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totonoi-2002 ¡ 2 years ago
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2023/03 年度末総括
息をするように嘘をつくことができるし、人を傷つけるのがうまいばかりでなんの取り柄もない。その場をしのぐためだけでなく、長い時間ずっとつき続けている嘘もあるし、あまりに嘘の話をしすぎてどこでどういった話を作ったのか思い出せないものもある。どういう言葉の言い回しで、どういうタイミングや態度で振る舞えばその人が一番悲しんで、傷ついてしまうかがわかる。その間、その人を見返したいとか憎んでいるとかそういった感情が起こるわけでなく、ただただ傷つけてみたい気持ちだけがある。傷つけたいと思う。そうして自分が満たされるのでもないし、最終的に���己嫌悪でぐにゃぐにゃになったあと死んでしまう。自分が家族からつらく悲しい思いにさせられた態度や言動をそのまま、試すようにしていろいろなひとたちに向けてぶつけたことが何度も何度もある。人にいじめられたことも、周りの人達と一緒になって人をいじめたこともあって、思い返すと家の外ではほとんど加害者でいられたと思う。それでもいまだに誰にも謝っていない。いまだって傷つけながら、悲しい思いをさせながらあえてそういう態度を貫いている相手が何人もいる。友達に助けられて大事に思ってると口では言うのに、実際は都合のいいように、自分の機嫌の波に合わせて手を伸ばしたり突き放したりを繰り返している。あるいはまだ「友達」の存在を拠り所にできる自分自身の状態、ふつうの人っぽい感覚に気持ちを置くことのできている自分自体を拠り所にしているのかもしれないと考えて涙が出る。私はよく友達にプレゼントを買ったり、ご飯を奢ったりお金を貸してそのまま返さなくてよいとか言ったりするが、喜んでほしいとか正直どうでもいいとかそういう気持ちが半分、あとの半分は罪滅ぼしに近い感覚でいる。誰のことも大事にできないから、特定の誰かに対してではないが、私が私自身の行いを償うみたいにお金で解決しようとしている。大事にできなかった今までと、これからこそは大事にできてると思い込むためにお金を使うようになる。自分と自分が友達たちへ向ける感情をお金で補強できると思っていることが憎らしく悔しい。
↓これ好き 育ててみたい (むり!)
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なにごとも猶予なく思い込んで決めつけては、あとから少しずつ、誤魔化すように座標をずらしていく。これが恥でなくてなんなのかと思う。頭がかたいから、自分の常識や感覚の範疇の外にあるものを基本的に貶してかかっている。異様に攻撃的で、横柄で、勝ち負けでもないのに自分の正しさでなにかしらを圧倒したくて、すべてマイナスからスタートする。こうやって根本的に人を見下しているのに、自分を誇れる度胸も材料も、努力の実績もない。だから人や状況、物事を知れば知るほど恥ずかしくて泣きそうになりながら、何度も何度も過去のそういう自分を反芻しながら、固まりはじめた泥粘土に少しずつ水を加えて変形させるみたいに、いつでも柔軟であれと願って誓っていく。本当にまともになりたい。あらゆる第一手を変えたいと考え続けて、審判をする自分をその場で立てることが少しずつできそうだが、やっぱりまだ力が弱い。意志の強さに欠けて、気分の荒波に飲まれた振る舞いや逡巡をして、またいつものように自己嫌悪する。はやく死んでしまいたい。自分のことをいっさい認められない自分と、まあそこそこなんちゃう?てちょっと高いところにいようとする自分がいて、後者が勝つときはおおむねろくでもない。高いところに長くいられるだけの持ち物の備蓄がないからだ。ずっと恥ずかしい、平たいところに立って平たいままで、知らないことや知らない人、考えてもわからないこと、自分や他人のプライドに優劣、無力さを素直に受け入れる力。素直さと柔軟さに欠けた、あまりに頑固でくだらない、閉鎖的で無駄な20年を生きてきた。いつもすべての決断を誤った。思い込みだけでつまづいた。手本を見て考え、先を見据えた行動することはいつでもとても難しかった。その先で過去を省みるとき、それでもやっぱり学びきれなかったことがいつまでも悔やまれて、何もかも戻ってこないことだけがいつまでも苦しくてつらい。自分にはいっさい価値がなく、何ひとつも誇るべきでなく、承認欲求をもつべきでなく、だれよりも低いところにいるという自覚がなによりも自分を守っていけると確信できる。自分を巣食うどんな痛みも悩みも、他の人たちの苦労や経験には決して及ばない。凪いでいたい、何にも揺さぶられない低い目線に死ぬまで居たい。はやく死にたい。自分がなにひとつも正しくなく、尊重されるべきでないことを理解する。自分自身に粗くやすりがけをするような感覚で、この文章を日々書きつらねている。何をするにもいまからでは遅く、先の時間が惜しいと強く強く思うこと。このこと自体が思い込みで、また過去の二の舞であると客観視するのを並行できる気がしている。完全に一方へ振り切れないが、ただ闇雲ではないと感じる。プライドや自尊心をぜんぶ諦めて、その代わりに素直さと柔軟さを手にすることを諦めないようにしたい。素直、素直になりたい本当に、ひねくれて斜に構えた態度をぜんぶ捨てたい、やさしく穏やかな気持ちを携えて、はやめに死にたい!
