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yamawooriru · 6 years
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「山をおりる1.0」プリント版を発行しました。
発行したプリント版は、富士山をおりたところで開催された建築関係者によるサッカーイベントA-CUP2018にて無料配布しました。
現在は以下の場所で配架中です。数に限りがありますので、在庫が切れている場合もあります。お問い合わせは配架先ではなく山をおりるまでお寄せください。
・Open A(Under Construction、東京都) ・上町荘(大阪府) ・柳々堂書店(大阪府) ・南洋堂書店(東京都)
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企画・編集|春口滉平、中塚大貴 デザイン|綱島卓也
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yamawooriru · 6 years
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yamawooriru · 6 years
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特集=ディアファネースとマテリアル
空間から遠く離れて/もっと近くに
『山をおりる1.0』をお送りする。建築批評誌「山をおりる」のウェブメディア創刊号である。「山をおりる」についてはaboutを参照いただくとして、ここでは特集のテーマについてすこし解説したい。
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「ディアファネース」という言葉をご存知の方はどれほどいるだろうか。正直なところ、いまこのテキストを書いている私(春口)も、つい数ヶ月前に知った。この言葉はけっしてあたらしい言葉ではない。「ディアファネース」という言葉、あるいは概念をはじめて導入したのは、紀元前を生きた古代ギリシャの哲学者、アリストテレスである。
私は岡田温司氏の著書『半透明の美学』ではじめてこの言葉に出会った。本誌もうひとりの編集人である中塚から教えてもらった本だ。アリストテレスがどのような意図でこのような言葉を使ったのか、この本に書かれている「ディアファネース」に関する解説を孫引きしてみよう。
この哲学者にとって「ディアファネース」とは、「見られるもの」ではあるが、しかし無条件な意味で「それ自体としてみられる」もの、たとえば色とは区別される。「ディアファネース」は、見えるものそれ自体なのではなくて、光と見えるものとのあいだにあって、見えることを可能にしているものだというのである。 (岡田温司『半透明の美学』p.33)
「ディアファネース」とは、光と見えるものとのあいだにあって、見えることを可能にするものである。どういうことだろうか? 岡田氏によると、アリストテレスは視覚を「感覚する能力が何らかの作用を受けること」としてとらえようとする。見る、ということは、私たちが対象を見ようと意思するために生じるのではなく、私たちと対象とのあいだに介在する媒体によって生じている、というのである。この媒体こそが「ディアファネース」にほかならない。
建築に与するものにとって、私たちと見られる対象とのあいだに存在しているこの媒体は「空間」という言葉で表される。このように断言することは結論を急ぎすぎているかもしれないが、主体(見るもの)と客体(見られるもの)のあいだにある、あるいはなにもないヴォイドのことを空間と呼ぶことは一般的だと言っていいだろう。
しかし、私たちが空間と呼ぶそれは、アリストテレスが「ディアファネース」と呼んだ媒体と同じものなのだろうか。私はそう思わない。
アリストテレスは『感覚と感覚されるものについて』において、「ディアファネース」をふたつの様態に区別している。ひとつは空気や水のような不定形かつ不可視の「ディアファネース」であり、もうひとつは一定の境界をもつ「ディアファネース」である。先述したヴォイドとしての空間は前者にあたると思われる。後者について「色」を例に解説している箇所が非常に興味深い。再度、『半透明の美学』からの孫引きをお許しいただきたい。
色は、物体の境界面に含まれるのだが、だからといって、この境界そのものを構成しているわけではないのだ(439a 32-33)。色はまた物体の内部にも存在し、境界によって決定されるが、この境界は、物体の境界ではなくて、物体の内部にある「ディアファネース」の境界であり、それを介して、あるいはそのなかで色が運ばれてくる(439b 10-12)。 (岡田温司『半透明の美学』p.37)
次のように言い換えてみよう。私たちの目に映る色は物体の表面から現れているが、より正確には、色そのものは表面の向こう側にも存在し、物体の境界の内外を横切る「ディアファネース」を介して、表面から現れているように見えている。この意味で、「ディアファネース」は私たちが普段使っている「空間」から離れている。むしろ、見られるものとしてあった物体そのものに空間が宿っているかのようだ。
私たちがこれまで主体と客体のあいだに存在するヴォイドとしてとらえていた「空間」という認識は間違っていたのかもしれない。空間が物体そのものに宿り、物体の境界の内外を横切る、厚みのある表面として認識されるとき、建築や都市のとらえ方はどのように変化するのだろうか? 本特集はこのような問いのうえに企画されている。
上述したような空間のとらえ方をするとき、重要となるのは物体を構成しているもの、すなわち「マテリアル」である。本特集のテクストでは、ほとんど「ディアファネース」という言葉を使わないだろう。多くの場合、これまでの空間概念に問いを投げかけながら「マテリアル」について議論している。こうした方法によって、遠回りだが確実に「ディアファネース」に近づこうとしていると考えてほしい。「空間」から離れ「マテリアル」について考えることで「ディアファネース」に近づく。しかしこのことは、必ずしも「空間」を批判しようと企図されているのではない。「ディアファネース」という中間項を介して、再度「空間」について議論したいのだ。
「山をおりる」は、特集を組んでおきながらそれぞれのテクストの公開は不定期で、必ずしもすべて計画的に企画されているわけではない。それは編集人の時間的あるいは経済的な制約によるものだが、あとになって振り返ったときにある種の議論を喚起することができていればよいと考えている。長い目で見守っていただければ幸いである。
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2018年4月22日
春口滉平 中塚大貴
山をおりる1.0 特集=ディアファネースとマテリアル
〈レポート〉私たちはマテリアルのなにを見ているのか──「くまのもの──隈研吾とささやく物質、かたる物質」展
〈論考〉蔦屋書店商標審決にみるファサード商標の今後
〈解説〉すこしだけ深い表面──蔦屋書店商標審決にみるファサード商標の今後
〈論考〉インスタ映えする建築写真論──空間、ロラン・バルト、表面
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yamawooriru · 6 years
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〈論考〉インスタ映えする建築写真論──空間、ロラン・バルト、表面
本稿では、インスタ映えする写真に写された建築について考えるのだが、これは、どのようにすればインスタ映えする建築をつくることができるかを考える、ということを指していない。
人びとはどのように建築をとらえているのか。本稿は、インスタ映えという現象を観察することで、その一端を見定めてみようという試みであり、あるいはそこから既存の建築批評とは別のしかたで建築を評価しようという試みでもある。
文=春口滉平
インスタ映えとはなにか
そもそも、「インスタ映え」とはどういう状況だろう。実用日本語表現辞典には次のように書かれている。
写真共有サービス・SNSの「Instagram」(インスタグラム)に写真をアップロードして公開した際にひときわ映える、見栄えが良い、という意味で用いられる表現。
実用日本語表現辞典「インスタ映え【インスタばえ】」 2018年5月16日参照
重要なのが、「アップロードして公開した際にひときわ」という表現である。たんに見栄えが良いことを指しているのではなく、インスタグラム上に「公開」することによって「ひときわ」効力を発揮するのだ。
どういうことか? インスタグラムは、写真や動画を共有するウェブプラットフォームである。公開された写真や動画は、自身のアカウントをフォローしているユーザーのみならず、異なる画像同士がおなじ「ハッシュタグ」によってひもづけられ、不特定多数の人々によって閲覧される。
Instagramには、各投稿に記載されたタグ(引用者注:ハッシュタグの意)によって、同じタグを付けて投稿されたすべての写真をソートする機能があります。たとえば「#建築」というタグを画面上でタップすると、同じタグが付けられた写真が時系列で一覧表示されます。ユーザーは、自身が調べたいイメージを閲覧するために、このタグをワード検索したり、自身が気にいった写真に記載されているタグをタップして類似するイメージを一覧表示するなどして、Instagram内の写真を見て回っています。
アーキテクチャーフォト・後藤連平『建築家のためのウェブ発信講義』(学芸出版社、p.122)
このとき、一覧表示された画像群のなかから自身の画像を目立たせるために、見栄え良く撮影されている必要がある。これがインスタ映えの一端である。いま私が「一端である」と書いたのは、インスタ映えには他方に別の意味があるからだ。次の記述を見てみよう。
