youkoseki
辺境社会研究室
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youkoseki · 7 years ago
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おまえの飲み会0.2ネットフリックス
いまさらNetflixに加入したのだけど、さんざん評判だけ聞かされていた話題作を順にマイリストに入れていったら、もう死ぬまでに消化できなさそうな感じになってきた。これから飲み会とか旅行とかに行くたび「これはネットフリックスより面白いのか?」と考えてしまうんだろうな。
— yu koseki (@youkoseki) April 1, 2018
言い訳から始めると、私はスポーツ観戦が趣味で、昔はスカパーに毎月か��り出費していたし、近頃はDAZN、それから間も無く終了するスポナビライブに加入して、プロ野球とJリーグを見ている。NBA.comに課金してバスケもよく見る。Amazon Prime会員なのでPrime Videoも見られるし、Huluはわりと昔からの会員だ。
その上、もう20年くらいインターネット中毒者だし、読みたい本もたくさんあるし、Steamには800本くらいのゲームライブラリがある。Shadow Tactics: Blades of the Shogunはかなり面白い。
要するに、これ以上に時間を費やす新しいコンテンツなんていらないのである。欲しいのは、コンテンツを消化するための、時間がゆっくり流れる部屋とか、眠くなくなるくすりとか、仕事を辞められる不労所得である。
とはいえ、今年の中日ドラゴンズと浦和レッズはコンテンツとしての懸念があり、Huluからはどんどん海外ドラマが消えていく。特に妻と一緒に観る番組がないということで、試しにとNetflixに加入した。Mad Menも見終えてないんだけど。
さて、なにを観るか。Netflixのあれやこれやが面白いという話はTwitterで自然に流れてくる。何シーズンもあるドラマをイチから観る気力はないので、短いものがいいだろう。もちろんStar Trek: Discovery(3日で6話観たが面白い)。あとStranger Things。Breaking Badは大好きだったのでBetter Call Saulも外せない。Black Mirrorは一話完結で面白いらしい。Narcosも話題だ。カルトコメディとしてずっと気になっていたArrested Developmentも新旧揃っている。
そういう話をしていたら、Queer Eyesが面白いと教えてもらった。リアリティーショーは確かに好きだ。Art of Designもいいらしい。長くてもOrange Is The New Blackは外すなと教わる。13 Reasons Whyは見るべきらしい。もうすぐMonty Pythonも見られるようになる。
その上、映画がある。私はあまり見ないけどアニメもある。インターネットの時間が減る(いいことかも)。読書時間も減る(困る)。だから、新しいコンテンツなんていらないんだけど……という気分である。
そして、ここに書いたほとんどの作品がNetflixのオリジナル作である。他のストリーミングサービスのように、いつか契約切れで消える心配はない。いつでも好きなコンテンツにアクセスできる。すごくインターネット的だ。リンク切れがなくて、お金をかけたプロの作品が集まるインターネットである。コンテンツにアクセスする方法がどんどん複雑に分断されてきているインターネットよりも、お金さえ払えば自由にアクセスできるNetflixのほうがインターネットではないかとさえ感じてしまう。これで月950円というのはふざけた話ではないか。
コンテンツ作りにはお金がかかる。だからネット企業はコンテンツを作らず、プラットフォームを作ってきた。コンテンツはすでにネットにあるものを整理するか(Yahoo, Google検索)、個人から集めるか(YouTube, Facebook, Twitter)、誰かのものをライセンスしてもらうものであった(Hulu、DAZN)。しかしNetflixは自前で作って、自前で配信する。作れば作るほど、カタログは充実する。盲点だったわ。ブレークスルーなんてそんなものである。
昔は野球中継や、面白いテレビ番組があるから、早く仕事を終えて見るというライフスタイルがあった。そのうち録画ができるようになって、オンデマンド配信も増え、空いている時間に番組を消化できるようになった。いまはコンテンツが増えすぎて、あらゆる時間と競合するようになっている。飲み会でも旅行でも、時間を費やすたびに、それはNetflixより面白いのかという疑問がついてまわる。
私もこれから飲み会の帰り道に「今日は0.2ネットフリックスだったわ……」みたいなことを考えるんだろう。私の飲み会に出た友人も同じように評価するのだろう。その評価単位は、正確には「ネットフリックス/時」みたいな感じだろうか。Netflixは1ネットフリックス/時。会社の飲み会は20ミリネットフリックス/時、みたいな。
まあ、贅沢な時代ってことなんでしょうね。Star Trekの続き見ます。
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youkoseki · 7 years ago
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ケンブリッジ・アナリティカ事件は結局なんだったのか問題
事件の概要
2013年、ケンブリッジ大学の教員で、調査会社グローバル・サイエンス・リサーチを名乗るアレクサンダー・コーガン氏が、Facebookで利用できる��格診断アプリを開発した。当時のFacebook連携アプリは、本人の情報だけでなく、友人の情報まで簡単に取得することができた。
2014年、ケンブリッジ・アナリティカ社が、このアプリへの参加者をAmazonのクラウドソーシング(Mechanical Turk)で募集した。27万人が参加し、報酬は1人あたり1ドルから2ドルだった。これによってケンブリッジ・アナリティカは27万人のデータと、その友達も含めた5000万人に及ぶデータをぶっこ抜いた。ちなみにケンブリッジ・アナリティカとケンブリッジ大とは無関係である。
2015年、FacebookはAPIに手を加え、アプリ利用時に友人の情報まで取得する機能を制限した。同年、ガーディアンの報道で、グローバル・サイエンス・リサーチからケンブリッジ・アナリティカへのデータ共有がメディアで話題になったため、Facebookはこのポリシー違反に対して、法的措置をとった。ケンブリッジ・アナリティカはデータを削除したと、証明書を提出した。
2018年、ガーディアンやニューヨーク・タイムズが、問題のデータをケンブリッジ・アナリティカが未だ保持しており、2016年の大統領選でも利用された疑いを報じた。当時ケンブリッジ・アナリティカはトランプ陣営に雇われていた。
なぜこんなことが起きたのか
さて、本件は大規模なデータ流出事件、データ漏洩事件と言われているが、実際のところ明確な問題があったのは一点である。それはリサーチ会社(という建前の)グローバル・サイエンス・リサーチから、選挙コンサルティングを手がけるケンブリッジ・アナリティカにデータが渡ったことだ。繰り返すが、これはFacebookのポリシーに違反している。
Facebookが直接データを流出させたわけではない。性格診断アプリは利用者が同意の上で利用したものだ。クラウドソーシングを使って友人のデータまでぶっこ抜いたことも、当時のFacebookのポリシーでは問題のないことであった。もちろん今となっては、もっと明確で厳格なポリシーがあったほうが良かったと思うべきだし、実際にFacebookはその後でポリシーを改訂している。
そう考えると、本件に対する当たり前の教訓としては、データは取り戻せないということである。何が原因であったにせよ、名前や年齢が第三者の手に渡ったら、それを変えることはできない。住所や交友関係、政治的志向も簡単には変えられないだろう。また、Facebook自身が味わったように、ポリシーを改訂しても、外部に漏れたデータを削除させたつもりでも、一度漏れたデータを追うのは難しい。
個人データにどのような価値があるのか
それはそれとして、5000万人のデータを分析して大統領選に影響を与えた〜という話が、どこまで信憑性があるのかは疑問である。はっきり言ってケンブリッジ・アナリティカの営業トークだったのではないかと思うし、実際のところデータは利用されていなかったという報道もある。
自分のデータが流出していたら気味が悪い。変な話だが、もし自分のデータが流出していたら、それには価値があると思いたくなるだろう。しかし本当にそうだろうか。
大統領選挙に利用されたという話を考えてみる。もしあなたの手元に、有権者の詳細な情報があって、一人一人の名前や年齢、住所、交友関係や政治的志向が分かったとしたら、何に使うだろうか。投票の行方を左右する、浮動層が見つけられるかもしれない。影響力の大きいインフルエンサーも見つけられるかもしれない。そういった層がどういうメディアを信じて、どういうセレブを好むか分かるかもしれない。
でもそれって個々人の詳細なデータが必要なのだろうか。大統領選なんて、どの地域で、どのタイミングで、どの層を狙う必要があるのか、ほとんど解明されている。だから、そこに大量のテレビCMが投下される。真偽不明の醜聞も次々に流れる。その上で、前回の選挙ではさらに、フェイクニュースが大きな役割を果たしたのではないか、と言われている。
