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140cmの牢獄
バベル3章の大いなるネタバレあり。
なぜ死なないといけなかったのか、考えて出た結論。 虫、死体表現など少々のグロ注意。
* * * ――ザクザク、ザクザク。 陽が上り始め、朝霧が湿った空気をまといながら草木を包み込み、他の臭いなど気にできぬほどの臭いが、土から、葉から、立ち込めていた。光を受けて、女神を象った像が美しく瞬く。そんな中、白髪をざっくばらんに短く切りそろえた少女が、その手に不釣り合いなほどに大きな農具を手にしている。使い込んでいるものだろう、ところどころで切れ目が入ってしまっている柄を、少女は両手に持っていた。その双眸は、これでもかというほどに開かれ、まるで生気のない蒼玉が揺らめく。 ――ザクザク、ザクザク。 「きょうは、トモダチ、くる。あな、ほる。しごと」 ――ザクザク、ザクザク。 グラトニー=フォス中心部に位置する広い墓で、少女、ゾフィーは墓守をしているのである。毎日のようにやってくる戦死者や老人、幼子の死体の入った棺を、彼女の作った穴の中���埋葬し、そして彼らは”トモダチ”になる。 日の届く墓の手入れをすることもあるが、ゾフィーの手足は病的に白く、長い。それは彼女の生まれや年齢、現在の状況をある程度示唆し、墓参りに訪れる者たちは不定期で彼女に、粗末な食事を与えたりするものだった。そうやって、墓守のゾフィーは生を永らえていた。 キーキーと鳥が鳴き、ゾフィーは時間を知る。時計の読み方もしらない彼女が頼りにするのは自分の感覚と、自然の声だけである。もう少し太陽が顔を出せば参列者とが現れ、何やら祈りを上げて、そうしてゾフィーの仕事の時間となる。単調な繰り返しであったが、特に不満もない。 ――ザクザク、ザクザク。 先に置かれた墓石がギラリと鈍く光り、ゾフィー自らを映し出していた。今日埋葬されるのは戦死者だ。大きい穴を掘らねばならない。最近は大きな穴を掘ることが増えたため、道具の傷みも激しい。次はどこに”トモダチ”を増やそうか。それとも彼女の主、ラシューバに農具の買い入れを頼むべきか。ゾフィーは取り止めもないことを考えて、穴を掘る。 そうしていると、背後で鉄の門が、あえぐように開くのが分かった。ゾフィーは手を止め、音のした方を見やる。金髪の女が、花束をもって現れたところだった。花はきれいだ。青色、赤色、黄色、難しいことはゾフィーには分からないが、トモダチの好きなものだということは分かる。 「トモダチ、あいたい?」 女が足を止める。
「あいたい? あう、あっち、トモダチ。あっち、あっひゃははははははは」 女はこっちにこない。ゾフィーは首をかしげる。トモダチに会いたいわけではないのだろうか。ならばゾフィーには関係のないことだ。なにごとか女が口にするが、ゾフィーにはわからない。否、正確には穴を掘るほうが忙しい。穴を掘るのはゾフィーの仕事だ。ゆえに、ゾフィーは穴を掘る。 ――ザクザク、ザクザク。 ゾフィーのトモダチは人気者だ。人がたびたび訪れ、時に泣き声をあげる。トモダチはどうやら大切なものらしい。ゾフィーにもたくさんのトモダチがいたが、トモダチはいつだって誰かの特別である。 ――ザクザク、ザクザク。 昼間。葬儀の列が並ぶ目の前で、またゾフィーの仕事が始まる。今度は掘り起こした土を、棺の上にかぶせるのだ。トモダチはよく眠る。これからはずっとずっと、満天の星空の下でも、墓石が灼けるほどの暑さのなかでも、ずっとずっと、小さな墓守ゾフィーとともに過ごすのだ。誰かがこらえきれないように声を上げる。ゾフィーの聞きなれた、トモダチを求める声だ。 ――ザクザク、ザクザク。 「お父さん!」と誰かが呼ぶ。そしてゾフィーの服の裾が掴まれ、彼女の動きを止めた。制止する女の声も聴かずに、茶色のおさげをし��少女は大きな目に水をたくさんためて、ゾフィーに言う。 「お父さんを埋めないで!」 これは、難しいお願いだ。ゾフィーは手を留めて、少女を見た。 「うめる、しごと」 「お父さんと、一緒がいい!」 「……いっしょ、うまる? あはははははは!」 誰もが息をのむ中、ゾフィーは自分より少し低い背丈の参列者を軽々と持ち上げ、そしてまだ半分ほど顔を見せている棺の上に投げ捨てた。森がざわめき、人々の声がゾフィーのあまりにも非人間じみた行動に浴びせられる。墓石の隣に置かれた、誰かの持参した赤い花の匂いがむせ返るように甘く、気付いた時にはゾフィーは人の群れに吹き飛ばされていた。 トモダチの大好きな土の上に尻もちをついたゾフィーを、蛆を見るような目で人間が見下ろしている。蛆を見るときはゾフィーはこんな顔をしないが、他の人間はこういう顔をする。 「トモダチ、あえるよ」
トモダチ、いるよ。うめる、ゾフィー、うめる、しごと。しごと。うめる。いっしょ、ずっと、いっしょ。あ、あ、あひゃひゃひゃははははははは……! 甲高い声が、墓地に響く。耳を傾けるのは大きな農具と、塚のようになった土と、墓地に点在する女神像のみである。 夜。ゾフィーの食事の時間だ。墓守の仕事を終え、墓地の奥にある小さな小屋で眠る。必要であれば蛆を落とすために、地下へと続く導水渠に足を進めて身を清めた。しかしながらそれも、最小限の水で手足の土を落とすだけで、水の中に身を沈めることはない。傷口や体内へと続く道に蛆の卵が入れば、ひどい痛みに悩まされることになるからだ。 主のラシューバが気まぐれに湯屋へ連れて行ってくれるときだけが、ゾフィーが真の意味で全身を清められる時間であった。 石橋のアーチに、水音と虫がチーチーと鳴く音だけが反響する。風が引けば水面が揺れ、そのたびにキャッキャとゾフィーは笑った。そういえば、明日はラシューバの訪ねてくる日だ。ラシューバは、ゾフィーの主の男である。将軍という地位についており、ゾフィーを度々戦地へと連れて行ったり、食事を与えたりするものだ。トモダチとは違う。 明日からは少し遠いところへ行くらしいので、ゾフィーは手足を綺麗にする。それから小屋へ戻り、鎌を研いだ。ゾフィーの記憶にないほど以前から手にしている鎌は、非常に重いが、ゾフィーの手にはよく馴染む。 そしてすべての仕事を終えたのち、ゾフィーは小屋の裏に出た。少し進んだ森の中に、突如広がるのは蛆の群れ、それを踏みつけながら、ゾフィーは特徴的なあの笑い声を、月夜にとどろかせる。 「トモダチ、げんき?」 少女の目の前には、大きな肉塊が転がっていた。柔らかいところから蛆がわくため、眼孔や下肢などはひどいありさまだ。髪の毛と服がかろうじてついているため、それがもともと成人男性のものだということは分かった。彼らの生命サ��クルは決まっている。