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totonoi-2002 ¡ 4 years ago
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2020/11/8
快不快ジャッジ・他 の雑記
そうなんだ、でもわたしはいいと思うよ、わたしはそういうの気にしないよ、でもちょっともったいないね。そうですか、はい。
ただ私が存在することについてなぜか当然のように、まるで自分たちには自らの快不快によって簡単に私の存在を認めたり認めなかったりできる特権があるかのように振る舞い、勝手にジャッジされている。あなたたちは何様なんだろう。あなたたちのなかでそういう傲慢な仕草がほとんどありふれておこる理由は何だろうと考える。あなたは自分の足元をよく見たことがあるだろうか。
去年のちょうど今頃だったと思う、おっさんずラブの���場版がたしか公開されたよね。私はドラマもリアルタイムで追っていたし作品自体かなり好んでいた方で、当然劇場版も楽しみだった。何よりこの時代にテーマとして同性愛をポジティブに扱うドラマがあることが嬉しいなあと素直に思っていたし、演技や演出のキャッチーなコメディタッチ (ここもあんまり掘り下げるといいことばかりではないけれど、まあここでは割愛します) によって当事者でない一般の層からもかなり支持を集めていた記憶がある。そういった中でたまたま周りの友達数人とおっさんずラブの話をすることがあった。映画がちょうど話題になっていたから、見てた人おる?みたいな軽い調子で話が始まった。部活の昼ご飯のときやったかな?懐かしいね、あっおもいだしたらめちゃ部活したくなった....。
まあいいや、そうやってドラマの印象に残ったシーンや笑えたシーンの話をしてにぎわっていて、なんでもない会話の流れの中、本当になんでもない、とくに憚ることでもないかのように、「ホモはおもろいしなんか大丈夫やけどレズはちょっとキモいよな」、友達のひとりが笑いながら言って、「それはまあ結構わかる」、共感の意を示す相槌が打たれて、話題はそこから何でもないようにまたドラマの内容に戻っていった。
私は盛り上がっている場には絶対に水を指せない性格で、そのためその時の自分がどんな感情になっていようと、先の自分と変わらず何でもないように振る舞い続けることができた。具体的に言えば、彼女の発言にまわりと同じように共感して、まあ同じようにけらけら笑って同じように元の話題に戻っていった。私は社会が前提とする異性愛者だった。あの日の昼休憩はあと20分しかなかったから、話を続けながらもさっさと食べてしまわないといけなかった。そうやって時間に追われていたのもあったかもしれないけれど、今思い返すとあの瞬間に何を言われたのか、咄嗟に処理・判断できなかったのかもしれなかったとも思う。 本当にわからなかった。それくらいあまりに自然に、当然のように共有された価値観だったのだ。
家に帰って思い返す。記憶の中であの瞬間にたどり着くと同時に、頭に冷水をかけられたような感覚になったことをはっきりと思い出せる。
彼女はおっさんずラブに登場するゲイが“なんかおもしろい”から、彼女の快不快の観点から“大丈夫”だと判断した。一方でレズビアンは彼女の快不快の観点から“ちょっとキモい”から“大丈夫じゃない”と判断した。
そこまでまとめると身体の力がすーっと抜けて、もう考えるのが苦しいなあと思った。
個人の快不快、というのは人の存在意義までも判断できうるような誠実な、信頼できるものなのだろうか。���、決してそうではないし、何より人が存在してあたりまえに人生を営む権利をそのような不誠実な根拠によって誰かが奪ったり、存在自体をないものとして扱ったり、都合のよいときだけ好ましいおもちゃとして消費することはまったく許されてはならないことだと私は思う。彼女やまわりが自然に同調する根源は何だろうと考える。この経験は、個人の快不快によって人の存在意義をはかることを特に咎めることもなく、当たり前に発信するメディアやバラエティ番組、フィクション作品のあり方やその不誠実さ、それらの強く広い影響力について私に考えさせるきっかけになった。
直近でこれに関する話題といえば、某ドッキリ番組での同性愛者に対する偏見まみれのネタや、同性愛作品に対して“嫌悪感がない”と大きく見出ししたメディア記事だろう。某区議会のゴミみたいな個人の発言はともかく、何よりずっと疑問なのは、ここまでLGBTに関するさまざまな抗議運動や話題が世間で活発化している中で、そのようなメディア・バラエティ番組などで取り扱う内容について丁寧に精査する人はいないのだろうかということだ。これらの情報源が世間に与える影響は、想像より遥かに大きく根強いものなのだと思う。(私が気付けなかっただけで、今までにも無意識のうちに少しずつああいう価値観を刷り込むようなものがいくつもいくつもあったのだろうなと思うし、それがあの会話の間でも自然に発露したのだと思う) はたしてそこにまで考えがまったく及ばないのか、あるいはそれが社会に与える影響によって生き死にを迫られるような人にはいっさい構う必要がないと認識されているのか、私にはとうてい判断がつかない。どちらでもあるように思えるし、どちらでもなく、もっとくだらない何かがあるようにも思える (どっかの誰かが抜かしていた“守られるべき社会道徳”とかいうやつかもしれん...はあ......?)
翌日です。
話を戻すけれど、そう、快不快によるジャッジの話ね。ぐだぐだここまで述べたけれど、端的に言えばその経験によって私はめちゃくちゃ傷ついたということです。それも大好きな友達に何のはばかりもなく告げられたというのは、私が自分で思う以上に強くショックを受けていたのだと思う。当時は顔を怪我したり子宮内膜症の診断を受けたり親父や部活の人間関係でぐちゃぐちゃになっていたり、そういう様々なことの積み重ねでしんどくなって学校に行けなくなっていたら留年の危機に瀕したりするなどあらゆるイベント(?)てんこ盛りで慌ただしかったけれど、まあ確かな傷だったのだろうと思います。今もこうして思い出すことによって心がグュ....となっている。
今の私がそういう経験によって友達を嫌ったり、すすんで縁を切ろうとすることは絶対にないだろうと断言できる。社会経験を積んでさまざまな情報や知識��触れてきたはずの大の大人がああいう発言をするならともかく、私も友達も高校生で (高校生であることが免罪符になるとも思っていません) 、まだまだ得られていない情報も知識も、それらの正確性を判断する力も養いきれていないのだと思うから、ある程度は仕方のないことなのかもしれない。それでも私のような歳の子供に正しい知識や情報・正確性を判断する力を与える機会をここにくるまで積み上げてこれなかったあらゆる環境には責任があると考えている。高校生になってからの性教育でためになったのは“不妊の原因は女性だけでなく男性にもある”という情報だけで、それ以外はあたりさわりのない教科書の内容を読んだような記憶しかない。(まだ中学の時の方がコンドームの使い方や性行為を断る権利の話・HIVについての講演とか有益なものがあった....)セクシュアリティや差別についての学習は著しく不足していたと感じる。まあもう過ぎたことを言っても仕方ないんだけど、でも学生の間にこういう知識を得る機会を充実させることは本当に必須だと思います。