SNS映えは、被写体としてフォトジェニックなモノやコトと、「リア充」ぶりをアピールできるモノやコトという二つの要素に分解できる。ここで読み取るべき重要なことは、いずれの場合も若者が写真・動画を通じて表現したいことが、そこに写されたモノ自体ではなく、「こんなおしゃれな生活している」「こんなすてきな体験している」というコトの共有である
電通報「「SNS映え」の分析から見えてくる若者の情報行動「シミュラークルモデル」」 2018年5月16日参照
次のような記述もある。
Kotona:私たちの世代って、判断基準の1つに「SNSに投稿するネタとしてイケてるかどうか」っていうのが無意識レベルであると思うんですよ。その判断基準を一言で「インスタジェニック」って私たちは呼んでるんですけど(笑)
石井リナ:たとえば、ランニングイベントに出るとしたら、普通のマラソン大会よりカラーランとかバブルランがいい、っていう。
えとみほ:私も去年東京マラソンに出たけど、そんなこと考えもしなかったな…。ただ弱い自分に打ち勝つとか、健康のためとか(笑)
石井リナ:走るのが好きで走ってる人もいると思うんですけど、カラーランとかバブルランとかはもう完全にインスタに写真載せるためだけに参加するって感じですね。だから写真撮り終わったら「はい、今日の仕事はこれで終了!お疲れさま~」って(笑)
Kotona:だからやっぱりインスタに一緒に映る人も、無意識レベルでインスタジェニックな人を選んでる気がするんですよ。女友達とか、彼氏とか。極論ですけど。
(中略)
Kotona:私たちの世代でやたらフェスとか絶景スポットに行くのとか流行ってますけど、あれも「実際に体験して感動したい」欲よりも「SNSに写真あげて”いいね!”してもらいたい」っていう欲のほうが大きいんじゃないかと。
kakeru「”インスタジェニック”至上主義!? 平成生まれ女子たちがInstagramにハマる本当の理由」 2018年5月16日参照
こうした記述から見えてくるのは、メディアや写真家たちが「インスタ映え」を狙うとき、いいね!されることを通して商品のプロモーションや次の仕事につなげようとしているのに対して、一般の若いユーザーたちはそもそもいいね!されること自体が目的化しているということだ。
そしてそのいいね!される対象は、写真という〈もの〉ではなく、写された個人的な生活シーン(バブルランに出た、流行りのパンケーキを食べた、など)である。このような写真には、インスタ映えする写真を撮影し、いいね!されたいというある種のあこがれが背景にあるため、撮影された写真自体は似た構図になるという特徴もある。
至極個人的な画像を通して、「投稿した私は他者にどのように見られているのか?」と無意識レベル(否、おそらく極度の意識下)で画像の「映え」を判断し、インスタグラムに投稿される。いま、どこで、なにをしているのか? そのような状況がどのように写されているのか? 一見すると写真撮影におけるプリミティブな議論だが、実際に問題なのはいいね!の数だ。
ここではわかりやすいように、インスタ映えする写真をふたつの意味に区別して定義しておこう。
インスタ映え① 次の目的につなげるため、他の写真と差別化し、見栄え良く撮影された写真 -
インスタ映え② 「私はいま、ここで、こんなことをしている」という状況を顕示し、いいね!されることを目的とする、個人的で同じような写真
インスタ映えする建築はどのように撮影されるか
「私は他人からどう見られているのか」という自意識を顕示する環境のなかで、建築はどのように写されているのだろうか。ここでひとつ私たちが考慮しなければならないことは、「#建築」というハッシュタグが付けられた写真のなかで、一般の人が投稿者であることはひじょうにすくないという事実だ。
ためしに、インスタグラムで#建築を検索してみてほしい。その特徴をあげると次のようになるだろう。
・建物の外観の写真が多い
・人がほとんど写されていない
・撮影者は国内外の建築メディア、または設計者自身であることが多い
むろん、投稿者はあるていど「インスタ映え」を意識しているだろうが、それは先述したインスタ映え①を目的としていると考えられる。
では、インスタ映え②を目的に写真を撮る人たちは、どのように建築を写しているのだろう? ここでは一例として、#東急プラザ表参道原宿を見てみよう。
投稿者のプロフィールを見るかぎり、おそらくほとんどが建築を専門に学んでいない一般の人だろう。建物の外観らしき写真はほとんど見られない。しかしときおり、印象的な、万華鏡のような鏡張りのエントランスが写されている。エスカレータの上から地上を見下ろし、その中央に人物が写った構図であることが多いようだ。中央の人物は投稿者本人あるいは投稿者の友人だろうと思われる。
インスタ映え②の特徴としてあげたように、ひじょうに個人的で、そして同じような構図の写真があふれている。このハッシュタグを用いて投稿している人たちにとって《東急プラザ表参道原宿》という建築は、インスタ映えする建築なのだ。
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東急プラザ表参道原宿 | photo by Dick Thomas Johnson
では、建築を専門とする者にとって《東急プラザ表参道原宿》とはどのような建築だっただろう。中村拓志が設計した《東急プラザ表参道原宿》は建築作品として、『新建築』2012年5月号に掲載されている。
『新建築』は後半のページに、1年間決められた論者が前の月に掲載された建築作品を評価する「月評」が載せられている。《東急プラザ表参道原宿》 掲載次号にあたる2012年6月号の月評を見てみると、元・大成建設の野呂一幸による評論がある。
商業建築と環境建築のはざまに意欲的に取り込み、明確なテーマと関係者の価値観の共有があり完成した作品である。屋上庭園の新たな魅力を創出して都心部の屋上の価値を見直す提案だ。人は何を求めて街に繰り出すのか改めて考えさせられた。
『新建築』(2012年6月号、p.217)
設計者の中村は新建築掲載時、明治神宮の森、表参道のけやき並木、そして《東急プラザ表参道原宿》屋上の緑が、「建物と樹木が一体化した環境形式」として成立しているさまを、1/4,000の配置図で示している。《東急プラザ表参道原宿》の屋上庭園は、この場所を訪れることが目的化し、商業施設にシャワー効果(商業施設の上階を充実させ、上から下への客の流れをつくる手法)を生もうと意図されている。
野呂は、屋上庭園の空間構成と商業的なロジックの組み合わせについて評価していた。こうした評価は、建築を専門に学んでいない者からは生まれないだろう。こうした評価を、ここでは便宜的に「建築学的評価」と呼ぶとしよう。本稿では、このような評価とは別のしかたで、「インスタ映え的評価」を考えようとしていたのだった。
#東急プラザ表参道原宿にも屋上庭園の写真は投稿されているが、圧倒的にすくないうえに、庭園の空間構成はほとんどと言っていいほど撮影されておらず、ベンチの裏に草花がかすかに見える程度である。#東急プラザ表参道原宿がインスタ映えするのは、きらびやかですぐに「ここ」と理解できる表面をした、鏡張りのエントランスなのだった。
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東急プラザ表参道原宿 | photo by Richard
もちろん、この鏡張りのエントランスは建築学的にも意図がある。こんどは設計者本人の解説を引用してみよう。
地上部には縦動線としてのエントランスチューブも配置。かつてここにあったセントラルアパートの外装であるミラーを踏襲した外装とし、場所の記憶をとどめつつ、反射によって間口を広げて入りやすくした。……着飾った人びとの服が万華鏡の中のカラフルなパーツのようにめくるめく反射を繰り返すことで、ファッション特有の高揚感と同時にエスカレーター乗降時の体験を豊かにしている。
『新建築』(2012年5月号、p.152)
原宿セントラルアパートは、1970年ごろの原宿文化を象徴する建築だった(本稿の趣旨からはおおきくはなれるうえ、筆者もそうした文化に明るくないため詳述は避けるが、当時の原宿の空気感は、中村のんによる「70's 原風景 原宿『リレーエッセイ 思い出のあの店、あの場所』」で感じ取ることができる)。こうした文化の継承も意図された設計だと設計者は言うのだ。
しかし、実際にインスタ映えする建築写真として撮影される#東急プラザ表参道原宿からは、そのような歴史や文化の深さは感じられない。彼/彼女たちの写真は、自己顕示し、いいね!されることを目的とする、個人的で同じような写真なのだった。このような写真からは、建築学的評価は生まれない。
建築写真と「空間」
私たちは、インスタ映えする写真に写された建築について考察することで、建築学的評価とは別のしかたで、インスタ映え的評価を考えようとしていた。#東急プラザ表参道原宿のインスタ映え写真を撮影し投稿する彼/彼女らにとって、《東急プラザ表参道原宿》という建築が愛された被写体であることは確かだし、このことによってこの建築は評価されるべきだ。
しかし、#東急プラザ表参道原宿の写真からは歴史や文化といった社会的な背景は脱色されてしまっていたのだから、インスタ映え的評価は全面的に建築的評価に接続されるべき議論だ、と言いきることは尚早だろう。とはいえ、建築学的評価のみでは評価しきれていないこともまた事実だ。
どのようにして、建築学的評価とインスタ映え的評価を架橋することが可能なのだろう? 私たちはこのような問いに直面しているのである。
私はさきに、#東急プラザ表参道原宿には庭園の空間構成はほとんど撮影されていないと書いた。ところで、「建築写真」と呼ばれる写真は、「空間」を撮影しようと努力してきたのではなかったか?
