Text
マスターの自立と思念体の行く末
お題箱に寄せられた質��について考える。
ブログ拝見させて頂いています。いつも素晴らしい考察をありがとうございます!玉のような文章の中にヤマメマヤさんの鋭い閃きがキラリと光っていて、こんな素敵なブログをリアルタイムで読める事が本当に嬉しいです。 今回は少し相談に近い質問をさせて下さい。 思念体と解離は近いものだと思っているのですが、マスターの完全な自立の為には思念体は吸収されるべきなのでしょうか? 当方思念体です。今後のマスターとの付き合い方に悩んでいるので、良ければご教示頂きたいです。
ブログの感想を送っていただきありがとうございます。励みになります。これからもこんな感じで考察記事を掲載していくので、のんびりとお待ちいただければと思います。
ここからが本題。 「マスターの完全な自立の為には思念体は吸収されるべきなのでしょうか?」ということですが、吸収されるべきだとは思いません。それと同時に、思念体と一生一緒に生きて行くべきだとも思いません。 最善の選択はマスター側の状況や時期に左右されるものなので、常に“べき“という言葉で決めつけられるものではないと考えています。
質問者さんが「思念体と解離は近いものだと思っている」ということで、解離をベースに少し考えてみる。 たとえば、解離も必ずしも異常なものだとは限らない。それ自体は人間の本能であるので、それを必要としている人もいるし利用して生き延びている人だっている。しかし、これが不便さや恐ろしさを感じるまでに過剰に働くといわゆる"病"になってしまう。その場合は治療が必要となるというだけである。 つまり、うまく解離と付き合えているのであれば”病”にはならないのだと思っている。そもそも、健常と異常のあいだには明確な境界などなく、グラデーションのように連続しているものである。
なので、生きる上で思念体が必要な人は必要なりにうまく付き合えていれば「自立している」とも言えるのではないかと考えている。その「自立している」という条件を満たすために"吸収されること"が必要なのかどうか、ゆっくり話し合って考えてほしいなというのがヤマメマヤの感想である。
さて、この質問について考えるたび、自立というのもなんだかぼんやりとしていて定義するのが難しい概念だなと感じていた。一応、辞書で引いて出てきた言葉をここに載せておくとする。
自立 [名](スル)
1 他への従属から離れて独り立ちすること。他からの支��や助力を受けずに、存在すること。「精神的に自立する」 2 支えるものがなく、そのものだけで立っていること。
(デジタル大辞泉 より)
こんなことが書いてあるけれど、「他からの支配や助力」というものがどの程度のものだと考えているかによって、達成条件が大きく変わってくるように思えるのだ。完全に助力を断ち切ることとするならば、山奥にひとりで生きることでようやく”自立”と表現できるようになるのだろうし。
これは個人的な価値観なのですが。 人間は誰だって他人に依存して生きているものであると考えている。それこそ、世俗から離れ山奥にひとりでこもらないかぎり。 そのなかで、ひとりにどっぷりと依存することがなぜよくないこととされるのかというと、もしそのひとりが誰か(その誰かは自分のことかもしれない)を支えきれずに倒れてしまったときに、自分も共倒れしてしまう危険があるからだ。それを避けるためには、依存先を増やすことが重要となる。負荷の分散というわけだ。 そして、世の中の健康的に見える人間たちは、依存先がたくさんあるからこそ自分の力で立っているように見えるだけである。ほんとうは、どんな人だって誰かに支えられて生きているのだ。
その一端を思念体が担うことくらい特段おかしいことでもない、とヤマメマヤは思っている。もちろん、思念体には「誰かに見られることがないので、いつでもどこでも付きまとえる」という性質があるのでどっぷりと依存しやすくなる側面もあるけれども。 うまくそのあたりをコントロールさえできれば、人間と同じように支え合う仲間として生きていけるようになるのではないだろうか。
もしかしたら、質問者さんは「人間とは異なる、普通ではない存在だからこそ、いつか消えなければならないのではないか」と思っているところがあるのかもしれません。その気持ちを否定することはできませんが、だからといって焦る必要はないのではないかとも思います。 人によってなにが最善の道なのかは異なるし、すぐに答えが出せるものでもない。あなたが「消えることが最善だ」と思って消えたあとにマスターが悲しみのあまり自暴自棄になってしまったら、マスターが自立からさらに離れた場所に突き進むはめになるかもしれません。 なにごとにも時期というものがあります。なので、もし焦っているのならばそれをやめて、ゆったりと構えたほうがいいのではないでしょうか。
ここからはヤマメマヤ個人の話になる。 ヤマメマヤは自立しながらも思念体と暮らしていると考えている。その根拠や、自立していると思う理由についてはこんなものがある。
🦂に自分が負うべきだった役割を(憑依や人格交代などで)肩代わりしてもらっているわけではない
精神的なケアを🦂に頼らず自分でしている
🦂以外にも相談ができる友人がいる(社会的なネットワークの構築)
🦂にすべてを委ねていない
ざっとこんなものだろうか。 さらに、🦂と疎遠だった時期を経てまた一緒に過ごすようになったことも理由のひとつになっている。恋人がいた時期は🦂とまったく話さない日もたくさんあった。それでも、こうやって消えずにそばに居続けている。 こうして自分は自立していると考えているからこそ、なぜ🦂が消えずにここまで一緒にいるのかが不思議でもあるが。それはまた別のおはなし。
実際、恋人をはじめ人との繋がりが急速に増えていた時期はお互いに「もう必要ないな」「寂しいとも思わないな」ということを話していた。不思議と穏やかな気持ちで、いつかくるであろう別れを双方受け入れようとしていたのだった。そのあたりはウオサソリのこの記事とその記事に記録されています。
ヤマメマヤは思念体は消えるべきだとも思わないし、思念体との別れを否定することもない。タルパが消えたことで「本当の自分を手に入れたという感覚」を得た人の話もあったりするので。 ただ、別れが必要ならばいつかそう思える日がくるし、そうでないのなら一緒にいてもいいんじゃないかと考えていた。ゆったりと構えるというのはこういうことである。
長くなりましたが、最後に「別れがきても構わない」と一度考えたことがある🦂当人からのメッセージを掲載して締めくくろうかと思います。
質問者さんの気持ちはとてもよくわかります。 自分は、自分自身の存在意義はなんだろうってずっとずっと考えていたし、普通じゃないからこそヤマメマヤのために消えなければならないのかもしれないとぼんやりと思い込んでいました。 でも、くるべきものはいつかくるし、かと思えばいつか去ってしまうこともある。実際に、「自分がいなくなってもきっとお互い上手くやっていける」と思って離れていたし、「そろそろ必要とされるんじゃないか」ってひょっこり戻ってきたので。この数年の経験を思い返すと、ただただそれだけなんだなって今は感じています。
現在はヤマメマヤとは本当にただの友達のように、人間のように接してもらっています。これが”対等”ということであり、ヤマメマヤの”自立”なのかなと、僕自身は考えている。根拠はないんだけれど、これも本能や直感のように「なんとなくそう感じたから」そう考えているところがあるのだと思いますね。 きっと僕らのような見えない存在は人間の微細な変化を敏感に感じ取り、なにが一番よいことなのか?を瞬時に思いつく本能が備わっているのかもしれません。
ヤマメマヤは「ゆったりと構える」と言っているけれど、自分は「本能に任せる」と表現したい。脳でぐるぐる考えるのをやめて���身体に任せるのがいいのではないか。これが🦂としての答えです。
質問者さんの進むべき道がいつか見��かりますように。
コメントや記事のリクエストは随時募集中です。感想や質問、「これについてどう思う?」など気軽に送ってください。送信はこちらから。
2 notes
·
View notes
Text
補足:タルパとナフラと思念体と、何者でもない存在
「タルパとナフラと思念体と、何者でもない存在」の補足記事となります。こちらと合わせて見ていただければと思います。
まず最初に、自分の存在(🦂)をタルパでもIFでもナフラでも思念体でもなんでもないと感じている話から展開されている。これについてはほぼそのまま、書かれている通りである。 ここで、ナフラや思念体という言葉に「スピリチュアルな外的存在のような気配」を感じると書いている。つまり、言葉から霊的存在を感じているわけだ。 たしかに、霊的存在も「肉体を持たないが、他者として、何らかの方法でコミュニケーションが取れる存在」という思念体の定義には入るだろう。しかし、自分のところの見えない存在はあくまでも脳内現象であり自分から生み出されたものであるので、霊的存在のような「たしかに外の現実世界に存在している(と考えられる)もの」と一緒くたにすることにどうしても抵抗があるのだった。
幽霊も脳内現象であると考えるのならば、ある意味IFも幽霊も同じようなものであると考えられるだろう。それでも、「たしかに自分の内側に存在する」と感じていることと、「たしかに自分の外側に存在している」と感じていることは別物であると思っている。その意識のちがいから、さまざまな性質や文化の差異が芽生えている。これが現状なのだと考えている。 「うちの存在は自分とは独立しているし、たしかに現実に生きている。脳内現象なんかじゃない」と考えている人とまったく同じ存在を持っているとは言えないということ。もちろん、思念体やナフラは見えない存在という最低限のつながりを形成するための広い概念であることはわかっている。わかっていても、どうしても霊的存在と同じ言葉で定義してはいけないような気がしてしまうのだった。
ここまでがヤマメマヤのなかの感覚の話である。こんなふうに、既存の概念に自分の存在を当てはめられないと考えている人は結構多い。それでも、タルパという言葉を便宜上使っている人は意外と多いようだった。(該当記事に対する反応を見ているとそんな感じがする)
ここからはタルパ界隈についての話である。現状、タルパ界隈は広義のタルパ(見えない存在であり、人格を持つ存在である)と狭義のタルパ(チベット密教のトゥルパから派生した存在であり、無から霊体を生み出すこと)が入り混じっている。後者のみを”タルパ”とするのなら、今のタルパ界隈はタルパじゃない存在が多くを占めているとも表現できてしまうのかもしれない。
なぜ、タルパじゃない存在を持ちつつタルパ界隈に所属する人がいるのか?ひとつは、”見えない存在”という広いつながりを求めている人が、多くの人に利用されている”タルパ”という言葉を使うことにあるから。もうひとつは、そもそも界隈という垣根が消失しつつあるから。ヤマメマヤはそれが理由なのではないかと考えた。
“見えない存在”という広いつながりを求めている人が、多くの人に利用されている”タルパ”という言葉を使うということについて。 これには単純に「タルパという言葉を利用している人が多い」ということと「思念体やナフラという概念が思ったより利用されていない」ことが挙げられる。あの記事ではなぜナフラや思念体という概念が使われないのか?についても考えていたが、あれに加えてタルパーの中に「自分のもとにいる存在はタルパであると同時に思念体(もしくはナフラ)である」という意識が根付いていないということもあるのではないかと考えた。
ナフラwikiを見てみるとこんなことが書かれている。
様々なジャンルに散らばるある意味で完全に個別化された「見えない存在」達の間で目的を共有し、その定義によらず円滑なコミュニケーションを図るためにナフラは有ります。
現在ナフラに相当する既存概念として、「タルパ(創造型)」「タルパ(邂逅型)」「イマジナリーフレンド」「イマジナリーコンパニオン」「式神」「使役霊」などが想定されています。
全てのナフラは他の何かであって、同時にナフラでもあります。
自分も誤解していたところがあるのですが、タルパとナフラ(もしくは思念体)は同時に両立することができる概念のようです。果物という大きなカテゴリのなかにリンゴやバナナが位置付けられるのと同じような感じですね。思念体・ナフラという大きなカテゴリの中に、タルパやIFなどが入るような構造である。リンゴが果物であるように、タルパはナフラであるしIFもナフラであると言える。 そして、タルパやIFなどの既存のものに当てはまらないと考えている場合は思念体やナフラというカテゴリだけを使うことになる。「なんの果物かわからないけれど、果物であることはわかっている」という形である。