またぐだぐだ言ってしまった... ぐだぐだ言うための雑記なので趣旨から逸れてはいないけれど、脱線してぐだぐだ言いすぎる自覚はめちゃくちゃある....。
友達のことが好きだからこれからも仲良くしていきたいし大事に思っていきたい。そうして大事に思っていけるために、大事に思えなくなるような経験をもたらす社会がはやくどうにかなってほしいなという祈りのクソ長文でした。
近況のコーナーです。安定していることが何ひとつなく、進路も集中力も危機感もブレブレしぎてなんかもう内側から破損しそうな感じではある。なんか講習の人も減ったし、そうあれなんで!?何でやと思います? みんなで12月まで頑張ってこうね♪つって始まったはずなんだが.....。今日は友達が傘を見つけてくれて本当に助かった。人の善意に生かされている。あとおととい鬼滅を見に行ったりしたな!クソ住民投票があった、なんか最近は人もたくさん死んだ 、親父ともうやっていけないという決定打があった、なるべく関わりを絶った (と言いきれんような まだ努力の段階.....) 、てか大阪市の住民投票もアメリカの選挙もだけど情報の正確性を確認せずにゴチャゴチャ言う人多すぎてめちゃくちゃストレスだった....あんな単純に流されてて生きていけるのか?と怖くなった。歳も取ったしちょっとずつ寒くなってきた。ツイッターをやめたいなあと思いながら毎日常駐してしまう。友達とふざける時間がほしいしとりあえず部活がしたいかな!? 鶴橋のデケーパフェ食いたい、見たことあります?写真載せれるしみんな見てください。はあ。
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すごいでしょ。めっちゃうまいですよ。happy
昨今のアレ的に先の楽しいことが確実にあるかどうかがわからないから、これのために頑張ろう!みたいな奮い立たせ方も叶わずマジで虚無だ〜♪とりあえず生きていこうね うん はい。
(*これまでプライベッターに載せていた雑記をこちらに移しました。この先書く時もこっちに載せるかと思います。絶対こっちの方がいい♪ていう思いつきで移動したけどはるかに読みづらくなって笑うしかない。
雑記もそうだけどまあなんかまたイベント出る時とか何かしらまとめるときはたんぶらにのせるね よろしく)
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totonoi-2002 ¡ 4 years ago
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2020/09/26
踏みつけた足を退けてみる雑記
足元にご注意ください、とてもとてもね。
じゃあどうすればいいの?と返されて言葉に詰まった。とりたてて何かして欲しいわけでも特別に扱って欲しいわけでもなく、ただそうあることについてああそうなんだ、とだけ思ってくれればよいだけなのだ。ただそうあること、ただそうある人に対してやたらと厳しく、無神経で攻撃的な世界だ。特定の何かについて、というより自身のあり方を表明するおおよそのことにはこういうフェーズがあるなという感じ。そしてそれを仕方ないことだと甘んじて受容していたくはないなという気持ち.......。
透明化、という暴力がある。
声を上げるある人々に対して、いたずらに踏みつけるでも理不尽に蹂躙するでも、無神経に消費するでもなく、彼らをただ単純に存在しないこととする、途方もなく非情な暴力だ。こういった暴力はあらゆる迫害の歴史の中で幾度となく振るわれてきたし、いまだに素知らぬ顔で横行している。
同性同士の恋愛を描く映画の広報に同性愛を異性愛に置き換えるというやばすぎる企画が上がったことに対して「異性愛も同性愛もそれぞれ同じ愛の形なんだから置き換えたところで問題はない」とする声があって、わたしはめっちゃ怒ってしまった...
異性愛や同性愛、また他のあらゆる愛の形というのは確かにどれも同じ愛に変わりないはずだ。でもそのことをその通りだと認識する社会はこの国に形成されているだろうか。否、できてはおらず、それどころか議員が「性的少数者に対する理解を深める必要はない」などと笑いながら意見したり、同性間の結婚が認められなかったり、そういうテーマを取り扱った作品に「性別を超えた」なんていうコピーが平然とついたりする。(このコピー本当に気味悪いよね 強いて言うなら性別を超えてるのは異性愛の方だし 何を伝えたいのかわかんない.....異性愛規範を超えた って言いたいのかな?)
あらゆる表象においてそれらを置き換えても問題ないとすることができるのは、それらに対して十分な権利が与えられていること (そもそも権利を与える与えない、存在を認める認めないという状況がおかしいが) 社会全体の意識が伴っていることが前提条件で、そこが達成されていないのにああいう表現が通されたことはあまりに暴力的だし���許されてはいけない。土壌が形成されてない社会であの表現をすることは、同性愛者の透明化で、差別以外の何物でもないよ。
ゲイのラブストーリーについて「これは普遍的な愛なんだ」という監督から現状への強いプロテストが多数派に都合よく曲解されてしまうの、本当にひどいし悲しいしやり切れないなという思いでいっぱいになる。どうして....そんなにも傲慢なんだ.....
パートナーシップという制度がある。同性と同性がこの国における異性間での婚姻関係に限りなく近い関係になること、婚姻関係に限りなく近い扱いを受けることが許されるというものだ。けれどこれだって結局は、この国ではお前たちがそういうふうに (婚姻関係として) 存在することを許さないよ、認めないよと暗に告げているようなものだ。ひどい差別だ、異性愛規範が憎すぎる。パートナーシップで家族になりました、と嬉々として発表する同性カップルを見て嬉しい反面、でも結局は他人同士、限りなく近いだけで本当の家族にはなれないのだという理不尽な現実のことを考えてつらくなる。パートナーシップを甘んじているうちは国の頭の固い人たちにはこの異常すぎる現状が伝わらないだろうと思うし、今ある制度は十分に活用しつつ、異性愛者となんら変わらない関係を当たり前に築けるために抗議し続けなければならないのだと思う。
どうしてそこにいるのに、平気でいないことにできるんだろう。当たり前に存在しているのに。今社会から透明化されている人達について、彼らが当たり前に権利を得ることによって国が被る不利益ってなんだろう。なんだと思いますか? 本当になんなんだろう、何が気に食わなくて彼らから“当たり前”を取り上げ、存在をなかったことにするのだろう。国にはそんなことをわざわざする理由も、被る不利益も本来ないはずなのに、ないはずのものを一生懸命にでっち上げて彼らを踏みつけ、存在を消そうとするのにどうやら忙しいらしい....
