#ポスト・ミニマリズム
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akimekura · 7 months ago
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“Serra's most known series of sculpture using rolled steel plates are the Torqued Ellipses. In 1991 Serra visited Borromini's Church of San Carlo alle Quattro Fontane in Rome and mistook the ovals of the dome and the floor to be offset from one another.[58] He thought to make a sculpture in this torqued form. Serra constructed models of this perceived form in his studio by cutting two ellipse-shaped pieces of wood and nailing a dowel between them. He then turned the ellipses so they were at a right angle to one another and wrapped a sheet of lead around the form. After making a template from the models Serra worked with an engineer to fabricate the sculptures.[59] In total there are seven Torqued Ellipses and four Double Torqued Ellipses (an ellipse inside of an ellipse) dated between 1996 and 2004.[60] Each sculpture has a different degree or torque and measures up to 13 feet (3.9 m) high. The sculptures all have an opening so that they can be walked through and around.[61] Three Torqued Ellipses are on permanent view at Dia Beacon, New York.[62]”
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dothtml5 · 6 years ago
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新刊 書籍:Androidアプリ開発のためのKotlin実践プログラミング
Adjustが「モバイル広告不正についての調査・分析結果に関する会見」を開催 - 2018年1月から3月における被害総額は約49億ドル (4Gamer)
ポスト・ミニマリズム期に出現するウェブデザイン配色の3つの潮流 (フェレット)
ケーススタディ:Overcastのモバイルアプリ (UX MILK)
いつReactNativeを使っても大丈夫か (mizchi's blog)
普段はWordPress派の私がMovableType netに興味を持った話 (バシャログ)
アップルのマップがついにウェブページへの埋め込み機能をサポート (ギガジン)
新米ウェブデザイナーがこれだけは抑えておきたいデベロッパーツールの使い方 (Webクリエイターボックス)
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休日に簡単に装飾する方法(大きな影響)グループコピー9prexit-closeGroup 16prexit-closeGroupコピー9prexit-closeOpened CopyOpened CopyOpened CopyOpened CopyOpened CopyGroup Copy 9
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ブログトピック 市場動向 家の修繕 最初の人 ユニークな家 ヒントとアドバイス 注目のポスト ヒントとアドバイスヒントとアドバイス / 物語 動くドルとセントは、多くの要因によって大きく異なります。 全文を読む ジルツール これらの3つの領域に焦点を当てて、装飾の努力を最大限に活用してください。 高級デパートのディスプレイウィンドウのように家を飾ることを夢見ているかもしれませんが、現実があります。ギフトショッピングやラッピング、休日のパーティーに出席してホストすることはまだあります。住む。 圧倒されないでください。意図的なミニマリズムを求めてください。数年、少ないほうがいいです。 シンプルな内装は大きな影響を与える可能性があります-少なくとも休日のh騒から解放されます。あなたがする必要があるのは、あなたの家の3つの重要な領域を整えることです。 あなたのツリーをターゲットに 開始する最も明白な場所は、クリスマスツリーです。簡単で手間のかからないツリーを作成するには、単色の配色を使用します。 もう1つのオプションは、すべての中間色を使用することです。これにより、カラーパレットやツリーの配置のバランスを気にする必要がなくなります。部屋の通常の装飾と調和します。 マントルピースを魔法のように 暖炉が家にある場合、マントルピースは休日を少し祝福するのに理想的な場所ですが、あまり複雑にしないでください。 上部に吊るしたりドレープしたりするために、文を作るガーランドを選択してください。夜にマントルピースの上にろうそくを置いて、明かりを灯すといい。 テーブルを締めくくります 休日は、テーブルを囲んでおもてなしし、ホストし、集まる最高の時間です。だから、テーブルランナーとして長い道のりを歩ける美しい花輪を使って、季節のセンスをテーブルにもたらしましょう。 テーブルの中央に緑豊かなガーランドを置き、キャンドルを混ぜて雰囲気を高めるのと同じくらい簡単に装飾をしてください。 休日の飾り付けは面倒な作業である必要はありません。これらの3つのスポットに集中すれば、あなたの家はあっという間に魔法の���うな休日の準備が整います。 写真提供:White Buffalo Styling Co. 関連: クリスマスにホワイトハウスを飾った年 シックな休日のDIY:香りのよいハーブシャンデリアとカスタムトリートバッグ ホリデーギャザリングを開催する前に行う5つの家の修理 当初は2016年12月に公開されました。 × ×
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sicihi · 8 years ago
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愛の幻影という名の
いらないなにも捨ててしまおう!と言いながらやる断捨離のススメがバズっていた。 今見ているテレビでも冒頭の立ち話で「この間服を3分の2捨てました!」「おお〜〜!」などとのたまう。 たしかに物の多さが豊かさではないなと感じることが多い時代かもしれない。大体のものはamazonでクリックひとつで(…はないけど)手に入るしクレカを登録してクレカは給料の入る口座から引き落とし、ということなんかにしておけばそこの金銭のやり取りさえ見えなくなる。すごい世の中だ。 働いた成果がお金になって、それが手元にやってきて、それを以って何かを買う、という感覚もないし、物が溢れすぎてしまって物に遮られて視界が狭まってしまう、などということもぼちぼち起こる世の中だから、物が豊かさの象徴みたいな時代ではないんだと思う。 まあでも私はまだまだ貧乏ないち学生で、100均にふらっと寄ってウロウロしては、ラメ糊6色セットとか透明折り紙とかプラスチックマドラーとかそういうチープな幸せを100円+税でちまちま買ってきては家に持ち帰って広げて「うふふ」なんてやっている。 amazonでは言うほど買い物していない。ほしい物リストだけ増えていく。 狭いワンルームは首を動かさず目だけでぐるっと見渡せるくらいで、その狭い視界だけでもびっくりするほどガラクタがひしめいている我が部屋。 ちまりちまりとガチャガチャを回しては増える小さいフィギュアの群れ、可愛いお菓子の空き箱の数々、ポストに入っている必要書類以外で唯一引き上げて来られる宅配ピザ(時々すし)のチラシの束、あと引き出しの中に「何かに使えそう」と思って置いている割れた鏡の欠片がずっとあるのも別に忘れていない。 断捨離なんぞした暁には寝具と家電以外なんにもなくなってしまいそうだ。 でもそうじゃない。全部置いてあるのであって、捨てそびれているわけじゃない。 なんならたまに出してきて並べて眺めて「うふふ」とやる。どうでもいいがそれをやるのは大体深夜だ。 ミニマリズムを否定する気はさらさらないし、身軽な方がまあ楽だと思う。夜逃げも簡単。 でも私は夜逃げしないし、根を張って生きたいタイプの人間なので身軽さとかあんまり関係ない。多分。 物と自分を繋ぐのは執着なのかなと思う。思い出とも言う。 もらった紐付きの透明なボール(中にとろっとした水と星のかたちのキラキラしたやつと、ぶつけると発光して青と赤に光るボールが入っている、お祭りとかで売ってるやつ)は、いつの間にか萎んでべこっと凹んでしまっていた。もう光らない。でもとりあえず棚に飾って置いている。凹んでいるから綺麗な球��だった時より座りがよくて丁度いい。 これをくれた人が通りすがりのおじさんだったら凹んでいるのを見つけた時点で捨てたかもしれない。いや通りすがりのおじさんにそんなもん貰ったら逆に面白くて取っとくかもしれない。うーん。顔もあんまり思い出せなくなってきたし、なんなら何を話したか記憶も薄いような知り合いから貰ったら、捨てたかも。 つまりその物はそれだけで価値を持っているわけじゃなくて、執着を背負っているから重みを持つ場合というのはよくあるということなんじゃ、という。 ハイレモンの箱を捨てないのは別にただかわいいからだけだけど。 執着はあんまりいい響きの言葉じゃないような気がする。ネチネチしている感じもある。 そのネチネチをオリャァ!ドリャァ!とひっぺがしてゴミ箱にブチ込んでブチ込んで、反撃してこないうちに袋をぎゅっと固結び、もう一回固結び、暴れ出さないうちにゴミステーションへ。とやるのが断捨離なんだと思う。 (断捨離って正直言葉がずるい。語感がよくて、なんかスッキリ感があるから流行るんでしょう。) でも別にうちはまだゴミ屋敷ではないし、ゴミはゴミ箱へと言うけれどゴミじゃないし、、ゴミじゃないのにゴミ箱に入れるのは可哀想すぎる。ネチネチと私にひっついている間はひっつけといたらいい。そのうち勝手に粘着力がなくなって、剥がれて落ちていたら彼らにはもう魂は宿っていない感じがするし、その時はバイバイと言ってゴミ箱に入れる。 執着というのはエネルギーなんだと思う。ひっついているのには粘着力というエネルギーが要る。需要と供給というマジックテープのオスメスみたいな関係でもない限り、こっちが頑張らないとひっついてられない。私が執着しているから粘着力があって、物は私にひっついている。人が相手だとその人の意思とか執着のベクトルで粘着の相性も変わるからまた難しい。まあそんな感じで、執着というエネルギーで以って自分の身の回りをつくっていくというイメージ。 そういうエネルギーはひいては生きていくためのエネルギーになると私は思う。今の私が執着している対象は人であり、そこに付随する土地である。就活はしんどいな。執着を隠して「全国転勤・海外勤務厭いません」というミニマリスト気取りでいないと企業にとってはお荷物扱いになりかねんらしい。あほくさいけど、でもまあ、それより働いて安定した生活への執着があるから仕方がなくそうする。 まあ就活の話したいわけじゃないんですけど、最近は頭の中がすぐシュウカツに割拠されるので仕方がないね。 私は特にわけもないけど長生きしたいと思っていて、それは考えてみると自分自身への執着なのかもしれないけれど、だからどんどん色んなものに執着していこう、という感じ。 これからも可愛いお菓子の空き箱を集めるし、その中にボタンをいっぱい集めたり、王冠を集めたり、スーパーボールを集めたり、とかすると思う。たまに出してきては「うふふ」と深夜にやるのだと思う。 もし子供ができたら、どんぐりを集めたり、BB弾を集めたり、その他よくわからないものを集めるのかもしれない。一緒に「うふふ」とやるのかもしれない。そしたらそれをやるのは深夜じゃなくて夕方になるかも。 とかとりとめもないことを考えるのが好きなのも、ミニマリズムとは程遠い人間だなあと実感する。シンプルで物が少ない友人宅に行くと綺麗で素敵なお部屋ねと思うけれど、私の周りには物が溢れてごちゃっと感がある家の友人知人が多い気がする。壁にはお気に入りのフライヤーや写真が沢山張ってあって、置物やストラップがたくさん飾られていて、あと柄物が多い。そういう部屋はとても落ち着く。類は友を呼ぶとかそういうやつだ、多分。 まあとにかく好きでやってますんで!という話だ。 ミニマルはミニマルでその人のスタイルだけど、突き詰めすぎると本当に執着の強いものしか残らない。自分のベストオブ執着がモロバレになって、恥ずかしくない人はすごい。そういう人にはもうミニマルでいてほしい。 私は執着まみれでいろんなものがひっついてゴテゴテしたシルエットをしていて、「アラアラこんなに執着しすぎちゃって…」と思われているのかもしれないけれど、ベストオブ執着(が何か見極めることを放棄しているのでわからないけれど)がモロバレなのよりは、目眩しにもなるし、そのうちまあ私っぽいシルエットに馴染んでくるんだと思うから、私は執着をやめないぞ!という心持ち。 そろそろ長いイントロが明ける頃なので、 いらないなにも捨ててしまおう!に合わせて私は「断捨離」という歯触りのよい言葉をゴミ箱にブチ込んでやろうと思います。そういえば、今日もゴミ出し間に合わなかった。
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see-r · 7 years ago
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1969年、クンストハレ・ベルン(スイス)のキュレーターであったハラルト・ゼーマンが企画した展覧会の名称。J・ボイス、R・モリス、J・ディベッツ、B・ナウマン、R・セラなど総勢69名のアーティストが参加し、展覧会はその後ランゲ邸、エスタース邸(ドイツ、クレフェルド)、ICA(ロンドン)に巡回した。ポスト・ミニマリズム、ランド・アート、コンセプチュアル・アート、アルテ・ポーヴェラなどの新世代の台頭を知らしめ、同時に、ヨーロッパとアメリカの作家をほぼ均等に扱うことで、新たな美術動向が、両大陸を���たぐ同時多発的な現象であることを印象づけた。この展覧会は、初のインディペンデント・キュレーターとして数多くの独創的な展覧会を実現させたことで著名なゼーマンの企画であったことや、69年という開催年、キャッチーなタイトル、参加作家の布陣などによって、その後の現代美術展の指針を示す歴史的に重要な企画として評価されている。また、作家との連携のもと、同時代の美術を独自の切り口で紹介するゼーマンの姿勢は、所蔵品の管理・保存や作品の歴史的検証に従事する美術館学芸員という従来の職業形態からの転換を示すものであり、キュレーションの方法論の刷新をはかるものだった。著者: 沢山遼
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carpaccione · 8 years ago
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【plan B 通信】ポストモダンダンスについてのノート(2006-07年)
『plan B 通信』(2006年5月号) ポストモダンダンスについてのノート(1)
 ここ最近、1960年代から70年代にアメリカで起こった「ポストモダンダンス Post-modern Dance」に関心が向かっている。まず最初に読むべき必読文献はもちろんサリー・ベインズの『スニーカーを履いたテルプシコール Terpsichore in Sneakers』第二版(87年、Wesleyan University Press)である。そしてこれを読んでしま��ばもう実物を見たくてたまらなくなる。NYのリンカーン・センターにはNY公共図書館(Public Library)のパフォーミング・アーツ部門があり、世界屈指のダンス資料のコレクションに触れることができる。コレクションは、一般にヴィデオカメラが普及するより以前のダンスについてはバラつきがあるものの、70年代以降になるとかなりマイナーな記録映像まで所蔵されている(オンラインで検索可能なのでぜひ試されたい http://catnyp.nypl.org/ )。このようなわけで昨秋から約半年、NYに滞在するチャンスを得て、調査・研究を行った。
 しかしそもそも、なぜポストモダンダンスなのか。
 まず第一には、これがダンス史上の画期をなす最も重要な運動の一つであるにもかかわらず、イヴォンヌ・レイナー、トリーシャ・ブラウン、シモーヌ・フォルティ、スティーヴ・パクストンなどといった振付家/ダンサーの実体が日本では全くつかめないという奇妙な状況そのものに違和感があった。ケージ/カニンガムの仕事はともかく、ジャドソン教会やその周辺については美術の分野で「パフォーマンス」として語られることはあっても、「ダンス」としての実質はほとんど知られていない。日本語文献でポストモダンダンスを本格的に扱っている貴重な例外が、市川雅『アメリカン・ダンス・ナウ』(75年、PARCO出版)だが、筆者はこれを古書店で入手した時、帯と、さらに中に挟まっていたチラシによって、75年12月に西武劇場で「DANCE TODAY '75」のタイトルのもと、ブラウンやフォルティ、デヴィッド・ゴードンなどが一挙に紹介されていた事実を知って驚いた。しかし(ブラウンを除いては)全くメジャー化して��ないこれらの振付家の仕事への関心はいまだ不当に低いままである。人々がダンスを通史的に語る時でさえ、ここは軽く触れて通過してしまうことが多い。再演であれ映像であれ、実物に触れる機会は皆無に等しく、批評家や研究者が言及することも少ない。また、これとほぼ同時期に日本では「舞踏」が起こり、そのインパクトがあまりにも大きかったという事情も考えられる。ポストモダンダンスと舞踏は、バレエやモダンダンスへの反抗という動機を共有していたが、日本における、今日までの舞踏の影響力の大きさは改めていうまでもないだろう。
