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コウタが、タタール人の歌姫とレコーディングをしたようだ。
帰国して、我が家に帰ってきたら、この楽曲を、桃子とデュエットしてもらおっと。
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鏡の海
13日(水曜日)は、他市の施設に入所している母を、病院に連れて行かなければならないので、夢屋は休みです。
海岸線から、散歩をするようにゆっくりと道を登ると、空がすぐ横まで降りてきて、木々の囁き声だけが身を包みます。
坂の上に立ち、振り返ってみる鏡の海と、浮かぶ島々を見るのが好きです。
風の中に、若い母と父の笑い声が、聴こえる気がするのです。
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��年こそは行こうと、予定を立てていた「九州レインボープライド」
当日、知人のいる支援団体にお願いして、パレードにも参加させてもらおうと、楽しみにしていたのですが、かよさんの出張仕事が入って、代わって孫守りしながら唐津くんちに行くことになりました。
残念ですが、来年こそは、参加させてもらいたいと思っています。
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八卦
30日(水曜日)は、特定検診と胃カメラなので、夢屋は開店するのか微妙です。
このところ、色んなことでバタバタしているので、午後から仕事に行く「やる気」が出るのか・・・・
話をしたい人や、相談がある人は、他日に変更をお願いします。
本に会いたい人は、私の「やる気」に賭けてみて下さい。
当たるも八卦、当たらぬも八卦。
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『アフリカ哲学全史』河野哲也 ちくま新書
うろ覚えの知識で、分かった気になっていた自分が恥ずかしいです。 「アフリカ」であること、「奴隷として出国させられた」こと、「黒人」であることの歴史的、政治的、文化的なことなどが丁寧に書かれていて、何ページもノートに転記させてもらいました。 カテゴライズや植民地主義の問題は、そのままマイノリティの問題でもあるし、今、私たちの身の回りの問題でもあります。 そして何よりも、自分(たち)の考えが、相も変わらず「反人種主義的人種主義」の思考方法で、無自覚なエスノフィロソフィーであることを突きつけられ、感謝しながら、大いにうろたえています。 アフリカの「ウブントゥ」(我々あるゆえに我あり(共同的自己))や黒人音楽の参与性・応答性は、閉じた自己を開かせるヒントになったし、エメ・セゼールとアミルカ・カブラルの思想を知ったのは、大きな収穫でした。 アフリカに興味が無くても、哲学に興味が無くても、必ずどこかの箇所は、あなたへ向けた言葉で、それを受けた「あなたからあなたへの」言葉(言葉なんかじゃないかも)が生まれる、可能性の書物です。
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「壁に描かれたアートから紐解く、スーダン市民のメッセージ」今中航 コウの論考を読ませてもらいました。
始めに、謝っておきます。
読む前までは、今までX(旧ツイッター)��どで書いているような、コウが出会ってきた知人を通して、壁に描かれたアートやメッセージを読み解く文章で、それこそ私達が日々感じている想いに通じる表現媒体であることを伝えると同時に、異国の壁の物語ではなく、もっと身近なこととして感じて欲しいとの文章なのではないかと、想像していました。
ごめんなさい。
いや、それはそれでとても大事なことだし、今回のコウの文章の中にも、その要素が盛り込まれていて、十分感じ取れましたが、それ以上のきちんとした歴史や政治背景の分析と流れ、そして身動きが取れない人々の切実な想いが、胸を突くように伝わってきました。
そして、それでいて読みやすい文章は、コウの優しさが奏でる調音が作り出しているからなのでしょう。
素敵な、そしてスーダンに対する想いが込められた文章でした。
ありがとう。
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紛争の話ばかりが流れてきて、食傷気味になってしまうのも解ります。 私もそうです。
でも私には、その見えない紛争に関わっている多くの知人達がいて、その「知人達の知人たち」が、確かに存在しています。
その「知人達の知人たち」が、嘆き苦しんでいたり、生活しているのを、知人達の顔を思い浮かべる瞬間!一滴の��(想像からほんの少し進んだ涙として)、喜びの笑顔として(声が��こえてくる気が)流れ込んできます。
見えない���とを、見えないものとして消してしまわない努力は、起きている紛争だけではなく、私自身が紛争に進んでしまうことへの、ブレーキになると思うのです。
おかしいと思う事象に加担しないために、自分がそう感じるならば、周りと違っていても、無駄のように見えても、その事象から一歩引く冷静さと、事象を意識した小さな日常を、積み重ねてゆきたいなと思うのです。
本書は、私の知っているムサブ、アブラルさん、タゴットさん、コウの、知人たちの物語です。 そして、あなたの知っているノリさんの、知人たちの物語です。
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野分
毎日集荷してくれる郵便局さんが、29日と30日は集荷を休止しますと、わざわざチラシを持って来た。
こんなこと、初めてじゃないか?
