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大竹しのぶが語った、「余命1年」と宣告された最初の夫との結婚生活「夫の病気と闘った4年間」
2021年7月23日 14:08with online
わたしが27歳だったころ。
様々な分野で活躍する大人の女性たちにも、私たちと同じ、27歳のときがありました。彼女たちが当時、何に悩み、どんな努力をしてきたのかを伺う本誌の新連載。センパイたちの経験から、素敵な大人に近づくヒントを見つけて! 
女優 大竹 しのぶさん
25歳で最初の結婚をした大竹さんと夫がそれぞれに座右の銘を書き、「いちにの、さん」と同時に見せ合った。すると偶然にも2人とも同じ言葉を書いていた。
それが、「まあいいか」だった。自分の身の上に起きたことは否定せず、前向きな気持ちで受け入れていけば、道は開ける。あれから40年近くたった今も大竹さんはそう信じている。
【PROFILE】1957年7月17日生まれ。東京都出身。’75年 映画「青春の門―筑豊編―」のヒロイン役で本格的にデビュー。天性の演技力と称賛され、映画、舞台、ドラマ、音楽など、ジャンルにとらわれない活動を続ける。第19回読売演劇大賞最優秀女優賞など数多くの賞を受賞。
近年では、舞台『フェードル』(’21)、『女の一生』(’20)、映画『メアリと魔女の花』(声優・’17)、ドラマ『監察医 朝顔』(’ 20 ・CX)。著書にエッセイ集「まあいいか」(朝日新聞出版)がある。アニメ映画「漁港の肉子ちゃん」が絶賛公開中。
大事にしたいものや、自分の中の真実は、自分がちゃんとわかっている。それを信じてさえいれば大丈夫って。
25歳のときに、最初の結婚をしました。相手は、17歳上のTBSのディレクター。23歳のときに出会って1年後ぐらいに交際に発展したのですが、私たちはスキャンダル誌の格好のネタになりました。
仕事の関係者からは、「このままだと、もう仕事が来なくなりますよ」と交際に反対されたり、ファンの人からは、「清純派だと思っていたのに、イメージが狂った」とか散々な言われようでした(苦笑)。
でも私は、「自分の中に、信じているものがあれば大丈夫。何も怖くない」と思っていました。大事な人に巡り会えた確信があったし、結婚に迷いは一切なかったです。自分が大事にしたいものや、自分の中の真実は、自分がちゃんとわかっている。それを信じてさえいれば、って。
桜の季節に一緒に桜を見にいくというただそれだけのことが、本当に幸せでした
私が女優という職業に就くことになったのは、面白半分でテレビのオーディションを受けてみたことがきっかけでした。「一生この仕事をやっていきたい」と考えていたわけでもありません。ただただ、目の前にあることに精一杯向き合って、楽しんできました。
最初の夫との出会いによって、女優としてのキャリア云々よりも、初めて人をきちんと愛し、その人の子供を産む、それが私にとっての一番の幸せとなったのです。
ただ、私の結婚生活が少し特殊なのは、結婚して一年にも満たない頃に、夫の病気が発覚してしまったことです。お医者さまから「余命1年」と宣告され、限られた時間の中で、2人の関係をより良いものにしなければいけないという使命のようなものが、私の中に生まれました。
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仕事よりも、愛している人との時間を大事にしたいという思いはありつつ、自分ががんであることを知らない夫(今よりもがん治療が発達していなかった当時は、告知をしないのが普通でした)は、女優としての私も好きだったから、もっと仕事をしてほしいと言うのです。
そんな中、妊娠が判明し、私は27歳で長男を出産しました。
桜の季節に一緒に桜を見にいくというただそれだけのことが、本当に幸せでした。「余命1年」と宣告されたその時間を過ぎても、夫は一時的に仕事に復帰もできました。結局、私が30歳のときに亡くなってしまうんですが、闘病中は、一日一日を平穏に過ごすことができた幸せを、しっかりと嚙み締めながら生きていました。
私が、精一杯の愛情を注ぐつもりで接すれば、向こうも、同じような愛を返してくれる。全力で愛を伝え合えたその日々は、とても素晴らしい時間になりました。