 しかしポストモダンダンスについて少し知ってみると、当時のダンサーや振付家たちが抱えていた様々なテーマが、現在日本で行われているコンテンポラリーダンスにおけるそれと非常に近いようにも思えるのである。これが、筆者がポストモダンダンスに関心をもった第二の、より積極的な理由である。外山紀久子『帰宅しない放蕩娘 ―アメリカ舞踊におけるモダニズム・ポストモダニズム』('99年、勁草書房)は、ポストモダンダンスにおける引用やパロディ(モダニズム的な自己言及的身振り)に焦点を絞った研究だが、ポストモダンダンスへの入口はいくつも見出すことができ(もちろんそれらは互いに密接に関係している)、筆者の興味の中心は、彼ら彼女らがダンスをエリート主義的な芸術の枠組から解放し、人々の日常生活との新しい関係の中に置こうとした点にある。特定のディシプリンによって鍛え上げられた身体から、誰もがそれぞれに所有している「日常の身体」へ、そしてスペクタクル(視覚性)の芸術から、身体と身体との関係の芸術へ、という考え方が、近年ますます先鋭化してきた日本のコンテンポラリーダンスの顕著な特徴であると筆者は考えている。そしてアメリカのポストモダンダンスは、まさにこうした事柄をきわめて方法論的な仕方で徹底的に探求していた。だからその理論と実践を、同時代の当事者の視点ではなく、40年後の未来に日本で生きている自分自身の視点で見てみたらどうなのだろうかと考えたのである。
 このような経緯で、これからポストモダンダンスに関するノートを連載していくことにする。しかし正直なところ、2005年10月から2006年4月までNYに滞在した成果は、全く不満足な結果に終わってしまったことをお断りしておきたい。知れば知るほどさらに奥が深く、もっと知りたいと思い、欲求はただ募る一方だからである。遠からずまた追加調査を行うつもりでいるが、しかしここでは、とりあえず現時点でわかったこと、考えたことをまとめてゆきたいと思う。
* なお今回の調査は、アジアン・カルチュラル・カウンシルからの助成を受けて実現した。記して深く感���したい。
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『plan B 通信』(2006年6月号) ポストモダンダンスについてのノート(2)
 「ポストモダンダンス Post-modern dance」という呼称はもっぱら批評家や研究者による区分だが、その定義ないし解釈は錯綜している。一般的には、マース・カニンガムのスタジオにおけるロバート・ダンのワークショップ(1960年~)に端を発し、ジャドソン・ダンス・シアターを経て、以後70年代まで多様に展開していった諸々の実験的なダンスのことを指すだろうが*1、いうまでもなく、多岐に渡る実践の総体にどんな角度から切り込んで、何を読み取るかに一切はかかっている。
 よくいわれることだが、「ポストモダンダンス」とは「ポストモダニズムのダンス」という意味なのか、単に「モダニズムの後のダンス」(例えば「ポスト印象主義 Post-impressionism」のように)という意味なのか、判然としない。『ザ・ドラマ・レヴュー The Drama Review』のポストモダンダンス特集号('75年)に付されたマイケル・カービーの序文は後者の立場をとっている。彼は「『ポストモダンダンス』とはモダンダンスの後に現われたダンスである」(p.3)と書き、モダニズムやポストモダニズムを引き合いには出さず、あくまで(旧来の)モダンダンスと(新しい)ポストモダンダンスの間で対比を行っている。カービーによればポストモダンダンスの「新しさ」はおおよそ次の三点にまとめられる。まず、振付家が視覚的な観点によって動きを予め取捨選択するのではなく、内的な(interior)観点に基礎を置いたこと。すなわち様々な約束事、目標、計画、図式、ルール、コンセプト、課題など一定の枠組となる原則をダンサーに与え、そこから結果的に得られる動きをダンスと見なした。またダンスを音楽に随伴させたり、あるいは動きを音楽性の見地から考えるのを止めたこと。そしてあらゆる「意味」表現からダンスを切り離し、「動き」それ自体を目的としたことである。
 ここで既に、ポストモダンダンスとポストモダニズムを直に対応させるのが適切ではないことは明らかだろう。動きを意味や音楽などといった「外在的」な要素から切り離し、それ自体として目的とすること、すなわち自己批判的な手続きによって媒体(素材)を純化していこうとすることは、紛れもなく他の諸芸術ジャンルにおいてなされてきたモダニズムの理念だからである。事実、美術におけるミニマリズムと一部のポストモダンダンスは密接な関わりをもっていた。それに対し、これ以前のいわゆるモダンダンスの多くは表現主義的な考え方に依拠しており、つまり上のような意味でのモダニズムを必ずしも実践してはいなかったのである。こうした事実が、サリー・ベインズをして「ポストモダンダンスこそが“モダニスト”的な芸術の役割を担った」といわしめる(Terpsichore in Sneakers, '87, Wesleyan U. P., p.xv)*2。
 とはいえこのような論議は、単に言葉による定義上の混乱に過ぎないといえなく���ない。モダニズムやポストモダニズムといった概念をアプリオリ(先験的)に導入することによって明らかになる部分も少なくないが、まず確かなことは、ポストモダンダンスのダンサーたちが旧来のバレエやモダンダンスを意識的に批判して、ダンスの可能性を拡張する試みを行っていたということである。そして今日の我々はそこから多くの遺産を受け取っている。ミニマリズムないし反復の技法、日常の身振りや身体の活用、タスク(課題)遂行型ないしゲーム型の振付、そしてコンタクト・インプロヴィゼーション。もちろんこうした技術上の産物を数え上げることで、ポストモダンダンスを歴史的に評価するやり方もやはり慎まねばならない。それは過去を讃えつつ死なせることにしかならない。むしろ、例えばこうした様々な考え方が形をなして来る過程へと遡って、それらが培われた歴史的文脈の広がりを見ようとするなら、過去と現在の関係はより動的で生産的なものになる。そうすれば、我々がただたまたま現在手にしているに過ぎない諸々の「遺産」が、便利な道具という姿をとって実は我々を縛っているというような事態さえも、ポジティヴに乗り越えていけるだろう。
 筆者はまず、イヴォンヌ・レイナー自身が踊る『トリオA Trio A』('78年、初演'66年)を見ることから始めた。ベインズはこの僅か10分足らずの作品が「ポストモダンダンスの美学的目標の一つのパラダイムを示した」といい(Ibid., p.44)、特別に多くの頁をその分析にあてている。筆者の関心を最初に惹きつけたのは、ベインズのこの分析および記述と、レイナー自身のテクストだった。
---------- *1 サリー・ベインズが『スニーカーを履いたテルプシコール――ポストモダンダンス』('77/'87)で紹介している振付家/ダンサーは、シモーヌ・フォルティ、イヴォンヌ・レイナー、スティーヴ・パクストン、トリーシャ・ブラウン、デヴィッド・ゴードン、デボラ・ヘイ、ルシンダ・チャイルズ、メレディス・モンク、ケネス・キング、ダグラス・ダン、およびグラン���・ユニオンである。人によってはここに、ローラ・ディーンや、アンナ・ハルプリン、あるいはトワイラ・サープなどを加えるかも知れない。
*2 外山紀久子『帰宅しない放蕩娘』('99、勁草書房)は、モダニズムとポストモダニズムの概念を分析した上で、ポストモダンダンスとポストモダニズムをはっきり切り離し、さらに80年代以降のアメリカのダンスにおいてようやく「ポストモダニズムのダンス」が台頭してきた経緯を考察している。
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『plan B 通信』(2006年7月号) ポストモダンダンスについてのノート(3)
 1966年に初演されたイヴォンヌ・レイナーの『トリオA』は、わずか4分30秒ほど*1の間に夥しい量の実験的要素を凝縮した作品だが、筆者が最初に興味をもったのは、ベインズが紹介している、レイナーの身体運動への極度に分析的なアプローチだった。体の動きを意味や音楽性への従属から解放し、それ自体を一つの自律した領域として取り扱いつつ、また同時に、旧来のバレエやモダンダンスにおける様式化された動きのスペクタクル性を批判して、ダンスと人々の日常生活との関係を問い直そうとしたレイナーは、一般に「ダンス」と称される身体運動の特質を驚くべき執拗さで観察し、その制度性を攻撃する。『トリオA』の第一の眼目は、あたかも自明のものとなっている過去の様式の構成要素を徹底的に拒否してみせることにあり、そこには例えば「動きにおけるエネルギーを常に均質にする」「フレーズを構成しない」「反復を排除する」「複数の部位の動きを互いに連関させない」などといったアイディアが無数に盛り込まれているのである。あるいは、この作品において「体がバレエやモダンダンスに典型的に見られるようなフル・ストレッチにまで至るのは、ただ〔個々の動きから動きへの〕移行の瞬間だけである。こうして〔観客の〕目が親しみやすい“線”を見つけ、そこに視線を注ぐことができたかと思うと、直ちにその線は粉砕され、観客の安心感は覆されてしまう」*2。――詳細は後に譲るとしても、ともかくこれほどまでに人間の体の動きの「客観的」な細部と、その知覚の「即物的」な条件の奥へ分け入ることができるのか、という衝撃が、筆者には何よりも大きかったのである。
 さて初めて見た『トリオA』(ベインズが1978年に制作した、レイナーによるソロを撮影した映像。このヴァージョンは足音や息遣い、衣擦れの音以外は無音*3)の率直な感想をいえば、それはあたかも網膜の上をどこまでも上滑りするかのように捉えどころのないものだった。四肢末端部の細かな仕草から、明らかにバレエに由来する線的なフォルムまで、幅広い語彙そのものは今日の目から見れば特に珍しいものではない。ただ、動きが隅々まで平板化されて、取り留めなく継起するさまがおそろしく無味乾燥としているのである。忙しなく変化するステップ、味気ない腕の振りと旋回、足先で床を擦る動き、唐突に頭を振って走り出す、などといった一連の動きは、個々の部分に注目すればある程度は捕捉できる。むしろ体の分節は粗いので、情報量は決して多くない。にもかかわらず、全体としてはなかなかシャープな像を結ばないのである。画面に意識を集中するのさえ不思議と困難に感じられ、自分が疲れているのではないかと訝るほどだった。
 しかし繰り返し見て気づいたのは、様式化したフォルムを退け、余計な力感を排したカジュアルな動きでありながら、その組み立てはきわめて込み入っており、踊り手には途轍もない負荷がかかっているということだ。視覚的に明瞭な体系性はなく、また同じ動きを繰り返すこともないのだが、ともすればリズムに乗りかかる体に、その都度細かくブレーキをかけて流れを変え、強引に加速したかと思うと何事もなかったかのように柔らかく停止する。こんな調子で各部位が縦横に動き回る���である。おそらく体を操作しようとする意識が非常に強く感じられるがために、ダンスというより単に一定の規則を遂行しているようにも見えるのだろう。しかしリズム的な持続を全く欠いた、この一続きの動きは、見れば見るほど異様なものであることがわかってきた。それはベインズのテクストからの想像をはるかに凌ぐ、極北の世界だったのである。
 こうして初めて、「ダンスを見ることは難しい(Dance is hard to see)」という、よく知られるレイナーの命題に正面からぶつかった。事実『トリオA』を見ることは「難しい」のである。なぜだろうか? その答えは、ダンス論の一つの古典とも称されるべきレイナーのエッセイ「多血症のただなかでの量的にミニマルなダンス活動における“ミニマリスト”的諸傾向についての擬似的な調査、あるいは『トリオA』の分析」*4において、詳細に論じられている。つまり「見ることの困難」こそ、まさに『トリオA』の狙うところだったのである。
---------- *1 前回、勘違いによって「僅か10分足らずの作品」と書いてしまった。訂正してお詫びする。
*2 Sally Banes, Terpsichore in Sneakers, 2nd ed., 1987, Wesleyan U.P., p.46.
*3 『トリオA』には様々なヴァージョンが作られており、中には音楽がついたものもある。ちなみに78年のこの映像の一部は http://www.vdb.org で見ることができる。
*4 A Quasi Survey of Some "Minimalist" Tendencies in the Quantitavely Minimal Dance Activity Midst the Plethora, or an Analysis of Trio A. 複数の文献で読むことができるが、初出は Gregory Battcock ed., Minimal Art: A Critical Anthology,1968.
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『plan B 通信』(2006年8月号) ポストモダンダンスについてのノート(4)
 イヴォンヌ・レイナーが「ダンスを見ることは難しい」といえば、「映画を見ることはむつかしい」と書きつけたのは蓮実重彦だった。「見ることはむつかしい。とりわけ小津を見ることはむつかしい。〔…〕そこには、文字通りの画面しか存在しない。画面は、その背後に何かを隠したりしてはいないのだ」*1。あるいはスーザン・ソンタグの「反解釈」。さらには桜井圭介『西麻布ダンス教室』も並べてみたくなる。ものの現われ、現象、ないし表層の擁護は、過剰かつ恣意的な意味解釈の専横に抗してしばしば主張されてきた。あるいは制度化された視線のあり方があまりにも自明視され、疑われていないことへの苛立ち*2。
 レイナーもまた、ダンスを見る観客の視線と、ダンスとが、一定の様式の元に結託し安住している事実を喝破し、そこで平和裡に隠蔽されている「見ることの困難」("seeing" difficulty)を露出させること(あるいは「困難を見ること」)を目論む*3。
 主要な論点を二つ取り出してみよう。まず、西洋のダンスの多くは、あるフレーズの始めに最も多くエネルギーが出力され(=アタック��、真中で留め置かれ、最後に元の状態に戻る、という形式をもっている。これによってフレーズ内の最も動きの少ない一部分が焦点化され、その「クライマックス」の部分だけが静止画像のように切り取られて網膜上に「登記」されることになる。ならばこの「始めと中と終わり」という(アリストテレス以来の)古典的構造を平坦に均してしまったらどうなるのか。とりわけフレーズとフレーズの間に静止を入れず、一つのフレーズの終わりと、もう一つのそれの始まりを連続させ、両者を区別できなくすること。そして個々の動きの価値を均一にすること(アンチドラマ)。
 また他方、同じ動きを反復することによっても、動きを客体化(objectify)することは容易になるだろう。ダンスにおける「素材」(material=物質)を剥き出しにするには、これを徹底化するのが(観客の不興は買うだろうが)一つの有益な方法といえる。しかし、では逆に、この反復を徹底的に排除してみよう。その時観客の視覚体験はどうなるのか。
 かくして『トリオA』は、ダンスを見る目を一定のやり方で規定している制度を暴き、見ることの本来的な困難を実践によって示そうとする。つまりこれは可視性の閾を越えようとするダンスなのであり、極言すれば「不可視のダンス」だということになるかも知れない*4。「ダンスから、できる限り空想を排除しなければならない、あるいは、見ることがほとんど不可能になってしまうに至るまで、そうした本質的な困難さという事実が強調されなければならない」*5。
 このようなレイナーの構想の狙いは何か。多様な解釈が可能だろう。そもそも「見ること」を断念せよと説いているのか。それとも、よりよく見よ、我々は十分に見ていない、と煽動しているのか。ダンスを視覚にとっての「客体」とすることを批判し、いかなる表象にも還元されない持続を知覚するように(自らの身体で共に踊るように)と、観客を仕向けているのか。
 少なくともいえることは、レイナーが、見ることの困難なダンスを媒介にして、スペクタクル(踊り手と観客との分断の固定)が成立する以前の、「身体」そのもの、零度の身体を掴み出そうとしたということである。美術におけるミニマリズムとの類比から、レイナーはしばしばダンスや身体を「物体」(object=対象、客体)になぞらえるが、上述のように『トリオA』には、「物体化=客体化」さえもかわし、さらに遠い虚焦点としての、主体と客体が分化する条件としての「身体」を捉えようとする側面があることは見逃せない。
 1968年の上演時のプログラムにはこうある。「私と、危機にあるこの世界(world-in-crisis)との繋がりは、稀薄で、疎遠なものに留まっている」。そして「精神が恐怖と不信の念とともに抵抗するのは、TVに映るヴェトナム人が撃たれる場面――ただその死の光景のみならず、TVを見終わったら、まるで出来の悪い西部劇のように、パッと消してしまえるのだという事実に対してである。私の身体はそれでも残る現実なのだ」。つまるところレイナーにとって、身体の零度の探求は、身体をその最大の潜勢力において再び新たに見出すための手続きに他ならない。「運動の発明、すなわち“ダンシング”」(Movement-invention, i.e. "dancing")*6。
---------- *1 蓮実重彦『監督 小津安二郎』、ちくま学芸文庫、238-240頁。
*2 ソンタグの『反解釈』はレイナーの『トリオA』と同じ1966年に出ている。こうした一連の「反解釈」ないし「表層批評宣言」は、いうまでもなく時代毎にそれぞれの文脈を背負っていることだろう。
*3 Rainer, A Quasi Survey of Some "Minimalist" Tendencies in the Quantitavely Minimal Dance Activity Midst the Plethora, or an Analysis of Trio A, in: Rainer, A Woman Who...: Essays, Interviews, Scripts, The Johns Hopkins UP, 1999.
*4 よく似たことが、ある時期のフォーサイスについてもしばしばいわれてきた。しかし動きの「速度」や「複雑さ」などといった、突き詰めれば量の問題に還元されてしまう印象論と、徹底して幾何学的かつ修辞学的なレイナーの方法論とは、全く異質な次元に属している。
*5 Rainer, A Quasi Survey, p.35.
*6 Rainer, A Woman Who..., pp.40-41.
