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tigertanaka · 7 years
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#011  Mo Pleasure Mo Problems.
快楽と倫理の間
パンス 前回で話が出た「ソフトウェアに内在する想像力やその暴走の面白さ」についてだけど、昨今は、ソフトウェアについて批評するハードルが高くなっているような。ちょっと触れただけでTwitterで炎上、みたいな。だからこそみんな大枠のマーケティングっぽい話に向かっていく部分もあるのかな~、とも考えてる。
コメカ ソフトウェアの質を問うことに誰もが及び腰になってるってのはあると思う。リスクしか無いからさ。でも、ハードウェアや環境についての言及でも、イデオロギーは抜きにしたビジネス的・マーケティング的な話ばかりが目につくのは気持ち悪い。
パンス みんなお金の話、「稼ぎ方の話」が好きだよね。読んだって一銭も懐には入んないのに。むしろ支払ってるよ! まあそういうのもあっていいんだけど、もうちょっと一見無駄っぽいものを重要視しないと、どんどん民営化されちゃうよ~。ペラペラの観光立国になってしまうよー。とは言いたい。 まあ余裕がないという言い方もできる。社会を忌避して自分だけはサバイヴしてこうと決めてる人も、社会悪に憤りを感じてる人も、共通するのはそこなのではないか。
コメカ なんつーか、マーケティング的な語りの場とかサブカルチャーの現場では、イデオロギーの問題が視界から外されがちでしょ。で、逆にイデオロギーが語られるときには、マーケティング的な構造分析やサブカルチャー的な快楽は「ふしだらなもの」とされるというか。あんま良くないと思うんだよねそういう感じ。
パンス あー、そうだね! それぞれにお互いをノイズとして捉えているように見える。
コメカ 生活することと、イデオロギーについて考えたり行動したりすることがフラットに繋がる状況を作りたいって思う。ただ、日本社会はもうある一線を踏み越えてしまってるし、もしかしたらそれは日本だけじゃなくて世界全体がそうなのかもしれないけど。 ただ少なくとも、例えばサブカルチャーに内在する快楽みたいなものが、「存在しない」かの様に語るのは危険だと思うんだよ。政治的には正しくない、でもそれを観る者に快楽を呼び起こす、っていうモノや表現はどうしても存在する。それにどう向かい合うかを試されてるというか。 むしろ、そういう快楽についてもきちんと捉えておかないと、リベラリズムは袋小路に辿り着くんじゃないかと思ってて。
パンス ここ数年はポリティカル・コレクトネスについても盛んに議論されてる。僕個人の話をすると、例えばダンスホール・レゲエは超好きなんだけど、それらの歌詞にあるミソジニーやらの問題についてはどう思ってるんだ!と責められちゃったら上手く答えられないな~と頭抱えちゃう。ラップも同じような問題を抱えている。で、この手の議論は80年代後半から行われているんだよね。(最近復刊した『ヒップホップ・ジェネレーション』に詳しいです!) 月並みな意見かもしれないけど、それらの議論をめんどくさがらずに、臆せず参加する、という姿勢が大切なんじゃないかな。「俺たちの好きな○○に持ち込むな」でも「原理主義的にそれは全部アウト」でもないところを探る。
コメカ 快楽には大概暴力的なものが付随する訳で、快楽を感じている自分に開き直ったら終わりというか。 でも、快楽を感じている自分を認めないのはもっとマズいと思うのよ。それは人間であることの責任から実は一番逃げてるというか。教条主義的な「正しい」語りだけを例えばネット上で書き続けるだけじゃ、「個人」として語ることにはならないなあって思う。生きて暴力的な快楽を感じ愉しんでいる自分がもし現実にいるのなら、そのことも織り込みながら言葉を使っていかなきゃいけない。たださっきも言ったけど、だからと言って快楽主義的な態度に開き直ることももちろんアウトなんだけど。 自分が感じている快楽について内省したり相対化する為に批評の言葉があると思うんだけど、自分の快楽について批判されるとみんな烈火のごとく怒るでしょ(笑)。批評が介在する余裕がもう無い。
それぞれの心情に批評的であるということ
パンス ポリティカル・コレクトネスを疎ましいな〜と思うレベルも、人によってレイヤーがあるね。最近はジャンプ編集部の女性用トイレにポルノグラフィックな? 表示がつけられたことが話題になっていたけど、それまで差別とかに反対してた人まで「これはいいんじゃない」って意見が出てるのが興味深かった。趣味嗜好の問題とごっちゃにしてると、勝手に自分基準で判断できちゃうんだけど、自分の好みを越える問題もあるんだよということをまずは認識しておかないと。一方で、自分の好みで、嫌いな表現を抑圧するような動きも見られる。アリ/ナシを判定して終了、じゃなくて、自分の快楽基準を顧みつつ、どう修正していくか、ということではないかと。
