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2022.08.08
多くの日本人学生と同様に、そしてわたしの母校はアメリカ合衆国の会派を母体とするミッションスクールだったこともあって尚更、わたしはアメリカ英語を話すようになった。大学で英語専攻に入学してからはイングランド北部、アメリカ、南アフリカと様々な出身の教授と話すようになってどの地域もある程度リスニングは対応できるようになった。それでもスピーキングは変わらずアメリカ英語で、そしてずっと変わらないと思っていた。
ところが近頃「イギリス映画を観た後に発音が���響されている」という指摘を受けて驚いた。そもそも映画を観た直後に英語を話す機会がなかったし(そもそも映画を観た直後に誰かと話すことは日本語でも限られている)、無意識のうちに引きずられた発音には気が付きようもない。具体的にはと問い返すと、ピーター・パーカーがピラ・パー(巻舌)カー(巻舌)でなくピータ・パーカになっているという。なるほど確かにイギリス英語だ。
イギリス英語の「T」の発音が好きだ。Bettyの息が抜けるような音も、Doctorの「ドクタッ」という音も、Potterの「ポッタ」という音も、他にはWhateverなんかがワラエヴァーではなくワットヘバーになるところがとても好きだ。日々Forvoを聴き比べてうっとりすることもあるせいで、イギリス映画で継続してその音を聴くと、完全にスイッチが入ってしまうのだろう。単語はアメリカ英語のままイギリスの「T」や「A」が独特な発音になる厄介なスイッチだ。
実写版映画『ピーター・ラビット』では主人公の発音はもとより、トマトがトメイロゥではなくトマートゥだったことに驚いた。イギリスでは一階を一階と呼ばずに「地階」と呼び、二階を一階と呼ぶのもイギリス映画から学んだことだ。継続してその発音の環境に身を置き続けるなら勿論留学だろう。でも映画だけでもかなり学ぶところはある。一回目は筋と映画としての魅力に注目してしまっても、二回観ればきっとその映画の国に行ける。
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2022.08.07
大雑把な一面ばかりが外に向いているようで「そうは思わない」と言われることが多々あるけれど、どちらかといえばかなり心配性で神経質なほうだ。リスクは前もって考えうるかぎり潰していくし、他人に任せられない大詰めは自分で五度以上チェックするし、手は自分が許せるかぎり洗い続けるし他人が触れた場所は気休めでもとりあえず拭いておく。それでいて最後の最後にオレンジジュースをこぼすのがわたしだから目も当てられない。
最後の最後に一番大きなミスをするのが自分だから「そうは思わない」と言われるし、それゆえにわたしの心配性は加速する。名前は書いたか、ちゃんと提出できているか、メールは来ていないか、ファイルに入れたか、ジュースのキャップは閉めたか、旅行先に持っていく除菌セットはあるか、日に何度も確認してしまう。前置きが長くなった。何が言いたいかというと、無事に献本が届いていて安心してぐったりしてしまったということだ。
住所はあっているか、クリックポストの発送状況はどうなっているか、そしてまた住所は本当に合っていたか、梱包はあれでよかったのか、メッセージを付け忘れた、と発送している間中考えてしまう。無事に先方に美しい状態で届いていることが確認できて初めて解放される。これだけ確認したのだからもう大丈夫だろう、信じるぞ、えいや、という瞬間がない。テストでも確実に書いたはずの名前のことを、合格発表の日まで夢に見るのだ。
皆さんはどうやって自分を信じているか教えて欲しい。諦める、に近い信頼が自分に対してないといけないのかもしれない。どうやったってミスは起こるのだし。けれどもその諦めのせいで一番ミスをしてはいけない所でミスをするのがわたしだと考え始めてしまう。心配性なままで、ただしそれがわたしの歩みを止めることにはつながらず大胆になれたらいいのだけれどそう上手く行く人生ではない。今後も西のへたれとしてやっていきます。
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2022.08.06