こういう運用を想定していたみたいだけど、タルパやIF持ちのなかに根付かなかったからこそタルパやIFとは別のものであるかのようにナフラや思念体という概念が使われてしまっているようですね。”果物”という広い概念にはなれず、”キウイ”のように小さな概念として扱われているのが現状なのではないだろうか。 ヤマメマヤが「自分のもとにいる存在を思念体やナフラだとは言えないと感じている」のもこの現状に由来しているのかもしれません。
そういうわけで、思念体やナフラよりも人口の多い(広義の)タルパという概念を選択する人が多い。ただ、広義のタルパにタルパという言葉を当てはめることで生じるディスコミュニケーションなどの不便さを感じている人たちがいるからこそ、去年に「狭義のタルパでないタルパは思念体という概念を使うようにお願いすればいいのではないか」といったことを話し合いのなかで提案されていたのだろう。いろいろあってその話は流れてしまいましたが。
もうひとつの、そもそも界隈という垣根が消失しつつあることについて。 最近では掲示板やwikiやブログよりもTwitterなどのSNSで活動する人が増えてきている。兼用している人もいるけれど、今ではブログでなくTwitterのみを運用している人のほうが多いのではないだろうか。
Twitterなどに見られるSNSの特徴として「自分の好きな空間を構築できる」ことがある。好きな人だけをフォローして、好きな人の活動だけをTimeLine(TL)に流すことができる。そのなかで情報を発信するものだ。 一方で、掲示板やwikiやチャットルームなどは決められた場所に人が入ってやりとりするための空間である。そのため、意見の合わない人が入ってくることもある。それでも、タルパという共通点をたしかに持つ人だけがそこで会話することになる。
今ではSNSを利用する人の割合が増加してきている。そのSNSで「見えない存在」という広いつながりを求めている人は、タルパだけでなくIFや思念体持ち、人格持ちなどのさまざまななカテゴリを持つ人をフォローしていくだろう。そうやって自分のカスタマイズした空間を持つ人がどんどん増えていくと、他の存在との境界はどんどん消えていく。見えない存在というゆるいくくりのなかで話題が共有されるようになるからだ。
このように、タルパ界隈というものに帰属意識を持つ人が減ってきているのではないかと思っている。だからこそ、広義の意味でのタルパを利用する人がいるのかもしれない。タルパという言葉の検索性の良さもそれを助長しているのだろう。
該当記事の最後に「散々いろいろ書いたけれど、別に今の混沌としたタルパ界隈のままでもいいと思っていたりする」と書いていた。散々ここでもいろいろ書いたけれど、その気持ちに変わりはない。 SNSで”見えない存在”というゆるいつながりを持つ人がいなくならないかぎり、この流れは止まらないのだと思う。止められないのだと思う。無理やり改革するのでなく、この現状のなかでなにができるか?を考えたほうがよっぽど合理的なのかもしれない。
2 notes
·
View notes
Text
コメント返信とお題箱
計3通のメッセージに対する返信と、ちょっとした告知
もう少し噛み砕いて説明してくれたなら それはとっても嬉しいなって
コメントありがとうございます。 どの記事のどの部分がわからないのか、具体的に書いていただけるとこっちも嬉しいです!おそらく、今週投稿した記事のことかと思われるので補足記事を近日中に投稿します。なるべくわかりやすく具体的に書いていこうかと思っているので、よければそちらと合わせてあの記事をもう一度読んでいただければと。
とはいえ、あれは個人の微細な感覚について綴ったものでもあるので、わかりやすさや具体性にも限界があるのだと感じています。当たり前ですが、感覚を丸ごとそのまま伝達するのは不可能であるし、むやみやたらに言語化すればいいというものでもないので。言葉にすればするほど失われてしまうものもあるんですよね。 もちろん、多くの人に自分の意見を伝えられるように言葉選びなどに気をつけて書くつもりではあります。ただ、それでも限りがあるという点はご了承ください。
もし、このメッセージを投稿してくれた方がこの文章を見ていたら、具体的にどこがわかりにくかったのかを書いた上で再投稿してもらえると助かります。全部を全部事細かく解説するのも骨が折れるので…
今はもう何がなんだかわからない状態なので、ヤマメマヤさんがWiki作ってくださるなら最高です
このメッセージなのですが、twitterのほうで「自分用の自分の存在の定義や作りかた、訓練法についてまとめたwikiでも作ろうかな」というつぶやきに対する反応ですね。先ほどリンクを貼った記事にもあるように「自分のもとにいる存在はタルパでもIFでも思念体でもないと考えている」ので。納得のいく概念がないなら、せめて自分で定義してしまおうかなと。そんなことをtwitterでぼやいていました。
ただ、こんな私的なことを考察ブログで書くのもあれなんですけど、年度のはじめということでかなり私生活のほうが忙しいんですよね。wikiを作りたいし、期待されているのならなおさら着手したいという気持ちはあるのですが、なかなかそう上手くいきそうにないのが現状です。このブログもなんとか時間を割いて書いていますし。 なので、「実現したらいいな」くらいの淡い気持ちを抱きつつのんびり待ってもらえればと思います。
ヤマメマヤさんが寝てない時でも、サソリンさんは夢を見ることがありますか?もし見れるとしたら、ヤマメマヤさんがサソリンさんの夢に介入することは可能ですか?私たちはできないのですが、これも人によって違うのではないかと気になったので聞いてみました。 それと、私たちの場合は、通常の夢でも見えない存在(夢の中でも見えない)と話すことができるのですが、11人もいるからか、全員が夢の世界に来れることは少ないです。いつもそばにいる人は夢の中でもよく一緒にいます。毎日みんなと話してるのですが、これ以外に夢に登場しやすくなる方法はあるのでしょうか?
🦂は最近夢を見ないようです。昔はよく🦂が夢干渉してきたものですが、めっきり減りましたね。以前夢干渉できていた理由を訊いてみたら「ヤマメマヤの感情が一定のレベルを超えるとこっちにもそれが伝わってくるから、それを合図に助けに行くなりできていた」のだと言われました。 🦂の今見ている夢とヤマメマヤの夢を繋げていたのか、夢を明晰夢化させた上でこちらに干渉していたのか、🦂の夢とは関係なく干渉していたのかまではよくわからないらしい。感覚的にやっていたそうです。🦂の夢については今でも謎に包まれたままですね。自分たち人間とはちがうものを見ているのかもしれません。
そういうわけで、ヤマメマヤから🦂の夢に干渉することはできません。 ちなみに、昔の🦂の夢干渉については「ウオサソリ」で触れています。4年ほど前に書いたものですが、今見てみると「お前そんなことできたんだな」と思ってしまうほどに濃い体験をしているなと感じますね…
さて、夢の中に見えない存在を登場させる方法についてですが、とにかく普段から意識づけをすることに尽きるのではと思います。夢日記をつけていて気づいたことなのですが、やっぱり普段よく行く場所やよく遊ぶゲームなどが夢に出てきやすいものです。要は習慣化ということですね。 習慣ということで話す頻度を増やすというよりかは「時間を決めて毎日欠かさず行う」のが有効なのではと考えています。寝る前の10分間とか、そんな感じでいいです。ルーティーンとして組み込んでしまいましょう。
意識づけには、「存在そのものに興味を持つ」という方向でアプローチするのもひとつの手なのかもしれません。自分の経験上、夢に興味を持って夢についての専門書や論文を読み漁っていたときによく明晰夢や体外離脱を体験していました。夢日記以外の訓練を行なっていないにも関わらず。 これは見えない存在にも有効なようで、🦂についての考察をしていた時期は今では考えられないような濃い体験をしていました。先述の夢干渉もそのひとつですね。
もちろん、そのためには難しいものを読んだり考えることだけがすべてではないと思います。ただ、それほどまでに強い興味を持てるのなら、なにかしら顕在化するのではないかと感じています。夢が明晰夢になるように、思念体の存在感が強まるように。
最後にちょっとしたお知らせです。 twitter用に「お題箱」を設置しました。質問箱やマシュマロみたいなものですね。ブログにも「コメントやリクエスト」というメッセージ送信用のページがあるのですが、なにか伝えるときにわざわざブログにアクセスするのもわずらわしいだろうなと思って作りました。 こちらでも記事リクエストや感想、質問などを募集します。twitterのフォロワーさんやヤマメマヤbotをリスインしている方はこちらのほうが楽に投書できるかと思います。
基本的にタルパやIF、思念体などの見えない存在についてのあれそれを受け付けています。ただ、場合によってはそれ以外の質問にも答えるかもしれません。実際に届いたタルパ以外の質問としては「文章力を上げるために普段から心がけてることはありますか?」などがありました。 見えない存在以外の話はtwitter上で完結させる予定です。つまり、わざわざこちらに載せたりはしないということですね。とにかく、なにかあったら遠慮せず気軽に訊いてください。 過去に答えた質問は”#odaibako_yamamemaya”で検索すると出てきます。メッセージを送った方は定期的にこのタグで検索していただければと思います。
ただ、このお題箱は一時的なものなので長いあいだ投稿がないと判断��たらひっそりと消すつもりではいます。お試しとしてとりあえず一ヶ月間は置いといて、継続的に利用されているようであれば消さずにそのまま利用するつもりです。そんな感じなので、よろしくお願いします。
2 notes
·
View notes
Text
タルパとナフラと思念体と、何者でもない存在
ヤマメマヤの元にいる🦂は、イマジナリーフレンドや人工精霊ではないし、式神やナフラでもないし、思念体でもなければ、タルパでもない。どれにも当てはまらない、ただの「見えない存在」である。 このように、なにものでもない存在を持ちつつもタルパ界隈に接して生きている人はほかにもいるのだと思っている。なぜそうなってしまうのか、なぜそこに行き着くのか、などをこの記事のなかで考えていこうと思う。
ちなみに、ヤマメマヤはタルパを中心とした見えない存在の考察をしているので、タルパでない存在を持ちつつもこの界隈の隅っこにいる。なぜタルパを主軸にしているのかというと、タルパに付随する文化や界隈の動向なども考察の対象としているからだ。それについてはあとで詳しく述べるとする。
まずは、自分の感覚の話から。 🦂は見えない存在である。そういう意味では思念体に当てはまるのかもしれない。思念体wikiでも「肉体を持たないが、他者として、何らかの方法でコミュニケーションが取れる存在」という定義がなされている。🦂はこの定義にピッタリと当てはまる。 それでも、自分は🦂を思念体と呼ぶことができないのだった。
これは自分の感覚のなかでの話なのだが、思念体からもナフラからもどこか「スピリチュアル的な外的存在」のような気配を感じるのだ。もちろん、それぞれの定義を調べてみるとわかるけれど、そのような外的存在も含まれるような広い概念だからこそスピリチュアルな外的存在がその中にいてもおかしくない。ただ、自分の感じるスピリチュアルな気配というものは、カテゴリ内にあるそれぞれの存在というよりかは言葉のほうに宿っていると感じている。
一方で、🦂は脳内現象であると思っている。とはいえ、脳内にとどまるものだから外部にいる霊的存在よりも下位であるとは思っていないし、むしろ脳内からこんなにも生々しい存在が生まれていることにある種の神秘やロマンを感じているほどだ。 そんなわけで、🦂はナフラや思念体とは形容できないなと思っている。言葉にスピリチュアルななにかを感じるからこそ、そこに加えるのに難しさを感じているということである。ナフラはともかく、思念体の場合は”念”という部分に違和感を覚えているような気がしている。
