Text
地の塩 世の光
『地の塩 世の光』
マタイによる福音書 5章 13~16節より
5.13「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。
14 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。
15 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。
16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになる��めである。」
高校生の時、カトリック系の学校だったのでミサなどの大きな行事がある度に神父である先生から我々に投げかけられる「あなた方は地の塩、世の光です。」という、新約聖書の一節から引用された言葉。これがなぜだかやたらと印象的で、私は当時から妙に気に入っていました。
光は分かるけど、塩ってあの塩かしら。普通の食塩のことでOK?そうか……私たちは塩なのか……などとひとりその言葉の響きやイメージにひっそりとウケてはやっぱりどういう意味?と好奇心を刺激されたり。
私はクリスチャンではないので普段から意識したり触れたりしていた訳ではありませんが、最近の羽生さんのインタビューを聴いて潜在的に心に引っかかっていたこの言葉を思い出しました。
そしてこの言葉の意味を調べて、知れば知るほどまさに彼の生き方や在り方を表しているみたいやなぁ……と妙に合点が行ってこれまたひとり膝を打ったりしておりました。という訳でこれからこの言葉について、そして『光』という言葉の解釈について恒例の無駄に長い怪文書が始まりますゾ〜
✄ーーーーーーーーーーーーーーーーーー✄
地の塩と世の光、それぞれ軽く説明すると、地も世も地上の世界、つまりこの世の中を指しているんですね。
塩は皆さんご存知の通りの塩で、料理に使用して味付けを行うという役割のほかに、対象を清めて腐敗を防ぎ、また消毒する効果があるそうです。確かに野菜なんかを塩漬けにすると長く持ちますよね。
光は読んで字の通り、周囲を照らす明かり。しかもそれは山の上にある家や燭台に載せられた蝋燭のように隠れることがない=見失うことのない標であるもの。
ふたつ合わせると「この世の中に味気を与えて、また清め、明るく照らして道を示す」という風になるでしょうか。調べると微妙に解釈のブレがあるので、私なりにまとめた表現ではありますが……!
自粛を余儀なくされ、興行が中止になったり娯楽が制限されたりして味気の抜けてしまった世界にいま一度味わいを蘇らせるどころかスパイスを加えてくれたとともに、一心不乱に挑む姿を示すことで人々を鼓舞し、その姿勢に恥じないようにと気を引き締めさせて、腐らずまた明日を生きようと意欲を新たにさせる……これはまさに羽生氏の此度の足跡、そして���り方そのものではないかなと思います。
特に"清める""防腐する"という部分を私は推したい。彼のパワーの特異さはここに集約されてるように思えるんですよね。よく礼儀正しさや清廉さを指してそうであると言われがち、と感じるのですがそうではなく(勿論その側面もあると思いますが)こう……他を制するみたいな、滅菌消毒みたいな感じではなく寧ろ生かすことで、その生を肯定することで万象の背筋を伸ばし襟を正していくみたいな……この感覚察して欲しいんですけど……(ろくろ)(急にどうした)
なんかもにゃついてしまいました路線戻しますがSOIが終わった際、多くの人が「自分も自分の人生を頑張る」といった旨のツイートをしていました。また最近ではフィギュアがあまり根付いていないドイツの方面でも彼の演技がヒットしたようで(それも彼が"明るくなるように"と明確な意図を持って作ったLMEY)、これらは紛れもなく彼の発していたメッセージが行き届いたからこそだよな〜と感じました。それを可能にしたのも、4Aチャレンジやショープロデュースなどの目に見える部分の努力、またインタビューや舞台裏などから垣間見える精神性……パッと見では分からないけど彼の核を成す部分の引力の両方があったからこそだとも。う〜んベリベリめっちゃ地の塩世の光ってる。イエスもびっくりして再度復活するレベル。
国別対抗戦やSOIにおいて彼の中の主題であっただろう『光』ですが、その解釈というか効果範囲の変遷も面白かったですね。
はじめは己自身がそう在ることで少しでも人々の活力になれば、という意味合いで使っているようでしたが、試合を経て「皆さんが光だった」と話していました。なんだか月と太陽みたいで詩的やな……と勝手に思いましたね。私は羽生氏は圧倒的太陽属性!ではなく月属性だと思っていたので、やはり自身を巡るヒトやモノがあるほどより輝けるんだろうなと。
SOIではOPでBlinding Lights、EDでShineを使用していました。この選曲も偶然ではなく意図的なのだろうなと思いますね。
光は概念的な意味合いが強い言葉だと思いますが、彼が言うと実体を伴って感じます。導きの光、や灯火、のようなイメージが一般には一番近いのでしょうが、個人的には「発揮」が真っ先に浮かびます。輝じゃなくて揮だけど。持ちうる自分の最大限で道を示すという感じで。察して(REP)
また前述の月と太陽の話に関連しますがひとり背負い��み命焦がすばかりが在りようではないと度々思う私ですが(実はワールドの時大分心配してた)、最近の話を聞いていて少し安心してるところです。ので我々民草もあらゆる意味でうっかり彼を孤にしてしまうような物言いや行動を取らんようにせんとな……とも強く思うのであった。光で身を焼いてしまっては元も子もないからな……!