雑記。①わたし以上に機械に弱い人、母にワードとエクセルの使い方を教えてひどく疲れた。わたしも文字を打つことだけに特化してきた人間ではあるのだけれどこの親にしてこの子ありな音痴ぶり。文字・用紙サイズやレイアウト変更、印刷の方法などを教えていたら「そもそも何で左クリックと右クリックを使い分けるんだっけ」と言われて泣いてしまった。わたしも言葉では説明できなくてグーグルに頼った。教えると学ぶことができる。
②クーラーの下でずっと画面と向き合っていると全身が重くなってくる。皮膚がきんと冷え、��温はとても快適なのにどこかだるくなってくる。そんな時、熱湯で作ったカップスープや紅茶を飲むと一気に体調が良くなるのだから単純なものだ。体温を一度上げると免疫が桁違いに上がるそうだし夏場も無理しない程度に(それこそクーラーの下で熱いものを食べるくらいに)体温を上げていかなければと思った。次の休みにサウナでも行くか。
③デイヴィッド・ロッジ『小説の技巧』をもっと沢山の人と読んで検討するほうがいいんじゃないかと思ってきた。わたしの理解を確かめる意味合いでも、この知識、この人が言語化できればもっと強くなるんじゃないかという傲慢な想いからでもある。四十章を五章ずつくらいに分けて週末読書会ができればと思っているが、今のところそんな余裕はないので秋冬ごろに誰かが企画してくれたら嬉しい。誰もいなければわたしも企画しますが。
④「制定法の条文を空文化させるような解釈」の具体例を探している。モンゴメリ・バスボイコット事件、JR東海事件、民放一七七条、刑事訴訟法四七五条二項、民法七一五条など以外で実例があればこっそり教えてくださると嬉しい。安保法などは憲法九条の空文化と読んでも良いのか、も併せて。法学の本は嚙み砕れすぎると詰らないけれど、専門書だと分からない部分がどんどん出てくるので勉強のしがいがある。以上、四つの雑記です。
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2022.08.05
「ウェス・アンダーソンの映画に出ているエイドリアン・ブロディ」ブームがわたしのなかだけで完全に来ている。『戦場のピアニスト』の二十九歳エイドリアン・ブロディも良いけれど、歳を重ねて色気が増しウェス・アンダーソンの悲喜こもごもな表現を上手く引き受けられるようになっているエイドリアン・ブロディがあまりにも良すぎる。これは『ダージリン急行』を初めて観たときはまだ幼かったから分からなかった色気と演技力だ。
『ダージリン急行』では善にも悪にも振れない、ただどこか神経な、離婚の問題も抱えた次男を演じていた。エイドリアン・ブロディがいなければ、もしこれが兄弟三人の物語ではなく二人の物語だったとすれば、バランス感覚のない諍いだらけの作品だっただろう。『ファンタスティックMr.FOX』は声優だから割愛するが、ウェス・アンダーソンはアニメー���ョン映画まで面白い。『フレンチ・ディスパッチ』ではアニメと実写が融合されていた。
ウェス・アンダーソンの代表作『グランド・ブタペスト・ホテル』は遺産を引き継げなかったために主人公から奪い返そうとする「悪」に寄った伯爵夫人の息子を演じていた。ワルなエイドリアン・ブロディも大好きだけれど、エイドリアン・ブロディの表情豊かさを活かしきれない少し安直なところもあって、作品全体のシリアスとコメディのバランス感覚がブロディには反映されていない印象だった。作品は勿論オールタイムベストなのだが。
それが『フレンチ・ディスパッチ』ではまた善にも悪にも振れない可笑しみと悲哀のある画商を演じていて、これだ~と興奮した。フレンチ・ディスパッチでわたしはエイドリアン・ブロディを再発見した。ウェス・アンダーソンは、シアーシャ・ローナンやティルダ・スウィントンを初め自分のお気に入りの役者を活かすのが上手すぎる。ティモシー・シャラメもどうやらその仲間入りをしたらしいし、ウェスの新作が今からまちきれない。
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2022.08.04
バイト先で新しいシステムや連絡形態を構築するとき「わたし以外の手がどれだけ入っても常に九十パーセント以上の再現が可能なように作る」というのが一番難しいことかもしれない、と気が付いた。中学・高校生のときはわたし一人でできる限りの仕事をやってぶっ倒れ、しばらくしてから起き上がってまたわたし一人でできる限りの仕事をやってということができたけれど、複雑な仕事が増えるにつれてそれが難しいことも分かってきた。