数日でいつの間にか卵が落とされ、蛆になり、さなぎとなって羽ばたいていく。ブンブンとまとわりつく蠅は、ゾフィーの髪や耳元で声をあげる。 ゾフィーは「ぐねぐね~」と口元で弧を描き、ソレ――新たなトモダチを見下ろした。 身元や墓を買うことの叶わないトモダチたちは、こうやってゾフィーの小屋裏の森に捨てられる。そして毎晩、ゾフィーとの逢瀬を重ねながら、徐々に徐々に、その肉体から解放されていくのである。 ゾフィーにとってのトモダチは、大抵動かない。そして虫を飼ったりしながら、だんだんと骨になっていく。今回のトモダチはそろそろ内臓を食い破った虫たちが、大挙して外にでてくる頃といったところか。ゾフィーはそれを見るのが好きだ。ぐねぐねしている、と思う。 動物はみんな、ぐねぐねぐねぐねとして、結果、骨になる。これが幼いゾフィーの出した結論だ。明日の朝も早い。踵を返して、ゾフィーは草を踏む。湿った足元はぐにゃりと歪み、足のたくさん生えた虫が近くを這い出た。
ゾフィーに花をくれる人はいない。涙をするものもいない。ゾフィーはただ、誰のものでもないトモダチを見て笑い、食事をし、寝るだけの動物だった。鉄柵と四方の女神像に囲まれた墓地で彼女だけが、誰からも”トモダチ”と呼ばれぬ者であることに、他の誰でもないゾフィーだけが、気付いていたのである。 「これでお前は自由だ……!」 バルトと名乗った男が、ゾフィーを見ている。初めての食事の味を教えてくれた、約束をしてくれた。”ともだち”と彼は言った。しかし、ゾフィーのトモダチと彼は違う。彼は虫に食べられない。彼は骨には戻らない。彼は動く。トモダチは動かない。 自由にしていいという言葉も、ゾフィーには難しかった。自由とは、どんなことだろう。たとえば、笑ったり、することだろうか。それとも誰かと約束をしたり、食事をしたり、することなのだろうか。それの全てをゾフィーはこなしている、気がする。しかしバルトは、それは自由ではないから、自由になれと告げるのだ。 嗚呼では自由とは、やっと、やっと彼のトモダチになれると、そういうことなのだろうか。気付けばゾフィーの心は固まり、晴れやかだ。墓地とは違う太陽がまぶしいほどの彼女の白髪を照らし、白い肌を焦がした。 もしも許されるのならば、誰かのトモダチになりたかった。自由とはつまり、それを選ぶことができることだろうか。 大きな鎌が、光を受ける。オアシスの湖より深い彼女の蒼に、一瞬のフラッシュが巻き起こる。両手に持った鎌が深々と突き刺さり、鮮血が小さすぎる手を紅く清めていく。砂漠には森の揺れる音はない。湿った草地の臭いもせず、膝をついた砂はあまりにも熱い。それでも、こんなに自然に身を投げ出したことは、初めてかもしれない。 「……これで、いい。これが、いい。自由、いきた」 人々の声がする。ゾフィーが待ち望んだものだ。求められ、惜しまれながら、そして誰かのトモダチになっていく。 「……あり、がと……」 ぐねぐね、��ねぐね。きっと虫たちがやってきて、ゾフィーの肉を食べ、羽ばたき、生きていく。そしてゾフィーはみんなのトモダチになり、永遠になるのだ。 ――サクサク、サクサク。 砂漠の砂は、墓地のそれよりも軽い音がする。 * * * ゾフィーのセリフは独特で、そして愛しい。
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嗚呼、戦乙女に幸あれと。
テオナ、誕生日おめでとう! これは、うちのアルケミストが召喚した、うちのファントムの妄想小説です。 公式に準拠しない可能性が大いにある設定がでてきます。 ※召喚順に基づく友好関係など。 みんなが”うちのファントム”書いて、流行るといいな。 * * * 下りかけの日差しが、女の長く黄金麦のような髪を照らし出す。彼女の胸元を飾り立てる、華奢に見える肉体には到底不釣り合いな鎧が、その光を受けて、まるで夜空に振る一筋の星のように輝いた。荒野の風がその髪に、鎧に、白い肌に、埃をかぶせていく。そんな中、まるでよくできた彫刻のように、空のように澄んだ瞳は、ただ一点を見つめているのである。 女の名はテオナ。生まれをグラトニー=フォス。女剣闘士としてその名をとどろかせた彼女はまさに今、常日頃と同様に、その槍の鍛錬にのみ意識を割いているのであった。ゆえに彼女にとっては、この日差しを受けてなお冷たい石壁も、煩わしい音ばかりたてていく背の低い草も、ましてや風の運ぶ埃などに、集中力をかき乱されることはないのである。 否、あってはならないとも、言えるのかもしれない。身の丈ほどもある大きな槍が、彼女の手の中でただ、静止している。彼女の頭の中にあるイメージはただ一つ、先日の戦闘での失敗のみ。テオナが槍を握る手に力を込めたその瞬��――聞き覚えのある足音に、彼女の意識はふっと削がれた。キンとはりつめたガラス細工を手から離した瞬間のように、テオナの発していた殺気がやわらぐ。 足音の主は、テオナの視界に入る大きな岩陰から、そっと顔をのぞかせた。まるで花のような美しい春色の髪をなびかせて、彼女はハート型の額の下の眉毛をハの字にする。 「ごめんなさい。邪魔して、しまいましたよね……」 明らかに戦闘向きのテオナとは違い、現れた女、ルピナスの装束は凝ったものだ。恐らく速さを追求してはいないだろうことが伺える、長い上着、目を引く色彩。側頭部から伸びる角までが、繊細で美しい。 気心の知れた彼女の言葉に、テオナは槍を下ろして苦笑する。 「そんなことないよ。ちょうど、煮詰まっていたとこだし」 その言葉に嘘はなかった。もう太陽がどれだけ移動したかも分からないほど槍を振るっているのに、イメージ通りにはいかない。しかし、鍛錬とはそんなものだ。学び、実践し、反省し、繰り返す。決して”天賦の才”といえるものを持ち合わせているわけではないテオナは、今までに数え切れない時間を、それこそ星の数ほど、鍛錬に費やしてきた。しかし今回ばかりは、いくばか自分ひとりでは解決できないのかもしれないと、考えていたところだった。 そんなテオナの気持ちを読み取ってか、歩み寄ってきたルピナスは、突然地べたに腰を下ろした。草を踏まぬよう、荒れた砂まみれの地に腰を下ろし、テオナに手招きする。 彼女の、まるで幼子のようなその行動に驚かされつつも、テオナもまた、両手に持っていた武具を手放し、ルピナスの隣に座り込んだ。 「珍しいですね、テオナがそんな顔をするのは」 「そう、かな」 「私たちが、ここに来たばかりのときみたいで」 ここ、というのは、いわば時代のことである。テオナもルピナスも、この時代の人間ではない、幻影兵だ。どこかの国ではサムライ、とも呼ぶらしいが。