夫の病気と闘った4年間の日々は、つらいこともたくさんありましたが、だからこそ、今の自分を作っている部分もあるかもしれない。
私にとっては、あの4年間の経験があったのとなかったのとでは、ずいぶん違っただろうなとは思います。
もっと人と関わり合おうぜ、って思う
仕事があって、看病もあって、育児もあって。体力があったからできたことだとは思いますが、母親になると自分じゃなくて、子供のために頑張るわけじゃないですか。どんなに眠くても、どんなに疲れていても、ミルクをあげなきゃと思うし、子供の顔を見ると、どんな疲れも吹っ飛んでしまう。
結局、人間って愛を注ぐ対象から、エネルギーをもらえるものですよね。だから、恋愛からだって同じようにエネルギーをもらえるはず。もし、今どきの27歳が、傷つくのが怖くて恋愛に臆病になっているとしたら、それはちょっともったいないなって思いますね。
やっぱり、一人で見る桜より、愛する人と見る桜のほうがずっとキレイだから。
今の若い人たちに対しては、女の人はともかく、男の人はもっとハチャメチャでもいいんじゃないかな。遊ぶのも目一杯、恋愛するのも目一杯、仕事するのも目一杯。そのほうが、人間的には、色っぽくなると思うんですけど。
私の20代も、夫と同じような年代の人たちとずっと遊んでいました。映画も、本も、いろんなことを知っている人と遊ぶのは楽しかったし、いろんなことを教えてもらう時期だったのかなとも思います。
コロナ禍になってから、以前「欲望という名の電車」という舞台で一緒になった(石賀)和輝くんから電話があって、「しのぶさんが、『いくら“この人と話したい”“この人のお芝居が好き”って思っても、それを自分から言わなかったら、伝わらないよ。待っていても向こうからは絶対来ないんだよ』と言ってくれた言葉を大事にしている」と話してくれたんです。
彼も最初は引っ込み思案で、稽古場でも一人でポツンといる子でしたが、途中から変わりました。最近は、映画や舞台の現場でも、人との関わりが希薄になっているような気がして、それは残念ですね。もっと人と関わり合おうぜ、って思う。役者は、人を演じるわけだから。人が好きじゃないとできないです。
お芝居の現場では、たとえそばに嫌いな人がいてもそこにいなさい。その人を見なさい。そうしたら、好きなところや面白いところが見えてくるかもしれない。もしかしたらすごくいい人かもしれないよ、って人見知りな若手たちには言いたいです(笑)。
私も、「この人と仲良くなりたい!」と思ったら、自分からアプローチしていく方ではあります。以前も、斉藤和義さんのライヴに行って、「なんてカッコいいんだろう!」と感激したので、終演後に楽屋にご挨拶に行って「大好き!」って言っちゃったりして(笑)。向こうは迷惑に思うかもしれないけど、強く思ったことは必ず言葉で伝えますね。
今は、「夜への長い旅路」という舞台の稽古中です。演出家のフィリップ(・ブリーン)はイギリスからリモートで私たちに演出をつけるという状況は本当に残念ですが……。
ただ、世界中で演じ継がれる名作は、なんと言ってもセリフが素晴らしい。人を傷つけるのも、救うのも言葉です。心理学の面から見ても、たとえばシェイクスピアのセリフは、うつ状態の人の精神状態を改善させる効果があるみたいで。そうしたセリフを言うことで、私自身も心が豊かになる。
今回の舞台も、大倉(忠義)くんをはじめ、出演者のみんなは大変な思いをするかもしれませんが、絶対に、心の奥底を揺さぶられる瞬間や言葉があるはず。やっているうちに、永遠に続けたいと思うくらい楽しくなるんじゃないかな(笑)。
《当時のわたし》
27歳で長男の二千翔(にちか)さんを出産。「世界中で一番この子を愛しているのは自分だ」という無償の愛を知った時期。妊娠3 〜4ヵ月のときに、和田誠さんが初めてメガホンを撮った映画「麻雀放浪記」の撮影をして、産休に入る。仕事復帰は出産して2ヵ月後。
翌年「男女7人夏物語」で明石家さんまさんと共演。当時の夫である服部晴治さんと一緒にテニスを楽しむ仲に。「男女7人秋物語」の撮影の前、さんまさんは、入院中の服部さんから、「秋から僕がしのぶと遊んであげられない分、しのぶを楽しませてあげてください」という手紙を受け取っていた。
