのだろうが、大抵の人は補修だけをやっている人というのが少ないのも特徴のひとつといっても過言ではないだろう。
たとえば補修だけで食べていても、何かしらやりたいことがあるための稼ぎ目としてその職業を択んでいるのに過ぎないという連中が少なくない。美術作家を筆頭に、音楽をやっている人もあれば、何かの起業のための足掛かりとして「とりあえず」やっている人もいる。なかには高校や専門学校の非常勤などという肩書の人もいる。大工と比べてみれば一目瞭然のように、補修業務だけ専門に携わって何十年、それ一筋という人は殆どといってよいほどみかけない。 だいたい、大工が居なければ建築物は決して建たないが、補修屋というのが居なくても建築が建たなくなることは絶対、ないのである。割れ煎餅がふつうの状態の煎餅と同様に問題なく食べられるように、補修屋がなおすような疵では建物は決して崩壊しない。「見た目」専門の仕事ということである。 そして忘れてはならないことだが、補修屋は「誰かが失敗しないと仕事が入らない」職業であるということである。誰かがミスしてはじめて仕事が発生するわけで、誰も失敗することがなければ、当然仕事が存在しないわけである。 故に、仕事は不安定かつ不定期な仕事なのだ。建築物の疵が多ければ仕事が何日も入るし、疵が少なく、簡単な作業でなおせることができれば15分で仕事が終わることすらあるのである。 そのような仕事であるからして、うまくいけば一気に仕事が入るので儲かる反面、仕事が全くなくなってしまう不安はいつもつきまとうことになる。ゆえに個人でフリーとして活動している専門の補修屋というのは稀であって、相当な経験と人脈を得ないと独立は困難をきわめる。また、独立したとしても補修屋だけで安定した収入を得ることは難しい。ゆえに初心者はたいてい大きな���社に入りそこから派遣されるということになるが、安定した仕事を入れてもらえるかわりに多大な割合のマージンをとられるわけであって、結局高度な専門的スキルを要求されることが少なくない割には美大出でも一般のバイト並みの給料しか出なかったりするのである。 また、マンションの新築の入居などが、新年度というところが多いので、だいたい冬から春にかけての何か月間かが建築ラッシュになる。その工期にあわせて補修の仕事も急増するのが常だ。だが、逆に夏など特定の期間は仕事が極端に少なかったりするので、非常に波の激しい職業だといわねばなるまい。 そんな職業なだけに、長い間やる人は多くは居ない。ただ裏を返せば、その荒波にもめげず何年もかけてあらゆる疵に対処できるようになり、人脈も増やしいくつもの受注先を確保できるようになれば、重宝される存在となることは不可能ではないともいえる。
(……)
● 6
補修屋は、孤独な作業である。出来上がり途中の部屋のなか、大抵ひとりで柱や床にへばりついているような格好でちまちまとやっている。大工のように、共同作業で大きな作業をすることはめったにない。だが実は他者との関係が非常に重要な技術のひとつでもあるのだ。もっといってしまえば、他者の「目/眼」との関係であり、勝負である。 これまでみてきたとおり、補修とは、シートや補填材などを使って疵や間違いを透明化しカムフラージュする技術であって、根本的に「なおす」のではない。むしろ「疵」��いう一個の概念や記号を消す作業といってもよいだろう。それは、あくまで他人の眼を欺くことであって、他人にとっての概念や記号を消す作業であるわけである。 ジャック・ラカンは『精神分析の四基本概念』において、大プリニウス『博物誌』中の「ゼウキシスとパラシオス」の逸話を引きながら、「目を騙すこと」の問題を考察している。ゼウキシスとパラシオスはともに素晴らしい絵描きであって、ふたりが競争しあったという逸話である。ゼウキシスは「鳥」が間違って「惹きつけられる」ほどの葡萄を描いた。対してパラシオスはどうかというと、「壁の上に覆い」を描いたのである。そして『その覆いがあまりに本物らしかったのでゼウキシスは彼の方を向いて「さあ、見せてくれたまえ、君がこの向う側に描いたものを」と言うほど』であった。さてどちらの絵が勝負に勝ったのか。 結論は「パラシオスがゼウキシスに勝った」のであるが、その理由をラカンは「眼差しの目に対する勝利」といっている。つまり、ゼウキシスの葡萄は鳥の目を錯覚させたに過ぎず、観る人(人間)には上手に「描けた」葡萄の「絵」ではあってもあくまで「葡萄そのもの」には見えていない。だがパラシオスの壁の上に描いた覆いは、観る人(人間)にもそれが「描いた」ものとは思われずに、「覆いそのもの」だと間違われたからである。その覆いこそが「絵そのもの」であったのにもかかわらず、その覆いの中にほんものの絵があると錯覚されたのである。ラカンはこの勝負の���準を「目を騙すことこそ問題だ」と断じ、だからこそ「目」よりもその「眼差し」が勝利したといったのである。 補修屋も、他者の「目」を「眼差し」によって制覇しなければならない。「うまく描けた木目」を描けても駄目なのである。それはあるのにない、という状態に他者の目を欺かなければならない。しかも時には、他者の「目」だけでなく「眼差し」にも勝利しなければならないのだ。補修屋の「眼差し」が他者の「眼差し」にも勝利するということである。
× × ×
チェックレディという職業がある。この職業は補修屋の不倶戴天の敵であり、また同時にチェックレディの働きによって、補修屋に補修の仕事が舞い込むことにもなる、非常に両義的な存在である。「補修」した後のチェックは「自主検査」「社内検査」「施主検査」……など何工程もの検査の前段階に行われるのだと前述したが、その検査時に、このチェックレディが投入されることがあるのだ。 チェックレディは、完成されつつある部屋に入り、あらゆる「疵」や綻びを見つけることが役割である。チェックレディは非常に細かい疵まで見つけることができるプロフェッショナルなのだ。このチェックレディの正体は、普段は一般的な主婦であることが多い。それゆえに、「チェック」する「レディ」(婦人)なのであるが、何故かといえば彼女たちは家に居て家事全般に携わり、日常的に細かい点まで気を配ることができるからであるらしい。
彼女たちは、部屋の疵を見つけるとそれをチェックし、その箇所を補修するのが補修屋、という塩梅である。まだ発見されていなかった(補修されていない)疵が発見されることに関しては補修屋の需要が高まるので良いのだが、もう補修済みである箇所まで彼女たちは視破ることがあるのだ。そしてそれがあまり出来がよくないと彼女たちに判断されると、「再補修」となる危険性があるのだ。これは前述のように補修屋が優秀な魔術師から出来の悪い詐術師に堕ちる瞬間であり、特に「眼利き」である彼女たちに堕とされる可能性は決して少なくはないのである。
チェックレディは柱を柱としてではなく、床を床ではなく、もっと細かい視点で……つまりはそれらの模様や木目をみるのである。これが補修屋の眼でありチェックレディの視点であり「眼差し」である。同じ土俵に立たれてチェックされるほど嫌なものはない。 だがここで判ることがひとつある。裏を返せば、同じ土俵=眼差しにたたれないように、常に他人の眼差し=概念を「ずらす」ように隠蔽・透明化することが補修屋の技術なのだということである。
(……)
● 9
補修は、あらゆる不調和、不安定、異質、亀裂、揺らぎ……等に適宜フレキシブルに対応しなければいけない。その幅は前述したとおりであるが、それを行う補修屋の心の裡も、また安定していないと難しいといえる。感情にムラがなく常に一定のスタンスで取り組むほうが良いのである。感情だけでなく、体力的にもムラなく一定であるほうが好都合である。これは、じつは技術を極めるのと同等もしくは同等以上に重要なことのように思われる。 たいていの人間は、朝と夕方では疲れ方も違うし、気持ちも違ってくるだろう。朝のほうが頭が冴えているという人もいれば、昼のほうが身体が動くという人もいる。好調のときもあれば不調の時もあるだろう。その差が激しい人もいれば、比較的一定している人もいるだろうし、そのバイオリズムが長い時間のなかで変わる人もいれば短い時間の人もいるだろう。とにかく、人間は完全には一定不変の気持ちや体力で居ることは殆ど不可能であるわけで、作業にも、どうしてもムラが出がちである。このムラというのも、補修をするうえで、大敵なのである。 調子のよいときには素晴らしいものを出来る人でも、疲れていたり調子が出ずペースをつかめないまま終わる場合などは往々にしてあるだろう。しかし反対に調子のよいときにもそこそこだけれど、悪いときにもそれなりに仕上げるという人も存在する。 もちろん調子のよいときも悪いときも安定してクオリティの高さを維持でき続けるのが一番なのだが、その理想的状態はさておき、調子が良いと素晴らしいものが出来るけどペースがつかめないと明らかに質が落ちる人と、どの疵や失敗に関してもそこそこのそつない補修の仕方を出来る人は、どちらが補修屋として適しているのかといえば、じつは後者であるのかもしれない。