二人はとあるアルケミストがまだその技に慣れないうちに召喚された、いわば剣闘士界隈でいうところの”同期”のようなものだった。 その彼女も目を瞠るほどなのだから、テオナが相当珍しい状況下にあり、また心配されているのは事実である。なにせルピナスがテオナの鍛錬を中断させてまで話をしたがったことは、おそらくテオナの顔についている瞳の数よりも少ないのだ。 「何か、気になることでもあるんですか?」 ルピナスは、テオナの顔をじっと見つめた。時折そうやって、ルピナスは母を求める子どものような顔をする。どうやら人との会話に慣れていないかららしいと気付いたのは、さて彼女から何度質問攻めにされた後だっただろうか。テオナは考えつつ、そういえば鍛錬を終えてみれば、喉に入る砂ぼこりが気になったので、唾をのんだ。おもむろに、口を開く。 「最近、みんなとうまく連携ができない気がして」 「みんな?」 「特に、あの、誤解がないように言いたいんだけど、相手が苦手とかじゃなくて」 「はい、分かってますよ」 では果たして、誰か特定の相手のせいなのかと、ルピナスが促す。テオナは今さらながら、こんな情けないことを、背中を預けるべき戦友に言うべきではないのかもしれない、と考えていた。まあしかし、一度言ってしまったものは、チーズを牛乳にもどせないように、元には戻らないのだ。 「ラメセスと、うまく連携がいかなくて」 「ラメセス!」 ラメセスは、唯一、テオナより前に、アルケミストの手ずから召喚された幻影兵である。テオナと同じく槍使いである彼は、もとは砂漠の貴族の生まれであり、テオナ同様鍛錬に余念のない真面目な幻影兵である。 しかしながらお互いリーチの長い獲物を扱うため、召喚されたばかりのころは、よく味方同士で混戦して槍が腕をかすめる、なんてこともあったものだ。またラメセスの生まれが、テオナの出身国の支配下になっていたこともあり、あまり良好な関係から始まったとはいえないだろう。勿論、それを表に出すような二人ではなかったが。 幾戦もの苦難を乗り越え、なんとか最近は一般的な戦友として心を許し始めたと思ったタイミングである。――ラメセスは、『扉が見えた』と言った。 「ルピナスも、ラメセスも、他にもクロエたちも、扉が見えたと言っているのに」 テオナには、まだその”扉”は見えない。 その扉がどうやら召喚を行うのに関連する”扉”であり、己が力を引き出すものであることは、テオナもアルケミストの話を通じて理解していた。しかしながら、見知った仲間が次々と”扉”を見ることに、焦りを感じていないといえば嘘になるだろう。 最近では同郷のネイカもそれを見たというのだから、テオナも”扉”を見ることが叶うかもしれないという期待を込めて、鍛錬にいそしんでいたのだ。しかしそれが、いつの間にか邪念になってしまったのだろうか。自分らしくないと感じていても、まるで池の中で泳ぐネズミのように、自らの手でこれを解決することは難しかった。 思い悩むテオナを見て、ルピナスは困りましたとばかりに頬杖をついた。 「”扉”はたぶん、私たちの素質以外にも、関係はしていると思うんです」 「素質以外?」 「例えば、私が召喚獣さんを呼ぶみたいに、なにか別の力も、働いているんじゃないかな、って」 別の力とは何なのか。それはルピナスにも分からないようだった。テオナはそんなものか、と納得しつつ、しかしそれが鍛錬の不出来の言い訳にできないことも知っている。また鍛錬をする、それしか自分にできることはないのだから。そう思った矢先、「あ!」とルピナスが手を叩いた。 「そうですテオナ、私、あなたを呼びに来たんですよ!」 ニコニコと笑う彼女の動きから察するに、おそらく敵襲ではないのだろう。ではなんだろうか。料理当番や掃除当番をサボった記憶は特にないのだが。テオナを召喚したアルケミストはなんでも友達が少ない――と自己申告をしていた――ので、���り者なことに幻影兵たちとほとんど共同生活状態を送っている。たまに”あるべき場所”に戻っているらしいが、詳しくは知らなかった。アルケミストがいない間も、テオナたちは暮らし、鍛錬をする、それだけのことである。 「呼びにって、何かあったの?」 「えーっと、いいから来て! きっとその問題も、解決することができるから」 要領を得ない説明のまま、ルピナスが腕をつかむ。慌てて彼女を制し、砂のついてしまった槍と盾を手に取った。きっとルピナスの手では、持ち上げることすらできないような大きな武器だ。そしてテオナは導かれるままに、本日の鍛錬を中断したのである。 帰路につけば、テオナとは生前からの友人であるローティアが、仁王立ちで二人を待ち受けていた。その後ろから、こそりと顔をのぞかせるのは、実はテオナのことを生前から知っていたらしいネイカである。 「テオナ! 遅いですよ~、そしてっ、予想通り、砂だらけですね~」 「こ、ここは砂漠が近いから、しょうがないですぅ……」 出迎え早々失礼な口を叩いたローティアは、たわわに実った果実のような胸元の下で腕を組み、口を尖らせた。彼女の操る猛獣同様、手入れされた、よく手入れされた爪よりも眩しいピンク色の髪が、テオナの腕に当たる。 「遅いって、今日は特に予定もないって聞いたから鍛錬を……」 「本気で言ってるんですか? テオナも相変わらずのおバカ剣闘士ですね」 まったく悪びれない物言いに、テオナも眉をひそめかけたが、温和なルピナスとネイカになだめられ、なぜかあれよあれよと言う間に、ファントムたちが暮らす家に招き入れられ、そしてなぜかそのまま身を清められてしまったのである。 このときの彼女らの素早さは相当なもので、どこからか現れたゾフィーと四人がかりで身ぐるみをはがされ、それを見かけたテティスに「なぜそんなに砂ぼこりまみれに……」と目をしかめられた。そのままルピナスの召喚獣パワーで髪を乾かし、はたまたどこかから現れたクロエやエマなどに身を囲まれ、なぜか髪まで結われてしまっているのである。それはもはや、言うことを聞かない赤子を家族総出で風呂に入れるのと大差ないような扱いだ。 終始楽しそうにしているファントムたちとは違い、テオナは終始大混乱である。なにせそもそもは剣闘士、ローティアとケーキを食べに出かけることがあるとはいえ、ローティアもやはり闘技場の人間である。 こんな相手を飾り立てたり身を清めたりなどということはなかったし、そもそもテオナはそこまで人に指図をすることは得意ではない。グラトニー=フォスで一定の階級に属していたとはいえ、自分のことは自分でしたい派なのである。 「な、なんなの一体! 大体、汚いなら言ってくれれば自分で――」 「いいから従いなさい。全く、綺麗にしていただかなければ困ります」 反論もむなしく、潔癖症のテティスにたしなめられては、もはや言うことを聞く以外の選択肢はなかった。