そしてフェイクニュースの拡散に細かな個人データは必要ない。Facebookに(あるいはTwitterに、YouTubeに)投稿すれば、いまはアルゴリズムがそれを好みそうな人に自動的に届けてくれる。多く読まれたものは、アルゴリズムによってさらに多くの読者へと拡散されていく。これは誰でも出来ることで、個人の詳細なデータなんて必要ない。
本当の課題はどこにあるか
もちろん流出したデータに価値がない、というわけではない。個人の詳細なデータが手元にあるならば、それはマスを操作することよりも、個人を操るほうに向いているだろう(標的型攻撃、振り込み詐欺とか)。また大統領選のような、誰もが注目して明確な結果が出るものについて世論を誘導するよりは、長期的なトピックについて潜在的に誘導するほうが使いやすいだろう(移民の是非とか)。
ただ、Facebookから抜かれたデータでトランプが大統領に就任した〜というのは、あまりに安直なストーリーである。
EUのデータ保護規制(GDPR)はすでに話題であり、今回の騒動で他国でも強固なデータ規制が必要だと言われている。Facebookはすでに、APIによるデータ共有をますます制限しはじめている。また今回の件に対応したものか分からないが、パートナーカテゴリーという第三者データでFacebook広告を利用する機能も廃止する。
データの移動や共有を規制すると、有利になるのはデータをすでに大量に保有しているプラットフォームで、もちろんFacebookはその一つである。すこし前までは、巨大すぎるプラットフォームが保持するデータのポータビリティを高めようという話だったはずなのに、いつのまにか状況が逆になってる。
そう考えると、今回の事件そのものよりも、なぜこれほどの大騒動になったのほうが興味深い。データ規制にしろ、データポータビリティにしろ、それを求める声があるのは「Facebookはたくさんのデータを持っている」ということに対する漠然とした不安感の裏返しではないか。その大半はユーザー自身がアップロードしたデータなの��が、その対価がターゲティング��れた広告というところが、納得を得られていないのかもしれない。
理想的には、データを渡したおかげで自分に関係のある広告が見られて良かったね、ということのはずだ。そもそもFacebookのような多機能プラットフォームを、広告のおかげで無料で使えて良かったね、ということのはずである。しかし、そこが納得されていない。
そしてこうした、データに対する対価はなんなのかという不安こそが、Facebookに限らず、成長を続けるデジタル広告業界がずっと解決できずにいる本当の課題ではないか……という話を書くとさらに長くなるので、元気があったらまた書きます。
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youkoseki · 7 years ago
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エンゲージメントという言葉をやめたい
 私はこの6年ほど、広告を売る仕事をしている。広告を売る仕事とは、言い換えれば、広告を買うと、どう良いことがあるのか説明する仕事である。
 広告を買うとなにが良いのか。広告業界はずっとその説明に労力を割いてきたが、広告のデジタル化が進行するに従って、少なくとも良い悪いを測る指標は明確になってきた。たとえばインプレッション(広告が見られた回数)、リーチ(広告を見た人の数)、クリック(広告がクリックされた回数)、コンバージョン(広告を見たあとに商品を購入するなどアクションを起こした数)など。
(こうした定量的指標も、各社で定義が曖昧なところがあり、やれインプレッションの中でも人の目に届いてないとか、リーチといいつつ端末によって重複しているとか、クリックの中に外部へ遷移するリンククリック以外も含まれるとか、コンバージョンにビュースルーは含むのかとか、色々な思惑で広告レポートの数字が良くなったり悪くなったりするのが、広告業界の一番面白いところである。閑話休題)
 定量的指標がある一方で、あまり定量的でないリクエストもある。たとえば「ウケたい」とか。「バズりたい」とか。
 定量的でないリクエスト自体は、悪いことではない。でも「バズる広告を作ってください!」と言われたら、たぶん多くの代理店や制作会社は「じゃあ、まあバズの定義はどうしましょうか。Twitterでどれくらいリツイートされたかで良し悪しを見ましょうか。それともFacebookのシェアを狙いますか」みたいな返しをして、定量的な数字に落としこむのだと思う。
 そういう時に困るのが、エンゲージメントという語である。多くの人は、エンゲージメントという言葉を定量的でない意味で使っていると思う。なんか広告を見た人とのあいだに関係が生まれるといいな〜みたいな。
 しかしエンゲージメントとは、定量的な指標でもある。
 たとえばFacebook広告(≒投稿)のエンゲージメントとは、いいね、コメント、シェアの合��である。しかしそれだけでなく、リンクのクリック、写真の表示や動画再生、クーポンの取得「など」も(あれば)含まれる。Facebookのヘルプセンターにもそう書いてある:
Tumblr media
https://www.facebook.com/business/help/735720159834389
(ちなみに、この定義は間違っている。なぜなら広告のリーチはエンゲージメントには含まれないからだ。reactingをreachingと翻訳を間違えており、英語だと正しい説明になる)
Tumblr media
 Twitter広告のエンゲージメントも似たようなもので、いいね、返信、リツイートに加えて、リンクのクリック、画像や動画のクリック、動画の再生、ツイートの詳細を開く、プロフィールのクリックが含まれる。
Tumblr media
https://business.twitter.com/ja/analytics/tweet-activity-dashboard.html
 要するに、広告に視聴者からの反応があったものは、すべてエンゲージメントなのだ。なので、エンゲージメントを指標として広告を作るということは、なんでもいいから反応が起きるような広告を作る、ということである。
 それは控え目に言っても、大雑把な目標で、シェアが欲しいならシェア、いいねが欲しいならいいね、クリックが欲しいならクリックと、分けて考えるべきであろう。
 その上でエンゲージメントが欲しいなら、動画広告をやればいいのである。なぜなら動画広告は原則として自動で再生され、自動再生された回数はFacebookでもTwitterでもエンゲージメントに含まれるのだから。動画の再生回数は、視聴者からの直接な反応がなくてもエンゲージメントと見なされる、唯一の例だと思う。あるいは、動画のために「指を止めた」というのがエンゲージメントなのかもしれないが。
 でも、そうやってエンゲージメント≒動画再生回数を指標に広告を作るなら、はじめから動画再生回数を指標にすればいい。時には、動画広告とそれ以外で、エンゲージメントの大小を比較するような時もあるが、それは本当に意味がない。
 けっきょく、エンゲージメントという言葉が出るたび、それは定量的な意味なのか、そうでないのか、確認しなければいけない。定量的な意味だとしたら、その指標にほとんど意味はない。なんか色々な数字を足し合わせただけの、場合によって定義の変わる(動画があれば再生回数が上乗せされる)、使えない指標である。定量的でないとしたら、そ���は概念としては構わないが、最終的にはなにか別の定量的な指標に落とし込まなければいけない。
 FacebookやTwitterがそもそもエンゲージメントという指標をやめて、定量的な意味から解放してあげるのが良いのだろうけど。
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youkoseki · 7 years ago
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呼び込みみたいな仕事
 昼食を探して赤坂をぶらぶらしていると、ときどき呼び込みの人を見かける。
 客が入っていないから呼び込みをするのだろうけど、呼び込みをしているということは客が入っていないわけで、それは非常にやばい。少なくとも私はランチタイムに呼び込みをするようなレストランに入ろうと思わない。実際、その様子を観察する限りにおいて、呼び込みに誘われていく人はいない。
 私は知らない店にふらっと入っていくのが好きなので、入ってみたらガラガラだったという経験はよくある。ガラガラでも、美味しかったら落ち着いているいい店ということになって再び通うだろうし、不味かったら二度と行かないだけである。
 呼び込みをしていた店も、呼び込みさえいなければ気になって入る機会があったかもしれない。でも呼び込みのおかげで、その店に入ることはない。
 もちろん、呼び込み自身も、そうした理屈は理解しているのだろう。実際、多くの呼び込みは、もはや客を誘うことを諦めたかのようにアリバイのように立っているだけである。実際、呼び込みをちゃんとやるのは難しい。
 それでも、客のいない店の中でじっとできなかったのだろうか。安売り券を作ったりして、店の前で控え目に撒いたりする。でもランチタイムに安売り券を配るなんて……みたいに客のほうは思って、ますます足が遠のいてしまう。
 呼び込みってやる意味あるの? みたいな問題提起をしたいわけではないし、そもそも特にオチはないのだけど、呼び込みを見るたび、こういう仕事ってあるよなあと考えてしまう。成果に繋がらないことが明白なのに、仕事をしたということを示すためにある仕事……みたいな。もしかしたら私の仕事も、横で誰かがじっと眺めていたら「そんな仕事やる必要ないのに……」とか思われるのかもしれない。
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youkoseki · 7 years ago