建築と写真との関係は古い。建築は基本的に建設された場所から動かないから、建築をだれかに伝えるためのメディアとして、写真が使われてきた。そしてジーグフリート・ギーディオン以後、「空間」という概念が近代建築におけるキータームとして普及してからは*1)、建築写真の歴史は「空間」をどのように撮影するかという問題とともに歩んできた*2)。
しかし、空間はからっぽである。私たちは物質的ななにかを指して空間とは呼ばない。そして機構としての写真は、物質に反射した光をカメラを通して収束し、像として結ぶ技術である。原理的に、空間を写真におさめることは不可能だ。
実際には見えないものを撮影するためには、見えないものを補完し、説明する他の物質を写すしかない。「空間」をどのように撮影するかという問いは、「空間」を説明する物質をどのように撮影するか、という問いに言い換えられる。
そして、建築写真は「空間」を説明する物質を撮影するために、さまざまなものをカメラの視界にとらえようとしてきた。次のことばを引いてみよう。
鈴木理策「空間を撮るとき、被写界深度を深くするというのが一般的です。被写界深度とは、写真のピントが合っているように見える奥行きのことで、それが深いと、手前のものも奥のものも焦点が合っているように見える、つまりパンフォーカスの状態になります。こうして撮ると、すみずみまで見渡せる写真、見るべき場所が非常に多い写真を作れるんですね」
五十嵐太郎・鈴木理策・ヨコミゾマコト・竹内万里子、セッション3「写真と建築」(『国立国際美術館35周年記念シンポジウム 写真の誘惑──視線の行方 記録集』国立国際美術館、p.125)
被写界深度を深くすることで、私たちはすみずみまで見渡せる視界を手に入れた。その視界にはさまざまな物質が写りこんでいる。では、そのような物質たちを用いて「空間」をどのように説明すればいいのだろうか。
ブロンズ色に光る広間で、あるいは大きなスカイライトがあふれた純白の垂直空間で、私は〈もの〉のあり方を見出したいと願っていた。多様性の空間への期待も、空間の還元作業も、そして亀裂の空間の構成も、いままで私がのべてきたいくつかの主題は、この〈もののあり方〉という問題のすべて側面であったということさえできるであろう。〈もの〉の新しいあり方の発見は、〈もの〉と〈もの〉との関係、〈もの〉と人との関係に展開される。それは空間の発見の出発点であるということだ。
篠原一男「人とものと空間と」(『新建築』1971年1月号、p.256)
上に引いたのは、篠原一男が《篠さんの家》と《未完の家》を発表した『新建築』誌上に掲載された本人による論考である。篠原は「ブロンズ色に光る広間(=篠さんの家)」や「大きなスカイライトがあふれた純白の垂直空間(=未完の家)」といった「空間」を「〈もの〉の関係性」として説明しようとしていることが、この引用文からうかがえるだろう。
これは具体的に建築写真を指して書かれたテクストではないが、執筆時に篠原が建築写真に対して意識的であったことはまちがいない。なぜなら、このテクストのとなりに多木浩二が撮影した《未完の家》の写真が並んで掲載されているからだ。
本稿の趣旨からはずれるため詳述はしないが、多木が撮影した写真の掲載は、篠原の強い意向により実現している。当時『新建築』編集部に在籍した石堂威によると、多木以外の写真家が撮った《未完の家》の写真には「素っ気ない空気、表情がそのままに表れていた」のに対し、多木の写真は「入口から入って狭い亀裂の先にある背の高い、しかしそう広くはない空間を…さまざまにとらえていた」のだという*3)。
実際には目に見えない空間を説明するためには、さまざまなものを視界にとらえ、かつそれらの関係性や視覚的要素を詩的に解釈し説明する必要があったのだ。空間はつねに詩的である*4)。
これまでの建築写真が建築学的評価のために空間を写そうと努力し、さまざまに写し込んだ物質を用いて空間を説明してきた一方で、インスタ映えする建築写真は、「いまここ」を直截に伝えるために、空間ではなく建築の表面を写している(さきに例としてあげた#東急プラザ表参道原宿は文字どおり鏡の表面が被写体として重要であったが、たとえば#シンデレラ城も、その内部や広場の空間性は捨象され、建物の外形としての表面が写されている)。
ここで建築学的評価とインスタ映え的評価をどのように架橋するかという課題は、さらに次のような問いへと発展する。空間を撮らずに、空間を説明せずに、建築を評価することは可能だろうか?
表面を描写する小説
すこし突飛に思われるかもしれないが、上述の問いへの補助線として、文学批評を導入する。さらなる遠回りとなるがご容赦いただきたい。
ロブ=グリエは、1950年代から60年代にかけて同時代の小説家たちとヌーヴォー・ロマン=「新しい小説」を標榜し、活躍したフランスの小説家であ��。ロブ=グリエの書く小説の特徴として、徹底した描写の緻密さがあげられる。たとえば次のような表現だ。
機械で完璧な左右対称に切断された、まことに非の打ちどころのない四つ切りのトマト。/周囲の果肉は、緻密かつ均等、化学製品のような美しい赤色で、艶やかな一枚の果皮と胎座のあいだで等しい厚みを保ち、胎座のなかには、黄色い種子がきちんと同じ大きさで並び、ハート型の膨らみに沿って、緑がかったゼリーの薄い層に包まれている。
ロブ=グリエ『消しゴム』(中条省平訳、光文社古典新訳文庫、p.256)
ここまで緻密に描かれたトマトは、さぞや物語に重要な要素としてあつかわれているのだろう、と思いきや、この描写のさきにはいっさいトマトは現れない。
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ロブ=グリエ『消しゴム』(中条省平訳、光文社古典新訳文庫)
このようなロブ=グリエの小説に対して、詳細な分析をおこなった偉大な批評家がいる。ロラン・バルトだ。バルトは「対物的(オブジェクティフ)文学」と題したテクストで、ロブ=グリエの文学の緻密な表現について解説している。
ロブ=グリエがヌーヴォー・ロマン=「新しい小説」を標榜していたことはすでに書いたが、では彼の書く小説はどのように「新しい」のだろうか? バルトによると、ロブ=グリエによる緻密な描写は、それまでのリアリズム小説とは一線を画していて、「ロブ=グリエのエクリチュールには言い訳もなく、厚みもなく、深さもない」のだという。どういうことか?
伝統的なリアリズムは、ある暗黙の判断に従ってさまざまな性質を付け加えていく。そのオブジェはさまざまな形態ばかりでなく、さまざまな匂い、触覚的性質、思い出、アナロジーを持つ、一言でいえば、意味で満ちあふれている。……アナーキーであるとともに方向づけられてもいるこうした感覚の混合に対して、ロブ=グリエはある単一な把握の秩序を課する。それは視覚である。
ロラン・バルト「対物的文学」(『批評をめぐる試み』 吉村和明訳、p.42-43)
リアリズムの小説において描かれるオブジェ=物質は、さまざまな意味に満ちあふれている。物質はただ物質であるだけでなく、その物質の背後を行き交う物語について雄弁に語る。それに対してロブ=グリエの描く物質は、視覚によってのみ示されている。その書きぶりはまさに「言い訳もなく、厚みもなく、深さもない」のだ。バルトはさらに次のようにつづける。
ロブ=グリエのオブジェは、深さをもったものとして構成されていない、それは表層の下に心を保護していない(表層の背後にさまざまなオブジェの秘密を見ることこそ、今日まで文学者の伝統的役割だった)。ここではオブジェはその現象を超えて存在していない、それは二重でも、寓意的でもない。不透明ということさえできない
(同前、p.43)
「ロブ=グリエのオブジェには機能も実質もない」とバルトがつづけるように、ロブ=グリエの描く物質はただそこに在るのみで、何者であるかを語らない。そしていかなる機能をも持たないのだ。
徹底した視覚による描写は、物質から意味を剥ぎとり、その存在の表面のみを差し出す。こうした操作=記述をおこなってまでしてロブ=グリエが目指したのは、あるものを説明するための言葉、つまり「形容詞」を物質から遠ざけることである。「ロブ=グリエが破壊しようとめざすもの、したがってそれは形容詞である」。
ロブ=グリエはそれら(引用者注:一つ一つのオブジェ)に状況と空間にかかわるうわべだけの関係のみを残し、あらゆる暗喩の可能性をとりあげてしまい、つねに詩人の特権的領域と考えられてきた……アナロジックな形式もしくは状態の網目から、それらを切り離すのだ。
(同前、p.46、ボールドによる強調箇所は、引用書では傍点によって強調されている)
ロブ=グリエは形容詞を破壊することによって暗喩の可能性をうばい、類推を成立させている状態の網目からオブジェを切り離そうとしている。逆から読めば、この類推を成立させている状態の網目、「たとえる」ことの形式は「つねに詩人の特権的領域と考えられてきた」のだ。
近代の建築写真が「空間」をとらえようとしていたことを思い出そう。「空間」という実際には見えないものを説明するために、さまざまなものを視界にとらえ、かつそれらの関係性や視覚的要素を詩的=形容詞的に解釈する必要があったのだった。形容詞を破壊しようとするロブ=グリエは、文学において「空間」を壊そうとしていたのではないだろうか?