塾講師だが、かなり自発的な動きを求められるアルバイト先だ。教室長も副教室長もそれぞれの面談や事務作業や本部連絡といった動きに回っていて実質的に「一緒に働いている」と言える瞬間は業務開始前と終了後のミーティングしかない。毎日来る講師も変わっているし辞める講師もいれば新しく入る講師もいる。生徒も入れ替わりが激しい。そのたびに一々説明している暇はなく、今ではすっかり最古参に近いわたしに多くが投げられる。
学校行事の準備中、注意深さの足りなかった他人に任せたせいでわたしが積み上げてきた九十パーセントを崩されたことがあって、それから不信感が拭えなかった。それでも多くの他者は信頼に足る人物だ。特にアルバイト先などわたし以上に優秀な講師も多い。毎回わたしやわたしが引き継いだ誰かが指示を出さなくても、全ての講師と生徒が同じように動くこと��できる流れを、単純で反復可能な流れさえ作れば上手くいくことはずなのだ���
デジタルもアナログも駆使して色々試行錯誤しているが、劇的な改良と言えるものがなく壁にぶつかっている。正直勉強を教えるだけだと思っていた現場で、想像以上に有意義でしんどい時間を過ごしている。これまで教室長のワンマンだったこともあり、何もかもがめちゃくちゃだったということもあるのだけれど、整えていけばいくほど最後の詰めが超えられない。社会人の仕事ってこういうことかー、とちょっと実感した。楽しさはある。
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2022.08.03
雑記。①箕面でミンミンゼミが鳴いていて驚いた。都心に近い実家では九月までもクマゼミが圧倒的多数を占めていて、生物多様性も何もあったものではないからだ。クマゼミの声に慣れてしまうとミンミンゼミもどこか風流に聴こえる。小学生のときに城崎で聴いたヒグラシの声を思い出していた。ヒグラシの声を聴いたのはあの時が初めてで、旅館のエントランスでずっと目を閉じていた。初めて体感した「晩夏」の概念だったように思う。
②イギリス演劇の補講にほとんど誰も来ず、そのため来たメンバーで宝塚を観ることになった。シェイクスピア没後四百年記念公演『Shakespeare』だった。史実の人物相関図とはかけ離れたフィクションだったが、男役やアン・ハサウェイ役の娘役の喉から朗々と響き渡るシェイクスピアの台詞は美しく、美術も衣装もやはり宝塚は一級だと堪能した。わたしが宝塚を毎月全演目観ていた時代から変わらないものと変わったものについて考えてしまった。
③ふと歩いている、移動している瞬間に生まれた冒頭が物語を導いてくれることがよくある。机の前に座っているよりもリズムや「声」が聞き取りやすい、つまりわたしの気に入るタイプの冒頭が生まれやすいのかもしれない。今日から書き始めた原稿だったが、主人公の名前が線路の音とともに振ってきて、その名前が一気に数千字を導いてくれた。とても珍しいことだった。こねくり回してしまわないように、何度も声に出して刻み込んだ。
④紅茶の話がタイムラインで所処見られたので、紅茶検定上級のわたしは(この世で最も役に立たない検定の一つ。同率で宝塚検定と京都検定だと思っている)日東紅茶のDay&Dayパックをおすすめする。値段が格段に安い所謂業務用紅茶のなかではこれが圧倒的に美味しいと思う。もちろん高ければ高いほど紅茶は上手いが、毎日一サシェ二百円以上するものを飲むわけにもいかないので、朝はこれにミルクを入れて飲んでいる。以上、四つの雑記。
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2022.08.02
大物課題がすべて終わった。期末というわけではない常設課題のショートエッセイはあと数本あるが、移動中にいつも書いているレベルの量なので大丈夫だろうと思っている。原稿や編集作業、校正、読まなければいけない原稿や資料などが山積みだが、とりあえず今日は二週間で五万字以上のレポートを書いた自分に乾杯、の意味も込めて映画を観た。ウェス・アンダーソン『グランド・ブダペスト・ホテル』『フレンチ・ディスパッチ』だ。