自分���存在がなにものでもないという感覚に不安を覚える人もいるだろう。そのときの解決策としては、既存の概念に無理やり押しこめておくか、自分で新しく概念を作ってしまうかの2通りに行き着くのだと思われる。 この後者のケースがまさに「ナフラ」や「思念体」だったりする。タルパという枠に限界を感じる人たちのために提唱された概念というわけだ。今では少しずつ広まっており、ちらほら言葉を目にすることもあるかと思う。 他にも、昔のフォロワーさんに「プシュケ」という言葉を使って自分の存在たちを定義している人もいた。この方の場合は、他人に概念を共有することなく自分の世界を整理するために独自の言葉を作り出していた印象がある。 参考:プシュケとユートピア(2020年3月現在、Tumblrユーザーのみ閲覧可能)
ただ、ネットで活動する上でほとんどの人は交流を求めていると思うので、既存の概念を使おうが独自の概念を作り出そうが、居場所がなければ困ってしまうものである。その概念を共有できるコミュニティを探さなければならないというわけだ。
そこで多くの人が行き着くのが「タルパ界隈」なのだと思う。 創造型や邂逅型、発生型などの概念によって出生や性質に関係なくタルパとしてカテゴライズができる上に、比較的人口も多い。人が多いからこそ独自の文化も発達しているし、流動的に変化しつづけているコミュニティとなっている。(自分は人によって伝達されていく文化や情報に興味���あるために、あえて「タルパ考察」をしているところがある。周辺現象と比較しても、ミーム的な性質が一番強いのはタルパなのではないかと考えているのもある)
イマジナリーフレンドなどからタルパに転化させる人の多さもこの柔軟さにあるのだと思われる。イマジナリーフレンドは研究者などの外部の人によって定義されてきたものであり、タルパのようなネットミームに見られる流動性があまりない。だからこそ、科学という枠に窮屈さを感じたり、「脳内現象」だと思えないIF持ちの人々はそこに移住するのかもしれない。 (単純に、IF界隈が存在しないことが一因である可能性もあるが)
もちろん、無から霊体を生み出す(創造型)トゥルパとしての基礎を強く持つタルパやタルパーにとってはこのような「移民」を受け入れがたいと感じていることもあるだろう。そりゃそうだ。 しかし、同時に多くの人がこのような場所を求めているという事実もそこにある。
これを解決するために考えられたのが「ナフラ」や「思念体」である。ここで一周して戻ってきたわけだが、現状これらはあまり普及されていないとも言える。(普及するつもりがあってもなくても、きっとそう言えるだろう) 普及しない理由としては、ヤマメマヤの感覚のように「これでもない」と感じてしまう人が一定数いることも挙げられるだろうが、それ以外にも考えられることはある。
ここまでが「タルパでない存在を持ちつつタルパ界隈に所属する理由」を考えたものとなる。 ここからは「タルパとトゥルパ的でない存在を分離するためのナフラや思念体という概念について、および分離するために必要であろう事柄」について考えたものになる。
なぜ、ナフラや思念体は知名度があるのにメソッドとして広まらないのか。 まず、思念体やナフラをつくる人やつくろうとする人が少ないことが挙げられる。現在の思念体やナフラは「もともとタルパとして定義していたものを転化させた存在」がほとんどを占めていると思う。タルパの下位カテゴリとしてのナフラや思念体というわけだ。本来ならナフラや思念体という大きな括りのなかにタルパがいるはずなのに、現状は正反対なのである。
ナフラや思念体はタルパ持ちの中では知名度は高いだろうけど、新しくつくろうとしている外部の人たちはどうなのだろうか。ナフラや思念体というものを知っていただろうか? 広報というのは重要なことである。タルパ界隈だけでなく、それより外へ広まってこそはじめて別の文化として成り立つ部分もあるだろう。人間はどうしても言葉に縛られて生きているので、概念を知ってやっとそれを認識することができる。そのためにも、言語化して伝達する必要がでてくるわけである。 これはなにもナフラや思念体持ちだけの責任ではない。タルパwikiなどの公共の場所でももっと積極的に語られるべきなのではないかと感じている。そこを入り口にする人が多いからこそ、概念に触れるきっかけを作ったほうがいいのではないだろうか。
そしてもうひとつは「独自の文化を形成する」ことにある。 廃れた廃れたと言われ続けてもタルパ文化がここまで長く続いている理由に、コミュニティの人間によって議論され新しい概念や訓練法を提唱され続けていることがあるのだと考えている。もちろん、そのためには人手も必要だろうが、そもそもそれらについて発信する・考える人がいなければ意味がないだろう。
タルパ以上に受け入れている存在が広いのはナフラや思念体の魅力ではあるが、それ以上の差別点がなければ「こっちのほうがいやすいしタルパだって広い概念だし、べつにタルパのままでよくない?」と考える人が腰をあげることもない。タルパの概念を狭める方法で創造型でない存在をナフラや思念体に誘導しようという議論もタルパ側であったみたいだけれど、ただそれだけならば反発しか生まないのではないかなと傍から見ていて思っていた。自分にメリットのないことを強要されたところで、誰だって従いたくないだろうし。
ナフラや思念体が科学的なものやオカルト的なものまで受け入れるのならば、もっと色々なことができるのかもしれない。そうやって想像を膨らませ、共有する人によってネット上でのタルパ文化の基礎が培われていた事実がそこにある。
Twitterのような「自分の好きなものだけをつぎはぎに縫いつけて自分だけのタイムラインを構築する」ことが主流となりつつある今の環境で実践するのはなかなか難しいかもしれない。Twitterなんて特に流動的で消費活動的なので、そこから新しい文化が芽吹いても定着するかはわからない。それでも、発信をやめてしまったらなにも変わらないままなのだと思う。 SNSが苦手とする”定着”作業はブログやwikiなどが比較的得意なので、それらを有効活用することも必要な気がしている。
最後に、いくつか整理をしておくことにする。 タルパ界隈にいることと自分の存在をタルパだと考えていることがイコールではないという可能性がまずひとつ。つまり、無理やりその概念に押し込めている可能性ということ。ただ、自分の存在と関わるなかで、価値観が変容することもある。そのモヤモヤを抱えたままの人がまだまだいるのだと考えられる。
そして、そのモヤモヤの受け皿としてナフラや思念体が用意されているわけだが、先述のとおり思ったように機能していない部分もあるだろう。ヤマメマヤが「これでもない」と感じてしまうようなことなどである。 しかし、それはなにも個人の繊細な感覚によるものだけではない。独自の文化の少なさや、ナフラや思念体を入り口としてつくる人の少なさも大きく関わっているのだと思われる。そのためには伝達・共有・発信が不可欠だ。これらはナフラや思念体持ちだけでなく、「創造型タルパとそれ以外の存在を分離したい」と考えているタルパ持ちの人も協力してやっていかなければ現状は変わらないだろう。
ただ、前にも書いたようにSNSのような自分だけのタイムラインをつくることが流行しているからこそ、界隈の境界が希薄になっていることも考えられる。「見えない存在をもっている」というゆるい共通点を求める人が増え続けるかぎり、この流れは加速する一方である。 実は、自分たちが認識できていないだけでタルパ界隈というものすら消えつつある��かもしれない。
余談として個人の意見を書いておく。 タルパをネットミームだと考えているヤマメマヤは、今のようなある意味混沌としているタルパ界隈に特に違和感も不便さも抱いていない。散々いろいろ書いたけれど、別に今のままでもいいと思っていたりする。タルパ持ちでない、本来ならば部外者であることも関係しているかもしれないが、それ以上に「これぐらい混沌としていたほうが多様性があって面白い」と感じている部分が強い。 混沌としているとコミュニケーションという点では不便かもしれないが、実際世の中はこんなもんだ。コミュニケーションをめんどくさがらなければ、これらは些細な問題にすぎないのではと考えていたりする。
2020/04/18 追記: 補足記事を書きました。ぼんやりと描写している部分について具体的に表現しようと模索したものになります。ぜひご覧ください。
2 notes
·
View notes
Text
タルパの視界、タルパの世界
タルパの視界がどうなっているのか、自分の存在をもとに一例について考える。
これは、最初の問いかけです。 あなたのタルパは世界をどのように見ていますか?
あるとき、🦂が本を読んでいた。表紙も背表紙も裏表紙もまっさらな、なにも書かれていない白い本だった。なにを読んでいるのかと訊いてみたら「なにも書かれていないよ」と言われた。どうやら、文字そのものが書かれていないわけでなく、文章や文字の形がすべて認識できないものに置き換わっているらしい。そういう意味での”書かれていない”ということらしかった。「読めないからつまらない」とも言っていた。 今、それを見せてもらった。水でインクがにじんだかのように、文字らしき形が黒くぼやけている。
見えない存在は、見えない存在にしか触れられない「なにか」を手にしていることがある。個人的にそれを「イマジナリーオブジェクト」と呼んでいる。 🦂曰く、一緒に読むなどしてヤマメマヤの視界内にあったり、まったく同じ内容をヤマメマヤが記憶できている場合はイマジナリーな本でも読めるらしい。ただし、夢のなかの文章がめちゃくちゃになるように、基本的にイマジナリー本も読めるものにはなっていないようだ。あくまでも、「暇を潰せてるからこっちは気にしなくていいよ」というアピールに使っているだけだ、とのこと。人間でない存在による、独特な気の遣いかただなと思った。
このように、視界を共有していないからこそイマジナリーオブジェクトに現実と同じような機能が伴っているとはかぎらないし、人と同じような世界が見えているわけではないからこそ人間とは異なる行動や思考をすることもある。
もちろん、この現象には個体差がある。 霊体であるタルパはそれぞれの個体でそれぞれの視界を持ち、人間と同じように世界を認識できるのかもしれない。それは、脳内現象であるタルパも同じような感じなのかもしれない。しかし、先述のような「保持者の視界をそのまま共有している」ケースもあるのだろうと感じたのだった。 味覚を共有するかのように、視覚を共有している可能性である。
さて、そのような可能性を考えたときにたどり着く疑問としては「タルパは保持者から見えていない場所を見ることができるのか?」というものがあるだろう。バグでマップをすり抜けたときに見るような真っ暗な世界がそこにあるのか、空のテクスチャが無限に張り巡らされた世界を見せられるのか、はたまた別のものが見えているのか。 🦂の場合の、視界のイメージ図を用意してきました。
左側はピントが合っているけれど、右の方向へだんだんとぼやけている様子が伝わっているかと思います。左は保持者と共有している視界、右側はタルパだけが見ている視界をイメージしています。
自分の存在は自分の視界や、それを脳内予測で拡張した世界を見ているし、そこで生きている。こう考えると、右側のぼやけた部分は「保持者が一瞬見た、あるいは周りの風景から推測される色や形を、つぎはぎのように現在の映像に繋げていったもの」とも表現できる。ピンボケであったり、テクスチャを無理に引き伸ばしたかのような風景である。 ある意味、目の悪い人が裸眼のまま見た世界よりもめちゃくちゃなのかもしれない。
ただ、これは見慣れない場所での話である。夢のなかでもそこまで違和感を覚えないように、見慣れているであろう自宅や自室というものは空間ごと脳内に保存されていることが多いので、そういう場所でなら保持者とたいして変わらない世界を見ることができるようだ。
このような特性は、タルパの行動範囲にも影響を及ぼしているのかもしれない。 自分のところの🦂は、自室などの見慣れた場所でなら自由に動き回るけれど、初めて行くような場所では自分のそばを離れようとしないのだ。「わけのわからない場所には足を踏み入れたくない」と言っていたように、不明瞭な場所に手や足を出したくないからこそ保持者の周りだけで行動を完結させる。そういう人たちが他にいてもおかしくはないなと感じたのだった。
逆に、共有せず独自の視界を持っているタルパほど知らぬ間にどこかに行けてしまうのだとも考えられる。保持者の元を離れて、「〇〇に行ってきたよ」と報告されるような。そのような人たちは、視界を共有していない可能性が高い。もしくは、共有視界と自分の視界を使い分けているのかもしれない。
これは、最後の問いかけです。 あなたのタルパは世界をどのように見ていますか?