✄ーーーーーーーーーーーーーーーーーー✄
はいまた脱線しましたね沢山の言いたいことを無理矢理接続するのが悪いんだぞ。破綻なく述べる訓練をした方がいい。
長くなってしまいましたが、要は試合やショーに出てくれてありがとうございます命が助かりましたということです。サビだから何万回だろうと擦りますが当たり前のことなんてこの世にはひとつもなくて、すべて時と事象の奇跡のような噛み合わせによって成り立っているのだといま心から実感するのです。
送ってくれた貴重な信号を無駄にせず自身の生活に還元していきたい。
3 notes
·
View notes
Text
国破れて山河あり
『国破れて山河あり』
中国(当時は唐ですね)の詩人・杜甫の詠んだ詩の一節です。皆さんもどこかで耳にしたことがあるかと思います。"戦で国が崩壊しようとも、山や川などの自然は常に変わらずそこにある"という意味合いの言葉です。
私は羽生さんの新FS『天と地と』を観た際(というか観ながら)、理由はよく分かりませんがなぜかこの言葉がふと浮かび、そしていまのいままでずっとふよふよとこの一節に付き纏われ続けている次第なのです。というか正直に言うと、家族に「羽生くんの新プロって何?」と聞かれて「えっ、く、国破れて山河ありみたいなやつ」と答えてしまったくらいには憑かれてしまってました。ファンとしてこれはナイ。もっとちゃんと説明して。はてさてこれいかに。
これは羽生さんやスケートを観る・観ないに限らず、生まれつきの自分の性質だと思っているのですが、ひとつの事象を身に受けると、一見無関係っぽい言葉や別の事象が無意識の内から炙り出されるクセがあるようです。つまるところ思考のマジカルバナナです。そしてそれをやたらと突き詰めて考えてしまい、(更にそこに共通点や接点を見出しひとりで喜ぶ)その整理整頓のために筆記して思考を開示することに生き甲斐を感じる——
というわけで今回の記事はプログラムの要素やその技術についてはほぼ触れず(私はそこまでルールに明るくないのでそこは詳しい方がきっとわかりやすく解説してくれる!笑)プログラムや彼自身の姿勢から私が個人的に感じた印象や想起させられたものについて勝手に書きたいと思います。まぁ前までの記事もそんなんなんですがへへ…
✄ーーーーーーーーーーーーーーーーーー✄
さてタイトルにもしていますが、冒頭に書いた杜甫の詩の一節に話を戻しましょう。この一節は「変わる人の世」と「変わらない自然」を比較、またそれを受けての思いを表現した言葉であるとされています。
今年、世界中で猛威を奮った(また現在進行形で奮っている)新型���ロナウイルス感染症。これに対して羽生さんはインタビューで「震災(後)と重なる部分がある」という旨の話をされていました。
どちらも突然に我々の日常を非日常に変えた、あまりにも大きすぎる世界的な出来事。
しかしそんな中にあっても、人々は諦めず光を探そうとします。それどころか、悲しみの中にあっても知らずのうちに"美しいもの"を見出し、生きる活力とすることの出来る細やかな感性すら備えている。「震災の時に見た星空は本当に綺麗だった」と語った彼の言葉も、よくその性質を表しているなと時折感じ入ったりもします。
そして今回、全日本という大きな舞台で初披露された新FS『天と地と』。はじめ曲名だけ速報で見た際、「恒例のセルフ命名プロかな?」と思いました。SEIMEI以降ずっとそうだったからね。その後割とすぐに上杉謙信公の生涯を描いた大河ドラマのテーマ曲ということが判りました。ほぅ、オペラ座ぶりのそのまんまタイトル。実はここもちょっと気になるところがあったのですが今回は割愛します!笑
元曲を初めて聴いた時、もうめちゃくちゃ滾りました。だって琵琶ですよ琵琶。個人的に凄く好みの楽器です。なぜそんなに滾ったかは以下のツイートを是非ご覧頂きたい。
私は羽生さんの人ならざる雰囲気(勿論、ちゃんと人間であると認識している前提での印象の話ですよ!)やある種の超自然的な在り方に琵琶はめちゃくちゃ合うだろう、いや合わないはずがないと確信したのです。
そしてそれに続くツイートが以下。
そんな訳で(?)私は琵琶から飛躍して平家物語に行きつきました。おいおい勝手にマジカルバナナするんじゃあない。この曲は謙信公のドラマのテーマであって、琵琶を使っているからって別の物語を持ち出すんじゃあない。このツイートをした後、若干ちょっと恥ずかしくなったのを思い出します。
が、次の日!
驚きました。なんと羽生さんの編曲には『新・平家物語』のテーマも含まれていたことが複数のファンの方のツイートで判ったのです。
えっ、マジ…?マジで平家物語関係あった…。いや主題には掲げていないから恐らく直接の関係は(多分)ないのでしょうが私が滾るには十分すぎる事実でした。(なんやそれ)
平家物語と言えばとにかく冒頭が有名ですよね。中学の時、国語の授業でひたすら暗記させられたのをよく覚えています。特に私は漫画『銀魂』が好きだったのでスルスル入ってきました。オタク特有の偏ったスキル。
その冒頭の中でも"諸行無常"という言葉は大変印象的でした。「この世は常に移り変わり、同じ状態のもの・ことはひとつもない」という意味の言葉。
やること・成すことに意味を持たせるのに強い拘りのある彼のことなので、『平家物語』に対して意図や想いが全くないとはあまり思えない…のですが、彼がどこまで意図してプログラムを作り上げたかいまの時点では分かりかねるので勝手なことは言いますまい。
しかしいまの変わりゆく世の中の憂い…つまり無常感を『平家〜』で表現しながらも、謙信公の姿を自らに重ね、そんな中にあってもあくまでも高潔に戦う意志や決意を示していたのかな、と思わないではいられないのです。
「SEIMEIとは異なり、大河らしく人間の業のようなものも内包した演技だった」という旨のツイートも見かけましたが、私はこれにとても共感しました。
戦いを表している、という場面でもSEIMEIのような明確なヒロイックさはなく、どこか懊悩しているような、だけど凪いでもいるような…とにかく一言では表せない、いち人間が抱きうる感情すべてが滲んでいるような複雑性に満ちてい���ように思います。
彼は「物語ではなく自身を表現する」と語りました。複数の物語を編み上げて作られているプログラムゆえ、ひとつのストーリーとして成立できないからこその発言かと初めは思いましたが、改めて考えるとまず彼は出場そのものに対して葛藤していた訳で。そんな自身の心象世界をプログラム(またはその題材)に託し、なぞらえ表出させることで、いまのこの世の中での生き方(在り方)を宣言したというか…個人の感覚ですが、そんな印象を受けたのでした。
✄ーーーーーーーーーーーーーーーーーー✄
話しているうちになんか主軸がズレたような気がしてならないですが許して下さい。感じたことを破綻なく綴るってめっちゃ難しくないです??か???
国破れて山河あり…似ている言葉でも、諸行無常よりこちらの言葉を使いたいのは、美しさを見出し讃える人々の気持ちが見えるからです。勿論国が破れるのはいけません。でも以前のままではなくなってしまったことは事実。
しかし何時であっても山河は大切にしたい。当たり前のようにそこにあると思っているものだって、整え、磨かれ、何より愛されていないと在り続けられない。当たり前のことはこの世にひとつもないといつも思っています。
彼の演技、ひいては存在そのものは紛れもなく山河であると思うのです。
そのヒトらしさを、勇気を、泥臭いリアルを何時も美しいと思えるようでありたいし、より輝いていて欲しいとも思います。そのためには自分も自分の人生をきっちり��うしないといけないなと、それこそが回復された未来を実現するための一番の寄与だよな、と改めて背筋が伸びましたね。いやはや、ありがてえ…ありがてえ…。
✄ーーーーーーーーーーーーーーーーーー✄
今回はFSだけ、しかも要素や技術面ではなく印象の話に終始してしまいました。
まだまだ沢山思うことはあるのですが、とにかくいま一番出力しておきたいことを新鮮なうちに形にした次第です!笑
あまりここは更新がありませんが、今後もぼちぼちとガッツリした長文での筆記開示に利用しようと思います。ツイートには限界があるからね!
ここまで見てくださった方、本当にありがとうございます!今後もよろしくお願いします!