ウェス・アンダーソンが好きだ。好きな映画監督は数多おれど、次にどんなものが来ても驚かない自信があるのはウェス・アンダーソンしかいない。コメディのなかに忍ばせたシリアス、程よく役割の散りばめられた群像劇、毎秒情報量の多いカット、テンポのために二重三重に重ねられた字幕と映像と言葉、適切で知的な引用、カラーとモノクロも使い分け、色彩とアスペクト比まで考え抜かれた画面。小説化できない映画を撮る唯一の人だ。
ウェス・アンダーソン映画の予告編を作る人も、いつもウェス・アンダーソンの映画を愛している人だということがよく分かる。完璧なカット、情報量が最も濃縮された一瞬を切り抜き、それでいて大事な部分を示さない。例えば『グランド・ブタペスト・ホテル』の予告は映像としてはこれ以上ない選択をしていたが、この映画の持つ切なさの部分は秘匿されたままだった。同時に、鑑賞後に見るとその切なさはちゃんと色褪せていないのだ。
皮肉にも『ムーンライズ・キングダム』を酷評していた友人がいて観始めたウェス・アンダーソンの映画は、今もわたしを虜にしている。日常のなかに潜むかけがえのない啓示(エピファニー)も、重大事件のなかに潜むささやかな物語も、ウェス・アンダーソンの映画では掬いあげられる。どの映画も九十分~百分というサイズなのも良い。わたしが好きになる映画の多くは、案外九十分のサイズに収まっている。小説も、そうかもしれない。
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2022.08.01
色々と余裕がないので今日は開き直って告���をします。タンブラーだけを読んでくださっている方もいるそうなので、ツイッターでの告知が届けば嬉しい。まずは、待ちに待った『オフショア』創刊号。四月の執筆者募集記事を見かけてからこの方完成が待ち遠しく手仕方がなかった。外国語学部とはいえ英語専攻だからアジアを眼差す人々が身近にたくさんいるわけではないので、余裕のある時に読み進めながらバチバチと刺激を受けている。
わたしは「シルクロード・サンドストーム」というクィアSF短編を寄稿した。パンセクシュアル・アセクシャル・レズビアンの女性/ノンバイナリ(ジェンダーフルイド)の三人が、恋でも友情でもない確信と繋がりのなかで新たな一歩を踏み出す物語になった。今回、百合という言葉を使っていないのはジェンダーフルイドの登場人物がいるからだが、女性としてのアイデンティティも持つ三人の物語だから百合だと思ってもらって構わない。
次に八月半ばは『京都破壊SFアンソロジー』。コンセプトから大好きな予感がするが(京都が大好きなので京都を破壊したい気持ちがよくわかる)、表紙イラストも、提出されている原稿も素晴らしいのでこちらも楽しみにしていてほしい。スケジュール的に小説は難しいと思ったので、わたしが知りうる限りの京都破壊小説/京都破壊SF小説についてのブックガイドコラムを書いた。この作品が抜けてる、などあれば是非教えていただきたい。
そして今は時間百合アンソロジーのための原稿ともう一つ別の原稿を抱えている状況。まだ企画として固まっていないお仕事もあって、下半期も忙しさは続きそう。忙しさは続きそうですが、すき間を見て文章を書いていきたいので、何か頼みごとや相談ごとなどあれば是非ご連絡ください。フォロイー/フォロワーたちの本も読んでいかなくてはならないし、夏は毎年鈍器本を集中して詠むと決めているので、こちらの脳も忙しさは続きそう。
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2022.07.31
小学六年生のころに引っ越してきた今の家は、もう十年になった。十年にもなると色々なものが変わってきて、例えば引っ越してきたときには中身の分からないがゆえにこども心をぐらぐらと揺さぶる廃墟だった場所はあの時のわたしよりも幼いこどものいる新居に代わっている。引っ越してきたときに買った車は傷だらけになって新車を考えはじめ、洗濯機も掃除機も扇風機も壊れてしまった。十年は恐ろしく長い年月で、��ても短い年月だ。
小学六年生のころ中学受験塾の帰りに自転車を飛ばしたときの風の勢いはまだ覚えている。中学二年生のころ深夜アニメやそれに類するものを初めて知り、忍び足で階下のテレビまで向かった日の階段の冷たさを覚えている。高校一年生のころにこっそりと買いだめた漫画の隠し場所の、木のにおいを覚えている。それなのにこの十年で覚えていないこともあまりに多くて、改めて記憶というもの、記憶とわたしのあり方について考えてしまう。