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『plan B 通信』(2006年9月号) ポストモダンダンスについてのノート(5)
 スペクタクル的な視線の制度化によって主客の分断が固定される前の、零度の身体を把捉し、既存の様々な権力機構から解放しようとすること、これはポストモダンダンスにおいて広く共有された重要なテーマの一つであったように思われる。レイナーの『トリオA』はその最も方法論的に洗練された作例といえるだろう。
 しかし既に何度か触れたように、ポストモダンダンスにおけるスペクタクル批判は、まずもって職業的な訓練を経たダンサーの超絶技巧を拒絶するところから始まっている。そしてその際、日常を生きる人々の身体とその運動への回帰という方向へひとまず向かうのである。例えば様々な日常動作や「行為」がダンスとして提示され、タスク・ムーヴメント(一定のルールに従って物を運ぶなどの課題遂行によって生み出される運動)もまた多くの振付家によって採用された。
 シモーヌ・フォルティの『ひしめき合い Huddle』(1961年)は数人がスクラムのようにして円陣を組み、その人間の山を一人が外側からよじ登って反対側へ降りると、また別の誰かがよじ登る、という行為の連続による作品である。『斜めの板 Slant Board』(1961年)では、大きな板で作られた傾斜の上を、紐につかまった三人が移動して互いに場所を入れ替わり続ける。そこにあるのは、シンプルな規則とその素朴な遂行のみである。「こういった動きには虚飾がない。素朴な木の器がそうであるように、虚飾がない。そして美しい、素朴な木の器がそうであるように、美しいのだ」*1。スティーヴ・パクストンの『Satisfyin Lover』(1967年)は、30歳から84歳までの様々な人々���多様な速度で淡々と歩行するさまを��台に乗せた。ベインズによれば、パクストンにとって「歩行」は非ダンス的な諸々の動きの可能性を開く決定的に重要なモチーフであった。「歩行は誰もがしていることであり」、「演者と観客の間を共感でつなぎつつ、また共有された経験でありながら各々の特異性や個性も許容される」*2。この延長上に、食べる、話す、笑う、着替える、などのあらゆる行為=運動が位置づけられる。この世にある全ての音は音楽だ、と説いたジョン・ケージに倣って、この世にある全ての運動はダンスだというわけである。
 バレエやモダンダンスのスペクタクルに対し、こうした実践はなるほど確かに「民主主義的」な理念を首尾よく表現している。しかし他方、スティーヴ・ライヒのこんな笑い話もよく知られている。「60年代にはずっと、人々は誰も踊らないダンスの舞台を見に出かけて、その後みんなでパーティをして踊ったものだった。これは健康な状況ではない」*3。
 ベインズに代表される研究者の議論において、筆者がしばしば違和感を抱くのはここである。「ある動きが、単なる日常動作としてではなくダンスの一部として成立するのは、それがダンスの文脈に置かれることによってである」*4、このような考え方は、ダンスの定義を揺るがそうとした当時の革命的な力を、矮小なアート・ワールド(市場)の論理に回収し、皮相な差異の戯れ、新規性をめぐるゲームに還元してしまうだろう。つまりことさらに「日常の身体」へと人々の注意を向けさせるために「(前衛)芸術」という枠組を利用していたのでは、結局「反スペクタクル」という名のスペクタクルと変わりないのではないか。そればかりか、これでは上述の初期フォルティやパクストンのような過渡期の実践が孕んでいた政治的限界を的確に評価することもできない。すなわち当時の彼ら彼女らは、旧来の舞台芸術のスペクタクル性を批判する際に「人間」や「自然」という尺度を自明かつ普遍的なものとして導入してしまっており、それこそが演者と観客との間の民主主義的な平等の理念を支えていたのである。土方巽ならば、歩行が万人に共通の運動だなどと口にはしなかっただろうが、「日常」なるものを不用意に特権化、神秘化すれば、その革新性は強力な保守性へと容易に反転する。
 しかしもちろんポストモダンダンスが発見した「日常の身体」は、新しもの好きのアート市場に登場した新商品の一つなどに留まってはいなかった。フォルティは68年以降、動物の動きの研究を開始して、秘教的ともいえる独自のダンス言語を膨らませていったし、パクストンは72年にコンタクト・インプロヴィゼーション(CI)を本格的に展開させ始めた。CIは既存のダンス・テクニックとは完全に異質だが、同時にただ人々の日常をなぞってみせるわけでもなければ、人間中心主義的な主体性を誇示することもなく、むしろ「個」を重力の作用と接触による間身体的な関係のただ中に投げ入れて超人間的な身体運動を生成する。CIの実践家たちが「���点」*5と呼ぶ、『マグネシウム Magnesium』(72年)の映像は衝撃的である。体育館にマットを敷いて行われたこの10分足らずのセッションは、今日よく見られるCIと比べてはるかに荒々しく、体と体が高速で猛然とぶつかり合い、柔道に似た受身が多用されている。そしてミサイルの爆発音や爆撃音のような激しい音響〔*6〕によって、まるで戦争そのものののような圧倒的な力のイメージが重ね合わされるのである。ここにはもはや60年代的な、牧歌的な「民主主義」の空気はない。自由や平等の理念を根底で支えて来た「人間」なるものの概念が、汗の飛沫とともに砕け散っているかのようである。
---------- *1 Simone Forti, PASTForward Choreographers' Statements, in: Sally Banes ed., Reinventing Dance in the 1960s, Wisconsin U.P., 2003, p.200.
*2 Sally Banes, Terpsichore in Sneakers, 2nd ed., Wesleyan U.P., 1987, p.60. ちなみに、ポストモダンダンスに特徴的な「非ダンス」的動作、特に日常生活から取り出された動作を pedestrian movement(歩行者の動き、散文的な動き)と呼ぶ習慣は一般的である。
*3 Steve Reich, Notes on Music and Dance (1973), in: Roger Copeland and Marshall Cohen ed., What Is Dance?, Oxford U.P., 1983, p.336.
*4 Banes, Terpsichore in Sneakers, p.17.
*5 シンシア・J・ノヴァック(立木・菊池訳)『コンタクト・インプロヴィゼーション』、フィルムアート社、2000年(原著1990年)、74頁。
〔*6 追記:2009年にパクストン本人とともに確かめたところ、この「音響」はたまたま体育館内で生じた反響によるノイズであるとのことだった〕
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『plan B 通信』(2006年10月号) ポストモダンダンスについてのノート(6)
 ジャドソン教会派を熱烈に擁護し、立役者の一人となった批評家ジル・ジョンストンは、レイナーの『私たちは走る We Shall Run』(1963年)に触れながら「日常的なもののヒロイズム heroism of the ordinary」を興奮気味に語っている。「プロットもなし、見せかけもなしだ。人々が走る。人間万歳」*1。もちろん、単に舞台上で「人々が走る」わけではなかった。出演者たちは振付家によって設計された複雑きわまりないスコアに基づいて走ったのであり*2、そこには積極的に「人間 people」を表象=再提示(re-present)しようとする明確な意図が働いていた。すなわちこれは、観客が自らを「人間」として自己同一化することを促す、いわば「鏡」のようなパフォーマンスなのである。他方、平凡な人々の様々な「歩行」を主題とするスティーヴ・パクストンの『サティスファイン・ラヴァー Satisfyin Lover』(1967年)について、出演者が観客の視線に曝されながら「自然に歩く」ことがいかに難しいかを予測することはできなかった、とパクストン自身が告白している事実は示唆的である*3。つまり人々が「人間」としてのアイデンティティを「自然」なものとして確認し受容するためには、途方もない労力の傾注が必要とされるのである。そしてこの労力の傾注を正当化するような思想を、われわれは「ヒューマニズム」と呼ぶことができるだろう。
 いうまでもなくこのヒューマニズムは、スペクタクル化したモダンダンスからダンスを再び「等身大 human scale」*4の行為として人々の手に取り返そうとするジャドソン教会派の、「民主主義」的なプロジェクトからの帰結であった。『私たちは走る』は、ベルリオーズの『レクイエム』のような大袈裟な音楽と、「走る人々」の平凡な姿とのコントラストを演出し、反スペクタクルを強調するところに主眼を置いていたのである*5。
 しかし思想の限界は様々なレヴェルで明らかになっていく。TV画面に映し出されるヴェトナム戦争の映像に、「人間」を相互に異質な諸集団へと分割する政治の現実を見たレイナーは、ジャドソン教会派およびポストモダンダンスの思想的支柱であったケージを批判していう。ケージは「われわれが生きている生の素晴らしさに目覚めよう」と朗らかに唱えるが、「そんなに素晴らしい生を謳歌しているのはいったい誰で、そしてそれは他の人々のいかなる犠牲の上に成り立っているのか」を問わねばならない、と*6。あるいはまた、キャリー・ランバートによれば、レイナーが1967年に患った胃腸の病気は、身体的経験は究極的には個人的なものであり、他者と共有することはできないのだ、という彼女の認識を補強する重要なエピソードとなっている*7。レイナーは70年代にダンスから映画制作へと活動の場を移していくが、ダンスのシーンにおいては、「日常性」の牧歌的な礼賛に対する反動が新しいダンス・テクニックの開発および超絶技巧の復権を促していく。パクストンはコンタクト・インプロヴィゼーションを練り上げ、トリーシャ・ブラウンも空気のように軽い独特の動きのスタイルを発達させ始める。こうしてポストモダンダンスは、モダンダンスが辿ったのと似た、高度な技術的洗練の道を再び歩んでいくのである。
 それはとりもなおさず、ダンスにおけるスペクタクルの復活を意味する。しかしジャドソン「以後」の状況は、ジャドソン「以前」よりもはるかに深刻な相貌を呈するだろう。マーシャ・シーゲルの言を借りれば、「民主主義」の時代の実験芸術の運動が残した全ての遺産が、今度は「ポピュリズム」の消費文化によって徹底的に流用されることになるからである*8。80年代、いよいよ真の(?)「ポストモダニズム」が世を席巻し始める。
---------- *1 Jill Johnston, "Judson Concerts #3, #4," Village Voice, 28 February 1963. Sally Banes, Democracy's Body: Judson Dance Theater, 1962-1964, p.88 より重引。
*2 Banes, Democracy's Body, p.87.
*3 Steve Paxton, "PASTForward Choreographers' Statements," in Sally Banes ed., Reinventing Dance in the 1960s, Wisconsin UP, 2003, p.207.
*4 Yvonne Rainer, "A Quasi Survey"(1968), in Rainer, A Woman Who...: Essays, Interviews, Scripts, The Johns Hopkins UP, 1999, p.30.
*5 今日のわれわれにとって、チェル��ィッチュ(岡田利規)の作品『クーラー』(2004年)との類似は価値のある比較考察を導くだろう。
*6 Yvonne Rainer, "Looking Myself in the Mouth"(1981), in Rainer, A Woman Who..., p.88.
*7 Carrie Lambert, "On Being Moved: Rainer and the Aesthetics of Empathy," in Sid Sachs ed., Yvonne Rainer: Radical Juxtaposition 1961-2002, The University of the Arts, 2003, p.50.
* 8 Marcia B. Siegel, The Tail of Dragon: New Dance, 1976-1982, Duke UP, 1991, p.xv.
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『plan B 通信』(2006年11月号) ポストモダンダンスについてのノート(7)
 70年代に入ると、ジャドソン以降の人々の実験的な方法論が発展を遂げた結果として徐々に新しい技術(ダンス・テクニック)が追求されていったことは前回も触れた。トリーシャ・ブラウン、トワイラ・サープ、スティーヴ・パクストンなどがその顕著な例だが、ベインズはさらに70年代的なポストモダンダンスから80年代的な「新しいダンス new dance」への移行を特徴付ける要素として、ダンサー/振付家たちが次第に自分のカンパニーをもつようになったことを指摘している*1。これもまた新しい技術への志向と無関係ではないだろう。カンパニーとは、技術を振付家自身の身体から切り離し、超個人的なものとして共有しながら体系的に発展させる母体だからである。それに加え、フィルムやヴィデオの普及によってダンスが容易に記録できるようにもなる。映像による記録は、反復可能な「振付作品」のレパートリーの蓄積を容易にする。同一の作品が繰り返し上演されるようになれば、新聞評などの社会的な価値評価システムが有効に機能し、上演に際してのリスクを予め見積もることができるため、カンパニーが各地をツアーするなど市場は飛躍的に拡大する。こうして80年代のダンサーたちの関心は多かれ少なかれ、自分がいかに「生き残ること survival」*2ができるか、という問題に支配されるようになっていく。60年代に行われた実験的なダンスが、「作品」の記録やレパートリー化などといった自己保存への欲求ではなく、即興的かつ自然発生的な身体の衝動に重きを置くことで文字通り「同時代的」な運動それ自体であり続けていたとすれば、80年代的な「生き残り」のメンタリティは、ダンスを身体からは差し当たって区別され得る物理的な商品として生産しようとするのである。
 技術的洗練、カンパニーの形成、「作品」性への志向、こうした諸要素がダンスと市場経済の論理を結びつける。もちろんこれは芸術家が自身の生活を賄おうとした結果ともいえるのだが、いずれにせよ80年代のアメリカのダンスはかつてのような政治的アクションとしての力を失い、「経済」の原則を甘んじて受け入れていく(それは「政治」が「経済」の下位に従属するような、すなわちネグリとハートが「帝国」とよぶような状況ともごく近い関係にあるだろう)。マーシャ・シーゲルによれば、変化の兆候は70年代半ばにはすでに現われていたという。芸術に対する政府、��、地域レヴェルの経済的補助はこの時期にピークを迎え、助成金が実験的な芸術家にも行き渡る。そして「観客数がカンパニーの財政を左右し、チケットの売れ行きがものをいう」ようになると、ダンスは混沌と先鋭性とを喪失していく。そればかりではない。「実験的なカンパニーに期待されたのはフレキシビリティであり、額縁舞台や厳密なプログラム編成に束縛されるわけではなかった。彼ら彼女らは公園でも学校でも踊れたし、地元の出演者とともに踊ったり、即興で、与えられた条件に対応することもできた。しかしながら実験的なダンスの重要な要素であった多様性、予測不能性、奇抜さといったものは、少しずつ飼い馴らされ、和らげられていったのである」*3。「フレキシビリティ」とは、何か特定の目的に適った専門的技術のことではない。それはまさに「何にでも対応できる」ようなダンサーの身体の柔軟性そのもののことであり、ポストモダンダンスを経たダンサーが備える潜在的な力の総体のことである。すなわちジャドソン教会以降のダンスが過激に押し広げてきた身体運動の可能領域そのものが経済的に「飼い馴らされ」ていったのであって、それは単にポストモダンダンスがモダンダンスと同じ轍を踏み、紋切型の形式へと硬直化していったということのみを意味するのではない。つまりポストモダンダンスは、おそらくは図らずして、目的に奉仕することのない純粋な「力」の発現としての「ダンス」そのものが孕む、何か本質的な問題を剥き出しにすることになった。「ジャドソン以前」と「ジャドソン以後」の状況の質的な差異は、ここにこそ求められねばならない。
 70年代から80年代にかけて、ヌーヴェルダンスの興隆とともに「世界のダンスの中心がアメリカからヨーロッパへ移った」とはしばしばいわれる。バニョレに象徴されるヨーロッパのダンスが活気を帯びていく一方で、アメリカのダンスがその先鋭性を失っていった理由として、フランスのジノーとミシェルは、エイズの流行(およびその反動による社会の価値観の保守化)とともに、レーガン政権の緊縮財政による国立芸術基金(National Endowment for the Arts)の予算削減を指摘するが*4、しかし本当に重要なのはレーガンの緊縮財政などではなく、それ以前の、ダンスの公的資金への依存度の上昇、すなわち芸術家たちが政治的に骨抜きにされていく過程の方だろう。そしてそれが今、日本のコンテンポラリーダンスが直面している問題でもあることはいうまでもない。
 筆者は昨年10月から今年4月までの7ヶ月間、主にNYで毎週4~5本のペースでダンス公演を見続けたが、アメリカにおけるダンスと経済というこの問題は現在まで完全に連続しつつ、なおも今日的な局面を展開しているように思われた。その意味でポストモダンダンスとそれが(自覚的に、また無自覚的に)提起した諸問題は今も生々しいアクチュアリティを保っている。(続く)
---------- *1 Sally Banes, Terpsichore in Sneakers, 2nd ed., Wesleyan U.P., 1987, p.xxvii.
*2 同上。
*3 Marcia B. Siegel, The Tail of Dragon: New Dance, 1976-1982, Duke U.P., 1991, pp.xiii-xiv.
*4 Isabelle Ginot, Marcelle Michel, La danse au XXe siecle, Nouvelle edition, Larousse, 2002, p.157.
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『plan B 通信』(2006年12月号) ポストモダンダンスについてのノート(8)
 2005年10月2日夕方にJFK空港着、そのままタクシーでシティ・センターへ向かい、混雑した会場の二階にあるクロークまで大きなスーツケースを引っ張り上げてやや白い目で見られながら、早速ダンスを見た。NYの劇場に入るのはこれが初めてで、2753席の劇場の二階の奥から見渡す広大な客席は満員、熱気が充満している。前年から始まったこの FALL for DANCE Festival は、アルヴィン・エイリーやNYCBから、もっと若い世代まで毎日数組出演するのだが、入場料がわずか10ドル均一。できるだけ多くの一般の人々の間にダンスを普及させようとするこのイヴェントのスケールの大きさは、筆者にとってあまりにもアメリカ的に思えた。そして内容の面では、まず最初に登場したチャールズ・モウルトン(Charles Moulton)振付の『48人による精密なボール・パス 48 Person Precision Ball Passing』が、その印象に呼応するものだったといえよう*1。
 雛壇状の舞台に等間隔で整列した48人ものパフォーマーが、掛け声や音楽に合わせて規則的かつリズミカルにボールをパスし、複雑な動きのパターンを目まぐるしく変化させていくこの大がかりなマスゲームは、例えばアメリカと並ぶモダンダンスの母国ドイツなどではもはや不可能な種類の楽天性を感じさせずにはいないが、ともかく最初からこの作品に当たったのは筆者にとって意味深かった。なぜならモウルトンの名は、ベインズが、80年代アメリカに起こったポストモダンダンスへの様々な反動の例としてしばしば取り上げていたからである。彼女によれば、前衛運動としてのポストモダンダンスの後、ダンスにおける意味やナラティヴの復活、あるいは音楽性の復権などとともに、超絶技巧(virtuosity)に対する志向のあからさまな回帰が観測された。「チャールズ・モウルトンの精密なボール・パスの諸作品、ダンサーがウェイト・トレーニング用のウェイトを身に付けて稽古をしなければならないモリッサ・フェンレイの“ダンスの壁”、コリーン・マルヴィヒルとM・J・ベッカーの体操競技的な卓越性(これらの予兆をなしていたのがバチャ・ザミールの空中ダンスであり、またトワイラ・サープのジョン・カリーへの振付については言うまでもない)、あるいはウェンディ・ペロンとジョハンナ・ボイスの言葉遊び、こうした一連の事例において、ダンサーの精神/身体は専門技術的な側面を過激な仕方で取り戻している」*2。危険な装置を使ってアクロバティックな技巧を見せるエリザベス・ストレブ(Elizabeth Streb)の作品と、シモーヌ・フォルティの『斜めの板 Slant Board』(1961年)*3を比較すれば、この20年あまりでのダンスにおける身体の変容は��紛うべくもない。後者において観客は自分のそれとほとんど等価な演者の身体によって運動感覚的な共感(kinesthetic empathy)を惹起されたが、前者においてはアスリートの行うハードな離れ技に驚嘆させられるばかりであるに違いないからだ*4。
 モウルトンの『精密なボール・パス』の初演は1979年だが、その時の出演者は実はたった3人だった。しかし翌年には9人ヴァージョンが作られ、88年には18人、93年には25人、そして2005年には48人と、直線的に膨張してきたわけである*5。85年の時点で「日常の身体 ordinary body」が過去のものになったと指摘したベインズは、こうしたスペクタクルの復活は単なる旧来の価値観への逆戻りではなく、新しい現実を反映するものだと考える。「80年代、“日常の”身体とはもはや単に自然から我々が授かったそれを意味しない。ジョギングやフィットネス・クラブ、ボディビルの流行とともに掛け金は上昇した。今やごく一般の人でさえ何がしかのアスリートなのだ」*6。とはいえ、「ナチュラル」な身体への讃美から、整形やピアシングなども含む極端な身体改造へという人々の志向の変化を、レーガノミクスの厳しい経済状況下においても変わることのない人々の向上心や支配欲の現われと見なしつつ、身体こそは「最も安価かつ手近な征服の対象の一つ」なのであり、「人々は文字通り、自分の運命を自分で作り変えることができる、身体文化のレトリックはそのように謳っている」と説明するベインズの議論はいささかナイーヴに聞こえる。シーゲルが指摘するように、人々の身体の表象を変えてしまったのはマスメディアなのだとすれば*7、身体は明らかに一つの産業化=植民地化を経験したのであり、市民的な向上心や支配欲などといったもの自体に対する(より大規模な、そしてますます微細な、私的領域にまで渡る)支配が進行したのが80年代だったのではないか。かつてポストモダンダンスの象徴は「トウシューズ」ではなく「スニーカー」だった。しかし今となっては、「衣装として用いられた『日常的』な衣服なるものの観念自体が、GAPのようなマス・マーケッターによって根本的に変えられてしまった」*8。それは確かに、単なる主体と客体をめぐるヒエラルヒー的秩序としてのスペクタクルの復活ではないのである。(続く)
---------- *1 Peter Jay Sharp 財団およびタイム・ワーナー社がフェスティヴァルの主なスポンサーである。なおこの日の他の出演者は、ヴィンセント・マントソー(Vincent Mantsoe)、カンパニー・マリー・シュイナール、中馬芳子&ザ・スクール・オヴ・ハード・ノックス、そしてジョフリー・バレエ(ジェラルド・アルピノ振付)。
*2 Sally Banes, "No More Ordinary Bodies"(1985), in Banes, Writing Dancing in the Age of Postmodernism, Wesleyan U.P., 1994, p.278. 筆者が実際に見ていないダンスについては見当外れな訳になっているかも知れない。John Curryは70年代に活躍したイギリスのフィギュアスケート選手で、サープには彼に振付けた『After All』(1976年)という作品がある。
*3 この作品については本連載の第5回でもふれた。
*4 Ibid.
