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アンディ・ウォーホルと資本主義
アンディ・ウォーホルの作品は、「物」を対象化する。
この括弧付きの「物」は、普段わたしたちがそれとして扱っている物と同じではない。ウォーホルが描き出すのは、被造物における物神性が排除された、21世紀の現在まで続く、20世紀的消費社会における「物」である。そこにおいて、あらゆる物に取り憑くはずの八百万の神は、背景に遠のいている。
彼の作品が意味しているものは、複製技術時代の芸術作品として、アウラを失っていることの自嘲的揶揄とも受け取れるし、象徴性、意味性を失ったハイパーリアルにおける、改めて焼き増しされた60年代のダダ的表現の再確認と受け取ることも出来るだろう。
彼自身の言葉で語るならば
「僕を知りたければ作品の表面だけを見てください。裏側には何もありません」
ということになる。すなわち、意味などないのだ、と。
しかし、それとは裏腹に、我々は彼の作品を見るとき、そこに神秘性を見出しているように思える。
個体性の零度に達したかのようにして並ぶキャンベル缶や、極彩色に着色されたマリリン・モンローの微笑み、シルクスクリーンの裏に彼のサインと制作ナンバーを見つけることは、かつての宗教者が神の痕跡を見つけることとどこか似ている。
わたしたちのこういった心理は、どのように説明されるだろうか。
これの解釈を試みるために、キーワードを二つ挙げようと思う。それは、「主体化としての近代」と、「脱主体化としての現代」である。
今日わたしたちがその中で暮らす文明が(資本主義社会が、と言い換えても良い)、どのようにして生成/構成されたのかについては、マックス・ヴェーバーの有名な著書『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(Die protestantische Ethik und der 'Geist' des Kapitalismus)』が、一つの解答を与えている。ヴェーバーは、16世紀の西洋社会において、ルター、カルヴァンなどによって主導された宗教改革の影響が、キリスト教教義による厳格な禁欲主義へと帰結したことが、資本主義社会の誕生のきっかけとなったことを指摘している。
「生産の〝規格化〟という資本主義の要求に形影相伴っている、あの生活様式の画一化という強力な傾向は、もともと〝被造物神化〟の拒否をその観念的基礎としていたのだ」
すなわち、わたしたちの文明が、物から神性、象徴性、意味性を排除し、消費社会における「物」を作り出すのは、我々の深部にある、他ならぬ超越論的神秘性がその下部構造として"ア・プリオリ"に働いているからだ、とヴェーバーは言うのである。プロテスタントは偶像崇拝を禁じている。これは、たとえ神の姿を表現したものであるとはいえ、人間の作ったものが神の代用として神秘性を持つことを、悪しきことと考えたからだ。良き信者とは、純粋に神と自己との関係においてのみ、神の姿を見るのである。
したがって、ヴェーバーの指摘にしたがうならば、物が記号化された「物」となるのには、一種の宗教的な強制力が働いている、ということになる。それは流通の利便性や氾濫する広告の効果などでは決してない。物が画一化され、平面化されるのは、人々が合理的精神を愛する神の意志に沿うためなのだ、と言える。
ルターもまたその一部に与するドイツ観念論の伝統は、そもそも「神がなければ知性なし」のテーゼを掲げている。神は、人間の「理・知」を愛するのである。
わたしたちは、科学の時代を自称する現代に生きながら、その一方で、依然として神に似た「何か」が放つ神秘性とのパースペクティブを基準にして日々の生活を営んでいるように思える。
ここで、先に挙げた「主体化としての近代」と「脱主体化としての現代」について考えてみよう。
近代における主体化の運動は、垂直的な権力社会ー君主制、封建制などを基礎とする社��ーの崩壊とともになされた。垂直的な社会は、上から順に権力を下ろしていく。そのとき、最上位にあるものとして要請されたのが神であった。主体化の運動は、君主制の崩壊に伴う神の死とともに、その存在を内面化することによってなされた。すなわち、神の死は社会的な必然だったが、実際にはそれは存続し、個体的な人々の主体性の中にその住処を見出したのだ。これによって、少なくとも形式的には、社会の枠内にいるすべての人の内面に、抽象的な神が移植された。これが、「主体化としての近代」である。