....という文章を夜のうちにしたためて寝ました。
今朝、ファントム・フィルムからの謝罪文が出ていたようなので目を通した。が、案の定「ご不快な思いを」「そういう意図はなかった」などのありふれた謝罪ポーズを取っただけのものでははーーーーん最後までしっかり裏切りませんね(白目)って感じになり三度寝した。
起きたのでもう一度読んでまとめるけれど、ああいう「”そういった意図はなかった”が、“ご不快な思いをさせて”しまい申し訳ございません」という謝罪。結局謝罪側が何を反省したのか、どの辺がまずかったと認識したのかについてするっと抜け落ちているし、本当に「勝手に不快な気持ちになったり勝手に誤解した人たちにとりあえず謝罪のポーズを取る」というふうに、あくまで受け手の問題としているところが本当に不誠実だなと思います。クィアの物語に携わっているのにその当事者の視点が著しく欠けていることも、同じく不誠実なことだ。しかも今回に関しては携わった漫画家に対して迷惑をかけたことやそれについての謝罪���同文中に述べていて、マジで意味がわからなかった...これはどこに向けた謝罪なの?何をまずかったと思ってその文章を公開したの?同性愛者を差別して異性愛規範のおもちゃにし、透明化するような表現をしてしまったことがまずかったとちゃんと認識しているの?何もわからない文章だった。この謝罪ポーズがなんの謝罪にもなってないということはもっと認識されるべきだ.....。
毎月末、こういうふうに長めの雑記を書こうと心がけているのですが、だいたいいつも自分のことを書く前にちょうど何らかの話題とかちあい、結局それについて意見するというような形式になってきました。
自分のことを書こうかな、と言ってもどっち道こういう方面になってしまうため、興味のある人だけが目を通してふーんと思ってくれればいいかな、て感じだよ。
3年くらい前の時点で、ホモは差別用語だからやめよう、NLて言い方はよくないよねみたいなのをふらっと見かけてからなんとなく使わないようにしてた。BLって言ったし男女カプ、とかHL (ヘルサレムズ・ロットと勘違いされたことある....) とか使ってたんだけれど、自分が特にそういう話題で燃えたりいちいち学級会()になったりしないような、頓着しない百合の界隈にいたのもあり、特定のキャラについてレズ、と呼ぶのだけはめちゃくちゃやっていた。このクソレズほんとさあ....好きだよ!みたいなのももう本当にめっちゃ言ってたし自分の同人誌のことクソレズポエムブックって呼んでた....(その当時でも「“百合”はプラトニックなもので、“レズ”は性欲が絡むもの」みたいなカスの意見にキレ散らかしたりはしてたし、そういうこと抜かすやつが現実のレズビアンをどんな目で見ているかがよくわかるな!とか言って特攻したり喧嘩したりはしたんですが) これも蔑称かつ差別用語だと知ったのはこの1年とかの話で、ほんとに自分が無自覚のうちに何かの差別に加担している可能性がある、というのはいつでも気にしながら生活していかないといけないな...と改めて強く思った。差別を許さないという意識と自分も差別しているかもしれない、という意識は両立して持っておくべきだ。(ツイログかツイセーブで2年前くらいのツイート検索してもらったらわかると思うけど、本当に蔑称オンパレードなので、マジでマジで反省してる.....)
先述した「百合はプラトニック、レズは性欲」みたいな風潮が私は当時から本当に気に食わず、話題に上がるたびに化石は黙っとれ!とか言ってキレ散らかしてた。レズに限らず、ホモもそういった文脈で使われているのが頻繁に散見されていたので、同性愛者=性欲の権化、みたいな使われ方が本当に嫌だったんだよね。もちろん今も嫌だけど。何せわたしは百合に対するこだわりがめちゃくちゃ強いため、適当な理由で百合を上げたり下げたりするオタクがマジで無理で、(これは百合とかでなくもっと高尚な何か、みたいな言説。リズ鳥の時に腐るほど見た。これ本当に無理、百合っつっ��ら百合なんじゃ) 前にも言ったかもしれないけれど、「正負問わず特別な感情が発生した二者(あるいは三者)」のことを私は百合だと定義してさまざまな女たちの話をしてきたため、そのあたりはあっそうなんだ...て思っててくれると助かるかな....なんの話だ?
なんかもうツイッターとかで毎日キレたりしてる場合じゃなくて、今本当に、勉強しないといけなくてやばいんだけど、なんかあらゆる時事や押さえておくべき価値観から置いていかれるような気がして手放せないのだな....現代の病だな....と思いながら今日もツイッターの時間制限を無視した。みんなたちはいかがお過ごしですか?
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totonoi-2002 ¡ 4 years ago
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2020/08/28
とろふわ自我の雑記
2020年8月最終週、例のノンセク彼氏漫画を読んで感情がめちゃくちゃになる。
周りの人の反応からしてやばい匂いはしてたのだけど我慢できず結局読んでしまったし、怒ったりつらくなったりしつつもまあ読んでよかったのかなとも思った。あの作品はセクシュアルマイノリティの描き方に関してはもちろん、それ以外にも多くの問題を孕んでいるように感じた。特にいくつか挙げると、「性的合意の及ぶ範囲」「アウティングに対する危機意識の欠如」「性愛主義社会に囚われた価値観、に支配された登場人物」というような。他にもあるけれど (AセクAロマなど詳細注釈の不足など...) まだうまくできる言葉にできる自信がないので割愛します。
性的接触について、まず優先・尊重されるべきは性的接触を望まない側の意思であるはずだ。だから望まない側が望む側に我慢をさせている、負担をかけている、といった価値観や捉え方はかなり危険だと思う。手を出さないだけ感謝しろとか、エスカレートすれば本番はやらないであげてるんだから少しくらい触らせろ、とかそういった性被害を生みかねないし、まずこの状況は不平等でもなんでもない。自分の身体について自分で決定権を持っているというそれだけのことだ。だから彼は交際の前に「セックスはできない、キスもなるべくしたくない」とはっきり意思を提示したし、彼女もそれを了承して交際に踏み込んだはずだ。
それでも機会を伺って身体に触れようとしたり、夜一緒にいる時の下着の柄を気にしたり、という行動。わたしは不可解だと思うんだけど、でもそれってこの作品の世界でも、あるいは現実においてさえほとんど当たり前とされる行動のように思う。なぜなら社会全体が性愛を至上のものとする、性的欲求と愛情や恋愛感情が当然に両立するものだとする価値観に支配されているからだ。だから彼女は前もって彼のセクシュアリティについて聞いておきながらもやはり話半分というか、どこか素直に受け止められていない部分があった。(別に彼女も被害者だ!とかを言いたいわけでなく、社会が彼女をそうさせている可能性だって大いにあるのだ、という話)