コメカ 快楽主義と倫理主義の、どちらか一方に片寄り過ぎた言葉が出回りがちだと思うのよね。特にネット上の言葉は、書き手の顔が見えにくい分、主体性を欠いた極端な快楽主義or極端な倫理主義的な言動になりがち。…言うだけなら何とでも言えるからね。言葉と語り手の内実が乖離していくのは、やっぱりあまり良いことじゃないと思う。 日本社会に倫理的な思考が根付かない理由の一つには、そういう語り手としての自分に対する内省が無いからってのもあるんじゃないかと。右だろうが左だろうが、重要なのは自分自身の語りを正直に地道にやって、それを互いに突き合わせていくことで。それができなきゃ結局全体主義にしかならない。
パンス 迷いがない言葉、というのが求められるようになってるね。Twitterもアジテーションにはちょうどいいフォーマットだから、ひとつの強い理念をキャッチーに展開するほうがやりやすいんだよね。それで大きな支持を得られたとしても、ミニ・トランプになっちゃうよ……。政治の世界だけじゃなくて、いるじゃない。「新社会人に指南してやる」みたいな人。ムハンマドが出てくる前のアラビア半島は、大きな宗教(物語?)がなく、「預言者」たちがそれぞれ人気を獲得してたというけど、そんな雰囲気に近いかもね。
コメカ 理念や倫理は絶対に必要なんだけど、それをちゃんと個々の身体や生活と重ね合わせたものにするにはどうしたらいいか、っていうね。SNSで理念だけを書きまくってると、書き手の内実と言葉がズレていってしまう。ただ何度も言うけど、だからと言ってだらし無く自分の快楽についてばかり書いて理念を置き去りにする態度も、もちろん良くない。だから政治とサブカルチャーは同時に語られるべきだと思ってる。
パンス とりあえず、みんなブログを始めたらいいんじゃないかな (笑)。クソな世界だけじゃなくて、好きなものとかについて適当に語りまくってほしいよ。
コメカ そこでまあ最初に話したマーケティング云々の話にも繋がるっていうかさ、無難な状況分析的語りじゃなくて、みんな自分が思ったことや自分の実感をもっと正直にアウトプットするべきなんじゃないかなあ。最適解に乗っからないと恥ずかしいみたいな空気があり過ぎでしょ。それぞれの人間の正直な心情に対して、互いに批評的であるべきで。そこから初めて議論が始まる訳だから。だからそういうプロセスをぶち壊す様な暴力を振るう人にはマジで抵抗したい。
パンス うんうん。身も蓋もない言い方をすると、みんな他人より精神的優位に立てればOKって雰囲気になってるね。幼稚な例だと「はい論破~」とか。「論破」とか、自分が気持ち良くなる以外に何の意味もないよ。 「批評」が「相手をやり込める」みたいな意味に転化している感もある。「マウンティング」なんて言い回しもすっかり流行ってますが。まあここでこう語ることもマウンティングだ!みたいに言われたらどうしようもないんだけど。とりあえずそういう不毛さからは逃走したいですね……。ネットのナルシスからの逃走論ですよ。スキゾ/パラノの問題系はいまだ死なずですよ…。
コメカ ぼくはこういう状況でパラノ的に自己言及し続けようとは思ってて、そこがぼくらのキャラクターの違いじゃないでしょーか、という感じやね(笑)。
パンス コメカ君は絶望が深いからな……大逆事件の頃の石川啄木のように(『時代閉塞の現状』)……。この対比を見守って頂ければ幸いです (笑)。
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tigertanaka · 7 years
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Miami rehearsals for the 1964 Ed Sullivan Show
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tigertanaka · 8 years
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1963 Irish TV
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tigertanaka · 8 years
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『愛の嵐』