Information
「夜への長い旅路」
撮影/ Tadayuki Minamoto
ノーベル賞作家で、アメリカ近代演劇の父とされるユージン・オニールが、自身の青春時代における凄惨な家族の姿を描いた自伝劇。ある家族の、夏のある一日を、濃密な会話によって普遍のドラマに昇華させた傑作を、英国気鋭の演出家フィリップ・ブリーンが演出。出演は、大竹しのぶ、大倉忠義、杉野遥亮、池田成志ほか。
7月4日まで Bunkamuraシアターコクーンにて上演中
撮影/若木信吾 ヘア&メイク/新井克英(e.a.t...) 取材・文/菊地陽子 ●再構成with online編集部 ●商品情報はwith2021年7月号発売時点のものです。
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akko-19 · 3 years
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RAD 野田洋次郎 “泥酔パーティ”写真を自ら投稿した意図は?反自粛か、ただ幼いのか
2021年7月16日 13:21日刊SPA!
 ロックバンド「RADWIMPS」の野田洋次郎(36)の言動に、波紋が広がっています。事の発端は、8月7日から開催予定だったロック・イン・ジャパン・フェスティバルの中止。茨城県医師会などからの要請を受けてくだされた決定に、思いの丈をぶちまけたのです。
野田洋次郎のソロプジェクト、illionのアルバム『P.Y.L』
飲み会報道で、「ブーメラン」と批判される
 4月の時点で、緊急事態宣言に「聞く気になれねえ」とツイッターで疑問を投げかけていた野田氏ですが、3度目の発令に堪忍袋の緒が切れてしまった様子。
 多くのライブイベントや学校行事が中止に追い込まれる中、オリンピックだけが開催に前のめりになっていることに、「ここまで明らかで大きな矛盾の上で、僕たちはどう生きたらいいのでしょうか。いい加減『違う』ことは『違う』と声をあげていい時だと思います」と長文の声明を、7月8日に自身のツイッターで発表しました。
 ところが、その後、「NEWSポストセブン」(7月10日配信)が報じた“パーティー報道”によって、窮地に追い込まれます。声明以前の7月4日に、焼肉店を貸し切って自身の誕生日パーティーを開いていたというのです。
 泥酔状態の参加者同士でハグをするなど、かなり濃密な会合だったと報じられ、それが一部から“フェスの中止に文句を言っておきながら、当の自分たちは不要不急で酒を伴う飲食をしていたブーメラン”と、批判されている。以上が、ここまでの流れです。
自らパーティ写真を投稿、一貫しているとの擁護論
 多くの国民が制約を強いられる中、“ライブをやらせろ。俺はパーティーもやる”といった彼の姿勢が反感を買ってしまうのは、仕方ないことなのかもしれません。
 一方で、理不尽な自粛にNOを突きつけるという姿勢からすれば、一本スジが通っているとも言える。報道以前の7月6日、自身のツイッターにパーティーの写真をアップしていたのですから、コソコソとやっていたのではない。だとすれば、“どの口で言ってんだ”などと叩かれる筋合いはないわけですね。
野田洋次郎の7月6日ツイッターより。誕生日パーティで顔にケーキをぶつけられる写真や、みんなへの感謝を投稿している
“反自粛”はいいけれど、幼い印象も
 
 野田洋次郎に限らず、海外でもミック・ジャガーが自主隔離のルールを破ってサッカー観戦をして罰金を課されましたし、エリック・クラプトンも政府による行動制限を批判する楽曲をリリースしたり、ワクチンの危険性を訴えたりしています。必死に我慢して新型コロナに打ち勝とうと言っている人ばかりではないという事実も押さえておく必要があるでしょう。
 それでも、一連の言動が、36歳という年齢より幼く感じられるのも否めません。それは彼らの楽曲に表れているのではないでしょうか。細々とした問題をひとつひとつ解決していく現実ではなく、いまここにないものを求めて未来を描く。そのモチベーションを、他者や周辺の環境に依存する傾向が、ことごとく歌詞に込められているからです。
夢や希望を「なぜ持たせたか」って?