どこから出してきたのか、ネイカ特製のアクセサリー――生前は良い値が��いたと聞くが、いくらくらいだろうかとテオナは考えてしまった。意外と庶民派なのである――を髪やら腕やら首やらに付けられ、気付けば自分でも式典の時かと思うほどに身綺麗にされてしまっていた。 「……なんか、落ち着かないんだけど」 「いいからい��から、早くこっちに」 ルピナスがテオナの手を掴んだ。細く白い指がつかむには、テオナは自分の指があまりにも不相応に感じた。マメができては潰れを繰り返した硬い指、召喚されても、これは変わらなかった。 導かれた扉を開け、さてそこでようやく、なぜか今日は様子がおかしいらしいぞと、テオナは気付き始めた。 まず、なぜか大部屋が宴会ムードになっている。しかも立食パーティのようなものに。普段木目が丸見えの足元には、無理やり足をいれたヒールでも音がたたないほどの絨毯が敷かれている。 室内に点在する机はすべてテーブルクロスで覆われ、上にはザンゲツか、はたまた誰かがこしらえたのか、大層豪勢な料理の数々が並んでいた。ハチミツ酒やエールのボトルにグラス、果物に菓子まで、なんでもありだ。テオナの大好物であるチーズケーキや、ヨーグルトドリンクなどまで並べてあるのは、鍛錬の後のテオナにとっては肉を目の前に置かれた狼のようなものであった。しかしその欲求を覆い隠すほどに、テオナの動揺が大きかったと言える。 「これは、何なの……?」 「やっと来たか! 俺様も待ちくたびれるところだったぞ」 迎え入れたのは、なぜかものものしい恰好をしたラメセスである。トップライトの光が彼の首飾りと反射して、テオナのデコルテにちらちらと光を灯す。 どうやらこの宴はラメセス主催のものらしいと気付いたのは、手を差し伸べられてからだった。 「俺様はグラトニー流の宴は知らん。しかし今日は、我らがアルケミストの誕生日だ。そして――テオナ、お前も」 「たん、じょう、び」 誕生日とは、生まれた日のことである。しかしテオナは、自分が生まれた日を祝われたことは少なかったし、そもそもここまで豪勢に祝われることもない。常に戦い、食し、死んだように眠り、その繰り返しだったのだから。そういえば、闘技場の養成学校で、生徒から祝われたこともあっただろうか。 そして何より聞き捨てならない。今日がアルケミストの誕生日だと。 「あなた、知ってたの!?」 「当然。オレが最初のファントムだからな。当たり前だ!」 ラメセスが一歩前に出て、傅き、そして手を伸ばす。 「そしてお前も、まあついでだが、今日の主役だ」 あまりに殊勝な態度に呆然としていれば、後ろからルピナスが小声でささやいた。 「ラメセス、たぶん今日の事を秘密にしているのが気になって、連携うまくいかなかったんですよ」 「こらルピナス! 俺様がそんなことを気にするわけがないだろう!」 「声を荒げているのが、何よりの証拠です」 テオナはあまりのことに硬直し、指が白くなるほどに手を握りこんだ。誕生日は素敵なものだけれど、意味があるものだとは、あまり思っていなかったからかもしれない。しかし自身のアルケミストと同じ誕生日に生まれるというのは、なぜか誇らしくい、 同時に、自分が己の誕生日も忘れて考え込むほど浅はかで、そして皆に気を使われていたことが情けなくて、ラメセスの手を取ることがためらわれた。そんなテオナの髪と同じ色をした黄金の、まさに太陽の色をした双眸が、空色の眸に映る。 「安心しろ、女性のエスコートには慣れている。それにこの部屋は、今後は誕生日会とその他自由なパーティ部屋として使用していいと、アルケミストからは許可が下りたのだ」 後ろに控えているストリエとデセルが、「よく許可が下りたわよね~」とか、「アルケミストはお祭り好きって聞くもんね~」とか言い合ってるのが目に入り、テオナは薄く口元に弧を描く。 ずっと溺れていると思っていた小さなネズミが、湖の端にたどり着くように。テオナの緊張感もまた、ゆっくりと溶け、それは仲間たちへの大きな信頼へと姿を変えていた。 浅黒いラメセスの肌に重なったテオナの手は、いつもより少し白く見える。肌の色、国の違い、部族の違い、思考の違い、多くの違いに関係なく召喚されたファントムたちは、悩み苦悩するときもある。しかしテオナの目に差し出されたファントムの手も、テオナを見守るファントムたちも、どれもあたたかい。 きっといつか見えるだろう”扉”は、どんな色をしているだろうか。どんな形をしているだろうか。それは他の者の見るものの”扉”と同じなのだろうか。 見分を広めることを大切にしていたはずの自分が、いつの間にか自分のことばかり考えていたことに、テオナは気付いた。しかし後悔はしない。きっとその苦悩も、また一つの鍛錬への気づきだったのだから。 なぜかルピナスから差し出されたのは、酒ではなくヨーグルトドリンクであった。かわいらしく果汁で絵が描かれたそれに、思わず頬がほころぶ。結いなおされた金の髪が揺れ、身に着けたブレスレットが、川のせせらぎのような音を立てた。 「祝いましょう! 盛大に! もっともっと、今日生まれたあなたのために強くなって、そして今日生まれた私のために、もっともっと、強くなるから!」 いつの間にやら、代わる代わるの相手にエスコートされつつ、テオナはその夜を楽しんだ。さすがに、あのディルガ相手にダンスを踊るとなったときは、緊張でなくなったはずの寿命が復活するかというほどであったが。 どこから現れたのかサガ地方の吟遊詩人たちがリュートを奏でだし、それはもう今までにないどんちゃん騒ぎの開幕である。特に大うけだったのはやはり、召喚師一同による召喚術や、獣使いたちによるショーであっただろうか。 ファントムたちは歌い、踊り、笑い、夕暮れから始まり月までもあくびをする夜明けまでを、まるで祭りのように過ごした。 雷鳴帝の月が21日。アルケミストと、そしてとあるアルケミストが最も寵愛するファントムのための、幸せな、幸せな夜であった。 * * * ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。 うちのファントムたちは、こんな感じです。 そして、テオナちゃんへ、いつもありがとう。 何より辛���った時、夜眠れないとき、いつも助けてくれました。 これからもテオナちゃんが、大好きです。
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月のしずくは漆黒に抱かれ
バベル戦記『漆黒の血脈は、煌々と』、スピカ・ザハル等シャドウメサイヤ関連のストーリーの大いなるネタバレを含みます。
全体的に書き手のねつ造と空想だらけ。