仮に一本の柱に十か所同じような疵があったとしよう。それらの疵ひとつひとつは決して「完璧」でなかったとしても、なおし方が一定であれば、目立たない。かえって十か所が一定の状態であるので、完全には同化されていなかったとしても、そういうデザインだと認知されることすらある。特に木目などがはっきりしているデザインの柱であれば、それは特に有効である。 だが、その十か所の疵に補修の出来のムラが出来ていたらどうであろうか。十か所のうち九か所が「完璧」に補修されていても、一か所でも「完璧」の状態ではなかったら、一か所「疵」があると看做されてしまう、ということもありうるのである。つまり、九種類百点の出来でも、ひとつが八十点の出来であれば、ものすごく補修の失敗が「悪目立ち」するのである。対して、十種類がそろって八十点の出来であれば、完璧ではないゆえに何らかが「みえて」しまうかもしれないが、しかしそれらは均されて「みえる」がゆえに、意外にも「疵」だとは認識されない、ということが起こりうるのだ。 結果的にはそこそこの出来でもムラがない一定の出来であるほうが、チェックレディなどに「補修の失敗」を指摘されない可能性は意外にも大きいのである。いいかえれば補修の失敗を「指摘」されなければ、補修屋がまったく納得のいかない出来でもそれはもはや「疵」でもないし、ましてや「補修の失敗」でもなく、其処には「疵」なんてそもそも「なかった」し、最初から「ない」のである。「なかったこと」になるのである。 「なおった」ら、「疵」を指摘したほうも忘れるし、補修屋自身も忘れる。
正解は常に流動的であり、補修屋は、常に不安に晒されている。ひょっとしたらこれは失敗にみえるかもしれない。何でもないと思えば何でもなく処理できていると思えるところであっても、気になりだすと果てしなく気になりだしてくる。気になりだしてくると、どうしても納得のいくまでなおしたくなる。併し、いつまでもその疵に拘っていては時間がなくなってしまう。だが決断する。もう少し完璧になおそう……殆ど補修し終わっているのにも拘らず、彼はまた彫刻刀を取り出し、どうしても気になっているところをほんの少し削る。そして調色した充填剤を電気鏝で溶かし削った場所に埋め、充填剤が完全に冷えて固まらないうちにコーボルトで摩擦しながら平らにする。……だが、どういうわけかその時に限って上手くいかない……どういうわけか。焦ってくる。紙やすりを使ったりスプレーを使ったり、様々な手段でなんとか「帳尻」を合わせようとするが、確実に前よりひどくなっているように思える……もう一回やりなおすべきか。いや、もう一回やりなおす時間はない。と、思っているうちに、ますますその箇所は「失敗」の様相を帯びてきた気がする。焦る。いつの間にか汗をかいている。顔がほてってくる。そして、自分の不安に導かれるようにほんとうに「疵」は「補修の失敗」になってしまっている。どうにもこうにも行かなくなってしまったように思える。 仕方ないので、とりあえず放っておき、別の疵を補修する。何か所か補修したあとに、再び戻って、「こじらした」箇所をみる。改めてみてみると、大したことがないように思えてくる。実際にもう一回やってみると、あっさりとなおせてしまうことができた。こじらせて二十分も三十分もかかってしまったが、意外にも時間をおいてやってみたら三分で簡単に出来てしまった。
このようなことは日常茶飯事である。こういったケースで判ることは、気持ちが揺れ動き様々な予期不安に押し流され、ペースを失ってしまうと普段別段に深く考えることもないときには何でもなくなおすことができる疵が、突然難易度の高い壁となって立ちはだかるということだ。どうしても力んでしまい、普段は様々な疵に適った技術を過不足なく投入できるはずが、どこか余剰か欠落が発生し、過不足が生じているのだ。その「どこか」というのは、実は「自身の気持ち」である。そこに余剰/欠落が発生しているのだ。 普段、疵にスムーズに対処できているときは、「いかに疵をなおすか」という具体的な方法のみに思考を特化・集中させていることができているといえる。しかし一旦そのペースが途切れ不安な気持ちが増殖してくると、「なんでこんな簡単な疵がなおせないんだ、はやく治ってしかるべきなのに」というような自身の要求が出てきたりする。この要求は、自身のイデオロギーであり理想形態であるが、実際に今現在なおしている疵の対処方法と合致しているわけではないことが悲劇を生む。疵自身がどのような性質なのか、どのようにしたらなおるのかということを「みきわめる」ことによってその都度なおす方法は当然異なってくるのに、肝心の疵を「みていない」のであれば、幾ら自身の要求を「ゴリ押し」してもうまくいかないのは当然である。 または、まじめすぎるのかもしれない。そういう時にかぎって「失敗したらどうしよう」「お金をもらっているのに」などという義務感が発動し、車のハンドルでいう「あそび」がなくなってくる。「あそび」がなくなるということは、「じぶん」との距離もとれなくなるということでもあるかもしれない。もっといってしまえば、「補修屋」や、「お金」「技術」「失敗」「疵」といった概念と「じぶん」との距離がなくなって一体化してしまっているのである。 しかし、こういう状況では、「じぶん」はいらない。「補修屋」も「お金」「技術」「失敗」「疵」という概念すら必要ない。必要なのは、「じぶん」の目の前にあるその不定形な「ナニモノか」を、前もった観念や思い込みを入れずにただ「視る」ことだ。そういうときには、もう手が動いている。既に作業をしている。 「ナニカ」を考えすぎて、その思考に捉われてしまっていると「感じる」のであれば、気分転換は必要である。この「感じ」をはやめに察知し、執着から離れることなのだろう。距離が視点を確保する。
二・「補修」の非在
(……)
◆11
「作者」が積極的に意味を「演出」し主体的に「選択」する芸術作品でさえ、概念は常に揺れ動き変化する。ましてや補修は、揺らぎやすい概念そのものといっても過言ではない。チェックレディや施主などの他人が「疵」を発見したものを補修屋はなおす。そしてなおったものをまた彼ら「他者」がチェックする。そして疵がなくなっていたと看做されれば補修は「成功」であり、疵だった箇所が補修してあると判ってしまったり、十分に補修されていないと看做されれば「失敗」である。 自分が補修する「疵」の箇所は、最初から最後まで常に他者の視線にさらされており、他者の判断にゆだねられる。 その他者の認知をうまく「欺く」ような、いうなればトリックアート的な技術を、あらゆる「疵」に応用する。その技術というのは、常に疵の周囲との「関係」から決まってくる。つまり疵の周りが茶色ければ、疵もまた茶色に補修しなければならない。疵の周りが凸凹であれば、その凸凹と同じような凸凹をつくって補修しなければならない。 補修屋は、常に受動的なのである。他者に指摘され判断され、疵と疵の周囲に左右される。さらに補修屋自身の心の内の「他者=疵」にも揺り動かされる。 そのさまは、まるで根無し草ともいうくらい不安定であり、根拠を持たず、限りなく主体が消えていくようだ。