 1957年、ウィーン。かつてナチ親衛隊将校だったマックス(ダーク・ボガート)が夜間フロント係として働くホテルにある日、アメリカの著名なオペラ指揮者が仕事で宿泊する。彼に付きそう貞淑な妻、ルチア(シャーロット・ランプリング)はかつてマックスが勤めていた強制収容所でお気に入りの囚人としてサディスティックに弄び、爛れた愛を交わした少女だった。思いもかけぬ再会に戸惑う2人だったが、かつての熱情に突き動かされるかの如く再び激しい愛欲生活に堕ちていく。しかし偽名で社会に潜むマックスのかつての同僚にとって収容所での悪行を告発しうる証人が現れるなど言語道断であった。彼ら親衛隊将校のOB互助会はしきりにマックスを訪れ、自分たちを社会的に抹殺しかねない証人を「始末」することをほのめかす。また、連絡が途絶えたルチアの夫から通報を受けた警察の捜査も迫っていた。身の危険を感じた2人はマックスのアパートに行く当てもなく閉じこもるのだが…。
 ポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)が重要視される現代においてはちょっと想像しがたい物語だろう。2人の強烈な情愛は忌まわしいナチ収容所の記憶に端を発するものだ。それも親衛隊将校と囚人という、誰が見ても明らかな権力勾配差に基づいての。劇中でも、ことの成り行きをマックスに聞かされた有閑マダムが「異常よ」と言い放つ。それにマックスはこう返す。
 「異常? 正常か異常かなんて、誰が決めるんだ?」
 その通り。この作品の中ではそんな良識などはお呼びでない。ここで描かれているのはナチの記憶など忘れたい世間に白眼視され、爪弾きにされることが解っていながら抗うことのできない熱情に飲み込まれていく恋人たちの姿である。マックスはホテルを辞めると同時にかつての同僚たちの申し出も断るが、それにしても別に収容所での所業を悔いているからではない。元囚人の告発に怯える親衛隊OBなど人生を賭けた愛の前では凡庸な俗物、相手をする価値もないのである。
 「小さな幸せに安住したい。大きな幸せを手に入れると悲しい過去を思い出すから」 
 収容所時代にルチアが将校たちを相手に歌った戯れ唄である。ルチアは知らぬ顔をして夫と共にホテルを去るという「小さな幸せ」を選ぶこともできたはずだが、結局はマックスと運命を共にする。例えそれが破滅を意味していたとしても。親衛隊OBたちにアパートを包囲された2人はそれぞれ将校の制服、サテンのドレスという最も倖せだった時代の服装に身を包み死出の旅へと赴く。朝の霧に包まれた橋を手を取って歩く2人が追っ手の凶弾に倒れるラストは浄瑠璃の道行きのような悲壮美に溢れている。
 ナチの悪行を世界に正しく知らしめる? 取りあえず今そういったことは『シンドラーのリスト』にでも任せておこう。出会う場所・時代を間違えた恋人たちをひたすら耽美の限りを尽くして描いた118分である。
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tigertanaka · 8 years
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『くちづけ』
 生物学を専攻するため大学に入学したジェリー(ウェンデル・バートン)はキャンパスに向かう途中のバスの中でプーキー(ライザ・ミネリ)と名乗る奇妙な女の子に出会う。大学に馴染めなかったプーキーはジェリーの寮を頻繁に訪ねるようになり、2人はいつしか付き合うようになる。しかし次第にすれ違いが表面化し、精神を病んでしまったプーキーは大学を辞め、ジェリーに別れを告げて去って行く――。  あらすじを書き起こすとわずかこれだけ。しかしこの映画の魅力は物語を記すだけでは全く伝わらないだろう。風変わりな女の子と付き合う文化系男子の話だから『(500)日のサマー』(09)みたいなものか? とも思われるかもしれないが…ちょっと違う。少なくとも僕にとっては男性側にずいぶん都合のいい視点で終始する『(500)日のサマー』よりはるかに「痛み」に満ちた映画だった。  黒縁のメガネをかけたプーキーは生後すぐ自分の母親を亡くしている。父親との関係は明らかに良好ではない。自分のルームメイトやジェリーの同級生を”weirdo(バカ)”や”creep(気持ち悪い)”、あるいは「盛りのついた」という言葉を使って始終見下し、友人と呼べるような存在はいない。彼女にはどこか生きることに倦んでいるふしがある(墓場の前で棺桶に収まるポーズを取ってみせ、ジェリーを『悪趣味だ』と驚かせる)。現実にいたら近寄りがたい存在かもしれないが、ライザ・ミネリの演技の巧みさで不快感は全く覚えない。蛇足だが、ライザの母親はかの有名な『オズの魔法使』('39)で主役・ドロシーを演じたジュディ・ガーランドだ。性に関し常に保守的だったハリウッドでいち早く同性愛に深い理解を示し、LGBTコミュニティ内でレインボー・フラッグが象徴として定着するきっかけを作った一方、度重なる薬物中毒やアルコール依存症に苦しみ『くちづけ』が公開された同年わずか47歳で世を去った大女優・歌手である。穿った見方だが、このプーキーというキャラクターにはライザが常に近くで見てきた母親ジュディの姿―ハリウッドや映画会社に馴染めず繰り返し衝突しバッシングされる―が投影されている気がしてならない。