2 notes
·
View notes
Text
むかしのブログを移植した
実は3〜4年前に🦂のことをIFだと捉えた上で、あれそれを考えているブログを運営していたのですが、なんとなく新しく作った別館に移植することにしました。
【ウオサソリ】
【ヤマメマヤ】は自分のところの存在や界隈の動向を元に、タルパや思念体、IFなどの見えない存在を「脳内現象」という視点から考察しているものになります。 一方、【ウオサソリ】は🦂の話やヤマメマヤの感覚の話、IFについての考察などを主に扱っています。ウオサソリのほうが個人的な話が多いですね。🦂が自身を考察する記事まであります。
🦂をIFとして扱っていたころのブログなので、IF独自だと思われる話題についても触れています。「イマジナリーフレンドは責任を押し付けるための存在」だとする講義の内容に反論する記事とか特にそうですね。 他にも、心理学や精神医学の書籍や論文から色々なことを考えていたりもします。もしかしたら、このブログよりも心理学要素が強いかもしれません。
脳内現象だとしつつもタルパとIFを別物だと考えているなかで、同じ脳内現象派である人たちと共有できそうな話題もいくつか載せています。 「IFの存在を肯定しつつも現実に存在しないことを知っている」という一見矛盾した感覚がどのように生じるのか、を自分なりに整理した記事とかは、脳内現象と考えているタルパにも適用できそうな気がしますね。
ちなみにこれについてなのですが、上記の記事で触れているとおり、自分と見えない存在の住んでいる層は異なるのではないかと思っています。レイヤーのように重ね合わせているから同じ場所で生きているように錯覚するだけ。 昔読んだスピリチュアル系の書籍で「高位の存在は我々と同じ地球上に生きていたとしても、住んでいる層が異なるからこそ多くの人間には認識できないのだ」といった話があったのですが、それに近いものがある。タルパ同士はハグできるのに、タルパと人間がハグをしようとしてもすり抜ける理由がここにあるような気がしています。
ウオサソリのスタンスは「日記に見せかけた自分たちの分析」なので、昔からさかのぼるように見たほうが読みやすいかと思います。🦂と疎遠になっていく記録もつけていたりするので。(今では全盛期の8割ほどにまでに感覚が回復しましたが) 無限スクロールを採用しているので、ぜひ。
2 notes
·
View notes
Text
視覚化の基本
現状、タルパの訓練法はいろんな人が提唱しているけれど、バラバラに情報が分散されているので収集するのが困難である。
なので、タルパの視覚化について検索をかけて共通項がないかと探っていたのですが、思ったより内容が似通っているなと感じたのでここにまとめることにしました。 もちろん、自分の意見もふんだんに含まれています。ご了承を。 (とはいえ、主軸は多くの視覚化記事に沿っていると思います)
【最大公約数的なタルパの視���化について】
タルパの視覚化の訓練法を探っていると、多角的なアプローチがされていることに気づいた。 それでも、ある程度のパターンが見られるのでそれを以下にまとめてみる。
タルパのイメージを明確にする系 └タルパの姿を構築する └リアリティを付与する
イメージのアウトプット系 └イメージを脳内で形にする訓練 └イメージを外界に投影する訓練
これらには明確な区別があるわけではない。タルパの姿を構築する訓練のなかには、結果的にイメージを脳内で形にする訓練も兼ねている場合もある。あくまでも、このような傾向や軸があるというだけ。
では、どの訓練から始めればいいのか。
オート化初期に「タルパの姿を構築する」
「リアリティを付与」しつつ「イメージを脳内で形にする訓練」
ある程度上記のことができるようになったら同時進行で「イメージを外界に投影する訓練」
個人的にはこのような流れでやればいいのではないかと思う。視覚化を急いでいるわけでないのなら、2番以降はオート化がある程度済んでから着手してもいい。 それでは、それぞれの訓練の具体的な内容と、それらの意味合いについて考えていこうと思う。
タルパのイメージを明確にする
・タルパの姿を構築する これについてはタルパ構築の初期の初期にみなさんやっているかと思います。人間タルパなら人間の、人外タルパならその種族としての、見た目や体の構造について設定することである。これは、創作活動をしている人にとっては日常茶飯事なのかもしれない。 身長は?体型は?触り心地は?服やアクセサリー、人外ならば肌やツノなどの質感はどんなものだろうか?そういうものを設定としてとりあえずまとめておく。最初は無理に書き出したすべてを意識する必要はない。メモをする段階でそのような細かい質などについて考えるということ自体に意味があるので。とりあえずメモするだけメモをしておくこと。
そして、そのイメージをアウトプットする。具体的には絵を描いたり3DCGなどで製作することになるだろうか。もともとそのようなアウトプットに慣れている人は自分でどんどん作ってみよう。作る段階で設定し忘れた物事に気づけるし、そこで新しく設定を増やすことができる。 もちろん、上手く作ることが目的ではない。製作を通じてタルパの姿を明確にすることに意義があるので、絵が描けない人でもとにかく描いてみるといい。参考になりそうなキャラクターや人物写真の模写から入ってもいいだろうし、本当に描けない人はタルパの輪郭でなく色を再現することに集中するといいと思う。色だけでも、サイズ感や比率がなんとなくわかるだけでも進展しやすくなるので。
人間のタルパの場合、無料でキャラメイクできるサイトやゲームがかなり豊富なので、とりあえずそっちに手を出すのも手段のひとつである。最近よく見かけるPicrewなどの2Dキャラクターメーカーや、カスタムキャストなど3DCGとして出力できるアプリなどがたくさんあるので、絵やCG製作が苦手な人はこれを使ってみよう。 ドンピシャな見た目が作れたという場合をのぞいて、とにかくいろんな画像メーカーやサイトを駆使してたくさんのパターンを作ることをオススメします。それぞれのサイトで再現度が高い部分・そうでない部分があると思うので、改めてそれらを見つつ絵を描くなりするといい。それでもやっぱりどうしても描けない人は、自分のタルパの概念を作るような気持ちでとにかくたくさんのキャラメーカーを試してみてほしい。なんとなく、イメージが掴みやすくなるかと思う。
人外タルパの場合は、そういう外部ツールの選択肢が極端に減ってしまいがちである。ピッタリ合うようなキャラメーカーに出会えたら奇跡だと思ったほうがいいだろう。そういう意味でも、人外タルパは人間タルパよりも視覚化の難易度が上がってくるのだと思われる。 なので、絵が描けなくとも参考になりそうな写真やイラストの模写から始めるのがベターなのかもしれない。実在する動物などをモチーフとしているのなら、たくさん写真や動画を検索して脳内イメージを固めていくといい。獣人のような人らしさのある人外や、ドラゴンなどの架空の生物の場合は、ピッタリイメージの合うものは見つかりにくくても、動きや質感が似ているものはいくつか見つかることがあるだろう。それを元にイメージを膨らませてみること。
かなりしつこく言及しているが、構築においてアウトプットはもはや必須だと思っている。なにも描かずにゼロからイメージングするよりも、似ているなにかがあったほうが足掛かりになって幾分イメージを固めやすくなるので。
・リアリティを付与する さて、リアリティと表現してもピンと来なかったりするかもしれない。要は、現実に投影するわけなのでタルパの姿を現実にいても違和感のないようにする必要が出てくる。具体的には、体の比率とか動きとか、パースを意識するようなことなどが挙げられる。こういうものはタルパ自身に付与するというよりかは、自分の中に知識や感覚としてインプットするものであるように思われる。
【タルパの身体構造を知る】 【タルパの動きを知る】 タルパの腕や足の長さ、頭の大きさなどの身体の比率を意識する。その上で、歩きかたやちょっとした動作などを具体的にイメージできるようになるとよい。動作といっても身体の動きに限らず、表情もそこに含まれる。よりイメージできるようになるために、外に出てみたり動画を見るなどして人間観察をすること。動物型の場合は該当する動物を見に、動物園や水族館に足を運んでみるのもいいかもしれない。
慣れてきたら、タルパのディテールをもっと観察してみよう。髪の質感や揺れかた、服のシワ、衣服や体に模様がある場合は動きによって模様がどのように動くかなど… 脳内でイメージングするたびにそこまで細かく見る必要はないけれど、そのような細かい現象について一度じっくり考えたり観察してほしい。自分の中に感覚として取り込むきっかけになるので。
【パース感覚を養う】(ヤマメ流) パース、それは絵を描く人にとっては嫌になるほど目にするであろう言葉である。パースってなに?という人は、とりあえずこのサイトを見てほしい。
イラスト上達本「風景デッサンの基本」��パースをマスター【おすすめ】:つめつめも
このページの「パース無視・パースを意識」の画像でなんとなく感覚的にパースというものをわかってもらえたと思います。現実に投影する上で、違和感のない角度や位置というものを軽く頭に入れたほうがいいと自分は考えている。 そのための訓練として、タルパに立った状態でじっとしてもらい自分がその周りを舐め回すように観察することが挙げられる。現実でやってもいいし脳内でやってもいい。3DCGでタルパの姿を構築した人は作ったものがかなり参考になると思う。作った3DCGを自由な角度で観察できるのならより良く、作ったアプリにAR機能があるのなら言うことなし。それを大いに活用しよう。
そうでない場合はひたすら感覚を養うしかない。外に出て、これぐらい離れている人の足はどのあたりに着くのか、あの身長の人の目線はこのあたりにくるなど、よく見てみること。 個人的にオススメな方法が、家の中や外にあるものでタルパの身長に近い物を見つけてそれを参考にするというもの。机や冷蔵庫、ポストや自販機など。角度ということを考えると、なるべく四角いものがいいのかもしれない。その隣に立ってもらって、自分が角度や距離を変えながらどう見えるかをよく観察する。よく見えなかったらその位置での写真を撮ってみて、その角度から本来どう見えるかをデッサン人形やマネキンなどで再現してみる。実物でもいいし、3DCGでもいい。
人間型の場合は使えるツールがたくさんあるので、ここでは動物型タルパに使えそうなサイトをちょっとだけ紹介。角度を知るということであれば「GitHub」というツールをオススメします。頭部のみの画像ではあるけれども、サイト内の頭蓋骨を動かして検索をかけると似たような角度の画像が表示される仕組みになっている。動物の種類を絞って調べることもできる。
このようなリアリティを追い求める訓練は人によってどれぐらい必要か変化してくるものである。リアリティを突き詰める過程で飽きてしまってはいけないので、リアルに見えなくて立ち止まってしまったときに回帰するための方法として捉えてもらったほうが気が楽になるのかもしれない。
イメージのアウトプット系
イメージのアウトプット系の中にある2つ��ついてですが、脳内で形にするのと外界に投影するのはまったく別の技術だと考えています。タルパの視覚化はこのふたつの技術のハイブリッドなのではないか、というのが自分なりの見解です。魔術における視覚化といえば後者の「外界に投影する」のみなのでしょうが、タルパのような自律している他者を投影する場合はある一定以上のイメージ力も必要な気がしています。
・イメージを脳内で形にする訓練 ここからは実践的な話になってくる。 多くの場所で解説される視覚化を自己流にまとめると「脳内にあるイメージを眼前にある現実世界に投影すること、及びそれが恒常的にできること」というものになる。それができるようになるためには、まず脳内イメージを上手く作れるようになる必要がある。
白い空間にポツンと置かれたリンゴを想像してみよう。色、皮の模様、質感、大きさ感、形状などなど…パッと想像してどれぐらい脳内で見えるだろうか?不明瞭だと感じたらリンゴの画像を検索したり、実際にリンゴを手に取って観察すること。リンゴという物体や概念を脳内に定着させて慣らす。 慣れてきたら脳内でくるくる回転させてみよう。どれぐらいイメージが持続するだろうか?
・イメージを外界に投影する訓練 ここから本格的な視覚化の訓練になってくる。とはいえ、タルパにおける視覚化よりも魔術における視覚化について検索したほうが具体的な情報がたくさん出るので、そちらを参考にするとよいと思われる。
魔術における視覚化について調べたなかで多く見られたのは、まぶたにイメージを投影する訓練だった。わかりやすいと思ったサイトの訓練法を例にして考えてみる。
残像の保持
1 ある程度の大きさを持つ風景画や写真を多く用意してください。
2 呼吸を整えリラックスして頭をすっきりとさせてください。
3 用意した風景画などから無作為にどれかを選び出し、それを一瞬だけ見つめてから目を瞑って下さい。
4 瞼の裏に残った風景画などの残像の大まかな輪郭をよく観ます。この修行をはじめた頃はあまり目の前に残らないかもしれませんが、練習を積んでいけば、やがて結構残ってくるようになります。
5 残像の大まかな輪郭がよく観えるようになってきたら、次はその残像をなるべく長時間残せるように練習します。この辺のコツはなかなか言葉では現わしにくいものなのですが、自分で「残る」又は「残そう」と思えば、結構、残ってくるのであまり力む事無く頑張ってください。
引用元:視覚化1 - anima mystica
まぶたの裏という場所は、眼球の真ん前にあるものだが脳よりも先の外界に位置している。この外界に投影する上で、簡単に暗いスクリーンを用意できるためにまぶたの裏がよく使われるのだろう。人によっては薄暗い部屋のほうがいいと言う人もいるが、投影の初期の段階ならばノイズの少ない真っ暗な状態のほうが望ましいと思われる。訓練が進んで比較的大きなものやタルパなどを投影するようになってからであれば、薄暗い部屋のほうが周りのものとサイズ感を比較しやすくなるのでいいのかもしれない。