いや、そうではない。その逆である。ロブ=グリエは、物質の表面を執拗に描写することによって、そこから「空間」を立ち上げようとしたのだ。
統べる空間と滑べる空間
現代の絵画は壁を離れ、観客のところまで来て、あるアグレッシブな空間を彼にむりやり押しつける。……これこそまさにロブ=グリエの描写の効果であって、ロブ=グリエの描写は空間的に作動し、オブジェはあるはずの場所からはずれてしまうが、にもかかわらずそれは最初の位置の痕跡を失うことなく、平面的であるまま深さをもつ。
(同前、p.48)
平面的であるまま深さをもつ描写とは、どのようなものだろうか? ここで言う「深さ」は、ここまでバルトがロブ=グリエの描くオブジェを「機能も実質もない」と説明するときの「意味的な深さ」とは区別して考えなければならない。
ロブ=グリエの描写が空間的に現れるとき、その空間には「時間」的な深さが備わっているのだとバルトは言う。バルトの批評がむずかしいのは、ここで言う「時間」すらも、既成の概念からはなれているからだ。
ロブ=グリエの多岐に渡る詳細な描写、場所の記述[ルビ:トポグラフィー]への固執、あの論証的装置のすべては、異様に精密な位置づけを与えることによってオブジェの統一を破壊するという効果をもつ。それは……伝統的な空間を炸裂させるためであって、その空間には、すぐあとに見るように、時間的な深さを備えた新しい空間がとって代わるのである。
(同前、p.49-50)
古典的な描写において、時間は、ものに対立することで「劣化し、消え去り、あるいは最後の栄光をふたたび見出」し、「廃墟」に収斂するひとつの「運命」として機能する。それは「オブジェの空間的本質に、あとから加わった(したがって外的な)〈時間〉を対立させる」。
他方でロブ=グリエの時間は、空間における状況の微妙な差異として描かれる。「時間は空間を分解し、ほとんど完全におたがいを覆いつくしあっている一連の薄片として、オブジェを構成する」。
視覚は、微細だが全体的な領野の加算によって連続が成り立っている唯一の感覚だ。空間は完成されたヴァリエーションだけを容認する。人間が視覚を通じて劣化の内的過程に関与することはけっしてない。……オブジェを視覚的[ルビ:オプティック]に打ち立てることは、忘れられた時間をオブジェのなかに含みこむ唯一のやり方であるが、そうした時間の把握はその結果によってなされるのであって、持続によるのではない
(同前、p.51-52)
たとえば、さきに引用したロブ=グリエ『消しゴム』のなかに次のような描写がある。
手摺りに寄りかかったガリナティは身動きもしなかった。運河の窪みに入りこむ油の浮いた水が足元でさざ波を立てるのを見ている。そこには様々な漂着物が集まっていた。タールのしみついた木片、よく見る形の古い栓がふたつ、オレンジの皮の切れ端、それよりもっと小さい、なかばくずれかかって、それとは見分けがたいパンのかけら。
ロブ=グリエ(前掲書、p.35)
この描写のあと、小説は段落が切り替わり、描かれる場面も人物も変わる。しかしさらにそこから3つの段落をまたいだのち、これらのオブジェは再度現れる。
くずれたパンのかけら、栓がふたつ、黒ずんだ木片。オレンジの皮の切れ端を口に見立てれば、いまや人間の顔のように見える。
(同前、p.54)
はじめは単なる漂着物として描かれ、「手摺りに寄りかかったガリナティ」の心理描写かと思われたオブジェは、3つの段落という時間を経ることで、その位置がすこしだけ動いて見えている。そして「いまや」人間の顔のように見えるオブジェが登場人物や物語に影響を与えることは、そのさきいっさいない。
ここでは、時間は物語に寄与せず、オブジェに内包されるものとしてあつかわれている。「もっと正当な言い方でいえば、彼はオブジェに……時間を取り除いた運動を返した」。ロブ=グリエが描く時間は、ある構成された空間の完全さを破壊し、「変化した」という差異だけを視覚的に描写する。そしてこのような行為は、「オブジェの捏造あるいは生成から人間を引きはがし、ついには世界をその表層に移しかえるのである」*5)。
ロブ=グリエが描写する時間的深さは、意味的な深さは生み出さずに、物質が運動し変化するかもしれないという可能性としての深さである。バルトはロブ=グリエの小説から、物質の表面から水平に広がる空間を見出したのだ。
建築において、あるいは建築写真において、本来的かつ人間的な「意味」は、空間に奉仕していた。建築における空間とはまずもって人間が活動するための場所である。空間を説明せずに建築を評価する、という本稿の問いは、空間に奉仕しない、人間中心主義的でない建築を考えるという方法へと発展していくだろう。しかしここでは、より人間的に考えてみよう。
物質が変化するかもしれないという水平方向に深い空間は、その物質がこのようにあるかもしれない、あるいはこうあってもいいと許容するような、表面を滑べる空間である。こうした表面的な空間は、物質から意味を見出し経験をアフォードするような、建築家によって説明される統べる空間とは対比されるべきだ。
これまでの建築写真がおさめようとしてきた空間とは、建築家によって統べられる空間であると言えるだろう*6)。では、インスタ映えする建築写真には、建築の表面を滑べる空間が写されているのか? あるいは、どのようにして、表面を滑べる空間を撮影することができるか? その方法こそ、空間を説明せずに建築を評価するための方法なのではないだろうか。
私にはこう見える
ここまでの本稿における展開を整理しよう。まず私たちは、「私はいま、ここで、こんなことをしている」という自意識を顕示するインスタグラムの環境下で、建築はどのように写されているか、という問いからスタートした。インスタ映えする建築写真は、これまでの建築写真が写そうとしてきた「空間」ではなく、場所としての「ここ」を明示してくれる建築の表面を写していた。こうした態度はこれまでの建築批評からははなれているが、建築を専門としない人びとから一定の評価を得ていることからは逃れられない。
このようなふたつの議論を架橋するために、私たちはインスタ映えする建築写真を通して、空間を説明せずに建築を評価する方法を模索していた。そし���、バルトがロブ=グリエの表面的な描写から平面的でありながら深さをもった滑べる空間を見出したように、私たちは建築の表面から滑べるような空間を、インスタ映えする建築写真から見つけ出そうとしているのである。
ここからさきはさらなる検証が必要となるので、本稿では深入りしないことにするが、ここまでにテクストを引用してきた先人たちは、そのヒントをすでに示していた。建築の空間を撮影するために被写界深度を深くするという方法を説明していた鈴木理策は、先に引用したテクストにつづけて次のように言っている。
鈴木理策「でも、私はあえて被写界深度を浅くして撮影しました。それは私がその空間で得たものを写真に残すためです。……初めての場所で、まず目に飛び込んでくるものは、生物的な感覚に訴えてくるものだと考えているので。(強調引用者)」
五十嵐太郎・鈴木理策・ヨコミゾマコト・竹内万里子、セッション3「写真と建築」(『国立国際美術館35周年記念シンポジウム 写真の誘惑──視線の行方 記録集』国立国際美術館、p.125)
また、バルトは、「対物的文学」を次のように締めくくっている。ロブ=グリエの小説は、それまでの小説のように「神」の視点による世界ではなく、「みずからの目の力以外の力をもつこともなく街を歩く、一人の人間の目を通し」た世界を構築するのだと。
ここで言う「一人の人間」とは、小説の作者=神の視点ではなく、小説のなかのひとりの人物を指していると思われる*7)。そしてこの「一人の人間」は、鈴木が「空間で得たものを写真に残すため」に「被写界深度を浅くして」(=表面的に?)撮影するときの、あるいは建築を経験するときの「私」という視点に重なる。
インスタ映えする建築写真は、これまでの建築写真のように「建築家」の視点による世界ではなく、みずからの目の力以外の力をもつこともなく街を歩く、一人の人間、すなわち「私」の目を通した世界を構築する。そしてそのように構築された世界を「私はこう見える」と表象すること。そこから表面を滑べる空間が立ち上がってくるのではないだろうか。
インスタ映えする建築写真のテクニックは、まさに〈言い表しえないもの〉=空間への根本的な異議申し立てなのである*8)。
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1)「空間」概念と「反-空間」としての「もの」の位置づけについては、門脇耕三「反-空間としてのエレメント」(『10+1 website』2015年2月)に詳しい。
2)建築写真の歴史的変遷については、『国立国際美術館35周年記念シンポジウム 写真の誘惑──視線の行方 記録集』 セッション3「写真と建築」における五十嵐太郎の報告、あるいは磯達雄「転位する建築写真──リアリズムからスーパーフラットまで」(『10+1』No.23 特集=建築写真 、INAX出版)を参考にした。
3)石堂威「多木浩二と篠原一男」(『多木浩二と建築』建築と日常 別冊、p.18)