つまるところ補修屋というのは、成功することが、消去するということなのである。成功することということが、つまり、彼らの「作品」が忘れ去られるということなのだ。つまり彼らが補修した箇所を「作品」だと仮に看做せば、誰にも認知されないことを究極の目的としている「作品」なのである。アーティストや職人が、卓越した「作品」を創造的であると他者を驚かせ概念や文脈、視点等を切り拓き感覚を解放したり、伝統をつくりあげたり受け継ぎつつ発展させたりするのとは逆である。まさに卓越せず概念や文脈等を消し、視点を閉ざし、透明化することによって「新しい」ことを妨げないことなのである。つまり、徹底して「作品」否定であり、「主体」否定であり、「能動」否定であり、「演出」否定であることが彼らの「作品」であり「主体」であり「能動」であり「演出」ということなのだ。 創造とは逆の否創造という「創造」といってよいのではないだろうか。創造みたいなことをしているのに、どこかずれている。そのずれは、反転の反転して、一回りしているところからきている。だからこそ、補修屋というのは「いかがわしい」。職人「みたい」であり、アーティスト「もどき」であるけれども、そのどちらでもない。しかしある意味では、逆でありながらも「そっくり」なのである。まるでそれは、鏡のようである。限りなくそっくりでありながら、左右逆転しているように。そういえば補修は「そっくり」に「みせかける」技術であるが、補修屋という存在そのものも実はそのような存在なのだ。
補修屋は、通常、実にとるに足りないような些細な疵をなおす。それは、たいていいったん住んでしまったらほとんど気にならない���うな疵である。そのような疵はたとえば「新築」のお披露目の時だけ気になるかもしれないものであって、それはほとんど意味すら感じられない。というよりも、気づかれていない時は、「疵」ではないのだ。その時、「疵」は存在していない。疵は、発見されることではじめて「疵」になるのである。 「疵」は、発見してしまった人の眼を離さずにはおかない。そしてそれが無意味で不定形だからこそ、それが微細なほど、その不気味さに気づいてしまった人は限りなく神経質になるのだ。その疵は、喉仏にささった魚の骨のように人を逆撫でし続けるだろう。 というわけで補修屋は、その不定形で無意味だが、人を限りなく刺激するかもしれない「疵」と向き合うのである。「疵」の「概念」まで消去するように補修しなければならないのだが、それには「疵」自体にある意味憑依(同一化ではない)しないと「概念」の消去までに至らない。ある意味では「疵」に対しての理解と共感が必要なのである。どこかの科学研究所にいるだろう「ゴキブリ博士」は、日々大量のゴキブリを観察し、ゴキブリのことを考えていても、ゴキブリが厭ではないだろう。それどころか一匹一匹のゴキブリに対して愛情と尊敬の念さえ抱いているかもしれない。だが、徹底的にゴキブリを研究した結果、「ゴキブリを如何に除去できるか」ということに最大の成果をもたらすだろう。その「ゴキブリ博士」という存在が、反転と皮肉そのものなのである。補修屋もまた、そうであるだろう。
それにしても、「疵」は何故嫌われるのか。 些細な疵があるからといって、ゴキブリのように菌をばら撒くようなことはない。もちろん建築の構造に揺らぎを与えるものでもない。要するに疵があるからといって物理的に被害がもたらされることは殆ど想像しにくい。敢えていえばそこから水分が入り浸食し、腐食してしまうということは考えられるが、もっと微細なへこみくらいであれば、そういうことも考えにくい。 つまり、「疵」というものは殆ど精神的なものなのである。「新築」なのに「疵」がある。新しいから「完全」なはずなのに「疵」がある。それは綺麗な空間であればあるほど、異質にみえる。しかもそれが微細かつ些細であればあるほど、発見されたときには耐え難い。むしろ、最初から修正できないほど大きな疵があったほうが「納得」するかもしれない。もう、ここには疵が存在するから仕方がない、と諦めがつき「受け入れられる」かもしれない。むしろそれは「疵つき(いわくつき)の新築物件」という概念として、そういう前提として売り出され、みられるかもしれない。もっとも、それくらい大きな疵があれば、その疵のあるところのパーツ自体が交換されるだろう。 だが、微細な「疵」だけでは、交換されるにも値しない。かといって疵だと認定されるにはあまりにくだらないような「疵」である。あくまで括弧つきの、暫定的としての「疵」としか看做してもらえないのが、「疵」なのである。「なんでもない」ものだから、認知したくないわけである。「どうしようもない」からこそ、空間に馴染むことを許されない。概念として認められることを拒絶される存在なのだ。 だから、「疵」は、一時的であるがゆえに、激しく憎悪されるのである。名付けようもない、記号化しようもない。いや、じつは記号化「したくない」からである。 ゴキブリは、単純に記号化・概念化できない予期不能な動きをする。人はゴキブリの動きを何とかして捉え、統��したいのに出来ない。だからゴキブリは恐れられ、嫌われる。 しかし「疵」は動かない。不定形なかたちがあるだけである。「疵だね」と容認し、じっくりとその些細な「疵」に付き合うことも難しくはない。だが、あくまで些細であるからこそ、そんなことに付き合いたくない。付き合いたくないのに調和を乱すからなおさら憎まれるのだ。しかも調和されている空間ならさらにその度合いは増す。そして極めつけは、そんな些細な「疵」だからすぐになおる、と思うからだ。ずっとその「疵」と付き合うと観念すれば、もう少しその「疵」と付き合おう、面白いところや愛せるところを見つけ出そうと努力するだろう。だが、一時的になおせると思うから、憎み切れるのだ。
結局、補修屋という職業が確立されたために、「疵」はより憎まれるようになったといえるのかもしれない。補修屋という職業がなくなり、些細な「疵」が簡単になおせない状況になれば、意外にも「疵」は何でもなく、容認される存在になるのかもしれない。補修屋は存在自体が神経「症」的である。建築現場の、「疵」的異邦人なのかもしれない。
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山本浩生個展 - 会期中のライブ&トークイベント情報
8月26日(金)『オープニングパーティー』 19:00~21:00 8月27日(土)『鈴木伸明 エレクトリック・ヴァイオリン』★ 19:00~21:00 8月28日(日)『杉森大輔×諸根陽介×佐々木敦』★🌙 18:00~20:00 8月29日(月)『千葉正也×佐々木敦×山本浩生』🌙 19:00~21:00 8月30日(火)『今井俊介×山本浩生 <エラーをエラーと認識できるか問題>』🌙 19:00~21:00 8月31日(水)『福田尚代×佐々木敦×山本浩生』🌙 19:00~21:00 9月1日(木)休廊 9月2日(金)『福永信×佐々木敦×山本浩生』🌙 19:00~21:00 9月3日(土)『���美研イベント!!!!!!!』🌙 15:00~17:00 『石川卓磨✕ア美研〈現在時点から、再び「日常」を問う〉(企画:櫻井拓)』🌙 19:00~21:00 9月4日(日)『アラザル大集合!アラザルトーク』🌙 18:00~20:00 9月5日(月)『批評家養成ギブス+ゲンロン批評再生塾』🌙 19:00~21:00 9月6日(火)未定 9月7日(水)『クロージングパーティ』 15:00~16:30 (★=ライブ 🌙=ゲストトーク)
●展示室内企画 ・原友香利×山本浩生映像コラボレーション作品展示 ・梅田径企画『ここで発する、言葉。』 ・アラザル企画 『人工アラザル音声ガイド』 『なぞる謎る』 佐々木敦+アラザル企画 山本浩生個展 会期:2016年8月26日(金)~9月7日(水) 12:00~20:00(イベントの日時は上記の情報参照) 最終日17:00 木曜休廊 Tumbr Twitter
〔会場〕 新宿眼科画廊 〒160-0022 東京都新宿区新宿5-18-11 03-5285-8822
〔展示概要〕 山本浩生の作品は、「なぞる」「はがす」「つらぬく」など、人間の基礎的・原理的な動作・行為を徹底的に問い直すような作品です。その動作や行為を日常的に反復し、行為の痕跡をひたすら集積していきます。その結果、微小な差異が圧倒的に立ち上がり、豊饒で超複雑な世界=<謎>が顕現されてくることを試みます。 そのような山本作品と「美術」「表現」をめぐり、批評家佐々木敦と異色の批評集団「アラザル」があらゆる視点角度から切り取ったイベント企画が満載!の、なぞる謎る2週間!!!!!!!