アウティングについては言うまでもなく許されてはいけないことだ。これによってたやすく人を殺せてしまうから。私はこの作品について、作者の理解の及んでいる範囲がよくわからない、作者が何に寄り添いたいのかわからない、といった印象を受けた。
悪いことをちゃんと悪いこととして描くこと、あるいは作中ではそれらが正当化されたりあたりまえに存在していても注釈などできちんと説明がある、など、作者の倫理観というのはものすごく重要だ。たとえばアウティングの場面について、作者はどう考えて描いたのだろう。よくないことだと理解しながらあえて描いたのか、それとも何も考えずに描いたのか。当事者への取材があったということだったから流石に無自覚ではないはずだけれど、でもあのまま注釈もなしに野放しにして許される表現ではないでしょう、と強く思っている。すでに万単位の反応がありながら作者がずっと黙っているのがよくわからない。セクシュアルマイノリティを描くにあたって現実に影響を及ぼすであろうこういった表現に対する懸念はないのかな。それともやっぱり軽率にマイノリティを自分の作品のおもちゃにしたのかな。
跳躍するけれど、やはり批判が集まったのはキスシーンだったよね、私もギョッとしてしまった、ひどいものだと憤ってしまったしそんなグロテスクな展開をキラキラコーティングされた美談として話を締めたことにも強い嫌悪感を覚えた。
もちろんこの表現は褒められたものではとてもないけれど、私は最終的にあの場面はパートナーのセクシュアリティを尊重しなかった/されなかったゆえに起こったひどい性暴力シーンでもあるし、同時に性愛主義社会に支配された2人、そして社会全体の問題でもあるのだというところに落ち着いた。
前者については見たまま、言うまでもない。あんなのはセクシュアリティに関わらず許されてはいけないことだ。けれど後者について、あの彼は彼女からの要求がなかったにしろ、いずれああいう風に彼女への感情を証明しようとしたんじゃないかなあと思った。彼女は結局そういった接触によってしか愛情を確かめられないし、社会だっていつもそう謳っているのだから、彼はいずれそうしただろうと思ってしまう。現実に存在する多くの彼も、きっと彼と同じような葛藤の末、同じような選択をしているのかもしれない思う。だからこれはそういう性愛主義社会に対し問題提起した作品であるという見方もあるのかも、という感じ。(それにしては不足が多いのでこの見方は希望的観測の域を出ないかな だめだね) まあでも私は前者の所感の方が当然強く、読んだときのショックは大きかった���やっぱりひどいもの。セックスやキスに特別な意味を持たせる社会は廃れてほしいよ、ただの粘膜接触でしかないし何もきらきらしていないことに早く社会が気づいてくれればいい。
よくできている作品とは言えないし、でもだからといって排除されるべきというわけでもない。拙さは当然きちんと批判されて然るべきだけれど、あれはあの形として意味のあるものだと思っている。私は好きではないし許せないけどね....て感じです。
自分自身のことについて深く考える機会やきっかけをここ数年で多く得られたという感覚や、それに伴って自分自身を知りつつあるというたしかな感触がある。これはかなりポジティブで明るい所感だな、いい兆候。もともと自分をきちんとどこかにカテゴライズしていないと不安になるというタイプではないけれど、実際に自分と符号するラベルに出会ったときの安堵は何にも代えられない。結局欲しかったのだと思った。私がいまいち形を確かめられなかったものの輪郭が掴めたような、そこに“ある”ってことに気づけたようなそういう...。
自分の性自認が流動的かつ、とくに自身に女性性を見出したくない気持ちが強い (男性になりたいわけではない) というのは今も変わらない。新しく通う病院の問診票を書いていると性別欄を前に少したじろいだり、ふとした状況であ〜そういえば自分女だったな みたいに気づかされるような、うっかり忘れてたみたいな。実は例の漫画を読んだ時にそういえば...と気づいたというのもあって、私が一概にあの作品をボロクソ言えないのもこのせいだ。
対象に性的な魅力を感じることはあるのだけど、実際に対象とそういう行為に及びたいという欲求がない。触れたいという欲求が本当にない。というより自分が誰かとそうなっていく想像が何もできない。恋愛感情と性的欲求が完全に切り離されているから余計に想像が難しい。少し抜きん出ていることはなんとなくわかるんだけど、それでも正直恋愛感情と強い友愛の境目がわからない、といった感じ、自分でもまだ整理し切れていないけど....。そうして透明のまま浮かんでいたものを突然掴めたような感覚を、あの漫画から得られてしまったのでわたしは....どうなっていけば.......みなさんはいかがお過ごしでしょうか 生きていますか 死なないようにやっていこう
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totonoi-2002 ¡ 4 years ago
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2020/06/28
表象と誠実、消費の雑記
4年前、マ〜ジで好きなオタクと出会った。当時その���タクの作品を毎晩舐めるように眺めたし読んだし、とりわけ気に入ってる小説作品の冒頭数十節はいまだに暗唱できる。fundoshipartyはマジで気持ち悪いと思う。
私が差別について詳しく調べ始めたのはその頃で、言うまでもなくそのオタクがきっかけだった。氏は普段から社会における差別問題や政治について積極的に意見するタイプのオタクで、当時の私には氏から発信される情報のすべてが新鮮だったし刺激的だった。とくに歴史的な背景が多く関わる問題については懇切丁寧に扱った上で意見していた。
氏の作品にナチスのユダヤ人大量虐殺に関するタイトルがついたことがあったけれど、彼女はそのタイトルを自作に用いることについて丁寧かつ誠実に説明し、歴史的背景を重んじつつリスペクトしたのだということを示した。作品は言わずもがな素晴らしかったし冒頭をそらんじられるのもこの作品だけれど、わたしは何よりデリケートな歴史的モチーフを扱うことに対する氏の姿勢に感銘を受けた。当時は漠然とはあ〜すげえなあ と思ったわけだけれど今思うと一層誠実さが染み入るような感じがする。素人の創作者ですらこの意識の高さである。そう、そう、ここまではプロメアについて話すまでの悠長な導入だったってわけ!