発送も出来ないし、多分JRもストップするので、夢屋も休みます。
野分明け、珍しく土曜日に出てくる予定です。
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8日間ほど、息子の車で車中泊をしながら、北海道一人旅してました。
旭川から始まり、層雲峡、タウシュベツ川橋梁跡、帯広を散策しながら、襟裳岬に南下して、海岸線を走りながら、釧路湿原に霧多布岬。
そこで折り返すつもりが、向こう側に見える半島を観たくて走り出し、根室岬、野付半島からの知床国立公園、そして天下の網走で、ほぼ北海道を半周してしまいました。
もちろん高速など使わず、全て下の道。 ナビもついていない車で、スマホも持っていない私が、現在地が判るはずがありません。 一枚の全北海道地図(しかも33年前の)を片手に、人に道を尋ねると、皆が皆驚愕の面相で、私の顔を二度見してました。
網走から知人に連絡を取ると、明日の晩しか会えないとのことで、一気に札幌へ。 翌日にかよさんと孫達を拾って、行きたかった安田侃彫刻美術館 アルテピアッツァ美唄に行って、今回は終了。
走行距離は、2千2百キロ。
来年の夏は、シャコタン半島や函館の方に行きたいから、また車を貸して!と息子にお願いして帰ってきました。
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北海道一人旅
7月24日から8月7日まで、夢屋休みます。
久々の、一人旅。
とりあえず、車を借りて、旭川から釧路湿原、霧多布岬、折り返して襟裳岬から札幌の予定だけど、どうせ行きあたりばったりの道草が、旅の行程になるのでしょう。
お金が無いので、野宿と車中泊、セイコーマートのパンと牛乳、そしてアイスク���ーム。
何も考えずに、独りで、気の向くままに、空と海と大地��、抱かれてこようと思います。
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来週の土曜日(29日)『長崎イスラーム文化交流会』に、知人達4人と行ってきます。
「これからは、色んな文化の人と接して、考えていかんばよね。」と、頭では分かっているけど、発する相手が同じ文化の日本人ばかり・・・
こんな機会を一つひとつ拾って、違う文化の人々の笑顔や戸惑いの思い出を、自分の中に積もらせてゆきたいと思っているのです。
だって、せっかく向こうから手を差し伸べてくれているのに、こっちも手を伸ばさんば、握手できんし、握手したいんです。
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「同じ人間」だからとか、「みんな」などの共通の分母で語られることへの抵抗として、「あなたは、あなたのままでいいよ」など、代替不可能な個人を重視した考えが、時代の論理として定着してきました。
しかし、その「あなた」や「わたし」主体基点への考えは、「自己責任」や「あなたはあなた、わたしはわたし」など、他者との関係性の距離を広げ、異なっていることや、違う意見や志向を持つ他者への気持ちなどを、感受し難くなってきているように思います。
違った存在である「わたし」と「あなた」の「違い」は、とても、とても、大切なのに、社会はすぐに「同じ」物語で、秩序を(多くの同意は、安定の幻想を生みますから)維持しようとしてきます。
この「違い」を確保しながら、「違い」を持っている(所有?)個人主体の、強権的で、排他的な構造を、拒否したいと思っているのです。
重ねて言います。
「同じ」に回収されないで、それでいて「違い」を受託された閉じた「個人」も(!)破ってしまいたい、と思うのです。
「違い」の拠り処役割を担った「わたし」や「あなた」は、独立した単体個人や、固有性ある主体なんかではなく、あやふやで、ぬかるんでいて、きしみのノイズで満ちた、仮構的で不定形・不分類な仮体なんです。
「わたし」は、「わたしと「違う」あなたの」写し鏡として「わたし」を生成し、「あなた」を「わたし」のなかに住まわせ、「あなた」や「モノ」との関係のプロセスの中で浮かび上がる「有機交流電燈のひとつの青い照明」(宮澤賢治『春と修羅』)なんです。
そんな仮体の「わたし」は、仮体の「あなた」と、共に、生きてゆきたいと願っているのです。
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濱口竜介監督の『悪は存在しない』
ここ数年で一番の作品でした。
私達の評価や判断は、未分化な世界を、時空的な物差しによって取り出し、希望的に「納得したい」推論です。
私や世界の生地は、価値観の恣意に切り出されない限り、ただ「在る」に横たわって、樹枝の先を見上げているだけなんです。
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見返り美人
4月10日(水曜日)は、休みになるかもしれません。
本の発送があるので、2時ごろには出てきたいと思うのですが、解りません。
出てきても、いつものように3時半過ぎには閉めますので、見返り美人の夢屋です。 (書いていて、自分でもちょっと意味が分からないですが、そんな感じ)
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台湾地震
台湾の知人に安否確認のメッセージを送っていて、先ほど無事の連絡が来た。
被害や無事じゃない方も多く居るのでしょうが、まずは一安心。
被害が少ないことを祈っています。
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夢屋・春休み
かよさんが春休みに入るので、夢屋も、春休みに入ります。
3月23日から4月1日まで、休みです。
休み明けは疲れていますので、ボチボチのご��店、ご注文のほど、お願い致します。
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『文學界』2024年3月号、津野青嵐氏の「『ファット』な身体」を、興味深く読みました。
「身体」に限らず、私達が思い浮かべた言葉って、他者にも通用する抽象性を帯びている言葉と、「あんたにはどうせ解らんばい!」っていう自分だけの言葉(書いているように、多分に感情が強い)があるように思います。
その匙加減を計りながら、自分に向けて使ったり、他者に向けて使ったりしながら「生きている」ように思うのです(随分と乱暴な言い方ですが)
で、この「身」ですが、存在としたら、どうしようもなく自分事(「この身」をもって生まれてきてしまった)なのに、なぜか、「その身」から、「あんたにはどうせ解らんばい!」と突き放されている気が拭えません。
そうか、この「身体」も、言葉と同じように、他者が横にいる「身体」と、自分だけが想っている「身体」の中にいて、「身」自身も、「私」が横にいる「身」と、「身」だけの「身」の中に「生きている」のかもしれません。
津野氏の文章は、そんな「『ファット』な身幅(!)」を持った言葉が転がり、今後、どう増殖してゆくのか、はたまた溶けてゆくのか、とても楽しみです。
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