*5 ちなみに2003年には、モウルトンは映画『マトリックス リローデッド』において1000人を超すダンサーたちを使ったレイヴ・シーンを振付けている。
*6 Ibid., p.279.
*7 Marcia B. Siegel, The Tail of Dragon, Duke U.P., 1991, pp. xiv-xv.
*8 Yvonne Rainer, "PASTForward Choreographers' Statements," in Sally Banes ed., Reinventing Dance in the 1960s, Wisconsin U.P., 2003, p.209.
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『plan B 通信』(2007年1月号) ポストモダンダンスについてのノート(9)
 現在のNYに、ジャドソン教会派およびポストモダンダンスからの何らかの連続性、あるいはその痕跡を見出すのはさほど難しいことではない。例えば前回ふれた FALL for DANCE Festivalの中馬芳子のグループにもジャドソンの中心メンバーの一人、サリー・グロス(Sally Gross)がダンサーとして出演していたし、ワシントン・スクエアにあるジャドソン教会では毎週定期的に無料のショーケース Movement Research at the Judson Church “About Town” が開かれていて、無名だが野心的な表現者が集まるトポスとしての役割を今も担っている*1。トリーシャ・ブラウンは周知の通りミッドタウンにスタジオを構えて活動しており、デヴィッド・ゴードンも新作を発表し続けている。そしてごく最近、イヴォンヌ・レイナーがほぼ30年ぶりに映画製作からダンスへ復帰したのは大きなニュースだ。2006年4月にDTWで発表された新作『AG Indexical, with a little help from H.M.』は、ストラヴィンスキー/バランシンの『アゴン』をパロディの素材に、ヘンリー・マンシーニ(H.M.)の『ピンクパンサー』の音楽を加え、元NYCBのエミリー・コーツを迎えた女性によるカルテットだった。
 とはいえこうした歴史的コンテクストは、やはりどちらかといえば批評家や研究者の知識に属していて、若いダンサーたちにとっては遠い過去のようである。わずか七ヶ月間滞在したに過ぎない筆者の印象ではあるが、現在のNYはダンス・テクニックの巨大な市場の様相を呈しており、いくつかの大学の他、エイリーやカニンガムをはじめとするスタジオや学校でありとあらゆる技術を学ぶことができる。世界中から、そして日本からも大勢のダンサーが集まっている。そしてDTWやダンスペース・プロジェクト、PS122、ザ・キッチン、ジョイス・ソーホーなどといったダウンタウンの劇場やスペースで見られるダンスの半分は、まずそうしたテクニックの驚くほど無邪気な実践だった。ある意味では日本の「現代舞踊」のあり方にも似て、保守的な形式主義がささやかなヴォキャブラリーやコンポジションの工夫によって盛んに反復され続けているのである。
 他方、あたかもそれに対応するかのように、既存のダンスの制度を皮肉るパフォーマンス的な作品が非常に多いことが一つの傾向として指摘できる。例えばマイケル・ヘランド(Michael Helland)の『ザ・ニュー・アグリーがお送りするスター物語 The New Ugly Presents Star Fiction』は舞台やファッション・ショーに出演する女の子の姿をパロディにした作品だが、これをDTWで見た時、筆者は、ここがショービジネスの国なのであり、DTWといえどもブロードウェイのショーと本質的に断絶したものとは考えられていない(少なくとも日本のコンテンポラリーダンスにおけるように「エンターテインメント」と「アート」、商業主義と芸術は別だと無根拠に信じられてはいない)ということを強く意識した。サラ・ジュリ(Sara Juli)の『お金にまつわる会話 The Money Conversation』は、観客に向かってダンサー個人の社会的身分や経済事情を訴えたり、紙幣を撒き散らしながら「30ドルあったら何に使う?」と問いかけると客席から「ヨガのクラスに行く」「ワインを買う」などと答えが返ってくる。ダンスというより、ダンスの基盤をなす生活の条件に照準したパフォーマンスだ。チェイス・グラノフ/ジョン・モニアーチ(Chase Granoff/Jon Moniaci)の『物と退屈! Boredom with objects!』は、アンプやスピーカー、ラップトップやケーブルが散乱した空間に、ジャージにジーンズの男二人が機材に手をかけてじっとうずくまっている。ドローンやパルス音が鳴り続け、一人が腹にスピーカーを乗せて仰向けに寝てみたりするものの、最後まで特に何も起こらず、二人そろって誰もいない空間をじっと眺めたまま終了する。ダニエル・リネハン(Daniel Linehan)の『食欲不振、失敗、思春期 Anorexia, Failure, and Puberty』はあからさまに貧困生活を主題にしていて、ホームレスかストリート・チルドレンのようなキャラクターを演じながら、ボロボロのジーンズに片足を引っ込めて不具の身体を提示したり、観客の靴にキスをしながら卑屈に通路を這い回ったりする。
 90年代以降のヨーロッパにおける「ノン・ダン��」と同様、こうしたパフォーマンスの形式は確かに60年代の反スペクタクルのそれに多くを負っているだろう。しかしジャドソン教会派が、スペクタクル化したダンスの「生産」過程における人々の疎外状況を前提としつつ、ダンスにおける「民主主義」を打ち立てようとしたのだとすれば、現在のNYのパフォーマンスは今や個々人の活動が最初から最後まで資本主義の制度内での「消費」でしかあり得なくなっているという絶望的な認識の下に、これといって信じられる理想も欲望もないままひたすらのた打ち回っているように思える。例えば経済的な貧困を訴えるダンサーのパフォーマンスを額面通りに受け取るだけで事足れりとすべきではない。経済的な貧困が解決されればそれで良いというわけではない。むしろ経済的な貧困がダンスによって訴えられねばならないような事態、つまりそれほどまでに身体が経済に支配されてしまっている事態こそが、現在のNYのダンスが向き合おうとしている問題なのだとすれば、上に見たようなダンスの制度や条件を標的としたシニカルな遊戯は、何よりも一見「恵まれた」環境に包囲された作り手たちの不毛な自意識と虚無主義の症候といえるだろう。助成金、寄付金の循環が劇場やスペースとそのプログラムを制度的に「潤沢」にしているだけではない。技術的に質の高い舞台が制作され、ある程度は観客動員も見込まれ、『ヴィレッジ・ヴォイス』や『NYタイムズ』をはじめとするメディアには評が出るといった具合に、日本と比べるとはるかに整備の行き届いた環境下で、むしろダンスは奇妙な窒息状態にあるかのようなのだ。
---------- *1 ただし筆者の滞在中は教会が改装中のためダンス・シアター・ワークショップ(DTW)に場所を移していた。
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『plan B 通信』(2007年2月号) ポストモダンダンスについてのノート(10)
 筆者が滞在していたアパートメントは、ダウンタウンでダンスをやっている劇場やスペースの多くが徒歩圏内という立地だった。歩いて数分でダンス・シアター・ワークショップ(DTW)、そのすぐ近くにジョイス・シアター、19th Street をそのまま西に歩くとザ・キッチン。イースト・ヴィレッジまで行けばラ・ママ、PS122、ダンスペース・プロジェクト(セント・マークス教会)があり、ソーホーにはジョイス・ソーホーがある。どこも週代わりでプログラムを組んでいるから、足繁く通い詰め、劇場でフライヤー(ポストカード)を集めてきて、さらに毎週『ヴィレッジ・ヴォイス』と『タイム・アウト』で公演情報をチェックすれば、大半は見られないことがわかる。数が多すぎるのだ。
 早いところは木曜が初日、楽日は日曜だが、創り手の層は分厚く、目一杯詰め込んでも回り切ることなどできない。特に昼と夜でハシゴできるようには開演時間が設定されていないという事情もあるが、そもそも都内を飛び回るような感覚で分刻みのスケジュールを立てても、NYの地下鉄の運行は不規則なので勝算は低い。「ダンスは、DTW、キッチン、ジョイス、ダンスペースで木・金・土・日が埋まってしまうから、他でやっているものは基本的に見られない」と言い切る知人の言葉が印象に残った。ここには一つの「サーキット」が出来上がってしまっている。
 ベインズも、80年代以降のダウンタウンにおけるダンスを規定した要素の一つとして、こうした劇場群が環境として整ったことを指摘している。「六つの中心」として挙げられているのはキッチン、DTW、ダンスペース、PS122と、クイーンズにあるPS1、ブルックリンのBAMだが、「これらの場所は作品を見せるための便利な場所(例えばジャドソン教会がそうであったような)というより、キュレーター付きの施設[institution]である」。そこではプロデューサーが振付家に注文を出す。誰がNYで重要な振付家なのかも決定される。これはいわゆるショービジネス化とは違う。単に、NYにおけるダンス文化の量的な増大が、その必然的な帰結として制度面での極端な「充実」と構造化を招いたということだろう。「ダウンタウンのダンスの制度化[institutionalization]は、1984年、DTWがNYダンス&パフォーマンス賞(ベッシー賞)を設立したことに端的に現われている」*1。ある日本の制作者にこの話をすると、数年後の日本の姿かも知れないね、という返事が返ってきた。
 しかし、ならばこのサーキットの外はどうなっているのか。手探りで歩き回ってみた。スタジオでやっている内輪の試演会に潜り込んでみたり、ブルックリンのダンボ地区でやっていたマイナーなフェスティヴァルで四時間かけて30本を立て続けに見てみたりもした。探索が浅いのは承知だが、それにしても、どんなに小さなアマチュアの作品でも必ず、劇場向けの「商品」として通用するような洗練の方向を向いているように思えてならなかった。何をしても自由なはずなのに、まずは show として破綻なく成立させること、いいかえれば視覚に強く訴えるスペクタクル的な完成度こそが重要と信じられているかのように、小奇麗に仕上がっている。
 そんな風に感じていたところ、アースラ・イーグリー(Ursula Eagly)という若い女性振付家の作品『英雄になろうとは思うな(=無駄な抵抗はやめろ) Nobody Try to Be a Hero』に出会った。会場はブルックリンのチョコレート・ファクトリーという新しいスペースで、元は倉庫だった建物を改造して2003年に運営が始まっている。観客は真っ暗な地下に案内され、椅子に座る。やがて懐中電灯の光に照らされ、Tシャツの女の子が数人現われて、微妙にコミカルな調子を漂わせながら声明を読み上げ、お前たちの身柄は拘束されている、と告げられる。何人かが選び出され、私的な事柄についてひとしきり尋問される。そして「我々の言うことを大人しく聞いていれば危害は加えない!ただしおかしなマネをしたら――」銃声が響く。やがて隣の観客から、含み笑いとともに何かが回されてくる。今射殺された誰かの、指、耳、肝臓、腎臓……もちろん作り物だが、見えないので、湿った感触が気持ち悪い。暗闇の中、囁き声で「これは肝臓です…」などと言いながら、みんなでふざけて伝言ゲームのように人体や臓器を手渡していくのだ。しまいにはなぜか隣の人の肩に手を置いたり、手を握ったり、頬にキスをしたり、ということを次々に強制され、いつしか観客同士の間に感情的なつながりが生まれてくる。
 2002年にモスクワで起きた、チェチェン独立派武装組織の劇場占拠事件に想を得たというこの作品は、ストックホルム症候群をテーマにしている。すなわち、立て籠もり犯と人質が長い間一緒に過ごしていると、敵対関係が徐々に緩み、親密な感情や連帯感が芽生えてしまうという奇妙な現象が、パフォーマーと観客の関係に置き換えられているのだ。同時に��の作品は、視覚的な刺激の代わりに触覚に注意を向けさせ、また隣人との極度に近しい、限りなく直接的(無媒介的)なコミュニケーションを体験させもする。
 このようなコミュニティ(共同体)への志向は、9・11以後のNYという場の文脈を想起させずにはおかない。9・11とは何よりもまず視覚メディアを舞台とする戦争、つまり現実的な攻撃である以上に視覚的な、また象徴的な攻撃であった。そしてそれは結果としてNYという街に無媒介的な共同体意識と博愛精神をもたらした。他方、NYのダンスを覆うスペクタクル的な状況というものがあって、イーグリーはそれに反発している。一方的な視覚性の演出と、受動的な「観客」によるその消費という構造が、切実な問題として意識されている*2。
 この二つのことは、おそらく密接につながっている。ここで、イヴォンヌ・レイナーがTVで見たヴェトナム戦争の映像と、世界貿易センターが崩壊するあの映像とを類比することは唐突だろうか。ただ決定的な違いは、世界貿易センターの崩壊は遠いヴェトナムなどではなく、他ならぬマンハッタンで起こり、その「映像」をNYの人々はなす術もなく見た、という点にある。レイナーにおいては、ヴェトナムの映像の「疎遠さ」はヴェトナムそのものの空間的な遠さを意味した。だから手元には自分の身体というなけなしの「現実」が残された。しかし9・11は違う。近さと遠さ、現実とイメージが重なり合ってしまっている。つまり身体は「映像」に限界まで近似し、その地位を脅かされるがゆえに、過剰なほど強く反発して、媒介なきコミュニティと直接的経験の回復を求めようとするのだ。そのことの反動性を、イーグリーはどこまで自覚しているだろうか。
---------- *1 Sally Banes, Terpsichore in Sneakers, 2nd ed., Wesleyan U.P., 1987, p.xxxiv.