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アラザル美術研究所:Episode 0
・2016年8月26日にオープニングが迫って来ている山本浩生個展を準備中の編集部メーリスより
「確かア美研でどっか行った時も見たよね?
どこで見たのかなぁ……と思ってPC内を検索したら、 2014年11月上旬のメモが出てきました。 この頃、倉本さん、やまもとと美術館めぐりをしたね。 ア美研の原型。
どこにも出してないメモなのでなんか恥ずかしいことを書いてるんだけど、 ところどころ笑えるのでさらします(笑)。」
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「東京アートミーティング(第5回) 『新たな系譜学をもとめて‐ 跳躍/痕跡/身体』」@東京都現代美術館
11月2日観覧。
アラザル同人の山本浩生と、アラザル新同人の倉本陽介氏と、元アラザルの俺の3人で。普段こうして他人と展覧会なぞ観ることがないので互いの視点の違いが新鮮。
作品ひとつひとつを自律したものと見てその方法論・方法的側面について考える俺に対し、山本は作品の視覚的側面・今ここに作品が置かれていることの面白さ、つまりインスタレーションとしての面白さを掴んでいく。
いずれも、フォーマリスティックな見方(つまり美学あるいは美術史の内部における作品の立ち位置の分析)をしているという点では同じ地平にある。
一方の倉本氏はなぜか山本と俺の美術館での振る舞いの違いをメモ。これは羞恥プレイとも言える。
以下、気になった作品だけ。
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★ダムタイプ《MEMORANDUM OR VOYAGE》(新作)
タテ2.1m✕幅16mの巨大モニターによる音と映像のインスタレーション。モニターに映るのは世界地図や短い英文、そして横たわるパフォーマーたちの体。映像はパルスのように変化し、画面左から右へと流れたりもするのだが、画面の幅が16mもあるのでどこから見ても一望できない。
カラーフィールド・ペインティングのような巨大な画面に対しては、「包み込まれるような経験」をその特徴として挙げる向きもあるが(そして俺はそれに真っ向から反論したいのだが、今はおいておいて)、ダムタイプの今回の作品は、この「一望できない」という仕掛けこそ重要なのではないかと思う。観ようと思えば、観客は首を振らなければならない。さらに、右を見ている間は左の画面は見えない。それはイメージの一挙性や、「包み込まれるような経験」からは程遠い。むしろ、感覚を分断されている気がする。
この点において、かつて古橋悌二が生きていた頃に作られた「s/n」などに見られる情報過多なパフォーマンスを少し想起させはする。でもまあ、ちょっと退屈だったよね……。
★シャロン��ロックハート《エシュコル=ヴァハマン式記譜法における4つのエクササイズ》
イスラエル人振付家にしてテキスタイルアーティストのノア・エシュコルと、建築家アブラハム・ヴァハマンが開発した「エシュコル=ヴァハマン式記譜法」によるダンスパフォーマンスを映像化したもの。
タイトルに「エクササイズ」という文言が入っているように、なんか奇妙な太極拳のようなものを白髪の初老の婦人が延々と繰り返していく。その振り付けがまた抽象性が高くて面白すぎ。
体を傾けると共に一歩脚を出し、時々下腕をぐるぐる回転させながら顎を上げて上を向いたり。どこからこんな振り付けが発想されるんだと。日常的にはありえない動きはゆったりしているように見えてもたぶん変なところがつりそうになるパターン。やってみたい。
★チェルフィッチュ《4つの瑣末な 駅のあるある》
ウケる。
モニタに映しだされた俳優たちが、例のだらだら踊りで何ごとかを喋っている。そのままだと何を言っているのか聴こえないのだが、天井から吊るされたスピーカーの下に行くと、俳優たちの喋っていることがわかる。内容は、雨で濡れたホームに落とした切符を一生懸命に取っている男性を見ている男の話、駅前で待ち合わせをしていた人が全員スマホを見ていたので自分は絶対に見ないと決意した女の話etc.
俳優たちの体の動きは確かに話の内容に沿ってはいるが、聞き手に内容を伝えようとするジェスチャーではなく、話し手の頭の中にあるイメージを過剰に変形していたりするもので、確かにこうしてセリフと体の動きを分けてみるとそのズレがよくわかる。というよりウケる。
チェルフィッチュのパフォーマンスのユーモアの部分を切り取ったナイスな展示。
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続いて常設展へ。
「開館20周年記念 MOTコレクション特別企画 第二弾『コンタクツ』」@東京都現代美術館(常設展)
(たしか)今年に入ってからずいぶん展示方針が変わった「MOTコレクション」。というか今まではコンセプトを全面に出さず「常設展」みたいな感じが強かったが、現在は4半期ごとに明確なコンセプトが掲げられほとんど「企画展」の趣も。
今回のコンセプトの「コンタクツ」は、2〜4組の作家を同じ場所に並べることによって対比させるというもの。山本いわく「対決」。基本的に収蔵作品を中心とした常設展なのでおなじみの作品ばかりなのだが、インスタレーションとしての鑑賞傾向の強いらしい山本にとってはおいしい展覧会なのかどうか。
気になった作品をひとつ。
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★千葉正也《タートルズ・ライフ #3》
夏に東京オペラシティで行われた「絵画の在りか」展その他でもいくつか作品を見ていたはずなのだが、ピンときていなかった作家。だが山本のセールストークを受けてなんかやたらと面白く見えてきて��まった俺のブレ加減こわい。
この《タートルズ・ライフ #3》は、作家の机の上を再現したような構成。パソコンのモニターや亀を飼っている水槽、描きかけの絵画、ビデオデッキのような機械までところ狭しと置かれている。そしてその全てのオブジェクトのパースも遠近感も狂っているにも関わらず、いやそれゆえに各オブジェクトがリズミカルに配置されている。まるでセザンヌの静物画を見ているよう。
モチーフ(オブジェクト)も面白い。写真やモニターの画面(つまり絵画の中に入れ子��に置かれたイメージ)、ベーコンのスフィンクスのような人物像を模したと思われる紙粘土細工(美術作品の引用)、日常的な用事の書かれたメモ(作家の生活のドキュメント)などなど。まさにごたまぜの印象で、ひとつひとつ見ていて飽きない。これは面白いぞ山本!
