toroi-merai
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王道が好きだ。
デジタルでファンアートを描くときに私は王道が好きだ。
夏は、これ。冬は、これ。みたいな。クリスマスは特に。
レンガの暖炉に毛糸の靴下をぶら下げて、その上にキャンドル、トントゥたち、どんぐりと松ぼっくり、レンガの壁にライティングとガーランド、クリスマスリース、暖炉の横には膝掛け椅子、背もたれにウールの膝掛け。暖かな絨毯、ふわふわのルームシューズ、飾り付けの終えたクリスマスツリーの下には、ぬいぐるみたちと沢山のプレゼント。
"王道" も過去に誰かが作ったものだ。大衆にウケた��現物(お金になった表現物)が沢山の人の目に触れ手に取られ、それが私にとっても誰かにとっても王道となり、やがて「懐かしさ」に組み込まれていく。暖炉なんて勿論うちにはなかったが表現物として懐かしいのだ。
懐かしさは癒しになる。たとえばそれは小学生の時に読んだ絵本の表現だったかもしれないし、誕生日に友達がくれたノートの表紙に似ていたかもしれない。日記帳で一時期毎日目にしていたかもしれない。過去に自分を喜ばせたもの、楽しませたもの、癒したもの、、、
この間シーグラスのファンアートを描いたが、シーグラスも私の懐かしさを喚起させた。手にした時のひんやりした感触、半透明な濁り、歪で不満気な形。けど実物としてそれは私の手元にない。それどころか、ほとんどの「懐かしさ」の元祖は私の手元にはなくて再び手にすることも難しい。だから私は描きたくなるんだと思う。
「共感を主軸とする表現物」は「既視感を掘り起こした表現物」の親戚みたいなものだろうか。私は "共感モノ" が好みじゃない。あからさまに大衆の共感を狙ったものが苦手だ。けど何かしらの共感要素がなければ自分だってどんな表現物もスルーしてしまうだろうし、心に響いたり添う要素があって、自分が好ましく思う瞬間があるのだという自覚はある。ファンアートなんて「共感」の権化みたいなものだし。
けど共感を前提にしてしまうと大衆化されていない表現物のファンアートに矛盾が生じてしまう。共感が目的ではないだろうから、うむ。作者へのアプローチ?とも思えず、なんだろう。。。
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あらゆる表現物に真新しさなんてない。出尽くしているものばかりだ。あらゆるものは既視感の中に埋もれている。
その埋もれている既視感を掘り起こして安らぎや懐かしさを覚えている。
夏は、こういうイメージ。何万回も踏み倒されたイメージ。
冬は、こういうイメージ。何万回も踏み倒されたイメージ。
秋は、こういうイメージ。何万回も踏み倒されたイメージ。
踏み倒された夏のイメージを描いて、それでいいと自分に話して聞かせた。
「それでいい。それが安心だ。どうだ、懐かしいだろう、こういう感じ。シーグラスの、透き通った、あの涼しげな、そして貝殻のグラデーション。それを描きたかったんだ。懐かしさに触れて、私を癒す、それが描けたから、もうそれでいい。」
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