わたしが距離を取ることを選んだ記憶と、家族が距離を取ることを選んだ記憶が食い違っているのも、面白い。わたしが鮮明に覚えているあの日の喧嘩を、わたしが涙だけではなく言葉で気持ちを伝えることの難しさを悔しく思ったあの日の口論を、母は覚えていなかった。わたしは中学受験を、大学受験を、そして数々の小説の執筆をこの部屋で乗り越えてきたのに、十年前の机の配置を覚えていなかった。案外当たり前のことかもしれない。
七月が終わる。十年目の節目も毎��の生活に追われるうちにいつの間にか過ぎ去っていて、特に祝うことも感傷に浸ることもなく毎日を刻んで、多くを忘れている。記憶の鮮烈さや密度によって距離が引き延ばされたり縮められたりすることが嫌いではなくて、主観的な時間というものについてしばしば考えるのだとこのエッセイでもよく書いたものだった。十年前も今も同じ窓から見えるあの航空障害灯の明滅が、わたしを世界に散りばめた。
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2022.07.30
雑記。①イギリス演劇のレポートを書くためにシェイクスピアを始めとしたエリザベス朝演劇における異性装と、フェミニズムの観点から見たときの評価と批判について調べていた。面白かった。男性中心でミソジニー蔓延る社会で男性が女性を演じることは「女性はこうあれ」という押し付けにもなるが、同時に男性の女性化を恐れる人々にとっては、異性装こそが体制と神の作りたもうた性を揺るがすカウンター・カルチャーだったらしい。
②相互フォロワーさんが長らくログインしていなくてとても心配になったのだけれど、わたし自身いつツイッターをやめるのかということが人生での大きな課題でもあるので(そんな)他人事ではない。ツイッター抜きの現実で元気に幸せに生きていたらそれが一番。けれど、現状わたしの好きなもので固めたツイッターはとても楽しく、わたしの頑張りたいことで固めた現実もとても楽しい。一ヶ月いなかったら何かあったと思ってください。
③タピオカで人気の茶専門店「貢茶」が夏の学割キャ��ペーンを初めていて小躍りしている。14時までにフローズンドリンクを買えば四百四十円というお値段になるという(学生証必須)。小躍りしていたのだけれど、冷静になって考えると四百四十円はまだ全然高い。どうせタピオカトッピングをしてしまうことを思えば五百円だ。ファミマのフローズンドリンクなら二百円しないな、と踊りを収めてファミリーマートに向かった。美味しい。
④安野モヨコ『シュガシュガルーン』新装版全四巻を買った。フォロワーさんとお食事に行った際に寄った書店でフォロワーさんが懐かしそうに手に取っていらして、安野モヨコは『ハッピーマニア』『後ハッピーマニア』しか知らない不勉強のわたしはとても惹かれていた。安野モヨコ先生、庵野監督に多大な影響を与えながら庵野監督を支えてけれども自身は庵野監督に影響を受けつつも作風はぶれない、すごい人という印象。四つの雑記。
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2022.07.29
近所やアルバイト先の小中高生たちが夏休みに入ったようで、夏休みを思い出す甲高い叫び声があちらこちらで聞こえてくる。わたしの夏休みを思い返せば中学生以降の塾か旅行の記憶しかないのだけれど、小学校低学年のころは習い事だけだったから何をしていたろうと疑問に思った。わたしは当時からかなり丁寧に日記を残す質ではあったので(成長するにつれて綺麗なノートを選ぶたびにずぼらになったが)夏休みの記憶もそこにあった。
絶望的に暇をしていたらしい。ピアノとスイミングと体操と算数パズル教室に通ってもなお有り余る時間。貰うなり終わらせた宿題。どのページを見ても一日に二回市民プールに行っているし、アイスクリームを食べまくっているし、公園で雑草を乱獲したり、図書館で限界まで絵本を借りたりもしていた。今にその時間が欲しい。そして何よりうれしかったのは一年生のころには絵のついた日記を残していたことだ。かつてのわたしの絵日記。
同じように退屈なルーチンの毎日だったはずなのに、絵日記に書かれていることは全部違った。近くの公園に生えている背の高い植物がディルという香草だったこと、アサガオかヒルガオか見極めるために朝から公園に張り込みに行ったこと、市民プールで出会った女の子のタトゥーシールの絵柄、淡路島で遭った土砂降りの雨が海を叩く様子、今のわたしに足りない感性がそこにはあって、守ってきたつもりのものがありありと立ち上がった。