ツイートで定期的にこぼしている通りだけれど、fundoshipartyは最終的に“プロメアのことを超好きでいながらその一部についてはかなり批判的”というポジションに至った。
初見で差別描写のキツさに泣きつつもリオくんのことが好きすぎてたぶん20回 (4dx含む) は通った熱心なトリガーのオタク、高校生の財力にしては尋常ではないレベルでプロメアにお金を落としてきた。熱心に通った夏-秋頃は145円税込12個入りの蒟蒻ゼリーのみで1週間の昼食をまかない、浮いた野口英世を握りしめながら放課後ダッシュでプロメアを浴びに行くという生活だった。正直めちゃくちゃ楽しかったな 飯を減らせばたちまちリオくんを浴びられるので... てか高校生映画1000円なん最高すぎや 一生高校生でいたいぜ
プロメアのクッソ好きな要素やいい思い出もろもろはここでは割愛するとして、批判的要素についてのみ書いていこうと思う。
プロメア製作陣の差別への認識の甘さは本編だけにとどまらず、前日譚やイベント、情報雑誌のインタビュー回答など幅広いポイントで露呈されている。本編公開直後に散見された本編の差別描写に関する批判ツイートや長文ふせったーのことをしっかりと思い出せる。割と早い段階で批判的な意見が出ていたにもかかわらず、公式がその後の露出でそれらに関する誠実な回答や意見を述べなかったことはかなり悲しいなと思っている。これはマジ。ピザはチームの食べ物!とかそれどころじゃねえからな それどころじゃないのですわ (お嬢様口調がブーム しつこいぜ)
ピンクの三角形はピンクトライアングル��し、クレイ・フォーサイトはきっとヒトラーで、彼によって行われたバーニッシュへの残虐な行為はナチスのホロコーストと簡単に重ねることができてしまう。極めつけのプロメテックポッドは誰がどう見てもガス室だよね。プロメアの世界ではマイノリティ差別、人種差別に関するデリケートな歴史的モチーフが数々登場するし、その上で強烈な差別が描かれている。本当にそれらはデリケートなのだ、デリケートだしそれぞれにはかりしれないほど命の重みがある。それらを作品に用いるということは、製作陣には作中の差別問題を正しい方向へと着地させ、観客を啓蒙する義務 とまではいかなくてもそれ相応の意識やアップデートされた認識、誠実さが強く求められるだろうと思う。プロメアにはそういった姿勢が著しく欠けていたし、観客の批判をもってその欠陥を顧みることもなかった。ああ〜 つらいね
僕たちは誇り高いバーニッシュだ、それがバーニッシュの誇りだ、炎は僕らの一部だ、というリオくんのセリフからわかるように (描き方の問題だとは思うけど シーマのような人もいるしバーニッシュの総意ではなくとも、リオくんに導かれていた) バーニッシュ達にとってバーニッシュの炎や自身がバーニッシュであるということは誇りかつアイデンティティだったのだ。炎の本能的な衝動が聞こえて、それを叶えて燃やし尽くすことに使命感と誇りを持っている。これが彼らのアイデンティティでなくて、バーニッシュ・プライドでなくてなんというのか、という感じの描き方だ。(というか途中から思い出したようにバーニッシュをマイノリティとして扱うような文脈になっている気がしてならん マジでその辺適当だしいい加減なんだろうな....)
ここまでマイノリティ差別文脈のお膳立てをしておいて、結局プロメアは宇宙人だのバーニッシュ差別の首謀者であるクレイも実はバーニッシュだっただの (これはきっとホモフォビアを内面化する同性愛者のメタファーだと思う ここまでそういった文脈や要素が散りばめられているのだからこれは過ぎた思い込みなどではない) (てか被差別側マイノリティの属性を差別側にも与えて結局マイノリティ同士で踏んだり蹴ったりしてただけみたいな構図になってるのが最悪なんじゃ) 、挙げ句の果てにはプロメアという宇宙人は元の宇宙に帰ったのでバーニッシュという人種は消えました!というオチ、本編後のインタビューでバーニッシュはマイノリティの象徴ではないだのあれは感染症だの、やばいでしょ やばいんですよ どこがやばいかわかんない人はこれはやばいんだという認識からスタートして歴史を辿って照らし合わせて欲しい。やばいんや。
本編前日譚にあたるリオ編については、作中マイノリティが作中マイノリティに自身らが差別されるのには理由があるのだという旨の説教をするシーンがある。私はこれが本当にプロメア屈指の最悪なシーンだと思っている。差別というのは加害側の都合によって行われるものなので、被差別側に原因も理由もあるわけがないのだ。被差別側に差別が起こる理由を見出そうとしている時点でこのシーンは完全にマジョリティ視点、マジョリティ本位でしか描かれていない。(というかマイノリティに加害性のある属性を���たせ差別を正当化しようとする時点でもう設定が破綻している そもそも差別を描く前に設定が破綻しているんですよ) マイノリティ差別を描くにあたって、脚本家がマイノリティに一切寄り添わずあくまでマジョリティの立場で作中マイノリティの彼の台詞を書いた、しかも内容は見当違いという、本当に....本当に......これが割とまじで一番許せん.................