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同僚はブロックできるか
(仮定の話で、別に私が今の会社に不満を抱いているわけではない、念のため)
LINEでもTwitterでもFacebookでもInstagramでも、気に入らない人がいたらブロックできる。ブロックするとその人からのメッセージは一切届かなくなる。世の中には不愉快な人がいるので、ブロックはデジタル化されたソーシ��ル・コミュニケーションにおける権利となってきている。
社会におけるコミュニケーションツールの普及に伴い、企業内でも類似のコミュニケーションツールを導入する例が増えている。私の場合、Facebookでは自社製のWorkplaceを使い、現職ではSlackを使っている。面白いことに、こうした社内ツールにはブロック機能がないようだ(実装されているものがあれば教えてください)。
同僚をブロックできないのは、当たり前と思うかもしれない。上司・部下を含め、同僚にムカつくことはあるだろう。でも一緒に仕事をしているんだから、そうした人間関係の問題は解決していけばいいじゃないか、と。あるいは解決せずにどうするんだ、と。日々一緒に生活する可能性のある人を、ブロックして関係を終わらせてしまっていいはずはない。
そもそも、もしブロックできてしまったら、会社という組織が成り立たなくなる恐れがある。上司をブロックしたら指示は届かなくなるのか? 部下をブロックしたら仕事はどうなるのか? 部の人間が一斉に誰かをブロックしたら? ブロックは組織を破壊する、とても攻撃的な手段となりえる。
しかし企業がある程度以上大きくなると、顔も分からない、見たこともない人が出てくるのが普通である。違うオフィスの違う部署で働く、仕事でまったく絡まない人も沢山いるだろう。そういう人とオンライン上では時にすれ違う。そんな時に不愉快な目に合ってもブロックできないのだろうか。
Workplaceを使っていたときも、そういう議論があった。同僚とトラブルがあった時は、ブロックするのではなくHR(人事)に連絡せよ、というのが模範的な回答であった。
とはいえ「知らない同僚ともいつか仕事をするかもしれない。だからブロックしてはいけない」という問題は、実はTwitterやFacebookでも同じである。私は何人かブロックしているけれど、転職する時に「もしかしたら新しい会社ではこういう人と仕事の付き合いがあるかもしれない」とブロックを少し解除したことがある。私はチキンな社会人である。
同じように、いま十代でTwitterやInstagramを使いこなしている人達は、就活の前後でブロックしていた面倒な大人たちとリアルに出会っていくのかもしれない。まあ、聞かれても本当のアカウントを教えなければいいのだけど。ブロックできない現実というのは本当に遅れている。
なんの話かよく分からなくなってきたのでそろそろ終わらせると、私は社内コミュニケーションツールでも同僚をブロックする機能があっても良いと思う。そしてブロックしてはいけない仕事のやりとりと、ブロックできるそれ以外のやりとりは、システムで分離していくべきではないかと考える。
実際、Slackが本当に不愉快なのは、雑談のせいで仕事の話が流れていくことだ。仕事の話は属人性をなくしてブロック不可、それ以外の話は属人的なままブロック可とすれば良い。
ブロックはやりすぎだとしても、仲の良い同僚からは即座にメッセージが届き、嫌な同僚からのメッセージは一日に一度まとめて届くとかでもいい。メールではフォルダに振り分けたりして出来たことである。この点、Slackは���らかに退化している。
あるいは、不愉快な人とのやりとりは、自動的に適切な表現へ翻訳してあげるのが良い(最近そういうショートショートを書いた)。Googleならきっとできるでしょう。
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youkoseki · 7 years ago
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オンライン広告の請求と審査について勝手に補足します
「著作(ライトノベル)のカバーイラストがポルノ認定され広告を禁止された件についてTwitter日本支社に行ってきた話」について勝手に補足します。
なぜお金を払った広告が停止させられるのか
今日のオンライン広告では、配信中に広告の再審査が行われる場合がある。
今回の広告は、配信前の審査では通ったが、配信中の再審査に引っかかり、配信を止められたと予想される。
払ったお金は返ってこないのか
返ってこない。お金を払ったぶんの広告は、すでに配信されているから。
今回利用されたTwitter広告は、運用型広告と言われるもので、広告が運用された分だけ(実際に配信された分だけ)、お金を払う必要がある。自分の都合で配信を止めても、審査の都合で配信を止められても、それまでに配信された分は支払う必要があり、実際にすでに払っている。
一方、審査によって広告が停止されたが、そのために配信されなかった分までお金を払うわけではない。あくまで使った分を払った、ということである。
なぜ配信中に審査を行うのか、配信前に審査すれば良いではないか
配信前にも審査は行っているが、配信中にも審査が必要である。
大きく二つの理由がある。一つには、オンライン広告は膨大な量が出稿されるので、すべてを事前に確認するのは現実的に不可能だから。
例えば、たった一つの広告キャンペーンに対して、文章や画像のバリエーションを作り、かけあわせで何千、何万と広告が出稿されることも今日では一般的であり、その全てを目視することはできない。
そのため、多くのオンライン広告では自動化された審査と、人間による手動の審査を組み合わせる。配信すべきでない広告を配信し、配信しても良い広告を止めてしまうということは、どうしても発生する。
もう一つには、審査段階では問題なく見えたが、ユーザーから多くの否定的なフィードバックがあった時のため、再審査という仕組みが必要だから。
いずれにせよ、一回で100%完全な審査システムというのは出来ないので、配信前・配信中に何度か審査を繰り返していく仕組みが求められている。
これは「成人向けの性的な商品やサービス」なのか
そう判断されてもおかしくはない。
残念ながら公開されているTwitterのポリシーでは詳細が分からないが、類似するFacebookの広告では、胸の谷間を見せるとアウトという事例が掲載されている。
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一般に販売されている書籍の表紙がポルノ扱いとは、厳しすぎるのではないか
良い悪いは別にして、それがグローバル・プラットフォームというものではないか。
余談だが、広告ポリシーを読むと、グローバルの感覚(=アメリカ人の感覚)というのがよく分かる。たとえばタバコ、武器、サプリメントへの言及など。
広告以外のことは知らない。
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youkoseki · 7 years ago
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Facebookの個人回帰はなにを意味するか
Facebookのマーク・ザッカーバーグCEOは、毎年年初に新しいことに挑戦すると宣言し、その通り実行してきた。
毎日ネクタイを結ぶこと(2009)、中国語を学ぶこと(2010)、自分で殺した動物の肉だけを食べること(2011)、毎日プログラミングすること(2012)、Facebook従業員以外と毎日新しく知り合うこと(2013)、「ありがとう」の手紙を毎日書くこと(2014)、隔週で本を読むこと(2015)、家をスマートホーム化すること、365マイル走ること(2016)、アメリカの各州を訪れること(2017)……。いずれも本業とはほぼ無関係であった。
それが今年は「Facebookを直すこと」を目標に掲げた。具体的には、コミュニティをやいじめやヘイトスピーチから守ること、国家の介入を防ぐこと、Facebook上で費やす時間を「良い時間」にすることが例に挙げられている。
さらに宣言からちょうど一週間後、ザッカーバーグCEOはFacebookの核であるニュースフィードに手を加える方針を明らかにした。友人・家族・グループ(要するに個人)の投稿をこれまでより多く表示し、ビジネス、ブランド、メディア(要するに企業)の投稿を少なくするのだ。
いくつか前提を整理する。
まず、Facebookは人と人を繋ぐことを目的に生まれたプラットフォームであり、いつだってそれが最重要であった。
私の知る限り、ザッカーバーグCEOが、個人よりも企業からの投稿を重視すると言ったことは過去にない。ニュースフィードのアルゴリズムはこれまで何度もアップデートされたが、その目的はほぼいつも個人��重視し、企業を軽視することであった。そういう意味では、今回の発表もこれまでの方針の延長線上にある。
一方で、Facebookで流れるコンテンツのフォーマットはつねに変化してきた。かつてはテキストが中心であったが、画像が多くなり、短い動画が増え、いまは長尺の動画も多く流れるようになった。今後はVRに投資していくのだろう。画像や動画はテキスト以上にエンゲージメントを生み、ユーザの滞在時間を増やす。そのため、Facebookはアルゴリズムに手を加えながら、常にリッチなコンテンツを優遇してきた。
こうしたFacebookの変化に一早く対応してきたのは、個人ではなく、多くの企業であった。個人は自分の投稿が何人にリーチされてもあまり気にしないかもしれない。しかし企業は少しでも多くの人にリーチするため、専任の担当を雇い、コンテンツを磨きあげ、分析ツールを使い、シェアされるテキスト、ウケる画像、エンゲージメントを生む動画を必死になって模索し続けてきた。