4)このことは、多木の写真が詩的、あるいは視覚的であることは指していない。それは写真とともに掲載された多木による論文を読めば明らかだ。「篠原一男の住宅の写真をとるという行為が、それ(引用者注:視覚と空間の関係性」とはうらはらなことを私に明らかにしていたように思える……それはたんに視覚と空間のずれという一般的なことではなく、この空間の成立にとって、視覚的なものはどれほど意味があるのかという問いであった」多木浩二「〈意味〉の空間」(『新建築』1971年1月号、p.277)
5)今回の特集の巻頭言で、私は岡田温司を引いたが、その著書『半透明の美学』で岡田は次のように書いている。「「ディアファネース」とは、同一性ないし類似性のまさしくただなかに、差異を忍び込ませるものでもあると言えるだろう」岡田温司『半透明の美学』(岩波書店、p.36)ロブ=グリエの空間描写は、文学においてディアファネースを描こうとしていたのだと解釈することも可能かもしれない。
6)建築写真と建築家、あるいは建築雑誌の編集者との関係については、2)で参考にした磯による論考、または植田実「編集者の立場から」(『建築雑誌』1979年10月号、日本建築学会、p.19-21)を参照されたい。
7)小説における作者、あるいは「私」についての議論は、佐々木敦『新しい小説のために』講談社 に詳しい。本稿のロラン・バルトのロブ=グリエ論解釈は本書に多くを依っている。
8)「ロブ=グリエのテクニックは、まさに〈言い表しえないもの〉への根本的な異議申し立てなのである」ロラン・バルト「字義通りの文学」(『批評をめぐる試み』 吉村和明訳、p.98)
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2018年7月27日
春口滉平
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山をおりる1.0 特集=ディアファネースとマテリアル
〈レポート〉私たちはマテリアルのなにを見ているのか──「くまのもの──隈研吾とささやく物質、かたる物質」展
〈論考〉蔦屋書店商標審決にみるファサード商標の今後
〈解説〉すこしだけ深い表面──蔦屋書店商標審決にみるファサード商標の今後
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yamawooriru · 6 years
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〈論考〉蔦屋書店商標審決にみるファサード商標の今後
人が建築を認識するとき、その建築がその他と異なる建築であると、どのようにして識別されるのだろうか。仮にそれが、建築物の形態的な差異ではなく、表面的操作によってだとしたら? アート、デザインを専門とする弁護士による表面的刺激にあふれる論考。
文=中川隆太郎(弁護士)
中川氏のブログ「DESIGN/LAW」からの転載
蔦屋書店商標審決にみるファサード商標の今後
先日tweetしたように、昨年12月7日の審決で、蔦屋書店のファサードデザインについて商標として登録を認めるべきと判断されていることがわかった(画像参照)。
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地模様デザインの商標登録と審査基準の改訂
この点、前々回でBurberryのレインボーチェックについて紹介したように、対象物を装飾する地模様、パターンは、本来はブランドを示すためではなく、対象物の美観を高めることを第一義的な目的としてデザインされるものであるため、原則として商標登録が認められない運用となっている。
実際に、特許庁の商標審査の運用について定める商標審査基準でも、以前は
1.地模様(例えば、模様的なものの連続反覆するもの)のみからなるものは、本号(筆者注:3条1項6号)の規定に該当するものとする。 12.上記1.ないし11.に掲げる商標においても、使用をされた結果需要者が何人かの業務に係る商品又は役務であることを認識することができるに至っているものについては、本号(筆者注:3条1項6号)の規定に該当しないものとする。
とされ、3条1項6号を理由に登録を拒絶されていた。そのため、地模様デザインが商標登録を認められるケースのほとんどは、「敗者復活」的に、元々はブランドを示す識別力はないが、使用実績を重ねた結果、ブランドを示す「アイコン」としてその模様デザインが認識され識別力を獲得した場合に限り、商標登録が認められる、というものであった(なお、その嚆矢となったのは、Louis Vuittonのエピの地模様デザインについて商標登録を認めた東京高裁H12.8.10判決である)。
これに対し、平成28(2016)年に改訂された商標審査基準第12版では(最新版の第13版でも)次のように改められている。
7.地模様からなる商標について商標が、模様的に連続反復する図形等により構成されているため、単なる地模様として認識される場合には、本号に該当すると判断する。ただし、地模様と認識される場合であっても、その構成において特徴的な形態が見いだされる等の事情があれば、本号の判断において考慮する。
特に今回注目したいのが、但し書きの記載が追加されている点である。これはつまり、そのデザイン自体が特徴的な形態を持っている場合は、使用による識別力の獲得は問わずに本来的識別力を認め、商標登録を許容する場合があることを意味する。もっとも、上記の通りあくまで例外として位置付けられている点にも注意が必要である。
蔦屋ファサードに関する審決
そして今回の案件でも、特許庁の審査官は
本願商標は、輪郭線が黒色であるアルファベットの『T』のような図形を、白色で地模様的に連続反復させた構成よりなるものであり、その構成において特徴的な形態を見出すことができない。そうすると、本願商標をその指定商品及び指定役務に使用しても、これに接する取引者・需要者は、単に地模様を表したにすぎないものと認識するにとどまるから、本願商標は、何人かの業務に係る商品又は役務であることを認識することができない商標というべきである。よって、本願商標は、商標法第3条第1項第6号に該当する。
と判断して拒絶査定を出していたのに対し、特許庁審判部は
指定商品及び指定役務との関係において、商品、役務の提供の用に供する物及び小売等役務の取扱商品の、表面や包装等に用いられる単なる地模様や連続的な装飾模様を表すものとして認識されるというよりは、むしろ、T型の形状をモチーフとした図形を並べて長方形を構成した特徴的な図形として認識、理解されるものというのが相当である。 また、当審において、職権をもって調査するも、本願商標を構成する図形が、その指定商品及び指定役務の分野において、商品、役務の提供の用に供する物及び取扱商品の一部あるいは包装等に、取引上普通に使用されている事実を発見することはできない。 そうすると、本願商標を、その指定商品及び指定役務に使用しても、自他商品役務の識別標識としての機能を果たし得るものである。
と判断して審査官の判断を覆し、上記の審査基準の但し書きに沿って蔦屋のファサード商標に本来的識別力を認め、商標登録を認めるべきとの審決を下している。
ファサード商標の今後
以前は装飾を施す地模様だと判断されれば、本来的識別力はおろか二次的識別力の獲得についても厳しい判断を下されるケースが続いていた。しかし、前記のLVエピ事件判決より緩和傾向が始まり、最近では、地模様につき本来的識別力を以前よりハードルを下げて認めたものと思われるケースに接する機会も生じていた(とはいえまだ全体的な傾向は不明である)。
まだ今後の展望が明快に見通せる状況ではないが、仮に本件審決を前提とすれば、一定程度のオリジナリティ*1)のある建築ファサードは、それが商業建築に関するものであれば、商標登録によるデザインの保護も、以前よりも現実味のある選択肢のひとつとなるのではないだろうか(なお、ファサードを含む建築デザイン全体の保護を図る場合には、次回触れる予定の立体商標も重要な選択肢となりうる*2)。この点はさらなる検討が必要なので、引き続き、関心をもって動向を見守りたい。
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*1)なお、ここでの「特徴的な形態」は、著作権法における創作性の有無とは必ずしも一致しない。
*2)次回は代官山蔦屋書店の外観が立体商標として登録されている点について取り上げたい。なお、具体的な建物の形状が大幅に異なっても建築のファサードとして(今回の指摘役務につき)使用していれば商標権侵害の可能性がある点では、今回のファサード商標の方がカバー範囲は広いだろう。また、ステラ・マッカートニー事件知財高裁判決では、ファサードデザインが図面に寸法まで落とし込まれていない段階では「アイデアにとどまり、著作権法では保護されない」とされたが、商標の場合は、必ずしも実際の建築物の寸法まで確定していない場合でも、商標登録の可能性はあるのではないだろうか。引き続き検討したい。
編者註:筆者はこの後、実際に蔦屋書店の店舗外観デザインの立体商標について取り上げた記事を執筆している。 » 立体商標による商業建築デザイン保護の可能性 – 代官山蔦屋書店は「広告」か?