塾に通って���けがえのない友人たちと出会えた愛すべき母校に入学したことは後悔していないし、むしろそうでない人生を想像することができない。それでも小学生いっぱいをあの絶望的に暇をしていたまま過ごしていたらどうなっていただろうと思う。今日、裏の家の子どもたちが土砂降りのなかをおもちゃを抱えながらサンダルで駆けていった。そして叫びながら家に飛び込んでいって、プールは銀色に光って、あの日のわたしに重なった。
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2022.07.28
四つの雑記。①前期の主要な講義はすべて終わり。あとは一度休講した教授が補講という名で演劇のビデオを見せてくださったり、プレゼンテーションのフィードバックを貰いにいくために二回登校するだけだ。期末のレポート課題を終わらせなければ夏休みに入れないわけなんですが。前期は特にドイツ語とスペイン語文学とアメリカ演劇を頑張った。成績に反映されるかはともかく、熱心に勉強したと自信をもって言えるのだからまあいい。
②コンビニエンスストアで売っていたコメダ珈琲の「飲むコーヒーソフトクリーム」がとても美味しくて感動してしまった。多くの飲むソフトクリームはただのラテであることが多くて、この味なら普通の抹茶ラテを飲むな、ということも多々あった。けれどもこれはそうじゃない。ちゃんとコメダ珈琲で食べるコーヒーソフトクリームの味がしたのだ。ちゃんと飲むソフトクリームになっていた。コメダ珈琲のカフェラテじゃないんだ。是非。
③ツイッターや他人に薦められた本ばかりを掘っているとどうしても視野が狭くなりがちだなと思い至って、インスタグラムで海外の「ブックスタグラマー」を沢山フォローしてみた。あらゆる国の同年代の女性を中心に。わたしの知らない本のわたしの知らない表紙がそこにあって、とても楽しい。興味を惹かれた作品は英訳を探している。できれば英語以外にも原典だけで読むことのできるレベルの言語を身につけたいところだと常々思う。
④暴力的な暑さに身体が慣れてきて、元々西国の夏生まれの人間だから気温は上がれば上がるほど元気になる。日傘をさしながらも時折吹く風や、輪郭が濃くなった影や、眼鏡をかけたときのじりじりと音がなりそうな日差しをかなり楽しんでいる。夕方になってからはかなり涼しい日もあって、夏がやっぱり好きだと思う。蝉の声もおとなしくて、可���らしい。まだ海に行けていないから、早く行って本当の夏になりたい。以上、四つの雑記。
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2022.07.27
断片はよく書けているものの貫く物語に欠けているために「よっしゃここらで山場作ったろ」という作者の意気込みが透けて見えてしまう小説であったり、そもそも日本語が(意図的なものなのか判断しかねるが)上手くなく登場人物たちの声も聞こえてこないがゆえに目が滑りつづける小説であったりを立て続けに読んでしまい疲弊していた。疲弊すると評価の安定したものが読みたくなるのは悪い癖だが、ナボコフ『ディフェンス』を読む。
ナボコフは文章が上手すぎる。ル=グウィンが「毎度毎度立ち止まっては拍手を待つような具合」とナボコフの文体を良くない例として挙げていたが(『文体の舵を取れ』)ナボコフはそれが良いんじゃないかとすら思う。もちろんこれから初めて文体の舵を取ろうとするような人々がナボコフを真似ようとすると拍手待ちの素人になって滑稽だが、ナボコフはそうじゃない。圧倒的な知識と才能に裏付けられた自信がそこで拍手を待っている。
とはいえ素人であっても書き出しや結末くらいは立ち止まって拍手を待つような具合で文章を書いて良いんじゃないかと思う。小説は単に物語ではないのだし言葉と真剣に向き合った末の拍手待ちならわたしは拍手がしたい。合わない小説の後の圧倒的な傑作はやはり文句なしに沁みわたる。このまま『黄金虫変奏曲』『チェヴェングール』“To Paradise”といった鈍器を読んでしまいたいが、学生はその前にレポートの課題図書を読まなければならない。