*2 彼女はインタヴューでこう話す。「ダンスのプレゼンターの下で働いているから、たくさんダンスを見るのだけど、そうするとだんだん嫌気がさしてくる。観客としてどんどん受け身になって、判断を下すのも早くなる。〔…〕毎週たくさんの舞台を見ていると、自分がコンテンポラリーダンスに関わるようになったのは、ビックリするような、自分を変えてくれるような体験をたくさんしたからなのだけど、最近それがなくなってきてる気がして、だから今回はそういう自分がダンスの観客としてダメになったことについての作品を創りたかった(笑)。誰も受け身ではいられないようなものが創りたかった」(http://movementresearch.org/publishing/cc/interview/eaglydavis4-8-06.html)。この作品はスペクタクル的な上演の否定でありつつ、同時に「英雄」というスペクタクル的形象の否定でもある。
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『plan B 通信』(2007年3月号) ポストモダンダンスについてのノート(11)
 アパートメントから最も近いダンス・シアター・ワークショップ(DTW)には毎週のように通っていた。とりわけ近年はダンスというより、パフォーマンス的な手法でダンスを批評する作品が多く、アップタウンや、すぐ近くにあるジョイス・シアターで見られるものと比べると明らかに異質なのだが、ダンスペース・プロジェクトやムーヴメント・リサーチなども含め、こうしたパフォーマンスが次から次へと上演されていること自体がNYのダンスの状況を語っているだろう。つまり根本的な「反省」抜きには踊ることなどもはや考えられない、いいかえれば、踊ることへの欲望と、それに対する違和感や自意識とのせめぎ合いが極限��で高まっているということだ。
 もちろんこうした実践の歴史的背景をたどれば60~70年代のポストモダンダンスに行き着くはずなのだが、当時と現在のNYのダンスが必ずしも連続していないことは既にふれた通りである。ただ現在のダンサーや振付家たちは、ダンスの「制度」に隅々まで包囲されていることに対して様々に抵抗を試みている、そのようにみえる。とはいえ彼ら彼女らのおかれた状況は、厳然としてある既成秩序に正面から闘いを挑み、とにかく現在を否定すれば前に進めた時代のアヴァンギャルドとは違い、多くは情報の洪水と無秩序、価値の飽和状態の中に埋没しつつ、漠然ととらえがたい資本主義経済の機構に包囲された自分たちの姿をシニカルに揶揄し嘲笑してみせることによって、辛うじて小さな自己の存在を確認しているといった様子である。しかしそうしたシニシズムの身振りは、結局のところ一過性のスリルと引き換えに個人的な視界を突き抜ける回路をますます閉ざしてしまうだろう。個々人の「今ここ」を、単にそれとして揶揄しようが嘲笑しようが、「今ここ」に縛られていることに変わりはなく、むしろそのように、あたかも今自分の目に見えている世界が全てであるかのように錯覚してしまうこと、あるいは一人一人にとって各々の「今ここ」だけが扱い得る領域であるかのように観念してしまうこと、そしてそうした諸々の「現在」が実際にはどんなメカニズムによって作り出され、構成されているのかを考えないようにすること、これこそが「歴史以後」の時代の資本主義が張り巡らしている大がかりな罠に違いないからだ。
 そんな中、2005年11月末から翌月にかけてDTWで上演されたミゲール・グティエレス(Miguel Gutierrez)のソロ作品『回顧展示する私 Retrospective Exhibitionist』は、やはり制度としてのダンスをパロディにしたパフォーマンスでありながら、状況を無責任に揶揄するだけの作品とは一線を画した射程の深さを感じさせるものだった。タイトルが既に示しているように、ここにあるのは明確な歴史意識に他ならない。それも何か客観的に確立された公式の歴史=物語を語ろうとするのでも、単なる「私」に自閉した個人史を開陳してみせるのでもなくて、「私」という個人がいかに社会的に構成されているかを系譜学的なパースペクティヴのもとに検証しようとする姿勢である(ちなみに exhibitionist という語には「自己顕示欲」や「露出狂」といった意味合いもある)。
 冒頭からいきなり全裸で登場し、鼻歌を��いながらヴィデオ映像の準備を始めるグティエレスは、まず自分が幼少の頃、女の子に混じって踊ったバレエの発表会や、クリスマス・パーティではしゃいでいるホーム・ヴィデオの映像を流した後、どこか屋外で開かれた公演の後に観客からの質問に答えている自分の声をごく正確に口でなぞってみせるなどして、自己の「ダンサー」としてのアイデンティティ形成を半ば自虐的に露出していく。さらにエイリー、パクストン、バウシュ、フォーサイス、そしてテリー・オコナ��やジョン・ジャスパースなどアメリカの振付家たち、果てはマドンナまでに至る、様々なダンスのごく短い断片を大量に連結し一気に踊り抜くという超絶技巧によって、自分の身体をダンス史が刺し貫いているさまを見せつけるのである。いかにも馬鹿馬鹿しい行為に過剰な労力を傾けるグティエレスのパフォーマンスは、滑稽でありながらも絶妙なテンポの緩急を保ち、観客の関心を最後までとらえて離さない。ダンスについての注釈を行う多くのパフォーマンスが、それ自体としては理知にのみ傾いてダンス的な(体感的な)魅力を放棄してしまうのに対して、この作品は文字通り「メタ・ダンス」とでもよぶべき、緻密な設計を施された傑作といえるだろう。
 さて全裸で仰向けにブリッジし、床に置いた蝋燭の火で尻をあぶられながら、グティエレスが裏声でケイト・ブッシュの歌マネをしている時、おもむろに客席後方から誰かが降りて来た。彼女は舞台の隅に散乱していた本の中から一冊を取って、グティエレスの尻を焦がしかけている蝋燭の下に敷く。蝋燭の位置は3センチほど高くなり、グティエレスを一層苦しめることになるのだが、筆者はその本にどこか見覚えがある気がした。遠くからでははっきりしないが、2002年から2004年にかけて開かれたトリシャ・ブラウンの回顧展のカタログに似ている。そしてふと、たった今舞台から客席に戻ろうとしている女性の顔を見ると、それが他でもないブラウン本人だったのだ。しかしグティエレスが無数の振付家のフレーズをつないで踊ってみせた時には、こちらが戸惑うほどの喝采で盛り上がった客席からは、何の反応も起きない。55th Street にスタジオを構えているブラウンが出てくることぐらい何の驚きもないというわけか、それとも単に誰も気づいていないのか。続いて何人かが入れ代わり立ち代わり本を積み重ね、グティエレスを苦しめていく。過剰な歴史の負荷が、過剰な情報の圧迫が、一人のダンサーの尻に火をつけようとしている。ブラウン以外には、どの本も人物も筆者には具体的に同定できるものではなかったのだが、ともかくこうして淡々とこの場面が過ぎ去って行ってしまうことに納得がいかなかった。(続く)
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『plan B 通信』(2007年4月号) ポストモダンダンスについてのノート(12)
 全裸で仰向けにブリッジしたミゲール・グティエレスの尻を、床上の蝋燭が焦がしかけている。突然、客席後方からトリシャ・ブラウンが現れ、自分の回顧展のカタログを蝋燭の下に挿入すると、文字通り具体的な「厚み」をもった「歴史」によって、グティエレスの尻に火が――。こんな馬鹿馬鹿しい戯画じみた光景に、DTWの客席はほとんど何の反応も見せなかった。トリシャ・ブラウンが登場するハプニングくらい驚くほどのことでもなかったのか、それとも誰も気づかないほどに唐突で場違いな登場だったのか。しかしとにかく筆者は、グティエレスのソロ作品『回顧展示する私 Retrospective Exhibitionist』が、NYで生きている一人のダンサーの「現在」を歴史的なものとして捉え直そうとしている点に強く惹かれた。とりわけ、今日あらゆるダンサーが多かれ少なかれ負っているはずのポストモダンダンスの遺産をはっきりと自己に関係づけ、自覚的に引き受けようとしているところに、素朴な意味でシニカルな他の多くのダンサーや振付家たちとは異なる知的強度を感じずにはいられなかったのだ。
 終演後、グティエレスにいくつか質問をしてみた。トリシャ・ブラウンが出てくれたことについては「夢が叶った!」と嬉しそうに語ってくれたが、ただしこの日は初日で、明日以降も来てくれるかどうかはわからないとのことだった。つまり完全に隠し玉なのだ。ダウンタウンのダンスは何だか「ダンス」のパロディばかりやっているように見えるけど、と意見をぶつけてみる。するとグティエレスは「確かにダンスに対してアイロニカルな、屈折した雰囲気がある。でもぼくは無気力なシニシズムに陥りたくはないんだ」とはっきり答えた。自分の身が置かれた「今ここ」に対して、直接的に同調したり反発してしまったりすることを回避し、歴史的文脈を呼び込みつつ「今ここ」への批評的な距離をこじ開ける。そうした手続きによらなければ、もはやいかなる方向に進む根拠も得られないだろう。彼の活動について深くは知らないが、筆者は『回顧展示する私』をこのような意識と姿勢の表明として受け取った。
 グティエレスのソロに続いて、実はもう一つ、彼が女性ダンサー三人に振り付けた『困難な身体 Difficult Bodies』が上演された。空々しく煌めくラメの衣装でユニゾンを踊った三人は、すぐに下着姿になり、衰弱して床に倒れ、のた打ち回りながら誰にともなく喚き声をあげ始める。ところがデスティニーズ・チャイルドの歌がかかると、彼女らはたちまちTシャツ一枚を身につけ、強引な作り笑いで観客に笑顔を送りながら再び踊り始めるのだ。産業化されたダンス、消費される身体を痛々しく見せつけるこの『困難な身体』は、『回顧展示する私』と見事に補完し合い、資本主義社会が作り出す「現在性」の見せかけ、すなわちスペクタクルの支配に対する鋭い批評的コメントとなっていたように思う。ギー・ドゥボールの言葉におきかえるなら、おそらくこうなるだろう。「衣服から歌手にいたるまで流行そのものが停止した現在の構築、過去を忘れようと欲し未来を信じるという印象ももはや与えない現在の構築は、情報の絶えざる循環的通過によって手に入れられたものである。こうした情報は、重要なニュースだと熱狂的に予告されはするが、結局はいつでも同じつまらぬことを連ねたごく簡単なリストにすぎず、実際にものごとを変化させることに関しては、真に重要なニュースは稀にしか、そしてごく断片的にしか、含まれていない」。「スペクタクル的な支配の第一の意図は、歴史的認識一般を消し去り、そしてまず何より、ごく最近の過去に関するほとんどすべての情報と、それに関する理に適った注釈のすべてを消し去ることであった。これほど明白な事実は、説明の必要すらないだろう、というわけである」。「歴史の終焉は、現在のあらゆる権力にとって、心地よい休息である」*1。
 これ以後、筆者はグティエレスに注目することになったのだが、彼の活動を追っていると、思いがけず短期間の内にポストモダンダンスにまつわる一定の状況が見えてきた。まず翌年(2006年)1月のデボラ・ヘイの新作『オー、オー O, O』に、出演者として彼が参加していた。ヘイは70年代に既にNYを離れているが、この作品ではダウンタウンで活躍する五人のダンサーを起用しており、その内の一人がグティエレスだったのである(他の四人は Jeanine Durning、Neil Greenberg、Juliette Mapp、Vicky Shick)。そして3月には、フランスのアラン・ビュファール(Alain Buffard)という振付家の作品で彼を見ることになった。そしてビュファールのことを調べてみると、どうやらヨーロッパでもポストモダンダンスの再評価がここしばらく続いているらしいことが見えてきた*2。そもそも筆者は日本で現在行われているコンテンポラリーダンスが60~70年代のアメリカのポストモダンダンスと非常に近い問題に取り組んでいるのではないかという見通しのもとにNYに来ていたのだが、このような錯綜した動向を現実につかんだことで、視界が大きく開けていくと同時に、日本のコンテンポラリーダンスをめぐる歴史的文脈の構築へと大きく近づいたような手応えを受けたのだった。(続く)
---------- *1 ギー・ドゥボール(木下誠訳)『スペクタクルの社会についての注解』、現代思潮新社、2000年(原著1988年)、25~27頁。
*2 具体的にはジェローム・ベル、グザヴィエ・ル・ロワ以降の「コンセプチュアルな振付」の流れであり、ジャーナリズムの用語では(多分に通俗的に)「ノン・ダンス」とよばれたりもしている。これについては改めてふれる。
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『plan B 通信』(2007年5月号) ポストモダンダンスについてのノート(13)
 日本で現在行われているダンスは、60年代以降のアメリカの「ポストモダンダンス」と多くのテーマを共有しているのではないか――こんな直観をもとにNYへ向かった筆者にとって、2006年1月にセント・マークス教会(ダンスペース・プロジェクト)で上演されたデボラ・ヘイの新作『オー、オー O, O』は、七ヶ月の滞在中、最も重要な舞台だったといえるかも知れない。きわめて方法論的なアプローチを取るポストモダンダンスの振付家たちにおいて、身体というものが具体的にどのように捉えられていたのか、少なくともその一端を非常に鮮やかな形で見ることができたからだ。
 いわゆる「ポストモダンダンス」の振付家たちは、自分たちが追求する身体やその動きのあり方を、「日常的な(daily)」「平凡な(ordinary)」「歩行者のような、街を歩いている人のような(pedestrian)」「見せ物的でない(non exhibitionistic)」などといった風に様々に語り、その探求の方法はもちろん多岐に渡った。一方の極はジョン・ケージ流の「自然状態」へのラディカルな撤退、あるいは作為なき「ありのまま」の身体に到達しようとする様々な実験。単なる「歩行」から、タスク・ムーヴメント(視覚的な形ではなく一定の課題の遂行によって生み出される動き)、あるいはゲームの形式を借りた作品構成などによって、ダンサーの身体から主体性を剥ぎ取ろうとする考え方はおそらくコンタクト・インプロヴィゼーションにその最も高度な達成をみるといえるだろう。他方、単にダンサーが観客の視線への意識を消去できればスペクタクル化を免れられる(真の民主化が成し遂げられる)というような考え方に対して、理論的にも実践的にも限界をみとめるイヴォンヌ・レイナーのような人は、より積極的な仕方でダンスをめぐる無数のイデオロギーに批評を加えるべく戦闘的な「反スペクタクル」の実践へと向かったのだった。
 しかしこうして語られるのはどれもまだ「方法」に過ぎない。そこから実際にどんな「結果」が得られたのかは別である。いやさらにいえば、例えばサリー・ベインズの周到極まりないドキュメントなども含め、「ポストモダンダンス」をめぐる言説の多くは「結果」としてのダンスや身体を仔細に記述することよりも「方法」を理論化することに傾きがちだが、それにより、かえって「方法」そのものからも細部が捨象され、極端に単純化された形で捉えられてしまっているかも知れない。スティーヴ・パクストンの『サティスファイン・ラヴァー Satisfyin Lover』は、本当に街中で見かけるような、ただの「歩行」を再現し得たのだろうか。一体どの程度の精度で? そしてその幾分かの不完全さは、ひたすら自然に歩行しようとする身体にどんなノイズを与え、そしてそれに対して歩行者の意識はどんな反応を見せ、それが再び身体の動きの質に何らかの影響を与えなかったかどうか? トリシャ・ブラウンの『ビルの外壁を歩いて降りる男 Man Walking Down the Side of a Building』を見ていた観客は、重力の向きと直角に交わる体勢を保って歩行しようとする男の体が一体どんな緊張に耐え、またいかにしてその尋常ならざる物理環境と対話し、バランスをつかんで、「踊る」ことに成功していたか、どうかを見つつ、自らの身体を奇妙なダンスの経験に浸していたのではないか。そして振付家やダンサーたちは、抽象的な観念やイメージばかりを弄んでいたのではなく、こうしたフィジカル(物理的=身体的)な凹凸のある現実の中でこそ思考し、戯れていたのではないか。
 前に書いたことの繰り返しになるが、「ジャドソンでは何でもダンスになった」「歩く、ものを食べる、楽器を鳴らす、とにかくそれをダンスと呼びさえすればダンスだということになった」といった類の紋切型のイメージに筆者は強い違和感と反発を感じていた。その最大の根拠が、実は、黒沢美香に他ならない。黒沢は80年代の前半にNYに長期滞在して大きな変節を遂げたのだというが、当時既にジャドソン・ダンス・シアターはおろかグランド・ユニオンも解散していたものの、黒沢はNYで見たジャドソン教会派の記録映像から多大な影響を受けたとしばしば語っている*1。とりわけたくさんのダンサーが不確定性のただ中に身を投げ出していくスリリングな黒沢企画「偶然の果実」のシリーズなどは、一見したところケージの精神からの直接の延長上にある���いえなくもない。しかし重要なのは、黒沢美香のダンスが決して無味乾燥な観念の遊戯などではなく、絶えず身体の感覚と意識に根差しながら、なおかつそれへの疑いを執拗に保ち続けるところに成り立っている点だろう。黒沢がただ無心にテーブルの脚を組み立て続けたり、延々と床の雑巾がけを行ったり、ノコギリで丸太を切断しようとしたりする時も、それが純然たる「行為」の単なる提示などであった試しはない。見る者の意識を緊張と弛緩の間で宙吊りにして、時には感覚をますます研ぎ澄ませ、自分から次々と小さな意味の点を見つけ出してはつないでいくよう仕向けたりもする、催眠術にも似た何か独特の作用、そこで一体何が起きているのかは、今ここでは詳しく語れないが、ともかく「何であろうとダンスとして見れば、ダンスだということになる。ルールはない」などといった皮相な事態でないことだけは確かなのだ。「雑巾がけ���は、限りなく平凡な「雑巾がけ」のままのようでいて、いつの間にか変質して未知の「ダンス」としての可能性を引き出されている。そこに、方法やアイディアなどには還元し尽くされない「技術」のようなものが介在しているに違いない。同じように、パクストンの『サティスファイン・ラヴァー』では「歩行」が、『状態 State』では「立っている」という行為の持続が、文字通りのそれとは異なる何か特殊な振幅をもったダンス的な運動として(意識的にであれ、結果的にであれ)組織され直していたのではないか。想像が膨らむ。しかしもしそうだったとしても、ヴィデオではやはり限界があるだろう。その場に居合わせ、肌で細部を感じるのでなければわからないだろう。
 デボラ・ヘイの新作は、これに応えてくれたのだった。会場に入るや否や、客席が四方を囲む舞台に散らばった五人が静かにゆっくりと手や体などを動かしている。ただそれだけで、座席を選ぶ間も自分の注意が知らず舞台の方に引っ張られてしまう。ダンサーたちが身体と空間を意識して立っていることで、そこに目では捉え切れない強力な磁場が生まれている。確かに見た目は「平凡」で「日常的」で「街の歩行者のような」動き、佇まいといえる。しかしそれが放つフィジカルな強度は全く違う。肌触り、圧、リズムの濃密さは、明らかに日常の生活や身体の中にあるそれではなかった。(続く)
---------- *1 これについては、例えば、黒沢美香「My Bible」(『トリシャ・ブラウン 思考というモーション』、ときの忘れもの、2006年、所収)を参照。
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『plan B 通信』(2007年6月号) ポストモダンダンスについてのノート(14)
 デボラ・ヘイは、ジャドソン・コンサートに最初期から関わっていたとはいえ、その位置はやや特殊であり、語られることの少ない存在かも知れない。確かに彼女の出発点としてはジャドソン時代が決定的だが、レイナーやブラウン、パクストンのようなコンセプチュアルな振付家というより、禅やヒッピー文化などといった60年代のカウンターカルチャーのイメージに近く、単線的なモダニズム(前衛)芸術の発展史にはなかなか馴染まない作家になった。そもそも身体的な「実感」を介して集団化を図る類のダンスに、少なくとも今日の我々はある種の警戒感を抱かざるを得ないし、また日本人としてはやはり、禅や太極拳やヨガ、あるいは孔子や老荘思想など「東洋」的なものに感化されたアメリカ人に抵抗を感じずにいるのは難しい、という事情もある。たとえ、日本人であるというだけで実際は禅にも仏教にもまるで疎かったとしても、「身体の神秘化」あるいは「オリエンタリズム」の一語で一刀両断にできてしまうかのように錯覚しがちだ。正直なところ筆者も例外ではなく、まず "The Cosmic Dance" などと題された、サリー・ベインズ『スニーカーを履いたテルプシコール』の中のヘイの項に目を通しただけで、ステレオタイプ的な了解を得て済ませてしまっていた。
 しかし実際にヘイの新作『オー、オー O, O』(2006年1月、ダンスペース・プロジェクト)に立ち会った時、そうしたつまらない先入観は一瞬で消えてしまった。そればかりか、これまで様々な言説によって形作られてきたジャドソン教会派や「ポストモダンダンス」なるもの(=コンセプチュアルな振付)のイメージもまた、実はかなり偏ったものなのではないかとさ���思えてきた。
 五人のダンサーたちが、会場中央の空間に散らばって立っている。身体と空間を意識し、その意識のフォーカスを、軸は保ちながらも漠然と宙に漂わせている感じである。それだけで体から圧倒的な強度がほとばしり出ていて、見ているこちらの体に影響をおよぼしてくる。よくジャドソンについていわれるような「踊らないで、ただ立っているだけ」などといったものでは全然ない。語弊を恐れずにあえていえば、「舞踏」のように、集中度が高いのである。こんな体がアメリカのダンスにあるとは、恥ずかしながら想像すらしなかった。表層的なモダニズムの様式史を前提とした眼差し、あるいは記述言語では、この強度を捉え切ることは全く不可能だろうし、写真どころかヴィデオも大した役には立たないだろう。そこに自分の体をおき、踊り手の体との間に関係を張り渡すことによってしか知覚できない「質」、そういうものがデボラ・ヘイのダンスには強烈にあった。
 作品としては、予め構成と展開が決められてあり、然るべきところで特定のダンサーがキューを出すことにより状況が推移していくタイプのものだ。マスゲームのように隊列を何度も組み替える、舞台の周囲を行進しながらセリフを発する、そこから徐々に手を打ち鳴らしつつ歌へ移行する、あるいは中央にぎっしりと集まって互いに全く異質な振りを踊り続けたりする、などといった単純なシークエンスが、余計な演出効果を排したフラットな空間の中で切れ目なく緩やかに移ろっていく。しかし何といっても、個々の場面より、場面から場面へと移行していく過程が充実している。客観的なきっかけやカウントなどに寄りかからず、ダンサー同士が呼吸で意思をすり合わせて即興的に動く。軽やかに流動する混沌の中で、周囲の気配を見つつ、そっと流れに異物を挿し込んで方向を変える。微かな変化に誰かが反応する。間合いを測りながら合流して行くと、次第に他も同調し始める…。誰しも日常の中で経験している通り、こうして無言のままで「ともに」動くためには互いにチャンネルを合わせる必要がある。しかしチャンネルが合うことより、合わせていく過程におこるブレ、駆け引きを楽しむことをこそ、ヘイは大事にしているように思えた。相手の動きを読み、自らを相手に読ませる情報戦をかいくぐって、一人一人が異なった立ち位置から空間内に一つの、あるいは複数の焦点を生み出しては、また拡散していく。そこには不確かな「意味」の生成と、その束の間の構造化と、繊細な修辞を駆使したスリリングな交渉がある。こうした生きて流れ続ける言語とでもいうべきものを、ヘイは見事に立ち上げる。柔軟かつ鋭敏に動き回るダンサーたちにつられて、見ている方も感覚のアンテナがどんどん研ぎ澄まされていく。
 筆者にとってこの経験は大きかった。例えばジル・ジョンストンが、ヘイの60年代の作品(どちらかというとミニマルな構造が強調された)について、「ある意味では、作品は無味乾燥としているが、しかし別の意味では、多様性に満ち満ちている。例えば、いかに、一見同じことをしている五人の身体があらゆる側面���おいて無限に異なって見えてくるか、ということだ」*1などと書く時、こうした言葉はいかにも理屈っぽく、表層的なものに響くかも知れない。五人が正確に同じことをやれば一人一人の体の差異が浮彫りになる。当然だろう。しかし同時に彼女が、「コンセプトに由来する知的な快楽は、平凡なものの開示(revelations of the ordinary)に巻き込まれることから得られる肉体的な快楽によって補完される」*2とも書き添えていることに注目したい。単に知的に了解されるコンセプトには回収されない、「肉体的な快楽(physical pleasure)」、これは人々がジャドソンや「ポストモダンダンス」を語る時に最も蔑ろにしがちな部分ではないだろうか。しかしジョンストンは確かにそれを知覚していて、その上で先のような分析を加えているのだ。少なくとも筆者は、自分自身の体でヘイを「経験」するまで、このことを確信することができなかった。そして今となっては、ジョンストンの一見理屈っぽい、表層的にも思える文章も少し違った風に読める。彼女が「実際に」何を見て、何を書こうとしたのかが行間に読み取れる気がするからだ。(続く)
---------- *1 Jill Johnston, Marmalade Me, E.P.Dutton, 1971, p.141.