おまけ
平家物語の中に安倍晴明が絡む話があってあまりの"羽生力"に痺れたし吹き飛んだ
すごいね彼。
4 notes
·
View notes
Text
ネオテニー
長々と書き散らしてきた世界選手権の感想?印象?文も今回をもって最後となります。現地にいた日数と文章量が比例してないよママ-ッ!
本記事ではエキシビション…主に羽生さん…さらに言えば『春よ、来い』にフィーチャーして書いていこうかと思います。多分またどこかから脇道に逸れそうではあるんですが許して下さい。彼を見ていると文学やら哲学やら生物学やらありとあらゆる学問や分野が手招きしてきて「わしらの力を借りるとええで」って囁いてくるんや…でも折角お声がけ頂いても知識と理解が追いつかずとっ散らかり&上辺なぞりな感じの文が出来上がってしまう…!悔しいッ!だが記したい衝動のが勝るから俺は書くぞジョジョォ——ッ!
やぁでも正直に言えば私の頭がもっと良くて財力もあったら彼や彼の演技をより深く理解、表現できるようになるべく全国の大学サーフィンをしたい。(※大学サーフィンとは:大学を卒業すると同時に同大学の異なる学科、あるいは他大学への入学を決め、またそれを納得いくまで繰り返すこと。筆者による造語。)
✄ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー✄
今回披露した『春よ、来い』(以下 春 と記述)はFaOI神戸でも現地で観た経験があり、その当時も受け取った印象を文字に残したい、残さねば…!と使命感に燃えておりました。しかし結局断念してしまったのです。なぜかというと「ひとつの記事に出来るくらいの組み立った文にならない」からなんですね。ショーで観てきた当時、断片的なツイートはしていましたがそれらがひとまとまりの文になるかと言うと…ならない!そのくらい受け取るイメージが多種多様でそのうえ演技の輪郭もぼやけていました。(勿論めちゃくちゃいい意味で使ってますよ!)あとこれは個人的な感覚の問題なんですが、春に対して"演技"とか"プログラム"という人工的?人為的?な言葉を使うことに抵抗があったのも一因ですね。代替語として今でも自分的にいちばんしっくり来ているのがこのツイート↓
https://twitter.com/tanshi_hdmi/status/1008917747244265473?s=21
有機でありながら無機。静でありながら動。喜でありながら哀。そんな一見対極に位置するような要素を矛盾や破綻なく内包し、かつ見るものにより受け取る印象が異なる様をあらわす言葉…となったらこれかなと。あと春を舞っている彼の様子がおよそひとではない、もっと言えば生物ですらないというのも大きい。人型ではあるんだけども。高価な機材も特殊な撮影技術も要らない、肉眼で知覚できる自然現象。
時間が経つにつれ、そんな春に対する内的葛藤と苦悩が解けたので今回はのびのび綴っていく所存です。でも記事内では読みづらさ回避(多分すでに出来てないよ)のために普通に演技とかプログラムって言いますです。ウヒ
そろそろ24日の話を。これは完全に偶然なんですが、FaOI神戸で見た時も今回のEXもショートサイドでした。席の細かい指定までは出来ないのに不思議!しかも方角も一緒。なんか運命を感じる(?)座席は200レベルの8列目、23日同様視界も良好。選手がリンク内のどこへ移動しても満遍なく見渡せる絶好のポジションでございました。
前の演技者がはけ、入れ替わるようにリンクにあがる羽生さん。いつも通りそっと、しかし大きな慈しみを込めて両手で氷に触れながら。それだけで会場からは万雷の拍手、歓声。試合の時のそれとは異なり、どこか優しく、甘さを含んで聞こえます。
セットのなされていないさらさらの黒髪は完璧なまでの丸みをもって艶めき、その身を奥ゆかしい薄紅色と海月の触腕のように波打つ豊かな羽衣とで包んでいる様は、昨日までの荒ぶる闘神のような姿がまるでゆめまぼろしだったのかと疑ってしまうほどに、無垢でたおやかでした。
薄明りに融けるように佇めば、どこからともなく(本当にそんな感じだった)きれいに磨かれたガラス玉を転がすみたいなピアノの音が響いてきて、その音色が雫となって彼という水面に波紋をつくります。魂が灯ったようにふわりと両腕を浮かす仕草、あれはまさにミルククラウンが出来る瞬間のようです。音(雫)の落ちる速度や比重などの条件がぴたりと噛み合わなければ生まれない自然現象。
どんなに微細な空気の揺らぎにもかならず呼応するうす衣は、やはりそれそのものが意思を持ついち生き物のようで。よろこんでいるようにもかなしんでいるようにも、角度によってきらきらと偏光するプリズムみたいで実態がつかめない。でも色々な表情をしているのは分かる。それだけで十分だなぁと思いました。
淡いつむじ風のような3Loを降りた後、右手で氷を軽く撫ぜ、それをじっと見つめながら自らの頭より少し高く掲げる動作があります。TVでは背面からのみしか撮影がされていませんでしたが、私が座っていたのは西側ショートサイドで、この時の彼の真正面に位置する場所であったために表情を伺うことが出来ました。
正直に言うと、かなりぞっとした瞬間でした。"畏怖"とも"虚無"ともつかない感情に埋め尽くされて息をすることが出来ませんでした。実際はせいぜい2〜3秒の動作だったのでしょうが、その場では永劫続くのかと思うほど長い時間に感じられて、茫洋とした海原のど真ん中にいきなり投げ込まれたような、幼い頃にホームセンターの壁に掛けられていた巨大なゴブラン織りの絨毯を前にした時のような、"なす術なく竦み気が遠のく"体験をしたのです。表情は果てしなく純真であるのに、その目は客席や建物どころではないはるか遠く、もっと言えば"いま"ではない異なる時間軸を見据えているような。あぁ、あれは悠久の時を過ごしてきた新生児です。そんな彼を通してあらゆる時代のあらゆる出来事に一挙に目を向けられたような、そんな風に感じられた瞬間でした。
マジで軽く「ヒッ」て言ってしまった。アリーナの、本当の本当に真正面になった方を今でも真剣に心配している。
私は彼のスピンがとても好きです。キャメルスピンではいつも慎ましやかに雄弁な手の表情を堪能することが出来るし、ぶれのない完璧なポジションが描くかたちはまさに真円で、その見事さに空間がよろこび、どんどん質量を増加させていく様を肌で感じることが出来ます。その後に続くスピンの素晴らしさたるや、シット姿勢から次第にアップライトに変化、かと思えばぱっ、と弾ける一連の流れはもはや彼が音を生み出しているとしか思えないほど。それか身体が譜面で出来ていて、いち回転する度にするするとほどけていっているのかもしれない。
途中『天と地のレクイエム』を彷彿とさせる、頭を抱えたり何かを振りほどいたりする仕草があります。なんとなくですが、レクイエム以降ずっとプログラムの中のどこかにそのような動作がかならずある気がして、彼の中でひとつ核になっている表現なのかなと感じました。でも同じように見えても印象はまるで違う。春は「振り返ればそんなこともあった」と回顧しているイメージです。苦闘の最中ではなく、愛すべき想い出となった過去の出来事、みたいな。ハイドロにしても同じで、レクイエムの時は海面からわずかに差し込む光を海底からどうにかして掴もうと腕を伸ばしているようでしたが、春では逆に、水面や水中を見下ろし、そこに映っていたものを愛おしんでいるような。今回のハイドロでは特に強くそういった印象を受けました。やはりプログラムは生き物だと、その時々の立場や年齢でもっとも輝くように出来ているのだと改めて思ったワンシーンでした。