 たとえば、映画『天気の子』の主題歌「愛にできることはまだあるかい」(作詞・作曲:野田洋次郎)のこの一節はどうでしょう。
<何もない僕たちに なぜ夢を見させたか
 終わりある人生に なぜ希望を持たせたか
 なぜこの手をすり抜ける ものばかり与えたか
 それでもなおしがみつく 僕らは醜いかい>
 当然、誰かから強制されて夢や希望を持つわけではありません。各々が勝手に浮かれたり落ち込んだりするだけの話です。それなのに、野田氏にかかると、なぜだか当たり前のように使役(~させる)の形を取ってしまう。つまり、自分に責任が生じないというセーフティーネットが、物事が発生するための前提条件になっているわけですね。
良くも悪くも、一貫性があるのかも
 筆者は、ここに言いようのない違和感を感じると同時に、野田氏の言動を納得してしまうのです。いま被っている不自由の原因は、オリンピックを進めながらイベントを中止に追い込む政府にある。そうであるならば、自分の行動がもたらし得る結果に責任を負う必要はないだろう。
 そういうリアクションとしての破天荒な夜遊びだったり、物申してみたりするポーズたったりするから、ダサいと感じる人がいるのだと思います。
 ライブ中止に異を唱え、誕生日パーティーで酔っ払う姿は、確かに一部ファンが言うように一貫性があると言えるでしょう。その意味では、“アーティスト野田洋次郎”と“人間野田洋次郎”は、言行一致の男なのかもしれません。
 でも、憧れねぇ。
<文/音楽批評・石黒隆之> 
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akko-19 · 3 years
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akko-19 · 3 years
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「IQが高い人は頭がいい」という大きすぎる誤解の正体
2021年6月24日 04:10PIXTA
「頭がいいかどうか」という意味で「知能指数が高いかどうか」を基準に語られることがよくあります。しかし、知能指数は恒常的なものではなく、さまざまな要因で変動するもの。東京大学先端科学技術研究センター人間支援工学分野の中邑賢龍教授は、「IQや学歴といったものは、人の能力を正しく反映するものではない」と語ります。多くの人が抱いている「知能指数」の誤解とは?