同性愛を病気扱いすることはいまやようやくタブーとなっている。現実のセクシュアルマイノリティ差別とからめたプロメア批判意見へのカウンターとしてバーニッシュという属性と同性愛を一緒くたにするのは違うでしょ、という声もかなり散見されたと思う。そうだよ 序盤で示された要素のままであれば違うはずなんですよ、でも脚本は途中からバーニッシュのことを、あらゆるモチーフやキーワードを用いてれっきとしたマイノリティなのだという文脈で扱ったのだから同列に語るしかなくなる。となるとラストのバーニッシュ消滅はマジョリティによる同化肯定以外の何ものでもないし、感染症呼ばわりなんざもってのほかというわけである。不誠実の一言に尽きる、と思う。あまりにもいい加減で中途半端で、現実のあらゆる差別をあまりに軽んじすぎているし、それらを都合よく作品のアクセサリーにしたのは本当によくないのだ。誰がなんと言おうと擁護のしようがないことをしでかしている。
他にもハァ?!みたいなセリフや描写は細々とあるけれど、何よりも危険なのはここまで述べた、本編に一貫した製作陣のマイノリティ差別への意識の低さだ。プロメアのようにハイセンスな映像と音楽が矢継ぎ早に脳に流れこむような中毒性のある作品において、上記のような描写がなんでもない顔でのさばっているのはマジで危ない。差別の再生産を促しているも同然だし、繰り返し消費するうちこういった描写に対する観客たちの危機意識もきっと麻痺していくのだろう。それが本当に恐ろしいと思う。
わたしたちはいかなる差別も決して許してはならないはずなのに、表現の自由だとか多様性だとか、そういった言葉を都合よく盾にしている人達によって社会全体が差別的な声に寛容になっていく気がする。本当に怖いよ〜
拙い差別描写も熱心な批評によって次の学びに繋いでゆけるのならそれだけで十分に価値があるだろうと思うのに、オタクの多くは作品の批判をするくらいなら見るのやめれば?みたいなのばかりで話にならないし、本当につまんねーなと思う。作品を愛しながら許せない部分を批判する、というのは何の矛盾もなく両立するのだ。プロメアだってファンや製作陣が批評を正面から受け止めて意識を変えてゆけたらもっともっと意味のあるものになったんじゃないのかなと思うけれど、でもそんな高度な消費のしかたを、作品や製作陣を手放しに神格化しがちな日本のオタク界隈に求めることは厳しいんだろうなという諦念じみた感情にもなる。というか自分たちオタクには基本的に“消費”することしかできないので、その消費に内包される自身の暴力性、差別意識や搾取について常に向き合い内省し続けなければならないのだ。
プロメアの話はここで終わ���うと思う、なんだかんだ言って
私はプロメアが好きだし二次創作も時々見るし、自分で漫画を描くこともある。ただ作中マイノリティのキャラクターの表象を借りるにあたって、作品への評価をうやむやにはしたくないという気持ちがものすごく有り、こうして自分で指差し確認をするように、定期的に意見をまとめているのだろうな。てかリオくんまじでかわいいよね。
トリガー作品はキルラキルとインフェルノコップ、ガイナはパンストとフリクリが好き 見てね
(追記8/2
プロメアのオチが「バーニッシュ消えたから差別もなくなるね!やったー!」だとは別に思ってないし、ガロの「俺が消してやる、お前らに降りかかる火の粉も全部」てセリフからプロメポリスではこの先も差別が続いていくだろうことは普通に 十分に読み取れるけれど、プロメアの差別に関する批判は別にそこを無視してるわけじゃないしそれも込みというか もっと根本的なところから指摘されているということをわかってない人がとても多くてあーそうですかあ...となる。『その人をその人であると認める』ことを作中通して描きたかったのはとてもわかるしそういう意図を示唆するセリフが本編にいくつもあることもちゃんと読み取ってる。個人を尊重するという視点において、プロメアにジェンダーバイアスのかかった描写が少ないことはかなり好感が持てるし、そういった配慮をしようとした痕跡はある。私はこういう部分についてはかなり好きだな〜て思ってる!
でもプロメアの問題点って製作陣のそういうポジティブな意図から結構遠いところにあるので、差別に関する批判とこういったポジティブな要素を引き合いに出した擁護の内容っていつも噛み合ってないよなあとおもってます。
“差別”はあくまで主題でなくプロメアを構成する一側面でしかないと言うのなら、なおさら深刻な問題だと思う。というのは、再三言うけどプロメアには差別に関する史実モチーフが数々登場するし、差別を取り扱う作品に似通った要素も多く見受けられる。しまいには中島さんがX-MENについて言及しているというのもあり、差別というテーマについては制作段階からかなり積極的だったのだろうなということはなんとなくわかります。インタビューでも差別というテーマを出したのは僕です、という発言があったし、彼の他作品にもそういうテーマを積極的に扱ったものって多い。
映像に用いられるデリケートな史実モチーフと脚本の意識レベルとの相性が最悪だった、というのが批判が起こったことについての簡潔な状況説明です。映像にあるモチーフについて中島さんは関わってないのに脚本が叩かれてかわいそう、みたいな意見を見たことがあるのだけど、でも熱心なファンでもない一観客が、わざわざ映像の要素と脚本の要素を切り離して作品を解釈しようなんて思わないでしょう。両方かけ合わさって初めてその作品の意図や表現が成り立つわけだし、それは当たり前のことだよね。“プロメア”の話をしているので。
だからリンカーン記念堂やピンクトライアングル、ナチスのガス室やゲ��ュタポを彷彿とさせ��プロメテックエンジンやフリーズフォース、バーニングレスキューのシンボルとして用いられる拳 (バーニッシュを弾圧する側の組織にこのモチーフが使われるの、最悪..... 公式設定でバーニングレスキューは“中立”とかふざけたことを言うのほんとやめてとおもう 差別社会に中立とかいう舐めたポジションは存在しないから) 等々、差別に関するデリケートなモチーフを積極的に登場させたにも関わらず作中マイ��リティ (マジョリティ・マイノリティというのはあえて区別されるものではなく、不均衡な社会構造の産物として自然と発生するものです) から「誇りだ」とまで言わせたアイデンティティ要素を剥奪したことが本当に本当に本当によくないよ、という話です。そういうモチーフを使って差別をやっていく気だったのなら、作中の差別問題を正しい方向に着地させることはほとんど義務のようなものだ。そうじゃないと歴史に対してあまりに不誠実だし、クリエイターとしてモチーフのバックグラウンドを尊重できないのはどうなの?という話になってくる (実際なっているわけですが....) 。
先述したモチーフには過去の凄惨な人種差別によって奪われた多くの命の重みが刻まれているわけで、そういう重要なモチーフを登場させたくせに作中の差別問題を丁寧に扱えなかったこと、あるいは社会派エンタメの顔をしたいがためにそういった要素をファッション扱い (それこそ作品の一側面としてしか扱ってない) しかできなかった製作陣全体の差別への意識の低さ・不誠実さに対して批判が起こってるんですよね。さらに言えばフェブリでの「バーニッシュは感染症のようなもの」という言及もそうで、ここまで読んだ上で普通に文章を読解できる人ならこの発言の問題点がわかると思うけど、わからない国語残念人は....ごめん.......この機会に人種差別の歴史について勉強して1000000000%無駄にならない知識だから......