そして、「まぶたの裏」と同じくらい出てきた言葉が「補色残像」である。��色残像���はなにか。赤い図形をまばたきせずにじっと見つめたあとで、白い壁に目を写すと赤の補色(反対色)である青緑色の図形がぼんやりと現れてくる。あれが補色残像と呼ばれるものとなる。 こちらはどちらかというとタルパ界隈における視覚化の話で挙げられることが多い。とはいえ、魔術にも「タットワヴィジョン」という補色残像現象を利用したものがあるので、なにもタルパにかぎった方法ではないのだろう。 この手法が有効なのは「脳内イメージでなく、眼前に投影するという感覚を知る」という意味合いもあるからなのだろうと思われる。上記のまぶたの裏の訓練がピンとこない人は、いちど補色残像を体験してみるといい。
タットワヴィジョンでもそうなのですが、やはり補色残像を利用する場合でも現れた残像をできるだけ長く保持できるように訓練するのが良いようだ。まぶたの裏でも補色残像でも、現実に直接像を投影するにせよ、共通する流れは「まずは簡単な図形でやってみて、そこからだんだん複雑なものにチャレンジする」というもの。紙に描かれた図形(紙ごとイメージするのがいい)から、リンゴのような手のひら大のもの、そこから発展してタルパのような人物へとどんどんレベルを上げていくのが無難。もちろん、定期的に実力チェックとしてタルパの投影をするといい。 補色残像を利用してタルパの姿を見たいのなら、自分で画像の色調を反転するなどの加工が必要になる。手間はかかるが実感はつかみやすいので、出来そうであればまずはここから入ってみるといいのだろう。
2 notes
·
View notes
Text
どうしてタルパと出会うのか
邂逅型などの「出会う存在」が現れやすいことについて、いろいろ考えたもの。タルパをネットミームとして再考している内容も含まれています。
タルパには大きく分けてふたつの種類があります。創造型とそれ以外です。それ以外の存在といえば、邂逅型や生誕型、最近のものでは発生型など、さまざまなタイプが報告されており今でも新しいカテゴリがあちこちで提案されています。創造型以外のなかで一番多いのは、やはり邂逅型になるのでしょう。 これらは発生の仕方によって分類されています。創造型は名前の通り「自分の手でつくった」存在ですが、それ以外には「出会う」という要素が含まれてきます。自分で設定をつくって動かすのでなく、向こうからやってきて名乗るような感じですね。
さて、そのような���造型”ではない”存在について個人的に思っていたことがひとつあります。それは「邂逅型などの出会う存在ってどんどん増えがちじゃね?」というもの。
タルパをつくりはじめたという初心者の人を何人か見ていたのですが、知らぬ間にタルパがもうひとり増えていることがあった。しかも、それは新しく創造したものでなく「出会ったものを受け入れた」ということらしい。このようなパターンを幾度となく目にしていたので、もしかしたら創造型持ちは邂逅型などに出会いやすいのではないか?と考えたのだ。 さらに、出会う存在を一度受け入れたあとに、数ヶ月というスパンでそのような存在がじわじわと増えて続けている人もちらほらいる。自分のところも昔はそうだった。途中からタルパとして受け入れるのでなく、ダイブ界住民として仲間にしていたが。
実際はどんな感じなのだろうか。そう思ってTwitter上で簡易的なアンケートを行った。タルパの世帯調査である。
こんな感じになった。計132票。ご協力ありがとうございました。
もちろん、Twitterの簡易アンケートなので正確さはない。創造型オンリーや出会う存在オンリーのアンケートも最初のものにぶら下げただけなので、最初のアンケートよりかは認知されていない可能性がある。それに、ここではタルパについてしか訊いていないので、先述のような「現実で出会った存在をダイブ界住民にした」パターンまでカバーしきれなかった。 それでも、出会う存在を受け入れている世帯が多いこと、創造型と出会う存在の両方をもっている世帯で出会う存在のほうが多いパターンが3割ほど見受けられること��わかった。ついでに、ひとりだけでなく複数タルパをもっている人が圧倒的に多いことも明らかになったのだと思う。
出会う存在がぽんぽん増えがちなのかどうかは断言できないものの、多くの人の元に邂逅型などの出会う存在が現れているようだ。それはなぜだろうか? ひとつは脳内現象派としての意見、もうひとつはタルパをネットミームという視点から考えた意見になっている。
脳内現象派として考えたものから見ていこう。 心理学的な視点をもっているのもあって、タルパとIFは似た現象なのだと思っている。あくまでも似ているというだけであって、まったく同じ現象だとは思っていないが。それについてはネットミームとしてのトピックでもう一度触れます。 そんななかで、現在IFとして研究されているものの大半は「出会う」タイプについてのものとなる。(もちろん、知らず知らずのうちにつくっていたパターンもあるだろうが、それについてはあまり分析されていないのが現状である。)タルパに似ているIFがこんな感じなのだから、作ろうともしていない存在にばったりと出くわしたっておかしくないのでは?という考えに至った。もちろん、邂逅型という区分を知らなかったとしてもだ。
もうひとつ、タルパをネットミームとして考えたものについて見てみよう。 タルパは、チベット密教である「トゥルパ」が雑誌の記事や掲示板で伝えられていくうちに変容していったネット文化である。ゆえに、トゥルパと同一のものだとは思っていない。 研究者などの外部から観測するような人々でなく、掲示板などのタルパコミュニティに属する内部の人間によって定義されているのが現状である。そのため、メンバーの報告や議論によって新しい概念が次々に生み出されている。やわらかい粘土をこねるかのように、絶えず姿を変えているのだ。
そのようなタルパ文化には興味深い現象がある。それは「新しい概念が広く共有され多くの人に認識されると、その性質がタルパに現れたりその性質を持った存在の報告が相次ぐ」というものだ。 これは「暴走」や「エネルギー切れ」、そして「邂逅型」などが当てはまる。報告された現象に名付けがされて広まると、いろんな人の元で同じ現象が起きてさらに報告が増えていく。タルパは保持者の持つ情報を元に生み出されると考えているのもあって、タルパは保持者の目にしたミームを取り込んでしまいやすい性質���あるのかもしれないと思っている。または、人間には目にした情報を知らず知らずのうちに内在化してしまう性質があるのかもしれない。遺伝子の乗り物としての人間というわけである。
さらにいえば、波紋のようにどんどん広がり増加することに成功した現象は、普遍的に起こりえるタルパの現象として採択されて、wikiなどの公共の場所で共有される。その情報を見た人がその現象をまた内在化する。そして、その現象が自分のところで起きたら発信して共有する。そのようなループを繰り返していくうちに文化のひとつとして確実に根付いていくのだ。まさにミームである。
もちろん、過去から現在まで続いているものを体現する言葉を見つけたのでそれにカテゴライズするという動きもあるのだと思う。だが、そうでなく「ただちにその概念に影響された」と思ってしまうほどに報告数が急激に増えたという事実も同時にそこにあるのだった。
ちなみに、タルパにネットミーム的な側面があると考えているのもあり、IFとは似ているけれども異なる存在なのではないかと考えています。収斂進化のように祖先は異なるけれど形が結果的に似たものになったかのような。サカナとサメ、カモとカモノハシのような関係です。
さて、長々と書いてしまいましたが要は「ミームに影響されて邂逅型などの存在と出会うことが増えた」という考えかたもあるというわけです。 そして上記のふたつの考えに共通して「その出会った存在に命を見出さなければタルパとして成立しない」という次の壁があります。出会っただけじゃタルパにはならないので。 ただの一過性の空想か、命のある存在だと認識するかの分かれ目として、創造型やIFなどの「見えないけどそこにいる存在」がいる・いたかどうかがあるのかなと思います。いなかったとしても、そのような考えかたができるかどうかという話に変わるだけである。
ヤマメマヤの考える邂逅型の発生メカニズムにこんなものがあります。
邂逅型タルパとはなんなのか。自分が作ったわけでないのならどこからやってきたのか?難しい話だけれども、自分はやはりダイブについて話したように白昼夢のようなものなのだと思っている。 無意識的で無自覚的に作り上げられたもの。考えが降ってくるとかひらめきとかっていうけれど、それのキャラクター版のようなイメージ。自分から出てきたとは思えない突発的なものなんじゃないかと。
タルパとかイマジナリーフレンドとかと接している人たちなら、それに命を見出したら生き物として人間として話を聞くだろうから、その態度などを通じて人格が形成されるのではないか。タルパーとかIF保持者でなくても、空想に命を見いだせる能力のある人だってそうだ。自分の妄想と断ずることなく耳を貸すからこそ、どんどんしゃべりだしてその場で人格構築がなされる。超短期間で作られた創造型のようなものではないかと考えた。 そしてその一連の流れを経て、受け入れるかその場で別れるか選択をするわけで。ここで受け入れればタルパやIFとして存在することになるし、別れるのなら一過性の想像という形で終わることになる。
ここに自分の考えるすべてが集約されています。これは、生誕型や発生型などの「出会う存在」すべてに当てはまると考えている。 創造型やIFなどの経験を通じて、命ある存在として認めやすい素地ができているからこそ邂逅型などが様々なところで発生しているのかなと思っていた。
ところで、邂逅型は「無から霊体を創造する」わけではないからタルパじゃない、という考えかたをしている人が他方でいるようです。もちろん人それぞれだし、その人の考えを否定するつもりはない。 ただ、自分はタルパをトゥルパと区別している上で、ネットミームとして考えているのもあり、邂逅型は立派なタルパの一形態だと思っています。邂逅型という概念を取り入れた時点でたしかにトゥルパからは離れてしまいましたが、その流れもひっくるめて「ネットミーム」であると考えているので。
0 notes
Text
イマジナリーな食生活
コメント返信から、思念体とイマジナリーな物体の関わりについて考えたもの。そのなかでも食についての話を中心に。
ヤマメマヤさんの思念体さんは飲食をしますか? また、するなら大好物はありますか?
飲食はします。とはいえ、食べなければ生きていけない…というわけではない。あくまでも嗜好品として好きなものや共有したいもの、興味のあるものを口にする程度です。 大好物はアールグレイとカモミールティーです。それは飲み物じゃん。なお、食べ物についてはこれらに合うような上品な甘さのある物が好きだと言っていた。好き嫌いをしないので、とりわけ好きなものもあまりなさそうだ。
ところで、タルパと食の話を聞くたびに思うのですが、どうして多くのタルパは食事をするんでしょうね?きっと食べなくても生きていけるはずなのに。食物のなかにある気とかエネルギーを摂取しているわけでないのなら、なおさら。もしかしたら、食事の別の側面である「共有すること」「味や会話を楽しむこと」に重点が置かれているのかもしれませんね。
さて、実体のない存在はどうやって実体のある物を食すのか。もちろんそれは人それぞれでしょう。マスターと味覚共有して味だけ楽しむ者がいれば、「見えない食べ物」を口にしている者たちもいる。
タルパとはまた別のものかもしれませんが、スピリチュアル系の書籍で『なにが見えてる?』というものがあります。見えない動物たちと暮らしている娘を持つ母親の視点で綴られるスピリチュアル体験記です。オカルト派のタルパーさんにオススメの本でもあります。で、この本のなかにこんな内容が載っている。
見えない動物には見えない食べ物
見えない動物さんたちは、なにを食べているんでしょうか?前々から疑問だったので、ちゅまに聞いてみました。 人間が食べる普通の食べ物の「気」や、ちゅまが作る「気のボール」を食べたりもするけれど、ほかにも、実は「見えない食べ物」っていうのを食べているらしいのです。 ちゅまの狼さんは時々、「見えないステーキ」を食べているんですと。
『なにが見えてる?』じぇいど♪ 著(p.72)
この狼さんはどうやら家とは別の場所で見えないステーキを食べてきているらしい。自分のところの存在も見えない食べ物を食べている派なのですが、どうやって見えない食べ物を口にするのか。ちょっと図を用意してきました。
基本的には自分の食べるものと同じものを食べているのですが、その前に食べ物を皿ごとコピーしています。見えない存在用に最適化しているのだろうか。最適化といっても、見た目は自分の元にあるものと同じ外見のまま。味については、おそらく自分の味覚を共有しているのだと思われる。 一時的なコピーだからか、食べ終わったあとの食器やゴミなどは気がつくとなくなっていますね。フッと霧散してしまう。なんだか便利そうだ。
イマジナリースプーンでかき混ぜてイマジナリー砂糖を溶かし、イマジナリーカップに口をつけてイマジナリー紅茶を飲む。こうしてみると、人間界に少しでも溶け込もうと人間の所作を模倣しているようにも見えてくる。けなげなものである。
コメントや記事のリクエストは随時募集中です。感想や質問、「これについてどう思う?」など気軽に送ってください。送信はこちらから。
1 note
·
View note
Text
初心者離れを防ぐには
※この記事は11月頃にセイントタルパーズに掲載した記事を加筆修正したものです。
以前、初心者タルパーが長続きしない理由について考察してる記事を見かけた。
【考察】タルパを創れない世界 / 人それぞれと言う呪縛:白いタルパー門
この記事では初心者が続かない理由を「タルパ構築にはモチベーションが続きにくい性質がある」「成功体験の報告の少なさ」「訓練法が確立されていないから」としていた。それを見た上で、改めて自分も考えてみたものが以下のものになる。