https://www.youtube.com/watch?v=8nIdGutgymY ↑主題歌はカーペンターズを生んだA&Mレコードを代表するコーラスグループ、サンドパイパーズ。東海岸の寒々しい空気とよく合っている
 プーキーがルームメイトに悪態をつき、時たま奇矯な行動でジェリーを戸惑わせるのは自分の抱えるどうしようもない孤独感を隠すためだろう。彼女のジェリーに対する感情も普通の恋人に対する愛情というよりは「同志愛」という言葉が似合う気がする。カメラを下げて初対面の女の子に昆虫の気門の話をする、ちょっとオタクっぽいけれど優しげなジェリーに彼女は自分と同じものを見いだしたのだろう。だから彼女の言葉を借りると”creep”な、男子寮のホモソーシャルな関係性の中にジェリーが入っていこうとすると「妊娠している」と言って彼を狼狽させる(結局彼女は妊娠していなかったのだが、この行動を「ヤンデレ』という言葉で片付けるのには抵抗を覚える)。  しかしジェリーの方はプーキーのそんな感情に気付いていない。だから、ビールをかけ合ってバカ騒ぎするよ��な男子寮のパーティーによかれと思って彼女を誘ってしまう。泥酔して歯止めの効かなくなったプーキーはジェリーのルームメイトを面前で罵倒し、決定的な溝を作り出してしまう。  ちなみに、この映画でいわゆる当時の若者文化―ジュークボックスを置いたコーヒーショップ、パーティーで演奏するサイケなロックバンド、夜明けに若者たちが奏でる「朝日のあたる家」「グリーンスリーヴス」―はおしなべて類型的かつ空虚、つまらないものとして表象されている。まるでそのような表現を突き詰めるほどそこに溶け込めないジェリーとプーキーの関係性が純化されるかのように。1969年のアメリカ映画界はいわゆるニューシネマと呼ばれる時期に突入していたが、伝統的にティーンエイジャーの観客層を軽視してきたハリウッドの大手映画会社はまだまだカウンターカルチャーとの接し方がわからず、ぎこちなくアンデイ・ウォーホル風ポップ感覚を取り入れてみたり(『アレンジメント/愛の旋律』)、あるいは黒人解放を推進するものとして無邪気に称揚してみせたり(『招かれざる客』)と試行錯誤を重ねていた。なので安易に2人をそういった若者文化に結びつけず、むしろ疎外感を強調するようなものとして描くという手法は現在の視点からすると非常に正しいと言える。
 プーキーは大学を中退し、ジェリーの元を去って行く。落葉が舞い散るバスの停車場で、2人は黙って別れを告げる。  ジェリーは結局、プーキーをその果てしない疎外感から救い出すことはできなかった。例えジェリーの人生経験が浅く、またプーキーの孤独感が彼が断片的にしか知ることの出来ない幼少期の記憶に由来するものだとしても。   『くちづけ』と同時代の、先ほども触れたニューシネマという作品群の特徴のひとつはその唐突かつ極端なバッドエンドである。強盗カップルが警官隊の銃撃でハチの巣になったり(『俺たちに明日はない』)、男同士でも恋愛関係にあるような強い絆で結ばれた2人がこれまたハチの巣になったり(『明日に向かって撃て!』)、マイアミに向かうバスの中片方が死んでしまったり(『真夜中のカーボーイ』)というのがデフォルトで、僕はこれまでそういう映画を重点的に観てきたためどうしても製作が60年代後半と聞くとそういうセンセーショナルな展開を求めてしまいがちだ。  しかしこの映画はそうはならない。ジェリーとプーキーはただ名残惜しそうに見つめ合って、別れる。そこには何の驚きもない。世の多くの恋人たちが経験する別離を描いただけだ。現実にはいろいろ行き詰まったからと言って警官隊のマシンガンの標的になるのはなかなか難しい。そこに作り手の誠実さ・真摯さが窺える。人生は続いていく。ただそれだけ。しかしそれはある種救いでもある。2人がこの先の人生で交わることはないかもしれないが、例え1年足らずでも瑞々しく愛し合った日々の記憶は消えない。観客には「その後」を想像する余地が残されている。猛勉強で留年を回避したジェリーは生物学で博士号を取るかもしれない。故郷に帰ったプーキーは再び家を出て、都会で独り暮らしをしながら作家を目指すかもしれない。もしデビュー作が出版されたらその巻頭にはジェリーの名前が載っているかもしれない。