※本稿は、中邑賢龍氏の著書『どの子も違う――才能を伸ばす子育て 潰す子育て』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。
頭の良し悪しは 知能指数だけでは測れない
 自分の子どもが「頭がいいかどうか」を気にする親がいます。その意味で「知能指数が高いかどうか」を気にする人も多くいます。
 しかし、頭の良し悪しは知能指数などの軸だけで測れるものではありません。
 米国の心理学者であるルイス・ターマンは、「IQや知能検査を信頼している人は科学的な装いに惑わされており、実態以上に大きな力をそれらに与えている」と述べていますが、筆者も同感です。社会を見渡せば、多くの人が「知能指数が人の能力や判断に大きな力を持つ」ように認識しているように思われますが、どれだけの人がその意味を正しく理解しているか、疑問に感じています。
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 知能テストとして、よく使われるウェクスラー式知能検査を例として考えてみましょう。ウェクスラー式知能検査は年齢により、WPPSI(3歳10カ月~7歳1カ月)、WISC(5歳0カ月~16歳11カ月)、WAIS(16歳以上)に分けられます。
 それぞれ、一つの検査の中に言葉の理解、数、図形、記憶など、15種類の下位検査と呼ばれるものが含まれており、検査項目ごとに得点分布が設定されています。たとえばWISC -IVと呼ばれるものだと、年齢ごと、下位検査ごとに得点分布が求められていて、その測定データは図表2のように平均値に集まる、いわゆるガウス分布になると言われています。
 10歳の子どもの「言葉の理解」などでも、検査の平均値と標準検査が決まっており、ある子どもがその検査を受けて得た得点は、全体の中でどの位置にあるかまで求めることができるようになっています。
 これはいわゆる標準得点と言われるもので、平均が100、そこから標準偏差15の分布のどこに位置付けられるかで数値化されます。この数字こそ、ウェクスラー式知能検査で表される知能偏差値であり、一般的には75以下が「知的障害」とされています。
知能指数についての誤解 知能は明確に存在するものではない
 この知能指数は恒常的なものでなく、さまざまな要因で変動します。たとえば、知能検査と同じような課題を日ごろから訓練しておけば、当然その成績は上がります。つまり、IQや学歴は、人の総合的な能力を正しく反映するものではない、ということです。
 しかし現実では「IQが高いことはいいこと」という考えが、あたかも常識のように広まっています。たとえば誰かから「私はIQが150です」と言われたら、多くの人は「凄いですね」などとつい返答してしまうのではないでしょうか。
 知能検査は本来、通常の学習についていけないような、知的な発達について遅れのある子どもを見出し、彼らに適切な教育を行うためのものとして開発されました。
 しかし、知能検査について詳しくない人ほど、そこで測定されてはじき出されたIQなどが、頭の良し悪しを測るもののように認識し、主張しがちです。確かにIQが高く出た人は、学校の成績も優秀である傾向がありますが、それは学校で学んで問われることと、知能検査が問うことが似ているからに過ぎません。
 最近、「優秀な大学を出ても仕事はできない」といった話をよく聞くようになりました。それは、社会の変化とともに、求められる仕事の内容が変わり、上司に指示された仕事を早く、正確に処理することだけが求められる時代が終わりつつあることの証左だと思います。しかし学校は相変わらず「早く正確に」できる人を養成する機関になっていて、知能検査も、そんな人ほど数値が高く出るようになっている。
 逆に、知能検査などで「処理速度が遅い」と診断されようと、実際の動作は機敏で、処理速度も決して遅いように感じられない人もいます。それはWISC -IVなどにおいて、符号や記号探し、もしくは絵の抹消といった下位検査の成績から算出される「処理速度」という項目が、あくまで視覚運動機能の速度を測るようなものになっているからです。
 つまり、私たちが想像する日常生活における行動の処理速度と、知能検査がはじき出す処理速度では、意味が異なっていると言った方が正しい。
 米国の精神科医、ウォルター・フリーマンは「知能検査で測るものを知能とする」と述べました。つまり、誰かが任意に設定した概念、そのどこに位置付けられるかを求めたものが知能なのであり、厳密なルールを作って、その枠の中で検査するからこそ、得点を比較できるわけです。これは同時に、知能という存在そのものが明確にあるわけではなく、だからこそ、その内容の妥当性も検証できないとも言えるでしょう。
過去の幻想を引きずる 日本の教育
 これからの社会では、目の前に広がる現実の状況を把握し、課題解決ができる人が求められます。そして、そうした場面で必要とされる創造性や実行力は、今の知能検査にはあまり反映されていません。
 学術の世界でも、学歴至上の時代は終わり、どこの大学を出たかということより、誰から何を学び、実際に何ができるかが評価される時代に移りつつあります。それなのに、日本の教育は過去の幻想を引きずっているためか、世界各国に追い越されつつあり、大学の国際ランキング低下を招いています。
 でもそれも大学だけが悪いのではなく、時代に対応できていない意識がそうさせていると言った方が正しく、私たちは知能という軸に頼って人を評価するような次元から、急いで先に進まなければならないのです。
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