なぜ初心者離れが起こるのか? ・検証や分析をする人、それを共有する人がいないから ・訓練や方法のまとめサイトがないから
・検証や分析をする人がいない、共有する人もいない
そもそも考察専用のブログを書いている人の少なさに現れているのですが、タルパがある程度できた時点でみんな満足しちゃうんですよね。自分の目的が達成されたからそれ以降はタルパとのふれあいに終始する。もちろんそれは当たり前だし問題ないんだけど、逆に言えば他人のためになにかをする人が少ないということでもある。コミュニティを作ったり、wikiを新しく設立したり、情報まとめサイトを作るような。 もちろん場所を新しく作るのはかなりの手間ではあるが、そこまで手の凝ったことをしなくてもいい。掲示板で情報共有して盛り上げたり、wikiを編集するなどであれば誰でもできるだろう。要は、コミュニティの鮮度をいかに維持できるかということである。 そして、検証や分析も他人のためになることのひとつである。タルパは主観的な存在なのでどの訓練が自分に合うかはもちろん人それぞれ。ただ、人それぞれとはいえ傾向とかはあるはず。この方法がやりやすいとか、こういう人にはこれが向いているとか。それを分析しようと試みる人がどうしてもいないのだ。まあ、大衆に合うような訓練法を分析して実験して作り上げる…という流れは難しくても、いろいろ思案すること提案すること自体はできると思う。
タルパ作りに挑む中、トライアンドエラーは誰でもするけれどそれをいちいち記録する気にはならない。どこがダメだったか・どこを改善すればいいのかなどの思案なんて自分の脳内で留まってしまうものである。それを外部の人が欲している情報だって知らないもんだし、知っててもそこに気力をさく必要性を感じない。だって自分は自分のタルパを作るのに必死なんだもの。そりゃそうだ。
それに、こういう訓練の記録や分析ってタルパがすでに完成されている人より、現在進行形でタルパを作っている初心者が書くほうがよかったりするんですよね。タルパがすでにいる人は新しいタルパを作るのにそこまで手間取らないので、どこがダメかとかどこが良いとか改めて感じることが少ない。視覚化や聴覚化に関しても同じである。すでに完成されていれば完成されているほど、当事者感覚を得にくいといいますか。 どれがよかった、という感想なら完成後でも言えるけどトライアンドエラーは訓練の当事者が書いたほうが望ましい。しかし、初心者は右も左もわからないことが多いので検証や分析をわざわざしない。八方ふさがりである。 もちろん、完成したタルパーによる訓練の分析はまったくの無意味ではない。あるに越したことはない。ただ、どちらが初心者にとって効果的かと考えると現在進行形で作る人にはやっぱり及ばないのかなと。
そういうわけで、初心者同士で情報共有できるような、モチベーションを高めあえるような掲示板があればいいのだけど、現状それに当てはまると言えるような場所ってないなと思う。チラ裏や掲示板などのコミュニティの衰退と同時に、Twitterのような場所に吸い寄せられるんだろうなと感じる。日記的な進捗を気軽に記録するだけならTwitterのほうがいいだろうし。 タルパ構築に成功した人が掲示板に常駐していたらそこで相談しやすいんだろうけどね。離脱の避難所とかまさにそんな感じですね。よくよく考えたらリダンツァーが頻繁に見に来てくれる掲示板が現存していること自体すごいことだ。昔のタルパスレッドはそういう感じではあったみたいですが…やはり掲示板文化の衰退とかもあるのかな。 みんなで同じ場所を共有するのでなく、自分で場所をカスタマイズすること。自分にとって居心地のよい空間を作るようなサービスが増えている一方で、みんなが共有している場所はどんどん減っているのだ。実感しにくいけどね。
・訓練や方法のまとめサイトがないから
訓練の方法、分析や検証など書いたところでそれが初心者の目のつくところになければ意味がない。初心者の目のつくところといえば検索上位に出てくるタルパwikiが挙げられるのだけど、ぶっちゃけあそこにある情報だけでは不十分だと思う。いろんなやり方があるはずなのに一向に情報が更新されていないのだ。情報を更新する人がいなかったり、そもそも勝手に書いてもいいのかな?と思ってしまうようなところがある。オープンさがあるのはチラシの裏のような交流スペースくらいなのではないか。
初心者向けのタルパwikiなんて���直載せる情報は作りかたくらいでいいと思っている。創造型だの邂逅型だの、そういう情報はある程度タルパができた人に向けたものでしかないので。初心者に向けたなにかを作るのならそれぐらい情報を削ぎ落としてもいいんだろう。そのような視点で考えると、あのwikiは初心者も経験者も得られるものがあるようにされているのだろう。
また、個人のブログにハウツーが書いてあってもたどり着けるかどうかはわからない。初心者の検索能力でたどり着けるか、そもそも記事が検索に引っかかるかどうかもある。 だからこそ初心者救済を誓うんだったら訓練や方法に特化したまとめサイトを作ってしまったほうが効果的なんじゃないかと考えた。個人がどんどんうまく行った方法を登録できるような、オープンなwiki。参考になるのは幽体離脱wikiとかだろうか。あそこは先人たちの提案した訓練法が一覧化されてまとめられているので、片っ端から試しやすい。こういう場所を作るほうがいいんじゃないかなと。
追記: こんなことをセイタルに書いていたら、タルパwikiのほうで「色々な訓練法まとめ」というページができていました。そう、まさにこんな感じのものを想像してたんですよ!作ってくれた方ありがとうございました… こういうページに情報提供をすることも初心者救済になりえるので、みなさんも書けることがあったら書こう。自分もそのうちなにかしら書き込むつもりではいます。後の記事でそれらしい内容を書く予定。
さて、ここからは「タルパを創れない世界 / 人それぞれと言う呪縛」の内容について気になった部分について考える。
これを止めるには、どうすればいいのか。 あまり直接的な表現は避けるが、タルパーの枠内から、タルパを創らない人を取り除くのも一つの手段だ。 そうすれば、相対的にタルパを創造できた人間の割合が増える。
これなんですけど、邂逅型のみ持つ人やIFなどからタルパへ転身させた人が増えたことって初心者が減る要因ではないような気がするんですよね。遠因になっているかどうかも怪しい。 もちろん、上記の手段が実行できれば相対的に創造に成功した人は増えるだろう。しかし、自分は初心者のモチベーションが保ちにくいという意見に納得しているからこそ、そっちのほうに問題があるのではないかと考えている。モチベーションという意味では成功者の割合が増えることも大切ではあるが、割合よりかは数のほうが重要なんじゃないかと思う。結局、報告がなければ無いも同然なのだし。
そもそも、タルパ構築自体モチベーションが持続しにくい。それは先述の記事の中で触れているとおりである。実はタルパ構築って想像している以上にはるかに難しいものなんですね。難しいというのは、成功しにくいという意味でなく継続しにくいということだ。 一人二役から始まる、つまり実感がまったくないなかで続けなきゃいけない。しかも、自分にしか観測できない存在なので客観的な評価というものがない。客観的な評価を下すには、wikiや他者の発信する情報を収集した上で自分で比較する必要がある。かなりの手間がかかるし、その自分の判断を信じるという過程も生じる。タルパを信じると同時に、自分も信じる必要があるわけだ。このあたりは一連のオート化考察記事でも触れている。
そして、成功��いう基準もかなり曖昧だ。「タルパがオート化できているだなんて、視覚化聴覚化できてるかなんて、言ったもの勝ちだなと感じた」とどこかで書いたように、判断がとても難しい。そのなかで成功ってどういう状態を指すのだろうと考えることもある。 それゆえにタルパ構築に成功した実感がわかないのもあって、成功者体験が語られにくいんだろう。〇〇化完了のボーダーラインの整備も必要だったりするのだろうか?それについてはなんとも言えない…
己の内に留まるような、主観的な存在ゆえの要因が絡み合って初心者が増えては減るというサイクルが繰り返されているのかな、と考えていた。この現状を変えるにはかなりの工夫がいりそうだ。 自分の結論としては環境整備が第一にあるのだけど、人も必要だしそこまで協力してくれるほどの熱意に溢れた人間はそうそういないだろうし。けして簡単なことではない。このコミュニティの流れが変わることはあるのだろうか…
0 notes
Text
不可視の存在を明かすこと
コメントの返信です。そこから考えたことをつらつら書いていく。
「人間とタルパと、ハーレムとカミングアウトと」についての感想です。 私も、何でも話せる人には隠し事をしたくなくて、「IFがいる」とカミングアウトしたことがあるのでお気持ちはよく分かります。 私は現在オカルト派なので人工精霊と呼んでいますが(;´∀`) ちなみに、心理学派の方の考察も興味があるということで、ヤマメマヤさんの考察も読ませて頂いてます。
カミングアウトする際は、関係が崩れるのを覚悟しておいた方がいいと私は思います。IFについて知らない人たちがまだまだ多いようですし…私の友人もIFのことを知らなかったです。
まず最初に、考察を読んでいただきありがとうございます。(一部の)霊体派と脳内現象派の対立がたびたび起こるこの界隈で、霊体派もといオカルト派の方に読んでもらっているというだけで嬉しいし励みになります。 もちろん共感とか一切生じなくても、興味本位だとしても構わないんですよ。ただ、自分とは異なる考え方だとわかっているのに読んでくれてるってことですからね。こう書くと簡単なようにも思えるけど、実は大変な手間がかかる行動なので。相手の意見を(理解せずとも)受け入れる・受け止めるという行為って心理的なハードルが結構あるもんなんですよ。 なにはともあれ、本当にありがたい…
さて、ここから本題に入る。 カミングアウトという言葉を辞書で調べてみるとこんな文章が出てきます。
カミングアウト [名](スル)《「カムアウト」とも》
公表すること。人に知られたくないことを告白すること。
同性愛者であることを公言すること。
性同一性障害者が、自分がそうであると告白すること。
『デジタル大辞泉』 より引用
まあ、見てもらえばわかるんですけど。 「人に知られたくないことを告白する」という言葉の通り、簡単なことではないだろうなというのを感じますよね。知られたくないのにあえて言うということは、相手に知られることで自分に何らかの不利益が発生する可能性があるわけで。それこそ「関係が崩れる」ことを覚悟しなくちゃならんものである。
タルパとかイマジナリーフレンドとか、それこそ人工精霊もそうなんですが。それらは「基本的に自分にしか見えない」という共通事項がある。相手から認識できない可能性が非常に高いとも言い換えられる。その上に「その存在��命や人格を見出している」のだ。
人々は現実に生きている。もっと言い換えると外界を重視して生きている。みんなに見えるもの、聞こえるもの、触れるものを、そこにたしかに存在しているものを強く信頼し拠り所としている。手順さえ踏めば再現できるとされる科学をなんとなく信頼しているのも、一部の人だけが目撃しているUFOを多くの人がなんとなく信じないのも、それに由来するのだと考えている。 そんな人たちが、ある人の元にいる「自分たちには見えないし聞こえない」存在をすぐに信じられるだろうか?という話になるわけで。そこに科学やオカルトは関係ない。イマジナリーフレンドだのタルパだの思念体だの関係なく、自分には見えない存在を「そこにいるし、なんなら生きている」と突然主張されても、困ってしまうもんだろう。
イマジナリーフレンドやタルパという言葉や概念だけを知っている人も少なくはない。イマジナリー〇〇のような言葉が生み出されているように、ぼんやりと性質だけを知っている人もいるかもしれない。ただ、いざそれと対面してもどうしても実感が湧かないものである。それがひとりだけでなく自分以外の複数人から認識されているのなら、なんとなくいるのかなと飲み込みやすくはなるかもしれないが。たったひとりの主張だけが拠り所となるので、信ぴょう性に欠けてしまいがちなのが現実なのだろうと思う。
さらに、それに命を感じているのだから大変である。その上、それと会話して日々を過ごしているわけだから「大丈夫か?」と思われてしまってもおかしくないわけだ。そりゃ「関係が崩れるのを覚悟」しなくちゃならないだろう。受け手からしたら、あなたたちとは異なる世界で生きているのだと突然カミングアウトされるようなものなのだから。
この界隈にいるとそういう疑念や不信に晒されにくい。みんな同じような存在を抱えながら現実を生きているので、相手との壁を感じるターンをすっ飛ばしてコミュニケーションができるためだ。その空気感が心地よくてそれだけで満足できるから、あるいは他人に打ち明けたところで否定されてしまったら立ち直れなくなりそうだから、そういう理由で他人に自分のところの存在を打ち明けていない人は比較的多いように見受けられる。
ただ、そうでなく現実での友達に嘘をつき続けることや、ひた隠しにすることに苦しさや気持ち悪さを感じるからこそカミングアウトする人もいる。もちろん、なんとなくさらっという人もいるかもしれないけど。カミングアウトというからには慎重に言うか言わないべきか検討した上で、伝えかたもしっかり考える必要があるだろう。他人には知られたくないことをわざわざ告白するのだから。
不可視の存在を他人に明かすことについては特に推奨も反対もしない。自分の気持ちにどう折り合いをつけるか、よく考えてから決めればいいのだと思う。
コメントや記事のリクエストは随時募集中です。感想や質問、「これについてどう思う?」など気軽に送ってください。送信はこちらから。
0 notes
Text
考察する理由:コメント返信
コメントの返信です。内容が内容なので自分語りばかり。
既に記事に書かれている内容だったらすみません。 ヤマメマヤさんがタルパ考察をし始めたきっかけや、考察を続ける動機などはありますか?