氷の欠片を集め、空中に放つ動作はFaOI神戸ではなかったため初めて現地で目にしました。途方もなく儚い。分かってはいたが儚い。やっぱり悠久の時を生きた新生児なのかと思ってしまうほど、絵に描いたような無垢な仕草にぎりぎりと胸が締め付けられる。実際のこどもが戯れにそうするのではなく、もう成長しきったものがこどもの頃の楽しかった体験を再現しているような寂寥感がある。きれい、すてき、とひと言では済ませられないほど、あの瞬間にはたくさんの想いや感情が去来します。
そしてその後の、歌詞で言えば「瞼閉じればそこに」の「に」の部分、そこで彼がどんな表情をするか、私は注目していました。TV越しに観たものではありますが、FaOI静岡では屈託のない笑顔、GPヘルシンキでは苦悩するような表情だったのが心に引っかかっていたからです。
この目で今回観られたの��、静岡の時、もしくはそれ以上の弾けるような笑顔でした。もうこの辺りまで来ると演技は終わってしまうことを否が応でも認めなければならないというのもあり、笑顔って本来喜ばしいものなのに、なぜだか虚しさばかりがどんどん募ってゆきます。
そう感じ入っているのも束の間、近年の彼のEXのハイライトとなっているディレイドアクセルが、多大な幸福感と未来への展望を伴って大きく花開きます。回転数や点数だけがすべてではない、脈々と受け継がれ時代を生き抜いてきた技巧には、人々の情緒につねに訴えかける研ぎ澄まされた美と語りすぎない"引き算の妙"がたしかに息づいていると実感しました。
畳みかけるように、花雨のように降り注ぐピアノの音を全身に浴びながら空間を満たしていくレイバックイナバウアー、ここは何度観ても聴いても心の奥深く、琴線に触れて、叫びながら走り出したくなる衝動に駆られます。行かないでくれ、無意味だと分かっていてもそう口走りたくなるのを必死に堪えるのでした。
怒涛のグリッサンドを具現化させたような、全身から花弁をはらはらと舞い散らすかの如き豪奢なスピン。そして余韻を、音が消え入ってしまうのを心の底から惜しむように最後の最後までを味わい尽くすフィニッシュは、"なにか"を大切に両腕で抱え上げ天に還すような所作をしたのち、自らを愛おしむように抱き締める。
それを見届けた瞬間、「お別れだな」と思いました。これまで人型を保っていた春はひとではなく、桜の花弁の集まった姿で、フィニッシュを迎えるとともに魔法的な何かが解けて、ひとの形から一瞬でぱっ、とただの花弁のかたまりに戻り、先ほどまで立っていた場所には薄紅色のちいさな山があるのみ…そんなイメージが脳裏にこびり付いて、遣る瀬のなさが爆発して、喪失感でいっぱいになりました。頑張って花弁をかき集めてまたひとの形にしても、動き出すことはないのだろうなぁと。スタンディングオベーションをしながら、そんな頭のおかしいことをぼんやりと考えていたのでした。
本当にこの時期の日本で春を滑ってくれてありがとう、と思います。夏のアイスショーに始まり、秋、冬を耐え、やっと還るべき季節に還ったんだろうなと、良かったね、と心から思います。なんというか、まさに桜の一年の生命活動を見た気持ちです。FaOIの時は葉桜や新緑でまだ若く、将来に対する期待や希望に満ちていて、GPヘルシンキでは来たる冬に対する覚悟が見えたような。そして今回、あらゆる生命が蠢動し浮き足立つ季節に鮮やかな色彩とおもむきを与え、人々がそれらに心奪われているあいだに気付けば散ってしまっている。なんという無常!
春に対し侘しさ、寂しさが募るのは桜の姿が重なるのは勿論のこと、何度か文中にも書いていますが"老成と幼稚の同居"があるからだとも思います。これは春が、というか羽生さんご本人にも当てはまることだと感じますし、春は羽生さんそのものだとも。
羽生さんはインタビューや会見を見ていても分かる通り自我がしっかりしていて達観しているなぁ、と感じると同時に、生命のあるもの・ないものに関わらず等しく愛情を注ぐような感受性の豊かさ…言い換えればある種の幼さを失くさない人でもあると思います。また幼い自らを非常に大切にしてもいますね。それって凄いことで、幼い自分の要求につねに真摯にあり続けることは時に心身ともに傷を負ってしまう生き方でもあると思うのです。でもその"幼さ"の希少性、無二性を理解し意図的に守っているようにも感じる。
そんな人が演技中に満開の笑顔を見せたり、無邪気に氷を花吹雪よろしく放ったりする様を見たら、もうなんか心のダムが決壊するしかないんですよね…するしかない…。少なくとも私は大決壊しました。どぱどぱ。
あ、フィナーレでビールマンスパイラルをやった時、こちらもちょうど真正面になりそのウッキウキフェイスを全力で受ける形になって「えがったな…えがったな…」とおばあちゃんみたいな気持ちになりました。しかし相変わらず身体柔らかいね…ビールマンスピンまた見たいなぁ…
たまーりん氏や刑事くん、昌磨ともわちゃわちゃ出来て本当に楽しそうでした。ああいう年相応の青年(限りなく少年っぽい見た目だけど)らしいところを見ると(◜◡◝)⇦こういう顔になりますね。えがったえがった…。
✄ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー✄
本文中にもちょこちょこ書いてますが、羽生さんって一本(一枚)の糸や布、または植物をこよったり編み込んだりして形づくられているイメージがあります。ジョジョでいえば徐倫のストーンフリーみたいな。いや勿論しっかり人間であると分かってますです、あくまで印象の話ですよ!笑
なんの話をしてるんでしょう。EXというか春についての感想どころか羽生さんご本人についての謎の理論を展開するという…どうしてこうなった…
いやしかし、彼のファンになってから人生観というか、ものの考え方が本当に変わったなと思います。例えば23日も24日も、もっと遡れば平昌五輪も、ヘルシンキワールドも、もはや全部だと思うんですがなにか試合やショーが終わった後、「寝てしまったら明日が来てしまうから寝たくない、今日という日が終わるのが辛い」という心の動き。こんなこと以前は人生で一度も考えたことも感じたこともなかったことです。他にも自然や生き物のことをより深く考え、その良さに気がつくようになったり。感情の幅や生活そのものがぐっと豊かになったのです。また、勝手にですが背中を押してもらい自信がついた考え方もたくさんあります。
彼には数え切れないほどのものを貰ってばかりなので、どうか今後彼にはそれ以上の幸せが、春が訪れて欲しいと願ってやみません。願うことしかできないもどかしさよ…。
長々とお付き合い下さり本当にありがとうございました。人いるか分からないけど!笑 たった2日しか現地にいなかったのにこんなに書けるなんて自分でもびっくりです。それだけたくさんの感情や感性の枝葉を揺らすお方なのですよね。幸せだなァ…ぼかぁ君のいきいきしているところを見ることがいちばん幸せなんだ!