*2 Ibid., pp.140-141.
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『plan B 通信』(2007年7月号) ポストモダンダンスについてのノート(15)
 デボラ・ヘイの『オー、オー(O, O)』(2006年1月、ダンスペース・プロジェクト)からしばらく経ち、たまたま知人とそのことを話す機会があった。彼はNY近郊の大学でダンスを教えたりもしている人だが、ここ最近で何が面白かったかと聞くので、デボラ・ヘイが凄かったと答えると、「えっ…でも、古臭くない?要はコンタクトインプロみたいなもんでしょ」と返事が返って来た。虚を突かれると同時に、少し嬉しくもなってしまった。なぜなら彼もまた、あのダンサーたちの繊細にして濃密な絡み合いを、(コンタクトインプロと同じかどうかはともかく)少なくともジョンストンのいう「肉体的な快楽」、あるいは体と体の間に生まれるエロティックな強度として受け取っていることは確かだったからだ。その上で「古臭い」といっている。ちょっとしたカルチャーショックだった。あるいはむしろ、アメリカのダンスといえば総じて大味で、視覚的なスペクタクルしかないというステレオタイプが覆されたというべきか。ヘイのように、体の内側を深く潜り抜けながら外部と関わろうとするダンスが全く無視されているわけではなかったのだ。
 とはいえ、体の微細な動きや呼吸の表情の変化などに対するこの種の感受性もまた、ドン・マクドナーによれば、ジャドソンによってもたらされた革新の一つだったようである。ジャドソン教会派が出現した当時、「踊り手から自分たち目がけて浴びせかけられるような、ダンスのエネルギーの力強い流れに馴染んでしまっている観客にとっては、一人の男が椅子に座って何か細々したことをしているのを“ダンス”などとよぶのは理解しがたいことだった」。しかしその「細々した」ダンスにおいては、「物理的な静けさというものが、通常なら見過ごされてしまいがちな細部に注意を向けさせる」ことになった*1。
 ヘイは、稽古において「体中の細胞の一つずつが各々の意志で動くのを想像する」という方法を好んでいる*2。これにより「ダンサーは単一のまとまりのある存在��という神話――西洋のダンストレーニングにおける基礎的要素の一つ――の圧制を解除する」のだという*3。つまり身体を、同一性を旨とする古典的な「人間」像から離脱させ、無数の細胞の集積として考えるのである。そして自分の体からフィードバックを受け取り、その為すがままにさせてみる。ヘイが「私の先生は、私の体だ」という所以である*4。ワークショップを受けたダニエル・ゴールドマンは、「心理的なことに捉われていたり、ダンスが、誰かとともに踊ろうとする「個人(individuals=分割不能なもの)」に関わっていたりする時にはしばしば起こるような、自己と他者の間の大きな溝が、細胞の稽古をすることで変わっていく」と語っている*5。『オー、オー』のダンサーたちのあの集中度、そして身体間に走る情報の濃密さは、まさにヘイが長年かけて編み出してきた独自のメソッドによるものなのだ。
 いわゆるモダニズム的な芸術の発展史においては、ジャドソン教会派の実践は既存の体制への「アンチ」の側面ばかりが強調されがちになる。しかしそうした見方は、例えば「日常の身振り」が80年代のヨーロッパのダンスによってスペクタクルに再び統合され、瞬く間に消費されてしまった(初期のローザスなど)後から過去を振り返り、現在までの歴史を無矛盾的に表象するような勝利者史観に陥る危険と裏腹でもある。つまりジャドソンは「日常の身振り」という新しい語彙によって単なる表現語彙の量的拡大に貢献したのだと解釈してしまえば、彼ら彼女らが企図した根本的な反スペクタクルの「革命」的な問題意識をすっかり埋葬してしまうことになる。むしろ、そうではなく、日常生活とあくまで連続した身体の「細々とした」ダンスが生み出す、いわば細部の強度とその政治的なポテンシャルこそ、ジャドソン教会派が発見しつつあったものなのではないか。昨年12月、日本の舞踊学会で「ポストモダンダンス特集」が組まれた際、シンポジウムの席上で厚木凡人氏が「パクストンは巧かった。ただ歩いて来るだけで、最高のグラン・パ・ド・ドゥみたいだった」と証言するのを聞いた時、筆者はやはりそうかと思った。パクストンはダンスを否定するために「歩く」というパフォーマンスをしたのではない。「歩く」ということの中に新しいダンスの可能性を見たのだ。おそらくジャドソンを取り巻く皮相な「アンチ・ダンス」の言説を引き剥がし、理論に基づく否定神学的な革新(一過性のダダイズム)ではなく、繊細な身体的経験の探求としてジャドソン教会派を捉え直せば、現在の日本のダンスに通じるアクチュアリティもますます見えてくるように思える。(続く)
---------- *1 Don McDonagh, The Rise and Fall and Rise of Modern Dance, Revised Ed., a capella books, 1990(1970), pp.205-206. マクドナー自身も、こうした感受性を「東洋」的なもののイメージと結び付けている。禅とハイデガーなどを結びつけて「もの」や「存在」の観照を語る傾向はサリー・ベインズのジャドソン解釈にも見られるが、オリエンタリズム/神秘化と一蹴してしまう前に、そこで語られていることの実質を読もうとすることも時には必要だろう。
*2 ヘイがイメージする細胞の総数は最新の科学データに基づいて絶えず更新されている��1970年には500万個だったが、今では1000兆個といわれている(cf. Susan Leigh Foster, "Foreword" in: Deborah Hay, My Body, the Buddhist, Wesleyan U.P., 2000, p.xii. Danielle Goldman, "Deborah Hay's O, O" in: The Drama Review, 51:2, Summer 2007, p.164.)。抽象的に「無限」といわず、あくまで具体的な数を確保しようとするヘイの努力は、身体イメージの制度性に常に自覚的であろうという姿勢を表している。
*3 Deborah Hay, "Performance as Practice," http://www.deborahhay.com/Performance%20as%20Practice.html
*4 Hay, My Body, the Buddhist, p.xxiii.
*5 Goldman, Ibid., interview with Hay, p.162.
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『plan B 通信』(2007年9月号) ポストモダンダンスについてのノート(16)
 デボラ・ヘイの作品に出演していたミゲール・グティエレスは、DTWで見た彼のソロ『回顧展示する私(Retrospective Exhibitionist)』*1でのあのハイテンションな奇人変人ぶりとはまるで違っていた。空気をじっくりと噛み締めながら、身体と身体のもろい繋がりを壊さないように、関係の網の目を繊細に渡り歩いていく。スタジオで彼のクラスを取っているという人たちも意外そうな顔をしていたが、ともかくこうして、トリシャ・ブラウンが突然乱入(?)してきた『回顧展示する私』に続き、グティエレスの仕事は再び「ポストモダンダンス」との接点をもったことになる。
 そしてさらにこの二ヵ月後、今度はアラン・ビュファール(Alain Buffard)というフランスの振付家の作品『Mauvais Genre』で彼を見ることになった(2006年3月30日~4月2日、ダンスペース・プロジェクト。作品初演は2003年)。出演者はビュファール本人と、ジョン・ジャスパースやDD・ドーヴィリエ、そしてグティエレスなどを含む十数人で、ヘイの時と同じく地元のダンサーが顔を揃えたため話題になっていたが、それよりも筆者の興味をひいたのはビュファールの経歴だった。パンフレットによると、彼は1996年、イヴォンヌ・レイナーが69年に初演して後のグランド・ユニオンの出発点ともなった『継続的な作業――日々改変されつつ(Continuous Project - Altered Daily)』を蘇演し(update)*2、また奨学金を得てアンナ・ハルプリンと仕事をする機会にも恵まれ、また最近ハルプリンを中心に据えた映画『アンナとの昼食(My Lunch with Anna)』を完成させたばかりだというのである。フランスのヌーヴェルダンスが初期の段階でマース・カニンガムから影響を受けたことはよく知られているが、ポストモダンダンスが今日ヨーロッパでこのような受容をされていることは恥ずかしながら知らなかった。
 『Mauvais Genre』(仏語で「悪しき品行」ないし「悪い種」の意)は、蛍光灯に照らされた裸の男女がズラッと並んで現れ、白いパンツを何枚も重ね穿きして身動きが取れなくなったり、何かの薬品の箱を大量にぶちまけたり、チームに分かれて互いの体をぶつけ合いながら即興的に動くといった内容で、正直なところ、毎週のようにDTWやダンスペースでこの種のパフォーマンスに食傷している身にとっては、何か特異なものとして受け止めることは難しかった。とはいえ、ダンス以前の身体を即物的に投げ出してみせようとしているところに、ハルプリンと通じ合うものがないともいえない。
 『ヴィレッジ・ヴォイス』のデボラ・ジョウィットによる公演評は、流石に長年のキャリアのなせる業というべきか、冒頭からハルプリンの『行列と変化(Parades and Changes)』のNY公演(65年)の記憶から説き起こしつつ、『Mauvais Genre』をこの作品へのオマージュと解釈していて興味深い*3。『行列と変化』には、出演者が服を脱いで全裸になってはまた服を着て、再び脱ぐといった行為を反復する場面があり、これが(ハルプリンの地元サンフランシスコでは穏当に受け入れられたのに対し)当時のNYでは大スキャンダルとなったことはしばしば語られる通りだが、ビュファールの作品でも裸体が中心的なテーマになっていることは明らかだ。さらに『行列と変化』の中の、ダンサーたちが床に敷かれた大きな茶色の紙を体に巻きつけて自らを動くオブジェのようにしてしまう場面が、『Mauvais Genre』では足の裏にテープで瘤を括りつけたり、下着で頭をぐるぐる巻きにして巨大なボールにしながらバレエを踊ろうと試みる場面などで反復されている、とジョウィットは指摘する*4。
 では、両者の身体観の差異はどこにあるのか。「ハルプリンは人間の身体を、健康的で美しいもの、見るに値するものであり、それが何らかの理想的なイメージに適合しているかどうかは関係ないのだ、ということを訴えようとした。しかしビュファールは、エイズの流行をみた後のこの時代、そして人々がますます高齢化しているこの時代に、人間の身体のはかなさ、脆弱さをも表現しようとしている」*5。すなわち、ハルプリンにおける裸体が60年代の西海岸における楽天的な自然賛美の象徴だったとすれば、ビュファールにおける裸体はあくまでも人為的な操作と変形を受け容れざるを得ない客体としての側面が強調されているのである。ジョウィットのいうように作品中に現れる大量の薬品箱が抗HIV薬の「レトロビル」であることまでは気づかなかったが、ダンサーたちが前後左右に向きを変えながら静止し、全身を四方から隈なく見せる冒頭場面は確かに「病院の検査室(あるいは刑務所の面通し)」を思わせるし、蛍光灯の冷たい光と清潔な白い下着は近代医学の眼差しのもとに捉えられた身体のイメージを一貫して醸し出している。それゆえダンサーたちが肌と肌で接触しながら戯れる場面も、まるで「ウィルス感染の原因となる性行為を抽象化」したもののように見えてくる、というわけである*6。
 『Mauvais Genre』が、作品としてどこまで成功しているかはさておくとしよう。しかしハルプリンとの参照関係に置くことでこの約40年という時間が可視化されるのだとしたら、この舞台はわれわれの「今ここ」なるものの歴史性を切り開いてみせようとしているのだということはできるだろう。つまりビュファールは、「ポストモダンダンス」が開いた可能性にアクチュアリティを認めつつ、その批評的な乗り越えを自らの課題と捉えているのに違いない。60年代には、身体はひたすら無限に生成発展していく無垢なヴィタリスム的自然として肯定されることができた。しかしそのようにして開かれた身体表現という領域が同時にどのような問題系を俎上に乗せることになったのかは、40年後の今になってようやく語られ得るのかも知れない。人間の身体が、科学的・社会的な言説によって隅々まで浸透され、生と死が観念的に分節化され、表象(イメージ)と実在(リアリティ)が複雑に絡み合う、一つの生政治的な力学の空間であることは、今日ますます逼迫した事実として現れてきている。おそらくはそうした状況への応答として、アメリカでもフランスでも、今まさにポストモダンダンスに新しい照明があてられつつあるのではないだろうか。(続く)
---------- *1 ダンサーとしてのグティエレス自身のアイデンティティ、彼の生きる「今ここ」が、ダンスの歴史=制度によって刺し貫かれているさまを演じてみせる「自伝」的パフォーマンス。本連載(11)・(12)を参照。
*2 後でわかったことだが、これは誤解を招く記述で、『継続的な作業』の蘇演はビュファール単独の企画ではない。これについては改めてふれる。
*3 Deborah Jowitt, Brave Bodies: Visiting choreographer shows us dancers we know in a new and loving light, in: Village Voice, April 6th, 2006. http://www.villagevoice.com/dance/0615,jowitt,72772,14.html
*4 『行列と変化』は記録映像が残っており、内容はほぼ確認できる。
*5 Jowitt, Ibid.
*6 Ibid.