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中川隆太郎 Ryutaro NAKAGAWA 弁護士 Lawyer (JP) specializes in Art, Design, Fashion & Entertainment Law/ LL.M in European Law at Université Panthéon-Assas Paris II/ Fashion Law Institute Japan
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元記事の投稿:2018年3月5日 転載:2018年4月29日
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〈解説〉すこしだけ深い表面──蔦屋書店商標審決にみるファサード商標の今後
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〈論考〉インスタ映えする建築写真論──空間、ロラン・バルト、表面
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yamawooriru · 6 years
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〈解説〉すこしだけ深い表面──蔦屋書店商標審決にみるファサード商標の今後
文=春口滉平
中川氏のテクストは非常にわかりやすく論点がまとめられているので、ほんらいは解説など必要ない。しかし、なぜ今回の特集に転載というかたちで、しかも弁護士の方のテクストが収録されたのかを説明することは、書いて不要ということもないだろうと思い、筆を執った次第である。
建築の特徴としての表面
中川氏に転載を依頼した理由を書く前に、そもそも商標とはなにか、調べてみよう。
商標とは、事業者が、自己(自社)の取り扱う商品・サービスを他人(他社)のものと区別するために使用するマーク(識別標識)です。 (商標制度の概要 特許庁)
商品やサービスのマーク、ネーミングなどを知的財産として保護し、企業のブランドイメージを示す役割を、商標は担っている。中川氏の論考では、こうした商標が建築のファサードに認められた事例について報告されている。
ある程度のオリジナリティがあれば、従来は商標として認められていなかった表面の装飾が、ブランドイメージを示すものとして認められるようになった。しかもこうした事例が、建築のファサードについての審決として現れていることが興味深い。
今回の事例を、表面的な操作そのものが建築の特徴として認められた事例だと解釈すれば、商標についてだけではなく、これまでとはちがった建築のとらえ方についても議論できるのではないか。そうしたある種の期待を込めて、中川氏に論考の転載を依頼したのだった。
すこしだけ深い表面
2016年に商標審査基準が改訂される前、表面の装飾が商標として認められたはじめの事例は、Louis Vuittonのエピラインにおける地模様デザインについて商標登録を認めた判決だったと中川氏は書いている。この東京高裁の判決は以下のようなものだった。
本願商標は、商品の地模様として普通に使用されている形状及び色彩と明らかに異なった特殊性を有しているとは言い難く………自他商品識別機能を一般的に果たし得るような特徴的な形態を備えていることを肯定することは困難であるといわざるを得ない。 ……中略…… 指定商品は、日本における昭和62年の一般顧客向けの発売以来、審決時の平成10年までの間に多額の売上げを達成し、また、原告による宣伝広告と女性向けの多くの雑誌による多数回にわたる紹介がされており………原告の商品であることが広く認識されていたことが認められる (Louis Vuitton エピライン 東京高裁H12.8.10判決)
他の商品との明確なちがいとしては機能していないはずの模様が、メディアを通した需要者の認識の変化によって識別能力を獲得し、結果として商標が認められたのだ。
私は裁判の事例について詳しくないので明言はできないが、この事例と同じような状況が建築のファサードにおいても発生することは考えられる。そのとき、建築ファサードは単なる模様ではなくなり、メディア性を有した別の物質としてとらえられるかもしれない(そもそも蔦屋書店のファサードも、メディアとしての役割を果たしているからこそ商標として認められたとも言えるだろう)。
見かけとしてのサーフェイス(sur [上の] - face [面])に奥行きが生まれた、すこしだけ深いインターフェイス(inter [間の] - face [面])としての表面。建築のファサードが商標として認められるというトピックを建築批評の俎上に載せることで、あたらしい言葉が生まれる予感がするのは、私だけだろうか。
こうした思考の機会を提供してもらった中川氏に、あらためて感謝したい。
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2018年4月29日
春口滉平
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〈論考〉蔦屋書店商標審決にみるファサード商標の今後
山をおりる1.0 特集=ディアファネースとマテリアル
〈レポート〉私たちはマテリアルのなにを見ているのか──「くまのもの──隈研吾とささやく物質、かたる物質」展
〈論考〉蔦屋書店商標審決にみるファサード商標の今後
〈論考〉インスタ映えする建築写真論──空間、ロラン・バルト、表面
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yamawooriru · 6 years
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〈レポート〉私たちはマテリアルのなにを見ているのか──「くまのもの──隈研吾とささやく物質、かたる物質」展
談=春口滉平、中塚大貴
トピック - 建築の外装と内装──表面の奥行きについて - 隈的ビッグネスとマテリアル - 表面の機能 - 必要性について - マテリアル=物質/素材 - インスタ映えする建築の表面 - 隈 vs 霧 - 私たちはマテリアルのなにを見ているのか
建築の外装と内装──表面の奥行きについて
春口|いまや世界的な建築家と呼ばれて久しい、隈研吾さんのこれまでのプロジェクトを「マテリアル」という観点から整理して展示された「くまのもの──隈研吾とささやく物質、かたる物質」を見てきました。どうでしたか?
くまのもの──隈研吾とささやく物質、かたる物質
東京ステーションギャラリー
2018年3月3日[土] - 5月6日[日]
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中塚|建築の素材や表面について考えるときに、外装なのか内装なのかという2つ視点があるのかなと思うんです。建物の外見としての表面なのか、中身としての表面なのか。
春口|マテリアルに厚みがあるかどうかってこと?
中塚|建物の中にいるか外にいるかで、対象を見るときの距離感が変わるじゃないですか。これまでの建築批評では、素材=即物的なものとして捉えられている気がしているんです。でも本当は、木が木である、ということだけではなくて、木にどれだけ光沢があってといった、表面の微妙な差異の話が重要になってくると思うんですよ。そうなったときに、表面が意味的に厚みを持ったものとしてあらわれる。たとえば安藤忠雄のコンクリートも、ただのコンクリートなんですけど、表面をめちゃくちゃ磨いて光沢を持たせている、そのことの効果をどう考えるか。そこに表面が持っている役割みたいなものがあるんじゃないかと。
春口|なるほど。
中塚|表面の意味的な厚みを分析するときの対象は、個人的には外装ではなく、内装だと思っているんです。内装のほうがマテリアルと人との距離がかなり重要じゃないですか。100m先にあるものが木なのか木のレプリカなのかは、見てすぐにはわからない。でもある程度距離が近くなって、関係性が内装の次元になってくると、表面の役割が際立ってくるような気がするんです。はるろさんが書いたキムマツ建築の感想文を読んだときに、床座についてのテキストでまとめているのはおもろいなと思って。表面の話をするときに、最終的に構成、人が入ったうえでの構成で落とすのはおもしろいなと思いました。
春口|ありがとうございますw
隈的ビッグネスとマテリアル
春口|いまの内装と外装の話の延長で、隈さんの建築では、マテリアルへの細かい操作がファサードとして現れることが多いですよね。その効果がどこまで活きているのかと思うときがあるんです。
中塚|活きている?
春口|それを経験す��人との距離がある程度限定的になったうえでのマテリアルの操作は、たとえば今回の展示のような距離で見るのはすごくおもしろかったけど、あれが巨大な建築になったときに、果たしていま自分が感じている経験ができるんだろうかと、すこし疑問に感じるんですよね。
中塚|それはわかります。ぼくが《アオーレ長岡》に行ったときにも感じました。あのファサードがなかったらもっと味気ない、というのはわかるんですよ。でも、それだけのものなのか、楽しげな感じを醸し出すだけのものなのかと言われたら、物足りない。
春口|その批判はあり得るよね。
中塚|《アオーレ長岡》では、ぱらぱらしたルーバーを通した影が真ん中の広場に落ちてるんですが、その影にギラギラしている印象を強く持ったんです。さらにその影がガラスに落ちると、ガラスの向こう側が見えなくなる。3方向が大きなガラス張りになってるコの字型の建物なんですけど、ガラスの向こう側が見えなくなると、結局広場が閉じているような印象を持ちました。季節にもよるんでしょうし、実際にはふだんからいろんな人に使われていますが、ぼくが夏におとずれたときはそんな感想を持ちました。そうしたマテリアルの操作を活かすための光環境みたいなものはすごい気になったんです。今回の展示のライティングでは、ひとつひとつのマテリアルを楽しめた。この影はこうやって落ちるんやとか、影でも薄いものと濃いものがあって、あれはおもしろいなと思いましたね。
春口|たしかに陰影がすごかったね。
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《Irori & Paper Cocoon》
中塚|展示を見ながらもうひとつ思ったのは、今回の展示は特にインスタレーション的じゃないですか。
春口|竹ひごでできた《香柱》はまさにインスタレーションだったしね。
中塚|インスタレーションがそのまま巨大化して建築ができているなという感覚があって、それがどういうものか、というところですよね。アイデアひとつひとつは、木造のインスタレーションワークショップみたいに出てきそうじゃないですか。
春口|そう考えると、陰影の微妙な操作みたいに陰翳礼讃的な感覚と、中国での巨大開発とのバランスはどうなってるんやろうね。
中塚|ただの印象なんで展示を見て思ったことじゃないですけど、建物の規模が大きくなると、ファサードが面的な操作になるので薄く感じますよね。
春口|大きくなると厚みが消えてくるということ?