インターネットの「作られた」枠の中で流れてくる新刊や、評価の安定した古典ばかりを読むことにも一抹の悲しさも覚える。工場のように要素がかけ合わされた(それがたとえ自分の好きな要素ばかりであったとしても手が止まる)小説が流れてくることにも。かけ算で表せるような小説は本当に小説なのか。インターネットで評判になるとしてもわたしはその小説を読みたいとはきっと思わない、と疲弊した小説の帯を見ながら考えていた。
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2022.07.26
どうやら一昨昨日で毎日八〇〇字エッセイも三六五日を迎えていたらしい。今日で三六八日目。フォロワーさんからの質問に答えたり、その日のことについて綴ったり、触れた作品に興奮したり、時に譲れないことについての話をしたり、三六五日、見返せば数え切れない言葉があった。単純計算で三六五×八〇〇=二九二〇〇〇。それなりの本が二冊は出せる。ここ最近毎日息切れしながら書いているレポート課題なんて、塵芥にも届かない。
ただ一年を迎えて、八〇〇字エッセイのあり方を考え直して��る時期が来たように思う。思いついたことをノンストップライティングのように書き留めるだけの時期は終わったように。文章の癖のようなものも洗い出せたし、日々の気持ちを言語化するのも八〇〇字では限界を感じてきたからだ。これからはじっくり考えて、まとまった長さのエッセイを捻出できるといい。すぐには移行できるものではないので四百日以降を目途に考えている。
昔から小説家のエッセイ集が好きだった。ここにも書いたことがあったはずだ。小川洋子『とにかく散歩いたしましょう』。村上春樹、三浦しをん、谷崎潤一郎、島本理生。作品に関する作者解題ではなく、それでいて作者の視線を通して世界を見ることができる。選んだ言葉、選ぶ題材、ありふれた日常のなかを掬いあげる「わたし」の声に、小説(多くは私小説)とは違うベクトルの、けれども小説と同じ力の世界の広がりを実感するのだ。
何か一つテーマを決めて。できれば憧れた小説家たちの本のような一冊のエッセイ集にするように。そんな毎日、否、毎週エッセイができればと考えている。テーマは何がいいだろう。食べものは無しだ。ありふれている。本や映画もメインとしては駄目。書評でする。一応そのつもりでいる。あと三十日ほどは思いつきをだらだらと書くことを続けるので、どちらも宜しくお願い致します。それから、勿論、小説やその他のお仕事についても。
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2022.07.25
秋田県の地サイダー「ニテコサイダー」のサイダーとりんごサイダーを頂いた。今日はりんごを飲む。炭酸はすこし強めで、でもりんごの香りと炭酸が鼻を抜けていくのがとても良かった。オンラインショップ等が発達した現代に生まれてよかったと思う最大の理由は、どこにいてもどの国や地域の食べものを中心とした触れられる文化に出会えることだ。インターネット上のレシピと材料さえあれば自宅で作ることだってできるかもしれない。
インターネットだけ、ではない。タイで勤めている叔母がよく、タイの写真やタイ限定のスターバックスコーヒータンブラーと一緒に、タイ現地のインスタント食品やタイで出会ったレシピを送ってくれる。フランス在住でフランス人の父と日本人の母を持つ友人は、フランスで最近流行っている食べ物についてインスタグラムで教えてくれる。北海道の大学に通う友人は関西に戻ってくるたびに北海道ならではの物とともに馳せ参じてくれる。
実際に対面で繋がった人々が世界に飛び立っていって、インターネットを介したり介さなかったりしながら世界のあらゆる場所からわたしのために何かを届けてくれる。その瞬間だけでわたしは彼女ら、時に彼らと人生で同じ時を過ごしてよかったと思える。わたしは日本の大阪から、わたしにとっては特別楽しくはないけれど、きっと彼女たちにとっては懐かしい、あるいは既に新しくなっている何かを届ける。世界はちゃんと繋がっている。
そのたびにいつも新しい言語を学ぼう、そう思える。今はキアラ・アレグリア・ヒューズの戯曲のおかげでプエルト・リコに行きたい気持ちが強くなっているけれど、できれば世界中を見て回りたい。小説のために資料だけを読んだあの国、映画で観たあの国、友人の写真に写っているあの地域。世界はまだまだ生きるには厳しいけれど、世界がまだまだ広いことだけ生きる理由だ。ニテコのりんごサイダーは、すぐに瓶一本を開けてしまった。