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『plan B 通信』(2007年10月号) ポストモダンダンスについてのノート(17)
 90年代以降のヨーロッパ、とりわけフランスにおけるジャドソンの再評価について少し調べてみると、前回ふれた、アラン・ビュファールが関わったというレイナー『継続的な作業――日々改変されつつ(Continuous Project - Altered Daily)』の蘇演(1996年)がどうやら一つの重要な契機と見なされているらしいことがわかった。
 R・バートによれば、この『継続的な作業』、およびパクストンの『サティスファイン・ラヴァー』の復元上演は、フランスに拠点をおくアルブレヒト・クヌスト・カルテット(Quatuor Albrecht Knust)によって、アヴィニョン、モントリオール、ストックホルムで行われた*1。この四人組はほかにも20世紀の重要な作品の復元をいくつか行っているのだが、『継続的な作業』の出演者として招かれたダンサーたちの中に、ビュファール、グザヴィエ・ル・ロワ、エマニュエル・ユインなどが含まれていたのである。またこれをきっかけに、ジェローム・ベルやボリス・シャルマッツなどが、レイナーやパクストンと盛んに交流するようにもなったという。
 D・フレタールは、2004年の著書『コンテンポラリーダンス――ダンスとノン・ダンス、25年の歴史』の冒頭で興味深い比較を行っている*2。すなわちジャン=クロード・ガロッタの『ユリシーズ(Ulysse)』(81年)と、ジェローム・ベルの『ジェローム・ベル(Jerome Bel)』(95年)の間に大きな転換を見るのである。ガロッタは、この作品でマース・カニンガム的な抽象から離れ、またネオクラシック流のナラティヴや、アメリカ風のミニマリズムにも別れを告げて、「普通の人々の日々の叙事詩」を語る全く新しい世界を切り開いた。しかしその十数年後、ベルは、いかなる象徴的要素も排除し、自らの名前を表題にもった奇妙な自伝風の作品を作り出す。出演者たちは全裸で、自分の肉をつかんで観察し、個々人の身体的特徴をボードに書き出していくのである。フレタールによれば、この作品によっていわゆる「ノン・ダンス」の流れが始まった。それはあらゆるダンスの構成要素をゼロに戻す試みであり、その意味でまさにジャドソン教会派は、彼ら彼女らにとっての歴史上の「参照項」「イコン」といえるだろう*3。とはいえ、バートにしたがうなら、90年代半ばのヨーロッパでジャドソンがよく知られていたわけではなく、どちらかといえばジャドソンは後から��発見され、徐々に両者をつなぐ文脈が形作られていったようである*4。
 『未完結の自己(Self Unfinished)』(98年初演)などで知られるル・ロワは、ビュファールと並んで、ジャドソンやポストモダンダンスに頻繁に言及している振付家の一人である。彼は63年生まれで、94年に作品を発表し始めているが、『継続的な作業』の復元上演に参加した経験から非常に強い影響を受けているという。「例えば、ダンスという行為は身体や創作過程、そして構成の方法を問い直すのだということ、そしてそれが社会的、政治的な問いや、批評的(批判的)なものの見方に結びつくのだということ。例えば、作業の過程においてであれ上演そのものにおいてであれ、個人の責任や集団の意識が権力やヒエラルキーを超えるのだということ」*5。『継続的な作業』は、振付家とダンサーの間の権力関係、あらかじめ振り付けられた作品とその反復上演などといった因習を疑問視し、特定の中心をもたない集団の即興や、前もって設定されたアルゴリズムによってその都度リアルタイムに生成されるパフォーマンスのあり方を提示したという意味で、ジャドソン教会派の一連の実験の集大成であると同時に、70年代のグランド・ユニオンの出発点ともなった作品だが、こうしてダンスに孕まれる様々な問いに目を開かれたル・ロワは、パフォーマンスの上演を何か完成された「作品」としてではなく、一つの「プロセス」として考える視点を獲得したと語っている。すなわち��らかの具体的な社会的・政治的な現実のただ中においてパフォーマンスは作り出され、そのパフォーマンスがまた社会的・政治的な現実の一部として送り返される。あるいは、個人の身体はある特定の環境の中に生れ落ちているが、同時に、環境の方こそが行為者の身体の延長ともいえる。『未完結の自己』は、奇怪な姿勢やポーズを連続して作り出すことによって、観客がもっている人間の身体のイメージ、というよりむしろ視覚上のゲシュタルト(形)を崩壊させ、「意味」の絶え間ない流動化(=未完結、宙吊り状態)を引き起こすソロ作品である。「人間」の体を、人間ならざる「何か」へと見事にズラしてみせるこの想像力は、大学で分子生物学を専攻したル・ロワならではといえるのかも知れない。
 ル・ロワはギイ・ドゥボールを引用しながら、なぜ学問を離れてダンスに専念するようになったかを説明している。実験室では、成果を証明し、論文として出版するための労働に大半の時間が費やされてしまい、研究は権力や「政治」に振り回され、人間の身体を深く知ることにはほとんどつながらない。ドゥボールのいうように、そこでは産業の論理が支配しているのであり、科学は世界をよりよく知り、改善することではなく、既に起きてしまったことを正当化するための手続きなのだ。だから、考えることを止め、むしろいかにスペクタクルの言説に通暁し、馴れ親しんでいるかが評価の基準となる。こうして彼は科学からダンスへと「逃走」した。「考えることから、肉体的に経験することへ。私の体は行動的かつ生産的なものになり、客体にして主体となり、分析者にして分析対象、生産物にして生産者、となったのだ」*6。自らの身体を提示し、動くということが、具体的な状況に内在しながら、そこに変化をもたらすことになるという意識において、政治と生物学とダンスが結びつく。「いかなる身体イメージも、生産と変容の絶え間ないプロセスにほかならない」以上、身体表現はそこに批判的に介入することができるだろう。ここには、フレタールがいうような既存の「ダンス」の否定としての「ノン・ダンス」という印象は薄い。むしろダンスの歴史との接続を通じて、60年代アメリカの前衛がもっていた社会変革の精神を積極的に受け継ごうとするものだろう。そしてこうしたジャドソン/ポストモダンダンス再評価の動きが、現在も活動している当のレイナーやパクストン、ハルプリン、デボラ・ヘイなどといった人々に、再び刺激を与え始めているようなのである。(続く)
---------- *1 Ramsay Burt, Judson Dance Theater: Performative Traces, Routledge, 2006, p.186. これ以後も各地で上演されている。
*2 Dominique Fretard, Danse contemporaine: Danse et non-Danse, vingt-cinq ans d'histoires, Edition Cercle d'art, 2004, pp.9-12.
*3 Ibid., p.93.
*4 Burt, Ibid., p.195. なお2002年には、サリー・ベインズの Terpsichore in Sneakers の仏語訳が出ている。
*5 Xavier Le Roy, "Un prodotto delle circostanze," in: Silvia Fanti/Xing, Corpo sottile: Uno sguardo sulla nuova coreografia europea, Ubulibri, 2003, p.78.
*6 Ibid., p.75.
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『plan B 通信』(2007年11月号) ポストモダンダンスについてのノート(18)
 去る10月7日、世田谷パブリックシアターで、トゥールーズ振付開発センターのディレクター、アニー・ボジニ(Annie Bozzini)氏が「コンテンポラリーダンスの源を探る――ポスト・モダンダンスの流れから」と題するレクチャーを行った。ちょうど本連載でもフランスでのポストモダンダンス再評価の動向を扱っているところで、これはタイムリーだと思ったのだが、フタを開けてみると意外な内容だった。ボジニ氏のレクチャーは、ヨーロッパにおけるポストモダンダンスの受容についてではなく、レイナーの『トリオA』の解説と、実際に振付の一部をさらう簡単なワークショップで構成されていたのである。解説自体は、サリー・ベインズおよびレイナーのテクストに基づく「正統的」なもので、広く流布しているレイナー本人による映像記録(78年)を流しながら、手際よく要点が押さえられていたが、フランスの国立機関のディレクターが60年代アメリカのダンスを2007年の日本で紹介している、ということの奇妙さに当惑したのは筆者ひとりではなかったろう。どのような意味でこれが「コンテンポラリーダンスの源」なのか、フランスではどんな文脈でポストモダンダンスが再評価されているのか――楽屋まで押しかけて聞いてみたが、はっきりした答えは返って来ない。ベルや、ビュファール、ル・ロワのような、熱烈なポストモダンダンス支持派の作家たちに直接聞いてみてほしいといって、ボジニ氏は彼らのメールアドレスを後日送ってくれた(そのメールでのインタヴューをここに載せられればよかったが、今回は間に合わなかった)。
 しかしこのことは、むしろ積極的に受け取ってみたいと思う。つまりヨーロッパのコンセプチュアルな振付家たちの作業は今まさに進行中であり、明解に定式化できる段階ではないのだ、と。たとえ一つのムードのようなものなのかも知れないとしても、彼らが60年代アメリカを参照しながら「ポストモダン」的な批評性をダンスに持ち込み、身体を通じて現在の世界の状況に応答しようとしている事実は確かなのだ。
 イギリスのパフォーマンス研究者、ラムゼイ・バートは、06年の著作『ジャドソン・ダンス・シアター――パフォーマティヴな軌跡』の中で、ジャドソンをめぐる昨今のアメリカとヨーロッパの状況に一章を割いている。バートの議論が興味深いのは、ジャドソンをめぐる多様な言説や実践の中に、アメリカと、特にフランスという場所の地政学を読み込んでいる点だろう。彼によれば、アメリカではジャドソンは偉大な「正典(canon)」として祭り上げられる傾向にあるのに対し、ヨーロッパではそれはさらなる生産や変形へと開かれた「アーカイヴ(archive)」として使用される*1。そしてこの図式は、冷戦崩壊後のアメリカ新保守主義や新自由主義をめぐる闘争と密接に関わっているのではないか、というのである。
 アメリカでは、ジャドソン派の復元上演はしばしば行われているが、中でも2000年にミハイル・バリシニコフが企画した「PASTForward」は規模が大きく、注目を集めた。レイナー、パクストン、ゴードン、ブラウン、フォルティ、D・ヘイ、チャイルズの諸作と、いくつかの新作も上演されたのだが、各作品の冒頭には、舞台奥に振付家の名前が大写しにされ、バリシニコフのナレーションのついた短いドキュメンタリー映像が流れる。記録写真やフィルム、インタヴューからなるそれは、まるで伝説のスターを迎える華やかな儀式のようで、ジャドソンの精神からは最も遠いものといえるだろう(筆者は01年のNY公演の記録映像を見た。会場は Brooklyn Academy of Music の大劇場である)。バートはいう、「仮に人々がジャドソンを一つの正典とは見なしていなかったとしても、「PASTForward」は、そうすべきである、と示唆した」(p.191)。
 パリの劇場MC93(ボビニー)では、たまたまパクストンの『フラット Flat』を踊るバリシニコフと、パクストン自身によるそれを見比べる機会があったという。この作品は、ゆっくりと椅子の周囲を回って歩きながら、服や靴を脱いでいく中に、唐突かつ不規則な静止が挿入されて、時間の自然な流れを寸断してみせるソロだが、バリシニコフの踊り方は、バートによれば80年代のパクストンのそれに近く、上演時間は11分だった。しかし他方のパクストンは、この時、倍以上の25分をかけて踊った。その「特異な集中度」こそは80年代末以降の彼の特徴で、パクストンのあらゆる動きは「ますます小さな断片へと分割されており、それぞれが解析され、ごく精密な細部に富み」、それゆえ「突然の鋭い停止は、ますます予測不能で、しかも長々としたものになっている」(p.192)。おそらくバリシニコフにとって、ジャドソンとは今もバレエに対するアンチテーゼであり続けており(または、そのようなものでしかなく)、だからこそ60年代の革命的な作品を、時間を超えた不変の「正典」、ないし「古典」と見なすことができる。ところがパクストンにおいては、身体の革命は現在も進行中であり、作品もまた止まることなく変容し、深化し続けているのである。
 言説の上でも、ジャドソンを「もはや何もかもがダンスになり得る」という究極的な事態の到来、すなわちダンス史の終点と見なし、それをヘーゲル流の「芸術の終焉」に重ね合わせるノエル・キャロルのような見解がある*2。実は、これは美術の文脈においてポップアートをめぐるアーサー・ダントの90年代の議論をそのままなぞったものなのだが、バートの議論にしたがえば、いずれにせよ冷戦以後のアメリカでこうした主張が現われてくるのは、F・フクヤマに代表される自由民主主義の保守反動的な勝利者史観と完全に軌を一��している。制限なき「自由」がついに勝利し、歴史の発展は終わった、とする観念が、むしろ一定の権力構造を覆し難くし、様々な抑圧や不平等を隠蔽するイデオロギーとして作用してしまったのと同様に、60年代の政治的・社会的状況の中での絶えざる闘争プロセスとしてのジャドソンを完成された「古典」として美学化することもまた、それ自体への裏切りとなる。
 これに対し、ベルやル・ロワなどヨーロッパの振付家たちの姿勢は異なっている。彼らにとってジャドソンはあくまでも「周縁的かつ破壊的」なものなのであり、70~80年代のヨーロッパのダンスの因習を「撹乱し、転覆しようとする彼らの企図にとって有効な」参照項なのである(p.195)。ジャドソンと彼らの関係を、バートは、アメリカ独立革命とフランス革命のそれになぞらえている。(続く)
---------- *1 Ramsay Burt, Judson Dance Theater: Performative Traces, Routledge, 2006, p.188.
*2 Noel Carroll, The Philosophy of Art History, Dance, and the 1960s, in: Sally Banes ed., Reinventing Dance in the 1960s: Everything was Possible, The University of Wisconsin Press, 2003.