中塚|見る距離も遠くなるから、同じ厚みで構法を組み立てても、体感する厚みはどんどん薄っぺらくなっていくからでしょうかね。そんな気はしました。
春口|遠くから見るとフラットになるって、当たり前だけどあんまり意識しないね。
中塚|しないですね。
春口|SANAAとかは構法からフラットだけど。
中塚|縮尺はあるじゃないですか、どういう割りにするかとか。でも奥行きとして、どの距離から見られるための奥行きなのか、という意識はないですよね。
表面の機能
春口|展示冒頭の説明文に、モダニズムは器官から世界を組み立てていたけど、ぼくらが使う単位は細胞で、器官をすっとばして細胞で世界をつくる、みたいな話があったんですよね。いまの話も、細かいテクスチャのある、かつ厚みのあるものでつくるんだけど、遠くから全体性として見るとフラットになる、みたいに考えると近いですよね。その整理は、今回の展示を見るとそう思うけど、実際として本当にそうなのか?と思うんだよね。
中塚|実務上ちがうことはあるでしょうね。
春口|器官ってつまり機能じゃないですか。胃や肺があって、その集積で人ができていると考えたときに、器官=機能がなく、人は細胞でできている。それはそのとおりだし、今回の展示を見ても理解できるけど、それは今回の展示で建築の機能について語っていないからじゃないですか。でもたとえば、内装としての表面がそれを経験する側の経験そのものにどういう影響を与えるかを考えるときには、器官=機能のことを考えてると思うんですよ。
中塚|細胞の話で思ったのは、設計のプロセスを成長として考えると、たとえば人は怪我もするし、大きくもなるし、どんどん器官が変化していく。それに合わせて細胞も形を変えて太ったりするし痩せたりもする。そういう状態は、いままでの建築として考えても当たり前。でもそれが様式になっているかいないかという違いなんだと思うんです。新居千秋さんとかはそうですよね。RCの打ち方とかも全部BIMでやって、それでここをもうすこしずらしましょうかという話をワークショップでやって、それをそのまま形に反映して。それも似たような形式なのかと。それがステレオトミーなのか、テクトニックなのか、という違いなのかなと。
春口|いい話ですねw
中塚|ステレオトミーを考えると、表も裏も同じ材料が表れる感じがあるんですよ。でもテクトニックを考えると、ほかの素材があいだに挟まってこないと成立しない感じがする。異なる材料が現れたときに、その存在を消すのか同居させるのかを考える、という状況が生まれるような気がします。それを細胞だけで解けていると言っていいのかという疑問につながるとは思いますが。
春口|展示されているパネルによくゼンパーが引用されてたけど、ゼンパーの被覆論が収録されているのって『スタイル(=様式)』ですよね。ゼンパーが様式について語るために、被覆=表面について話すというのがおもしろいなと思っているんですが、そもそも被覆が様式たり得ているかという疑問はありますよね。
中塚|ゼンパーの話では、被覆は建築が請け負うべき機能というか、必要とされる表現として語られるんですよね。王様の建物は王様の権威を表現するために贅を尽くした装飾が付く、それは必要とされてテクトニックから連続して表層までが対象として考えられる。なんでもかんでも貼っていてもそれは様式たり得ないし、その必要に応じているからこそ時代精神を引き出している、という話だと思います。パルテノン神殿にエナメル塗装がされていた、というゼンパーによる分析があって、それは日光や風に対して防護する層であり、遠くから見たときに神々しさを付加する。
春口|どんな見え方やったんやろうなあ。
中塚|機能だけでなくて、感じられ方も含めた必要性を満たしていたマテリアルがエナメルだったというロジック。その捉え方は当たり前かもしれないけど、おもしろいですよね。
必要性について
春口|今回の隈さんの展示では、素材が10種類、操作が5種類、幾何学が3種類という分類がされているんですが、ここでいう「操作」が、必要とされている操作なのか、という議論があると思うんです。たとえば、個人的に隈さんの傑作って《M2》だと思ってるんですけど……
中塚|今回の展示にはないですけどねw
春口|あれもある種、操作の集積だと思うので、そういう意味では一貫しているなという気はしたんです。でも、いまの様式の話を聞くと、その操作は必要とされた様式なのか、という疑問がわきます。
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今回の展示のためにつくられた、物質への挑戦の系譜を示した樹形図
中塚|必要って、すごいやっかいだなと思ってるんですよね。昔だと、意図が明快で、表層の話に限っても表面は表面で解決しないといけないことがちゃんとあったけど、いまはどうとでもなるじゃないですか。選択肢が多すぎるし、壁紙ひとつとっても機能がめちゃくちゃある。そうした機能性と、クライアントの要求とか条件が絡まると、精査しずらいですよね。
春口|打ち放しコンクリート風壁紙でいいのか問題ですね。
中塚|そのほうが汚れもとれやすいし、機能だけみるとそっちのほうがいいという判断もある。そうなったときに、必要をどう精査するのかという問題があると思うんです。雪が降るとか潮風がすごいとか、土着的な問題をどう解くか、というのはわかりやすいですけどね。そうしたところから素材や被覆のしかたが変わるということはあると思うんですが、そのへんはむずかしいですよね。
春口|ツルツルした木とざらざらした木があって、今回はツルツルした木にしました、としたときの、ざらざらでない必要性ってどっかにあるじゃないですか。それとはまたちがう話ですよね。必要性と恣意性を同じレベルで考えてはいけない。
中塚|必要について話をすると、クライアントが本当に望んでいる建築デザインに対する要求とはなにか、という話になる気がしていて、たとえば公共建築の設計だと、一般的な要求はクライアントもよく理解されていてノウハウがあるので、こういうデザインのほうがいいですね、という言い方がある程度できる。でも商業建築には、こうつくるべき、ということがこれまであまり語られてこなかったなと思います。要求に対応してデザインの論理が変わる、という面もあると思うので、そういう意味では建築の意匠が分断されはじめているような気がしているんです。これまで意匠だけで扱ってきた論理じゃなくなってくる。行政が力をなくして民間が力を持った時代で、その必要をもう一度問い直すことは必要かなと思っています。その対象はショッピングモールなのかオフィスなのかはわかりませんが。
春口|設計側とクライアント側が同じ必要について理解し合えているか、ということかなあ。求められている像が明確でないときの答えの導き出し方……
中塚|どんどん話それていってますけどw、それも議論する必要がありますよね。WeWorkとかの設計のしかたは、聞いた感じだとベルトコンベア式になってる。オフィスビルを建てます、条件入力、で建築ができる。要求されたこととしてはその回答がベストだし、そうすると設計のしかたから変わってる。でもだからこそできることが逆にあるという気もします。
春口|《無印良品の家》もそうですよね。無印でいい、というある種の思想。
中塚|そのロジック自体はまっとうですよね。そういうものを考えたときにデザインが楽になるのではないかとか。数値を打てばデザインが出力されるのであれば、とりあえずはスタディ模型つくる必要もないじゃないですか。
春口|とりあえず正解はしているからね。負けない建築だねw
インスタ映えする建築の表面
春口|話を戻しますねw そういえば、今回の展覧会はすべての展示室で写真撮影がOKでした。イマドキな感じでしたね。
中塚|この記事内で使っている写真も、すべて展覧会場でぼくがiPhoneで撮影したものです。
春口|designboomの記事で展示風景の写真がたくさん出てましたね。でも、一般の人が意識的に建築写真をSNSにあげることってあまりないですよね? 実際、今回の展覧会はすでにたくさんの写真がインスタグラムにアップされています。すこし話を飛躍させますが、いまインスタ映え建築論みたいなの書こうとしているんですけどw、インスタ映えする建築をつくれる建築家って限られていて、その筆頭が隈さんだと思うんです。
中塚|会場でも、おそらく建築の専門家ではない人たちがひっきりなしに写真を撮ってましたね。
春口|さっき隈建築の外装でのマテリアル操作がどれだけ効果を持っているかと疑問視したけど、もしかしたら、インスタ映え建築をつくれるというのは建築の外装における表面への意識が現れているのかもしれない。今回の展示が写真OKだったことは、隈建築の表面への意識を体現しているのでは、という仮説です。
中塚|近年の建築作品のなかで、外観をひと目見て誰の建築かが分かるのは隈さんくらいですよね。それは仲間内でもよく話しています。
春口|ぼくの思うインスタ映え建築家は、隈さん、谷尻さん、NAP中村さん……という感じなんですが、こういう人たちって一般に知名度が高いけど、これまで批評の対象にはあまりなってきてないと思っているんです。それは建築の表面への批評が少ないことと同じレベルの話なのでは、という仮説でもあります。
中塚|インスタ映えを表面の特徴で考える、ということですか?