追記:記事タイトルになってるネオテニー、動物が幼生形のまま成熟する現象らしくなんだか浪漫あるというか心惹かれる言葉だなと思ってつけました。必ずしもプラスな意味合いばかりを含んではいないようですがここではプラスの部分だけを掬って濾過して培養したい(?)
その代表的な生き物のウーパールーパー、よく見たら春にカラーリングとか諸々が似てる?気がする?そんなことないねすみません…
(画像:写真AC様)
1 note
·
View note
Text
卵の殻を破らねば
あれだけ長々と観戦記を綴っておきながらまだなにかあるのかい?と言われそうですが、書こうと思えば色んな切り口を起点にして無限に書けるんじゃない?と言えるほど今回の体験は豊かな質量と熱量を持っていましたね…あれは短期間に摂取していい許容量を超えてます確実に。あれから1週間以上(もう2週間では 怖)経ってるけど未だに新鮮味は損なわれず、むしろ新たな味を反芻するたびに見出すことができますムッシャアッッ
自分でも分かってるんですが、私が書く文章は言葉の選び方とか言い回しとか表現とか、なにいってんだコイツ的な読みづらさ?ピンと来なさ?がかなりあると思いますズビバゼッ!
感じたことや受けた印象を言語化するにあたって、いちばん己の感覚に近いものを探して、繋げて…というのを繰り返すパッチワーク式叙述スタイルなので取り留めのない感じになってしまいます。しかしこれが最もしっくりくるのだ…
✄ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー✄
本題に入りたいと思います。 この記事では観戦という観点からは少し外れて、『Origin』というプログラムから感じたイメージや個人的な解釈を書いてみようかなと思います。まぁそれも観戦したが故のパッションの暴発によるんですけど…笑
最初は観戦記の中にしれっと混ざる感じで書いていたのですが、現地で観てその場で湧いてきた思いと、思索を深く巡らせて時間をかけて辿り着いた考えとでは全く種類が違うし、無理にひとつとして扱ってしまうとその両方の良さが活かされきれず打ち消しあってしまうのでそれは悲しいなぁ…と考えて別にしました。
またここに書くのはあくまでも個人的な印象の話ですし、誰に対しても決して押し付けたり同意を求めたりするものでもないのでご安心下さい(?) 皆々様がめいめいの心象世界に常に正直にあれると良いなといつも思っています!!
『Origin』というプログラムは、振付師のシェイ=リーン・ボーン氏のインタビューにより『古事記』や『日本書紀』の世界からインスピレーションを受けて振付がなされたということが明らかになっています。この話を初めて目にし��時、私は盛大にひっくり返ってしま���ました。カナダ人であるシェイ(と彼女の旦那さん)がそれらを参考にしようと考えたこともですが、それ以上に"羽生結弦"という人物をあらわすのにぴったりなモチーフが『神話・神々』であると言うのですから。
私は2016-17シーズンのFS『Hope&Legacy』(以下レガシーと記述)に対して、日本神話的な、また民俗学的な神性を見出していました。清らかなピアノの旋律と柔らかさを感じるスケーティングでよく"癒し"や"慈愛に満ちた"と言われるこのプログラムですが、勿論非常にそれらを感じもする、しかしそれ以上に"おぞましさ"や圧倒的な力を前にただ立ち尽くすしかないような"なす術のなさ"を強く感じていました。実りをもたらし万物の生命力を漲らせるのも、容赦なく牙を剥き自然のおそろしさを知らしめるのも、どちらも"人智の及ばない領域から来る力"であり、レガシーを滑る彼の姿を見て毎回「荒ぶる神だなぁ」とごく当然のように考えていたのです。
レガシーだけに限らず、彼の持つ超越性や複雑性に対してたびたび神性を感じていたのもあり、シェイの解釈はもう完璧というか何というか、「ありがとうございます」という感じでしたね、えぇ…。
はい、正直ここからが本当の本題です。笑 羽生さんの演技には、題材にしたストーリーや役を大きなリアリティをもって見る人の眼前に展開する力があると同時に、題材にはされていない(であろう)物語や言葉、イメージを、受け手の発想力次第で自由にどこまでも広げていけそうな"余白の美・語らずの美"もあるように思います。ここが彼、彼のプログラムに深く魅せられる最大の要因かな、と。
Originは振付の随所に日本神話の各シーンを思わせる動きがあります。私が特に心惹かれたのはスタートポーズで、おそらくこれも神話から取材して行き着いたものなのかもしれませんが、私には初見時にこの独特の姿勢が"卵から孵る瞬間を待つ雛鳥"のように思われ、更にそれを受けてすぐに思い浮かんだ"ある台詞"がありました。あんなに魔王然としてるのに雛ってお前…って感じかもですがまぁ、そこは、ね!
「卵の殻を破らねば、雛鳥は生まれずに死んでいく。我らが雛だ。卵は世界だ。世界の殻を破らねば、我らは生まれずに死んでいく。世界の殻を破壊せよ。世界を革命する為に」
これは『少女革命ウテナ』というアニメの劇中の台詞です。さらにこの台詞には元ネタがあり、
「鳥は卵の中から抜け出ようともがく。卵は世界である。生まれ出んと欲するものは、一つの世界を破壊せねばならない。」
こちらがヘルマン・ヘッセ作『デミアン』の中に登場する台詞になります。
この2作品に共通するテーマは"自己の確立"です。幼少期から思春期、青年期に経験する繊細な心の動き���傷付いたり、社会との関わり方に悩んだり。痛みを伴いながらも"本当の自分はどうありたいのか"という核の部分に行き着く過程が描かれています。
私がいちばんはじめにOriginのスタートポーズを見て、そしてこれらの台詞が浮かんだ時、本当に見たまま読んだままの印象だったと言うか「世界で戦う羽生さんは挑戦をやめないしその姿勢は周囲に影響を与えるよね、うんうん」みたいな非常にふんわりとした考えで終わらせてしまっていました。しかし今回の世界選手権を見届けてみて、改めてこの台詞はいまの彼にぴったりハマる味わい深さがあるのではないかと感じました。
そもそもはじめの頃、私は上記の台詞の意味をよく理解出来ていませんでした。「世界」とは己の内面のことであって、ルールや仕組み、他者という意味ではここでは使われてなかったですね。自分の心の声に耳を傾け、自分の中にある既成概念や勝手に設けていた制限を取っ払い、自分に正直に生きる。彼の演技を見て、その真意を理解するという実に不思議な体験をしたんですね…"心"で理解できたッ!