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『plan B 通信』(2007年12月号) ポストモダンダンスについてのノート(19)
 約一年半にわたって、ジャドソン教会派とその後の展開を、60年代から現在へ、そしてNYからヨーロッパへとたどってきたこの連載は、今回で一応の区切りを迎える。そもそもの狙いは、「ポストモダンダンス」と日本のコンテンポラリーダンスの近さを念頭に置きつつ、筆者にとっての「今ここ」を分析する切り口を得たい、というところにあった。最後にこの点にふれて、とりあえずのまとめにしようと思う。
 第一回で筆者は、ジャドソン教会派およびポストモダンダンスが「ダンスをエリート主義的な芸術の枠組から解放し、人々の日常生活との新しい関係の中に置こうとした」ことと関連させながら、近年の日本のコンテンポラリーダンスを「特定のディシプリンによって鍛え上げられた身体から、誰もがそれぞれに所有している「日常の身体」へ、そしてスペクタクル(視覚性)の芸術から、身体と身体の関係の芸術へ」という形で定義してみた。「自然な」動きや「日常的な」身体、タスク・ムーヴメント、ゲーム構造による「振付」、コンタクト・インプロヴィゼーション(CI)などといったポストモダンダンス的なアイディアが、(奇妙にも)現在の日本のダンスの中に再び現れていることは明らかな事実だ。ではなぜ、あたかも60年代のアメリカから00年代の日本へと螺旋を描くようにして「反スペクタクル」は回帰しているのか。これをどう解釈すればいいのか。
 確かに、ジャドソン教会派は、超越的な権力やスペクタクルを批判し、ダンスをそれまでのエリート主義的なモダンダンスから解放して、人々の日常の身体に取り返そうとした。しかしながら、後にこうした実践がいとも簡単に「反スペクタクル」という名のスペクタクルへと回収されてしまったように、それ自体の中に根本的な矛盾を含んでもいた。つまりジャドソンの脱エリート主義は、まぎれもない知的エリートたちによる前衛的身振りだったのである*1。いいかえれば彼ら彼女らは、生活からもスペクタクルからも隔たった前衛芸術という「外部」に超然と立ちながら、それを攻撃することができた。
 これに対し、00年代の日本のダンスは、いかにジャドソンに似ていようとも、ジャドソンのような前衛的な思想性を欠いているようにみえる。例えば、日本のダンスにおける「日常の身体」の発見は、必ずしもスペクタクルへの反抗として熱烈に主張されたのではなかった。むしろ、冷戦以後のポストコロニアリズムや、90年代後半以降の不況の長期化、そして95年の地下鉄サリン事件や震災に象徴される、セキュリティ意識と公共圏の変容、こうした一連の社会状況の変化の中で、能動的な異議申し立てというよりも受動的な症候として、小さな日常の身体が注目されるに至ったというのが実情で���るだろう*2。つまりダンスはもはや、状況の「外部」に立ってもいなければ、「外部」へ向かって突き抜けようともしていない。しかしそれは、逆にいえば、単純な意味での「内部」へと意識的に撤退する(引きこもる)ということとも違うのではないか。
 つまり、ジャドソンの時代からはるかに遠く進行したグローバル資本主義と、メディア環境とによって、もはや内部と外部、日常とスペクタクルの関係は、容易に区別できないほど絡まり合い、溶け合ってしまっているのである。生の隅々まで浸透した資本の流動の中で、身体は不断に生政治的な力学に貫かれている。したがって日本のコンテンポラリーダンスの身体は、きわめて個人的な領域に閉じているようにみえながら、同時に、社会へとさらされ、他の身体と直に連続した一つのネットワーク(網状組織)と考えられるべきなのだ*3。
 ジャドソンがスペクタクルを攻撃する基盤は、ヒューマニズムだった*4。彼ら彼女らにとって、日常の身体とは「人間」であり、イメージや記号ではない自然な生の「現実」だった。そこでは、映像と混じり合って見分けのつかなくなった身体や、特定の信号への動物的な反応のみで生きる身体、複数のアイデンティティを重層させて生きる身体、売買(交換)可能な諸部分からなる身体などは、想像されなかった。しかし今やこうして、スペクタクル(資本)と身体は互いに融合することによって生きている。ならば身体の運動は、個人や人間のスケールを超えた、様々な力の線によって分析することが可能であり、また必要でもあるだろう。そしてこのことは、とりもなおさず、小さな個人の身体のスケールから大きな資本や政治の力学と向き合うという、新たな可能性を示唆してもいるのである。
 00年代の日本のダンスは、スペクタクルを拒絶して身体の疎外を回復するといったことにもはや意味を見出すことはできないだろう。そうではなく、資本と身体とが一元化された平面に内在しながら、どれだけ動くことができるかなのだ。アントニオ・ネグリが、フーコーを踏まえながらいうように、「資本のもとへの社会の実質的包摂」は不可避的に「自由の生起と増殖」「主体性の生産」を含み込む。逆説的にも、「資本が生全体を覆い尽くすようになるとき、生は抵抗となって現れる」*5。したがって問題はもはや矛盾の「超克」ではなく、「現存するものごとの状態を変容させる能力をもった実践的緊張」*6、すなわち「強度」なのである。
 さて2005年10月から2006年4月までの七ヶ月間、NYに滞在した後、筆者個人としては現在、アジアに目を向けている。戦後からバブルへと至る経済発展を経た後の00年代の日本の身体を考えるにあたって、欧米と日本の関係のみではなく、欧米と日本とアジアの三極構造を前提とすることが不可欠だと考えたからである。徐々にではあるが、マクロな政治経済の枠組と、身体のミクロな運動との交錯をつかまえる視点が自分の中に生まれつつある。ジャドソンを知ることが、よもやこんなところへ繋がっていくとは思ってもみなかったが、この線をたどって行った先に見えてきたものを、いずれまた報告することができればと思っている。
* 最後に改めて、NY滞在を可能にしてくれたアジアン・カルチュラル・カウンシル、そして編集を担当してくださった斎藤朋さんに、感謝します。
---------- *1 もちろんイヴォンヌ・レイナーはその筆頭だが、ジャドソン教会派の多くが、当時の多くのダンサーとは異なり、大学出身者だったことを指摘する論者は多い。何よりも彼ら彼女らは、「理論」に通暁しており、しばしばテクストを書いて論陣を張った。
*2 この点について詳しくは拙稿「反スペクタクルと無意味の狭間――二〇〇六年のダンスの状況」(『シアターアーツ』30号)、およびアデリーナ・ラ・スカレイアとの対談「社会の中の生、身体、ダンス――イタリアと日本のコンテンポラリーダンスをめぐって」(同33号、近刊)を参照されたい。
*3 類似した状況は、他のジャンルにおいても多少の時差を伴いながら共有されており、典型的な議論は出揃っている。建築批評の飯島洋一は、大きな物語へのアレルギーを示して歴史から逃避する「アンチ・モニュメント」な建築、意識的に行われる「ダメ建築」を、虚無的な些末主義への開き直りとして激しく批判し、アウシュヴィッツから9・11までに至る「大きな物語」の圧倒的な悲劇性をあくまでも対置する(飯島洋一「ユニット派批判」および「反フラット論」、『現代建築・テロ以前/以後』、青土社、2002年、所収)。他方、美術批評の松井みどりは、シチュアシオニスムを踏まえた「マイクロポップ」論によって、スペクタクル批判を素朴な日常性や主観性の讃美へと着地させようとする(松井みどり『マイクロポップの時代:夏への扉』、パルコ、2007年)。両者とも、立場は対照的ではあるが、日常とスペクタクルを弁別可能な二項として対立させる点では変わらないように思われる。
*4 本連載(6)参照。
*5 アントニオ・ネグリ「新しいフーコー」、『〈帝国〉的ポスト近代の政治哲学』、ちくま学芸文庫、2007年、154頁。
*6 アントニオ・ネグリ「ポスト近代か、同時代性か?」、前掲書、174頁。
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ブログトピック 市場動向 家の修繕 最初の人 ユニークな家 ヒントとアドバイス 注目のポスト ヒントとアドバイスヒントとアドバイス / 物語 動き出すドルとセントは、多くの要因によって大きく異なります。 全文を読む ジルツール 70年代と80年代のこれらのスタイルは、「���と一緒に!」 毎年、ファッションはデザイン業界とそのシーズンに提供するものに強い印象を残します。 2020年のバイブには、70年代のディスコクラブの輝きと80年代のビロードのような柔らかさを組み合わせた手作りのオーガニックディテールが含まれています。 しかし、それらの芸術的な印象がもたらすノスタルジックなヒントを超えて、インテリアの先には何がありますか?家庭環境はどのように変化し、進化しますか?読み進めて、新しい年が近づくにつれて、あなたのデザインスタイルに何が語られるかを見てください。 コルクとリサイクル要素 多くの製造業者、デザイナー、建築家は、住宅の建築と設計に対する持続可能な環境に優しいアプローチに製品とプロジェクトを集中させてきました。最新のテクノロジーのおかげで、持続可能な製品は品質、快適さ、デザインが劣ることを意味しません。 実際、これらの製品は、高品質バージョンと低価格バージョンの両方で、モダンまたは伝統的なデザインのエコシックなバージョンを称賛しています。リノリウムやコルクのフローリングなどの製品は長い間忘れられていたかもしれませんが、自然の特性のおかげで、新しいシーズンには強い復活が見られます。 花柄のアブルーム 特に深みのある豪華なベルベットと最大限のスタイルのスペースと組み合わせた場合、抽象的またはストレートアップの更なる花柄の伝統的な美しさは、引き続き使用するパターンです。しかし、ホームデザイナー、注意してください。Chintzは注意が必要です。その大胆な昔ながらのプリントは、注意しないと簡単にフリルのある英国式のベッドアンドブレックファーストに変わる可能性があります。花のテーマは、適切に行われた場合、インテリアに色、質感、クラシックなエレガンスのちょうどいいタッチを追加できます。 手作りのアクセント ジュート、ライスペーパー、粘土などの持続可能な素材で作られた手作りのアイテムは、2020年に大流行します。これらの要素は、家の接地に大きく影響し、住民が地球とその根に触れることができます。缶詰、ロープ、海草、竹など、何年も前に人気のある天然素材を取り入れることは、モダンな家具のシルエットや装飾の細部に強い影響を及ぼします。金のリベットと金属のアクセントを含む精巧にエンボス加工された壁装材は、表面に美しい触感とモダンな雰囲気を与えます。 プラスチックとアクリル 気候変動に関する社会的意識の高まりは、それに応じて製品を生産する設計業界に影響を与えています。プラスチックは屋内および屋外の家具フレームに使用され、水のボトルは屋外のラグやアクセントを作成するために使用されています。 より豪華な外観のために、アクリル製品はカムバックを迎えており、視覚的な不動産を占有することなく、部屋に必要な建築構造を与えています。玄関や居間などの小さなスペースのアクリルは、より有機的なアイテムを重ねることができ、うるさく感じない表面を提供します。 本物の建設 デジタル印刷された生地の台頭により、本物の刺繍、厚いウールのブークレ、リネン、その他の職人に触発された要素に対する真の感謝が生まれました。豊かなテクスチャ表現は、今シーズンのテーマです。ベルベットの室内装飾品、麻のカーテン、コルクの壁、枝編み細工品、ジュートを家具や仕上げとして考えてください。 最大のアートワーク ニュートラルな色とシンプルな素材を特徴とするミニマリズムとスカンジナビアのデザインの急増は、ついに減少しています。その代わりに、家庭では明るい色とグラフィックパターンがより一般的になりつつあります。 色、パターン、テクスチャを混ぜることを恐れないでください。壁全体を覆うことでギャラリーの壁を次のレベルに上げたり、劇的な大規模な作品をスペースに追加したりできます。この場合、より多くのことがもっとあります。 メタリックアクセント そして時代を超越した金属のアクセントといえば、リビングルームの装飾作品のデザインシーンにはまだ輝きがあります。装飾的なアクセント、家具のインレイ、ハードウェア、照明、鏡、アクセサリーを通してブロンズ、ゴールド、クロームのディテールを紹介することで、ディスコの魅力と豪華さのヒントを追加します。 関連: レンタルに色を追加するクリエイティブな方法 小さなスペースを大きく感じる3つのデザインの秘Tri 書籍のDIY:予算内でカスタムビルトインシェルフを入手する方法 × ×
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ブログトピック 市場動向 家の修繕 最初の人 ユニークな家 ヒントとアドバイス 注目のポスト ヒントとアドバイスヒントとアドバイス / 物語 動き出すドルとセントは、多くの要因によって大きく異なります。 全文を読む ジルツール きれいなラインと明るいスペースを備えたこれらの家は、物事を最小限に抑えながらスタイルを最大化できることを証明しています。 素晴らしい。なめらか。きちんとした。シンプルでありながら洗練された8軒の家に目を楽しませてください。とても静かで、すぐに散らかってしまうかもしれません。 開放的で風通しの良い—上下左右 高い天井と中間色のパレットにより、このリビングルームは開放的で明るく感じられます。ミッドセンチュリーモダンカウチからシンプルなサイドテーブルまで、脚がむき出しになった家具がゆったりとしたスペースを演出します。大きな窓は、部屋を豊かな自然光で満たし、風通しの良い雰囲気を与えます。 白くて明るい木材のアクセント 3つのエジソン電球がこのキッチンの島の上にぶら下がっていて、キラキラしていてきれいな外観になっています。均一な白いキャビネットのスレートは、スペースを開放的できれいにし、ステンレス製の農家のシンクは外観を完成させます。バースツールからスライド式の納屋のドアまで、自然な木材のアクセントがキッチンを引き立てます。 清潔で新鮮、流れる 白い壁に立てかけられたこのシンプルなシックなバスルームは、身体と心を浄化するのに最適な場所です。この空間には、流れるような禅のようなデザイン要素があります。シャワーウォールとダブルスリッパタブは、近くの太平洋をPacificとさせるしなやかな外観をしています。 ミッドセンチュリーと21日の出会い 清潔でシックなこのダイニングルームは、シンプルさの夢です。モダンなシルバー色のシャンデリアは、黒と白のクラシックな背景にインスピレーションを与えます。堅木張りの床と天然木のダイニングテーブルは、散らかることなく暖かさを追加します。 ブラッシュトーンとゴールドのクラシックスタイル 鮮明な白い壁と大胆なグレーパネルの暖炉が、この明るいリビングルームを支えています。メタリックな脚のミッドセンチュリーモダンな家具がシンプルでシックな雰囲気を醸し出す一方で、淡い色合いのタッチがシンプルな美学を引き立てます。十字形のラグからモダンなサイドテーブルまで、きれいで幾何学的なラインが外観を完成させます。 自然へのうなずき 広々とした明るいシンプルなラインは、この家に心地よい環境を提供します。金色と銀色の照明器具が輝きを増し、バーカートが保管スペースを兼ねています。また、ピンチで混乱を隠し、物事を整理整頓する卑劣な方法です。 完全に配置されたパターン 寝室に注意散漫がない場合、睡眠は簡単になります。古典的な白い壁は心地よい視覚的な背景を提供し、パターン化されたラグはシンプルでシックなデザインを取り入れています。床から天井まで届く窓が空間を引き伸ばし、たっぷりと光を誘います。 高さの錯覚 三脚のランプから装飾的な木製のはしごや背の高い鉢植えの植物に至るまでの長い垂直線は、目を上に向け、スペースを大きく見せます。グレーとブルーのタッチは、中立的な空間にクールで落ち着いたトーンを加えます。 imageAngelika Piatek Photographyによるトップ画像。 関連: デザイナールックブック:Marc-Michaelsがスタイリッシュなミニマリズムを作成 シンプルなキッチンデザイン:きれいな外観とライン 1920年代の日本茶屋が禅の隠れ家に 当初は2018年1月に公開されました。 × ×
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ブログトピック 市場動向 家の修繕 最初の人 ユニークな家 ヒントとアドバイス 注目のポスト ヒントとアドバイスヒントとアドバイス / 物語 動き出すドルとセントは、多くの要因によって大きく異なります。 全文を読む ジルツール これらの3つの領域に焦点を当てて、装飾の努力を最大限に活用してください。 高級デパートのディスプレイウィンドウのように家を飾ることを夢見ているかもしれませんが、現実があります。ギフトショッピングやラッピング、休日のパーティーに出席してホストすることはまだあります。住む。 圧倒されないでください。意図的なミニマリズムを求めてください。数年、少ないほうがいいです。 シンプルな内装は大きな影響を与える可能性があります-少なくとも休日のh騒から解放されます。あなたがする必要があるのは、あなたの家の3つの重要な領域を整えることです。 あなたのツリーをターゲットに 開始する最も明白な場所は、クリスマスツリーです。簡単で手間のかからないツリーを作成するには、単色の配色を使用します。 もう1つのオプションは、すべての中間色を使用することです。これにより、カラーパレットやツリーの配置のバランスを気にする必要がなくなります。部屋の通常の装飾と調和します。 マントルピースを魔法のように 暖炉が家にある場合、マントルピースは休日を少し祝福するのに理想的な場所ですが、あまり複雑にしないでください。 上部に吊るしたりドレープしたりするために、文を作るガーランドを選択してください。夜にマントルピースの上にろうそくを置いて、明かりを灯すといい。 テーブルを締めくくります 休日は、テーブルを囲んでおもてなしし、ホストし、集まる最高の時間です。だから、テーブルランナーとして長い道のりを歩ける美しい花輪を使って、季節のセンスをテーブルにもたらしましょう。 テーブルの中央に緑豊かなガーランドを置き、キャンドルを混ぜて雰囲気を高めるのと同じくらい簡単に装飾をしてください。 休日の飾り付けは面倒な作業である必要はありません。これらの3つのスポットに集中すれば、あなたの家はあっという間に魔法のような休日の準備が整います。 写真提供:White Buffalo Styling Co. 関連: クリスマスにホワイトハウスを飾った年 シックな休日のDIY:香りのよいハーブシャンデリアとカスタムトリートバッグ ホリデーギャザリングを開催する前に行う5つの家の修理 当初は2016年12月に公開されました。 × ×
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ブログトピック 市場動向 家の修繕 最初の人 ユニークな家 ヒントとアドバイス 注目のポスト ヒントとアドバイスヒントとアドバイス / 物語 動き出すドルとセントは、多くの要因によって大きく異なります。 全文を読む ジルツール 70年代と80年代のこれらのスタイルは、「古いものと一緒に!」と言ってもいいことを証明しています。 毎年、ファッションはデザイン業界とそのシーズンに提供するものに強い印象を残します。 2020年のバイブには、70年代のディスコクラブの輝きと80年代のビロードのような柔らかさを組み合わせた手作りのオーガニックディテールが含まれています。 しかし、それらの芸術的な印象がもたらすノスタルジックなヒントを超えて、インテリアの先には何がありますか?家庭環境をどのように変化させ、進化させますか?読み進めて、新しい年が近づくにつれて、あなたのデザインスタイルに何が語られるかを見てください。 コルクとリサイクル要素 多くの製造業者、デザイナー、建築家は、住宅の建築と設計に対する持続可能な環境に優しいアプローチに製品とプロジェクトを集中させてきました。最新のテクノロジーのおかげで、持続可能な製品は品質、快適さ、デザインが劣ることを意味しません。 実際、これらの製品は、高品質バージョンと低価格バージョンの両方で、モダンまたは伝統的なデザインのエコシックなバージョンを称賛しています。リノリウムやコルクのフローリングなどの製品は長い間忘れられていたかもしれませんが、自然の特性のおかげで、新しいシーズンには強い復活が見られます。 花柄のアブルーム 特に深みのある豪華なベルベットと最大限のスタイルのスペースと組み合わせた場合、抽象的またはストレートアップの更なる花柄の伝統的な美しさは、引き続き使用するパターンです。しかし、ホームデザイナー、注意してください。Chintzは注意が必要です。その大胆な昔ながらのプリントは、注意しないと簡単にフリルのある英国式のベッドアンドブレックファーストに変わる可能性があります。花のテーマは、適切に行われた場合、インテリアに色、質感、クラシックなエレガンスのちょうどいいタッチを追加できます。 手作りのアクセント ジュート、ライスペーパー、粘土などの持続可能な素材で作られた手作りのアイテムは、2020年に大流行します。これらの要素は、家の接地に大きく影響し、住民が地球とその根に触れることができます。缶詰、ロープ、海草、竹など、何年も前に人気のある天然素材を取り入れることは、モダンな家具のシルエットや装飾の細部に強い影響を及ぼします。金のリベットや金属のアクセントなど、精巧にエンボス加工された壁装材は、表面に美しい触感とモダンな雰囲気を与えます。 プラスチックとアクリル 気候変動に関する社会的意識の高まりは、それに応じて製品を生産する設計業界に影響を与えています。プラスチックは屋内および屋外の家具フレームに使用され、水のボトルは屋外のラグやアクセントを作成するために使用されています。 より豪華な外観のために、アクリル製品はカムバックを迎えており、視覚的な不動産を占有することなく、部屋に必要な建築構造を与えています。玄関や居間などの小さなスペースのアクリルは、より有機的なアイテムを重ねることができ、うるさく感じない表面を提供します。 本物の建設 デジタル印刷された生地の台頭により、本物の刺繍、厚いウールのブークレ、リネン、その他の職人に触発された要素に対する真の感謝が生まれました。豊かなテクスチャ表現は、今シーズンのテーマです。ベルベットの室内装飾品、麻のカーテン、コルクの壁、枝編み細工品、ジュートを家具や仕上げとして考えてください。 最大のアートワーク ニュートラルな色とシンプルな素材を特徴とするミニマリズムとスカンジナビアのデザインの急増は、ついに減少しています。その代わりに、家庭では明るい色とグラフィックパターンがより一般的になりつつあります。 色、パターン、テクスチャを混ぜることを恐れないでください。壁全体を覆うことでギャラリーの壁を次のレベルに上げたり、劇的な大規模な作品をスペースに追加したりできます。この場合、より多くのことがもっとあります。 メタリックアクセント そして時代を超越した金属のアクセントといえば、リビングルームの装飾作品のデザインシーンに輝きが残っています。装飾的なアクセント、家具のインレイ、ハードウェア、照明、鏡、アクセサリーを通してブロンズ、ゴールド、クロームのディテールを紹介することで、ディスコの魅力と豪華さのヒントを追加します。 関連: レンタルに色を追加するクリエイティブな方法 小さなスペースを大きく感じる3つのデザインの秘Tri 書籍のDIY:予算内でカスタムビルトインシェルフを入手する方法 × ×
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