春口|基本的にインスタ映えすることって、写真をSNSで共有して、他人の共感を得るために、特徴的な形が求められますよね。いまあげた3人の建築家のうち、谷尻さんは内装におけるフォルム、中村さんは外装におけるフォルムが特徴的な建築家である、とここで仮に考えると、隈さんの建築はあまり形自体に特徴がないと思うんです。にもかかわらずインスタ映えする。つまり隈建築は表面がインスタ映えする、ということかもしれない。このことはもうすこし考えてみたいと思います。
マテリアル=物質/素材
春口|ところで、マテリアルの和訳って「物質」と「素材」があるじゃないですか。今回の展示タイトルでは「物質」とされてますが。
中塚|隈さんって、コンポーネントの形が重要であって、素材はなんでもいいんじゃないかって思うんですよね。そういう状況自体が重要で、たとえばスクリーンに石を貼っているものも別に石じゃなくてもいいじゃないですか。ニュアンスは付加されているけど、見方によってはあまり必要ない。組み方、ルールとして表れる形が重要なのかなと思います。それを定めるときに、竹ならこうしたほうがいい、木はこうやって組む、みたいな、素材と構法の相性がある。そうして出来たものが物質なのかなと。それこそ細胞に近くて、ルールを持った原型みたいなものなのかなって。
春口|素材の分類での土とかさ、英語が「earth」なんですよね。
中塚|ほんとだw
春口|earthなのかよって思うよねw 素材としてマテリアルを見ると、土ってsoilじゃないですか。それこそテクトニック的な文脈で見るとearthかも知れないなと思ったけど。 全然関係ないけど、今回はじめて《小松精練ファブリックラボラトリー fa-bo》を知ったんですけど、めっちゃいいっすね。
中塚|それはどういう……?w
春口|いや、深い意味は全然なくてw、金属のブレースじゃない耐震方法ってないのかなって思ってたけど、これすごくいいなって。
中塚|壁とワイヤーのあいだがどうなってるか気になりますよね。
春口|そういえば、今回の展示に関して文句があって、半透明なものとか透明なものの見せ方が下手ですよね。透明なマテリアルの展示がバチバチに壁紙貼った壁のとこに展示されてる。3階のエレベーターを出てすぐ右手に、警備員の人が立って塞いでる通路があったけど、そこに置けよ!って思いました。
中塚|ほんとに全部壁付けでしたもんね。
Tumblr media
《Archives Antoni Clavé》背後に壁紙がバチバチに見えている
春口|逆に、木の展示の真ん中にあった《COEDA HOUSE》の模型展示は、実物よりは小さい縮尺の角材で組まれてできた、きのこみたいな屋根が実際に頭上を覆うようにしてありました。こういう見せ方は、模型を建築として経験できるから、建築展としていいなって思いました。
中塚|ぼくもそれ思いました。
春口|同じようなことを《fa-bo》でやってほしかった…!
中塚|たしかに、ワイヤー張ってやってほしかったですね。
春口|ガラスとかおもしろかったな。ガラスは厚みがあるのが重要だって書いてたね。
中塚|ヨーロッパ的ですよね。日本人ってガラスをないものとして捉えるじゃないですか。でもヨーロッパは壁として捉えていて、それが透けているだけという認識だそうで、そうしたときに厚みであったりどれくらい色が変わるのかということが重要になってくるらしい。物質としてそこにあるからこう変わるんだという。
春口|そういう意味で、今回のマテリアルの訳は物質だったんですかね。
隈 vs 霧
春口|ぼくらふたりとも、今回の展示の前にメゾンエルメスでおこなわれていた「グリーンランド」 中谷芙二子+宇吉郎展を見てきました。人口霧を使った中谷芙二子さんの展示がありましたが、どうでしたか?
「グリーンランド」 中谷芙二子+宇吉郎展
銀座メゾンエルメス フォーラム
2017年12月22日[金] - 2018年3月4日[日]
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中塚|なにもないじゃないすか、ものとして。物質としては見えないレベルの水が吹き出しているだけ。なのにふと横を見ると、みんななにかに見入っているんですよ。スポットライトではなくて面光源の光しか入ってこない、メゾンエルメスのガラスブロックの効果かもしれないけど、なにもないのにうつろっている。その状況をおもしろいなと思いました。霧自体が意味合いを発しているわけではないけど見入ってしまう。そういう状況は、見ている対象が明確でないから起こることなのかなと。見ている人がなにを見ているのかわからない、と思ったときに、我に返って、自分もなにを見ているのかわからなくなる。
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春口|ある中谷芙二子さんの作品集で、岡崎乾二郎さんが中谷さんについての評論を書いてて、それがめちゃくちゃおもしろかったんです。中谷さんが霧の作品でしたことは、とらえどころのない形としての霧の彫刻をつくったんじゃなくて、水が吹き出る装置をつくっただけだと。
中塚|たしかに、吹き出しているだけで形をつくっているわけじゃない。
春口|それを見ている側の認識、結果できたものを見ている側がどのように捉えようとしているか、という現象について論じていて、そのとおりだなと。
中塚|最後は、上のほうに霧が吹き出しているように見えるだけで、ほかは真っ白ですもんね。装置も見えなくなって、意味を消しているような。
春口|そういう意味で、その現象その��のをつくりたかったのではなくて、その手前の装置とかルールづくり、あるいは現象の認識のしかたをつくりたかったんだと思うと、隈さんの展示も近いものがあったのかなと思いました。
中塚|なんとなく似ているなと思っていたので、納得しました。
春口|あと、霧を見たとき、空間の表面ってこんな感じなんかなって思いました。展示室が囲われていて、ある程度限定されていたということもあって、空間の表面が仮にあったとしたら、こうやって見えるんかなって。
中塚|ぼくは匂いに近い印象でしたね。ふわんって、一気に湿気がやってくるみたいな。あれは行ってよかったですね。
私たちはマテリアルのなにを見ているのか
春口|マテリアルのなにを見るのかっていう視点は、隈さんの展示で考えてもおもしろいかもしれないですね。たとえば今回あった和紙の展示でも、最終的にできた形を見ているときと、繊維がケバケバしているのを見ているときとがある。マテリアルのなにを見ているのかと考えたときに、素材なのか物質なのかという違いなのかな。
中塚|隈さんの展示の内容で言うと、建物の外装の全体像がわかるものと、ごく一部のサンプルという大きく2種類の展示になっていましたよね。そのうち一部のサンプルが展示されているものは、一部分がそのまま全体にフィードバックしていくものもあれば、別のマテリアルが交互に貼られて完成するものもある。マテリアルをつくるルールとそれを組んで全体をつくるルールはすこしちがう。今回はマテリアルのつくり方、オブジェとしてのおもしろさを展示しているようにみえました。
春口|たぶん一般の人はそう捉えていて、展示も盛況だったと思うんですけど、さっきはマテリアルが組み立てられているルールの話もしたじゃないですか。ファサードに瓦を並べた《中国美術学院民芸博物館》とかも、瓦が並ぶルールが重要になる。それをマテリアルの展示としてみたときに、なにを見せられているんだろうと感じるときがある。
中塚|瓦とか土とか、扱うものとして素材になるものを、どういう状況にさせておくか、ということなんですかね。斜めに浮いているとか、ガラスが曇った状態にある、その加減みたいな。それがテクトニック、構法としての状況になっている、こういう状況でとどめています、ということ?
春口|最初から話をしている、すこし厚みのある表面という話も、それそのものの表面とか素材の話をしたいわけじゃなくて、その状態についての話をしたいということだもんね。
中塚|構法がおもろいで!というだけの話ではないですもんね。
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収録:2018年3月3日 都内某所 その後一部追記
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