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続いて、ゲンロン友の会会員の倉本氏をどうしてもここに連れていかなければならないのでカオスラウンジ展へ。
カオス*ラウンジ「キャラクラッシュ!」@湯島
倉本氏は初の東京観光で、山本は昨日の飲みのダメージで、そして俺はジムで一汗かいたその汗ですでに風邪をひきかけているというそれぞれに散々な状態で、足早に観覧。会場は築80年の民家。
気になった作品をひとつ。
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★サエボーグ(インスタレーション)
ラバーで作られた奇形の動物たちが織りなすメルヘン・グロ・ワールド。
会場の二階の奥の部屋の押入れをぶち抜き、建材の散乱する隙間から下の風呂場をのぞかせるというインスタレーション。階下の全貌は見えず、またそこにあるラバーも全体は見えないので、思わず身を乗り出して凝視してしまう。まるでデュシャンの「遺作」(正式名称「(1)落下する水、(2)照明用ガス、が与えられたとせよ」)。
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会場を後にし、3人でてくてく上野へ。不忍池の真南にある繁華街、通称「ディープ上野」へ倉本氏をご案内。スナックと風俗と焼肉屋がひしめく中、ポン引きもいる。一度、桂米朝ソックリのおじさんが近づいてきてぼそぼそ、ぼそぼそと話しかけるから思わず「え?」と聞き直してしまったが、これもポン引き。人を立ち止まらせるスキルはすごいが、それにしても幽霊じみていてこわかった。
「上野はとんかつの街」という山本のいまいち信用できない言にしたがい、「武蔵野」というとんかつ屋へ。いい感じにぞんざいな接客で、ほぼ貸切状態。多すぎるかつを一生懸命食べつつ馬鹿話。
倉本氏は、昨日、アラザルメンバーが開いた倉本氏自身の歓迎会に、佐々木敦さんが見えたことに驚いているようだった。確かに、毎年何冊も本を出していて、早稲���の教授までやっている偉い人である。ただ、倉本氏には「あの人は本質的には、“ちょっと年上のダチ”ですから」と言っておく。
「菱田春草展」@東京国立近代美術館
11月3日(祝)観覧。最終日である。開館とほぼ同時に入ったのにすでにしてやや芋洗い状態。
明治期の代表的な日本画家のひとりである菱田春草。浮世絵でも大和絵でも和画でもなく「日本画」。つまり明治の近代化にともなって意識されるようになった「洋画」に対する新しい「日本画」を確立するために実験的な画面を作り36歳にして早逝した天才。
★『王昭君』
重要文化財。見てびっくり、その画面の密度に圧倒される。オーマイ&ガーファンクル!かいか
輪郭がぼやけたような春草らの絵は、当時、「朦朧体」と言われ批判されたが、地から浮かび上がってくるような人物の体はむしろたっぷりした量感を伴っている。
匈奴に差し出される美しい王昭君という悲劇的なテーマも見ごたえあり。画面の一番左に、悲しみに俯いているのか、毅然と無表情を装っているのか判然としない王昭君。その後ろに袖で涙をぬぐう女ふたり。少し空間をあけて、それを見守る女たちの群れ。ひそひそ話をしたり、やじうまのように王昭君の方をみやったり。ほとんど同じ顔つきなのに、むしろ同じ顔つきゆえか微妙なリアクションの差はじっくり見ても飽きない。12時間は見ていられる。
★『秋草』
二曲一隻(つまり2面の屏をくっつけた、二つ折り状の屏風)。左隻を横山大観、右隻を菱田春草が描いたという。いわば東京美術学校のBI砲の仕事。
どちらも素晴らしいのだが、大観の方はひときわ濃い色の草が真ん中を縦に仕切るデザイン的な構図をとっているのに対し、春草の方は生い茂る葉の量感や、野の空気感が際立つ朦朧体。個性の違いがはっきりわかる。しかし仲良さそうではあり、BL感がはなはだしい。
★「猫」シリーズ
晩年に多く描いたシリーズ。木と猫、が基本のモチーフ。迷彩柄のようにカラフルに色付けされた木の葉、線で表面のでこぼこが表された樹の幹、そして墨一色の猫という異なる描き方の並置が面白い。代表作の『黒き猫』は、リズミカルに曲がった樹と、その上に乗ってこちらを見る猫の顔が笑える。
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会場2階では、今年6月から行われている小企画シリーズ「美術と印刷物─1960−70年代を中心に」の第四期。
美術館のパンフレットなどの印刷物を中心に展示。現代美術のスターたちの顔写真や作品の図版がたんまりあってミーハー気分をくすぐられる。
今期はロバート・スミッソンに関するものを多く展示。スミッソンにおいては、こうした作品を指示する周辺事物の存在(「ノン-サイト」)こそ最大重要事項である。ゆえにこれらはすべてお宝。
エドワード・ルシエーの「サンセットストリップ沿いのすべての建物」も実際に製本された形で見れてよかったよかった。
「サウンド・ライブ・トーキョー」 マイケル・スノウ + 恩田晃 + アラン・リクト@WWW
11/6観覧。
御年85歳の映画監督/フリー・ジャズピアニスト/その他もろもろのマイケル・スノウ。約25年ぶりの来日。彼の映画にも音楽にもちゃんと触れたことがなかったのだが畠中実氏のFacebookで激しくおすすめされたので頑張って平日に観にいった。したたかに感激。
この日のライブは二部構成で、第一部はスノウのピアノ・ソロ。即興による恐ろしいほどの速弾き。ペロペロペロペロと軽やかに鍵盤を叩いていくうちに、スノウはある短いフレーズに“出会い”、「これだ!」とばかりにそのフレーズをすさまじいスピードで繰り返す。そしてあっさりとそのフレーズを投げ出し、またペロペロペロと鍵盤を叩きながら次のフレーズを探っていく。
その思考の展開の速さ、軽やかさたるやとても80代とは思えない。そして88の鍵で遊んでいるようなユーモア。こんなじいちゃんになれるかな。なりたいな。
即興とはいえ一応2曲用意されており、2曲目は内部奏法も使ったソロ。こちらは時折、ジャズのフレーズも出てくる。
そして第二部は恩田晃、アラン・リクトを迎えてのトリオによる演奏。恩田さんはたぶんニューヨークでフィールドレコーディングしたと思しき街頭の音やテレビ放送の音を詰めたカセットレコーダーを中心に操る。長髪を後頭部で縛りノリノリで演奏する姿はKREVAに似てる。
スノウは「the CAT」というらしいシンセサイザーをぶんぶん回す(手に持って回してるという意味ではなく、ぶんぶん音を出しまくっているということ)。そして3人のうち真ん中に陣取るアラン・リクトは、ただギターを抱えてフットペダルをときどき踏んでるだけで何をしているのかよくわからない。かなり経ってから、ドライバーの柄のようなもので弦を叩いたりこすったりしだしたかと思ったらあっという間に演奏終了。結局この人は何をしていたのかよくわからなかったのだが、3人の演奏はそれはもう最高にぶんぶんでかっこよかったので。もう1曲聴きたかった。