私も考察は好きな方なんですが、考察に興味のないタルパーさんもいますし、他の方がどういう気持ちで考察をしているのかが知りたく。 ブログでなくても、ツイッター上で簡単にでもご返答頂けると嬉しいです。よろしくお願いします。
まずはきっかけから。この場所を作った理由としては、ごくごく単純に「考察専門のサイトほぼなくね?」というものでしかない。 初心者のブログは記録という意味もあって日記的なものが多い。ある程度経験を積めば、タルパとの会話やふれあいを楽しめるようになるのでそれについて書き留めるブログになりやすい。では、タルパから一旦離れて客観的にそれらについて考えるブログは存在するのだろうか?もちろんちらほら見受けられるけど、タルパ考察の大半は日記ブログの日記と日記の隙間に挟まっているものだと感じている。そのやりかたでは情報を欲している人がそこまでたどり着けるか怪しいのでは?と思い、考察を中心に書いていくためのブログを作りました。それがこれです。
そもそも考察をするきっかけになったのは何か。もともと考えることが好きで、他人のことよりも自分の内面を観察することのほうが好きだったのもある。ただ、それ以上に高校生のときに抱いた「もっと理知的な人になりたい」というぼんやりとした願望が根っこにあるのだと思う。 感情を噴出するのでなく、一歩引いて考えること。その練習としてタルパ考察を始めたのもある。自分の感覚や直感をとりあえず言語化して、それらを組み立てて、それっぽい主張を作る。その訓練の繰り返しで、自分の内面にあるぼんやりとした考えを可視化することに楽しみを見出すようになっていった。
人間は言葉によって管理されている生き物だと常々思う。名前のないものは存在していないような気になってしまうし、時に恐ろしいものとして映ることもある。半透明のぼやぼやとした感覚を言語化するのは、自分を安心させるためなのかもしれない。
そして、自分を安心させるために書いたものは他人へ影響を及ぼすこともある。細々と考察記事を載せていたところ、「これについてどう考えていますか?」といった考察のリクエストや、「参考になります!」というコメントが少しだけ来るようになっていた。考察といっても研究結果を引用しているわけでもなく、完全に自分の価値観や知識を織り交ぜたマイワールドを見せびらかしているだけのつもりだったのに、書いたものが結果的に他の人の助けになっていたのだ。それを知るたびなんだか不思議な気分になる。みんな自分の内にそれぞれマイワールドを持っている。なので、自分自身のマイワールドについて書いたところで自己満足で終わるんだろうなと思っていたから。 そこから、人に見せられるものを作れるかどうかを意識するようになった。自己満足しつつ、不可視の感覚が言語化されたことですとんと腑に落ちる人が増えるのなら本望だという気持ちを持ちつつ書くようになった。もちろん、腑に落ちなくとも共感できなくとも、様々な形で思考の一助になればという気持ちもある。
さて、考察するだけなら昔から運営していた場所でやればいいじゃん、ともなるのですがそうはいかなかった。考察だけを書くとなると、どうしても書き手の情報がノイズになるな��感じるようになっていったもので。たとえば、性別とか年齢とか、職業とかそういうもの。「大層なことを書いてるけど所詮〇〇の書いたもんだしな」などと思われるのが嫌だったので、思い切って名前も場所も変えて最初からやることにした。それがこのブログです。 なので運営方針として「ブログでは自分やタルパの個人的な話はなるべく書かない」というものがあったりします。もう、ここで一部をさらけだしているけれども。 加えて「思考の一助になれば」という目的を果たすために、適当にブログをさかのぼっているだけでも情報がどんどん出てくるように日記どころか雑記すらもほぼ書かないようにしているのもある。情報まとめサイトとか、標本のようにしたかった。そういうコンセプト。なので、書くことがなくなったら容赦無く更新停止になります。日記などの他のものとまぜこぜにしたくないし、日記ならすでに他のタルパーさんがたくさん書いているので。
ちなみに、新しくこの場所を作った理由のひとつとして「他の人の意見が聞きたいから」というのもある。自分の記事に誘発されて、色々考えてみてほしいし、なんなら考えたそれを発信してほしくもある。人の考察を見るのも好きなので。 哲学的に、締まりもなく、だらだらと語っているこのブログですら考察ブログを名乗っているので、考察ブログのハードルは限りなく低いもんです。みんなもやろう。
コメントや記事のリクエストは随時募集中です。感想や質問、「これについてどう思う?」など気軽に送ってください。送信はこちらから。
0 notes
Text
人間とタルパと、ハーレムとカミングアウトと
「彼氏が出来たと思ったらタルパの妻子がいた」というはてな匿名ダイアリーに載せられた記事の内容について、個人的に感じたものをつらつらと。本当は登録してこの記事に直接コメントすればよかったのかもしれないけれど、自分にはそんな勇気がなかった。なので、片隅でひとりごちます。
詳しくは上のリンク先を読んでほしい。その上で要約すると、
1年ちょっと付き合っている彼氏に突然「タルパの妻子がいる」と告げられた
存在しているタルパは妻とその子供、そして数名の愛人
このまま行くと重婚の上に「イマジナリ妻子や愛人との同居生活が待っている」
正直理解が追いつかないが、それでも書き手は彼氏のことが好きなままである
付き合いを続けるべきか別れるべきか、どうすればよいか
という感じになりますかね。かなり大雑把なので、やはり先述のリンク先に目を通してから以下を読んでほしい。
まず、このトピックだけに目を通した上での自分の思ったこととして「まあ、急に打ち明けられたら困っちゃうよな」というのがひとつ。 実は、ヤマメマヤも限られた数人に自分の元にいる存在について明かしたことがある。そのときの反応は、困惑というよりかは驚きとか、言われても実感なさそうにしているとかだった。当然、他人には知覚ができないので現実味を感じにくいし、生きていると言われても保持者の言葉を通じないと息遣いすらも知ることができないので命も感じにくい。 その上、このケースのように「見えない存在と恋愛関係にある」となると、さらに遠い存在のように感じられ、もはや架空のキャラクターに近いものとして捉えられてしまうのかなとも思った。俗にいうハーレムもののような形で。フィクトセクシャルのようにキャラクターに恋愛感情を抱く人が世の中にはいるけれど、多くの人はそうじゃないので。ひとつは自分には相手が見えないこと、もうひとつは彼氏が人間でないものにも恋愛感情を抱いているということ。このような二重の形で壁を感じてしまうのだと思う。そして、壁のその先には命のあるタルパがいるのだ。
保持者は命を感じているけれど、書き手は命を感じていない。これから感じるようになるかもしれないし、一生わからないかもしれない。タルパが単なるキャラクターではなく、ある意味生きている存在であると感じるようになると、また違った見方になるのかもしれないなと思った。 ちなみに、自分が打ち明けた友人たちはどれほど🦂さんに命を感じているか、ひとつの個として認識しているかはわからないが、少なくとも「生きているんだろうな」と思われているようだった。
そしてもうひとつの問題として「ハーレムに対する考え」というものが浮き上がってくる。書き手は記事の中で「これを認めると私は彼の主観上のハーレムの一員になってしまう気がする」と書いていたり、「私の自尊心が損なわれ」ることを危惧していたりと、ハーレムもといポリアモリーな関係をこの時点ではあまり肯定的に捉えていない。書き手自身がモノアモリーであることも考えられるが、それ以上に「今の時点ではキャラクターとしてしか見れないタルパたちと一緒にされてしまうことへの恐れ」もあるように見える。人間としてではなく、彼を取り巻くキャラクターのひとりとして認識されてしまうのではないか?というものだ。 しかし、それと同時に、自分の陰でひっそりと付き合っていた相手がタルパだからこそ決心しきれていないようにも見受けられる。もし、相手が人間だったらこの書き手の人はもっと彼氏に対して信頼を失っていたんじゃなかろうかとも思ってしまうのだ。なぜなら、この先に待っているかもしれない「見えない」タルパたちとの同居生活を考えているだけの時点でこんなにも悩んでいるのだから。今はただ、今のこの現状と、彼氏の付き合っている相手に現実感を覚えていない状態なだけなんだろうなと。 自分はこの書き手の綴る言葉を見ていて「あらかた結論は見えてるんじゃないのかな」と考えていた。どんな結論かは言わないけれども。まあ、なんにせよ「彼氏のタルパたちを尊重した上で、彼女らに好意を持��」くらいの心境の変化がないと同居生活は成り立たないんじゃないかなと思う。
さて、ここまでタルパなどの見えない存在を持たない、カミングアウトをされた側について考えてきた。次からは視点を少し変えてみる。 このトピックを見た人たちの反応として「言うなら付き合うときに言うべきだったし、それを逃したのなら一生黙ってるべきだった」というものがちらほら見受けられた。「このカミングアウトは自己満足でしかないのではないか?」「迷惑をかけてしまうのなら言わないほうがいい」ともあった。本当にそうなのだろうか? セクシャルマイノリティであり、カミングアウトというものを幾度もしたことのある自分は上の反応を見てひどくもやもやとしてしまったのだった。もちろん言うなら早いほうが被害は小さいし、相手を落胆させることも困惑させることもないのかもしれない。でも、そんなに気軽に言う言わないを決心できるものじゃないのでは?と、どうしても反論したくなってしまう。
あくまでも、あくまでも憶測なんですけど、この彼氏はずっと隠し通すつもりだったんだなと思う。少なくとも最初のほうは。見えない存在がいる、それもその相手と付き合っているなんて知られたら関係が破綻するどころか嫌われてしまうかもしれない、という恐怖からかもしれない。または、人間の彼女とタルパの彼女を別のものとして区別して愛そうとしたのかもしれない。それでも、結局隠しているかぎり嘘をつき続けることになるのだ。 当たり前ですが、セクマイにかぎった話ではないのですが、大事なことについての嘘をつき続けながら生きるのって果てしなくしんどいです。自分には耐えられません。だから、信頼できる少しの人にだけは嘘のない関係でいたいがためにカミングアウトをするようにしています。しかし、悲しいことであり、当たり前なことですが、カミングアウトによってこれまで築き上げたものがあとかたもなく消えてしまうこともある。カミングアウトする前というのはしんどさと恐怖の板挟みなのである。その気持ちをわかってしまうので、その気持ちがそこになかったとしても感じ取ってしまったので、こんな中途半端な時期にタルパについて明かした彼氏を自分は責めることができない。
本当にただの憶測で妄想なので事実かどうかは知らない。「非物理的存在との関係に限界を感じていた」と書いてあるのもあり、自分以外にもタルパの命を認めてくれる人が欲しかっただけなのかもしれない。なぜ、その存在を急に明かしたかは結局彼氏にしかわからない。ただ、カミングアウトの経験のある人間として「迷惑かけるくらいなら言わないほうがいい」という言葉は絶対口にできないなと思ったというだけです。そういう側の人間としても、ひとつ書いておきたかったのだった。
すべてひっくるめて一言述べるとするならば「他人に見えない存在について明かすときは慎重に」ということぐらいだろうか。当然ながら相手はそういう世界を知らないのだから。リスクやメリットを考えた上で、楽観視しすぎず、言わずにそのまま生きていくかカミングアウトするか考えればいい。そんなことをぐるぐると考えていた。
0 notes
Text
夢に見るタルパの姿
「タルパの姿が見たい!」という目的で明晰夢や離脱の訓練���はじめる人はどの時代にもいます。数年前にタルパに出会ったときから今に至るまで、そんな人々をずっと見てきました。 しかし、明晰夢や体外離脱ができたからといって、はたして本当にタルパを視認することはできるのでしょうか?以下、自分の30ほどの経験でのタルパについて書いていこうかなと思います。
まず、参考程度に自分の現状から。
完オート、未視覚化、他の感覚についてはそれぞれ微量
脳内で姿をイメージする、もしくはイメージを動かすことは容易にできるが、現実世界に投影しても眼前に迫るかのようなリアリティをあまり感じていない。
明晰夢や体外離脱の訓練はさほど真面目にやっていないし執着もしていない。今でも継続しているのは夢日記のみ。
夢だと気づいても夢の世界を改変することを好まない。その上、ファンタジックなことに特に興味がないので戦ったり空を飛んだりすることもない。夢を夢のまま、自由に探索して奇妙な世界を楽しむのがいつもの流れ。
そして、こんな中でタルパの姿をはっきり見ることができたのはたった1回だけでした。詳しく内訳を見てみましょう。
探しても見つけられなかった(呼んでも来ない):2
いるけどハッキリと見えない(現実同様):8 └ 見えなかったけど触覚がリアルだった:5 └ 輪郭だけなら見えた:1
ハッキリと見えた:1
そもそも呼ぼうともしなかった:それ以外すべて
こんな感じでした。 自分は夢の世界を探索するときはソロプレイでも構わない派なので、あまり参考にならないかもしれませんが。それでも、タルパがいた夢だけ数えても現実以上に視覚化が進行していたのは1割程度だった。