しかし、神は、人が自分と同じ顔をすることを嫌うのである。「“被造物神化”の拒否」は、すべての対象、すなわち、対象化された自意識に対してすら向けられる。内奥の「神」と、外面の「人」。この関係はしばしば逆転される。要するに、人間が神のような顔をすること。しかし、これは決して許されないのである。すなわち、内面化された神は決して人間化されたわけではなく、あくまでも神のままで、人に対する支配を続けなければならない。人と神のパースペクティブは、決して止揚されてはならないのだ。神に対し、人はあくまでも客体的な存在に止まる。これが「脱主体化としての現代」である。すなわち、統一的な主体の客体として、自己を有限的に分裂させること。この傾向は、全体化、画一化を嫌うように見えたポスト構造主義の面々においても例外ではなく、むしろ彼らによって強化すらされたのである。
ウォーホルが、「(作品の)裏側には何もありません」と語るのは、己の主体性の存在を覆い隠し、あくまでも客体的な態度を保とうとしたためであるとも取れる。
近代以後を生きるわたしたちは、密かな信仰を内面化し、その垂直的な力学を利用して、自らの主体的な同一性を構築する。しかし、その一方で、それを脱主体化しようとする水平的な力にも晒されている。
ベンヤミンが『複製技術時代の芸術』で提唱した芸術作品が持つアウラの「いま」「ここ」性は、カントの超越論における感性の形式としての「時間」「空間」に対応するものとして考えることができる。超越論によれば、この「時間」と「空間」は、感性と現象の接点を段取りするのであり、この感性は、理性から悟性の段階を経て、垂直的に統一される自意識の素材を提供する。
この超越論を前提するならば、アウラの喪失が示すものとは、すなわち統一的な理性主体としての自意識の解体である。それは、内奥の神と人間の自意識の、不当な同一性の摘発である。
わたしたちは、自らのアイデンティティさえも、共時的な記号として機能する「物」と同じように扱わなければならない。神によって構築され、守られていたはずの個体的な自意識を、今度は神の命によって廃棄するというわけだ。
この一見矛盾した相反する二つの傾向こそが、近現代/資本主義社会の動力であり、このズレによって消費社会の歯車は回転している。
「物」が、徹底的に無味乾燥であればあるほど、それを見るものに神秘的存在を強く意識させるのは、そういった事情が「裏側」で働いているからだ。宗教的に純粋である白と、無印良品としての白がここで重なる。
わたしたちは、神の存在を信じない。かつて偶像崇拝を禁じた厳格な社会は、今や神そのものに対する信仰すらも不純として廃棄したのだ。しかし、わたしたちはすでに、新たな偶像を手に入れている。それは、偶像としての神秘性を、超越性を、個体性を徹底的に廃棄された「物」である。
アンディ・ウォーホルが描き出すのは、そういった「物」なのだ。偶像なき偶像崇拝。そこに神がいないことによって描き出される神の威光。今や、「物」は、わたしたち自身の鏡像である。わたしたち、すなわち抽象的な意味における「わたし」たちは、今やそういった対象なしには存続できない。神秘的でないこと、主体的でないこと、唯物的かつ即物的であること。唯物論は、「神の否定」として客体的に存在するわたしたちに許された、唯一の積極性として提示されている。
不在であるがゆえに感じられる神の威光。それは、ウォーホルが勧めるように、作品の「表面だけ」を見つめることによって炙り出される。作品の「裏側」は存在しない。なぜなら、神の住処は、作品ではなく鑑賞者自身の視点の裏側なのだから。鑑賞者は、自らの内奥に棲む神によって、ウォーホルの作品の空白を埋めるのである。
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My collage art.
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She seems to be chased by impersonal shadows.
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