ピーター・ブルック × マリー=エレーヌ・エティエンヌ 『驚愕の谷』
11/6・15時の回@芸劇
今年からディレクターが交替してプログラムがけっこう変わったフェスティバル/トーキョー。観劇1本目。
去年までずっと買ってたF/Tパス(全作品鑑賞可能)��いうのがなくなり、1枚1枚買わなかればならないシステムができたので、早期販売割引きで早々に全て買っておいたら早速3枚ふいにした(11月9日時点)。この『驚愕の谷』も昨日買っていたチケットを無駄にしてしまって当日券で入場。財布を開ける時に無性に腹が立ったが、終わって出てきた時には心がほっこほこになっている傑作。
テーマは「共感覚」。知らない言語でさえ聴くとそのイメージが頭に思い浮かんでしまい、決して忘れないという超記憶力の持ち主や、音が全て色彩になって頭の中に浮かぶという画家、などなど、並外れた「共感覚」を持ってしまった人々が順繰りに出てくる。
オリヴァー・サックスの『妻を帽子と間違えた男』や『火星の人類学者』を読んだことのある人はわかると思うけど、基本的に物語というよりは、いくつかの症例をたんたんと記述していくという脳科学ノンフィクションの舞台版みたいな構成。しかし役者たちの演技が軽やかかつ真実味があり、またシームレスにメタ的構造へ観客を誘う演出がものすごく心地よく、演劇を観ることの楽しさを160%わからせてくれる。
たとえば、この舞台では3人の役者の他に2人の音楽家が脇に控えているが、突然にこのうち一人が中央の芝居のスペースに呼び出され、音が視覚イメージとして見えてしまうことを告白する。もちろんこれは劇的フェイクであろうが、この時、彼の演奏するピアノの音はそれまでの劇伴(作品世界の「外側」から、作品を彩る音)という立場から超えて、出演者自身の奏でる音(作品世界の「内側」で鳴っている音)になる。
また、超絶的な記憶力を持つ女性は、物語の中でマジックショーの舞台にたつことになる。その際、役者たちは実際に舞台上でマジックを披露することで、いま『驚愕の谷』が上演されているこの劇場自体を作品の中に組み込み。本物のマジックショーさながら、舞台に上げた観客の客いじりまで鮮やかにキメるこの役者のエンターテイナーぶりは何なんだ!
そして「脳科学ノンフィクション」と先に書いたが、物語の中では科学的な分析にはわけいらず、徹底的に共感覚者自身の頭の中に浮かぶイメージを開示していく。
驚愕の谷、不気味の谷
ラストは、12〜13世紀のイスラムの詩人・アッタールの「鳥の言葉」からの引用。初めて聞くものなので一聴しただけでは正直その全貌はよくわからないのだが、「世界がなくなっても、砂のひと粒は否定せず」という一節にはしたたかに感動した。つまり、これは(この舞台は)、あらゆる物質が消えた後にも人間の頭の中に残るイメージ=砂の一粒があるということを言っているのだと思う。
この点で、超絶的な能力を持った共感覚者たちは決して我々ふつうの人間と遠い存在ではなく、頭の中に一粒の砂を持っている同じ人間として、舞台上の人物に親���ささえ感じさせてくれる。
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ジョージ・イブラヒム(アルカサバ・シアター)× 坂田ゆかり× 目× 長島 確『羅生門|藪の中』
11/6・19時30分の回@あうるすぽっと
見ているあいだ中、「まさかもう1回おんなじことやるの?」ともやもやさせられるまさに藪の中
『私の男』
11/8@早稲田松竹
面白すぎた。監督と脚本は、それぞれ熊切和嘉✕宇治田隆史という大阪芸大以来のゴールデンコンビ。原作は桜庭一樹の直木賞受賞作だが、けっこう構成が違うらしい(未読)。
奥尻島の地震で震災孤児になった少女を、浅野忠信が引き取るところから物語が始まる。浅野はあくまで家族を作りたかったのだが、間違って男と女の関係になってしまったことから悲劇が始まる。
ふたりの関係を守るため、娘は恩人を殺す。この際、恩人に「神様が許さないよ」と言われた娘は、「私は許す」と叫んで引導を渡す。娘には父との愛に後悔や反省はない。だが、その娘に続いて父が殺人を犯すあたりからふたりの関係性が変わってくる。家で飲んだくれている父に対して、娘が「何をしているの?」と聴いた時の返答がふるっている。「死ぬほど後悔」。
かようにわかりやすく、図式的に物語が動かしていく演出と脚本はまさに匠の技。父と娘を演じる浅野忠信と二階堂ふみの説得力もハンパない。父にもらったイヤリングを、「まだ早いって言われたから」と言って口に含む時の二階堂の小悪魔さ。そして幼女時代の娘を演じる山田望叶(「花子とアン」の花子の幼少時役)の寄る辺なき佇まい。浅野でなくても思わず家に連れて帰りたくなる。
これを観た後、なぜか『ホテル・ニューハンプシャー』を観たくなった。
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『そこのみて光り輝く』
『私の男』と併映。���演は綾野剛と池脇千鶴。綾野くんと浅野忠信で、新旧しょうゆ顔対決の趣。舞台も同じ北海道が出てくる。ところで北海道の人ってこんなにジンギスカン食べるの?
映画の見どころは綾野くんの背中かな……。あと池脇千鶴のおっぱいがすごい大きくなってた……。
『赤瀬川原平の芸術原論 1960年代から現在まで』
11/9@千葉市美術館
この回顧展の直前に77歳で亡くなった赤瀬川原平。このところ『ハイレッド・センター:「直接行動」の軌跡展』(松濤美術館)などハイレッド・センターがらみの展覧会がいくつかあったし、無用な告白をしておくと俺は赤瀬川原平という人のものの考え方をひとつのメルクマールとしているところがあるので、見��ことのある作品ばかりではあった。だが、15歳の時に書いたという60年代後半から一時旺盛に描いていた漫画作品や、トマソン以降の活動が俯瞰できたことはやはり充実した体験であった。
Text by 西中賢治(ex.アラザル)
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アラザル10号予告編
製作期間約10日(何しろ原稿依頼を送信したのが4月20日)という異例のスピードでリリースに漕ぎつけた増刊号ですが、2016年5月1日に平和島某所で開催された文学フリマ東京のアラザル支店で印刷されたばかりの紙面を見てびっくり、「10人のメンバーによるベスト10特集」のはずがよく数えたら9人しかいないという怪奇現象が起きました。
よって文学フリマで配布したバージョンに10人目の安東三による「コメディアンが出した曲ベスト10」を増補したPDF版をここで公開いたします。レッツダウンロードしやがれ!!