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2022.07.24
追い詰められたときに一番の実力を発揮するタイプのというか、追い詰められるまでやる気を出せないタイプの人間だから、レポート課題締切ラッシュ直前にして次々に成果を挙げている。もっと早くから始めていれば原稿も迷惑をかけずに済んだと反省しつつも、やっぱり苦しみぬいたあとに何かを提出した瞬間の快感は原稿だけじゃない。今日提出したのは社会言語学におけるフェミニズムについてのレポート。先行研究が多くて助かった。
次はキアラ・アレグリア・ヒューズの「Elliot, A Soldier’s Fugue」についてのゼミ用レポート。これは題名どおりフーガの構造やバッハの音楽、前奏曲という言葉が頻出することから作劇をバッハの「前奏曲とフーガ」に絡めて書くつもり。スペイン文学概論の試験の後は来週頭にレイモンド・カーヴァー「大聖堂」についてのレポートと、イギリス演劇の異性装とフェミニズムについてのレポートが控えている。火曜日には北欧史概論のレポート(やばい)。
試験と違ってレポート課題だと答えはないし求められる課題としての方向性はあってもかなり自分の興味ある分野に引き付けて考え論じることができるから楽しい。一般教養のレポート課題では得られなかった知識や思考体験もあって、辞書や論文やインターネットに埋もれてひぃひぃ言いながらも、何かしら学ぶべきことを学べるのはやはり大学なのかもしれないと感じていた。同時に自分の圧倒的な「足りなさ」にも気がつくわけだけれど。
とはいえ。レポートであろうと試験であろうと無いのであれば無いほうが好ましいわけで。勉強は好きだけれど毎日詰め込むように試験と締切があるのは精神的にも体力的にもかなり辛い。聞いてます���教授たち。わたしたちはあなたの講義や演習だけを取っているわけじゃないんですよ。八月中旬(正確には十三日)以降、原稿も課題もたぶん片付くので、美術館にもちょこちょこと訪れるつもりだ。行く予定のかたは是非お声がけください。
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2022.07.23
映画『イン・ザ・ハイツ』を観た、というのもゼミのレポート課題が本作の戯曲・プロデュースも手掛けたキアラ・アレグリア・ヒューズだから。劇場公開時に一度観ていたが、キアラや原案・作詞・作曲・ミュージカル版主演のリン=マニュエル・ミランダにまつわる知識をより一層得てから改めて観なおす『イン・ザ・ハイツ』はまた格別。彼らはどちらもプエルトリコの血を汲んでいて、それゆえに『イン・ザ・ハイツ』は胸を打つのだ。
ポーランド系移民とプエルトリコ系移民の闘争を描いた『ウエスト・サイド・ストーリー』がいかに問題だらけであったかは近年では明らかなことだ。移民=ギャングという偏見、それでいて現実より豊かに描かれている彼ら。バーンスタインはユダヤ系で人種差別には敏感であったはずなのに、プエルトリカンの偏見と差別、そしてプエルトリカンの苦しみについては鈍感だったと言わざるを得ない(リメイク版ではかなり改善されていた)。
一方でイン・ザ・ハイツは「今」のプエルトリカンのアメリカン・ドリームと苦しみを描く傑作だ。美容室にコンビニ、デモにクラブ、宝くじに祈りの場。これこそが「生活」なのだと思う。政治もファッションも同じ線上にある。音楽もウエスト~とは違ってラテンの様々な民族音楽や、若者たちが親しむラップを取り入れている。リン=マニュエル・ミランダらしい。女性たちの活躍や心の動きも繊細に描かれていて、キアラの力を感じた。
エンターテインメント・ミュージカルでありながら、どこまでもアクチュアルでリアル、ミュージカルとしてのファンタジーも交えて、そして現実に向き合う、これぞアメリカ演劇。加えて一つ。カリビアン、ラテンの音楽を聴くとどうにも血が騒ぐようで、一度聴くといつも頭のなかで流れ続けている。彼らの情熱やパワーに当てられているだけかもしれないがそこには何だか人類共通の踊りや歌に込められた祈りのようなものを感じるのだ。
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