要するに、Facebookは個人を重視したい反面、滞在時間が伸びるような「良い」コンテンツを生む企業とは二人三脚を歩んできた。リッチなコンテンツを投稿して多くのリーチを得る企業と、そうしたコンテンツを集めて(間に広告を挟みこんで)マネタイズするFacebookは、相互依存であった。
ザッカーバーグCEOのメッセージは、この相互関係に終わりを告げるものと捉えられる。
この発表により、Facebookの株価は一時5%下げた。注意しなければいけないが、ザッカーバーグCEOは収益源である広告を減らすとは言っていない。広告はニュースフィードのアルゴリズムとは無関係に挟みこまれるので、その前後が個人の投稿であろうが企業の投稿であろうが、変わらず配信され続けるだろう。つまり、広告売上に直接的な影響はないはずである。
しかし、企業からの広告以外の投稿を冷遇するとはっきり言われては、広告も含めたFacebookへの投資を控える企業は出てくるかもしれない(つまり広告出稿量が減る)。あるいは、個人の投稿を重視した結果、皮肉にもユーザの滞在時間などが減り、結果として広告の露出機会が減る可能性もある(つまり広告露出量が減る)。
反面、企業は失ったFacebookでのリーチを補完するため、広告にさらなる投資を行うという選択肢もある。この場合、Facebookの収益��はむしろ上がる。
前述の通り、Facebookは常に個人を重視するプラットフォームであった。しかし今、改めてこのような宣言をしたのはなぜだろうか。
一つ考えられるのは、企業からの投稿が増えるほど、人と人を繋ぐというFacebookのアイデンティティが薄れるという危機感だろう。トランプ旋風以降、フェイクニュースの蔓延についてずいぶんFacebookが槍玉に挙げられたことも、個人回帰の原因かもしれない(個人に回帰したところで正しい情報が伝搬するとは限らないが、少なくともプラットフォームとしての責任は薄れる)。
企業からの投稿が増えて洗練されていくのと同じように、個人からの投稿が増えているのであれば問題ない。しかし過去、多くのプラットフォームでは、投稿されるコンテンツの質がだんだん良くなる一方で、投稿するハードルがだんだん上がり、投稿する人はだんだん少なくなるというのが定番のコースであった。
たとえばブログは、もともとなんでもない人のものであったが、いつの間にかセミプロ〜プロの発信ツールとなった。YouTubeはあ��てプロであるYouTuberを重視する方向へ舵を切った。Facebookも制作費をかけた動画コンテンツを集めるなど、その道を歩んでいたと言える。大雑把に言えば、FacebookはYouTube化し、YouTubeはテレビ化する道を歩んでいた。
しかし、Facebookは個人に立脚するプラットフォームというアイデンティティに立ち返ることにした。
言うまでもなく、これは難しいミッションである。Facebookの個人回帰は、Facebookに投稿する個人がいて初めて成り立つからだ。しかし、どのようなプラットフォームにも旬がある。これまでの多くのプラットフォームが、一時的に多くのコンテンツを集め、それから誰も投稿しなくなり消えていった。
Facebookはいまも成長を続けているが、旬のプラットフォームという座は傘下のInstagramなどに奪われて久しい。実際、Snapchatからインスパイヤされた「24時間で消える」Storiesは、Instagramでは大成功を収めたのに、Facebookでは話題にも上らない。
「若者のFacebook離れ」というフレーズはもう何年も言われて聞き飽きた感もある。しかしローンチから14年近く経ち、これからまたFacebookへ積極的に投稿する人達が増えるのだろうか、というのは大きな問題である。また、仮に個人からの投稿が理想的に増えたとして、それが企業からの投稿のようなエンゲージメントを生むのだろうか、というのもまた別の大きな問題である。
要するにザッカーバーグCEOによる個人回帰への挑戦は、栄枯盛衰の激しいネット業界において、FacebookはFacebookであり続けられるかという挑戦である。しかし、Facebook社が、今もFacebookの、ニュースフィード上の広告からほとんどの収益を生んでいる以上、乗り越えなければいけない挑戦でもある。十年後もみんなFacebookを使っているのか……その答えを一番気にしているのは、結局のところザッカーバーグCEOなのだ。
(おことわり:過去の所属や現在の所属とは無関係に中立的な立場で書いたつもりだが、筆者はFacebookで働いていたのでFacebook株を持っている)
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youkoseki · 7 years ago
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2017年のメモ
一昨年、去年と書いている。自分用のメモである。 今年も家族ともども健康で良かった。子供と生活する何気ない毎日が一番である。
子供を怒らないようにしたいが、瑣末なことで怒ってしまうのが悩みだ。
仕事はしんどかった。もっと色々できるのにという思いと、思い通りに進まないもどかしさがあった。とはいえ、すべて自分の思い通り仕事をするには起業するしかないわけで、というか起業しても自分の思い通りにはならないわけで、そういう折り合いをどうつけていくのか、今更ながらに悩んでしまう。
でもまあ、折り合いとかつけたくないしな。いつも思い通りにやってきたわけで。
休みの日はわりと充実していた。キャンプ熱、カーシェア熱は続いている。車が欲しいと人生で初めて思う���うになった。準備を万端にしすぎると、ただの旅行になってしまうのがキャンプの難しいところだ。
また少し太った。ジム通いは続けており、筋肉もついたし、ランニングマシンで走るようになり、2kmで死んでいたのが5kmまで走られるようになったのだが、それはそれとして太った。そろそろなんとかしたい。
食べたいものを食べるのが幸せだ。不味いものは食べたくない。不味そうな店での飲み会には行きたくない。一人であちこちランチを開拓している。友人と美味しいものを食べるだけの会を開催して、食べ終わったら帰るというのをやったら、たいへん快適だった。
家でも少しづつワインを飲むようになり、好きなワイン、嫌いなワインの種類が分かってきた。いいワイン屋を近くで見つけたのが良かった。
飲むと眠りが浅くなる。これまであんまり考えたことなかったが。
時間を見つけてはなんとか映画館に行こうと思っている。大作はIMAXで見る習慣がついてきた。家で映画を見る機会は減ったまま。Mad Men, Sillicon Valley, Game of Thrones, Big Ban Theoryあたりを交互に見ている。
レッズのミシャ体制が終わって、正直ちょっとほっとした。堀監督には生え抜きを育てて欲しい、と思ったそばから矢島が移籍……。反面、ドラゴンズは成績が伴わなかったが、若手が出てきて応援のしがいがあった。NBAをまたすこし見始めた。
Google Homeが面白かった。連携するRaspberry Piのおかげだが。3Dプリンタを買った。インターネットで面白いことが気軽にできなくなり、その逃避先として電子工作がある。
今年前半をかけて、デカメロンを読んだ。なかなか良かった。進撃の巨人、HUNTERxHUNTERを読んだが、どちらも面白かった。恥辱は久々に「これどうなっちゃうの」と思いながら最後まで読んだ。ノーベル文学賞、すごい。日常も良くて、噛み締めるように読んだ。
「1995年はすごかった」「メルペイとカリペイ」「深圳すごい」など、いくつかショートショートがウケて良かった。
ドラムを学びたいと思っているが、ギターの練習がそもそも続いていない。
ゲームはあまりやらなかった。ゼルダは物語がまたもひどかった。Splatoonをコツコツやる気力もなかった。Cupheadは素晴らしいが難しい。Cities: SkylineやPlanet Coasterは最高だが時間がない。けっきょく、マリオをやって妻や子供が横で見て楽しむ、というのが一番しっくり来ている。
Axiom VergeとEnvironmental Station Alphaは��トロイド新作を出さない任天堂以上に任天堂感があって最高だった。
Tyler, the Creatorのアルバムが素晴らしい。自分の好きな音楽をやってるなーという感じがする。Thundercatが新作でKenny LogginsとMichael McDonaldを招いたエピソードも最高だった。
料理は少しづつやっている。圧力鍋を使うようになった。
家のブレーカーが良く落ちるのでアンペアを増やした。今年最高の買物だったのではないか。
今年のテーマは節制だった。70点くらいだろうか。我慢ではあった。
来年のテーマは楽しむこと。嫌なことをやらず、嫌いな人と一緒に時間を過ごさないこと。
ベスト映画:"ブレードランナー 2049"
ベスト本:"ユニクロ潜入一年"
ベストいまさら読んだ本:"恥辱"、"ファウンデーション”
ベストマンガ:"月曜日の友達"
ベストいまさら読んだマンガ:"日常"
ベストアルバム:Tyler, the Creator “Scum Fuck Flower Boy”
youtube
ベストソング:Dirty Projectors "Up In Hudson"
youtube
そのほか今年よく聴いたアルバム:
Thundercat "Drunk"
youtube
Joey Bada$$ "ALL-AMERIKKKAN BADA$$"
Kendrick Lamar "DAMN."