→ 『アラザル10号予告編 ~10人のメンバーによる10号記念〇〇ベスト10特集~』
《コンテンツ》
・杉森大輔の「ジャズ研出身者が選ぶ現代ヒップホップベスト10」
・安東三の「コメディアンが出した曲ベスト10」
・倉本陽介の「テン年代で押さえておきたいTVアニメベスト10(2016年3月時点)」
・西田博至の「この推しメンがすごい!ベスト10 SKE48主演のミュージカル『AKB49』編」
・近藤久志の「わたしを呪ったABC ベスト10」
・山本浩生の「ベスト10じゃないけど最近行った展覧会とかの10の感想。」
・高内祐志の「30才前半男性が春先に美味しかった山菜など。 ベスト10」
・西中賢治(ex.アラザル)の「子役がたまらない映画ベスト10」
・山下望の「ここ2週間でハマった韓国映画入門ベスト10」
・諸根陽介の「犬にでも食わせておきたいEdition Wandelweiser Records 10選」
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アラザルオンラインショップ開店の辞
本日は皆様に大事なお知らせがあるのでどうか最後まで聞いてください。
えー、まず店長の独断で断言しますが、最近すっかり鞘師里保のダンス(広島アクターズスクール出身でPerfumeの後輩にあたる、でも一応ジャンルはヒップホップ)のダイナミックな雄弁さはどこから来ているのか?についてしか考えていなかったので日本語ラップリハビリのために読んだサイプレス上野+東京ブロンクスの『LEGENDオブ日本語ラップ伝説』のNORIKIYOの章で思わず線を引きたくなる名言が!
『ブロンクス ヒップホップ集団って、みんな自分勝手でお互いに不満を溜め込んじゃって、結局仲悪くなって空中分解とかよくあるからね。あと、SDPとZZに共通するのは、ラップとかやってないギャグ担当みたいなメンバーが普通にクルー内にいることだよね、ギャガーが。
上野 関係ないやつがいるっていう(笑)。そこはクルーとして重要っすよ。ラッパーとかDJだけだったら堅苦しい。〈なんであいついるの?〉って訊かれて〈いや別に。なんでそんなこと訊くの?〉みたいな。
ブロンクス どれだけバカなやつを抱えてるかっていうのがクルーの器だと思うよ(笑)SDPのPITCとか、ZZはみっちゃんがいるから信用できるところは相当あるからね。で、そういうやつが、みんなのテンションを左右するし、大事だよ。』(「LEGENDオブ日本語ラップ伝説」、リットーミュージック刊)
主に90年代以降の日本語ラップ創成期を舞台にして溢れ返る当事者意識でジャパニーズB-BOYとしての実体験を語り明かす本書は、一見いい年したB-BOYの思い出話の寄せ集めかと思いきや、不意に道端で拾ってきたような草の根のコミュニティに叩き上げで揉まれてきた教訓が光る本である。
しかしわれわれただのアラザルにとっては、その後ろのページの「サボッてもいいけどやめちゃダメ、若者はサボッている時期が気まずくてすぐやめるって言いたがる」っていう発言の方が身に染みるかもしれない……。
『ブロンクス B-BOYなら絶対に家族とか仕事の事情で活動できなくなる時期ってのが来ると思うんだよね。でも、周りの目を気にしてやめるって言っちゃうのはバカだよ。『SLAM DUNK』の安西先生じゃないけど、諦めた時点で終わっちゃうからね。
上野 俺らだって、ライヴがない時期なんて死ぬほどありましたからね。でも、やめるとは言わなかったから、いまだにやって来れてるってのは絶対ある。ライヴがなくてもやり続けるのが重要ですよ。別にサボってて普通ですからね。最近、この歳になってまた、みんなで共同生活するようになってきたんですよ。で、関係ないやつも一緒にいて、とりあえずそいつらが〈今日はレコーディングでしょ〉とか言って、ビールをケースで買ってきたり。それだけでいいんですよ。
ブロンクス 中途半端にラップやってるやつは妙なプライドがあって、かっこ良くできなさそうだとフリースタイルに入ってこなかったりするじゃん。でも、そうやって普段から周りにいるやつって余計なプライドがないから、ラッパーでもないのにスルッとフリースタイルに入ってくるしね。
上野 そうそう。<楽しそうだから、俺もやっていい?>って。
ブロンクス それこそがヒップホップだよね。そうじゃないと一生やっていけない。成功しなかっただけで解散するんなら、やっていける確率は宝くじみたいなもんだよ。』(「LEGENDオブ日本語ラップ伝説」より)
で、鞘師里保のダンスについて批評するはずだったのに、鞘師が尊敬するダンサーとして挙げている三浦大地のPVがすごい超絶技巧……多方向に自在に屈曲する関節で分かれた体の各部分のバラバラな��ズムの可変性(可塑性)が、デスクトップ上の映像素材にプログラミングしたみたいなデジタル的ですらある。そして5人で一つの生き物みたいな伝播する動きのフォーメーション。
三浦大知 / Drama -Studio Dance Session-
youtube
生身のダンスの人力クオンタイズ(デジタル補正)というか、静止・スローモーション、早送り・巻き戻しといった変速をダンスに取り入れ始めたのは誰かっていうのは一旦置いといて、Perfumeやモーニング娘。'15が得意とする「フォーメーション・ダンス」もだが、こういう「鏡相手のダンス」から映像に人体の動きを取り込んで加工/編集した画面を模倣しているような「カメラ相手のダンス」へ、といえるギミックが流行り始めたのはいつ頃なのかな?
MTV(マイケル・ジャクソンのビデオに代表される)やハリウッド映画のSFX時代と並行している? そして舞台上で生身とスクリーンが競演するプロジェクション・マッピングなどとも連動している、「21世紀のニューメディアやポストメディウム的状況」下のダンスってことか??