危険を感じた方はブラウザバック推奨。 *** 鳥も獣も息をひそめる月夜――聞きなれた物音に、アタシは瞼を開けず息を殺す。同室の少女は親元を離れたホームシックに慣れず、月の明るい夜はなかなか寝付けなくて、談話室に出かけていくのだ。アタシが人生で初めてきちんと出会った、仲間と呼ばれる子。ホームシックという言葉も、彼女から習った。たてつけの悪い部屋の扉が閉じる音がして数秒、息を吐く。みじろいても、他の誰一人目を覚ましてはいなかった。月明りの日に落ち着かないのは、アタシも同じだ。真っ白な光は、唯一の肉親であるお姉ちゃんを、思い起こさせるから。 ラーストリスの現状は緊迫していた。度重なる戦。隣国とのバランスを保つことすらやっとのこの国は、常に騎士団員を募っている。そしてそんな場所に身を置くのは、同居人のように親から将来を切望された子か、アタシのような孤独な子。……いや、元々はたぶんアタシも、彼女側の人間だったんだろう。 命を奪うのも、奪われるのも、簡単だ。それを、アタシは寄宿舎に入ってから、姉以外の家族全員が命を落としたと知ったとき、確信した。だってアタシの周りにはこんなにも、命のやり取りにあふれている。アタシが昼に食べた肉と、アタシ自身、何の違いがあるだろうか。こんなことを考えると、指先が冷える。毛布を鼻先まで掛けても、安心できるお姉ちゃんの香りはしなかった。
家族を喪ってからのお姉ちゃんは、大切な人を見つけ、強くなった。その人の願いを叶えることが、お姉ちゃんの“願い”らしい。寄宿舎に入ってからすぐに、そんな単語は聞くようになった。周りの子たちが話す“願い”や“夢”なんて、お姉ちゃんが言うまでは、アタシと遠いものだと思っていたのに。ただ戦って、強くなって、お姉ちゃんとあったかいご飯を食べる。そのためだけに頑張ってきたから。けれどもしかしたら、これが“願い”っていうものなのかな。 寄宿舎での生活は寒々��く、国全体が貧困な今の状況では、満足な支給品なんかがあるわけでもない。周りはみんなライバルで、そして明るくふるまっても、いつか周りを出し抜こうって考えてる。――アタシと同じ。こんな生活で、お姉ちゃんのことを思い出すのは難しい。全部埃と、暖炉の火の臭いの中に消えてしまう。でも月の夜、あの真っ白な月だけは、どうしてかお姉ちゃんの温かさを思い出させた。 真っ白で冷たい、夜の光。今はそばにいないけれど、いつだってアタシが忘れることのない、お姉ちゃん。こうやって想うことが当たり前で、当たり前すぎて、お姉ちゃんが同じようにアタシや、もしかしたら誰かの事を考えるなんて、思いつきもしなかったけれど。 もしかしたらお姉ちゃんは、“あの方”のことを考えているのかな。 そんな風に思うと、もしかしたらそうやって大切な人が増えれば、お姉ちゃんもアタシも幸せなんじゃないかな、って。そうやって思ううちに夜は更けて、同居人が扉を開く。天井がキシリと鳴いて、風が窓を叩く。 そんな風にして、アタシは寄宿舎での日々を送っていたんだ。 * 念願の思いでお姉ちゃんと一緒に、“あの方”の率いる一行、シャドウメサイヤに入ってから随分と月日が流れた。お姉ちゃんが寄宿舎に入っていたアタシよりも強くなっていたのには驚いたけど、それも全部、たった一人のため。そのたった一人がとても大切なんだと、アタシは確信し、そんな大切な人が、アタシたちの特別になってくれるんじゃないかって。そう想っていたけど。 「なーんか、思ってたのと違うなー」 アタシは積んであった備品入りの木箱の上に座りながらぼやく。“あの方”はきっとお姉ちゃんを大切にしているけれど、それはきっとアタシのことも、他のみんなのことも同じように大切にしているような気がする。それって幸せなことだと思うけれど、お姉ちゃんは辛そうだ。お姉ちゃんが辛いと、アタシも辛い。おやつに食べたリンゴが、胃の中で転がる音がした。 「ねえ、違うんだよね!」 目の前でスキットル――と呼ぶことを最近習った銀の入れ物をあおる男に聞こえるように、アタシは声を張った。眼帯で隠れていない右目が、長い前髪の隙間からこちらを覗く。喉で音を立てて酒を飲み干した酔っ払いは、怪訝そうに、渋々といった素振りで口を開いた。前々から思っているのだけれど、ここの上層部はみんな人づきあいが下手だ。苦手なのかは分からないけれど。きっと“あの方”のカリスマ性が凄すぎて、変な人ばかり集まるんだろう。 「……何が違うんだ?」 問われてから、今まで考えたことを目の前のシャドウメサイヤ副団長、ニグル様に伝えることはできないなと思う。お姉ち���んの信用に関わっても困る。 「んー、ここと、寄宿舎の雰囲気が」 きっとアタシが口から出まかせで誤魔化したことは、この人にはお見通しだ。ふうん、と一息ついてから、それでも彼はアタシとの会話を始めてくれるらしかった。足を組み替えて、アタシの方を向いてくれる。案外、優しい人なのだ。 「寄宿舎というのは、ラーストリスの騎士団か」 「うん。こことは違ってね、もうみんなピリッピリしてるんだから」 シャドウメサイヤ一行も、彼と同じく、みんな優しかった。突然現れた新参者のアタシを受け入れてくれて、寝床も���事も分かち合い、言葉を交わしてくれる。周りでいつ殺し合ってもおかしくなかったあの頃とは、すごく違う。 ニグル様は当然だ、と言わんばかりに眉を歪めた。つま先はつまらなそうに垂れ、肘までついている。 「我々は皆。ザハル様の野望に賛同し、その世界を拝する者。今を勝ち残ることだけを考えて集められた、駒のような者しかいない騎士団員と同列にされるとは、笑止というものだ」 ザハル様。お姉ちゃんの特別な人。ザハル様はすごい人だ。ニグル様は勿論、他の一癖も二癖もある人たちの心を一手に掴んでいる。勿論アタシもだ。お姉ちゃんの特別な人は、きっとアタシにとっても、特別な人になるはずだから。 「それは勿論、分かってるよ。ザハル様はすごいお方だもん」 「ならば、どうした」 「んー、ただね。アタシとみんなの関係を、なんて言葉にするのかなーって思って」 ニグル様が虚を突かれたような顔をする。酔っているからか、いつもより分かりやすい反応だ。それともアタシがこんなこと、考えてるって思わなかったのかもしれない。アタシの交友関係は狭い。寄宿舎でもここでも、明るく振舞っているけれど、“友達”という単語の意味も、まだよく知らないままだ。ただ、お姉ちゃんが特別だということだけを知って、生きてきたから。 「――仲間でも、同胞でも、我等を称する言葉は多くあるだろう」 「仲間も、同胞も、おんなじところにいる、って、ただそれだけのことでしょ?」 アタシだって、元はラーストリス騎士団員が仲間で、同胞だった。勿論ニグル様やザハル様、お姉ちゃんだって、一時期はそうだったんだ。