Dirty Projectors "Dirty Projectors"
SZA "Ctrl"
Kehlani "SweetSexySavage"
Logic "Everybody"
Lorde "Melodrama"
Vince Staples "Big Fish Theory"
Jhene Aiko "Trip"
PJ Morton “Gumbo”
ベストゲーム:"スーパーマリオ オデッセイ"
ベストいまさらクリアしたゲーム:"Axiom Verge"、"Environmental Station Alpha"
ベストガジェット:Google Home Mini
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youkoseki · 7 years ago
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セルカンアワードについての覚え書き
セルカンアワードが提唱されたのは2012年、yomoyomoさんのツイートである。そのあと、yomoyomoさんご自身のブログでも言及されている。
その年ばれた最大の業績捏造を選び戒めとするセルカンアワード(仮名)を作るのはどうか
— yomoyomo (@yomoyomo)
October 12, 2012
私はかねてより経歴詐称というものに興味があって、このセルカンアワードもすごく面白いなと感じていた。
私はもともとライフログ研究者で、最近こそ道を外れてしまったが、データ分析みたいな仕事をしてきた。学歴や職歴はおろか、毎日の一挙手一投足まで逐一記録されるのが今の世の中であろう。
そんな時代に、嘘というか虚構によって、自分の人生を作り替えていくというのは、まわりの人には迷惑だろうけど、率直に言うと、なんだかうっとりするものがある。だって、私が突然、プリンストン大学の客員教授だったとか言い出したらおかしいでしょう。でも、そういうことが現実にある。
私自身でさえ、周囲で全然仕事をしない人が「あれは俺がやった」みたいなことをビジネス誌で語っちゃう様子を実際に目撃したことがある。これはリアルなマジックリアリティである。
残念ながらセルカンアワードは実際の催しにはなっていないが、不思議なことに、その年の受賞者と決めても差し支えないような人は、ほぼ毎年のように現れる。こういう時事ネタは書いておかないとすぐに忘れるので、思いつく限りまとめておく。
個人的に受賞に重要と思う条件は、個人であること、なんらかの権威を借りた存在であったこと、マスメディアを十分に騙していること。あと、本人が問題���部分的にでも認めていることを重視したい。つまり、係争中の案件には関わらない(関わりたくない)、ということ。あとはまあ、海外の論文不正など挙げるとキリがないので、日本を対象に制限しても良いのではないか。
ともあれ、以下がとりあえずのリストである。
2010年:アニリール・セルカン氏の東大博士号が剥奪。セルカンアワード元年と言える。
2011年:思い浮かばない。京大の入試不正とか?
2012年:森口尚史氏のIPS細胞騒動が一番か。次点が加藤嘉一氏の経歴詐称、金正勲氏の経歴詐称。
2013年:思い浮かばない。
2014年:小保方晴子氏の論文不正であろう。次点が佐村河内守氏のゴーストライター問題か。
2015年:佐野研二郎氏の盗作問題を該当させるか悩ましい。
2016年:ショーンK氏の経歴詐称であろう。
他の候補者があれば教えてください。今年の話はまだ差し控えておきます。
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youkoseki · 7 years ago
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2017年、ビジネスパーソンはポコニャンを読む
みなさんの家と同じように我が家にも本棚に藤子F全集が並んでいる。子供は初めて読むドラえもんに夢中で、私はエスパー魔美やチンプイ、バケルくんやSF短編の面白さを何度も噛みしめている。
しかし、仕事に疲れた夜、ふと手に取るのはポコニャンだ。ポコニャンは楽しい。ポコニャンは癒しである。
ポコニャンの異質さは、ドラえもんと比較すると分かりやすい。
ドラえもんでは、多くのエピソードでまずなにか問題が起きる(起)。そこで、ひみつ道具が登場する(承)。しかし、せっかくの道具は、のび太が悪用しはじめたり、ジャイアンに奪われたりする(転)。ところが、その栄華は長続きせずに終わる(結)。短いページ数に押し込まれた物語の流れはあまりに滑らかで、愉快で、それでいて教訓が散りばめられている。
ポコニャンにはそのような難しい流れはない。まず、なにか問題が起きる。そこで、ポコニャンがポコニャンと言う。そして解決する。終わり。素晴らしい毎日だ。
我々はポコニャンが何者であるのかも分からない。どのような能力をどういう理由で持っているのか分からない。どこから来たのかも分からない(拾ったらしい)。でもポコニャンはかわいい。ポコニャンは猫型ロボットのように怒らない。オバケのようにおせっかいでもない。苦手なものも、面倒なところもない。最高じゃないか。
A post shared by yu koseki (@youkoseki) on Oct 27, 2012 at 5:44am PDT
ポコニャンは、もともと「ようじえほん」で連載され、そのあと「希望の友」に移った。藤子Fの多くの作品の中でも低年齢向け作品と言える。それでいて、いつもの藤子Fの構成のうまさ、絵の緻密さは変わらない。「大人が読んでも面白い」というのはよくある表現だが、ポコニャンの愛らしさ、楽しさは、むしろ疲れたビジネスパーソンにこそ最適なのだ。
今年も色々なことが起きて、みんながあれやこれやの理屈をこねている。答えは出ない。でも私の本棚には、いつだってポコニャンがある。私はそれを手に取る。いつかポコニャンのように、問題を一言で解決することを夢見ながら。
この記事は「2017 Advent Calendar 2017」の3日目の記事として書かれた。昨日はshikakunさん、明日はailispawさんである。
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youkoseki · 7 years ago
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インターネットはすでに死んでいる*
(*個人の感想であり、体感には個人差があります)
なにかにつけ大きな主語を使ったり、隙あらば「○○は死んだ」と言ったりするのはインターネッターの悪い癖だが、ここで私は大きな主語を使いながらネットワーク中立性について書く。
ネットワーク中立性とは「ユーザー、コンテンツ、サイト、プラットフォーム、アプリケーション、接続している装置、通信モードによって差別あるいは区別することなく、インターネットサービスプロバイダ(インターネット接続業者)や各国政府が、インターネット上の全てのデータを平等に扱うべきだとする考え方である」(Wikipedia)である。
重要なのは、これがインターネットサービスプロバイダ(ISP)への規制であるということだ。ISPは、その回線上で流れるデータを差別してはいけない、ということである。
この原則はとても重要であった。もしインターネットにこの原則がなければ、ISPは自社と競合するようなサービスを排除していたかもしれない。たとえば、ISPの多くが電話会社であったことを考えれば、Skypeのような無料通話サービスはインターネット中立性がなければ存在できなかったかもしれない。同様にISPにコストを強いるようなデータ量の多いサービス、たとえばYouTubeやNetflixなども、早々に排除されていたかもしれない。
しかし、このネットワーク中立性は米連邦通信委員会(FCC)の新委員長アジット・パイ氏ら��よって、廃止されようとしている。細かい話は置くが、ISPはもちろんこの変化を歓迎している。一方、それ以外のインターネット関連企業、Google、Facebook、Amazon、Apple、Netflixなどは反対している。
いまネットワーク中立性が廃止されたらどうなるのか。FCCが廃止を決めても、すぐにその決定を巡って裁判が始まり、それが長く続くという見方もある。また、ISPにも顧客がいるわけで、あらかさまな自社関連サービスの優遇、競合サービスの冷遇は、行われないだろうという見方もある。ひどいISPがいたら、他社に乗り換えればいいじゃないか、と。
実際、ネットワーク中立性がなくなったとしても、ISPがYouTubeへの接続を遮断したり、Netflixへの通信料は倍になるというような施策は行われないだろう。それは目立ちすぎるし、愚策すぎる。しかし、基本料金を値上げしながら、自社が提供する動画サービスへの通信だけは無料・高速化する、というような「シナジーを生かした優れたビジネス判断」は十分に考えられる。
その来たるべき時に備えるかのように、ISPのベライゾンはAOLやヤフーの買収を経て、コンテンツサービスへの注力を進めている。コムキャストの傘下にはNBCユニバーサルがある。AT&Tはタイムワーナーと合併しようとしている。ネットワーク中立性がどうあろうと、ISPを含めた回線のビジネスと、その上で流れるコンテンツのビジネスは、メディアコングロマリットの中ですでに一体化しつつある。
だからこそ、中立性の原則が今までになく重要だと言えるかもしれない。しかし繰り返すが、重要なのは、これがISPへの規制であるということだ。ISP以外にはこうした原則がない。
そのため、ISPは回線上で流れるデータを差別してはいけないが、Appleは自社と競合するアプリをアプリストアから排除できる。Facebookは競合するサービスへのリンクを排除できる(私はこれでFacebookを辞めようと思った)。Amazonは競合する商品をコマースサイトから排除できる。Googleは競合する商品への自社サービス提供を引き上げられる(ちなみにこれは先日復活した)。
そう考えると、ネットワーク中立性が本来示すはずであった、自由で公平なインターネットというのは、すでに死んでいる。