 『くちづけ』は正直なところ、地味な映画である。一応69年の全米興行収入で13位になっているくらいだからそれなりに観客は入ったのだろうが、今現在人々に記憶されているとは思えない(残念なことに我が国ではソフト化もなされていない)。しかし製作された時代背景におもねるようなことをせず、いつの世にもいる奥手な(文化系)カップルの姿を描いた内容は現在でも多くの人々の共感を得ることができると思う。ぜひ何かの機会があったら観ていただきたいと感じる次第だ。
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tigertanaka · 9 years
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San Francisco 1965
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tigertanaka · 9 years
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tigertanaka · 9 years
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Marianne Faithfull on “Thank Your Lucky Stars” | 1965 | Photographed by David Redfern
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tigertanaka · 9 years
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tigertanaka · 9 years
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The Rolling Stones | Mick Jagger
Live at ABC Cinema, Hull (1964) 
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tigertanaka · 9 years
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tigertanaka · 9 years
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The Jackson 5, 1974, by Jim Britt
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tigertanaka · 9 years
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こないだ90年代の話をしていて、それは1985年に60年代の話をするのと同じだということに気づいて心底うろたえました。
Twitter / RASENJIN (via hutaba)
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tigertanaka · 9 years
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Backstage Beatles
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tigertanaka · 9 years
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The Beatles,  February 1964. Photo by John G. Zimmerman.
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tigertanaka · 10 years
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tigertanaka · 10 years
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