けれど、こんなに安心して、会話をすることなんてなかった。これも全部、お姉ちゃんが大切に想うザハル様のおかげなのかな。 「アタシ、よくわかんないけどさ、こういうの、“家族”みたい、って、言うのかなーって」 「……家族?」 家族。アタシにはもう、たった一人のお姉ちゃんしかいない、家族。アタシにとって心が安らぐのは、いつだってお姉ちゃんのそばだけだ。でもたまに、シャドウメサイヤにいても、心が安らぐ瞬間がある。これって家族って呼ぶんじゃないだろうか。アタシは少し前から、そんな風に考えるようになっていた。そして多分、孤児の多いこの一団の中で、そんな風に考えている人は少なくない。 そういえば、ニグル様に家族はいるんだろうか。何となくみんなのことは知っているけれど、家庭についてや過去のことは、どこか触れずにいた。それはきっと、みんな人には言えないことがたくさんあるから。勿論、ザハル様や参謀のレティシア様、副団長のニグル様の過去なんて、誰も知らない。 「しかし家族となると……私は貴方の兄のようなものか」 驚いて顔を上げると、ニグル様はアタシの後ろに目をやった。振り返ると、そこにはまるで数日前に狩った肉の不味いところを食べちゃいました、みたいな顔をしたイーラが立っている。ニグル様の言う“貴方”とは、どうやら彼女のことらしい。すぐにイーラは眉をしかめて、ニグル様に飛びかかった。 「ニグル様のような兄は、こっちから願い下げだ! 気に入らん!」 小さな手足から繰り出される信じられないほど重い打撃を、ニグル様は片手で受け止める。底の知れない人だ。けれど、興奮したときにあふれ出るアルケミィの光が見えないということは、イーラも本気で怒っているわけではないようで。何だかん��で二人は、師弟という絆で結ばれているんだろう。 「イーラはさ、家族ってどんなものだろう、って考えたこととかさ、ないの」 「何なんだシルマ。昨日の肉は捕ったのオレだから、新鮮だったろ」 アタシの腹が壊れているのかと、仁王立ちするイーラは正直可愛い。可愛いという気持ちも、こんな自然に出るということはここにきてから知ったことだ。 「いや、なんだろーね。アタシ、みんなのこと大切だな、って思うから。これって家族愛ってやつなのかなーって」 「かぞくあい……」 また、イーラが嫌そうな顔をする。愛とか、あったかい場所とか、そういうものにイーラは素直になれない。きっとそれは、寂しがっている自分を肯定することになるから。ニグル様はそれを知っていて、彼女に一定の距離を置き、けれど情をもって接している。イーラは分かりやすいから、きっと少し仲良くなれば誰でもわかることだ。 「シルマ。愛という言葉は我々にはそぐわない。そうは思わんか」 少し真剣な目をするニグル様に、まずかったかな、と思う。けれど直接的に咎められたわけではないから、きっと大丈夫だろう。 「愛というのはつまり、利己的なものだ。自らのためのものだ、と言い換えることもできる」 「はぁ?」イーラが首をかしげる。実際アタシも、よくわからずに頷いていた。 「相手を手に入れる、自分のものにする、何かを分かち合う、全て一個人の欲求に過ぎない。そしてそのような欲求が相手の望むものでなくなったとき、それは形を変えるだろう。決して永遠ではない感情の事だ」 「永遠じゃ、ない……」 じゃあアタシのお姉ちゃんに対するこの気持ちも、永遠じゃないのかな。いつか消えてしまうんだろうか。そう思うと、心の中に寄宿舎の窓を叩いた夜風のような、冷たいものが通り過ぎていく。 「無論、我々はそのような物には縛られぬ。我々を繋ぐものはただ一つ、大いなる志だ。志は決して潰えず、形を変えぬ。信ずる者にとっての絶対になり得る」 ニグル様はそう言って、腕を組んだ。アタシたちを繋ぐ大いなる志は、ザハル様の目指す世界。美しい、蔑まれる者のいない、静かな、けれど安らぎのある闇の世界。それを目指す限り、アタシたちは繋がっている。じゃあアタシとお姉ちゃんは、どんな意志で繋がっているんだろうか。 そしてお姉ちゃんとザハル様は、壊れない意志で、繋がれているんだろうか。 * そしてそれからすぐに、アタシの世界はザハル様の意志で繋がれた世界から、二人きりの世界に戻った。きっとアタシは元々、ザハル様の意志に共感したわけじゃなくて、きっとお姉ちゃんの意志に、共感していたんだろう。アタシは昔から、お姉ちゃんの“願い”を叶えたいと、そのためだけに戦って、強くなったんだから。シャドウメサイヤを離れるのは寂しかったけれど、家族を喪うほど辛いわけじゃなかった。だからあれはニグル様の言う通り、家族愛なんかじゃなかったのかもしれない。 お姉ちゃんはニグル様の言葉で言うなら、たぶん、ザハル様を愛している。けれどそれが永遠じゃないかは、まだ分からない。もしかしたら、ニグル様の言ったことは嘘だったのかも、なんて思うときもある。だっていつもお姉ちゃんは、尻尾にキズのある陶器のリスの置物を、大切に磨いているから。 「お姉ちゃん、寝ないの?」 「いいんです。もう少し……空を、見ています」 お姉ちゃんは良く、星を見る。きっとあの星はザハル様や、ニグル様、イーラたちの上にあって、彼らを照らしているから。アタシは暇になって、小さな湖に映る月を見た。風が吹けば揺らめき、雨が��れば姿を消す、けれど映り、そして決してそこにはない。本物よりも少しだけ近く、優しい光。まるでお姉ちゃんみたいだね、と言っても、お姉ちゃんはきっと笑うだろう。けれど笑ってくれるなら、それでアタシも笑えるんだ。 「ねえ、お姉ちゃん。いつだって、きっと戻っていいんだよ」 幾度となく口にした言葉を耳にしても、お姉ちゃんは首を振るだけだ。蒼く長い髪が揺れる。それを留める黒い髪飾り、お姉ちゃんのためのそれは、アタシの気持ちを見透かすみたいにそこに留まっている。本当はお姉ちゃんに戻ってほしいのは、アタシなのかもしれない……って。 お姉ちゃんがザハル様を大切に想うようになってから、気付いたことがある。それは、アタシがお姉ちゃんの唯一の妹だってこと。そして、唯一の妹以外のものには、なれないってこと。 だからアタシは、お姉ちゃんが新しい特別な人を作るなら応援しよう。求められれば戦うし、護るよ。だって唯一の、お姉ちゃんだから。お姉ちゃんは純粋だ。ザハル様への気持ちと、自分の理想と、変わっていくザハル様に、壊れかけてしまった。まるでザハル様からもらった、大切なリスの置物のように。けれど。 木の上のお姉ちゃんは、ただ星を見る。静かな時間。森の声しか聞こえない。 白磁の肌に、空のように澄んだ髪。アタシにとって誰よりも美しいお姉ちゃんは、まだ壊れていない。それどころか、すごく綺麗だ。きっとザハル様のことを想うから、お姉ちゃんはあんなに真っ白で、汚すことのできないような、そんな表情をするんだろう。 ならアタシは、お姉ちゃんを愛し、意志を貫こう。きっとお姉ちゃんのザハル様への愛が永く続くように、アタシもお姉ちゃんを、大切な人を想い続けよう。