確かにネットワーク中立性のおかげで、インターネットベンチャー企業はこれまでISPから差別されることなく、ウェブサービスを提供することができた。ただし今はそのかわりに、AppleやFacebookやGoogleの機嫌を損わないことが求められる。そうしたメガテック企業の台頭を横目で見ていたISPが、自分たちだけ束縛されているのはおかしいと感じても無理はない。
そうして何よりの問題は、こうした問題を���はや問題と感じなくなっていることだ。自社の顧客を囲いこみ、競合を排除するのは、ビジネスにおいてはごく当たり前のことである。上記のようなメガテック企業の事例も、彼らに対する規制がなかったから起きた、当然の帰結と言える。自由で公平なインターネットは、どこかの大企業がスイッチを押して破壊したわけでも、FCCが葬り去ろうとしたわけでもなく、これまでの長い時間をかけてゆっくりと死んでいたのである。
そう考えると、インターネットはただごくあたりまえのビジネスの場になったのであり、ネットワーク中立性の終わりは、今さらながらその象徴でしかないのだろう。
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youkoseki · 7 years ago
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Google Homeのおもしろさと、インターネット検索の限界
Google Home Miniを買ってしばらく遊んでいる。6480円で買えるおもちゃとしては最良のものである。
たとえば、子供に英語を教えるとき「○○を英語で?」とGoogle Homeに聞くと答えてくれるのが素晴らしい。子供自身も使える。
天気予報も教えてくれる。タイマー機能もある。ニュースも聴ける。ラジオも流せる。IFTTTとIRKitを組み合わせればだいたいの家電は操作できるし、さらにRaspberry PiとFirebaseを使えばゲーミングPCをWakeOnLanで復帰させてテレビの入力を切り替えるくらいまで出来る。魔法のようである。
これに比べると、子供に請われて買った「うまれて!ウーモ ワォ」は、9000円以上したのに、わおわお言って踊るくらいしか出来ない。ただ「うまれて!ウーモ ワォ」は双子なので、この比較は適切ではないかもしれない。
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改めて驚かされるのは、音声認識の正確さだ。正しく認識してくれなかった時は、こちらの発音が悪かったのかなと反省するくらいに良く出来ている。
音声認識を含め、機能のコアはすでにAndroidスマートフォンで、あるいはiPhoneのGoogleアプリで実現していたものばかりだが、こうしてアシスタントだけが独立し、誰でも、子供でも、操作できるようになったというところに価値がある。残念ながらその価値を発見したのはGoogle自身ではなく、スマートフォンの失敗から挽回を目指すアマゾンであったが。
一方、Google Homeに対してなんとなく失望の声があるのも確かである。
もし翻訳と天気予報とタイマーとニュース機能を備え、素晴らしい音声認識を誇るスピーカーを、名前も知らないベンチャーが発売��ていたら、みんな絶賛していただろう。
しかし、このスマートスピーカーを作ったのはGoogleだ。インターネットで、あるいは世の中で、一番全知全能に近い存在である。世の中のことも、私のことも、もっと知っていてもいいはずではないか。
現時点でGoogle Homeが出来ることと言えばあらかじめ決められたタスクばかりだ。Alpha Goやディープラーニング的なあれこれに驚かされっぱなしの私達には、Google Homeから大した知性を感じられない。
一つには、Googleは遠慮しているのかもしれない。家族に聞かれるかもしれない環境で「昨日は二次会のあともお楽しみでしたね! 今日こそ早寝しましょうね!」とか言わせるわけにはいかない。
あるいは、まだGoogle Homeは発展途上で、これからどんどん賢くなっていくのかもしれない。
Google Homeが「本日は快晴です」と言い放ったので、「幸福は市民の義務です」と言う日も近い。
— yu koseki (@youkoseki)
November 8, 2017
(雨が降ってました)
そしてもしかすると、Googleはもうそれほど賢くないのかもしれない。
近年、Google検索の品質が批判されることが増えてきた。昔は奇特なインターネットユーザが雑多な情報を無料でどんどん公開し���いたが、今日では多くの情報がLINEやFacebookのようなクローズドな環境や、Twitterのような分断化された状態で発信されている。
Google Homeが社会や政治に関する質問にもなんらか答えてみることは可能だろうが、そうすると【悲報】みたいなことを言い出す可能性も大いにある。慎重に考えれば、Googleの知性はせいぜいWikipedia的なものに留めざるをえない。
そもそもGoogle HomeとAmazon Echoがスマートスピーカーの座を争っている、むしろ米国ではAmazonが先行しているということは、Googleだけが持つ膨大なインターネットの検索情報に基いた知性が、なんらアドバンテージになっていないということだ。
これからもインターネット検索は知性から遠のいていくのだろう。そのかわり、スマートスピーカーは多様なセンサーを備え、スマートフォンと連携し、個人の行動情報などに基いた知性を見出していくだろう。私の生活は私の生活で、そこにはGoogleを悩ませるようなスパムはないからだ。だからスマートスピーカーは、車の自動化や、ペイメントなどとあわせて、これからも重要な分野になるに違いない。
そして将来、ただ楽しいおもちゃだったGoogle Homeを懐しく思う日が来るのではないか。
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youkoseki · 7 years ago
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炎上するTwitterの性善説、混迷するFacebookの性悪説
「ネット炎上、参加者わずか2.8% それなのに拡散するのはなぜ?」という記事を読んで、私が最初に思ったのは「炎上に参加するのが2.8%ってめっちゃ多くない?!」であった。
数字の出所は、文化庁による「平成28年度版 国語に関する世論調査」(PDF)である。
詳しく見てみると『「炎上」を目撃した際に書き込みや拡散をするか』という質問に対して、「大体すると思う」(すげえな)か「たまにすると思う」と答えた人の割合が合計で2.8%ということであった。
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これはネット調査ではないので、そもそも母集団にはインターネットを使わない、書き込まないという人もいる。その中での2.8%である。実際、20代に限れば、この割合は10.7%にまで上がる。
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具体的に考えてみる。Twitterユーザーがいて、フォロワーが200人いたとする。このうち半分が実際にツイートを読んでいるフォロワーである。炎上について書き込むと、100人が読む。そして2.8%=約3人が「書き込みや拡散をする」。そしてまたその先のフォロワーへと届いていく。
もちろん、これは単純化しすぎたモデルである。しかし何百、何千、何万というフォロワーを抱えた人はもはや珍しくない今日、「2.8%の拡散力」は、とてもおそろしいと言える。まして「10.7%」の破壊力たるや。
もし炎上の拡散は控えるべきと考えるなら、この問題はどう防げばいいのだろう。ローレンス・レッシグなら、法、規範、市場、アーキテクチャに分解せよと答えるだろう。無根拠な炎上に加担すると罰せられる(法)とか、炎上に悪乗りすべきではないと教育する(規範)とかは十分に考えられる選択肢だ。反面、拡散にはコストがかかるというのは(市場)、ちょっと非現実的かもしれない。
そして改めて気付くのは、Twitterの性善説に基いた、素朴なアーキテクチャのことだ。あなたにはフォロワーがいる。あなたが書き込むと、あるいはリツイートすると、それはあなたのフォロワーに届けられる。実に分かりやすい。
対極にあるのがFacebookだ。あなたには友達がいる。あなたが書き込んでも、あるいはシェアをしても、友達に届くかどうかの保証はない。中身が良ければ届くかもしれない。エンゲージメントされるなら届くかもしれない。他に良い投稿がなければ渋々届けてくれるかもしれない。それはFacebookが判断する。Facebookは、もはやシェアの多い投稿が良いとは信じていない。アカウント間の平等も信じていない。それは端的に言えば性悪説である。
Facebookは、特にトランプ大統領誕生前後のカオスにおいて批判を集めながら、なんとかそのアーキテクチャを調整しようと試みている。極端なプロパガンダはリーチを得られない。フェイクニュースはシェアしても広がらない。そういう調整である。Googleも検索エンジンというブラックボックスを批判されながら、調整を重ねている。そして今のところ、そうした調整は大勢を納得させられていない。
ひるがえってTwitterの素朴なアーキテクチャは、調整のしようがない。フォロワーの多いほうが確実に有利で、拡散したいものが拡散されるのである。言わば、Twitterで広がる昨今の炎上は「エンゲージメントされたものが良い」という性善説の裏返しである。
性善説に基いたTwitterは、いまや最高に炎上を盛り上げるツールとして成り下がっている。しかし性悪説に基いたFacebookやGoogleは、善と悪の判断をするアーキテクチャの調整という、とてつもない責務に立ち向かわされている。我々が平穏な日々を過ごすために、ブラックボックスは必要なのか、そしてそれは誰が管理するのか。
そう考えると、そもそもシェアの存在しないInstagramは「だってシェアなんてロクなことが起きないでしょ?」と言っているかのようだ。