だからこういった製作陣の差別に対する意識レベルについてと、『その人がその人であると認める』という作品のポジティブなメッセージについては全然別の話です。わかる!?別の話なのにプロメアの差別批判のカウンターとしてプロメア・ポジティブ・メッセージの方が顔を出すことが多いなあとおもうの.... 普通に噛み合ってないです。それはそれ、これはこれて感じ。
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totonoi-2002 ¡ 4 years ago
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2020/03/19
近況からプリパラにグラデーションする雑記
今までも少ない方ではなかったと思うけど、ここ数年自分について考えることが多くなった。自分のことというのは身のまわりの生活についてだとか身近なひとびととの関わり方だとか、自分が一体何を信じてその信じたものを根拠に何を考えているか、何に対して意見を持っているか、世間のあらゆるカテゴリーやクラスターのうちどれに自分が属しているか あたりだと思う。自分を何処かにカテゴライズしていないと気が済まないっていうタイプではないけど、いっぽうで右も左も分からない、手探りで進むしかない状況でひとつも頼りにできるものがないというのはめちゃくちゃ不安で苦しいとも思う。
プリパラseason2をリアルタイムで視聴していたのは中学1年の頃で、ちょうど自分が同性愛者だという自覚を得たのもその頃だ。小学校高学年からインターネット漬けの生活を送っていたのでセクシュアルマイノリティの存在は十分認知していたし、自分がそうであると自覚したときも混乱したり苦しんだりすることはなかった、自分だけがそうでじゃないとわかっているから。でもわかっていたといっても所詮は画面越しの見知らぬ誰かで、会ったことも話したこともない、身近に似通った人もいない状況では実際そこまで実感が湧いてなかったのも事実だ。そうなると結局不安になる、自分の性的指向がおかしいとは思わないけどこれが容易く認められる社会ではないことに不安になる。
プリパラのseason2から登場する紫京院ひびきは女性として生まれ、芸能界に出るにあたり子役時代から性別を男性と偽って華々しく活動していた。ある回で彼女は自身の出生証明書を画面いっぱいに突きつけ「僕は女です」と今まで明かすことのなかった実際の性別を暴露する。作中のマスコミは彼女に押し寄せくだらない質問をいくつも投げかけるが、彼女は「今までもこれからも僕は僕のままです」と余裕の表情で突っぱねる。やーばくない? 紫京院ひびきは所謂男子用制服を着用し、普段もパンツスタイルを好んでいる。女だからなんだ、何を着ていようとどう振る舞おうと僕は僕だけど何か問題でも?と言わんばかりの余裕綽々な態度。自信に溢れた笑顔で自分を全身で表現している彼女に私は感情がめちゃくちゃになる。好きすぎる、涙出る。完全に救われてしまう。
ジェンダー・アイデンティティと性的指向との間に決まった関連性はない。私は自身についてシスジェンダーの女性として、女性が好きだという認識を簡単にしていた。そこになんの違和感、というか関心すら持たなかった。関心がないから、ふとした瞬間に自分が女性ではない視点から何かを捉えたことがあっても特に気にならない。なんでもないときに、自分の身体から青年のようにすとんと凹凸がなくなったようなイメージをすることもある。私は中性的な容姿・特徴のあるキャラクターを好きになりがちだ。これはマジで本当にめちゃくちゃそうで、性別が一目でわからなければわからないほどいいとまで思っていた。中性キャラ好きに最初に火がついたのはHUNTER×HUNTERのクラピカだけど、実はクラピカのことは小学校6年まで女の子だと思っていた。なぜか必死に女の子だと信じていたのに男だとわかった瞬間意外にもショックは受けなかった。むしろいい〜〜なんでも好き あなたが好き どんなあなたも好き と愛が深まっただけだった。中性的なキャラクターが好きだという感情と並行して、私自身が得たいステータスとして中性的な要素、あるいはどちらでもないような要素に強い憧れを持つようになった。そういう感情が募りに募った矢先の紫京院ひびきである。マジでこれだと思った、絶対にこうでありたいとまで願った。マジで好きだしこんなふうに生きたいと思った。このあたりで自身がシスジェンダーであるという認識に揺らぎが生じる。
プリパラにはレオナ・ウェストという男の子がいる。彼はおそらくシスジェンダーの男性だけれど、フリフリのついたドレスやスカート、かわいい衣装を着てアイドル活動をするのが好きだ。普段着もいつも可愛らしい服を着ている。プリパラには希望が散りばめられている。そんな彼と紫京院ひびきが対話する回がある。私はこの回で本当に涙が止まらなすぎてちょっと気がおかしくなった。
紫京院ひびきは舞台の仕事を受けていた。彼女の役は性別を男性と偽っていた女性の役だけれど、あまりにも彼女自身の境遇と似通っている。彼女は舞台の稽古の代役としてその辺に転がっていたウェスト姉弟を指名する。レオナはひびきを男だと信じて恋をしていたプリンセスの役で、メタ視点で言うならさしずめプリパラ中の緑風ふわりのようなポジションだ。レオナはひびきの性別カムアウトのニュースが頭から離れない。どうして性別を偽っていたのかが気になって仕方がない、それに答えて欲しければ役を引き受けろという流れだった。レオナとひびきは着々とセリフを重ねる。そのうちどうして性別を偽ったのかというプリンセスからの問いに対し、ひびきは台本とは全く違う「何故かって?所詮この世は嘘とまやかし、どこに問題がある?」と返す。やーばくない? やばいな
レオナがある程度台本通りのセリフを返すとふたたびひびきは脱線させていく 。「君はどうなんだ」と聞くひびきに対してレオナは少し思案したあと「あるがままです!」と声を張って返す。この流れはひとつも台本にないのだけれど、レオナとひびきがアドリブのセリフでお互いのあり方を認識しあったという場面だ。やーーーーーーばくない!?あるがままです あるがままです あるがままなんだよな....自分は自分だからさ........ 本当に涙が出てやばかった。
ここまでのあらゆる要素を自分で少しずつ繋ぎ合わせてこれたのはここ一年くらいの話だ。ここ一年といえばプロメアだけれど、私は当たり前のようにリオのことが大好きだ。リオはめちゃくちゃ中性的な容姿だしとっても顔が可愛いしフリフリのブラウスだって着ているけど、作中にそれを揶揄ったりする場面はなかった。(初見でガロの「放火魔野郎が偉そうに!」というセリフを「オカマ野郎が偉そうに!」と空耳してその場でギャン泣いた 聴力検査に行こう) プロメアは紋切り型のジェンダーバイアスが少ないことにものすごく好感が持てる。それ以外のヤバ要素については割愛する。
諸々のきっかけによって少しずつ自分の目指しているところ、あるべきところの輪郭が見えつつある。極め付けはリオだった。リオくんになりたいとかではないけれど、少なくともこの辺りかな、みたいな目処がついた。自分の性的指向は変わらないが、性自認を女性と固定したくないという感情だ。流動的すぎてあまりにもアバウトだけれど、さほど大きくもない胸や子宮はとってしまいたいと思う。男性になりたいわけで��ないけど、私の愛する彼・彼女のような生き方に少しだけ近づきたいというような感覚。性別なんかわからなければわからないほどいい。僕は僕のままで、あるがままで、自分の着たい服を着てしたい振る舞いをする。プリパラは人生において大切なことを全部教えてくれる、全員見てくれよな!
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