水面に映る月光に、落ち葉が一枚乗る、それが滑ってできた波紋は、お姉ちゃんを護るアタシだ。お姉ちゃんという月が陰っても、揺れ動いても、アタシはそこで、アタシの気持ちを大事にするんだ。
それが、アタシの永遠の愛……ってやつ、かな? *
真珠には、月のしずくという意味があります。 そして空には、真珠星と呼ばれる星がるそうで。
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風の護る大地
ストーリー4章後の世界。大幅なネタバレ有。
リズベットとタミスのコンビ要素有。大体妄想。
***
竜の影がその姿を生い茂る草木に変え、新たな“風”がサガの全てを巡らせるようになってから月が二度その姿をなくした頃である。異国の魔女リズベットは、困難な戦を共にした友人モカの妹――タミスの様子がおかしいことに、薄々気が付き始めていた。
濡れ烏色の長い髪を揺らし、タミスは忙しない日々を送っていた。それについては、リズベットも似たようなものだ。目まぐるしく変わるサガの情勢のため、修行から雑用まで、《水大精》であるヴォダの下で動いている。一方で、復興の“アーリア派”再興のために、タミスは新たな《風大精》となり、“アーリア”の名を授かることとなった。名前が変わるというのは不思議な慣習に思えたが、ルストブルグの女たちが自らの苗字をルストブルグと称するものと同じような物だろう。 《水大精》の下で修業に励むリズベットはしかし、星の光を妨げるものがないこのサガの地で、時折タミスが空を眺めることを、夜の鍛錬の帰りに知ったのである。
夜風の中、タミスはじっと、瞬きも忘れた���でもいうように大きくその双眸を開く。その姿は、双子の“姉”であるモカに、よく似ていた。 「――リズ?」 タミスの口が動く。リズベットは驚愕した。タミスが微笑んで言う。 「どうしたの、こんな夜更けに」 愛用のブルームエースに手をかけ、リズベットは風を切る。そしてずっと先に小さく映っていたタミスの隣に、すっと舞い降りた。サガの地において彼女のブルームエースは摩訶不思議なものであり、レガや近所の子どもにはよく遊ばれたものだ。しかし、その様子にもタミスは、微笑むばかりである。
「タミス…見えてたの?」 「不思議ね。昔から見えていないことが多かったから……なんとなくね、分かるの」
不完全な風のマターは穢れを嫌った。そして穢れを取り込まないために、タミスの双眸は長い期間、暗い闇に閉ざされていたのである。これもまた、聖石と争いによってもたらされた悲劇と理不尽の結果であった。――聖石アスモデウスの時と同様に。
「タミスは、よくここにいるよね」 何をしているの? そう口にする前に、タミスはその答えを口にする。 「星を見ているの。きっと、モカも見ているから」 “モカ”。彼女の最愛にして唯一の血縁者、双子の姉。彼女が先の争いで穢れを負い、それを祓うための術を探すべく、同胞ティナと共に旅立ったのは、あっという間のことだった。リズベットがルストブルグを去りこの地に留まったように、彼らもまた、サガを去った。それだけのことである。 しかし、リズベットはそれが“それだけのこと”ではないということも、理解していた。タミスはすぐに、“アーリア”となるだろう。彼女からまた、“アーリア派”が始まる。そしてそれは彼女が《風大精》として、この先永い刻を過ごすことを意味していた。 それは恐らく、まるでルストブルグの孤独な女王のように。民を愛し、永く永く、リズベットの寿命などはるかに凌ぐほどであろうことは、ヴォダの下で学ぶリズベットが、想像できないはずはなかった。 異国の人間がそれを感じ取れるのだから、当の本人や周囲の者たちが、それを分からないはずなどない。
どうして、“一派”のためにそこまでできるのか。どうして辛くないのか、ヴォダに尋ねたことがあった。彼女は笑って、『愛しい子を見守るようなものだ』と答える。それもやはり、生まれ育った国の女王がかつて持っていた愛の形に、よく似ている気がした。 「ねえリズベット、ルストブルグって、どんな国なの?」 ふと、タミスが問いかけた。その瞳は、今はしっかりとリズベットを捉えている。 「んー、女の人が多いのは、前も話したよね。それから、雪が降ったよ」 「雪……?」 「そう。今はそうでもないかもだ��どね、ここよりはずっと寒いかな」 タミスは雪を見たこともないのだろうと、リズベットは考えた。なにせサガはルストブルグより遥かに気候が温暖で、そしてそれは恐らく、《四大精》のもたらすマターの力によって保たれているに他ならない。 「私ね、風のマターをきちんと制御できるようになって、記憶を感じ取れるようになったの」 “記憶”と、タミスは云った。 「その中には、笑顔のサガの人々がたくさんあって――けれど、雪はないの」 「サガでは雪が、降らないから?」 「そうね。そして」――他国のことは、あまり知らなかった。 それを聞いて、リズベットはようやく、《四大精》になる意味を理解したのだ。遠い場所に国を出て旅立ったモカと、恐らくこの先サガを離れることが、永く、永くないかもしれないタミス。凍り付いたように言葉を失ったリズベットに、タミスは「大丈夫」と笑う。なんだか思っていることをすべて見透かされているようで、リズベットはブルームエースを持つ手に力を込めた。
「でもね、私、このサガの人々を愛するように、他国の人たちも愛していきたい」 「タミス? え、……!?」 風が舞う。草木を揺らし、二人のいる丘の上で影がざわめいた。息吹と呼ぶにふさわしいほどの、“生”の鼓動。“アーリア”の心に共感するように、サガの大地が揺れる。 「リズベットのように、素敵な人がほかにもいる。ゲオルギウスのように、傷ついても風の心を忘れない民も。なら、私は世界の人々を愛したい、このサガの民と同じくらいに。私はここにいるしかできないけれど、今度は私が、モカやみんなの居場所を護る存在になるの」 星明りの照らす中、そう笑うタミスの黒く長い髪が、夜に溶けるようになびく。その横顔はどこか、サガを護ると誓うモカにも、ティナにも似ていて。そしてその眼からは、慈愛の力が息づいていた。心がふっと燃えるように熱くなり、それがリズベットを突き動かす。
「……タミスぅうう」 「わっ!? えっ、リズベット? どうしたの?」