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youkoseki · 7 years ago
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なぜ大企業の広告が炎上するのか
自分なりにまとめようと思ったら一ヶ月かかった。
増えるキャンペーン
広告予算のデジタルシフトはもう何年も叫ばれているけれども、テレビや新聞、雑誌といった従来メディアの広告も健在である。またデジタルと一口に言っても、バナーも検索もネットワークもあるし、LINEもFacebookもYouTubeもあるし、継続しているオウンドメディアも期間限定の特設サイトもタイアップもある。どれも一長一短で、しかもクリエイティブは場にあわせて用意する必要がある。
つまり、とにかくキャンペーンが多くなる。大企業のように予算があれば特にそうだ。しかし予算は無限でないので、個々のキャンペーン予算は自然と小粒になりがちである。それぞれのキャンペーンにかけるエネルギーが小さくなり、チェック体制が甘くなるのも仕方ない。担当のブランドマネージャーでさえ、どの面にどういう広告が流れているのは把握できないのが現実だ。
こうしてウェブ限定の小規模キャンペーンが炎上する。問題のない広告でさえ不適切なメディアに露出して炎上する。インターンに任せたTwitterアカウントが炎上する。
統一感のないメッセージ
キャンペーンが多いということは、その場その場、その時その時で伝えることが変わっていくということでもある。TPOに合わせるといえば聞こえはいいが、ブランドメッセージに統一性・継続性がなくなる落とし穴もある。
デジタルでは特に、毎年のように新しいプラットフォームや、新しいマーケティング手法がもてはやされる。今のトレンドはなにかと追いかけた結果、ブランド自身の価値を伝えることがおろそかになってしまう。ブランドは意図的にメッセージを変えたいのに、ファンはそれを望んでいないということも起こりえる。
こうして新規メディアでの野心的な広告が炎上する。イメージを一新した広告が、従来のファンによって炎上する。
想定外の読者
テレビや新聞がマスメディアと呼ばれる一方、それ以上にリーチ・拡散する可能性のあるデジタルメディアが今もニッチのように捉えられている。広告キャンペーンごとにオーディエンスを想定して、そのセグメントにあわせたメディアや表現手法を選ぶというのは、当たり前のマーケティング作法だが、インターネットではシェア経由で想定外のオーディエンスにも広がっていく。
たとえば雑誌の時代には、主婦向けの雑誌には主婦向けの広告メッセージを、キャリアウーマン向けの雑誌には別の広告メッセージを載せれば良かった。中身を入れ替えたら炎上したかもしれないが、中身を比較するような読者はいなかった。
今や想定外のオーディエンスに届くまで、たったワンクリックの距離しかない。デジタルのキャンペーンはもちろん、新聞や雑誌のキャンペーンでさえデジタルで拡散されるので、セグメントを意識しつつも、セグメントの外でどう捉えられるかも意識しなくてはいけなくなった。
こうして働く女性を応援するキャンペーンが、働かない女性によって炎上する。反対に主婦向けのキャンペーンが、キャリアウーマンによって炎上する。分かる人に分かればいいというキャンペーンが、分からない人によって炎上する。
話題性作りというゴール
テレビCMではGRPという不完全ながら統一された指標があった。そしてそれは、広告を買ったら原則として自動的に達成される指標であった。
デジタルではインプレッション、クリック、リーチ、シェア、エンゲージメント、コンバージョン、カート前ページの送客やらなんやら、定量的なものでさえ指標が乱立している。エンゲージメントのようにそもそも定義のあやふやな指標もある一方、インプレッションのような基本の基本の指標にさえビューアビリティやアドフラウドなど疑いの目が向けられている。出た感、バズった感、はてブ人気入り、Twitterトレンド入りのような、定量的とは言いがたい評価もある。
指標はたくさんある一方、繰り返しになるがデジタルでのキャンペーンは小規模になりがちである。もちろん予算は小さくても、うまく拡散されればホームランになることはあるだろう。しかし最初から話題性を目指してホームラン狙いをすると、きわどい作りになって、炎上まがいになってしまうことがある。そして時には、望みどおり、実際に炎上する。
こうして悪ノリのキャンペーンが炎上する。ある意味では本望とさえ言える。
謝罪
はっきりいえば、炎上する広告表現なんてかわいいものである。インターネットはもっと明確な偏見やヘイトスピーチで溢れている。もちろん、そうしたものも炎上はするが、問題発言も繰り返されれば、みんな慣れてしまう。
広告の炎上には目当たらしさがある。特に大手企業が炎上した場合は「あの企業がなぜ?」という驚きと共に燃え広がる。ネットメディアはもはやヘイトスピーチの多い有名人をわざわざ取り上げたりしないが、広告のきわどい表現は今もってニュースとして十分な価値がある。「この表現を不快に思っている人がいるのでは?」という指摘が「この表現は不快です」��「この表現は規制されるべきだ」へと、あっという間に移り変わっていく。
炎上すると、多くの企業は批判に耐えきれず広告を取り下げる。結果的に、ネットユーザーやネットメディアにとっては、小さな批判を炎上へと盛り上げ、広告取り下げに追い込むことがゴールとなってしまう。そして炎上の前では、支持してくれる人もいた、という事実は対した意味を持たない。
炎上は防げる……かもしれないけど
以上を踏まえてどう炎上を防ぐかと言えば、キャンペーンの数を絞り、キャンペーン間でメッセージを統一して、想定するオーディエンスはもちろん、想定外の人が見ても違和感のない広告を作る必要がある。
拡散のための拡散に陥るのではなく、どういう人に届けるかを考え、必要なだけの予算を投下する。それでももし炎上してしまったなら、批判を受けてただ取り下げるのではなく、なんのための広告だったかを意図を説明した上で取り下げなければならない。おわり。
しかし、これってちょっと優等生すぎる意見じゃないですか。それができるなら苦労しないし、それでいて面白い広告って作れるんでしたっけ、と。
けっきょくのところ、これは覚悟の話だと私は思う。炎上した時に、黙って取り下げるような覚悟なら負けなのだ。炎上したとしても、そう来ると思ってたよと言い返して欲しいし、せめて、そこまでは想定していなかったと正直に語って欲しい。炎上した広告の制作者は隠れるのではなくて、自ら名乗り出て、私がこういう意図で作りました、と言って欲しい。広告を作って、大勢の人に見てもらうというのは、そういうことではないだろうか。
言い換えれば、炎上して広告主が型通りに謝罪するという最近のパターンは、広告業界(代理店、制作会社、クリエイター)の存在感が低下していることの裏返しなのだろう。
今後も広告の炎上は起こるだろう。「長期的には我々はみな死んでいる」といったのはケインズだが、長期的には大企業はみな炎上しているかもしれない。しかし広告は続く。これから考えるべきは、炎上しない広告ではなく、炎上に耐えられる広告なのかもしれない。
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youkoseki · 7 years ago
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アルティメットステマと戦え
ステマという言葉が生まれてまだ数年だが、どうやらそれはあまりに便利な言葉だったようで、今やどんどん用途を拡大している。あれはステマでは、これもステマでは、というような批判は後を絶たず、業界はそのたびに釈明に追われている。
ステルスマーケティングには「消費者に宣伝と気づかれないように宣伝行為をすること」(Wikipedia)や「マーケティングの手法のうち、それが宣伝であると消費者に悟られないように宣伝を行うこと」(weblio)といった定義があって、これは大方の納得するところだろう。しかし「気付かされないように」「悟られないように」というのはわりと主観的判断であり、なにがステマでなにがステマでないか線引きをするのは���外難しい。
よくあるのは「広告には広告と明記しろ」という意見である。なるほど、そうすれば広告と気付くだろうし、余計なギガが減ることもない。しかし現実には、テレビ広告、雑誌広告、新聞広告、屋外広告、インターネットのバナー広告などを見渡しても、広告に広告と明記してあるのは少数である。
そもそも、ほんの少し前まで広告は異物であった。テレビ番組が広告に切り替われば誰もが気付いたし、ウェブページを開けばどこがコンテンツでどこが広告であるかはっきりと見分けがついた。
しかし近年、広告の枠を従来のコンテンツの枠と同等に扱おうという動きが、インターネットの検索ページで、商品紹介ページで、ニュースフィードやタイムラインで、どんどん進んでいる。いわゆるネイティブ広告(枠)である。ネイティブ広告(枠)では見た目が広告と広告以外で区別がつかないから、ここでは広告と明記しましょう、ということになった。とてもロジカルな話である。
問題は、そうやってネイティブ広告の問題を解決してみたら、広告・メディア業界には広告とそれ以外の線引きに曖昧な部分が他にも案外あったということだ。食べログやヤフーショッピングで問題になったように、ランキングを広告費で左右すると、ユーザは気付かないのだろうか? 記事の一覧に「おすすめ」という形で広告を紹介するのは明示的だろうか? 制作協力と書いたら、それは広告だと認識できるだろうか? ライターがイベントに招待されたり機材を貸与されたりするのもステマなのか?
話はデジタルに留まらない。雑誌だと見開きで右側に広告が、左側に同じ商品の記事が紹介されることがある。これはバーターなのだろうか? バーター記事はステマと違うのか? テレビの番組中にスポンサーの商品がさりげなく出てくるのはステマか? ドラマのCM中にドラマの出演者がよく出てくるのはなぜ? 野球の中継に別の番組のゲストが参加するのは?