つまりダンサーと映像アーカイブ/情報ネットワークが接続(相互干渉)することで新たなフォームが生成される、的な…… (参照:渡邉大輔『ディジタル時代の「動物映画」 生態学的ゴダール試論』、「ユリイカ」ゴダール特集より)
『しばしば指摘されているように、二一世紀の「ニューメディア」や「ポストメディウム的状況」における創造環境は、「生/生命」の潜勢的な力能に注目する「生気論 vitalism」の発想と急速に接近しつつある。映画や映像文化に限らず、いわゆる「ウェブ2.0」以降の情報社会においては、ひとびとの生の微細な履歴である莫大な「ビッグデータ」が、あたかも擬似的な「自然」のようにネットワーク状にまるごと可視化されている。また、もろもろの携帯端末やSNSをかいしたユーザの日々取り交わすコミュニケーションのつらなりは、情報や創造的表現をボトムアップ的に生成進化させる一種の「生態系 ecosystem」を拡張し続けてもいるだろう(ゴダールは『ゴダール・ソシアリスム』のなかでテレビ局の女性に「いまは神経結合が資源なのよ」とつぶやかせている)。
何にせよ、そこでいま急速にリアリティを帯びつつあるのは、それらのネットワーク的な情報による創造環境を、一種の「生命」や「生物」のように見立て、そこから新たな文化的想像力や美学的方途を見いだそうと試みる知や感性の様式なのである。』(渡邉大輔『ディジタル時代の「動物映画」 生態学的ゴダール試論』)
ここで突然ゴリ推し的につなぎますが、アラザル9号掲載の倉本陽介によるラブライブ!批評、『“みんなで叶える物語”『ラブライブ!』について ー拡張される「みんな」ー』も参照。
『そこには実際に身体的パフォーマンスを披露する生身の声優たちの存在と、虚構としてのキャラクターの存在との多重性が立ち現われているのである。僕は、このようなキャラクターと声優の距離感、乖離感に強い興味を引かれた。』
『このように、企画立ち上がり当初は、「みんな」という言葉には、エロス的な欲望が内包されていた。しかし、ある時を境にして、その言葉の持つ意味が大きく拡張していくことになる。それは、まさに、ライブ会場にて声優がキャラクターのダンスを模倣した時である。
(中略)声優たちの純粋な想い、ファンのみんなに楽しんでもらえるように少しでもキャラクターのパフォーマンスに近づけるように努力するという想いは、虚構のキャラクターである「μ's」の想いと強く重なっている。“みんなで叶える物語”の「みんな」とは、この時点で「エロス的欲望を持った読者」だけに留まることが出来なくなる。エロス的欲望を持った読者は、同時に自分たちの為にがんばる「声優」を応援し、自分たちの為、そして、声優の為にも「ラブライブ!」というコンテンツ群の成功を望むようになったのではないだろうか。結果、「みんな」は、欲望を持った読者の事だけではなく、虚構のキャラクターに近づこうと頑張る声優たち、それを支援するスタッフたち、そして、それらを応援する多くのラブライバーたちを包括した言葉になっていく。「みんな」という言葉の意味が拡張していったのである。
(中略)この楽曲の名前は、「Snow halation」(スノー・ハレーション。略称は「スノハレ」)。μ'sの2枚目のシングルであり、「μ's」というグループ名を初めて冠した楽曲でもある。そして、『ラブライブ!』というコンテンツ群においてもある種の特別なポジションにある楽曲である。
それ��、ライブでの白からオレンジへのケミカルライトの色を変えるという演出が、スノハレのアニメPVを再現する為に、ラブライバーたちが自然発生的に行った行為であり、今や、このライブでの演出を含めて「スノハレ」という楽曲が完成すると「みんな」が感じているからである。楽曲の制作スタッフ、アニメPVの制作スタッフ、歌い踊る声優、そして、サッカーのサポーターに準えてμ'sの10人目のメンバーと呼ばれるケミカルライトを掲げるラブライバーたち。この「みんな」の想いが一つになって完成する楽曲として『ラブライブ!』を体現する存在になっているのである。
「スノハレ」の歌詞は、おそらくはクリスマスであろう冬の日に、好きな人への片思いの気持ちを歌った「恋愛」ソングであり、「ラブ」ソングである。加えて、この「ラブ」とは、『ラブライブ!』の「ラブ」でもある。しかし、この「ラブ」が内包する意味も、シングルの発売当初から現在に至るまでの間に、「みんな」の意味が拡張されるのに合わせるように、大きく拡張されていったのである。』(倉本陽介「“みんなで叶える物語”『ラブライブ!』について」、『アラザル VOL.9』より)
そこからの、個人の欲望を「物語」に変換して膨張するコミュニティの抑圧(ファシズム?)の話は本誌でどうぞ〜。
ちなみに余談が続くけどハロプロの振りコピ用ダンス解説動画がyoutubeに多々ある。 あと一見関係ないけどモーニング娘。'15の11期メンバーの歌唱力に定評がある小田さくらはボーカロイド好き、というのを鑑みると、(以下、アラザル増刊号につづく)
ようやく本題に入りますが、「TIKI BUN」のシングルにしか入ってない「シャバダバドゥー」を久々に聴いたらジャジーダブステップ?なおしゃれブレイクビーツでかっこいい。道重さゆみ以外のメンバーが12年間ほぼ皆勤賞でアイドルを勤め上げて卒業していくリーダーの後ろ姿を見て歌う、という労いの歌詞が演歌になっている「見返り美人」からコケティッシュな悩み苦しみ(&感謝)を振りまいて去っていく道重ソロ曲の「シャバダバドゥー」というファンとのあいだで共有された物語に則ってよく演出された構成になっている。
つまり、誰の卒業イベントもないまま大半がOVER30を越えたおっさんが犇めき合って日々激突する、所に時折OLや人妻が喝を入れる(さらに自主映画作家やレヴィナス研究兼現代音楽家が乱入してくる)批評誌アラザルですが、と思ったら道重さゆみみたいにきっぱり引退・雲隠れする気配がないので忘れがちだけど(何しろ数日前にも早稲田小劇場で会った)、9号を最後に西中KJが1人卒業して行きましたが、突然ですがここでアラザルオンラインショッピングのご案内です。
⇒【残り10冊】【送料別】 アラザルVOL.9 https://arazaru.stores.jp/
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『アラザル VOL.9』、ついに完成……
大変お待たせしました! 約2年越しにリニューアルを遂げた第9号の表紙、コンテンツの紹介となりマス。
初売り:2014年11月24日@第十九回文学フリマ/東京流通センター
ブースはカ-62
数年ぶりの本誌ですネ。 ぜひぜひお買い求めください!!!!!!!
アポカリプスなう!感が漂う表紙は 黒川直樹 が、第1号ぶりにデザインを担当しています。
[[[[[[[[[[[[[[[[[[ Arazaru 9 Contents ]]]]]]]]]]]]]]]]]]
【横断企画】 ●無茶ぶりお題で書かされる! ご指名コラム ・「FUNKY KOTA」コラム/阪根正行 ・「チ��リーダー」/西田博至 ・『何度目の青空か』MV考/(o_d) ・『夏のFree & Easy』MV考/(o_d)
●夏目漱石『明暗』を数珠つなぎ批評! リレー連載『私の明暗ところどころ主義』 ・第一回 西田博至 ・第二回 坂道千 ・第三回 畑中宇惟 ・第四回 諸根陽介 ・第五回 西中賢治 ・第六回 山本浩生 ・第七回 安東三 ・第八回 細間理美
【インタビュー】
・ラッパーMOMENTインタビュー① 『#FightClubJP』まで 聞き手:安東三
・夏田昌和インタヴュ(第一回) 「長いこと私は歌を歌わずにやってきた、しかし……」 訊き手・西田博至
【論考】
・【連載 音と音楽と時間】第4回『音を待ちながら-ケージとフェルドマン-』(後編) 諸根陽介
・“みんなで叶える物語”『ラブライブ!』について -拡張される「みんな」- 倉本陽介(新人)
・芸術/音楽、そして世界と主体2 音楽の零度 杉森大輔
・さぁみんなで窓から飛び降りよう! 西中賢治
・4RIVIVAL VER.0.33 (o_d)
・イースター -高見順の『いやな感じ』を読んで- 2年B組 出席番号16 黒川直樹
・非ざる「疵」/「補修」の非在 山本浩生
・徳利的な宇宙で安全に暮らすっていうこと もしくは、豊崎由美『まるでダメ男じゃん!――「トホホ男子」で読む、百年ちょっとの名作23選』について 山下望
・意図して寄り道はできるだろうか 前田礼一郎
版型:四六版 302ページ [[[[[[[[[[[[[[[[[[[[[[[[[[[[[[[[[[[[]]]]]]]]]]]]]]]]]]]]]]]]]]]]]]]]]]]]
気になるお値段は 9号目記念!
税込999円
と、なっております!!!!!!!!!!
千円札片手に、
釣りはいらねぇよ!
というセリフを生まれて初めて使うチャンスですよー。
それでは皆様、会場でお待ちしております!
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