このプログラムを通して羽生さんは"こうありたい"という自己の核の部分に到達出来たんだなぁ、と。試合で滑ることの本領や4A挑戦の意義の再認識からも伺えるように。そう思うと、このOriginというプログラムはスタートからフィニッシュまで、日本神話や建国という明確に掲げられたコンセプトと並行して(あるいはそれに仮託して)"自己を探求する内的戦い"の様子そのものであったのかもしれない、とも。建国(創造)と自己探求ってすごく似ている気がするんですよね。イザナミ・イザナギもはじめからうまく国を生んでいた訳ではなく、失敗の経験を踏まえ試行錯誤して国を、神を成していったと言います。
配置されたエレメンツや動作をそういう風に捉えて見直してみると、なんだか新しい趣を感じます。何かの背に手を伸ばすような所作は理想を追っているのかとか、フィニッシュの動きはまさに殻を破らんとする雛鳥(本心)の叫びみたいだなとか…
羽生さん自身は24歳で、かつしっかりとした自己のある方ですが"競技者としての羽生結弦"は五輪をひとつの区切りとして生まれ直しています。つまるところ雛鳥…。彼自身、五輪直後はモチベーションの置き所が安定せずふわふわしていた、という旨の話もしていましたし、やはり今回で(というかシーズン通してみて)卵の殻を完全に破り切ったのかな、と思いました。
競技であれEXであれ、フィギュアスケートでプログラムを滑るというのはすべて内省的な活動なのかなと思い至りました。Originは掲げられたテーマ(原点回帰)や幼い頃からの夢、という思い入れがあった分、特にその面が際立っていたように感じます。
演じる物語や音楽の背景を学ぶこと、振付師やコーチらと思考を交わすこと、そしてプロの中に己が実現させたいものを見出すこと。それらが緻密に絡んで氷の上に編み出され、またそれを客観的に見直して改良��ていく。そんな貴重でデリケートな過程を見せてもらえることのありがたさは言い尽くせません。どの選手であってもプログラム(自己)と向き合う姿にはいつも敬意を払っていたいと改めて思いました。
Originについて、という枠組みからは若干外れてきてますが笑、しかしこの先ほど紹介した『デミアン 』、読めば読むほど羽生さんに当てはまるな…と感じる台詞が出てきます。
「…勇気と特色を持っている人々はほかの人々にとって常にすこぶる不気味なものだ。…」
「私は、自分の中からひとりで出てこようとしたところのものを、生きてみようと欲したにすぎない。なぜそれがそんなに困難であったのか。」
「生まれることは常に困難です。鳥が卵から出るのにほねをおることはご承知でしょう。ふりかえってたずねてごらんなさい、自分の道はそれほど困難だったか、ただ困難なばかりだったか、同時に美しくはなかったか、自分はより美しい、よりらくな道を知っていただろうか、と」
ほらすごく…羽生さん…
いやしかし、観戦記にもチラっと書きましたが本当にさまざまな垣根を超えていち生物として興味深い方ですね。2分半ないし4分間の演技中の彼は己の身体を器として他のものに成り変わっているようでもあり、紛れもない彼自身の延長線のようでもあり。そんな複雑性については次のエキシビションに関する記事で触れようかと思ってます。
✄ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー✄
なんだか本当に思うまま書き散らすという感じでまとまりがないなと自分でも思うのですが、忘れないうちに記しておきたかったので心残りはないです。
絵でもそうですが、自分の感じた(考えた)ものをある形に落とし込みそれを公開する時、受け入れられるかとか賞賛されるかというところに重きを置きません。こちらから見える場所であろうが見えない場所であろうが、ひとりでもふたりでもなにかを感じて「自分はこう思った!」という活動が起こったら楽しいよな〜あわよくばそれを見せてくれ!という気持ちです。笑
ここまで読んでくださってありがとうございます!人いるか分からないけど!次の記事でまたお会いしましょう、間違いなくまた長くなるけど…笑
3 notes
·
View notes
Text
ゴールドエクスペリエンス
去る3月23日、そして24日、私は世界フィギュアスケート選手権を観戦にさいたまスーパーアリーナへ赴いておりました。夢のような出来事にかまけて気付いたら3月は終わり、新たな元号まで発表されてて色々信じられません。ちょっと何言ってるか分からない。
皆さんも現地またはTV越しでも感じられたかと思いますが、あの空間で巻き起こった事象、とそれがもたらす質量と熱量、を自分なりの言葉で残しておきたいなぁと今回思ったのです。はじめはどんな言葉も陳腐に成り下がってしまう…完璧に自分の感覚と齟齬なく言葉に落とし込むことが出来ない…と文字に起こすことを躊躇ったのですが、それより己の内から記憶がぽろぽろ零れおちて、振り返った時にその当時に自分が何を感じ、どのような言葉が湧きあがっていたのかが分からないことの方がよっぽど辛いと思って筆を取った次第であります…己の心象世界には常に正直でありたい。
今回の記事ではまず23日にフォーカスしたいと思います。アイスダンスも勿論観戦していたんですが、カップル競技に疎いため男子シングルに…いやもっと言えば最終G、羽生さんの事に関して…更に言えば技術やルールに明るくないので受けた印象や解釈に偏るかと���いますズビバゼッ!