そもそも広告と気付くか気付かないかなんて、習慣的なものだ。スマートフォン画面の下にぴょこぴょこと出てくるうざいバナーが広告だと知っているのは、広告だと知っているからにすぎない。であれば、「ネットでいうおすすめランキングってのは広告のことですよ」ということが世の中で周知されれば、それはステマでなくなるかもしれない。反対にHuluばかり見ているような私の子供は、テレビCMに触れてもスポンサーのことを理解できず、ひとつのコンテンツなのだと受け止めてしまうかもしれない。
広告とそれ以外をどこまでも線引きしようとすると、これまで業界では当たり前に進めてきたことが、なんだかグレーゾーンに見えてくる。実際、ステマ騒動になるたび「こんなのどこでもあることじゃん」というような反論をする人は少なくない。しかし嫌儲とも言われる一部のインターネット世論は、おそらく今後こうしたグレーゾーンをどんどん暴いていくだろう。
別にそれもいいじゃん、面白そうじゃん、ぜんぶ燃えていくのも乙じゃん、と私の中の一部は思う。私自身は広告業界に迷いこんでから、広告と書かれた広告しか売ってない人間なので、対岸の火事だ。これから何年もたくさんの議論が生まれて、大量の��ネルギーが投下されて、後には死屍累々。広告業界の中で、どういうお金の流れがあって、どういう力関係で、どうやって広告とコンテンツが生まれているのか、どんどん明らかになっていく様子を、世の中の人は野次馬的に求めているのかもしれない。
でもステマ問題ってそもそもそういう話だっけ? グレーゾーンの話をするまえに、インフルエンサーやらクラウドソーシングやら芸能人やらを舞台に、今もあちこちのメディアで展開されている正真正銘の真っ黒なステマをなんとかすべきではないのか。本物のステマが野放しになっている状態のまま、その周辺をステマだとかステマじゃないとか言い争っても仕方がない。せめて業界の中の人くらいは、ハードコアなステマのことをちゃんと定義しなおして、あれだけははっきり滅ぼしましょうと一致団結すべきではないのかしら。
ハードコアステマと呼ぶのがいいのか、アルティメットステマがいいのか、ちょっと分からないですけど。
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youkoseki · 8 years ago
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嫌われるウェブ2.0
クックパッドがハチミツを利用した離乳食レシピや、豚ユッケを掲載していた件で、批判を集めている。CGM(Consumer Generated Media)やウェブ2.0なんて言葉が死語に近付きつつある中、こうしたCGMサービス、Web 2.0企業に対する逆風が今になって強まっているのは偶然だろうか。
一番の例は、Naverまとめだろう。Naverまとめは誰でも投稿できるCGMプラットフォームだが、他者の著作物を転載、再利用したコンテンツが散見されながら、プラットフォーム側はその対応を十分に行っていないと言われている。無断転載はブログ時代にもあったことで、CGMと無法者の関係は今にはじまったことではない。しかし、これまでその矛先はブログ著者など個人に向かうことが多かった。今や批判は「まとめ主」など投稿者よりも、プラットフォーム側へ移りつつあるようだ。
似たような例として、海外でのYouTube騒動も挙げられる。こちらの問題は、一部の政治的なコンテンツ、いわゆるヘイト動画に、広告が掲載されてしまうことだ。広告収益が投稿者にも還元されるため、ヘイトを配信することにインセンティブが発生してしまうし、広告主としてはヘイト動画を支援しているように見られてしまう。そもそもはそんな動画を投稿するのがいけない、という意見もあるだろうが、そうした批判はもはや今更ということなのか、矛先はプラットフォームであるYouTubeへと向かっている。
なぜプラットフォームにこのような批判が集まるのだろうか。矛盾するかもしれないが、一つにはプラットフォームが強くなりすぎたのだろう。ひどい投稿への文句は投稿主へ、その収益は原則プラットフォームへ、という米国のDMCA、日本のプロパイダ制限責任法のありかたは、プラットフォーム企業が大きな収益を上げる今となっては、あまりに���業へ有利に見えてしまう。あの企業はパクリコンテンツ、ヘイトコンテンツで儲けている! という声は極端ではあるが、完全に間違っているわけでもない。
しかし、それ以上に感じるのは、CGMもそれなりの歴史を経て、多くのネットユーザが「自分たちのプラットフォーム」と捉えづらくなっているのでは、ということだ。ブロガーも、まとめ主も、クックパッドの投稿者も、自分以外の「他人」で、そうした他人の、少なくとも一部が質の低いコンテンツを作り、検索結果を占拠し、中にはお金まで貰っておいて、まわりに迷惑をかけている……それが平均的なネットユーザにとってのCGMの現在なのではないか。
有名ブロガー、YouTuber、インフルエンサーなど、CGMを駆使するセミプロフェッショナル層が一般化したため、本当の一般層と乖離し、一般にCGMはもはや投稿する場所ではなく、ただ見る場所と捉えられるようになったのも、背景にあるのかもしれない。
ウェブ2.0が生まれ、CGMが持ち上げられていたときは、もっと明るい未来が約束されていたはずだった。これまでマスメディアだけが保有していた情報発信の力が一般人に開放され、ネットユーザに声が与えられることで多様な知識がオンラインに集まり、そこから集合知が生まれる……そう喧伝されていたものだ。
それなのに、結局のところ平均的なネットユーザは、Twitterで呟く以上の情報を発信しないままである。いまや集合知など誰も信じない。情報発信をしているのはごく一部で、それも金儲けのためが大半で、そのためにはヘイトでも炎上でもなんでもやる……そういう例が目立ってしまう状態が、CGMの顛末なのかもしれない。
もっとも、どんなコミュニティも常連ユーザが生まれ、その反対に新規層がアクティブに活動できないと、そうした停滞感は生まれてくる。そう考えると、本当の問題はウェブ2.0が嫌われていることよりも、ウェブ3.0が来なかったことなのだろう。
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youkoseki · 8 years ago
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歴史あるメディアは嫌われる問題
新聞、雑誌、ネット専業メディア、なんでもいいが、たとえばそういうメディアが、なにか鋭い意見の記事を出して、話題になったとする。すると「でもこのメディアって前はこうだったじゃん」という人が現れる。それは一週間前に書かれた正反対の意見記事であったり、半年前に思いっきり滑ったジョークだったり、一年前のポエミーな記事であったり、三年前の誤報であったり、25年前の不祥事であったりする。
「ここではいいこと書いてるかもしれないけど、前はこうだったじゃん!」と。
こういう古い話をいつまでも持ち出してくる人の気持ちは、もちろん分かる。私自身、とても執念深いので。
それはそれとして、インターネット時代のメディアというのは、速報性も網羅性も求められるわけで、たいへんである。ニュース現場から記者がTweetするというのも今では珍しくない。日々、難しい社会の問題について沢山の情報を他社に負けないスピードで配信する必要がある。
そうすると、当然失敗が起きる。誤報や不祥事のように明確な失敗もあれば、線引きの難しい問題に突っ込んでいったり、賛否が分かれている問題に意見を伸べて、一部の人々を怒らせることもある。まあでも、それがメディアの仕事でもある。
結果として、歴史を重ねれば重ねるほど、メディアは嫌われていく。「あの時の誤報が許せない」とか「あの時の書き方はひどかった」とか「あの問題で私と全く意見が合わなかった」とか。正直な話、長く続くメディアはみんな嫌われていると言っても過言ではない。歴史があって、だからこそ信頼しているメディアが、皆さんの心の中にどれだけあるだろうか?
もちろん、時には「なんて素晴らしい記事だろう。このメディアのことが大好きになってしまったし、過去にはひどい記事もあったけどこれで帳消しだ」と思うこともあるかもしれないけど。ないですかね?
一方、ネットで毎日のように新しいメディアが生まれていて、クリックしたくなるタイトルがあれば、歴史による信頼はなくても、ソーシャルメディアで拡散していく。LINEやFacebookやTwitterや流れてくるニュースをクリックするまえに、人は「おやおや、この配信元メディアはどこかな」なんてあまり考えないし、クリックしたら読んでしまう。ヤフーやSmartnewsといったニュースアグリゲーターでも、同じ力が働く。
以上を考えると、メディア業界の生きる道は、新しいピカピカのメディアを次々に作って、小粋なタイトルと議論を呼ぶ内容で嫌われるまでアクセスを集め、嫌われたら潰す、というものなのだろう。
私はいまメディア企業で働いていて、一つのメディアを長く持続させられたらいいなと思っているけど、そういう考えはもう古いのかもしれない。
そして、長く発信すればするほど、長期的には徐々に嫌われていくというのは、メディア以外の企業や、個人においても見られるパターンのように思う。つまり長生きは損なのだ、と。
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