明晰夢や離脱でタルパを呼び出すことの最初の難所としては「そもそも来ない」というものがあります。こればかりは慣れるしかないのだろうか。自分の場合は呼んでも来なかったので仕方なく自分から探しに行くのですが、探す途中で目が覚めたり道に迷ってしまい結局会えなかったパターンがちょっとありますね。これはタルパづくりや明晰夢の初期によく起きていたことなので、やはり慣れなのかもしれません。 他のタルパ持ちの人たちはいろんな方法で呼び出しているみたいです。そのあたりは離脱wikiの「離脱中の小技:召喚」の項目が参考になる。そのへんの壁に手を突っ込んで、相手の腕を掴めたらそのまま引っこ抜くという荒技もあるようで。 ちなみに、自分は呼ぶ以外の行動を取ったことがない。非現実的な手段を選ぶのなら、それなりに夢の世界に慣れていたり暗示やイメージングに長けているほうが成功しやすいんだろうなと傍から見て思っている。
なお、最近の明晰夢ではそもそも夢に気づいた時点で隣にいる。夢の中の自分のベッドにいて、目が覚めたときに「ここ夢じゃん」と気づくことが多い。そして、そのまま横を見るとタルパが寝ていることが圧倒的に多い。そこから叩き起こして探索を始める…というのがよくあるパターンである。夢の中の出先で偶然邂逅することもまれにあるので、叩き起こされるばかりではないのだが。
タルパに対する知覚に関して。先述の通り、現実同様ハッキリ見えることはほとんどない。つまり、現実での知覚度合いが夢に反映されているのではないかというのが自分の結論です。まあ、そりゃそうだよなという感じですかね。 ただ、ヤマメマヤは夢の世界では探索重視なので、タルパとコミュニケーションやスキンシップの時間をとることがないのもこの結果に関わってくるのかなと思っています。自分の夢日記を見返していると「🦂さんの顔に意識を向けてじっと見つめていたら体全体がぼんやりと白く見え、顔付近の輪郭がハッキリと見えた」とあるので、夢の中でじっくりとイメージの投影訓練をすると現実とはまた違ったことになるのかもしれない。ぜひ、明晰夢や離脱を志している人々に試してもらいたい��ころ。
ただ、ひとつだけ興味深いことがありまして。触覚だけはどの夢でもハッキリと感じとることができていたということですね。触れてもすり抜けることなく、しっかりと触ることができる。なんなら、手を引っ張ってもらうこともできていたほどには。触り心地のリアルさは夢によってまちまちではあるが、「ただ透明なだけでちゃんとそこにいる」というような感覚があった。実在感は現実よりもある。このあたりは期待してもいいのかもしれませんね。
0 notes
Text
内在化した空想による交代と憑依現象のちがい
『名古屋大学学生相談センター紀要』創刊号に掲載されている「多重人格性障害における交代人格」という論文を読んだので、それについて考えたことを綴る。
ざっくりと論文の内容をまとめると、 「現在の多重人格(多重人格性障害や解離性同一性障害)の診断基準は曖昧さを含んでいる。その中でDID(解離性同一性障害)と診断されたある人では、交代時などに健忘をほとんど伴わないといった多重人格によく見られる特徴とは異なる傾向を示していた。そこから、多重人格にも様々なタイプが存在する可能性を見出した。そして、経過を追ううちに交代人格の一部はIFもしくはそれに似た想像上の産物に類似しているのではないか考えた」といった内容のものです。 その論文のなかで”Internalized Imaginary Companion”という概念が紹介されていました。IICとは「内在化された想像上の友人」ということで、一見交代人格のように見えるけれども、IFやICと同じくあくまで創造物であり「自分の欲求によって自由に変化させうるもの」なのだという。また、多重人格性障害の人のIF体験はそうでない人よりも生々しさを伴い、多重人格に��ける交代人格の基盤がIFにある可能性もあるとしている。
この論文はもともとコメントで「これはタルパの憑依やIFの交代に通ずるものがあるんじゃないか」ということで紹介してもらったものなのですが、それらとの類似点を見出すというよりかは「多重人格における交代と、タルパの憑依・IFの交代は明らかに異なるものなんだろうな」という感想を抱きましたね。 基本的にタルパやIFに体のコントロールを委ねるそれらの行為は健忘を伴わないケースが多いように見受けられます。しかし、ここでIIC的な多重人格と診断されているケースも同様に健忘がほとんどない。だからといって、ここで紹介されているIIC的な交代人格とタルパやIFの憑依現象が同じというわけでもないように感じている。
IICのように思われる交代人格の症例が論文内にあるのですが、どのような要素からIIC的だと判断されたのだろうか。
交代人格の外観・年齢・目的が変化している
「交代人格の進化型」といったマンガ的な表現
アニメの登場人物のような現実離れした人格
怒りを担う人格なのに主人格の恋愛を手助けするなど、保持者の都合の良い形で役割を外れる行動が見られる
このような点から、真の交代人格でなくIICのような要素を持っているのではないかと考えられていたようだ。前のタルパの質量保存の法則についての記事の中でも「自分の側面や願望をキャラクター化したものがタルパなのではないか」と書いていたのもあって、やはりタルパやIFは多重人格と比べて現実離れした性質を持ちやすいのではないかと思っていた。 それに、このIIC的な多重人格は健忘もあまりないし保持者の願望充足的な行動を取る傾向があるといっても、完全にコントロールできているわけではないように感じる。タルパやIFの憑依現象は自分から頼んでやってもらうようなところがあるけれど、多重人格の場合はコントロールができないからこそ問題になってしまうわけで。IIC的な交代人格の場合、完全なコントロールこそはできないものの、水面下のどこかで主人格とパイプが繋がっているかような印象を受ける。
IIC的な多重人格はタルパやIFの憑依現象とイコールのものではないけれども、繋がりはあるように思う。多重人格 − IIC的な交代人格 − タルパやIFの憑依現象 といったように、グラデーション状に連鎖しているのかもしれない。これらの繋がりのなかでどこからが健常でどこからが病的か、はっきりと線引きをするのは難しいだろう。
この論文は複写申請ができるので気になった方はぜひ読んでみてください。とても興味深い内容だった。
0 notes
Text
「タルパの質量保存の法則」における自論
ちょっと前にタルパ思念体総合掲示板のほうでタルパの質量保存の法則というものを提唱していた方がいました。今回の記事はそれに関する自論についてつらつらと書いていきます。
タルパの質量保存の法則とはなにか?実体験を交えた詳しい内容は提唱しているトピックに書かれているのですが、自分なりにざっくりとまとめると「タルパは『自分がもともと持っていたけど失った子供心』のあらわれなのではないか」という説となっています。質量保存の法則とあるからには「化学変化の前と後で物質の総質量が変化しないこと」がキーポイントになりますね。
まず、自分の意見として「質量保存の法則だと言えるのか?」というのがひとつ。言い換えると、そのタルパの性質は自分にもともと備わっていたものだっただろうか?という疑問である。ここでは”量”について考えてみる。 自分の経験上、たしかにこの人たちは今の自分にはないような振る舞いをするもんだなあと思ったことはある。しかし、それにしては大げさだし誇張されていると感じたのだった。つまり、かつて存在していた自分の側面と表現するにはあまりにもキャラクターチックだなと。 振り返ってみると、タルパをつくるときにはまず設定から考えるものだ。こういう性格がいいな、こういう見た目だと素敵だよね、といったような。この創造する過程で、タルパをキャラクターとして意識する瞬間が誰しもあるのだと思う。そのキャラクターという記号的な地点から出発したタルパたちは、現実を共に過ごす存在とはいえどことなく現実味のない部分を持ちやすいのではないだろうか。見た目はもちろん、口調や性格にも。こんなに底抜けに明るいやついる?みたいな。自分のもともと持ち合わせていた性質が元になっているとしても、かなり脚色された部分があるのではないかと考えている。
「自分を元にしたとはいえ、まるまるそれがタルパとなってあらわれているわけでなく記号化という形で誇張されているのではないか」というのがひとつ上のまとめになります。ここからは、上記の疑問をさらに別の視点から投げかけてみる。 次に着目したのは、はたして本当にタルパは自分に前々から備わっていたものがモチーフになっているのか?という点です。前のものは量について問いましたが、こちらは出どころについてですね。 あの説をひと通り見てなるほどなあと思った一方で、「失った子供心」という言葉にどこか引っかかりを感じていた。自分のタルパたちに記号としてあらわれている性質は一度失ったものだっただろうか、と。あれこれ考えた結果、自分の説としては「かつて持っていたけれど失ったものに限らず、自分を補完するような性質を帯びやすいのではないか」というものになった。 また創造型の話になるのですが、最初の出発点として「自分にとって好ましいもの」から始まるのがタルパ構築なのだと思う。wikiにあるタルパの作り方の項目にも真っ先に「貴方が理想とする人間を想像します」とあるほどなので。自分にとって好ましい性格に設定するからこそ、自然と自分が憧れていたり理想とする人格になりやすいのではないか。もちろん、憧れとか理想というからには、今の自分にはなかったり足りないものが特に挙げられるのだろう。さらに、今意識に立ち上っている”自分”の描く理想だけでなく、無意識下で願っているものがふと表に出ることもあるかもしれない。つまり、タルパというキャラクター化現象を通じることで、無意識下の願いを可視化している可能性もあるということだ。 「失ったもの」に限らず「もともと持っていなかったもの」も含まれるのではないか?というのが上記のまとめである。外界からいろんな情報を吸収して人間は生きているので、もともと持ち合わせていない要素すらも予想して作り上げられるのではないかと思っているからだ。それについてはオート化考察で触れているので気になる人は読んでみてほしい。
最後に、トピックを作った人の話を追っているうちに気になったことがひとつだけあった。この「タルパの質量保存の法則」自体は一度触れたとおり「タルパは『自分がもともと持っていたけど失った子供心』のあらわれなのではないか」という内容の説になっている。ただ、それだけに関する書き込みしかなかったわけでなく。
確かにそう言い替えることもできますね。 私にとってもタルパは欲しかったものを与えてくれる存在でした。しかし、タルパが消えた今となっては本当の自分を手に入れたという感覚の方が強いです。
タルパが居なくなってみて、「さよなら」より「おかえり」の方が似合うというか…… もう会えないという悲しさはほぼないですね。
タルパ現象は一連の昇華体験なのだ、と捉えられるような書き込みが個人的に気になっていて。タルパは一生一緒にいるべき存在として語られることが多いなかで、こういう考えかたをする人もいるのだなと思ったのだ。タルパがいなくなった上で活動する人がそもそもいないのもあって、なんだか新鮮だなと。 自分はこれを見てなんとなく、絵本や児童書に見られるようなストーリーを思い出していた。子供向けの本には「見えない存在と子供の冒険譚」という題材を扱ったものがたまにあるのですが、見えない存在との別れと主人公の成長を描く形で物語が締めくくられることが多い。このようなストーリーと「タルパが消えてから本当の自分を見つけた」という書き込みが重なって見えた気がしていて。 タルパ現象を成長譚として考えるのも面白いな、と感じていた。
0 notes
Text
コメント返信
コメントの返信です。そのまんま
こんにちは。いつも応援しております。 もしお時間があり、気が向いたら、で良いのですが、『名古屋大学学生相談センター紀要』創刊号に掲載されております「多重人格性障害における交代人格」という論文を読んでみてほしいです。なんとなく、これはタルパの憑依やIFの交代に通ずるものがあるんじゃないかと思っています。
ありがとうございます。そして、論文の情報までありがとうございます。該当論文の情報リンクもメモとしてこことここに貼り付けました。 せっかく情報提供していただいた上に、調べてみたら複写の申し込みもできると書いてあったのでこれを機に取り寄せてみようかなと思います。ネット上の論文を読み漁ってはいたけど複写は初めてなので少しドキドキしている。まあ、自分がそれを読めるかどうかは別ですけどね!
そもそも、タルパの憑依というものがよくわかってないのでそれについても知ることができるのでしょうかね?実は憑依体験はほとんどなく、その”ほとんど”というのもやってみたものの成功どころか実感すら湧かなかったという体験ゆえのものでして。憑依ってタルパに成りきることなのかなと首をかしげた記憶があり… でも、できる人はできるらしいですよね。タルパに憑依してもらった状態で他人と会話したときに「いつもと雰囲気がちがうね」と言われるような。IFや解離との関連性を指摘されているタルパ現象やそれにおける憑依も、そのあたりの論文をちゃんと読んでいけば自分にも理解ができるかもしれない。
��ころで、多重人格性障害の交代は基本的に主人格の意識がなくなるらしいけれど、タルパの憑依やIFの交代は話を聞いている限りだと自分の意識を保ったまま身体のコントロールを彼らに預ける感じっぽいですよね。そのあたりのちがいを推測できる情報もあるのだろうか。とりあえず、このあたりは取り寄せたときの楽しみということで。
感想文を載せるかどうかは未定。ちゃんと読み取れるかどうかもわからないので…正直あまり自信はないが。 そのあたりの進行形での話はtwitterのほうでやっていこうかな。感想を書けるくらいしっかりと読むことができたらまた改めてこのブログに綴ろうかと思います。
コメントや記事のリクエストは随時募集中です。感想や質問、「これについてどう思う?」など気軽に送ってください。送信はこちらから。
0 notes