✄ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー✄
ソチで完全に魂を売り渡したのを皮切りに、現地で試合を観戦したのは2014年NHK杯FS、2015&2017年国別FS、2016年NHK杯SPの合計4回でありました。ここに今回のワールドが貴重なひと試合として新たに追加された訳ですね。
今大会は羽生さんのロステレぶりの実戦、4ヶ月間の岩戸隠れからの公の場、とあってその注目度の高さは計り知れません。様々な意味で貴重な彼の、生命を糸状にしてそれを丁寧に編み込み形作るような演技、そして生き様を目に出来ることの有り難さを絶対に忘れないように、そしてそのような心の動きを大切にしようという思いを胸に現地へと飛び立ったのでした。
私が羽田に到着したのは23日の午前10時40分頃。ここからさいたま新都心駅まで約1時間かかるため男子FSの公開練習を観る事は叶いませんでしたが、会場までの移動のあいだ、Twitterに上がるレポをひとつひとつ、目を皿のようにして読みました。そこには"Lo"という記号の羅列、また涙が出た・胸を締め付けられた・このような場面は見たことがない等の感想の山、山。一体どうしたことだと身震いしました。本番前の練習だけでここまで人々の心の深いところまで根を下ろし、感情を揺さぶることのできる力とは…。直接観ていないので想像でものを言うようなことはしませんが、その場に居られた方々はまさに黄金の体験が出来たのではないでしょうか。インターネットを介して文字情報として触れた私でさえ、その執念とも言える透明な、純度の高い圧に見事にあてられてしま��たのですから。
この日の座席は���ょうどキスクラの対岸、限りなくショートサイドに近いロングサイド。200レベルの19列目、近すぎず遠すぎずで視界も開けており快適です。だからこそ緊張もダイレクト、選手の出入りもバッチリ分かるため最終Gの中で羽生さんが最後に裏から出てきた時のひりつくような空気の微細な振動、正しい呼吸の仕方が途端に分からなくなりました。
2年ほど前から始まった6練前の選手紹介。名前がコールされると客席からは割れんばかりの拍手、歓声。途方も無い期待や願いが一身に注がれていることが否応なしに分かる中、彼は完全にスイッチの入った表情で、自らのやるべきことを完遂するのみ、と言った風情。痺れる。
ここでもやはりひたすら4Loの確認。この時かなりの確率で決められており —必ずしも本番に反映されるとは限らないけども— 個人的には気を確かに保つのに充分な効能がありました。写真でしか見たことのなかったOriginの衣装、いやその御姿は、それはそれは豪奢に瞬いており、全身を疾る血脈の如き真黒い羽はそれそのものが意思を持つ独立したいち有機体のようで、戦いを前に今にも爆ぜ蠢めかんと奮い立っているようでした。
6分間が経過し、1番目の滑走者を残して選手たちはリンクを後にします。彼がいつも通り深々とお辞儀をした際に見えた、かっちりと固められた射干玉の黒髪とその艶がやけに鮮烈に目に焼きついたのが忘れられません。
ヴィンスの素晴らしい演技にスタオベし、昌磨の一心不乱さに盛大に拍手を送り、マッテオ君の場をひとつにする力に身を委ね、やってくる滑走順。冷える、冷える。会場内は外に比べればずっとあたたかいのに、冷える。
名前をコールされ、オーサーコーチと固く握手を交わし、戦友の頭にぐっと力を込め、ひらりと身を翻して、いざ。大歓声に迎えられながら普段通りのルーティンでしずかに感覚を研ぎ澄ませてゆく様はさながら神事のよう。過換気になりかけていたのかやや痺れと冷えを伴っていた私の身体は、その厳かな所作に不思議と解きほぐされてゆく感じがしました。
スタートの時が迫るに従い次第に収束する歓声、静寂(しじま)の底にただひとりの彼。無の世界に産み落とされた卵から孵るときを待つ雛鳥のような姿勢を取れば、荒涼とした大地に一陣の風が吹き荒ぶ…。
後日S-PARKを見て初めて気が付いたのですが、名前をコールされてからスタートポーズを取るまで本当にギリッギリ(残り0.7秒程)だったんですね…。試合が終わった後に見たのに、かなりゾッとしました。シミュレーションを何度もしたと言うことですが、人間ってそんなトレーニングによって0コンマ何秒レベルでの調整が出来るようになるものなのか…?いつも人間の(というか生命体の)無限の可能性に想いを馳せさせてくれる無二の存在だと再認識させられました。実にいち生物として興味深い。
話を戻します。"ドンドン"という鼓動らしき音に合わせて頭を振り起こす動作、初見の時も言いましたが異形感がたまりません。この部分に限らず、Originは全編通してひとならぬものの本能の奔流を見ているようで、その原始性やある種の蛮性が演技中の彼が覗かせる烈しさ、狂おしさとこの上なく親和して、"演技"という枠を超え"初めからそのような形姿・挙動をする生き物の躍動"なのだ、とさえ感じるのです。
冒頭2つのエッジジャンプはご本人も仰っていた通り私もとても緊張していて、無意識のうちに両手には力がこもっていました。
4Lo、壮大な物語の幕開けを思わせる銅鑼の音とシンクロし美しく決まる。天逆鉾を抜き取るような動作を挟み4S、やや沈み込む形になりフリーレッグが危うく氷を掠めるか、と言うところだったが堪える。4Sは後に回転不足だと分かりましたが、とりあえずはこの2つを降りることが出来たという事実にこの上なく安堵し、私の両手は不安によりかけられる握力にではなく、歓喜に満ちた拍手による心地よい痛みに酔いしれていました。冷え切っていた身体にじわりじわりと、熱が左胸から徐々に全体にゆき渡っていくのを感じます。でも本当に、4Loが決まって良かった。彼にとっても、彼を見守るすべての人達にとっても。
それ以降のジャンプについては全く心配していなかったと言うか、失敗する気配を感じなかったのです。ステップの一部かと見紛うシームレスなトリプルジャンプとそのコンビネーション、後半に組み込まれているとは思えない程の質を誇る単独の4T、そして王様のジャンプ・アクセルへの愛と敬意をあらわすかのような4T+3Aのシークエンス、3A-1Eu-3Sの3連続。ジャンプとしては最後に配置されているこの3連を降りた瞬間、私は膝から崩れ落ちたのです。座席には座ったままの状態で。私は性格上、家に家族といる時や気を許す友人と閉じられた空間で会話をする時くらいしか感情を露わにしない(出来ない)ので、現地で、周囲に見ず知らずの観客や何より選手がいる中で、まさか自分がそのような状態に陥るとは想定外でした。
しかし演技はまだ終わっていません。すべてを見届けなければならない、この場にいる時間を一瞬でも無駄にしてはならない。
薔薇の精が蠱惑的に咲みいざなうようなレイバックイナバウアー、わずかな時間の筈なのに、悠久の時に触れたような、食虫植物が捕食、消化、そして成長する過程をタイムラプスで一度に見たような。
キャメルスピン、まるで鎌鼬のような、うねりを伴って空間が切断され、それに巻き込まれてしまいそうな、1���転する度に彼の周囲の空間が質量を増し、姿が次第に大きくなるような。
畳み掛けるような弦楽器の荒ぶる旋律そのもののように、はたまたそれに抗うまつろわぬ神のように、彼は目まぐるしくその姿を変え、最後はなにかを目指し、渇望するかのように天に向かって力強く手を伸ばす。