晴天の空のような大きな双眸から、こぼれるように伝う雫に、タミスは動揺する。その小さな手を伸ばし、頬に添えて、困惑したように涙をぬぐう。そんな仕草ひとつひとつが、リズベットの涙腺を大きく動かしてしまうので、タミスはより混乱するばかりである。 もしかしたら女王陛下も、他国の私のことを祈ってくれるのだろうか。そんな風に考えると余計に涙があふれてきて、どうしようもなく、リズベットは勢いよく鼻をすすった。
「ねえタミス、私たち、ずっと友達だよ」 唐突な友人の言葉に、タミスは目を丸くしてクスリと笑った。 「勿論よ」 「おばあちゃんになっても、ずーっとだからね」 「そうね」 「私、修行をたくさんして、立派な魔女になって、うんと長生きして、色々なものを見てくるよ」
タミスの息を飲む音は、リズベットの耳には届かない。
「いろんな場所を見て、いろんな人と出会って、それを伝えに来るね。それで、色々なことを話そう! 雪のことや、雨のこと、風のこと、星のこと。きっとそれって、このバベル大陸が繋がってるって証拠だから!」 「繋がってる……」 「そう、この大地を癒す風はどこまでも、どこまでも届いてる。私が知らなかっただけで、きっとルストブルグにも、砂漠にも」 だから一緒に、愛してい��う。――そう言いかけた言葉は、喉を通ることはなかった。リズベットが感じたのはあたたかなタミスの、細く小さな身体。そして今まで聞いたことのない、彼女の泣き声だった。
***
モカが自分を護るために、ただそれだけのために多くの物を捨てていることに、タミスは気付いていた。マターを宿すために視力を奪われたタミスの代わりに、モカはタミスを誰からも傷つけさせない、護ると誓った。揃いの長かった髪――アーリア派の憧れであるセーダ様と同じ色だと、大切にしていた髪を切りそろえた。困難なフゥ派の鍛錬を進んで行い、槍を極め、それでもなお一族のために、誰よりもタミスのために、戦い続けていた。 自分がマターを宿すことができたのは、幸運なことだったと感じる。しかしそのために、モカが無理をすることに耐えられなかった。自分ばかり、暗闇でもがくだけで、マターを開放することもできない。無力さに歯がゆく、いつも傷を作りながら強くなるモカが愛おしく、妬ましく、羨ましかった。
しかしどうだろう、自分が《風大精》となり、モカがそばを離れた途端に、言葉にすらできぬ不安がタミスの胸中を覆う。自分ばかり見ていなくていいと思いながら、自分を見ていないことを不安に思い。自分だけがサガのためにと思いながら、時を刻むことを恐ろしく感じ始めていた。 たった二人だけのアーリア派。たった二人だけの家族。たった一人だけの双子の姉。 そんなモカが、自分がマターを開放し、《風大精》となることにショックを感じていることも知っていた。しかしの時の自分は、やっとモカの役に立てるという矮小な気持ちばかりで、自分の浅はかさに息苦しさすら感じていた。
しかし自分の呼んだ風は、もしかしたらサガよりも遠い先に、届いているのだろうか。そこでいくらかの息吹を、巻き起こしているのだろうか。 視界を閉ざしてから、泣いたことなど一度もなかった。モカが泣いたところも、“あの時”以外は知らない。心をひた隠し、民のために、サガのためにと言うことが当たり前で、泣き方など教わることがなかった。
――目が熱い。息が苦しい。泣くってこんなことだっただろうか。情けない。もうやめないと。そう思うのに、心臓の波打つ速度はおさまらなかった。
「タミス。気分転換にね、とっておきのもの、見せてあげる」
リズベットが、ブルームエースを握る手と反対の手で、タミスの手を取った。
「とっておき……?」 促されるままにブルームエースにまたがったタミスを確認して、宙に浮くブルームエースにリズベットが足をかける。 「ほら、いくよ!」
足が地を離れた。と感じたと同時に、ものすごい速度で自分たちが空を飛んでいると理解した。竜の背に乗った時とは違う、なんて軽やかで自由な感覚。涙が伝った頬が、夜風に癒されていく。まるで湧き水に手を入れたときのような、冷たく、けれども清らかな冷たさ。
「ほら見て、タミス。これがサガだよ。タミスが、護っていく、サガ!」
足元には、ちらほらとランタンや松明の灯が見えた。湖や池には星が映り、時折ブルームエースの軌道が草木に勢いの良い弧を描く。人々が暮らし、自然と共存する、タミスが護るべき、愛おしいサガが、目の前にあった。
「すごい。……サガって、とても広いのね」 「そうだよ。ブルームエースで飛ぶんな��早いけどね~」 「それに湖や、森や、すべてが見える」
見上げたリズベットが、遠くを指さした。星の光が、彼女の春の風のような髪を掬い、まるで花吹雪のように瞬いている。
「この遠い先に、砂漠があるよ」 「――砂漠」
身を乗り出してみても、彼女が指さす先には、何も見えない。ただ星が瞬くだけだ。
「そしてルストブルグはあっち。私はね、小さいドラゴンに乗ってここまで来たんだよ。もう乗り心地最悪! だったけど」 「ふふ。ブルームエースにこんなに上手に乗れるのに、ドラゴンは苦手なの?」 「そうっ! ブルームエースより速いからって乗ったけど、あんまり良いものじゃないよ」
リズベットはそう言って、「ヴォダ様に習ったことがあるんだ」と髪を耳にかけた。 「ヴォダ様……?」 「そう。見えないけど、水はどこにでもある。それを私の氷の魔法で――えいっ!」
空気が凍る音がした。
刹那、空から星が舞い落ちる。きらきらと落ちたそれはタミスの髪や手に乗り、そしていつの間にか消えていった。驚いて見上げれば、星を降らした魔女が満面の笑みで笑う。
「これが雪だよ! 雪!」
“雪”は、二人の周囲にだけ現れ、すぐに消えていった。反射した星明りが二人を照らし、タミスの双眸にはまるで、自然という命の光が瞬くように、強く、強く映り込んだ。
「本当はもっとたくさーん降ってね! 溶けずに残ったりするんだけど、私の力だとこのくらいになっちゃって……」 「雪は、水なの?」 「元々はね。水を風が運んで、冷えて氷みたいになって、落ちてくるんだよ」 たぶん、と自信なさそうに付け加えるリズベットに、思わず噴き出したタミスは、年頃の娘のように声を出して笑った。泣いて笑って、今日の自分はどうしてか普段通りにいかないな、と思う。きっとリズベットのせいだろう。異国の、ありのままに笑う少女のせいで、自分も少しだけ、普段と違う自分になってしまうのだ。
「ありがとう、リズベット。私、みんながこんな風に笑えるように、サガを、大地を護るわ」
冷たい風が二人の隣を通り過ぎ、夜も更けたことを告げていく。二人は笑いながら、しばらくサガの誰も訪れない宙の上で、肩を寄せ合った。
《風大精》“アーリア”が誕生する、少し前の話である。
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