瞬間、世界はこれまでの摂理や道理をくつがえして、新たな世界として再誕したような、そんな気がしました。弾ける客席、鳴り止まない歓声、揺れるアリーナ、くらむような熱気、意図せず溢れる涙。私はこれまで素晴らしい演技を見たあと圧倒されて言葉を失ったことはあっても、涙したことはなかったのです。しかし今回ばかりは無条件に、何かものを考えるより先に涙が溢れ、止まりませんでした。
泣きながら少し笑いが込み上がって来てしまいました。嘘だろ、嘘だろ、と口をついて出てきてしまう。この人は本当に何という人なのか。万全な状態では決してないだろうに、想像を絶する期待やプレッシャーなどの中にあるのに、なぜそれ以上に成せてしまうのか。そしてどのような結果になろうとも、"君の思い描く理想"は達成出来たのではないか。それこそが私が最も叶ってほしい、と今回強く願っていたことであり、すべてでした。
キス&クライ、満開の桜を背に自らの演技を回顧する姿。たおやかな薄紅色と綾羅錦繍のコントラストがえもいわれぬほど美しい。得点が発表される間際、両側に座るふたりのコーチ、観客、会場、またこの場に居らずとも声援を送ってくれたすべての人に深く感謝をあらわす様子に胸がいっぱいになります。得点がアナウンスされると、場内は祝祭の様相。ルール改正後はじめてFS200点、総合300点というひとつのラインを突破出来たことはやはり喜ばしいことです。しかしそれ以上に、いま出来うる最高を日本という地で見せてくれたこと、またその生き様になんとしても敬意を表したかった。得点発表の場を斎庭(ゆにわ)として、交歓の輪がやさしく広がったように感じられました。それは世界で一番あたたかく、やわらかい気持ちだけが集う特別なシーンであったように思います。
次の滑走者であるネイサンは、非の打ち所のない素晴らしい滑りでした。SP・FSを揃え自己ベスト、ひいてはワールドレコードを更新するこれ以上ない完全な勝利。本当にカッコいい。彼が凄いのは、何かミスや不足点があれば必ず次の機会までに修正、改良を徹底し、一度物事の"核"を掴めばそれを失わず別の場面でもずっと適用・応用していけるところだと思っています。それらの積み重ねで、大きな大会前のメンタルコントロールや3Aの安定など、課題とされてきた部分を悉く克服している。一世代で進化を遂げているような、完全体に迫っていくような、���んな印象を受けます。これからも確実に眼前に立ちはだかる存在であると思いますが、腕が鳴るではありませんか。互いにリスペクトしあい、理解しあい、その上で真正面からぶつかりあえる幸せは何物にも変えがたい。可能な限り、そんな光景を見守り続けたいと思いました。
最終滑走者のジェイソンは今シーズンからクリケットクラブへ移籍し、髪もばっさり切り、4Sにも挑み、本当に別人になったかのように雰囲気が変わりました。(内面はそのままのようで安心します!笑)サイモン&ガーファンクルの『冬の散歩道』は個人的に好きな曲でして、今の彼によくハマりますね。明るくハッピーな面も残しつつ、寂寥感や翳りも感じさせる新しい彼。いまはなかなかすぐに結果に直結しないもどかしさがあるかもしれませんが、歌詞にある通り人生は分からない、春はやってくると、これまで慣れ親しんだ環境を脱して挑戦を選んだ彼を見て強く思うのです。
最終的にネイサンが2連覇、羽生さんが銀、ヴィンスが銅という結果になりました。アメリカのふたりはまだまだ若くて、沢山伸びる余地を残していることが脅威でもあり喜ばしくもありますね。羽生さんは怪我からの復帰戦であれだけのクオリティを発揮出来るのは流石としか言いようがないです。本当にお疲れ様でした。五輪を2連覇してなお休まず走り続け、こうしてまた120%の全力で挑む姿を見せて下さって、感謝してもしきれません。どうかゆっくり癒されて、ご自身が心から納得出来たと言えるほどの突き詰めたトレーニングや研究が1日も早く出来るようになることを祈るばかりです。
これを書いている間、治療に関する見通しについてのニュースが届きました。詳しい症状や治療期間についての記事を見るのはいつも手が震えて目を逸らしたくなりますが、彼が一番悔しくて辛くて、でもその時ごとの目的地に向かって懸命に歩みを進めていることを思って自らも強くあらねば、と覚悟を新たにもするのです。君のゆきたい道を進むがよい…私はどんな選択でも尊重するしついてゆく所存です。これはファンになってから一度も揺らいでいないスタンスです。どんな道を選んでも、それぞれの良さ、美しさが間違いなく待っているはず!だから!
✄ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー✄
試合を観る、選手を応援するという行為は実に不思議なものであると思います。己のこと、もしくはそれ以上に心を砕き、信心深くなくても知らず知らずのうちに選手の心身の健康を願い、健闘を祈って神社仏閣を巡ったり。プログラムの題材になった原作や原曲、またそこから派生した様々な分野に気付いたら詳しくなっていたり。リアルタイムは緊張に耐えられない、と言っていたのにいつのまにかライストを探すのがクセになっていたり現地観戦に赴くようになったり。心臓がおろし金にかけられるような日��を送っているのに、むしろ豊かにいきいきと生活出来ていたり。普通に生きていたら会うことのないような方々と繋がりが生まれたり��ファンになっていなかったら今頃どうしていたのだろう、と思うとすぐには何も浮かばないくらい、人生における占有面積が大きいんですね。大変なこともあるけど、それらも含めて他では巡り会えない出会いや経験が出来ることに"生きている"のだなぁ、と実感するのでした。
しかし本当にいい試合を観ることが出来ました。気持ち的には2017年の四大陸選手権に近いでしょうか、結果としては2位だったけれどもとても清々しく、収穫も多く、今後どのような未来が開けていくのかわくわくするような…勿論そこには大きな悔しさも伴って!笑 なんと幸せなことでしょう。これからも頑張って生きる生きられる。ライフイズビューティフル。
またこれは多くの方々も仰っていることですが、現地の観客の皆様が非常にあたたかかったです。どの選手に対しても平等に、良かった時には盛大な賛辞を惜しまず、実力が発揮しきれなかった時にはそっと寄り添うように。今回の運営に対する様々な意見や思いがあることは知っていますし私も何も思わなかった訳ではありませんが、大会そのものはこれ以上ない程素晴らしいものであったと言えるのではないでしょうか。海外への遠征がほぼ不可能な身からすれば、日本でこれだけの規模の大会が開催されること自体ありがたいことです。この大会に関わって下さったすべての方々にお礼を言いたいです。本当にありがとうございます、お疲れ様でした。最高の思い出になりました〜〜!!
追記:メダリスト写真撮影会のときうまく国旗を扱えなくて少し困ったようにしてる&アメリカンふたりの邪魔にならないようにリンクの端でみのむしみたいに丸まってた羽生さんめちゃくちゃ可愛かった
2 notes
·
View notes
Photo
10 notes
·
View notes
Photo
1 note
·
View note
Photo
12 notes
·
View notes
Photo
12 notes
·
View notes
Photo
7 notes
·
View notes
Photo
1 note
·
View note